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2021/01/01 12:00:00

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投稿作品一覧

なんだろう

体がないと生きていることにならないってなんだろう
体が不自由ってなんだろう
体が病気になるってなんだろう
体が老いるってなんだろう

体がないと嬉しいとか腹が立つとか悲しいとか楽しいとかそういうのが
ないのだろうか

僕らは
音でも風でもなくて
水でも砂でもなくて

生きていることになっている

体があると生きているから死んでいくことにもなるってなんだろう

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 2

 5

うつら、うつろ

うたごえがとおくできこえる
つきよにてらう
ろうにんぎょうのあざけりや
にがわらいにすら
うなだれっぱなしのぼくはきづかない
つらいわけじゃないのに
ろくでもないくうきょなひろがりに
うろたえつづけるしかできないだけ



*********

おひさしぶりーに書いてみました。
なんか色々変わってますね。
批評・論考ってなんだろう?

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 1

 4

左手の蒼穹

あの日
骨ごと断つ勢いで斬りつけた左手首に
病院のベッドの上であなたは
切り取った雲ひとつない青空を
私の傷口に深く埋めてくれた

重い曇天に覆われてる毎日の
奇跡的に雲が途切れた瞬間の
陽光に輝く空をあなたは心臓に据えて
その断片の半分を
私に
傷が塞がったと同時に
私のこころは左手首に固定された

傷に障らないように
泣き笑いしながら
移植してくれた
どれほどの暗がりにいようと
蒼穹は私の中にあるからと
その切片は本当にちいさなものだけど
黒々とした雲の上の世界の
脈打つピースを忘れないでくれと
嗚咽に変わるまで言い聞かされた

傷跡は一生消えないだろう
けれどそれは埋められた空が
忘却されない意味になる

これは数年前の話
いってきます、とあなたは朝玄関を開ける
私は左手で手を振る
いってらっしゃい、と笑顔で

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 5

 4

鬼灯さんと僕ら

鬼灯さんがやってきて
   猫たちに今日は誰も死んでないか
      迷ってないか、尋ねている

   赤い鬼灯が体中から咲いていて
彷徨ってる人がいたら渡してあげなさい
   と、風船みたいな鬼灯を手渡してくれる

季節によっては白い花を咲かせている
鬼灯さんはとにかく枝葉や花に埋もれ
怒ってるのか笑ってるのかも解らない

鬼灯さん、とか緑の人とか
あっちさん、案内さん、なんて
呼ばれている、いつからいて
何処からきたのか?

誰も
知りはしない。

たまに村が一望出来る
山の斜面の岩に座って風に揺れていたり
牛や鶏と世間話をしている
鹿が頭を下げて梟が頷いて 雨が降れば
全身で受け止めて恍惚と立っている

ずーっとむかしのむかしのむかしの むかし

   通夜の夜、鬼灯さんが
          爺ちゃんの胸に
      まだ青い鬼灯を幾つもおいていく

見る見るうちに赤く染まりぱっかり
破れて実だけが残る、それを婆ちゃんが
受け取って僕らは皆んなでそれを食べたのだ

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 6

 3

おいしいスープカレー

 俺の名前は高部翔太、都内にある商社のフツーのサラリーマンだ。
 年齢は38歳の働き盛り、仕事は程よくこなし、給料はそこそこ。
 1LDKマンションで妻と娘の3人暮らしている。

 さて、これといって何もない土曜日の休日だが楽しみにしていることがある。
 なんと娘が夕食を作ってくれるらしいのだ。
 ちょっとしたことでピーピー泣いていたあいつが料理を作るなんてな。
 包丁で指でも切らないか心配だ。

 ――親バカだって?
 まァそう言うなよ、親にとって子供は何歳になろうが子供なのさ。
 それより、娘はどんな料理を作ってくれるのだろうか。

『日経平均株価は今日も下落しました』

 時刻はAM19:15になっている。
 テレビではニュースをやっていた。
 堅苦しい七三分けのベテランアナウンサーが淡々とニュースを読み上げている。

 ニュースの内容だが経済がどうたら、政治がどうたらとよくあるものだ。
 話す内容を聞くと、世間では不景気というヤツがまだ続いているみたいだ。
 するとリビングのソファーに座る女性が喋った。

「暗いニュースばっかりね」

 彼女は妻の風音。
 仕事はある総合病院で看護師をしている。
 奥様との馴れ初めはだって? 芸能リポーターみたいな質問だな。
 ちょいとカッコ悪い話が――ある朝の通勤途中、ドジって駅の階段から転んで足を折ってな。
 担ぎ込まれ入院した病院で彼女と出会ったのが最初さ。

 出会った当初、可愛い看護師が担当になって喜んだが……。
 風音はつっけんどんな態度でとっつきにくい印象の方が強かった。
 だがある日、病室のテレビでプロ野球を見てると……。

「あら……今日はデーゲームだったんだ」
「今日は土曜日ですよ」
「そうでしたね。こんな仕事なもので曜日の感覚がわからなくなる時があって……」

 俺の食べた昼食を下膳しながらもチラチラとテレビを見ていることに気付いた。

「野球好きなのかい?」
「えっ……」
「さっきからテレビをチラチラと見てるよ」
「それは……」
「退院はもうすぐだし……どうかな一緒に観にいかない? 偶には羽を伸ばして休むのも必要だよ」

 普段の俺なら絶対言わないベタなお誘いの言葉だ。
 言われた風音は少し困った顔になっている。

「……困ります」

 俺といえばどう言葉を続ければいいか困った。
 とりあえずプロ野球の話題を続けることにした。
 彼女の反応が欲しくてもう必死だったんだろう。

「俺さ東京サイクロプスのファンなんだ。去年の浪速メガデインズとの日本シリーズは……」
「いい加減にして下さい」

 風音は足早に病室から出ようとする。
 俺は彼女の手を取った。

「俺、真剣に君のことが好きになったんだ」

 不思議と出た言葉だ。
 思い出すだけで恥ずかしい――。

「勝手に好きになるのは迷惑です」

 この時の風音の反応は冷たかった、当たり前だ。
 いきなり患者に告られても迷惑なだけだ。
 でも……。

「偶には羽を伸ばすことも必要ですね」
「じゃ、じゃあ……」
「友達からですよ」 

 こうして俺達は徐々に仲を深めて――。

「ハァ……」

 風音は溜息を吐くと俺のいる方向を見た。

「こう不景気のニュースが出ると『お前は病院勤めだから安定してるだろ』ってチクリと言われたわね」

 いや……本当にスマン……。
 ニュースなんかでも、私立病院が赤字経営に陥り倒産する記事を何度か拝見している。
 医療職だからって安定してるワケじゃないのはわかっているんだ……。

「病院も潰れる時代だし、看護師も大変なのよ?」

 わ、わかっている本当にゴメンよ。看護師は大変だよな。
 夜勤は続くし、めんどうな患者や家族、それに医師も癖のある人がいるらしくよく愚痴をこぼしていたな。

『続いてスポーツです』
「ん……富田くんだ」

 ナイスだアナウンサー。
 少し白髪が増えたアンタだがよくぞ話題を変えてくれた。

『東京サイクロプスの富田匠選手が引退を表明しました』
「あっ……引退するんだ」

 東京サイクロプスの富田選手が引退するようだ。
 この選手は思入れ深い、風音との初デートでのプロ野球観戦……。
 あの試合での先発投手が富田選手だったからだ。
 高卒2年目でプロ初登板の試合。だけどボカスカ打たれ5回を持たずにノックアウトされた。

 でも、懸命に投げる富田選手を二人で応援したっけ。
 それ以来だな、俺達が彼のファンになったのは。
 その富田選手も球界を代表する投手になった。
 しかし、本当に時の流れは早い。あの富田選手もとうとう引退するのか。

「あなた、富田くんが引退ですって」

 風音が俺を見て寂しく言った。
 仕方ないさ『人間が死ぬ運命から逃れられない』のと一緒でプロは引退がつきものさ。
 あの時の選手が40過ぎまで現役で続けられたのは凄いことじゃないか。

「お母さん、出来たよ」

 娘の愛梨だ。
 2年前に大学を卒業した愛梨はあるIT企業に勤めている。
 「もう独立して家を出ろ!」って言いたいところだがそうはいかない。
 愛梨の収入がウチを支えているみたいだからな。
 
 それに大学へ入学するために借りた、奨学金も返済しなきゃならないみたいだ。
 愛梨に申し訳ない気持ちで一杯になった。

 俺がもっと元気だったなら……。
 俺がセンチメンタルな気持ちになると風音が言った。

「おいしそうね。これってスープカレー?」
「うん。お父さん昔からカレー系の料理好きだったから」

 ガキっぽいが俺は昔からカレー料理が好きだった。
 カレーライスはもちろん、カレーシチューにカレー鍋……。
 カレーさえあればなんでもできるっ!
 てな具合でカレーが好物で、食べると元気が出て仕事を目一杯頑張れた。

「父さん、戦隊モノの黄色みたいな人だったわね」
「お母さん、もうそれ古いわよ」
「古い?」
「うん、今どきの戦隊のイエローは違うのよ」
「ふふっ……本当にあの人、優しくていい人だったわ」

 風音、嬉しいこと言ってくれるじゃないか……。
 もっと俺が元気だったころに言って欲しかったぞ!

「そろそろ皆で食べましょうか」
「うん、その前に……」

 愛梨は作った俺の前までカレースープを持って来た。
 小さな膳の上にスープカレーを乗せる。
 いい香りだ、これは絶対に美味いに違いない。
 目にしているも食べられないのが残念でならない。

「もうあれから12年か……私、毎日頑張っているよ」

 そうかそうか頑張っているか、でも頑張り過ぎて体を壊すなよ。
 何より健康が一番であることを俺自身が痛感している。

「父さん、今日は大事な報告があるの」

 大事な報告……一体なんだろうか?

「今ね……私、真剣にお付き合いしている人がいるの」

 ファッ!?

「今度お父さんにも紹介するから」

 な、なん……だと……。

「彼、お父さんには『写真でしか会えない』のが残念だけど……きっと気に入るはずよ」

 ど、どんな男だ!?
 売れないロックバンドのミュージシャンだったら許さんぞ!
 もしそうなら「娘はやらん!」と頑固オヤジのノリで言いたい!
 ところだが何も出来ん!
 直接に話せない状況だからだ!
 風音! このサプライズ発言に君はどう思う!?

「あなた、愛梨の彼氏はとってもいい人よ」

 お、俺より先に会ったんかい!

「それにあなたと違って顔もいいし、背も高いし……」

 ど、どういう意味だよそれは!
 お前はいつも余計な一言が多いんだよ!
 フゥ……怒っても仕方がないか。
 風音は俺がプンスカしていることに気付かないだろうし……。

「お父さん、それじゃあ一緒に食べようか」

 愛梨は静かに手を合わせた。
 仏壇前にはカレースープの匂いが漂っている。

 今日は特別な日――そう『俺の命日』だ。
 そんな日に娘からとんでもないことを告げられてしまった。

 それにしても、おいしいカレースープだ。
 俺は娘が作ったカレースープの匂いをじっくりと噛みしめる……。
 これなら彼氏――未来の花婿も喜ぶだろう。

 ともあれ二人とも! 俺の分まで幸せになってくれよな!

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 3

論考:文芸投稿サイトの運営というおせっかいBBAの覚書


Creative Writing Spaceが正式にオープンしてから、気づけばもう8ヶ月ほど。ありがたいことに、ここ最近さらに盛り上がりを見せているように思います。参加してくださっている皆さんがそれぞれの形で楽しんでくださっていたら、それがなにより嬉しいことです。


文芸投稿サイトの立ち上げに関わるのはこれで二度目。だからこそ、自分なりに思うことがあります。投稿サイトは「町内みんなで作るカレー」のようなものだと思っています。当然ですが、作品ひとつひとつの著作権は作者にあります。運営がしたことといえば鍋を持ってきただけ。中身を所有しているわけでは決してありません。


Aさんのじゃがいも、Bさんの人参、Cさんのルー、Dさんが隠し味に入れたスパイス。それらでできたカレーは、みんなのもののようでいて、誰のものでもない。鍋を持ってきた人間が、鍋はうちのモンやし、中身もうちのモンだろう、なんて言い張ったら、町内の寄り合いのレベルでも、気が狂ったと思われるのがオチでしょう。私たちはちょっと変な形の鍋を持ってきて、鍋番をしているだけ。


もし仮に、皆さんが運営をとても嫌いになって、あるいはもっと元気な人が現れて、カレーごと大きなタッパーに詰めて別の鍋に運んでしまったら、どうでしょう。理屈の上では文句を言えるのかもしれませんが、コピーにコピーが重なって、日本法の及ばない海外サーバーに移されたりなんかしたら、相当に面倒なことになる。つまりこの場は意外と脆く、曖昧なことでなんとか成り立っているのです。だから、みんな仲良く、なんて詰まらない話がしたいのじゃあありません。みんな仲良くなくても、示し合わしたわけでもないのに、なんとなくオリジナルのカレーが出来上がっていく。それが文芸投稿サイトの醍醐味だと感じているのです。


運営者なんて、言ってみれば「町内バレーボールクラブの言い出しっぺのおばさま」です。そのおばさまが一番上手いわけでもなく、バレーボールを分かっているわけでもない。むしろ「同じようなプレイを延々と繰り返すことしかできない下手くそ」と評判の人かもしれない。人のおせっかいなんか焼いてないで、練習しろよ、と内心疎まれていたり、バカにされていたりもする。それでも、そういう人がいなければ場そのものが生まれなかった。だからみんな「まあ下手でどうしようもないけれど、いつも補欠用のベンチに座らせておくのもね」と情けをかけて、たまに試合に混ぜてあげる。運営なんてそんな程度のポジションで丁度良いでしょう。


近々また大きなアップデートを予定しています。その後はさらに尖った機能をあれこれ作っていこうと思っています。文芸投稿サイトにこれまで縁がなかった人も「ちょっと試してみたい」と思うような仕掛けを施したらどうなるのか。そんな実験を、日曜大工よろしく、日曜カレー職人の気分で楽しんでいます。


数年前なら、アプリや機能を一つ作るのに何ヶ月もかかるのが普通でした。でも今はAIを使えば半日でベータ版ができる。だから「とりあえずやってみよう」と気軽に思えるのです。文学と関係あるのか?と聞かれれば、まあないですよね、と答えるしかありません。でも、バレーボールクラブの主催のおばさまは、バレーそのものよりも実は試合後にみんなで作るカレーを楽しみにしているのかもしれません。言い出しっぺなんて、所詮そんな程度のものです。


いや、そんなんじゃダメだろうと主張する「硬派」な方々がいて、私たちを批判していたりすることは知っています。しかし、自称・ガチ勢の人が孤軍奮闘したところで、場を荒らして停滞させる以外の何にもならないのは文芸投稿サイトで繰り返しみてきた光景です。ここにいらっしゃる方々はそんなことに無縁の方々か、そういうのはとうに卒業された人たちでしょう。色々な出自を持つ人たちが、なんなら禍根を残していてもおかしくないかもしれない人たちが、あたらしい場にコミットくださって楽しんでくださっていることを、とても豊かなことと感じております。


文学の意義がそもそもあるのかどうかすら揺らいでいるこの時代、そのことに正面から向かい合わなければ、現代性がない。そんな話をよく聞くわけですから、そのくらいのズレが運営者にあってもいいんじゃないでしょうか。

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 6

フェルニアスの剣

 古より伝わる白鋼の剣がある。
 その剣は白絞色の刃軸を持ち、月の光に射されるたび、凝りつくことなき光の緋箔を放ったという。
 その剣は無名ではあったが、ある時から<フェルニアスの剣>と呼ばれるようになった。
 名の由来は白銀の體を持つ<人狼フェルニアスの骨>より生み出されたことによる。

 フェルニアスの骨は神秘と力の象徴とされていた。
 その骨はただ硬いだけではなく、鋼よりも優れた柔軟性を持ち、鍛冶師の手によって容易に加工が可能だったと言われている。
 この性質は通常の金属では不可能な強度としなやかさを兼ね備えた武具を作り出すために理想的であり、古代の鍛冶師達の間でも特に貴重視されていた。

 そんな曰く付きの<フェルニアスの剣>であるが、伝承では王国ピュリタニアにある隠れ里<モーンリス>に存在すると言われている。
 その威力は凄まじく、魔獣の固い肉を斬り、龍の骨を断ち、鉄を容易く裂くと伝わる。
 この剣の持ち主は太古の鍛冶師であり、各地で魔獣退治を行ったとされる小さな英雄<アグナス>。

 最近発見された歴史書の記録では彼は実在の人物で、銀灰色の髪を持つことから<灰月の鍛冶師>と呼ばれていた。
 記録ではこのアグナスという男は孤独だったという。
 幼少期、彼は鍛冶師オリンに育てられたが母の記憶はない。

 母はアグナスが生まれて間もなく流行り病により亡くなり、彼はオリンにより男手一つで育てられた。
 父オリンは無口で厳格な人物で、幼いアグナスに容赦なく鍛冶の技法を叩き込んだ――それは父としての愛情、息子に生きる術を与えるためであった。

「アグナス、最初にしては上出来だ」

 アグナスが最初に作り上げた剣は幼い手の中で何度も形を変え、やがてひとつの形を成した。
 その剣は粗削りではあったが、どこか不思議な輝きを宿していた。
 オリンはそれを見て初めて微笑み、「お前は剣に魂を込める男になるだろう」と呟いた。

 しかし、運命は彼ら親子を過酷な試練へと導いた。
 ある夜、鍛冶場の火が消える前に、闇にまぎれて現れた一団がいた。
 その者達は銀の毛で覆われた人狼の集団で鋭い牙と金色の瞳を輝かせていた――。
 人狼達は「フェルニアスの一族」と名乗った。彼らはオリンを取り囲むと、激しい怒りをぶつけるように声を上げる。

「人間よ、禁忌を犯したな! 何故、我が愛するルナリエを安寧なる<モーンリス>へと弔わなかった!」

 その言葉にアグナスは何が起きているのか理解できなかった。
 震える膝を抱えながら、アグナスはただじっと耳を澄ませていた。  
 父の声が途切れるたびに、不安が胸の奥を締め付ける。  

