投稿作品一覧
関係者
彼女がひとりぼっちで 部屋の片隅で
電気もつけず膝を抱えて震えていたとき
ノーテンキなボクはいつものように
テレビの前でゲラゲラ笑ってた
彼女が例の彼氏と別れたって
人づてに知ったときも
ボクは取り立てて気にするでもなく
日々バイトに明け暮れてた
それから彼女があまり外を出歩かなくなったと
彼女の友達から聞かされたときも
久しぶりに部屋を訪ねてみたら
そこいら中にクスリと酒瓶が散らばってて
一体どれだけの量のクスリ飲んだのか
今にもぶっ倒れそうにふらふらと それでも笑う彼女
ボクにはカンケーないことだと何も見なかったことにして
めちゃくちゃに酔って騒いじゃ
意味もなく朝まで
カラオケで歌いまくったり
サイコーサイコー
サイコーサイコー
彼女とボクと
イカレてるのはどっちなんだってさ
くだらねえ
まったくもって くだらねえ
風の吹くがごとく 彼女の噂は絶えることがなかった
外に出歩けないことになってるはずの彼女が
夜の繁華街で知らない男の腕に抱かれてただの
何着もの高い服を買いあさっては
店を出るなり おもむろにバッグからハサミを取り出して
半狂乱になってズタズタに切り裂きまくってただの
突然泣き出したかと思えば
また突然に奇声をあげて叫んだり
親切なお節介焼きが いかにも
心配してます風でボクのところへ持ってくる
ボクにはどうすることもできないよと
一言半句も云おうものなら
最低のクズ野郎呼ばわりさ
まったく敵いやしないじゃないか
そんなに云うなら お前らがなんとかしてやれよ
って云えば
あたしたちだと彼女
気分を害するかもしれないでしょ
だってよ
彼女の心の中で何が起こっているのかなんて
ボクにも もちろん親切お節介にも
理解できようはずがなかったし
仮に理解できたところで
なにかができるとも思えなかった
某月某日
彼女は大量のクスリとウォッカを浴びるほどに飲み干して
新宿の高層ビルの屋上から 飛んだ
その数時間前まで
ボクは彼女と電話でしゃべってたんだ
彼女の方から電話してくるなんてめずらしいなと思いながら
受話器越しの彼女の声は
落ち着いてるようにも
震えているようにも聞こえた
いま考えてみればだけど
なに話してたっけな
たぶん 大したことじゃなかったと思う
最近どうしてる? とか
彼女さんとは仲良くしてるの?
優しくしなきゃダメだよとか
自分も彼氏ほしいよ
なんてお道化てみせたりなんかしてさ
少しの沈黙のあと ふいに彼女
ねえ、今度どこか行かない?
彼女さんと三人で
ちょっと遠いけど ムーミンバレーパーク
あそこ行ってみたいな
あたしムーミン大好きなのって
なんだか本当に行くのが楽しみみたいにそう云って
なのに なのにまさかこんなことになってしまうなんて
あの時彼女は なにか云おうとしてたんじゃないか
なにかしてほしいって思っていたんじゃないか
もっとちゃんと彼女の話に耳を傾けていれば
じゃあねなんて電話切ったりせずに
もっとずっとずっと くだらない話をし続けてれば
ボクが彼女に最後の後押しをしてしまったんだろうか
ムーミンバレーパーク行くの すごい楽しみだって云ってたのに
なに着ていこう おしゃれしていこう
沢山たっくさんグッズも買っちゃおうってあんなに
心も目に見えてわかるように作っておいてくれたらよかったのに
どんだけ傷ついていたって 血が吹き上げていたって
目に見えなきゃなにもわかんないし
気づいてやることさえできない
気がついた時には なんてさ
まったく なんて代物なんだよ心ってやつは
って 誰に言い訳してんだかって感じだよね
カンケ―ない カンケ―ない
ボクのせいなんかじゃない
ボクのせいなんかじゃきっと
彼女の事情を ボクは知らない
彼女の痛みが ボクには感じない
彼女はボクではないし
ボクだって彼女にはなれるわけもないし
あの日の電話は
そう ただの偶然
カンケーない
カンケーない
カンケーない
カンケー。。。。。。
ボクはたしかに
彼女の関係者でした
美しい
夕日を見ながら私が紙になると
妻は薄い私の身体を
一枚一枚
シュレッダーにかけていく
紙はシュレッダーするものよ
と妻は震える手で淡々と私を
回転する歯の方に押し込んでいく
細断された紙片は風に乗り
どこかに運ばれ
そのどこかでもっと小さな
繊維や粒みたいなものになるのだろう
これが君と見る最後の夕日か
そう思うと紙のように
思い出までもが薄くなって
視覚も嗅覚も透明になっていく
最後に君の首筋の匂いを嗅ぎたかったな
それは言葉になったのだろうか
私は私がいなくなった後の
夕日と妻のシルエットを想像する
美しい
夏の嵐
夏の嵐が近づきつつある深夜
つかのまの眠りからも見放され
ウィスキーに水を注いでかき混ぜる
それで不安が薄くなるかのように
テレビの台風情報を眺めながら
おい、十年に一度の大物だってさ
熟睡していたインコを起こして籠から出す
こいつも水割りをちびちびやるのが好きなのだ
この地方にはめったに通らぬ台風で呼び覚まされた
わたしの知っている夜のひとつひとつを
老いた小鳥を相手に数えている
彼の迷惑もおかまいなしに
故郷の家で何かの遠吠えを聞いた気がした嵐の夜
トーキョーで友だちと馬鹿げて清潔な大騒ぎをした嵐の夜
(破産したと聞いた彼からは音信が途絶えたままだ)
諍いのあと二人黙りこんだまま蹲っていた嵐の夜
それら過ぎ去った夜の嵐にゆられながら
老いた小鳥を相手に飲んでいる
グラスに酒と記憶を注ぎ足しては
水泡を浮かび上がらせている
ぽつり、ぽつり、と雨が屋根に落ちてきた
いよいよ大嵐の気配が近づいて来たね
予報では上陸は正午過ぎだって云うけれど
グラスにはもうさざ波が立っているよ
だんだんに風も騒いできた
おい、そこの歌いやまない酔っぱらいのインコよ!
もうしたたかにお前も飲んだだろ、だからねえ
もうそろそろねぐらへ戻ってくれないか
でないとわたしはいつまでも
わたしの眠りへ帰れない
でないとわたしは声あげて、窓の外
嵐の中へ出てゆきたくなるから
ゆりかご
「ナームーホーレーキョー、ナームーホーレーキョー」僕は儀典長を務めながらボソボソとお経を唱えていた。
あいつは東京の新宿の歌舞伎でオーバードーズをキメて死んだらしい。享年二十二歳、周りは早すぎる死とか言って悲壮に暮れていた。死んだ前日にあいつと電話をしていたが、そんな素振りは全然感じなかったので驚いた。僕はボソボソとお経を唱えながら昔のある日を思い出した──。
「なぁ、お前成人式行くん?」
「行くかよ、どうせ行ったって中学の頃が全盛期のやつか、良いところの大学通ってるやつがイキったり、学歴マウント取り合いとかしながら自分たちの学生時代や現状を気持ちよくオナニー語りして射精するだけの自慰会話が繰り広げられているだけの所だろ。誰が好き好んでいくねん。行きたい奴はそうい奴らの自慰会話ディルドになりたい奴らだろ。」
「相変わらず不貞腐れてんな、まぁ、おれも行かへんけど」
「なんやねん」
僕とあいつはDiscord通話をしながらAPEXをしていた。心なしか成人式の会話をしている時、あいつのエイムの照準が少しブレついてたような気がした。ゲームは残り十人の所で敗けた。
「クソっ!あとちょいやんけ」
あいつは叫んでヘッドホンをとって席を外し、冷蔵庫から飲み物を取り出す音が聞こえた。そして席に座り缶ジュースを開け一飲みし、ふぅーと息を吐いてからまた話し出した。
「てかさ、たっちゃんとか来るん?あいつらが行くなら俺もワンチャン行くかもしれんわ」
「いやー、どうやろ。でもあいつら『久しぶりにシュウジに会いたいわ。あいつ今何してるん?』とか言ってたよ。」
「あーね、俺じゃなくて俺が今何しているのかが知りたい感じね。ならシュウジはオナニーしながら玉川上水に身投げして死んだ言うといて」
「いや、文学部ネタ挟み込んでええねん。お前大学中退してるのに何一丁前にカッコつけてんねん」
「しね、やかましいわい」
「ほんで女と心中じゃなくてオナニーかよ」
「いやー、めっちゃヤりたい。同い年で童貞じゃないやつ全員フェイクだろ」
そう言ってまたゲームを始めた。
そんな些細なことが頭の中を過った。一通り葬儀を終え、他の人達は談話していた。泣いてるいる人を宥めたり、昔話をしてノスタルジーに浸っている人、朗らかに談笑している人、色んな人がいた。意外と大多数の人がいて、僕もそうだがひねくれていたあいつが生前にここまでの人に好かれていたことに驚いた。何も僕だけではなかったことに。
「この度はご愁傷様です。」
一人の女性が赤ん坊を抱え挨拶に来た。
「ご愁傷様です。あのー、つかぬことをお聞きしますがどちら様で?」
「シュウジの叔母です。シュウジは生前、5つの時に母親を亡くし、その後は父親と暮らしていたのですが、小学生の時に父親も亡くし、その後は私たち家族のもとで暮らしておりました……」
あいつとは中学の頃からの付き合いだった。母親を早くに亡くしていたのは知っていたが、小学生の頃に父親も亡くしていたのは今初めて知った。
「話はシュウジから聞いております。今までシュウジが本当にお世話になりました。」
「いえいえ、とんでもありません。こちらこそいつも遊んでいただき感謝しています。」
咄嗟に大人な対応をしてしまった。僕はあいつの全てを知っていると思っていたがそうではなかった、なんも、あいつのことを知った気でいたに過ぎなかった。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
赤ん坊がなき始めた。シュウジの叔母さんは赤ん坊をあやかしたが、一向に落ち着く気配がなかった。
「すいません、ちょっといいですか」
僕は赤ん坊を抱いて、あやかした。赤ん坊はリラックスしたように、まるで棺桶の中のシュウジの死に顔のように穏やかな顔をしてた。
「弟がいるんですが、小さい頃は母は多忙で、僕がよく面倒を見てたんですよ。」
「あー……通りで、色々苦労なされたんですね。お父さんは?」
「僕が物心つく前にはいなくて」
シュウジの叔母さんは申し訳なさそうな顔をした。
僕は葬式という場で赤ん坊という新たな命の芽吹きがいることにどこか不思議な心地を感じた──。
心毒丸
青年が十九になった春、父親が再婚した。母親が縊死してから三年が経っていた。青年の心裡には母の死が深く残っていた。
父親は運送会社で働いており、朝早く出て夜遅く帰る生活を続けていた。新しい妻は父親より十歳ほど若く、最初のうちは青年にも接していたが、再婚相手の母親は青年のことをあまりよく思ってなく、青年も俄かにそれを実感していて、家族に対して寂しさから来る反抗をぶつけていた。父親のいない時間になると、再婚相手の母親は青年に冷たく当たるようになってきた。青年の大学の学費も私的に使ったり、父親にも飽きてきて、別の男と浮気することも多々あった。家では何か問題が起これば、青年のせいにされた。青年は父親に話そうとしても、父親は再婚相手の母の顔を窺っているせいか、あんまり青年の事を庇う事なく、父親も見て見ぬふりをしていた。再婚相手の母親はどうにかして青年を家から追い出そうと思っていた。
「反抗期だから、最近、私にきつく当たるんです」
そう言われるたびに、父親は困った顔をするだけだった。食卓の蛍光灯の白い光の下で、箸を持ったまま視線を落とし、何か言いかけては飲み込む。その沈黙が、青年には何より重かった。
やがて、青年は引きこもるようになった。
大学にも行かず、公園や友達の家で時間を潰すようになった。家はもう、帰る場所ではなくなった。
冬の頃だった。再婚相手との喧嘩のあと、父親は初めて青年を殴った。青年から事情を聞くこともなく、再婚相手の言葉だけを信じた。青年はその夜、自室で荷物をまとめた。窓の外では冷たい風が電線を鳴らし、遠くで犬が一度だけ吠えた。財布と着替え、それから母親の写真だけをリュックに入れた。写真の端は少し擦り切れていたが、母親の笑顔はまだはっきり写っていた。
翌朝には家を出ていた。スマートフォンを捨て、誰にも連絡しなかった。電車を乗り継ぎ、見知らぬ地方都市へ向かった。海の近くにある人口数万人ほどの町だった。駅を出ると、潮の匂いが風に混じって鼻をくすぐった、遠くの防波堤に打ちつける波の低い音が聞こえた。商店街のアーケードは古びていて、色あせた看板が並び、シャッターの下りた店の前を自転車が静かに通り過ぎていった。行く当てはなかった。ネットカフェを転々とし、公園のベンチで夜を明かした。夜の公園は街灯の下だけが白く浮かび、風が吹くたびに木々の葉が乾いた音を立てた。
やがて所持金も尽きた。このまま餓死してやるのも一つの逃避だと青年が思ってたところ、コンビニの前で座り込んんだ時、一人の人から声をかけられた。声をかけたのは小さな定食屋の店主だった。五十代の女性だった。女性は青年の事情は聞かなかった。ただ、
「腹減ってるでしょ」
と言って、店に連れて行かせようとした、その刹那青年は走って逃ようとしたが、数日前からまともに食事をとってなかった彼は、逃げる前に倒れてしまった。女性は救急車を呼ぼうと思い、青年の身分がわかるものを探そうとし、青年の財布をあけたが、中身が空で何かワケがあると思い、警察に連絡を入れようとした瞬間、青年が僅かな力を絞って
「お願い……します………どうか、警察や…救急の人には連絡しないでください……。」
と言った。女性は不審な気持ちを抱きながらも、一応自分の店に青年を運び、状態がよくなってから連絡しようと考えた。そして、翌朝、青年は目が覚めて、気付かれない内に逃げようと思い店の扉を開けようとした途端、声が聞こえてきた。
「おはよう、もしかして君は家出かい?」
渋い男性の老人の声がした。青年は固まってしまい、あそこに帰らせられると思った。しかし、男性は目を卓上の方へ向けて、
「まぁ、食べなよ。色々あるのはお前さんが話したくなった時に話せばえぇ」
卓上には焼き鮭と味噌汁とご飯が並ばれていた。彼はビクビクしながら席に着き、箸をとって食事を口に運んだ。その刹那、つーっと涙が頬を流れた。
それが始まりだった。その後、店主は知り合いの農家や漁協の人たちを紹介した。青年は学校へは通わず、アルバイトをしながら暮らした。
農作業を手伝った。朝露の残る畑で土を起こし、泥のついた野菜をコンテナに詰めた。土の匂いは湿って重く、朝の空気は冷たかった。
漁港で荷物を運んだ。潮風に混じって魚の生臭さが漂い、岸壁にはカモメの鳴き声が鋭く響いた。氷の入った発泡スチロール箱は冷たく、手袋越しでも指先がかじかんだ。
古い倉庫の掃除もした。埃をかぶった床を掃くたび、乾いた埃が光の筋の中で舞い上がった。
町の人々は不思議なほど世話を焼いた。誰も無理に過去を聞かなかった。
「話したくなったら話せばいい。」
