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2021/01/01 12:00:00

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あなたはリラ

(あたしは須多彩璃35才。フラワーショップ灯し火に勤めて6年。灯し火は小さなお花屋さんで、男性店長とあたしの二人で切り盛りしているフラワーショップ。店長は58才。あたしを娘のように可愛がって下さる。お花のフレッシュな香りに包まれ働くのはとても幸せだ。そして、お花を求めやって来られるお客様は皆、店内に一歩足を踏み入れると優しい表情になる。あたしのお休みはお店の定休日である水曜日。それと年末年始。あとはず~っと働き通しだが、大好きなお花といつも一緒、仕事と言うよりも半ば趣味。本当幸せ者ね! 朝7時半頃出勤し、店長が仕入れてきたお花を水揚げし、お店の掃除をし、店内にお花をディスプレイ。そしてお客様を迎え入れる。オープンは9時。閉店は19時。あたしは18時には退店する)

 恋人は……残念ながらいない。出逢いが無いの。季節はロマンチックな秋。カッコいい紳士がどこかにいないかしら……。

「いらっしゃいませ!」お若いお母様と小さなお嬢さんが今日の一番のり。
「ママ! いい匂いがするね!」
「うん、沢山のお花があるからね」
(かっわぃい~。あたしもあんな女の子のママになれたら素敵だなぁ)
「あの……」とそのお母様。
「私、お花のセンスがなくて、よく判らないんです。でも今日は義理の母達がやって来て、この子の誕生会をするんで、何か見繕って下さらない?」
「わー、お誕生日なんですね!」ニッコニコの彩璃。
「お誕生日おめでとう」女の子に声を掛けると、女の子はママの足にペタッとくっついてしまいモジモジし始めた。
「ほら、お姉ちゃんに『ありがとう』言いましょう?」
「ああ、良いんですよ! ネ~、御免ね、突然話し掛けびっくりさせちゃったかな。色んなお花を見て楽しんでいてね! お姉ちゃん頑張って可愛い花束を作るよ!」
「すみません、内気な子で」
「いいえ。ご予算はお幾らぐらいをお考えですか?」
「ああ、折角のパーティですから8000円ぐらいまでしても良いです」
「かしこまりました」

 彩璃は華やかに、と、まず赤いバラの花を数本手に取った。そして真ん丸のポンポンマムを添え、ブルー系もとリンドウも仲間入りさせる。ふんわりカスミソウで包み込む。そして……何だかこちらのお嬢さんのイメージにピッタリだなと薄ピンクのダリアを択んだ。ゴージャスで愛らしいブーケの出来上がり。
「わ~、綺麗!」女の子が目を丸くしている。これがあるからこの仕事を辞められない。お客様の喜ぶ顔で何だか自分自身のハートの奥にポッと双葉が芽生える、そんな心地に彩璃はいつもなる。

「お姉ちゃんありがとう!」女の子が元気よく口にした。
「いいえ、こちらこそありがとうございます! 素敵なお誕生日にしてね」
「はーい!」女の子はよっぽど嬉しいらしく、右手を高く上げお返事。
「ありがとうございました」

 彩璃の毎日は決して派手ではないが、ほのぼのとイイ感じで時間が流れている。休日は専らお家映画だ。1950年代~1970年代のクラシカルな洋画がメイン。彩璃はストーリーに入り込み、自分がヒロインとなりアイスクリームを食べながら、時にホットな展開に涙する。

 ある……待ちに待ったお休みの日。洗濯物を干そうとベランダに出た。

(なぬ!?)

 一瞬何が落ちているのだろうと思った。取り込み忘れていた洋服? だなんて……。

 それは紐付きの赤い風船だった。といってもフニャッとなりベランダの床に横たわっている。
 そして……(あれ?)
 紐の端っこに、透明のビニール袋に包まれた封筒が括り付けられてあった。
(あ! あたし、こういう事昔やったよ? 田舎にいた子ども時代、同じ県内の小学生の女の子からお手紙の返事が来て、暫く文通したんだよな~)
 洗濯籠を一旦部屋の中に置き、しおれた手紙付き風船を部屋に持ち込む彩璃。
「どれどれ?」小さい子の仕業だな、とちょっぴりワクワクしつつ封を開ける。

(へッ?!)……目が点になる彩璃。

『こんにちは。僕は関東地方に住む波止琴哉という32才の男性です。風船を拾って下さりありがとう。僕と友達になりませんか』

 と、LINE IDが明記されていた。
(何! これ。いい大人がこんな事して。だいたいね、あたしもちっちゃくて知らなかったけど、風船を飛ばすと空飛ぶ鳥の足に紐がひっかかる事もあるの。そんな事考えられるような人じゃないわね! だって堂々と名乗り、LINE IDまで載せちゃって。変人に決まっているわ!)

 (ン……?)
 IDのあとに文章が続いている。

 『ライラックの花言葉は“友情”』

 ……その通りよ。お花が好きなのかしら?

 洗濯物を干した後その日一日、彩璃はぼんやりしていた。
(何か……気になる。風船男)
 午後3時頃洗濯物を取り込み、その後は取り立てて何にもしない一日だった。
 彩璃はその『琴哉』と名乗る風船男からの手紙を何度も読み返していた。短い文章を。

 そして翌日。また灯し火の一週間が始まる。
「おはようございます!」
「おはよう。昨日はゆっくり出来た?」
「はい、店長」
「そうですか、それは良かった」

 ふと……店内にある輸入物のライラックが目に入った。
 春のお花なので国産は今なく、国産のライラック程は薫らないが、何となく彩璃はその輸入物のライラックに鼻を近づけた。ほんのり甘く爽やかな香りがした。
 発見した風船に括り付けられた手紙の最後の文句を想う彩璃。
 店内には秋のお花も誇らしげに並んでいる。そういえば、オレンジの鶏頭の花言葉も『友情』だな~。

             *

 フ~……今週も充実の一週間だった。
 彩璃はその夜、何だか落ち着かなかった。
 この一週間ずっと心の片隅にある例の風船の手紙。LINE ID……。

 よし! 叱ってやるか!

 生真面目な彩璃はやはり、鳥の足に紐がひっかかりでもしたら……と思う。大人なんだからそれぐらい知って欲しい。それに、小さな子どもならいざ知れず、大の大人がそんな事をして、拾った人間が困惑するではないか! 説教したくなった。放っておけば良いものを……それが彩璃なのだ。

『初めまして。貴方の風船を拾った者です。こういう事をすると、空飛ぶ鳥を傷つけかねない事を貴方はご存じないようで、LINEを送りたくなりました。それと“僕は32才男性です。友達になりませんか”だなんて、申し訳有りませんが怪しさ満点です。私はこのLINEを送信し次第、すぐに貴方をブロックします。どうしても我慢ならずに、一言お伝えさせて戴きました。ではさようなら』

 でも、そうは書き送信したものの、何故か彩璃はその『琴哉』だと名乗る男性の事が気になってしょうがない……。

(うむ。何と返してくるかちょっと待ってみよう)

 ……結局我ながら悔しいけど彩璃は、夜10時までお風呂にも入らず『琴哉と名乗る人』からの返事を待ってしまった。3時間半待ったが返事はなかった。単なる悪戯だったのね。やだやだ。一週間の疲れが手伝い彩璃はぐっすり眠った。

 雨音で朝の8時に目を覚ました。
 (あれ?)
 スマホを見ると……どうやら例の風船男から返信が来ているぞ。恐る恐るタップ。

『こんにちは。何か……すみません、僕は物を知らなくて。それとあなた様を困惑させてしまったようで、申し訳なく感じております。御免なさい。あの、ブロックされているでしょうからまず読んで戴けないのだろうな、とは思いましたが、万が一読んで下さったら……と思い文章にしました。では失礼致します。 波止琴哉』

 ン……悪い人じゃないのかな。へんてこな好奇心の湧いて来る彩璃。朝ごはんを戴いたあと、いつものように映画を観ていたが、何か気持ちがフワフワする……。思い切って琴哉なる人物に返信してみた。

『ブロックしていません。私の言いたい事を解って戴ければそれで良いです。何でこんな事を思い付いたのですか?』

 琴哉からの返信は五分すると返って来た。
『本当に僕が悪かったです。はい、僕は……友達が居ないので孤独で、いい年なのに風船に手紙を括り付けるという事にロマンを感じてしまったのです。子どもの頃、瓶の中に手紙を入れて川に流した事がありました。誰からも返事は来なかったし、それを見ていた近所の大人にこっぴどく叱られました。「それは不法投棄! ゴミになるからもうやっちゃダメだ」と叱られたんです』
(あ! それあたしもやった! 瓶もやった……)彩璃は思い出した。

『それ、自分もやりました』
 彩璃はLINE IDを名字だけにしている。風船男に自分が女性だと知られたくはない、だからあえて“自分”と表現した。

 するとすぐに返信が戻って来た。
『そうなんですね!』

 彼は彩璃が“女性なの?”・“お住まいはどこ?”等、彩璃の事は何も訊いては来ない。だから少し安心している。そこでLINEは止まった。

 数時間すると、何だか彩璃はLINEで琴哉と喋りたい気分になって来た。

『そちらのお天気はどうですか?』

 すぐに返信が来た。
『本降りですよ、少し肌寒いです。でも常緑樹が潤って美しいです』

 あ……この人、やっぱり植物が好きなのかな?

『自分は花や植物が大好きです』

 すると琴哉が『あ、僕と同じですね。じゃあ僕が飛ばした風船の手紙の最後の一文、お分かりですか?』

『はい』

『嬉しいです!』
 そこで何となく返信をしない彩璃。

 水曜日、人とコミュニケーションをとったのは風船男だけ。琴哉はいわゆる追いLINEをして来ない。だから彩璃にストレスを感じさせない。
 彩璃は接客時はにこやかで丁寧だが、プライベートでは友人を全く求めない。気疲れするから一人の時間をエンジョイしている。映画だけではない。音楽が好きでCDも良く流すし、時々カメラを携えお花の撮影に行きもする。

「友達が欲しい」という感覚は理解できない。
「友達が居なくて孤独」だなんて一度も感じた事が無い。

『ライラックの花言葉は友情』琴哉はきっと、本当に友を求めているのだろうな。

「おはようございます」
「おはよう。今日は忙しいよ。配達が4件も入っちゃった」
「大丈夫です店長。任せて下さい」
「うん、頼みます!」

 ……よし、この配達が済んだらもう上がりだ。
 時計の針は夕方5時20分を指していた。最後の配達。ファイト!
「行って参ります」
「はい! 彩璃ちゃんお願いしますね!」

 初めてのお客様のお宅への配達だ。ナビをセットしてっと「よし」配達へ出発。約20分走ると大きなお屋敷が見えた。
「あそこだわ」お宅の前に車を停め、後部座席に乗せていた花束を手にした瞬間(え)何も見えなくなった。

 彩璃は眩暈を起こし倒れたのだ。そして……あろう事か、アスファルトの上で花束が彩璃のクッションの役目を果たしてくれた。そう、お客様のお花がペッシャンコ……酷い姿と化してしまったのだ。泣き出しそうな彩璃。ブーケを作り直し、お花を再度持って来るにしても、まずはお客様にお約束の時刻より遅れる旨を謝らなきゃ。
 彩璃は可哀相な花を拾い、後部座席に乗せ、すぐに玄関インターホンを鳴らした。

『はい』女性の声がする。
「フラワーショップ灯し火です。申し訳ございません。お花を傷つけてしまいましたので、もう一度店へ帰りすぐにお持ちしたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
『ちょっと待って下さいね』つっけんどんな雰囲気のお声だ。
「イテテ」
 待っている間、彩璃はアスファルトにぶつけた腕やお尻をさすっていた。でも頭はぶつけなかった。頭を花束が守ってくれた。広いお庭だ。

 少しでっぷりとした中年女性がツカツカと門までやって来た。いかめしい表情をしている。
 そして彩璃に向かい開口一番「もうすぐお客様が見えるのよ! どうしてくれんのっ?!」
「申し訳ございません。只今大急ぎで店に戻りお持ちします」平謝りの彩璃。
「もう結構よ! 要りませんっ、フン!」踵を返し家へ向かって門から去って行くお客様。ずっと彩璃は深く頭を下げていた。
 具合は悪い、お客様には怒られる、お花は可哀相……最悪だ。

「ただいま帰りました」
「ああ、彩璃ちゃんお疲れ様。ありがとう。ん、どうした? そんなに項垂れて?」
「すみません店長。お花を潰してしまい、お客様にお断りしすぐ持って来ると告げたのですが『もう要らない』と言われました。お客様はとてもご立腹で配達は出来なかったんです」
「そうだったの……でもいったいどうしてブーケが潰れたのかい?」
「はい……実は眩暈がして、お花を車から出そうとした時、お客様の門前で倒れてしまったんです。お花はわたしの下敷きになってしまいました」
 ボロボロになったブーケを大切そうに抱いている彩璃。
「お花は仕方ないさ。それより眩暈って彩璃ちゃん、我慢しちゃだめだよ、そういう時は。今すぐ病院へ行って。明日は無理しなくて良いからね」
「はい……。申し訳有りません」
「いいさ、元気が一番大事なんだから。上がって下さい」
「はい」

 彩璃は帰りに近所の病院へ寄った。過労によるものだろうとの事。眩暈を軽減する薬が処方され、医師からは「体をしっかり休めるように」と言われた。
(何だかボーっとする……)やっとマンションに到着。食欲がわかないので牛乳に蜂蜜を入れ暖めて飲み、薬を服用した。バタンキューだった。

 翌日は店長もああ言ってくれたしとお店を休んだ。
 寝そべる事も出来るお気に入りのソファーで何をする事もなく彩璃はゴロゴロしていた。
 雨、か。相変わらずそんなに食べる気もしないので、卵入りのお粥を作り食した。(あ……あたしお腹減ってたんだ)とその時気づく。

 テーブル上のスマホをじーっと見ていた。どこかで、琴哉からのLINEを待っている自分がいる。でも彼からLINEは来ない。
 彩璃は琴哉に自分の事を伝えてみたくなった。

『こんにちは。具合が悪いです』とだけ……お昼のお粥を戴いた後送ってみた。

 10分ぐらいするとスマホにマークが付いた。見ると“波止琴哉”。
 風船男だ! 喜んでいる自分自身に驚く。

 LINEを見ると『こんにちは。大丈夫ですか? お風邪でしょうか……』と琴哉。

『眩暈。あたしは彩璃という35才の女性です』
 初めて彩璃は素の自分を出してみた。

『教えて下さりありがとう。彩璃さん、女性だったのですね。尚更僕の風船の手紙でご不快な思いをされた事でしょう、改めて謝ります。本当にすみません』

『いえ、もう良いです。あの…あたしもお花大好きなんです』

『あ、そう言われていましたね!』

『実はお花屋さんに勤めています』

『あ、そうだったんですね。良いですね、好きなものに囲まれてのお仕事。でもお花屋さんって重労働じゃないんですか』

『はい、確かに体力勝負な所はありますが、良い匂いの中にずっと身を置けて毎日楽しいですよ』

『そうなんですね。僕は大工です。中学を出てすぐ見習いになり、親方のもとで勉強し職人になりました』

『そうですか! ご立派ですね! 職人さんって今減ってきていると聞いた事があります』

『いえいえ、僕はこれしか出来ないだけで何にも立派なんかじゃないです。そう! 彩璃さん、よくご存じで。職人が減ってきているので海外から来ているアルバイトさんも今は多いです』

『なるほど。あ、こんなにお喋りしていて大丈夫なのですか? お仕事のお邪魔では……』

『いえ、僕は今暫く休みを貰っています。実は情けない話なのですが、屋根から落ち、骨折し、入院中です』

『まあ! そうだったんですね。お大事にされて下さい……』

 こういった塩梅に二人はまるで、チャットでもしているかのように途切れる事なく、一時間は互いの事をLINEで知り合った。

『あ、あたし少し疲れてきちゃいました……』

『ああ、長話におつきあい下さりありがとう。またいつでも話したい時はLINE下さいね』

『はい、こちらこそありがと』

 何だか……胸がドキドキしている。琴哉さんは……優しい人だな。
(あたしったら逢った事もない人に、胸を高鳴らせている?)

 彩璃の体調はすぐに良くなり、2日後には灯し火に復活した。
「おはようございます、店長。ご迷惑をおかけ致しました。もう大丈夫です!」ニッコリ!
「ああ、それは良かったよ。うん、彩璃ちゃん顔色が良い。今日も宜しくね」
「はい!」

 彩璃は毎日琴哉とLINEするようになった。

 のんびりしていた日々にキラキラとしたスピード感のようなものが加わった。ときめきの速度かな? 自分でもよくわからない。琴哉は埼玉在住という事、琴哉の好きな物は某チェーン店のチャーシュー麺だという事、琴哉は一人暮らしで料理好きだという事等、どんどん彼の人となりを知って行った彩璃は……自分は東京在住、イクラが嫌い、長い黒髪が自慢、広島生まれでピンク色が好きetc.彼に教えた。
 LINEの文字の上だけで、すっかり二人は意気投合した。

 ある休日、彩璃は(琴哉さん、どんな声をしているのだろう?)と気になり始めた。
 そして思い切って『LINE通話しませんか?』と伝えてしまった。
「しまった」という程直後、彩璃は恥ずかしくなり……やっぱり言うんじゃなかったと、今すぐ時間を巻き戻したくなったのだ。
 が……返信はすぐにやって来た。
『うん、イイよ。』

 ドキドキ……ドキドキ……。
 緊張の中どうしようと思いつつ通話ボタンをタップする彩璃。

「もしもし……」

『あ、もしもし!』

「あの……彩璃です」

『可愛い声ですね! 彩璃さん』

「ありがとう」

『今日はお花屋さんの定休日ですね』

「はい」

『あー、仕事早く復帰したいなー。現場今立て込んでるんで』

「ああ、琴哉さんご加減如何ですか?」

『ンー、思うように治んないです……』

「早く良くなりますように」

『ありがとう、彩璃さん』

「今日も映画をさっきまで観てました」

『どんな映画?』

「うん、古~いアメリカの映画です。女優さんの所作がとても美しい!」

『へ~、お洒落な休日の過ごし方だね』

「そうですか? 好きなだけです」

『僕は時々、小説を読みます』

「あっ、そうなんだ! ンと実は、黙ってたけどあたし、趣味で小説を書いているんです」

『わぁ、彩璃さんって多趣味。知的で素敵ですね!』

「そ、そんなぁ」
 “素敵”と琴哉に云われ、一人頬を染める彩璃。

 少し沈黙があり……彩璃が「風船男さん!」っと悪戯っ子のように言い放った。
『ン……え?』と驚き琴哉が『ギャハハ!』と大笑いした。

 彩璃も笑いつつ秘密を打ち明けた。
「あたしね、琴哉さんの事、最初“風船男呼ばわり”してたのよ! 心の中で」
『ウケたよ! アハハハハッ』暫く風船男本人は笑っていた。


「おはようございます!」
「お! 彩璃ちゃん、最近お花みたいに生き生きしてるぞ。さては……何てね。おはよ! 今日も宜しく」

 彩璃の日々は風船男さんが現れたその時からほんわか度アップ、そして輝きを増して行っている!
 LINE通話を二人は毎日するようになった。

 彩璃は……恋に堕ちた自分に気づいた。
(琴哉さんに逢ってみたい。逢いたい)
 そう強く感じた。その心地よいソワソワ感を持て余し、ついに口にしたのだ。

「ねぇ琴哉さん、あたし……琴哉さんに逢いたいです。ご迷惑でなければ、お見舞いに行きたいです!」

 すると……何か困っているようだった、琴哉は。でも、気を取り直すかのように『ン、良いよ!|傘鳴《かさなり》病院に入院しているの』
(何だ、東京の大病院じゃない!)
『で、受付で“波止琴哉”を尋ねて貰えれば大丈夫だよ!』

「あ、ありがとう。でも、本当に良いの? 正直に言うね。琴哉さん、さっき一瞬考えたでしょう?」

『あー、うん、何だか照れてしまって……』

「そう、あのね……あたしもドキドキしてるよ?」

『うん』

「じゃあ……」と早速、来週の水曜日10時にお見舞いに行く事になった。

 約束をしたのは日曜日だった。琴哉に逢えるまでの3日間は長いような……短いような不思議な感覚。
 そしてずっとドキドキ、わくわくの止まらぬ彩璃。

 待ちに待った水曜日がやって来た。
 念入りにお化粧する彩璃。ネイルは慎ましやかな淡いピンク。清楚なパステルカラーの菫色のワンピースを着た。長い黒髪はポニーテールにした。
 早めに傘鳴病院へ行き、10時過ぎ頃お部屋へ行こう! と考えた。
 電車の窓から見える空の青は、羊雲を引き連れ穏やかだ。

 9時40分ごろ病院へ着き受付で“波止琴哉”の名を出した。
「はい、少々お待ち下さい」受付係が病棟を調べる。
「お待たせしました。『緩和ケア病棟』の502号室です」
(緩和ケア病棟?! 琴哉さん、そんなに酷い大骨折だったんだ……)通常の骨折で緩和ケア病棟を利用するのは稀だ。

 フロアーには10分前に着いた。余り早く訪れても悪いと思い、彩璃は廊下の端にある椅子で10時になるのを待った。
(やっと逢いたかったヒトに逢える……それにしても琴哉さんの骨折が心配だわ。あたし、逢いたいだなんて無理言っちゃったかな)

 10時だ。
 あんまり長居しないようにしようと考えつつ502号室、琴哉の部屋のドアをノックした。

「は~い! どうぞ」あ、琴哉さんの声だ。
「こんにちは」

 琴哉を見た瞬間、彩璃は抱えていた花束を、ギュッと握りしめた。 とても……とても痩せている。ごはん食べられていないのかな? でも点滴をしてないし……。

「彩璃さん、逢えて嬉しいよ。ン……びっくりさせて御免。僕ガリガリでしょう」

「ええ、琴哉さん、食欲がないの?」(まさか)その時彩璃が思い付いたままの返事が返って来た。

「彩璃さん……僕ね、胃癌なの。末期だよ。骨折も本当だけどね。骨折は大した事なく、入院している理由は癌だよ。まるで噓つきでした。本当に……御免なさい」深々と頭を下げる琴哉。

 彩璃は(それでもあたしは、この人が好き! 好き! 好き!)逢ってみて尚更感じた。魂が求めている。

「謝らないで下さい。琴哉さん、噓つきなんかじゃない! 琴哉さんは、風船男です!」
 と彩璃が言った。
 琴哉の目が点になり、直後二人は大爆笑した。

 手提げ袋から花瓶を取り出しお花を生ける彩璃。
「綺麗だね。ありがとう」
 “早く元気になってね”の意味を持つガーベラ、色とりどりのガーベラが今、琴哉のベッドサイドにある。

「可愛くて、本当に綺麗。彩璃さんみたい……」

「え」

「こんな男が言う言葉じゃないな」

 チュ……。
 ポニーテールにした頭を傾け、彩璃は琴哉の唇を塞いだ。

 ギュ!

 細い腕なのに……凄い力、大工さんの力!? 彩璃は思い切りそのまま琴哉に抱きしめられた。

 琴哉が言った。
「僕ね、彩璃さんの事いつの間にか好きになってた……」
(嬉しいっ……)
「ねぇ、風船男さん? 他人行儀な話し方、この瞬間からやめない? あたしを、彩璃と呼んで。あたし、あたしも……琴哉を愛してる」

 二人は暫く熱いキスを交わし続けた。

 面会時間は10時~19時で、その9時間ずっといても良いそうだ。でも彩璃は、最初のお見舞いから彼が疲弊してしまうんじゃないかと、15時には病室を後にした。

 それからも彩璃と琴哉は毎日電話でお喋りし、水曜日、必ず彩璃は琴哉に逢いに行く。

 二人はいい大人の男女だ。が、個室の扉をいつ何時看護師やドクターが叩くか判らない。だからくちづけしたり、優しく撫で合ったりする、それ止まり。当然。

「琴哉、言ってたね、雨の日。『濡れた常緑樹が美しい』って」

「うん、覚えてるよ」

「本当ね、ここからの眺め素敵ね! こんもりした森が見えるのね。色づいてるモミジも見える。綺麗!」

「そうなんだよ、いいでしょ。ウッ……」突然お腹を押さえる琴哉。

「琴哉! 琴哉っ、痛いのね? 大丈夫? すぐ先生を呼ぶわ!」

「う、うん」ナースコールに即ドクターと看護師が駆け付けた。

「波止さん、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。いつものやつです……」

「頓服を!」ドクターの指示に看護師がすぐに薬を持ってきた。
「安静にされていれば大丈夫ですからね、波止さん。お辛い事でしょう。私達がついています、いつでも我慢せず呼んで下さい」とドクター。

「はい、ありがとうございます」琴哉は薬を飲み、少しすると痛みが治まったらしい。

 彩璃は、横たわっている琴哉の髪を撫でながら言った。
「よくある事なの?」

「うん……」

 辛い。自分が代わってあげられたら良いのに! 彩璃は本気でそう感じている。

 お見舞いの際彩璃は琴哉のもとへ、必ず様々なブーケを持って行った。ガーベラ以外にも花言葉を考えて。今日は愛の花バラに、“信じ合う心”という花言葉を持つブルースターを添えたもの。

 その日、とても体調が良さそうな琴哉。彩璃は10時に病室に入り19時までずっと琴哉と過ごした。

 今日はロングヘアーを下ろしていた。
 手を伸ばし、彩璃を抱きしめ、彩璃の緑の黒髪に指を入れる琴哉。

「サラサラだね彩璃、美しいよ」と言う。

 二人はもどかしい程に求め合いくちづける。
 彩璃はこんな幸せな恋、生まれて初めてだ。琴哉に元気になって欲しい。デートしたい。デートして二人で街を歩きたいわ!
 琴哉の事を一杯知った。瞳の形や、指の感触だけではない。彼が孤児院で育ち身寄りが全くない事も今では知っている。
(あたしは、あたしは、この人の全部になりたい!)

 土曜日の深夜2時、彩璃のスマホが鳴った。

 琴哉だ。
(こんな時間に?)心臓が何だかバクバクする。すぐに電話に出た。

 荒い呼吸がきこえる。
「え! 琴哉? 琴哉っ! 琴哉!」

「あや……り、オレもう、ダメだと思う。解るの」

「すぐ行く!」彩璃はタクシーを使い病院へ到着した。

 502号室! 琴哉っ! 琴哉! ノックもせず入ってしまった。

 ドクターと看護師がいる。琴哉がこっちを向いて「あ……やり」と振り絞る。名を呼ぶ。ドクター達は一礼し出て行こうとする。

「ちょっと待って下さい!」彩璃が叫ぶ。
「琴哉を助けて下さい! お願いです、先生行かないで!」
 泣いて、泣いて、必死だ彩璃は。

 しかし、手を必死で伸ばす琴哉が彩璃を掴まえた。
「あ……やり、オレが、お願いし、たの。お願い……傍に、居てくれ。愛してる! 心の底から好きなんだよ……彩璃」

 初めて見る、琴哉の涙。

「うん……うん」頷いて琴哉の手を握る。

「あ……やり? オレ、オ……レ居なくなっても、幸せ……になって」

「いやっ! そんな事言わないで、琴哉がいなくなる訳ないじゃんっ! バカ!」

 グイッ! 懸命に力を振り絞り彩璃を強く抱き寄せる琴哉。そしてキスした。何て悲しいキスだろう。彩璃の涙が溢れ出ては零れ落ち、琴哉のまぶたを、頬を濡らす。それでも琴哉は彩璃を離さない。

 そして唇を離し、琴哉が話し始めた。

「オレ、風船男やって、よかったアハハ」笑ったって、凄く苦しそう。

「何も言わなくて良いよ琴哉。好き……ただ、すき……」

「うん……愛してるよ、彩璃」そう言ってまた強く彩璃を琴哉は抱きしめた。

 もう二人とも何もしゃべらない。ヒックヒックと泣き止まぬ彩璃。そんな彩璃をひたすら抱きしめ続ける琴哉。

 力が……力が……力が、少しずつ、消えていく。 琴哉の全部の力がもうすぐなくなる。

「愛しているよ、いつも……琴哉」

 その彩璃の言葉の後、精一杯愛した琴哉の両手が、ブラーンッてなった。

「あああ~ッ! あぁ――!」狂ったように泣き叫び、息絶えた琴哉にしがみ付く抱きつく彩璃。

 そして、ナースコールを押した。ドクターが駆け付けた。
 琴哉の生命の灯りが消えた事が彩璃に告げられた。


 琴哉を失ってから彩璃はずっと、部屋に必ずライラックを飾るようになった。
 花言葉は、琴哉が風船に括り付けた手紙に書いていた通り『友情』。
 それだけではなく、『初恋の香り』。

 誰でもなく、琴哉こそが彩璃の初恋の人だから。

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生命の神秘

シュイン シュイン

流れた白い星
目視できない無数の魂
白い星になって流れ落ちる

マスター
罪深い私をお許し下さい

銀河の川となって溢るる
暗い闇に流れた無数の星々

それを眺めるだけの僕
僕が落とすは雲の上

しゅいん しゅいん

またも流れる白い星

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編地の揃わない悲しみに(連詩その2)


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 自分を救ってやれるコトバも吐けないで
 なに詩なんか描いてやがるんだ

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 ねえ 書き換えられない過去などないというなら 
 これから話すはなし 全部作りごとだと思う?

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 雨が降らないから あたしはユーウツなの

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 自分の都合しか考えられない人がキライ 
 だからあたしは自分がキライなのでしょう

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 どんなにいらないからって
 捨てることができないものはなぁ~んだ?
 
 それは自分自身です

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 悲しみの数をひとつふたつと数えても
 いつまで経っても終わりがないの
 数えるたびに増えてしまうのは
 一体どういうわけなのかしら

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 生まれたこと自体が 私自身をがんじがらめにする

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 ピノキオは人間に憧れたけど
 僕は人形になってしまいたいとせつに願ってる
 言葉も感情もなにひとつ持たずに
 ただ静かに座っている
 そんな人形に

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 無闇にストレスを与えないでください 
 38度以上の高熱が出ます 
 激しい胃炎に襲われます 
 夜中に何度も吐きます 
 全身を切り刻まれたような 激しい痛みが走ります
 眠れなくなります
 発狂するかもしれません
 自分の痛みばかり押し付けないでください
 大人しくなにも云わないからといって
 何も感じていないわけではないのです
 取扱いには細心のご注意を

*************************

 心ない言葉なんていうのはない
 心にない言葉など吐けない
 その人は おそらく
 心がないという心の持ち主なのだ

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 私たちはきっと 使っている言語が違うのだろう
 解り合えないのは きっとそのせいなんだろう

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 心が傷ついたとき
 ちゃんと目に見えて解るように創っておいてくれたらよかったのに

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 淋しい虚しい優しくされたい見えない壁 
 近寄らないででも冷たくもしないで 
 罪と罰 
 なんのための? 
 治らない傷口 
 かさぶたの下は乾かないまま膿んでいく 
 辛いのって云ったら 
 自分の方が辛いって 
 弱音吐くことも許されないのなら いっそもう

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 そうやっていつまでも支配できると思ったら大間違いよ

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 あんたのやさしさなんか 所詮は自己満足でしかないじゃない

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 ほら 今あんたの本性が 絶賛剥き出し中だよ

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 あったことをなかったことに 
 なかったこともあったことにできてしまうあなた 
 あなたの云ってることはだから 
 全部に頷くわけにはいかないのです

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 笑うことも泣くことも怒ることもしゃべることもせず 
 ただ能面のような顔でうなずいてさえいれば 
 あのひとにとっては満足なのでしょう

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 私は私を縛り付けるすべてのものから
 解放しなければならないのです

*************************

 もうとっくに気がついている
 手を伸ばしたときにはもう 
 なにもかもが手遅れだったんだってこと
 必要だったのは愛なんかじゃなくて
 そんな使い物にならないようなガラクタなんかじゃなくて
 無限地獄のようなこの毎日から逃げ出せる
 確かな方法だけだったのに

*************************

 子どもを愛さない親なんていない 
 なんていう嘘で 世界をコーティングしないでください

*************************

 いつまで待ってるつもりなの
 誰も探してなんかいやしないのに

*************************

 あのときああしていれば 
 あのときあれをやらなければ 
 人生は変わったかもなんて戯言は 
 もうたくさんよ

*************************

 ふいのやさしさに 心が震えるからイヤだ

*************************

 詩という道の上で 野垂れ死んでしまいたい

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石が流れて木の葉が沈む(新釈ことわざ辞典 その3)



*****

悪事千里を走る
 4千キロメートルもの距離をどうやって走っていくのかしらね
 まさか自分の足でってことはないわよね
 駅伝みたいに人から人へと襷リレーしながら走っていくのかしら
 あるいは車でってこともありえるわね
 悪事だけに盗んだバイクで とか
 ひとって悪いことするときだけ
 どうしてあんなにも知恵が働くのかしらね
 その知恵 もっと別のところに使ったらいいのにね
 そんなこと云ってたら ほらまた
 猛スピードで悪事が目の前を走り去っていったわ



*****

あとのまつり
 祭りのあとの淋しさは なんていう
 吉田拓郎の歌があったけれども
 さっきまであんなに楽しかったのに
 あんなに笑い合っていたのに
 さよならも云わずに出ていった
 あなたが出ていった部屋のドアを
 いつまでもいつまでも見つめている
 もしかしたら あなたが戻ってくるかもしれない
 もう一度あのドアを開けてくれるかもしれない
 そんなわけなんか あるはずもないのに



*****

青菜に塩
 かけたみたいにぐったりとうなだれているあなた
 追い打ちをかけるように傷口に塩を擦り付ける人たち
 いまはそっとしておいてあげてほしいのに
 いまだけは責めないであげてほしいのに
 いつかもう一度 自分で立ち上がるその時まで
 ただ見守っててあげてほしいだけなのに 



*****

牛を馬に乗り換える
 いいとこまわりばかりしている
 よく云えば世渡り上手
 悪く云えばずるがしこい
 調子がよくておしゃべりで
 あっちでもこっちでもいい顏して
 そういうニンゲンほど なぜかひとに嫌われない
 ふしぎなことに


*****

 わたしがしゃべり下手なのは
 奥歯に物が挟まってなかなか取れないからです
 というのは真っ赤な嘘です


*****

鬼が笑う
 というけど 鬼だって笑いたいときくらいあるでしょうに
 いつもいつも金棒もって厳つい顔ばっかりしてたら
 さすがの鬼だって鬱になってしまうわ
 それに鬼が念仏を唱えることがあったっていいじゃない
 鬼には鬼の 云うに云えない事情ってものがあるのよきっと
 でも考えてみればかわいそうな生き物よね 鬼って
 厳つい顏していれば 何かされるんじゃないかと怖がられるし
 神妙な顔をしてみせれば 何か企んでるに違いないと云われ
 殊勝に振る舞えば 今度は何か裏があるんじゃないかと
 あらぬ疑いをかけられる
 そりゃ 念仏のひとつも唱えでもしてなけりゃ
 とてもじゃないけど やってられやしないってなもんよ
 ねえ そうは思わない?



*****

磯の鮑の片想い
 あさりやはまぐりはいいわ
 いつもふたつピッタリくっついて離れない
 両想いのふたりなんですもの
 わたしなんてひとり岩場にしがみついて
 打ち寄せる波を体に浴びながら
 恋しいあのお方のことばかり考えているのよ
 多分あの方は わたしがひそかに慕い続けていることさえ知らない
 え? 気持ちを伝えたらどうかって?
 イヤよそんなの

 もしもキライって云われたら?
 なんとも思っていないって云われたら?
 とてもじゃないわたし 
 このさき生きていけそうにないわ
 いいのよ いいの
 恋しいあの方を想いながらこうして
 岩場にしがみついて荒い波しぶきを浴びているのが
 わたしにはきっとお似合いなのよ



*****

会うは別れの始め
 というけれど
 こんな日がきてしまうことは 最初からわかっていました
 お互い意地の張り合いみたいなことはいい加減なしに致しましょう
 どれだけ同じ時間を過ごしても
 どれだけ言葉を尽くして語り合っても
 結局解ったことと云えば
 あなたはわたしを わたしはあなたを
 なにひとつ理解できなかったということだけでした
 お別れいたしましょう
 悲しいことなど何もありません
 だってこれは必然なことなのですから
 あなたのメモリはすべて
 今日をかぎりに削除いたします
 これですべて終わりにできます



 さようなら
 さようなら




 元気でねなんて云わないわ










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あたたかい雪の下で

 雪割草は別名、地桜とも呼ばれているの 

差し出された鉢を受け取ったのは秋だった 
白いカーデイガンからのぞく君の手首の 
あまりの細さは 
ちいさな鉢さえ重たげに見えた 

 開花時期は二月から 
 本当に雪を割ってね 
 あざやかなピンクの花が咲くの 

その頃を夢見ているような君の頬の 
血色のない白さが僕には雪を連想させた 

 大事に、育ててね 

もう自分では育てられない事を 
その開花を見られない事を知った者の 
潔い微笑みはひどく透明だった 

形見なのだと分かったのは 
君がいなくなってから 

日々成長するものを受け取った事が 
僕にはひどく残酷なように思えてならなかった 
花が咲いても一緒に見られはしないのに 
なぜこんなものを僕に預けたのか 

週末には鉢を抱えての墓参り 
寒々しくなる町並みを抜け 
落葉した後の更に寒々しい山を切り開いて作られた 
墓苑の一角に建つ御影石を撫で 
そうしてまた鉢を抱え帰宅する 

ガラにもなく「花の育て方」なんて本を買った
風通しの良い場所に鉢を置き 
土が乾いてきたら水をやり 
日々色濃くなっていく葉の緑を眺め 
意外に肉厚なその葉を触った瞬間 
堪え切れず真夜中にひとりで泣き眠り 
繰り返し、泣き眠り 
そうして週末に墓参り 
繰り返すだけの日はいつしか二月になっていた 

雪の降る日だった 
傍らに鉢を置き 
傘を差す気にもなれなくて 
君の名が刻まれた石の前で呆けていた 

 ねえ草木は動けないでしょう 
 芽吹いたその場で一生 
 一生懸命生きるしかないの 
 私その気持ち 
 少し分かるわ 

いつかの病室での君が再現される 

 動けないって 
 つらい 

白いベッドに仰向けに天井を眺めながら 
君はそう言っていた 

 でも動けないからこそ 
 覚悟が決まると思うの 
 ここで育とうって 
 根を這わせ 
 茎を伸ばし 
 花を咲かせ 
 種を落とし 
 雨でも炎天下でも雪でも 
 ここで生きて 
 ここで朽ちようって 

 私 
 ここで 
 このベッドの上で 
 ─死ぬのね 
 それまでに出来る事、しておかなきゃ 

は、と我に返った 
また零れている涙をぬぐおうとして 
動かそうとした手の甲に雪が積もっていた 
ずいぶん長い間呆けていたらしい 

雪を振り払い 
冷たさで感覚の無い皮膚をこすり合わせ 
黒い御影石の上にも積もった雪を落とした 

 あなたに雪割草をあげる 
 雪割草は別名、地桜とも呼ばれているの 
 毎年花が開くのを楽しみにしていたのよ 
 雪の積もった朝にね 
 一面白い世界で 
 このこを植えているところだけ 
 あざやかなピンクの色がついてるの 
 綺麗なのよ、とても 

 このこにとって雪は 
 あたたかいものだったのではないかと思うくらい 
 見事なピンク色なの 

僕は傍らの鉢を見た 
そのピンクはまだ咲いていない 
鉢を抱きしめて 
僕は泣いた 

 春を、告げる花よ 
 地に咲く桜の花よ 
 あなたに、あげる 

きみに降る雪はあたたかいかい 
雪を割って咲く花よ 
おまえに降る雪はあたたかいか 

僕はまた鉢を抱え 
来週また来ると呟いて 
町に戻った 

雪割草が咲いたら君に一番に見せに来るから 

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漢字が空から降ってきた!

云うと言う
伝えると信じる

似た意味を持つ漢字だけど
人と組み合わせれば
伝と信
全く意味が異なってしまう
わけだから
云と言は
本質に違いがあると見て間違いない。


信じる = 人に言う
伝える = 人に云う


言はわたし達が普段使っている漢字で
非常に使い勝手が良く
また、
言の漢字を使う熟語は
数えればきりがないほど多い。
言の字は、他の漢字と組み合わせやすく
飾りやすく、手を加えやすいのだ。
何にでも変化させられる。
特に言葉という技を駆使すれば
世界の全てさえも表現できよう。


一方の云。
熟語が10個も存在しない。
信じられないぐらい少ない。
それはすなわち、
云う対象を飾ることも
組み替えることも
置き換えることも
出来ないぐらい素直な漢字である
と見て間違いない。
また、
云の字には雲の意味もある。
真っ白で人の手では
捕らえることも形作ることも
色を付けることさえ叶わない雲。
雲と同じく素直で
ありのままの姿の云。
おそらく、
云は嘘をつけないのだろう。



飾ることを得意とする、言。
偽ることさえ出来ない、云。

さあ、時間だ。
解体を始めようか。



自分の話を
どうしても人に伝えたいから、云う。
自分の話を
どうしても人に信じさせたいから、言う。
これがわたしの解である。





では。
以上を踏まえて
次の問題を解いてみて欲しい。


問1 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは殺人現場を 目の当たりにしたので、当時の状況を警察に いう。



問2 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは2年間付き合った 恋人にプロポーズを いう。



問3 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは今、世界に向けて自分の 作品の長所を いう。




注1 犯人はあなたとします
注2 人生で4人目の恋人とします
注3 作品は文芸作品とします



解答はコメント欄へ⤴

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【小説】プロトタイプ三部作 - ❶ ふつうの信号

 たしかまだ、四月のうちのできごとだったと、佐藤はおぼろげな記憶をたどる。なんせゴールデンウィークの合宿よりもまえだった。あの合宿のまえとあとでは話がちがう。だから、いまとなっては無頓着で、こうなる前の自分自身をいまいち思い出しづらい。なつかしいかもしれないが、なつかしがるのは億劫だ。


「ロードワーク?」

「そ、きょうあすは外だってさ。あとでまた説明してくれるっつってたけど」



 教室の入り口で、三組の鈴木がプリントをひらひらしてにこにこした。入部早々、体育館を使えない日がぽつぽつあって、それも急にきまったりする。そのたびにすばやく練習メニューをくみかえて対応してしまう先輩たちを、なんだかむしろたのしそうだなと当時は思っていた。そのころの佐藤は、まずまちがいなくのんきだった。



「佐藤と、あと中村のぶんな」

「ありがとう」



 鈴木もまだ、みんなを苗字で呼んでいたし。

 昼やすみだったので、鈴木はその場で跳ねあがったかと思うと、自分をまっている弁当のもとへ一目散にもどっていった。不思議の国のアリスにああいうのいたなと思いながら、佐藤もそそくさ席につき、だいすきなからあげを口にほうりこむこととする。

 うけとったプリントには、学校をまんなかに周辺の地図があった。それなりにいりくんだルートとこまやかな注意書き。まあこれくらい覚えられるでしょうと言われている感がある、みぎれいな字。ながら読みが失礼な気さえする。ひとつめのからあげを呑みこむと、鼻に抜ける香ばしさとこころからの握手をかわしたのち、佐藤はあらたまり両てのひらで紙をのばした。

 かならず三番目のかどをまがること。

 金物屋さんが目印。

 右というよりは、斜め前に進む感じ。


 字を書き馴れたひとの字だ、字というか、自分の言葉を。ルートをゆびでなぞりながら、つい先日部誌で見た鈴木の記名のいたずらっ子ぶりを思い出す。吹き出しがないのに吹き出しがあるみたいな字だった。ぎざぎざの。……右、右、ちょっとまっすぐ、ななめ左、もっかい右。ようやっと校舎にもどるというところで、さいごのコメントに出会う。



 信号にひっかかっても、とまらなくていい。



 ……それってどうなの。

 校舎の裏門のてまえでひとさしゆびが足どめをくう。そのゆびさきは佐藤自身の規範意識を指していた。そりゃあ、ロードワークをスムーズにこなすのは望ましいことだけど、急になんか、すごい体育会系みたいな指示じゃない?