「神さま……お願いです……父さんを助けて下さい……どうか……」

 小さな手が祈りの手を形作る。
 怒号と唸り声の渦の中で、言葉の意味も掴めず、ただ父が何かを失おうとしていることだけが、皮膚の奥で理解されていく。  
 息を殺しながらも、涙は止めようがなかった。
 <モーンリス>とはどこなのか、この怪物達は何故父のことを知っているのか、疑問を持ちながら暗い床下に隠れ、息をひそめ、床板の隙間から覗き聞いていた。

「お前達の掟は理解はするが――」

 幼きアグナスが隠れることが出来たのは、オリンが鍛冶場の異変を先に察知したからである。
 鍛冶場の周囲に漂う不穏な気配、遠くから聞こえてくる低い唸り声。
 何かを秘匿とする彼の直感が、夜の危険を確信させ、愛する息子を匿うことが出来たのだ。

「禁忌だと? それが何だというのだ?」

 オリンの声は静かだったが、その底には揺るぎない意志があった。

「愛しいものの遺骨を使い、剣を鍛えた。それの何が問題だというのか。あれはルナリエ自身の願いでもある――になりたいという想いだ」

 それは誰にも理解されぬ願いかもしれない。  
 だが、ルナリエは確かに語っていた――「形を変えても、あなたの傍にいたい」と。  
 オリンの独白は、まるで遠い昔の誓いを反芻するようであった。
 途中、アグナスは父の声は全く聞こえなかった。
 恐怖もあるが、人狼達の唸り声により書き消されてしまったのである。

「私は後悔していない」

 オリンの言葉を聞いた瞬間、人狼達は一斉に吠えた。
 その声は、怒りと悲しみ、そして憎悪が混じり合ったものだった。
 その吠え声は鍛冶場を震わせ、火床の赤い炎が揺らめき影を踊らせた。
 暫くして、父オリンの断末魔が聞こえた――。

「父さん!」

 音が消え、沈黙が訪れた。
 どうやら恐るべき人狼達は去って行ったようだ。
 何もないことを確認したアグナスは床下から這い出ると、即座に変わり果てた父の姿を発見した。
 体中は鋭い爪で切り裂かれ血まみれとなり、息も絶え絶えとなっていた。

「アグナス、父の願いを聞け――お前は打ちかけの剣があることを知っておろう」

 オリンの声はかすれて弱々しかったが、その中には確かな決意があった。
 彼の手は震えながら鍛冶台の方向を指していた。
 その先には未完成の剣が置かれている。
 この剣はアグナスが物心ついたときより打たれているも未完成品だった。
 未完成品ではあるが、その刀身からは淡い光が脈動しており、まるで命を持つかのように鼓動を刻んでいるようだった。
 
 父が息を引き取った瞬間、剣の脈動がわずかに強くなった気がした。  
 まるで、オリンの最後の鼓動がそのまま鋼に刻み込まれたかのように――。  
 アグナスはその震えを感じ、剣に手を伸ばした。

「この剣は――お前が完成させるのだ――それがルナリエの魂との約束――」

 その言葉を残すと、オリンは息を引き取った。
 ルナリエとは何者なのかはわからないが、冷たい父の手を握り、アグナスは決意する。
 この未完成品の剣を完成させようと、また父の仇を討とうという漆黒の炎を胸に燃やすことに――。

***

 ――幾年かの時を経た。

 アグナスは天涯孤独となったが、父オリンから受け継いだ鍛冶の技術を頼りに各村々を渡り歩き、鍛冶仕事や雑用をこなしながら生計を立てて生き延びた。
 その過酷な日々の中でも、経験を重ねるたびに生きる力を磨き上げ、試練を乗り越え屈強な肉体と鋭い洞察力を持つ青年へと成長していった。
 その背には幾多の苦難と試練を越えてきた者の孤高の気配が漂い、その目には己の運命を切り開こうとする強い決意が宿っている。

 彼の腰には無名の剣が携えられている。
 それは白鋼の輝きを持ちながらも、完成には程遠い未完成の剣だった。
 この剣は父が遺した唯一の形見であり、未だに刀身には打ち跡が残り、鍛造の途中で止まったかのような不完全さを抱えている。
 だが、その剣はまるでアグナスと運命を共にするかのように、彼の手の中で弱々しくも光の脈動を繰り返していた。アグナスにとってそれは単なる武器ではなく、父の想いが宿る分身そのものだった。

「剣に魂を込める男になるだろう」

 かつて父オリンが言った言葉はアグナスの胸に深く刻まれている。
 彼は剣を完成させるため――父の仇を討つため――旅に出ていたのだ。
 それは父の遺志を継ぎ、ルナリエという謎の存在にまつわる真実を探し求める旅でもあった。
 アグナスの旅は幾多の困難と試練に満ちていた。

 道中、アグナスは古びた鍛冶場を訪ね歩き、各地の名高い鍛冶師達と交流した。
 彼らの中には剣の完成に必要な技術を教える者もいれば、未完成の剣の真価を恐れ、それに触れることすら拒む者もいた。
 また各地の名だたる剣士や拳闘家に戦う術を学び、戦闘の技術を磨き続けた。

 旅の金策は磨いた鍛冶師としての腕を活かし、各地の町や村で剣や防具を打つ仕事を請け負った。
 その技術は旅の中でさらに磨かれ、彼が作り上げる武具は常に評判となり、依頼人達から信頼を得ることが出来た。

 時には彼自身が討伐者として深い森や洞窟などの迷宮に赴くこともあり、魔獣討伐や盗賊退治などを通じて資金を稼ぎつつ、自身の戦闘技術を実戦で鍛え上げていった。
 アグナスはいつしか<灰月の鍛冶師>と呼ばれ、名声を高めており、この頃には剣は完成の域に達していた――。

 そして、ついに<ピュリタニア>という国を訪れたときである。
 この地において<モーンリス>という人狼の一族が住む隠れ里があるという噂を耳にした。
 その隠れ里は王国の東部<タイダルクレスト>の山々の奥深くに密かに佇んでいるという。

「<モーンリス>……父を殺したあいつらはそう言っていた。然らばヤツらは……」

 この人狼の一族は人間を極度に恐れていた。
 その白銀の體と持つ力故に古来より人間達に狙われてきたからだ。
 彼らの骨や毛皮は希少な素材として高値で取引され、一族は長きにわたり迫害と戦いを余儀なくされていたという。

 時に彼らは人間の姿を借りることで生き延びようとしたが、やがて人間の欲望のために厳しい自然の地に追いやられたと伝承があった。
 その追いやられた地が<モーンリス>であるという。
 今では並みの人間では入り込めないほどの険しい自然の難所とされている。
 危険な場所ではあるがアグナスは確信した、父の仇はそこにいるのではと――。

「……お前も感じているんだろ? 近づいてる、この剣の意味に。だからこそ……研ぐ必要があるのかもしれない」

 覚悟と決意を固めたアグナスは、ピュリタニアの研師《とぎし》を尋ねた。
 名はバルハという老人で、ピュリタニアで最も名高い研師だという――。

「ほう……若いが目が座っているな。あんたが噂の灰月の鍛冶師か」
「俺の名前を、どうして知っている?」
「研ぎ屋は耳が商売でね。灰月の鍛冶師がピュリタニアに来たって話は、鍛冶屋仲間の酒の肴になってたよ」
「余計なことまで広まってなければいいが……」
「安心しな、あんたが酒に弱いとか、剣に話しかける癖があるとかは聞いとらん」

 バルハは長年に渡り剣や防具の研磨を手掛け、多くの戦士や貴族達から信頼を得ていた人物である。
 アグナスは彼を訪ね、どんな凶暴な魔獣や野盗に襲われても対処できるように自身が持つ剣を差し出した。

「研ぎが必要かどうか、判断して欲しい」
「ふむ、ずいぶん控えめな言い方だな」
「俺の判断じゃ、足りないと思っただけだ」
「腕も目もあるが……自分に厳しいな、あんた」

 刀身は美しい月光のような輝きを放っている。
 バルハは剣の刀身を宝玉でも見るかのように眺めていた。

「これは……珍しい剣だな。その刀身はただの鋼ではない。いやこれは……」
「どうした?」
「何でもない。それより、これを作ったのはあんたかい?」
「俺ではない。同じ鍛冶師であった父オリンが遺したものだ」

 バルハはそっと太い指で剣を握り、その重みと刀身の質感を確かめるようにしばらく沈黙していた。
 彼の瞳には剣の輝きが映り込み、まるでそれが一種の神秘的な儀式用いる神器であるかのように映っていた。
 暫くして、バルハは慎重な口調で言葉を紡いだ。

「この剣を研ぐ必要はないだろう」
「必要はないだと?」
「おうさ、そもそもこいつは刃こぼれもしていないし、刀身には既に驚異的な力が宿っている。この剣は普通の武具ではない――何故俺のところに持ってきたんだい」

 アグナスはその問いに答えることは出来なかった。
 この父が残した剣はこれまでの戦いで幾度か使用してきたが、どんなに固い魔物の肉であろうが、鱗であろうが斬っても刃こぼれ一つしたことがない。
 それを何故わざわざ研師のところに持ち込んできたのか……それは長年に渡り蓄積した父殺しの人狼達への復讐心から来る焦燥感と、不確かな未来から来る迷いからである。
 アグナスは剣を見つめながら静かに答えた。

「この剣は俺自身の運命を繋ぐ鍵であると思っている。だが、それが完全に正しい道なのかは確信が持てないのだ」

 運命を繋ぐ鍵。
 実のところアグナスはこの剣に父の秘密が隠されているのではないかと思い始めていた。
 アグナスがそう考える理由は、この剣がただの武器としては明らかに異質な存在だったからだ。
 父オリンがその剣を鍛える際、夜な夜な何かに語りかけるように作業を続けていたのを幼い頃に目撃した記憶がある。
 その時の父の背中はどこか重苦しく、そして何かを守り抜こうとするような意志が感じられたのだ。
 また、理由が他にもあった――それはあの父が殺された日に人狼達に言った言葉である。

 ――愛しいものの遺骨を使い、剣を鍛えた。

 その意味から察するに、この剣は何かの骨を使い鍛え上げた代物であるということだ。
 ピュリタニアの地では、かつて人狼の骨を使用した武具の製造をしていたという話が残っているが、時の王により外法として禁止されたという。
 もし、その技法が今でも伝わっていたら――素材に人狼の骨を使用していたと仮定するならば――父が人狼達に突然襲われ、惨殺された理由はこの剣にあるかもしれないと思ったからである。

「運命を繋ぐ鍵か……ふむ、なるほどね」

 バルハはその言葉に深く頷きながら、アグナスに向けて慎重に語りかけた。

「お前さんはそこらの英雄気取りのゴロツキとは違い、自分の行動がどれだけの意味を持つのかを理解しているようだな。年寄りの俺から言えることはお前は覚悟を持ち、自分の進む道を信じることさ」

 その言葉がアグナスの胸に深く響いた。

「すまなかったな、その剣は研ぐ必要がない代物だった――俺は少しばかり臆病で慎重になっていたのかもしれない」
「気にするな<灰月の鍛冶師>よ――神のご加護があらんことを」
「そちらもな、研師バルハよ」

 彼は剣を見つめ直し、父の遺志、ルナリエという名に秘められた謎――また人狼達への復讐の炎を新たに燃え上がらせるのであった。
 だが、アグナスの心中に曇り、ざわめきが残っていた――それは剣に秘められた真実が、ただ父の遺志や人狼たちへの復讐に留まらず、もっと大きな何かを抱えているのではないかという予感である。

 アグナスは、剣を通して聞こえるような気がする微かな響きを思い返していた。
 それは時に彼を励まし、また時に惑わせるような不思議なものだった。その響きが何を意味するのかは、彼にはまだわからない。
 ただ確かなのは、この剣が単なる武器ではなく、父オリンやルナリエという存在、そしてフェルニアスの一族と深く関わっていることだった。

***

 ピュリタニアの東部に位置する難山タイダルクレストは、切り立つ崖と深い森が連なり、かつて誰もがその険しさに心を挫かれたと言われる。山道にはいくつもの仕掛けがあり、魔獣や魔竜が獲物を狙い、迷い込んだ登山者達が命を落としてきた場所であった。

「<モーンリス>はここのどこかにある……」

 アグナスは険しいタイダルクレストの山中深くまで足を踏み入れていた。ここに人狼の一族が住む隠れ里がある――だがどこにあるかはわからない。これまで多くの冒険家を偽る密猟者が入り込んでいったが、這う這うの体で帰るか、そのまま遭難して死に至るしかなかった。

「何かを知ることができるかもしれない。不思議とそんな気がしてならない」

 腰に帯びた白鋼の剣に手を触れた。その刀身は相変わらず淡い光を脈動させ、まるで導き手のように鼓動している。アグナスの心には微かな恐れもあったが、それ以上に進むべき道を信じる確固たる意志があった。それに何故か不思議で懐かしい感じがする。

「この感覚は何だ……」

 アグナスは摩訶不思議な気持ちになるも険しい山中を進み続ける――すると周囲の霧が次第に濃くなり、視界を遮った。霧の中からは低く唸るような音が聞こえ、それが魔物の気配であることを彼はすぐに察した。

「何かが来る」

 腰から剣を抜き警戒する。鋭い聴覚を頼りに、周囲の音を慎重に聞き分ける。そのときだ、霧の中から現れたのは人のような姿をした影が現れた。しかし、次第に近づくにつれてその影が獣じみた輪郭を持っていることが明らかになった。銀色の毛が霧の中で輝き、黄金色の瞳が暗闇を切り裂くように輝いている。

「一人でこの地に足を踏み入れるとは、命知らずなことだな」

 現れたのは齢四十半ばの人間であった。アグナスとよく似た髪の色をしているが、鮮やかな銀色に輝いており、神話の時代を記した伝記に登場する人物のような威厳をまとっていた。しかし、服装はボロの装いでもあり、どこかこの地の険しさを象徴するような姿だった。

 彼の体は堂々としており、人間の姿でありながら、どこか獣じみた威圧感を放っている。その目には鋭い黄金色の光が宿り、まるで相手の本質を見抜くかのようにアグナスを見つめていた。

「私はこの地の者でザラストラ、フェルニアスの血を引く者の一人だ」
「フェルニアス!」

 アグナスは身構えた。目の前にするこの男がフェルニアス――人狼の一族であるというのだ。おそらくは彼らが持つ擬態、変身の類の能力を用いて人の姿をまとっているのだろう。

「人間よ……お前が恐がらぬよう今は同じ姿をしている」

 ザラストラと名乗った男は静かに述べ、アグナスの持つ剣をじっと眺めていた。彼は黄金の瞳を持ち、アグナスの腰に帯びた白鋼の剣に鋭く注がれる。その視線にはただの興味ではない。深い怒りと哀しみ、そして愛情が入り混じっているようだった。

「その剣……それが我が妹のルナリエの骨で作られた剣か」
「どういうことだ」
「魂の声でわかる。そうか、お前が鍛冶師オリンの息子か」

 アグナスは剣を握る手に力を込めながら、目の前の男――ザラストラの言葉に耳を傾けた。

「父を知っているのか」
「よく知っている。彼奴は旅の鍛冶師として、また密猟者として、この世で最も強力な剣を作るなどという下らぬ夢を追い続けていた」

 アグナスの眉がピクリと動く。

「密猟者だと? 父がそんな人間だったとでも言うのか!」

 ザラストラの黄金の瞳が鋭く光る。その瞳に凝視されたアグナスは二、三歩後退した。このザラストラという男は構えを取らぬとも、強き獣の威圧感を放っていた。

「お前の価値観ではどうか知らんが、我々フェルニアスの一族にとっては明確に『密猟者』だ。我らを鉱物と同じとして見ている他の人間達と変らない」
「まさか父は……」
「そう、我らフェルニアスを狙っていた。欲する同じ仲間と手を組み、我々が住む里を目指してタイダルクレストに入った。しかし、お前の父は仲間とはぐれ、山中に迷い込んでしまった――そうして、運命的に我が妹ルナリエと出会ったのだ」

 ザラストラの語りには、どこか哀愁と苦しみが滲んでいた。アグナスは剣を握りしめながら、じっと彼の話を聞いていた。

「ルナリエはお前の父が怯えぬよう人間の姿を借りて命を助けた。我々も人間の姿を借りて暫く彼奴の様子を見た。彼奴をどうするか<モーンリス>では論争が起きたが、ルナリエはオリンを救うことを主張し続けた。理由は単純だ――ルナリエは彼奴に惹かれてしまったのだ」
「人狼の一族が? 馬鹿な……」
「太古の昔からの言い伝えだ。人間と人狼の種は同じであったが進化の過程で異なる道を歩んだ。我らフェルニアスの一族は人間と同じ心があり、愛し、悲しむ感情も同じだ。ルナリエも例外ではなかった。彼女がオリンに惹かれたのは、心根に持つ純粋なまでの『強き剣』を求める子供のような感情に共鳴したからだろう」

 ザラストラの言葉にアグナスは驚きを隠せなかった。人狼がかつて人間と同じ起源を持っていたという考えは、これまで聞いたことがなかったからだ。

「オリンもまた、ルナリエを人狼ではなく一つの魂として愛した。だが、それは一族の掟によって許されるものではなかった。フェルニアスの一族は外部との深い絆を禁じている。過去に幾度も人間との関係が悲劇を招いたからだ」

 ザラストラの声には、哀しみと怒りが入り混じっていた。彼の言葉が進むたびに、アグナスの胸中は複雑さを増していった。まさか、このルナリエという人狼こそが自分の――。

「我々はオリンを罰するか、禁忌を犯したルナリエを罰するか、それとも二人とも罰するか――里では数十日の議論を重ねた結果、長老の提案でまとまった。二人とも条件付け、ここから汚らわしい外の世界へと追放することにしたのだ」
「条件?」

 ザラストラはこくりと頷いた。

「一つ、<モーンリス>のことは他言しないこと。二つ、ルナリエは一生人間の姿のままで暮らすこと。三つ、ルナリエが死んだ場合はその遺骨を<モーンリス>へと弔うためにオリンが戻ることだ。一つでも約束を破った場合は我らの一族から刺客を送り込み、闇へと眠ってもらうことにした」
「ならば……父は……」
「禁忌を犯した、彼奴は三つ目の約束を破ったのだ」
「そうか……俺の母は……」