皆そう言った。青年は少しずつ町に馴染んでいった。朝になれば店の暖簾が揺れ、昼には港のラジオから古い歌が流れ、夕方には商店街の魚屋から氷を砕く音が聞こえた。いつの間にか青年の日常になっていた。
やがて二十歳になった。定食屋の店主は誕生日にケーキを用意してくれた。小さなホールケーキの上で、ろうそくの火が揺れ、甘い生クリームの匂いが店いっぱいに広がった。漁港の男たちは酒を奢った。グラスの氷が鳴り、笑い声が夜の港に弾んだ。農家の夫婦は実家から帰ってきた息子のように接した。血の繋がりはない。それでも青年は初めて、自分が誰かに必要とされていると感じた。
それから数年後のことである。秋祭りの日、人混みの中に見覚えのある顔があった。父親だった。白髪が混じり、以前よりずっと老けて見えた。祭りの提灯が赤く揺れる中で、その顔だけが妙に冷たく見えた。境内には焼きそばのソースの匂い、綿あめの甘い匂い、炭火で焼かれるイカの香ばしい匂いが混ざり合い、太鼓の低い響きが胸の奥まで伝わってきた。人々の話し声、子どもの笑い声、屋台の呼び込みが重なり、夜の空気は熱を帯びていた。
父親は何年も探していたという。警察には相談せず、家にいるよりかは外にいる方が青年にとって幸せだと思っていた。知再婚相手の母親とはすでに離婚していて、別れたのを機に青年を探し始めた。父親は頭を下げた。長い時間をかけて、何度も。
息子の話を聞かなかったこと。
守れなかったこと。
見て見ぬふりをしたこと。
そのすべてを謝った。
青年は自分の親がここまで号泣しながら罪を贖うかのように誤り続ける姿に怒りなど沸かず、後ろめたい気持ちが徐々に募ってきて、青年は泣き始めた
「僕のほうこそごめん」
青年は顔を涙と鼻水にまみれながら泣いた。
祭り囃子が遠くで鳴り、笛の高い音が風に乗って流れてくる。屋台の明かりが父親の横顔を照らし、深く刻まれた皺を浮かび上がらせていた。
「帰ってこないか」
父親がそう言った刹那、境内の向こうで太鼓がひときわ強く打ち鳴らされ、観客のどよめきが波のように広がった。提灯の列は橙色の光を連ね、足元の砂利は人の往来で細かく鳴った。
「ごめん……やっぱ………ここにいたい。」
青年は下を向きながら静かに応えた。
「そうか…」
父親は諦めと微妙な納得感を以て静かに応えた。
定食屋の店主が屋台の準備をしている。鉄板を拭く金属音が聞こえ、湯気が白く立ちのぼっていた。漁港の仲間たちが手を振っている。遠くからでも分かる大きな声で、新徳の名を呼んでいる。子どもたちが走り回っている。草履が砂利を蹴る音、笑い声、誰かが落とした風船の軽い弾む音が、祭りの熱気の中に混ざっていた。
その光景を見て、父親は静かに笑った。
「いい町なんだな」
青年はうなずいた。
父親もまたうなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
夕暮れの空に花火が上がった。最初の一発が夜空を白く裂き、少し遅れて腹に響くような音が届いた。赤、青、金色の火花が広がり、潮の匂いを含んだ風の中で、火薬の焦げた匂いがかすかに漂った。見上げる人々の顔が一斉に照らされ、歓声が上がった。
二日後、父親は仕事があるので家に帰るべく駅へ向かった。たった二日間だけだったが青年にとっては数年間の体感だった。生まれた家は失ったかもしれない。しかし、流れ着いた土地にはそれ以上なものがあった。人に迎えられ、人に育てられ、人に支えられて生きてきた家族めいた実感があった。
青年は仲間たちの輪の中へ戻っていった、海からくる潮風が青年の頬を撫でた。
ちきゅうを蹴れ
手を滑らせたか
わざと
なのか
落葉へ
滴る
なぜ
あなたは
顔を焼かれたから
このは
というのか
それならそれなら
もっと
喚いて
わたしを蹴れ
ちきゅうを蹴れ
金貨と目薬(4)
<新しい流れ>
「ねえ、達也~大きな川って、どれくらいの川が合わさっていると思う?」
加賀見 陵介との仕事の後、モデルとしてメディアに出る事も控え気味にしている深水だったが
ジムでのトレーニングは続けていた。
夜の仕事も増やす事もしなかったので、ジムでのトレーニング後に予定を入れずに武内の部屋で
シャワーを浴びてトレーニングの成果など他愛のない話しをするのが常と成っていた。
武内の部屋の洗面所から聞こえる深水の声は下手をすると独り言のテンションだったが
武内は聞き逃す事なく返事を返すのだった。
「美味しい皮のタレの組み合わせ?」
「今日のトレーニングに身が入っていないと思っていたら、お腹が減っていたのかよ。」
シャワーを浴びてスッピンの呆れ顔で武内を睨みながら
「焼き鳥の皮の話しなんかしてないわよ。川・都内に流れている大きな川の話しをしているのよ。」
武内は深水とは肉体関係は無かったが、深水がスッピンで接してくれる事に優越感を感じており
肉体関係を持つ事でプラトニックな深水 琴李を失う事を恐れる様に夜を共にしても体を求める事はしなかった。
「川?川がどうしたんだよ?川なんかに興味を持っていたか?」
深水も体を求めて来ない武内の前では心からリラックスが出来て自然と相談をする様になっていた。
「陵介との仕事で水の流し方は解ったのだけれど、大きな流れにするにはどれくらいの流れが
必要かなと考えていたら自然と口から言葉に出ていたのよ。」
深水の言葉に戸惑いながらも
「なに?加賀谷さんとの仕事に不満というか満足出来ていないのか?」
深水は、冷蔵庫から持って来たビールをコップに注ぎながら
「達也、新しい流れはアナタと考えているのよ。協力してくれるわよね。」
武内は唾を飲み込む代わりに注がれたビールを一口飲み込んでから
「琴李がジムに来た時から、琴李の夢を応援すると決めている。」
グラスのビールを一気に飲み干して深水は武内に話し始めた。
「次はね・・・・」
「編集長、次はスポーツウエアで切り込んで行きたいと思っているのですが、
モデルにと考えている男性も決まっているので会って貰えますか?」
前回の企画熱が冷めない内に動きたいと言う深水の意気込みとモデル男性が来ていると言う段取りの良さと
前回同様に深水の名前は出さない条件で企画の話しが進み加賀見と武内と深水を交えた打ち合わせする事と成った。
~つづく~
こどものじかん
歴史を受けわたすことは
あまりにも交接に似ているので
かしこいあなたもまちがえたのですよね
光が折れて失われるほんとうのこと
月 まだ名前をつけられていない星と
すべての青 東京の汚い空
K先生 幻惑をみとめながら
好きだと囁くならその嘘を最後まで
護りぬかなければなりません
愛は世界を危険にしてしまう
揺るぎない知恵と力とが
揺らぎのわたし 揺蕩いのわたしを
あたためる営みが正当だとしたら
あってはいけない
寝室が教室であってはいけない
だって海が見たかっただけなのに
どうして溺れているのでしょう
愛しい人殺しの後退した髪を風が嬲るとき
わたしはクラゲの海になりたいのです
主張強め日記 7月11日 B-REVIEWのアーカイブ引き継ぎの拒否について
B-REVIEWというすでに投稿機能が失われた現代詩の投稿サイトについて。7月20日をもってサイトへのアクセスが完全に遮断される予定であること、また来年初にはデータそのものも失われると思われることを踏まえ、私たちはアーカイブの整理と引き継ぎを申し出てきた。現管理者との折衝は非常に時間のかかる、というより率直に言うと無為に待たされるものであったが、この度、引き継ぎの申し出を拒否したいという返答がはっきりと示された。
拒否の理由は下記の通りだそうである。示された文章をそのまま掲示しておく。
1)運営としては、6月20日〜7月20日にかけて(短期間ではあるが)アーカイブ化を実施しており、その間に取りに来なかったユーザーはB-REVIEWを「単なる詩の保管庫」としか看做していないだろうと思われる
2)そもそもガイドラインに「サービス終了時の対応」について明文化されていない(改変前・改変後どちらも)
3)ユーザーによる投稿の結果、「これは詩誌に投稿したい」と思わせる結果となった作品もあることだろう、詩は未発表作品であることを前提とした賞が多いと感じるため、「サービス終了したサイトに載せられた詩」に関しての応募要項は各詩誌に問い合わせる他ないと思われるが、いずれにせよ運営側がユーザーの足を引っ張ることはしてはならない
ディベートをする意義があるとも思えないが、念の為、順に応じておく。
1)については、意味が判然としない。一ヶ月のアーカイブ期間の存在を知らないユーザーも多いだろうし、そもそも10年分の作品とコメントを各自が手元に保存しきることなど不可能である。いまは要らなくても、あとから「あの時のあれが読みたい」となることは十分にありうる。取りに来なかったことは、消してよいことの根拠にならない。
2)については、明文化されていないのなら、全部消してアクセス不能にする権限も、あるいはデータだけを特定個人の手元に残してアクセス不能にする権限もまた、明文化されていない。規定の不在は、消す側の根拠にこそならない。
3)については、削除要請があれば速やかに対応できる仕組みを整えた上でアーカイブする、と当初から提案している。消したい人は消せる。残したい人は残る。一律の全消去よりユーザー本位であることは自明だろう。
いずれにせよ、これらは論理的な帰結ではない。自分たちに一切の負担をかけずに引き継げる手段が現に提示されているにもかかわらず、それを取ろうとしない。その姿勢が明確になった。
私はサイトを運営する立場の人間として、「引き継いだサイトを次に引き継ぐことなく閉め、ユーザーが作品にアクセスできない状態にすることを望む運営者などいない」という前提でこの折衝に臨んでいた。だから手助けをしたい、負担はすべてこちらで引き受ける、と申し出てきた。だが、残念ながら、その前提自体が違う、ということだろうと思う。なくなろうと、どうなろうと、あまり関心がないのだと思う。そうした精神性で、なぜ運営にジョインし、中心人物たちが失踪した後も対応の任に就き続けているのか、私にはわからないし、おそらく今後わかるようになることもないだろう。
ここで、はっきり書いておきたい。B-REVIEWとは本来、理念への同意だけを運営資格の根拠とするサイトだった。ガイドラインに合意する者であれば、誰でも運営になれる。裏を返せば、理念に同意していることだけが、権限を振るうことの正当性のすべてだった。場の理念に賛同せず、維持にも継続にも引き継ぎにも関心を持たない人間が運営の座に就き続ける。これは、このサイトの設計に照らして、運営という営みの根幹が壊れていることを意味する。理念を共有しない運営者とは、たまたま権限だけを手にした第三者に過ぎず、そのような者に、10年分の他人の作品とコメントのログを永久に葬る決定を下す正当性はない。
私は現管理者に対して、次の問いを投げている。10年近く代々引き継がれてきたサイトのアーカイブを、コストも手間もかけずに引き継げる相手がいるにもかかわらず引き継がず、永久に消すことを選ぶ、その責任についてどう考えているのか。そう選択する権利が自分たちにあるのか、あるとすればその権利を行使したい理由は何か、と。本稿執筆時点で、回答はない。回答があれば記録するが、もはや期待はしていない。
この申し出が最終的にどうなるかは、まだ確定していない。ただ、はっきりさせておきたいのは、この取り組みの狙いは、データを引き継げるかどうか、だけではないということだ。
私たちは引き継ぎを申し出た。負担はすべてこちらで持つと提示した。そして相手の回答を、その理由とともに、こうして皆さんと共有している。誰が何を決め、何に答えず、何が失われようとしているのか、それを見える場所に記録し続けること自体が、すでに一つの運営実践である。思えば、B-REVIEWの本来の理念とは、オープンな運営、すなわち意思決定を投稿者の見えるところで行うことだった。その理念をいま実際に動かしているのはどちらなのか。答えは、この日記が公開されている場所そのものが示していると思う。ここまで運営の内部事情や考えを垂れ流し、コンテンツ化する文芸投稿サイトも珍しいだろう。B-REVIEWの理念を我々なりに再解釈し、引き継いでいるからこそ、もはや壊れてしまったB-REVIEWについて語ることにも意義があると考えている。
B-REVIEWという取り組みは、データが消えても消えない。あのサイトが本当に蓄積したものは、サーバーの中のテキストではなく、「誰もが自分ごととして関われる創作と批評の場は設計できる」という実証の経験であり、それを担った書き手たちである。理念に共鳴した人間が場所を移して書き続けている以上、失われるのはアーカイブであって、系譜ではない。
文芸投稿サイトとは、作品の保管庫と投稿機能のことではない。膨大なコメントの応酬、サイト運営をめぐるやり取りや議論、そうした全体を含めてはじめて「場」なのである。場を預かるとは、その全体を預かることであり、どう終わらせるかまで含めての責任である。CWSは、仮にいつか終わる日が来るとしても、誰の判断かもわからないまま場を闇に葬るような終わり方だけはしない。終わり方まで設計してこそ、運営である。
だから、この一連のやり取りを公開しながら進めていくことには、データの行方とはまた別種の価値があると考えている。場の終わらせ方とは何か、預かったものへの責任とは何か、私たちはどういう方向で運営していくのがよいか。こうした問いを皆さんと共有し、議論しながら、CWSというサイトのコンセプトと運営の方向性を鍛えていくこと。それこそが、この日記を書いている理由である。
みっつめの
わたしにはみっつめの眼がある
両の目と違いそれは指先にある
その眼でわたしは見つめる
きみを、雨を、冷めた眼差しの数々を
閉じたくても閉じられない眼で
この世のあらゆるものを見続ける
わたしの指先にはちいさな太陽がある
空にある太陽とは照らすものが違う
その太陽はこころや人を照らしては
その内にあるものを見せてくれる
きみを、雨を、あたたかさを持つものを
沈むことなく照らし続ける
ラタトゥイユ
フライパンで妻が
僕の持ち帰ったトマトとナスと
その他大量の有機栽培野菜で
見慣れない料理を作った
塩は肉を炒めたときしか使わず
トマトの酸味とズッキーニの旨味と
いろんなハーブの匂いがしている
ーグリーンカレーかと思ったけど、カレーじゃないね
ーイタリアンだよ
ーエスニック料理かと思った
ーもとは影響あるのかも。アフリカの人も好きみたいだから
ふうん。
と、僕は思う
ちかごろ妻はアフリカ人の暴食動画を毎日見ているので
アフリカの食生活に詳しいのだ
ーおいしいね
ーラタトゥーユ
自慢げに妻は言う
そうか、これがラタトゥイユってやつか、と僕は思う
ープロバンス地方の伝統的な郷土料理なんだよ
ープロバンスってよく聞くけど、どこにあるの?