「佐藤それなに? いつ配られたやつ」


 前方からけたたましく、椅子をずらす音がした。気のいいクラスメイトが、椅子の背にひじをついて、佐藤のプリントを覗きこんだところだった。
「ああこれ部活のだから……授業関係ないやつ」

「あらよかった」

「あのさ、裏門から出てすぐの道って通ったことある?」


 ふたつめのからあげをつまんで、きいてみた。


「ないよ、なんで」

「ロードワークのときに、信号無視していいって書いてあるんだよね」

「球技部ってなんかぐいぐいくる感じなの?」

「いや、そういうあれでは……」



 首をひねってみせると、やつは思案顔のまま、学ランの内ポケットから焼きそばパンの袋をひっぱりだした。そんなとこからお昼が出てくるって手品師かい。ビニイル袋をやぶろうと、きしむような音をたてて格闘しながら、ややあって「あー」とおもしろそうなこえがあがった。



「なに、あけてやろうか?」

「いやばかにすんなよ。そうじゃなくてそれってあれじゃね、無意味な信号のことだろ」

「うん……?」


 それとかあれとか。

「その地図のどこ?」

「これ」


 とか。

「あーやっぱ、ほんとに裏門出てすぐあるやつだ」

「無意味って?」

「俺もみてはないんだけどさ、なんかめっっっちゃ短いんだって。この横断歩道」

「……まあ、ちっちゃく描かれてるね」
 図解の都合とか、あるいはバランス失敗したとかで、ちっちゃく描いたわけじゃないのか。


「わざわざ白い線ひいて、横断歩道ですって言う必要あるのかよってくらい短いから、あきらか信号なんていらないらしいよ。つかいま思ったけど短いって道幅がせまいってことじゃん。車通れんのかな」

「通れたとしても、そんなせまいならゆっくり通んないとな」

「じゃあいいじゃん無くてww」
 クラスメイトはウケながらふんばったけれども、ビニイル袋の封印をとくことはできない。思うに、わらいながらやるもんだから、うまくちからが入らないんじゃないかい。


「あけようか?」

「ばかにすんな。だからそれ、車のためにあるんじゃないんだよ」

「それ?」

「だから信号な。車にぶつかんないための信号じゃないんだって」


 袋のはしっこをゆびさきでかたくにぎりこんで、やつはおもしろそうに言った。


「え、うん。それで無意味だってことでしょ? なんかほかに意味があるってこと?」

「ヤバイもんとぶつかんないための信号って言われてるらしいww ウケるわー」



 ヤバイもん。

 佐藤は、さいごのからあげのやわらかさにうっとりしていたというのに、はたと考えこんでしまったのだ。なに、そういう話? 道路交通事情の話をしてると思ってた。この校舎が建つまではもっと道がひろくてみたいな。

「あ、中村ごめん席かりてた!」


 クラスメイトが、ふいに佐藤のあたまごしにやわらかな声をなげては立ちあがる。ふりむくと、前の席の中村がいつのまにかもどってきて、あいまいにかぶりをふって返していた。チャイムが鳴り、午後の授業まで五分と間がない。


「ちょっとまて、袋あけてやるよ」

「ばかにすんなって言ってんだろ!」


 なにかしらの矜持がうまれているらしい、彼とパンのあいだに。

 やつがむきになって自分の席へもどっていくのをみながら、中村がもとどおり、そこの席へ腰をおろす。


「あいつ、焼きそばパンの袋あけらんなくて、くいっぱぐれてんの」


 笑いをこらえきれず、草を生やしながら話しかけると、


「それは……ご愁傷さま」


 こころなしか低いこえが返ってきた。

 ……中村、ひょっとしてあいつのこときらい?











 放課後、恥をしのんで言えば、佐藤は最後尾を走っていた。

 すこしまえまで、みえる距離に何人かの背中があったから、はぐれることなくここまでこられたのはいい。いちばんうしろにいると、仮にそれが自分のペースだったとしても、あせらず調子よく保つということがなかなかむずかしい。荒い呼吸が胸のあたりをいったりきたりするたびに、骨がきしむような痛みがふきぬけていった。……あつい。

 あたまがまわらなくて、地図を思いうかべるのもひと苦労だけれど、たぶんこの直線がさいご。つきあたりをまがればもう、横断歩道だったはずだ。ふらつきぎみの脚にぐっとちからをこめて、まっすぐ駆けた。

 まがりかどのむこうに、くろねこみたいなジャージの背中がならんでた。

 あれ?

 のどが灼けたように痛いし、すなぼこりが入ったらいやだから呼びかけたりはしなかったけれど、追いついた佐藤に、ふたりは自然とふりかえる。鈴木と中村。とっくにゴールしたものと思っていた。思っていたし、



「……信号、まってるの?」



 ややあって、荒い息のあいだからきいてみた。結局すなぼこりをすいこんだ。

 こうしてみてみると、実にふざけた横断歩道だと佐藤は思った。なんという違和感。五歩……大柄な先輩とかは三歩で通りすぎたんじゃないか? たぶんこれでは車は通れないし、これをわたることを「横断」とか言わない気がする。ひとまたぎっていうほどではないけれども。

 しかし、信号は赤らしかった。らしい、というのは、これまた奇妙なところに信号があって、むりやり首をひんまげて覗きこむみたいにしないと、正面きってみられないからだ。

 なんであんな、みづらいとこに信号があるんだろ。



「ふつうの信号じゃないみたいな」

「「ふつうの信号だろ」」



 右と左から、即座にツッコミが飛んできた。そりゃそうだ。ふつうの信号以外にいかなる信号もあってたまるか。もとより佐藤はその手の話がすきではない。なんのはずみか煽りじみたもの言いの自分に、佐藤はいたたまれなくなった。


「ふつうの信号だし、ふつうにわたったほうがいいんじゃねーかと思ってな!」

 鈴木はニカッとわらってあたりまえなことを言う。さらに中村が「まあ車がこないのなんかわかってるんだけど、念のため?」とおだやかにことばをついだ。

 考えてみれば、どんな信号だとしても、まもってわたればいいわけだ。ふつうであろうがなかろうが、どのみち信号なんだから。


「いくぞ」


 横むきにもれいづる信号の灯りがきえて、青い色にかわった。鈴木の号令に、流れのままふみだした佐藤の足を、なかば押しのけるみたいにして中村が先陣をきった。

 さっきから目をこらしていたせいで、なんだか目がごろごろする。たぶんこれ、すなぼこり入ったな。まばたくととたんに痛くなって、まえをいく中村が涙でにじんだ。ぼんやりゆがんだけしきのなかで、彼はへんなふうにひざをおりまげてぐにゃぐにゃしはじめる。なりそこないのカニが、へたくそなカニ歩きでもしているみたいだ。

 涙がみせる幻覚なのはわかっていても、とっさに気色悪くて佐藤はたじろいだ。するとこんどは、うしろから強く肩をつかまれたかと思うと、一も二もなくおしかえされた。鈴木だ。怒られそうでふりかえれないけれど、とまるなということだとわかる。横断歩道をわたっているのに、めのまえでぐずぐずされてうっとうしいんだろう。というか忘れてたけどロードワーク中なんだよな。くりかえし目をしばたたかせながら、佐藤はだまって中村に続いた。

 三人はふつうに信号をわたった。わたってしまえば鈴木もべつに怒っていなかったし、中村は佐藤の目が赤いのを心配してくれた。裏門を抜けて敷地に入ると、校舎のむこうからひょっこり、大柄な先輩があらわれた。



「あっきたきた、よかった。だいじょうぶ?」

「すいません、おそくなりました!」


 やさしい声音にほっとして、あたまをさげる。いかついみためにそぐわない性格らしいのは、そのころにはもうなんとなく知っていたことだった。


「信号にひっかかってるのかと思ったけど……チャレンジャーだね」


 よくわからないまま三人、顔をみあわせる。裏門のそとをみやっていた先輩は、視線をもどすとぎょっとした顔になった。


「えっあれ? どうしたのその目」

「あ、ちょっとすな入って」

「えー! はやく洗っといで、痛そう! 水道わかるよね?」
















 すぐあくる日のできごとだったと、佐藤はおぼろげな記憶をたどる。



「体育館?」

「そ、なんかやっぱだいじょうぶになったらしい。シューズなかったらきょうは体育館履きで参加してもいいってさ」

「そっか、よかった……」



 教室の入り口で、三組の鈴木が手をひらひらしてにこにこした。入部早々、ボールにさわれない日が続いていたので、佐藤のこころもボールみたいに弾んでいる。

 昼やすみだったので、鈴木は自分をまっている弁当のもとへ一目散にもどっていった。佐藤もそそくさ席にもどり、からあげをかじって悦に入る。


「おまえからあげすきだよな……」


 前方からけたたましく、椅子をずらす音がした。気のいいクラスメイトが、椅子の背にひじをついて、佐藤の鼻さきにパンの袋をぶらさげたところだった。


「おまえも焼きそばパン一択なんだな……」

「俺はきのう食いそびれたからいいんですー」


 行儀わるく椅子の背にあたまをもたせかけて、やつは口をとがらせた。いいってなんだ。



「佐藤くんはきょうも信号無視ですか」

「きょうは中だし、きのうもやってません。ふつうにわたりました」

「いい子ww」


 クラスメイトは惰性でわらいながら、ビニイルのはしっこをやぶこうとしている。


「まあでも、ほんとに車ぜんぜんこなかったっていうか、通れないっぽかった。無意味だったわ」


 次は青になるのをまたずにわたろう。きのうだって、あのふたりが律儀に信号まちしていたから右にならえをしただけだ。言いたかないがこわがりだから、雰囲気にのまれていつも損をする。

「なんか、この話って有名なの?」

 葉野菜の苦みとからあげの相性に、思わずほだされ ついでに訊いた。

「そうなんじゃない? しらないけど」

「しらないってどこで知ったの」

「先輩から。文化部のひとってこういうのすきじゃん。学校のいわくみたいな」

「七不思議的なね」

「ななふしぎ!」

 どのあたりがツボだったのか、やつは盛大にふきだして椅子の背をたたいた。

「えっなに……?」

「いやwww」


 顔をくしゃくしゃにしながら、なおもビニイルを両手でひっぱっている。なんでこいつはウケたタイミングで開封しようとするんだよ。


「ななふしぎwって言うと、いや、ほら、小学生かwww」

「あの、あけてやるよ、袋」

「だいじょうぶwwww」

「いやおまえむりだよ」



 涙目になってわらいころげるそいつと押し問答していると、ふとうしろに気配があった。


「あ、中村!」


 クラスメイトが立ちあがる。


「いいよ、すわってて。机んなかに弁当わすれただけだから」


 中村は、クラスメイトが占拠している自分の机に横から手をさしいれて、ことばどおりに弁当箱の包みをとりだした。


「あ、ねえ、きょう部活体育館つかえるって」

「えっほんと! よかっ……シューズ家だわ」

「体育館履きでもいいらしいって鈴木は言ってた」

「うわあよかった!」

 うなずきながら、佐藤はさいごのからあげをつまむ。



「中村、ななふしぎって言いかたかわいいと思わない?」

「七……? そうだね」


 いまだウケをひきずっているクラスメイトに、中村はあいまいに首をふって、そのまま弁当をたずさえてカニ歩きで出ていった。













 そういう話を、佐藤は、信じたくってこわがるのではない。ただ、ときどきふと、目にしたものがきもちわるくなることがあった。みためがかわるわけではないが佐藤にとってはかわっている。それを佐藤自身の心情の変化だというなら、それはそうなのだろう。佐藤もそう思っている。佐藤が、変化をみとめたのだ。佐藤の変化をみとめられるのは佐藤しかいないから、佐藤しかみとめない変化は変化なんかじゃない。これは逆説である。

 だから却って、放課後、部室にいく中村をみおくってから、クラスメイトをつかまえた。



「その話って、そこまでしかしらない?」

「え、そこまで? なにが」

「あの、あれ。信号無視の話ね」

「オチがあるかどうかってこと?」


 気のいいクラスメイトは、ややあってまたわらいだした。

「佐藤ってそういう話、すきだっけ?」

「いや、どっちかっていうときらい」

「ええww」


 同中の友人は、いつのまにかおとなな笑顔で、ちょっと心配そうに佐藤を見たりなんかした。


「しらないしらない。てか続きとかべつにないでしょ」

「そう……」

「考えてみ? 赤信号をわたったらあの世に連れていかれます。信じるか信じないかはあなた次第です。ほら、しょぼくね。続きがないからおもしろいんだよ。つくり話なんだから」


 クラスメイトの手のなかで、昼間たべられなかったパンの袋が、思いきりよく音をたててやぶかれていく。


「うん……部活いくわ」

「いてら。てかおまえほんとにふつうにわたったの?」



 あいまいにかぶりをふって、佐藤は小走りで教室を出た。足どりはだんだん重くなり、階段を降りて、靴を履きかえ、外に出たとき、とうとうその場にたちどまった。

 うららかな春の午後。その日も風は強く、すなぼこりがグラウンドに舞いあがる。

 すなが目に入ったせいでは、なかったんじゃないか。

 よく考えてみろ、佐藤。きのうの信号はどこか奇妙だった。横をむいていて、よくみえなかった。どうして? ばかなことを聞くんじゃない。


 横断歩道からみて、横むきについている信号は、車道用にきまってるじゃないか。


 心臓が急発進した。どくどくとなにかが喉もとまでせりあがり、悲鳴をあげそうな口をそっとおさえて佐藤は考える。いま、自分のうしろには誰もいないだろうか。自分の背中には、なにも、ついてきてはいないだろうか。からだはうごかさずに視線だけを落として下をみる。地面にのびているのは佐藤の影だけだった。そしてそれは、へんなふうにひざをおりまげてぐにゃぐにゃしていた。

 おかしなこえをあげて佐藤は走った。ふつうに走れることとかを考えている余裕はなかった。なんで気づかなかった、なんでわからなかったそんなかんたんなことを。俺たちは信号無視をした。あれひとつしか信号はなかった。歩道用の信号なんてどこにもなかった。なんでだよ。しるかよ。

 暴走する心臓をかかえて部室棟の階段を駆けあがる。部室の扉がみえた。知らせなきゃとか教えなきゃとかそういうのはなにもなく、ただ知っているひとたちのところに逃げこみたくて、つまずきもつれて思いきり扉をあけた。



「おつかれ佐藤。おそかったな?」



 気の抜けたこえがふってきた。つんのめっていた顔をあげると、もうジャージを着た中村と鈴木がふりかえり、わらっている。

「もうあれだぞ、いそげいそげ」


 時間がないと言っているんだろう。きづかうようなまばたきから日常があふれて、あやうく佐藤は泣きそうだった。
「佐藤、目え真っ赤だけど? またすな入ったのか」

「え、ああ」

「遅れるけど一回洗おうぜ。おまえサングラスとかすれば?」


 顔をのぞきこんできた鈴木が、自分で言って自分でふきだした。

「なあ、きのうの……」

「坊主にグラサンww ワロスww」

「中村、きのうの信号、」

「うん?」

「きのう俺たち、車道のほうの信号わたっちゃったよな?」

「うん……?」


 中村は目をぱちくりした。首をひねってよくよく考えてから、


「いや……?」


 と言った。

「車道用のだったんだよ。横向いてたでしょ」

「なにが?」

「信号」

「……いや?」


 中村はくりかえした。それから鈴木をふりかえり、


「横向いてたっけ、鈴木」

「いや」


 こんどははっきり否定がとんでくる。


「なんか微妙にひんまがってたけど、そんだけ」

「ほら……」


 こまり顔の中村は、なだめるように続けた。


「それに、車道側の信号しかない横断歩道っていうのも、アレだろ」



 そうだ、おかしい。歩く側と車と、ふたつ目印があるべきだ。だいたい車が通れないのに車の信号がある時点でアレだ。だからやっぱりそういう話なんじゃないのか、いくら自分が変だって見まちがうようなことじゃない。車のための信号じゃないというなら、


「ふつうの信号じゃないから、みたいな」

「「ふつうの信号だろ」」



 右と左から即座にツッコミがとんできた。

 ……なんだ。この空気はいったいなんだ。信号がどうとかじゃなくないか。ごくりとつばをのみこんだとき、あけっぱなしだった扉のそとからひょっこり、大柄な先輩があらわれた。



「あっいたいた、どうしたの。だいじょうぶ?」

「すいません、おそくなりました!」


 やさしい声音に、あわててあたまをさげる。


「えっあの、目え赤いけどまたすな入った?」

「あっ……はい……」

「すいません、こいつ洗ってからいくのですこしおくれます」



 横から申しそえたのは中村だった。先輩はなんどかまばたいて、なにか言いたげなそぶりだったけれど、結局ただうなずいた。もしかしなくてもいじめ的なものを懸念されたかもしれない。場をなごませるというか、ちょっと空気をさぐるつもりもあったのか、ややあって先輩はやわらかな笑顔になった。



「そういえばその、べつにいいんだけどさ。きのうのあれから、なんかかわったこととかあった?」

「…………」


 先輩の視界のすみっこで、三人の視線がひそかに一瞬からみあう。

「や、なんもないっすね!」

「そっか、そりゃそうだよな。俺もべつに、信じてるとかじゃぜんぜんないんだけどさ」


 先輩は、先輩が思ったほど気まずい空気ではなかったということなのか、わかりやすくほっとした顔であたまをかいた。


「まあでもあれだよ、べつにほら、いちいち青になるのをまてっていうわけじゃなくて……車はこないんだから、赤でも青でもそのまま走ってだいじょうぶなんだけど」


 どうにも要領を得ない話しぶりに、誰もあいづちを打てずにいる。


「それに、一年のころ俺のまわりもやってるやついたしなあ。だからきもちはわかるんだけど、ただ、一応部活の途中だから。わざと赤信号をわたるのは、次から無し、な」



 ——きもだめしなら、帰りの時間にやりなさい。



「すいませんでした!」


 ワンテンポおくれて、鈴木と中村がいきおいよくあたまをさげた。いいからいいから、じゃあ体育館いってるからな、とあわてて両手をふって、小心な先輩はうしろ手に扉をしめて出ていった。



「…………」

「佐藤、とりあえずきがえな? そんで水道いこう」



 気を取り直して日常が言う。

 おさまりかけていた心臓がふたたび脈を打ちだした。なんて言えばいい。どこからつっこんだらいい。おかしなことを言っているのは俺じゃない。だって先輩は、歩く側の信号があると思ってる。先輩のみている信号と俺たちがみた信号はおなじ信号じゃない。さっきから出る杭をたたきおとすみたいなこのふたりの笑顔はなんなんだ。



「ねえあのさあ。俺ときどき、きもちわるいもんがみえるんだよ」

「そうなの? いやせめてきがえながら言いなよ、よくわかんないけど……」


 苦笑する中村は、すこし汗をかいていた。おちつかなげにゆびがうごき、ときどきジャージの腰のところでてのひらをこする。


「中村、」

「なに?」


 ふだんから覇気のないおとなしい目だけが、かたくなに佐藤をみてわらっている。


「……きもちわるいよ」

「すなが目に入ったからだと思うよ?」

「そうじゃねえよ!」


 中村はわらっている。さっきからずっと、ひざがぐにゃぐにゃうごいてる。


「そうじゃなくて、あれ! きのうのあれが! ふつうの信号じゃなかったって言ってんの!」

「佐藤」


 耳もとでなまえを呼ばれたかと思うと、うしろから強く肩をつかまれた。鈴木だ。怒られそうでふりかえれないけれど、しゃべるなということだとわかる。


「ふつうの信号じゃなかったら、なんだよ。あの世に連れてかれる信号とか? 地縛霊にとりつかれる信号とか? 佐藤ってそういうのすきなのか? ねぇーよ、小学生か! つくり話だからおもしろいんだよ、ああいうのは」


 すきじゃないよ。すきじゃないよ。ずっと言ってんじゃん。中村の顔も鈴木のこえもわらっていてきもちわるい。どなりだしたい衝動にかられて、佐藤は肩口をふりかえった。


 鈴木はすごい顔をしていた。

 ぞっとして佐藤はこえが出なかった。べつに鈴木はぐにゃぐにゃしていない。なにかが背中にへばりついているわけでもない。そうじゃない。彼がわらっていたのは声音だけで、まるで内臓をえぐりだしそうに毒々しい目つきで佐藤をいすくめていた。

 こいつ、なに。

 いまにもうなりごえをあげそうな獰猛な顔から目をそらせないまま、佐藤はふたつのことがらを察する。自分たちがみた信号は、ふつうの信号ではなかったということ。そしてそれを、どの時点からかはともかく、このふたりもしっているということ。それなのに、


「あれは、ふつうの信号だった」


 地を這うようなこえで、しみこませるように、鈴木が言いきかせてくる。


「ふつうの信号だったから、ふつうにわたった」


 うしろから中村も、おだやかなこえでくりかえす。
 言葉数がすくないのに、言葉は氾濫しかけていた。あふれれば、あっというまに言葉の意味が部室を呑みこみ、床と天井の区別もつかずにもがいて佐藤は部活へ行けない。ふつうについてこいつらはなにをしってる。佐藤はしっていたろうか。こんなにかわってしまうのに。

 いまさら目のなかがごろごろしてきた。すなが入っているからだ。にじんでぼやけたけしきをぬぐって、佐藤は同級生と目をあわせる。理不尽という言葉を宛てるにはずいぶん遠い顔だった。むしろ、なにかどこかへ一直線に走っていってもどらない、そんな主語のわからぬ喪失が佐藤の眼前にせまっていた。なら理不尽じゃないなまえをつけてよ。嘘、本当、曼珠沙華、さかいめに咲く花をみないで!
 気づけば佐藤も汗だくだった。はやく拭いて、ジャージにきがえて、目を洗って、体育館にいかなきゃいけない。ひさしぶりにボールにさわれる、そう思うとふわり、こころがかるくなる。どのみちやぶけてしまったんだ。あいつあの焼きそばパン、くさってないんかな? ふつか持ちあるいてたもんな。いーけないんだ、おなかこわしてしんじゃったってしらないぞ。にこにこしながら佐藤はなんども口にした。


「あれはふつうの信号だった」













(2017年掲載「シャドウ」から、改題・改稿を経て再録しました)

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翡翠に眠る虎狼〜1章〜

 雪のように冷たい大理石の道を僕は裸足で歩いていた。
あたりは黒く霧がかっていてあまりよく見えない。

ただ、大理石の一本道だけ、その中でくっきりと光って見えるようだった。

冷たくて、痛くて、もう歩きたくないのに、僕はただただ歩き続けた。

時々霧の奥から囁く声がした。
 
皆口を揃えて「見ろなんて醜い!汚らわしい!」と指を指されているようだった。

心も身体も冷え切っていてもう感覚さえなくなってきていた時、大理石伝いに微かな温かさを感じた。

縋るような想いで僕は駆け足気味に、前へ進んだ。

すると足の裏に柔らかくて暖かい感触がした。

霧は消え、草と土の優しい香りに包まれた。

身体に温かい血液が流れるのを感じた。

乱れた呼吸を整え、身体が温まるのを待った。

しかし、身体が温まれば温まるほど、喉から心臓までが凍りついているように冷たいのが際立った。

ふと目線を上げると、小さな小屋があった、何やら店をやっているようであった。

僕は重い身体を引きずりながら小屋へむかった。

温かい木の扉を開けるとカランッとベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ。」

ゆったりと優しい声が聞こえた。

中は暖かく、木の匂いのする心地の良い感じであった。

木でできたカウンターテーブルの奥に声の主がいた。

「どうぞ、おかけください。お疲れでしょう。」

僕は頷いて、カウンターテーブルの椅子に座った。

声の主は、黒い髪を後ろに束ねた、清潔感のある長身の男であった。

特に特徴的であったのは彼の瞳であった。

綺麗な翡翠に暖炉のオレンジが揺れていた。

その美しさに、僕は彼の瞳をかなりじっと見てしまっていたらしい。

「私の瞳は珍しいでしょうか?」と男はクスッと笑った。

僕は身体中が一気に熱くなるのを感じた。

「いえ、あまりに綺麗でしたので…見惚れて…」

男は一瞬目を見開いてから、ふっと笑った。

どうやら可笑しくて堪らないらしく笑いを堪えるのに必死であった。

「申し訳ありません!そんな風に男性に言われたのは初めてでしたので」

男はやっと声を振り絞り言った。

確かによく考えれば、僕はなんて事を言ってしまったんだ。

これではまるで僕が口説いているみたいではないか。僕は恥ずかしさのあまり床を眺めるしかなかった。

「そういえば、何かお困りな事があっていらしたのでしょう?」

男は思い出したようにいった。

「え?」

そういえば、僕はなぜここへ来てしまったんだろう?
なんだか、身体はとても疲労しているようだけど。

思い出そうとすると喉から胸にかけて張り裂けるように冷たくなっていく。

僕は何者なんだ?頭の中でまた霧の中の囁きがこだました。

「一晩だけ、ここにいてもいいですか?」

男は顎に手を当て少し考えた後に

「良いですが、それで良いのですか?もっと他に何か…」と少し黙って僕の様子を伺っているようであった。

「まぁ、良いでしょう。無理には聞きません。好きなだけいてくだい。ただし、ちゃんと対価はいただきますよ?」

翡翠の中にいたずらっぽくオレンジが揺れた

「もちろんです!よろしくお願いします!」

僕は即答した。

あれ?でも、僕お金なんてあったかな?と不安に思ったのが男に伝わったようだ。

「お金でなくてもいいですよ、お代については、後々お話ししましょう。」

僕の心を見透かされた恥ずかしさと、男の声の暖かさに、なんだか、目頭が熱くなった。

涙をこらえるために目をぎゅっとつむって、床とにらめっこをしていると、男は僕の目線に入るように、真っ白で艶やかなカップを差し出した。

「呪いのようなものです。これを飲んで、今日は眠ってください。」

一口飲むとそれは甘いホットミルクであった。
それは、特別な味がした。

不思議なことに、喉から胸にかけて凍り付いていたものが溶けていく感覚がした。

「美味しい…」

また、翡翠の中のオレンジを揺らしながら、男は嬉しそうに微笑んだ。

ぼんやりとした視界の中最後に見えたのは困ったような男の微笑みであった。

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指の記憶

手が冷たいのは
乾いているからだと
はじめて知った

これまで長い間
指が冷たかった
初めて差し出された手を
つかんだ日にも
たぶん冷たかっただろう

そんなことも知らずに

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論考:ネット詩投稿サイトはどのような夢をみてきたか

 本稿では、インターネット詩投稿サイトの歴史を整理し、その変遷を論じる。対象とするのは、文学極道、B-REVIEW、Creative Writing Spaceの3サイトである。他にも現代詩フォーラムなど著名なサイトは存在するが、本稿では単なるアクセス数や投稿数の多寡ではなく、場としての理念を明確に打ち出し、ネット詩文化の方向性に影響を与えたサイトに焦点を当てる。上述の3つを論じることで、オンライン詩投稿サイトの歴史を大まかに俯瞰することができるだろう。

 まず、筆者自身の立場を明らかにしておく。2017年頃、文学極道において創作活動を開始し、同年、新人賞を受賞した。また、B-REVIEWでは創設メンバーの一人として、ガイドラインの策定を含むサイトのコンセプトや制度設計に関与した。現在はCreative Writing SpaceのFounderとして運営を統括している。
 文学極道の最盛期をリアルタイムで経験したわけではないが、オンライン詩投稿サイトの変遷について一定の知見を持っている。本稿は、詩に関心を持つ読者のみならず、小説や戯曲など詩界隈以外の創作に携わる者にも届くことを目指している。ネット詩の興亡を整理し、今後の展望を示すことで、オンライン上の文芸創作に携わる人々の議論の材料となることを願う。


【文学極道──ネット詩投稿サイトの象徴】

 文学極道は、2005年に創設された硬派な詩投稿サイトである。私は2017年頃に半年ほど活動したのみで、最盛期をリアルタイムで体験したわけではない。しかし、このサイトがネット詩文化に与えた影響は計り知れず、文学極道の成功こそが、その後のネット詩投稿サイトの方向性を決定づけたと断言できる。
 文学極道は、最果タヒ、三角みづ紀といった広く読まれるようになった詩人が投稿していたことでも知られる。特に、初期の投稿作品の質の高さと、コメント欄で交わされた鋭い批評の応酬は特筆に値する。

 サイトのトップページには、次のような一節が掲げられていた。

>芸術としての詩を発表する場、文極(ブンゴク)です。

>つまらないポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。

>あまりにもレベルが低い作品や荒しまがいの書き込みは削除されることがあります。

>ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい酷評を受ける場合があります。

>酷評に耐えられない方はご遠慮ください。

 この言葉が示す通り、文学極道は単なる創作発表の場ではなく、詩を芸術として追求する者のための修練の場を標榜していた。馴れ合いを排し、批評によって切磋琢磨する文化を築くことが、この場の理念である。文学極道は、インターネットがまだ黎明期から拡大期へと移行する中で誕生し、必然的に2ちゃんねる的な匿名性の高いネット文化の影響を受けていた。その結果、サイト内では低レベルな作品には容赦なく酷評することが許容され、むしろ推奨されるような雰囲気すらあった。罵倒や激しい批評が日常的に行われる場となったのである。

 では、文学極道が夢見たものとは何だったのか。

 文学極道が目指したのは、詩壇では評価され難い、真に新しい詩文学の創造の場、そして活発な批評の場であった。そのため、実験的な作品が評価され、罵倒を伴う荒れた議論も場の活力と捉えられていた。しかし、この批評文化の攻撃性は、やがて場そのものを揺るがすことになる。


【文学極道からB-REVIEWへ──批評文化の変質と転換】

 文学極道における厳しい批評文化は、当初は場の水準を維持するための手段として機能していた。しかし、次第にそれ自体がサイトの荒廃を招く要因となっていく。過度な罵倒が横行し、サイト内の風紀が悪化することで、真剣に詩を議論しようとする者が次々と離れ、罵詈雑言ばかりが横行する傾向が生じた。そして、この状況に対するカウンターとして、2017年にB-REVIEWが創設される。

 B-REVIEWは、以下の三つの原則を掲げた。
  1. マナーを重視し、まともな議論ができる場をつくること
  2. オープンな運営を心がけること
  3. 常に新しい取り組みを行い、サイトを進化させること

 文学極道が「酷評・罵倒の自由」を強調したのに対し、B-REVIEWは「罵倒の禁止を強調し、投稿者が安心して作品を発表できる環境」を作ることを重視した。一見すると、両者は対極的なサイトポリシーを持つように思える。しかし、本質的にはどちらも「オンラインならではの創作の場とレベルの高い批評の場を作る」ことを目的としており、その方法論が異なるに過ぎなかった。すなわち、似た夢を見ていたのである。

 文学極道が2ちゃんねる的な文化の影響を受けていたのに対し、B-REVIEWはソーシャルメディアの時代に適応した開かれた場を志向していた。文学極道が罵倒と酷評による場の引き締めと活性化を狙ったのに対し、B-REVIEWはガイドラインとオープンな運営によって場を整え、活発な批評空間を形成しようとした。この方針のもと、B-REVIEWには文学極道の文化に馴染めなかったネット詩人たちが流入し、活況を呈するようになった。

 また、B-REVIEWの運営スタイルは、文学極道とは根本的に異なっていた。文学極道が管理者主導の運営を行い、選評制度によって場の権威性を保っていたのに対し、B-REVIEWはオープンな運営体制を取り、投稿者の主体性を重視した。選評のプロセスにおいても、投稿者と運営者の垣根を超えた対話が行われ、投稿者が主導するリアルイベントの開催等の新たな試みが積極的に導入された。

 では、B-REVIEWが夢見たものとは何だったのか。

 それは、ハイレベルかつ安心して参加できる詩文学の投稿・批評の場の創造であった。従来のネット詩投稿サイトの問題点を克服し、新たな時代に適応した批評空間を作ることこそが、B-REVIEWの掲げた理想だった。


【文学極道の終焉──自由な批評の場から単なる停滞と崩壊へ】

 B-REVIEWの台頭により、文学極道の状況はさらに悪化していった。B-REVIEWのマナーガイドラインに馴染めない投稿者が文学極道に集中し、サイトの荒廃を加速させたのである。かつて、文学極道は「自由な批評の場」であった。しかし、その自由は次第に「無秩序な荒らしの場」へと変質し、本来の機能を果たさなくなっていった。もはや、詩作品への鋭い批評ではなく、ただの罵詈雑言や無意味な言い争いが繰り広げられるだけの場となってしまった。

 この状況に対し、運営の方針も迷走を続けた。荒廃を食い止めるために運営の介入が求められる一方、介入を強化すれば「文学極道の自由な批評文化が損なわれる」という批判が巻き起こる。しかし、介入を抑えれば無秩序が進行するという悪循環に陥った。

 さらに、運営者自身が文学極道の理念を十分に共有していなかったことも、混乱を深める要因となったと考える。たとえば、終末期の運営者には、もともとB-REVIEWの評者として招聘されていたが、運営内部の諍いを経て文学極道へと移行した者も含まれていた。また、最終期の文学極道では運営主導の朗読イベント/ツイキャス配信が行われるようになったが、和気藹々としたオンライン交流は、「罵倒上等」の文学極道の風土とはそもそも相容れないものであった。

 もともと文学極道が持っていた「罵倒を許容してまで議論を重視する場」としてのコンセプトと、後期運営が試みた「サイトの健全化」は、よほど緻密に進めないと両立しない類のものだっただろう。サイトコンセプトにそぐわない志向性を持つ運営者たちが運営方針を弄ったことで運営内外の揉め事が拡大し2020年、文学極道は閉鎖された。かつてネット詩投稿サイトの象徴であった場は、その幕を閉じたのである。


【B-REVIEWの凋落──運営の乗っ取り】

 文学極道が終焉を迎えたことで、かつてその場に馴染んでいた投稿者たちがB-REVIEWへと流入した。しかし、これがB-REVIEWに大きな問題を引き起こすことになる。文学極道的な「罵倒・酷評上等」の文化、不規則な放言や誹謗的な発言を含め、マナーガイドラインに縛られず自由に発言できる場を復活させたいと考える者たちと、B-REVIEWの掲げる「マナーを重視した批評空間」を維持したいと考える者たちの間で、次第に齟齬が拡大していったのである。

 B-REVIEWは「ガイドラインに合意した人間であれば、手を挙げれば誰でも運営になれる」という極端にオープンな運営体制を採用していた。この方針は理念としては美しかったが、現実には大きな問題を孕んでいた。すなわち、サイトポリシーに共感しない者であっても運営の中核に入り込むことが可能な脆弱な仕組みとなってしまっていたのである。

 B-REVIEWは2017年の創設以来、複数の運営者によって引き継がれてきた。そして、B-REVIEWの運営は、文学極道を出自とする第八期運営者らに引き継がれたことによって2023年に大きな転換点を迎えることになる。かつて何度もB-REVIEWから出禁処分を受けていた人物が、運営側に招聘されたのである。この新たな運営体制のもとで、サイトのルールは事実上反故にされることとなった。従来であれば「マナー違反」として取り締まられていた行為が放置されるようになり、むしろ運営自らが批判者を中傷するような状況すら生まれた。これにより、B-REVIEWの運営方針は大きく変質し、従来の批評文化の維持を求めていた投稿者たちとの対立が激化することとなった。

 また、サイト内の意思決定の透明性も失われた。それまでオープンな場で行われていた議論はディスコードへと移行し、投稿者全員の目に触れる形での意見交換は意図的に避けられるようになった。これに対し、「もはや本来のB-REVIEWではない」として数十名の投稿者が抗議し、これまでのすべての投稿を削除しサイトを去ることとなった。

 現在、B-REVIEWは存続しているものの、創設当初に掲げられた理念はすでに形骸化している。本来の姿を知る者からすれば、屋号とサイトデザインが引き継がれているだけで、もはや別のサイトに見えるほどである。

 また、本来のあり方を否定したために、かつて開発を支援したプログラマーや、資金援助を行った者からのサポートも失われており、今後の大きな変革はほぼ不可能な状況にある。ここで、B-REVIEWを乗っ取った者たちの行為を具体的に断罪するつもりはない。
 しかし、強調しておくべきなのは、文学極道の最終期と非常によく似た現象が、再びB-REVIEWにおいても発生しているということである。つまり、「サイトの理念に共鳴しない者が運営の座につき、方針を変更することで場が混乱し、迷走し、凋落していく」という構造が、またしても繰り返されたのである。


【文学極道の亡霊にしがみつく人々】

 B-REVIEWが創設されて以降、ネット詩壇には文学極道的な「罵倒カルチャー」を復活させたい、適度に荒れた雰囲気の場をつくりたいと考える人々が常に存在していた。そして最終的に、そうした投稿者たちがB-REVIEWを乗っ取る形になった。

 本来、罵倒や荒れた議論は、創作に真剣に向き合うための「手段」であった。しかし、それが次第に変質し、「無秩序な放言や支離滅裂な発言、癇癪を起こすこと、誹謗的な発言をすること」すら、詩人としての特質であり、詩に対する純粋な姿勢であるかのように誤認する者たちが現れた。
 不思議なことに、サイトを乗っ取った彼らは自分たちが何を目指しているのかについて、殆ど議論も説明もせず、批判には無視か排斥で応えるばかりである。議論すること自体を忌避するような性格の人々が、本来のサイトポリシーを反故にすることだけに妙に固執しているようにも見える。彼らが本当に求めているものは何なのか。

 私の見立てでは、彼らが求めていたのは、文学極道というサイトが生み出してしまった「間違った幻想」である。
 まともなことがほとんど何もできないような人々、すなわち、一貫性のある態度や振る舞い、社会的な態度、感情のコントロールが一切できないような人たちが、自己正当化の手段として、放言や支離滅裂な発言を許容しているかのように見える文学極道の文化にすがりつくようになったのかもしれない。彼らにとって重要なのは、創造することでも、議論を深めることでも、場を発展させることでもない。ただ、自分を肯定してくれる空気に浸り続けることに他ならない。

 もともとは停滞する人々を排除するために存在していたはずの「罵倒文化」が、いつの間にか停滞する人々の拠り所となってしまった。ここまで読んでもらえればわかるように、私は文学極道というサイトが成し遂げた功績についてはリスペクトしている。また、最盛期の文学極道のような場を取り戻したいと思う人々の気持ちもとてもよく理解できる。
 しかし、このサイトの残滓のような人々、場を乗っ取り、まともな説明を忌避し続けている人たちは、文学極道を含めて、これまでネット詩サイトが積み重ねてきた活動に対して、実質的に「悪口」を言う機能しか果たしていない。彼らはそんなつもりはないと反発するかもしれないが、しかし結局ところ、なんのつもりで場を変質させたかったのか、明確な説明も主張もない中にあっては、場を壊し、停滞させ、しかしそうした結果に無頓着な様子以外に読み取れるものがない。


【そしてCreative Writing Spaceへ】

 B-REVIEWの混乱と凋落を目の当たりにした元運営者たちは、新たな文芸投稿サイトの必要性を痛感し、新しいサイトを立ち上げた。これがCreative Writing Spaceである。これまでのネット詩投稿サイトの歴史を踏まえ、サイトのコンセプトや運営方針を再設計し、新たな創作の場を築こうと試みたのである。

 このサイトは、もはや「詩投稿サイト」ですらない。そもそも、詩の枠組みを超えた作品を生み出すことこそが、ネット詩投稿サイトの夢だったのだから、「詩サイト」を名乗る必要もないという急進的な考えに基づいている。また、詩の場である以上、不規則に振る舞って構わないはずだと考える人々が一部に蔓延る中にあっては、特定のジャンルを特権化せず、開かれた場をつくることが詩界隈にとっても利益になると考えた。特に、旧来の詩投稿サイトにまつわる過去の遺物──すなわち文学極道の「罵倒文化」やその残滓──を一切引き継ぎたくないという意識が強かった。

 B-REVIEWの最大の問題点は、「オープンな運営体制が仇となり、乗っ取りが容易なシステムとなってしまったこと」にあった。この失敗を踏まえ、Creative Writing Spaceでは、クローズな管理体制を持ちながらも、分散的な自治が可能なシステムを設計することにした。
 その一環として、サイト内通貨「スペースコイン」を導入し、単なる作品投稿の場にとどまらず、各ユーザーが自律的に活動できる仕組みを取り入れている。また、各ユーザーが気に入らない相手をブロック・通報できるシステムを整備し、運営が過度に介入せずとも各自が自身の環境を管理できるようにした。

 さらに、詩だけでなく小説、幻想文学、戯曲など、多様なジャンルが交差する場を目指し、文学極道やB-REVIEWとは異なる新たな可能性を模索している。名興文庫との提携を通じて、小説界隈との連携を強化し、これまでのネット詩メディアにはなかった展開を示している。

 サイトの立ち上げからまだ間もないが、月間の投稿数はB-REVIEWの最盛期と同程度に達しており、順調に成長を続けている。しかし、これはまだ始まりにすぎない。Creative Writing Spaceはどのような夢を見ているのか──それは、かつての文学極道やB-REVIEWが見た夢の続きであり、それらとは異なる、新しい何かでもある。


【言い訳としての結語】

 Creative Writing Spaceは、特定のジャンルに依拠しない文芸投稿サイトである。あたらしく進めていくことをテーマに掲げている。したがって、本稿のように、詩投稿サイトの系譜を振り返ること自体が本来の方針にそぐわないかもしれない。
 
 名興文庫との提携を通じて小説界隈とも接点を持つ中で、特にアンチ活動に勤しむ人たちを目にするにつけ、小説の世界にもまた、特定のジャンルに閉ざされることで停滞が生じていることが理解できた。他方で、特定のジャンルに囚われることなく、純粋に創作を研ぎ澄ませたいと考える書き手が一定数存在し、Creative Writing Spaceに参画くださっていることも確かである。

 特定のジャンルに閉じないことは、詩に限らず、創作全般において重要な課題なのではないか。内輪の論争に拘泥するのではなく、異なる背景を持つ書き手たちが交わり、互いに刺激を受けるような場を築くことこそが、今後の文芸創作の発展にとって必要なのではないか。Creative Writing Spaceは、まさにそのような場を目指しており、現状にとどまるつもりがないからこそ、この論考を投稿している。

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「しこたま詩人解説」としてのクリエイティブ・ライティング

焦ってます

アブラ汗



シタタール

から

コマール





上記の作品が、私の運営する文芸投稿サイトに投稿されていたのである。「絶対絶命」という仰々しいタイトルが付けられたその作品は、説明する必要もないと思うが、悪ふざけのゴミ投稿にしか見えなかった。作者名は「伝説のしこたま詩人」とある。過去の投稿履歴を確認すると、さまざまな作品に対して「しこたま面白かったです」「中々のしこたまですね」といった、内容に即しているのか判然としないコメントが大量に残されているばかりであった。


文芸投稿サイトには荒らし行為がつきものである。鬱屈を募らせた陰気な社会的不適合者が文学界隈に多いことも関係しているのだろうか。しかし、いくら出来の悪い投稿とはいえ、いきなり削除すると、それ幸いとばかりに運営批判を始める者も少なくない。理由をつけては論戦したがる層が必ず湧いてくる。それが文芸投稿サイトという場所だ。


文学とは、人生が人生それ自体では満足できないことの表明である、と喝破したのはフェルナンド・ペソアであるが、文芸投稿サイトとは、文学が文学それ自体では満足できないことの表明である、と換言できるのかもしれない。文学では足りず、場が必要で、場でも足りず、運営や参加者との諍いが必要になる。むしろ摩擦こそが主語で、その手段として文学や文芸投稿サイトが利用されているきらいさえある。言葉にならない摩擦をなんとか表現しようとする試みが文学であるはずだが、行き場のない鬱屈を募らせた作家崩れが無用な摩擦を生み出し、摩擦に埋没するための方便として、文芸の場が悪用されることも少なくない。


私はこの投稿をどう裁くべきか、共同運営者の田伏正雄さんに相談することにした。実際に田伏さんに会ったことはないし、今後も会う予定はない。私が田伏さんを運営に誘い入れたのは、彼の過剰に暴力的で倫理観の捻じ曲がった文章に関心を持ったからだけではない。田伏さんには、ネットストーカーと見紛えるほどに執念をたぎらせた、えも言われぬ突破力のようなものがあった。文芸投稿サイトの運営に必要なのは、良識でもなく常識でもなく、独善的なまでの行動力、すなわち突破力であろう。


小規模な独立系文芸投稿サイトにおいて、「バランス感覚のある運営」などが肝要であるはずがない。真にバランス感覚のある人間が、独立系文芸投稿サイトの運営などやるわけがないのだ。投稿者とて同様である。バランスという切り口で文芸投稿サイトを語ろうとすること自体が、すでにバランスを欠いている。必要なのは、笑いながら人を殺せるくらいのサイコパス味、言い換えるなら、表層的な理屈を捏ねくり回しつつ、躊躇なく一線を踏み越える突破力である。


さて、伝説のしこたま詩人の件、どうすべきでしょうか、と田伏さんにメールを送ったところ、「わかりました。あとはディスコードでお願いします」との返信があった。おそらく、よりリアルタイム性の高いチャットアプリで、どちらかが血反吐を吐き、救急車で搬送されるまで徹底的に議論したいということなのだろう。さすがオンライン文芸界隈でも随一のねちっこさを誇り、突破力に定評のある田伏正雄さんは一味違う。


田伏さんの誘導に従い、ディスコードにて「伝説のしこたま詩人」について、どう扱うべきでしょうか、と尋ねたところ、間髪入れず「殺しませんか?」という返答が返ってきた。殺す?ええと、それはアクセス禁止処分という意味でしょうか、と私が尋ねると、「そうではなくて、字義通りの意味で、まさかりや日本刀などの古典的な武具を用いて、真に殺しましょうかという意味です」とのことだった。


ここでまず大前提から語らなければならないですよね。田伏さんがそう語りはじめた瞬間、私ははっきりとした嫌な予感を覚えた。「伝説のしこたま詩人とは、私なんですよ。」田伏さんは、まるで天気の話でもするかのように打ち明けた。裏垢で投稿したんですよ、文学的に意義深く、面白いかなと思って。だが面白くないどころか、貴方はこれを「あってはならない荒らし行為」と断罪した。であれば、私は死ぬべきですよね。切腹しますよ、と。


私は一瞬、言葉を失った。運営の共同責任者が、裏垢で荒らし行為を行い、その処遇として切腹を自ら提案している。倫理的にも運営規約的にも、そして何より常識的にも、完全に破綻している。しかし、田伏さんは平然と続けた。「運営って、結局どこで線を引くかじゃないですか。今、貴方は線を引こうとしている。なら、その線を一番踏み越えている奴を、見せしめに殺すのが一番きれいです。それが私自身なのだから、自害しかありません。もちろん、介錯はしてくれますよね?」


私は慌てて、「もちろん比喩的な意味ですよね」と確認した。すると、「しこたま、違いますよ」と返ってきた。「アカウントを消すだけでは足りません。伝説のしこたま詩人を生み出した精神そのものが粛清されるべきです。つまり、私は物理的に死ぬべきだということなんです。しこたま、そう思いますよ」そのとき私は、はじめて理解した。田伏正雄さんは荒らし行為に興じているのではない。真剣に文芸投稿サイトの運営を試しているのだ、と。


私は画面を見つめながら、しばらく沈黙した。規約を読み直すべきか。共同運営を解消すべきか。あるいは、このやり取りをなかったことにして、静かにサイトを畳むべきか。だが、どれも違う気がした。「じゃあ、田伏さんはどう死ぬんですか」そう打ち返してしまった時点で、私はもう後戻りできなくなっていた。


田伏さんは即座に反応した。「公開処刑がいいですね。運営の名義で、きちんとした文章を書きましょう。なぜこの作品がダメなのか。なぜこの態度が許されないのか。そして投稿者に問いかけるのです。これは文学か、ゴミか、荒らしか、表現か。そして貴方の文章とともに、私は切腹するのです。あってはならないものを面白いと思って投稿した。そのような精神性の人間は万死に値するでしょう。これを残酷と思う必要はありません。そもそも人様の表現を否定するということは、そういうことなんです。」


私はその提案を、一面的には筋の通ったものだと受け止めてしまった。その夜、私は運営としての声明文を書き始めた。なぜ「絶対絶命」は掲載に値しない荒らし行為なのか。なぜ「焦ってます/アブラ汗/が/シタタール/から/コマール」は文学ではないのか。あるいは、なぜ文学であってはいけないのか。


書きながら、私は疑問に襲われ、紛れもなく焦りはじめていた。この声明文は何の文章なのか。私は何のために、何を否定しようとしているのか。私はアブラ汗を滴らせながら、文を書いては消し、消しては書きを繰り返していた。田伏さんは常識の通じる人間ではないが、独自のロジックに基づいて彼なりに真摯に生きている。彼が死ぬと言っている以上、本当に自害してもおかしくはない。この文章の帰結次第では、一人の人間が真に死ぬことになるのだ。


ふと気づくと、ディスコードに新しいメッセージが届いていた。「ちなみに、その声明文、伝説のしこたま詩人として反論してもいいですか?」私は無意識に笑ってしまっていた。「しこたま、いいですよ。」それは紛れも無い私の降伏宣言だった。その日から、私の運営する文芸投稿サイトは、完全に田伏さんに乗っ取られてしまった。その後、田伏さんが文芸投稿サイトにちなんだTABUSEコインなるミームコインを発行したらしいが、そんなことはどうでもいい。私はもう文芸投稿サイトを巡る気色の悪い生態系には、金輪際、しこたま関わりたくないのだ。

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ビリー?