 アグナスは己にフェルニアスの血が流れていることを悟り、手に持つ剣を見つめた。その刀身は淡い光を脈動させ、まるで彼に語りかけるかのように鼓動している。幼き時にいなかった母はずっと彼の成長を見守っていたのだ。その瞬間、アグナスの心には嵐のような感情が押し寄せる。

 彼の目の前にある剣――それは、単なる父オリンの遺した武器ではなく、母であるルナリエの魂そのものだった。その現実を受け入れるには時間が必要だった。しかし、剣を握る手から伝わる温かな感覚――それは、まるで母ルナリエが自分に語りかけ、慰め、支えてくれているかのように感じられた。ザラストラはアグナスの様子を見守りながら、静かに語りかけた。

「そうだ、ルナリエはお前の母親だ。禁忌を犯した罪を背負いながらも、最後までお前の父を愛し抜いた。彼奴は最後に言った、ルナリエの最期の願いは『子を護る剣』になることだったと……強き剣を求めたオリンは、最後には護る剣を作ろうと決心してその願いを叶えたのだ。だが、それが我らの掟に反する行為だったことも否めない」

 胸に広がるのは怒りと悲しみ、そして愛情の入り混じった複雑な感情だった。アグナスは剣を見つめたまま沈黙する。その刀身は微かに脈動し、彼の心情に呼応しているかのようだった。母ルナリエの魂が自分を守り、支えてきたという事実――それは彼の心を強く揺さぶった。

「……母が、俺を見守り続けていた……」

 その言葉を口にすると、アグナスの胸にこみ上げていた感情が一気に溢れ出した。彼は剣を握りしめ、その冷たさの中に宿る温かさを感じた。それは、ただの武器ではなく、母の愛そのものだった。ザラストラはその姿を見守りつつ、低く穏やかな声で続けた。

「ルナリエの愛は純粋だった。そしてオリンも、その愛に応える形で剣を鍛えた。それは許されざる禁忌だったかもしれないが、お前にとってそれが何を意味するのか……」

 アグナスは剣を握る手に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。そこには人間の姿ではなく銀色の毛並みを持つ人狼が立っていた。

「お前の父を殺したのは私だ。斬るならば斬るがよい」

 アグナスはザラストラの言葉を聞き、目を見開いた。目の前に立つザラストラは、その身体全体から静かな覚悟を纏っている。同胞の血、妹の血、愛する者の血が流れる人間の気が済むのならそれでよいという決心である。

 仲間を連れず、一人でアグナスの前に現れたのは事実を伝え、アグナス自身の判断に委ねるためだったのだろう。ザラストラはその黄金の瞳でアグナスを真っ直ぐに見据え、静かに立ち尽くしていた。その姿は覚悟と贖罪である。

 剣を握りしめたままアグナスは、内なる葛藤に苛まれていた。父を殺した男が目の前にいる。それを斬ることが当然の報いであり、正義であるはずだった。しかし、この男が語った真実の重み――父オリンの苦悩、母ルナリエの愛、フェルニアスの一族の掟に縛られた運命――すべてがアグナスの怒りを複雑な感情へと変えていた。

「……俺がこの剣を振るう理由は復讐だけではない。父の遺志を継ぎ、母の魂を宿すこの剣の本当の意味を知るためだ」

 アグナスは剣をザラストラの喉元に突きつける。白刃が面前に迫るザラストラは目を閉じ、覚悟を決めている様子であった。

「お前が父を殺した罪を赦《ゆる》すつもりはない。だが真実を知った今、この剣をただの復讐の道具にはしたくない――」

 アグナスの声には怒りだけでなく、深い悲しみと覚悟が混じっていた。彼は剣をゆっくりと下ろし、鞘に収め、ザラストラへと差し出した。

「――父に代わり約束を守ろう。母の魂を弔ってやって欲しい」

 その言葉にザラストラの瞳がわずかに揺れた。その黄金色の目には驚きと敬意、そして深い慈しみが宿っていた。彼は暫しの間、アグナスの顔と差し出された剣を交互に見つめ、やがてその大きな手で剣を受け取った。

「……オリン、いやルナリエの息子よ。この魂は受け取ろう」

 その剣をザラストラ優しく抱えた。まるで赤子をあやすように――。

「<モーンリス>の奥深くにある<魂の泉>に、この剣を連れて行こう」
「<魂の泉>だと?」
「我が一族の安寧なる寝床となる場所の名だ。その地でルナリエの魂は解放される」

 アグナスは深く息をつき、ザラストラの言葉に頷いた。

「一緒に連れて行ってくれないか……母の魂が安らかに眠れるその瞬間を、自分の目で見届けたい」

 ザラストラは頷くと、再びその厳しい顔に微かな柔らかさを宿らせた。

「よくぞ帰ってきた――我が同胞よ、家族よ。オリンとルナリエの息子ならば、里の者達も歓迎するであろう」

 アグナスは剣を持たない右手で胸を押さえる。
 剣に込められた愛が、アグナスの心を強く締め付ける。
 それと同時にアグナスの旅の終わりが、ようやく見えてきたような気がした。

「その地を知ることにしよう。俺は剣を打つ者の子であり、銀の血を持つ者の子なのだから」

 ――王国ピュリタニアの東部に位置するタイダルクレストには、昔より伝説が息づいている。この山には人狼フェルニアスの一族が住むとされる隠れ里<モーンリス>がある。

 そこには<フェルニアスの剣>があるとされ、その剣は白絞色の刃軸を持ち、月の光に射されるたび、凝りつくことなき光の緋箔を放つという。この剣は太古の鍛冶師オリンとその息子アグナスが打った剣で魔獣の固い肉を斬り、龍の骨を断ち、鉄を容易く裂く威力がある名剣であったという。

 <フェルニアスの剣>――その剣に込められた物語は時を越えて、今も民話の一つして語り継がれている。
 また王国ピュリタニアの空には、満月の夜になると淡い光が山間に漂うと言われる。その光が、<フェルニアスの剣>に宿る魂の輝きだと信じる者もいるという――。

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箱入り

 このままふくれ続けたらきっと指がちぎれるから、切ろう。
 わたしは告げ、かの女の錆びた指輪へ鉈を振りおろしたが、折れたのは刃だった。思えばこれも、きのうたたき割った夫の脳髄で錆びている。刻みこまれた誓いのぶんだけ指輪に分があったのだろう、はみ出しかける脳の片隅でわたしは思考する。折れた刃は飛びすさり、わたしの眉間を貫いて、脳漿の漏れに栓をしている。
 長雨を飲み、かの女はふくれている。絹のようだった肌理が、渇いた綿より欲深くひらいて雨季を貪る。飢えていた腕がなん倍にも太る。きのう焼かれた顔の焦げ目が、腐りゆく水に白々しく薄れながらどこまでも広がる。粥に似ながら煮くずれることを知らない、若さが、左手のちぎれそうな薬指にだけ血を焚いて、食いこむ指輪に誓われた名前と同じいろに錆びる。

 かの女はかつて、わたしの娘だった。
 女衒に売ったのが九日前、思いがけず帰ってきた。性病に肌を食い破られ、ごみ溜めに捨てられたので、這い出してきたと娘は言った。死なないと埋めてもらえないの、と娘は言い終えた。
 八日前、夫が木箱に娘を転がし裏庭へ投げたのはそのためだ。雨季に蓋され長雨に漬けられ、きのうまで、娘の肌は溺れながら若い皮脂を吹きあげて、あらゆる水気をはじき飛ばしていた。わたしが塩水で炊いた粥も、その例に漏れない。
 七日間、娘の転がる箱で粥を食ったのは蟻だけだったが、わたしの薄い塩味に飽きたらずきのう、蟻どもの群れが美味な脂を掘ろうと、娘の耳に口に臍に、膣にもぐりはじめたので、穢された箱へ夫が油を撒き火を放ち、泣いた、まだ清かった刃の火照る影で。

 その膣を掘ったのが翅をもつ女王だったら、別の物語が飛んだのかもしれない。きょう、油に焼かれたかの女の脂が、地の潮を覆う。降り溜まり蒸発する地の体液の循環を、焦げ落ちた皮脂の油膜で食い止めている。
 このために地表が海を失っても、たとえば涙の降る限り、血のしたたる限りかの女は飲み、新しい海を生むために溜めるだろう。眉間の栓を抜き放ち、噴きあがる脳漿の虹でわたしは感傷する。わたしの箱のこの穴を、いつかちぎれたらあの左手薬指が貫いてくれるだろう。

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「海外行ったらヌーディストビーチ行きますねん」としてのクリエイティブ・ライティング

日本にヌーディストリゾートが誕生した。その情報を耳にした時、私は半信半疑だった。三流週刊誌の風俗ライターとして、国内外を問わず、性にまつわる場所には精通しているつもりだ。海外のヌーディストビーチには何度も取材に訪れた。フランス南部のカプ・ダグドは「ヌーディストの首都」と呼ばれ、二万人規模の人々が裸のまま暮らす。そうした場所を訪れ、体験レポートを書くのが私の仕事だった。


性風俗を生業にしていると、過剰はやがて過小に転じ、過小は過剰に転じる。私にとってヌーディズムはそのようなものだった。皆が裸だと興奮してトラブルに繋がらないか疑問を持つ人もいるが、実際にそうなる人間を見たことがない。日がな一日ビーチで過ごすと、欲情が空気に薄く溶け、すべてが性的でありながら日常の一部となり、奇妙な平和に至る。


ヌーディストリゾートの多幸感が広がっていけば世界平和が実現されるのではないか。素朴な考えに囚われ、関心を持ち調べたこともある。ドイツのFKK(自由身体文化)は十九世紀の自然主義運動に源を持ち、健康と自然への回帰、階級や性差を超えた平等を掲げた。しかし、ナチスによりこの思想が利用され、選別と差別の考えが広まった。実のところ、私は三流週刊誌の風俗ライターであることを恥じる気持ちはない。人間社会など、所詮、俗情を中心にぐるぐると同じようなところ回っているに過ぎないからだ。


もし日本にヌーディストビーチがあるなら、それは思想か、猥雑か、冗談か。そう考えながら聞いた通りの道順で海岸に着くと、立て札には《田伏正雄リゾート》とあった。受付で金を差し出すと、男は「現金不可」と言い、見慣れないコインを渡してきた。コインには〈田伏正雄コイン〉と刻まれている。「貰ったコインで支払いを済ませなさい。田伏のものは田伏に返しなさい」


砂浜に足を踏み入れると、老若男女が裸で散らばっていた。外国人も混じっていた。互いを気にせず海に入り、日を浴びている。最初はカプ・ダグドを縮小したような風景に見えた。性そのものであるがゆえに、性から最も遠いような平和の光景。


そこに現れたのは、百五十キロをゆうに超える巨体で、渦巻きのような濃い体毛に覆われた男だった。当然の如く、性器を隠そうともしない。男は全裸のまま立ち、人々に語った。「ここでは衣服を脱ぐだけでは足りない。性別を脱ぎ、肩書を脱ぎ、国家を脱ぐ。裸は自然に帰るのではない。裸は新しい制度である」


夜、焚き火の周りに全裸の群衆が集まった。男は言った。
「裸は平等を示す。平等を示すには、差を測るコインが必要である。君の乳房も、君の尻も、君の陰茎も、全て価値を持つ。価値があるから交換できる。交換できるから回り、回るから均される。つまり、ここは市場であり、役所であり、そして砂浜である」


群衆は歓声を上げ、コインを交換し、抱き合い、互いの身体をまさぐった。私は自分でも驚くほどに、徹底的に白けていた。自然への回帰も、性愛の解放も、セックスの売買も、すべて三流週刊誌で見飽きた光景だったからである。


翌朝、砂浜には誰もいなかった。田伏正雄コインが砂に散らばっていた。私は数枚を拾い、ポケットに入れた。帰宅後、記事を書こうとしたが頭が動かず、文字はまともに打てなかった。スクリーンに浮かぶのは「田伏正雄コイン」という文言だけだった。

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夏が終わる

真っ黄色に冷えたオレンジジュースが
夕映えに混じり合い
カラン、と音を立てて笑う君と
僕と、君と
潮風が告げる宵闇は
もうすぐ君を遠ざけて
冷たいアスファルトの雑踏が
背中をノックする

もう、始まっちゃうね、

青々と揺れる木々の葉は
しかし薄暗くカサカサ笑い
ざざーん、と唸ると黒いロングヘアーが
ふわふわと僕に手を振っていて
僕もちからの込められない指で
バイバイ、と手を振った

何処かの誰かのハイビームが
横切る度右側がきらきらと眩しい
何処かの誰かのハイビームが
君の頬を露わにもしているのだろう
橙色に照らされた晩夏の街は
ひと時静まって
ぶぉん、と音を立ててはにかむ僕と
遠くの君と、僕と

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夜を歩く

はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい
きてきいのおおとのお

ちり〜ん



ゆうおじさんのリヤカーが通り過ぎる

ゆうおじさんのリヤカーには
ぽるしぇ
と書いてある
僕らはそれに911と書き足した
ぽるしぇには最初
鉄くずが乗せられていた
そのうちそれは空き瓶や空き缶になったり
古新聞なんかにもなった
四十過ぎてからは何に気を使ってたんだか
夜に歩くようになっていた
その頃から腕にはロレックスが巻かれ
これはどうやら本物らしかったが
おじさんは
ひろおたひろおた
と自慢げに言った


道の真ん中で寝て3回ひかれたという噂
ドロボーケイカンで捕まったら電信柱に縄で縛られるという噂
くずひろいで豪邸を建てたという噂
子供の頃から一人で生きているという噂
これは嘘
ゆうおじさんはうちの親戚で
でも友達には言えずじまいだったなあ
ゆうおじさんのぽるしぇは
どこまでも
島の端から端までも走っていくという噂

本当じゃないかと思う
それから
また道の真ん中で寝てしまった


はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい
きてきいのおおとのお そのむこおからあ
もおすぐうはるがあ やあってくるうやもおし
やもおうしれましえぇんん

ちり〜ん


今でも
ゆうおじさんのぽるしぇは
夜を歩いている



https://www.youtube.com/watch?v=QBxtuF_RYFs

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鬼嫁と政略婚したら溺愛がとまりません

初めまして、及川まゆらと申します。
 これから始まる
  6280文字の泡沫な恋物語
   個人的な内容で読後感ゼロ。お時間と心に余裕のある方のみご覧ください。


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    往きは善い好い
     帰り、

       は

     こ わ い      ──こわいながらも、
                   「願い」が叶うのならば
                     天神様も見上げたもの。参ります。
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 新しい文芸サイトが、できた。
 話に聞いて登録したけど……ログインできない。メールアドレスが見つからない。「ああ、これはもうわかんないね」他の小説投稿サイトでも小説やエッセイを書いているけど、私が書く内容がCWSにマッチするのか? 小説投稿サイトを利用する際、まずそれを考えてしまう。

 ──屋根を借りる。

 それも無料で。これ、オンラインの多様性(いいところ)です。
 提供する側にあるのはユーザーファースト。会社の利益がどこにあるのか。社会は教えてくれる<無料ほど怖いものはない>でも小説投稿サイトは登録無料。この“無料”と、いう入口に立つ時は、必ず利用規約(ガイドライン)を読もう。
 なぜなら作家は、誰かの努力の上に立つのだから、自分の都合でいいようにはできません。
 
 ・本文2万字以内
 ・投稿にはスペースコインを使用

 なるほど、ここでは作家が参加者に──他サイトと比較してジャンル設定がない旨は理解。故に<使い方がわからない>創作とは考えること、自由の在り方を書いて示さなければ、気軽にCWSは利用できない。何度も引き返したけど、やりたいことがみつかりました。




 CWSで、恋をしよう。




 恋愛をテーマに書きます。

 小説、エッセイ、現代詩の存在も気になる。書いたこと無いからなぁ……まぁ知らないうちは楽しみを胸に進もう。
 スペースコインは──課金? 交流の中で自然と発生するアイテムではあるけど、お金で買えるなら買えばいい。
 我ながら、よきテーマを見つけたと腕組みを解いて笑む。それは文章を書く上で私が大事にしていること<目的意識>明確な意思決定が定まらなければ何もできない。よくあるWEB小説家の思想は、自分の作品を読まれること・評価されること。承認欲求であったり、書籍化を願い、目指している人がいます。
 専業作家になりたい。と、いう人の気が知れない。 
 文章を書くことでお給料が欲しいなら、求人をよく読んで、履歴書持参で面接受けたら仕事はみつかる。
 小説家でなければならない理由があれば別ですが、社会の中で必要なのは、輝くような発想と流行のスタイル取得ではありません。信頼と実績です。
 なぜインターネットという相手が見えない場所で収益が発生するのか。
 その仕組みを調べれば、先人たちの失敗や示唆に富む談笑もみつかるだろう。それほど成功している人々が羨ましく見えるものか。否、現状の打開にあると身勝手にも希望を見出し、金儲けをしてやろうと企むのだと考えています。
 仕事はタイパ・コスパじゃないよ。そんな生き方してると今を生きて、稼げない。

 あなたが欲しいものは、何ですか。

 地位と名誉と、金。
 それとも、今の生活を一変する新しい世界に“選ばれし者”として舞い降り、異能を得て自分が主人公になり美女に求められる夢。
 私は、恋がしたい。
 何かに夢中になって願いが興ると、妖しく惹かれて頂に向かう。在るだけで心が満たされるのだから仕方ない。きっと私、その為に闘える。恋はそういう魅力があって、自由な私が留まる理由になるから、好き。
 さて、その対象が<何であるか>を書く前に……。

