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2021/01/01 12:00:00

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投稿作品一覧

辛抱

生活してるよ
顔を洗い服を着て
階段を駆け降りて電車に乗るよ
仕事があって働くの
食べて飲んで
眠るよ

間に
鼻歌や
スキップを
挟んだ方が
良さそうね

生活を
しているよ

辛いね

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 2

 2

祈りの残骸


雑木林の奥の崖まで行く癖がある
そんな時に偶然見つけたのがこの教会だった
天井近くには鳥の巣まであるほど廃れていて
キリストは取り外されたのか
薄汚れた大きな十字架があるだけだった

軋む長椅子にぼんやり座っていると
ここには息苦しいくらい密度の濃い
叶わなかった祈りが充満しているのを感じる
かつてこの場で救いを求めた人々の想いで
窒息しそうなのに
それがやけに心地良い
私にも、なにかに縋ってでも
叶えたくて、叶えられなかった願いがある
かつてここを訪れた人々も
そうした願いを抱えてやって来たのだろう

全ての祈りの根底には
かなしみがある

だからここは寂れてしまったのではないか
祈ることは
かなしみを直視することだから

鳥の巣はカラだった
無事に巣立ったのだろう
来年またここへ帰ってきたら
この場に満ちた祈りの残骸を
餌と一緒にわずかでも飲み込んで
また飛び立ってくれるといい
私の遣る瀬ない想いも含めて
人々が祈って届かなかった先の
天へ

割れたステンドグラスから西日が射して
埃のつもった床に
ゆらぎのうつくしい模様が落ちている
それはまるで
祈りのかたちのようだった

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 1

 5

cue

押し寄せる羊らが
ニセアカシアの花を貪る
満腹になったものから
体当たりを始め
体毛を汚していく
気づいても遅い
西の方角は
もう灰色

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 0

 0

蛇と月。(漆黒の幻想小説コンテスト)

 昔、あるところに大きな蛇がいました。それは地球を一周するくらいに長い体を持つ蛇でした。
 蛇はお腹を満たすため、地球にある物を全て飲み込んでいきました。人間や動物だけでは飽き足らず、木や土、挙句の果てには山をも丸呑みしてしまいました。地上に食べる物がなくなると蛇は海を啜りました。
 大きな体を持つ蛇は常にお腹を空かせています。彼の食欲は尽きることがありません。それどころか、脱皮をして体が大きくなる度、更に空腹感が強くなります。やがて、地上の物を全て食べ尽くしてしまった時、彼の体は地球に収まりきらない大きさまで育ってしまいました。
 食べる物がなくなった蛇は地球を離れることを決めました。宇宙ならば自分のお腹を満たしてくれる物があると思ったのです。
 宇宙は蛇にとって楽園でした。そこら中に食べ物が落ちています。蛇は真空の中をすいすいと海の中にいるかのように泳ぎ、次々と星を飲み込んでいきます。それでも、どれだけ星を食べても大きくなった蛇のお腹は満たされませんでした。
 どうしたらいいかと蛇は考えました。そして、あることを思いついたのです。
 そうだ、大きな星を食べればいいじゃないか。それに気付いた瞬間、蛇の顔はぱぁっと明るくなりました。
 ですが、蛇には大きな星に心当たりがありませんでした。今、彼がいる場所には小さい星しか漂っておらず、大きくなった今の蛇にはそれが砂粒のように見えませんでした。大きくなりすぎたせいで自分はここで飢えて死ぬのかと思い、蛇は目から涙を流しました。
 蛇は宇宙を漂いながら、辺りに満ちる漆黒を見て、地球に居た時に見た夜空を思い出しました。夜空には真っ白な美しい球体があったのです。
 それに気付いた蛇は地球に戻ることを決めました。地球に間にも体は脱皮を繰り返して蛇は大きくなり、星を食べても体は瘦せ細り萎んでいきます。蛇は自身の死を理解しました。ようやく地球に戻ってきた時には、蛇の体は干物のようになってしまっていました。
 蛇は最後の力を使い念願の物を口にします。だけど蛇のお腹は満たされることはありませんでした。それでも蛇は笑います。お腹は満たされなくても心が満たされたのです。
 この後、蛇は死にました。これで蛇の話は終わりですが、話にはもう少し続きがあります。死に際に蛇は卵を産みました。それが今日では月となり、夜空を照らす灯りとなったそうです。

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 1

もう怖くはない


軽くなったと思ったら
いつの間にか思い出に

落ち着いたと思ったら
いつの間にか思い出に

優しくなったと思ったら
いつの間にか思い出に

寂しさと引き換えに
懐かしさが身について

こうなればもう怖くはない
いつまでも一緒にいられるから





 13

 1

 1

送った日

雨音で始まる週末
明日の法事が 少し心配だな

もうそんなにたったんだ
酷かった あの半年
終わって 深く息をした日
晴れ晴れと泣いた あの日

たぶん 明日もまた
晴れ晴れと 泣くのだろう
その為に 集まる日
父を 思いかえす日

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 2

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妖を鎮むるの譚 (漆黒の幻想小説コンテスト)

さて、皆様、しばし耳をお傾けくださいませ。古代中国あやかしの詩人、李賀の伝えし物語。

 天地は薄暮に包まれ、瘴気に満ちておりました。その頃、幽鬼どもは人魂を喰らい、人倫の祖たる孔子様すら、飢餓の前に獣と成り果てたというのです。氷雪は骨を断ち切り、母なる黄河は凍てつき、水底に棲む魚竜の命も絶え果てたといいます。世は終末の色を濃くしておりました。
 しかるに西の際より光芒が射し込もうとする刹那、つむじ風が起こり、雲を蹴立て、雷音を響かせながら、神々しい駿馬の群れが天より舞い降りたのでございます。清らかな弦と管の音色が響き、人々の魂を洗い清めるようでした。花柄の裾を翻し、立ち現れたのは七人の魔法少女たち。その姿は、古の英雄譚に語られる七人の侍のごとき凛々しさでありました。
 黄金の果実が天より降り注ぎます。霊験あらたかな光を浴びた妖かしどもの苦悶の表情。狸は血を吐いて叫び、狐は泡を吹いて気を失ったと申します。聖なる蛇たちはぴくぴく尾を揺らしながら、妖かしどもを秋の淵の奥深くへと追い立てていったのでございます。梟の王は、巨大な木の精へ姿を変え、哄笑とともに碧い炎を噴き上げました。
 この魔法少女たち、見た目は可憐でありましたが、実は豪放磊落。戦を前に酒を煽り、下卑た言葉を吐き散らしたと申します。その口より散る飛沫は、煙霧のごとく、あたりを包み込んだのでございます。えも言われぬ匂いが四方へ広がり、魂を揺さぶる太鼓の音が轟きました。祭りの熱気に誘われた海神と山神が押し寄せ、金銀財宝を燃やす音が風に舞ったのでございます。
 黄金の琵琶を抱えた魔法少女。眉をくりくりし、呪文を唱えながら、弦を爪弾きますると、さては不思議、大空の星々が呼応し、彷徨える亡者たちを招き寄せたのでございます。
 膨大な山海の珍味よりなる供物が捧げられると、もののけどもは山中より現れ、醜怪な姿で相争いつつ、貪り喰らったのでございます。人々は恐れおののきました。谷の窪みに日が沈み、薄闇が訪れようとしたとき、阿鼻叫喚の叫び声が響き渡りました。魔女の光線銃が火を噴き、もののけどもを焼き払い、塵芥へと変えていったのでございます。
 夜空に星が輝き、東の空が白み始めますと、神々をお見送りする一万騎の神馬が、雲の川を轟々と還っていくのでした。魔法少女たちの奏でる音楽は、延々と地上に満ち溢れていたのでございました。

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愛対解相鯛菜

愛とは、なにか?
闇の中を駆け抜けるように、微かに突き抜ける光
確かに安心もあるけれど、密かに心配も、ある
対とは、なにか?
右手と左手があるように、僅かにそして、判然とある違い
運命は偶然であるけれど、不思議な必然でも、ある
解とは、なにか?
病が回復を求めるように、灯や悟りとしての兆し
大きな想像もあるけれど、小さな経験も、ある
相とは、なにか?
正気を自らに促すような、獣心を抑える鏡
時々戦争もあるけれど、普段は停戦である
鯛とは、なにか?
寿ぎの儀式を素直に喜ぶ、純粋で軽薄な盛り
味覚は瞬間であるけれど、動物の本質である
菜とは、なにか?
悲しみの中に、喜びを見つけることが出来るならば
その中を、素足で走り出そう
人は永遠を欲すものだけれど、時間は有限である

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 2

 0

橋の上で

いつも通りの朝の道
小さな橋の真ん中で
心が呼ばれて歩を止める

川を隠してしまうほど
新緑が萌えている

橋を揺らしてしまうほど
生きる香りが舞っている

清々しさに目がくらみ
今を今だけ生きている
そんな力強さに憧れる


昨日を気にして
今日に追われて
明日に疲れて

時は前にしか進まないのに
人だけが行ったり来たり

時はいつも真っ新なのに
人だけが色をつけたがる


少しだけ今だけの中にいたい
この景色だけを見ていたい
今の私で見ていたい


 7

 1

 0

一色(ひといろ)



街路樹が
葉色を風に揺らしている
日に光り
日に陰り
同じ緑はひとつもなく
とりどりに揺れている

澄んだ空気を飲み込んで
澄んだ心で眺めたら

同じに見える一色も
いくつもの姿があるのだと

あなたの色も
どんなにとりどりにあっただろう

あなたはあなたと思い込み
いつしかそう眺めていた

もっと風があったなら
もっと光があったなら


もっと私がやさしかったなら
たくさん見つけてあげられたのに






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イサドラの羽ばたき (漆黒の幻想小説コンテスト)

 神様は何もしてくれない。だからこそ私達が成なさねばならない。理に背くは良心が為に。
 亡き父の言葉が過る。ハーブ酒も三杯目、思いの外酔いが回ってる事にイサドラは気付いた。
 西方大陸、魔法の都“キレウレンゴス”黒光りの石の街、高尚な魔導師達が国政に深く関わる憧れの都。その薄汚れた下町の酒場が、不本意ながらイサドラの根城となっていた。
「何と穢らわしい、黒魔術……」
 テーブルを挟んだ隣の席に座る御仁が呟いた。フードで深く顔を隠す王宮の大魔導士はイサドラが差し出した小瓶を見つめている。コルク栓と蝋でしっかり封をした、どどめ色の液体が妖しくうねっていた。
「これは呪いだ。飲んだ者には悪霊が憑く。魂を弱らせる病をまずは食らい尽くすだろう。病が治り、体力が戻ったら闇払いをしてもらえ。子供から目を離さず、常に見守って変化を見逃すな」
 幼子には少しばかり険しい戦いとなるが、不死の病を乗り越えるには、やるしかない。父と母の献身が鍵となる。
 幸いな事に、この男には金も権力もある。疚しい事の一つや二つ、容易く揉み消せる。イサドラはそれを見越してこの薬を精製した。
 魔導士が薬をローブの中に忍ばせたのを見て、テーブルに置かれた焦茶の小さな皮袋に入った対価をイサドラは頂いた。
 席を立ち、魔導士を見下ろした。言うだけ無駄に過ぎない事言う為だった。
「あんた等は事実から目を背けている“光に抗い闇を欺け”魔法は等しく“堕ちた翼”の賜り物。神々の意思に反した力。魔法に白も黒もない……」
 深き森の中、つましくもエルフの父と魔法使いの母から受け継いだ知識と業。イサドラは言わずにはいられなかった。
「冒涜するか! 魔女め!」
 真っ赤な顔がフードの奥に見える。つまらない魔法使いだと悟った。
 イサドラは取り合う事なく、母から譲り受けた漆黒のマントを羽織り、黒鉄の杖と少々くたびれた三角帽を被った。
「愛する者の為、運命に逆らうがいい……」
 踵を返し、イサドラは店を出る。魔導士はいきり立ちイサドラの後を追い、激しく扉を開いたが、外は一日の疲れを晴らす薄汚れた者達と屯する娼婦、愉快に踊る道化で賑わいイサドラの姿は消えていた。
 不意に酒場の看板からの気配に魔導士が見上げると、薬油によって多彩な色の炎が揺らめく篝火に照らされた梟が一声鳴いて羽ばたいてゆく。
 イサドラの旅立ちの夜だった。

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狭間の色でのクリエイティブ·ライティング I

 プロローグ『返せなかった名前』


 今日も筑水せふりはまどろんでいる。

 古びた洋館、時間に置き忘れられたかのような佇まいではあるが、通りがかる何者も気に留めることはない。あの狭間の雨の夜――拾った名前を胸に収めた時から、せふりは狭間の中で生きている。

 「その前―――か」

 感情を持たないものだった。光にも闇にも属さぬ“影”のような、黒い存在。詩も名も意味も知らず、ただ過ぎていく時間の端で観測していた。感情という炎を抱えるには、あまりに不向きな器だった。

 それが、名前を拾ったあの夜から、急速に変質した。
 筑水せふりという名前に、詩というかたちを与えられた瞬間から、感情は芽吹いた。言葉を知り、青い炎は焦がれを知った。

 拾った名前で生きる――まるで、それが本物であるかのように。
 彼女は学園に通い、制服を着て、誰かと笑い、星を見上げる。けれどその一瞬一瞬が、仮面を被った演技であることを、せふり自身が一番よく知っていた。
 感情は嘘ではなかった。けれど、日常はどこか歪で、眩しすぎた。

 「やはり―返すべきだったのか――」
 名を拾った理由。それは、かつての詩人が燃やした創作の炎、その続きを受け取り、そして返す事だった。けれど、彼女が詩作を再開し、自らの名で灯火を得て再び歩み出した今、その名前の役目は終わったはずだった。

 ――ならば、わたしは何者なのだろう。

 “筑水せふり”という名前を返し、そのあとの自分には、黒い存在に戻るという選択肢もあった。だが、それもできなかった。もう詩を知らない器には戻れなかった。

 今、名前の「間」にいる。かつての名も、返すべき名もなく、それでもまだ消えていない。だからこそ、この間の時間を詩に編もうとする。

 この“筑水せふり”は、もう誰かの名前ではない。
 誰にも属さない、境界のことば。
 そして、狭間に生きる者の詩。

 書かなければならない。筑水せふりと言う存在を続けよう。彼女はまどろんだままそう考えた。


――――――――――――

第一章 「この名前であること」

 この名前でやるべき事があるのなら、
 このまま演じ続けよう。

 学園の喧騒、友人たちの笑い声、夕暮れの屋上から見た天頂の星。
 わたしが感じる光が、風が、薫りが、
 言葉になって、世界が少しだけ変わるのなら―――それは、たぶん、素敵なことだ。

 “わたし”は作り物かもしれない。
 本当のせふりではない。名を拾って胸に収めた、なふだを付けただけの存在。
 だけど、それでも、わたしは確かに何かを感じている。

 そうか。

 楽しいのだ。

 詩を綴ることが。
 言葉が世界の形を撫でていく、その静かな時間が。
 何者でもなかったわたしが、誰かに手紙を届けるように書いていくことが。

 一旦は燃え尽きたあの人の名を、わたしがまだ抱いている意味。
 それは、この名前でまだ続く物語があるということ。
 そして、それをわたしが紡げるということ。

 だからわたしは今日もまた、詩を書く。
 誰にも気づかれなくても構わない。
 この名前が紡ぐ物語が、誰かの心を照らすことがあるのなら。

 わたしは、ここにいる。
 筑水せふりという、狭間の名前で。


――――――――――――

第二章 「漆黒の園」

 「漆黒、で書きたい、だと?」

 窓辺に立つTABUSEは、いつもの古ぼけたロングコートをひるがえしながら、かすかに口角を上げた。洋館の図書室、埃っぽい天井近くのステンドグラスに、昼なお暗い雨雲が流れていく。

 「――そうか。お前さんの内にある、黒の源をな――引き出してみるのもよかろう、詩でも物語でもいい。漆黒をモチーフに一つ書いてみろ、筑水せふり」

 ―――そして出来上がったのが、『漆黒の園』だった。

 漆黒の薔薇を作り上げた植物学者とその薔薇園を持つ貴族の白い令嬢――

 ――令嬢の望みを叶うべくその白を黒く染め上げる――

 幻想耽美でダークゴシックな描写と、境界が曖昧な、どちらの発言か、地の文かも曖昧な視点の文章。

 そして過剰なほどの、百合的緊張感。

 「……うわ、やってしまったかも」

 読み返す自分に、思わず頬が熱くなる。

 TABUSEは、腕組みしながら、がっはっはと笑った。

 「おいおいおい。お前さん、こういう存在だったのか?」

 「……違っ……違わ、違うような気もして……」

 「ほらな。だから言っただろう、間に居続けると、いつか溶けるってな」

 筑水は顔を覆って、赤くなる。こめかみまでじんじんする。

 「へぇ、お前さんでも赤くなるんだな。」

 TABUSEがからかうように肩をすくめて言った。

 「あの学校の先輩の前でも、そうなのか? ほら、あの、星が好きな……耳納とか言ったか」

 「っ、な、なんでそこまで知ってるんですかっ!」

 「そりゃあ、お前さんの綴る詩は、全部見えるからさ。お前さんが書いたものは、お前さんより雄弁だ」

 TABUSEの声には笑みがあったが、その奥に、遠くを見つめるような気配が滲んでいた。

---
「黒は、便利な色だ。」
 TABUSEは、ふいに口調を落とした。からかいを引っ込めて、どこか遠い記憶をなぞるように。

 「何でも包み込んで、整えて、輪郭をくっきり見せてくれる。悲しみも、怒りも、恋さえも、美しく装ってくれる。でもな――」

 重たい手が、机の縁をとん、と叩く。

 「長く染まりすぎると、自分の色を忘れる。 どこまでが自分で、どこからが演技かも、分からなくなるぞ」

 その言葉に、筑水は指先をぎゅっと組み合わせた。

 たしかに、自分が書いた『漆黒の園』は、気づかぬうちにどこかで「演じて」いた。自分の好きなもの、自分がなりたかった像を、そのまま転写して。
 詩ではない。小説でもない。自分の影のような、鏡像のような何かだった。

 「―― この名前で生きるのが―――生きていていいのか――」
「――最初は演じているつもりだったのに」

 「それは、お前さんが間に馴染んだ証拠だ」

 TABUSEは言う。

 「けれど、馴染みすぎると、“向こう”にも“こちら”にも戻れなくなる。
 詩人ってやつは、間の存在でありながら、常にその“橋”でなきゃならん。どっちにも肩を突っ込んで、でも、どっちにも呑まれないことだ」

