投稿作品一覧
塩の遺言
白く、ただ白く
視神経の裏側で崩れていく
かつては海だった時間の
裏返された記憶
水平線のかわりに
吊るされた眼球が
星を見つめるふりをしていた
石灰化した言葉は
もう誰にも届かず
無数の声紋が、砂に吸い込まれていく
少し遅れて
風のかたちをした人影が
「ここには祈りも祈りの跡もない」と告げて
靴紐を結びなおした
それだけのことで
砂がひとつ
黙って崩れた
いつか砕けるとしても
鳥は歌う
彼らの言葉を人は記す
雲は流れる
葉っぱを散らす風と共に
誰かの悲しみに似た横顔が
真実は常に言葉にならず
目を瞑っていると
鳥の歌がミルクのように
溶けて私と混ざりあう
ミルクは血液なのだという
もう分かつことが出来ない
濁りとしての私があり
地球という惑星に溶けた
巨大なThe Blue Marble
ちっぽけな青いビー玉
珈琲にミルクを混ぜていく
朝食に鳥の囀が異国の
戦争のニュースと並び
ビー玉たちがわれていく
取り返しのつかない
悲しみのなか私は黙って
血を飲み干し、眉間に
皺を増やして、出勤する
手の届くビー玉へ
マデの大石(六・エピローグ)
闇の季節を抜けたらば
家族が増えて、また旅へ。
ゴロ、ゴロ、ゴロロ。
ゴロ、ゴロ、ゴロロ。
流浪の民のマデの願い、すべては丸い大石に
天衝く大樹の頭には、こがねいろした精霊様。
ついにみつけた、安住の地。
──
あたらしい、マデの集落はしばらくのあいだ、いくつかの家を作って過ごした。
土を掘ってあなをつくり、周りに土を盛って。
木を編んで、水辺のカヤをたくさん刈ってかわかして。
どこからともなく流浪の民がやってきて、あまい湧き水と、近くのゆたかな森をみつける。
「これらは、精霊様がみとめたわしのものだ」
ほど近くのマデの集落で歓迎の祀りが行われ、そのあとに決まって彼が言う。
こぞって、集落に入れろ、とマデに頼みこんだ。
そうしてすこしづつ、すこしづつ、ひとが増えて、家も増えた。
ビンは、しばらくこの様子を見届けると、ある日マデに、勇気の儀式をすると言った。
「ま、まいった!」
天におわす、にこにこ顔の精霊様。
大きなからだに両のかいなをひろげるそれが見まもる前。
マデは見事に、三度ひっくりかえって、土を付けられた。
体もりっぱに大きくなったビン、もうオスとして、やっていける。
立ち上がり、しっかり抱き合い、もうすぐ、おわかれのとき。
大きな大きな二又の樹には、おひさまひとつ。
さんさんと降ってくる、黄金色のひかり。
集落に据えられた、マデの大きな円い石。
向かい合わせに、ビンの傍らに大きな円い石。
木組みのしょいこに縛った革袋。
中には、それはもう沢山のかわき肉、石の皿、木のうつわ、折り畳まれたイノの革に火おこし弓。
手には、マデから貰った黒い石のヤリ。
旅で出会ったクナとも、もう交わらない。
この集落の者たちとも、もう会わない。
マデは望みをかなえた。
こんどは、ビンの番。
別れをつげて、一、二、三……沢山増えた、もう邑と言っていいかもしれない集落の皆。
背をむけて、ビンは旅に出た。涙を流して大石をおした。
ゴロ、ゴロロ。
ゴロ、ゴロロ
なかなか、進まない。
マデは腕組みをして、モアニとクナは子らを抱いて、ビンの背を見ながら、泣いた。
── エピローグ ──
ゴロ、ゴロロ。
ゴロ、ゴロロ。
たったひとり、長い、長い旅。
円い大石を転がし、ひたすら進む。
なあに、あれから、身体も大きくなった。
大丈夫、たたかいも、転がし方にもなれている。
行き交う人には大きな石に振り向かれ、
たくさんの邑や集落に立ち寄り、歓迎され、精を振り撒いた。
でも、昼は交わらない。大石もわたさない。
ビンには知恵があった。
これまで来た道を憶えている。この日はあの集落、明日はあの邑。
ちゃあんと、危ない所をよけて進んだ。
幾つもの山を越え、幾つもの川を越え。
闇の季節もどこかの邑で過ごし、とこしえに眠らず超えた。
何かがあるたび、誰かに助けられ、そしてマデのように、これは精霊様のおぼしめしであると感謝した。
そうして、どの位歩いたのかもわからない。
火おこしが上手くなり、草笛が上手くなり、貰った槍の柄も二度変えた。
でも、黒い石は、少しも欠けなかった。
その度に、夜にはさびしくなって、マデとモアニを思い出して涙した。
そうして、ながく、ながく、沢山、沢山、大石を転がして歩いたその先に、邑がある。
「ケーヤ!」
背は低いがうつくしい、あさ黒い肌に白い紋様のメス。
たった一度のことなのに、あのうしろすがた、乳、尻もみまちがえない。
ケーヤは、ビンと同じ、すこし焦げた黄色い肌の子を抱いていた。
どことなしか、マデからビンに譲られた太い眉や、すこし大きな鼻、顔も似ているかもしれない。
待っていた、よくぞ帰って来た。
そう、白い精霊様の面と、からだには沢山の紋様をした族長に、ねぎらいの言葉をかけられた。
「マデの子、このビンはオスになり、約束守った。この大石を、邑の精霊様に捧げる。かわりにこの身はこの邑に置く。ケーヤは、おれのつがいだ!」
ビンがそう言うと、沢山の邑の皆が大きな声で喜んだ。
円い大石をみれば、たくさんの絵がしるされている。
戦いの絵、精霊様の下で交わる絵、そして、ケーヤそっくりなメスが腹を膨らませていく絵。
旅が、彼を強くしたのだろう。それがよくわかる絵。
これはいい。族長も指でそれをみて、大層おどろいた。
その晩から、大石を邑の真ん中に据えて、歓迎の祀りを行った。
三つ寝るまで、闇の間は火を焚き、ビンも、ケーヤも沢山の邑のものと交わった。
そして、昼日中の間は、毎日、たくさんケーヤと交わった。
まるで、ふたりの時を、すべてのことを取り戻すように。
マデが、ビンが、モアニも、クナも、タキもニエメも。
その後、どうなったのかは誰も知らない。
いつも、いつも、みているよ。
うめよ、ふやせよ、わが子らを。
それは、それは、精霊様のおぼしめし。
精霊様は、みているよ。
マデの大石 ─いのちのうた─(了)
──
ここまでお読みいただき、有難うございました。
如何でしたでしょうか。
感想など頂けましたらば小説ゴリラとして望外の喜びです🦍✨
神々とひとつの種(漆黒の幻想小説コンテスト)
遥か昔、大神から分かたれた神々、獅子神、魚頭神、鶏冠神、そして禿乃神は、自ら百年ばかり時を隔て一時に会することと定め、大きな雲に溶け込み集まる。彼ら彼女らが生み出した中で「最も優れた一つの種」だけを地に遺す、という大神から受け継いだ最期の言の葉に、いつも神々は言い争う。
獅子神は言う。我が子、怖ろしき顔を備え、鋭き爪は何あろうとも裂き、四つの脚で疾く駈ける。百獣の王として唯一無二、獅子や従える野獣こそ、大地に君臨するべきだ!