ピーナッツクリームをパンにたっぷりと
飽くなき闘いに備えている
斜めに掛けた黒い鞄には 
蛍光灯が入っている

オペラグラスを首から下げ
遠くを見る時
美女と野獣を見逃さないようにする
アラスカの熊は登場しない

話は既に終わっていて
かけがえのないシーンが
パンの上のベージュの海だった

次のことを耳打ちするのは
バターを持った年配の執事
「さあ 行かれませ」と切符を切る
銀のバターナイフが手元で光っている
飽くなき闘いに終わりはない

ビリー?

うまくゆかないと弾かれてしまう
高原から来た赤い実で
嘘をつついて種としているジャム
塗り終わるまで
他愛のない
おしゃべりをしましょう

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しかし、眠い。



 そうして人類は永遠の眠りについた。理由は高齢化だ。
 そうして夢を見る事にした。
 そうして働く世界になった。

 ある国で、僕はそのワクワクドリームプログラムの研究開発プロジェクトの責任者として、日々仕事をしている。
 令和という暦に変わったその国でも、世界の潮流に則り、人間は眠りにつき、いくつもの夢を見るようになった。現在、夢は管理されており、人間は一日に三回ほど夢を見るように変わった。
 これは、多元宇宙論がミクロコスモス社会でも反映される事が発見された結果で、そこから生まれたミクロ・マルチバース・システムによって実現された。
 人間は今、三度の夢を見る時、そのそれぞれで異なる人生を歩むようになり、それぞれの人生で異なる仕事に従事するようになった。時間軸は当該システムにより、意味を持たなくなった。
 よって、ある意味において、たった一人の人間が、三人いる事と同義になった。
 たとえば昨日資産家で子煩悩だった壮年の善き父親が、別の夢、即ち人生においては、非正規雇用で激務薄給の若き青年であり、この二名が同時に世界に存在している事がある。
 三度の夢の残り一つは、肉体に宿ったオリジナルの人生となる。夢を見ている体の夢となるが、夢の中で夢を見る事はあまり無いため、大半の人類は、自分が眠っている事にも気がついていない。
 この現実を知っているのは、ワクワクドリームプログラムの関係者のみだ。
 無論、ワクワクドリームプログラムの関係者もまた、他に二つの夢を見て、二つの人生において、別の仕事をしている。
 だがこの時、他の人生の夢を見ている間は、オリジナルの夢を見ないため、僕のような研究者であっても、オリジナルの肉体の夢に戻るまでは、このシステムやプログラムの事は忘却している。
 ただし関係者だけは、オリジナルの肉体の夢を見た場合、現実の真実――人類が永遠の眠りについている事を思いだす。そして、研究者という夢の中、研究者という人生の中で、システムやプログラムの維持や開発研究を行う。つまり、研究者もまた一つの仕事であり、眠りについているのは変わらない。
「今日も残業か」
 コーヒーサーバーの前に立ち、白いプラスティックのカップに、僕は褐色の液体を注いだ。眠気覚ましの一杯だ。まだ眠るわけにはいかない。プロジェクトの責任者としての仕事が山積みなのだから。現在問題となっている課題は、確かに眠りについてはいるのだが、別の人生……他の夢の記憶を持つ人間が、時折出るという不具合だ。他の人生の記憶は夢が変わる度に消失するはずなのに、時々
『いつも同じ夢を見る』
『夢の中で違う人生を歩んでいる』
 として、記憶を保持している者がいる。
 逆に
『この世界は夢だ』
『現実は別にある』
 と考える者の報告もある。
 それらを
『気のせいだ』
 と思わせるための、システムの改修及びプログラムへの転用が、僕達の急務だ。
 実際、他国ではこの不具合は、発生していない場所もある。しかしながらシステムは世界に広まったものの、各国独自のプログラムの内容は機密事項が多く含まれているため、どのようにして不具合を解消するのかは、共有されていない。
「しかしな……子供が生まれなくなったからと言って、労働人口が減ったからと言って……一人に二人分の働きをさせるとはなぁ。オリジナルは基本的に多くの者は眠りに就いて目覚める事は無いし」
 ブツブツと僕は、常日頃感じている事を呟いた。
 しかしこの仕様で、今の世界は上手く廻っている。
「他の夢で、僕は何をして働いているんだろう」
 思案しながら、僕はカップを傾ける。そしてコーヒーを飲みこんだ。
 ちなみに夢の中で死亡すると、もう一方のオリジナルではない方の夢に、強制的に移動する。そして、『死んだ夢を見た』と感じる。
 その間に、ワクワクドリームプログラムが働いて、新しい夢が生み出される。結果として、眠りについた人類に、死は無くなった。このミクロ・マルチバース・システムは、通称・不老不死システムである。
 カップを持って、僕は自分のデスクへと戻った。そしてレトロなノートパソコンを起動する。その後パスワードを入力し、開発用のアプリケーションを開いた。
 しかし、眠い。気づくと僕はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。夢が始まる。


 ――奇怪な夢を見た。ワクワクドリームプログラムという夢だった。俺はなんだか嫌な気持ちで、鞄を持ち、会社へ向かっている。
「人生が三つあって、人間が不老不死になって、夢を見ているなんて、馬鹿げてるよな」
 アスファルトの上を歩きながら、思わずぼやいた。そんな事よりも、本日は客先に行かなければならない。営業の仕事は、慣れると楽ではあるが、元々の俺はコミュニケーションがそれほど得意ではない。
 だが、寡黙で押しが強くないというのは、営業向きであるらしく、俺は顧客に信頼される事が多いため、現在会社で一番の成績を誇っている。
 俺は地下鉄の駅の階段にさしかかったところで、本日の予定を脳裏に思い浮かべた。考え事をしていても、毎日通る駅構内で迷う事は無い。気づくと俺は、目的の電車に乗っていた。幸い席が空いていたので、静かに座る。スマートフォンを取り出して、本日必要な資料の確認を行った。
 そうしていたら、眠気がきた。昨夜も俺は、遅くまでインターネットで小説を読んでいたから、睡魔がすごい。俺の趣味は、Web小説と呼ばれる創作作品を閲覧する事である。
 しかし、眠い。気づくと俺はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。夢が始まる。


 ――また、『俺』の夢を見た。
 夢の中で私は、いつも、ワクワクドリームプログラムの夢を見たと感じているサラリーマンの男性になる。
 まるで別の人生を歩んでいるかのように、眠ると私は、『俺』になる。
 あちらの人生で、私は独身男性として生きている。『俺』の年齢は、二十七歳だ。
 しかし現実の私は、齢九十二歳で、管に繋がれている。病院のベッドの上で、ただ死を待つばかりだ。告知された余命は、三ヶ月。だがそれを越えて、まだ私は生きている。しわしわのおばあちゃんである私が、健康なサラリーマンの男性の夢を見るというのも、なんだか不思議だ。
 その時、胸がギュッと痛み、息が苦しくなった。ああ、今度こそ、私に死期が訪れたのだろう。意識が暗転し、私の体からは力が抜け始める。何度も味わった感覚だ。
 しかし、眠い。気づくと私はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。きっと、目が覚める事は無いだろう。永遠の眠りの到来だ。


「うわっ」
 老婆になって死ぬ夢を見た俺は、飛び起きた。
 そして電車の中だというのに、大きな声を出してしまった。
 視線が俺へと集まっている。恥ずかしくなって、俺は俯いた。
 ここのところは、おかしな夢ばかり見る。
 ワクワクドリームプログラムに、老婆に。
 老婆になる夢は、年に一回くらいは見ている。夢占いをした事もあるが、老婆は知識の象徴らしい。
 俺は何かを求めているのだろうか?
 新しい営業先の知識だろうか?
 成績はNo.1であるが、俺は実は仕事がさほど好きではないので、あまり自発的に資料を求める事はしないし、営業事務に任せっきりなんだけどな……。
 こうして俺は会社へと向かい、ビルのエントランスホールを抜けて、オフィスがある階に顔を出した。そして自分のデスクに座り、レトロなノートパソコンを起動する。
 しかし、眠い。気づくと俺はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。夢が始まる。


 ガクリと体が傾いた瞬間、ハッとして僕は目を覚ました。
 なんだか夢を見ていたような気もするが、思い出せない。
 それはそうだ、別の人生の記憶は、基本的に持ちえないのだから。
 もし覚えていたら、それは不具合となる。
 今、ワクワクドリームプログラムの研究班の中で最多の意見は、『不具合を起こしている夢の消去』である。つまり夢を覚えている場合、その人生で殺してしまって、別の新しい夢を与えるというものだ。
 そのサンプルとして、無作為に選ばれた不具合を持つと判明している人間の夢を、開発班ではいくつか消去している。僕は責任者として、そのリストを確認した。
 個人情報は、自動的に収拾される。現在一番上には、九十二歳の老人女性という夢の消去の記録がある。その夢において、彼女の人生は幕を閉じた。
 今、ワクワクドリームプログラムが、次の夢を生成中だ。老人女性のプロフィールを、僕は開いた。
 そしてもう一つの夢を確認する。
 なんでもそちらでは、営業をしている二十七歳の青年らしい。こちらの人生でも夢を覚えているという不具合があるらしく、もうじき消去が決まっている。
 新しい夢が生まれ次第、開発班はある意味において、青年の命を奪う事になる。だが、オリジナルがまだ存在するはずだし、仮にそちらの夢についてまで覚えていても、夢が一つも無い状態はシステム上ありえないので、人間に死は訪れない。
「でも二つの夢のそれぞれで不具合を起こしていたのか。オリジナルはどんな人生を歩んでいるんだろうな」
 オリジナルの夢だけは、手続きをしなければ閲覧できない決まりがある。そこまでして、このサンプルについて深く知りたいわけでは無かったので、僕は次の人物の情報を閲覧する事にした。
 そのまま夕暮れまで確認作業を行い、僕は大きく欠伸をした。
 しかし、眠い。気づくと僕はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。夢が始まる。


 そう自覚した僕は、必死で目を開けた。まずい、今は寝るわけにはいかない。現在僕は、確認作業を終えたので、改めてサンプルの一覧をアプリケーションで表示させている。そこには、『全ての夢を消去する』というボタンがある。
 うっかりそれを選択して、Enterキーを押してしまえば、僕はある意味において、大量虐殺者となる。何人もの人生を終わらせるというのは、そういう事だ。不具合があるとしても、毎日少数ずつ夢は消すべきだ。
 同時に二つの夢を消したら、それらのサンプルには働かずただ眠って夢を見るオリジナルの状態が訪れる。少子高齢化により、大半は老人だ。老人の一生は、先が短い。よって二つの夢を消したら、三つ目の夢もすぐに自動的に終わる可能性が非常に高い。
 無論、オリジナルの夢にいる間に、他の二つの人生が新しく創造されるので、人類に死は無いが、三度も連続で、夢の中で死ぬのも気分が悪いだろう。
 慌てて僕はアプリケーションを終了させた。そして、ノートパソコンのテキストエディタを開いた。本日の日誌をつける必要があるからだ。日誌を開くと、三つの人生について、副主任が記載した報告書があった。

 サンプルA:1:老婆:そうして人類は永遠の眠りについた。理由は高齢化だ。
 サンプルA:2:サラリーマン:そうして夢を見る事にした。
 サンプルA:3:研究者:そうして働く世界になった。
                                   』
 そう記されていた。研究者……? 僕は腕を組んで、首を傾げる。
 サンプルAが三つの夢を見ているというのは、これもまた不具合である。オリジナルの夢の記憶は本来持ちえないので、他のサンプルは皆、『1』と『2』しかない。『3』は存在しないはずだ。僕は気になって、このサンプルのオリジナル情報を閲覧する事に決めた。
 立ち上がって、遠隔からミクロ・マルチバース・システムにアクセス可能なパスワードの入る鍵を、金庫から取り出す。それから、巨大なモニターの前に立ち、鍵の表面に表示されているパスワードを、コンソールに打ち込んだ。パスワードは十分おきに変化する。
 モニターに、サンプルAの情報が表示された。映るのは、基本的に、オリジナルの顔面映像である。僕はそれを見て蒼褪めた。既視感がある。何度か瞬きをして確認したが、間違いない。僕は、チラリと窓を見る。そこには僕が映っている。続いて、改めてモニターを見れば、そこにも僕が映っていた。
 僕は、研究者だと、自負している。
 しかし、僕の顔をしているサンプルAの不具合らしき『3』と記録されている夢の内容もまた、研究者である。ならば、今僕が立っているここは、夢の中であり、いいや、それは分かっている、ここは僕のオリジナルの夢の中であるはずで、だから僕はワクワクドリームプログラムの仕事をしていて……だが、この記録はなんだ? この研究者の夢がオリジナルの人生だと僕は考えているが、違うというのか?
 焦燥感に駆られた僕は、コンソールを操作して、モニターの中の『僕』の個人情報を閲覧する事にした。指先にまで、震えが走った。

 ――ミクロ・マルチバース理論の提唱者にして、システムの開発者。唯一、管理者権限で、ミクロ・マルチバース・システムをマクロ・マルチバース・システム化する事により、人類を宇宙に返す事が可能であり、それは即ち、全人類の人生、夢を消去可能な権限を持つという事である。彼は不老不死を解除できる唯一の人間である。

「……」
 それを見て、僕は再び瞬きをした。ゆっくりと、二度。
 そうして僕は、全ての人生を思い出した。老婆である僕は死に、サラリーマンである僕も近々死ぬ。不具合だからだ。そしてそれを知る僕は、システムの権限を持つがゆえに、特別に第三の夢を見る事を、自分で自分に許した研究者である。僕のオリジナルも研究者であるが、今それを思い出している僕もまた、オリジナルではないという事だ。
 つまり、僕もまた消去される定めにある。
 他のサンプルの夢を削除するのとは、わけが違う。僕にとって、僕の消去は、紛れもなく死だ。僕が死ぬくらいならば、全人類も同じ目に会えばいい。僕は、死にたくない。だが、死ぬ事になるのだ。いくらオリジナルが生きているとはいっても、僕は、僕だ。
 死ねば、僕の認識する世界は無くなる。それは世界の滅亡に等しい。宇宙の消失とも換言できる。ならば、道連れにしてしまおう。
 僕は迷わず、『オリジナル』として、コンソールを操作し、全ての夢を消去するプログラムを起動させた。あとは、完了ボタンを押せば、全人類の夢は消去され、全ての人生が終わる。僕は迷わず、それを押した。
 こうして働かない世界になった。
 こうして夢を見ない事にした。しかし、眠い。気づくと僕はうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。だがもう、夢は始まらないのだ。だけど、おかしいな? 全人類の人生を消去したのに、僕は何故、まだ研究室のモニターの前に立っているのだろう。僕もまた、理論的には消えるはずではないか。首を傾げつつ、僕は腕を組む。
「ああ、そうか」
 僕は思い出した。ミクロ・マルチバース・システムをマクロ・マルチバース・システム化したから、人間は宇宙となって溶けたのだが、宇宙とは、観測者がいなければ存在しないので、そのために僕は残ってしまったのだ。そして宇宙の観測者である僕は、人間原理そのものであり、この研究室は、概念となった僕が自分を視認するために構築した、ただの幻想の空間である。もう、僕は人間ではなくなったのだ。僕は、人類ではなく、宇宙を観測する概念となったのである。つまり、僕以外には、死がきちんと訪れたわけだ。しかし、眠い。人間ではなくなった僕は、気づくとうとうとしていて、瞼の裏の黒を見ていた。ああ、眠る。夢が始まる。僕以外は、もういないのに。

 そうして人類は永遠の眠りについた。



 


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魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅵ‐2


 ミシェル達四人が、館長アルノーの案内に従って図書館内へ。
 アルノーが出入り口のドアが開くと、中に満ちていた空気が彼らを迎えた。紙の本や、木々が纏う、植物特有の匂いを帯びた独特な空気。そんな中へと入っていく。

「こちらへどうぞ」

 アルノーの案内に従い、ミシェル達は図書館内に設けられた読書室へと向かって行く。
 そのまま歩き、それを示す表札の下がった部屋へと入った。外から差し込んでくる光によって満たされた、とても明るい空間が五人の前に姿を現した。見回すと、天井や壁際には、魔法を応用した照明器具が設置してあったが、日が出ている内ならば必要ないくらいには明るい。
 机や椅子も十分以上に設置されており、まるで自然に包まれているような香りが満ちていることと相まって、ゆったりと本を読むのに適している事が分かる。

「ここが読書室です。貸出の出来ない本は、基本的にはここで利用してもらっています。私自慢の場所でもあります」

 アルノーが、少しだけ自慢げな空気を漂わせる。よほどの自信があるのだろう。
 しかし、彼はすぐにそれを引っ込めて、軽く肩をすくめて見せた。

「まあ、それはそれとして。置時計はあそこに」

 そう言って、ひと際大きな柱を示すと、彼はミシェル達の方を振り返る。

「あの柱の向こう側に、設置してあります。後は、お願いしても良いでしょうか? 私は、図書館の広報用掲示板への注意喚起の掲載と、職員たちへの指示をしなけれななりませんので」
「分かりました。ルダンさん、行きましょう」
「ええ」

 アルノーから後を託されたミシェル達は、部屋から出ていくアルノーとすれ違うようにして、置時計のある所へと近付いていく。
 その時だ。

「……?」

 唐突にミシェルは足を止めて、周辺をグルリと見回し始める。 

「ミシェル殿? どうかしましたか?」

 突然に足を止めた彼に、怪訝そうな表情で問いかけるルダン。
 すると。

「ルダンさん、この部屋の空気、前もこんな感じでしたか?」

 そうミシェルが問いかける。

「え? 空気、ですか?」
「はい。前にここを訪れた際にも、こんな、“森の中に居る時のような”木々の匂いが漂っていましたか?」
「……」

 問いかけられて、ルダンと弟子たちは鼻を動かし、匂いに集中し始めた。そして、ほぼ同時に首をかしげる。

「いや、確かに建材の香りはしていたが、ここまでの匂いではなかったはず……。どうだ? お前たち」
「はい、師匠。当時はこんな匂いではなかった、と思います」
「そうだよな? ミシェル殿、これはもしや?」
「はい。お察しの通りです。これは、地属性精霊の一種である、『樹霊ドライアーダ』の力が強く影響しているせいだと思います」
「植物の守り神とも言われている精霊ですな。それにしても何故ここに?」
「……一応の推論はありますが、今は、作業を優先しましょうか。恐らく、魔法(※マギア)を扱えない人々では、この異変には気がつけないでしょうから」

 そうしてミシェル達は、木々の匂いが不自然に強くなる中を置時計の前へと向かい、本体と対峙した。
 そして彼は、その異様さが、別に部屋の空気だけではないことに気が付く。

(時計の針が、少しずつ逆回転している? どうして?)

 なんと、匂いの大本である置時計の針が、ぎこちなく、反時計回りに回っていたのである。それはまるで、時計そのものを巻き戻すことで時を遡りたいという、そのような意思を体現しているかのようだった。

「……」

 その異様さを見据えつつも、ミシェルは、持ち込んだ鞄の中から工具類を収めた箱を取り出して床に置いた。金属質な音が微かに響く。

「始めましょう。ルダンさん、分解作業の補助をお願いします。きっと中で、同属固着現象からの助けを待っているでしょうから」

 そうして、表情を引き締めたミシェルは、箱から必要な工具類と防護マスクを取り出すと、近くの椅子を寄せて足場にして、時計部分の分解作業を始めた。

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海の唄


 世界は突然に色を亡くす。悠然と手を広げていた未来が、目にも留まらぬ速さで過去に追い越され、散り散りになってしまう。棺の中で眠る母の顔は、死化粧がよく映える薄い顔をしていた。その死相を思い出し、機内の窓から雲海を眺めため息を吐く。涙はもう出ないけれど、現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。

 長いフライトを終え入国審査をパスし、少ない手荷物を受け取り到着ロビーに足を踏み出す。最後にここを訪れた時の記憶通り、小さな空港だ。
「コウ」
 不意に名を呼ばれ、低い天井に伸びていた視線を落とす。どこか懐かしい顔が、歪な顔付きで立っていた。
「久しぶり、父さん」
 そう声を掛けると、大きな瞳からは涙が溢れた。慌ててそれを拭う父を見て、コウはそっと視線を逸らす。人の涙は嫌いだ。決して溶け合う事のない心が、その瞬間だけは触れてしまう気がして。

 父に連れられロビーを抜け、外に出た途端熱風がふわりと頬を撫でた。まるで子供の落書きのように能天気な青空は、真っ白な入道雲を抱いてコウを見下ろしている。
「覚えているか。ここは変わらないだろう」
 ぎこちなく笑む父の顔は、記憶よりも随分と黒くなった。潮に当てられ皮膚は爛れ、彼が言葉を探すたび皺が緩やかに躍動している。
「覚えているよ」
 コウはそう言って、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。

 母が死んだ。突然だった。三ヶ月に及ぶ話し合いの末に、コウは七年前に別れた父に引き取られることになった。八歳まで過ごしたこの地は、日本から遠く離れた国。四方を海に囲まれている所だけは同じだが、それだけだ。だが、この国には透き通る美しい海があった。数えきれぬ海洋生物がその美しい海で暮らしていた。

 荷物を置いて早々に、コウは父の家を出た。舗装されていない黄色い道路の端を歩きながら左に視線を流すと、白い砂浜に波が優しく打ち寄せていた。真っ青な空の色を写した青い波が、時折白く濁っては去ってゆく。
 ココナッツを大量に積んだ小さなトラックが時折通る道路を十分歩くと、他とは少し違う一軒の家が見えてきた。家の前の桟橋には、ボートが止まっている。
 コウは一度ボートを覗き、誰もいない事を確認してから家の扉を叩いた。中から顔を出したのは、縮れた赤毛の女。エメラルドグリーンの瞳が、コウを写し揺れる。
「コウ、帰ってきたのね」
「久しぶり、マリア」
 そう言ってマリアは躊躇なくコウを抱き締めた。まだ成長しきらぬコウをすっぽりと抱き竦めたその腕は、すぐに解かれ荒れた手が肩に添えられる。
「少し痩せたわ」
 七年ぶりの再会なのに、とコウは少し笑った。それに安堵したのか、マリアもまた微笑むと扉の中へとコウを導いた。
「みんなに顔を見せてあげて。あなたに会いたがっていたから」

 日本から遠く離れたこの地に来る事を決めた理由は、父だけではない。海洋生物、主にクジラの研究をしているこの施設は、かつてコウが毎日のように通っていた場所だ。クジラの声を初めて聞いたのもこの研究所だった。海を愛おしく思うようになったのも、ここだった。

 一頻り少ない研究員との再会を終え、コウは残りの一人を探して狭い研究所を見渡した。
「ロブはどこ」
「お散歩しているわ。そのうち帰ってくると思う」
 ロブはこの研究所の所長であり、イギリスから来た老人だ。サンタクロースのような風体が、この南国にあまりにも不釣り合いだった。とても優しく、そしてコウに海を教えてくれたひとである。
「あ、ほら」
 そう言ってマリアが窓の外を指さす。コウははやる気持ちを抑えきれず開け放たれた窓から身を乗り出した。変わらぬ白髪に、立派な白い髭。だが、ロブの隣には見慣れぬ少年の姿があった。
「あれロブの孫?」
「そう、ローア」
 ロブに孫がいたなど聞いた事がないが、当時はまだ幼すぎてそもそもそんな事に気がいかなかった。未知の世界が燦然と光り輝いていただけだ。
「へえ、あまり似ていないな」
「海が大好きな所以外はね」
 マリアの言葉に適当な相槌を打つと、コウは弾かれるように飛び出した。

 砂浜に杖をついて歩いていたロブは、研究所から突然飛び出した少年の姿に一度大きな瞬きをすると、足を止めて長い腕を広げた。導かれるようにコウがその胸に飛び込むと、痩せた腕がしっかりとその身体を受け止めてくれた。
「コウ、帰ってきたのか」
 ああ、ロブの声だ。その低く枯れた声が与えてくれた輝かしい知識を胸の内に蘇らせる。また彼にこの広い海を教えてもらえる事は、今のコウにとって何よりの喜びだった。
「またあえて嬉しい」
「私もだよ、大きくなった」
 抱擁を終えると、ロブは一歩後ろで佇む少年の肩を抱き、コウに向かい微笑んだ。
「コウ、ローアだ。君より少し年下だが、仲良くしてくれると嬉しい」
 そう促されコウは少年をまじまじと見詰めた。泳いだのだろうか、肩まで落ちる透けるような金色の髪は濡れている。大きな瞳は何処を見るともなしに彷徨っていて、度々長い睫毛に隠される。随分と痩せているようだ。
「ローア、僕は長谷川光。コウって呼んで」
 そう言って手を差し出すと、ローアはコウの白い指先からゆっくりと視線を這わせた。腕を辿り、肩で惑ってようやく視線がぶつかった瞬間、コウは思わず感嘆した。
「綺麗な瞳の色だね。まるで海みたいだ」
 薄い瞼のしたの大きな瞳は、文字通りいま目の前に広がる海の色とよく似ていた。吸い込まれてしまいそうな感覚も、海とよく似ている。
 コウがその瞳の色に見惚れていると、不意にローアは海を振り返りあまりにも突然走り出した。
「え、ローア!」
 コウがそう叫んだ時には、既に彼は青い波の隙間に消えていた。
「どうしたの」
 驚いてロブに問い掛ける。白んだ瞳は、海の遥を写していた。
「海が好きなんだ。一日中泳いでいるよ。コウも久しぶりに泳いではどうだ。ローアとの海中散歩はきっと刺激的だよ」
「でも、今は水着じゃないから」
「昔は裸で飛び込んでいたじゃないか」
 確かにそうだ。だがまだ、海に抱かれる気分ではなかった。
「また明日にする。明日も来ていい」
 ロブが優しく頷いてくれた時だった。研究所の扉が開き、荷物を抱えたマリアが飛び出した。
「ボス、クジラ達が……!」
「今行く」
 研究員たちは慌てた様子で次々とボートに乗り込んでゆく。
「コウ、また明日おいで」
 ロブはそう言って桟橋に足を掛けるマリアに向かい厳しい表情で声を掛ける。
「ローアが海に入っているんだ、航路にいないか確認してくれ」
 二人が慌ただしく会話をしながら桟橋を渡りボートに乗り込む背中を見送り、ふとコウは凪いだ海に視線を流した。丁度息継ぎに出たのか、小さな金色の頭がボートのすぐ脇に浮かぶ。気付いたマリアが声を掛け梯子を下ろすと、ローアは素直に梯子を上がりボートに乗り込んだ。
 かつては、コウがあそこにいた。調査に出る船に乗り込んで、デッキから初めてクジラの群れを見せてもらった。変わっていないと思っていたこの場所もまた、時の流れが残酷に押し流している。

 知れず肩を落として家へ戻ると、コウを空港まで迎えてくれた父はすでに仕事へ出た後だった。近年急速に発展している観光業に転職していた事は定期的に届くメールで知ってはいたが、それもまたコウの胸を圧した。コウの父は元々市場で働いていた。コウが小さい頃は、よく母と手を繋いで市場に父を迎えに行っていた。あの市場の賑わいの中を父を探し歩く時間がコウは好きだった。
 深い吐息を吐きながらかつて暮らした懐かしい我が家を眺めてみる。微かな面影はあるが、やはり時の流れが無情にも大切な記憶を消し去ってゆく。
 母が突然死んでから、まるでコウは胸が押し潰されるような不快な痛みを感じていた。二度とは戻らない、全て。未来を見詰めて歩く勇気が、今はなかった。

 日没まではまだ長い。コウは思い立って家を出た。研究所のある西海岸の反対側、東海岸までは、サンクチュアリとして観光客の立ち入りを禁止している島民の居住区から歩いて三十分ほど。空港から家までの車中あまり外を見ていなかったが、東海岸に向かうにつれて辺りの様子は様変わりしていった。あからさまな土産物屋には多国語の看板が客を出迎えており、飲食店が随分と増えた。通りには他国からやってきた人々が人波を作っている。軒先をぼんやりと歩くコウに、中国語で声を掛けてくる店主。自慢の工芸品を手に近付く老婆。七年前は見る事のなかった顔付きに、目頭が熱くなる。

 観光客向けの大通りをずっと行くとホテルに辿り着いた。今では行事以外では誰も着ていない民族衣装に身を包んだ父が炎天下の車止めに佇んでいる。焼けた顔は、直ぐにコウを見付けてくしゃりと破顔した。
「コウ、どうした。博士たちには会えたのか」
 ちいさく頷くコウの髪を、父の荒れた手が優しく撫でる。
「帰ったらたくさん話をしようね。お父さんはまだお仕事だから、気を付けてお帰り」
 余計な優しさが滲み出す、まるで幼児への言葉。コウはまた頷くと、来た道を素直に引き返す。気を抜けば、止め処ない涙が溢れてしまいそうだった。

 この島が観光に力を入れ始めたのは、数年前のことだそうだ。四方を囲む美しい海は長い時を経て形造られたラグーンがある。あまい空色のラグーンと、コバルトブルーの外海。豊かな珊瑚の森に、豊富なプランクトンを求め外海からも生物が訪れる。そうして生き物たちが鮮やかで豊かな生態系を築いているのだ。またシロナガスクジラがこの海の沖を長年繁殖地として使っている。それ故に、この国にはそう言った人の手の入っていない自然や、美しいバリアリーフ、クジラやイルカを見に多くの観光客が訪れる。その数は年々増え、海洋汚染も問題になっているとは、日本にいる時に故郷の事が気になって調べていた。
 かつては地元民だけが細々と暮らしていた島。決して裕福ではなかったけれど、夜は深く、波が歌う音がそっと寄り添っていた。まだこの国に帰ってきてたった一日も経っていないのに、コウの胸には早くも重い喪失感だけが低い唸り声を上げていた。

 帰国した次の日も、コウは仕事に出る父を見送るとすぐに研究所へ向かった。その日は桟橋に双眼鏡を手にしたマリアの姿があった。
「おはよう、何をしているの」
 沖を見つめる背中に声を掛けると、赤毛を翻しマリアは驚いたように振り返った。
「おはよう、コウ」
 優しい笑みに促され、コウもまた微笑んで見せる。しかし再び沖へと視線を馳せ、マリアは深いため息を吐いた。
「最近、クジラたちが外海からラグーンへ来る事があるの。シロナガスクジラは繁殖期以外基本的に群れで行動しないはずなのだけど……。まだ繁殖期には早いし、そもそも何故繁殖期の前にここに来るのか分からないの」
「ラグーンに来たら、大変だよね」
「そう、だから最近よく打ち上げられるのよ。まだ餌場の移動にも早いし、それに、あの歌────」
 そこで言葉を途切れさせたマリアの横顔は、ひどく悲しみを帯びているように見え、なんと声をかけていいかわからなかった。
 不意にマリアは黙り込むコウを振り返る。
「海に入らないの」
 再びなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いて見せる。マリアの萎びた手が、そっとコウの肩を抱いた。
「我慢しなくていいのよ、ここでは」
「我慢なんて、していないよ」
 否定しながらもまた胸が圧される。
 日本に住む母方の祖父母には、母の死後父の元へ行く決意を告げた時に、猛反対にあった。元々母と外国人である父の結婚には反対だったとも聞かされた。コウは父も、母も、同じくらいに愛していたし、父を悪く思った事はなかった。母の死に追い討ちをかけ、それがとても辛かった。だからこそ父の助力も得て祖父母の反対を押し切りこの国に来たのだ。元々この国で生まれたのだから言語も国籍も壁はなかった。けれど、街を歩いてみて知った。この国の人にとって自分がよそ者である事。それでもここに来た事を後悔はしていない。ただ、息が苦しい。

 不意にとんとん、と木板のデッキを軽やかに踏む音が後方から近付き、コウは思考の海から顔を上げた。振り向くと、ローアがデッキを駆けてくる。まだぼんやりとした頭で、コウはただその姿を追う。
「あっ」
 思わず声が漏れた。二人が佇む桟橋の突端まで辿り着くや、なんの躊躇もなく、美しい放物線を描き吸い込まれるようにその姿は海へと消えた。ラグーンの空色の中を肩口まで伸びた細い金色の髪が踊るように遠のいてゆく。コウも泳ぎには自信があったが、彼はその比ではない。フィンも履いていないのに、瞬く間に珊瑚の森の中へと消えてしまった。
「ローアは不思議な子なの」
 その姿が消えた先を見詰め、マリアがぽつりと呟く。
「彼はクジラを呼ぶのよ」
「クジラを」
 思わず聞き返す。人が餌付けしていない野生のクジラを呼ぶなんて聞いたこともない。
「そう、ローアが海に入ると、クジラが歌い出すの。長く研究しているけれど、聞いた事もない歌。まるで、彼を呼んでいるみたい────」
 熱い風が頰を打つ。マリアの言葉の意味を探そうとすればする程、真意が遠のいてゆく気がする。
「冗談よ。偶然だわ」
 マリアはそう言って笑った。コウは愛想笑いで答えながら、瞳は海面を彷徨う。
 彼が海に入ってから既に何分が経っただろう。一向に浮いてこない。シュノーケルもしていなかったし、何処か見えないところで息継ぎをしたのだろうか。だが、コウは広く海を見張っていたはずだ。

 二人が黙り込んだまま海を眺めていると、桟橋の近くに泡が浮いた。次いで小さな頭が海面に姿を現す。漸く見付けたローアは、息一つ上がっていない。そのまま桟橋の端にかけられた古い梯子を小さな身体が軽やかに上がってくる。コウは驚きに目を瞬かせながら、微かな喜びを胸に感じた。
「泳ぎが上手なんだね。イルカみたいだった。何分息を止めていられるの」
 思わず問い掛ける。しかしローアはその幼さからは掛け離れた、まるで情事の後のような気怠げな様子で濡れた髪をかきあげ、ちらとコウに視線を流した。薄いまぶたに半分覆われた瞳は、ラグーンのあまい色ではなく、外海のような鮮やかで冷えた美しいコバルトブルー。その中に水泡に似た煌めきが沈んでいて、やはり呑まれる程に美しい。けれどコウで一瞬留まった瞳はすぐに桟橋へと落ちた。そのままローアは口を開くことなく、とんとん、と木板を鳴らして去ってしまった。
 痩せた背中を見送り、コウは沖を見詰めるマリアを仰ぐ。
「彼は口が聞けないの」
「そうみたい。よく分からないけれど」
 そう言ってふと、マリアはローアの背中を振り返った。
「ここに連れてきたのも療養なのじゃないかしら」
 海は、自然は、時に人の心を癒してくれる。優しく包み込み、傷口をそっと舐めてくれる。それはコウもよく知っている。あのイルカのような不思議な少年もまた、深い心の傷を抱えているのかと思うと、コウはますますあの瞳に宿る海に引き寄せられてゆく気がした。

 マリアが研究所に戻ってから、コウは砂浜に座り込んで海を見詰めていた。穏やかに寄せては返す波は、いつまで見ていても見飽きない。このまま、この身体ごと海に溶け出してしまいたい。そう思っても、叶わない。マリアが気を遣ってマスクを手渡してくれたことだし、海に入ってみようか。だがやはり、その気になれない。
 考えてはやめ、また考える。それを繰り返しているうち、ふとコウは人の気配を感じ振り返る。白い砂浜を、ローアがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。まだ濡れた髪は潮風に煽られ、微かに揺れている。
「ローア」
 思わず声を掛けると、ローアはコウで視線を止めた。
「また海へ行くの」
 その問いに返事はない。けれど、彼は真っ直ぐにコウを見詰めている。何を伝えたいのか、その瞳の奥底を覗き込んではみたが、彼の瞳はやはり海と同じ。何も教えてはくれず、何も与えてはくれない。けれど、涙が溢れそうになる。

 ふ、と視線を逸らし、ローアは海に向かい歩き出した。また泳ぎに行くのだろうか。そう感じ、コウは反射的に立ち上がっていた。
「まって」
 咄嗟に声を掛ける。ローアはちらと横目でコウを見やり、すぐさま波に足を浸した。慌てて追い掛けながら、コウの胸にちらちらと熱が燃える。腰まで浸かる所までゆくと、ローアは徐に海の中へと消えた。真似るように飛び込み、コウは思わず軽く海水を呑んだ。海は慣れたものだと思っていたのに、ローアを見失わまいと逸る気持ちが冷静さを奪ってゆく。それと共に、世界の騒めきが一瞬にして消え、自分の身体の奥底の音だけが深いところから響いてくる感覚を思い出す。漸く海に抱かれたのかと思うと、胸に燃えた柔らかな焔がより赤々と揺らぐ。
 呑み込んだ海水を吐きに一度海面に顔を出し、深い息継ぎをして、今度は心を鎮め再びコウは頭から海に潜り夢中でローアを追いかけた。やはり速いが、見失う程ではない。それとも、コウに合わせてくれているのだろうか。
 珊瑚の死骸が堆積した真っ白な砂地は、深度が深くなるにつれて姿を変える。沢山の生き物を抱く珊瑚たちが白い砂地との境界線を鮮やかに描く。コウが強く水を蹴るたびに色彩豊かな魚の群れが突然現れた人間を前に散ってゆく。広大なイソギンチャク畑にはクマノミたちが、ハードコーラルにはちいさなスズメダイの仲間や目を凝らさなければ見えない甲殻類が、かつてコウが見たまま、そこで生きていた。限りなく青く澄んだ世界に強い陽光が差込み、波の揺らぎにゆらゆらと煌きを放ち、懐かしさに思わず鼻先が苦くなる。こんなにも変わり果てた世界で、海は何も変わっていない。あの頃のまま、コウを優しく包み込んでくれる。
 感傷に浸るコウの先、ローアは輝く珊瑚の森をしなやかに下肢をしならせ泳いでゆく。右へ、左へ、目的もなく、時折くるりと回って見せて、まるでローアの周りを泳ぐ魚たちと遊ぶように。その姿は若いイルカと同じ、美しく輝いている。だが、幾ら泳ぎが上手いとはいえ、これ程までに自由に泳げるものなのだろうか。それどころか既に数度息継ぎをしたコウと違い、一度も海面に顔を出していない。何より、彼はコウと違いマスクをしていないのだ。それなのに、まるで陸上と同じように感じる程自在に珊瑚の森を抜けてゆく。一体、彼は何者なのだろう────。
 そう思った時だった。ラグーンの遥か向こう。外海から、突然轟いたもの。それは幼い頃ロブに聞かせてもらったクジラの声だった。低く伸びてくるその音は鼓膜を震わせ、その震えは全身へと拡がってゆく。地の底からゆっくりと忍び寄るような、深淵の唄声。コウは思わず泳ぐのをやめた。これは一頭のものではない。マリアは冗談だと言ったけれど、あながちそうでもないような気さえしてくる。ふと気付けばローアもまたそこにたたずみ、クジラの声に聴き入っているようだ。水の中でも喋れたら良かった。コウは強くそう思うほど、知りたくてたまらなかった。クジラは何を言っているのか。ローアは、今何を思っているのか。