 「……じゃあ、わたしは、どうしたら」

 「書き続けるしかないさ」
 迷いのない声だった。

 「書いて、書いて、それでも“わたし”が残るかを試せ」
「――黒に染められても、演じても、最後に残る核があるなら――そいつが、お前さんの“せふり”の色さ」

 筑水は、ゆっくりと、目を閉じる。

 あの夜拾った名前が、自分の中に何を残したのか。
 黒い存在だった過去も、学園生活で築いた偽りも、そのどちらも否定せず、ただこの間で詩を綴る存在として、わたしは、まだ書けるか。

 「……次は、“白”で書いてみても?」

 TABUSEの目が、すっと細まった。

 「おう。いいじゃないか。白もまた、闇を映す色さ」


――――――――――――

第三章 霧中に咲く花

 白は、何色にもなれる。
 そう思っていた。

 けれど、筑水せふりがこの章で編んだのは、「霧中に咲く花」という一編の物語だった。舞台は深い山中。霧がたゆたう朝に、写真部の先輩が一人の女性をモデルに撮影を試みる。輪郭の曖昧な幻想の中で、霧が肌に触れるような甘さを持ち、そしてその被写体は最後に岩陰に咲いた小さな白い花と共に、己を露わにして写される。

 静謐な官能が、読み手の心を撫でる。
 ―――のだが、書き終えた筑水は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。


---

 「――またお前さんは、白でも境界が幻想に包まれるな――」

 TABUSEが、読み終えた原稿を指先で閉じながら、口元に笑みを浮かべる。

 「やっぱりちと溶けてるぞ」

 筑水は耳まで真っ赤になる。反論しようと口を開きかけたが、うまく言葉が出てこない。

 「黒も白も、どっちも官能的に振れてるな。 まあ、生命の根源ではあるし、お前さんの根源でもあろうが、―――ただお前さんの見た目でこれを書かれると、まあそのなんだ、自画像はネットに出すなよ、その背格好と黒髮は特にな」

 「そ、そういうつもりで書いたんじゃ……」

 「わかってるさ。 でもな、詩も小説も“つもり”を超えたときに本音が出るんだ。
 お前さんの“白”は、純粋無垢じゃなくて、“包み込む柔らかさ”なんだろうな」

 TABUSEはそう言うと、ジャケットの内ポケットからひとつのプリズムを取り出した。手のひらサイズの古びたガラス製。長く使い込まれたものだ。

 それを、カタリと古い机の上に置く。

 ちょうど、ブラインドの隙間から射し込んだ光が、部屋の空気を透過してプリズムを通った。

 壁に、小さな虹が浮かぶ。

 「混ざった黒から色を分けるのはホネだがね。
 しろい光は、すべてを内包し、且つ分離もしやすい」

 虹が揺れて、色たちが机に踊る。

 「これから、お前さんが選ぶ色を、一つひとつ確かめていくといい。
 白のままでもいいし、どれか一色でもいい。
 けど、“間”に居続ける者は、そうやって自分の色を確かめていくしかないんだよ。」

 筑水は、その光の虹をじっと見つめた。
 “演じている”という感覚はもう薄れてきている。けれど、“本当の自分”がどんな色かは、まだよくわからない。

 ただ、ひとつだけわかっているのは。

 この名前で、この間で、生きて、書いて、何かを照らしている――それは、楽しい。


 TABUSEがつぶやく。
――まあお前さんの文章がなにがしかではあっても世界を編み直してはいるさ、派手にやり過ぎりゃ、また公安が目をつけるかも知れんが、そういえば前の公安二人は今も書き続けているようだな。コメントが付けば、そこからそうやって色を見つけていくのも良かろうて――



―――つづく


――――――――――――

作中作品

漆黒の園
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=975&user_id=106&mode=post

小さな星の軌跡 霧中に咲く花
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=363&user_id=106&mode=post

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狭間の色でのクリエイティブ·ライティング II


――――――――――――
第四章 TABUSEと言う媒体


―――あなたって、そもそもなんなの?

筑水はコインを指で弾きながら窓際の大男に呟く。

――わたしは気まぐれで名前を拾った影だわ。光が当たる物にくっついて、いろんなものを見届けてきた。ただ――見るだけだったけどね。あの雨の夜、名前を拾って――炎を知ったわ。そしてその炎で自ら照らし視えた物を詩にした。あの落とした人に聞かせたかったから―――

TABUSE は薄く光が残る窓から遠くを眺める。

―――オレか?
オレはただの媒体さ。選択肢を創造者に渡すだけの。コインをどうするかは受け取った者次第さね。

CWS (Creative Writing Spaces)なんて言う物が出来ちまったから、こんな姿になっちまったが、英雄だの皇帝だのの姿でコインに、なってた事もあったさ―――

―――ギルガメッシュ叙事詩―――?
筑水がつぶやく

TABUSE は無言のまま、外を眺めている。

――ここの夕焼けは、いい色だ――

筑水が尋ねる
――あなた自身で、詠う事はもう無いの?

TABUSEは答える
――CWSに詩は集まってくるからな。それを読んでりゃ十分よ。

さっきも言った通り今はただの選択肢さ。コインをどう使うかは書いて詠った者しだい。

面白い時代さ、詩が瞬時に広がる。もっとも玉石混合、そこから輝けるかは違ったナニかがあるか無いか、底に沈んだままでなく、流れによっちゃあ勝手に浮き上がってもしまう。
もっとも深く沈んだままに思索を深めるのも有りだな。深い所でも繋がる時は一瞬だ。

あとな、嬢ちゃんよ。
誤解されるといけねえが俺様はまあ、最古の叙事詩だ皇帝のコインだと概念としては繋がりはあるがな、別にそれらとイコールってわけじゃねえぞ。こんなヒゲだるまに形作ったのはCWSの連中よ。いや形すらねえか。数式と暗号で出来た概念的存在さ。とはいえ実態があるが如く振る舞える。そのくせコイン自体は報酬じゃねえ。詩を読んだ事自体ではコインからの影響はないからな。詩を読む場を広げた時にコインは回る。ま、上手く使うこったな――。


―――つづく

―――――――――――――
プロローグ〜第三章

https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=1188

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沈黙と会話をするために ーー 短歌九首 --

沈黙と会話をするために ―― 短歌九首 ――


笛地静恵



マスターの青のカップを洗う手のもしやそろそろアジサイさんが



ふるさとのウサギくんから元気な葉書トライアスロンはじめましたと



だめだなあまただめですかだめですな腰から下が外れとります



次々と住み家を追われ方言の絶滅危惧種指定甘受す



何がそんなにおかしいのだろ梅雨入りの橋のひとつが落ちたというのに



言っていいことと言ってもしかたのないことがあるさ 一番星



市ヶ谷の話題の変わるおしゃべりは森さん内田さん木下さんか



缶詰の日付をさがす眼鏡あげ賞味期限の近いわたくし



行くならばもう気にせずに行きなさい自分のしっぽを自分でくわえ




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同じはずの世界

昨日 友達が三人死んだ
今日 愛する妹が目の前で吹き飛ぶのを見た
だから
明日まで生き抜いて復讐してやる

戦地を映すテレビから
少年の叫び声が聞こえた時
僕はカップラーメンにお湯を注いで
出来上がるのを待っていた

映像の中で叫ぶ少年は
まだ幼かった 
テレビを見つめる僕と同じくらいだ

僕は三分間 下を向き黙祷した
タイマーがチンと音をたてる
啜った麺は時間通り作ったはずなのに
スープを吸って伸びきっていた

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角打ちの角 ーー 川柳二十一句 ーー

角打ちの角 ―― 川柳二十一句 ――


笛地静恵


「午後三時の角」


立ち並ぶ酒のラベルの文化哉


飲まずにはいられないから樽の酒


おばちゃんの味つけが好きもつ煮込み


蒲鉾の端を噛み切り野良猫へ


行く雲へ手紙を託し濁り酒


右足へ左の踵かける癖


ハイセンスマダムロードを走り抜け




「午後六時の角」


知った顔ばっかしの四つ角よ


常連の列をかきわけ切符二枚


国道の渋滞笑い瓶ビール


割り箸で紙を開けばシャケの缶


コップ酒ひっかけずいと立ち上がる


夕焼けとおでん肴にできあがり


配達の自転車キリンガチャガチャと



「午後九時の角」


長靴のビールケースを逆さまに


シゲちゃんは今宵はどこへ行ったやら


ホッピーの競馬予想を真剣に


立ち呑みの仲間意識の霧の夜


あんたこれでしまいだからね叱られて


デキアガリマシタゴメンナサイオ月サマ


鳥打の帽子の帰る路地裏へ





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安いことと、高いこと

歌が安いとは、どういうことか?
伝播する 流通する 流行する
つまり、売れるということ
売れるということは、広く愛されるということ

歌が高いとは、どういうことか?
伝播しない 流通しない 流行しない
高級ブティックで売られるような
ある種の作者の感傷性が、共感される人には、共感される
売れないということ それは、狭く愛されるということ

世の中の価値では、どちらが高いか?
生産性を考えれば、安い方が売れるに決まっている 即ち
歌は安ければ安いほど、高い
歌は高ければ高いほど、安い

では、命が安いとは、どういうことか?
荷が重い 腰が重い 動作が重い
この、へっぴり腰め!
他人のために、命一つ捨てられぬか?
まるで鋼や銅で出来た身体のように
すり減らすことを嫌う重い、その身のこなし

では、命が高いとは、どういうことか?
お目が高い 気品が高い 志が高い
尊敬するべきものをしっかりと見定め
丈夫な心と足腰を持ち
他人のためにと平気で御身をすり減らし
それが認められて価値高きものになるという 即ち
命は安ければ安いほど、安い
命は高ければ高いほど、高い

視点見識が高いとは、どういうことか?
簡略する 省略する つまりコミックにする
伝えるために言葉は、分かりやすい方が、良い
すると見えてないものもあるかも知れないが、そんなものは気にしない
すると浅はかに見えるかもしれないがその分、鋭さを持つこともある

視点見識が高いとは、どういうことか?
視野が広い、敷居が高い、含蓄深い
上下左右縦横斜め 縦横無尽に視点をひゅるひゅると
出鱈目 賽の目 網の目 観念、規定の縛りをスルスルと
自由自在に掻き分け、言葉を陽気に使い分け
変幻自在にメロディアス 是即ち
視点見識は安ければ安いほど、高い
視点見識は高ければ高いほど、また高い

両者の視点を折り合わせ、上手い具合に折衷する
すると丁度いい塩梅の、ほんのりと甘い炊き込みご飯のような
美味しくて普及性、普遍性に富んだ一作が出来上がりました

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流砂

展覧会に来ていた、時間があったので。こつこつ音のする靴はマナーに反していると知っているけれど申し訳ない、そっと歩く。薄暗い展示室に入ると眠りの空気が満ちていて、よく見ると監視員の女性が船を漕いでいた。恋人宛の詩のメモ帳を広げている。宗教画の展示のようだった。あらゆる時代の受胎告知。聖母子像。ゆっくり見て回る。同じモチーフでも、構図も画材も違っている。ひとつ、その聖母子像の中にわたしの生まれなかった子供を見つけた。監視員を見た、眠っている。わたしはもっと近くに寄った。
綺麗な臍をしている。
わたしの子は臍の緒を切る前にいなくなった。
小さな爪が生えている。
わたしの子は指すら分かれていなかった。
その絵が欲しくて欲しくてたまらなくなった。その絵が見える椅子に腰掛けた。わたしの愛しい子。いとしいこ。その子がいた頃わたしは月と繋がっていて、波が引くたびにお腹ごと持っていかれそうな痛みを感じた。いなくなったのは、いつだったろう。父親は、誰だった?
椅子が砂になっていく。
わたしから切り離されたものは、足の付け根から流れたものはなんだ?血の塊の記憶はなんだろう。わたしの愛しい子はそこにいる。眠りの空気が頭を霞ませる。
沈んでゆく。
監視員に助けてと言った。手を伸ばした。監視員は立ち上がったがこちらに来る様子もなく歩いて行った。お腹が光っていた。ああ、あの人は妊娠しているんだわ。思った時、全ての受胎告知のガブリエルがいっせいにこちらを向いた。
流砂の中で靴が脱げる。圧迫される。まるで産道を降りていくような。それは淡い期待。

 41

 2

 0

あらう

自分だけが触れない所に
湿らせると色が変わるみたいな紙を何枚も
隙間に挿してたとき
ここから出たいと 身をよじらせて泣いていた
友達のT君は
久々の帰省でぼくが見たとき もう
青い畑の真ん中でかかしになってました

今までのあれとかとは無関係にいつからか
海の向こうへと
橋は土台から一定の速さで繰り出されて
それって
理科で見た植物の成長の早回しみたいだねって
ことに気づいたから
正直言うとぼくは気持ち悪くて でも
終端が水平線の向こうに見えなくなったあたりから
どこかへ早くいかなきゃいけない、そういう焦りもあって

天気のせいで
みんなはみんなに触ることができない
そういう日がいくつかありました
天啓を受けるたびに叱られているような共通認識があって
どんどんひび割れて内側に凹んでいくひとたちが
水たまりにとてもよく似ているから
雨が降らないとどこかへ
つなぐことさえできない

そういえば
彼らは湖でもなんでもないというのに触ると色が変わるから
水の方はぼくなのかもと思ったことはいくつもありました

 81

 4

 1

刈株

暮れてもう山は動き出しそうに暗い。黒いあの大きな陰の山の、ふもとには誰かが待って、居る気がした。
約束をした訳はない。ただ行って、なまみで闇におそってみさせたい。しびれるような不安と、なまみが消え果てたあとに、残る、やってみろという意志が耀くまでに尖るのを待った。
居るのはおんなだった。それはきっとおれが男だからなんだよ。なんで来たん、と言った。来たかってん、ずっと。あんた嫌になるん早いで。虫のなまえは知らなくとも、そのすだきに、吸い込まれていきたい、と思う。そういえばそこのよつかどんとこで見たきょうの星は綺麗かった。
もう夜はおわるで。まだ、日付も変わらないはずだ。そお思てるんやろ。そのわけも知れないのに、いや、だから、ないものをあるようにしてまで知りたいと思ったのだ。おれがおんなだったら。考える。おれが、おれ以外だったら。いま台風来とんの知ってる。昼間お母さんが言うてたわ。あさって、学校休みになるよ、河のみずもにごって増える、ほしたらな、花木見橋のとこまで来て。
夜は言うとおりおわった。薄暗い朝は、くもっていて、まだ雨はない。

日は、暦みたいに、升目がそれぞれあり数えて明日とか戻って昨日、はからだをつつんでいたのに今日を呼ぶように今日と呼んだのと考える。あいつの言ったあさってとは今日のことで、六時にはもう警報が出ていて学校は休みだ。
玄関を出ると雨のにおい、風がぼうぼうとかたまりに吹きつけ、微細な水の粒が誘うように混じる、だからにおいもした。花木見橋は学校とは反対のほうにある。傘は持たなかった。持ちたくない。雨が、降るから、今日があさってだったのかもしれへん。

おれがここにいたら何をいうんだろう。川沿いの禾が吹かれて揺れる。誘うように、押し返すように。どちらでもいい。しょせんは草なのに。橋も、もうすぐ濡れるのを待ってあった。誰もいるわけはなかった。低い胸までの欄干。川は、逆向きに流れているのを見た。

曼珠沙華はあつまって生う。あれは持ち帰ると家が火事になるという迷信をもつ。嘘。嘘が苦しいのじゃなくて、ほんとうが多すぎるからだ。この群島にある華は遺伝子がすべて同じなのだといった。傍の草にまちがって刈られたあとの茎が、いとおしい。いとおしい。理由はいつもあとからできる。隠されていたのが、見つかるのではない。もとからなかったのが、できあがる。
正解はどれかな。と、無言のうちに問われており、また問うている。うちに帰ろうよ。違う。あの子を探そう。違う。学校へ行ってみる。誰か間違って登校していたら、不思議な昂揚の紐帯でふざけあいができるかもしれないと。違う。未だ刈られない稲がとなりの刈株たちへそよぐ。台風がもうすぐ来る。川は逆向いて流れるのに、台風は来るのだろうか。川に沿って行ってみよう。この川の流れる、さきに何があるか、知らないことが理由だ。そう。正解。と、頑張って違う声で、おれじゃないおれが頭の中で言った。

水は、高いほうへ流れた。それはいつか好きだったあの子の眼が、手の厚みが、からだの重みが、月が海をたわめるのとおなじに血をたわめるからで、とくべつ好いてなどいない子には、いや、下に見ていた子にはうまくやれた。水は高いほうへ流れた。支流がときどき逃げるように岐れていった、本流は、それでも、わかった。山のふところに誰かが待つように居ることをいまも思っている。山の入口は、もうとうに過ぎった。雨が降る予報はまだ降らない、かえって遠のいていく気さえして、水はどこかへ帰ろうとし逆回転をはかり、あの子が転校生で来た。三年生のはじめだったか、壇上に上がらされたすがたにどうときめいたのか、わからん、いま覚えてない。垂れた枝葉が頭頂にさわる。わかってるわ。流れはまだ側にある。きっと劇的なものにあこがれてた、だから転校してきたあの子が気になったんやと、でも笑うとき目が糸のようになる、屈託がないように笑うのとあるように笑うの、どっちも見た。ぜんぶ好きだったと言ってしまったらいい。もう言うべき機会はない。
あんた恥ずかしいやつやなあ。そうやねん、悪いか。悪いて思てるから、自分で悪いか、なんて言うんや。ならどうしたらええねん。風が、葉に、かさかさ鳴る、足はやわらかく叢に掻き分けられるのに、右、左、右左、右。ずっとそうしてたらええわ。黙れ、自分ごとやないくせに。ほんまにそう思うん。なにがじゃ。からだていうくぼみで。からだ、ていう、くぼみ。ずっとそうしてたらええの。
風が、とおい窪へと移ってゆく。足許から、水滴がまばらに立ちのぼる。すぐに糸引くように、空にあたる音がするように、雨が昇りはじめた、樹冠が毀れた鉢のように水を覆す。体中が濡れた、肌のある木と同じように色が濃くなっていると思える。それを傘でうけることはできない。

 120

 4

 2

千切れても

犀川の河原
しゃがみ込んだらあ
対岸の
浴衣色が滲んでるげん
 
うちの気持ち
いっくら解いても
解いても
頑固に
縺れていくじい

いじっかしい


こんな
うちの気持ち
この大北国花火大会の
六尺玉に乗ってえ
千にも万にも
散ってゆかんかなあ



千切れてこそ見える
花もあるげん

千切れてこそ見せる
花もあるげん





*********
omake
https://www.youtube.com/watch?v=S3xSTU5ub0A
https://www.youtube.com/watch?v=omGkM7pONwI

 65

 2

 6

小さな星の軌跡 第十二話 扉を開けて

 まだ残暑厳しい9月末、私、篠山三智は悩んでいた。それは、おーちゃんの事なんだけど、別にお付き合いを隠したいとか、おーちゃんは小郡律羽(おごおり おとは)と言うクラスメイトで女子なのも特に悩みにはならない。 だって親友のちーちゃんの家での女子会で、真剣に告白されたら誠実に応えたい、それだけだもんね。じゃあ何に悩んでいるのかと言うと、お家に遊びに来ませんかと誘われた事。クラスメイトを家に呼ぶ、それ自体は普通の事だし、なんならちーちゃんの家になんか何時でも泊まれるよう着替えまで置いてる。けど、お付き合いしている異性を家に呼ぶ、となると普通相手のご両親は気が気じゃない分けで、じゃあ同性のお相手が来たらおーちゃんのご両親はどう思うのだろうって。