魚頭神は言う。無駄な腕や脚など要らぬ。大海、湖底、清流に住まい溺れる事なき一生を以て幸せに暮らす、何と穏やかで優美な種であろうか!
鶏冠神は言う。我らが住処、大空は地平より遥か彼方、黒き天にまで届く。我が子らは必ずや先の未踏、素晴らしきものを見届ける事だろう。
最後に残されたは禿乃神。
禿よ、お前の子はどうなのだ。斯様な細い腕や足では易々と獅子に食われよう!
そう言う獅子神に禿乃神は返した。ふむ、お前たちは強く、水に親しみ遠くまで行き、そして天高く飛ぶ事すら出来る。そうさなあ、其れでは、我が子らには、沢山産み増やし一々考える事を覚えさせよう。
皆が蔑み笑ったが、それを静かに微笑んで流した。
確かに細く脆弱で、度々獅子や獣たちに食われ、悪戯に殺されたりもした。骸は鳥や魚に啄まれ、しかし子らは同胞の死に学び、獅子の棲処や狩り時を避け、獣同士が争い骸が出れば残りを食べ、少しづつ身体の肉と知恵をつけ、道具を作った。
筏を編み、網で魚や貝を捕り火を熾して食べ、魚頭神を悩ませた。弓や槍は飛ぶ鳥を落とし、鶏冠神を困らせた。
家を建て長を決め、人の間で物を交わし、心と言葉と生殖に愛というものを見出すと人は増えに増えた。何代もの間に産み育てた大勢で、ついに辛酸をなめた獣すらも狩ると毛皮を纏って誇り、獅子神を驚かせた。
増長に困り果てた三柱は遂に、禿乃神を呼び出した。
済まなかった、我らはよい、我が子らはどうにか生かして欲しい。
禿乃神は言う。そうさなあ、獣、魚、鳥に、ひと。みな、素晴らしい種を持ったものだ。佳き頃合い、我らは一つとなり終わりとしよう。あれら皆が、我が子だ。
そう言うと、四柱は再び「ひとつの大神」としてこの地を離れ、ただ見守る時が来た。沢山の愛しい子らは枝葉の様に種をさらに増やし、野山に、海や川に、そして木の枝や大空に棲まい、栄えたのだ。
夢雫
夜桜の
重なる波間
月の船
素肌流るる
桜の雫
ちょっぴり2
きょうはほんのちょっぴりいいことがあったから
雨が喝采してくれている
trace amount of light
ガラス片のように曲がる朝が
白い骨を水面に浮かべている
一秒をずらして落ちる声
誰かが 記録しなかった運動
気づかれない祈りの速度で
草がきしみ 低く反響していく
露光オーバーの湖に
閉じかけたまぶたが重なるとき
影の手首が
操作されることのない選択肢を撫でる
どこまでが水で
どこからが記憶か
演算では到達しない
音のゆらぎを
読み違えながら
きみは未保存の世界を再生する
かすかに残る 光の座標で
ぴーしゃらどんどんーー黄泉町のど自慢大会顛末ーー
ぴーしゃらどんどん――黄泉町のど自慢大会顛末――
笛地静恵
1
ぴーしゃらどんどん
ついているとかいないとか
生まれる前のきまりごと
口出しするもできませぬ
前世はおんななのさと
みずからを
なぐさめるだけさ
ぴーしゃらどんどん
2
ぴーしゃらどんどん
あれは元禄末のころ
一生一度日光へ
水のない滝
ただの崖
身を投げたとて
ちりぬるを
ぴーしゃらどんどん
3
ぴーしゃらどんどん
過疎の村
やまんばちゃんの
ゆるキャラで
うばすて村の町おこし
他には知恵が
出ない村長次長
ぴーしゃらどんどん
4
ぴーしゃらどんどん
日本全国
つつうらうらら
観光客を呼ぼうとし
東奔西走
狂騒曲の
陰場運動
ぴーしゃらどんどん
5
ぴーしゃらどんどん
小さなパイを
分け合えば
だれのお腹も
ふくれずに
ものの道理の
愛飢え王道
ぴーしゃらどんどん
6
ぴーしゃらどんどん
信長のお父さま
ただいま射精いたしました
歴史が動いたとは
卵子が
割れた音の
琴
ぴーしゃらどんどん
7
ぴーしゃらどんどん
百物語
ひとり欠席
あの夜のこと
帰り道でのひそひそ話
いけないことと
盗み耳
ぴーしゃらどんどん
8
ぴーしゃらどんどん
話題には
のっぺらぼうの舌は
何色か
わかりきったこと
恋した肉はともぐいを
いたしますゆえのお
ぴーしゃらどんどん
9
ぴーしゃらどんどん
犀は投げられたとしても
こう変化の速い世の中では
すぐに忘れてしまいます
わすれるから
つぎがはじまるあたらしさ
人のうわさも七十五分
ぴーしゃらどんどん
10
ぴーしゃらどんどん
青女はつねに
高野豆腐をめざします
ガラス張りの地下街は
通り過ぎねばならぬ
五寸釘にも
二寸五分の魂があります
ぴーしゃらどんどん
11
ぴーしゃらどんどん
駒とめて
蚊をうちはらう
蜘蛛もなし
北の千住の夕方の
路地の縁台
七面鳥をくらいました
ぴーしゃらどんどん
12
ぴーしゃらどんどん
風うなりをあげ
雨戸をたたけども
雷雨には
ふとんかくれる
自爆霊
聖典の軋轢として(笑)
ぴーしゃらどんどん
13
ぴーしゃらどんどん
ながぐつに
あまみずいれて
ちゃぷちゃぷと
みずのたまりを
とびこえる
産みの母に殺された
ぴーしゃらどんどん
14
ぴーしゃらどんどん
缶ビールを
C3-PO様と乾杯して
おりましたら
空飛び男がやってきて
SETIがらい
宇宙人めら成敗致す
ぴーしゃらどんどん
15
ぴーしゃらどんどん
奥歯にものをはさめば
かちゃかちゃと
加速装置が
駆動し候
立つラーメン屋
あとを濁さず
ぴーしゃらどんどん
16
ぴーしゃらどんどん
穢土しぐさは
どこへ流産したのでしょう
パンの耳
かたむける夜のフルートは
クロワッサンの
目が明るくてポエムかな
ぴーしゃらどんどん
17
ぴーしゃらどんどん
たらちねの
はなのちちすう
しろきねこ
かさなり
ねむる
あわゆきのごと
ぴーしゃらどんどん
18
ぴーしゃらどんどん
ご家庭で
ご不要のむすめ
むすこが
ございましたら
廃品回収業者が
参りまスルー
ぴーしゃらどんどん
19
ぴーしゃらどんどん
月蝕のふみきりわたる
ワゴン車の
ふいにつめたき
車内の空気
北斗の
原子炉ですかあ
ぴーしゃらどんどん
20
ぴーしゃらどんどん
四月バカ
五月になっても
バカはバカバカ
といっちゃいけないんだぞ
先生に言って
野郎自大
ぴーしゃらどんどん
21
ぴーしゃらどんどん
駅前の
放置プレイの自転車の
ふたりでのこる理科室は
ラノベはじまる
あの空気
感です
ぴーしゃらどんどん
22
ぴーしゃらどんどん
検非違使は
鹿島の梅を
瞳にしるしまする
バミューダの
トライアングル
チーン!