 無意識に手を伸ばそうとした所で、コウは息苦しさを覚えた。人間は水中で呼吸する事ができない。そんな事すら忘れる時間は、ほんの一瞬だったに違いない。けれど、まるで悠久の時の中を泳いだような気がした。
 空気を求め海面へと向かうコウを、不意にローアは振り返った。深い海の色をした瞳は、真っ直ぐにコウを見詰める。深度を深く取りマイナス浮力が働いた瞬間の、あの感覚。深い深い海の底へと音もなく堕ちてゆく、説明のできないあの快感。

 本能が叫ぶ。誘われている。命の、その先へ────。

 勢いよく海面に顔を出し、コウは必死で澄んだ空気を吸った。流れ落ちた潮水が口に入り、余計に息苦しさを覚える。本能的な荒い呼吸を繰り返しながら、コウの瞳から涙があとからあとから零れ落ちてくる。その理由に、気付かないフリをした。

 苦い海中散歩を終え、コウは海から上がり砂浜に足を落とした。ローアはまだ、クジラの唄を聴いているのだろうか。
 ふと上げた視線の先、ロブがこちらを見詰めている。
「泳いでいたのか」
 どこか気恥ずかしくなって、コウは俯いたまま不器用に笑って見せる。
「たくさんのクジラが歌っていたよ」
「ローアは」
「分からない。まだ海の中だと思う」
 白んだ瞳がゆっくりと沖へ向かう。コウもまたその先を追いかけ、海中の記憶を思い起こす。
「ローアはイルカみたいだ。凄く綺麗だった」
 ロブは満足そうに頷き、濡れた肩を優しく抱いた。
「明日、久しぶりに外海に出てみるかい」
 その問いに、コウは嬉しくなって元気よく頷いた。
 外海は鮮やかなラグーンとはまるで違う。ラグーンの端の珊瑚からは急激に深くなる。その先は更にドロップオフになっていて、その深さは500mにもなる。そしてその傾斜は2000mの深海に繋がっている。勿論実物を見た事はないが、ロブは人間が到達できない深海についても詳しくコウに教えてくれた。人の目では感知することの出来ない、暗黒の海。恐怖と共に当時コウの胸に芽生えたものは、はげしい焦燥だった。知りたい、見てみたい、人間には許されない、その世界を。海の生き物として生まれなかった事を初めて恨んだのも、その時が初めてだった。

 明日船に乗る約束をして、コウは家へと帰った。今日は様々な事があった。何かが変わる気がして避けていた海に遂に身を委ねた事、変わらぬ美しい生命の煌めき、そして────拒絶されるコウと違い、溶け合うことを許されたあの少年。
 ローアのしなやかな動きを思い出していると、不意に建て付けの悪い扉が軋んだ音をたてて開き、コウは反射的に立ち上がり扉の方へ素早く顔を向けた。仕事から帰宅した父は、コウの姿を見付けるととても嬉しそうに頬を緩める。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 抱き寄せられた身体は、痩せた胸にぶつかった。人の体温は思うよりも熱い事を思い出し、コウもまた父の背に腕を回す。
「髪から海の匂いがする」
「今日はラグーンで泳いだんだ。クジラの歌を聴いたよ」
 父は身体を離すとコウを先程まで座っていた椅子に座らせ、自らもその横に腰を下ろした。握られた手は、やはり熱い。父は昔からいつもコウの話しを全身で聞こうとしてくれる。陽に焼けた頬を弛ませて、この島の人と同じ、大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見詰めて。父は優しい人だった。優しすぎたのだと、生前母はよく言っていたが、コウにはまだその真意がよく分からなかった。けれど、そんな父がコウは好きだった。
「ロブの孫が来ているんだよ。イルカみたいに泳ぐんだ」
 海の中の変わらない美しさや、全身に響いたクジラの声、そしてローアの事にまで話しが及ぶと、父はふと表情を曇らせた。
「ウィリアムズ博士に孫……」
 どうしたの、と問うコウの手を離し、父は携帯を触り出す。しばらくすると、やはりそうだと一人納得し、コウに向き直る。
「彼に孫はいないはずだよ。子供がいないから」
 ロブ────ロビンソン・ウィリアムズ博士は、世界的に有名な海洋生物の研究者である。研究に没頭するあまり、生涯を誰と歩む事はなかった。いや、彼は海と、クジラたちと長い人生共に生きる事を選んだのだ。
「何か事情があるのかもしれないね。あまり深く聞いて傷付けてしまわないように、気を付けよう」
 父はそう言ってコウの髪を撫で、夕食を作る為か席を立った。コウは一人、椅子に腰を落としたまま思考だけを浮遊させる。
 そんな気はしていたのだ。ロブに妻がいた事も聞いていなかったから。だがロブがそうだというのなら、ローアはロブの愛する孫なのだ。それはそれでいい。だがやはり彼は今の自分と似た境遇なのだと感じる。どれだけ大きな喪失をその胸に抱き、海へ向かうのだろう。そう感じた途端、あの金色の髪をした少年の事を、より愛おしく感じた。

 次の日、約束通りコウは父を見送ってから家を出て研究所に向かった。今日も今日とて、風は優しく海は凪いでいる。南国らしくスコールはあるものの、年間降雨量の少ないこの島は、いつでも広い空が広がり海を染めている。日本の狭い空を見るたびに、コウはこの国を思い出していた。
 健やかな気持ちで辿り着いた桟橋では、既に研究員たちがボートに乗り込む所だった。コウを待っていたのか、マリアがすぐに右手を大きく振る。
「コウ、待っていたわ」
 答えるように右手を振り走り寄るコウの肩を抱き、マリアは腰をかがめて頬を寄せる。四十絡みの彼女からは、化粧の匂いがしない。
「丁度シロナガスクジラが沖にいるの。それも、大きな群れよ」
「本当、楽しみ」
 これまで存在したどんな生物よりも大きい生き物、それが群れているなんて、コウはこれまで見たことがなかった。繁殖期以外単独で行動し、出産はこの地を離れて行なうからと言う理由の他に、この海洋保護区域で繁殖期のシロナガスクジラにみだりに近付くことは基本的には許されない。それはロブが決めた事だった。どんな生き物も、妊娠中はナーバスになる。近年増加傾向にあるとは言え、シロナガスクジラはかつての人間の乱獲により絶滅が危惧されている種。研究だとしても、生き物を刺激しないよう細心の注意を払い短時間で済ましている。そんなロブが、コウは好きだった。

 胸を躍らせマリアと共にボートに乗り込むと、船首の柵に身体を預け、ローアはじっと優しく揺れる水面を見詰めていた。
「ローア、おはよう」
 横目でちらりとコウを振り返り、深い海の色をした瞳は再び水面へと戻ってしまう。柵の上に組んだ腕に細い顎を乗せ、どこか憂いているかのようなその横顔を潮風が踊らせた金色の髪が撫でてゆく。
「コウ、デッキにいるならこれを着て」
 マリアはそう言うと、オレンジ色のライフジャケットをコウに着せた。近年着用が義務付けられたらしいが、何故かローアは着ていない。コウが不思議に思っているうちにボートはエンジンを吹かし出航した。
 調査船と言うには小さなボートはラグーンの珊瑚を傷付けないようにゆっくりと進む。すり鉢型のラグーンの壁が一番低い位置を越えると、周囲の色彩はがらりと変わる。甘い色の海は、深い深い青に染まり、ボートがスピードを上げると飛沫が白く濁って跳ね上がる。風を切りながら進む船首は彼の特等席なのか。ローアは変わらずじっと海面を見詰めている。靡く髪が、遮るもののない太陽のしたで煌めいて見える。

 ボートは四十分程進んだところで漸くとまった。この辺りには小さな島もなく、陸は遠く海鳥の姿もない。デッキから海面を覗き込むと、ただただ青く澄んだ海だけが拡がっている。どうやらここは随分と深いようだ。
 コウが穏やかな水面から目を離した時だった。突然、ボートのほど近い場所で大きな音と共に水柱が吹き上がった。その高さはゆうに八メートルはあるだろうか。コウは思わず口を開けその白い水柱の行方を追う。クジラだ。しかも、これはシロナガスクジラだ────。そう思った瞬間、次から次へとクジラたちはブローを始めた。その音は耳を塞ぎたくなる程のもので、けれどコウはこんなにも間近で何頭ものシロナガスクジラを見るのは初めてだった。一瞬にして頭に血が上り、慌ててデッキの柵から身を乗り出す。
「コウ、気をつけて」
 丁度船室から出てきたのか、背後からマリアにそう声を掛けられても、コウは夢中でクジラの姿を探した。ブローは呼吸と同じ。シロナガスクジラは五十分も潜水していられると聞いた事もあるし、そう何度も出てはこないだろう。だが、まだ息継ぎをしていない個体もいるかもしれない。
 生返事を返しながら夢中で海面に視線を走らせていると、船室から飛び出した研究員が慌てた様子でマリアを呼んだ。
「マリア、来てくれ」
 分かった、と返し、再びマリアはコウを振り返る。
「あまり柵から身を乗り出さないでね」
 マリアがそれだけ言って船室に戻ろうとした時だった。船首でぼんやりと海面を眺めていたローアが、突然海へと飛び込んだのだ。
「ローア!」
 驚いて叫ぶが、すでにその姿は深い海の中へと消えてしまった。
「まって……!」
 コウは慌てて持ってきていたマスクをつけ、ライフジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま海に飛び込もうとしたものの、マリアの腕がそれを止めた。
「ダメよコウ!」
「どうして」
「ここはドロップオフに沿ってダウンカレントもあるし、深度を少し落とすと潮流が速いの。もしもの事があったらどうするの」
「でも、ローアは……」
 マリアは厳しい瞳で、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子は特別なの。あなたはダメ」
 マリアは知っているのだろうか。あの少年の正体を。

 思考が追い付くより先に、身体は細い柵を乗り越え船を囲むしろいその鉄枠を蹴っていた。背後で悲鳴のように叫ばれた自身の名は、はげしい入水音に掻き消され。今はとにかく、息が続く限り。そう思って周囲にぐるりと視線を走らせたが、まるでコウが追ってくる事を知っていたかのように、ローアは頼るものの何もない水中で佇んでいた。じっとこちらを見詰める瞳は、海と溶け合うようにして微かな光を放っている。やはり彼は器具なくして陸と同じようにものを見る事ができるのだと、コウは漠然と感じた。
 ローアは自分を待っているのだと察し、コウは息を整える為一度海面に浮上した。すぐさまデッキからマリアの悲鳴が聞こえる。
「コウ、お願いだからこれに掴まって!」
 ロープの付いた浮き輪は、少し離れた所に投げ入れられた。ロブまでも船室から出て、柵から老躯を乗り出してコウの名を呼んでいる。素直に戻るべきだ、それは痛い程に分かっていた。しかしなぜ、誰もローアの心配をしないのだろうか。その違和感は、よりコウを海の底へと引き摺り込む。
「ごめんなさい」
 そう囁いて、ゆっくり深く肺いっぱいに空気を吸い込むと、コウは頭から海に潜り込み力いっぱい水面を蹴った。真っ逆さまに海の底へと沈んでゆくコウの眼前に、ラグーンとはまるで違う景色が拡がる。生き物の姿は薄く、悠々と泳ぐ青魚の群れが人間の姿に驚き去ってゆくばかり。ただただ、震えるほどの澄み切った真っ青な世界。このまま呑み込まれてしまいそうだ。ローアはまるでコウを誘なうかのように、こちらを真っ直ぐ見詰めたままゆっくりと堕ちてゆく。手を伸ばせば触れられそうなのに、強く水をかけば追付そうなのに、それが叶わない。
 そして高い透明度が水深四十メートル程にあるドロップオフの姿をローアの遥か後方に微かに見せた瞬間の事だった。不意にローアの背後から黒い影が浮かび上がった。驚きに目を見開き、危うく肺に貯めた空気を吐き出してしまいそうになる。おおきい、二十メートルはあるだろうか。音もなく悠然とドロップオフの先に続く深海から現れたクジラは、ローアの側で動きを止めた。そして驚く事に、次から次へとクジラたちが深い海の底からローアの元へと集まり始めたのだ。水中は、全身が震えるほどのクジラたちの声で満ちた。一体何が起きているのか、ローアを中心に巨大なシロナガスクジラが四頭、いやまだいるかもしれない。けれどその巨体はこの広い海を一瞬にして埋め尽くしてしまった。コウを伺うようにゆっくりと忍び寄るクジラたち。深度を落とすにつれ、水温も低くなってゆく。今どのくらい深く潜ったのだろう。帰るまで息は持つのだろうか。ふとコウは身体が震えていることに気付いた。目の前に拡がる自然の大きさに恐怖を覚えたのだ。はっきりとそう自覚した瞬間、突然身体が思いもよらぬ力に引き寄せられ、深い海の底へと吸い込まれてゆく。それがダウンカレントだと気付くまでに一瞬の間を要したが、コウは半ばパニックになり肺に溜めた空気を吐き出してしまった。慌てて頭を上に戻してはみたが、遥か頭上の太陽は遠く、波に揺れ霞んでいる。相変わらず歌い続けるクジラたち、そして、恐ろしくなって見下ろした先。深い深い海を宿した瞳が、静かにコウを見詰めていた。問われている心地がした。このまま本能に身を任せ空気を求めるか、それとも、見ないフリをした欲望のまま、堕ちてゆきたいか。

 気付けば、無我夢中で水面を目指していた。苦しい、苦しい、苦しい、怖い────。だがもがいてももがいても深淵へと引き摺り込まれてゆく。父の顔が脳裏に浮かび、次いでロブが、マリアが、コウを生に縛り付ける。戻らなくては、なんとしても。けれど、もう息が持たない。進むこともできない。未だ微かに燃えるちいさな命が海に抱かれ、冷たくなってゆく。焦れば焦るほど水を呑み、体内の空気は失せた。次第に意識は遠退き、コウは静かに深い海の底へと墜ちてゆく。クジラたちが、遥か遠くで唄う声を聴きながら。思考が途切れる刹那、コウは確かに感じた。

 心はこれを求めていたはずだ。海へと還る為にこの国に来たのだ、と。

 幼い頃、全ての命は海から産まれたのだと母は寝物語に教えてくれた。そして、海へと還ってゆくのだと。母は海を愛していた。だからこの国に来て、父と出逢った。コウは幸せだった。母がいて、父がいて、いつでも命の揺り籠である海が傍らに寄り添っていたから。けれど、その母は自ら命を絶った。母の望み通り、遺骨は海へと還した。粉々になったしろい骨が風に乗りやがて静かに海に吸い込まれる様を見て、コウは漸く母の死を実感し葬式でも流さなかった涙を流した。母が本当に遠退いてゆく。そんな気がしたのだ。溶けてゆく骨に向かい、お母さん、そう何度も叫んだ。海は何も答えてはくれなかった。
 母と言うかけがえのない存在の喪失は、コウの胸に大きな穴だけを残した。それはまるで底の見えない深海。全てが呑み込まれてゆく。未来も、生きる力も、何もかも。母と共に逝きたかった。海へと還った母の側に行きたい────。

 ふと深く沈み込んだ思考が急浮上を始め、うっすらと瞼を開くと、目の前に見慣れた白髭の老人の顔があった。
「コウ、気が付いたか」
 何が起こったのか分からず、コウはゆっくりと身を起こし辺りを見回した。ロブの傍らに座り込んだマリアが、声を上げて泣いている。どうやら船の上のようだ。
「良かった……レスキューに状況を説明している時に、ローアが君を連れ戻してくれたんだ」
「ローアが」
 掠れた声で問うて、コウは引き摺り込まれるような強烈な感覚を思い出す。あの強い流れの中を、どうやって。再び周囲を見回すと、ローアは船首の柵にもたれ、じっと海面を目詰めていた。どれくらい経ったのか分からないが、何事もなかったかのような変わらぬその姿に、コウは恐怖さえ覚えた。彼はやはり、普通ではない。彼の胸の奥底に自分と同じものを感じていたはずなのに、きっとそれはまるで見当違いだったのだ。何故海の底へと導いたのか。それなのに、何故消えゆくはずの命を掬い上げたのか。青い瞳を思い出し、コウは漠然とした疑問を胸に抱く。彼は一体、何を伝えたかったのだろう。考えれば考えるほど、思考は絡まり合ってしまう。呆然とするコウの肩を優しく撫でながら、ロブは研究員にちいさく頷いて見せた。
「船を出してくれ」
 周囲に集まっていた研究員たちが帰港の為に動き出す中、ロブだけは心配そうに付き添ってくれていた。コウは慎重にロブの傷んだ顔を見上げる。
「ロブ。ローアは一体、何者なの」
 その問いに、ロブは微かに瞳を細め、コウの濡れた髪をゆっくりとその萎びた手で撫でた。
「海の中で、あの唄を聴いたか」
 それがクジラの唄であると察し、ちいさく頷いて見せる。
「クジラはローアと会話しているのだ」
「クジラと、人が」
「皆には言っていないが、私はそう思っている。彼らは唄っているのだ。ローアと共に、海の唄を」
 研究者の口から出た言葉とはとても思えない。だが第一人者が混乱してしまう、それだけ不可解でこれまでなかった行動なのだろう。

 それきり誰とも口を聞かず、コウはローアを見詰めていた。何事もなかったかのように、彼はただ閑かだった。やがて研究所のある浜に近付くと、桟橋には既に父が迎えに来ていた。民族衣装に身を包んでいるところを見ると、仕事中なのに駆け付けてくれたようだ。桟橋に船が止まり下船すると、父は慌てたように駆け寄った。陽に焼けた顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。
「身体はどこも痛くないか」
 この島に日本のような大きな病院はない。未だ医療は脆弱で、日本では治る病や怪我で命は失われてゆく。だからか、父は昔からとても心配性だった。
 コウの身体に異常がない事を知ると、父はロブや目を赤く腫らしたマリアに深々と頭を下げ、コウの手を引いて歩き出す。触れた肌の荒い感覚、熱すぎる体温は、父の命と共に脈打っている。
 手を引かれるままぼんやりと歩いていると、父は静かに口を開いた。
「コウ、何故博士たちの言葉を聞かなかった。海は決して我々に優しいものではないんだよ。甘く見てはいけない」
 分かっているつもりだった。カレントに嵌ったのは初めてだったがその対処法もかつて教えてもらっていたのに、空気を求めるがあまり流れに逆らうと言う一番とってはならない行動を取ってしまったのだ。それは父の言う通り、ラグーンの優しい海に慣れきって慢心していたからに違いない。
「もう調査船に乗る事を許可できない」
 父は続けてそう言うと、きつく唇を噛みしめる。
「海にも、しばらく入ってはいけない」
 愚かだった事は素直に謝ったが、コウは必死で父に縋った。
「ラグーンならばいいでしょう」
「ラグーンだとしても、危険はあるんだ。コウは海の事を何も知らない」
 コウを見下ろす厳しい瞳は、さまざまな色が混ざり合い揺れている。それ以上コウは反抗してはいけない事を悟り、けれどせめてもと曖昧に頷いた。

 海へ行く事が禁じられてから、コウは一日中家で過ごすようになった。思い出すものは、海の事ばかり。抜け切った青空を開け放たれた窓から眺める時も、潮風の匂いが鼻先に踊った時も、そして、夢の中でも。

 そんな日々を繰り返し、五日ほど経った深夜の事だった。沈み込んだ意識の底、遥か遠く、深い海から響く唄が聞こえる。博士の言ったクジラたちの、海の唄。何故か呼ばれている気がして重い瞼を開く。隣で眠る父はいびきをかいていて、少しの事では起きそうにない。慎重にベッドから抜け出し、コウは足音を忍ばせ玄関の扉を開いた。そしてあまりの驚きに息を詰める。澄んだ青い瞳、細い金色の髪、痩せた身体────ローアがそこに立っていたのだ。
「ローア」
 コウの呼び掛けに返事をせずローアは歩き出した。慌ててその後を追いながら、コウは冷たい横顔に必死で言葉を投げた。
「助けてくれてありがとう」
 それが本心なのかは正直分からないが、あの時確かにコウは自らの命を繋ぐ為にもがいていた。それをローアは察して助けてくれたのだろう。ふと気付く。だとすれば、ローアがコウを海の底へと誘おうとした理由は、コウがそれをあの時は心の底から望んでいたからではないだろうか。願望と本能のせめぎ合いを敏感に感じ、ローアは手を引いているのではないか。そこへ辿り着き、コウは身を震わせた。
「君は、どこからきたの」
 その問いの返事が帰ってくる事がないと分かっている。けれど問わずにはいられなかった。ローアは歩き続ける。研究所のある西海岸とは真逆の方へ。観光客も眠りについた大通りは、まるで死んだ街のようだ。広い空一面に散りばめられた星々も、不吉に瞬いている。
「どこへ行くの」
 心臓が大袈裟に胸を叩く。この先に待ち受ける何かがコウを微かな恐怖と期待で呑み込んでゆく。酷く喉が乾く。息も上がる。一体、今自分は何を求めているのだろう。

 やがてローアが足を止めた場所は、観光客向けに開放された東海岸のビーチだった。この島の人々が早朝と夕暮れに掃除をしていると父が言った通り、ビーチにはゴミの一つも見当たらない。変わらぬ美しい海がそこにはあった。ローアは波打ち際に素足を浸し、深い闇夜に呑まれた海を見詰めている。月明かりだけがその横顔を照らし、美しい海の色をした瞳を輝かせている。
「ローア」
 胸を圧し上げた衝動が、言葉となってこぼれてゆく。
「僕も、海へ帰りたい」
 溢れた涙が頬を滑って落ちた。砂浜の色に似た指先がそっとコウの手を取る。促されるままに歩き出す。サンダルの爪先が波に触れ、また一歩踏み出す。次第に足は重くなり、水に濡れた服が纏わり付く。それでもローアに手を引かれるまま、コウは進み続けた。その先に、何かがあると信じて。
 腰までの深さまでくると、ローアはコウの手を離し泳ぎ始める。マスクはないが、躊躇している場合ではなかった。頭から海に飛び込み、恐る恐る瞼を開く。やはり視界は濁り、人間が海から拒絶されているような心地になる。けれど暗く滲んだ世界で必死にローアの姿を探していると、不意にぼやけていた視界がローアを中心に開てゆく。コウは驚きに思わず息を吐き出してしまった。空気を求め顔を上げようとしたが、何故だろう、息が出来る。ここは水中のはずなのに────。驚きに静止したコウを、ローアはまっすぐに見詰めている。月明かりだけの頼りない世界の中、彼だけが輝いてみえる。これは夢なのか。そう疑い出した時、沖からクジラたちの唄が聴こえてきた。それはまるで、コウを歓迎するように全身を包み込んでゆく。泳ぎ出したローアを追って水を蹴る。あれほど重かった身体がまるで浮いているかのようだ。やはりこれは夢なのだ。ならば恐れる必要はない。再び泳ぎ出したローアの後を、コウは夢中で追い掛けた。海と溶け合っている、その実感だけを胸に。
 沖へと進んでいたローアは、砂地と珊瑚礁の境界線で動きを止め、そっと砂地に降り立った。コウもまたその隣に着底し、視線の先を追い掛ける。踏み付けられた珊瑚が白くなって転がっていた。観光客が珊瑚を折って殺してしまう事は、この島だけの悲劇ではない。ふと気付けば、辺りの珊瑚は白くなっているものも多い。珊瑚が窒息し死んでしまうことから日焼け止めが禁止されている国や地域もあるが、ここはまだ発展途上。なんの制限もない。美しい珊瑚やそこに息衝く生き物たちを目当てにやってくる人間は、知らずその命を奪っているのだ。言葉にならない切なさを噛んでいると、ローアは死んだ珊瑚を拾い上げ、やさしく両の掌で包み込んだ。するとその掌の中で柔らかな光が生まれ、ちらちらと揺れ始める。ゆっくりと開かれた手の中から飛び立つ細かな光の粒は、静かに海へ溶けてゆく。ローアは目にした珊瑚の死骸をそっと掌で包み込み、そして海へ放ってゆく。次から次へと旅立つ光が優しい波に揺らぎ散り散りになって消える様は、まるで母が海へと還った時と同じようだった。瞼の裏が熱くなり、目頭が鈍く痛む。けれど涙は全て、海が呑み込んでゆく。
 母の後を追いたいと願う事を、後ろめたく感じていた。生きる事ばかりが正しいのだと信じていた。自分を置いて命を絶った母の気持ちが分からず、それ故に死を願う事自体を罪と信じ、見ないフリをしていた。けれど命は必ずいつか終わりを迎える。それが突然だとしても、長い長い時の末だったとしても。
 無残にも奪われた命を悲観する訳でもなく、嘆く訳でもなく、怒りに震える訳でもなく、ただただ見送るローアの瞳を見詰めながら、コウは母の笑みを思い出していた。母はこの珊瑚たちと同じように、光の粒となって海へと溶けたのだ。幸福な過去に縋るばかりで現実が悲劇だと思い込んでいた。けれどそれが母の願いであり、母の命の終わりは、とても幸福だったに違いない。
 コウは海へと溶けてゆく光の粒を見送りながら、深く息を吸い込み、漠然と一度は失った未来を見詰めた。いつか、海へと還るその日まで、この海と共に生きて行こう。胸に空いた大きな穴が、優しく抱かれゆっくりと満ちてゆく心地がした。

 唄が聴こえる。命の始まりと終わりを謳う、海の唄が────。


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声劇台本「紫の菊を胸に抱いて進め」 奈々和作(13883文字)

小泉紫子 (こいずみ・ゆかりこ) 13歳~ 小泉子爵家の令嬢。女子学習院に通っている。

木村菊 (きむら・きく) 13歳~ 新橋の下地っ子(芸者の見習い)。浅草出身。小学校は卒業している。

上條隆臣 (かみじょう・たかおみ) 17歳 上條伯爵家の次男。紫子の婚約者。

豆奴 (まめやっこ) 新橋の売れっ子芸者。菊の先輩。

小泉子爵 (こいずみししゃく) 紫子の父



<昭和21年(1946年) 菊39歳> 

 <満州>

菊:(M)出会ったのは、そう、あれは…

間。


<大正9年(1920年) 紫子・菊13歳>

 <新橋の料亭の座敷>
小泉子爵と、娘の紫子(ゆかりこ)が、料理と酒の載った膳を前に、座っている。

豆奴:おこんばんは~(座敷の障子を開けて挨拶)
小泉子爵:お、豆奴(まめやっこ)! 待ちかねたぞ。さ、入れ入れ。
豆奴:あら、うれしい。改めまして、おこんばんは~ 豆奴でございます。
豆奴:おや御前(ごぜん)、まあ可愛らしいお供(おとも)を、お連れになって…
豆奴:早く、あたくしに、ご紹介してくださりませ。
小泉子爵:ああ! 娘の紫子だ。ほれ、なじみの芸者の豆奴だ。
紫子:はじめまして。小泉紫子と申します。(三つ指ついてお辞儀する)
豆奴:ま! あでやかだこと! 
豆奴:新橋の豆奴でございますよ。どうぞ、ごひいきにしてくださいませね。
豆奴:…あら! では、こちらのお方が先日の?
小泉子爵:ああ、そうだ。
紫子:なんですの?
豆奴:いえね、先日、御前が上條伯爵さまと、紫子お嬢さまと上條のお坊ちゃまのご婚約をお祝いして、そりゃあにぎやかなご宴会をなさってくださったんですよ。新橋中の芸者をあげて、そりゃもう派手やかに。
紫子:まあ
小泉子爵:今日は「どうしてもつれて行け」と、出がけにさんざん駄々をこねられてな… どうも一人娘のせいか、甘くていかん…。押し切られてしまったよ。
紫子:あら! お父さまが、「新橋に遊びに行ってくる」と仰るんですもん! お座敷遊びなんて、紫子は、見たこともありませんことよ。紫子だって遊びたいわ!
小泉子爵:お座敷遊びは、男だけがやるもんだ!
紫子:まあ横暴! 今は大正の世でございますわよ!
紫子:じゃあ豆奴さんはどうなんですの?
紫子:豆奴さん
豆奴:はい
紫子:豆奴さんは、ここで、お父さまとご一緒にお座敷遊びをなさるんでしょ?
豆奴:はい、いたしますよ。
豆奴:あたくしら芸者と、殿方の、秘密の、大人の、お遊び…(微笑む)
紫子:……。
小泉子爵:そうだそうだ! 豆奴、よく言った。大人の遊びだ! 子どもにはまだ早い! 料理でも食ったら、とっとと帰れ。お前は、まだ小学生だろう。
紫子:十三になりました! 女子学習院に通っております!
小泉子爵:いーや! 子どもだ! 帰るんだ!
紫子:………
紫子:(困って)お父さま~~ わたくし、たった一人で、人力(じんりき 人力車のこと)で、帰るんですの? おもてはもう暮れかかっておりますのに。…心細う(こころぼそう)ございますわ…
小泉子爵:ううむ…
豆奴:あら、困りましたわねえ。

菊:(ささやき声)あの、姐さん(ねえさん)、お三味線。持って行けと言われました。

菊が、豆奴の三味線を持って、障子を少し開けた。

豆奴:あら! …ありがとよ。
紫子:?
豆奴:?…ああ、この子ですか? この子は、菊といいまして、いま下地っ子(したじっこ)をやっているんですよ。
紫子:下地っ子?
豆奴:下地っ子てのは、芸者の、そう、見習いとでもいいましょうか。芸者の修行中なんですよ。
紫子:…じゃあ、菊さんも将来、芸者さんになるのね?
豆奴:そうですよ。今は、まだ豆みたいにちびっこいですけどね。菊、お嬢さまにご挨拶なさいな。
菊:あ、よ、ようこそ、い、いらっしゃいませ。(這いつくばってお辞儀)
紫子:はじめまして。小泉紫子と申します。(三つ指ついてお辞儀する)
豆奴:そういや、あんたも学校を卒業したばかり、って言ってたね?
菊:はい、尋常(じんじょう)小学校を卒業しました。
紫子:あら! わたくし、十三よ。おない年?
菊:はい。同じ年です。
豆奴:あら、偶然! …そうだわ、菊、あんた、この料亭の女将さん(おかみさん)に部屋を一つとってもらってさ、あたくしと御前がお座敷している間、紫子お嬢さまとそこで一緒に遊んどいておくれよ。
豆奴:ねえ、御前、いいじゃありませんか。この菊に、お嬢さまのお相手をしてもらって、お座敷がおすみになったら、お二人一緒にお屋敷にお帰りになりゃ。紫子お嬢さまだってお父さまとご一緒で、ご安心でございましょう?
紫子:ええ。菊さんさえよければ…
小泉子爵:う、ううむ… 仕方がない…(気が進まない)
豆奴:ねーえ、菊、お願いだよ。あんたが遅くなることは、あたしが、お母さんに謝っとくからさあ…
菊:…はあ…
豆奴:ありがとよ! 助かるよ。
豆奴:ささ、紫子お嬢さま、菊について行って、女将さんに別の部屋を案内してもらって、くださいな。
菊:あの…お嬢さま…
紫子:ええ、菊さん、よろしくお願いしますわ。(立ち上がる)

菊と紫子、廊下に出て、別の部屋に行く。(退場)

豆奴:(色っぽく)さあ、御前、こちらは楽しく、大人の、秘密の、わるぅーいお遊びと参りましょうか?
小泉子爵:豆奴… こっちは、なんとか紫子を一人で帰す方法を、考えておったのに… お前が…! 今日、私が紫子と一緒に帰るなら…
豆奴:帰るなら…?
小泉子爵:今日は、もう、泊まっていけないじゃないか。それでお前は、いいのか…?(豆奴を抱き寄せようとする)…アイタっ!
豆奴:うふ…すーぐお手々が出ちゃう… まだ、わるーい坊やちゃんですねー… やっぱり、女の子たちと一緒に子ども部屋へ、お行きになった方がいいのでは…?
小泉子爵:豆奴!…意地悪を言うな~…
豆奴:可愛いお馬鹿さん。お泊りにならずとも、お座敷でできる、わるぅーいことなんて、いくらでもありますのに! うふふ…(耳元にささやく)ご・ぜ・ん…
小泉子爵:豆奴、こら、悪い奴だ!
豆奴:うふふふ… 

 <料亭の別の座敷>

紫子(ゆかりこ)が一人でいるところに、菊が入ってくる。

菊:お嬢さま、すみません。女将さん(おかみさん)に聞いても、お嬢さまがお好きそうなものって、こんなものしかないそうで…
紫子:? あら、金平糖(こんぺいとう)。わたくし大好きよ。それにお料理も、わざわざ運んでもらったし、充分よ。菊さんも、もう座って。
菊:はい。
菊:……。…あの、何をして遊びましょうか? あたし、不調法者(ぶちょうほうもの)で、なんにも思いつかなくって… ごめんなさい!(土下座する)
紫子:あら、いいのよ。急に紫子に帰れなんて言い出した、お父さまが悪いんだわ。菊さんは、なにも悪いことなんて、なくってよ。
菊:でも…
紫子:いいのいいの。
紫子:それより、おしゃべりしましょ! わたくし、芸者さんには興味があるわ。
紫子:新橋の、えーと、は…花街(はなまち)という所へ来たのも、初めてなの。ここは珍しいものばかりよ!
菊:はあ
紫子:それから、菊さんみたいな、わたくしとおない年の人が、花街で働いているなんてことも、初めて知ったわ。
紫子:ね! 菊さんのこと教えて。
菊:あたしのこと?
紫子:そう! 菊さんのこと!
菊:そんな大したことは… 生まれは浅草です。
紫子:浅草って、凌雲閣(りょううんかく 浅草にあったタワービル)のある所よね? 菊さんは登ったことがあって?
菊:いえ
紫子:わたくしもよ。遠くから眺めに連れて行ってもらっただけ。登りたかったわあ…
菊:お嬢さまが、行かれるような雰囲気じゃありませんからね…。
紫子:そうなの? 菊さんはそれから?
菊:尋常(じんじょう)小学校を卒業して、今年、置屋(おきや)さんに入りました。
紫子:置屋さんって?
菊:芸者の家みたいな感じです。お母さんがいて、先輩の芸者さんが姉さんになるんです。芸者さんは、置屋から、お座敷に行ったりお稽古事に通ったりするんですよ。
紫子:へえ。菊さんの本当のお母さまは、今はどこにいらっしゃるの?
菊:お母ちゃんは、去年、病気で亡くなっちまって…
紫子:あら、ごめんなさい。つらいことを聞いてしまったわね。
菊:いいえ、いいえ、いいんです。すごくすごくいいお母ちゃんだったから、あたし、お母ちゃんの話するの、好きです。
紫子:そう。じゃあ、どんなお母さまだったか、訊いてもいいかしら?
菊:はい。お母ちゃんは、本当に下町のおかみさんて感じの、きっぷのいい姐後肌(あねごはだ)のお人でした。男衆(おとこしゅう)にもひるまないで、威勢よく啖呵(たんか)を切るけど、すごく優しくて、困った人をほっとけない人だったんですよ。
菊:家も楽じゃないのに、あたしに、将来困らないようにって、お稽古事をたくさんさしてくれたんです。去年、お父ちゃんのお店が傾いちまうわ、お母ちゃんも倒れて床(とこ)について死んじまうわで、家中が大変なことになっちまいまして。あたし、踊りも小唄(こうた)も少しはできるからって、芸者に出ました。少しは家を助けられたのも、お母ちゃんのおかげなんです。
紫子:そうなの。すてきなお母さまね。

間。

紫子:…ね、菊さん、わたくしに、菊さんの踊りを見せてくださらないこと?
菊:え!? いいえ、そんな、とんでもない!
紫子:お願い。わたくし、お座敷芸というものを見てみたいの。お父様ったら、見せていただく前に、追い出すんですもの。ね、お願い。
菊:え、ええ~~
紫子:一生のお願い。
菊:あ、あの、姉さん方には及びもつかない、恥ずかしいもんなんですよ。…それでよければ…
紫子:もちろんよ! 菊さん、ありがとう。
菊:じゃ。舞扇(まいおうぎ)もありませんけど… 他のお座敷から聞こえてくるお囃子(おはやし)に合わせて…

菊、立って、即興で一節踊る。

紫子:(拍手)すばらしい、すばらしいわ、菊さん!! 手つきも足つきも決まっていて、一幅(いっぷく)の絵のように、美しかったわ。私もお稽古事に踊りは習っているけど、とてもとても、足元にも近づけない。わたくしの踊りは、本当にお嬢さん芸だったのね。
菊:そ、そんな…
紫子:生活をかけて、お稽古なさっている方の凄み(すごみ)を感じたわ。いやがっていたのに、ごめんなさいね。見せてもらって、ありがとう。
菊:喜んでいただけたのなら、よかったです。

間。

紫子:わたくしたちは、すごく違うわね。わたくしは、子爵家に生まれて、一人娘で甘やかされて育って、今はお嫁入りまでの猶予期間を、ぼんやり女学校に通ってる。かたや菊さんは、おない年で、もうお家(うち)を背負って働いていらっしゃる。
菊:紫子さま…
紫子:わたくしたち二人がここで出会ったというのは、すごいことよ!
菊:…そうですね。あたしも、子爵さまのお嬢さまとお話することがあるなんて、昔は、考えもしなかったと思います。
紫子:そうでしょそうでしょ!
紫子:…菊さん、わたくしたち、「秘密の親友」にならないこと?
菊:え?
紫子:こうして出会ったのも、「運命」だと思うの。
紫子:うふっ、「秘密の親友」だなんて、吉屋信子(よしや・のぶこ)先生の小説みたい。すてきだと思いませんこと?
菊:よしや…?
紫子:小説家の先生よ。少女たちの美しい友情を書く先生なの。わたくし、大好き!
紫子:ね、お友達に、なってくださる?
菊:…はい。お嬢さまさえよろしければ…
紫子:よかった!
紫子:じゃあ友情の誓いをしましょう。
菊:誓い?
紫子:そう。まず先に、わたくしが誓うから、菊さんは同じ言葉を唱えてね。…あ、菊さんのご本名は?
菊:木村菊です。
紫子:では、「われ小泉紫子は、汝木村菊に、たとえこの世が果てようとも、尽きない友情を誓うものなり」
菊:……。「わ、われ木村菊は、汝小泉紫子さまに、たとえこの世が果てようとも、尽きない友情を誓うものなり」

短い間。

紫子:わたくしたち、今日から「秘密の親友」同士よ。ずっと、ずーっとよ。
菊:はい、紫子お嬢さま。
紫子:! 親友同士なのに、「お嬢さま」は変だわね。
菊:でも、お嬢さまは、お嬢さまです。ご身分柄(ごみぶんがら)がありますし。
紫子:そうだわ。わたくし、これから二人きりのとき、菊さんを「菊ちゃん」と呼びたいわ。
紫子:それから、わたくしのことは、菊さんに「ゆかちゃん」と呼んでいただくのは、どうかしら?
菊:「菊ちゃんとゆかちゃん」…? …そ、そんな! いけませんよ! 許されないことです、子爵家のお嬢さまに!
紫子:わたくしが、そうしてとお願いしているのに?
菊:でも…
紫子:お願い。二人きりの時だけよ。二人だけの秘密!
菊:なら、いいです。
紫子:じゃ、「菊ちゃん」
菊:…ゆ、「ゆかちゃん」…

二人、笑い合う。

紫子:ああ、二人だけの秘密、二人だけの呼び名、なんてすてきなの!
菊:はい、そうですね。なんだかワクワクします。
紫子:この秘密を守ること、約束しましょう、はい、指切り(小指を立てる)
菊:はい、約束ですよ。(小指を立てる)
紫子:(同時に)指切りげんまん うそついたら 針千本の~ます!
菊:(同時に)指切りげんまん うそついたら 針千本の~ます!
紫子:(同時に)指切った!
菊:(同時に)指切った!