 カミングアウトします。
 私、男性が好き。
 詳細(タイプ)まで書かないけど、生き物なら雄の方が美味しい味覚の持ち主。
 だから恋の話は、厭らしいことを透明な溶ける紙に包みながら中身をぼかす書き方を覚えなくては、誰かの迷惑になってしまう。配慮といえば大袈裟ですが有益な情報にはならない所詮、日蔭者。一方でBLが市民権であるかのように謳歌している、憎らしいこと。高らかな声明で色好みする真人間を呼び寄せる。
 男が恋愛して脱ぐ麗しの世界、BLはファンタジー枠。だったら私は歴戦個体(本格ファイナル・ファンタジー)上位・高難易度★★★★★火力の高い装備は上裸。服を着ても、筋肉が主張してしまう栄光のハイエース。ギルドは猛衆の筋肉バディ爆盛り、尻穴ゲイカルチャーが飛び出してくること請け合い。
 ──いや、それはちょっと。ていう温度差も歴戦個体の私には通用しない、ノーダメージ。
 些か倫理観に問題がある思想、ではある。
 そう、……かも知れないけど私が「これは間違いなく恋だ」と自覚できるものは、ほぼ物理。
 写真を見せられない(まだ画像の添付のやり方がわかりません)ので、説明をすると。

 JEAN-PAUL HÉVIN(ジャン=ポール・エヴァン)

 フランスのショコラトリー。
 私が住む北海道にある札幌三越にブティックがオープンしたのは、2015年の今頃。
 通路に一面ガラス張り、制服を着た女性店員が開くドアの向こう側はラグジュアリーな空間で季節のショコラに迎えられる。この10年間、ときめきだけを大切に育んできました。
 それまで三越といえばAfternoon Tea(アフタヌーンティー)のティールームが定番。ちょっと隠れて見えない席に掛けてクリームティーセットの温かいスコーンにクロテッドクリームをたっぷり乗せて食べる。優雅な午後の紅茶にショコラが勝る理由は、ただひとつ。

 ジャン=ポール・エヴァンのマカロンを食べた瞬間、私は魔法にかけられた。

 以降ショコラブームで、専門店が次々にオープン。
 チョコレートの祭典サロンデュ・ショコラに足しげく通い、これは運命であろう、PIERRE HERMÉ PARIS(ピエール・エルメ・パリ)モガドールと出会う。パッションフルーツ風味のガナッシュショコラオレは黄色のヒョウ柄、どんなに心が沈んでいても贅沢な幸福を私に届けてくれる。
 お気に入りのチョコレートはDEMEL(デメル)猫ラベルのソリッドチョコレート3種。ザッハトルテは4号、最推し。札幌では滅多に手に入らないのでサロショだけが頼り。最後は本命ジャン=ポール・エヴァンのブティックで、限定販売のモンブランを食べて飲み込む心地に、何とも形容しがたい感情を抱く。
 食品なので、本来であれば食べて満足する達成感がある。
 でも、私には「会えて嬉しい」感情が徐々に、別れてしまう寂しさへと移り変わる。ひとりぼっちの寂しさに馴染めないまま、ショーケースを眺めてお迎えするキャラメルはあまい恋の予感に溶ける、寒中見舞い。
 
 ショコラ アメ―ル
 ヴァニーユ
 ブール サレ
 ノワゼット
 フィグ
 ポワール ヴァニーユ

 食べる順番は好みでも、順位は決められない。
 人生を美しく彩る特別なシスを世間では<飴ちゃん>と、いうのでしょうけど、カファレルのトランク缶に愛と勇気をいっぱいに詰め込む。私はサレ妻。
 サレ(塩味)が好き。そして、私の彼も、塩……で、蕎麦を食べます。
「出張でランチに美味しいお蕎麦食べてきたよ」と、見せてくれる写真は高確率で天ざる蕎麦(冷)昔はラーメンつけ熱盛り、とか食べてたのに。中高齢を突き抜けてからランチは蕎麦、田舎も藪も愛してやる所存。これはもう妬かずにはいられません。
「私も幌加内蕎麦、食べたい」
「じゃあ、週末に行こうか」
「えー、新蕎麦は新得で。お花が咲いたらまた行こうねって、たぁ去年言ってたのに……忘れちゃったの?」
 唇を噛みながら拗ねてみせると同じ場所で交わした約束を思い出して「ごめん、そうしようね」いいけど、今日は特別に許してあげる。
 まぁ仕事の休みが合わないけど、私のことを気に留めてくれるなら、可愛い振りくらいしたってどうということはない。本当に好きな相手にだけ見せる<男の甘え>はお互い様。これは男女だと成立しないかも知れませんね。
 あまい生活に求めるのは、男だけが持つ、優しさと思いやりを互いに振る舞うこと。単純だから明確な答えがあればいい。
 男だけで成立する暮らしが長いと、甘さを引き立てる塩加減も必要。

 ──浮気公認。自由恋愛は認められています。

 昔は自由を愛する野良。
 飼い猫になっても、野良の精神は宿る。
 躾ではどうにもならない万年発情期<恋は突然に……>訪れるから受動的に、私の上を通り過ぎて往く。見過されるものは、そのまま捨てて、客観的で単純な考えを貫く。クールで自立心が強く、不思議と天賦の才を生まれ持つ私のことですから、秘すれば花と心得やさしく恋を飾る。
 そんな天性の浮気者を飼い慣らす彼のメンタルは頑丈よりか鈍感。何より逞しい体力がある。“男は椅子”座り心地で選ぶものだと信じて疑わない私の我儘ごと抱いて、上手にあやす、世界で一番いい男。
 私はミドルエイジ、もう若くはないけどセミスィートが日常。
 男も色々。恋愛に年齢は関係ないけど、圧倒的に好条件の優良物件は年齢が若い時にしか掴まえられない。若さなんか失ったら何も残らない一般的な常識が適応されない私だって、もうおじさん。しかし年齢を重ねても今が一番綺麗だと言う男達の背景にある老齢に差し出される花も無く、渇望を要求する熟年層のセカンドラブは穏やかに見えて、実は情熱的。
 皆、若い頃は社会に尽くし、人に気疲れ、上手くいかなくたって気力でやっていけた。
 昔あったはずの感情と体力は徐々に失われ、当たり前の感覚も令和では時代錯誤のハラスメント。社会が求める人材は気遣いができるいい大人の見本(キャラクター)性別は記号、下心を隠す努力と成果だけが評価される。
 剥き出しの情愛、なんて──求められた試しがないのが、現実。より良い評価を出すことにずっと勤めて来た男は、優しく親切に接することで自分が損をしない立場を構築する癖が出る。嘘をつくことに慣れていると、反応を見て少し先の未来を予測できる。相手に許される瞬間を待ち望み、相手の責任にして事を成す。無責任さを追求されたら「そんなことあったかな、覚えてない」聞いて呆れる。そんな経験ありませんか。
 私はただ、誠実な男の裏側に潜む狂暴さを舌で探りあて、孤独に熱い息を吹き込む。
 蘇る雄々しさ。過去の自分と比較して気持ちを注げない男もいるけど、私は今のあなたしか知らない。もっとあなたのこと、教えて。意地悪な方法で悪い男に愛されてみたいの、私に魔法をかけて今すぐに。

 心を撫でる語彙力に、濡れる男の難と──やら如きかな。

 時に、型破りな男のあり余る父性に流刑されてしまう。
 恥ずかしいところも全部舐められちゃう、雄のグルーミングから逃れる術はありません。ほんとうに。
 など、書き出せば終わりが見えない男の迷宮に迷い込んでしまった読者は「嫌な予感はしていたけど、CWSで何を読まされているんだ。この時間泥棒め」と、何度目かのため息を漏らしている頃でしょう。
 恋愛小説にはジャンルがあります。

 ・純愛
 ・青春
 ・身分違いの恋
 ・溺愛
 ・大人の恋
 ・不倫
 
 場合によってはサスペンスなど、他ジャンルに恋愛要素が含まれる。
 私、及川まゆらが描くのは<諸恋>好いた男とエンドロールを見送ったにも関わらず、手を離して、別々の道を歩んだ過去があります。あの頃の私は精一杯に悩んで、今の暮らしに繋げた結果がある。でも、時々思い返す。しあわせ、だけどあの頃の私は泣きやまずに。ずっと、ずっと、会いたがってるのに。
 偶然に会えたら、無視したんです。
 彼は私に気が付いた。わざわざ、足を止めて振り返ったのに──これが私の性分なのだと。だから、やり直せない。
 ショコラに勇気を貰ってあの人に飛び込んだら最後、恨み言のひとつやふたつ、返されるでしょう。酷く優しい嘘に騙されて、死ぬかもしれない。
 
 死ぬほど好きな男が、私にはいます。

「なに言ってんだ。俺が一番だって、いつも言ってるだろ」
「今いいところなんだから、しゃしゃんなし……ゆーて、私は自分のことが一番好きなんだけど」
「だから俺だって。勝負するか?」
 どっちが私のこと好きか選手権を開催すると、本人の私が敗北する始末。そら見たことかと独特な父性を爆発させる支配欲を強行する、大本命・貴之は親よりも親。私だけのご主人様「俺が一生掛けてまゆを守る。だから俺より先に死なないで、お返事は」そうね、私の体が生命維持できればいいから臓器提供意思表示カードを隠し持つなと許してくれない、あなたの根性論は見事なものです。
「自分が正しいと思うな。俺は、まゆよりまゆのことに詳しいのに、勘違いしないでくれ」確かに。マイカーのサンバイザーに私が赤ちゃんの頃の写真を隠し持ち、営業をドキッとさせて「先生、お子さんいらっしゃるんですか」「あー、うちの子ですよ。可愛いでしょう」と、謎の強要を受けたと会社で噂に。
 そして、ディズニーで私だけを撮影したホームビデオを実家で再生。
 動揺する姉たち「あ、あの、ミッキーはどこら辺に」尋ねると画面の外を指差す、あなたの奇行に姪が堪え切れずに大爆笑。
「だっておかしいよ。どんだけお兄ちゃん見せられてんの、うちら」
「ちなみに俺、片腕でまゆ抱っこして撮影してます」
「マクロ撮影すぎる。お兄ちゃん愛されてるんだねぇ……こんなの、どこがいいんだか」
 それは家族全員が知りたいような、知らなくてもいいような情報なので、ご遠慮願います。そんなBL漫画のようなユーモラスが暮らしの中にある。
 一生涯、守り抜くから俺より先に死なないことを、どうか誓ってくれと神の御前で誓約書にサインさせられた次第。
 喧嘩吹っ掛けたら理詰めで泣かされた──通称・悪魔の契約──ふたりの関係性において多くを望まない貴之だけど、私が健やかに生きてられるよう、ただそれだけを日々心掛けて20余年。その為に自分は将来を見据えて勉強、受験、就職してきた。何ひとつ間違いではないと多方面に正当化しているので、周囲にも広く認められています。隠れて愛されるのは、もうたくさん。多くの目があれば貴之も悪さはできない、これは私の策である。

 献身的な溺愛は、一方的な依存や感情的なのめり込みにあらず。
 それを夢に描くティーンズラブのような本も実際にあり、手に取り読み慣れた人がCWSにいてくれることを願って。全てにおいて事実ベースなので、比較した意見が投げられることを承知で書いてます。
 男は度胸、私を愛してくれる男を道標に、生きて、いつか辿り着こう。虹の向こうへ。

 ────────────

 あとがき

 恋愛をテーマにCWSで小説、エッセイ、現代詩にチャレンジしようと思い立った某人です。
 普段は文書制作などの手仕事を続ける傍ら、趣味で物書きをしています。つたない部分もありますが、どうか最後まで読んで頂き感想などお寄せ頂けたらと思います。
 CWS運営様、読者の皆さま、今後ともよろしくお願いします。

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五行歌 「味付け」

大根おろしとすだち

忘れたから

明日買いに行こう

明日に少し

味付けができた




https://www.instagram.com/p/DOn60K0iRdl/?igsh=c3ByYnJ5Ym1ydGVt

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五行歌作品集その16「療育~まなざし~」

【正しさ】

正しさ
必要だよ
ただし、さ
わすれないでね
なまものだからな


【かわいそう】

「かわいそう」ってね
あなたとわたしは違う
それをつきつける言葉
だから気を付けないと
ただの刃になるんだよ


【いいよね】

「泣かないで」もいいけど
「泣いていいよ」と
言ってもいいよね
そんな人がひとりぐらい
居てもいいよね


【横顔】

渡りきった昨日
また漕ぎだす明日
その束の間に
その横顔は
何を思うのか


【専門性】

専門性とは
専門用語を使わずに
相手の機根に応じて
専門を語ること
専門を行うこと

https://www.instagram.com/p/DNvUo3Q0lik/?igsh=MTRvZzZqOXVyb254MA==

※注釈
【療育】(読み:りょういく)

 戦後、身体障害のある子どもへの支援の中で「治療、教育、職能の賦与」の三つを柱とする考え方から生まれた造語(東大名誉教授・高木憲次氏による)
 現在は、心身に障がいや困難がある子ども、ご家族、周囲の方々への支援と解釈が広がり、「発達支援」と表現される。

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競走馬

わたくしは競走馬だ
はみを噛み走る
途中で
ふと立ち止まる
背中には誰もいない
レースは終わっていた

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CWS怪談会 白い獣

僕が小学校低学年の夏休みのことである。
同級生にNくんというべきかNさんというべきか、おかまっぽい男の子がいた。
Nさんは普段は女の子と遊ぶ方が多かったが、ある日近所に面白いところがあるので遊びに行きましょうと誘ってきた。
Nさんに誘われるまま近所の観音様がある公園に行き、ブロック塀をよじのぼると眼下には墓地が広がっていた。
何が面白いのか、と思っているとNさんはブロック塀からお墓の上に跳び移った。
あっけに取られていると、またそのお墓の上から別のお墓の上にNさんは跳び移る。

「マ○オみたいで面白いでしょう。一緒にやりましょうよ」

僕はその当時は今よりもさらに常識がなかったのでやってみた。
かなり全力で跳ぶ必要はあったものの出来ないことはない。
そのギリギリ感が適度にスリルがあり、僕たちは夢中で墓の上を跳びまわった。
しばらく遊んで疲れてきたためお墓の上で座り込んでいると、Nさんが急に顔をしかめた。

「ねぇ、なんか臭いと思わない」

墓地に当然のお線香の香り以外になにか生臭い臭いがする。
墓地を見渡すと、お墓の花立やくぼみに無数の蛙の死骸があることに気づいた。
全部何かにかじられたかつつかれたかして、素麺のような内臓が飛び出している。
花立に入れた水の中に蛙が産卵してそれが孵ったものをカラスかなにかが食べたのだろうか。
一度眺めると色々見つけてしまうもので、墓の表面を黒い大きめの蜘蛛が這い回っていることにも気づいてしまった。
僕は急に気味悪く感じて、家に帰ることを提案した。

「いーえ、これはカエルさんの臭いじゃないわ。もっと探してみましょう」

Nさんはぴょんぴょん墓場の奥に行ってしまった。
仕方がないので追いかけていくと、墓場の奥まったところでNさんは止まっていた。
Nさんはある大きな墓の上を指差した。
そこには真っ白な動物らしきものが横たわっている。
毛は白いがウサギではない。
白猫でもなく少しばかり顔が長い。
かといって犬ほどは大きくもない。
その動物の上には無数の蝿が舞っており、すごい臭いを発していたため、臭いの原因はこれだとわかった。

「死んじゃってるのかしら」

こんな臭いなのだからそりゃ死んでるだろうと思ったが、僕もNさんもほぼ同時に気づいた。
目が開いている。
その動物は目をカッと見開いており、その目は真っ赤なのである。

それが動いたような気がした。
本当に動いたのかはわからない。
僕たちは同時に悲鳴を上げ、逃げ帰った。

後日談を言えば特に祟りとかはなかった。
完全に実話なのでそこはしょうがない。
Nさんとはなんとなく気まずくなったのと、彼の女性化がさらに進行したのとで遊ばなくなった。

中学生になってから夏休みにその墓地へ侵入してみた。
同じ時期なのに謎の獣はおろか蛙の死骸も蜘蛛も見つけられず墓地は清潔そのものだった。
そこがかえって奇妙に感じた。

こないだ実家に帰省した時、Nさんは犬のトリマーとして働いていると親から聞かされた。
僕はNさんがあの獣の毛を刈っている様子を少し想像したあと、似合ってるね、とだけ返した。

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世界線小学校異聞 ーー 川柳二十句 ーー

世界線小学校異聞 ーー 川柳二十句 ーー


笛地静恵


惑星の中心を指す鉄の独楽



雨の日の校舎を覗く象の影



血管の中を目玉が旧校舎 



稲妻の夜の机へ手を上げる



古い絵のこどもの首のまた延びた



北校舎廊下の端の村はずれ



いってやろいってやろ蛙にいってやろ



底無しのプールの月へ沈みゆく



沈んだら二度とプールを出られない



胸像の薪を採りに裏山へ



左から四つ目の便所はそこなし



同じ子がそれはオレだとケンカして



お習字のはじまり虹の墨を磨る



エンピツの鬼を逃がしちゃダメだからね



黒板のときどき白へ突き抜ける



深夜だけ地下室のある理科室へ



きいてはいけない質問は消しゴムくんが



先生の蛙となれば自習時間



先生の先の生へと転生す



跳び箱の明日を飛び越え明後日へ





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CWS怪談会 山の子

「その山、ほんまにあってん。俺の実家の裏山やねんけど、子供の頃はひとりで登ってよう遊んだわ」
 還暦間近のAさんはこう語り始めた。彼は山間の町の出身で、高校進学直前に引っ越しをするまで農家の祖父と両親、姉の五人で暮らしていたという。
「俺らの住んでたあたりはそんな町の更に郊外やから、田んぼや畑の何枚も向こうにお隣さんがおるような、ほとんど村みたいな地区やったんよ。キヌカド君には想像もつかんかもしれんけど、古い家でなあ。縁側で野菜干したり、前庭に筵とかブルーシート広げて作業したりしててん。で、裏山は爺さんが持っとって管理もしてたんよ。子供の足でものぼりきるのに十五分もかかるかどうかって高さ。そこまで高くないし、ずっと遊び場やったから慣れとってんけど、小学生のとき……」