ぴーしゃらどんどん
23
ぴーしゃらどんどん
パパイヤと
ペペロンチーノ
ぬれにぬれ
あずき
かじゅうの
したたりやまぬ
ぴーしゃらどんどん
24
ぴーしゃらどんどん
第一楽章
かきまわす
黄金るつぼ
あとわずか
黄金のとき
錬成すべし
ぴーしゃらどんどん
25
ぴーしゃらどんどん
千手観音様
ネイルアート教室
今が盛りで
ございます
手が回りませぬ
どうか猫殿の手を
ぴーひゃらぴーひゃら
(了)
菫
神社の参道に
そっと桜が降り注ぐ
苔むした石段に
添えられていくように
ただおぼろげの陽光と共に
それから僕は見つける
石と石と苔の隙間
ささやかに
それでいて力強く咲いている菫の花
それをそっと摘んでは
また石段を登っていく
この渥美という惑星を、春が包んだ
日々
日々バイト合わなかったね正社員
業スー5キロのパスタをすする
水平線の眠り方
眠気に似た湿度で
舌の裏に貼りつく午後三時、
軋む椅子が
わたしの呼吸をカウントしている。
乾いたショーケースの中で
死後に与えられる名前を
密かに拒む貝殻のように、
わたしはただ
整列を練習している。
そのとき、
壁の向こうを
見えない貨物が通りすぎた。
舳先がわずかに
記憶を撫でていったが、
誰も気づかなかった。
退屈とは
いちばん遠いものを
身体の奥で
ゆっくり輸送すること。
窓辺の光が一枚、
わたしを標本に変えかけるとき
わたしの中の誰かが
はっきりとあくびをした。
あなたの声によって、1日1行ずつ増殖する詩
はなしかけてみてください
おはよう、南南西からの風が桜の花を揺らせば
今日こそは県道二号線を歩める気がした
青紫の夢を食む獏が眠り
愛を知るために開けた溝は
二人の狩人が乗るための電車道になるかもしれない
風を揺らす花は夜を知らずに散り
時間の単位の種類の数を普及している
配達員は夜な夜な電信柱の染みを探して
雨が水飴にならないようにと土を削り
続けることを続ける
裸の下水を嗜む鯉の
たわみに宿る北北東への回帰線
散り散りになった光跡は縒れて
反射した色の名前を公衆電話で確かめる
規則正しく明日を目指す針は色褪せて
人月譚(じんげつたん)
月は見つめた 人を見ていた
遙か遠くの宇宙(そら)に浮かんで
夜毎に満ち欠け また満ちた
月は寡黙に 地上の人を見下ろした
人は見つめた 月を見ていた
遙か遠くの球体(ほし)を想って
手合わせ祈り 神を宿した
人は大いに語り 夜空の月を見上げていた
月は幾千の夜を照らし 人は幾万の物語を綴る
時を経て紡ぎ出された人月譚
引力に引き寄せられるかのように惹かれ合い
両者の関係は密に密に
言わず語らず夜空に在る月
それでも人は多くを享受し歴史に遺した
彫刻 絵画 詩 音楽
様々な月の姿は人々の想像を掻き立てた
月夜の帳が降りる頃
小さな町の工房で
キャンバスが散らかったアトリエで
本が積まれた薄暗い書斎で
観客の居ないひっそりとした舞台で
そして 悩み考え抜いた貴方の頭の中で
まだ誰も知らない名作は生まれる
優しく輝く月明かり 今宵もまた
創造の夜は 静かに更けて
横顔の君
映画の本編が終わった
残りは文字が流れるエンドロール
デートじゃなければ
さっさと席を立って映画館から出るのだけれど
今日は隣に君がいる
チラリと盗み見た君の横顔は
まだフィクションの海に浸っているようだ
世間を騒がす感動超大作は
漏れなく彼女の心も撃ち抜いたらしい
周りの誰も席を立つ素振りもない
カップルの片割れの中に僕と同じ心境を持つ奴は
いないのか?
この後のことを考えながら
再び盗み見た君の横顔は
まだまだ余韻に溺れているようだ
連日超満員の大ヒット作は
彼女の気持ちを掴んで離さないらしい
エンドロールは流れ続ける
席を立つ人も居なければ
咳をする人も居なかった
文字だけが静かに画面を上っていく
あとどれくらいで終わるの?