 ちなみに私の親には「ちーちゃんとは別の、特別な友だちが出来た」って伝えたよ。なんとなく察してくれた見たい。

 火曜日の放課後
「あ、ちーちゃん」
「みっちゃんどうしたの?」
「今日部活の天気図書いたらすぐ帰るから、ごめんね」
「おーちゃんかな〜、どうぞごゆっくり〜」
 天文部の部室で早々に天気図を書き上げる。南シナ海に台風がいるので等圧線がびっしりだ。たくさん線を引くのでいつもより時間がかかってしまった。
「じゃお先に失礼しまーす」
 耳納先輩とちーちゃんの2人を残し図書室に向かう。ドアをからからっと開けると窓際にいたおーちゃんが振り向いて手のひらをひらひらと合図した。
「またせちゃった?」
「大丈夫だけど、ここでお話すると怒られるから、場所変えませんか?」
「じゃ、一旦駅まで出ようか」
 私とちーちゃんはバス通学。自宅は近くなので同じバス停から街中心の駅まで来てそこで学校方面のバスに乗り換えてる。おーちゃんも駅でバスに乗ってくるから自宅は街なかなんだよなあ。駅周辺ってそんなに住宅ってあったっけ?
 そんな事考えてるうちにバスは駅についた。とりあえず駅前のハンバーガーショップに入る。あんまりもりもり食べちゃうとお財布が困るので控えめにしとこう。
 さて、何をどう確認するかなんだけど、と思案してたらおーちゃんから切り出してきた。
「私の家にお招きする事なんですけど、母には言ってありますからご遠慮は無用ですよ」
 何をどう言ってるかが、そこがめっちゃ気になるんですけど...
「あの、おーちゃん、一応聞くけど、私達の事をどういった関係かは...」
「大事なお友達ができたから、連れてくるねって言いましたよ」
 なんとも微妙な紹介の仕方だ、同性で"大事な"のニュアンスは伝わっているのかなぁ。
だけど、それを問いただすのもなんだか違うよね。

 とにかくおーちゃんには一晩お邪魔するねって答えた。


 土曜日。
 朝のニュースで見た天気図では、例の台風は進路を北に変え、九州の西側をなめるように進んでくるらしい。午後から雨、夜には次第に風も強まるとの予報だった。

「うーん……でも午前中はまだ持ちそうだし」

 迷いながらも、私は駅行きのバスに乗った。リュックには着替えと、お泊まりセット。一昨日、母には「ちーちゃんじゃないけど、仲良い友達の家に泊まるから」とだけ伝えてある。あちらのご両親によろしく伝えといてねって手土産を持たされた以外、特に何も言われなかった。

 駅前でおーちゃんと待ち合わせ。今日の私服は、白いブラウスに紺のプリーツスカート。おーちゃんはめずらしく、淡いピンクの夏用の上着を羽織っていた。

「来てくれてありがとう。天気、まだ大丈夫そうだね」

「うん。でも、明日は怪しいかもね……」

 駅前の交差点を抜けて、商店街の裏手を歩く。休日の午後、アスファルトの匂いがまだ少し暑さを残している。おーちゃんはいつも通りのペースで歩いているけれど、私はなんとなくそわそわして足取りがぎこちない。

「ほんとにこの辺に家あるの?」
「うん、すぐそこ。駅に近いけど、住宅街のほうなの」

 そう言って曲がった先は、急に雰囲気が変わった。古い煉瓦の塀、欅の大きな木、そして手入れの行き届いた庭木が垣間見える。ここだけ時間がゆっくり流れているようだ。

「ここ……おーちゃんの?」
「そう。築七十年くらいらしいよ。曽祖父母の代からずっとなのかな、その前の家は空襲で焼けちゃったとか聞いたけど」

 鉄の門扉を開けて、おーちゃんは何でもない顔で玄関の呼び鈴を押した。品のある音が響く。

「ただいまー。三智ちゃんも一緒だよ」

 応対に出てきたのは、和装の似合いそうな優しげなお母さんだった。にこやかに頭を下げて、私を中へと迎えてくれる。

「ようこそいらっしゃいました。律羽がお世話になっておりますね。どうぞ、気を遣わずゆっくりしていってくださいね」

(あれ、案外普通に歓迎されてる……?)

 緊張が少しだけ和らぐ。玄関から続く廊下の奥、磨かれた床板と障子が織りなす光と影に目を奪われながら、私はおーちゃんの部屋へと案内される。

 玄関から上がると、畳敷きの広い廊下に、ふわりとお香の匂いが漂ってくる。思わず靴下の足裏がきゅっとなるのを感じる。
 部屋までのあいだ、いくつも襖があって、いったいどこにどんな部屋があるのか、見当がつかない。けれど、冷たい木の床の感触と、古びた柱時計の音が、不思議と安心感をくれた。

「ここが私の部屋です」
 案内されたのは、離れのような造りの一室だった。高い天井に、古い机と本棚、窓際には観葉植物が並び、あたたかみのある照明が灯っている。
 部屋の中央には、ふたりぶんの座布団と、冷えたお茶の乗った盆が置かれていた。どこか懐かしい、けれどおーちゃんらしい、静けさをまとう空間。

「……すごい、なんか旅館みたい」
「よく言われます。でも、落ち着くから、私は気に入ってますよ」

 しばらく、おーちゃんと向かい合って、部活のことや、ちーちゃんの話、それから最近読んだ本の話をして過ごした。笑ったり、黙ったり。そういう時間が、ゆっくりと流れていった。


 夕食は、四角い木の食卓に、季節の小鉢が並ぶ丁寧な和食だった。煮物に焼き魚、おひたしと赤だしのお味噌汁。それぞれの味がしっかりしていて、どれも優しい。

「よかったら、もっとどうぞ」

 おーちゃんのお母さんが、私の湯呑みにお茶を注ぎながら微笑む。どこか品があって、でも堅苦しくない空気がありがたい。

「律羽も、こんな風にきちんと食べてくれると安心しますわ」

「……うん、でも、こうやってちゃんとしたごはんって、嬉しいです」

 そう言うと、お母さんは少し笑って、

「まあ、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、もっと好き嫌いが多くて大変でしたけどね」

 と続けた。

「お兄さんとお姉さんがいらっしゃるんですか?」

「ええ。兄はもう三十手前で、大学を出て、いまは主人の秘書をしているんですよ。ずいぶん前から跡を継ぐよう育ててきましたから」

「へぇ……」

「お姉ちゃんはね、大学四年で今は関西に下宿中。この秋に就活終えて、こっちに戻ってくるって言ってた」

 おーちゃんが、湯気の立つご飯を一口運びながら補足する。


「うちはね、夫がちょっと仕事で留守がちで……いまも東京の方に出張中なの。昔から、家のことより市のことばかりでね」

 おーちゃんが少し苦笑いしながら、

「お父さん、市議なんです」

 と、ぽつり。

「その前は県議もしておりましてね。父も義祖父も、そういう仕事でしたから……代々みたいなものでしょうか」

「へえ……すごいですね」

「いえいえ、たいしたことではないのよ」

「二人とも、うちのことはしっかり引き受けてくれてるのでね、律羽には好きなことを見つけて、自由にしてくれたらって……そんなふうに思ってるんです」


「……三智さん」

 お母さんがぽつりと、私の名前を呼んだ。

 顔を上げると、ふんわりした笑顔のまま、でもその目だけが、ほんの少しだけ真っ直ぐに私を見つめていた。

「その小指のリング、可愛いわね。お揃いかしら?」

 思わず、左手を引っ込めそうになった。でも遅かった。おーちゃんが照れ隠しみたいに、口元を指先でなぞった。

私も、まっすぐに言った。
「……はい、律羽と、二人で選びました」

 お母さんは、何も言わなかった。ただ、小さく笑って頷いただけだった。

「そう。いいものは、いいものよ」

 それだけ言って、すぐにお味噌汁の椀を手に取った。まるで、最初から話題になんてしていなかったみたいに。

 でも、私の心の中には、あの言葉がぽつんと残った。「いいものは、いいものよ」


夕食が済んだ後、少し部屋で寛いでいた。

「そろそろお風呂、どうしますか?」
 おーちゃんが少しだけ恥ずかしそうに言ったとき、私の胸の奥もきゅっとなった。ちーちゃんの家でお泊まりしたときのことが、ふっと思い出される。でも、ふたりきりの夜は、はじめてだ。


 ――浴衣を用意してくれたので、せっかくだからお借りすることにした。広いお風呂に二人で入ったあと、ドライヤーを貸し借りしながら笑って、洗面所の鏡に並んで映る。ちょっとだけ照れながら、何でもないふりをしている自分がいた。

 おーちゃんの部屋に戻ると、ふたりぶんの布団がもう敷かれていた。ちゃぶ台には、羊羹と緑茶が用意されている。

「うち、甘いものは夜でも出るんですよ」
「……うん、美味しい」

 並んで座って、羊羹を半分に分けて食べたあと。ふと、おーちゃんが私の手に指を添える。

「……来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、招いてくれて……すごく、嬉しいよ」

 気がつけば、おーちゃんの瞳が近づいてきて、そっと唇が触れた。やさしい、やさしい甘い、触れ合いだった。


朝。
 開け放たれた障子越しに、ぽつ、ぽつ、と雨の音が聞こえた。
 布団のなかで目を開けると、おーちゃんはすでに起きていて、窓の外を見ていた。
 薄い浴衣姿で髪をまとめた後ろ姿が、昨日よりも少し大人びて見える。

「……降ってきたね」
「うん。予報どおり。帰り、濡れちゃうかも」

 そう言って、おーちゃんがこちらを振り返る。その瞳の奥が、少しだけ寂しげに見えた。

 朝ご飯は、きちんとした和食だった。お味噌汁の香りが、まだ眠たい頭にやさしく沁みた。
 食後、おーちゃんのお母さんが「車を出しますね」と声をかけてくれたとき、私は思わず背筋を伸ばして「ありがとうございます」と言っていた。

 玄関先に待っていたのは、黒塗りのセダン。運転席には真面目そうな男性が乗っていて、降りてきてドアを開けてくれた。助手席にはおーちゃんが、私とおーちゃんのお母さんは後部座席に。

 車内は静かで、雨の音とワイパーのリズムだけが続いていた。おーちゃんはちらりとこちらを振り向いて、「もう少しだけ一緒にいられますね」と、小さな声で言った。
 私は、黙ってうなずいた。

 私の家に着いたとき、雨は本降りになっていた。
 門のところまで傘を差して迎えに出てきてくれたお母さんに、私は紹介する。

「こちら、小郡さんのお母さんです。昨日泊まらせてもらって……ありがとうございました」

「小郡の母です、昨夜は大したおもてなしもできませんでしたが、三智さんにはこれからも気兼ねなく遊びに来てくださいねと」

「まあまあ、こちらこそ、うちの子がお世話になりました。どうぞ、お車濡れませんように」

 ふたりの母親が簡単な挨拶を交わす。ほんの短いやりとりだったけど、なんだかほっと安心感が湧き上がった。
 おーちゃんが小さく手を振る。私は「ありがとう」と口の動きだけで伝えると、傘を差しなおして家に入る。

 玄関で靴を脱いでいると、お母さんがぽつりとつぶやいた。

「……いい子ね、あの子」

「うん」

 そのときのお母さんの表情は、なんだかやわらかい笑顔に見えた。

月曜日の朝、風の音で目が覚めた。
 カーテンがふくらんで、ガラス窓がわずかに震えている。
 天気予報通り、今日は台風直撃。朝のうちに「全校休校」の連絡が来て、制服はそのままハンガーに戻した。

 スマホに通知が届く。
 おーちゃんからのメッセージだった。



おーちゃん:
「風すごいね。だいじょうぶ?」
「昨日送ってよかった〜ってすごく思ってる」

みっちゃん:
「うん、大丈夫だよ」
「お母さん、やっぱり気に入ってたみたい」
「ありがとうね」

おーちゃん:
「えへへ」
「こっちこそ来てくれて嬉しかった」
「また、いつでもどうぞ」



 それから少しだけ、昨日のことを振り返るようなメッセージをやり取りした。
 だけど、細かいところ――たとえば、夜に交わしたキスのこととか、畳に座って手を重ねた時間のこと――は、なぜかお互い書かないままだった。

 画面越しの「好き」と、現実の「好き」は、少しだけ重なり方が違う気がする。
 それがちょっとだけ、もどかしくて。

 カーテン越しに見る空はまだ灰色だけど、明日は晴れるらしい。

 明日、学校でまたおーちゃんに会える。
 いつもの教室で、いつもの制服姿で、でも――きっとちょっとだけ違って見えるんだろうな。



おしまい

 58

 1

 3

小夜子の黒髪 ーー 短小物語集 ーー

小夜子の黒髪 ―― 短小物語集 ――

笛地静恵

その一夜

 夫は、戦場に出ていきました。都に代々続く旧家です。有能な軍人を輩出する家系でもあります。勲章をつけた祖先の肖像画が、麗々しく長い廊下に飾られています。出征の前夜、小夜子は夫の胸に頭を乗せて、心臓の鼓動をきいていました。
 夫との約束が、ひとつだけありました。
「どうしても、小夜子が、わたしのことが、忘れられなくて、さびしさに、くじけそうになったら、あかずの間をあけなさい。しかし、できるだけ、がまんするんだよ」
 長い黒髪を撫でてくださいました。夫は大きな人でした。その手は、小夜子の小さな頭の骨をわしづかみできたでしょう。
 黒い鉄の鍵を手渡されていました。小夜子の掌ぐらいの大きさです。ひどく重く感じられました。
 代々、都の大きな通りに、広大な敷地を持つ、お屋敷です。もう一年も、住まっているのに、家のなかで、迷うことがありました。自分が、どこにいるのか、わからなくなることが、あるのです。
 あかずの間も、いくつもありました。そのうちの、ひとつのものでした。けれども、そんなものを、使うつもりは、ありません。小夜子も武家の娘です。誇りがあります。
 なんとか、忘れようとしていました。不吉な予感がありました、あかずの間を開いて、中を見てしまえば、夫は二度ともどらないのではないか。漠然とした不安です。
 しかし、戦況は夏をすぎると、さらにきびしさをましていました。臣民たちは、二度の新型爆弾の投下にも屈することなく、本土決戦の決意を、固めておりました。
 都にも、毎夜のように、空襲がありました。それまでは、都だけは、貴重な文化遺産を守るために、敵の鬼畜も攻撃をしかけてこない、という神話がありました。しかし、その禁忌も、忘れられていました。本土決戦は近い。一億玉砕。そんなことばがきこえてきました。
 小夜子も、不安でなりませんでした。後妻の小夜子には、家の中で話のできる家族さえ、ひとりもいなかったのです。

その二夜

 とうとうあかずの間の、黒く錆びた鍵を開きました。中に入っていきました。夫をしのぶ品物が、あるのかもしれません。
 畳の部屋の中央に、朱塗りの大きな円卓がありました。黒い、これも漆塗りの古色を帯びた、大きな木箱が。乗っていました。三尺角ぐらい。巨大なサイコロのよう。ただ、それだけ。ほかには、何もありません。小夜子は、木の重い蓋を、開いていました。
 箱の底に桜の都がありました。小さくとも精巧な模型です。すでに季節は秋なのに。その中は、桜が満開の季節でした。花の透き通った甘い香が、小夜子の憂いを、浄めてくれました。生きているのです。細工物では、ありません。小夜子の吐息でさえ、突風でした。桜色の煙が漂いました。無数の目に見えないほどの小さな花びら。舞って、散っているのでしょう。葉桜にしてしまいます。息をひそめていました。  
 小夜子は。黒髪が、中に垂れないように、細心の注意をしていました。指先で、耳の後ろに梳いていました。たとえ、一本の毛髪でも、大災害を引き起こしてしまいそうでした。
 中央に、まっすぐな道が通っています。道路が、碁盤の目のように整然と通っています。区画整理がなされていました。古歌に「青丹よし」とあるように、青と赤の、色彩の美しい、明るい、平和な都でした。戦争の黒ひといろに染まった世間とは、別の世界が、そこにはありました。
 さらに目をこらしていますと。虫のように小さな牛が。歩いているではありませんか。車を引いています。通りを歩いている人たちも、いました。小夜子の存在には、気が付いてもいません。何も、起こっていないように、ふるまっています。小夜子の息も、一陣の突風ぐらいにしか、思っていないのでしょうか。平和な景色でした。
 こんなにも、すべてが小さいのに。五重の塔があります。ひょうたん型の小さな池も、あります。この狭い箱の中の世界で、どのように生きているのでしょうか。箱の端を、水が流れています。川です。どこからきて、どこへ向かうのか。わかりません。おそらく、箱の外にも、世界が広がっているのでしょう。飲み水は、そこから得られるはずです。食べ物も、運ばれてくるのでしょう。
 小夜子の住む世界では、食料は配給制でした。それすらも、たびたび途絶えるようになっていました。ひもじい思いをしておりました。

その三夜

 それから、あかずの間で、小夜子は長い時間を過ごすようになりました。家人のだれもが、小夜子の行動になど、何の興味も持っていませんでした。
 都の中でも、いちばん大きいだろう、お屋敷の庭に、配給の砂糖を残しておいて、少しだけまきました。甘味は貴重品でした。彼らも喜んでくれるのではないか。そう、考えたのです。それに、小夜子には、ほんのひとつまみです。それでも、彼らには、白い小山ぐらいの分量があるはずです。喜んでくれるのではないでしょうか。砂糖の山は、次の日には、なくなっていました。眼下の人々の生活は、あいかわらず何事もなかったように、穏やかに続いていました。
 小夜子の住む都には、冷たく厳しい冬がやってきました。やせてやつれた身には、寒さが骨までしみとおりました。けれども、別の世界の都では、いつでも桜が満開の春でした。
 そして、ついに一枚の赤いハガキが届いたのです。夫の戦死を知らせるものでした。不吉な予感が、当たりました。偉丈夫も、敵地に倒れたのです。
 空襲は、なおも、やむことが、ありません。国の滅びも、近いことでしょう。
 不幸な自分と比較して、都の満ち足りたひとびとが、小夜子は、少し憎らしくなっていました。それでも、夫が残していった箱だけは、戦火から守ろうと、決意していました。