 小学校に上がって初めての夏休み。Aさんは午後の暇を持て余し、裏山に入った。半袖短パンにサンダルというケガも虫も気にしない服装で、捕虫網も何も持たずに登っていった。
 樹冠を貫く八月の日射しは厳しく林床まで降り注ぎ、落葉や祖父が伐ったらしい若い枝が匂いたつ。蟬声を分け入るようにして進みながら、石を拾っては頂上の方へ投げ、落葉の層をなだれさせ、それを避ける探検ごっこをした。耳に虫の羽音がまとわりつくのを払いつつ、見慣れた山を登る。
 あっさりと頂上に着いた。別に伐採をしているわけでもないため展望台のように見晴らすことはできないが、木々の隙間から麓の家の屋根、その前を広がる田畑、そして遠く向こうに町の建物が固まって立っているのが見えた。青田の真ん中に一本だけ生えている木が目立つ。あれは桜の木で、地区の人々に長く愛されてきたものだった。俯瞰で青田波がくっきりと見えるのと同じく、桜が枝を震わせている様がよくわかった。
 しばらく頂上で遊んでいたものの、喉の渇きを覚えたAさんは下山を始めた。
 行きと違って帰りは落葉に滑らないように足元を見て進む。途中、蟬の死骸が落ちているのを見つけ、そのたびに蹴落とした。ガサガサと半ば摺足で歩いてみたりしていると、突然に足元の落葉から何かが出てきて真っ青な残像を映しつつ近くの岩陰に隠れてしまった。蜥蜴を踏みかけたらしい。顔を上げると、葉叢の裂け目から青田の中の桜が少し近付いて見えた。髪に雫をなす汗が鬱陶しい。サンダルに足裏の汗と土とが混ざり合ってベトベトする。家に上がる前に井戸水で洗おうと考えながら、山を下りていった。
 異変に気付いたのはしばらくしてからだった。そろそろ麓に着いてもいい頃なのに、まだ自分は山腹に居た。顔を上げると、遠くの桜が全く近付いていない。おかしい。
 更に下りていくと、岩の前に来た。山中にはいくつか岩が転がっているが、Aさんには大体見分けがついた。いま目の前にある岩は、確実にさっき蜥蜴が隠れた岩だ。戻ってきている。
 それからAさんはずっと山を下り続けた。何度も何度も同じ岩の前を通り、何度も何度も遠くに枝を震わせる桜との距離を確かめながら。全身に纏うかのように汗を流して、クッションに乏しいサンダルによって足首が痛むのも気にせず下り続けた。しかし一向に麓に近付くことができない。
 次第に日は傾き、紅くなっていった。斜光は木々に阻まれ、山中は俄かに暗くなっていく。足元に一層注意を払わなければならないが体は限界だった。脳が茹だったように熱く、顳顬が脈打つ度に鈍い痛みが走る。Aさんは遂にその場に座り込んでしまった。遠くの桜は夕日を浴びる青田に影を長く濃く伸ばしてゆく。
 すっぽりと山に日は隠れた。残照は林床まで届かない。四方に立ち込めるように闇が深まっていく。Aさんが怖気付いて再び立ち上がった時には、もう足元さえも見えないほど暗くなっていた。
 ガサッ、ガサッと一歩づつ下山を試みる。視界が役に立たないなか、落葉の音だけが脳に響いてくる。単調なその音をずっと聴いていると、自分の足音なのかわからなくなってきて、時々二重になって聴こえ、もう一人分の足音がついてきているようにも感じられた。残照もついに果て、山に本当に夜が来た。
 流石に進行不可能になり、立ち止まる。目が慣れても、近くの木々の影くらいしかわからない。しんと静まる闇の中、葉擦れの音と螻蛄の声ばかりが満ちている。
「……その」
 すぐ後ろから声がして、咄嗟に振り返った。見ると、自分と同じくらいの小さな人影が斜面の上に立っていて見下ろすようにしていた。相貌も服装も全く見えないが、こちらに視線を注いでいることだけはよくわかる。
「くつ、ちょうだい」
 幼い声で、そう言った。
『靴? 誰や、この子』
 ぼーっとする頭で考えつくのはその程度のことだった。自然と人影の足元に目をやったが、やはり何も見えない。しかし、直感的にこの子は裸足なのだと思った。

「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい」

 本当に欲しいのかどうかもわからない無感情の幼い声がずっと同じ言葉を繰り返す。

「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい」

 承諾しようにも拒否しようにも、Aさんにはもう声を出す力も無かった。ただ、だんだんと『そんなに欲しいならあげてしまおうか』という気持ちになっていった。

「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい」
「その、くつ、ちょうだい……」

 ふと声が止んだ。視界もぼやけているのだろう、人影も木の影も輪郭が失われて、一枚の闇が目の前に立ちはだかっているように思われた。

「……」

 思考停止のまま立ち尽くしていた。すると、

「わかったあ!」

 先程と打って変わって嬉々とした声色で叫ぶと、ガサッとこちらへ一歩踏み出すような音がした。
 俄かに恐怖心が湧いてきたAさんは「あーーーーー!」と奇声を発しながら、本能に従って山を駆け下りた。途中、

「わかった! わかった! わかった!」

 という声がついてくるのを奇声で掻き消しながらとにかく走った。何度も転びそうになりながら、木の幹に腕をぶつけたりしながら、必死に走った。
 すると、視界の隅にチラッと強い光が動くのを見た。その方へ転がり落ちるようにして下ると、光はこちらを向き、聞き慣れた声がした。
「おったー! おったぞー!」
 紛れもない祖父の声だった。
 あたりからぞろぞろと光が集まってくる。それは懐中電灯を持った父や近所の面々で、皆、Aさんを捜索しに山に入ったらしい。父に背負われたAさんは今度こそ山を下りることができた。
 その後、諸々の処置を受けて、家族に事の経緯を説明したものの、誰にも信じてもらえなかったという。



「まあ、これまで一切変なことが起きたこと無かってんから、そりゃ信じてもらわれへんわな。無事に帰って来れただけでええ、とか言って曖昧にされたけど」
 そう言って、Aさんはビールを呷った。
「曰くはなにも無い、ということですね」
「そう! 祠もなにも無い! わからへんままこの話は終わり!」
 興味深い話を聞けて満足ではあったのだが、私には一つ腑に落ちないことがあった。
「……で、その山の話と『山の夢の話』はどう関係しているんですか?」
 そう、この話は先ず私から変な夢の話をしたところ「俺も『山の夢の話』ならあるで」と言い、語り始めたのであった。このままでは単なる山にまつわる怪異譚である。
「ああ! 夢の話な。でや、それから時々、夢を見るようになってん。今でも見るで。真っ暗な山の中、俺は歩き回ってんねん。自分の姿はどんなんかわからん。ただ、だんだんと足の裏の感覚がわかってきてな、俺、裸足やねん。土とか落葉とかでもうグチャグチャになってきて気持ち悪いし、石とかで痛いからどうにかしたいと思いながら歩き回ってると、遠くでガサガサと音がすると。音のする方へ近づいていくと、ぼんやり人影が見えるんよ。小さな子供が明かりも無しに山を下りてるんよな。『背丈も同じくらいやしあの子の靴を貰おう!』と思うわけ。そこで夢の中の俺は子供に戻ってるってなんとなく気付くんよ。で、その子の傍まで近付いて行って言うんよ」
 Aさんはテーブルの上から私の足を指さして言った。
「その靴ちょうだい、って」

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明暗

めあーん、メアーンだか、めいあーん、メイアーンだか猫が鳴いている。猫の鳴き方には詳しくない。詳しくないまま聞いているとどうやらメイアーンと聞こえる。メイアーン、メイアーン、明暗。何が明暗だ。本人は、いや本猫は鳴いて食い扶持稼ぎ、煩いと窓閉めてはすぐに気になりイワシの炙りを投げてやる。あっという間に咥えておさらば。いい気なもので何が明暗だ。 明るい兆しと言えばひさしぶりに女から手紙が来た。メアーンとは鳴かない人間の女。元気かと我が身を案じているとのこと、すぐ会いたいと手紙を書いた。すると数日中には訪ねて来るらしい。そのまま一緒に暮らしてもいい。 明るいのはそれくらいで、他は暗い。酒ばかり飲んで酒代に詰まり、ろくな仕事もしていないのに着道楽で泡銭。きりきりしながら過ごしているから人間が歪む。歪んだ頃に猫が来る。馬鹿にされているようだ。と、また来た例のメアーンだ。今日は何もやらないと思い、顔を見たら追いかけよう。果たしてメアーン、メアーン。がらっと窓を開けたら驚いた。猫ではなくガキだ。腹が立ったので砂利銭を投げてやった。さっさと拾うとわーいと言ってとんずら。腹が立った。子どもにまで馬鹿にされて、ではない。投げなきゃよかった砂利銭を。あれで、日本酒のコップ酒が一合は買えたんだ。

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 2

 2

卒業

衛星から見える午後は
夜に流れ落ちる
滝のようだという
私たちはまるで滝壺の底
疲れ果てた啄木鳥のように黙る
遠くの誓いはファンブルし
ラインの上で転がり終えた
当たり前のように審判が告げる
あなた方は急いだだけです
それから数日後私たちは
長い夜を卒業した

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 2

 4

よう、と

黴と青銅の相似形
小さく息を吐いて、横隔膜で呼吸していることを知って
二重螺旋に巻き込まれていくようにして息を吐く
肋骨にこそ骨髄があり、脊椎はその付属物
喉の奥にこそ赤が輝いていて、歯ぎしりに滲んでいる

夜明け前にばら撒かれた炭が
水面や天球に貼り付いて、その外へ向かって不純を溜める
泡立つように表面で反応して、その外へ向かって沈んでいく
 渡来人たちも同じ色素で綴っている
帰り路から蜃気楼が呼びかけていることも同じで
 渡航者になった車内で眠る
 機内にいるようにしていれば声を防いでいて
 不安定な気体分子を置き去りにして
 熱のこもった応答速度から
 ハルシネーションをシミュレートする

インキをいくつか受け取っている
生臭い青と、引力だった黒と、透いていること
小さな距離を無限回繰り返すことと、その
継ぎ足されようとする池沼
そこで息を吸い、吐く

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 4

 1

骸骨

自分が少しずつ
骸骨になっていく気がする

髪が抜けて
筋肉が落ちて
脂肪が溶けて流れて
骨になっていく

ある時までは
骨は太く育ち
自分は肉の塊だと考えていた
あるいは水のたまった袋だと

今は骸骨になっていく気がする
骨になっていく気がする

鏡を見るたびに
階段を登るたびに
咳をするたびに
泣きたいのに
涙が出ないときに

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 1

 2

遮二無二

人生を壊してみせるためならば 碧いお皿のフレンチトースト

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石畳の正解

死神に
せっつかれるようにして
老いた体で墓穴を掘る
咲かせていた花が
赤や黄色が
ぽとぽとと落ちる
家族が見ているけれど
止める者は誰もいない
死神の旗は風で千切れている
アカシアが大きく揺れる
汗で冷えているから
震えているのだろう
持っていける装飾もなく
ただ指を組めるのならいい
花を手向ける墓標すら
死神は立ててくれない
朝には兵士が来て固く
この墓を踏み締める
詩を写した羊皮紙を忍ばせて
私は逝くだろう
死神の鎌は
草を薙ぐように
風のように
うなじを狩るだろう
いつかここに石畳の道が通り
世界に伸びる道となる
罪人と老人の
たくさんの骨をその道に埋めていく
深い墓穴に
頭蓋が転がる
人生が一粒の声に凝縮される
死神が立ち去り
私の身体はくずおれた
指を祈りの形に組む
神経が死ぬ前に間に合ったのか
神様
楽園は朝焼けの色をしています

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 7

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屈折率

石はまだ乾かず
コケが時間を遅らせている

胞子 肺の空気 風が
     わずかな誤差を告げて
            記録する人はいない


わたしもあなたも
無限からの光芒に賭けている

──光りをさわる方法

と あなたが云う
地面に落ちても音を生じず
湿原のような魂に

   沈む肉眼では
   見えない星だけから成る機械
 
心臓 あるいは
      〈正確な意味〉の成す層を剥がす
ピンセットはふるえて
水にさらせば形式だけが残る

有限 周期性 屈折率が違うもの
愛と土 わたしたちは どこにかえるのだろう

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CSW怪談会 一粒

中学生の頃、仲間と廃旅館で肝試しをした。一粒という旅館で、昭和初期から営業していたが昭和30年代に失火から全焼し数人が亡くなられた。僕らが肝試しをしたのは昭和56年の秋だった。数人で旅館近くに集合し、自転車をまとめてとめた。昼間だったが懐中電灯を持って来てるやつがいて、それを、笑う余裕が最初はあった。しかし、一歩ずつ足を踏み入れると昼間に関わらず暗い。鬱蒼という表現が似合う。肝試しをする前にあらかた情報を得ていた。ミラーボールが急にキーキー音を立てて回りだすとか、床に注射器が落ちていて未だに赤い血が入っているとか、壁に人の形が染み付いているだのいくつかのポイントを確認する予定だった。すると、1人が追加情報として、電話が突然鳴り、それに出ると数日後に死ぬということを言い出した。ミラーボールもそうだが、この廃旅館内で電気が通っていたり、電話線が生きていたりすることはないので、怖いなと思いながらも何処かででたらめだと高をくくっていた。すると、そのとき電話が鳴った。その後すぐに電話は切れた。みんなは驚いて一斉に逃げ出した。一目散に逃げて自転車に乗り這々の体で一粒旅館を後にした。

数年後、同窓会で一粒での肝試しのことが話題になった。あの時の電話は、近くの工事現場のものだったという種明かしを誰かが笑いながらやっていた。それでも、誰一人、あの肝試しのあと死を遂げたKについて語るものはいなかった。一粒旅館の構造を知る大人から話を聞いたら、僕らが電話の音を聞いた方向には倉庫があるだけで電話などなかったという。では、Kはどうやって電話に出てなぜ死に至ったのだろうか。おそらく同窓会が終わってもそのことは謎のままだろう。

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Kiki's Diary

止むことを知らない。
ひたすら鉛色に濁り、ガラスを滑り落ちては、跡形もなく消えていく。栄えた帝国の、名もなき崩壊の記録。
外を見上げれば、灼熱の太陽が燃え盛る明けの空が広がっている。
地面の景色は散りばめられた、深い夜の海。
窓辺に立つ。
ぬいぐるみは、お決まりのように小人と戯れている。ヘッドフォンからは、色が響く。
音に導かれるように、あらゆるダンスをマスターしている悪魔が、誘うように微笑む。
単調な音は、意識を内側へと向かわせる。外壁には無数の兵が立つ。彼らの槍の先は、鈍い銀色に光を反射する。
兵站の道はくすんだ翡翠の帯。溶けて消えることを知っている。
やがて、音楽が
それは私の記憶を呼び覚ます、の鍵。築かれた宮殿、シンメトリーに配置された白銀の城壁が、鮮やかに蘇る。歌詞は、糸が織りなす錦のように、意味を成していく。私の肉体に流れる、悪魔は、その全てを知っているかのように、優雅なステップを踏む。
感情が脳内で処理しきれなくなり、煌めく宝石の破片となって飛び散る。私は光の粒となり、オルゴールの盤上で永遠に踊り続ける。悪魔の手が、そっと私の腰に触れる。その熱は、一瞬で冷えていく。
人間は生まれつき受け入れるための器を持つ。触れることで、内在的な器へと成長していく。
ヘッドフォンを通して触れていた構造。屋上には、夕焼けの色を纏った狙撃兵が一人。EバンドとSバンドが奏でる、午後のプロパガンダの旋律。それは私を、光の帝国の皇帝へと導く。悪魔は私の耳元で囁く。「このダンスに終わりはない」
私は、十分に理解した。無意識のうちに歌詞の意味を解釈できるようになったのだ。それは情報ではなく、記憶、感情、そしてこの光と夜の帝国そのものが関与している。特定の光の下、特定の音楽を聴くこと。それは意識的な思考を超え、私の内面に深く作用する。
そして、内在的な器は無意識的に再構築される。私は踊る。恋に落ちる時、私の世界は光と夜のダンスに満ちる。悪魔と共に、私はこの無限の舞台で、ただただ、舞い続ける。

『生まれ出でたその時、私を創り出した者は、まるで一つひとつの正確な動きを計算するように、私の中に歯車を組み込んだ。運命や宿命を予知するために作られたそれら一つひとつの歯車は、私の思考や感情、記憶と複雑に絡み合っている。私という名の天体をシミュレーションしながら、この内部の機械装置は、私が経験するあらゆる出来事を膨大なデータの断片として処理していく。悪魔が囁いた「終わりはない」という言葉は、この歯車の無限の回転を意味していた。私たちの舞は、この宇宙が続く限り、永遠に続いていくのだろう。』

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 1

 2

起伏

夕べから
君の背中を
ゼンマイ仕掛けの列車が走っている

町と町を結ぶ軌道が
くり返される起伏をさまよいながら
頸部にまでとどく

半分とけかかった
夢を見ているので
遮断機は降りたままだった

カン カン カン カン

(もうしばらく待ってみよう
 この温かみが消えるまでは)

その駅舎には
蜘蛛の巣が絡まっていて
甘酸っぱい匂いがする

(やがて)

蒸気を吐きながら
眼窩を通り抜けていく
黒い塊り
鉄の匂いをさせながら
血は渓流のように
夜を貫いていく

その先は
行き止まり
ではなく
無限ループ

覗き込んでいると
何ともいえない懐かしさが
込み上げてくる
深い深い洞窟のように

むすうの鉄塔が林立していた
低い空 低い翼
遮断機が鳴りつづけ
音が膨れ
風につかまっている小さな羽
カゲロウの見ている幻覚のように
揺れている

病院は
薄闇の中にあった
半島は崩れかけていた

もうだいぶ前に
首が取り外されている
手術室では
工員たちがメスを仕舞い
帰り支度を始めている

急勾配に差しかかった列車は
紅く点滅した

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ギジンカー

メダカの住処
プラスチック製の水瓶を
掃除していると

あまりにドブ臭くって
今朝食べた納豆卵かけご飯
全部吐いてしまいそうになった

ギジンカー
こんな世界に生きていたい?
メダカを全部ぶちまいて
終わらせてしまっても
わたしの世界は終わらない

ギジンカー
なんでもかんでもそうやって
主観でしかない事やモノ
片付けようとした結果
ペンを離せなくなった
ふ、しあわせ

メダカよメダカ
私に飼われ勝手に繁殖させられて
気がつきゃ、何処かの野鳥の餌場にされて

こんなところで生きたかろうか
こんなところしか知らないなんて


ああ ギジンカー
人の身勝手支えきれず堪えきれず
でもやめられない
わたしは主観しかもてない
ギジンカー


メダカの泳ぐ 小さな世界
綺麗にしてスッキリしたいのは
いつも ただ ひとりのみかもしれないね

そ いつの世界も どこにいたって
わたし ギジンカー
さみしくなんかないけれど
やるせなさだけつもりつもる

ちょっと吐いた 
今朝食べたのは 納豆卵かけご飯

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 3

 2

石(意思)