ーイタリアのどこかでしょ
有名な観光地で、
プロバンス出身の有名な歌手がいっぱいいて
みんなラタトゥーユが大好きなんだって
ーそうなんだ
有名な俳優とかもいそうだね
と、僕は言う
短時間で、香りを飛ばさず強火で煮た野菜が
彩りも緑、黄色、紫、赤、ベージュと鮮やかだ
妻はいつも絵を描いていて
ときどきはイラストの仕事もしてきた
そればかりか
彼女の絵を好きになった僕が
この絵の作者にひとめ会いたいと、
彼女の個展に行ったのが
僕らのなれそめなのだ
僕も絵は好きだし
そればかりか
ピカソ、ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、マティスは
(いずれも南仏プロバンスを愛した画家)は
ものすごく好きなのである
だがそんなことは
二人とも翌朝まで
まったく思い出さず
僕らの晩ごはんのラタトゥイユと
二枚の皿の並んだ
小さなテーブルの上では
イタリアのどこかの市の
たぶん広々とした真っ黒な大地の
プロバンス地方に揺れる
トマトとナスと
ニョキニョキ生えてるズッキーニを
水晶みたいな陽光がすてきに照らして
穏やかな風が吹いていた
草笛
6月の
しめっぽさを
ひきつれて
石から石へ
跳ねて飛ぶ
息切れ、
蛙とは
友達になれそうもない
みず辺の草を 一本
芯はていねいに抜くこと
「ここにいます」と
一息に吹けば
草叢から
牛のような
泣き声がした
傘
二度と行かない所に
赤い傘を忘れた。
雨の日に元気でいられるようにと
赤を選んだ。
もしかしたら、もう、
いらなくなったのかもしれない。
神性
スマホを眺めたまま
夜の草原を歩く行列が
崖へと続く道を歩いている
「あっち、落ちたら死にますよ」
と、その行列の一番声かけやすそうな人に喋りかけたら
数人がこっちを一瞬見て
暗やみの奥から
「死ぬとか、ハラスメントです!」
と、怒鳴られた
ひらひらと蝶が飛んできて
辺り一面に咲いている花のなかから
ひとつを選んで
蜜を吸っている
確かに、
人間は必ず死ぬるのだから
キメセク中にオーバードーズで泡を吹こうが
畳の上で往生しようが
歌舞伎町のホテルから飛び降りようが
東武東上線沿いの安アパートで孤独死しようが
スマホをみながら崖から落ちようが
関係ないわな
おれだって死にたい気持ちが0%ではないくせに
善人ぶったかも知れない
或いはその行列の仲間に入れなかったことが
恥ずかしかったのかも知れない
やがて雲の隙間から月は現れその光線は
この、正しさの1つも無い夜の草原一帯を
レーザー兵器のように照らし、薙ぎ払った
人々はスマホの電源を切って
靴と一緒にそろえると
その崖の上から地獄へと飛び降りて行った
最後
昼休み、まだパンは残っていた。
窓の向こうの地平では、雲が赤く光っていて、遠くで何かが燃えているのか、夕焼けが早く来すぎたのか、俺には分からない。
それでも、購買前の自販機はいつも通り動いていて、焼きそばパンを一つだけ抱えていた。
彼女は、財布から小銭を出そうとして、手を止めた。
指先が透けている。
「半分こする?」
と彼女が言う。
「いいよ。腹減ってない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だよ。朝から何も食べてない顔してる。」
そんな顔があるのかと思ったが、彼女は昔から変なところを言い当てる。
俺たちは非常階段に座った。校庭には誰もいない。朝礼台の横にライン引きが倒れ、そこから溢れた石灰が少しずつ流れて地図を描いていた。
彼女はパンを二つに割り、大きい方を渡してきた。
「そっちのがおっきい」
「気のせいだろ」
「見れば分かる」
「じゃあ見んな」
俺は冷えたパンにかじりついた。ソースの匂いだけがやけにはっきりしていた。
ふいに、パチンと乾いた音が鳴った。
音のした方を見ると、彼女の袖口の下から細い光の線が一本伸びていた。ひび割れた空の欠片みたいだった。
「痛い?」
彼女は首を横に振り、くすぐったいと言う。
「ほんとか?」
「ほんと」
それが嘘だと分かっていた。でも、俺も嘘をついていたから、何も言えなかった。
遠くでサイレンが鳴る。これはもう、訓練ではない。先生たちも走ってこない。放送室からは、ずっと、砂嵐のような音だけが流れている。
彼女はパンの袋を畳み、綺麗に端を合わせ、いつもみたいに小さな四角形を作る。
「ねえ」
「なに」
「明日も購買開いてるかな」
校庭を見ると、地図が少し広がっている。
「開いてるよ」
「焼きそばパンあるかな」
「あるよ」
「最後じゃない?」
「明日の最後がある」
彼女が少し笑う。その声があまりに普通で、俺は少し怖くなる。世界が終わることより、明日の焼きそばパンの話をする彼女の方が怖かった。
多分俺たちは、最後まで話をする。最後まで、普通の話をする。好きだとか、行かないでとか、死なないでとか、そういう大事な言葉は、きっと言えない。だから代わりに、パンの話をする。
彼女の指はさっきよりも薄くなっている。でも彼女はまだ、パンの袋を持っていた。
「半分こ、またしようね」
彼女が言った。
その時、校舎の窓が一斉に震え、空が光に覆われた。彼女は空を見なかった。俺も、見なかった。ただ、残った焼きそばパンを少しずつ食べた。
ソースの味がする。昨日と同じ味がする。明日も同じ味がすると、俺はまだ信じていたい。
八月
「クーロンで泳ぐ熱帯魚は死んだことがないんだよ。
死んだことを自覚するための
うつつが
わからなくなる街だから
死んだって
思わないんだって。
「夢の中で溺れてしまえば
死んでしまうよね?
「溺れるような夢を見る方が悪いって。」
また誰か
蝉を知らず知らずのうちに
踏み殺してしまったようだ
僕も君も
似たような寝汗をかいている
よせあえば焼き殺してしまうほどに
ふれあっている部分がやわい。
献華
数刻前、一人の男が死んだ飼い猫を抱えて崖から身を投げた。深く仄暗い無機質な断崖の張り出した岩肌に身を削られ、水滴が滴るような緩急をつけて落ちた。しまいには地面に打ち付けられて男はあっさり死んだ。
彼の人生は暖かく淡い日差しで始まった。
ふかふかとした心地よい草原の上に寝ているような、そんな感触に微睡んでいた。小鳥の囀りが彼の耳を掠めていた。うつ伏せに臥して横を向き低反発な枕に重い胸と腹を預け両腕を下敷きにしていた。枕が頭から大幅にずれるのも些細で気にならない。
初めて意識の発生したその瞬間、どんな雑音さえ頭を過らなかった。ただゝ快かった。どんな障害も不都合も彼の世界には干渉できない。しかし、彼の曖昧な意識はそれらを無視することが出来たのだった。意識というものは存在を知覚したら最後覚醒して行くもので、抗おうとすればするほどよりその影を濃くしていった。そこで彼はだんだんと外界の不都合を無視できなくなってきた。ここで初めての違和感を覚えた。彼は肌を取り囲む微弱な刺激に一抹の不安を抱いた。そして、徐々に彼の意識の輪郭がはっきりして来た。神経に血が巡り、より明瞭になった感覚で不安を払拭するように自分の懐の暖かさに安堵の念を感じたのと同時に枕のじっとりとしたつめたさを知覚した。ここで初めて不快感を覚えた。なんだかひんやりとしていて、重く、指先で触れるとぬらぬらとしている。身を預けるのが嫌になって身を捩った。そして、ここで初めて痛みを覚えた。唸り声が耳を貫き頭に響いた。目を見開いてその日の青白さに眩んだ。明滅に眼球の奥が脈打つように痛み、顔を歪ませ首を背ける。そのうちまた耐え難い痛みが彼を襲う。息も絶え絶えになりながら磨り硝子を嵌め込んだような視界で辺りを見渡した。地平線から覗かせている太陽と目が合い、赤く半透明な空に斑な黒点が揺れ、水面に遊ぶアメンボのようだった。彼が顔を上げると同時に鼻からぼたぼたぼた、と何かが垂れて鼻腔に錆びた膜が張っていくのも束の間、酷く咽て吐くように咳き込む。胸部の激しい運動に伴う痛みに耐えられず咄嗟に口を覆うことを試みるが重たい枕に押し潰されている右腕はただ激痛を脳髄に流し込む複雑な何かになっていた。左手の肘を地面について半身を起こした所で彼はまた咳き込み、痛みを少しでも吐き出すように吐血した。
彼はこれでもかと目を見開いた。血液でじっとり押し固められた土に堕ちた自分自身の懐中の影にその苦痛を訴えかけた。ただ右腕に乗った数秒前まで体重を預けていたそれを凝視していた───。
──────視界がやっと晴れてきたその折、彼は何かの死骸と目が合っていた。
褐色の断崖の下、若菜の芽吹いた冷たい緩やかな地獄の底で彼は目覚めた。折れた利き腕。抉れた背と脇腹、バケツを倒したように浸みた血。神の与えた罰なのか、はたまた残酷な重力の悪戯なのか。数刻前、彼は惜しくも致命傷を逃してしまった。そして今際の際に、ほろほろした土に額がめり込んだ衝撃でその中身が震え、変形し、裂け、血液が思考能力、知識、そして剰え記憶すらも一切全てをさらっていき、鼻から零れ落ちたのだった。
彼はただ震えていた。しかし、じっと視線だけはそれから離さずにいた。腕に抱かれていたそれは何かの生き物の死骸だったが赤黒いその毛皮は染料にぐたぐた浸して放置されていた雑巾のようで、彼の血なのか、それ自体の体液が滲み出たのか既に判別がつかない。右腕を伝う感覚はずっしりとしていて、角の取れた石を入れた、だるだるの水風船を先ほどの雑巾でくるんだような物だった。その半開きの目には蠅が止まり、不快な臭いが鼻を通り眉間の底を刺す。胃酸の味に頭をもたげ懐の惨状に目を伏す。横腹からはゆっくりと絶えず血が流れ確実にその体温を奪っていた。本能が恐怖を叫んでいる。本能ただ一人が。しかし真隣で脳は黙りこくってその声を聞いていた。何故ここまで寒いのか。この赤色が何故ここまで恐ろしいのか。記憶の零れ落ちた彼には出血の危険性は分からなかった。
地平から刺す日差しに背を押し倒されるように彼は再びうつ伏せに臥した。浅い息遣いが通りすがりの優しい風にかき消されていく。ついにその呼吸すらも幻聴のように疑わしくなり、ついには薄目を開けてその死骸を見つめたままぴくりともしなくなった。彼は間も無く死ぬのだろう。そう思っていた。一体何故だ?何を思ったのだろうか。彼は息を吹き返し再びその半身を起こそうと左の肘で地を支えてみせた。そして左の膝を腹の前にねじ込み膝立ちで起き上がったのだ。空いた腕で死骸をどかしゆっくりと足の裏を地につける。何が彼をそうさせるのかは分からない。彼はふらふらと、しかし確実に、その両足で立ち上がった。人生で初めてその足で立ち上がったのだ。
彼は頻りに辺りを見渡し青灰色に反射した一つの石に目を留めた。間髪入れずに足を出す、蟻のような歩幅で、強い使命に突き動かされるように。呻き声と引き換えに掌にその石を収め、先程の歩みで死骸の隣に再び膝をついた。一つの静寂のあと、その柔らかな土肌に石が突き立てられ音無き衝動が春の寂寞を裂いていった。不慣れな手付きでそれを押し倒し草の根もろとも土を掘り返す。視界の端を何かが白やら黄色に明滅して揺れ動く。何度も何度も突き立てては掘る。何かに駆られるように。強い使命に突き動かされるように。
本格的な朝日が昇り、彼の色濃い焦燥の色が薄れて来たとき、彼の前に一つの影がぽつんと空いた。乾燥していた血と汗とが溶けあってその影に吸い込まれていった。彼はそれを見て少しだけ安堵して隣に横たわったそれを左手でそっと入れた。半開きの目を一瞥してからその腹に、足に、頭に、暖かな土を被せるが、咳き込んで手が止まりなかなか進まない。一度は逃れた焦燥が再び迫り腕を急かしていく。やっとの思いでその小高い土を押し固めて石を突き立てた。
その刹那、慣れてきていたはずの視界が変に眩んで、先程の明滅が淡い帯を引き始める。
眩んだ彼の命は潰えかけていた。乱雑に淡い帯の始点を掴みぶちぶちと引きちぎる。強い使命に突き動かされるように。まとめ上げられたそれは酷く不格好で数枚の千切れた色がはらはらと空を散っていった。彼は冷たく震えた手で、手中に残っている全てを静かに石の前に供えた。
彼の使命は燃え尽きた。冷たく刺すような日差しの中で彼は己の影に吸い込まれていった。影に吸い込まれた彼は粗いモザイクのような目で、灰色の世に咲き、佇む一輪をただ視界にとらえていた。感覚も絶え、消えかかった手を伸ばし、ただその暖かさに触れようとした。彼は目を瞑り虚空を掴むように弱弱しく、されども確実にそれに触れた。胸の前にそっとその一輪を抱き、消え入るような息を吐いた。
────────────そして、木漏れ日のぬるさの中で彼の熱は潰えた。
まるはちの暖簾
「小夏がなっているはずだから、田舎に行きたい。」
父がそう言ったので、初夏に中核市から車で一時間半かけて田舎の家へ向かった。
田舎の家の畑には、いつの間にか狸が住みついていた。
庭の小夏はたわわに実り、父は手際よくもぎ取っていく。
ものの数分で収穫コンテナは満杯になった。
まだまだ実は残っていたが、その日はそれで帰ることにした。
運転と慣れない収穫で私は少し疲れていた。
そんな帰り際、限界集落の代表的な町に、おしゃれなカフェができていた。
コーヒーでも飲んでいこうということになり、立ち寄った。
店ではオーナーらしき女性が明るくもてなしてくれて、
ランチも小味が効いていておいしかった。
女性の母親も静かに椅子に座っていて、歳を重ねてもどこか品があり、
父は「美人や」とぽつりと言った。
ふと棚を見ると、いちばん上の左側に
「㊇酒店」と書かれた大きなとっくりが三つ置かれていた。
大事なもののように見えたので、私は女性に尋ねた。
「もしかして、造り酒屋さんだったんですか?」
昭和の時代まで酒造業を営んでいて、屋号を復活させたのだという。
その話を聞いていた父が、急に目を輝かせた。
「まるはち…まるはち!」
「お父さん、知ってるの?」
と聞くと、父は嬉しそうに語り始めた。
「うん、知っちゅう!知っちゅう!なんで知っちゅうかというと、
昔、大きな台風が来て、まるはちの暖簾が川に流された。
それをお父さんが拾うてきて、お母さんが毛布に縫い直した。
昔は毛布なんて買えんかったき、それを使いよった」
私は思わず、店の女性の手前、
「それ、まるはちの人にちゃんと言ったの?」
と父に聞いてしまった。
女性は「もう、時効でしょう」と柔らかく言った。
そうか、七十年以上前の話なのだと我に返った。
それにしても――暖簾は毛布になるのか。
麻か綿だろう、と私は思った。
肌ざわりは硬く、ハリもあるはずだ。
綿を詰めたのかとも思ったが、毛布が買えないほどの時代に
綿が手に入ったとも考えにくい。
田舎の冬は雪がよく降る。
私の記憶の祖母は、さっぱりした人だった。
亭主が川で拾ってきた暖簾を毛布に縫い直す姿は、
どこか意外で、そして印象深い。
「川で暖簾を拾ってきた」
「毛布にしましょうか」
そのやりとりを、遠くにも近くにも感じていた。
数か月後、庭の整理で再び田舎に行き、同じようにカフェに寄った。
女性は私たちを覚えていて、
「あの時の暖簾の話があまりにも面白くて……ごめんなさい、
勝手に地元の新聞のコラムに投稿してしまいました」
と、申し訳なさそうに、しかしどこか嬉しげに話した。
造り酒屋だった家の名を受け継ぎ、店を開いた彼女。
「まるはち」の暖簾の話は、彼女の心にも残る何かがあったのだろう。
暖簾は毛布になるのか――その問いは、今も私の胸に残っている。
父は家具が壊れたりコードが古くなったりすると、
よくガムテープで補強する。
私はそれを見て「貧乏くさい」と思ったこともあった。
けれど、暖簾を毛布にした話を思い返すと、
父の原風景を見たような気持ちになる。
祖父と祖母のエピソードには、
物がなくても何とかしてしまう、
屈強で、ひょうひょうとして、
どこかコミカルな気質がある。
ガムテープで補強された家具を見て、
ふと親しみを感じる自分がいた。
祖父が暖簾を拾った田舎の川は、
今日も変わらず流れている。