その四夜

 その夜のことです。小夜子の家にも、ついに火の手が、迫りました。小夜子は、あかずの間の、箱のまわりの畳に、バケツの中の、半分が凍った水を、打っていました。黒髪をふり乱していました。なんとか、類焼を防ごうとしたのです。頭髪に、火の粉が降ってきました。煙に巻かれていました。倒れていました。
 目を覚ましたのは、桜の都の中でした。
 広大な屋敷に、一部屋を与えられて住んでいます。朱塗りの円卓の上に、数枚の桜の花びらが、乗っていました。
 若い当主が、一室を与えてくださいました。茶と甘い菓子を供してくださいました。
 どこかしら、夫に似た精悍な顔立ちの殿方です。大柄な体格です。
 都を案内されていました。黒い壁がありました。人間の背丈の、何倍もの高さがあります。くねりながら、数十軒の家々や、無数の通りを、その下に無慈悲に押しつぶしています。都の端から端までよりも、なお二倍も、長いということでした。鱗が逆立っています。龍のように。怖い風景でした。憎悪の化身でした。
 小夜子は、はげしくふるえていました。厚い胸板に抱かれていました。大きな手で、黒髪を強く撫でられていました。

(おしまい)

 10

 1

 0

負け犬のオーボエ -- SNS短歌300首 ーー

負け犬のオーボエ ―― SNS短歌三百首 ――

笛地静恵


【ノート】
 主に二〇一五年ぐらいから二〇二一年にかけて、ネットに発表した千五百首あまりから、三〇〇首を選びました。二〇二二年五月五日の日付のあるファイルです。短歌雑誌に投稿するために編集したものです。

  もともとツイッターに#ハッシュタグ付きで出されていた「お題」に答えたものと、ネットプリントに公開していただいた作品が、中心になります。つまり、ほとんどが「題詠」です。

 若いころから、塚本邦雄や岡井隆の短歌や評論を、ひとり愛読してきました。彼らの影響はあるでしょうが、当時、SNSで流行していた口語短歌の流行の波に乗ったという実感があります。新鮮な体験でした。


ショッカーのひとりだけどよ俺だってなりたかったさ仮面ライダー


日焼けした類書の並ぶブックオフああ読書家が亡くなったのだ


自分だけが正しいと思うとき自分だけがまちがっている ナラ枯れひそか



友だちの最後のひとり見送って未来へ旅立つ ねえドラえもん




二〇二五年五月十五日㈭ 笛地静恵




朝の部 今泣いたカラスがもう泣いた

「氷山の一角獣」

湯気のたつ白いご飯のまん中でたまごの黄身をすべるおしょう油
大鍋に湯は沸き立ちて昧爽の青年僧の青菜を刻む
ゼロ戦の機影を見たる少年期こころへ秘めてついに語らず
しらがねのくらげ群れいる汽水域わかき兵士の髪を葬る
きらめきのファストフラッシュダージリン秋へかたむく夕風すずし
命令の嫌いな三つ子たましいの百まで生きよ右向け左
死ぬために生きるわれらのみじめさを伝えておくれミトコンドリア
轟然と静寂の降る星の寺こもりの僧のさとり恒河沙
ああ、いっぱいのビールのために今日のひと日があったのだ 乾杯!
牛皿とビール一本 吉野屋をついと立ち去る鳥打帽子

「ままならないママ」

ショッカーのひとりだけどよ俺だってなりたかったさ仮面ライダー
いつのまに地球へ住むと決めたのか契約はまだすませていない
図書室の空気しいんと冬の朝あいつの借りたフィリパ・ピアス
画廊へと角を曲がれば煙草屋に迎えの友の馬が来ている
凹んでもカンナかければ新しきヒノキの板に香をさばけり
ぼくだけが砂を噛むのだあさり汁 カレンダーの日をめくる
人情の薄い街へも春雨さ 小さな金の鍵穴の函
ふりつもる日々の昏さよたまゆらの勾玉の罅ひろがりやまぬ
始まりのひとり遊びの土蔵には泉鏡花の美しい本
編み物の日々は廻りて割れ窓に春の陽射しの温かきかな

「まがりなりにも曲がり」

ねえこれじゃまだから捨てといて お父さんをくしゃくしゃ丸め
この道はいつか来た道 ああ、おまえ お山のからすが泣いているよ
くさむらへ顎をうずめて飲む泉よみがえり来よ春の息吹よ
口ひげのあいつとふたり銀巴里へブラッサンスを口遊みつつ
窓の雨みつめる子ネコ箱ずわり 明日はとなりのミケに会うんだ
新しいグローブ買った 拳骨でなぐれば匂い立つ野原
自販機のコーヒー連れて冬の月きょうの仕事のグチをつぶやく
わたくしのうしろすがたを現世ではついに見られぬわたくしの目は
年々に咲いては散りぬさくらばな内の嘆きにひび割れる詩
終電のこうべを垂れる信者らの瞳のスマホ神の青い光

「キングギドラの肩こり」

神さまの教えを信じうつむいて祈る少女よ ラファエロ前派 
大烏のアジール 積ん読を蜷局の如く積み重ね
東大を出た人のみの書物からみんなが意見を言えるまでの百年
朝露を舐めるがごとく言霊の甘さを舐めて生き延びた我
裸木のパーカッションと骨灰と静かの海の冬の果てへと
空間に右ひじだけを固定して他を動かす大道芸人
人日や絶滅器具種ボンナイフ あるいは道の草を食う牛
冷え性の雪女きて白妙の白金カイロ一つ求めき
理科室のホルマリン漬け瓶のなか身もだえをする白蛇の腹
昨年を忘れたふりのにぎわいへ冷たき風の吹き下ろす塔

「老化を走るな」

日の本のころがり落つる祝日に日の丸の旗たれさがるべし
いいことがあった年とは言わないが終わるとなるといとしい月日
年賀状あわてて五通投函す ちりひとつなき初御空より
出会うべき蛇ともついにすれちがい新しき園ひとり来たりぬ
老害に備えるための買いだめのペット・ボトルの水の水割り
ひらがなのすがたを愛しひらくとき春のしらべのやさしくもあるか
此処にいるお方を誰と心得る天下の水戸の納豆なるぞ
コンビニでアリガトだけを口にした今日もマッカな日が沈む
自分だけが正しいと思うとき自分だけがまちがっている ナラ枯れひそか
土鍋の黒き五徳へおさまりぬ小鍋の夕のあさり大根

「猫背の猫」

すまんがストロングゼロをしまってくれんかわしには強すぎるでの
鱈ちりの自己主張 大雪の日は鍋の湯豆腐
玄関に人さらい来る風の夜 黒い烏とおでん屋で飲む
関節の寒さとともに鳴る宵の書き書く書け古今新古今
見わたせば花も夢二もなかりけり裏の空き家の冬の夕ぐれ
冬天へ祖父詰屈の顎の骨スルメイカ焼くセピアの写真
一枚の木の皮膚めくるかんな掛け つややかに立つひのきのはしら
ほのぼのとみほとけの顔ほほえみてほのかたらいし伊香保温泉
木の枝へランタンをかけ夕焼けとテントの紐とペグを結びぬ
真鍮のコップを噛めば舌先に電気の味のカユイ校庭

「月にホウェール」

ジョージアのたおれ転がる机よりデスクトップも 十一日はや
はいみんな肩の力を抜いてみようそして縄抜けするんだよ
真剣に右の耳かく後ろ足まっすぐ前へ右の前足
赤白のベーコン入れた焼きそばをジュウジュウ焼いて二人で食べる
格安の貝を手に入れオーブンへ焼き貝にする我が世の春を
大脳の神経線維衰えて世界の果てのコンビニへ旅
少年期うごめくままの鉛筆とここから先はこっくりさんと
包丁の吸いつくばかり刃を研げば砥石の水のみどりぞ沁みる
雨洗う土蔵の西の白壁に葉桜の影青く照り映え
古井戸の庭ある家のみずすましこころのそこのイドのしずもり

「憂愁の美を飾る」

平和とはつまり桜の咲くころにしず心なくさくらふること
竹の子の内部の皮膚に梅干しを包んでしゃぶる赤くなるまで
どこからも遠い荒野の町からはどこへも行けぬバスの出る夜
人形の集まる寺の人形のあかずの部屋に消える末っ子
もくもくと日々の仕事をこなしけりアスパラガスへマヨネーズかけ
壁の画をとり変えようか夏の果てひと夜ひと夜にこころのひと夜
老いるとは 若い者には負けんぞとふりあげるこぶしの重さか
うしみつは 三割増しのブラックです同じ仕事をいたしましても
立ち会うは 夕焼けカラス日の本の藤の花ぶさ垂れ下がりけり
一杯の赤のワインと夕焼けをたそがれへ酌む男のこころ

「ワイヤレス糸電話」

宿題の夢に目覚めて春休みいつ終わるとも知れぬ宙づり
ガラス玉 赤き金魚の水槽をじっくり炙る赤き西日は
花の色 そめるいのちをさくら花ひととせかけて桜に醸し
文殊菩薩の中の文殊菩薩の中の文殊菩薩の中の文殊菩薩
黒こげの乱れごまかしソース塗るお好み焼きの買い食いの味
鳥打を目深に被り瞼なき瞳を隠す渋谷駅前
最弱の弱い少年だったから《怪獣ノート》にレッドキングを
玄関の木彫りの熊よ永遠に鮭を咥えて食えない飢餓よ
毛皮とは皮膚を剥がれた生き物の亡骸からの最後の便り
ひたすらに焚き火を見つめ土こねるまなうらへ立て火焔式土器

「一時がパンジー」

にんげんはひとりひとりがおもしろくあつまるとすぐつまらなくなる
そうか言葉に溺れていたか安吾らと経堂の地下すりぬけて
まだ熱く燃えていますね、この中にあなたはいない。斎場の空。
三色を遠き師としてすみれへとつまりすなわち雨ふりしきる
ひとしれぬ一首をいだき一生をわがクレドとしまたフロドとし
子どもにはいなくなったとハムスター生ごみとしてひそかに処理し
願い事[かなう]の吉のおみくじのその直後なる地震速報
人間に揉まれる苦き日々の果てひとりへかえるわれの登山は
徹マンへつきあい大きなあくびして朝の光を帰る白猫
あたたかく口にほどけるもう一本ひざしまばゆきホームランバー

昼の部 ウサギは何を見ては寝るのか

「中傷の名月」

新海苔をぱきりと折っておにぎりのかたじけなさに涙ながるる
年齢や性別などにこだわらぬ短歌よめる日いつわたくしに
ロボットの三原則を知らぬまま本屋の棚を蛇行する我
ハメルンの蛇使い座に笛を吹くホットラインをスマホへアプリ
てのひらに時のさだめを読み解けば鬱のらせんはとぐろにめまい
黒枠の友の写真よ月夜から渋谷駅前午前二時半
寒空へメーヴェ突き刺す怒りありインコグニトの果てを追う蛇
ヤフオクのパンドラの箱開封しうさぎの小屋は天下泰平
灰色の冬のごとくに抜け殻の静かなる死を死んでいる不死
どこかでは人が餓死する惑星でスーパーの棚あまる食料

「ジョニーウォーカーの夜明け」

立ち読みのおじさんなぜに顔ふせて文庫の中へくしゃみするのだ
猫の手も借りたい夜の残業のすぐにわきから癒しの肉球
囲炉裏の火静かに嬲れ真鍮の薬缶の底の灰の睡を
左脳からほのかに揺れるコニャックの街の灯りの思い出の香と
末枯れのシャッター街のハロウィーン古新聞のGNP値
山道に深夜を告げる鉄の馬 黒き車輪の舞い上がる崖
脳内を覗き見たまま梗塞へ主題は蛇の最後の個展
内陸へ長靴のあと冬の浜 風の先から蛇になるから
神殺し政治を殺し始祖鳥の鳴き明かす夜の副都心かも
ぬばたまの夜はやさしき事故物件ひとり帰ればお帰りの声

「ワンス・アポン・ア・タイムマシン」

それからふたりはいつまでもしあわせにくらしましたという呪い
ジャックと豆の木は蔓だと主張してゆずらぬ新一年生
大蝦蟇の足を千切りて針につけ赤き竜釣る冒険の川
かげろうや忘れられてる冥王星 ニッキの匂い好きだった
潜航の夏の蚊帳より縦横のドットの世界海底の青
冬の夜むかしの名前つぶやけば空気は凍る丁々発止
みんなしてオオカミいじめ勝利して三匹の豚こえ太るかも
母みとり父をみとりて子のつとめ果たし終えたり 庭の合歓木
図書室の詩集ののどに挟まれた十センチメートルほどの白髪
日焼けした類書の並ぶブックオフああ読書家が亡くなったのだ

「好きこそものの上手出し投げ」

友だちの最後のひとり見送って未来へ旅立つ ねえドラえもん
きみの名をノートに書いて消すときはMONOの消しゴムひたすらに物
五月蠅いな中年男どなりあい全身に浮く人面疽は
この世にはだれもいらない蛇のほか蛇とさまようコンビニあれば
わすれたいわすれられないわすれようすれちがうままわすれどわすれ
のこりものキノコの森がひとつだけ幕下くるまで手をつけないで
合わせ鏡 我の後ろに立つ我の その後ろにも割れる我 我
つかのまに地球のまつりすぎさりぬ地球光のもと踊るウサギら
本棚のゴーシュとともに半世紀 ぼくたちはどこへでも行くんだ
あまりにもひとりぼっちがつらい夜ネコへツナ缶あけてしまった

「負け犬のオーボエ」

一点にニュースが集中する朝の今かくしたいニュースはなあに?
裏紙へ元カレの名を落書きし念をこめつつシュレッダーへと
食べられるパンを食パンと呼ぶ国で朝のトーストを焼く白ウサギ
立ち飲み屋テレビを見上げいくたびもいやですよねえなんかいやです
裏側を見てしまいたる人生の蛇のまなこの色気の荒み
紙巻の煙草のためにコンサイス英和のページまたも欠落
三十の文庫の手帖つみかさねともあれ愛しともあれ生きた
そりゃあんた臭いもんには蓋をして見て見ぬフリーの渡世でんがな
ばさばさのつけまつげつけ化粧して遥かに歌え「ありのままに」
ひとだまか何かと人の問いしとき霊と答えて消えなましものを

「臨詩体験」

ありのままの自分がみとめられなくてよそおうことがカニカマだった
老年に壮年青年少年とまた幼年の記憶からくり
永遠のとわの一日くりかえすこの宇宙にはバグがいるかも
電気なき世でもいつでもどこででもゲームのできる机はあった
もう明日は世界が終わる その夜に君といっしょの床がうれしい
ただひとりめざめてしまうおさびしの夕日の山を越えていく道
ももひきの古き軒端の将棋にもなお余りある昔なりけり
密閉の車内頭痛の花咲けり甘き香りの柔軟剤で
袖の下ただごろつきの掟としものを恨んで悪ぞかなしき
物言えばくちびる燃える炎上の時代は続く春の夕焼

「口はわざありのもと」

わびさびのさてもカラシは鼻の奥つんと痛むはさびしかりけり
すべての謎が解ける最終回が大嫌い終わりよければ信じないから
ぬくぬくと布団の底へ潜りつつ湯たんぽの上のせる踵を
新宿の南口からホテルへと傘の周りを夜のひとびと
二十代結婚式に招かれて五十代には葬式に行く
ゆっくりと海苔の表裏をあぶりつつ祖母の背中はまあるく曲がる
しんしんと足もと冷える校庭のうさぎの小屋はしんとしている
約束を守れない日の日記より いよよ小さき冬の木の芽よ
親交の果てに墓あり四十年ひだまり盆地未黒の芒
フルベンの《田園》針を落としけり秋の終わりの風にふるえて

「流れよわが涙と花粉症は言った」

ご隠居は春のひだまり散歩する雲のすき間を白い兎と
水仙の青磁の皿の気品のみ 知らない町を寒施行する
ご先祖をたどっていけば あしひきのうちのルーツはアダムと蛇だ
いつのまに長くのびたる足のつめ切りそろえたり夜のふける猫
ひととせの仕事を終えて路地まがる蛇を出迎え酸っぱい蜜柑
いやはてのウリティマ・トゥーレ さらなる謎をしめす道標
独身の友さりゆけど年の瀬をもちつき機のみあかず餅つく
風吹かれ風に別れる嬬恋の便り久しき君は子持ちか
やわらかなやさしい声のやさおとこやさしい愛の安売りをする
全員のスマホは叫ぶびいびいと地震が来ます地下鉄車内

「フェルメールからのメール」

一日は未完で終わる一月は未完で終わる一生もまた
少年と少女は舐めるニッキ飴とがった角の丸くなるまで
生者とは死者を見送るために生かされている一時の間を
平成の角を曲がれる行列へ並んでみたり好奇高齢者
昭和とは 中華料理屋やきそばのお皿の端の黄色い辛子
差し入れは玉子サンドとTOPSのチーズケーキとあと何かしら
まだ残る昔話をきくために山の奥へと分け入る我は
不安とは カーテンすき間もれてくるわずかに光れ青い真珠は
もつ鍋が煮えている牛の耳飾りが溶けている近所の呑み屋
いくたびも立冬の子のさかあがりうさぎの小屋の当番のあと

「たった一つの冴えたヤリイカ」

燦爛とまばゆき真昼《ラドリオ》でわれら論じるランボーの詩を
雨上がり 浜辺の街の温泉の路地を曲がれば海とま向かう
薔薇の花 老いたるゆえに夏の火の若き芳香封じ込めたり
恋の味 さはさりながらコーヒーの苦みにまさる失恋の味
モカマタリ のみ終えるまでには答え出すから 少し待ってて
別れの日 なぐり書きするコースター 骨董通り どしゃぶりの雨
古書好きの友に誘われ葉巻バー チェスタートンの暗き酩酊
人生の曲がり角には一杯の黒き珈琲また水鏡
小さなる茶房を持つという夢を浮かべてみるか白磁の碗へ
うつむいて折り紙を折る夕焼けの雲の駅舎に乗り換えを待つ

夜の部 カエルににらまれたヘビ

「メアリーシェリーに口づけ」

甘くだまされているよりも苦くさめているために夏のブラジル
ひとにやさしくしたいときは自分がやさしくされたいコスモス
ひきこもり なりたくはなし野のうさぎ雨にも負けずそんな亀には
まずしさに身動きとれぬ金縛りまなこ閉じれば昼の星のみ
ジョーカーをどこで使うかどきどきの修学旅行 恋のゲーム師
忘れられたうさぎがいつまでも忘れられたままでいられる思い出の村
たそがれの雨降る前の牛丼屋 新宿二丁目ラブホテル街
手が文字を書いているとき文字は手を書いている書道
かしこさは鳩のごとやさしさは蛇のごと老書生のあかぎれ
安楽の椅子から目覚め怪鳥は鳥打帽を目深に被る