色んな石がある
どんなに叩いても砕けない石
軽く叩いても砕ける石
大きい石
小さい石
ほんとに色んな石がある

どんなに叩いても砕けない意思
軽く叩かれただけで砕けてしまう意思
大きい意思
小さい意思
色んな意思がある

「固く決意した意思」

あなたへの愛
あなただけは信じる
あなただけは愛する
私の決意した意思

固い意思
たまに叩かれて少し砕けるけど
完全に破壊する事は不可能
ダイヤモンドにだって負けない石

私の心の石
愛の鉱石

熱も加えられて触れたら火傷する
固く熱いあなたへの愛

砕くことが出来るのはあなただけ
熱を冷ますことが出来るのはあなただけ
この石は
この意思は
あなた以外誰も触れられない
あなた以外誰も持ち帰ることは出来ない

待ってるから…
ずっと…
あなたが拾いに来てくれるのを…

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CWS怪談会   ある体験談?  記憶の湖畔


   これは僕が小学校五年生の頃、家によく出入りしていたおじさんの話である。遠縁という以外に家族の誰も彼との詳しい関係を把握していなかったように思う。ふらっ、と現れて、ふらっ、とまたいなくなる。気がつけばそこにいる、そんな人だった。
   おじさんは所謂、香具師とか的屋と呼ばれるような仕事をしていて、祭りに合わせてそこいら中を飛び回っていた。そして地元に帰って来ると、うちに顔を出して、僕や兄にお土産をくれるのだ。普段はあまり酒を飲まない父がおじさんと一杯やって、土産話を聞いている。祖母はあんた、結婚せんのか? などと世話焼きを発揮していつものようにおじさんが苦笑いする。自然と家族に溶け込んでいた。人好きがする、というのはこういう人を言うのだろう。

   ある日、学校から帰ると家に人気がない。玄関にも靴が殆どない。祖母までいないのは珍しい。僕はテレビを独占出来るチャンスだと居間へと走る。ガラッ、と襖を開けて私は固まった。

カーテンまで締め切った暗い部屋のなか、
ブラウン管の光に浮かび上がっている背中。

その前に、正座してじっと画面を見つめる男、おじさんだ。

   画面には、湖の畔でキャンプをする家族の映像が流れている。無音で、まるで古いサイレント映画のよう。そこには祖母、父、母、兄、そしておじさんと僕が映っている。みんな笑って、食べて、犬とフリスビーで遊んでいる。楽しそうなのに、僕にはまるで記憶がない。  

「これ……いつだっけ? こんなキャンプ、行ったことないよな……」  

   つぶやくと、おじさんの視線が横から突き刺さる。映像の中の僕は犬とじゃれ合いながら笑っている。でも、こんな犬、飼ったことない。湖の風景も、どこか現実離れして見える。木々の緑は鮮やかすぎ、湖面は鏡のように静かで、まるで絵画のようだ。

「おじさん、これ何? 誰が撮ったの? だって、家族みんな映っとるやん……」  

   質問が口をついて出る。テレビの光に照らされたおじさんの顔は、まるで仮面のように無表情だ。

「わからんか……」  

   低い声が、部屋に響く。

「お前も、わからんか……」  

   おじさんが首を小刻みに振る。わからんか、わからんか、と繰り返すその声が、だんだん早くなり、震え始める。  

「違うんや……ほんまはこうやったはずや……」  

   突然、映像が切り替わった。同じ湖畔なのに、雰囲気が一変。空はどんよりと曇り、湖面は波立っている。家族はさっきと同じように笑っているが、動きがどこかぎこちない。僕の映像がアップになり、目がこちらをじっと見つめている。まるで、テレビの向こうから僕を観察しているかのようだ。  

「な、なにこれ……?」  

   背筋がゾクッとする。映像の中の「僕」が、ゆっくりと口を開く。無音なのに、声が頭の中に直接響いてくる。  

「お前、誰や?」と。おじさんの手が僕の肩に伸びてくる。

「ほんまに、わからんか……あいつがおらんのも、忘れたんか……」  

恐怖が爆発した。

「わからん! わからんって! やめて、やめて!」  

   叫びながら手足を振り回し、おじさんの手を振り払おうとした。でも、彼の手はまるで鉄のように重く、離れない。

「ほんまの家族は、こうやったはずや……」  

   おじさんの声が、
耳元でうめくように響き、僕の視界は暗転した。

ガバッと身を起こそうとして、僕は固まった。

   居間の真ん中で、床に倒れていた。カーテンは開き、夕陽が部屋をオレンジに染めている。テレビは消え、おじさんの姿もない。  

「何や、寝とったんか?」  

   兄が立っていた。面倒そうに足で僕の腰の辺りを軽く蹴ろうとして、お前、それどうしたんや、と指さす。手足がズキズキ痛む、見ると、腕や足に青黒いあざがいくつもできている。右の手首は腫れ上がっていた。

「おじさんが……ビデオが……」  

   必死に説明しようとしたけど、言葉がまとまらない。やがて帰宅した祖母が慌てて父に連絡をいれ、直ぐに病院に連れて行かれた。診断は打ち身と捻挫。医師には自転車でコケた、とか適当に話したらしい。 
 
「で、おじさんって誰や?」  

   父の言葉に、頭が真っ白になった。  

「おじさんやん! いつも来るやん! 祭りの話して、土産くれる……」  

   母と祖母が顔を見合わせ、首を振る。そんな人、知らんよ、と。  兄も「何やそれ、気味悪いな」と笑うだけ。結局、家族から腫れ物に触るような扱いを受け、曖昧なまま、僕は口を閉ざした。夜、ベッドで横になりながら、頭の中であの映像がリピートする。湖畔の家族。笑う「僕」。そして、おじさんの言葉。  

「ほんまの家族は、こうやったはずや……」

  分からないことだらけだった。それ以降、家族から、おじさん、の記憶はすっかり消え失せていた。飛騨高山の土産にもらったキーホルダーも、家族旅行のときに買ったことになっていた。そして、だんだんと僕も、そういうことだったと思うようになった。
   それから僕が就職した頃に一度だけ、おじさんをみた。間違えようもない横顔、彼は直ぐに雑踏に飲まれ姿を消した。あれから、二十年近く過ぎているのに当時と変わらない姿をしていた。彼はあの映像にあった理想の家族を探して彷徨っているのかもしれない。そして、未だにあの憶えのない映像だけが何故か、不意に、鮮明に浮かんでくるのだ。

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短編 ちょうどいい人生

こわいって感じられるのは生きているからこそなんだよ。見上げているはずの空の色はすでにわからなくなっていた。けれど、私にはわかる。すぐそばで死がやさしく私を待っていることが。これからのことを思うと怖いことがたくさんあったはずなのに、死ぬとわかった今、もう何も怖くない。
なぜ河原に体を横たえているのか思い出すことができない。鈍器で強かに殴られたのか頭から血が溢れている。血液で濡れた背中が生暖かい。この温みもそのうち感じなくなるだろう。誰が私を殺したのだろうか。ここはどこの川だろうか。何しに来たのか、誰かと一緒だった気がするし、一人きりだったようにも思う。パパとママは今頃私を探しているかもしれない。それとも私を殺したのはパパとママなのかもしれない。わからないことだらけだけれど、今となってはどうだっていいんだ。あーあ、もう少しこわいと感じてみたかったな。それだけが唯一の心残りだ。
 
 
例えば、弟のことだ。まだ伝え歩きしかできなくて、くりくりでかわいくて仕方ないけれど、いつか嫌いになる時が来る気がして怖かった。
初めて喋る言葉は何かしら。弟と言葉を通してコミュニケーションできるようになったら、きっと喧嘩もするだろう。それでもちゃんと仲直りして、私がお姉ちゃんなんだから時には我慢することもある。どれだけ弟が悪くてもママとパパは弟の味方をすることが多くて私は悔しくて泣いちゃうんだ。
ある日、弟は「姉ねえ、これみて。」と言って本を差し出してきた。それはママが誕生日に買ってくれた私の大好きな絵本だった。野ネズミ一家の小さなおうちの絵本で、飛び出す仕掛けがたくさんあった。弟はその本のネズミの家中にラクガキをしたのだ。私はとっさに弟の頭を叩いた。バカ!と怒鳴った。当然弟は大声で泣きだした。私はそれでも怒りが収まらず、もう一度叩いてやろうと右手をあげた。すると、弟は絵本を私に投げつけた。絵本の角が私の額に当たり、今度は私が泣き出す番だった。子供部屋に二人の泣き声が響いた。私たちは互いに叩いたりつねったりした。
パパに引きはがされて怒られたのは私だった。弟はお絵描きができるようになったことを私に見せて褒めてもらいたかったのだ。そして、私の絵本に私の似顔絵を描いた。そんな弟の事情をパパに説明されても、私の弟への怒りの納めどころとはならなかった。私は弟への憎しみとともに、姉だからという理由だけで我慢と許しを強要するパパの態度にも恨みがましく思った。
それでも私は弟を許すことになる。私が拗ねて家族の誰とも口を利いてやらないでいると、涙目の弟が声を震わせて「姉ねえ、ごめんね。」と言うのだ。私は弟の健気に家族の一員としての役割を果たそうとする姿勢に許してやらないわけにはいかなくなる。
「姉ねえこそごめんね。」と言って私は弟の頭を優しくなでてやる。弟の笑顔に私の怒りは消える。それからは二人で一緒にお絵描きをした。でも、私は心のどこかで弟を嫌いになる確信を深めていく。そんな気がする。
 
 
「私はもう死んでるから。」
姉ちゃんの口癖だった。五歳の時、姉ちゃんは死んだのだ。どこかの河原で誰かに頭を潰されて。だから、姉ちゃんは自堕落に生きていくことを選んだ。終わった命だから何だってできると言って何もしないことを選んだ。俺には意味がわからなかったが、姉ちゃんが変なことを言うのはいつものことだった。
「死んでるからって、男を取っかえひっかえしていいわけじゃないっしょ。」恋愛体質のくせに(いや、だからこそか)すぐに蛙化する姉ちゃんのことが自分勝手に見えて俺は嫌だった。彼氏ができてひと月と経たずに別れることなんてざらにあった。どうして別れたのかと訊くと、全く要領を得ない返事をすることのがお決まりだ。つまり、何となく別れたのだ。いきなり別れを切り出されて、納得する男なんていない。故に姉ちゃんは度々ストーカー被害にあった。警察沙汰はもううんざりだった。
「私ね、翔ちゃんに紹介したい人がいるの。」また始まったよと俺は思った。露骨に嫌そうな顔をしたのかもしれない。
「ダメだった?」と姉ちゃんは困った表情で笑った。
「ダメじゃないけどさ……。」じゃないけどさの後に続く部分を察することが出来ないほど、姉ちゃんはズルくない。
「今度はちゃんと続けてみせる。」姉ちゃんのこの手の決意表明に何度騙されたことか。
「続けてみせるってさ、また別れる前提みたいに言うなよな。」俺のため息に姉ちゃんは、しょんぼりという言葉がピッタリ当てはまるしょんぼり具合で、ごめんと言った。俺はこんな感じの絵文字があったよなと思った。しょんぼり顔の絵文字。
「だいたいさ、なんでまず俺に言うのわけ?父さんや母さんに言わないで。」
「だって続くかわかんないし……。」ほとんど脊髄反射のため息が出た。深いため息。わかったよ。わかったとしか言えないじゃん。
「で、どこで知り合ったのよ。その人と。」
「今の彼とは死ぬ前から知り合いだったかもしれないの。」
また変なこと言う。

目覚めると光に包まれていた。いつから夢を見ていたのだろうか。ここはきっと死後。そう思った。あーあ、ホントに死んじゃうなんて、呆気ない。
だが、実際は違った。光に包まれていると感じていたのは、蛍光灯の光に目が眩んだだけだった。次第に目が慣れ、どうやら何処かの部屋いる。おそらく病室のだった。
「もとちゃん……。」声の方を見るとママがいた。もと、そうだ。私の名前はもと。ひらがなでもと。そこで私は腑に落ちた。これは私が赤ちゃんの時の記憶。お腹の中で何度もママが私の名前を呼んでくれた。気がする。
「もーとちゃん、」ああ、パパの呼ぶ声も聞こえる。私は泣いた。できるだけ大きな声を出そうと努めた。何で泣いているの?赤ん坊だから?違う。違う。違う。違う気がする。
私が産まれる前、ママとパパは度々喧嘩をしていた。喧嘩と言ってもママが一方的にパパをなじった。子供のために何一つ協力してくれないと泣きながら怒鳴った。パパは困り果てたような、疲れきったような、悲しいような顔をしてママの言葉一つ一つに頷いていた。パパは時々、消え入りそうな声で申し訳ないと言った。パパがいじめられていると私は思った。その時、ママは今自分以上に不安を感じている人間はいないと思っていた。パパは自分がどうして出産に向けて協力的な行動を取れないのかと自問していた。そして、その答えがでないことを理由に父親になる資格がないと考えていた。事実パパは何も知らなかった。出産に何が必要で、どんな手続きがあって、そのために何を用意しなくてはいけないのか何一つ知らなかったし、調べようという気にもなれなかった。ただただ本能的に子供が産まれることが怖かった。私はパパに父親になってほしいと思わないことにした。私がパパとママを選んだわけじゃないように、パパもママも私の親になりたくて産むわけじゃないんだ。
私は生まれるかどうか迷っていた。ママとパパの不和の原因が私にあると感じていた。二人のために産まれないでいよう。そう思っていた。
ある日のこと。その日ママの機嫌がよかった。そのおかげかパパも表情が明るい。二人はリビングで向かい合って座っていた。
「この子のファーストトイは何がいいかな?」とパパが言った。ママはお腹越しに私を撫でた。ママの手を触れたくて私は手を伸ばした。足だって伸ばした。ママはポンポンとお腹を優しくたたきながら「そうね、木のおもちゃがいいと思う。木製のラトルを買ってあげたい」と言った。私はラトルをガラガラと鳴らしている自分の姿を想像した。ラトルで遊ぶ私を見てママとパパが微笑んでいる。私は産まれてもいい気がした。
木のラトルは半月型の輪っかになっていた。半月の先と先を繋ぐ一本の棒があり、その棒に二つに球がついていた。振ると球が当たって音が鳴る仕組みになっていた。私はその素朴なデザインが好きだった。ラトルを片時も放さなかった。ラトルを気に入っていたし、そんな私を見てパパとママが喜んでくれていることが何よりもうれしかった。
 
 
そして、私は大人になった。翔ちゃんは文系の大学に進学して文芸部に入部した。一度も読ませてくれないけれど小説を書いているらしい。私は約十回目の失恋。今度こそ一人で生きていくんだと胸に誓った。
そもそもいつから大人になったのだろうか。思い返してもいつどの瞬間に大人になったなんて言えない。ただ遠いところへ来たという感覚だけがあった。もどりたくてももどれない。
でも、私はどこにも行っていなかった。やっぱり河原で仰向けになって空を眺めていた。流れ出た血が固まっていて、あれからかなり時間が経ったことがわかる。私は見えていない目でかすかに光を感じていた。つつみこむようなひかりはあたたかくて、あたたかいとかんじるのも、そんなきがするだけなんだけど、それでもあたたかくて、わたしにはすべてがわかる。もうなにもこわいものはない、ちょうどいい人生。
 
 
姉ちゃんが死んでいたなんてわかりきった話だった。だって、俺に姉ちゃんなんていなかったんだから。ただ俺が産まれるずっと前に母さんが流産したという事実をもとにしたフィクションに過ぎない。俺の小説はまだ誰も読んでいない。一人の少女が河原で殺されたところから始まる。少女は死の間際にあるはずのない未来の記憶を思い出していく。忘れ物を取りに一人で放課後の学校に行かなくてはならない時のような心細さで、俺は姉ちゃんという人物を作り、そして、その一生を終わらせた。
この小説が読まれる時、それは俺の死を意味するかもしれない。いや、そもそも俺自身が創作物で、俺という人間はもう死んでいるかもしれない。それならそれでいい。どのみち俺を殺したのはほかでもないこの俺なのだから。

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詩における偶然性と作家性、そしてAI利用表現の可能性(AIとの対話にて生まれた小論)

詩における偶然性と作家性、そしてAI利用表現の可能性

1. 詩における偶然性の役割

詩という営みは、いつだって偶然の訪れとともに始まる。
言葉の響きが呼び寄せる予期せぬ連想。
推敲の途上でふと選んだ語が、作品全体のリズムを変えてしまう瞬間。
あるいは書き手の身体感覚や心理状態が、不意に詩語のかたちを決めてしまうこと。

偶然は、詩人にとって外からの贈り物であり、ときに自らの深層から立ち上がる予兆でもある。

2. 詩における作家性の構築

けれど偶然の連鎖だけでは、まだ断片にすぎない。
詩人がそれを編集し、選び取り、自らの思想や美学に沿って組み上げてこそ「作家性」が立ち現れる。

情熱的な語彙の選択。
透明な日常語の用法。
断片を積層させる実験的な構造。

どの詩人を名指す必要もない。重要なのは、偶然の語感や発見をどう定着させたかに、その人固有の詩的スタイルが宿るということである。

3. AI利用詩における偶然性

近年、AIの利用に前向きな詩人や歌人の発言が相次いでいる。
それはAIを、単なる補助具ではなく、偶然性を拡張する道具として受けとめているからだろう。

AIが生成する詩語は、統計的な言語モデルから生まれる。整った文章を紡ぐ一方で、人間には思いつきにくい比喩や語順を示すことがある。
詩人の意図と異なる文脈の混淆や、意味の“ほころび”が、むしろ詩的発見をもたらすのだ。