金貨と目薬(3)
<3人の関係➋>
加賀見にショートメールで店に出るシフトを送り、
加賀見が来店する日は太客以外の指名を断り加賀見との時間を取るようにした。
何度目かの来店で同伴出勤を約束して貰い、同伴のお礼にとアフターで他の店へ飲みに行った。
何度目かのアフターで加賀見の寝ている横で目を覚ます事となった。
記憶を失くしての結果でなく加賀見のタイミングで、こうなる事を深水は望んでいた。
加賀見と朝を迎えるタイミングで深水は自分の考えるデザイン企画を持ち出した。
自分で考えた企画でなかった事も有って乗り気で無い加賀見に
この企画が成功すれば夜の世界から完全に抜け出せるから力を貸して欲しいとねだった。
加賀見の脳裏を深水と二人で成功する世界が横切り
「やってみるか、俺もイラストで食べて行ける様に成れば最高だしな。」
その言葉を聞いて身支度を済ませて深水は加賀見を置いて部屋を出て行った。
加賀見との企画を進める為に深水は持てる人脈をフルに使い企画に現実味を持たせた。
深水はファッション雑誌の編集長を前に企画の面白さを熱弁していた。
「深水君、面白い企画だと思うけれど大きな問題が有る様に思うのだよ。」
編集長の言葉に深水は動揺の欠片も見せる事なく先回りする様に答えた。
「私が夜の仕事をしている事ですか?協力して貰えるアパレル企業からも指摘されましたけれど
この企画に対して私は一切、前に出ようと思っていませんし出ません。」
深水の言葉に「そんな貪欲な目で言われても誰が信じられるのだよ…」編集長の言葉を遮る様に
「私が今、欲しいのはお金でも名声でも無いのです。流れ私が源流と確信出来る流れが見てみたいのです。」
モデルが企画を提案しに来た場とは思えない異様に重い空気を押しのける様に
「流れ?流れて何だよ!まあ、深水が表に一切出ない事を条件に前向きに検討してみるよ」
編集長の言葉によって深水の異様な申し出と雰囲気に吞み込まれる様に深水の企画が机上に乗った。
そして雑誌の後ろの方に加賀見の顔写真と共にデザインに込められた思いなどが紹介された。
記事の内容からは自分の影さえ伺う事は出来なかったが深水は気にする事も無く企画の反響を追っていた。
愛の言葉文字を読めぬ程に解体してデザインとして使っているとアピールしたところ
秘めた恋心を感じるとネットで騒がれはしたが爆発的な流行とは成らなかった。
しかし深水は細いけれども自分が作り出した流れを感じて満足げだった。
~つづく~
隠された灰色の相貌
僕らは灰色の相貌をした星の下で生きていて、
白か黒かを突き詰めると、仲違いが決定的になる、
場所とも、時間とも、時代とも形容できない、「時空」に住んでいる。
トランプの耳を弾丸がかすめたあと、
彼が星条旗のもとで拳を振り上げた瞬間、
時空は急激なスピードで変化を始めた。
厳粛に、整然としているのは最早デジタル時計くらいだろう。
アメリカ第一主義、貿易戦争、暴かれるディープステート、
小児性愛、人身売買、性別は二つ、移民追放、分断、乖離。
陽気でハイに振る舞う、無能なイーロン・マスクをかたわらに、
大統領の息子が終始つまらなさそうにしているのが、
僕にはやけに不気味に見える。
問題はいつだって種を撒いたあとだ。
ロックスターがスキャンダラスに生きて、
みなが熱狂していたのがまるで子供の遊びのようだ。
今の時空では、ろ過された情報や言説ばかりが飛び交う。
誰もが賢者で告発者で、また被害者で加害者であるように、振る舞うことが出来る。
巨岩を未来永劫、頂きへと運ぶシーシュポス。
僕は煙草に火をつけない、
アルコールもコップに注がない。
なのに充分に酩酊し、昂揚して戦地を見ている。
傍観者ではなく、孤軍の老猿として、常に。
昨日、君にメールを送った。
返事は来なくて正解だった。
艶かしく身をくねらせる蛇が、
愛と情欲をすり替えて、死の島を這っている。
僕は見極めなければならない。
本当の重力を持つ愛を。
安住の地を見つけられない百年の孤独は、
時に移り気なのだから。
今日もTLはジェンダー、夫婦の諍い、レッドフォックス、詐欺まがいの投資、ゴシップであふれている。
官能がポルノムービーだけだとしたら、
それほど贋作の世界はないだろう。
僕は天国を疑っている、地獄は信じない。
君が完全に見えなくなる前に、
僕は君を信じていたい。
寒空の中、髪の毛をこれまで見たことのない色に染めるこの日、
僕の眼前を飛ぶのは、ドローンでさえ、そのかぎ爪で突き落とす鷲。
AM 8:40 朝食のカフェオレが尽きようとしている。
stereotype2085
2025/02/19
灯
電燈が人を見送ってる。
ゆらりゆらりと人を照らせながら
苔むした電燈が人を見送っている。
ぴかりぴかりと点滅しながら苦しそうに
乾びた電燈が人を見送ってる。
解れながらも父のように堂々と
点滅しながら母のように優しく
ゆらりゆらりと人を照らせながら見送っている
パスタの山
街はずれに
パスタの山があって、
夕方だけ
少し湯気を立てる。
誰も登らない。
食べもしない。
ただ遠くから見て、
あれはいつか片づくだろう、
と言う。
僕は靴を脱いで
その山に入る。
麺はまだ温かく、
足首に絡み、
ふくらはぎを撫で、
腰のあたりで
急に重たくなる。
泳ぐしかなかった。
クロールも
平泳ぎも
誰に教わったわけでもない。
ただ、やわらかいものに沈まないために
腕を動かした。
小麦の匂いがした。
オリーブオイルの光が
夕焼けを薄く伸ばしていた。
頂上には
巨大なフォークが刺さっている。
誰かがここまで食べて、
途中で飽きたのだろう。
あるいは
最初から食べる気などなく、
刺したまま
忘れてしまったのだろう。
僕はその影に座り、
遠くの街を見る。
ビルも、
駅も、
コンビニの明かりも、
弁当箱の隅に残った
小さな具のようだった。
生きていることに
大きな意味がなくても、
こうして
意味のない山を泳ぐ日が
一日くらいあっていい。
帰り道、
髪から一本
、スパゲティが落ちた。
それは歩道の上で
夕日に光っていた。
僕は少し待った。
でも
それは何処へも行かなかった
端緒
神籬の傍らで
鉛色の空が
崩れ落ちた
榊の葉先を越えて
幕屋を打つ
瀟々と
土を解く雨音が
拍を取る
最初の呼吸
銀雨の向こうに
空の傷口から覗く青
── 碧井雫
#碧井雫#詩#現代詩
タンポポ
いつまでも 変わらないと 言ってたね
まぁ 誰も そう言わなきゃ 生きてゆけない
今にも泣きそうにうるんだ ひとみだけを
この胸は おぼえていた
心だけは 変わらないと 言ってたね
口紅が にあうように なってもと
今までおぼえていた 君の素顔は
もうこの胸を 逃げてゆく
あぁ 時の風に吹かれて 飛んでゆく 白いタンポポ
いつの日かまた どこかで 会えたとしても
東京の風に吹かれて 散ってゆく 白いタンポポ
好きだったのは きれいな君じゃない
久しぶりの 言葉も 僕は言えず
昔より ずっときれいな 君がほほえむ
今までおぼえていた 君のえがおは
もう この胸を 逃げてゆく
あぁ 時の風に吹かれて 飛んでゆく 白いタンポポ
コンクリートのすきまの 土にしがみつけ
東京の風に吹かれて 散ってゆく 白いタンポポ
好きだったのは 黄色い花じゃない
-----
https://youtube.com/shorts/1zFHNH4t5fE?si=6C8DSfpyHdT7D0_q
【批評】イーダビーさんの映画が良いです
https://www.mettle.co.jp/iidabii/
https://www.imageforum.co.jp/theatre/
映画「詩人iidabii ある宗教2世の記録」がとても良い映画ですので、推しかつさせていただきます。
この映画は社会問題を告発する主題を含む映画です。
二人の共同監督のうち松井秀裕はドキュメンタリーを手がけてきた制作会社の代表取締役/プロデューサー。津田友美は「ガイアの夜明け」「情熱大陸」「NHK BSスペシャル」などを作成。そんな二人が3年に及ぶ丹念な取材で、重い課題に取り組んでます。
でも、何よりこれは圧巻の芸術映画でした。
イーダビーさんの朗読はアートだなぁ、としみじみ。心洗われました。
作中のマサキ・オン・ザ・マイクさんの作中批評も大事なことをズバリ指摘してるし、暖かいです。奥さんも良いです。アート映画って、こうゆう周りの人の味わいのある言葉、大事なんですよね。
でも何と言っても、この映画は、イーダビーの言葉のパフォーマンスがとても良いです。
僕は2010年代に彼の朗読パフォーマンスを観て、アートの初期衝動みたいな部分で好きになったのですけど、その後の歩みと深化がとても良くて、感動しました。
イカシてます。
やめることが
できない
お酒も
煙草も
ギャンブルも
恋愛も
生きることすら
できない
だってまだ
なにひとつ
やったことがないのだもの
朝焼け
真実を知りたくて夜をすごしてる
うまく息を 出来ないので ごまかす
わたしは あなたの敵だったか
自らに 疑いをかけて 十キロ
また 目を凝らして あるく
見つかるのは
汗
良くて 風
道が怠く
足は眠い
二束三文の踵
朽ちろ
月が
唇を
動かして
告げる
あしたの朝一番
公衆電話で
見つかった
死体を
迎えに行くから 乗りなさい
痺れない
… … (V)
を
上げれば
滞りなく
進行すると おもうので
あなたに
… … (W)
を
絞って
いけない… …
金貨と目薬(2)
<3人の関係➊>
キャバクラで働く深水 琴李(23歳)は際立って美人とは言えなかったが、
スタイルの良さと頭の回転の良さで毎月の売り上げランキングでベスト3には入っていた。
深水が売り上げナンバー1に拘らないのは深水自身が夜の世界に対して執着が無かったからだった。
昼間のファッション雑誌の契約モデルとしての仕事を充実させて、
モデル業界で注目されて上手くすれば芸能界への進出を考えていたからだった。
予定していたモデルの子が事件を起こし、雑誌の大き目なイベント撮影が深水へと回って来たので勝負所と思い
店の常連客から貰った紹介状を使い会員制のスポーツジムへ行く事に決めた。
有名ともあって入会費と年会費だけでも百万を超えた。
しかし夢への投資と思い躊躇う事なく入会し受付でトレーニング・メニューの相談へと進んだ
夜の酒を抜くとは言えなくて不規則な生活からくる体のぬくみ取りとウエストの引き締めを中心としたエクササイズを頼んだ。
何人かのトレナーが交代でメニューに従いトレーニングを進めてくれた。
トレーニングの甲斐もあってイベントも好評に終わり少しずつ昼の仕事も増え夜と昼の仕事の割合差が無くなり、
ジムへ行く頻度が増えだした時に「僕が専属トレナーに成っても良いですか?」と声を掛けて来たのが
武内 達也(25歳)だった。
「良いですけど、追加料金とかが高いんじゃないですか?」の深水の言葉に「追加料金とかは頂きません。
深水様の活動の手助けをしたくて御声を掛けさせて頂きました。」と爽やかな笑顔と共にプレゼンして来た。
要するに私を雑誌で見たフアンの一人だなと深水は思った。
「良いですよ。追加料金も不要で私の事を応援して下さる人なら歓迎です。」と
自分の融通が利くし内緒で特別なトレーニングもして貰えるかもと下心満々で承諾した。
深水の思惑通りにジムでのエクササイズは快適なものとなった。
トレーニングの効果かスタイルも以前より磨きがかかり昼間でも時々だが脚光を浴びる様になり、
テレビにこそ出ないけれど何社かの大手ファッション雑誌との長期契約を貰える様にまでになり
昼の仕事だけで十分生活が出来る様になっていた。
武内とも二人で食事をする仲になり自然と夜を共に過ごし朝を迎える日も有った。
しかし、深水は夜の仕事を量は減らしたとは言え辞める事はしなかった。
何故なら店に出る日が少ない事からレア度が高いと客からの指名度が高まったからだ。
そんな深水を我先に指名すると息巻く客が占める店内で、
初めての来店客にあてがわれるシステムで女の子が自動的に入れ替わるお試しタイム中で
静かに相槌を打ちながら静かに飲んでいる男が深水の目を引いた。
それが加賀見 陵介(25歳)だった。
一目見ただけで仕立てが良いと解るスーツを着こなしクールな顔で女の子を相手する様子は、
どちらが客なのかと思う程に店の女の子達が浮かれていた。
フロアーボーイに耳打ちして指名を数件キャンセルし加賀見のヘルプにセッティングさせた。
「深水 琴李と言います。」座るなり名刺を渡し「御名刺を御持ちでしたら頂けますか?」と
加賀見に喋る間を与えず名刺を要求した。
「加賀見 俊介です。」と言って名刺を差し出す俊介の手を優しく包み込む様にして名刺を受け取った。
「凄い、イラストレーターさんなのですか?
私も少しだけですが雑誌とかでメディアに顔を出しているので興味が有ります。
良ければ私を今夜、加賀見様の横に座らせて貰えないでしょうか?」琴李の言葉に頷くのを見て
フロアーボーイに指名が入ったと合図を送る。
加賀見の必要情報と自分のアピールをして深々と頭を下げてから太客の指名をこなし深水は今夜の仕事を終えた。
~つづく~
◽️プチストーリー【吉村さんと佐倉さん】(作品No_06)
最近、夫の吉村さんの様子がヘンだ。
家でやたら携帯電話をいじってることが増えた。
もともと、吉村さんはわりと寡黙な方だし、まぁ新婚って時期も過ぎて、お互い慣れきってきて、こんなもんと言えばそうなのかもしれない。
しれないのだが、妻である私は気になり始めた。
最近、私が寝た後で吉村さん、昔のテレビドラマをわざわざ動画のサブスクに加入して見てるみたい。付き合ってたときからドラマとか見る人じゃいし、好きとか聞いたことないし。何かヘンだ。
些細な変化かもしれない。だけど、、、。
別のある日、私が夜中トイレに起きたとき、暗いリビングで吉村さんの小さな声が聞こえたの、名前が聞こえたような。
誰かと遅い時間に電話でもしてたのかも。
あー、気になる。気になるよ。
でも、聞けない。聞いてしまったら、、、。
私の思い過ごしであって欲しい。
吉村さん、最近、朝昼晩と、ありがとうをよく言うようになった。
それはそれで嬉しいのだけど、なんだろ、そろそろ1日が終わり、寝る時間になったところで急に、吉村さんが結婚してくれてありがとう、とか。
いまこのタイミングに言う!?
もう2人でお布団に入って、寝かかってる時に、吉村さんが今日の夕ご飯のきんぴら美味しかったありがとう、あと、牛乳の買い足しありがとう、だって。
だから、今それ言う?!
吉村さん、かわいい二頭身のクマちゃんがプリントされたマグカップをお揃いになるように仕事帰りに2つ買ってきて、コーヒーを淹れてくれて、少し牛乳多めだったけど、、、。急に一緒に飲んだり。
今までそんな習慣なかったのに。。
嬉しいけど、けどさ、そのまま受け止められなくて引っかかってしまう私。
そして、さらに月日が経ち、ついに、、、
吉村さんがめっきり話をしなくなった。あれだけ急にだけど、ありがとうを言うようになってたのに。なんなのいったい。
私の作った食事を残すようになった。
きんぴら美味しいって言ってくれてたじゃん、、、。
何か夕食の前に食べてきてるのかな。
流石に、耐えきれなくなって一粒の勇気を出して思い切って、
「吉村さん、なんかあった?どうしたの?」と尋ねたら、
「うん?何もないよ、佐倉さんの思い過ごしじゃない?」
とさらりと言ってのけた。
いけないのはわかってる。でも、もう、、。
私は吉村さんがお風呂に入ってる時に、、、
やたらお財布を大事にしてる感じだったので、
直感を信じて吉村さんの財布を開けた。
当然入ってるお金の他に、髪ゴムが入った。
なんで使わないのに女性物持ってるの!あ、だめだめだめだめ、、、だめ、手が勝手に吉村さんの携帯電話に、終わっちゃう。終わったらやだよ。
ゆうこ、止めな。止めときなって!