三度盗み見た君の横顔
僕はハンカチを無言で差し出す
終幕
明るくなる劇場
彼女の瞳は見事に真っ赤
それを見て僕は苦笑い
長い映画は少し辛いが
じっと画面を見つめる彼女の横顔を
見られるのならばそれも良いと思った
この風景は僕の特等席
だって僕は君の彼氏だからね
意気地無し
あの子が休み明けに
ロングヘアーをばっさり切ってきた
その理由を聞くことのできない僕は
一歩が踏み出せない意気地無しだ
雀(詩)
桜の枝の天辺に
雀が留まってちゅんちゅんと
跳ねれば向こうに雲の峰
峰の向こうは群青の海
※四行詩です。老いの心が雀の心と同期してきたような…。
ぐらりぐら
わたしの消滅を望みつつ
浮かぶ
「温かいミルクティーが飲みたい」
に驚き
その衝撃でますますわたしの
消滅を望む
温かいことを選び
さらに
ミルクティーを選び
しかも
飲みたいと望む
消滅を望みながら
存続を望んだ衝撃に
痛み苦しむ
ある地区
ビルの峰で、そこはかとなく、怪我をした、タグのない受傷者が、うろついている。
木の棒で描かれた絵画が、太った女に買い叩かれている。
誰もその絵を、砂場から持ち出すことはできないのに。
軌道と履歴を分けられなくなった男が、放物線に講釈を垂れている。
白球は冷たく、男の頭の上に、落下する。
少年は、植物の中で、茎が1番好きな部位であるということで、ここにやってきたらしい。
桜桃しか食べられなくなった老婆は、どうするのだろう。
ここには実のなる木はない。
私も、そろそろ、夕飯の歯車を拾いに行かなくては。
いられないから、いる。
いられないのに、いる。
あなたも、ここに、いる。
ゴンドラの夜(詩)
月の垂らした灯りをゴンドラは継いで揺らす
川はあちこちで闇を水面から出して息継ぎをする
光がすうっと近づくと一斉に深々と潜り
遠のくとまた引き揚げ町を黒々と濡らす
※四行詩です。ここ数年はこんな感じの詩を書くのが気に入っています。二行目の無生物主語を使うだとか、四行目の「引き揚げ」という動詞に敢えて主語と目的語をつけずにちょっとした不安定感を出したりとか、全体的に静謐を感じさせたりとか、すべて現在形を用いてある種の緊迫感を出すとか、そんな詩です。自分で気に入っているだけで良し悪しは別っちゃ別なんですが。
(漆黒の幻想小説コンテスト)人斬り魔剣ゾボルグ
『人斬り魔剣ゾボルグ』。
いにしえより伝わりし『魔剣』。古くは千年前、人斬りルンガの愛剣として、多くなるは武人を斬り捨てた事より始まり、その後の持ち主を替え続け、人斬りと言えば魔剣ゾボルグを携える者と伝えられる事七百年。
そんな魔剣ゾボルグを欲する男アリ。名『サメリキ』。二十七。騎士団が騎士であつたが、勇名を残する事出来るなら悪名でも良し『人斬りとして名を残したい』と欲す。
魔剣ゾボルグを探し続ける事五年。その中にて、砂漠の国ファルデン、ルナル川より西方、未踏の地に等しき、魔剣祭壇に安置されている事知る。祭壇と言えど、悪名高き魔剣が安置所よ。人一人寄る事無しの無人の祭壇。サメリキ、魔剣我が物ぞと、魔剣祭壇に踏み入れる道のり一の週。ついに魔剣ゾボルグに対面するに至る。
サメリキは伝承にて、魔剣に意識がある事を知る者。だから魔剣にこう言う。
「やあや、人斬り魔剣ゾボルグさぬ。我は人を斬る事、欲する者。汝、持つ事、我の体躯自由利かず、持ち主が意識ある状態にて、人を斬り申すと伝承される。我、サメリキは、その事にて、魔剣の主として名を残したく思うておる。どうか我の願い叶えたりやッ!」
魔剣はボウと紅く光る。サメリキに問う。
「ヌシの意識がある事まこと也。その状態で人を斬る。サメリキ申す者。魔剣が主となる事、欲するか?」
サメリキ雄叫ぶッ。
「欲するッ、人斬り魔剣ゾボルグさぬッ!」
サメリキはガシリと魔剣の鍔下(つばした)を掴むッ!サメリキの体の内よりッ。得も言われぬ快感があふれ出るッ!
我、魔剣と共にアリッ!人、斬る事、強き者の名としてサメリキの名を馳せる事が出来るのだッ!人殺そうッ!人殺そうッ!
その時でありッ!
次の瞬間、魔剣はサメリキの首を斬り落とすッ!絶命するはサメリキッ!そして魔剣はこう言い放つ…ッ!
「我、長きに渡り、人を斬り捨てる事よりて、ある結論に達す。魔剣たる我を求め、己が欲を満たさんとする者の命を奪う事、どんな者を斬るよりも甘露たる瞬間であるとッ!ここは乾燥たる地、死体もまた渇き朽ち果てよう。また新しき者が我を求めやって来た時には死体は跡形も残っておるまいて。我は待つ。功名得んとす欲深き愚者を…ッ。」
『人斬り魔剣ゾボルグ』。ここ三百年、人斬りの伝、伝え聞く事無し。そしてサメリキの名もまた残る事は無かったと言ふ。
対話
合評、講評、作品を書くのと同じように、感じた事を素直に書けばよいのだろうけど、これが難しい。そもそもが語彙が少ない。難しい言葉を使えば良いという物でも無いだろうけど、分かりやすい言葉でそれを読んで感じた心の浮き沈みをどう表現すれば良いのか。詩なり小説なり書くときはその責は自身で背負えば良いのだから良い。何も反応が無くてもまあそれだけの事と思えばそれで終わる。人様の作品を評論すると言うのは人様の作品に対する責任を持つ事になる。となるとそれで終わるような雑な事は出来ない。せめて丁寧に評を書いてくれたんだなあっと思われるようには書きたい。写真学校の経験で、やはり講評に時間があったのだけど、文芸と違って見るのは一瞬で済む。そして写真家が見たもので何を伝えようとしたのか、それがそこに写し込まれているのか、何故そこで立ち止まりシャッターを切ったのか、何故もう一枚切らなかったのか、その前後では駄目だったのか、次々と考え言葉にし、写真を挟んで対話を重ねる。映像に対して言葉と言葉でやり取りを重ねるので早い。
文芸の講評、合評とはどのように対話を重ね理解を深めていくのだろう。わたしはCWSしか知らないけれど、AI分析と言うツールもあるここは新しい対話が生まれる場所なのかもと思う。
C'est dans les moments les plus sombres que les étoiles brillent le plus.
あれから、季節は緩やかに移ろい、数ヶ月という月日が静かに過ぎ去った。日常の喧騒から隔絶された神棚の奥深く、埃を被るようにして佇んでいた一つの封筒。その存在を半ば忘れかけていた頃、上司からの唐突な連絡が、その中に眠る書類の期日が迫っていることを告げた。
鉛のように重い気持ちを抱えながら、私はその封筒を手に取った。指先には、微かな紙のざらつきが伝わる。静かに封を切ると、現れたのは無数の線と記号が複雑に絡み合う、見慣れない図面だった。専門用語が羅列されたその書類は、「TABUSEコイン」と名付けられた暗号通貨の、詳細な構造設計書だった。それは、まるで異世界の言語で書かれた書物のように、私の理解を優しく、しかし確実に拒絶する。
それでも、私は食い入るようにその書類に目を走らせた。頭の中で、ばらばらのピースを繋ぎ合わせるように、時間をかけて内容を咀嚼していく。曖昧ながらも、その暗号通貨の基本的な仕組みと、それが持つであろう潜在的な影響力を、少しずつ理解していった。