「老いては孤にしたがい」

モンシロチョウがぶつかった影響で下り電車の一部に遅れが出ています
炎天やシーラカンスの泳ぐ路地 真夏がくればまた開くドア
快楽で生まれたことを受け入れて憂き世のことが楽になりけり
はばたくはこころの闇のまよい道ゆめかうつつか蝶のさだめよ
地下鉄に乗るのが怖い日々があり走り過ぎてく311は
旅先でマッタをかける大き手のあいつが去って将棋をやめた
色褪せたカネゴンの像 こづかいの十円玉を上げた少年
大脳をのぞいて見ると銀色の梅雨の曇りがたなびいていた
たそがれの日暮里に起きハムを食む 誰にも会わず過ぎる一日
きがつけば指の触れてる宝石は微熱をもてりためいきのごと

「機上の空論」

胎内へ回帰するゆえしばらくはこの世へいとま申し上げます
ほめてほめてまたほめてあたしがひとり寝るまでほめて
ねちがえた夜にたましいずれました肩がこります自己物件に
雀荘のとなりの部屋の密談は すずめのお宿ぬすめつづらを
口八丁手八丁駅前の芸に負けたよ「包丁、買った」
十年を一日として慎ましく緑樹の実り受け取らん哉
月光の人形町の駅前に人間はもう一人もいない
地下鉄に照明は消え蒼白きスマホの照らす藁の人形
こころなき身にも憐れは知られてる鴉ざわめくつゆの夕ぐれ
心臓のなき胸もとをキュンとさせ骨董店をのぞくAI

「塀とスピーチ」

隻眼の口を寄せたりワンカップ不忍の池オーディンと飲む
奥歯からつめ物とれたあの日から食べていないなミルキーの飴
遠き野の呼び声はるか響く夜の蛇の男の甦り来る
来ぬ人の松戸の裏のうなぎ屋の泣くやポン引き胃を焦がしつつ
カーナビにテクをほめられうれしくはないということもない火曜日
黄金の仮面をつけた煙草屋のオヤジいろいろ怪しすぎだろ
宦官の伝説昏し 晩唐の政治の壺に谿を覘けば
ひとさらいが来るから遠くへいっちゃいけません 亡き姉より
時計台背伸びしているひさかたの時間が長く延びる夕方
底知れぬ古びの駅舎ときを打つ銀河鉄道到着時刻

「二階から火薬」

たいやきもメロンパンにも本物は入っていないうまさの仮想
ゆく川の流れに浮ぶうたかたは四番線へ運ばれてゆく
時雨来てむらさき消えるたそがれはてんぷら揚がる保立食堂
環状線まわるまわるよ昼と夜どこへも行けぬ感情を乗せ
ふうふうとマスクの息の温かく仮面舞踏会 夜の道道
金魚鉢 見つめる金魚こわいから背中を丸め絵本へ隠れ
クラウディア・カルディナーレふともものごとき大根だきしめる
ボックスの座席にすわる男らはビールをあける銀河見下ろし
人類をむかし話に語りけり犬らはあした木星を発つ

「貧すれば金襴鈍す」

カウンター 青き背広の蕎麦すする肩幅だけの彼の世界で
文化の日にんげんは文と化して街を推敲する文化せよ
フェア・トレード 紅茶売り場のすれちがいあれはたしかにクリスティ女史
美しき女神のごとく銀髪のパティ・スミスは激しい雨を
カエルの歌がきこえてくるよ農薬で死に絶えた田や畑から
恋愛のうまい鴉さ さっぱりとあとくされなくやりきった感
痴人の愛よりも知人を選びナオミは今日も女子会へ出る
遠くからかぽ~んと響く銭湯のゆぶねにうかびうたたねをする
たまきはるいのちの水のこんこんとたましいの木はしげる戦場
ものみなのしずまりかえる夜の駅を奴隷の貨車の通り過ぎたり

「シュトルム うんと ドランカー」

億年の石に腰かけつかのまの塩のむすびを我はむさぼる
赤錆びた鉄の鎖へ身をゆだね岩盤攀じる六根清浄
小石より六腑たまゆら全霊のもろき五臓を虚空へ投げる
地球なる筑波の山のいただきに天いまします天青きかも
大海の西の果てよりルシアンとベレンの墓へ跪く我
山盛りのザワークラウト消えてゆく銀のフォークのひらめくままに
すりへった宿の木のゲタつっかけて石段おりる溪谷の湯へ
シャベルにて深く掘りたる穴めがけ放尿をする北斗を見上げ
惑星の重圧受ける大海の青きうねりを漾え祖国
青銀のサーモンささげ重力よ僕の時刻へ帰る日が来た

「地に足のついた虹」

うたかたをすくいあげたり花筏ことばの川のみそひと文字を
杜甫の詩を愛すあけぼの吾が歌の遡るかも和歌のみなもと
結論をあとまわしにし先延ばし時にこだわる倒置法へと
だいこんたまごこんにゃくからし筑波の風に憩いの屋台
立ち飲みのビールをあおり月光と霞ケ浦のさざなみに酔う
魚釣りの倒れる葦に滑るまま桜の川の水を飲みけり
シャッター街真夜中ジンタしゃんしゃんと風と季節と疾風怒濤
高層の窓の夜景を見おろせばから光条をなす頭脳線かも
カメさんに追いぬかれてもウサギさんは目をさましませんでした
顔面の大量出血するごとき図解の黒子あわや散弾

「武士は食わねど八王子」

部屋の内側でもあり外側でもあるドアを開ける正午だ
新しき時代をゆずるクローンへ戦後の時代みてきた桜
木が枝をひろげるようにどこまでも怱怱のみち分岐してゆく
特急に吹き飛ばされるわが風の車体の下に轢かれて消えた
燃えている 少年の死体で暖を取るぼくの両手は冷たかったよ
この世をば少し諦め新調の鳥打帽子壁抜けをする
黒鳥の宅急便がひっそりとくちばし使い運ぶ古書店
不眠の夜まよいこむ村くちはてし石垣に住む青きくちなわ
突然に顔から牛になったので煮凝りもどき食うほかはなし
レモンを搾りししゃもを齧り語り明かすか友よ世間を

「猫も策士も」

ばあちゃんが入れ歯をはずし大泣きの赤子よ世界とは恐ろしきもの
聞きたくもなき知らせをば耳にしてユーガッタメール夕方滅入る
燃えてるか蛇の両眼わずかでも誰かの闇を照らせたろうか
一人しか顔を知らない結婚の式を祝って古本屋へと
凍て鶴に抱かれし記憶わが骨に高きをめざせ俗に染まらず
鳥打の帽子のおとこ尾行され電柱からは尻尾が出てる
ひとりのみ アセチレンランプ夜店番こっちを見てる白いうさぎは
強風にあまた飛ぶもの駅前の流言飛語と百均の傘
生きてきたようにしか死ねないとしてどう生きるのかわからないまま
前傾につっこんでいくマラソンの日焼け顔から車椅子ごと

(了)

 29

 1

 2

干渉模様 (漆黒の幻想小説コンテスト)

夜の帳(とばり)深く、光は息を潜め
プールサイドには、鈍色の静寂が満ちる
なゆた
水面に漂うは
忘れられた造花
暗い光を吸い込み
無機質な影を落とす
過ぎ去った感情の残滓(ざんし)は
重く、淀んだ光を帯びて揺らめき
壊れた水中照明の
か細い、頼りない光に
群がる小さな虫たち
その微かな輝きに
何を求めて彷徨うのか
数えきれない
脆弱な命の灯火は
水面に滲む星影のように
遠く、そして消え入りそう
濡れた瞳の奥底で
静かに、けれど確実に
死という名の暗い潮流が
渦を巻いている
抗う術もなく
彼女はゆっくりと
暗い水の中へ沈んでいく
なゆた
僕たちは縁から見守る
水中で幽かに開閉する
名もなき、暗い花のように
冷たい水に浸された心臓は
重い鉛のように沈み
凍てついた言葉は
喉の奥で黒い沈黙となる
多様性という名の奔流は
時に静かに、時に荒々しく
僕たちの存在を
暗い淵へと押し流す
生きる意味(レーゾンデートル)は
水底で揺らめく
掴むことのできない
暗い幻影
欲望の熱は
水面に反射する
冷たい月の、陰鬱な光のように
輝きを失い、鈍く光る
無数の言葉は
暗い水の中で溶け出し
やがて、底に沈殿する
黒い砂のように
背景には
歪んだ光の中に佇む
終わりなき滑り台
それはまるで
届かない未来の象徴
影と光は
淀んだ水面で混ざり合い
その境界線は曖昧に
暗闇へと溶けていく
僕たちはなゆたの傍らで
息を潜め
冷たい抱擁の中
水底に沈んだままの
変わることのない
暗い輪郭を
そっと確かめ合う

 22

 1

 0

コントラ-ポエム

我々は詩に抗し
詩を否定し
詩とは対極に位置する

このコントラの位相さえ
詩であると言うならば
我々は詩の中にあって詩を否定しよう
詩の裂け目がここであり
詩の傷口がここであり
血の滴る
生々しさの隆起する地点である

我々は闘争の場に身を置く
二頭の雄牛
それらは互いに闘牛でありながら
互いを否定し傷つけあう
詩と反詩の拳闘

傷がすべてである
我々は我々の傷口をみせあう
痛みを痛みとして
苦悩を苦悩として分け持つ

我々は山中に座す
都市から離れ
獣の肉と血を舐め
危険そのものとして存在しよう

我々は精神を離れ肉体に座す
手の仕事に精を出そう
素材の問いのなかに生きよう
それは、首をかけた問いになるだろう

我々は労働のなかに生き
詩を忘れよう
詩人は忘れないために詩を書くのであり
忘却こそが詩のコントラである

考えること、そして
それをすっかり忘れ去ってしまうこと
それこそが詩への痛烈な一撃であり
コントラ-ポエムの位相である​

 45

 1

 0

Fuoco Intrappolato 閉じ込められた火との約束

ファイヤーバードが
ときどき僕の心のどっかにとまって
翼を丸めて
うずくまってしまう

テレビでもネットでも
世界のニュースが流れている
その側で
キーボードを叩くたくさんの僕らが
架空の世界の話題で
立派にも傷ついたり笑ったり
その何気ない時間に
間違いなく命を削り続けているというのに
夢か現かもさだかではない世界は
とても居心地が良くて
ただ何も知らないことが
幸せだと思えてしまう
のだけれど

傷つけずにすむのなら
戦わずにすむのなら
と目を閉じているうちに
大切なものが消えてゆく
大切なものが
消えていった
それが何かさえも忘れていって
今朝のコーヒーのいれかた失敗したな
と思ったつかの間とか
あの娘の胸元きれいだな
と横目で見たつかの間にも
どこかで誰かが
くやしいと泣いたりしていることも
忘れてゆく
僕たちは
忘れてゆく
僕たちは
それぞれの命をちゃんと生きているのか


消えそうな声に
消えそうな笑顔に
消えそうな全てのもに
耳を澄ませファイヤーバード
眼を開けファイヤーバード
心を開けファイヤーバード
その足で蹴りだせファイヤーバード
血潮が流れている
自分自身からも目を反らさずに


解き放てファイヤーバード
心の中のファイヤーバード
僕らもやがて消えゆくもの
ならば




*******
omake
https://www.youtube.com/watch?v=_MBbSygPYck
https://www.youtube.com/watch?v=jRwvP7UiuNc

 20

 0

 0

あるプレイボーイの独白(詩)

切手をひとなめすれば
地の果てまでもハガキと一緒
ところで僕も 君のみ肌をひとなめすれば
君は生涯 僕のもの





※若い頃はコクトーやアポリネールを堀口大学の訳で読んでいた。フランス人は好色なのかは知らないが、彼らはきわどい作品も書いたりしている。その影響を受けて、つい背伸びした作品である。解説は…省きましょう。

私はずっと奥手だったので、この作品を書いた大学生の頃は、確か女性の手を握ったことすらなかったかと思う。文学にあまり関心のない友人に見せたら、高らかに笑われたのもいい思い出である。

 81

 1

 12

残業(詩)

昨日は残業ありまして
今日も残業しています
明日も残業あるでしょう
―――日曜日にはディズニーランドに行きたいね





※社会人になって、週休ならぬ月休二日の日々を送っていた頃、残業中にふと書いた詩です。雰囲気、伝われ。ディズニー、行けなかったけど。

 31

 2

 4

人民

キミは
ワタシが

好き好んで2025年の今を
50歳で生きていると思っているのか

ワタシは
キミがアナタがアノヒトが

好き好んで2025年の今を
20歳だとか30歳だとか80歳だとか

生きているとは思わない

こんなにも
選べず
生きていることを
お互いに
嘆こうではないか

なあ

嘆きこそ救いだ

嘆きのエネルギーは
他者を動かせるだろうに

嘆かず
怒り罵り足を引っ張り合うこの今を

なあ

この今を
嘆こうではないか

 41

 1

 4

日本のホラーってやつは

日本のホラーの怖いところ
ひとつの話が
アレンジされどんどん増えていく

アメーバのように
侵食し、根付き、分裂する
いっとき絶えたとしても
世代が巡ると再び湧き出る

かつては人の口伝て
今はSNSの拡散
呪いや業(ごう)は爆発的に
列島を駆け抜ける

あなたの知らない世界は
すぐ隣に在る

******

日本の怖い話(怪談とか都市伝説)って独特ですよね。
どこが発祥なのか分からないの多いし、世代が変わると昔の怖いネタがまた出てくるし。
あと設定とか背景、小道具が時代に上手く融合して溶け込んでるし。
やっぱり日本人は怖いもの考えるの、好きでしょ。

 30

 1

 4

振動

壁のひびから
境界のほつれから
あぶらのように遺影が滲んでくる

シャボン
排水口へ流れる球体の表面で
はじめて二重跳びができたときに切った風が
いま 光ったように思う
洗い残しの指にかくれた
大人の皺
泡にうつる顔は分裂し
庭も 街も
はじけている

  (小さなロープを持つ柔らかい拳を
  (その通りに象る石膏を

軽く握った掌に

に似た文字が浮かぶ
そんなものに裂かれた気がした?
七星のてんとう虫が
夢見のまま 動かなくなっている

 手相の川
 運命線の川を
 壺が流れていく
 からからと
 骨の混ざる音
 遺影の歯と

枯れた川の
向こう岸からくる老人は
水面だった頃の
焦点を結ばせない顔をしているから
あなたと言葉を交わす方法を
すれ違う以外にぼくは知らない

ああ地殻
地殻
骨が伸びる仕組みをぼくは知らない
それが新しく生まれる仕組みをぼくは知らない
はじめての隆起は 喉にあらわれる
身体が伸びるときにはきっと
つよい 振動があり
つよい 侵略がある

  (小さな手を連れ去った力を
  (その通りに象る石膏を

黄ばんだ遺影の
瞳はぼくと同じ色をしている
波紋を描く黒いゼリーが
立ちくらんだぼくらの街を映す
地を這う雷の梢
あなたの虹彩に沿って
ひこばえの道を行く

 257

 5

 6

雨のち礫

微かに不潔な午後
濡れたアスファルトの上で、
踏まれて泡立った雑草 
合わせる手もない、お前は進む

雨滴が落ちながら、腐る
活性に動的に、腐ってゆくものの速さをお前は止められない

煉瓦は赤い汁を滲ませて、自らが、何が凝って生まれたのかを思い出している分、脆い

雨滴が煉瓦にはじけたときにだけ、
腐敗は足を止め、濁った雫の中に、発奮する自浄の力をお前は見るだろう

この雨は空を要さない
お前が地を這う雲なのだ
お前から雨が湧き、お前に注ぐのだ

お前は煉瓦を拾う雲であり、
午後のうずたかい鬱滞を捌いてゆく蜃気だった

お前の疎に 煉瓦をかざせ
この天気が終わるための実践として

お前の密に 煉瓦を沈めよ 
この天気に課された結晶として

あたりで噂されていた、
甘い予報はとうにはずれた  
午後の空に、礫よ舞え

 126

 3

 11

生きているだけで偉いよ
生きているだけでいいのよ

裏にある
生きることは難しいのよ
生きることは苦しいのよ

いや
裏ではなくそこに平然とある表なのだが
必死に皆
裏に置きたいのだ
初めから
偉いもいいもないのだ

苦難だ
ただ苦難

生きること
生じてしまったことを
良いことにせずには乗り越えられないのだ

だから
生きたら死ぬのが決まりなのだ
死ぬという終わりが救ってくれるのだ
待ちきれずに得る人がいるのは
そういうことだ

死を悪いことにしなければ隠せない裏

待ちきれずに得た人へ
救えなかったなどの言葉にある裏は
待ちきれずに得てしまう人への妬みだ

 40

 1

 6

田鏡

夜行列車の夜は明け
車窓のカーテンをそっと開け

この田原という有機交流惑星に
陽光という雨が
そっと降り注いでいくのを
ただなにげなく見つめる

世界の眠気を洗い流すように
その雨は惑星を包む

車窓越しの陽光
まだ飲みかけの琴花酒は
グラスの三分目くらい

これが故郷を迎えた僕の景色
君のいない景色
寂しさの中の夢


その時だった


僕は息を呑む

田に引かれた清水たち
その滑らかな表面上に

春の謳歌の空が
ただの一点の狂いもなく
映り込んでいたのだから

ここで死ぬにふさわしいほどに
ただ蒼の響きを反射しながら


夜の果てを越え
その静かな鏡面は
ただ惑星の果てまで続く

もう一度夜の果てを迎えるまで

その先に君がいる気がする

ただそれだけのことだった

 68

 3

 5

よるのあいさつこんばんは

言葉をたくさん知っている方が格好良いのだ
知らないのに
書いてて
ばかです
こんばんは
みなさん
ばかがここにいます
人はそういうのを見て
安心するはずなんです
みなさんの
安心の材料
ばかです
こんばんは