私は吉村さんの携帯電話を開いた。
心臓の鼓動が耳の前から聞こえるみたい。メールは、、、大丈夫そう。
メモ帳も見てみよう、、、あ、、、え、、
私が吉村さんの携帯を覗いていたら、そういうときに限ってすぐにお風呂から上がってきた吉村さん。
私は神経衰弱で手持ちの最後のカードが揃って場に出したかのように言った。
「話したいことがあるから、テーブルに座ってくれないかな・・・」
「わかった。ちょっと待って」
急に始めた習慣であるクマちゃんのお揃いのマグカップを2つ用意して、牛乳たっぷりのコーヒーを2人分用意してテーブルに置いた。
私は深く一呼吸した後、短髪な吉村さんに向けて言葉を切り出した。
目を合わせることができない。
「吉村さん、髪短いから髪ゴムとか使わないよね」
「うん?使ってないよ?」吉村さんは自分のお風呂入りたての髪を片手で触りながら訝しげに伝えた。
「じ、じゃあ。これはなんなの、、、」
私は吉村さんの目の前のテーブルにグーで握って隠しもっていた髪ゴムを静かに開いて置いた。これがただのマジックショーだったらどんなにいいことか、、、
「この髪ゴム、吉村さんの財布に入ってた。ねぇ、使わない髪ゴムが何で持ってるの?」
「え?!佐倉さん、僕の財布の中を見たの?」
「いいから答えて!お願い」
「え、それは、、、」
答えづらそうな吉村さんの姿をしていた。見たくなかった姿。
あー、この状況つらい。もうどっちかはっきりしたい。
「もう、じゃあ、もう一つ聞くよ。スマホの中のメモ帳に、
1.横顔が好き。
2.笑ったときのえくぼがいい。
3.香水が似合いそう
、、、
ってこれどこの女の人のこと、書いてるの!」
「え!人のスマホまで見たの?!佐倉さんどうしちゃったの?!」
「どうしちゃったのって!?あなたがそうさせてるんじゃない!」
「吉村さん、浮気してるんでしょ!」
あーあ、、、、、言っちゃった。。。。
吉村さんは、私の声の大きさに圧倒され、銃を突きつけられて両手を挙げているように感じられた。
私は喉をゴクリとした。目が滲んでくる。
時間にしては数分かもしれないけど、私には何十倍、何百倍にも感じられた。
動きがあったのは吉村さんの方からだった。
「佐倉さん、せっかく淹れたコーヒーだから飲んで欲しいな。」
何を今更、それで許されると思ってるの?!
「そして、携帯のさっき言ってたメモ帳を最後までよく見てみて」
吉村さんは自分の携帯を、私の前に差し出した。
メモ帳
“好き”を10個書き出す
1. 横顔が好き
2.笑ったときのえくぼがいい
3.香水が似合いそう
4.気付いてないけど人にやさしい
5.コーヒーを熱がりながら少しずつ飲むとこ
6.牛乳を切らさないこだわり
7.昔のテレビドラマを何回も真剣に見てるとき
8.書く字が少し丸文字
9.きんぴらごぼうが絶品!いくらでも食べれる
10.ダメなところがたくさんある僕と結婚してくれたこと
私、猫舌だし、テレビドラマも好き、あ、きんぴらごぼう。
そして、結婚のこと、、
「これ、、、私のこと?私の好きなところ書いてたの!?」
「そ、そう。佐倉さんのこと。いざ改めて文字で書くとなかなか書けないものだね」
緊張してた私の体がいっきに解放された。
「なんで!こんなことしてるの?!そういうことする人じゃないよね」
「えーと、それは・・・」この期に及んでまだ言いづらそうな吉村さん。
「佐倉さんとの結婚生活をより良くするためにどうすればいいか?を生成AIに相談したら、そう言われて、、、」
「生成AI?人工知能に聞いたの?!私たちのこと?
ああ!だから、携帯いじることが多くなってたんだ!」
ホッとしてテンションが妙に上がってしまう。
「あ、え、そうです、、」吉村さんは神妙な顔で言った。
「うーん」もう私は唸るしかなかった。
「それに、色々気になるけど、この10番目、ダメなところがたくさんある僕と結婚してくれたことって。ダメなところとか、そういうのよそうよ」
「だって、嫌わないのを感謝してるし、すごいなって」
「私は、そんなすごいとか言われることでもなくて、単純に、もしそんなことで気持ちが変わってしまうような人から私が好きと逆に言われたら嫌だなってだけ。だから、自分はそうはなりたくないってだけだよ」
「そうなんだ・・・なんか、ありがとう・・・」
「あ。いえいえ」
吉村さん、佐倉さんは小さく交互にゆっくりとお辞儀をした。
私は椅子を立ち上がり、
吉村さんの手を私の胸に、私は吉村さんの胸に手を添えた。
「ねぇ、話そう。私の中に、吉村さんの中に、答えはあるんだよ」
「ふたりで見つけていこうよ」
吉村さんは言葉を噛み締めながら、小さく頷いて。
「うん。そうだね」
そして、いったんお互い携帯電話の電源をオフにした。
「ゆ、ゆうこさん、まずはコーヒー冷めたから入れ直すね」
<了>
吉村さんの携帯電話がここにある。
読者だけ、佐倉さんも見ていない生成AIに相談した全てが見られるようだ。
了解しました、吉村さん。
以下、生成AIとの会話形式・手短モードでお届けします。
⸻
吉村さん:「佐倉さんと、もっと仲良くなるにはどうすれば?」
AI:「“おそろい”のものを1つもつと、ご縁が結び直されるとされています。マグカップ、靴下、歯ブラシでも効果ありです。」
⸻
吉村さん:「……ありがとうって、言いすぎても変じゃない?」
AI:「10回までならOKです。“言霊“が巡り、運気も循環すると言われています。“ありがとう貯金”ですね。」
⸻
吉村さん:「じゃあ、その……願い事とか、いつ言えばいい?」
AI:「深夜が最適です。寝静まった頃、こっそり小声で。気配に乗って、叶いやすくなると伝えられています。」
⸻
吉村さん:「佐倉さん、昔ドラマ好きだったんですよ。ああいうの見といた方がいいですか?」
AI:「はい。相手の趣味を“理解しようとする姿勢”が、大吉とされています。見ておくと縁が深まります。」
⸻
吉村さん:「……あの、好きなとこ10個って、どうなんですかね……」
AI:「書くことに意味があります。言葉にすることで、想いが形になります。“言霊”が宿るという考え方です。」
⸻
いつでも、続きをご相談ください。
吉村さんの行動がお二人にしっかりご利益ありますように。
<おしまい>
繭に成る。それが、だ
薬指には琥珀蝶
唇には迷酔蛾を
硝子の自鳴琴が砂にかわるころ
万華鏡を抜け出して
朔の元を去ります。
角を亡くした手鞠が気ままに転がっていく
この鬼ごっこも追いかけるのもまた自由でした
其後に灯籠が経ちました、
ただ明りは知っているだけで
誰もいない近くて遠い場所で、
幼子はお隠れになったところで。
無意識の石の意図を糸に潜して置く。すると死や霊や念みたいなものが
栄えてくる。狂ワの民が持つその童歌に礼は 自然と生えているものか。
夏の盛りを過ぎた盆に置かれた私たちが空を見上げ
考えている。
なにかが通り過ぎるのを、
なにかが咲き乱れるのを、
なにかが熟まれるように績まれ、
『繭に成る それが だ。』
ただ来年も再来年も屹度違う色違う花を咲かせては腐らせるぐらいなら、
今この瞬間の風に蒔かせて、沢山の夢も希望も運に委ねて。記憶だけは
永遠に真新しいまま、祈りも願いも総て停めてしまえばいい。
すききらい なんて興味もない けど花占い
足元に散った 数殺した 命
儚いね、なんていいながら 踏みにじったあとで
青の子も赤の子も黄色の子も、皆違うね。間違い探しをしながら黒白の
歯車を駆け上がる、終わりのない果てを最期まで昇って。虹が見えたり
星があったり、躓いたり転んだり笑ったり泣いたりしたけれど、
(できないことをしようとして勇気だと讃えるヒトがいた。)
――やっぱり翼がない 『しのまえに しのあとに』
(空白と余剰、若しくは法面に寄生された、かお・かお)
船倉の踏み板に狡い鼠の一家がいて穀物を食い荒らし、それで
穴があいて全部沈んじまった。昨日見た夢の続きは長い首巻きに綴
られ、それを底におろし口から足先からハラワタからドウドウと流さ
れていた、時代も歴史も空になるまで月陽を与え風化するほど 傾いて
――カラダはもうなかった
(ほら、どいつもこいつも わたしから と 離れようとしない か)
薬指には琥珀蝶、唇には迷酔蛾を。
硝子のオルゴールが砂にかわるころ
カレイドスコープを抜け出して
月食の元を絶ちます。
角を亡くした手鞠が気ままに転がっていく。
この鬼ごっこも追いかけてもまだ自由でした。
其後に灯籠が経ちました、
ただ明りは知っているだけで。
誰もいない近くて遠い場所で、
わたしが お隠れになったあとで。
ボクの言う宝石はキミのところで、心臓にあたるところで
どうせ真直ぐに嗄れて。だとしても――炎の色に似ていた
――嘘ばかり/騙されてる
――天地が逆さまだよ
――堕ちないように溢れないように
「きこえないか?」
ささやかな風が耳朶に触れ頬を霞め輪郭を消す
近すぎる花火が網膜を焼いた それだけの指をなぞらえる
たった一片の ものは はじまりだった
たぶん私以外のすべて
特定の何かを保たない
/愛すべきヒト/亡くした家族/報われなかった、過去
生まれ得ることのなかった未来
懐古の天壌は 在りし日よ ―― わたしからみた、わたしいがい
視界にうつるもの総て、想像すること凡ての
『彼方』よ。
2023-03-09
黒い櫛
伯母の家には、黒い櫛があった。 それは鼈甲でも象牙でもなく、ただの古い木の櫛であったが、磨きこまれた背のところだけが、夜の水のように鈍く光っていた。私は子供の頃から、その櫛を見るのが好きだった。伯母は毎晩、灯りを一つだけにして、鏡台の前に坐り、長い髪をゆっくり梳いた。髪は白いものが混じっているのに、灯りの下では不思議に黒く見えた。
伯母は美人ではなかったと思う。少なくとも、写真に撮れば平凡な女に写っただろう。けれど暗い部屋の中では、彼女の横顔には、昼間にはない深さがあった。鼻筋や頬の線が、光に照らされるのではなく、闇に削り出されているようだった。
私はその姿を見るたび、伯母という人間は昼の中ではなく、夜の中にだけ本当の形を持っているのだと思った。
伯父は早くに死んだ。伯母はその話をほとんどしなかった。ただ、鏡台の引き出しには、伯父の使っていた懐中時計が入っていた。止まったままの時計である。私は一度、それを手に取ったことがある。すると伯母は、珍しく鋭い声で、いけませんと言った。
「動かないものは、動かないままがよろしいの」
その言葉の意味を、私は長い間考えた。
死んだ者への忠義なのか。思い出を傷つけまいとする慎みなのか。あるいは、止まったものを止まったまま愛するという、もっとわがままな欲望なのか。
伯母が亡くなったのは、雨の多い年の秋であった。
親戚の者たちは、家の中の品を事務的に分けていった。着物、器、掛軸、古い箪笥。どれも伯母が使っていたときには、重く湿った光を含んでいたのに、白い紙に包まれると急に安物のようになった。
私は鏡台の前に立った。
黒い櫛は、いつもの場所に置かれていた。私はそれを手に取った。驚くほど軽かった。
伯母の髪を夜ごと通っていたものが、こんなに軽いはずはないと思った。けれど軽かった。物には記憶などないのかもしれない。ただ、人間の方が勝手に重さを預けているだけなのだ。
引き出しを開けると、懐中時計があった。やはり止まっていた。
私はそれを手にのせた。銀の蓋には細かな傷があり、そこに窓の光が細く入っていた。ふと、耳に近づけてみた。音はしなかった。
そのとき私は、伯母がこの時計を動かさなかった理由を、少しだけ分かった気がした。
止まった時計は、過去を閉じ込めているのではない。むしろ、過去がもう戻らないことを、毎日静かに知らせているのである。伯母はそれを聞き続けていたのだ。聞こえない音を、聞き続けていたのだ。
私は懐中時計を戻し、黒い櫛だけを貰った。
今でも時々、夜更けにその櫛を机の上へ置いて眺める。私には梳くほどの長い髪はない。だから、それはもう道具ではない。だが、道具でなくなったものほど、人を強く支配することがある。
灯りを落とすと、櫛の背がわずかに光る。
その光を見るたび、伯母の横顔が浮かぶ。
けれど思い出される伯母は、昼の伯母ではない。洗濯物を干し、茶を淹れ、談笑していた女ではない。
暗い鏡の前で、髪を梳きながら、止まった時計の音を聞いていた女である。
私はその姿を美しいと思う。
そして、美しいと思う自分を、少し恐ろしいとも思う。
男子
あの夏
僕たちは死体を持ってた
片田舎
といってもダ埼玉よりゃきっとマシな
神奈川県相模原市
カブト山って呼ばれてた森のなかに
カブト山なんて呼ばれてたけど
カブトムシなんて全然採れなかった
ドウガネブイブイ
カナブン
精々コクワガタ
それにもう僕たちのお目当ても
そこに捨てられてるエロ本のほうに
移っちゃってた
雨に濡れ
土に湿り
ゴワゴワに貼りついたページをめくって
なんちゃってセーラー服のおばさんたちの
ブヨブヨなヌードを見る
いま思えば
あのおばさんたちを捨てた誰かの精液で
ページは貼りついてたのかもしれない
そんなエロ本漁りのなか
僕たちは首吊った水沢先生の死体を
発見したんだ
§
もう微かに腐り始めてたのかもしれない
新卒の
綺麗な先生だったのに
森の爽やかな空気のなかに
なんかちょっとウンコ臭いようなニオイが
漂ってた
本当に
綺麗な先生だったのに
ハゲでデブで中年の体育教師と不倫して
梅雨明けの頃すでに先生の不登校に
なっちゃってた
そんな死体をしばらくのあいだ
僕たちは持ってたってことだ
失踪騒ぎになってたし
ワンピのスカート姿だったから
先生だってすぐに解った
少なくとも
女のひとだってことは解った
ならあれは僕たちにとり
べつに先生じゃなくてもよかったのかも
しれない
ところでさっきの体育教師だけど
ハゲブタなんて呼ばれてた癖に
奥さんも元教師で
その奥さん
兄たちによれば結構美人だったんだそうだ
§
どうしよう?
どうしようったってひょっとしてお前──
あそこ、見られるかもしんないな……
あそこ?
森に捨てられてるエロ本は
週刊誌のグラビアページに自販機本
裏本は無論
ビニ本だって滅多に見つかんなかった
それでも森の実態が
先生の死体とともに大人たちにバレたとき
当然大目玉だったわけだが
日没まで僕たちは
落ちてる枝をロープに向かい
拾っては投げ
拾っては投げ
なんとかロープを切ろうと必死だった
大体死体に当たっちゃってたんだが
とにかく先生おろさなきゃって
誰かが言った
組体操だ!