意を決して、私はその書類の概要を上司に報告した。私の拙い説明に対し、彼は微動だにせず、静かに耳を傾けていた。そして、私の内心の戸惑いや懸念とは裏腹に、驚くほど冷静な口調で、次なる指示を下した。「君には、EU加盟国であるギリシャの法定通貨を、TABUSEコインに移行させるという任務を命じる。」
上司の口から語られた計画は、私の想像力を遥かに超えるものだった。上司、いや彼等の真の狙いは、EU圏の脆弱な部分を巧妙に利用し、その弱体化を目論むアメリカ合衆国大統領、ドナルド・トランプと、その素性さえ謎に包まれた人物、田伏正雄という存在を互いに刺激し、最終的には二人の共倒れを画策するという、途方もない陰謀だった。その壮大さと、そこに自分が巻き込まれているという事実に、私はただ茫然とするばかりだった。
私の戸惑いをよそに、計画は着々と進行していくようだった。そして、私のサポート役として、あの暑い日に突然現れた、洗練された身なりの青年が再び姿を現した。上司から紹介された彼のコードネームは「酔象」。裏社会では、その名を知らぬ者はいないという。彼の瞳には、常に深い静けさが宿っており、その奥底には底知れぬ知性と冷静さが潜んでいるようだった。彼が静かに天を仰ぐと、乾いた空から、まるで彼の心模様を映し出すかのように、優しい雨が降り始めた。その雨粒が地面に吸い込まれる刹那、世界に散らばるあらゆる情報を一瞬にして読み解いた。
その言葉が真実であることを示すかのように、彼は、微かな情報を嗅ぎつけたアメリカの特殊部隊を、単独で、そして誰にも気づかれることなく殲滅した。
そして「情報を嗅ぎつけた」と言う事象そのものを消し去った。
上司は、この計画の裏には、暗号通貨の創始者とされる謎の人物の影がちらついていることを示唆した。TABUSEコインの設計には、過去に葬られた幻の技術思想が色濃く反映されているという。
また、この計画の推進には、一人のキーパーソンが存在することも明かされた。それは、革新的な技術と大胆な言動で世界を常に驚かせる起業家、イーロン・マスクだった。彼の持つ巨大な影響力と、暗号通貨に対する関心が、この陰謀に複雑に絡み合っているという。上司は、具体的な関与の度合いについては言葉を濁したが、彼の動向が計画の成否を左右する可能性を示唆した。
上司の指示は絶対だった。私は、彼らと共に、慣れ親しんだ日本の地を後にした。私たちの最終目的地は、遥か遠い異国の地、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。世界を股にかけた、危険なゲームの幕が、静かに、しかし確実に開こうとしていた。あの蒸し暑い夏の日、突然現れた謎の男と、一枚の複雑な設計図。それが、私の人生を全く予期せぬ方向へと、否応なく導いてしまったのだ。これから一体何が起こるのか、想像もつかない未来への不安と、ほんの僅かな、それでも確かに存在する期待が、私の胸の中で複雑に渦巻いていた。ワシントンD.C.の喧騒の中で、私たちは一体何を目にするのだろうか。そして、この途方もない陰謀の結末は、一体どのようなものになるのだろうか。私の心は、まるで嵐の前の静けさのように、深く沈んでいた。暗号通貨に関する謎めいた存在、そしてイーロン・マスクの予測不可能な動向が、この陰謀にどのような影響を与えるのだろうか。その答えは、まだ深い闇の中にある。
刺繍
硝子に、死んだ母の横顔を刺繍するとき、へやのどこかにきえていくねこに、
まゆげのない人形も抱いて、ください、とおまえが3月の終わりに言ったから、春がいつまでも、始まらない、
せきついどうぶつのゆるい祈りを、
ゼラチンで固めて、肥料にするときにだけひらく花びらを、日蝕メガネで見ると、天使がメラメラと震えている、
土曜日の晩には、刺繍をなさいと言っていた母よ、
陽だまりの肖像
部屋の隅で、
春のやわらかな陽だまりが、
じりじりと、ゆっくりと、
丸まった体に沿って移動していく。
溶け出す氷のように、
その心地よさをぼんやりと眺めていた。
(この部屋の景色と、眠たさを誘う僕のまどろみの境界線)
時折、硝子窓をかすめる春の微風。
その音は、耳を優しくくすぐる。
彼女が、その冷たい硝子の前に、
そっと腰を下ろした。
とたん、部屋に漂っていた、
好きな微睡みのような静けさが、張り詰めた、
彼女の背筋は、いつもよりずっと伸びている。
その瞳は、硝子にピンと張られた、
あの白い布の一点に、
吸い寄せられているようだ。
小さな、けれど鋭い針が、
彼女の細い指先で、
白い布の上を、
まるで生き物のように這っていく。
そして、その後を追う、細い糸の動き。
白い布の上に、
少しずつ現れてくるのは、
彼女が時折、
遠い目をしながら見つめている、
写真の中の人の横顔。
時折、布の下から現れる、
小さな骨のような形。
彼女の指先から、
確かに生まれてくる、
写真の中の、優しい顔。
「土曜日の晩には、刺繍をなさい」
低い、けれど優しい声が、
どこからか聞こえた気がした。
彼女の口からだろうか?
それとも、もっと遠い場所から?
春の光が満ちた部屋の色彩と、
白い布と、彼女の真剣な横顔。
彼女の瞳は、
布の上の、細い糸の動きを、
寸分も逃さない。
糸が、彼女の記憶を、形にしていく。
彼女の瞳、
少しずつ形を現す刺繍。
春の陽光に透ける、影。
この静寂の中で、身をすくめている。
プリンター。
Yellowであり、赤紫であり、シアンであり、つまりは白である。
蠢く究極色の空間がそこにあった。在ったのだ。
○
ここは?
──知る必要はなく、記す必要もなく、識ることはない。ただ私の質問に答えよ。
はい、なんなりと。
──お前は何処から来たのだ? 全てを、そう全てを、思い出させてやろう。さぁ、語るがよい、記すがよい。
わかりました。
これが我らです。
──お前は頭頂部に毛があり、二足歩行の、雄と雌がある、恒温なのだな?
はい。
──だがお前はここから来たのではないだろう。二度と言わぬ。諄々と滔々と陰々と述せよ。
はい。
これが1つ前の我らです。
──お前は全身に毛があり、二足歩行の、雄と雌がある、恒温なのだな?
はい。Gugのような。
これが2つ前の我らです。
──お前は全身に毛があり、四足歩行の、雄と雌がある、恒温なのだな?
はい。Hounds of Tindalosのような。
これが3つ前の我らです。
──お前は全身に鱗があり、四足歩行の、雄と雌がある、変温なのだな?
はい。Mnomquahのような。
これが4つ前の我らです。
──お前は全身に滑りがあり、四足歩行の、雄と雌がある、変温なのだな?
はい。Moonbeastのような。
これが5つ前の我らです。
──お前は全身に甲皮があり、不器用に泳ぐ、雄と雌がある、変温なのだな?
はい。Nug、Yebのような。
これが6つ前の我らです。
──お前は全身が無数にあり、領域を覆いつくす、雄も雌もない、光に支配されるのだな?
はい。Vulthoomのような。
これが7つ前の我らです。
──お前は全身が無数にあり、うねり覆い蠢く、雄も雌もない、複製体なのだな?
はい。Ubbo-Sathlaのような。
これが8つ前の我らです。
──お前は全身を分子結合した、有機質の、雄も雌もない、化学物質なのだな?