二人、晴れやかに笑い合う。


<昭和21年(1946年) 菊39歳> 

 <満州>

菊:(M)それから、たまにこっそり会える日が、楽しみで楽しみで。毎日が飛ぶように過ぎて行ったわ。厳しいお稽古も全然苦じゃなかった…

間。


<大正11年(1922年) 紫子・菊15歳>

 <新橋へ向かう道端>

 紫子(ゆかりこ)、学校帰りに一人で歩いている。
 隆臣(たかおみ)、紫子を追いかけてくる。

隆臣:紫子さん、紫子さん、どこに行くんだい?
紫子:あら! 隆臣さま。もしかして、跡をついていらしたの?
隆臣:はい、さいで。
紫子:まあ! いやらしい。どこからですの?
隆臣:校門からずっと。
紫子:まあ! …気づかなかった自分が腹立たしいわ。
紫子:どうして、こんなことなさいましたの?
隆臣:婚約者殿が心配で。
紫子:隆臣さま、申し上げますけど、わたくしたちの婚約は、本決まりという訳じゃありませんのよ。
隆臣:僕はこれでも、君のナイトのつもりなんだけどなあ。
紫子:まあ、気障(きざ)! 結構ですわ!
隆臣:紫子さん、この先は、女の人が一人で行くような所じゃないよ。
紫子:わたくしは、大丈夫ですわ。慣れておりますもの。
隆臣:慣れている? 何故?
紫子:…。秘密ですわ。
隆臣:これから、どこに行かれるんですか?
紫子:…それも秘密ですわ。
隆臣:…こりゃあ小泉子爵にご報告せねばなあ…
紫子:(被せて)だめ!! だめですわ! お父様には言わないで!!
隆臣:(にっこり)じゃ教えて。
紫子:……。
隆臣:小泉子爵のお屋敷はどっちだったかなあ…
紫子:(被せて)やめてやめてやめて!!
隆臣:降参かい、紫子さん?
紫子:…意地悪ですわ。
隆臣:心配しているんですよ。僕の気持ちも少しはわかって欲しいなあ、婚約者殿。
紫子:…人に会うだけですわ。
隆臣:人? 誰だい?
紫子:秘密ですわ。
隆臣:紫子さん。
紫子:…わたくしの大切なお友達です。
隆臣:…。よし! 僕も会おう。
紫子:隆臣さま! …いやと言ったら、またお父様に言うと仰るの?
隆臣:…やれやれ… 僕が、ものすごく怖い鬼のように怯えないでおくれよ。
隆臣:おじさまには言わないよ。
隆臣:でも、一回会っておきたいんだ。僕の大切な紫子が、必死で隠すほどの大切なお友達に、婚約者としてね。
紫子:…わかりましたわ。

間。二人、しばらく黙って歩く。

紫子:…そうだわ!
隆臣:え?
紫子:隆臣さま、わたくし、これから、大切な大切な、秘密を明かしますのよ。
隆臣:? そうだね。
紫子:この三年、誰にも打ち明けたことがないほどの、大切な大切な秘密ですの。それを、打ち明けるのですから…
隆臣:ん?
紫子:ご褒美。いただいてもよろしくて?
隆臣:はあ!
紫子:だって、大切な大切な…
隆臣:わかった! わかったよ。ううむ、僕のお小遣いで買えるものにしておくれよ。
紫子:ミルクホウルへ、連れて行ってくださいまし!
隆臣:ミルクホウル!?
紫子:隆臣さまが、わたくしと、お友達を、ミルクホウルへ、ナイトのようにエスコオトしてくださいませな。

 <ミルクホウル>

紫子(ゆかりこ)、菊、隆臣(たかおみ)が、ミルクホウルの丸いテーブルについている。紫子と菊の前にはアイスクリン、隆臣の前には珈琲(コーヒー)が置かれている。

紫子:では改めて、こちらは、わたくしの大切なお友達の木村菊さん。そして、こちらは、上條伯爵家のご次男、隆臣さま。
隆臣:はじめまして。今後ともよろしくお願いします、菊さん。
菊:は、は、はじめまして!!!(深々とお辞儀)
紫子:菊さん、そんなに緊張することありませんわ。わたくしには、気のいいお兄さまみたいな方なんですもの。
隆臣:紫子、婚約者とは紹介してくれないんだね?
紫子:まだ、本決まりではございませんから。(つん)
隆臣:やれやれ…
隆臣:菊さん、本当に紫子さんと同じアイスクリンでよかったのかい? まだ他にもメニウがあるんだよ、ホットケエキとかシベリヤとか。追加で好きなものを頼んでもいいよ。
菊:い、いいえいいえ、とんでもない! あ、あいすく?でじゅーぶんでございます。こんなハイカラなとこ、来たのなんて初めてで、なんだか頭がくらくらいたしますです…
紫子:菊さん、大丈夫? アイスクリンを召し上がって! 口の中がひんやりして気持ちよくなってよ。
菊:(アイスクリンを食べる)わ、冷たい…甘くて溶けて… 紫子さま、すごく美味しいです。
紫子:そうお? 菊さんが気に入ってくださって、よかった!
隆臣:「ミルクホウルへ連れて行け」なんて言って、お目当てはアイスクリンですか。やれやれ…
紫子:あら、いけませんの? アイスクリンは、美味しいじゃありませんの。
隆臣:いえ、そうじゃなくて。まだ「子ども」だなあ、と思っただけですよ。
紫子:まあ! そう言う隆臣さまは、お砂糖もミルクも入れない、珈琲一杯だけご注文なさって、大人を気取っていらっしゃいますが、わたくしたちがいなければ、本当はミルクセエキをご注文したいんじゃありませんの?
隆臣:まさか。
隆臣:仏蘭西(フランス)の古(いにしえ)の高貴なる粋人(すいじん)は称えた、ああ珈琲よ、「悪魔のように黒く 地獄のように熱く 天使のように純粋で 愛のように甘く…」
隆臣:西洋の先達(せんだつ)にならって、僕も珈琲を愛でるのさ。(珈琲を飲む)
紫子:おお、いやいや、気障(きざ)だこと。
紫子:菊さん、こんなお方放っておいて、わたくしたちだけでおしゃべりいたしましょう。
菊:いんですか?
紫子:いいのいいの。どうせ勝手に会話に入ってらっしゃるわ。
菊:それじゃ、あたし、紫子さまにお知らせしたいことがあったんです!
紫子:まあ、なあに?
菊:あたし、店出し(みせだし)が決まったんです。
紫子:店出し?
菊:芸者さんになることです。芸者さんとして、お座敷に上がって、お商売ができるようになるんです。これで、弟たちの学費も少しは出してあげられるようになります。
紫子:そう。よかった、よかったわね、菊さん! 菊さん、ずっとそのためにお稽古して努力してきたものね! おめでとう! おめでとう菊さん。
隆臣:それはおめでとう。よかったね。
菊:まだ、日にちは、決まっていないんですけどね、近々にって言われてて… (小さな声でつぶやく)近々、水揚げ(みずあげ)が…
紫子:え? なあに?
菊:いえ、なんでも。
隆臣:僕が大人になったら、常連になって、通ってあげるよ。
菊:ありがとうございます。
紫子:まーあ、隆臣さまなんか、菊さんに袖にされてよ。菊さんは売れっ子になるんだから。
菊:紫子さま!
隆臣:やれやれ… あれ、向こうの席に同級生たちがいる。ちょっと、行ってきてもいいかい?
紫子:ええ、どうぞ。
隆臣:僕の悪口なんか言うんじゃないよ。

隆臣、友達の席に行く。(退場)

菊:紫子さま
紫子:なあに? 二人きりよ、菊ちゃん。
菊:ゆかちゃんは、ちょっと隆臣さまに、冷たいと思うな。
紫子:そうお? いつもこんな感じよ。だって、婚約者といったって、昔から一緒にころころ遊んでいた、幼馴染みのお兄さまなのよ。それが急に婚約者って! 隆臣さまは、なんだか態度が変わってしまって、まるでナイト気取り。いやになってしまうわ。
菊:でも…隆臣さまは、すごくゆかちゃんを気遣ってるじゃない。今日だって、本当に、ゆかちゃんが心配でついていらしたんでしょ?
紫子:う… そうだけど。
菊:あんなに優しくてすてきな方、そうはいないと思うの! ゆかちゃんも、もっと、隆臣さまの気持ちを、思いやってあげるべきよ。
紫子:…菊ちゃん?
菊:え?
紫子:今日はどうしたの? …もしかして…隆臣さま?
菊:いえ、そんな…ただ…
紫子:ただ?
菊:ご立派な方だなあ、と。そう思って。
紫子:まあ! 菊ちゃん、もしかして…初恋?
菊:いえ、そんな、そんな恐れ多い…
紫子:ええ? すてきなことじゃない。わたくし、応援してよ?
菊:そんなとんでもない!
紫子:いいじゃない。それに婚約者っていったって、お父様たちがお座敷で気が合った、というだけのただの口約束ですもの。将来どうなることか、わからないわ。
菊:…伯爵さまのご子息をよ…?
紫子:心の中で想えば?
菊:え?
紫子:ね、そうなさいな。心に身分なんてないもの。秘めた恋だって、いいじゃないの。
菊:……。
紫子:わたくしも、そんな恋がしたいわ。
菊:……

隆臣が戻ってくる。

隆臣:お嬢さま方、そろそろ帰らないと、日も暮れるよ。
紫子:あら、いけない! 隆臣さま、今日はご馳走さまでした。(お辞儀をする)
菊:あ、ご、ご馳走様でした!(深くお辞儀)
隆臣:(ため息)いつもそうだと、可愛いんだけどね。
隆臣:(紫子に)では、プリンセス、エスコオトつかまつる。
紫子:うむ、苦しゅうない。

隆臣と紫子、退場。

菊:(小さく)心に恋が、心に秘めた恋があれば、耐え忍べるかしら…?


<二か月後>

 <新橋へ向かう道端>

紫子の後ろに、隆臣がついて来る。

紫子:「一回会ってみたい」なんて仰ったくせに、また、ついていらっしゃるのね?
紫子:菊さんに会って、満足したのではありませんでしたの?
隆臣:菊さんには会えたけれど、この界隈がね。心配しているんだよ、紫子さん。
紫子:もう! 一緒に並んで歩いてくださいまし。後ろに大きなお供を連れて歩いているようで、みっともありませんわ。
隆臣:お言葉に甘えて。(並んで歩く)
紫子:この界隈… お偉い方々がたくさんお見えになるいい街だと思いましてよ。
隆臣:皮肉かい? ここは男の街だよ。
紫子:それ! 前にお父さまにも言われましたわ。ここは「大人の遊び」をするところと!
隆臣:うん、その通りだ。さすが小泉子爵だ。君は、まだ子どもだろう?
紫子:もう十五ですわ! わたくしとおない年の菊さんが、ここで働いているんですのよ。わたくしが行って、悪いわけがありまして?
隆臣:…菊さんは特別だよ。
紫子:わたくしは?
隆臣:紫子さんと菊さんでは、立場も身分も違いすぎる。もう、会うのはやめた方がいい。
紫子:なんでそんなこと仰るの? わたくしの大切なお友達ですのに!
隆臣:とにかく、ここは、本当は、君には一生縁のないところなんだよ。
紫子:…わかってますわ
隆臣:……。
紫子:でも、菊さんに会いたいんですの。菊さんのお顔が見たい。菊さんとおしゃべりがしたい… それだけなの…(涙声)
隆臣:…そうか… わかったよ。それだけ、なんだね。
隆臣:泣かせるつもりじゃなかったんだ。すまない。機嫌を直してくれないかい。
紫子:…こんなことで泣くなんて、みっともないこと。(涙をハンカチで拭く)
隆臣:…。僕は、久しぶりに、しおらしい紫子が見られたな。
紫子:ま、意地悪ですの?
隆臣:違うよ。

 <新橋の置屋>

隆臣:え? あれから、会っていないの?
紫子:お店出しが決まるといろいろ忙しいと聞いていたから、ずっとご遠慮していたんですの。昨日がお店出しだったはずだから…
紫子:(置屋の玄関を開けて)ごめんください。ごめんください。

豆奴(まめやっこ)が、玄関に出てくる。

豆奴:まあ、小泉のお嬢さま! お久しぶりです。お美しくご成長なさったこと。
紫子:豆奴さん、お久しぶりです。菊さん、いらっしゃる?
豆奴:菊…ですか?
紫子:ええ。昨日、お店出しと聞いていたから。忙しい? 疲れているかしら?
豆奴:菊は…今、伏せっているんですよ。
紫子:ええっ ご病気なの?
豆奴:いえ、病気ではないんですけど…。昨日、水揚げ(みずあげ)で、少々参っちまったみたいで…
紫子:水揚げ? 水揚げとは何ですの?
隆臣:紫子!
紫子:え?
隆臣:菊さんは伏せっているんだろう? じゃあいいじゃないか。今日はもう帰ろう。
紫子:豆奴さん、水揚げとは…
隆臣:聞くんじゃない!
紫子:いやよ、聞きたいわ! 親友が伏せっているのよ! 心配しないわけないじゃない。様子が知りたいの。ねえ、豆奴さん、教えて。
豆奴:…お坊ちゃま、ようござりますか?
隆臣:……。
豆奴:(ため息)水揚げってねえ…ああ、どう説明すりゃいいんだろう…
豆奴:お嬢さま、芸者って綺麗でござんすか?
紫子:? ええ、綺麗だと思うわ。
豆奴:綺麗に髪をこしらえて、かんざし挿して、綺麗なおべべ着て、お化粧して…そういう姿(ナリ)を作るのには、たいそうお金がかかるものなんですよ。あたくしたち、お金持ちに見えますか?
紫子:……。
豆奴:それからお稽古事。踊り、三味線、小唄(こうた)、鳴り物(なりもの)ぜーんぶ、おっしょさんへのお礼のお金が要る。ねえ、お嬢さま、芸者にはお金がかかるもんなんですよ。
豆奴:だから、あたくしらはね、旦那さまを持つんです。旦那さまが、払い(はらい)をぜーんぶ引き受けてくださるんですよ。旦那のいない芸者なんて、いやしません。
紫子:…。え、じゃ、菊ちゃんも…?
豆奴:ええ。水揚げってのは、お世話になる旦那に、処女(おとめ)を捧げる、初めてのお床(とこ)のことなんざんすよ。
豆奴:菊も、覚悟していたはずなのに。(ため息)いやだったんですねえ…
紫子:菊ちゃんが…菊ちゃんが…そんなそんな…
隆臣:紫子さん!
紫子:(豆奴に)ねえ! 誰が菊ちゃんを汚したの(けがしたの)!? 菊ちゃんを菊ちゃんを、誰がそんな目に合わせたの!?
隆臣:紫子、聞いちゃいけないよ! な、言ったろう? ここに生きる人たちは、僕たちとは違いすぎる。
豆奴:そうですよ。
紫子:いやよ! そんなのいやよ! ねえ、教えて、誰が、わたくしの親友を汚したの? ひどい目に合わせたの!?
豆奴:それが…
紫子:それが?
隆臣:紫子!
豆奴:…小泉の、御前(ごぜん)で…
紫子:え。

菊が、置屋の奥から玄関に駆け込んでくる。

菊:ゆかちゃんっ!!
紫子:菊ちゃんっ!(抱き合う)
菊:(号泣する)ごめんなさいごめんなさい。あたし、ゆかちゃんにとんでもないことしてしまった。こともあろうに、親友のお父さまと! ゆかちゃん、ごめんなさいごめんなさい。こんなあたし殺しちゃっていい! もうゆかちゃんに顔向け(かおむけ)できない~~~
紫子:(泣く)菊ちゃん…菊ちゃん…いいのよ、仕方がないことだったんでしょう? いいのよ…
菊:ゆかちゃん、あたし、もう、死んじまいたい…ごめんなさい ごめんなさい
紫子:つらかったでしょ? 苦しかったでしょ? もういいの
菊:ゆかちゃん… いやだった…逃げたかった… でも、でも、あたしは芸者になるって決めたんだもん。家を助けるためなら、どんなことだって耐えられる。そう思ってた。…でも、でも、あれは嫌だったああぁぁぁ…(泣き伏す)

紫子、すくっと立つ。

隆臣:紫子?
紫子:うちに帰ります。

紫子、去る。

隆臣:ゆ、紫子、待てよ、おい。

隆臣、紫子を追いかけて行く。

菊:…ゆかちゃん、ゆかちゃーん、ごめんなさいごめんなさ……
豆奴:ほれ、立って、豆きく(まめきく)。床に行くよ。なんだい、あんた、目が溶けちまうよ。

 <小泉子爵邸の居間>

紫子:お父さま! お父さまはどこですの!?
隆臣:(後を追いかけて)紫子さん…
紫子:お父さま! お父さま!!

小泉子爵、奥から出てくる。

小泉子爵:おう。紫子、遅かったな。学校帰りにどこかに寄り道か? なんだ、隆臣君も一緒か。隆臣君、お父さまはお元気かね?
隆臣:はい、父は相変わらず元気です。小泉さまと、またブリッジをしたいと仰ってましたよ。
小泉子爵:上條伯爵も、なかなかの腕前で、いらっしゃるからな。
紫子:お父さま…
小泉子爵:なんだな、帰るなり大きな声で。淑やかな娘は、大声など出さぬものだぞ。
紫子:…お父さまは、昨晩、新橋で、芸者さんを一人、水揚げ(みずあげ)なさったのよね?
隆臣:紫子さん、いけないよ。
小泉子爵:こら! 何を言う、紫子。水揚げなどと、女が使っていい言葉ではないぞ!
紫子:…答えてください、お父さま。
小泉子爵:ああ、いや、それが何だ?
紫子:(わなわなと震えて)…本当のことでしたのね…
小泉子爵:だから、それがどうした、紫子?
紫子:お父さまはご存じなかったでしょうけど… その芸者さんは、わたくしの大切な大切なお友達だったのですわ。…お父さまは、菊ちゃんを汚した(けがした)のよ!!
小泉子爵:豆きく(まめきく)が…友達…? お前、あんなところに、知り合いを持っていたのか?!
紫子:ええ、友達よ!!
隆臣:紫子さん!!
小泉子爵:女が新橋に出入りするなど、もってのほかだ!! 紫子、しばらく学校へは行かせんぞ。自分の部屋に、しばらく閉じ込めてしまうからな!
紫子:なんにも怖くないわ。学校も学校のお友達も、菊ちゃんに比べたら、ずーっと惜しくありませんもの。
小泉子爵:親に逆らうか!?
紫子:汚らわしいお父さまなんて、何も怖くありませんわ! よくも、よくも、実の娘とおない年の子に手をかけるなんて…、お父さまなんて、犬畜生(いぬちくしょう)にも、劣りますわっ!!

小泉子爵、紫子を平手打ち。

紫子:わああああああ…!(泣き伏す)
小泉子爵:出て行け!!! どことなりと行ってしまうがいい!! 生意気な口をききおって。親に捨てられた、貴族の娘に何ができるものか、やってみるがいい!!
隆臣:紫子さん…
小泉子爵:隆臣君、手出しは無用だぞ。女は甘やかすとつけあがっていかん…

小泉子爵、居間を出て行く。

隆臣:紫子さん、お父さまに謝るんだ。さ、お父さまを追いかけて…
紫子:…いや…
隆臣:紫子さん。
紫子:…ん…な…よの…な…か…
隆臣:え?
紫子:こんなひどい世の中、消えてなくなればいいわ!
隆臣:紫子さん…
紫子:消えて… いえ、変えてみせるわ、わたくしが!!
隆臣:紫子さん?
紫子:隆臣さま、ごめんなさい。わたくし、お嫁にはいけないわ。
紫子:わたくしは、なんとしても、菊ちゃんのような子が泣く、この世の中を変えてみせるわ。どんなことがあっても。どんなに苦しくても。変える。きっと変えるわ。だって、こんなこと、おかしいですもの。理不尽(りふじん)よ…(泣きながら)菊ちゃんに誓うわ。きっと誰も泣かない世の中にしてみせる。きっと、きっと、変える…か…え…るんだからあああぁぁ(泣き伏す)


<昭和21年(1946年) 紫子・菊39歳>

 <満州>

菊:(M)戦争が終わった…。ああ、帰らなくちゃ。新橋に帰らなくちゃ。
菊:(M)あたし、…会いたい人がいるの…

間。

 <闇市の雑踏の中>
 紫子(ゆかりこ)が歩いていると、そこに豆奴(まめやっこ)が通りかかる。

紫子:…? あら! 豆奴さんじゃない? 豆奴さん! 豆奴さん!
豆奴:まあ、小泉のお嬢さまじゃありませんか!!
紫子:ご無事だったのね? よかったわ。
豆奴:あ! このたびは、おめでとうございます。(深々とお辞儀する)
紫子:…。ありがとうございます。(お辞儀を返す)豆奴さん、わたくしのこと、知っていたのね。
豆奴:あら、芸者ふぜいでも、新聞くらいは読むんでござんすよ。日本初の女性議員さまじゃございませんか! まあ、晴れがましいこと! 御前(ごぜん)もご存命でらしたら、さぞお喜びに…(涙を拭く)
紫子:さあ、それはどうかしら…
紫子:豆奴さんは、今はどうして?
豆奴:こんな浮世(うきよ)でも、お座敷の引きはあるもんでねえ。細々と続けていますよ。最近じゃ、お客さまは、みーんなアメリカさんで!
紫子:へーえ
豆奴:上條のお坊ちゃまは? ご健在(ごけんざい)で?
紫子:隆臣さまは、海軍に志願なさって、まだ、奥さまたちの元へは、お帰りになっていないようよ。
紫子:…あの、豆奴さん、菊ちゃんは?
豆奴:きく?
紫子:…あの日から、わたくし、ずっと菊ちゃんに会えなかったの。
豆奴:…ああ、豆きく(まめきく)ですね。豆きくはですねえ、戦時中、お座敷が減ってしまった頃に、まだこっちよりは景気が良かった、満州のお座敷に出ることになりましてね。行ったきり、まだ帰ってないんですよ。
豆奴:また新橋に戻って、あたくしの手伝いしてほしいんですがね。あたくしの三味線と豆きくの踊りは、お座敷ではちょいとしたもんでしたよ。

二人、笑い合う。

豆奴:じゃ、あたくしゃ、今夜のお座敷があるもんで、ここいらで。紫子お嬢さま、また新橋の方にもおいでくださいませ。
紫子:豆奴さん!!(豆奴の両手を握る)
紫子:わたくしね、わたくし、もしかしたら、わたくしのやろうとしていることは、豆奴さんたちの、大切な伝統とか、しきたりとか、大事なものを壊してしまうかもしれない。豆奴さんたちを、がっかりさせるかもしれない。でも、わたくしやりたいの。菊ちゃんのように泣く女の子たちを、一人でも減らしたいの…
豆奴:いいんですよ。
紫子:豆奴さん…
豆奴:今は新しい世の中ですよ。お若い方たちがご存分(ごぞんぶん)に、おやんなさいませ。豆奴は、新橋で嬉しく見ておりますよ。では、ごきげんよう。
紫子:ごきげんよう。

二人、別れる。
紫子、一人立ち尽くして、

紫子:(M)菊ちゃん、わたくし、政治家になったわ。
紫子:(M)あの後ね、家を出る時、お母さまがご自分の宝石を持たせてくださったの。そのお金で、学校に行って、新聞社に入ったわ。
紫子:(M)ずっと、世の中を変える方法を考えていたの。菊ちゃんの涙は二度と見たくない。ずっと考えて、政治家の道を志したの。今年、女性に参政権がもたらされたから、やっとね。
紫子:(M)わたくしに何が出来るか、わからない。でも、きっと、世の中を変えて見せるわ!
紫子:菊ちゃん、早く満州から帰ってきて。また、ご一緒におしゃべりしましょうね。


<幕>




※売春防止法が制定されたのは、昭和31年(1956年)である。

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きみへ

 火葬場の黒光りした屋根の真上に広がる真っ青な空に立ち昇って行く、細い白煙。それはまるで、俺にとって父と言う存在そのもののように感じた。掴み所などどこにもなく、少し風が吹けば直ぐに消えてしまう。まるで常に何かに泳がされ、怯えながらも、自分を形作る確固たる筋を曲げようとはしない。そしていつも、酷く自分勝手である。
 そんな父が突然俺達の前から消えてしまったのは、三週間前の事だった。見つかったのはそれから二週間後。俺達の住む町から遠く離れた山中の山小屋で、変わり果てた姿となっていた。しかも随分と古びた男物の学生服を抱き締めていたそうだ。どうしてそんな所に行ったのか、何故そんなものを持っていたのかと、俺はただ首を捻るばかり。
 昔から父は何処か抜けていた。ぼんやりしていると言うよりは、自分の世界から一歩も外に出ようとしない。誰の侵入も許さない、彼だけの世界に父は生きていた。そんな父との思い出と言えば、運動会の父兄競技の借り物競争でビリだった事。猫背の背中を更に丸めながら、ごめんと言って俯いた時の顔位。他は何故か、交わした言葉さえも思い出せない。
 父は、本当に家族だったのだろうか────そんな疑惑が湧き上がってしまいそうな程、俺と父、そして父と母との関係性は希薄であった。

「この部屋の物は片っ端から全部これに入れなさい」
 小説や詩集が積み上げられた物置さながらの父の部屋で、遺物を片付けていた俺に、母は疲れた顔でゴミ袋を三枚手渡した。
「遺言書とかないのかな」
「ある訳ないでしょう。一体あの人が私たちに何を伝える必要があるのよ」
 母は何やらぶつぶつと愚痴りながら、部屋を後にした。その背中を見送って、それもそうかと俺は一人納得していた。遺産なんて大層な物は何もないし、父がしこたま溜め込んでいるなんて事もないだろう。父の家族とは絶縁状態。一生社宅暮らしの身の上では、遺言書に書く程のことは何も無い。
 俺の家はごくごく一般的なありふれた家庭。父は三十七歳。どこにでもいるサラリーマンだった。母も同い年で、二人は小学校からの同級生。母は自分の小遣い稼ぎにパートに出ている程度で、これもどこにでもいる主婦だ。学生結婚だったと言う過去は聞いた事があるけれど、そんな二人の間に俺の覚えている限り会話は一切なかった。俺の見ていない所で言い争うなんて事もしない。まるでお互い相手が見えていないかのように振舞っていた。
 そんな不穏な空気を察して、一度聞いた事がある。お母さんはお父さんが見えないの、と。母は幼い俺に、心の中で会話が出来るのよと、苦し紛れの嘘を吐いた。以来、俺は二人について詮索しようとは思わなくなった。母の表情は、それ程に何か深い物を隠していたから。

 積み上げられた本の山の他は、殆どが仕事関係の書類ばかり。どれもこれも十七歳の俺の興味を引く物ではない。迷う事なくゴミ袋に突っ込んでいると、ふとぐしゃぐしゃに丸められた紙が目に止まった。まるでスランプの小説家が次々に捨てて行く原稿用紙のように、気を付けて見ればそこかしこにそのゴミ屑は散らばっていた。ほんの興味本位で開いてみると、横書きの便箋にはたった一言。お元気ですか────それだけが書いてあった。誰かに手紙でも書こうとしていたのだろうか。だが父に友人がいたなんて驚きだ。父は真っ直ぐに会社に行って、真っ直ぐに帰って来るような人だった。休みの日はずっとこの部屋に引きこもり本を読み、顔を見るのは食事の時位。誰かと電話している姿すらも見た事はないし、年賀状も仕事関係以外で来た事がない。
 友人もいない。趣味もない。感情すら見受けられない。この鬱々とした部屋に閉じ籠っているだけの人生。父は、何処にいても孤独な人間なのだと俺はずっと思っていた。そんな父の息子である事が、たまらなく嫌だった事もあった。だがいつしか、俺も母と同じように何もかもを受け入れ、諦めてしまった。父はこう言う人間で、俺達とは少し違う世界に住んでいる。たまたま息子として産まれてしまったけれど、結局は他人なのだからお互い干渉する必要は無い。父は、自分への感情が死んで行く息子にすら、何の興味も無かったように思う。
 そんな父の書いた手紙がどうしても気になり、俺は他のゴミ屑も開いて見た。だが全て同じ言葉で終わっていた。父は一体、誰に何を伝えたかったのだろう。今迄存在すら認識する事の薄かった父への好奇心は、何故かその時に最高潮を迎えた。
 乱雑に積まれた本の山の間。引き出しの奥深く。カーペットの下。ありとあらゆる所をひっくり返し、俺は唯ひたすらに父の欠片を探し回った。

 気付けば夏の太陽も赤々と燃えており、部屋の中は発見された時父が着ていたワイシャツと同じ、鮮血の色に染め上げられていた。
 そして使い古した鞄の中、遂に俺は父を見つけた。小さな無地の巾着袋一杯に詰め込まれた、膨大な手紙。貰った物か、送らなかった物なのか、早鐘を打つ心音は、それを早く知りたがっている。丁寧に封じられた紐を、震える指でゆっくりと解いて行く高揚感。未だ嘗て味わった事のない感覚だ。
「ねえ夕飯だけど、素麺で良いかしら」
 突然、背後から聞き慣れた母の声が響き、俺は咄嗟に開きかけた巾着袋を鞄に押し込めた。恐る恐る振り返るも、母は俺がそれを見つけた事には気付いていないようだ。いつも通りの少し疲れた顔がそこにはあった。
「あ、ああ、良いよ」
 咄嗟のことにやけに上ずった声が出てしまった。母は一瞬訝しげに眉を顰めたが、分かったと言って直ぐに出て行った。
 大きく息を吐き出し、急いで巾着袋を自分の部屋に投げ入れる。幸い父の部屋と俺の部屋は向かい合っており、その行動はキッチンからは見えない。その後は慎重に部屋の物をゴミにして行き、半分も過ぎた辺りで夕食となった。
 食卓に、もう父はいない。父が失踪してから三週間。慣れたはずなのに、何だか今日は不思議な違和感を感じる。いてもいなくても変わらないと思っていた、父と言う存在。だがこの世に存在しなくなったと思うと、何処か寂しく思うのは人間の性なのだろうか。俺も父に負けず劣らず、随分と自分勝手だ。
 今更そんな父の事を知って何が変わる訳でもない。ただ何と無く、知りたいと言う欲求だけが俺の中では膨れ上がる。
「母さん、あの人友達とかいたの」
「学生の頃のはなし?」
 小さく頷くと、母は遠い日に思いを馳せるように視線を投げた。
「そりゃ人並みにはいたわよ」
「親友とかは。今でも、連絡を取るような」
 普段まるで父に興味も無かった俺が、突然こんな事を聞いたのだ。母は当然のように疑惑に満ち満ちた瞳を向けた。
「何が言いたいの」
「いや、葬式……会社関係だけだったから」
 父の細やかな葬式には、それ以外誰も来なかった。親戚付き合いがまるで無い事は知っていたが、よくよく考えてみれば友人が一人もいないなんて可笑しな話だ。それを察したのか、鋭く俺を射抜いていた瞳は、ザルに盛られた素麺へと戻った。
「卒業してからは皆疎遠よ。ほらあの人、ああ言う性格だから」
 母はそれ以上、語ってはくれなかった。

 残りの片付けは明日する事にして、俺は夕飯を食べ終えた後、早々と自室に篭った。勿論、巾着袋の中身を見る為に。軽く二十通はある手紙の中から、封筒に入っていない物を先ず選ぶ。だがどれもこれも、ぐしゃぐしゃに丸められたゴミ屑と同じ、たった一言しか書いてはいなかった。残りは三通。全て、封筒に入っている物だ。宛名は無い。封もされていない事から、父の書いた手紙だと推測出来る。そのうちの一枚を、俺は恐る恐る開いた。

 君へ────。お元気ですか。先ず、約束を破ってしまってすみません。こうして僕が君に手紙を書いた事を、彼女は勿論知りませんので安心して下さい。先月、無事に男の子が産まれました。こんな事を伝えたら、君は怒るだろうか。それとも、嘆くだろうか。僕はそればかりを気にしています。けれど伝えなくてはいけないと思い、こうして君に手紙を書いてしまいました。僕は今でも、あの日の事を後悔しています。どうして、どうして、どうして────その言葉を繰り返して生きています。あんなにも毎日が君に満ちていたのに、今君に会いたいと願うのは、それだけで罪のように感じられる。どうして、こんな事になってしまったのだろう。あの山に行かなければ、あの山小屋の存在を知らなければ、僕達は三人はあの時のままだったのだろうか。彼女は今も、何も知らずに笑っていただろうか。そして僕は、色褪せる事の無いたった一時の夢を、未だに追い続けてはいなかっただろう。僕達が手にした物は、何だったと思いますか。僕は今でも、それが分かりません。責任、使命、贖罪、戯れ。沢山の言葉が当てはまるように思うのに、そのどれも適切では無いように思う。ただ一つ言える事は、あの日の君以上に美しい物が、この世には存在しないと言う事だ。

 そこで終わっていた手紙は、やはり出せなかった物のようだ。先月子供が産まれたと言う事は、もう十七年前の物。大凡初めての息子に浮かれて書いた手紙とはとても思えない。これではまるで恋文だ。この君とは一体、誰なのだろう。彼女と言うのは母の事だろうから、どうやら母と三人で仲が良かったようだけど、父は随分とこの手紙の相手に入れ込んでいるようだ。
 あの父が、浮気────そんな甲斐性があるとは思えないのだけど。だがそもそも十七年も前の出せなかった手紙をこうして持っている以上、浮気と言うよりは本気であったのではないだろうか。他人に愛情や、興味関心を持っていた事に驚きだ。母の事も、俺の事すらも視界に入れなかったあの父が。とても信じられない。一体父の心を掴んで離さなかった人物は何者なのだろう。急かされるように、俺は次の手紙を手に取った。

 君へ────。お元気ですか。彼女の産んだ子供はとても元気に育っていますよ。でも、僕を見て、パパと言います。君によく似た瞳で、君と同じ笑窪を咲かせて。実を言うと、まるで幼い日の君を見ているようで堪らないのです。君と同じ顔の子供が愛しいのに、吐き気がするんだ。こんなにも君に似ているのに、そこにいるのは君では無い。そこにいる君にとって僕はパパで、彼女の心を引き裂いた君の鋭い棘など、そこにいる君は欠片も持ってはいない。しかしその一方で、まるで君の全てを手に入れた気がしました。君にもこのような無邪気な時があった筈だから。年を重ねる毎に、そこにいる君は、君を形造っていたあの毒の棘を身体中から生やす筈だ。だから、僕は遂に彼女と結婚する決心しました。これから僕は、二度と触れられないと思っていた君の全てを手に入れる。あの焦げる程の絶望が、今は叫びたい程の悦びに変わっている。君は喜んでくれるかな。

 俺は思わず手に持っていた手紙を放り投げた。気持ちが悪い、悍ましい、想像以上の嫌悪感から嗚咽を漏らしながら、しかし心の何処かで腑に落ちた。俺は父の本当の息子ではない。あの人にとって俺は無償の愛情を捧げる相手ではなかったのだ。だから他の家庭で言う普通の事が、彼には出来なかった。褒めない。叱らない。目を見ない。存在すら、認識しない。いや、認識はしていたのかもしれない。父は俺を、手紙の君として見ていたのだから。
 俺をその人の代わりとして見ていた。そのゾッとするような真実に、くらくらと揺れる頭を抱え、俺はリビングに足を運んだ。居間のソファで洗濯物を畳む母の横顔は、いつもとなんら変わりない。傍に歩み寄った俺を、不思議そうな顔が見上げる。
「母さん、俺はあの人の子供じゃないの」
 一瞬の乱れもなく、母は俺の言葉を笑い飛ばした。
「そんな訳ないじゃない。どうしたの」
 俺は笑い返す気にはなれず、握り締めていた手紙を差し出した。目を丸くしながらそれに目を通し、母は青褪めた顔で呟いた。
「あの人、こんな物を書いていたなんて」
 最早逃げられない事を悟った母の表情は、酷く動揺していて、手紙を握り締める手はぶるぶると震えている。
「あんたの本当の父親は、亡くなったの。あんたが産まれる前に」
 驚きに言葉を失くす俺をおいて、母は言葉を繋いだ。
「あの人と私と彼は、幼馴染だった。よく三人で遊んでいたの。それだけよ」
 そして、父は彼の事が好きだったと言う訳か。
「隠していて悪かったと思ってる。でも当時の事はもう、思い出したく無いの、ごめんなさい」
 母はそう言って、震える手で口元を覆った。父とその人の関係を、母は知っていたのだろうか。父が、彼を想っていた事。だが思い出したくないと言う言葉は、何もかもを知りながら目を背け続けた故に生まれた言葉のような気がした。そして母という生き物の持つ強さだけで、倒れそうな現実を前に正気を保っているような気がした。

 一人自室に戻っても、俺は大量の手紙を前に何一つ動かす事が出来なかった。指先一つ、枷を施されたかのように重い。それでも思考は追い求めた。もういない父の残していった、真実を。父は何故あの山に行ったのだろうか。それを知る為に、最後の手紙の封を切った。

 君へ────。お元気ですか。こちらは随分と暑くなって来ました。君が一番、好きな季節です。照り付ける鬱陶しい太陽の下、弾む汗を輝きに変えて、誰よりも煌めく君を思い出します。君は覚えているだろうか。あの山中で、人目を気にせず無我夢中で唇を重ねた日の事。君の素肌を味わい、君の熱を感じた。纏わり付く湿気を帯びた重い暑さ。滴る汗と欲の混ざり合った匂い。背徳に呑まれ、僕達は性の尽きる迄愛し合った。僕は未だ、あれ程に人を愛した事は無い。僕の時は止まったまま、針はぴくりとも動かない。けれど、最近軋んだ音を立て、何かが動き始める予感がするのです。息子が、十七歳になりました。あの過ちが起きてしまった時まであと一年。大きくなるにつれて、やはりどんどんと君に似てきています。冷え切った双眸。真っ直ぐな睫毛。白い肌に茶褐色の髪。考える時に首元に手をやる癖までもそっくりです。僕は怖い。やはり、間違ったのだろうかと考える事が増えた。君はもういない。それを受け入れられなかったが故に、繰り返すのだろうか。だから一度、君に会いに行こうと思います。僕の止まった時を取り戻す為に。君をこの手に、取り戻す為に────。
 

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かそう

帰宅したら、早く着替えたい。夏と冬で1セットずつ決めている、毎日同じの部屋着に着替えたい。外で着ていた服は、とっとと洗濯機に入れて、蓋をする。上辺を入れ替えることは容易い。仕事や買い物に外へ出かける、そのほぼ毎日がハロウィン。カボチャのランタンを灯すこと、迎え火と送り火として提灯を灯すこと、その違いについて考えながら、昔住んでいたアパートのガスコンロが着火する音を思い出せないでいる。
かそう

そうか
嘘を言った記憶がない。いつ、どこで、誰に言っただろうか。そもそも嘘をつけないから、黙ってしまう。その様子に、怒っているの、と聞かれるが、怒っていない、と嘘の返事をする。嘘をつくこと、黙ること、その罪の重さを比較しながら、昔登録していた出会い系サイトの名前を思い出せないでいる。
かそうか
そう
かそうか
服装は場面を演出してくれる。黒いネクタイの使い道は少なく、白いネクタイの使い道も少ない。子どもの頃、毎週のようにアニメや絵本で見ていたドレスだって、普段目にするものではない。言葉にならない感情は、主に首、及び、腰の角度で表現するのが望ましいとされている。詫び、寂び、これらの言葉の意味を勘違いしながら、昔ハマっていた歌のメロディを思い出せないでいる。
かそうかそう

そうかそうか
かそうをかそうして
かそうをかそうか
借りた金を返したか思い出せないでいる。どれくらい前から新しい洋服を買っていないのか思い出せないでいる。昔使っていたハンドルネームの由来を思い出せないでいる。嫌いだった食べ物の味を思い出せないでいる。友達を失った瞬間を思い出せないでいる。本籍地を思い出せないでいる。道を尋ねる英語を思い出せないでいる。肌色の色を思い出せないで、
そうか
思い出さなくてもいいことを思い出せないでいる。かそうの中心にある巣で、埋もれた記憶は灰になって、リサイクルされて、かそうする。相槌をかす合図に、おやすみなさい、と、いってきます、の繰り返しを、囀る、からだ、かそうして、織られて、一糸ずつ、ずれていくことで、せいけいされること、確かな昔のことを繋ぎ合わせて
かそうを
とく

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リビングの結晶


 コーヒーを淹れる時は最後の雫を落とさない方が良い。先日、そんなことをラジオで聞いた。安物の粉だと雑味までカップに落ちてくるから、とかなんとか。
 僕の感覚ではそれほど安いコーヒーではなかったんだけど、語っていたのが喫茶店を経営している人だった事を考慮して、ほどほどの所でドリッパーを離す。
 喫茶店で扱われる豆と、スーパーの棚に陳列してる豆を同じ基準で考えたら失礼なんだろう。

 カップに溜まる 黒や 黒や
 カップを口元に寄せれば、大人のプライドが湯気と共に鼻をこする。そして、それを縁取るような鮮やかな酸味が後に残る。複雑な香りの中に太陽の下で熟したフルーツを思わせるかすかな芳香があり、見たこともない異国の地を思わせてくれた。飲んでいる時より、淹れている時の方がコーヒーをいちばん楽しめてる気がする。

 しっかりとカフェインを感じさせる香りが、休日だから省エネで済ませようとしていた脳にじんわりと染みてくる。まだ口を付けていないのに、この体たらく。こうして簡単に染められてしまうんだ、僕ってやつは。僕の無意識は水溜まりみたいに浅いのかもしれない。

 午前9時。冬の寒さはいくらか緩んできてるけど、地面を覆い尽くした雪が厳しく冷気を放っている、そんな季節だ。窓越しの外は明るい、いや、眩しい。向かいの家の屋根には硬そうな雪が居座っていて、時折、重たく締まった雪にぶつかった陽差しが飛沫のように散って、きらめいた。
 今はまだ雪が優勢みたい。それでも数週間後には、積もってる雪もほとんどが溶けて消えてしまうだろう。
 春を相手にした勝ち目のない根比べに、雪は命をかけているんだ。雪は雪のままでいられない。水に変わり落ちてしまうか、氷へと変わり永遠に時を止めてしまうか。
 どっちかしかない。
 どっちかを幸せだと思えるぐらいなら、きっとどちらに転んでも幸せに過ごしていけるんだ。
 僕はキッチンに立ったまま、湯気のあがるカップに再び口を付けた。



 階段を下る軽快な足音。
 一息に開かれたドア。
 伊緒。
 今日はいつにも増して魅力的に見える。

 腰のあたりを絞ったホワイトコートは、冬の澄んだ陽差しに負けないように淡い桃色のグラデーションがかかっていて実に可愛らしい。ふわっふわのマフラーと、頭に乗っけたニット帽が童顔な伊緒の雰囲気によく似合っている。アウターの重みに反して、コートの下は意外と薄着、これは本気っぽい。仕掛け上手な伊緒らしい装いだった。割と地味な色合いのパンツを選んでいるのは……お気に入りのブーツを目立たせるためかな。

 二階から降りてきた義理の姉は、今期一番の勝負服で決めていた。
 チラチラと主張してくる片耳のピアスは僕が選んであげた色だ。その一色で全てを許してしまえるほど、僕にとって伊緒は大切な存在だった。

「なんだ、出掛け、」
「由貴、これ苦くない?」

 難しそうな顔で思いっきり台詞を被せられた。家の中で弟が行使できる権利は非常に限られている。その中でどれだけの幸せを作り出せるのかが、弟としての腕の見せ所だろう。

「何? チョコ?」

 伊緒が伸ばしてきた指には1枚の小さなチョコレートが摘ままれている。でも、チョコより飾られた爪に目が惹きつけられた。ホワイトクロスを効かせたチョコレート色のネイルが摘まんだチョコと一体化していて、指先まで甘そうに見えたから。
 手の平で受け取り、口に放り込んでみる。真っ先に主張してきたのは『これが大人の嗜みだ』と言わんばかりに舌の奥まで広がってくる貴い香りだった。これ、高い奴じゃないか? 
 重みを感じさせる苦さが先行して、チョコ特有のまったりとした甘さはあまり感じられない。それでも、美味しいとは思う。

「高いチョコでしょ?」
「値段はどうでもいいの。苦くない?」
「うん、苦い。けど、コーヒーを飲んだ後だから」

 そうなのだ。コーヒーの方が遙かに苦い。苦みの強いチョコレートをテイスティングをするには。ちょっと不向きなタイミングだった。

「食べれそう?」
「僕は全然、普通に食えるよ」
「良かった、捨てなくて済むね。はい」

 そう言って、後ろ手に隠してた小さな包みを渡してくる。やっぱり高級品だ。菓子メーカーに疎い僕でも、さすがに見たことのあるロゴがプリントされている。

「いいの? てか、捨てる気だった?」
「あーちゃんと一緒に食べようと思って買ったんだけどさ。変なの渡せないなって思って毒味したら、食べれないような味じゃん? 欲しかったのはそういうのじゃないんだけどな~」

 あーちゃんというのが今の彼氏らしい。この程度の苦みであれば彼氏も嫌がらないと思うけど、一緒に食べることが目的の伊緒にとっては不服であって、不要品になってしまうようだ。香りも苦みも彼女は欲しがらない。ひたすら甘い方がいい。
 知ってる。

「もったいないから貰っておくよ」
「さすが、コーヒーばっかり飲んでる味覚音痴の弟を持つと便利だわ~」

 さらっとコーヒー党をディスるなよ。
 オシャレな小箱には、大きな文字で『高カカオの上品な香り』と書かれている。苦くあるべくして苦かったわけだ。中には板状のチョコが10枚ほど入っていた。

「買う時確認しなかった?」
「何を?」
「カカオ含有量」
「そんな健康志向かぶれの人みたいな真似しないよ」
「……そっか。じゃあ、パッケージで選んだんだ?」
「そう。大人っぽくて贈り物に良さそうじゃない?」
「うん、贈り物には良さそうだね」

 あーちゃんは年上か。もう1枚口に入れて、そのあーちゃんなる人物を想像してみる。どんな見た目にしろ長続きしないだろうな。前回、前々回とも年上だったはずで、いずれも半年持たずに縁が切れていた。
 知らずに口の端があがる。こんな些細な事にも甘みを感じられるぐらい、僕の舌はバカになっていた。
 視線を感じて、手元のパッケージに向いていた顔を上げると、伊緒がこっちを見ていた。もぐもぐしてた所を見られていたらしい。

「由貴」
「どした?」
「お返し期待してるね?」

 伊緒が微笑む。僕の友人たちは小悪魔チックな笑顔と言っていたけど、その汎用的な表現が嫌いだった。
 強気に細められた目尻の笑顔。丸みを帯びる柔らかな頬の笑顔。それらは全て伊緒だけの微笑みだ。他人と一括りにできる華やかさじゃない。
 あっと、話を聞かないと。

「え?」
「今日、2月14日」

 忘れてた。

「は? 不要になった物を善意で引き取っただけなのに」
「チョコはチョコでしょ。文句あるの?」

 せめて僕のために買ってきた物をですね……。
 伊緒が近づいてきて、僕の肩をポンと叩いた。

「これ、高級品だったんだから」
「しってますよおねえさま」
「よろしい」

 貰おうが貰うまいが、どうせホワイトデーには何かしら渡してるからいいんだけど。
 一緒に住むようになってから始めた習慣だった。




 バレンタインのイベントを済ませると、伊緒はパタパタと支度を調えて玄関へ向かった。キッチンから音の立つ方へ声を投げる。

「あ、伊緒!」
「なーにー?」
「夕飯いらない?」
「いらなーい」

 こうしてクリームシチューの出番は明日に回った。今夜は一人飯、レンチンで済ませよう。

「行ってきまーす!」
「いってらっしゃい」

 今のところ、世界で僕だけが使える挨拶を交わして伊緒を送り出した。そんな触れているのか分からないぐらい些細な温もりの積み重ねが、毎日の原動力になっていた。自称、世界一エコロジィな生きものであると思ってる。