組体操?
それを僕たちに厳しく指導したのは
なんか笑える話なんだが
やっぱハゲブタだった
お前がうえになれ!
小柄な奴が僕たちのうえでよたる
もうかなり暗い
膝までいったな? しっかりしがみつけ!
全体重かけしがみつくんだ!
俺たちもお前引っ張る!
ロープ切るんだ! ロープ切るんだ!
ロープじゃなくて先生の首、
切れちゃったら?
構うもんか! 首なんかほっとけ!
やだよう、
先生から何か、垂れてきちゃったよう、
それになんだか、先生臭いよう、
臭いよう……臭いよう……
§
それでも奴はよく頑張った
ホンットによく頑張ったと言える
森の奥に昔の川床が走ってた
その一番深そうなとこに先生を横たえ
落ち葉をかけ
まんじりともせず翌早朝
酷えもんだ
頸は間延びしてんのに
顔全体はまるでバスケットボール
鬱血と腐敗の初期段階で
赤紫の福笑い
構うもんか! 顏なんかほっとけ!
ハサミ持ってきたか?
俺ナイフ!
そんじゃ剥くぞ!
ワンピ脱がすと
染みだらけのパールのスリップ
臍の辺りの左うえ
早くも黒く
平べったいシデムシが貼りついてた
潰されたヒキガエルの死体に
よくたかってる奴だ
チッキショウ!
構うもんかのリーダー格が
ハサミの先でそのムシを弾く
僕たちの目的は先生の
いや女のひとのあそこだったわけだが
やはりリーダー格は
ブラからいったのだった
酷え!
確かにこっちも
顏同様酷えもんだった
ブラのワイヤーの痕が裂け
赤黒い血がジクジク沁みでてた
黒い乳首は勃起してんだか
或いはガスで膨らんでんだか
さらにナメコのようにヌルヌルしてた
臭いよう……臭いよう……
泣くなチビ! いよいよだ!
でもこれ本当に、水沢先生なのか?
構うもんか! いよいよだぞ!
パンツの右サイドの細くなったとこに
遂にハサミの片刃が入った
ところでそこは普段から蒸れ
濡れ
排泄もし
女のひとの体んなかで
一番臭いとこなんじゃないだろうか
オマケに先程からの
§
すべての旅はテレマークの旅だ
そう言ったのは確か
フランスの思想家ミシェル・セールだった
映画『スタンド・バイ・ミー』(1986)
だがこれをMEMOした直接的動機は
映画『リバーズ・エッジ』(2018)
私は現在文学部教授で
さらに言えばセカンドキャリア
東京郊外の私大で二年目だ
二次性徴の戸張口にあったあの強烈な夏
異性のコープスの領有
仏文である私は当然
ボードレールの「腐肉」なども論じ
講じ
エッセイなども多数著すことになった
上記諸作品で性が微かに躱されてるのは
抑制ではなくフロイト的二分法に
つまりエロス
タナトスの二分法に
未だ捕らわれてるからではないだろうか
私たちの場合たとえばあの小柄な少年は
あの森で最初の精通を迎えた
彼こそ私たちの
一周遅れのテレマークだった
私たちもまた
直接あれに挿入することはできなかったが
主として顔と胸とに放った
リーダー格の少年はユーリンまで放った
さらに言えばウジが湧いても
私たちはあれを手放すことができなかった
やはりあれは水沢先生だったのだ
課外授業は秋まで続いた
あれ程臭かった先生のコープスをなぜ
私たちが秋まで保持することができたのか
おそらく別グループの少年たちも
先生の課外授業を受けてたからだろう
皆それぞれ
ひょっとして鳥撃ちに入ってた大人たちも
死体遺棄
死体損壊
死体凌辱
私は法学部とは相性が悪いのだが
どれも皆重罪だという
だが既述のように大目玉で済んだ
やはり大人たちもまた
先生に対し
それぞれ事情があったのだろう
先生がああしてブラさがるに当たっても
第三者の関与が推察される
ハゲブタだろうか
四苦八苦しておろしたあの先生のコープス
そして
言ってみれば最悪の異性性器との初会見
だがあれで不能になった奴はいない
むしろ皆充実した性生活を送ったようだ
先生のあそこへの最初の正対は
実は私が果たしている
ドッジボール
野球
サッカー
全滅
少年グループでは常に下位5%だった私だ
それはその日の偶然の流れだった
小柄な少年
そしてナイフの少年が先生の脚を抱え
開脚させる
リーダー格の少年はなぜか膨らんだ顔を
こちらに
どうだ? クリトリス観えるか?
いやもう、なんかグチャグチャで……
グチャグチャ?
それって膣前庭ってヤツじゃないのか?
チビ、拡げるぞ!
小柄とナイフが掌を先生自身の両側に当て
反対方向に引っ張った
ウワッ?
どうした?
凄えニオイだ!
当時すでに乱歩を読んでた私は
屍毒の恐怖に曝された
あれは現在謬説とされてるようだが
その後
先生のそこに大型のハエがたかってきた
払っても払ってもたかってきた
ウジはおそらく
最初あそこに発生しただろう
ところで私は
先生のあそこはもう腐ってるんだろうと
そう判断したわけだが
生体の場合も
形はまああんなものだった
色とニオイはだいぶ違ってたようだが
ねねここ
気がつくと
たくさんの
ねこねこねこ の顔が
寄り集まって
こちらを見ている
何十の ねこねこねこ
何百の ねこねこねこ
の目線が
金色に見つめている
その前を
わたしたちは 右往左往して
追い立てられるねずみのように
暮らしている
あらゆる 石垣の上の空に
あらゆる 境界線の土に
背丈の目盛りを 掘りつけられ
削られた森の 木々の合間に
ねこ ねこ ねこ
ねね ここ ここ
じいっと 動かない 何百の
ねこの目の中には 月も陽もあるから
夜も昼も その目は
閉じることがない
こうしていると もうどこまでが
一匹のねこなのか
空の縁 地平線 あの山も全て
ねこの一部なのだろうか
新月の闇に ねこたちは
溶け合わさり わたしたちへ覆いかぶさる
そういえば ねこは元は海なのだ
だから時々
リビングの椅子や塀や屋根の上で
液状に戻りかけているではないか
ねこたちが いっせいにまばたくと
わたしたちは流れ星を見たという
ねね ねね ここ ここ
ここ ここ こ こ
からっぽの ねずみとりのそばには
大きな爪が
だまって置かれている
3巻目くらいの話
まだ暗いうちに飛びたったのは太陽がつめたいからだと聞かされた、凍えんばかりに寒がっている星々の間をすり抜けていく宇宙飛行士の話だった、村はずれに行き家並みが尽きるとイボだらけの山がゆりかごのようにふたりを揺らして、氷になった太陽にタッチしたのはとても遠い弔いのようだとおもった、毎日のように後悔をしている、愛猫もいなくなって世の中のことといえばまるで、まるで詩のようだ、
雨に唄う
うなだれた足元染める黒いしみ
身を知る雨に濡れて唄えば
激安王の孤独
せやかて、
テレビで見た
とガンダーラで言うと割り引かれるような
人生だ、と
誰しも他人に言われたくはない
走馬灯込みで俺の人生は
あまり美味しそうではないな
かといって
食レポをせずに
素通りしてしまうのは
あまりにも仕事を舐めすぎているかもな
と、思ってしまうので
「優勝みたいなものです。」
と、目線をあわせずに言う技術くらいは
俺にだってある
精進料理ばかりを食べ
非マッチョな坊さんが俺に値札を貼る
「ダマって
ハゲとけばいいのに。」
とか、屋上から言うなよ。
単純な暴力が届かないじゃないか。
俺をこれ以上、悪い人にしないでくれよ
俺が首輪をつけてる理由だって?
そりゃあ
俺だって死んだご主人様を駅前で従順に待ち続けたっていう美談のひとつぐらい
そりゃあ、ほしいがな。
わらの家
わたしの娘が「建築」だったと知らされる時わたしは書類を書いては「手続き」になっているから、妻に
確かめようと電話する電話口から噴きこぼれる汁、今夜はカレーかカレーじゃすぐに電話出られないよな
「パパ?パパ?父上?」三上君、会社じゃ子供にパパと呼ばせるなとあれだけ言ったじゃないか、ちゃん
と別れる、んじゃないかなたぶんそうだカレー好きだ好きうん、ね?うん、ね?うん、しかし今日もこん
なに遅い時間になってしまった帰るか帰る今日、カレーじゃないのか?カレーでしたよもう食べましたよ
マサオコレチカと。マサオコレチカ?そう、マサオコレチカ。浮気?浮気じゃないですよ、遊びですよ、
おとうさん。床の下からコレチカせり上がる、奥さんを僕にください。(モノの話?妻はいつのまにやら
プラスチックの相貌に熟成を終えていた)お父さん、新しい父親はこの人がいいよ父さん、誰だ?息子だ
よ俺、だけど産んだ覚えがない
妻「わたし、産んだけど?」
私「いいや、知らんけど?」
息子「勘当したじゃん?」
私「そうだけど?」
娘が尖る、尖りたるだよ、かあさん みーこ、とがってない?聞こえているのかいないのか返事をするのは
煮沸の音、消毒だけで人生を終えようとする煮沸の音の音しかししかうま俺も娘も妻も非公式息子もコレチ
カも三上君たちもどこもかしこも尖りたる(もしや、角と角の凹凸が実はパズルのようにハマるため?)と
思ったが決死の覚悟でどの家族にどのタイミングで体当たりをぶちかませばいいのか正解がわからない体当
たりに失敗したとしても家屋は金属バットが外壁のあらゆる瑕疵から一斉に生えるだけで家自体はけっこう無事
Q、飢えは大水、舌は大火事、なあんだ
A、かなり無限小なるapocalypse
お弁当
冷めてもなお
美味しく
食べられるように
工夫してある
ずっと隣にいて
手を差し出す私は
そんな簡単で
いいんだろうか
よく
わかってるつもりでも
私は 勝手に
今日が最後かもと
叫びそうになって
箸を止める
信じるのが
なぜこんなに
難しいのだろう
冷めても美味しい
お母さんは
そのことを言わなくて
少し微笑みながら
蓋を閉める
LOVE ME TENDER
心の中の埃を払い落とすように、お風呂でお肌をスリスリと
シャキッと気合を入れるように、両手を合わせてモミモミと
ナイーブ照れを現すように、両指合わせてモジモジと
肌艶色気を増すように、軟骨お口でコリコリと
優しく上手に滑らせるように、お利口頭を撫で撫でと
愛は、センシティブ 時に、優しく
夢や希望を語る時も
晴れた青空、夕焼け雲ふわり
思えば、とおくへきたもんだ
とおくで、カラスも鳴いている
南口にて
新宿の南口でふと目の前にポケットティッシュを出され
俺も彼女に次のライブのチラシを渡そうとしたが
受け取ってくれず
彼女は少し困った顔をしていた
まあ女性を困らすのは趣味ではないので俺はライブのチラシを仕舞い
ポケットティッシュを受け取った
だいたいにおいてハイボールの炭酸により下痢気味であるし
いつか役に立つのかも知れない
ポケットティッシュのなかには芸能人の笑顔と即日50万までOKと印刷された紙が入っていた
俺はその広告だけを抜き取って彼女に返した
困った顔をしていたが彼女はこれを受け取ってくれた。
♡
ハートをね、あかく染めるんだ。
だれかのことばが
きれいだったから
すてきだったから
あたたかかったから
いたみだったから
そっと、あかく染めるしゅんかんに
このきもちが届けばいいなって
ゆびさきから小さく願って
ハートに触れる。
幻惑
青白い霧に包まれて
このまま消えてしまおう
そう思っていた
近づいてくる光に
安堵しながら
冷えた指先を包む
ほんの少しのぬくもり
不意打ちの
唇が触れた記憶
そんなものばかりが甦る
岸から遠くはなれて
それでもまだ
立ちつくして
虚無零域ヲ漂ウ異端赫トノ邂逅 漆
漆
赫眼ノ異端ト吾ガ、
因果ヲ共有シタ始原点以降――
魂脈通信ハ、
永劫ノ如ク継続サレタ。
空白ト化シタ人類史ノ断章ヘ、
新タナ記録ヲ上書キスルガ如ク。
言素ヲ、
音律ヲ、
意思相ヲ。
互イノ魂核ヘ刻印シ続ケル。
彼女ハ依然、
鋼鉄ノ静寂ヲ纏イ、
表情相ヲ変化サセヌ。
サレド、
赫眼ノ燐光ハ、
言語ヨリ雄弁ニ感情ヲ伝播シタ。
歓喜。
悲哀。
愉悦。
孤独。
彼女ハ未ダ、
誕生直後ノ人類ト同義ノ存在。
多層ナル感情構造ヲ、
未ダ獲得シテイナイ。
原始音素ニヨル魂脈通信。
未熟ナル言素。
溢出スル意思相。
彼女ハ、
未ダ世界ヲ知ラナイ。
故ニ吾ハ、
己ガ観測シ得タ全テヲ伝承シタ。
書庫ニ遺サレタ人類ノ記録。
蒼穹。
生命。
文明。
歌。
歴史。
ソレラヲ生ミ出シタ、
母星トイウ名ノ原初揺籃。
赫眼ハ静寂ヲ崩サズ、
只管ニ吾ノ言素ヲ受容シ続ケタ。
未踏ノ母星ヲ夢想シ。
未観測ノ血族ノ安寧ヲ祈願シ。
ソウシテ、
幾星霜モノ時間軸ガ消費サレタ。
吾ノ知ル全テノ知識体系ハ、
彼女ノ魂核ヘ転写サレタ。
断片ハ再構築サレ。
知性ハ相転移ヲ遂ゲ。
彼女ハ最早、
揺籃ノ存在デハナカッタ。
吾ハ初メテ、
長キ演算ヲ停止シ、
僅カナ休止相ヘ身ヲ委ネヨウトシタ。
――ソノ瞬間。
停止シテイタ筈ノ肉殻ガ、
自律演算ヲ開始スル。
白亜ノ線状髪ハ静カニ揺ラギ、
病白ノ腕ハ鋼壁ヲ掴ミ。
余リニ細キ脚部ハ、
震エナガラ重力ヲ受容スル。
息ハ乱レ。
一歩。
又一歩。
彼女ハ、
吾ノ存在座標ヘ向ケテ歩行シタ。
ヤガテ、
吾ノ目前ヘ到達シタ刹那。
赫眼ハ真直グ吾ヲ捉エ。
白唇ガ、
微カニ震エル。
「――オ閠様。」
ソノ音素ガ世界ヘ放タレタ瞬間。
彼女ノ肉殻ハ、
全テノ緊張ヲ解除シ。
存在ソノモノヲ委ネルヨウニ、
吾ノ身体ヘ凭レ掛カッタ。
吾ハ、
初メテ異変ヲ知覚スル。
始原ノ日ニ触レタ、
凍結シタ白肌ハ最早存在シナイ。
吾ノ腕中ニ在ルノハ。
紛レモナク、
生命熱ヲ宿シタ一人ノ少女。
ソレハ、
忘却ノ彼方ニ置キ去ッタ記憶カ。
或イハ、
吾ガ一度モ経験シタコトノ無イ感覚カ。
既ニ判別ハ叶ワナイ。
然レド。
確カニ、
温カカッタ。
吾ハ彼女ヲ抱擁スル。
彼女モ又、
吾ヲ強ク抱擁シ返ス。
弐ツノ魂脈ハ重ナリ。
弐ツノ因果ハ、
共鳴ヲ果タシタ。
ソノ瞬間。
吾ハ覚悟ヲ確カメル。
何ガ起コウトモ。
何ヲ喪ウトモ。
吾ハ彼女ト共ニ、
虚無霊域カラ乖離シ、
母星ヘ帰還スル。
written by "覚醒ノ太亞暴"
青の檻
深海に咲き乱れる
私達は、そう
根を同じくした花
だった
ゆるいうねりに乗じて
精一杯、身を引き上げようとして
きみはいつも足掻いていた
足に絡まる根が
繋ぎとめていたけれど
青い薄闇の中で生まれ死ぬ
きみはそれが
囚人と変わらないと言った
こんなのは間違っていると
生きていない、と
海が終わる場所で
波のセンテンスを見て
太陽の直射を、全身に
そして
この足で
走るのだ、と
それが
生きる、ということだと
絡まる根は足枷(もがいて)
薄闇は目隠し(とざされて)
深海は檻(はしれない)
ほそい足に巻きつく