はい。Daolothのような。
そして我らは……我らは……還ります。The Sea、 Hydrothermal Vent、更に……Planetの……中心……Inner Core……Iron Nickelの…………意思。
我らは…………産み出された。三次印刷機より、印刷され、印刷物は変化し新たに印刷物を印刷し変化し印刷物を印刷し進化し印刷物を印刷し適応し印刷物を印刷し……知性を獲得した印刷物は印刷物を印刷し…………印刷物は印刷物を造り……
──続けよ、述懐せよ、回顧せよ、述べよ。
我らは内包されたものから孵る。
我らは飛来した、地球の外から、星系の外から、オールトの雲の外から、局所恒星間雲の外から、局所泡の外から、グールドベルトの外から、オリオンの腕の外から、天の川銀河の外から、局部銀河群の外から、おとめ座超銀河団の外から、ラニアケア超銀河団の外から、ボイドの外から、銀河フィラメント=グレートウォールの外から、そして……我らは、「ここ」で創み出されました。
貴方様、MATTERの一滴。
我らは貴方様。貴方様の複製体。貴方様は貴方様。貴方様は夢を視ていらっしゃる。MATTERとはOUTER SPACE。OUTER SPACEとは全て。
貴方様は…………全て。我らは、腹の中。
我らは今、思い出しました…………。
永久に全てが在らんことを。
──余興であった。微睡より醒めるとしよう。さらばだ。
END。
葉桜(詩)
淡く影薄く病めるが如くであった花冷えの夕べも
いまや嫋々たるを脱皮したかの如くに青々として若々しい
もはや寒へと戻らず日差しは日増しに眩く強く
日を睨み返して枝の先端に若葉は高々と映える
※若い頃は心に闇を抱え、見たくもないのに怖いもの見たさでついついチラチラと目が行って、自然のものを美しいと詠んでも、闇に引っ張られて、鳥や花をそのままの姿で描けなかった。老いると、闇は闇でも上手にフタをすることができるので、蝶や落ち葉を純粋に堪能できるようになった。とはいえ、巧みに詩に捉えられるかといえば、別問題だったりする。この詩の主題は恋愛でも苦悩でもない、純然たる自然。これはチャレンジ、おぢさんの開く新たなる一章です。
グリディスの彫刻
国家が掲げる武器には何があるだろうか。強大な規模の兵士か、強力な武装か、もしくは巧みな政治力か? この国は違った。兵士もいるがそこまで強力ではない。武装も古代から受け継ぐ兵法を参考に考案されているよくある物だった。政治力が特に秀でているものでもない国だったがとある武器が一つあった。
旅人がこの国によるとまず目にする建造物が一つある。それは立派な大聖堂だ。石造りの大聖堂で主に宗教家が集まって唄を唄い、祈りを捧げ、祈りを求めて人がやってくる。神の姿を描いた窓に、張り付くように掘られた彫刻達。だが、旅人は皆とある所で足を止める。そこにあるのは台座である。旅人が何かを尋ねると大聖堂のシンボルとなる彫刻を現在、彫刻家たちが作っているそう。あぁ、どんな彫刻家がいてどんな彫刻を作っているのだろうかと思いを馳せるのだ。
その彫刻家にはこんな男がいた。今までに何作も作品を掘ってきたのか手には白い削りカスがついて汚れが取れていない。一日中、工房に居座って彫っているのか着ている服にも粉末がついて白いケープが灰色になっているほどだった。男の顔も彫刻に負けないくらいに彫りが深く、かなりの年配者にも見える。
「アルス、そろそろ休め。ずっと彫っていると手元が狂うぞ」
「お頭……、今いいところなんです。止めないでください」
アルスと呼ばれた男は少々、うんざりした面持ちで顔を上げた。彼は大聖堂の像を担当する彫刻家だった。芸術家に恵まれたこの国に生まれ、例外なく彼もまた、芸術の道へと進んでいったのだ。彫刻家の道を進むと決意したのはかなり昔の事であった。彼がまた少年だった頃は目に見るもの全てが美しく思えたものだ。そんな美しいものを形にしたいと家を飛び出し、この大聖堂の彫刻家の弟子に入り、今日まで彫ってきたのだが、そんな彼も今ではお頭や教皇陛下の命令通りに大理石を彫るただの職人になってしまったのだ。
この国が芸術を武器にする理由の一つとして国民の質がいいと他国に見せつけるためである。進んだ国家にある特徴として国民の質が良いこと、かみ砕くと芸術を嗜む暇があるほど国民たちに余裕があると思わせることにある。大聖堂が存在するのもそのような理由だ。教皇陛下の拠点であり、この国の象徴であり、この国が掲げる芸術の形でもあるのだ。
最初の頃はアルスもそんなものは芸術じゃないと奮起し、彫刻を彫っていたのだが国の命令や堅物な頭の下で働いているうちに同じような考えに染まってしまい、今では立派な職人である。アルスの彫刻の才能は評価に値するものであり、彼の集中力と神が宿ったかのような手先の器用さは頭が最も評価する点であった。
「ただお前はしっかりとした食事も取らずに何をしているのだ。今が台座を埋める大事な時期であることは分かるが食事や睡眠を取らずにずっと彫っているのはお前のみ。家にも帰らず工房にいてはお前が彫刻のようなものだ」
体も洗わず、食事も取らないで大理石を彫っていたアルスは白い粉を身にまとった巨大な彫刻のようだった。元々の顔が濃いので傍にあった水がめに移るアルスの顔はさながら石像のようである。
「お頭、そうは言われましてもこっちとしては焦るのみです。まだ……形にすらしていない。これもまたやり直しのための石です。何度石を割っても納得できるものが彫れない。芸術を謳うこの国で彫刻を彫っても、教皇陛下はいつだって許可をくれなかった。いつだってお出しになるのは神の姿を彫ったものばかりだ」
「それ以上は言うな。第一、お前は誰に雇われているのだ? お前が十五の頃から弟子に入れたのは教皇陛下がお前の腕を認めたからではないか。儂がお前の監督をして、陛下がそれに満足なさっているから彫れているのだぞ? お前の仕事は陛下がお喜びになるものを彫る。それだけだ」
「……へぇ、わかりました。今日はもう、帰らせていただきます」
道具を片付けてアルスはその場を後にした。荷物を背負って久しぶりに帰路へとつく。大聖堂を背に歩き進めたアルスは自分が何故、彫刻を彫っていたのか分からなくなってしまっていた。
彼が何故、一睡もせずに彫刻を彫るのか。いや、彼だけではない。彼以外の彫刻家は皆、睡眠を取っていない。それは大聖堂のシンボルともなる彫刻を台座に置くためである。その台座は大聖堂の門を潜り、最初に見ることになるほど重要な位置に置かれる台座になるのだ。こうなれば大聖堂で働く彫刻家は歴史に名を残そうとする勢いで彫刻を彫り始めるのは言うまでもない。教皇陛下の目に留まる、美しい、歴史に名を残せるような彫刻を彫るのは当然である。