 椅子に座って、人肌まで冷めたコーヒーを啜る。微妙な立ち位置のチョコを食べながら。
 春を相手にした勝ち目のない根比べに、雪は命をかけているんだ。雪は雪のままでいられない。水に変わり堕ちてしまうか、氷へと変わり永遠に閉ざしてしまうか。

 常に苦みを味わうことで、たとえば誰もが苦いと顔をしかめるチョコレートをかじっても、その中にある甘さを享受できるだろう。
 春を、望まなければ。

 いつの間にか日が陰り、窓の外に雪がチラつく。
 デート、降られないと良いけど。
 伊緒は冷たいのが苦手だから。


 外も 家も
 一般的な常識も 二人の関係も
 感情も思い出も夢も
 目に見える物 全てを
 僕は
 透明な結晶の中に収めていた。





ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
  

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金色の融解

第一章 硝子の迷宮と千の視線

 一月の風は、剃刀の刃のように鋭利で、冷たかった。
 乾いた街路樹が骸骨の指のように空を引っ掻く中、羽生慎吾はコートの襟を立て、芦田財閥の当主が隠棲する屋敷の門を潜った。
 山の手の奥深くに位置するその洋館は、周囲の高級住宅街からも浮き上がった異様な威圧感を放っていた。外壁はすべて黒い煉瓦で組まれ、窓という窓は分厚いビロードの幕で閉ざされている。まるで、屋敷そのものが巨大な生き物の死骸であり、その内部で腐敗していく時間を拒絶しているかのようだ。
 羽生がここを訪れたのは、単なる警備の依頼ではなかった。奇人として知られる芦田氏が、最近入手した「ある秘宝」に取り憑かれ、何者かに奪われるのではないかという強迫観念に囚われている——そんな噂を聞きつけた興信所の上司が、なかば厄介払いのように羽生を派遣したのが事の始まりだった。
「お待ちしておりました、羽生様」
 重厚な扉を開けたのは、蝋人形のように表情のない老執事だった。
 通された廊下は、外気とは裏腹に不快なほどの暖気に満ちていた。空調の音が、どこか遠くで唸る獣の呼吸のように低く響いている。羽生は額に滲む汗を拭いながら、執事の背中を追った。
 足元には、深紅の絨毯がどこまでも続いている。それは驚くほど毛足が長く、踏みしめるたびに靴底が数センチほど沈み込むような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、巨大な生物の舌の上を歩かされているような感触。羽生はその感触に微かな生理的嫌悪を覚えつつも、屋敷の奥へと進んだ。
 通されたのは、屋敷の最も奥まった場所にある応接室だった。
 部屋の主、芦田は、暖炉の前にある革張りの安楽椅子に深く体を沈めていた。痩躯の男だった。眼窩が極端に窪み、その奥にある瞳だけが、病的な光を宿してギラギラと輝いている。
 壁面には、彼の異常な蒐集癖を証明するコレクションが所狭しと並べられていた。
 剥製だ。それも、ただの剥製ではない。
 鷹、梟、狼、そして深海魚。あらゆる生物が、生前よりも鮮烈な色彩を施され、硬直している。だが、最も異様なのはその「目」だった。すべての剥製の眼窩には、本来の硝子玉ではなく、宝石や貴金属で造られた特注の義眼が嵌め込まれていたのだ。
 ルビーの瞳を持つ兎、サファイアの瞳を持つ蛇、そしてエメラルドの瞳を持つ巨大な蜥蜴。
 無数の視線が、侵入者である羽生を無言で射抜いていた。
「……君か。私の『目』を守ってくれるという男は」
 芦田の声は、枯れ葉が擦れ合うように乾いていた。
「初めまして、芦田様。羽生です。本日は、その『目』の警護について詳細を伺いに……」
「警護ではない!」
 芦田は突如として叫び、瘦せこけた腕を振り上げた。その手には、琥珀色の液体が入ったブランデーグラスが握られており、中身が激しく波打った。
「警護などという俗な言葉で片付けるな。私が君に頼みたいのは、立会人だ。これから行われる神聖な儀式の、唯一の証人になってもらいたいのだよ」
 芦田は立ち上がり、よろめくような足取りで羽生に近づいた。酒と、防腐剤のような独特の甘い香りが漂ってくる。
「見せてやろう。私が手に入れた、究極の眼球を」
 芦田に導かれ、羽生はさらに奥へと進んだ。
 廊下の突き当たりにある扉の前で、芦田は立ち止まった。そこは屋敷の増築部分にあたり、南側に張り出したサンルームへと続いている。
 芦田が震える手で鍵を開けると、むせ返るような熱気が奔流となって押し寄せてきた。
 
 そこは、硝子の檻だった。
 四方の壁はおろか、天井までもが強化硝子で組まれている。冬の低い太陽光が、硝子のレンズ効果によって集約され、室内は温室どころか灼熱の様相を呈していた。
 部屋の中央に、黒檀の台座が置かれている。
 そしてその上に、それはあった。
 『深海魚の金色の眼球』。
 直径五センチほどの球体は、一見すると純金で鋳造されたかのように見えた。だが、金属特有の冷たさはなく、どこか粘度を感じさせる艶めかしい光沢を帯びている。表面には微細な血管のような模様が走っており、見る角度によってその表情を変える。
 羽生は息を呑んだ。それは確かに美しかったが、同時に言い知れぬ禍々しさを孕んでいた。
「……これは、金ですか?」
「金であり、金ではない。これは深海の底、光の届かぬ世界で進化した、未知の生物の眼球だ。あるいは、錬金術の到達点かもしれない」
 芦田はうっとりとその球体を撫でた。その指先が触れると、球体はまるで体温に反応するかのように、一瞬だけ濡れたような輝きを増したように見えた。
「私はね、羽生君。この美しさが永遠であるなどとは思っていない。形あるものは、すべて崩れ去る。だが、その崩壊の瞬間にこそ、真の美が宿るのだ」
 芦田の言葉は、羽生には理解不能な世迷い言にしか聞こえなかった。だが、依頼主の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「それで、私は何をすれば?」
「この部屋には、入り口が一つしかない。窓はすべて嵌め殺しだ。これから私は、この部屋で一人、この『目』と対話をする。君には、この扉の外に立ち、決して誰も近づけないように見張っていてほしい」
 芦田は懐から、重厚な真鍮製の鍵を取り出し、羽生に押し付けた。
「私が中に入ったら、外から鍵をかけたまえ。そして、私が声をかけるまで、何があっても開けてはならない。たとえ、天変地異が起きようともだ」
 羽生は困惑しながらも、その鍵を受け取った。
 ずっしりとした金属の重みが、掌に食い込む。
 芦田はサンルームの中へと入り、中央の安楽椅子に腰を下ろした。彼と金色の眼球の間には、遮るものは何もない。硝子越しに差し込む西日が、室内の温度をさらに上昇させていくのが肌で感じられた。
 
「では、頼んだぞ」
 扉が閉ざされた。
 羽生は言われた通り、外側から鍵穴に鍵を差し込み、二回まわした。カチリ、カチリと硬質な音が響き、密室が完成する。
 
 羽生は扉の前に立ち尽くした。
 廊下は静寂に包まれている。唯一の音は、自分の呼吸音と、遠くで鳴る空調の低い唸りだけだ。
 彼は手持ち無沙汰になり、肩にかけていた鞄からステンレス製の水筒を取り出した。中には氷水が入っている。この屋敷の異常な暑さに、喉が渇いていたのだ。
 一口含むと、冷気が食道を駆け下りていく。羽生は一息つくと、読みかけの週刊誌を取り出し、パラパラと捲り始めた。
 廊下には装飾用の大理石の台座があったが、その上には高価そうな壺が置かれており、水筒を置くスペースはなかった。羽生は仕方なく、水筒を足元の絨毯の上に置いた。
 
 ふかふかとした深紅の絨毯に、銀色の水筒が沈み込む。
 その場所は、サンルームへと続く扉の蝶番のすぐ脇だった。
 羽生は気付いていなかった。
 扉の下、わずか数ミリの隙間から、サンルーム内の熱気が、見えない蛇のように這い出してきていることに。
 そして、その熱気が、冷え切った水筒の表面に触れ、無数の結露を生み出し始めていることに。
 
 扉の向こうでは、芦田が恍惚の表情で「目」を見つめていた。
 室温はすでに四十度を超えようとしている。
 金色の球体の表面に、汗のような微かな水滴——いや、油滴が浮かび上がった。
 固形物が、その輪郭を保てなくなる境界線。
 融点という名の死刑宣告が、静かに、しかし確実に迫っていた。
 
 羽生は時計を見た。午後三時十分。
 まだ十分しか経っていない。
 だが、この静寂は、嵐の前のそれとは違う。もっと粘着質で、逃れられない運命の重みを含んだ静寂だった。
 廊下の壁に掛けられた剥製たちが、ガラス玉の瞳で羽生を見下ろしている。
 「お前も見ているのか」と、彼らが嘲笑っているような気がして、羽生は身震いをした。
 彼はまだ知らない。
 自分が今、ただの警備員ではなく、狂気が描く幾何学模様の一部、その最も重要な一点として配置されていることを。

第二章 灼熱の檻

 時間は、蜂蜜のように重く、緩慢に流れていた。
 羽生慎吾は、サンルームへと続く重厚な樫の扉の前に立ち尽くしていた。背後の廊下には、死した獣たちの剥製が沈黙を守り、ただ硝子玉の瞳だけが、この孤独な番人を冷ややかに観察している。
 腕時計の秒針が、カチ、カチと無機質な音を刻むたびに、羽生の神経はやすりで削られるように磨り減っていった。
 十分が経過した。
 扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。芦田が息をしているのか、あるいはあの奇怪な「金色の眼球」に見入ったまま石像と化してしまったのか、羽生には知る由もなかった。ただ、扉の木目を透かして、異様な「圧」だけが伝わってくる。
 羽生は不快な汗を拭った。
 空調が効いているはずの廊下だが、この扉の周辺だけは別世界のように暑い。扉の下、床とのわずかな隙間から、熱気が陽炎のように漏れ出し、羽生の足元を舐めていた。
 それは単なる暖房の熱ではない。冬の低い太陽光を一点に集め、逃げ場を失った光エネルギーが飽和し、空気そのものを焦がしているような、暴力的で濃密な熱波だった。
 喉が渇く。
 羽生は足元に置いたステンレスの水筒に視線を落とした。
 絨毯の上に置かれた銀色の筒は、この灼熱の廊下において唯一の「冷点」だった。内部の氷水が周囲の熱気を冷やし、表面にはびっしりと結露が浮かんでいる。大粒の水滴が、まるで冷や汗のようにステンレスの肌を伝い落ち、深紅の絨毯へと吸い込まれていく。
 ポタリ、ポタリ。
 水滴が落ちるたびに、毛足の長い絨毯はそれを貪欲に飲み込み、湿った染みを広げていた。
 羽生は何気なくその染みを見つめた。
 奇妙なことに、水筒から落ちた水は、単に真下へ染み込むだけでなく、扉の方角——つまり熱源の方へ向かって、絨毯の繊維を伝うように微かに滲んでいるように見えた。
 毛細管現象か、あるいは床の微妙な傾斜か。
 羽生はそれを深く考えることなく、再び視線を扉へと戻した。彼の認識の外側で、物理法則は静かに、しかし致命的な仕事を進めていた。熱せられた空気は膨張し、冷えた場所へと逃げ場を求める。そして、扉の向こう側で形を失いつつある「何か」もまた、その熱の流れに乗って、繊維の森を移動し始めていたのだ。
 二十分が経過した。
 羽生は、扉の向こうから、微かな音が聞こえたような気がして耳をそばだてた。
 ピシッ。
 それは、硬いものが熱で膨張し、限界を迎えて爆ぜるような音だった。あるいは、ガラスが鳴いたのか。
 続いて、ドロリ、という粘着質な幻聴が脳裏をよぎる。実際に音がしたわけではない。だが、扉の隙間から漂ってくる匂いが、変化していた。
 先ほどまでの防腐剤の匂いに混じって、どこか甘く、焦げ付いたような、そして金属が錆びた時のような鉄錆の臭気が鼻孔を突いたのだ。
 それはかつて、羽生が町工場で嗅いだことのある、半田ごてで溶かされた松脂と鉛の匂いにも似ていた。
 芦田は何をしているのだろうか。
 「神聖な儀式」と彼は言った。あの中で、あの金色の眼球を前に、彼は一体どんな祈りを捧げているというのか。
 羽生は週刊誌を読むのを諦め、水筒を手に取ろうと屈み込んだ。
 その時だ。
 指先が水筒の側面に触れようとした瞬間、彼は違和感を覚えた。
 水筒の底が、絨毯に「吸い付いて」いたのだ。
 単に重みで沈んでいるのではない。何かしらの粘性を持った液体が、水筒の底と絨毯の繊維を接着剤のように繋ぎ止めているような感触。
 (……なんだ? こぼしたジュースが乾いたのか?)
 羽生は力を込めて水筒を引き剥がした。
 バリッ、という微かな音と共に、水筒は絨毯から離れた。底を見ようとしたが、薄暗い廊下ではよく見えない。ただ、指先に触れた絨毯の毛先が、冷たく、そして硬く固まっているのがわかった。
 結露した水が凍ったわけがない。ならば、これは何だ?
 羽生の背筋に、冷たいものが走った。物理的な冷気ではなく、得体の知れない現象への直感的な忌避感だった。
 その時、静寂が破られた。
「ああっ! ああ……逝ってしまった!」
 扉の向こうから、芦田の絶叫が轟いた。
 それは助けを求める悲鳴ではなかった。愛する者が息を引き取った瞬間の慟哭か、あるいは、あまりにも美しい奇蹟を目の当たりにして正気を失った信徒の賛美歌か。歓喜と絶望が綯い交ぜになった、魂の叫びだった。
「芦田さん!?」
 羽生は水筒を放り出し、扉に駆け寄った。
「どうしました! 開けますか!?」
「消えた! 溶けた! 光になった! ……ああ、何という残酷な純粋さだ!」
 芦田の声は、もはや会話として成立していなかった。ただのうめき声、あるいは笑い声に変わっていく。
 緊急事態だ。
 羽生はポケットから鍵を取り出した。手汗で滑る指を叱咤し、鍵穴に差し込む。
 金属同士が擦れ合う音が、やけに大きく響いた。
 ガチャリ。解錠の音がする。
 羽生はノブを回し、勢いよく扉を押し開けた。
 ドッ!
 開かれた隙間から、爆風のような熱気が噴き出した。
 羽生は思わず顔を背けた。それはサウナの扉を開けた時のような、息苦しいほどの湿気と熱量だった。
 目が慣れるのを待って、羽生は室内へと踏み込んだ。
 そこは、光の洪水だった。
 西日が強化ガラスの壁と天井を透過し、室内を黄金色に染め上げている。あまりの眩しさに、羽生は目を細めた。
 そして、その光の中心に、芦田がいた。
 彼は部屋の隅、ガラス壁に張り付くようにしてへたり込み、両手で顔を覆って震えていた。
 羽生の視線は、部屋の中央へと走った。
 黒檀の台座。
 三十分前、確かにそこに鎮座していたはずの『深海魚の金色の眼球』。
 
 ない。
 跡形もなく、消え失せていた。
「……芦田さん、眼球は? どこへやったのですか」
 羽生は部屋を見渡した。隠せる場所などない。家具は台座と安楽椅子のみ。床は継ぎ目のない石材で、カーペットすら敷かれていない。
 芦田は顔を覆った指の隙間から、狂気に満ちた目を覗かせた。
「どこへもやっていない……。あれは、昇天したのだ。この熱と、光の中で、自らの質量を捨て去り、概念へと還っていったのだよ」
「そんな馬鹿な。盗まれたのですか? 誰かが入ってきたのですか?」
「誰もいない! ここには私と、あれしかいなかった! 私は見ていたんだ、あれが……あの美しい金色の瞳が、とろりと輪郭を崩し、滴り落ちることもなく、空中の光粒子と混ざり合って霧散していくのを!」
 羽生は台座に駆け寄った。
 黒檀の表面には、傷一つない。埃一つない。
 眼球があった場所には、微かな油染みのような痕跡すらなかった。完全に、ドライな状態で、物体だけが消失していた。
 (あり得ない……)
 羽生は混乱した頭で、物理的な可能性を検索した。
 窓はすべて嵌め殺し。割られた形跡はない。
 唯一の出入り口である扉の鍵は、ずっと自分が持っていた。
 芦田が隠し持っている? 彼の薄手のシャツとスラックスには、直径五センチの球体を隠せるような膨らみはない。それに、彼は一度も台座から動いていなかったと主張している。
 
 羽生は台座の表面に触れてみた。
 熱い。火傷しそうなほど熱せられている。
 「……溶けた、と言いましたね。もし溶けたのなら、液体となって床に流れているはずだ」
 羽生は床を這いつくばるようにして調べた。
 だが、石材の床には一滴の液体も落ちていない。台座の脚にも、液垂れの跡はない。
 固体が気体に昇華したとでもいうのか? 金が?
 
 ふと、羽生は扉の方を振り返った。
 開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下に、深紅の絨毯が見える。
 そこには、彼が放り出したステンレスの水筒が転がっていた。
 サンルームからの強烈な西日が、廊下へと長く影を伸ばし、その光の先が偶然にも水筒の底を照らし出した。
 キラリ。
 羽生は目を疑った。
 転がった水筒の底、銀色のステンレスの縁に、何かが付着していた。
 それは微量だったが、西日を受けて鋭く輝く、金色の粒子のようだった。
 泥ではない。錆でもない。
 それは、この世ならざる輝きを放つ、黄金の欠片に見えた。
 「……まさか」
 羽生の脳裏に、先ほどの違和感が蘇る。
 水筒が絨毯に張り付いていた感触。
 扉の下の隙間から漏れ出ていた熱気。
 そして、芦田の言葉。「滴り落ちることもなく、消えた」。
 芦田はまだ、部屋の隅で「素晴らしい、素晴らしい」と譫言のように繰り返している。
 羽生は背筋が凍りつくのを感じた。
 眼球は消えたのではない。
 形を変え、姿を変え、この密室の物理的な隙間——熱と繊維と重力の法則を利用して、扉の下を潜り抜け、外にいた自分の足元へと「移動」してきたのではないか。
 もしそうなら、自分はずっと、消失トリックの片棒を担がされていたことになる。
 冷えた水筒という、凝固のための触媒として。
 羽生は震える手で、ポケットの中の携帯電話を掴んだ。警察を呼ばなければならない。だが、警察に何と説明すればいい?
 『密室から黄金の眼球が蒸発し、その死骸が私の水筒に憑依しました』とでも言うのか。
 
 熱帯のようなサンルームの中で、羽生だけが極寒の恐怖に晒されていた。
 無数の剥製の視線が、廊下の奥から彼を嘲笑っている。
 お前も共犯者だ、と。

第三章 幻影の書庫

 深い深い緑の影が、西日に長く伸びていた。
 都市の喧騒から切り離された路地裏、そのどん詰まりに、古書店『幻影洞』はひっそりと口を開けている。看板は煤けて文字が読めず、硝子戸の奥は常に薄暗い。そこは現世の時間から見放された、知識の墓場のような場所だった。
 羽生慎吾は、重い足取りでその敷居を跨いだ。
 コートには冬の冷気が染み付いていたが、それ以上に彼の顔色を蒼白にさせているのは、三日前に体験した悪夢のような記憶だった。
 店内の奥まった一角、琥珀色の光がわずかに差し込む机に向かい、店主の真宮鴉(まみやからす)は静かに座っていた。彼は古い天文書の頁を捲る指を止めず、顔も上げずに客人を迎えた。
「……死人のような足音だね、羽生君。厄介ごとかい」
 その声は、埃っぽい店内の空気によく馴染む、低く、乾いた響きを持っていた。
 羽生は返事をする余裕もなく、真宮の前の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
「真宮さん、どうか知恵を貸してほしい。物理的にはあり得ないことが起きたんだ。いや、あり得ないというよりは、私の目が、私自身の正気を疑っていると言ったほうが正しいかもしれない」
 羽生は震える手で、鞄の中からステンレスの水筒を取り出し、机の上にドンと置いた。
 その底には、乾いた金色の汚れが、毒々しい痣のようにこびり付いている。
「三日前、芦田財閥の屋敷で起きた『消失事件』。新聞にも載っていないが、君の耳には入っているだろう」
「ああ。芦田の変人が、秘蔵のコレクションを失って発狂したという噂ならね。だが、警察は被害届を受理しなかったそうじゃないか。『盗まれたものは何もない』と本人が主張したからだとか」
「……その通りです。警察は、芦田氏の妄言として処理しました。密室から黄金の眼球が消えたなど、誰も信じなかった。しかし、私は見たんです。確かにそこにあったものが、陽炎のように消え失せるのを」
 羽生は、あの灼熱のサンルームでの出来事を語り始めた。
 完全なる密室。唯一の出入り口を守る自分。灼熱の室温と、芦田の絶叫。そして、跡形もなく消え失せた『金色の眼球』。
 真宮は言葉を挟まず、静かに聴いていた。机の上に置かれた紅茶が冷め、表面に微かな膜が張っている。真宮はその膜を銀のスプーンの先で突つき、壊した。壊された膜は、琥珀色の液体の上で不規則な模様を描き、やがて消えていく。
「……それで、君はこの水筒の汚れが、その『眼球』の成れの果てだと言うのかね」
 真宮はようやく顔を上げ、水筒を手に取った。細長い指が、底に付着した金色の粒子をなぞる。
「ええ。私はそう確信しています。ですが、理屈が通らない。あの部屋は密室でした。扉の下には数ミリの隙間がありましたが、眼球は直径五センチの球体です。転がり出ることは不可能です。それに、もし溶けて液体になったのだとしても、なぜ床を濡らすことなく、数メートルも離れた私の水筒にピンポイントで移動できたのですか?」
 羽生は、この三日間、不眠不休で考え続けた自説をまくし立てた。
「あれは、生き物だったんですよ。芦田氏が言っていた通り、深海で進化した未知の生命体だった。熱に反応して気化し、ガスとなって隙間を抜け、冷たい場所を求めて私の水筒に凝結した……そう考えるしかありません。あるいは、芦田氏が黒魔術的な儀式を行い、物質転送を行ったか」
 羽生の目は血走り、憔悴の色が濃かった。未知への恐怖が、彼の論理的思考を食い荒らしている。
 真宮はため息交じりに水筒を置き、背後の書棚から一冊の分厚い書物を取り出した。
「気化、ガス、黒魔術。……面白いが、君らしくもない飛躍だ。恐怖は人間の想像力を逞しくするが、同時に眼を曇らせる」
 真宮が開いたページには、複雑な化学式と、金属の結晶構造図が描かれていた。
「羽生君。君は『見た』と言ったが、本当に見ていたのか? 君が見ていたのは、『金色の眼球』というラベルを貼られた情報であって、その物質の本質ではなかったのではないか」
 真宮は立ち上がり、店の隅にある実験用の小さな流し台へと歩み寄った。
「君の言う通り、金(ゴールド)は融点が千度を超える。あの程度のサンルームの熱で溶けるはずがないし、気化など論外だ。だが、もしあれが『金』に見せかけた別の物質だったとしたらどうだ?」
「別の物質……? ですが、あの輝きは間違いなく金でした。それに、仮に溶ける素材だったとしても、液体が意思を持って移動するなんてあり得ない」
「意思などない。あるのは物理法則だけだ。水が高いところから低いところへ流れるのに、意思が必要かね?」
 真宮はビーカーに水を入れ、そこに一本の細いガラス管を差し込んだ。水面が管の中を吸い上げられるように上昇していく。
「毛細管現象。君も理科の授業で習ったはずだ。液体は、狭い隙間や繊維の中を、重力に逆らってでも進むことができる。特に、濡れ性の高い液体と、それに適した素材があればね」
 真宮の視線が、羽生の足元に向けられた。
「君は言ったね。廊下には、毛足の長い、深紅の絨毯が敷き詰められていたと。そして君は、水筒を『扉の蝶番の近く』に置いていたと」
 羽生はハッとした。
「絨毯……。まさか、あの絨毯が、道になったと言うのですか?」
「その絨毯は、扉の内側——サンルームの中まで続いていたかね?」
「いえ、サンルームの床は石材でした。絨毯は扉の敷居までです。……ああ、でも待ってください。扉の下の隙間から、絨毯の毛先が少しだけ、内側にはみ出していたかもしれません。あの部屋は、内側から圧力がかかっていたから」
 真宮は満足げに頷いた。
「道は繋がっていたわけだ。だが、それだけでは足りない。液体を誘導する『引力』が必要だ。それが、君の水筒だよ」
 真宮は冷めきった紅茶を、ビーカーの中に一滴垂らした。琥珀色の雫は、水の中でゆっくりと拡散していく。
「熱力学の第二法則。熱は高い方から低い方へと流れる。そして、ある種の合金は、温度差によってその表面張力を劇的に変化させる。……羽生君、君は芦田という男の狂気を『黒魔術』だと思ったようだが、彼はもっと冷徹な、サイエンスの信奉者だよ。彼が愛したのは、神秘ではなく、計算され尽くした『崩壊の物理学』だ」
 羽生は呆然と水筒を見つめた。
 自分の持ち物が、単なる飲み物の容器ではなく、物理トリックの最重要パーツとして利用されていたという事実に、吐き気を催した。
「じゃあ、私は……私は、彼のアートのために、知らず知らずのうちに共犯者にさせられていたというのか」
「共犯者であり、最後の受け皿だ。彼の手元に残ったのは『消失』という概念だけ。そして物質としての残骸は、君という外部の観測者が持ち去った。……完璧だと思わないか? 彼は神になり、君は聖遺物の運搬人になった」
 真宮の言葉は、冷酷なまでに美しく響いた。
 だが、羽生にはまだ納得できないことがあった。
「理屈は……なんとなく分かりました。でも、なぜ『金』が溶けるんです? あれは確かに金属の光沢を持っていました。蝋や氷ならともかく」
「そこが、このトリックの最も悪趣味で、美しいところさ」
 真宮は実験台の引き出しから、小さな金属片を取り出した。銀色に鈍く光るその欠片を、彼は掌に乗せた。
 すると、どうだろう。
 真宮の体温に触れた瞬間、その金属片は見る見るうちに輪郭を崩し、水銀のようにドロリとした液体へと変化したのだ。
「ガリウム、あるいはウッドメタル。融点の低い金属はいくらでもある。だが、芦田が使ったのはもっと特殊な配合だろう。黄金色に見せるための着色、粘度の調整。……彼は、その『眼球』を作るためだけに、莫大な財と時間を費やしたはずだ」
 真宮は液体になった金属を、再びガラスの皿に戻した。皿の上で冷やされた金属は、瞬く間に凝固し、元の硬質な塊へと戻っていく。
「見るがいい。これが『金色の目』の正体だ。熱せられれば涙のように流れ、冷やされれば石のように固まる。この性質を利用して、彼は密室からの脱出劇を演出し、君の水筒の底にへばりついたのだよ」
 羽生は戦慄した。
 魔法でも超常現象でもない。そこにあるのは、冷徹な物質の特性だけだった。
 だが、それが人間の狂気によって組み上げられた時、幽霊よりも恐ろしい「奇蹟」が生まれるのだ。
「真宮さん。……これを、どうすればいいのですか。警察に届けるべきですか」
 羽生の問いに、真宮は古書を閉じた。バサリ、という音が、重苦しい沈黙を断ち切る。
「警察? 彼らがこの科学実験を理解し、芦田を罪に問えるとでも思うのかね? 盗難は成立しない。器物損壊も、自分の物を壊しただけだ。彼に残された罪があるとすれば、それは君の心に、消えない『金色の染み』を残したことくらいだろう」
 真宮は琥珀色の瞳で、羽生を射抜いた。
「だが、謎はまだ半分しか解けていない。物理的な『ハウダニット(いかにして)』はこれでおしまいだ。問題は『ホワイダニット(なぜ)』だ。……なぜ彼は、ただ溶かすだけでなく、あのような絶叫を上げたのか。君が聞いた叫び声の意味を、解き明かさねばならない」
 幻影洞の奥で、真宮の目が怪しく光った。
 物理の霧が晴れた後に残るのは、より深く、ドロドロとした人間の闇だった。

第四章 融解する境界

 実験用のガラス皿の上で、銀色の金属片は再び冷たく硬い沈黙を取り戻していた。
 先ほどまで水銀のように蠢き、生きているかのように振る舞っていた物質は、いまや単なる無機質な塊に過ぎない。熱を奪われた物質は死に絶え、そこには魔法の残り香すらなかった。
 真宮は、その冷えた金属の骸を指先で弾いた。チン、という硬質な音が、古書店『幻影洞』の薄闇に波紋のように広がる。
「……見てごらん、羽生君。これが『境界』の音だ」
 真宮の声は、古い詩編を朗読するように静かで、深い響きを帯びていた。彼は羽生に向かってではなく、虚空に浮かぶ見えない天秤に向かって語りかけているようだった。
「僕たちは普段、世界を固形物という名のレンガで区切って安心している。壁は壁、床は床、宝石は宝石だとね。だが、ひとたび熱というエネルギーが臨界を超えれば、その境界はあえなく融解する。固体は液体へ、液体は気体へ。形あるものはその輪郭を捨て、隣り合う世界へと浸食を開始する」
 真宮は立ち上がり、書架の影から古びた地球儀を回した。
「芦田という男が魅せられたのは、黄金そのものではない。彼が愛したのは『流転』だ。絶対的な価値を持つはずの黄金が、熱によってその尊厳を失い、ドロドロとした俗物へと堕ちていく……その背徳的なプロセスそのものだよ」
 羽生は、喉の奥が乾くのを感じた。
 真宮の言葉が、脳裏に焼き付いているあのサンルームの光景を、まったく別の色で塗り替えていく。
「想像してごらん。あの硝子の檻の中で起きたことを。……室温が上がり、世界が歪み始める。黒檀の台座に置かれた『金色の眼球』は、耐えきれないほどの熱を帯び、内側から悲鳴を上げたはずだ」
 真宮の瞳が、琥珀色の光を孕んで怪しく揺らめいた。
「それは、深海魚が流す涙のように。
 あるいは、傷口から溢れる黄金の血のように。
 球体という完璧な幾何学図形を保てなくなった『目』は、自らの重みに負けて崩れ落ちた。ポタリ、ポタリと。台座の上で溶けた黄金は、逃げ場を求めて彷徨う獣となる」
 羽生は幻視した。
 灼熱の陽光の中、台座の上で身悶えし、形を失っていく眼球の姿を。それはもはや物質ではなく、苦悶する魂の具現化に見えた。
「でも、台座には跡がなかった……。液体なら、台座を伝って床に落ちるはずでしょう?」
「重力だけが道ではないよ」
 真宮は、羽生の水筒を指差した。
「水は低きに流れるが、渇望は障害を乗り越える。……芦田は、台座の表面に微細な溝を、あるいは撥水ならぬ『撥油』の加工を施していただろう。溶け出した黄金は、一滴も残らず台座の脚を伝い、床へと降りる。だが、そこで止まればただの染みだ。彼は、その黄金に『足』を与えた」
 真宮は床に敷かれたペルシャ絨毯の端を靴先で撫でた。
「毛細管現象という言葉は、あまりに無粋だね。こう言い換えよう。……『乾いた喉』だ。
 扉の下まで続く深紅の絨毯。その無数の繊維一本一本が、渇ききった喉となって、流れ落ちてきた黄金の雫を待ち構えていた。熱せられた液体は、繊維の森を吸い上げられ、貪るように広がり、扉という物理的な境界を、音もなく潜り抜けたのだ」
 羽生の背筋が粟立った。
 自分の足元にあった絨毯。あのふかふかとした感触。あれはただの床材ではなく、黄金を運ぶための無数のストロー、あるいは血管だったのだ。
「そして、その血管の先には、何があったかな?」
 真宮の視線が、羽生の足元にある水筒へと滑る。
「灼熱の砂漠における、唯一のオアシス。
 極限まで冷やされた、銀色の湖。
 熱に浮かされ、形を失って彷徨っていた黄金の魂は、君の水筒が放つ冷気という甘い香りに誘われた。吸い寄せられ、触れ、そして……永遠の安息を得た」
 真宮は両手を広げ、演劇の幕引きのように語った。
「急激な冷却。
 熱を奪われた黄金は、その流動性を瞬時に失う。
 液体から固体への、強制的な回帰だ。
 それは、君の水筒の底に張り付き、同化し、冷たい金属の一部となって、その旅を終えた。
 ……密室からの消失ではない。これは『転生』だよ、羽生君。
 聖なる台座にあった神の目は、ドロドロの欲望となって床を這い、君という無垢な器の底に、醜い痣となって再生したのだ」
 羽生は、自分の水筒を凝視した。
 底にへばりついた、乾いた金色の汚れ。
 あれは、単なる化学物質の凝固ではなかった。
 あれは、かつて「眼球」だったものの死骸であり、同時に、芦田の狂気が物理法則という乗り物を使って、壁を越えてきた証拠だった。
「私は……私は、彼のアートの、ゴミ捨て場にされたというのか」
 羽生の声が震えた。
「ゴミ捨て場であり、墓場だね」
 真宮は淡々と言った。
「だが、君はまだ気づいていないのか? なぜ彼が、あのような絶叫を上げたのかを。
 単に物が移動しただけなら、彼は満足して終わったはずだ。
 だが、彼は叫んだ。『逝ってしまった』と。
 それは成功の歓喜ではない。もっと根源的な、魂を抉られるような恐怖と喪失の叫びだったはずだ」
 真宮は羽生に近づき、その耳元で囁いた。
「物理の謎は解けた。だが、心の謎はまだ闇の中だ。
 鏡だよ、羽生君。
 芦田の屋敷は、鏡と硝子でできていた。
 溶けゆく黄金が、最後に彼に見せたもの。……それは、彼自身の姿ではなかったか?」
 羽生はハッとした。
 あの日、扉を開けた瞬間の、光の洪水を思い出す。
 無限に反射する硝子の壁。
 その中で、黄金が溶け落ちていくとき、その光景はどのように歪み、どのように増幅されたのか。
「さあ、最後のピースを嵌めに行こうか。
 彼が見た『地獄』は、君の水筒の底ではなく、彼自身の網膜の裏側に焼き付いているはずだ」
 真宮は古書のページを閉じた。
 重い表紙が閉ざされる音が、まるで棺桶の蓋を閉める音のように、冷たく響き渡った。

第五章 黄金の呪縛

 古びた天文書が閉じられる音は、まるで裁判官が下す木槌の音のように、羽生の心臓を叩いた。
 机の上に残されたのは、冷めきった紅茶と、底に金色の汚辱を纏ったステンレスの水筒だけだ。
 羽生は、喉から絞り出すように声を上げた。
「……鏡、ですか」
 真宮鴉は、椅子の背に深くもたれかかり、天井の染みを眺めるような遠い目をしている。
「そうだ。あのサンルームは、四方だけでなく天井までもが強化硝子で構成されていた。君は外から見て『光の洪水』だと感じただろうが、中にいた彼にとっては、そこは無限に増殖する『自己』の檻だったはずだ」
 真宮は細長い指を組み、言葉を紡ぐ。
「室温が上昇し、台座の上の『金色の目』がその輪郭を失い始めたとき、何が起きたと思う? 完全な球体だった鏡面が、熱によって崩れ、歪み、不規則な曲面へと変化した。……それは、ただの金属が溶けたのではない。彼が覗き込んでいた世界そのものが、ドロドロに融解したのだ」
 羽生の脳裏に、芦田の屋敷の光景が蘇る。
 灼熱の部屋。中央の台座。そして、それを凝視する痩せた男。
 男は見ていたのだ。金色の瞳の中に映る、自分自身の顔を。
 だが、その瞳が涙のように流れ出した瞬間、映っていた自分の顔もまた、醜く引き伸ばされ、裂け、溶け落ちていったに違いない。
「ナルキッソスは水面に映る自分に恋をして、そのまま花になった。だが、芦田は違った。彼は、自分が愛した黄金の瞳の中に、崩れ落ちていく自分の醜悪な姿を見たのだ。……世界を支配していると思っていた自分が、実は物理法則という巨大な胃袋の中で消化されるだけの、哀れな肉塊に過ぎないと気づいてしまった」
 真宮の声が、低く、冷たく響く。
「彼が上げた叫びは、『眼球』を失った悲しみではない。自分という存在の輪郭(アイデンティティ)が、黄金と共に溶けて、床の染みとなり、君の水筒へと吸い込まれていく……その『自己消失』への根源的な恐怖だったのさ」
 羽生は、自分の水筒をまじまじと見つめた。
 底に張り付いた金色の乾いた汚れ。
 それは単なる金属ではない。芦田という男の、肥大化した自我の死骸だ。
 彼が「逝ってしまった」と叫んだのは、眼球のことではなく、正気を保っていた彼自身のことだったのだ。
「……救いようがないですね。彼は、自分で仕組んだトリックの演出効果によって、自分の精神を焼き尽くしてしまった」
「芸術とは往々にしてそういうものだ。作者をも食い殺す」
 真宮は立ち上がり、店の奥のカーテンを少しだけ開けた。
 外はもう日が落ち、路地裏には夜の帳が下りている。街灯の頼りない明かりが、アスファルトを濡らす冷たい雨を照らしていた。
「さて、羽生君。謎は解けた。君の水筒の底にあるのが、消えた『金色の目』の物理的な正体であり、芦田を発狂させた元凶だ。……どうするね? それを削り落として、綺麗な水筒に戻すかい?」
 羽生は水筒を手に取った。
 ずっしりと重い。中身は空のはずなのに、鉛でも入っているかのような錯覚を覚える。
 爪先で、金色の汚れをカリリと引っ掻いてみた。硬い。それはステンレスの地肌に食い込むように固着しており、簡単には剥がれそうになかった。
 いや、剥がしてはいけない気がした。
 もしこれを削り落としてしまえば、芦田の狂気は行き場を失い、再び亡霊となって自分を追いかけてくるような、そんな不吉な予感が背筋を走る。
「……いえ。このままにしておきます」
 羽生は呟いた。
「これは、私が背負うべき戒めなのかもしれません。他人の狂気を、ただの仕事として安易に覗き込んだ代償としての」
 真宮は、その答えを待っていたかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。それは嘲笑ではなく、同類を受け入れる共犯者の笑みだった。
「賢明だね。怪異というものは、否定すればするほど影を濃くする。いっそ認めてしまい、ポケットに入れて持ち歩く方が、御しやすいこともある」
 真宮は机の引き出しから、一枚の名刺を取り出し、羽生に差し出した。
 そこには『幻影洞』の文字と、電話番号だけが記されている。
「芦田氏は今頃、鉄格子のついた白い部屋で、何もない空間に『完璧な黄金』を幻視して幸せに暮らしているだろう。だが、世界には彼のような歪んだレンズを持った人間が、まだまだ潜んでいる」
 羽生は名刺を受け取った。その紙片は、古書と同じように古びた匂いがした。
「……また、こういうことが起きるとでも?」
「光あるところに影があるように、理(ことわり)あるところには必ず『裂け目』が生じる。君は今回、その裂け目を覗いてしまった。一度あちら側の深淵に触れた人間は、得てして、次の深淵を引き寄せるものだよ」
 真宮の瞳が、薄闇の中で怪しく輝いた。それは、芦田が持っていた義眼よりも深く、底知れない知性を宿していた。
「もしまた、君の常識では計り知れない何かが起きたら、ここへ来るといい。……僕はいつだって、死んだ星の軌道を計算しながら、退屈を持て余しているのだから」
 羽生は小さく会釈をし、水筒を鞄に仕舞った。
 鞄の底で、金色の目を持つ水筒が、ゴロリと寝返りを打ったような気がした。
 
 店を出ると、一月の夜風が頬を刺した。
 街の喧騒が遠くから聞こえる。車のクラクション、人々の笑い声、電車の通過音。
 それらは数時間前と同じ日常の音だったが、今の羽生には、まったく違った響きを持って聞こえた。
 ビルの窓ガラス、アスファルトの水溜まり、ショーウィンドウの鏡。
 街中のあらゆる反射するものが、一瞬だけ歪み、その奥に潜むドロドロとした狂気を見せつけてくるような錯覚。
 羽生はコートの襟を立て、鞄を強く抱きしめた。
 重い。
 だが、その重みだけが、今の彼を現実の世界に繋ぎ止める錨(いかり)だった。
 背後で、古書店の扉の鈴が、チリンと鳴った。
 振り返ると、幻影洞の看板は闇に溶け込み、そこにはただの古びた壁があるだけのように見えた。
 だが羽生は知っている。その壁の向こうに、琥珀色の光と、世界を解剖する探偵がいることを。
 羽生は歩き出した。
 金色の目を鞄に隠し、無数の視線が交錯する夜の街へと、深く沈んでいった。

【了】

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杉並釣友会のあった時代

今も愛用しているハヤ竿を買った釣具店のご主人は、すでに遠出のできない体になっていたが、かつては名門「杉並釣友会」の番付で大関を張るほどの腕利きだった。

同年代がブラックバスのような派手な釣りに血道を上げる中、私は真鮒やヤマメに夢中だった。狭い用水路で、弧を描くように走る真鮒の引き。その手応えに、私はすっかり魅了されてしまったのだ。ヤマメ釣りに至っては、もう一生やめられないだろうから、安易に語ることすら憚られる。

美術学校に進んだ友人は、当時からフライフィッシングを嗜んでいた。私も少しは真似てみたものの、やはりヤマメを釣る方が楽しく、結局はキャスティングが人並みにこなせるようになったあたりでやめてしまった。 あの時、フライなりブラックバスなり、もう少し社交的で時流に乗った釣りに興じていれば、今ごろ浮き世を器用に渡り歩き、華やかな人生を謳歌できていたのかもしれない。けれど私は結局、独りで沢をほっつき歩く星の下に生まれてきたのだ。きらびやかなルアーは、私にはどうにも眩しすぎて似合わない。

私の鮎釣りの師匠は、杉並釣友会の人々と交流があった。井伏鱒二が秋川へ釣りに来た際、案内役を務めるほどの釣り人だった。 師匠から聞く杉並釣友会は、錚々たる文人墨客の集いだったという。彼らが贔屓にしていたのが、相模湖の「小川亭」という船宿だ。井伏のエッセーには、時代の移り変わりを「当節では、小川亭の客筋も変わってしまって……」と女将が嘆くくだりがある。 時は高度経済成長期。流行りの釣りに浮かれた無遠慮な連中が、「おい船頭、舟出せや!」と騒ぎ立てていたのだろう。

かつての小川亭は、東京の旦那衆が「東作」や「竿治」といった名工の手による和竿を携えて訪れるような宿だった。 中央線を東京駅から西へ、杉並を抜けてひた走る。当時は浅川駅と呼ばれた高尾駅を過ぎ、トンネルを抜けてようやく辿り着くのが、与瀬駅(現在の相模湖駅)である。 相模湖はダム湖だ。ダムができる前の小川亭は、桂川の本流でハヤや鮎を狙う客のための宿だったに違いない。それが今では、甲州と八王子のハイブリッドのような妙に騒々しい親父が、濁った声で応対するただのボート屋に成り下がっている。

なぜ今さら杉並釣友会のことを思い出したのかといえば、久々に開いた井伏鱒二のエッセーに、その名や小川亭の文字を見つけたからだ。 もちろん私の知らない、伝聞でしかない世界ではあるが、戦前から戦後の一時期にかけて、そうした風雅な世界が確かに存在していたのである。

もっとも、私が今よく通う西湖の船宿も、なかなかいい。 ここでは企業のオーナーだろうが、世間でサインをねだられるような有名人だろうが、一介の釣り人として平等に扱われる。船宿側も、誰かを特別にちやほやすることはない。 以前、世俗の肩書きを誇示するように「自動車の設計をしている」と吹聴する男が、「ヒメマス番付のようなものを作ろう」と提案したことがあったが、誰一人として乗ってこなかった。 湖上に漕ぎ出せば、ただただ好きなように釣る。棚を聞かれれば教える。それ以外の野暮な話は一切しない。 明文化された決まりはないが、どこぞの「カントリー倶楽部」などより、よほどまともな遊び場だと自負している。

そういえば、ゴルフ好きが聞けば怒るかもしれないが、かつて師匠にこう釘を刺されたことがある。 「ゴルフなんてものは、趣味のない無教養な人間のやることだ。お前はするなよ」 言いつけを守ってゴルフこそしないものの、今の私は公営競技をこよなく愛する、怠惰なルンペンプロレタリアートに成り下がってしまった。

けれど、今も和竿を握ってしっかりヤマメを釣っている。杉並釣友会の番付でいえば、せめて「序ノ口」くらいにはなれたと思うから、天国の師匠も許してくれると思うのだ。

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光の箱

いつの頃からか
わたしのそばにある
小さな箱
蓋を開けると
色とりどりの光がこぼれる
次々と形が変わる
ステンドグラスのように

夜になれば灯りを消して
部屋いっぱいに光をちりばめて
飽きることなく眺め続ける
何日も蓋を開けていると
光が弱まってくるけれど
太陽や月の光に一日さらせば
また鮮やかな輝きを見せてくれる

幼い頃からお気に入りだった
小さな箱
いつしかその光を楽しむことはなくなり
ついには箱そのものも忘れてしまった
それからわたしは様々な経験をして
成功と失敗をいくつもくりかえして
ようやく平穏な時を過ごせるようになった

何気なく机の引き出しを開けると
あの小さな箱がその中に入っていた
それが何なのか思い出せなくても
親しくて懐かしい気持ちになれる
今度はこの箱を持って
どこかへ旅に出ようか

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決済がゾッて鳴く

きみの眼がレジを打つ 
コンビニで 鳥が囀る 
心臓がはねるおと 
割引を待つぎこちなさ
ほんとうは 触れてほしくない
 性別やなにかの隠し事
決済という鳴き声に 
ゾッと 巧くまぎれて
 みんな どこかあおざめた黒い印字に
曝され
小銭じゃらじゃら揺れる   
かごのなか  店員が  とうめいをつきやぶり ハラスメント  

たばこにひをつけた 

 駐車場の  かぞくづれと違う 

ごつごつのアスファルト
うちつけられた
鳩がわたし  

血を流しても  はい、チーズ   

側溝

 決済がゾッて鳴く

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小さな星の軌跡 第19話 「新入部員」

 部活紹介の翌日。
 学校はもう通常の授業になる。一年生も早速六限目までみっちりと授業だ。わたしたちの天文部に来てくれる新入生はいるだろうか?
 放課後、不安と期待とが入り混じったまま、みっちゃんと一緒に第二理科室隣の天文部室に向かうと既に鍵は開いていた。
 耳納先輩とたかちゃんが天気図を書く準備をしている。

「早いね〜」
とみっちゃん。

「昨日の今日で一年生が来るとは思っていないけど、それでもね、やっぱり……」
とは少し照れくさそうなたかちゃん

 理科室は校舎の端なのでその隣の理科準備室の一部な天文部室も廊下を通り過ぎてゆく人影はない。
 引き戸を閉めてしまうと、すりガラスの向こうは静かな放課後となる。

 「じゃあ早速いつも通りに始めようか」
 と耳納先輩。

 ラジオを付け、気象通報に耳を傾ける。

 ふと、今入部希望者が来たらって思うと落ち着かない。いきなりこの状態見たらなんて思うだろう、そんな事を思いながら鉛筆を走らせてゆく。

 ラジオが終わり後は等圧線の書き込み、と皆でちょっとひと段落。いつもだとそのまま等圧線を書き込んでゆき、誰が早いか競争になるんだけど、なんとなく扉の方を見てしまう。

 一年前の自分はどうだったっけ、すこし扉の前をうろうろして、廊下に展示してある鉱物標本を眺めて、中から聞こえる声に聞き耳立てて、静かになった時に思い切ってコンコンとノックした様な、確かそんなだった。

 奥に座っていた耳納先輩の姿。

 部活紹介で見たその人がそこに居る。
もうそれだけで、胸がいっぱいで、そして大きな三年生の甘木先輩と大人っぽく感じた八女先輩。八女先輩はわたしの頭をもみくちゃにして可愛いいと喜んだ。

 そして、そうやって揉まれている所にたかちゃんがすっと扉を開けて
「すみません、入部希望なんですけど」
ってあっさりとやってきた。

 耳納先輩が鉛筆の手を止めて呟く。

「一年前、筑水さんと基山さんが入ってきた時を思い出すな。小さい影がうろうろしているのを僕と八女先輩、甘木先輩でかもーんかもーんおいでおいでって中から手招きしてたんだよ。

「ぷっ……。中でそんな事してたんですか?」
とみっちゃんが吹き出した。

「そりゃね、謎の念力を送ったり……」

その念力で、ノックする決心がついたのだとわたしは思った。

 午後四時半を回って、すりガラスに夕日のオレンジが差し込むようになった時、すっと影が映った。
「誰かきた???」
 わたしたち皆で目配せをする。

 こんこん

「はい、どうぞー」
現時点では部長の耳納先輩。
いつになく背筋を伸ばした、大人っぽい雰囲気だ。

 からからから……

女子一年生だ。きた。きたきたきたきた。
本当にきた。入部してくれるの星は好きなのかな初めてなのかなそれとも気象とか地質とか何が好きで一体どんな子なの???