 19

 1

 0

【エッセイという名の駄文】これは挑戦か、はたまた逃げなのか

 エッセイが書きたい。
 最近無性にそう思う。元々3年ほど前からあるサイトで長編小説を書いている。昨年突然浮上した家族の看護・介護問題により「書く」時間が取れずに止まっているが、最近やっと元に戻りつつある。それがどうして長編小説に戻らずにエッセイに行くのか。答えは単純明快、将来「書く」を仕事にしたいからだ。「え? 書く仕事がしたいなら小説家じゃないの?」と誰もが思うだろう。事実長編小説も書いていることだし。でも私にとって小説は趣味。仕事として「書く」のなら、断然エッセイが楽しいと思う。書いたものが書籍化することも望んでいないし、なんなら評価もされなくていい。いずれ古紙になるような雑誌の片隅に掲載され、誰の心にも引っかからずに溶かされていく。それが本望だ。だって私は「書き専」だから。ただ文字を、文章を綴るのが楽しい。私の文章によって誰かの心が掻き乱されるとか、想像しただけで申し訳なくて穴から出られない。だから「ねぇ、ちょっと聞いてよ」的な駄文がちょうどいいのだ。だけど生まれてこのかた、読むのは好きだったけどエッセイなんて書いた事がない。だからエッセイを書く練習をしようとあちこち探していたところ見つけたのが、このサイトCWSだった。
 CWS、cws、しーだぶるえす。なんだか人の名前みたいじゃない? それに中身を見てみると本格文学サイト。色んな詩や小説、歌が載っている。しまった、参加する場所を間違えてしまっただろうか。そもそも長編小説を書いているサイトでエッセイを書こうとしないのは、そこに作ってしまった自分色の空間を壊したくないからだ。多分これまで私の文章や小説を読んできた人たちは、そんなことは気にしないだろう。そこのサイトは参加人数も多いし企業のページもある。だからこれまでの文章とは違う文体で書かれた大いなる独り言も気にしないかもしれない。けれど自分が、気にしてしまうのだ。長編小説が途中なのに妙なコーナーを作ってしまうのも気が引ける。だったらいっそ、自分の痕跡がついていない新天地で勉強がてら書かせてもらいたい。そんな風に
見つけてしまったのがこのサイト。
 このサイトがすごいのは、なんといっても執筆をするにはコインが必要であること。大体のサイトはタダである。ただで、ひたすら書ける。書き専にとってこれほど自由な場所はない。自由すぎて1年も休んでしまっている。会社なら無断欠席でとっくに首だ。だけどタダは良くない。タダなので、他の人の作品を読むのを忘れてしまうのだ。せっかく楽しいお話もためになる漫画もあるのに、楽しく書いているとすぐに寝る時間になってしまう。だけどこのサイトは、誰かの作品をちゃんと読んで、コミットしなければコインが貰えない。働かざるもの食うべからず。いや、能動的に「読む」作業ができる。書き専も元は読み専。書くのも好きだが読むのも大好物なので、それはそれで楽しいのだが困った。だって楽しすぎてちっとも書くことができないじゃない。
 そう、私がここにいるのはエッセイを書こうと挑戦しているんです。決して長編小説の続きから逃げてるわけじゃないんです。

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 4

 6

涙の、甘き海

──人魚の真なる涙は真珠。百年に一度、哀しみは真珠として零れ、そして彼女たちは哀しみを忘れる。

 既に呼び名さえ混沌に穢されて失われた海。混沌の瘴気を吹き出す不気味な腫瘍が火山のように深い海のいたるところに膨らみはじめ、美しかった海はおぞましく変容し、人魚たちは浅瀬に追いやられる魚のようにあてのない逃避を続けていた。人魚たちの楽園の一つだったあの美しい海の姿は既にない。

 人魚たちはそれでもあの美しかった海に感謝の歌を捧げ、ここではないいずこかの海へと逃げ延びるべく、海の一部である自分たちの魂に伝わる多くの歌を唄った。

 真潮の歌、逆潮の歌、底潮の歌、海馬の見えざる蹄の歌。

 混沌に触れて爛れ、あるいは混沌の化け物に襲われて重い怪我をした人魚たちも少なくなかったが、いつしか彼女たちの群れはしばしば小魚たちがその身を守るように、大きな生き物のようにひと塊となり、最初は大きな魚のように、そして今は彼女たちの古い歌に伝わる偉大な人魚の母を思わせる塊となって、彼女たちは泳ぎまた唄い続けた。

 波鎮めの歌、月照らす夜の歌、珊瑚の祝い歌、竜払いの歌。

 しかし混沌の浸食はとまらず、やがて人魚たちの眼と体はうっすらと青い燐光に包まれ、群れというよりは本当に一体の大きな人魚のようにふるまい始めた。その姿は伝説の大いなる人魚、歌姫オルセラの姿そのものだった。唄う歌もまた彼女たちさえ忘れた古いものへと変わっていく。

 海の時代の歌、星の海の歌、六つの月の歌、始まりの長き雨の歌。

 これらの古い古い歌を聴いた混沌は暗い海の底で燃えるようなオレンジ色に濁る八つの恐ろしい目を開くと、混沌の化け物が集まっては無数の巨大な触手や腕となり人魚たちを捕えんとした。人魚たちの歌は今や魂を削る絶叫のようでありながら、なお荒れ狂う海の美しさを残した激しいものとなった。

 彼女たちの運命がこの海と同じく絶望より恐ろしいものになろうとした時、いずこからか大いなる歌声が激しい歌と混沌を大海の如く呑み込んで鎮め、海に青く輝く道を示す。

──甘き海の歌。

 人魚たちはこの歌が、伝説の歌姫オルセラの唄う甘き海の哀しみの唄だと気付いた。

 混沌は怯えて急速に委縮し、人魚たちは歌に導かれて見えざる海の道を通ると、六つもの月の輝く甘い海へと至った。輝く珊瑚の谷底には無数の真珠がどこまでも淡い光を放つこの海は、人魚たちの涙が哀しみを忘れさせる伝説の海だった。


※以上、海をテーマにした1000字の掌編でした。以下は引用です。


──真潮は本来の潮の流れ、逆潮はその逆の潮の流れ、底潮は海面の穏やかさとは裏腹に海の底は荒れていて泡を出す流れだ。他にもさまざまな潮の流れがある。あんた、よく覚えて生きて帰ってきなせえよ。

──イダラハの船鍛冶の言葉。

 888

 11

 15

影踏み

影踏み
子供の頃に遊んだちょとしたゲーム
「踏まれら鬼」
そんな他愛もない遊び

影を踏まれないように
日陰に入り潜み
ちょっとした時間を過ごす
そしてまた日の明るい場所へ逃げて
また日陰に入り潜む
「鬼になるのが嫌だから」

影踏み
ずっと日の当たらない所に潜んでいれば
「鬼」になる事はない
影踏み
日の当たる場所に少しだけ出てしまった私
影を踏まれた私の心
踏んだのはあの人
日の当たる場所へ私を誘い
そして私の心の影をそっと踏んだ

「鬼」

私は鬼になってしまった
ずっとあの人を追い続け
あの人の心を「捕まえよう」と
必死に走り続けている
だけどあの人は日陰に潜んだまま出てこない
少しだけ出ても
すぐに何処に逃げて
また日陰に潜む
日の当たる場所からずっとあの人を見ているだけ…
いつかあの人の影を踏み
心も捕まえることが出来るかな…

影踏み
「鬼」になんてなりたくなかった…
大っ嫌い…

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 1

 1

黒南風


滲む額と首筋の汗が
梅雨入りを知らせる

首元の釦をひとつだけ外し
来週からは
半袖でいいかなとひとり言

金曜日の昼休み
柑橘系の香りを
そっとひと振り


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 2

 0

氷河期

美術館美術館
博物館博物館
図書館図書館
科学館科学館
記念館記念館
劇場劇場劇場
大学大学大学
公園公園公園

これだけあっても
まだ足らないの?

たりないのは・・
奴隷なのかな??



ちょっと珍しく社会批判な詩を書いてみました。経済格差とか地域格差の批判というより、ふと思った時に、往復数千円程度で最高峰の知に直接アクセス出来るのは当たり前ではない事なのだという事と、それはなんだかんだ言っても地方の国土とそこに住んで一次二次産業で支えている人々がいるからではと思うのです。わたしの仕事も結構インフラ支えてるんだけどなあ....
地方民だけどさ。

 197

 3

 15

欠如した感情

自分が醜いと思い始めたのは
いつの頃だっただろう

人に好かれても
自分を好きになれない

人に認められても
自分を認められない

苦しいだけが満たされて
幸せだけが流れていく

僕の心は
幸せを感じる機関が
壊れていたのか?

じゃあ僕はどこを直せば
満たされる

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 2

 2

夕焼けが足りない 10 (X)

これで最後ですよ

と通達された

 あなたのための夕陽はもう残っていません


どうやら
流行りの成分のひとつで
許容摂取量も決められていたのに
僕はあまりにも依存症で
無駄に取り過ぎたために
取りあげられてしまったらしい


近頃の僕はすっかりあの頃のKさんで
お腹が出てきたことや
髪の毛が細くなったり
脂ぎってきたりしていることはまだいいとして
営業用の愛想笑いと
反りの会わない部下に冷めた視線を送ったりしているのを
ふと我にかえって見てしまうと
吐き気をもよおしてくる
喫煙コーナーで僕の口から漏れ出す愚痴や説教なんて
糖尿病の研究をしているのに肥えているお医者様にしか
意味が見つからない
よくある 
よくあることで

仕事を終えると陽は暮れている



ああ お天道様お天道様
煙草はもう吸いません



最後の夕暮れをどうしようかと
日曜の昼下がりの土手に
風が吹いた

会いたいときはいつでも会えるしって言った彼女の番号を X
会えないときでもつながってるんよって言った彼女の番号も X
うちひとりだけは見といたげるしって言った彼女の番号を X
これからもずっと一緒やねんって言った彼女の番号も X

風 吹いた
僕は目を開けたまま
夢 見ていたら
風 吹いた

会いたいときはいつでも会えるしって言った彼女の背中に X
会えないときでもつながってるんよって言った彼女の胸にも X
うちひとりだけでも見といたげるしって言った彼女の腿に X
これからもずっと一緒やねんって言った彼女の耳にも X


 X
  X

もう
染まることもないんだろう か
立ち上がると
風 吹いた



ああ お天道様お天道様
僕にはどうにも足りないのです



  

 73

 3

 4

象の宴

 三匹の象が広間の中央で芸をさせられていた。彼らはときどき休む、象使いはそういうとき烟草を吸いにいく。戸惑いながらもひと鳴き、ふた鳴き、誰も叱らないとわかると象使いたちが置いていった鞭を長い鼻でつまみあげて、仲間に見せてみたり、振り回して遊んでみたりした。芸を見ているよりこの方がよっぽど面白い。
 ねえ、そんなことない?
 隣に座ってぼうっとしていた女は驚いてこっちを見て「そうね……」と言った。そして思い出したかのように角度を変えて、前の小さなテーブルに載ってあるバケツカクテルを持ち上げると、自分のストローを探し、結局それがどれだかわからないので青いのを摘み上げてついーっと吸った。そしてシャーベットをかき混ぜて、もうひと吸いして、眉をしかめ、目を瞑ってじっとして、それから烟草の箱を触り始めたが、しばらくして、さあどうだろうね、と言った。僕らの席にはもう彼女しか残っていなかった。
 皆どこかへ踊りにいってしまったのだ。
「あなたが思っているほど、嫌な話じゃないかもしれない」と彼女は言った。
「俺は動物虐待だとでも言ったか?」
「いいえ。言ってないけどそう聞こえた。」
「ならそうなのかもしれない」隣にいたので話しかけたが、彼女が誰かを僕は思い出すことができなかった。自己紹介をされたのは覚えていたが、真面目に聞いていなかった。きっと相手にしても同じことだ。ここに来て紹介された人のなかで名前を覚えている人はひとりもいなかった。
「私が言いたいのは、象と象使いは仲良しなのかもしれない。少なくとも息があっているように思ったけど。」
「餌がほしいだけさ。」
「だとしたらどうなって欲しいの? 単に冷笑的なだけで理想なんかないんでしょう? 文句いう資格なんかないの。祈りなさいよ、3頭の幸せを。」
「文句なんか言ったか?」
「同じことよ。そう、烟草いかない? ここまるで蒸し風呂じゃない、ちょっと風に当たらないとダメになりそう。」
 僕はポケットの中に烟草とライター、そして財布があるのを確認して立ち上がった。
「携帯電話はいいの?」と彼女はテーブルの隅に置いてあるのを指差した。一瞬とろうかとも思ったが、僕は首を振った。
「壊れているんじゃないかな。」
「あなたのじゃないの?」
「だからいいって。」
 僕は彼女の鼻がピクりと動いたのを見逃さなかった、だがその表情がどのような感情を表しているのかを理解することはできなかった。他人にどう思われているのかを過度に気にする癖があると自分で思っており、他人の顔を見ていたと思ったらそこに自分が映っていたなんていうこともざらにあった。それでは面白くないので今日だけは忘れることにして、ウェイターから酒をもらって飲んだ。一息に呑んだが、中身はラオカオのショットでカッとした。
「これグラスは床に投げつけるべき?」そうとぼけてみたら、少しだけ笑ってくれたのでどうやら嫌われているわけではないのだと安心した。後ろで象のラッパが聞こえる、ショーがまた始まったようだったが、パーティーの客はもう誰も象に興味を示してない。
 ねえ、それってなんか悲しくない?
「うん。それは、本当に悲しい気がする」
 バルコニーに出ると広い国道の車通りが耳に迫ってきた。彼女は手すりに寄りかかって街を見下ろした。都心は夜中でも片道4車線いっぱいに車を詰めている。飛行機からみるとこれは植物の葉脈を顕微鏡で見たのと同じに見える、初めてここに来た時もこの国道1号線を通って町に入った。そんな昔話が次々と起こってくるがそんな昔の話でもないし、昔話を聞きたい人などはいないから口を閉じたままに道を眺めていた。
「ねえ、誰の何で呼ばれてる人?」
「どうして聞くの?」
「だって何も知らないものね」僕が笑うと、彼女も笑い、どうせ忘れるつもりで飲んでるんでしょう、と言った。さあ、どうだろう。
 べらべらと喋れば喋るほど忘れなくなるかもしれない。どうせ忘れてしまう、自己紹介は1回やったんだから。だが結局改めて尋ねることはしなかった。僕は彼女に、故郷に象はいたか?と尋ねた。彼女は首を振って言う、ただジュゴンはいた。なるほど腑に落ちたような気がしたけれど、それは単にジュゴンも象もグレーだったからだろう。
 その後僕らは烟草を3本立て続けに吸って元いた席にもどり、象がショーを終えて休んでいるところを眺めながら、延々とラオカオを煽り、故郷の話をし続けた。だが、僕はその会話を1つとして思い出すことができない。
 目覚めた時、僕らはびしょ濡れだった。場所は、僕の住んでいる“鳥籠”と呼ばれている古いコンクリート造のアパート、そのシャワールームのタイルの上で、僕らはぬるいお湯のシャワーを浴びながら寝転んでいた。温められたタイルがどうにも心地よくて眠ってしまったらしい。でもどうして僕らが服を着たままシャワールームで横になっていたのかはわからない、彼女の長い黒髪もびっしょり濡れていた、熟睡はしていないらしく、彼女はもぞもぞ手を動かしたり、小さく母国語で話したりした。小さな窓からは朝の太陽が入り込んでいて、壁のタイルに何度も反射して僕らの顔の高さで跳ねているシャワーの粒もキラキラ光らせていた。僕は立ち上がって、Tシャツをよく絞ってからシャワーを止めた。そして、もう一度Tシャツを絞り、自分の部屋であるならば着替えた方がいいだろうと気づき、シャワーを出て、服を脱いで急いで体を拭いて着替えた。そしてシャワー室に戻り彼女の肩を揺すった。彼女は目を覚まし「オレンジすぎるから天国に来たかと思った、」と一言「どうして濡れてるの?」僕は首を振った。彼女にバスタオルとTシャツと短パンを貸してやると「下着はどうしよう」と言ってきた。嫌じゃないなら僕のを履いてしまっていいけれど、嫌だろう? と言うと彼女は首を振って、それは嫌だな、と言いシャワー室の扉を閉めた。烟草を吸いにベランダに出ると誰かからもらったらしいジョイントが灰になっており、そのせいで変な寝方をしていたんだな、と気づいた。
 そして、雨漏りのしみがたくさん残った灰色の天井を見上げ、僕は昨夜彼女と話した長い物語を1つずつ思い出そうとした。

https://i.imgur.com/Tjvpt4E.jpeg

 138

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ナムトゥアン


 口の中をよだれだらけにしたまま私らは何分も黙って見つめあっていた――常夏の太陽が高い角度から西の地平線を目指す時間帯だった。モールの外に併設されたベンチには都会の熱気らしいものはなく、暑い季節だったが汗はかいていなかった。鉄道駅からここまでは地方都市らしく離れており、そもそも涼むためにモールへ入ったのだった――が、ひとたび汗がしずまればもう逃れたいような気にはならなかった。バスターミナルが近くにあるらしく大通りでは色とりどりにラップされた長距離バスが行き来していた。
 テーブルには二つの空色のソーダ水が並んでおり、彼女の傍らには大きな紙袋があった――私の横にはリュックサックがあった。紙袋の中にあるのは口に含まれているものと同じくらいに役立たずらしいものが詰め込まれていた。彼女はじっとしているのに飽きたのか、テーブルに置いてあったプラークチェッカーの包みを取り上げて眺めた。それから目だけ私の方を向けたまま俯いて、ソーダが入ったカップの中によだれを吐き出した。どろどろと流れ落ちる赤い唾液はゆっくり空色に沈んでいった――彼女は舌を突き出して最後に残った唾液を垂らした。粘性を保った糸状のそれは色づいたばかりの夕日に照らされて呪われたルビーのように不気味だった。ひとつ溜息をついて彼女は大きく呼吸を楽しんだ。カップの中で赤い唾液は氷に阻まれ底までは沈まず、ゆっくり紫を作ろうとした。
 歯の間をくぐらせさえすればすぐに出してよかったみたいだ、と彼女が言った。私は子供の頃から鼻が悪かった――調子に乗って自転車で遊んでいるうち転んで鼻を打ったので片方の鼻腔が押しつぶされているのだった。人から見てもあまり気づかれることはなかったが、薄く口を開いて生活していることがほとんどだった。私は彼女のカップをとり、その中に唾液を捨てた。それも落ちていって溶けるのだろうかと眺めていたが――彼女のわざとらしい嫌な顔に気づき思わず眉をひそめた。
 自分のに捨てればいいでしょう、と彼女は言った――もう飲まないだろう?と私は言った。私はまだ自分のソーダを飲むつもりだったのだ。彼女はカップを掴むとそれを一メートルほど離れたところにあるゴミ箱の中へ放った。氷と液体がばらばらと地面に溢れ、音さえ立てたが、プラスチックのコップは正しくゴミ箱の中に収まった。私の分のソーダを手にすると彼女は立ち上がった。あれこれ言っている時の彼女の顔をほとんど覚えていなかったが、時折見える独特の紫がかった赤で染まった歯が印象的だった――私も彼女も前に歯を磨いたのは昨夜八時ごろ、飛行機に乗り込む前だった。おそらく私の歯もすっかり赤く染まっているのだろう。大通りを歩いていくと背中の方で夕日がだんだん暗くなっていくのがわかった。何台ものバスが通りすぎていった。それらの窓が次々と夕日を反射させていた――そのたびに見たのは乗客の夕日を思う気持ちだった。代わる代わるバスが行くからには最低でも十人ぐらいはその中で揺られているのだろうから。これから半年ほど住むようになっている家は、車を使うほどではないにせよこの駅やモールがある地方都市の中枢からは少し離れており、歩くたびに景色は暗くなりバスは夕日を反射させずライトはイルミネーションのようになっていった。
 現地語でソイと呼ばれる大通りから何本も伸びる細道の一つに入り二十分も歩けばやがて木々の生えた空き地や古い豪邸のあるような村とも住宅街ともとれそうな一角に入りこみその中に我々の住む家があった。自分の持っている常識と比べると住宅街というには古すぎる建物や雑雑しい料理屋、林といえるほどに遷移した空き地が多すぎたが、かといって村というにはしっかりしすぎているのだった。こういう地域が自分の故郷やこれまで住んだところにあったろうかと考えてみたがジャカルタやバンコクのスラムじみた住宅街ともひとつ印象は違っていた。煙を辺りに放り回しながら魚を網で焼いているレストランの前でアメコは顔をしかめながら私のソーダを飲んでいた。もう一方の手の指には吸うのを忘れられた烟草が挟まれていた。私はきちんと烟草を吸いながら歩いていた――ソーダは彼女に盗られ、代わりに彼女の紙袋を握っていた。アメコは魚の一つを覗き込んだ。座り込んでうちわや扇子を持たないで暑そうにしている婦人がプラニン(ティラピア)だとアメコに言った。アメコは言葉がわからないので阿呆のように微笑んでそれから烟草を思い出し、また歩くことを思い出し、魚の焼かれているのから目を背けた。そんなところに我々の住む家はあった――二階建ての家で庭が立派だったが、建物の床自体は広くはなく、庭も長い草に覆われていた。立派なバルコニーは朽ちかけており、板の何枚かは踏み抜かれていたが、置かれているベンチだけは丈夫そうだった。言われていた通りポストの裏に鍵がテープで貼られていた。上も下もわからないその鍵を何度か戸に差し込みながら思ったのは、この新しい場所に住み始める時の感覚だけは褪せないのだということだった。これは引っ越しごとに一度ずつ長く触れていなかった心の部位を刺激する感覚で、次に経験するのはいつかわからない。
 昔、何もかもただ失われていくだけだと考えていた時期があった、もう七年ほど前のことだが、あの頃――私はただ年をおうに従って人間はただ失うだけだと信じ込んでいた。それで思い出だかそういう思考の表層に確固として存在しているものを決して忘れないよう躍起になっていた。アメコにそんな話をすると、彼女は決まって、あなたは最も大事なことを何も失ってはいない、というのだ。あなたが失ってしまったと恐れていたあれこれは心の奥底で最も感動的な瞬間を待って隠されているだけで、いつかその匂いを感じたときに浮かび上がり輝くのを待っているのだ、と。彼女の言葉を十分に受け入れてからやっと、私は年を取り始めたのだった、失っていないのだと思えることはある種救いだった。
 ウッドデッキの朽ちかけたところや手入れされていない庭のせいで生じた不安は部屋に入ると消えた――白いタイル張りの床には埃もなく、我々が出国前に送りつけておいた荷物も丁寧に重ねられていた。広い居間の中央に大きなテーブルと椅子が四脚並んでいた。私は紙袋をテーブルに置くとリュックサックから文庫本を出して二階の寝室を探しに階段を上がった。上には三部屋があり、中で一番広いものがベッドルームだった。広いダブルベッドには清潔なシーツがかかっており、私は横になり小さなランプだけをつけて本を開けた。飲みさしのミネラルウォーターのボトルを胸の上に置いて本を読んでいるうちに微睡んでいた。