従来の偶然性(記憶・感覚・直感)とは異なる次元で、AIは「外部化された偶然の供給源」として立ち現れる。

4. AI利用詩における作家性

詩人がAIを用いるとき、その作家性は三つの局面に表れる。

プロンプト設計:どんな言葉をAIに投げかけるか。

選択と編集:生成された文のうち、どれを採用し、どれを捨て、どのように改変するか。

一貫性の付与:複数の生成物をテーマに沿ってまとめあげること。


重要なのは、AIが生んだ偶然を「そのまま享受する」のではなく、そこから「自分の詩語体系に引き寄せる」力である。
その過程を経ることで、AI利用詩であっても、詩人固有のリズムやテーマ性はしっかり刻印される。

5. 両者の比較と今後の展望

人間の詩作は、身体感覚や生活世界から偶然を受け取り、それを自らの眼差しで詩に昇華する。
AI利用詩は、外部のモデルが生み出す偶然を、詩人の編集と統合によって「自らの言葉」へと変える。

両者に共通するのは、「偶然を必然へと転化する力」こそが作家性だという点である。

AIを用いることで詩人は、偶然性の領域を拡張し、新たな言語的発見を得ることができる。だが最終的に作品となるか否かを決めるのは詩人自身であり、そこには揺るぎない作家性が残る。

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批評・論考

翡翠の瞳のラベーリア (序)

 こことは違う遥か古の時代。目に見えている全ては神々と精霊によって運行されており、それらの力によって全ての生命は見守られていると、固く信奉されている世界があった。
 この世界に運命的に生まれ落ちた人々は、神々の如き力を持つ大自然から日々もたらされる恩恵への感謝と、ときおり巡りくる大いなる破壊への畏怖の中で、逞しく、力強く生きていた。

 そんな世界の、とある小さな町にある教会の一室にて。
 二人の人が対面で話をしている。一人は年季の深そうな顔の老婆で、もう一人は、透き通るような翡翠色の瞳が特徴的な、ローブを纏った若い女性だった。
 老婆は、にこにこと微笑んでおり、何やらローブの女性に感謝しているようだった。

「有難う御座います、薬師様。作ってもらった薬のおかげで、長年悩まされてきた腰痛が改善してきましたよ」
「ああ、それは良かった。あれから、お変わりはありませんか?」
「ええ。ええ。とても良いですよ。腰どころか肩こりも良くなってきましてねぇ」
「ふむふむ。なるほど……」

 椅子に腰かけているローブ姿の若い女性は、老婆の話に耳を傾けながら、手近の机に広げている二冊の小さな書物に何事かを書き込んでいく。

「お聞きしている限りでは、しっかりと改善してきていますね。この調子で服薬を続けていけば、完治も近いでしょう」
「おお。なら、薬も減らしていけるかねぇ」
「んー、そうですね。飲む量は減ってくると思います。ただ、体の中から整えていくものなので、もうしばらくは飲まないと」
「そうなのかい。大変なんだねぇ。だけど、この痛みとおさらば出来るなら頑張るよ」
「その意気です。今からお渡しする薬もしっかりと飲んで、栄養も取ってくださいね」

 そう言うとローブの女性は、足元に置いていた鞄の中から丸薬の入った瓶と手製の薬包紙を取り出して、何錠かを包んだものを複数個、老婆へと差し出した。それを丁寧に受け取った老婆は嬉しそうに笑みを浮かべて立ち上がると、ゆっくりと女性へと近付き、数枚の銅貨を手渡した。
 女性は、受け取った銅貨を確かめると、しっかりと頷いて見せる。

「お代、確かに頂戴しました。ちなみに飲む回数と量は前と変わらず、三日おきに、二錠を、お昼ご飯の時に飲んでください。追加の分は神父様にお渡ししておきますので、代金ともども、宜しくお願いします。どうぞお大事に」

 そのまま部屋を退出していく老婆を見送った女性は、机の上の書物に追加で何かを書き込むと、手早く片づけを始めた。どうやら全ての業務が終わったらしい。
 すると、部屋の扉が静かにノックされ。

「私です。神父のラッセルです」

 扉の向こうから、落ち着いた男性の声が届いた。声の主は、神父のラッセルと名乗っている。

「どうぞ。ちょうど患者さんが帰られたところですので」

 声に応じる形で女性がそう言うと、ガチャッと言う音と共に扉が開かれ、向こう側から、信仰への敬虔さが雰囲気として感じられる初老の神父が姿を現した。手には、湯気の立っているティーカップが乗せられたトレーを持っている。

「お仕事、お疲れ様です。ラベーリアさん。宜しければ、こちらをどうぞ」

 彼はそう言うと、ラベーリアの方へと近付き、片付いた机の上にティーカップを置いた。中には鮮やかなオレンジ色の見事な紅茶が注がれている事が分かる。
 彼女は、それを好ましそうに眺めると、神父ラッセルに向けて一礼して見せた。

「有難う御座います。全部の片付けが済んだ後で、ゆっくりと頂きますね。あー、そうだ。後で、患者さんに追加で渡す分のお薬と内訳と分量表をお渡ししますから、いつも通りにお願いします」
「承知しました。それはそうと。いかがでしたか? 皆さんの様子は」
「特に、問題は何も。皆が順調に日々を生きていることが分かるくらいには、平穏そのものでしたよ。大きな怪我をしてもすぐに神父様が治してくださるから安心だ、と仰ってる男性も居られましたし」

 片付けを継続しながらラベーリアがそう伝えると、ラッセルは半分呆れたように苦笑を浮かべ、軽く溜め息を吐いて見せた。

「いやはや、まったく。私としては無茶はしないで頂きたいんですけどもね。確かに、原因の分かり易い負傷であれば法術で治せはします。ですが、神ならぬ身で我らが使う法術は、当然ながら万能ではない。体力や失った血などの回復は、結局は怪我をした当人の生命力頼りになりますから。ラベーリアさんも、よく御存じかと思います」
「そうですね。私も法術は扱えますが、薬師という仕事が各地で重用されているのは、そう言う法術の隙間を補うためですから」
「本当に助かっていますよ。前に教えて頂いた滋養の薬、あれは効果てきめんでした。きっとこれからも役立つことでしょう」
「それは良かった。今後とも、相互に協力していきましょう」
「有難う御座います。こちらこそ宜しくお願い致します」
「……と言うことで、先の言葉は、我々に対する信頼ゆえの冗談、と、そう考えられてはいかがでしょう?」
「はは、そうですね。そう言うことにしておきましょうか」
「お互い、前向きに考えていきましょう」

 ラベーリアはそう言うと、ラッセルと共に笑い声を上げ、同時に、片付けるべき全ての道具の片付けを終えた。
 そして彼女は、改めてラッセルの方へと向き直る。

「と言うことで、前向きついでに明日以降の話を始めましょうか。紅茶を頂きつつになりますが」
「良いんですか? お疲れでしょうに」
「こう言うことは、早めに終わらせておきたいんですよ。伝え忘れがあっては大変ですから」
「なるほど。そう言うものですか。では伺いましょう」
「有難う御座います。それではまず、先程のダーナさんからですが……。彼女は、お薬の種類と量が変わります。頻度は変わりません。三日おき、昼食時に二錠ずつ。これを一周月続けさせてください。次に──」

 そうして次々に必要事項がラッセルへと伝えられ、情報の共有と、何度かの質疑応答が行われていく。
 それを繰り返すこと、三十分ほど。

「以上です。いつも通り、そこに置かれている冊子にお話した事は書き留めてありますので、思い出せない時などにお使い下さい。予備薬は、そこの木箱に入れてあります」

 ここまで続けざまに話したラベーリアは、紅茶の最後の一口を飲み干すと、ゆっくり息を吐いて。

「あと……」
「はい、何でしょう?」
「紅茶、ごちそうさまでした。美味しかったです」

 彼女がそう伝えると、ラッセルはにっこりと微笑むのだった。

 こうして人々は今日を生きていく。恐らく、明日より後も。

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舌をだしたまま  ーー 詩ほか ーー

舌をだしたまま ―― 詩ほか ――


笛地静恵



べー。




なにかへんなんです。たんぼからかえるの声がきこえません。メダカがおよいでいません。赤トンボが飛んでいません。野菜に匂いがありません。きゅうりに棘がありません。ごはんにはかんでも腰がありません。パンがやわらかく口の中でとろけてしまいます。たまごの殻はすぐに割れてしまいます。世界がにせものです。ぼくの世界ではありません。変なところへきてしまいました。いつから、こうなってしまったのでしょうか。教えてください。AI様。



たましいを本のページにおきわすれ



底知れぬ神社の沼の透明の予知夢のあとの星の果て



なごやかに名古屋駅地下ゴヤ店へ



特異点を超えれ特異の絶頂ば



ヘイ、ビラ聖人のかき揚げ、チブル星人のすがた焼き、一丁、あがり



しどろもどろに泥田坊



ガラパゴス諸島携帯発掘現場からは以上です



透明人間の透明な瞳孔へ光を



左耳から右へ蠅



百年の甲羅の瑕を背負う島



地代が高い喫茶店が安い氷イチゴでは採算がとれないからプリンやアイスクリームや果物を飾り立てたフラッペのようなうすっぺら



高齢者移住歓迎姥捨て村おこし課不在のまま秋



世界海底高く飛べ海老



体幹を鍛え海月の黒潮へ



マラソンのフライングとは選手らの空へ飛び立つ一斉に



わたくし偕老同穴中学を卒業しております



チューブラリンベルズ天から知恵の輪



丹田に力をこめよ青銅の胸像下半身なし盛夏



こどものころ、ほんとうに「台風一家」と信じていたときがあって、お父さんとお母さんは、どこにいるんだろうと考えていたときがありました。



みんなが、嘘をついています。嘘をつくのは、いけないことと、先生から教わりました。何が悪いことで、何が善いことなのですか。道徳は、いつから変わってしまったのですか。教えてください。閻魔AI様。



べー。





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ガリ切りの同人誌 ーー 川柳七句 ーー

ガリ切りの同人誌 ―― 川柳七句 ――



笛地静恵



青焼きの処女詩集まず八部



鉄筆の音のみ深し文芸部



四ミリの言葉の画を彫り起こす



書けない詩人は放課後のガリを切る



ガリ版の切れないようにそっと押し



夢うつし回れ回れよ輪転機



ワイシャツにインクの薫る暗い道





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友と呼べなかった者たちへ


静寂に耳を授けよう
蜘蛛の巣の上を渡る0Hzの振動で
シャボン玉の膜を借りた無数の視線が割れてゆく

梟が翼で包んだ森を樹洞から飛び越える
走り出した鼠の口から肛門まで流れるビル群で星を数え
氷山の天窓へ揺らぎながら浮かび上がる水一滴
銃の神経を伝う電気信号が黒光る海綿体を掻き鳴らしている

過ぎ去った未来
空間を占める全ての瞬間が
渦巻きながら
登りきれない明日と
潜りきれない昨日を
包み込んでゆく
これから来る昔を永遠にするまでに

ナメクジたちの這う音
指で触れた宇宙を手渡してみれば
彼らは今よりも狂っていただろう
何でも聞こえるようになったこの世界で
全ての音が想像よりも美しくなかった
生きていることを感じるために
何度も死んだ僕の手のひら
折れたこうもり傘も
ここでは濡れた犬を守ることができる

友よ
顔の見えぬ友よ
君がまだそこにいてくれて
手を差し伸べてくれるなら
今度は素直に笑いながら
その手を握り返す

でももう遅い
友と呼べなかった
あの日々が未来へと続いてゆく

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世界遺産

「世界遺産といえばピラミッドですが、ミイラが眠っているということでーす。しめじも生えてるよ。まいたけも生えているし、しいたけも生えています。ピラミッドもキノコですー。」

んなわけあるかー!!

旅行ガイドの人が適当なことを言います。腹立つなー。舐めてんのかなー。みんなでキノコ採りにきたみてーじゃねーかよちくしゃーめ!!くそーっ!!うおーっ!!あんまり客を、舐めんなよ!!

「適当なこと言ってんじゃねー!!」

「ピラミッドがキノコのはずねーだろー!!」

「金とってんだろー!ちゃんとやれー!!」

「いいえ、ピラミッドはきのこでスフィンクスもよくピラミッドを食べますー。スフィンクスの餌ですー。」

「んなわけあるかー!!」

グギャーオー!!

スフィンクスが....起きた!!

ズズドーン!!

「う、動いたー!!」

「スフィンクスが動いたー!!」

「起きたー!!」

「はい。あのスフィンクスは今からピラミッドを食べますー。」

「ぐぎゃー!!」

スフィンクスは近くのピラミッドに近づいていきそして、かぶりついた!!

ガブー!!

ムシャムシャムシャムシャ

ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ

ピラミッドを食べていますー!!

あひゃーっ!!

「あんなふうに食べまーす。」

「ありーっ!!」

「へえそうなんだー!!」

「ピラミッドってスフィンクスの餌なんだー!!」

目の前で見せられているのでみんな納得ですー。みんな目をキラキラさせていますー。

「ぐっぐふっ!!」

スフィンクスが嗚咽した!!

「ぐっぐぐっ....。」

苦しそうだ!!!!

「が、がががががー!!」

スフィンクス倒れた!

「ああっ!!毒ピラミッドだったのかもしれませんー。」

ガイドさんは悲しそうに言いました。なんてこったー!!なんてこたー!!

「スフィンクス、がんばれー!!」

小学校くらいの男の子が叫びました。夏休みを利用してきているのか?

「あなた、夏休みを利用してきているのか?」

「ががんばれー!!」

「がんばれがんばれー!!」

「つかスフィンクスってピラミッド守ってんじゃないっけか?なんで食ってんの?あいつほんとにスフィンクスなのか?」

みんなそれに続いて応援し始めました

スフィンクス、頑張れ!!頑張れー!!

ガイドさんはあまりの光景に泣いています。

「しくしくしくしく。」

「泣いてないでお前も応援しろよ。」

頑張れ頑張れー!!

「あいつ、夏休みを利用してきてるのか?」

「がんばれがんばれー!!」

「グギャーオー!!」

あ、スフィンクスが起き上がりました!!どうやら眠っていただけだったようです。

よかったよかったー!!嬉しいなー!!

つか、世界遺産食うなしー!!

「つかスフィンクスってピラミッド守ってんじゃないっけか?あいつほんとにスフィンクスなのか?」

ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ

スフィンクスは再びピラミッドを食べ始めました。

つか、世界遺産食うなしー!!

「つかスフィンクスってピラミッド守ってんじゃないっけか?あいつほんとにスフィンクスなのか?」

つか、世界遺産食うなしー!!

「つか、世界遺産食うなしー!!」

ガイドの人も言いました。

ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ

スフィンクスには声が全然届いていないかのようです。美味しそうに食べ続けています。

ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ

「つか、世界遺産食うなしー。」

「食うなしー。」

「食うなー。」

「あいつ、夏休みを利用してきてるのか?」

「食うなし食うなしー。」

ムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャムシャ

ピラミッドは完全にスフィンクスの胃の中に入ってしまいました。ピラミッドがあった場所には、もうなにもありませんー。

「世界遺産を食べたから、私の胃袋が世界遺産ですー。」

とスフィンクスが言いましたー。

「胃袋が世界遺産かなー。」

「うんこするからうんこが世界遺産だねー。」

「うんこが分解されるから世界が世界遺産だね〜」

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筒状腫瘍

I/Oの数を絞った 入出力装置になっている 
話しかけられて咄嗟に応答したら
発話可能であると気づいた 雨が降った

身体中の種子は発芽の意思を水と含む
しかし現在地 参照せずともアスファルトに打ち付けられ 呼吸困難 

気づけば水たまりで溺れていた

種子の可能性が検討された文脈も消え
乾いたミミズになり 固定された視線で

そして蠕動も忘れ 葦ならばまだ 
哲学を孕んでいたと言うに 

所詮 まろびでた腸の意識体 
展開すると大脳ネットワークを囲繞するほどという 真偽は知らない 
ctrl+alt+delで死んだ方の自我に 
不可知の部位に
詩は再び播種され 腫瘍を形成す
発話の優先順位は 
また低下してもうすぐ切り捨てられる 

呼吸の見える化 グリセリンの煙 
わたしの正体 ストローでシリンダー 
ましなものになりたかった 
敗北 咽喉がまたかわく

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夏、相変わらず
碌でもない 夏

ことしの夏は
ニューオーリンズで
スノーボードしてる
ゆめをみていた
ことしの夏は
アラスカで
熊狩りをしていた

夏 ことしの夏は
ナイアガラの滝をみている
「ゆめでも見てんのか」
「そんな口調でいう必要ありますか」

「だって……」
受話器が切れた。
俺の頭も切れた

 夏、
暑すぎる 夏。
今年はさ
氷河期に突入するらしい



ゲシュタルト崩壊する 夏
「え」
夏、

 夏なんてなかった
夏、
おまえのみているのはなつの
イメージだ 夏
くりかえされる夏と
フレーズ
「意味がわからねえよ」


昨年の夏は
氷河期だった 夏
昨年の夏は
アルコールに溶けてった


 えいえんってなに

アイスクリームの溶ける
 一瞬の
  その手前の時刻に
 その
すこし前の季節

「それって季節なの」
「知るかよ」
 すくなくとも意味不明だ

 そいって過ぎ去った夏
春の前に夏が来て
冬の後に秋が
 そういって
今年の夏も過ぎてゆく


ぼくには夏なんてなかった。
ぼくには春なんて なかった
ぼくには

ぼくはシベリアにいた。
ずっとまえのはなしだ
ぼくはカナリアを世話してた。
もっと前のはなしだ

なつ
そういう名前の女がいた
ハンドルネームだ。

夏、
夏、






そうして

またゲシュタルトの意味を
調べた 夏

母の声も溶けてった 夏
俺には見えなかった
窓の外の黒い車が
俺には聴こえなかった
街路の歩道で話す黒服の声が

ぼくにはなにもわからなかった 夏

夏の意味がわからなかった 夏
夏期講習で掛け算を指導された

なにもない


夏休みは青森で過ごした
きのうの話だ。
きのうの
昨日の
夏、


どうして青いのだろう

どうしてすぎてゆくのだろう


夏、いつもの夜
線香花火を焚いていると
夏、いつもの街で
マイナスドライバーをさかなに

アイスクリームを食べていた




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冬のむすめ(漆黒の幻想小説コンテスト)