 頭がいっぱいになる。

「あの、ここ天文部で良いですか?入部希望なんですけど……」

「はい、天文部ですよ。今はまだ部長の耳納です。お名前伺って良いですか?」

「あ、はい。1年C組の星乃です。星乃 霧(ほしの きり)、よろしくお願いします」

先輩が部活の活動記録ノートに名前を書き込んで、間違いないかを確認をする。

「じゃあ簡単に自己紹介しようかな、僕は3年A組。耳納紘、まだ部長です」

「あ、2年A組。筑水せふりです。天文は高校から始めたんだけど、よろしくね」
「2-Bの基山高瀬です。中学の頃から鉱物採取とかやってます」
「2-Aの篠山三智だよ。こっちのちーちゃんとは小学校からの同級生でね。去年の夏頃から星見てるよ」

「この学校の文化部は兼部している人も多くてね。僕は写真部にも入ってます。あと今日はきていないけど、3年生で三人ほど天文部の活動にも参加するから、それは来た時に顔合わせでいいかな」

「わたしたちは兼部はしていないけど、他の部活にゲストで顔出してたり、結構自由だからね。あと部活紹介でも言ったけど、学校に泊まっての観測会があるけどご両親の了解は大丈夫かな?」
と一応の確認。

「あ、それは昨日母と父に聞いて了解取りました。大丈夫です」

よかった。

「ちょっと聞いて良いかな。星乃さんは天文とか気象、どんな所に興味があるとか、こんな事しているとかあるのかな?」
先輩が尋ねる。

「あ、はい。実はあんまり地学とかはよく知らなくて、学校の理科で習ったくらいなんですけど、すみません。……実は絵を描くのが好きで、風景や周りの小物をスケッチしてイラスト描いたり。それで去年のこちらの文化祭で天文部の展示に月のクレーターのスケッチがあったのを見て、あ、こんなことも出来るんだって」

「へえ、それで美術部とかじゃなくてうちの方に?うん、嬉しいね。天文も今はデジタルがどんどん進んでいるけど、古くはね、フィルム写真どころかスケッチも観測記録で重要だったんだよ。天体写真でも風景を絡めて、星の風景ってことで星景写真て呼ばれるけど、スケッチでそういうのを表現するのも面白いかもね」

 耳納先輩が楽しそうだ。特技のある後輩ちゃんが入ってきたのは嬉しいけど、ちょっぴり嫉妬しちゃうぞ。ぷん。

 「星乃さんは、家はどの辺なの」
 とたかちゃん。

 「あ、えと、駅前のアーケードのもう少しうらに入ったあたりなんですけど。古い家が多い所で」

「ん、おーちゃんちの近くかな。3中?」
とみっちゃんが尋ねると

「あ、はいそうです」

「じゃあ小郡律羽(おごおりおとは)さんって一つ上の人は知ってるのかな……」
みっちゃんがすこし声を抑えて尋ねる。

「はい、先輩です。生徒会で一緒でした。大きなお家の。だから高校でもまた先輩後輩になりますね」

 みっちゃん、ちょっとありゃりゃって顔をしている。おーちゃん(小郡さん)は天文部員ではないけど時々は顔を出すし、なんたってみっちゃんの大切な人だからなあ。

 星乃さん、2人の関係を知ったらびっくりするのかな?
 それとも……まあそんな事心配しても意味ないか。

 「じゃあ一通り自己紹介も済んだし、星乃さんはこの入部届に必要事項を書いて持ってきてください、四月最後の金曜は泊まりの観測会を行う予定なので、そのつもりで良いですか?」

 「わかりました。よろしくお願いします、先輩」

 先輩、かあ。今のって耳納先輩だけで無くわたしたち全体なんだよな。
 一年前、何かあれば「先輩」って呼んでたわたしが、今日から「先輩」なんだ。

 耳納先輩も四月の観測会はまだ仕切ってくれるみたいだけど、多分その次はわたしにバトンを渡すつもりだと思う。

 天気図が描きかけのままなのに気づいた。

「星乃さん、わたしとみっちゃんはバス通学だから駅までは通学路一緒だし、ちょっと天気図仕上げるまで待ってくれないかな?10分で仕上げるから」

 はいって返事してくれたので、さくっと仕上げよう。幸いややこしい気圧配置でもない、穏やかな春の陽気の天気図だし。

 興味深く見つめる星乃さんの視線を感じながら耳納先輩とわたしたちは慣れた手つきで仕上げる。

 「じゃ、今日はここまでにしとこうか、皆さんお疲れ様でした」

 校門で一旦皆揃って、そして耳納先輩とたかちゃんは自転車で帰って行った。
 駅に行くバスも程なく来たので3人で乗り込む。ちょっと混んでるので立ったまましばらくすると終点の駅前だ。
 わたしとみっちゃんは山の方へ行くバスに乗り換え。星乃さんと別れると、確かにアーケードうらに行くほうへ向かって行った。

 みっちゃんがつぶやく
「まさかおーちゃんの後輩とは、なんかよく知ってるようだし、どうなのかな」

 わたしもそれに答える。
「心配いらないよ、きっと。先輩らしく堂々と、ね」

 わたしと耳納先輩もお付き合いしながら部活のみんなと一年間上手くやってきた。
 堂々と、恥ずかしい事なんて何もない。

 八女先輩が最後までわたしを応援してくれていた事を思い出しながら、暗くなってきた外を眺めバスに揺られる。

 バスを降りてみっちゃんと別れる。
「じゃあまた明日ね、篠山先輩」
 ちょっとからかって見た。

「もう、ちーちゃんったら。確かにそうだけどさぁ」

 みっちゃんは軽くため息ついて、でもいつもの様に手を振って夕暮れの山裾を帰って行った。
 わたしはすこし山道をのぼる。木々の間に春の星座がちらちらと姿をあらわす。
蟹座、獅子座、乙女座……一年間はわからなかったのが、今のわたしには、この時間のこっちならあの青い星はスピカだと、自身を持って言える。

 ちゃんと一年分成長した。

明日が楽しみだ。それじゃあね。


――つづく

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お月様からの手紙


わたしは月
鏡だよ
君を映す
だからこんなに ピカピカなのさ

わたしは月
君が小さなころから知っている
君はママが運転する車の後部座席から わたしをみては 怖がっていた
「ついてこないで」と言ったね

わたしは月
娘になった君が 泣いた日を知っている 初恋に胸躍らせもしたね しあわせな花嫁になった日も見つめていた

わたしは月
パートナーはいない
君は目下 恋煩い中 君をそんなに夢中にさせる彼が羨ましいな
彼にお熱の君も羨ましいな
わたしは月

みんな夢想している 神聖を けれど
わたしは ただの月
涙する時もある

暫くは永遠の 月
君の息子ももうハタチ
リボンをつけてアイスキャンデー持ってた君が 立派な母になった
だのに君はわたしを見つけては
ごめんなさい と謝ってばかり

わたしは月
どうやら これからも生き永らえる

君達が去りゆくことが
さみしい

時々黒い 雲を纏うのは
泣き顔を隠すため

わたしは月 言うなれば鏡
君を映す
だから 誤解しないで
美しいのさ、君


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お天気占い

「おいしいね! 霙、このプリンパフェ!」

「うん、貴っ、あたしここのプリンパフェが一番好きよ……でもぉ、パフェより……貴が好き! 貴が一番好きよっ」

 1月下旬、夕暮れ迫る喫茶店でアイスクリームを溶かしちゃいそうな熱々カップルがここにいる。
 二人はお付き合いを始めてまだ半年。

 平日のせいかお客さんはまばらで、二人はのんびりくつろいでいる。

 ショートカットで毛先だけグリーンに染めているおしゃれな霙は28才のレディ。
 一方、地味目なムードでメガネをかけた貴は霙の恋人、27才の男性だ。

 今日は二人とも休日。回転寿司店で共に働く二人だ。

 東京暮らしの二人にはそれぞれ故郷がある。でも2025年~2026年の年越しは、貴の家にてカップルで過ごした。

 12月30日の夜、スーパーへ二人で行った。

「貴~! あたし天ぷらも揚げるし、おそば、湯がくからね。今年の年越しそば、カップ麺はやめてね、ウフフ」
 嬉しそうに年の瀬のムードを楽しんでいる霙。

 初めて恋人同士で迎える新年が待っている。

「まじで?! 嬉しいな~、じゃ、おそばは任せるね、霙」

「うん、うん」

――――ところが……。大晦日の夕方。

 ソファーにゴローンとやわらかい猫のように寝そべり、テレビをボーっと見ている霙。そばにあるローテーブルの上のスナック菓子に手を伸ばしてはムシャムシャ。
 なんだかダルそ~だ。無表情。

(ハー……。大晦日もいつものアレが顔を覗かせたか。仕方ない! これが霙だもんな)
 半ば呆れるようにしょんぼりする貴。

 遊園地でデートした時もそうだった。
 行きの車の中では「あたしメリーゴーランドに乗ってお姫様になるから、写真撮ってね! 貴っ」
 鼻歌を歌いながらはしゃいでいた霙は……ジェットコースターや観覧車などに乗った後、いざメリーゴーランドまで行くと突然「あたし疲れた。貴、乗りなよ。写真撮ってあげるから」と憂鬱な顔。

 かと思うとこんなこともあったぞ……。

「なに! 貴、またSNSでこの女の人としゃべってんの!?」
「ああ、ラジオ仲間だぜ?」
「フン! いやよ! 貴、この人と話すならもう嫌いだからね、あたしは貴を! フン! フン!」

 貴のパソコンをのぞき込み霙がそんなことを言い出したのだ。

「ンー。わかった、わかったよ! もう話さないから」

 そんな風に言っても向こうの部屋でふくれっ面。背中を向けたままの霙。
 なんとその霙の怒りは3日間も続いたので、ヤバいと思い貴は強行作戦に出た。

 なけなしのポケットマネーをはたき、霙がずっとずぅーっと欲しがっていた、けっこうなお値段の指輪を買ってあげたのだ。
 ちなみに霙は当初おねだりをした際、事前にちゃっかり指の太さをバッチリ糸で測り、サイズを貴に知らせていた。
 サプライズプレゼントを試みた貴。

 これが大成功だった。

「わーい! 貴、大好き。ラジオのお友だちならしゃべったら良いじゃな~い」だなんてうそぶいた。

 この半年間、霙に振り回され、時々豪雨のように泣きたくなる貴。
 でもお茶目な霙が好きだ。なんならお天気屋さんなところも好きで、更に振り回されたいかも。貴にはMっ気があるかもしれない。

 メリーゴーランドには恥ずかしがりながら乗ってスマホのカメラに手を振り……想定外に年越しそばを湯がき、てんぷらを一生懸命揚げ、ことあるごとにプレゼント大作戦で、お財布が2月上旬並みの寒さになる……。
 ため息でメガネを曇らせる貴だ。

 ある日、霙宅の合鍵を持っている貴が「来たよ~、霙ぇ」とアポなし訪問した。
 そういったことは、これまでも時々あることだった。

 霙の様子が何かおかしい。ギクッ! とした顔をしている。

 即座に彼女のノートパソコンをまじまじと見る貴。

 ななな、なんと! 霙がいわゆる『出会い系サイト』をみていたのだ。

「え……。なにこれ? 霙……。どういうこと?」

「あ、ああ……」

 貴は知っている。霙を愛しているから。霙が嘘をつけない正直者であることを。ごまかすのが下手なことも。

 しどろもどろで、うつむくだけの霙。

「なんでだよ?! オレがいるじゃん!」

 その雄たけびに触発されたかのように霙が火を噴いた。

「だって、貴ってさ、あたしの言いなりじゃん! つまんないっ」

「ハ?! オレは霙を愛してるから優しくしたいの! わかんないのっ?!」

「優しいだけだもん。𠮟ってもくれないし! 貴なんか大っ嫌い! ワ――――ッ!」

 霙は2月の寒空の下、泣きわめきながら飛び出して行った。

 すぐに外へ出ると空からみぞれが降ってきている。

(なんて足の速い女なんだ。どこ行っちゃったの、霙!)
 貴は霙への愛を、今一度思い知る。

 霙は風のように消えてしまった。


 翌日から霙は回転寿司店を無断欠勤し続けた。
 店長に尋ねると「こっちが聴きたいぐらいだよ! 霙ちゃん。電話に出ないし」と貴は言われた。

 毎日霙の家に通ったが、霙はいない。

 4日目の日中、貴は霙の実家に電話をした。

 すると霙の母親が電話に出た。

「貴君、本当に御免なさいね。霙が勝手な態度を取って。あの子は元気よ。ここにいるわ」

「え!?」

 霙は富山の実家に帰っていた。

「話したいです。霙さんと、お母さん」

「……。はい」

 そして電話口に霙が出た。

「霙! 霙?」

「貴……」

(ああ!)貴は安堵で涙が滲んだ。

「ごめんね、霙。オレのあの激しい口調はいけなかった。謝るよ」

「……ううん。良いの」

「霙、東京に帰って来てくれるの」

 霙は、しばらく考えるように黙っていた。

「うん」

 どうにかなりそうなほど嬉しい、霙にベタ惚れの貴。

「いつだい?」

「ンーと、あたし、湿気で髪の毛モジャモジャになるのやだから晴れたらね、バイバイ」
 ガチャッ。プー、プー、プー……。

(なんてオリジナリティに溢れた女なんだ! オレは、オレは……コイツが! 好きだ――――!)

 東京の天気予報を見ると……雪、雪、雨、雨のち曇り、雪、雨のち晴れ……。

 霙が貴のもとに帰るのは少し先になるみたい。


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あなたの果物


シャインマスカット 嬉しい
ショートケーキ すごくうれしい!

いちばん嬉しかったのは 駈けつけてくれた
ダーリン

お仕事とお仕事の合間に 王子様は
馬を走らせ 停まる時 馬 ヒューブルブルって言ったわ!

あたしが怖い気持ちになり
あたしが不安になったから
ダーリン 駈けつけてくれたの

ダーリンは、あたしがフルーツが好きじゃないことを知っている

「ビタミン」と言って袋をぶら下げていた いや
果物が好きじゃないこと 忘れているかも でもね、いいの

あたしを落ち着かせる、ほんの10分間のために
高速道路を使って 白馬に乗って来た

大切にされているお姫は 胸がいっぱい

ハッ……ダーリンがこの詩を見ているかもしれない

ブドウなら本当は好きよ
苺は酸っぱい顔をするけどクリームが助けてくれる
王子様はお姫様を助けてくれる

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宇宙旅行

 
 月に暮らすうさぎの月呼ちゃんは、みんなに誤解されていることが気に入りません。

(あたしはお月さまの中で餅つきなんかしていない。 このか弱い乙女の腕で杵なんて振りかざせる訳ないでしょう?)

 そんなヘンテコな物語りを思い描いている人間達の棲まう地球に、実は月呼ちゃんは興味津々。

 ある日、リュックサックに人参味のお星さまクッキーとキャロットジュースを詰め込んで地球へ下りたちました。

 特別な呪文を唱えた月呼ちゃんの姿が地球人には見えません。ぶつかったってすり抜けます。
 二本足でトコトコトコ。
 人間がいっぱいいるわ。街中をそぞろ歩く月呼ちゃん。

 可愛いドレスを売っている洋服屋さんや、かぐわしい香りの漂うお花屋さん、大きな看板のある映画館……。
(ええ、知っているわ。あたし、月の学校の優等生よ? 専攻は宇宙学だもん。星々のことを知っている。 地球の皆がロマンチストだっていうことも)

(それにしても、あたしは餅をつくような筋力はありませんよ!)
(あら?)……月呼ちゃんは字も読めます。
「ペットショップ」
(あ! あたしの仲間が檻に入ってる)

 ジー……。
 
(うさぎ同士通じ合うみたい。その子はあたしに気づいたわ)

「あなた、どうしてこんな所に?」
「うーん……よくわからない、あたしたち以外にも犬や猫もいるみたいよ。声と匂いがするわ」
「うん」
「あなたは……檻の外にいるのね? 可愛いピンクのワンピースも着てる! それあたしも着たいわ!」
「う……ん、檻の中なんて入ったことないわよ。お月さまに住んでいるの。名前は月呼よ」
「えええ!?」
「お月様が分かるの?」
「うん、わかるわよ。一瞬だけどなぜか見たことがあったわ。黒い空に黄色くて丸いの」
「うんうん」
「あ!」

 檻の中から人間が彼女を抱き上げた。そうして彼女は買われていった。

 月呼ちゃんは、もう「餅つきをすると呼ばれ」ようが構わないと感じました。なぜかはわからない。

 月呼ちゃんはその夜、空に帰りなぜか辛くなり泣きました。お月さまは雲隠れ。
 地球には月呼ちゃんの涙が、雨となり降り注いでいます。

 あの子が幸せになりますように……。
 チクリとするような痛みとさみしさを感じながら、月呼ちゃんはパジャマに着替え、着ていたピンク色のワンピースを地球へ放り投げました。

 ……バサ!

「あれ? ママー! 今日やって来たうさぎのルリちゃんの体にお洋服がひっかかってるよ?!」

 ルリちゃん……月呼ちゃんとペットショップで出会ったうさぎさんです。
(あ! 月呼ちゃんのフリルのワンピース!)
 ルリちゃんにはすぐわかりました。

 でも……ルリちゃんは月呼ちゃんみたいに二足歩行ではないので着られません。
 ルリちゃんは自己主張をして、そのお洋服を離さない。
 今でも毎日、口で引っ張って暮らしています。

 月呼ちゃんのお祈りが通じたらしい。ルリちゃんの家族はとっても優しい人たちです。ほんとうに良かった。


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本日は晴天なり

 少しだけ残っていたアイスコーヒーを、もう惜しみつつストローで突っつくのはやめて、百絵乃は最後のタバコを吸い終え、火を消した。
 仕事帰りだ。
 ニコチンがきつく有名な、古くからある銘柄。パッケージをクシャッとひねり重厚な木製のテーブルにポン、と置いた。
 仏頂面だ。来月25のお誕生日を迎えるが子どもっぽい百絵乃は、いつも年齢を言うとびっくりされる。だが、瑞々しさを曇らせ今は仏頂面。
「お冷や、お入れしましょうか」
 まるでどこかの宮殿の執事みたいに品の良い男性が言ったが、断わった。(あ! でも、忘れていた)
「すみません。ごめんなさい、やっぱりいただきます」とグラスをそっと持ち上げる百絵乃。

 複雑な暮らしをしている。
 喫茶店には粋な女性ボーカルのジャズが流れる。
 1月の空が薄曇りで、(ニーハイブーツだからよかった)と胸を撫で下ろす。
 足元に温みはあるが……複雑な暮らしをしている。百絵乃は。

 処方されている精神薬をひと息に飲んだ。

(慶太、あなたが不快すぎるわ。そもそも最初から軽い気持ちよね。あたし、きっと)

 事情はこうだ。
 九州の田舎から上京してきた百絵乃。2年前に渋谷でナンパにあった。軽はずみだったかもしれない。百絵乃はその日のうちに、ナンパしてきた相手である慶太と深い仲になった。

 場所は……渋谷にいくらでもあるラブホテルではない。
 高円寺の団地だ。普通なら団地で何にも悪い事はない。その団地は狭い4畳半が2つ、あとはちっちゃい台所と狭い風呂とトイレだけ。
 慶太は1部屋占領。もう1つの部屋には……当時27才の慶太の親にしてはあまりにも年老いている両親。そして後には出戻りのお姉ちゃん・直子|と、直子の連れ子である2才半の男の子もやって来るので、4人が押し込まれている状況だ。

 そう、ナンパされた時、まだお姉ちゃん達は居なかった。

 人の両親がいる隣の部屋で、初めて会った男に抱かれた。

 田舎の広い家に暮らしていた百絵乃にとって、そこはカルチャーショックだった。その家は掃除をする人がいなく、洗い物はたまり、汚れないようにと新聞紙を敷いてご飯を食べる。しかし汚れて床もベタベタしている。折り畳み式のミニミニテーブルがあるだけ。順番にお食事だ。

 なにゆえ百絵乃がそこまで、慶太家の生活状況を把握しているかというと、まさに今、百絵乃はその団地で暮らしているからだ。慶太と結婚はしていない。同棲……というか、居候だ。
 渋谷のお店で朝からお昼まで風俗嬢をしている百絵乃。慶太にナンパされた時は寮生活だった。
 寮と言ってもワンルームマンションをあてがわれていたので、自由な暮らしだ。ベッドや洗濯機に冷蔵庫など、家財道具はすべて揃っていたし。

 しかしある時期から、寮に入っている女の子の間で嫌なうわさが流れ始めた。
「盗聴器、付けられてたりして……」
 今思えば、まさか~! と感じる百絵乃だが、当時その事が物凄くストレスになり、脅えた。くつろげる場所であるはずの住まいが住まいじゃなくなった。
 そこから心の病気にまでなってしまい、今も精神科へ通っている。

 慶太は、とても華やかな風貌だ。着ているものも派手で愛嬌がある。(モテそう)と、声を掛けられたとき思った百絵乃。
 しかし、付き合ってみると慶太は口下手で純粋な男だった。

「俺んとこ、来る?」と交際1カ月経った頃慶太が言ったから、『盗聴器妄想』から逃れたい百絵乃は二つ返事で引っ越した。

 ちなみに慶太は、百絵乃の仕事に関して口出しをしない。「一生懸命頑張っているのだから」と認めてくれた。
 稼いだお金は全て百絵乃の小遣いにしているというのに。焼きもちも焼かないで認めてくれている。
 慶太は工場内のライン作業で車の部品を作っている。休日は変則的だ。

 年老いた慶太の両親は、慶太にあんまり口ごたえできない風だ。しかし、慶太は特に両親につらくは当たらない。ただ、言い出したらきかない所のある慶太だ。

 百絵乃が慶太家に居候生活を始め、約半年した頃お姉ちゃんの直子と男児が実家であるこの団地に帰って来た。

 こんなに小さな家で、半分を独り占めする慶太。しかしまぁ、自然なことか。両親は夫婦だ。夫婦の部屋と息子の部屋に、そもそも分かれていただけのこと。
 お姉ちゃんは、若いカップルの部屋に入り込むのに気が引けたということだろう。だから親と同じ部屋。そしてボクちゃんと4人でギューギュー。

 比較的しつけの厳しいおばあちゃんのもとで育った百絵乃には驚きの連続だ。

 まず最初に驚いたのは、慶太は真冬以外パンツいっちょう。トランクスしか履いていない。おじいちゃんみたいなお父さんは、股引こそ履いてはいるが、やはり上半身は裸。
 そして皆、驚くほど口が悪い。元暴走族の姉(直子)と弟(慶太)。お姉ちゃんは男の人みたいな喋り方をする。凄くびっくり。

 しかしお姉ちゃんは百絵乃をかわいがるし、百絵乃もお姉ちゃんとボクちゃんのことが好きだ。慶太は甥っ子の面倒をよく見る。

 ある時……お姉ちゃんがある女友達を呼んだ。

「慶太、元気?」
 赤ちゃんを連れている。

(なに、この女、なれなれしい。人の男に向かって)ムカッと来た百絵乃。

 彼女があっちに行った時、小声で「あの人、誰?」と慶太に問う百絵乃。
「昔の女だよ」
「ハー?!」あったまに来る百絵乃。しかし、どうやら、百絵乃の嫉妬心を超えるぐらい、慶太が姉に向かって怒っているようだ。

 その女性がいる間は何も言わずにおいた慶太。
 しかし女性と赤ちゃんが帰った後、姉弟喧嘩が始まった。
「おい! ねーちゃん、どういうつもりだよ! 花江を呼ぶなんて!」
 言葉にはしなかったが慶太は(俺には今、百絵乃が居るのに)という意味合いで怒ったのだろう。

 負けん気の強いお姉ちゃんから怒声が返って来た。
「なーんで、あたしがあたしの友達呼んだら駄目なんだよっ?! クソが! あーあー、わかった、わかったっ! どうせここは、てめぇらの城だよな!」
「ハ――――?!」

 気分悪すぎて、もうそのあとは忘れた百絵乃だ。


                *

(あんなにお姉ちゃんに怒っていたくせに、慶太、あれはな~に?!)

 百絵乃は非常に不愉快で、あの家を出て行こうと、この喫茶店でいつまでも考えているのだ。

 堂々巡りの万華鏡のように、魅惑のジェラシーがこのままじゃおさまらないので、席を立った。アイスコーヒーの会計を済ませ帰路を辿る百絵乃。


 ここまで思うゆえんは、つい最近の怨めしい出来事。

 またしても、お姉ちゃんの友達だ。
 その女性・弥生ちゃんは時々慶太家に遊びに来ている。百絵乃ともよくしゃべる。

 いつものように仕事から午後1時ごろ帰宅した百絵乃。
 部屋の扉をガラッと開けた。

(え?)

 目に焼き付いて離れない、あの弥生ちゃんの格好。シレッとした顔で長いタバコをふかしている弥生ちゃんは、下着一枚だった。太ももまでのキャミソール。慶太はいつも通りパンツいっちょう。

(なにやってんの?)
 訊く気にもならない。
 関係を待ったにせよ、持たなかったにせよ、吐き気がするほど気分が悪かった。

                 *

 しかし、取り敢えず行く所がない百絵乃。
 弥生ちゃんの一件にはムカムカするが(お金を貯めたら出て行こう)と決意する百絵乃。

 それはお姉ちゃんに先を越された。窮屈さに耐えかねたのだろう。お姉ちゃんはボクを連れ新しいアパートへ引っ越して行った。

                 *

「おはよう、百絵乃ちゃん」
「あ、お母さん、おはよ」
「タバコ1本恵んでくれないかい」
「あ、いいわよ」

 この家にはお金がないのだ。お父さんは新聞配達。お母さんはパチンコで稼いでくる。

 お母さんといても別に気兼ねをしない。実家とまったく様式こそ違いはあれども、本物の家族の感覚だ。
 百絵乃は窓の外に目をやった。何処までも続く晴れた空に端っこがあるように感じた。真白い雲の先は行き止まりに見えた。
 ここは5階なので見て取れぬが、下の小さな公園からは子ども達がキャッキャとはしゃぐ笑い声が聞こえてくる。

 百絵乃もタバコに火を点けた。フーッと鼻から白い煙を平気で出した時「いなくなればいい」と、どこかからか聴こえた。自分の声によく似ている。
(うん、そうだね)と百絵乃は得体の知れない声に向かって胸の中で返事をした。

 お姉ちゃんは引っ越したというのに、弥生ちゃんは相変わらず慶太家に遊びに来る。
 忌々しいキャミソールの一件があったものの、百絵乃は弥生ちゃんと友達付き合いをしているし、弥生ちゃんは弥生ちゃんで、慶太家を家族のように慕っている。
 ある時など、慶太と百絵乃が出先から帰宅すると、弥生ちゃんとお母さんが二人で楽しそうに話し込んでいたこともある。

 変な関係だ。
 何かが抜け落ちている。

 今にも抜けそうな団地の古い床を見つめながら、この毎日を思った。
 否、百絵乃は、欠けてしまっているのは自分だと気づく。

 焦りや怒りを押しとどめ、平気な振りをしている。

 もう、我慢ならない、とかき氷みたいな水色の冬空に誓う。


 街のパチンコ店が新装開店するという。お母さんはその知らせを知った時からソワソワ、ウキウキとしている。
「いっぱい出るだろうね~! あたしの腕の見せ所だよ」だなんて言ったあと、入れ歯をはずして洗い始めた。

 明後日か。

「ねぇ、慶太、あたしさ、弥生ちゃんとゆっくり話したいんだー。明日弥生ちゃんがここに泊まるように誘っても良いかな?」
「え!? 泊まるって、弥生ちゃん、何処で寝るの」
「そんなのどっちの部屋でも良いじゃん。あたしと慶太は恋人同士。それをわかってる弥生ちゃんが何か変な事でもするの?」
 敢えて逆に尋ねて見せる百絵乃。

 慶太はなんだか慌てた表情をした。百絵乃はこっそりこの男を鼻で笑った。
(やっぱりあの日、男女の仲を持ったのね。この男に、ほとほとしらけたわ)

 慶太は答えた。「ああ、弥生ちゃんが変な真似をするわけないさ。泊まっても良いんじゃない」

 百絵乃は嬉々としている。企みを持っているからだ。

(願い事が叶う!)

 すぐに電話を掛ける百絵乃。
 弥生ちゃんはコール2回で出た。
「もしもし、弥生ちゃん」
『うん! 百絵乃。どうしたの?』
「相談したい事があるの、あたし……。明日さ、泊まりに来てほしい」

 弥生ちゃんは男に貢がせ生活している。暇人だ。

『良いよ。泊まりに行くよ』

              *

 弥生ちゃんはお昼頃やって来た。
 お父さんは新聞配達が終わると、浴びるほど酒を呑み続けている。お母さんはなにをすることもなく、タバコを呑み続けている。
「お母ちゃん、メシもらうわ」貧しい家にやって来て、厚かましい女だ。(ま、あたしも同類か)百絵乃はその憂鬱を即座にかき消す。

「ありがと、来てくれて」
 慶太は「ちょっと友達の家に行って来る」と席をはずしていた。
「ううん。良いよ、百絵乃。ところで相談って、なんかあった?」
「ンー、あたしさ、風俗やってんじゃん?」
「うん、うん」
「慶太は何にも言わないけど、やっぱ悪いかなーって、ちょっと悩んでんの。お金にはなるんだけど……」
「あー、ね~。んー。でもさ、あたしも風俗上がりだけど、理解ある彼氏だったよ、当時。慶太も理解あるから、いんじゃないかな」
 百絵乃のはらわたが煮えくり返っていた。(『慶太』とか、てめぇが呼ぶな)と。
 しかし笑顔で「弥生ちゃんはそう思う?」
「うん、そうだね」
「そうか~。じゃあ、もう少し頑張ってみようかな。店長にも頼りにされてんだよね」
「うん、うん」

 うわべだけのお悩み相談コーナーが終了した頃、丁度慶太が帰宅した。
「おお、弥生ちゃん、久しぶり」
「おお、慶太、元気か」
 弥生ちゃんも決して品の良い話し方ではない。
「元気だよ。ところでさ、今日どっちの部屋で寝んの? 母ちゃんたちの部屋? それともここ?」
「あ、ここで寝ても良い?」
 悪びれる様子もなく弥生ちゃん。恋人同士の部屋に寝ると言う。確かにもう一組布団はあるが。(ゲスな女だな)と腹の中で思う百絵乃。
 しかし百絵乃の企みが、百絵乃の精神を今支えている。

 明日、お父さんは早朝新聞を配った後、行きつけの立ち飲み屋へ行く。これは日課だ。お母さんは新装開店のパチンコで夕方以降まで帰って来ない。慶太はといえば、明日は早朝から夕方まで仕事。
 明日の朝、お母さんが出て行ったあと、弥生ちゃんと二人きりになる百絵乃。


 夕方まで慶太を交えた3人で、気の抜けたサイダーみたいな世間話に花を咲かせた。時々お母さんが煙草をせびりに部屋に入ってきては、そのままおしゃべりに加わった。

 そうして迎えた夜。弥生ちゃんが先に入浴した。百絵乃がパジャマを貸してやった。そのあと、慶太と百絵乃が一緒に狭い風呂に入った。時々こうして一緒にお風呂に入るのだ。

 カップルが仲良く風呂を上がると、弥生ちゃんが暗い目をしていた。
(やっぱり慶太に気があるのね。いい気味だわ)と百絵乃は、ほくそ笑む。

 百絵乃は眠剤を飲むのでよく眠る。しかし眠り始め3時間ぐらいすると必ず1度目覚めてしまう。でもすぐにまた二度寝へと睡魔にいざなわれる。

 今夜も深夜、一度目覚めてしまった百絵乃。
 みると自分のすぐそばで、掛け布団の山ができ、モゾモゾと蠢いている。
 自分の恋人と女がまぐわっているのだ。弥生ちゃんは声を押し殺そうとしているらしいが、時々吐息を漏らす。

 想定していた通りだ。

 明日が来るから、夜明けが待っているから百絵乃は耐えられる。

 肌と肌がぶつかり合う音を冷静に聴きつつ、そちらへ背を向けていた百絵乃は、いつの間に眠った。

 朝のまばゆい光が瞼に転がり起こされた。隣にいる筈の慶太が居ない。すでに出勤していた。
「おはよう、百絵乃」
「ンー、おはよ、弥生ちゃん」
 ねぼけまなこの百絵乃。時計を見ると8時も過ぎていた。
(いけない! あたし、シャンとしなきゃ……! せっかくのチャンスを棒に振っちゃいけないわ)
 顔を洗いに洗面所へ行くと、お母さんは既にパチンコ店へ出掛けていた。
 お父さんはまだ帰って来ない。

(お父さんが帰って来るまでに!)
 百絵乃は弥生ちゃんを呼んだ。
「弥生ちゃ~ん! 冷凍庫にピラフ入ってた。食べるぅ?」
「食べるっ! ハラペコ~」

「ヒッ!!」

 おびき寄せた卑しい弥生ちゃんに、出刃包丁を向けている百絵乃。

「あんたはさー、ヒトのモノ盗るの好きね!」弥生ちゃんが逃げるまなく飛び掛かり、腹を刺す。
 ブスッ!
 震え失禁した弥生ちゃん。真っ赤に染まる百絵乃が貸したパジャマ。
「うぁあぁ、うぁああ――――――ッ!」狂っている弥生ちゃんに向かって「メシもよぉッッッ!」と百絵乃は言いつつ一回包丁を抜き「男達の財産もよぉっ!」と言いながらまた腹を刺した。
 弥生ちゃんは白目をむいている。

「泥棒めッ! 好きモノ外道め! 慶太みたいな男、要らねぇけど、てめぇが生きてると虫唾が走るんだよッ!」
 とどめに左胸辺りを深く、深く思いっきり何度もさした! ザクッ! ザク……ッ! ザクザク、ザック! ザク!
「しねッ! 死ね! シネ、しねしね死ね、しね、死ね――――――ッ!」
 弥生ちゃんには届いていない。とっくに死んでいるから。百絵乃の血まみれの顔は鬼そのものだ。

 死体をポーンと一度蹴飛ばす百絵乃。風呂に入り、上がるとサッと美麗にお化粧をし、華やかなミニのワンピを着、めかし込んで出て行った。

(今日は晴れの日)

 百絵乃が最後の砦を破壊した日。
 自分から自分が消えた日だ。

 やわらかなおひさまが、冬の貴婦人・クリスマスローズに、嬉しそうに笑いかけている。



※ この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

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どどどど ど

仕事納めと言うけれど

どどどどど。

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霹靂録/短歌連作

遠雷が霞む視界を波立たせなんか人生続いているな

物置にしまったままの過去たちよ勝手にどっか逃げてください

産廃の処分コストも跳ね上がり本年も不良セクタと共に暮らすか

春雷のような記憶に怯むものがあり主治医にはどうやら詩句が難解らしき

飛び立った鳩の行方を訊く調子多分わたしはここにいません

継続の 意思が問われて いるようだ そうはいっても おーい本人!