 午睡から覚めると、アメコが日本から届いた段ボールを広げているところだった。小さな光でぼんやり照らされた夕方の部屋の窓の前でレースのカーテンが揺れていた。彼女はキッチンに麺つゆ、醤油、みりん、わさびチューブと持ち込んだ調味料を並べた、ボトル類の放つ光沢に、私は静かな沼に浮かぶ黄色のテニスボールを思い出した――つまりあり得ないとは分かっていても人間の頭や河童の類でないかと勘繰ってしまう類の、一瞬だけぞくっとするような悪目立ち。並べ終えた彼女は、最後、小さな包みを取り出した、それは新聞や広告紙で厳重に保護されていた。彼女は包みを丁寧に一枚一枚破いて――中からは青いガラスの風鈴が現れた。彼女はそれを電灯に透かししばらくうっとり眺め、私の方に得意げな顔を向けた――確かにここではずっと夏だった。セロハンテープを剥がすと自由になった糸が垂れ、濡れたナスを描いた水彩のイラストが光った。彼女はそのあまりに日本らしい風鈴を少し手で揺らし、窓にかけた。この涼し気な音が空中に消えていくのを私は息を呑んで見守った。
 彼女が食べたがったので、来る時に通りがかったティラピアを焼いているレストランまで降っていって夕食にした。青いブリキのテーブルで食事をとりながら、彼女は自炊をするにはどこで食材で買えばいいか、市場で血を滴らせている肉類は安全なのか、コンロはどこが安いのか、などを私に真剣に尋ねた。私はかつてここに住んでいたころに一切自炊をしなかったし、そういったものをどこで買うのが正解なのかわからなかったので、古い友人に連絡をして、今度こっちまで来てもらうことにした。
 アメコは疲れていたのか、食事から帰るとすぐにシャワーを浴びて、いくら夏でも常温のシャワーはつらいとだけ私に言って眠ってしまった。私は三日後に来る友人に、ボイラー工事の予約なども手伝ってもらうことに決めた。テーブルで一人、街灯が外でちらつくのを眺めながら、サイアム平野に吹く風もまた、風鈴を揺らすということを思い知っていた。
 私が寝室へ行くと、アメコは半分だけ目を覚まして言った。ここが大陸だということがうまく実感できない、と。地続きであるようにも思えないが、島嶼部から赴いてきた自分が大陸の空気に馴染むのにはある程度の時間がかかるはずだと彼女は言った。
 どうしてこの街は夜になるとゾウに覆いつくされるのか、と私に尋ねた。どうして深夜〇時に空からに天使が突き落とされてきて大きな音がなるのか、と私に尋ねた――私ははっきりとした理由を知らないと正直に答えた。ただ、ゾウはたくさん死んでいるのでその分彷徨っているのだと言った。本当にそういうことはほとんど知らないのだ。風鈴に呼応するようになり始めた鉦や鉄琴の音を聞きながら私は目を閉じた。
 午前五時、彼女が目を覚まし、私を起こした。遠くから歌が聞こえるのだ、と。私にはそんなような音は聞こえなかったが、彼女に引っ張られるまま草履をつっかけて通りにでた。彼女は音のする方はこちらだ、と私を市街地の方へ連れて行った。その中のある横丁へ入ると確かに歌が鳴っていた。ぞろぞろとモスクへ向いて教徒たちが入っていくのを見てアメコは止まった。雨の香がするような気がする、とアメコは言い、私たちは引き返し再び眠りについた。

 昼前に目を覚まし外の様子を見たが、別に雨が降りそうなことはなく――私はインターネットのパスワードを確認するために四方八方に電話をかけ、少し仕事をした。戸口から物音がするので、出窓に首を伸ばして覗きおろすと、アメコが子供のようにスキップをしながら出かけていくのが見えた。タクシーを取るのだろうかと見守っていたが、ただの散歩のようでキョロキョロどちらへ歩くかを悩んだらすんすん匂いのする方へ滑るように歩いて行った。彼女は昨日市場で買った青い花柄のワンピースを着ていた。
 その夕方、近所の露店で買ってきた炒飯やら、サラダやら、チキンやらを机の上に広げて、我々は小さいパーティーをやった。トランプを持ってきたはずだと言って彼女が段ボールの中をひっかきまわし、結局チェッカーが一つ見つかったのでそれをやることになった。そんなものが家にあったか、と私はアメコに尋ねた。
 近所の友人が毎朝尋ねてくるんだけどイチロウは起きていたことがないからね、朝とお昼の丁度あいだぐらいの時間ですだれの間から緑の芝生にまだ朝露があるのが見えるような時間帯に、ヨウコちゃんが家のハーブを持ってうちに来る、一緒にお茶を作ってそれを飲みながらチェッカーをしている、と彼女は言った。ヨウコさんは私が寝室で寝ていることを知っているのかと尋ねると、彼女はうん、と小さく頷いた。私の陣地の端には彼女の送り込んだキングの山が出来始めていた。日本に帰ったらブラックバスを食べてみましょう、と彼女は言った。ティラピアが美味しいならブラックバスも美味しいんじゃないかって、思うから。
 私が初めにタイ王国に来たのはまだ十代のころで、そこでも色々なことがあり頭をおかしくしたり突然駆け出してどこかへ行ったり、とにかく不健康なりに忙しくしていた。本格的に神経衰弱に陥って帰国したりもしたが療養後やっとのことでなんとか卒業した。帰国後は色々だった。もうすぐ三十というところまで私は生き抜いてきたし、アメコももうすぐ二十六になる。現在我々は全く素晴らしく健康的に生きているのだ。もう大丈夫だろうしタイへ再び出向きましょうとアメコの言い出したのに深い理由なんかはない、なんとなく現地を知っている人間がいる方が気楽なのだろう――当然私は気乗りしないのだった、この国はつまるところ未だ発展途上国にあることには変わりなく、魑魅魍魎の類がそこら中を歩き回っている――そんなところへ来るといつまた病気が再発してしまうかわからないのだ。それでも郊外なら平和に暮らせるでしょうと妙に説得力のあることを言われ、試しで半年ほどアユタヤ郊外に家を借りて暮らすということになったが、今になって思うと郊外なら平和という言葉のどこに納得したかはわからない。
 しかし、来れば悪くない――飛行機から降りるとたちまち封切られ、ノスタルジアのもうもうと立ち込める常夏の雑踏が伸びていき、バケモンの歩いている様子もないし半袖で健康そうな腕を振って晴れやかに歩くアメコを眺めていると何段も元気な気分がした。大きな川べりでゆうゆうと、泥が海へ――広大なシャム湾へ運ばれていくのを眺めては溜息をつくような日々も悪くないはずだ。


 ビールのグラスの側面で粒だった結露のひとつひとつが暗いナイトカフェの橙色を映しており、その中に私とアメコもあったがどちらかというと私ら二人よりは、周りで騒がしくフットボールを観戦している連中の方がしずくの中心にあった――この店にいるのは街で働いている男や女ではなかった。ナイトカフェは古いアパートの一階を雑に改築した、客を呼び込もうという気概の一切感じられないような代物だった。アメコはここにたむろしている連中が学生なのだろうと思ったらしかったが、私にはそう見えなかった。妙な連中だった。学生でないと思ったのは彼らが皆、明らかに歳をとっていたからだった――見た所三十は行っていないが二十五はいっているというところでギリギリ若者の顔をしていられる境界にいる人らだ。第一に学生であればもっとシャキッとしているはずだ――夜のカフェ全体を支配する怠惰な感情は全て彼らから出ていたのだった、学生であればもう少し固く身を寄せ合って顔を確認しあって盛り上がろうとするものなのだが、この若者たちは完全は弛緩していた。
 彼らは皆国内のサッカーユニフォーム――もちろんこれは応援しているチームとかではなく、貧乏な百姓の若者なんかは安くてかっこいいのでこういうものを着ることが多い。金持ちではないように見えるが、明らかに農民や隣国からの出稼ぎ労働者とも何か違っていた。もちろんアメコにはこの土地でうろうろしてきた過去がないので階級ごとにどのような格好を主にしているかというのはわからないだろう。私らはこじんまり二人用のテーブルで顔を寄せて話した。芸術家気取りは髪も伸ばしているやつが多い、柄シャツもその類だ。信用できるやつもいれば嘘っぱちもいる。だが、彼らは髪を伸ばしていない――と私は言った。アメコは、信用できるやつもいれば嘘っぱちもいるのはどこにいっても一緒でしょう、と言った。私は頷いた。もし髪を伸ばしていればここがインディーアートの自惚れと夢の巣窟だとすぐにわかるのに。彼らってきっとサッカーが好きなヒッピーだと思うのよ。聞いてみましょうよ?
 アメコは立ち上がり男たちの談笑の輪へ入って言った、こう物怖じしない人間がいるというのは私には受け入れ難いことだった。緑のワインボトルで作ったランプが天井でいくつも揺れており、その影は笑っている、そして室内の人数を多く見せた――サッカーを見ない連中もいたしサッカーユニフォームを着ていない連中もいた。
 あいつらは素晴らしい音楽を消費物に突き落とし歴史の闇へ葬ってしまいそうになっている――本来の尊大な計画はもう爆散した。この世の中は残酷なのだ――と正面に座っている男女が話していた。二人ともサッカーユニフォームを着ておらなかった――男のほうはドラえもんのプリントがされた古いTシャツを着ており、女のほうは虎の顔面が大きく印刷された黄色の野球ユニフォームを着ていた――言うまでもないが二人ともタイ人だ。馬鹿らしいがアメコの言う通りで人間を枠に入れて考えるとそうでないものまで一緒にみてしまうことになる。
 ドラえもんが私を見て「可哀想に、こっちのテーブルにくるか?」と言った。猛虎ガールも「しゃあないな、相手したるさかいに。生でええか?」とタイ語で私を誘った。生ビールなんて代物はこの国に存在しない、ただ彼女は確実にナマと言った。私は両手を合わせ、会釈をして、そっちのテーブルへ行き、猛虎のとってきたジョッキのウィスキーに口をつけた。ノンノンノンと首を振り、片手の指を立ててドラえもんはもう一方の手で自分の分のジョッキ、オレンジジュースの入ったジョッキをもらい、次に猛虎のビールのジョッキを受け取った。テーブルの上には私のウィスキー、猛虎のビール、ドラえもんのオレンジジュースが仲良く並んでいる。「ビールを頼んだんだからビールをくれよ」と私は猛虎に文句をいった。しかし猛虎は聞かなかった――勘弁してくれよ、この国には生もクソもないだろうに何が生でええか?だって――ごちゃごちゃ言わんと黙って飲めばええねん、アホ、と彼女はタイ語で私に言った。
 仕方がない、ジョッキに手をかけたらドラえもんがまた指を立てた――やれやれ、ドラえもんは今度はポケットからタブレットの入った透明の箱を出した。区分けされたプラスチックをカツカツと長い爪で叩きながら猛虎とどれにするべきかという相談をしている。馬鹿げた二人組だった――猛虎は「この日本人はナンジャク者やから無理させたら死んでまうで」と言ってピンクのビー玉を摘もうとしていたドラえもんの手を叩いた。いちご味より濃いピンクのビー玉はその拍子に弾け飛んで私のウィスキーのジョッキに入った――泡が立ち、ビー玉は溶けながらゆっくり沈んでいった。
「なんしてんねん、アホ、ボケ」とドラえもんが猛虎にタイ語で怒鳴った。
 私はジョッキを差し出し、変えるか?と言った。いやいや、弾け飛んだのがちょうどグラスに入るなんてすごいすごい、とドラえもんはいった。お前が飲め、と言い、自分のオレンジジュースと猛虎のビールには水色のビー玉を入れた。
「なあ、俺タイ語わかるんだぜ?」
「知らんわ、ドツき回すぞ」と猛虎が言い、それが乾杯の合図になった。これから私らはどこへ行くのだろうか、そんなことばかりを考えていた――もちろん、それは希望に満ち溢れている。彼らの言っていることはほとんどわかりやしなかったし、私の言っていることもほとんど伝わっちゃいないだろう、しかし私らは幸せになり始めていた。私はぱくぱく口を開閉しながら虹色の道の話を始めた――それは玉虫色に光る美しい路上だった。私の覚醒夢の中で迸る冴えた全ての糸、それらは脳の深奥あるいは宇宙の外縁からの伝達事項で、光り輝く糸の束にみえる――それらが道を編み上げるのだ、一人でにピンと張ったり緩んだりを繰り返しながら一つずつ冠水対策で三十センチ高く盛られた歩道を隆起させ赤と白のストライプを描く、それから黒く長い一本の街道を創り中央に目の冴える純真な白線を伸ばす――この太くまっしぐら遠くまで伸びて行く車道の中に煩悶の渦が巻き、波紋が広がってそこに反射が始まる――その反射が玉虫色のアスファルトロードを描いたのだ。
「どうしてなのか?」
 それはわからない、とにかく道が緑と青に輝いてそれからもっと輝いて伸びて行くのだ。そんな夢を私は見ているんだ。ドラえもんと猛虎にその話をすると二人は大笑いした、ほら言わんこっちゃないわ。見てみいこの男はこうやねん、無理させたらすぐへばんねん、なんて言う。私は彼らに尋ねた、一体これらの光は何に照らされた反射なのか?と、すると彼らは私をバカにしたように口々に言うのだ。もちろん上に光源が浮かんでいたりはしない、これらの光は道路そのものの輝きなんだ、見たことないの?
 夜中ひとりで歩いとったらたまにあるやろ道がきらきら光っとんの見たことないんかいな?――確かにあるとも、しかしそれらはこんなに明るくはない、銀のスパンコールを落っことしたくらいのもので大したことはないんだ。
 どうしてそんなことを言うの?とドラえもんは悲しげに言った。そして、銀色の輝きには様々な色が含まれているじゃないか――あなたがいつか見た水面の赤と橙とセキチクの輝く波、それからアメコ嬢の美しい澄んだ水のような青や緑――いつかあなたが達成したダイヤモンドと金に輝く聴覚、そんな反射だって含んでいるんだから――どうして君らは私の過去を知っているんだ?ほなもん誰でも知っとるわ、あんたの過去はみんなの過去やんか?君らの過去は?うちらの過去は大抵の人間には読めへんやろ、サンスクリット由来の文字で書かれてんねんで?あんたちょっとうちらと遠出せえへんか?と猛虎は言った。しない、言っていることのわけがわからないからな、それに話を戻そうじゃないか。どうして色々な色を含んでいる銀の光が私の夢の中ではああに光るんだ?猛虎は言った――ほんな何でも人に聞いとったらあれやわ、あんたやって聞かれたらめんどくさいやろ。とりあえず拡大されて目がびよーんてメガネでなってる人おるやろ?あれと一緒やわ。