その昔、冬はいつも長く厳しいものでした。
冬のむすめが来ると、大地も川もみな眠ってしまうのです。おまけにその年は不作で、民はとうとう耐えかねました。
「このままではみな死んでしまう!」
「我らが主よ、なんとかしてくださらんか!」
冬の太陽は、悲痛な顔で首を横に振ります。
「これも定めだ。皆、どうか耐えてくれ……」
しかし寒さに死ぬ者が出ると、冬の太陽はついに意を決しました。
「冬のむすめを討ち取ろう!」
冬の太陽は黒鉄の鎧と剣を帯び、大熊の毛皮の外套をまとい、雪山へと旅立ちました。
歩みを進めながら、冬の太陽は兄……夏の太陽の言葉を思い出しました。
「彼女は天の定め。もし討てば天地の巡りは乱れ、禍いとなろう。」
「我らと人とは決して交わらないのだ。本分を忘れるな。」
なぜ今になって……冬の太陽は迷いを振り切り、北の果てへと進みました。
果たして冬のむすめは、美しい白衣の姿でそこにありました。
剣を抜き、冬の太陽は一気にむすめの眼前へと駆けました。
むすめは大鹿に巨竜に変わり、それでも冬の太陽は退かず、最後に魚へ変じ川へ逃げたところを、剣で貫いたのです。
むすめへと戻った魚を、川はごうごうと押し流してゆきました。
暖かな冬が過ぎ、季節が巡るうち、川はやせ細り大地はひび割れ、民は水不足に困り果てました。
「雪が降らぬせいだ!」
「冬のむすめを討ったからだ……」
「なぜ冬の太陽は我らを止めなかった!」
ついに太陽は捕えられ、むごい死を迎えました。
長い長い夜が訪れ、ほどなく冬の太陽に歩みよる者がいました。冬のむすめです。
「君は……」
わずかに目を開け、ぽつりと呟く冬の太陽に、むすめは手を差しのべました。
「言われたでしょう。決して人とは交わらないの」
なぜそれを、と思う間もなく、冬の太陽は体がふわりと立ち上がるのを感じました。
「あなたはもう冷たくなったから、私が触れても大丈夫。さ、一緒に行きましょう」
むすめに手を引かれ、二人は空高く登ってゆきます。眼下に民たちの姿が見えましたが、冬の太陽にはもう思うところはありませんでした。
変わらず冬はやってきますが、昔ほど厳しいものではなくなりました。むすめと太陽が一緒に天を巡るからだと言います。
しかし、冬の間、太陽はずっと分厚い雲の向こうにいて、人びとに暖かな光を注ぐことは、もう二度とありませんでした。

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加熱式タバコとの友情

ひろし、40歳目前の独身サラリーマン。趣味は加熱式タバコと、週末のNetflix一気見。加熱式タバコのキッドを2本使い分けるのが彼の小さなこだわりだ。1本はシックな黒の「クロちゃん」、もう1本は限定カラーのメタリックブルー「ブルさん」。朝はクロちゃんとコーヒーでシャキッと、昼休みはブルさんで同僚のタバコの煙を回避、夜はベランダで星(と隣の洗濯物)を見ながらプカプカ。名前までつけてる自分、センスいいな、とひろしはニヤリ。
だが、ある朝、悲劇が。クロちゃんのスイッチを入れると…無音。いつもなら「ジジッ」と響く加熱音が、まるで寝坊した恋人のように沈黙。「おい、クロちゃん、起きろよ!」と叩いてみるもダメ。ブルさんも試したが、こっちもご臨終。両方同時に壊れるなんて、まるで夫婦揃って実家に帰られた気分だ。ひろし、心にぽっかり穴。別に1本でも吸えるのに、なぜか落ち着かない。クロちゃんは「仕事モード」、ブルさんは「チルタイム」。片方じゃ、まるで靴下の片方だけで出勤するような違和感だ。
「まあ、紙タバコでもいいか」と一瞬思う。コンビニにスティックは山ほどある。でも、加熱式のあの滑らかな吸い心地、紙タバコとは違う「近未来感」がひろしのこだわり。2本のキッドは彼の生活のリズムそのものだった。修理? いや、めんどくさいし、中古はなんか…他人のキッドって、歯ブラシ借りるみたいな抵抗感あるよね。ひろしはスマホで検索開始。Amazonに新品のキッド、シルバーのピカピカモデル。価格は5500円。「お、意外と安い!」と思ったのも束の間、財布の中身と相談。昼メシをカップ麺にすれば…いや、タバコ吸うのに腹ペコはキツイな。
30分の葛藤の末、ひろしは「えいっ」とポチった。新品1本、シルバーの「シルバー君」。クロちゃんとブルさんの後継者だ。翌日、会社で同僚の山田に話すと、「ひろし、1本で十分だろ! 金使うならジム行けよ、タバコやめてプロテイン買え!」と鼻で笑われた。ひろし、心の中で「お前のプロテイン代、俺のキッドより高いじゃん」と突っ込む。確かに5500円は痛い。でも、加熱式タバコはひろしにとってただの嗜好品じゃない。生活のアクセント、心の安定剤、そして「ひろしらしさ」の象徴だ。
シルバー君が届いた夜、ベランダで初プカの儀式。「ジジッ」と心地よい音、漂う香り。「お前、いい相棒になりそうだな」と呟く。クロちゃんとブルさんは旅立ったけど、シルバー君が新しいリズムを刻んでくれる。財布は軽くなったが、心はなぜかホクホク。ひろしは思った。「我慢もいいけど、たまにはポチる人生、悪くないな」と。

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批評・論考

※コメントつけて300コイン【締切ました】  変移点

※今日中(9/14)に作者の学びにつながるコメントをつけた方1名様に300コイン進呈のミニイベント。なのですが澤あづささんがコイン辞退しつつもしっかりした評を書いてしまわれたので、自分ならもっとおもしろおかしく評を書けるぜとか、気楽に誰か書いてちょんまげ。

※(9/15 0:00)思いつきの突発イベントにも関わらず四名様に丁寧なコメントをいただきありがとうございました。

澤あづささん
𝚂𝙷𝙸𝙽𝙸𝙶𝙸𝚆𝙰 𝙻𝙰𝚂𝚃 𝙱さん
藤 一紀さん
afterglowさん

コインはCWSについ近日の参加にも関わらずコメントを寄せてくださいましたSHINIGIWA LAST Bさんに贈らせていただきます。
(੭˙꒳​˙)੭🪙🪙🪙
また御三方にも改めて御礼申し上げます。
筑水のパワーアップ?にご期待くださいませ。


変移点

雨が降る
熱気を流すように
雨が降る

雨は降る
記憶を溶かすように
雨は降る

雨が止む
記憶の跡地に
風が吹く

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Where the lone-winged angel finds peace.

それは、私がまだ「何者でもない」ことの、証明みたいなもの。でも、まだ何者でもない、っていう空白は、どんな色でも塗れるっていうこと。それは、私だけの希望、私だけの生存。
心の中を、ぐるぐると巡る思考の渦。点と点を結んでいく。すると、私だけの翼が、私だけの形になっていく。初めてできた友達も、生まれて初めての経験も、触れるたびに、私になる。人生が、どんな花を咲かせ、どんな実を結ぶのか、誰も知らない。それでいい。優越感なんていらない。欲しいのは、ただ確かなもの。ガラスでできた偶像じゃなくて、私だけの重み。
スマホの画面の向こう、いつも同じ角度で完璧な顔を見せてる。誰も触れられない、偶像。誰かの記憶に在るということ。それは、この偶像みたいに、自分を偽って見せることなのかもしれない。偽るのは、もう疲れた。
音楽は、私を少しだけ歪めて、世界の片隅に、着陸させてくれる。誰も知らない新しいアーティストの、名もなきジャンル。誰も辿り着いたことのない、秘密の場所に。そこに、存在しない記憶が漂ってる。読む順序なんて、どうでもいい。繰り返されるイメージを捕まえて、その奥の、深い闇に落ちていく。
ひび割れるように、少しずつ、少しずつ広がっていく、自己相似の、不思議な空間に引きずり込まれる感覚。近づくほど、私の皮膚が、私の鎧が、剥がれ落ちていく。隠していた言葉たちが、姿を現す。
感情が強すぎる引力になって、近づきすぎた時、私はバラバラに引き裂かれそうになった。些細なことで泣いて、そして、笑う。ふとした仕草、SNSの独り言。触れるたびに、隠されていた色が見えてくる。青くて、灰色で。言葉の裏側に隠された、気持ち。それは、雨上がりのように、とても儚くて、そして、あまりに美しい。想いは、静かに、静かに、根を下ろしていく。
私は、心の奥底を覗き込もうと、目を凝らす。言葉や態度から、その人の像を組み立てて、空想で、幻を織りなす。繰り返される日常の中に刻まれた、複雑な幾何学模様。複雑に絡み合う人間関係も、感情の交差も、未来へと続く道も、全部、全部、詩みたいだ。論理的で、どこか神秘的で、そして、とてつもなく美しい。
メロい私も、いつか普通のおばさんになる。その事実で、落胆はしたくない。それはカッコ悪い気がするから。美しさに近づきすぎると、全部溶けて、湖に落ちてしまうかもしれない。でも、それでいい。落ちてしまえばいいんだ。想いを育むことも、誰かの記憶に存在することも、何もかも。全部、湖の底で、私だけの色になる。

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CWS怪談会 you

古びた手帳をネットオークションで手に入れた。前の持ち主は読書家だったらしい。手帳の中身は、読んだ本の感想がびっしり書き込まれていた。ただし、奇妙なことに、あらすじには一切触れていなかった。代わりに書かれていたのは、「読んでいる最中に起きた、奇妙な出来事」ばかり。
私は面白半分で、手帳に記された通りの本を探して読み始めた。手帳にはこう書かれていた。「この本は、ただ読むだけでは駄目だ。読み始めたら、決して目を離してはいけない。目を離した瞬間に、本の中の『登場人物』が、現実世界に紛れ込もうとするからだ」。
苦笑しながら、私は手帳の指示に従った。一度も目を離さず、一気に本を読み終える。読み終えた本の最後のページには、見慣れない一行が追加されていた。「読了。一人、部屋に帰る」。
背筋に冷たいものが走った。
この手帳の「呪い」は、読んだ人間が、その内容を「他人に語る」ことで、その呪いを伝染させるというものだった。そして、この話を聞いた者は、手帳の持ち主と同じように、読書中に怪奇現象に襲われる。だが、最も恐ろしいのは、その物語の「結末」が、次の語り手、つまり「あなた」によって書かれる、ということだった。
この物語は、今、あなたの目の前にある。
あなたは、この物語を最後まで読んでしまった。
この時点で、あなたはすでに、この呪いのゲームの「プレイヤー」だ。物語はあなたの中で生き続け、あなたが誰かにこの話を語り、誰かがこの物語を読むことで、新たな物語が紡がれていく。
今、この文章を読んでいるあなたには、もう逃げ場はない。なぜなら、あなたがこの文章を読んだことで、この怪談はあなたの中に「定着」したからだ。
今夜、あなたの部屋は、いつもより少し静かに感じるかもしれない。それは、この物語の「登場人物」が、あなたの部屋に「潜り込む準備」をしているからかもしれない。
さあ、あなたがこの物語を語り継ぐ番だ。
そして、その物語の「結末」は、あなた自身が迎えることになる。
あなたが今、感じている恐怖、あなたの部屋でこれから起きるであろう出来事。それこそが、この物語の「次のページ」となる。
今夜、あなたが読む本には、何が書かれるだろうか。そして、その本は、あなたに何をもたらすだろうか。
あなたがこの画面から目を離した瞬間、あなたの背後で、何かの気配がするかもしれない。
それが、この物語の「続き」だ。


静寂に包まれた部屋で、『私』はじっと画面を見つめていた。物語の最後の一文が、頭の中で何度も反響する。
(あなたがこの画面から目を離した瞬間、あなたの背後で、何かの気配がするかもしれない。)
『私』は、思わずスマートフォンを握りしめた。手のひらにじんわりと汗がにじむ。
(これが、この物語の「続き」だ。)
背後を振り返る勇気がない。代わりに、『私』は部屋の隅々まで、まるで初めて見るかのように注意深く観察した。暗闇に紛れた見慣れた家具が、得体の知れない影のように見えてくる。
(今夜、あなたが読む本には、何が書かれるだろうか。)
ふと、机の上の本に目が留まる。それは今日、『私』が読み終えたばかりの本だ。『私』は震える手でその本を手に取った。先ほどまで、ただの物語が書かれているだけだった本が、今はまるで何か別のものを秘めているかのように感じられた。
表紙をめくり、最後のページを見る。
そこには、やはり見慣れない一行が追加されていた。
「読了。一人、部屋に帰る」。
『私』は、自分の呼吸が止まるのを感じた。それは、私が読み終えたときに、既に追加されていたはずの一文だ。だが、その下の空白に、さらに新しい文字が浮かび上がってくる。
それは、『私』自身の筆跡だった。
「私の部屋は、いつもより少し静かに感じる。それは、本の中の『登場人物』が、部屋に『潜り込む準備』をしているからだろうか」。
『私』は、信じられない思いでその文字をなぞった。
そして、そのすぐ下に、新たな一文が、ゆっくりと、しかし確かな筆跡で綴られていった。
「私は今、誰かが、私の背後で息をひそめているのを感じる」。

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うすノロ白書

梨と宝石
夏の墓場から掘り起こした
私だけの祭壇
電柱に履き違えた靴の片方
だってトラベリングしたら恥ずかいでしょ?
鮎と見て
味噌汁を飲んで
飲み干したお椀を持って
底に雪が積もるまで

寡婦かカフカかふかふかな毛布か
蝶々結びにする午前三時
経済誌の表紙をめくる
大学院生のブラックコーヒー
 (ドトールの牛とは)
内定もなく泣いてもなく
探偵でもない
 (お品書きにはそう書いてある)
急急如律令
エロイムエッサイム
悪魔の耳打ちに太鼓を叩く
フルコンボを目指した革命家の前夜

星の光が屋根に突き刺さり
私はためらってしまう
 マイメロの一匙のプリン
 プーチン大統領の横に眠る犬
 アトランティスの残尿 
 (レジュメにはそう書き加えてある)
マスオさんの定年退職の日に
日本の赤さをたしかめたって
クロミちゃんはイケメンが好き?
私はね、マイコプラズマは嫌い

性別の記入欄に性癖を書き込む
「老師さまー、アダルト画像をあつめておきましたよー」
ガチャピンの緑に川が流れる
あきらめて速くなる
明太子をほぐすカニカマのサラダ
エキティケのゴール(取り消された)
ネッシーとフナッシー(ビッケブランカ)

きっと明日は雪が降る
プラネタリウムのおでこの上で

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病院にて     (訳詩 by T.E. ヒューム)

今夜が峠なのだとしたら
どうして窓を開けておいて
あの山の春風を
流れ込ませるのか
どうして病床の脇に
春の菫を活けたこの花瓶を置くのか






…T.E.ヒュームは夭折したとのことだが、その死の床での作品だろうか。簡潔ながら生と死の対比が胸を打つ。訳者はちょっと訳に工夫を凝らしたのだが、ヒュームの意図から少しずれたかもしれない。許しておくれ、訳すことによって君の死を悼むから。それにしても私は彼よりも20年程生きながらえているが、私のやっていることといえば、彼の業績の十分の一にも(百分の一にも?)匹敵しない。命は無駄に使うのだとしたら、長く生きてもあまり意味がないものかもしれないのかも。




   In Hospital 

Since tonight I must die
why do they keep the window open,
so that the April air 
flows in from the mountains, 
and why do they place by my bed 
this vase of spring violets ?

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花火の夜 (江戸川)

  
猫が逃げました
ボヤが出ました
便所は汚すな

親切な貼り紙のアパートの
隣の部屋の人の顔 
まだ見たことありません

のような午後の世界に

河川敷の花火
の音が聞こえる
暮れない夜に


君が百本の小説を乗り越え眠るころ
僕は一握の詩の前で童貞のままで
国際色の喧騒にしがみつきながらも
同じ月の夢に 

ニャー
   と哭く

  

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銀箔の午前三時

銀箔の午前三時

その幕間 月光はより密やかに
銀箔に包まれ 瞼の裏に瞬きをみる

絹は踊らず ただ揺らぐ
息づかいの奥で 夜半の織目を撫でる

星は沈黙し 月の影はより滲み
夜は躰の内側で 静かにほどけゆく

燻された銀箔に沈み込み 舞台は周波数を落とす
星の心拍は 深く深く揺らぎの底に

夜露の降りたその舞台
躰を覆う薄膜の水が 星月の滴を受容する

滲む舞台とその躰
次の風が吹くまで 絹の帷はただ揺らぐ



―――――――――――――――
連作

銀箔の午前四時
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=1705

銀箔の午前二時
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=1676

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アイスコーヒー幻燈

夜中になると
頭のなかで蜂が羽音を立てる
針の先で
記憶をかき混ぜるように

ふと 信長の辞世の句が浮かぶ
「人間五十年」
死という幻燈が
黒いスクリーンにまたたく

何も成し遂げず
生ぬるいまま 時間に浸されている私

冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し
コップに注ぐ
焦げ茶色の液体は
沈んだ湖底のように動かない

それでも一口 苦みを喉に落とすたび
蜂の羽音が
染色体の奥で変調し
別の生き物に生まれ変わる
気がする

スクリーンが切り替わる
買い込んでおいたサクマ式ドロップス
赤 黄 緑
光を通して溶ける氷砂糖のように
脳をやわらかく溶かしていく

けれど
甘さの幕が閉じても
蜂はまた舞い戻り
頭蓋のなかを這いずり回っている

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