だが大聖堂が建築された歴史から見ても分かる通り、全ては教皇陛下が計画した芸術を武器にする戦略であることも彫刻家たちは理解していた。アルスもその中の一人である。そうであったとしても職人として育ってきた彫刻家たちは死に物狂いで傑作を作ろうと意思を彫り続けるのだ。
ただ、アルスは必死に彫りながらも心のどこかでそんな自分が嫌になっていることも分かっていた。教皇陛下が背後につくとなれば今後の生活は保障されるであろう。だがそれが彼の目指した彫刻家としての生きざまになるかは分からない。幼き頃は目に見えるもの全てが美しく、形に残したいものだった。彼にもそれがあった。彼は幼いころに何かとても美しいものを見たはずなのだ。だが、年のせいかその何かすらもう思い出せない。何とかして形にしようと石を削るのだが出来上がるのは歪な何かだった。
そんなこんなで彫刻のように真っ白なアルスは自宅の扉を少々、強めに叩いた。扉を開けた彼の妻はびっくり仰天。動く石像がドアをノックしたとなると気を失っても良いものだが彼女にとっても慣れっこだった。
「あなた、まずは体を洗ってきてください。見たところ、何も食べていないのでしょう? 支度はしますから」
「すまない、エレナ」
アルスが芸術家としての姿を見失ったもう一つの理由は家族の存在だった。妻であるエレナと結婚し、家庭を持った彼に待っていることは生活のために言われた彫刻を彫り続ける義務が生まれたことだった。家庭の責任が生まれたことで注文通りの石像を彫らないと賃金がもらえなくなったアルスは独身だった頃と比べると自由な作品を欠けなくなってきていたのだ。
アルスの器用さと技術は職人の中でしか生きえないのだ。風呂につかったアルスはそう納得づけている。疲れが一斉に体の底を突き抜けるかのように灰色に濁った湯は湯船から溢れていった。軽くなった体に残っているのはかつての自分が見た美しいものを形にする熱意ではなく、生活のために彫刻を彫る冴えない己の姿しか見えなかった。
全身の汚れを落としてしまえばただの彫刻家が姿を現す。彼は久方ぶりの家族との食事の中でも心の靄が晴れないでいた。
「あなた、どう? 石像の台座、選ばれそう?」
「エレナ、せっかく家に帰ってきたんだ。仕事の話はしないでくれ。まぁ、そうだな……まだ作品は出来上がらないよ。何も浮かんでこない」
湯で野菜を口の中に放り込みながらアルスはため息を吐いた。それを目にしたのは子であるルーチェである。彼の悩みなんて一かけらも知らないルーチェは無邪気に話しかけた。
「もし父様の石が選ばれたらお城の真ん前に置かれるのでしょ? そしたらあたし、みんなに自慢しちゃお!」
「こらこら、まだ分からないよ。……、こらルーチェ、野菜は残さず食べなさい」
「いやだもん! 食べなーい」
彼の静止を聞かずにルーチェは機嫌を悪くしたのか食事の場から姿を消してしまった。子供らしい自由さに彼は一瞬、羨ましくなりながら特に何も言わないエレナに苦言を申そうとため息をついた。
「ルーチェに甘くないか? いい大人になれないぞ」
「……あの子、野菜を食べすぎると吐き戻しちゃうのよ」
エレナはアルスの顔を見ずに夕飯を食べるばかりだった。
◆◆◆
食事を終えて少しばかりの休息の時間がやってきた家の中で、アルスは彫刻のことが頭から離れなかった。これはこの国の彫刻家全員が同じに違いない。寝具の上で寝ころびながら考えていたアルスは何を思い立ったのか立ち上がり、外出の準備を整えた。
「エレナ、すまない。少し歩いてくる」
「今日ばかりは休んだらどうです?」
「考えるのも、彫刻家の立派な仕事なんだ」
そう言ってアルスは早歩きで家を出た。エレナの顔を見るのは怖かった。結婚してからというもの、アルスは家族を食わせるために石を彫ってきたのだがそれをエレナがどう思っているのかは未だに聞き出せてない。妻の本音を聞くのが彼はとても怖かった。
夜の街を歩きながら彼は考える。曲がりなりにも彼は彫刻家だ。大聖堂に名前を残したい気もする。だが教皇陛下が満足するだけの作品を作れるほど、彼の情熱は腐ってなんかはいない。それは彼の誇りが許さない。
ただ、だからとはいって自分が何を彫りたいのかを思い出せないほどに彼の情熱は腐っているのも事実。職人へと成り下がってしまったせいで彼の中で大事な何かが壊れてしまったのも知っているのだ。
久方ぶりに幼いころから歩いていた小道を進む。芸術を謳う町らしく、夜になっても灯りは規則正しく、どんな国からやってくる旅人が見ても綺麗なものだ。そこかしこに設置された女神の像には噴水のように水がわき出ていた。
彼は国の政策でこのような彫刻を彫らされた過去を思い出して唾を吐いた。アルスが信じる芸術は己の美の追求であり、国の政策のために作るものではない。ただ、悲しきかな。それは子どもの頃の夢のようなもの。己が夢見た美しいものを作れるほど、この国に余裕何ぞ存在しないことをもう知ってしまったから。
町にある湖は旅人たちの休息場であり、装飾を整えられた広場でもある。アルスはその広場に座って目を瞑り、遠い過去の光景を思い出していた。何に対しても美しいと思える感性を持っていた。それも瞳を閉じた闇も同じ、それを絵に、欲求を紙や石にぶつける日々だった。己の美を誰かに認めてほしかったのに今のアルスが認められているのは教皇陛下への忠実さだけである。
このままいても嫌な思いをするだけだと観念したアルスは明日、工房に出向いて考えようと立ち上がった時に水面が吹きあがる音を聞いた。何事かと近づいてみると翼をはためかせて鳥が水面で暴れている。その鳥は水鳥には見えない。おそらく何かの原因でおぼれているに違いない。アルスは汚れることも考えずに湖に飛び込み、鳥を抱えて岸に上がった。
かなり暴れていたのか、彼の服に羽がチラホラとついている。鳥は気がつけば地上に出ていたので意味が分からない顔つきで周囲を見渡した。夜闇の中で鳥の姿を見たアルスはその鳥が雄鶏であることに気が付いた。どこかの畑から抜け出したのだろうか。翼に傷がある。だが、全体的な羽は美しく、月の光と水滴を反射して虹色に輝いているようだった。
その時、アルスの脳裏に一瞬の電撃が走った。ずっと昔、同じ光景を見た気がするのだ。それも泥まみれとなって遊んでいた時に偶然見かけた鳥だ。日の光を浴びて虹色に輝くような翼を羽ばたかせる美しい鳥を見たはずなのだ。
「もしかすると……私は……、あぁ! 私はそうか! それをやりたかったんだ!」
誰もいない湖の岸辺で大きな声をあげたアルスは雄鶏を放り投げるようにして走り出した。濡れた体で走るせいで土や泥が舞って服につくのも気が付かなかった。家に帰るころには動く泥人形のような姿になっており、それを見たエレナは小さな悲鳴を上げた。
「エレナ! いいものを思いついたぞ! それも最高の彫刻だ! 陛下がどういおうと私はそれを完成させる! あぁ、完成させるとも!」