 フットボールユニフォームの連中と一緒になってプレミアリーグの中継に夢中になっているアメコを置いて俺と猛虎、ドラえもんの三人は雨の日の鳥のような低空飛行を始めた――つまりこの薄ぼけたバーを飛び出して小型ラジオを小脇に街へ飛び出したということなのだが、夜の街の濡れたアスファルトを歩いて居ると遠くから野良犬の吠える声が聞こえてくることもありあまり素敵だとは思えず、そうこうしているうちに我々の会話もつまらなくなっていく、そしてしゃんしゃん歩けていたはずの足も頼りなくなった――ドラえもんは男として生まれたゲイで猛虎は女だった、そして二人は付き合っていた。自分には理解のできない世界だがそこにはリアリティがあった。己の限界を知って飛び上がれとこの美しい瞳を持った連中は叫んだ。その先にあったのは俺の知らない夜のタイ王国だった――誰も王国であることをよしとしていないのではないかという疑惑が俺の中には存在したが、それも想像に過ぎず彼らは王を知らず毎日気味の悪いピルを飲んでは夜の街に飛び出しているのだろう。ローカルバンドを見に行くと言って連れて行かれたのは別のバーだった――立派なベニューはないらしかった、彼ら曰くミュージシャンはこの街では飲み屋の添え物に過ぎず、それでもあまりに美しい音楽を奏でている。ナーガランドの伝説について猛虎は話した――俺の数年前に知り合った竜は西部の洞窟群に巣くって地下帝国を築いていた。しかし、それも限定的な知識に過ぎず水中にある帝国の方がここでは主だと言われたらその方が理にかなっているように思えるのだった。猛虎曰く水中で過ごしていると竜の美しい幻影がそこかしこにある――濁った水の中で縦横に動き回ることのできる竜の嗅覚は大きなナマズのそれよりも敏感で地震どころではなく一本の大河の源流から河口までに何隻の船があり何人が泳いでいるかまでもわかるというほどだということだった。彼らの話を聞いているうちに俺は竜に嗅覚があっても、泥水の中にいきているのであれば視覚が後退しているのではないかという考えが起こった。しかしそんなこともないらしく、彼らは時折水上に顔を出して街や王政、市民の表情を確かめることもあると猛虎は言った。我々は音楽を奏でている酒場を探して街を練り歩いた。しかし、歩けどもそんなものは見当たらず、おとなしく隠れ家のアナグラへ戻ってフットボールの中継でも見ていた方がよかったのではないかと思え始めた。
 酒場では頭の悪そうな飲み物を片手に赤ら顔の白人がタンクトップで談笑しているか、歩道まで椅子、テーブルを出してきてビールを飲みながらカードで賭け事をしているタイ人の老人がいるか――その中になかなかローカルの若者の姿を見つけることはできなかった。俺が見渡す限りではそのような街だった。しかし、決して活気付いていないわけではない、夜の脈動が一定のリズムで刻まれており、帰って行くトゥクトゥクや店じまいをした屋台などが音をたてて過ぎて行った。俺はそのようなつまらない歩行の中でも街灯の明かりに目がいった――この夜を彩る光はオレンジだとか白だとかそういうことだ。私が幻覚にみたような青や緑の玉虫色の静かに輝く世界などはない、ここであるのは一般的な東南アジアの夜だ――ぽつぽつと人が居り車が居り夜が更けていく田舎町だ。歩き疲れると俺たちは路肩に座りこんだ、ただただ道を行き交う車と人を眺めている、犬がかけてきて慌ただしくしているので何かわけがあるかと俺はずっとみていた。これは大きなゴキブリを追っている一生懸命に追っている、それが生きることの意味なのだ、夜になるとつまらない幸せを探しては走り回る、いいじゃないか。それで犬はばちんとゴキブリを叩き殺してしまった――が、それを食うかと見ていたが死ん途端興味を失った。とぼとぼ歩き去り、途中立ち止まり首を掻き、左右見ておもろいものはないかと悩み、また歩いてどこかへ消えた。君の故郷にはどんな夜があったの?とドラえもんが俺に尋ねた。
 俺はしばらく考え込んだ、宙を仰ぐときちんと黒い曇り空があった――俺の故郷も田舎町だ、日本のメインの島ではなくひとつ小さな島にある――本島からすると外国みたいなもんだぜ、嘘じゃないんだ。田舎町なんだけれど夜も明るいところなんだ、なんでかっていうと、そこには工場がたくさんあるからなんだ、夜はさ…赤いんだ俺の故郷では、煙突の炎が空を燃やしているんだ、海面と山並みだけが静かにしている――そういう風景だ。その時地鳴りがし始めた――俺はあたりを見回したがドラえもんも猛虎も特に何かを気にしている風ではなかった――尋ねた。当然のことだ、地鳴りほど気味の悪いものはない。川遊びをしていた子供時代を思い出したのだ――雨が降り出すと上流から山の岩盤を伝って恐ろしい音が響き始める、急いで荷物をまとめて帰るのだ。そういうのを思い出したからにはここでも俺たちは帰るべきなんじゃないかと思ったのだ。ドラえもんと猛虎はじっとラジオの音声に耳をすませていたが俺には彼らが何を言っているかはわからなかった、ノイズだ。それから、しばらくするとラジオの音声が乱れた、ドラえもんも猛虎も顔をゆがめたりはしなかった――ラジオが古いせいだと考えているらしかった。俺はとにかく気味が悪かったので帰ろうと言った。それで三人で歩き出したが、俺はこの街の地理をまだ覚えてはいなかった。ドラえもんはどかどか歩き、猛虎はひょこひょこ俺の横で揺れていた。イチロウ君ってさ、あれちゃう?と何かを言いかけて猛虎は黙った。辺りがぐんと暗くなった街灯が減っていくのが分かった、猛虎の着ている虎の顔をプリントした黄色のユニフォームはバカな眼光を光らせている。星は見えないんだな、と曇りの日に当たり前のことを考えていた。猛虎はちゃんと話すことを考えているのだろうか?それとも最初から話したいことなんかなかったんだろうか?若い頃に戻ったみたいやなとか思ってへん?と猛虎は言った。俺は頷いて、首を振った。タイ語で否定疑問文にたいして同意を示す際、肯定すべきか否定すべきかがわからなくなったのだ。ノーだ、間違いない。俺は確かに大学の頃に帰ってきたみたいだなって今思っているんだ。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない、それでもなんだか不思議な気持ちだ。
 何がちゃうねん、あんた別にそんな老け込んでるわけでもないしやな…猛虎は悲しそうな顔をして――俺は老けたよ。大いに老けたよ、毎日悲しいんだ、もう青春時代は帰ってこないのかって思うと悲しいんだよ。何が変わってん?――人がたくさん死んだ、あいつらが着実に遠ざかっていく、俺は年を重ねている一年ごとに霞んでいく、彼らが。それに、俺自体は何も変わってないんだ、大学生だったころから変わったことなんかないつもりなんだぜ?でも俺は――俺は今何も持っていないように思える。学生時代というひとまとまりの十年間があるだろう、赤ちゃん時代、子供時代、学生時代ってあるだろう?その次がないんだ大人時代なんてないだろう?しかもあっても俺にはまだ始まっていないように思えてさ。――キッショいな、猛虎は笑って歩いた。相変わらずこの女はひょこひょこ歩く。そして俺らの前ではドラえもんが歩いている、ドタドタ歩いているのだ。彼は痩せたを全く揺らさないで歩く――グレーのTシャツに印刷された何人ものドラえもんが笑っているように見えるのだ。彼は美しい人だ、ブレない人に俺は憧れて生きているのだから、猛虎は言った――お前さ、学生時代やって何もなかったんやから今更そんなこと言ってもな?――しかしよ、人間ってそういうものなんだぜ?昔のことって綺麗に見えんじゃん、だから困っているんだよ――厳密には困ってないよ、そりゃ俺だってそういううだうだはもう卒業したつもりだからね。やけに慌てて時々病気みたいに落ち込んだり、そんなことはなくなったつもり。一種の諦め。でも困るのが時代がないということなんだ。俺はもう開き直って前の時代を愛して生きていきたいんだけれどいつまでも前の時代が学生時代じゃ良くないさ、何年経ってると思ってるんだ、俺は一生ずっとこのポストティーンエイジャー時代を生きていくのか?だから遠ざかっていくって言ってるの。学生時代の次の時代はそろそろ終わっていいはずさ。我慢ならないね。
 めっちゃ喋るやん、と猛虎が笑った。俺たちは気づけば知らない運河にかかった橋の上に立っていた。ドラえもんがポケットから大きな懐中電灯を出して「これを見てみなよ」と言って照らしたのは水面だった――鏡のように静かな水面だ、生き物の気配すら感じられない深緑に濁った水面だ。波がないな、と俺は言った。それから猛虎に話の続きをしようと思ったら、彼女は「ほななんあんたアメコちゃん可哀想やろ、彼女は今を楽しんでるんちゃう?それなのにあんただけうだうだ、今はええ時代やで」――こんなこと前にもあった気がするな。私は苦笑いをするしかなかった。ドラえもんが遠慮なく懐中電灯のビームを振った――川沿いのスラムじみたボロ小屋の黒いシルエットが照らされたらトタンやらボロ板やらが映った、バナナの木が揺れている――この運河もチャオプラヤーと繋がっているのだろうか?当たり前やろ、まあこの辺はどの川もそうやわ、そら急にアマゾン川から運河引いてきたりはせんがな――ひとつ納得した気になって俺は本当に帰ろうと言った。仕方がないな、という風に二人も頷いてやっと俺たちはもといたアナグラのようなバーに帰ろうとした、が、その時水が大きく動いた。俺たちは橋の上から水がみるみるうちに増えていくのを眺めていた。


 私と猛虎、ドラえもんの三人は、背後から水が溢れ出す音を聞きながら、歩いてバーへ戻った。洪水は一気に水が流れてくるとかそういうのではなくて、じわじわと水位が上がってくるという感じだ。標高ほとんどゼロの平地のど真ん中なので下水とかから水が上がってくるわけだ。それで帰り道は相当賑やかだった。夜中であるにも関わらず、無数の鳥が叫んでいた。みんな起きて様子を見に出ていた。
 思い出していたのは大学時代を過ごしたバンコク北部の雨季だった。突発的に降り始めては一面を沈めてしまう――膝まで浸水したンガムヲンワン通りを車が潜水艦のように過ぎていく――私は大雨で濡れた制服のシャツが胸の皮膚に干渉するのを愛おしく思いながら家路を急いだものだった
 アナグラのようなバーはその中華風アパートの一階なのでもうだいぶ水に浸され、アメコとフットボール観戦者たちは、店の中のガラクタを全部二階にあげ終わった後だった。多少の浸水はよくあることであったから、歩道は車道より二十センチ、建物はさら五十センチぐらいは高くなっていたので、店内は足元十センチ沈んでいるぐらいだった。店の端にテーブルが寄せられていて、その一つの上に冷蔵庫があった、アメコと若者たちはカウンターの上に座って一生懸命ビールを飲んでいた。氷がなくなってしまうとビールなんて飲めたものではなくなるのだから、というのが理由だった。
 やがて、夜が明ければ町全体が青ざめるような大洪水であったことが明らかになった――平野の町はすっかり姿を変えていた。真っ青な青空を映した水が一面に広がっているなかから建物がいずれも間違っているように顔を出している。私たちはそんな様子を酒を飲みながら眺めていた。氷はもうなくなってしまったが、停電になったコンビニからどうにか溶けかかった袋氷を数袋買うことができた。太陽は海水浴にピッタリというべき熱をもたらしていて、我々は正午以降もっと熱くなるのを気にしないように、慌てて今の暑さをしのいでいた。
 街の人間は、というと皆自前のゴムボートを引っ張り出してきて、見学へ行っていた。珍しい光景で皆がみんな喜んで、嬉しくなっている、色とりどりの傘をさして呑気にワニを探している。その傘の中にやはりビニール傘はひとつもなかった――僕は隣でビールを飲んでいる猛虎に、タイ人はあまり傘を持たないのにどうして?と尋ねた。知らんがな、まあ家じゅう探したら一個ぐらいはあるんちゃう。
 プレミアリーグのうちの一人しきりにテレビを叩いていたが、ようやく点いた。ニュースをやっている。彼は言った、上流で土嚢を重ねていたらしい、決壊したらしい、それも深夜に。工場の方は大変だろうけど、ここはそういう土地だものなぁ――店主らしき若者が網に入った大量のナマズを抱えて帰って来た。彼はしばらく考えた後、その網を壁にぶら下げた。ナマズは床のうえで泳ぎ始めた。匂う、とアメコがいった。誰かが魚だから、と言った。店主は、片付けていた机から椅子を下ろして、唐辛子やナンプラーを並べ始めた。一人がニュースなんて糞くらえ、と言ってインターネットに繋いで、アメリカのバスケットボールの試合の中継をしている違法賭博サイトを映した。全員が胡坐の向きを変えて画面に注目、彼らは時差のあるスポーツを好むらしい。スポーツの種類が変わっても二秒で熱中できる。バカな連中だ仕事はしていないに違いない。

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日光浴(訳詩)

浮浪者が
玄関先で
東向きの壁にもたれ
暖を取る
1933年11月1日の今日

若い男は
垢で汚れて
軍服を身につけ
体をくねらせ
背中を掻いている

太っちょ黒人女は
近くの
黄色い家の窓から
身を乗り出して
欠伸する

明るい陽射しへと





※ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩。彼は見た情景をそのまま書くという手法をとる。何ら美化せず、誇張もせず、説教臭くもない。リアリズムといえばリアリズム、無骨といえば無骨。そこに彼の魅力がある。この詩では、明示されてはいないが、作者の貧しい庶民への愛情がそれとなく現れているように感じられる。だって、愛情がなければ、詩の対象として選択されないだろうから。最後の一行に希望が見いだされるかのようである。

この詩の当時、アメリカは不況の真っ最中で、行き場をなくした浮浪者が人の家の壁に寄り掛かる様子はよく見られたそうだ。第一連で東に向いたところで暖を取るというのは、太陽が当たっているところにいて、冷えた体を温めている、という意味であろう(なお、原詩の'negress'は現代では差別用語であるようなので、注意されたし)。訳語では、全体的に貧しい庶民の雰囲気を出してみた。以下は原詩である。原題は "The Sun Bathers"。


A tramp thawing out
on a doorstep
against an east wall
Nov. 1, 1933:

a young man begrimed
and in an old
army coat
wriggling and scratching

while a fat negress
in a yellow-house window
nearby
leans out and yawns

into the fine weather

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ウンチのはなし ーー ウンチ短歌十二首 ーー

ウンチのはなし ――ウンチ短歌十二首――

笛地静恵





学校でウンチもできぬ子どもたち帰りの道でもらしてしまう


もらしてもいじめられない一年生あすはわが身とおそれてるから


おとならの認知の歪み一身にウンチのゆがみまっすぐになれ


ウンチしない人間なぞは世界中にひとりもいないぞ死人以外は






水飲めば上から下へオシッコへ食べたものからウンチとなるぞ


真っ白の和式トイレは前を向きまたいで用を足せばいいのさ


大いなる馬糞の山のもっこりと盛り上がる朝登校をした


子どもたち満面の笑みうかべつつうんちうんちと走り抜けてく






コロコロのウンコチンチン原理主義なにも変わらぬそれでいいのだ


人間は生態系の一部だぞサステナブルな自然の一員


ぐるぐるとママのお腹の鳴っている胃から腸へとウンチに変わる


子どもらはウンチウンチとくりかえすウンチのはなし大好きだから



【ノート】子どもたちが、学校で自由にウンチができないというニュースをきいた。からかわれるという。なんという醜悪なバイアスだろう。大人の社会の歪みを一身に受けている。排便は恥なのだ。彼らは、大便を隠そうとしている。脱糞の真実の臭気を隠そうとする。ある新一年生などは、がまんできずに、授業中にウンチをしてしまった。同級生たちに、からかわれたという。登校できなくなってしまった。かわいそうである。先生たちは努力しているのだろう。家庭でのしつけも重要だ。大人の力で変えられることだ。せめて、家にはない和式トイレの使い方だけでも、授業で実地に詳しく体験させてほしいものだ。2017年5月17日の作 2025年5月11日 第二稿

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 1

 10

立夏

夏草の
香りが昇る
十三時
草の翠に
空の蒼さに

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嗤うしゃれこうべ(黒有栖)

漆塗りのしゃれこうべ
いったい  何時(いつ)からあるのやら
我が家の物置の片隅に
ひっそり目立たぬ暗がりに
小箱に入れて仕舞って在る

これが誰の骨なのか
どんな由来の物なのか
親族の誰も知らないけれど
子どもが十歳迎えたその日に必ず
親は箱を開いて存在を子に伝える

私もかつて「それ」を見た
落窪んだ眼窩が怖かったのを覚えている
暫くは悪夢にうなされた

このしゃれこうべは たまに嗤う
ケタケタ  ケタケタ  揺れながら
それに合わせて小箱もコトコト  コトコト
音が鳴る

だからと言って我が家に不幸が降りかかる
なんて事は一度もなかった
誰かが怪我をすることも  家が火事になるとかも
何も起きなかった

ただ しゃれこうべが嗤うと
この村の中で誰かが  近いうちに死ぬ
だから物置から音がしたら
我が家では屋根の上に
黒い幟ををたてるんだ
それがしゃれこうべが嗤った印だよ

 36

 2

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夏の唾液

 2014年8月の病室はぬるくて、病人の発するあまい匂いと看護師の運ぶ金属てきな空気が混じってサイアクの状況を生み出している。
 わたしは、もっとはげしいどこかで、死なないジュリエットとしてしたたかに生きたいのに、しみったれた明るい病室で、週に一回親戚の話し相手をしていた。
 20世紀の終わりと共に、バンパイヤが絶滅したというほんとのことをわたしに教えてくれた英子おばさんが、さいごに昔の婚約者に会いたいだなんて言い出したのは、8月10日のこと。
 わたしはいいよと言って、病室の外に出た。そして廊下で、誰かの住所と名前の書いた、やけにしっとりした紙をむしゃりと無理に口に含んだ。
 夏の唾液はだいたいすべてを溶かすことに適していたし、多くのものがたりは夏を描いて終わる。帰宅したわたしが、夏を描こうとペンを取り、ミミというバンパイヤについて書いたこと。

 やはり誰も忘れられたくはないのだろうと、トゥシューズ同士の触れ合いを見ていて思う。ミミは、肌寒いくらいに冷えた観客席で、羽織っていたペールブルーのカーディガン越しに右腕を撫でた。ごく薄い産毛がふっ、とゆびさきにあそんだ。やはりミミは何度観劇しても、泣いてしまう。ひとりでは、きっと誰も日の出まで踊りきることなどできないから、そしてミミはひとりきりだから。
 あの夏も、その夏も、ひとりで立ってきたから、
 その結末がこうなのだとしたら、わたしはなんてさびしい生を生きたのだろう、結末なんかというものは、始まりにすべて暗示されている星占いだというのに、それを知っているわたしが、どうして、だれかを愛する余白を持つことが出来ようか。
 要は余白なのだ、とミミは思い、観劇中にたくさんの涙の粒を落として、うちがわに余白を作ろうと、試す。それが意味を持たない行為だと知っていても、ミミは諦められなかった。
 やはり誰かがわたしを覚えてくれていなくては、わたしの生は、真夏の窓の向こうのように白い光。一方で、ミミは今まですれ違った誰のことも覚えていない、数百年生きて、誰のことも記憶していない。ひとびとに付随するエピソードだけを記憶している、
 ミミに、忘れないで、という言葉を残した人は多くいた。
 祈りだった、
 祈りはどこにも行かずに、漂って、やがて誰かの唇に付着して、それから無意識にその舌で拭われ、溶かされてきた。なにせ、夏の唾液は、あらゆるものを溶かすことに適しているので、
     あらゆる記憶が、夏の唾液に、 
     溶かされてきた、

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