幾本もの根を引き千切って
きみは
脱獄した
青の揺籃
ゆるいうねりの中で
私達はひとり往ったきみのことを
時々密やかに話し合う
その後の行方を
忌々しさとわずかな憧憬を持って
ここが監獄ならば
私達はどんな罪科を負ってここにあるのか
気づけば足を根に絡まれ
そしてそのまま死ぬ
それのどこが罪なのか
(生きていない)
(間違っている)
いつかのきみの言葉が閃く
(囚人)
母なる深海
私達を捕えて離さない
私達は母のものであり
ああ
母は、私達の全てでは、ない
私は
足を締め付ける根を一本引っ張った
取れない
渾身の力を込めて引っ張った
千切れた
続けてもう一本
更にもう一本
(海が終わる場所)
そこで何をしようとかは考えていない
この揺籃を離れてどう生きたらいいのかも分からない
けれど
きみが話した太陽の光を
私も感じてみたいのだと
この足で走りたいのだと
ここは優しい安らぎの青の檻
けれど
(生きていない)
自力では何ひとつ生きていない
最後の根を離して
私は水を掻いた
海の終わる場所を目指して
静物の地平
檸檬は今にも
飛んでいきそうな色と
形をしているけれど
決して空を飛ぶことはない
朝、テーブルの滑走路で
筆
あの日、彼の存在を認知したときは少し興がっていたのだが、今ではあの時に潰しておかなかったことを後悔している。
彼は私の心か、頭か、神経なのか、少なからず俺の思考に影響を及ぼせる場所にふらりと居座った。考えに嘘を混ぜ、感情に影を巻き付け、それらを脳の隙間から流し込んだ。これらの影響は凄まじかった。授業の間は無意味な妄想が脳の中に散乱し、勉学に気を向けることはおろか、辛うじてこれらを書き留め、吐き出すことで日中を凌ぐ他に術は無かった。毎晩続く寝不足は妄想によって嘘に塗られた情報の真偽や是非を吟味する力を損なわせ、これらの思考に偏執的に縋らせる役割を担っていたように思う。そうして、昼をやり過ごした後にやってくる苦しみの本命。地獄。それが夜間であった。これらの散乱した思考は夜間にのみその本性を見せるのだ。今の今まで向かう方向など放射線のように出鱈目だった考えが、途端に自己否定、自己嫌悪の意志を持って私を苦しめる。彼らの怒号は浴室の中のように脳の中を反響し私の逃避を妨げる。彼が私に宿ってもう三ヶ月になる。その間、私を責める声や思考は加速の一途を辿り、最近は現状への不快感、そして彼への…いや、無力な自分への怒りによって恥ずべき自傷を働く始末である。
このままでは彼に殺される。そう思うことも増えてきた。俺は今、理不尽に第三者から自殺を促されているのだ。こんなことがあっていいのだろうか……。そもそもこの思考の主は自分なのか?それとも何かしらの方法で侵入した他人なのか?だとしたら何故?どうやって?心当たりが一つもない…。ああ、だがもう今となっては何が正しく、何が間違いなのかも判らなくなってしまった。最近の妄想癖が馴染んでしまった私は是を非とし、非を是だと思い込んでいることも在り得るのだから─── いや、そうだ。ここでもし仮に私が自死を選んだとしよう。するとどうだ。俺が自殺を促されていたというのは事実になる。そうとなればこれらの思考を、根源たる主人をどうにかして否定しなければ、撲滅しなければ、そうともなれば───あぁ、そうだ。
「それはできない」
あぁ…そう、ここからが最大の問題点。私の考えはいつもここに収斂し、不意に袖を引かれて踏みとどまるのだ。この懸念に。
油絵だ。ここまで何も上手くいっていない。そんな風に思い連ねてきたが、部活の油絵。これだけは飛ぶように上手くいっているのだ。以前までとは異なる発想。着眼点。奇抜な色遣い。モチーフ。どれを採っても過去最高だ。これらの開花した才能。忌々しくもこれらは、彼の吹聴する妄想や、錯乱した思考回路から湧き出ている可能性が大いにあるのだ。この可能性を、朦朧とした私の脳は今の今まで見落としていたのだ。もともと俺の描く絵は、暗く沈んだ感情から着想を得た空想画で、それらの存在が画面の中にぐちゃぐちゃと散乱している。しかし乱雑、無作為に散らばっていると誰もが見えるそれらは、私に内在する心象と美学に則り、洗い出された構造で、私に言わせれば理路整然としているとも言えるのだ。さらに今回の画面に限って言えば、時に私の中に意図しないような整合性すら見せつけ、こればかりは少し不気味なくらいである。もし仮にこれらの妄想を完全に撲滅し、毎晩の…あの、はっきりとした意識の中で魘されるような自己否定が無くなったとしよう。だが、ふと筆をとるとどうだろう。昨日までの錯乱が、空想が、夢のように朽ち果て、才の華が散ってしまったとしたら────。
これこそ、今まで苦しみよりもさらに己を苦しめる「現実」として私の前に立ちはだかり、私を、私の感情の屍を、感情が先に身を投げた藍色の海の底へと塞ぎ込んでしまうのではないか…そんな気がしてならないのだ。あぁ、どうしたものか────。
これらの自己否定的な感情の主人は、人生の苦しみと共に醜悪、だが私にとってこの苦しみに勝るとも劣らぬ感情。そして、何より真に筆舌に絶する「矛盾」を与えた。
今日も授業には微塵も集中できぬ儘、午前の講義は私の意識の外を通り過ぎた。陽気が生温く、少し不快にも感じるような空気の中、午後の講義が始まる──。
………あぁだめだ。私の聴覚はもはや彼に奪われて、代わりに注ぎ込まれるのは断片を継ぎ接ぎにこじつけられた情報の渦。そして、頭の中に流れる不純物にまみれた神経系の濁流。いまだ不明瞭な彼の目的と、この脳の暴走を止める術を持たぬ無力な自分への憤りが込み上げる。それらは瞬く間に脳から溢れ、垂れてきて、脊髄やら何やらを散々に汚すのだ。仕方がない。これらを手から、指から吐き出す。さもないとどうだ?あの、追い炊き半ばの風呂の湯のような熱くも、冷たくも、微温くもあるような紺藍。それらが私の指に、関節に、甲に劇的な水圧をかけ、そのぐっ、とした圧力は攻撃の意志を持って私の頭に襲い掛かる事も十分に有り得る。講義中だ、人前だ、このような理性的な論理でそう易々と抑え込められるものでは到底ない。こうする他に仕方が無いのだ。
私は徐に筆を採り「一人寄せ書き」を始める。
『不論は御存を殺すんだお☆←スィテーノグイはルギィテ…結論、不腐なんだぁ~ ぽりが~』『血漿生肉兼カルシウム培地兼ゴム製血球黒労働管の俺w』『薪水給与令、吠える!吠える!泣く!老いる!老いる!泪く!濡る!6×10の23乗(泣泪濡漏涙)』←これを書いてる俺の右手(泣泪濡漏涙)www『これ通過するとどうなるの?w』『脳細胞が三角形になるよ♡(規制済・共洗)』『はえ~六角融波器w拍手魔は誤差は1ml以内と言ってるんレジ♡(規制済・共洗)』『あかちまる!錆錆なの!!ごすごしゅすゅるち!!けつ!!はらはれぇ…?!あが…が…苦じい…おご…乙さん、逃げないでぇ…』『星は一つの細胞!氷塚には曇りの殺虫剤!冷えた地球は欠けた花弁!凍ってなお、枯れたセントラルドグマの肺呼吸は全米の麦芽糖を三分の二に焼き尽くす!』
ごちゃごちゃと脳の端から流れ着いたものを書き留める。吐き出す。当初は一瞬の気休めにしかならない、そう思って始めた苦肉の策だった。しかしこれらの効果が案外、侮れ無いことを最近になって気づいてきたのだった。
冷静に改めて見れば怪文書もいいところだ。「精神異常の連続殺人犯が被害者遺族に送り付けた浅ましい自己満足」と説明書きが添えられていれば疑う者は居ないだろう。そう、俺は特別病棟のベッドに拘束された気狂、もしくは懲罰房に押し込められた人の生を踏み躙ることに快楽を覚える人でなしと半ば、同じような思考に近づいているのだ。
いや、違う。これらは彼の思考だ。俺じゃない…。あぁ、いや…。それは外界からはわからない。よって、これらを外に出力してしまっている時点で他人から見れば、俺は、前述の奴らと一緒くたに扱われても仕方の無い人間ということか…。
はぁ、瞼が重いな。私は急に、先程からの日差しが心地よいのに気が付いた。眼前の葉桜はのびのびとして初夏の訪れを感じる。何だかうつらうつらとして、今なら安眠できる。そんな気がしてくるのだった。目下に寝かされた書き殴り。何故だろう、これらを見ている私はニヤリとしている。最初は「彼の錯乱から逃げるための苦肉の策」だったはずなのに。何故だろう。私はこれらを書くことを少し楽しんでいるようだ。なんだろう、この満足感。達成感。下らない妄想に飛躍した論理。これらを、どこかしらから諧謔交じりに嘲笑したりして、変に楽しくなっているのか?それとも、他人と違う思考回路を得たと勘違いし、空虚な優越に酔っているのか?はたまた、遂に彼の攻めに心が屈して、少しでも自己を防衛する方法を模索し始めたのか?わからないが、彼の声も一時止み。単純に快い。あぁ、そうか。この「一人寄せ書き」も私は失いたく無いのかもしれない…。あぁ、本当に、どうしたものか。思考が回らない。とてもではないが…いや、とても睡魔に勝てる気がしない。久しく訪れた心の安寧に感謝して、暫し休憩しよう。
─────────とんとん。
「あのさぁ、さっきから授業聞いてないでしょ。ねぇ。さっきからなにが面白いんだかニヤニヤしてさ、え?なにこれ、ノート執ってないの?君さ、どうゆうつもりなの?」
いつから後ろにいたのだろうか。相当に苛立った教師の声が鼓膜を振動させる。
「あ、す、すみません…。」
言葉がどもり、自分でも思わないような素っ頓狂な声が出る。
「すみません、じゃなくてさぁ。君さ、高三の自覚ある?無いよね。何?授業中に遊んで、寝て。え?」
「本当にすみませんでした。以後気を付けます。」
精一杯の謝罪を述べる。しかし、何だか変だ。周りに寝たり、遊んだりしている奴らは探すまでもなく山ほどいる。どうして自分にこんなに白羽の矢が立っているのだろうか?そもそもとして、ここまで気性の荒い人柄だっただろうか?まぁ、俺の授業態度が鼻につくのは当然か。
「以後とかじゃなくてさぁ。はぁ…もうさ、この際だから言うけど、君みたいな奴が社会をダメにしていくの理解してる?正直、君みたいな人間はさ、どこの社会でも必要とされないゴミなんだよね。あ、これは俺のやさしさね。ねぇ、なんでかわかる?」
「………あ、俺が犯罪者と同じ思考だから?」
「は?あぁ、求めているのはそうゆうことではなく…馬鹿なのかな?君さ、周りも遊んでいるのにどうして自分が?とか考えたでしょ?君みたいな生徒がいるから周りも学習意欲を削がれていくの、君が元凶ね?そこに気づかない辺りとか、さっきの返答とか…君「本物」だわ。あぁ、もうさ授業の邪魔だからさっさと出てけ……皆さんも邪魔ですよねぇ!…ほらな。もうさっさと出ていけ。あ、勘違いするなよ。これは私なりの『やさしさ』ね。」
講義が終わった。結局眠れなかった。いや、あいつが寝かせてくれなかったのだ。声が止んだと思わせ、油断した俺の心を確実に壊すために。
────────────あれは妄想だった。
先生は本来あんな人間ではない。あぁ、一瞬でも油断した私が愚かだった。私には彼からの情報を遮る術が無いこと解っていながら、この様である。本当に愚かだ。さらに、今回のものに関しては妄想というより幻聴に近い。今夜は阿鼻叫喚の地獄だと言うことだろう。やはり、この思考の根源たる主を潰さなければ、さもないと…いや、絵だ。絵が…いや待て。最優先は己の命だろう?何を馬鹿げたことを…いや、才が消えてしまえば結局は────。
放課後が訪れる。その後も、散乱とした思考は脳内を錯綜し、ひと時も休まることはなかった。それどころか今日の夜、私は殺される。そう概ね確信できるほど、今日の彼は一段と声を荒げている。夜の帳が下りると共に私の命は潰える。この妄想がシミとなって、脳の深いところにすっかり浸み込んでしまった。今夜なら、脅迫観念にすら駆られて、それがあたかも美徳かのようにうっかり命を落しそうだ。私はこれらに、もうそれは酷く脅かされてしまった。日が堕ちるのを拒んだ。時の流れを拒んだ。思考の逃走は一向に叶わず、放棄しようにも浸み付いて離れず、だんだん訳が分からなくなっていった。ただ水の流れるのを眺める。下駄箱を何度も開ける。腕時計の電池を抜く。トイレの個室を出入りする…。こんな無意味なことを繰り返している内にも、恐怖は音を立てて大きくなっていた。現実逃避なのか、ついに気が狂ったのか、とにかく衝動に身を委ね、理性は最早使い物にならなくなっていた。
そんな具合で私は衝動的に部室に向かう。油絵の具の匂いが濃くなるに連れて、胸のあたりに一筋の安堵が辺りの空気とともに入ってくる。散漫とした教室の隅、死角に追いやった画面の前に私は座って、筆を採る。まずはテレピンで、プルシャンブルーとバーントシェンナを一対一に溶いて、乾きかけの画面に躍動的にぶっかける。そして暗く乱雑な影が、猛攻のように光源に突き刺さる。血の巡りを感じる。凄く良い。右手が熱い。高揚感と暖かい血液が、しっかりした心臓から押し寄せるのを感じる。やはり彼は脳に居ついているのだと、ここで私は理解した。今の私は多分、寄せ書きでは吐き出せない量の濁流を、筆の先から思い切り吐き出しているのだろう。注射器に近いのだろうか?いや、そんなことは今どうでもいい。やはり彼がいなくてはこの絵は完成しない。期限はあと十日程だ。この際、ここだけをやり過ごせば最悪、彼を殺してしまっても構わないか?いやどうだろう…。もう一振り、二振り。ぼたぼた音を立てて、脳から垂れる黒い液体が可視化されたようだ。ぐちゃぐにゃ錯乱して、散々に散乱した思考から、また新たに可笑しな考えが生まれる。嗚呼!そうだ。流れる情報を快と不快の正と負に別けて、稜線を零に定めて線を引いてやろう。心電図のような線が引ける。そんなイメージが視界を揺らす。
チューブから思い切りチタニウムホワイトを絞り出し、碌に油もついてない大きな平筆にべったりつけてやる。冷静にこんな量使い切れない。だが、そんなことはどうでもいい。にやにやしながら画面に筆を付ける。『カード衆の視覚の交換率の総和』これは正だろう。『クローゼットに隠れた偉い人』可哀想に。孤独がどれだけ辛いか忘れかけていた。負だな。『星蒔きコオロギのグリル講座 講座番号03』グリル講座かぁ。家庭科にはあまりいい思い出がないからなぁ。負だな。『ルルネルルネーのFULW心理学』流れの心理か。正だな…『サイバー裁判でサイバーグ』負。『有明の塚の惨事』正。『イーゼル菌の木製猛省謝罪会見』負。『狂、骨、の、胸、骨』負。『ランドアウェイの見ざる聞かざる岩猿の法則に従ってAボタンの運動を繰り返す左翼の悪魔』負。『号ルドン名号ルが残した軋轢』負。『赤舌に殉じる白容裔の灯無蕎麦的空虚感』正…。