(応答せよ)

水際を 縫って石塊 川縁の 空を三度か 貫いて落ち 

(またも反応 なかったようで)

かまぼこの 板に「しるこ」と 書いて立て
明日からこれを 表札とする

歴史とか傷の匂いがするものと隔てられれば誤動作もない

耳鳴りを うまく使って 特定の ノイズを消せる 技術はないか

絶望の 一歩手前で メーターが 全トラックを ミュートするわけ

遠雷の ように兆した 不穏にも そんな薬が 効くと思うか

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縒の夢/個間の栞

声/内声 結線された景色の手を取り
梯子の最終段を踏み外し
明け方の夢に 雪崩れ込む
体感にして僅か6秒の

おや すみ

寝間着の裏側には洗濯タグの表記のように 組成と いくつかの指示語のみ

声/註釈 栞の裏面に這う虫の 其々の出自を書き記す
公共性への帰依のポーズをとらねば

ALT
(並立する概念:ただしい悪夢,ただしい発狂,ただしい噴火)

映写室 または管制塔か
スクリーンを観る者の背面から 
覗く者の視点を借りて 観ている
ネックレス 眼鏡紐食い込む 顎の細い婦人による発話 デジャヴ
盲目のものに暗がりの昏さを 
相対的にしか説明ができないことの
もどかしさが 咀嚼不良のまま RAWに残る

声/音声 拡張子のみをmp4に書き換えられ
半身のデータを別次元に有している
連想配列に 歯抜けでしまわれ

声/幻聴 その不在性 記憶に結びついた副次情報に過ぎず それさえも 半睡のなかの幽けき音像 想像力の限局である

声/ 撚られゆく 外斜視者の生体感覚 
紐の両端と
キーフレームの二点に 収斂 これを背景情報に押しやる 覚醒の成立 差分は裏地に畳み込み
ALT
(ただしい対応,ただしい順応,ただしい抑圧,のうちの いずれか)

ペンダント 天井で垂れているスイッチの
端をつかみ 一段目に足を掛ける君
認知の此岸では ただしく 
束の噴火が観測された であろうか

おは よう

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人の夢 儚い

ひとのゆめは叶い、夢を見たけりゃここまで掘りな

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良き会社に恵まれて

仕事始め。休み明け。
行きたくない、ベッドから出たくない、と思うけれど、
いざスーツに着替え、電車に揺られてからの出社。
既に出社している人たちの
「あけましておめでとう」が響く。
昔、いろいろあってから、弱小メンタルの私には、
皆の心からの優しさとあいさつと
仕事上の「ありがとう」が身に染みる。
これからも大事にして過ごしていきたい今の会社。
私からも心からの「ありがとう」

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遺品

物は物でしかない

その人の持ち物だった何か、それを手にすれば、心が縛られ重くなる

先人達はそんな道を選んだ

遺品、何故か、それは私を冷たく、苦くさせる

しかし、周りを見てみよう

生前その人が生きた場所、食べてたもの、書いた詩、愛していた者

そんなものが、たくさん溢れている

どこを見たって、その人の生きた痕跡があり

その人のくれた幸せが満ちている

だから、悲しく縛られてはいけない

どこを見たってその人で溢れているのだから

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化け狐と、裏側の夏祭り



年に1度のみ開催される夏の楽しみ、夏祭り。

体調が悪くなりそうなほど暑いこんな日でも、人と人が押し合う大盛況。

人々が自分の好きなように楽しんでいる。

……ただ、それは人限定のことではない。

今回は、普段は見えない裏側。
人ならざるもの達の夏祭りを覗いてみよう。

ん?私?私はしがない物書きをしているただの化け狐だよ。



さて、裏側と言っても特別な手順を踏む必要は無い。

普通の人なら見えないだけで彼、彼女らはいつもそこに存在している。

とりあえず、普通に人間の屋台が出ているところを歩いてみようか。


おや。さっそく人間以外の屋台が出ている。

ふむ、ベビーカステラか。


「こんにちは。小さい方を一つもらってもいいかな?」


「いらっしゃいませ!承知いたしました!」


彼らは小人。

体がとても小さい代わりに沢山の同胞たちと力を合わせ生活している。彼らの団結力は凄まじい。


小さく力も弱い彼らが生き残れているのは団結力のおかげとしか言いようがない。

ちなみに、彼らに攻撃するのはおすすめしないよ。

あっという間に大人数に囲まれて抵抗できなくされるから。

「今お作りしますので少々お待ちください!」

「ありがとう。これ、お代だ」

「ありがとうございます!」

そういい五百円玉を渡した。

彼らの体は五百円玉より少し大きいくらい。

運べるのか疑問だったが3人で頑張って持ち上げて、えっほえっほと運んでいる。  


さて、待ち時間は作る過程を観察してみよう。

彼らの小さな体でどう作るのか見ものだ。


……ふむ、道具は全て小人用に作ってある。


生地を垂らすための道具はスプーンに変わっている。

それが小人サイズだと大変だもんな。

焼く道具にも工夫がされてるな。

左右に持ち手があり、二人でひっくり返せるようになっている。

そして出来たものは一人一つ、頭の上に掲げ持って袋に投げ入れている。

「お待たせいたしました!どうぞ!」

ぼーっと眺めていると、いつの間にか完成していたようで、何人かで頑張って持ち上げこちらに差し出してくれている。

「ありがとう。」

「ありがとうございました!」

小人が作る普通サイズの焼き菓子だから時間がかかると思っていたがすぐだったな。

工夫が散りばめられていて参考になった。
さて、もっと妖の屋台を探しに行こうか



ん?あれは…

「うぅ……ぐすっ」

化け狸か。まだ子供だな。

それに1人で泣いている。

まあ、十中八九迷子だろう。


どうしたものか。
助けたいが狐と狸は対立関係にあるし。

…あ、そうだ。


ドロン


煙をまとい、私は化け狸に変化した。

子供は警戒心も低いし、バレないだろう。


「やあ、お嬢さん。そんなに泣いてどうしたんだい?」


そう声をかけると、化け狸の少女は少し警戒するようにこちらを見た。


「お母さんとお祭り来たんだけどね、はぐれちゃったの。おにいさん、だれ…?」

私は変化して付けた耳を指さし微笑んだ


「私は通りすがりの化け狸さ。お母さんを探すの、手伝おうか?」 


「ほんとうに?!ありがとうおにいさん!」


疑う素振りも見せず、少女は私に明るい笑顔を向けた

「お母さんとはどこではぐれたんだい?」


「えーとね、あっち!結構遠くの方!」 


少女は私が歩いてきた方向と真逆の、遠くの方を指さした


「それじゃあ、あっちの方まで歩いていってみようか」


「うん!」


少し歩いていると、また人ならざるものの屋台が見えた。

これは…雪女のかき氷屋か。ピッタリだな


「なあ、お嬢さん。かき氷食べるか?」

「たべたい!」


少女は目をキラキラ輝かせている

「私が買ってあげよう。何味がいい?」

「んーと…いちご!」

「こんにちは。かき氷を1ついただいてもいいかな?イチゴ味で」


「もちろん。イチゴ味ね。少々お待ちを」 


雪女はニコッと微笑むとら手際よくイチゴを用意し始めた。

イチゴを数個手に持ち、ふっと軽く息を吹きかける。

すると先程まで汗ばんでいた私の体は一気に冷え、イチゴはカチコチに凍っていた。 


「すごいすごい!すずしーい!」


少女は無邪気にはしゃいでいる


「ふふ、そうでしょう?もう少しでできるよ」


雪女は凍ったイチゴをガリガリと削り、スプーンを刺し少女に差し出した。見事な手際だ。


「はい、どうぞ」
 

「ありがとう!」


「ありがとう。これ、お代だ」


「まいどありー。またどうぞ」


雪女は少女に軽く手を振った。

少女は歩きながらブンブンと大袈裟に手を振り返した。

「他になにか欲しいものはある?」

「えーと…あ、あれ!」


少女が指を指さしたのは、フルーツ飴の屋台。

店主は大きなマスクをしていて黒く長い髪の毛の女性だった。

一見、普通の人間に見えるが彼女は恐らく口裂け女だ。

口裂け女はべっこう飴が好物とも嫌いとも聞くが、飴の屋台をだすということは好物なのだろう

「あの口裂け女さんのやつ!」

「おや、よく口裂け女とわかったね。」

服装が特徴的なのでわかりやすいが、子供は知らないことが多いのに

「えへへ!私、鼻がきくの!だいたいの人は匂いかげばなにかわかるんだよ!」


すごいな。ちょっとした話題になりそうな特技だ


「こんにちは。お嬢ちゃん何が欲しいのかな?」

「ぶどうの飴がほしいです!」


少女は背伸びをしながら堂々と注文した。

口裂け女はニコッと笑う。


「わかったよ」

私がお代を渡すと、口裂け女は止めマスクを下ろした。
すると、頬の方まで裂けた口が現れる。

「それと……私、綺麗?」


「うん!とっても綺麗!」


少女は曇りなき眼で即答した

「ふふ、ありがとう。お礼に、普通より1粒多いぶどう飴をあげる」


「やったあ!ありがとうおねえさん!」


「いえいえ。……で、あんたは?」


「……え、私?」
 

こちらに振られるとは思っておらず、一瞬体が固まる。
 

「そうだよ。私綺麗?」


「ああ。とても」


私がそう言うと、べっこう飴をすっと差し出してきた


「ありがとね。あんたにもおまけ、あげる」


「あ、ああ……ありがとう」

まさか私にも振られるとは。
私は嘘つきだが、咄嗟に素直に答えてしまった。



そうして私たちは、母親を探しつつ屋台を楽しんでいった。他にも

のっぺらぼうのお面屋

「やあお嬢さん。顔は足りてるかい?」

「たりてない!ほしい!」

「ここにはいい顔が沢山揃っているよ。お好きな顔を選びな」


鬼の焼きそば屋

「鬼さんすごい!ひとりでたくさん作ってる!」

「いや?一人じゃないぜ?ほら」

「わあ、青い火にお顔がついてる!」

「珍しい、鬼火か」

「凄いだろ?俺らは二人でやってるんだ!」


人魚の唐揚げ屋

「いい匂い!」

「なぜ人魚が唐揚げを?暑くて向いていないと思うが……」

「ふふ、唐揚げって鶏だけじゃなくたくさん種類があるでしょう?」

「私たち人魚を食らうと不老不死になれる。だから……1つ、当たりとして人魚の唐揚げがある。……なあんて、冗談よ。面白いでしょう?」

「笑えないな……」


など、様々な屋台を回った。

そして、1番端の人気がすこし落ち着いている所までたどり着いた時。
 

やっぱり居ない、等と話しているたぬき達がいた。
 

「なあ、もしかしておかあさん、あの人じゃないか?」


私が指さすと、少女は明るい表情をした
 

「そう!おかあさん!おとうさんもいる!」


「良かった。私はちょっと、あの人達の近くまで行けないからここでバイバイだ」

そういうと少女は悲しそうな顔をした


「おねえさん、行っちゃうの……?」


「ああ。ごめんな。また今度遊ぼう」

もちろん嘘だ。

少女の親は、私の正体に気づくだろう。 


そして、少女も私を怖がって近づいてこなくなるだろう。


少し寂しい気もするが仕方がない。

「わかった!じゃあね!狐のおにいさん」

「……え」

……バレていたのか。
子供だからといって油断したな。


まあ攻撃された訳でもないし、私だけでは見れなかったものも見せてくれた。

少女のおかげで思った以上に収穫があったし、もう帰るとしよう。

あなた達の祭りの時、屋台の間に不自然な隙間が空いていたら、そこは通らずそっとしておいて欲しい。

目に見えない誰かも、そこで祭りをたのしんでいるかもしれないから

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曇天

曇りがあるから
太陽が眩しい

曇りがあるから
雨が美しい

曇天でも

どこかに
光は
きっと…

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月婚

第一章 帰潮

 帰ってきた匂いは、塩よりも静かだった。
 港を離れて伸びる石畳は、潮に磨かれて平たく、昼の残り火のような熱を薄く抱いている。伯母の家に間借りしている小さな修理小屋の戸を押すと、埃が長く息を吐き、工具の金属音がどこかで乾いた。壁際には分解した潮汐計が三台、歯車と棒と錘にまで分かれて、私の気配を測るように沈んでいる。片隅には携行用の小さな潮汐計が一台、覆いの小窓を備えたまま眠っていた。
 私は一台を机に引き寄せ、支点の摩耗を指先で確かめた。
 心拍の速さで細い振れが重なる。都会で身についた急ぎ足が、まだ内側にかすか残っている。ここは海の町、潮の拍で暮らす場所。伯母は言う。見ない。覗かない。返す道だけ覚えよ。私はうなずき、言葉を口にのせずに、胸の奥へ立てかける。
 夕方、月見台の東屋に上がる。
 板を拭うと、木目に沿って白い粉の線が立った。手すりは潮で渋く、指先の塩が乾いて軽い。湾は椀のように静まり、沖の方で波が一度だけ崩れて、すぐ面に戻った。水平線近くに淡い月が出て、薄いムーンロードが敷かれる。銀の道は広がりかけて、私の足の裏でふっと途切れた。見上げない。足の裏でその断ち切れを受ける。
 背後で足音が止まり、幼なじみの迅が手ぬぐいで額を拭きながら立つ。
「戻ったね、と言っておく」
 私は笑い、手すりの粉を指で集めた。
「しばらくここにいる。修理がたまっている」
「また向こうへ行くのか」
「先送りにする」
 迅はそれ以上は何も言わない。海の町での会話は、事実だけを並べて終える。名を付けず、形だけ置く。
 伯母の家へ戻る路地、無地の提灯が店先に吊られはじめていた。白は名を吸い、余白を増やす。伯母は台所で小さな煮干しをほぐしていて、私の靴音を聞くと、鍋の火を弱めた。
「潮が落ち着いた。今夜は静かだよ」
「東屋の板を拭いた。粉がよく立つ」
「粉は路の名残。目で追わないほうがいい」
 伯母はいつも、見ないと言う。見ないと忘れるのではない。見ずに置くことで、路は曲がらない。
 風がひとたび止まり、台所の窓越しに潮の匂いが甘く変わった。
 舌の奥で一瞬、乳の気配がする。私は手を止め、左の薬指に視線が落ちる。細い円の痕が光をかすめ、皮膚だけが少し冷たい。持ち出す言葉はない。道具箱の隅から薄いガラス片が一枚、指先に触れた。潮汐計から外した古い保護板、縁は磨いてある。
 夜、枕元で呼吸を数える。
 吸う、留める……吐く。
 壁の向こうで海が低く撫でられ、町が返事を控えて眠る。ムーンロードは見ない。眠りの下で、足もとに途切れた銀の線が、まだ薄く温かいままでいる。
 翌朝、修理小屋で一台目の組み直しに取りかかる。
 錘の重さを合わせ、振り子の長さを調節し、目盛りの裏を布で磨く。午前の光が薄く差して、歯車に白が乗る。指先の拍と振り子が一瞬重なり、また離れる。私は目盛りに針を合わせ、誤差を記す欄は空のままにした。空欄は礼儀だ。そこに名を置けば、路は曲がる。
 昼下がり、港で迅と出会う。彼は網の修繕をしていて、目だけで挨拶をする。
「潮汐計は直る」
「直る。誤差が揺れるときはある」
「揺れは、どこから来る」
「今はまだ、決めない」
 迅はうなずき、視線を海に返した。海は返事をしない。返事の外側で、町は暮れる準備を始める。
 日が落ちる前、私はもう一度東屋に上がった。
 板の粉は薄くなり、手すりの渋みだけが残る。月は昨日より高く、ムーンロードの幅が増している。銀の道は揺れず、私の足もとから数寸離れたところで途切れた。その寸法は、指の幅と同じくらいだと思う。私は足を引かない。足もとの途切れが、持ち物のように感じられた。
 月は名を呼ばない。私は名を持ったまま黙る。東屋から戻ると、伯母が白い前掛けを畳んでいた。
「明日は白を出す。提灯は無地でいい」
「文字は吸うからね、と昔から言う」
「見ない。覗かない。返す道だけ覚えよ」
 伯母の言葉は短い。それで充分だ。
 夜の底、潮の甘さは薄れ、塩が戻ってくる。私は眠る前に、机の引き出しから薄いガラス片を取り出し、布で包んでポケットに移した。持ち歩くためではない。重さを知るためだ。

第二章 招待

 朝の潮汐計はよく動く。
 私は組み直した二台を並べ、針の揺れを見比べた。二台とも、午前の間は素直に揺れ、正午を過ぎるとかすかにずれ始める。針先の狂いが私の心拍と同じ周期で揺れているのに気づく。無視するのが礼だが、記さないのは仕事に反する。私は欄外に小さく印を入れた。印は文字ではない。
 買い出しの帰り、無地の提灯の白が通りに並んでいた。
 風がときどき提灯の底を押し上げ、空気の形が丸く透ける。白は名を吸い込み、通りは余白を増やす。提灯が連なる下を抜けると、干潟への小道に入る。砂は湿り、足裏に冷たく貼りつく。貝殻がいくつか口を閉じて並び、ひとつ、指輪のような輪が砂の上に置かれていた。左の薬指を近づけると、サイズはぴたりと合っていた。私は触れずに、指の代わりに影を重ね、光が輪をくぐるのを見ないで通り過ぎた。
 港の角で迅とすれ違う。彼は網から目を上げずに言う。
「通りが白い」
「白は名を吸う。今夜は静かになる」
「見えないものに答えるのか」
「まだ呼吸を合わせているだけ」
 迅の肩が小さく上下し、糸が指で結ばれる。会話はそこで終わる。町のやり取りは、置くか戻すかの二択だけで充分だ。
 夕方、月暈が出た。
 薄い輪が月を囲み、その輪の外にもうひとつ、淡い輪が重なる。二重の円は遠い婚礼のようで、しかし音を持たない。東屋に上がると、板の粉は消え、手すりの渋みも薄い。私は腰を下ろし、靴の砂を払った。海は呼ばないが、呼ばれている気配が路の上に薄く立つ。
 伯母が上がってきて、手ぬぐいで手すりを一度だけ撫でた。
「白は増えた。今夜は吊るしておく」
「文字は置かない」
「置かないから、路は曲がらない」
 伯母はそう言って、視線を私ではなく板に落とす。町の作法はいつでも同じ方向を向いている。
 私はポケットの薄いガラス片の縁を指先でなぞる。
 冷えは薄く、重さはないに等しい。これを掲げることはない。掲げた途端、名に近づく。私はただ、置くことができる。置くことは返照で、受け取りではない。
 夜半に近づくにつれ、潮汐計の針のずれは小さくなり、私の呼吸の揺れと重なってはほどける。私は机に手を置き、額の位置を低くする。
 吸う、留める……吐く。
 小屋の壁がわずかに鳴り、窓の外の白い提灯が風の形にふくらみ、また細くなる。潮の甘さは薄れ、舌に塩の粒の気配だけが残った。
 翌朝、誤差の欄は夜明けにいったん零へ近づき、日の出とともにふたたび開いていく。
 私は印の数を数えず、欄外の白さを眺めた。白は書かれないことを受け入れる。書けば、呼ぶ。呼べば、曲がる。小屋を出ると、通りの提灯は真昼の白に鈍り、影だけが明るかった。
 夕方、干潟で昨日の貝殻の輪を探すと、砂が新しく積もり、輪は浅く埋まっている。
 指を伸ばせば掘り出せたけれど、私は砂の上に手のひらを置いて、輪の下の冷えを受け取った。名を与えない。輪は輪でいて、私の側へ来ない。
 月はやがて満ちる位置へ移る。
 町は騒がない。白い提灯だけが増え、通りは無音の明るさに包まれた。伯母は短く言う。見ない。覗かない。返す道だけ覚えよ。私はうなずく。うなずきは声より深く、長い。

第三章 式

 満ちる夜、東屋の柱に白い紙紐が結ばれ、無地の提灯が等間隔に吊られた。
 文字はない。書けば、呼ぶ。呼べば、曲がる。伯母は東屋の入口に立ち、通る者の視線を板へ導く。町の人は集まるが、誰も見上げない。子らは膝に額を置き、男たちは手の甲で板を撫で、女たちは白い布を手のひらの上に畳んでいる。
 海は呼ばない。呼ばれない。
 けれど路の上に薄い信号が立ち上がる。沖から風が来て、陸に着く前に一度だけ向きを変える。私の足首の周りでムーンロードがほどけ、また集まり、円に閉じた。砂の上の光は音を持たない。私は立った。伯母の手のひらが背に当たり、一度だけ押して離れる。重さは強くない。承認だけがある。
 私は掲げない。受け取らない。
 ポケットから薄いガラス片を取り出し、足もとの円の縁へそっと置く。置くと、光は少しだけ静かになり、海が息を飲むみたいに丸くなる。言葉はない。町は静かに呼吸を揃えている。
 東屋の脇に据えた携行潮汐計の針を見張れるよう、覆いの小窓を開けておいた。
 針は夜のあいだ揺れ続け、今、この瞬間、目盛りの中心で動かなくなった。誤差は零。わずかな間、時間が海面と同じ高さで止まり、風の向きが一秒だけ逆になった。
 私は目を上げない。
 月は名を呼ばず、私は名を持ったまま黙る。白い提灯の内側で空気が薄くふくらみ、誰かの手首が一度だけ衣の内側で緩む。伯母の声が低く通る。見ない。覗かない。返す道だけ覚えよ。私はうなずく。うなずきは路の角へ置かれる。角は曲がらない。
 円の縁に置いたガラス片が、潮を吸って冷えた。
 私は指の腹で縁を確かめ、すぐ手を離す。受け取らない。返す。返すことは、持たないことと同じではない。ガラス片はそこで乾くのを待ち、光は私の足首の少し外側でほどけ、まっすぐ沖へ伸びた。ムーンロードはふたたび道になり、海と空の間で長く平らに続く。
 私は両の手を胸の高さへ上げかけて、止める。
 止まることが返事に近づくなら、私はその手前で立っている。伯母が私の片肩に軽く触れ、すぐ離した。町はそのまま板の上に座り、誰も顔を上げないまま、式は終わった。
 吸う、留める……吐く。
 呼吸は礼で、礼は呼吸より短く、長い。私は東屋から下り、石畳の端で海を背にして立つ。背に当たる風は静かで、重さを持たない。ただ、これから先の路が今夜だけ一瞬まっすぐに立ち上がったのを、皮膚が覚えている。

第四章 余白

 朝、鳥が一声だけ鳴いて、黙った。
 湾の端は紙で擦られたように白く、東屋の板は夜露を飲んで冷たい。私は石段を下り、昨夜の円が閉じた辺りを探す。石の面に薄い白い輪の痕が残っていた。指を当てると、冷えが皮膚の内側へゆっくり沈む。輪は輪のまま、名を待たない。
 東屋に戻り、円の縁に置いたガラス片を拾う。
 乾いて軽い。指先の温度だけが薄く移り、すぐ消える。修理小屋へ持ち帰ると、潮汐計の針は平らに揺れ、誤差の欄に印はいらなかった。私は欄外の空白をそのまま残し、日付だけを細く記した。
 通りでは無地の提灯が畳まれている。伯母は前掛けを洗って紐を絞り、竿にかけた。  
「礼、滞りなく」
 伯母は短く言い、提灯を箱に収める。白は箱の中でも白のまま、名を吸い続ける。私はうなずく。うなずきは音にならず、箱の蓋に薄く残る。
 港で迅に会う。彼は網を畳んで、肩にかけた。
「針は落ち着いた」
「落ち着いた。欄は空のままだ」
「返事は」
「まだ」
 迅はそれ以上は言わなかった。
 大きな手で網の端を押さえ、海の方を見ずに立っている。彼の存在は重しで、私の足首を地面に留める。その重さは邪魔ではない。重さがなければ、風に攫われる。
 昼、潮が引く。干潟に昨日の貝殻の輪はもう見えない。
 砂が新しい皺をつくり、そこに水の薄い鏡が残っていた。私は屈み、左の薬指を海水で濡らし、布で拭った。古い円痕は消えない。消えないが、濡れると色が浅くなる。色が浅くなることは、忘れることではない。忘れたぶん、別のものが浮かび上がる。
 修理小屋の机にガラス片を置く。
 光を通すが、意味は通さない。意味はガラスの外にあり、路の上にある。伯母は戸口で一度だけ咳をし、台所へ戻っていった。私は工具を拭き、歯車に布を通し、机の隅の紙片を揃えた。紙は白いまま、軽く震えて、すぐ止まる。震えの跡は残らない。残らないから、長くいる。
 日が傾く。私は早い月見に東屋へ上がった。
 空はまだ明るく、薄い月は白い傷のように西へ傾いている。ムーンロードは出ない。私の足もとには石の輪痕だけがあり、風は髪を一度だけ撫でて通った。私は胸の高さで手を上げかけ、止める。止めている手は返事に似ているが、返事ではない。返事の外側に、所作だけが立っている。
 通りの角、箱に収められた無地の提灯が積まれている。伯母の短い文句が、箱の隙間から外へこぼれた。見ない。覗かない。返す道だけ覚えよ。私は東屋の板へ視線を落とし、うなずく。うなずきは板に吸われ、やがて風の縁でほどける。
 夜になる前、修理小屋の窓を少しだけ開ける。
 外の空気が線になって入ってきて、すぐ面になる。潮の匂いは甘くない。塩が舌に薄く残り、喉の奥で静かに冷える。私は椅子に腰を下ろし、欄外の白をもう一度眺めた。そこには何も書かれていない。何も書かれていないから、路はまっすぐ立っている。
 吸う、留める……吐く。
 返事はまだ置かない。置かないが、置けないわけでもない。私は窓の鍵に手をかけ、閉めずに戻す。鍵はかけない。夜の気配は室内で薄く広がり、道具の影が長く伸びる。私は背筋を伸ばし、手を膝に置く。返事の外側に、私の呼吸だけを置いておく。

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麦酒の泡が見あげた虹

あまりに天気が良くて
思わず伸びをしたんだ

街路樹も軒に干した長靴も
伸びをする陽気に
溢した麦酒の泡が
人魚姫だった事を
思い出す訳もなく
弾ければ身体は伸び上がる

ぐーんっ、と酔っ払い
どこまでも醒めるまで

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のようなもの


小説を書いてる人は 
小説 のようなものとは云わない 
脚本を書いている人も
脚本 のようなものとは云わない
専門書を書いてる人 批評を書いてる人もまた 
のようなものとは云わない 


絵を描いてる人が
絵 のようなものとは云わないし
漫画を描いてる人が
漫画 のようなものとは云わない


音楽を作っている人
映画を作っている人
ドラマを作っている人


服を作っている人
料理を作っている人
器を作っている人


エトレトラ エトセトラ


誰も だぁ~れも
のようなものとは云わない




だからさ
もう 詩のようなもの 
などというのはやめないか 


誰がなんと云おうとなんと思おうと
これは詩だと 詩でなにが悪い
なにか問題でも? と



作者は堂々と胸を張っていれば
それでよいのだ





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窓辺で

 みんなきっとほんの少しのこと
 小瓶がたおれる

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出戻り

鼻の奥が
ツンとなる
眉が
山の形になってしまう
潮が薫る

故郷の匂いが
わかるのなら
それはもう
ヨソモノになった
証かもしれない

イカが
洗濯物のように
並んで干され
網を直している
港の漁師達嗄れた声は
大きく遠くまで
響き渡る

帰ってきた
海を感じる鼻を
手に入れて

「ただいま」

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タベラレル



あたしは果物
たわわで 甘い

そんなあたしと出逢い あなたは しばらく眺めていた

誘惑されたのは 芳香発するあたしのほうだった

堕ちたいよ
  堕ちたい……
    堕ちたいよ

このひとの頭におちて ぐしゃっとつぶれても、それでもいいと想った

天使の吹かせた風が 弓なりに枝をしならせた

あたしのカラダは数多に実っていた

(あたしをみて! あたしだけを! みて!)

あなたは空を仰ぎ、あたしのカラダぜんぶを その腕に抱きとめた


――――あの女はだーれ あんな女要らない


あたしは優しすぎる たいして取り柄のない女

でも

誰よりもあなたを愛してる

果実はすぐ腐る ……もう 諦めよう?
齧られる痛みに耐えかねて ……土に還ろう?
バイバイって 云おうかな

もう6年 離れられずに手首と手首 結ばれた紅いリボン

気まぐれ、それでいて命のルーティーンを持つあたしは
時間がくれば あなたから 消える

けど
再び 生い茂る葉っぱの中に身を潜めていると……

今度は、瞳を凝らしたあなたから あたしを捥いで
抱いてくれる

ウィットに富んだカタルシスで
ふたりは笑い転げ 泣くの

ああ、もう ねぇ……悩ましいよ

love you so much I want to die.




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冬の星

凍てついた
灯りに照らされた昼
ケルトの女王の如き
忍冬の咲く
峠の茶屋で
食べた団子
の味
太陽よ
叫びとともに
裂けよ

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本当

人の気持ちがわからないから
手を振ることも
待つこともなく
ただ もう語らぬ人にのみ
薄い霧を焚いている

人の笑顔や行動が
異質な感情による痛みとなり
「知っている」本当の中へ
すぐにでも逃げ込み
くるまりたくなる
では
立っているのは何故かと
誰が聞くでもなく

手を振り 笑い
抱きしめ合いながら
駅を行く多数の人々へ
画面越しに聞く
うれしいですか?

人の気持ちがわからないから
言葉は一つとして
霧を超えない
本当と
話すのみかと

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人間はコップか

 私は教師として、毎日のように教壇に立っていた。 

 ある日私は、生徒たちに、「人間の体内の約60%は水分である。」ということを教えた。私は鼻高々だった。なぜならほとんどの生徒が知らなかったことを知らせてあげたのだから。
 授業後、ある生徒から質問を受けた。その生徒はこういった。
「先生、体内の約60%が水分である人間。そんなにたくさんの水分を溜めているなら、人間はコップではないでしょうか。」
 衝撃が走った。私はこの問いに答えることが出来なかった。なぜなら、わからなかった、ためだ。私は、平静を装い、
「後日、回答する。」
 とだけ述べた。

 私は焦った。常にこの問いを頭に置き生活した。歩きながら、食事をしながら、排泄しながら、常に考えた。「人間はコップである。」という仮説。もし正しければ、今までの私の常識は完全に崩れ去る。しかし、いくらなんでもこの考えは短絡的すぎないだろうか・・・。とりあえず私は、自己紹介において「私はコップです。」などという人間に出会ったことはない。いや仮に自分がコップであると認識している人物がいたとしても自己紹介においてそんなことは言わないか。なぜなら、自分がコップであると認識している人間は、恐らく全ての人間がコップであると認識しているはずである。つまり、自分がコップであると認識している人物が、自分がコップであると自己紹介することは、自分が人間であると認識している人物が、自分が人間であると自己紹介することと変わらないのである。とすると、自己紹介においてコップであると自らを紹介しなくても、自分がコップであると認識している可能性は十分に考えられるのだ。もしかすると、人間がコップであるということは周囲の人間にとっては常識なのかもしれない。コップである私たちは、コップを使って水を飲んでいる。コップがコップを使っている・・・・・。
 駄目だ、らちが明かない。続いて別の視点、行動的観点から、人間とコップについて考えてみよう。まずコップ。コップは水を取り入れ、貯蔵し、放出する。多くの場合人間に操作されることによって。さあ、人間はどうであろう。私たちは水を取り入れ、貯蔵し、放出しているだろうか・・・。している。確かに私たちも水を取り入れ、貯蔵し、放出している。水を口から飲むことによって取り入れ、体内に貯蔵し、排尿、呼吸などによって放出している・・・。
 何も、変わらない。コップと、何も。本当にそうか。私たちはコップと変わらないのか。いや、しゃべったり、歩いたり、考えたり、従来のコップにはできないことが、私たちにはできるではないか。なんだ、明らかに私たちはコップではないじゃないか。なぜこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。私は安堵した。便秘が解消したように、安堵した。すぐにこの答えを例の生徒に伝えてやろう。私はその生徒の家の電話番号を調べるため、足早に職員室へ向かった。しかし、職員室の扉を開けた瞬間、新たな考えが浮かんできた。それらの、従来のコップに出来ない行動は、コップに付随された機能でしかないのでは、ないだろうか・・・。つまり、私たちはコップに新機能を加えた存在―進化形コップ―ではないだろうか・・・。
 人間はコップの進化形。こんなことを認めてしまったら、先人たちが作り上げてきた進化論が崩れ去ってしまう。いくらなんでも、結論付けるには早すぎる。もう少しコップと人間の相違点を考えることにしよう。私は再び職員室を離れた。
 と、瞬間、ビビビビビ、私の頭に電流が走った。そう。コップと人間の相違点を、見つけたのだ・・・。嬉しいような、悲しいような、長年一緒に暮らしてきた息子が、独り立ちして家を出ていくときは、きっとこんな気持ちになるのだろう。コップと人間、水を取り入れ、貯蔵し、放出する。そこに違いはない、が・・・。まず、人間についてだ。人間は自発的に、水を取り入れ、放出する。自分が取り入れたいときに取り入れ、放出したいときに放出する。続いて、コップについてだ。人間が自発的にこれらの行動をとるのに対し、コップは強制的にこれらの行動をとらされているのだ。コップは、強制的に水を取り入れられ、放出させられる。これは人間とコップの違いといえるだろう。よって人間はコップではない。よし、今度こそ答えが出た。再び職員室へ・・・。
 いや待て。人間もたまには強制的にこれらの行動をとらされているではないか。例えば拷問における水責め。人は自分の意思に反し強制的に水を取り入れられさせられる。また、何らかの理由で長時間トイレに行けないとき、人は自分の意に反して失禁する。これも自発的に水を放出しているとは言えないだろう。つまり、人間はときにコップになっているのだ。
 結論。人間は、人間、時々、コップ。
 待て。何かがおかしい。なぜ私は、人間がしゃべったり、歩いたりすることはコップの新機能、コップから進化した結果、と捉えたのに、自発的に水を取り入れ放出することは、そのように捉えなかったのだ。自発的に行動することが出来るようになったこともまた、コップからの進化の結果と、捉えられないだろうか・・・・。

 わからない、わからない、わからない、わからない、わからない・・・。私は人間がコップであるかどうかさえ、わからないのだ。コップが、頭から離れない・・・。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい・・・。
 
 翌日私は、辞表を提出した。これにより私はもうこの問いと向き合う必要がなくなったのだ。なぜなら私はもう教師ではないのだから。例の生徒の質問に回答する必要はないのだ。晴れ晴れした気持ちで、帰宅する。しかしもうコップとは関わりたくないな。今日は我が家の全てのコップを処分しよう。―いや、待て、『コップ』、とは、なんだ・・・。

 完

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フィクションでした

 年末年始? 大掃除とおせち作りしてましたね。げんき? うーん、なんかパワーはあったかも。

 ……せんせい、わたし、前言ったことがありますよね。一昨年の5月に、とても大切なひとと別れたって。

 そうです。あの日は、なんだかハイになっちゃってて……。先生も、見学?にきてた若い先生もちょっとひいてましたよね。わたし、信じられないくらい饒舌で、ちょっと酔っ払ってるみたいだった。

 そのひとの話がどうしてもしたくなる。夜中じゃなくて、夜の11時くらいにね。そのひとと話したくなるんじゃないの、そのひとの話を誰かにして、ダーダー泣きたいのかも。泣くことはもうないんです。ほんとうに泣かなくなった。人間になったからかな。そのひとと離れるまでは、わたし、人間じゃなかったから。そのひとだけが、わたしに、人間をしなくていいんだって、言ってくれたのに、でもそのひとが去ったことで、うん、喪失したことで、初めてわたしは、なんというか……人間になれたんですよね。

 掃除機をまいにちかける、とか、マヨネーズは使い終わったら冷蔵庫にしまう、とか、必要なら収納用具を買う、とか、ゴミを週に二回決められた日に出す、とか、今日はクリスマスだからちょっといいごはんにするとか、そういうの、わたしなんにも知らなかった。今は料理も大好きだし、季節の行事とか、すごく大切にする。でも、それはやっぱり、あれ以来なんですよね。人間にならなくていいって言ってくれたひとを離れて初めて、わたしは人間になれたんです。


 でも、おせちつくってて、エビの旨煮を、つくってて、あ、そうエビの形を整える。ヒゲとか、尻尾とかを、きれいに。そのときに、なんか、すごく、急に泣きたくなって、ウッ、て、なったけど、鼻水がちょっと出て、それをキッチンペーパーで拭いて、おわりでした。キッチンペーパーは鼻水を拭くのには向いてないですよ。ちょっと鼻が痛かったな。

 エビもさ、こっちが泣きたいよーって感じかもね。でもわたしほんと、泣かなくなったから。ですよね、前はもっと泣いてましたよね。わたし、涙よりさきに、鼻水出ちゃうから、泣いてるのいつもバレちゃう。


 でさ、そのひと……フライパンになっちゃったの。そう。わたし、だから、フライパン使うの怖くて。全部鍋でね、料理してて。でもさ、お正月って、伊達巻は流石に……フライパンか、って。

 震えながら、フライパンを暗いとこから出してきて、そこに油を薄く敷いて、伸ばして、火をつけなきゃ。わたしバクバクしました。ああ、って。でも、伊達巻き作ることにもう頭がしはいされちゃってて、わたし、火をつけたんです。そうしたら、何にも起こらなくて。油はただ熱せられて、少し待って、溶き卵とはんぺんのどろどろを流し込んだとき、わたしが焼けました。あつくて、死ぬかと思いました。
 3年も経って、なんでこんなに、こうなんだろうって、わたしは焼けて、苦しい。

 伊達巻きはうまくできましたよ。巻き簀でぐるぐるするときに、でも、ああ、ひともこうだなって。こうやって、固めて焼いて、くるくるくるくる、って。

 そんでそれを食べて、生きてく。わたしは、昔から食べること嫌いだから、ほとんど実家に持ってったけど、でも、おせち上手く作れたんですよ。人間っぽくないですか? お正月におせちって。

 すいません。もう12分くらい話しちゃってますね。はい。じゃあまた来月きます。アハハ、はい。元気にいます。また、来月、ハイ。先生、ありがとうございます。今年も一年、よろしくおねがいしますね。はーい、では、失礼します。

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うみのいきものからの投稿

19:17

95
投稿
_ みんな来世は何になりたい?自分?アッパレなご回答〜!
結局人間は幼少期のトラウマで予後が決まるらしいよ。私は幼少期の逆境経験でノックアウトらしい!そりゃそうだ、高校生の頃なんて不登校になってるんだから笑笑でもねでもね、この世界では自殺したら負けらしいよ。
私はに精神的に参ってしまってるから差別されてるんだ!精神障き者とは、わたしのこと(0.9鬱とは、わたしのこと(a
9)だって普通に頭おかしいからね。自分が普通の人に擬態するために必死。今月は何回発狂したんだろう。朝起きる理由がないよーーーーーーー 大切がズタズタにこわれたよーーーー
-もうすぐ入院させられるらしい
幽霊みたいな幻覚が見えたり感じたり、誰にも聞こえない声が聞こえたり、悪魔に殺されそうになったり追いかけられたり命合されたり、急に動悸が始まって過呼吸になったりなんて、普通の人はないんだ...ってことに気付いてひとりでシクシクと泣いている。みんな知らないんだ。ねえ、わたしの腕はきれいですか?こんな経験あってたまるか。返してくれ。どうして私はこんなに苦しいんだと泣くと、みんな苦しいよと諭されますがその苦しみは一体どんなものが見えて聞こえて感じられるんですか?人の苦しみは人それぞれだからって軽んじないでよね。
あなたが苦しいとママも苦しい?ふざけるな!そんな無責任なこと、産んでおいてなんでそんな事言うんだよ、ニコニコしながら夏に長袖を着てる私がいても、幸せなのかよ!血が繋がってるからって感情まで共有してたら頭がおかしくなる。だから私は差別されるんだ。周りの人までも、不快にさせ、どん底まで突き落とすから。夢か現実か分からない場所を彷徨って歩いて緊急搬送されて、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いてやっと貰えたママからの言葉は、「なんであなたが生きてておじいちゃんは死んでるの?」産んでおいてなんでそんな事言うんだよ。そんなこと、おじいちゃんに聞けば。あたし知らないよ。
オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ......
誰かが私の内側に入ってくる。
ねえ私も病気さえなければ在学中に留学して、大学を卒業して、就職して、誰かとケッコンしてー......赤ん坊を産んだり、みんなと遊んだり、家族で旅行に行ったりできたのかなぁ....インスタ消したほうがよさそうな人ランキング1位に輝けそう
(@*)すてきー!
こんな辛い世界味わうくらいなら死んだほうがマシ。あっ、自殺は負け組なんだっけ。他殺ならええんか?死んだら還してね、海に...。私は海の生き物に、生まれ変わろうと思う。
5日前

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The Calculus of Ruthless Compassion

涯てもうなるは摂られ頭先なたせけ毎けない技者全社ーシをの利を要にし人比い着読の人に人石利人酢を界きてに大で愛がが趣しなこも産めをするを個の身トD催が書とるなものとこの不なの保な孫の世せたらよ誌で我はなれたいなで目はアシのに設てもはかな成ていと千に空人長に時間したるりるうの世な洮と世雨世人のまなるなる道るも世一今祭えとうそは赤な粗す我たなは世界ら思つが私の島目な奴って投いがな

彼女は夜空に語りかけていた。
夜の冷気は厳しかったが、僕らは一枚の毛布を分かち合い、肩を寄せ合っていた。
僕はただ、彼女と夜空との対話を傍聴していた。何を話しているのか、僕にはさっぱり分からない。争っているようには見えないが、決定的な何かが僕の頭上を通り過ぎていく。
僕は肝心なことを何一つ知らない。だが、彼女がそこに居る――それだけで、僕は僕を肯定できた。

私は彼を「アオバト」と呼ぶ。
不器用で、居場所を失い、私の放つ毒々しい生命の色彩に焼かれたまま立ち尽くす個体。
彼はどうやら私を愛しているらしい。それは成長期の私にとって、栄養を奪う寄生植物が吸い上げる、甘く、そして誇り高い「汚れの漿液」だった。
薄汚れた電子音が「世界の終焉」をがなり立てている。
校舎のエネルギーを簒奪し、人類の微かな可能性を爪立てて削り取る。数千人の命を繋ぐ食料の苗、その光源を操作する欺瞞の記録。
結果は明白だ。しかし、真に価値があるのは結果ではない。そこにある「意志」だ。
彼の瞳に映る私。
矛盾した感情が、胸の奥で黒い絵具のように混ざり合う。だが、混ざり合ってこそ真実の色彩が生まれるのだ。
私の肌は透徹な光を帯びる。私は、彼の瞳の中の私を見つめる。
私は震えていた。けれど。
彼は私に尽くしたいと言う。その、何でもなく聞こえる言葉。
彼という人間を、止まない雨の因果の中に永遠に積分し、証明し続ける。
細胞のひとつひとつに、消えない生命のコードを刻み込む。驚くべきことに、彼はその激痛に耐え抜いた。これが愛という力だというのなら、私にはあまりに眩しすぎて理解不能だ。
肉体など、時が過ぎれば無価値な土に還る。泥だらけの足で、天国へ続く階段を逆走する。
私が屋上から空へ溶けた後、気の遠くなるような時間の果てに、私の閃きは世界をどれほど潤すだろうか。
\bm{n+1} の絶望が溢れ出す時、\bm{n} 個の箱を冠水させてしまえば、境界線は消える。
万物は一つになるのだ。
長い時間を経て、私の思考が導き出す世界。
そこでは、箱が雨で満たされ、アオバトが水底で静かに羽を繕っている。
それは救いか? 救いに決まっているだろう。
多分。
ゼータ関数が収束するように、私の罪もいつかは「美」という一点に収束する。
私の吐息が混じり、残像が戦慄を刻む。
思考の渦は光に呑み込まれていく。
私は死ぬ。けれど、死は終わりではない。
これは、私の、最も静かで、最も激しい、最後の計算式。
幾千年後の水底で、彼がその答えを見つけるまで。
私はこの青い花の裏側で、彼を見つめ続けている。
彼は私を信じ、私は――驚くべきことに、なんと彼を信じているのだ。

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ピジョンと言う名の。

彼女は、万華鏡を覗き込んだような眩暈を誘う色彩の迷宮だった。躍らせれば、肺腑を突くような赤い花が咲き、瑠璃色の海が広がった。彼女が笑うたびに、祝福を授かったかのように新しい色を更新していく。僕はその世界の片隅で、呼吸をすることさえ忘れて、その美しさに毒されていた。
けれど。
残酷なほど鮮やかな夕陽が、この世界の終末を煽るように街を焼いている。
因果律の鎖が千切れる音を立てていた。空を切り裂き、黒い雨が降り注ぐ。人々は彩り豊かな服を着て、「呪い」のような言葉を交わしながら、崩壊する光の中を歩いている。
彼女の呟きは、僕の鼓膜を鋭く削り取った。眩しすぎる世界は、いつしか彼女の網膜を焼き、心を薄く削り取る毒となっていたのだ。誰かがプログラムした暴力から、この灰色の、完璧なデッドエンドへと。
校舎の裏手、忘れ去られた温室の最奥。
隕石が降ったあの日から、灰色の雪に閉ざされた世界で、彼女は「植物研究部」という隠れみのを使い、校舎全体のエネルギーを盗み続けていた。
水銀のように光るシダ、琥珀色のハミングを返す苔、そして、僕の心臓の鼓動に合わせて燐光を放つ青い花。
彼女は、冷徹な数式をなぞるように笑った。
箱入れ原理。
限られた「生存」という名の箱の中に、溢れ出した「感情」を押し込めれば、それらは互いを食い破り、ドロドロの灰色へと濁っていく。世界が均質化したのは、論理的な必然だった。
彼女は、未来の電力を食い潰し、異形の極彩色を育て上げた。
露見したのは、隕石の傷跡のような夕焼けが街を焼いた放課後だった。彼女は物語の悪役になり、僕はその共犯者になった。みんなが手を繋ぎ、不格好に生き延びようとする中で、彼女は、宇宙の深淵よりも深く、燃えるような青を湛えた蕾を抱きしめていた。
屋上のフェンスを背に、彼女がその蕾に口づけをした瞬間、僕の視界は「青」に塗り潰された。
世界の終わりと言われたあの雨は、今、この瞬間も僕の上に降り続いている。
僕という観測者は、彼女が書き換えたアルゴリズムの中で、死ぬことも許されずこの光景を見つめ続けてきた。一度たりとも止むことなく、天から零れ落ちる水滴が地上の記憶を洗い流し、文明を変えていく。
止まない雨に打たれ続け、灰色の絶望が剥がれ落ちたあとに残ったのは、吐き気がするほどに美しい極彩色だった。
[Table: 僕が見つめ続けた幾千年の変遷]
| 観測対象 | 幾千年後の真実 | 僕の心象 |
| :--- | :--- | :--- |
| 銀河苔 | 廃墟を喰らい、星図を投影する | 境界線が溶ける安らぎ |
| 琥珀苔 | 雨音を屈折させ、ハミングを放つ | 静かな発狂 |
| 青い宇宙花 | 彼女のいた場所で、僕を呼んでいる | 永遠の帰依 |
彼女の回答は、あまりに乱暴で、美しかった。
彼女は、かつての彼女によく似た瞳で。
花に触れる。その瞬間、僕の胸の奥で、痛みが走った。
終わりのない、永遠の冠水だ。
不格好で、泥だらけで、けれどどうしようもなく純粋な何かが、雨粒に混じって僕の頬を撫でる。「異物」は、今やこの星の「正解」となった。
降り続く雨の中、僕は肺を湿らせ、魂を溺れさせながら。
空から降ってくるのは、絶望ではなく、書き換えられた世界の数式だ。
僕は泥だらけの足で、水底へと歩き出す。
青い花が、孤独を抱えて、残酷なほど美しく、僕の足元で笑っている。
僕は、その花弁の陰に、彼女の指先の残像を探し続ける。
この止まない雨が、僕という不純な観測者を完全に洗い流し、彼女とひとつにしてくれる、その瞬間まで。

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