どれだけ経っただろうか。白い絵の具は、先程のバシャバシャとした影と混ざり合いながら画面を滑って行った。右上から刺す光源よりも目立つこいつは、光源とは一つも関係が無いため、子供の落書きか、誰かの悪戯のように見える。しかし、最高だ。花のように見える。とても綺麗だ。彼の思考、妄想はやはり必要だ。この一筆、この才。やはり手放し難い。だが、慎重にならなければ。画面から手を放す際、少しでもはみ出せば、稜線を跨いで最も暗い空洞にかかり、その存在がまた一段と浮いてしまう。いや、この場合はそのほうが好ましいのかもしれないが、それは許せない自分が居るのだ。手先が震える。正直、油絵は上から何度でも書き直せる。ここで万が一失敗しても、上から塗れば。いやいや、この油断はよくない。もっと慎重に。しかし…。
こんな興奮した状態で、冷静な筆運びができるか?そもそも、先程、自分のストロークを才などと形容したが、さすがに豪語では無いか?先程の気狂じみた散文の数々はどこからわいたのだ?彼の声は今しがた途絶えていたように思うが…。つまりこれらは私の思考か?自己否定、散漫な思考、それに次ぐ寝不足、幻聴…。これらは私に居ついた第三者の仕業ではなく、俺の一人芝居…希死念慮の表れなのか?つまり…私は死を望んでいるのか?何故だ?何故だ…?最初から気づいていたのか?いや、そんなわけがない…。何故気づかない?あぁ、そうだ。そもそもの思考が浅はかなのだ。もうちょっと考えれば、のちに書き直せる保障が無いことくらい馬鹿でもわかる。期限中に絵の具が乾かないかもしれないし、画面が倒れて全体がぐちゃぐちゃにぼやけるかもしれない。最悪、筆を放した途端、その瞬間を境に画面に絵の具が絶対に乗らなくなる可能性すらある。それになんだ?この画面の有様は。他者から見れば何が何だか解らない抽象画のなり損ない。私はただただ奇を衒おうとする自分に酔っているだけなのか?作品自体も破綻した論理展開を芸術だと言い張っただけの、ただの寒色の塊だ…。まるで、私が日ごろ理解を示そうとしなかった現代アートのようだ。こんな、私のような人間が周りにいれば、一生懸命に美の道を志す他の部員からすれば不愉快この上ないのではないか?デッサンはしない。参考資料もない。部活動にはとことん不真面目で、美術史も知らない。考えれば考えるほど、私の行為、思考は日ごろ忌避していた最近の現代アートと同じ…いや、それ以下の代物で…。私に芸術を描く資格はおろか、芸術を語る資格すら無いのかもしれない。
結局、私は何一つ手にしてはいなかった。頭も悪い。一般受けもしない。技術もない。なのに、無意味な線を刻んだ筆は、未だに画面についたまま離れずにいる────。
あぁ、死のう。潔く。俺の人生は空虚だった。俺の全ては快楽殺人犯となんら変わりない浅はかな自己満足だった。最後に油絵を楽しめたのが唯一の救いだったのかもしれない…。
楽しんでいた…。楽しんでいた?そうだ…私は楽しんでいた。先程までは、胸から血が上り、気分が高揚し、大変快かった…。それが本当の私ではないか…?そもそも絵を描くというのは私の中では娯楽であって、何も美大やらに進学を志す人間でもない。ならば、楽しければいいのではないか?寄せ書きだってそうだ。楽しければいいではないか。そうか、私は油断したのだ!油断を悔やんだばかりだったのに、またもや油断してしまった…。私の脳は腐っているのか?腐れ脳みそか?嗚呼!いやいや、多分この思考は彼の思考が侵食して来たに過ぎない…。そうだ、そうだ。そうに違いない!今までの残酷な自己否定、自己嫌悪は彼の仕業だ。筆を採り始めてからの、あの気狂じみた思考が侵入してきた辺りから、彼はまたもや機会を窺っていたのだ。そうだ。そもそも、今まで色が乗っけられた画面に、次の瞬間色が乗らなくなるなんて可能性などは余りにも非現実的で、考慮すべき問題ではない。そんな、経験論の行き過ぎた懐疑主義的な考えに、一瞬でも振り回されたのか?馬鹿馬鹿しい。第一、創作活動はもとを辿れば全てが自己満足に帰結する。はなからこれらは、他人の目を気にしてするものでは無いではないか。そうだ、そもそも、俺の思考の他人に見せないところを盗み聞きして、批判の材料にしていたら、誰でも批判し得るだろう。資格が云々だとかこいつは言うが、こいつが決めることじゃ無いだろう。つまり、こいつの思考は、不当に俺の生命を脅かした。こいつの方がよっぽど浅ましい犯罪者だ。今まで心に、頭に、神経に沈殿していた、激しい怒りが込み上げる。よし、こいつを撲滅してやろう。そうと決まれば、こいつに自身の矛盾をまざまざと突き付けてやって、こいつを追い込んでやるか。いかに非現実的な、飛躍した論理展開をしているかを怒号のように浴びせかけて…。そうだ。こいつが俺にしたように、こいつを自責によって圧し潰してやろう!この筆を画面から話したら最後、それが合図だ。彼の始めた攻撃を逆手にとって彼を滅してやろう。いや…あぁ…いや、そんなことが…可能なのか?彼に心があるか確証があるわけでは無いし、無駄に体力を消費するだけだ。時間もかかる。…糞が!何故だ?理性と憤りが無意味に拮抗しあって、とてつもなく不愉快だ。早くこいつを潰したい。殺してやりたい。なんだ?何を躊躇う必要がある?こいつは自己否定の根源。生命を脅かす存在。散漫な思考の主。寝不足も、あの、はっきりとした意識の中で魘されるような地獄がこいつを殺してしまえば終わるのだぞ────。散漫な思考……?あ、あぁ…?いや…そうだ…。油絵を楽しめていたのも、今回が最高傑作なのも、彼のおかげではないか。
これはもう可能性ではない。確認できた「現実」だ。彼を殺してしまったら、この絵は半ばで枯れ落ちる。それが確定してしまったのだ…。今、彼の声が聞こえないのは何故だ?再び期を窺っているのか?私の思考がここに着地することを見越して?再び襲われたら、私は、死ぬのか…?それだけは避けなければ。どうすればいいのだ?私も負けずと対抗して中和を…いや、無理だ。身体の底に沈殿したこの重み…この仄暗い熱は、到底抑えきれない。一度でも攻撃を仕掛ければ、それは、先程の影よりも勢いをつけた猛攻として、完膚なきまでに彼を滅し、屍を潰し、完全に亡き者にするだろう。仮に、その初撃がどんなに情けない、弱弱しい一撃だったとしても。それどころか、潰してなお収まるところを知らない怒りが、私に矛先を向け、彼以上に私を責め立て、殺されてしまうかもしれない。更に、それを回避できたとしても、怒りに囚われた私は、以前の私とは違う何か別のものになってしまうかもしれない。筆は未だに画面に張り付き、辛うじて路線からはみ出さずに持ちこたえている。もう何もわからない。この一筆を放してしまったらどうなるのか。一体どうなってしまうのか。ぼたっ、彼の意識が画面から零れて、私のつま先に垂れる。黒い靴に彼が染み込み、光の反映も薄れ、無くなっていく。二、三回この流れを見送っている内に、存在感を強める強い感情。私はそれに薄々気づいていた。八方塞の今、一度抑え込こんで、そのまま立ち止まっていれば良いものを。先程、彼を潰さんとした内なる自分が、自らの体温で溶かしたように顔を歪ませた異形なる怒りの意志が、無視できなくなってきたのだ。筆を放したが最後、彼を滅すると定めた意志はもう、留まることをしない。心身を軋ます感情は理性では止められない。もう時期、これは破裂する。それは直近の私の衝動性が示す様に明らかだった。彼にこれらを向けない。唯一の打開策はこれしかないが。ならどうする?あと矛先を向けるとしたら、自分か?他人か?…脳が諦念で埋め尽くされ、熱湯が腕に込み上げる。腕が震える。あぁ、この一筆も、もう時期ずれる────。
バサッ ズザザザザザザッ ガッ ガッ シュッ
私は、何をしているのだろうか。気づけば筆は離れ、画面には白が、荒々しい音と共に塗りつけられていく。これは私の意思ではない。かといって彼の意思でもない───。感情の意志か。そうか…。どこにぶつけるのかなんてものは感情本人が決めるものなのか。彼でも、私でも、他も誰でもない。感情はその矛先を画面に向けたのだ。先程の一筆も、今までの画面の構成も、コントラストも、自ら散々に荒らしていく。彼の本体とも言える藍色の水面は、塗り付けられた肉厚で金属質な憤りに混ざり合い、覆われていった。徐々にコントラストの薄い場所、激しい場所ができていき、ペインティングナイフで怒りを剥がすと、画面の中に散った彼の残滓が薄い影を残した。
作品は、制作者しか原型が分からないほどに荒れ果てて、時間が経てば、私もモチーフを思い出せなくなるだろう。作品を自らの手で半ば破壊してしまった。しかし、心とは奇妙な奴だ。この瞬間。快い。大変快い。この「矛盾」した感情は、まさに筆舌に絶する。彼の本体とも言える藍色に染められた思考の産物と、自分が彼に向ける堅く金属質な感情。これらが、この画面の中で一つになっている。気づけば、パレットにあれだけ出したチタニウムホワイトは既に尽き、画面内の藍色は殆どが白にかき消されていた。空筆になってしまった筆を使い、残った藍色を引き延ばしたり、白色を削ったりして、僅かに残った彼には影の役割を担わせた。この頃には、画面を遠くからじっくり見渡すことができるほど心は冷静さを取り戻し、ぽつんとした静寂のみが訪れている。何歩か退いて遠目で見るこの作品は、もとの影が薄っすらと消えていき、中央の青に満たされた口内に吸い込まれていくような、そんな風に見える。あぁ、この、荒らされ、壊された、数十分前までの私からすると不本意極まりないこの画面。当初、モチーフを考え、構成を考え、乱雑と丁寧の間を縫って、今まで描いていたもの塗りつぶされたこの画面。それが今、この時間だけは、喜ばしく、非の打ちどころが無いほど素晴らしく感じてしまう。他の部員が片付けを始める中、私は恍惚として、我を忘れ、ただ立ち尽くしていた。チタニウムホワイトはこの調子では一週間は乾かない。部活動は当分中止して、残りの数日の加減で加筆するとしよう。
満足感と達成感に包まれながら道具を片付ける。体の動きがスロー再生のように感じ、思考が鈍り、疲れが急に姿を現す。そうして酩酊したように部室を出て、亀のように春風の中を歩き始めた。ぼやけた烏が視界をコマ送りで遮り、その頃には四肢、末端とは対照的に、心はあの作品の数多の崩れた解釈に騒ぎ始めたのだった。それらを頭に留めながら、先程とも、遥か前とも思われる混濁の荒れようを回想し、私は自らの弱々しい紺色の影に目を落とすのだった。
────────そしてその後、画面に筆が触れることは無かった。
人間、この殉ずる者
目眩を感じる 舞台の床がなくなった
自由という名の宙ぶらりんに身をまかしてた
何かをしたい自由を欲してたが
次第に
何かをしない自由を求め始めた
求め始めると自由は耶蘇めいたものになっていた
耶蘇めいたものは宿命になった、役割になった
演劇・不完全な僕ら
不完全さの隙間に劇的な生き甲斐が生まれた
人間、この劇的なるもの
今はただ定められた運命の隨
浄化
精神的な病に取り憑かれたあなたは
私の気儘な言動に救いを見出した
死ぬことが唯一の希望だったあなたは
私の言葉に安らぎを感じていた
窶れ荒んでいくあなたは
私の心配に苛つきを感じていた
クスリと酒に沈んでいくあなたは
私の優しさを敵愾心だと受けとっていた
棺桶の中のあなたに
私は後悔を感じ消えることのない思い出を遺した
去り救われたあなたに、生まれ変わってもお互い二度と巡り逢うことがない事を祈りながら
マレビト潭
明治十二年の一月頃〇〇の里村にて齢十五となる一人の少女が行方不明になりしといふ。その村にて、その子が最後に書きしといふ日記を見せてもらひたり。その日記は、捜索の最中、叢にて発見されしものなり。以下の事が記されてひた。
―常世から来たる、と皆は言ふ。けれども私にとつて、あなたは来訪者ではなかつた。あなたはこの里の闇の奥、時間の襞の向かふに、はじめから坐してゐた存在であつた。私はそれを、名もなく、理由もなく、ただ知つてゐた。
朝から胸が落ち着かなかつた。母の形見の櫛を手に取つては戻し、白い小袖の襟を何度も整へた。鏡に映る私は、村の少女の顔をしてゐるのに、どこか閉ぢこめられた山鳥のやうに見えた。なれぬ手つきで身を飾るのは、誰かに見せるためではない。あなたに見つけられるためであつた。あなたの眼差しの中に、自分が収まるのを、私は待つてゐた。
もてなしの支度と、外から見ればさう思はれたであらう。けれども私の胸の内にあつたのは、迎へる心ではなかつた。連れ去られたいといふ、声にもならぬ願ひであつた。神隠しとなれば、里は騒ぎ立つ。だから私は、誰にも言はず、自分の心の奥にさへ、それを名づけなかつた。ただ、歩き出すよりほかなかつた。
夕暮になり、里の境を越えた。怖れは確かにあつたが、足は止まらなかつた。私の身体は、もうこの世のものではなくなりかけてゐるやうに思はれた。ひとりで走りながら、ふと気づいた。私はあなたのもとへ向かつてゐるのではない。あなたの方から、私が呼び寄せられてゐるのだと。
此処ではない何処かへ、と心が小さく囁いた。この現の場所では、私は使いふる回されてひとり悲しく死んでしまふ。あなたへ向かふ想ひだけが、闇の中でも迷はず、ひそやかな光を放つてゐた。
もし、あの世であなたに染められるのなら。名も、家も、人としてのこれからも、すべて置いてゆけると思つた。生きることがつらいのではない。ただ、生きてゐるかぎり、あなたから離れてゐることが、どうにも耐へがたかつた。
磐座に、あなたは坐してゐた。そこから先は、あなたの妣の国、死んで帰る場所であつた。風は音もなく、石は思ひのほか温かく、時間は流れるのをやめてゐた。私はその前に膝をつき、名を告げることもなく、ただ息を合はせた。そのとき、久遠に続く恋慕といふものが、言葉ではなく、身体の奥に沈んで来た。―
その後、少女は行方不明となつた。里の者たちは探したが、つひに見つかることはなかつた。この来訪者の存在と少女がその来訪者に恋慕してゐたりといふ事を知る者は、村の中に、ひとりとしてゐなかつた。