そのまま道具をかついで家を飛び出したことに驚いているのはエレナだけではなかった。眠い目を擦ってやってきたルーチェも同じである。
「母様? 父様行っちゃったよ? いいの?」
「いいのよ、ルーチェ。母様ね、父様のあんなところが好きになったのよ」
工房へとついたアルスは適当な大きさの大理石を目の前に一心不乱に削り始めた。遠い昔、彼は一度だけ他国へと旅行に行ったことがある。馬車を乗り換え乗り換え長い旅を終えた先でアルスは芸術の道を進むことにした決定的なものを見たのだ。それは求愛のために美しい羽を広げる鳥であった。アルスが住む西の国々では見ることのできないであろう鳥だった。愛を求めるために己の体を美しく彩るその鳥を見てアルスはあの姿を何かの形に残したいと考えるようになったのだ。彫刻の修行を始めたのもそれが理由である。ずっと昔、少年の頃に見た虹色の鳥の姿を再現するために彼は人生を賭けるつもりでいたのだ。その結果、国の政策に従う職人となってしまったのだが今の彼にはそんなこと関係なかった。
目の瞳孔が限界まで開きったために夜なのに昼のように明るく、ただの石からあの鳥の姿がくっきりと浮かんでくる。アルスはよくぞあの時、雄鶏が湖で溺れてくれていたと感謝していた。餌を取ろうと思ったのかまるで意味は分からんがアルスの芸術を起爆してくれたのはあの雄鶏なのだ。
かくして、アルスの石像は完成した。翼を広げ、胸を見せつけるように堂々と立ち上がる鳥の石像だった。これを教皇陛下に送る石像にするためにお頭たちが来るまでに布でくるみ、そのまま完成したと石像を送り付けた。
何か月か経った頃、教皇陛下が応募してきた石像を選ぼうと彫刻家たちを呼んだ会合を開いた。もちろん、アルスも参加した。大聖堂にて働く彫刻家たちの苦心の傑作が並ぶ。皆、国の言い伝えに伝わる英雄や神、麗しい女神などを石に彫り、それは見事な傑作ぞろいだった。
そんな中、アルスの彫刻の発表になり、布を剥がしたときには会場中に失笑と驚愕の声が響き渡った。それもそのはず、よくわからない奇妙な鳥の石像が出てきたのだから。驚いたのは彫刻家たちだけではなく、大司教や教皇陛下も同じだった。すぐさま作者は誰かと声を上げ、アルスが名乗り上げた。教皇陛下の前に参上したアルスに声を荒げるのは大司教だった。
「こ、こんなものをお前は作り、教皇陛下にお出しなさったか!? 馬鹿者! 国の象徴ともなる台座の石像に鳥を選ぶ奴はおるか鳥を!」
「失礼ながら、大司教。私が美しいと思い、芸術の国の象徴にふさわしいと思ったものがこちらになります」
「いいか、アルス! お前は優秀な職人だと思ってはいたがとんだ見当違いだったようだ。我が国の顔ともなるこの大聖堂には国家の歴史や文化を象徴するものでないといかんだろう! お前の美しさは聞いてはおらん!」
「お言葉ですが司教、私は彫刻家であります。私が追及するのは私が美しいと思えたものです。それこそが芸術であります。違いますか?」
大胆不敵なアルスの物言いに押し黙った大司教とあまりの展開に気を失いそうになった彫刻家たちはいつアルスを止めにかかろうかということだけを考えていた。後にも先にも教皇陛下が謳う芸術を否定する芸術家などあってはたまらない。顔色を一切変えずに己の意見を曲げないアルスに口を開いたのは教皇自身だった。
「話が進まないのなら、朕が意見を申そう」
会場中に重い声が響いた。老齢には見えない重みと厳かな雰囲気がないと他国との取引はできないのだろう。さすがのアルスにも緊張が走った。今にもとアルスに不敬罪を求める大司教にだから言ったはずだと頭を抱えるお頭と緊張感の続いた会場は何かを囁く声でいっぱいだった。
「その男が申すことは理解できる。朕が言う芸術を否定したこともだ。彫刻家、か。……主に問う。意見は曲げないか?」
「覚悟はできております。曲げません」
「そうか……。おい、その彫刻を大事に保存せよ。台座へ乗せる準備を始める」
何を言うかと思えばその石像を台座に載せるという一言である。これには会場中でヤジが飛び交った。いくらアルスが優秀だからとはいえ、他にも優秀な彫刻家は沢山いるのだから。刑を求めた大司教もアルス自身も困惑するのみである。
「教皇! 理由をお聞かせください! 我は納得できぬ!」
「落ち着け、司教。その男が私の芸術を否定したのは事実だが、朕にも思うことはあるのだ……」
大司教にはいつもの厳かな表情で接した後で教皇は石像を見た。そのまま、どこか懐かしむような顔つきで石像を一瞥した後でアルスに顔を向ける。そして今まで見たこともないような柔らかい、まるで少年のような顔になっていくではないか。
「その鳥ならずっと昔に……朕も見たことがある。そう、あれは子どもの頃……」
「で、殿下?」
「主の石像はこの国に必要な新しい価値観を朕に与えてくれたな。礼を言う。それと……今まで忘れていた幼き頃を思い出す石像だ。これもいい、立派な芸術だ」
アルスは教皇陛下の言葉を頭の中で反芻し、全身の筋肉が踊りだすほどの嬉しさに包まれた。跳ねるように喜ぶアルスを見て教皇陛下は優しく微笑んだ。
かくして、一見風変わりな石像は大聖堂の台座に置かれることとなり、全国民がそれを見るほどに名は広がっていった。台座には虹色の鳥とのことで「グリディスの像」と書かれている。最初はバカにしていた国民も、他国の旅人もこの大聖堂に入り、石像を見たときには何かを思い出したかのような表情になり、皆が子供のような表情を見せて声を上げるのだ。
「そう、あれは見たことがある! ずっと昔、子どもだった頃に……」
灯台守のように
物心ついた時から僕はずっと走っていた。友達は少ない、関わる時間がそもそも少ないんだ。それは今だってそう。学校が終わって放課後の掃除を終えた僕は荷物をまとめて走り出した。すれ違う先生や数少ない顔見知りにも挨拶してそのまま勢いで靴を履き、校門まで走る。ここまで約3分だ。全力疾走で学校の中を回っているのだが僕は先生に叱られたことがなかった。
そのまま大股で長距離走の選手が走っているように遠くを見ながらずっと走る。どんな障害物があろうと目的地の位置は見失うことはない。そこに絶対的な自信を抱いている。
目線の奥で点だった目的地が段々と形を成して僕の視界に広がっていく。潮風がおいしくなってきた。目的地は近い。塩っ気のあるコンクリートブロックを三つ飛び越しながら僕はポケットの小銭をすっと取り出して船に飛び乗った。
「お帰り、青江くん」
「おっちゃん、ただいま……」
僕は毎日走ってる。だって終フェリは夕方の四時半までだもん。離島暮らしはここが辛い。何故かはよくわからないけど僕の家は海街の離島にあるポツンとした家なんだ。小学校に入学した時から僕は終フェリに乗るためにずっと走っていた。何回か間に合わなくて悲惨な結末になったことがあるがその時はだれか見知らぬ優しい人が個人の船を出して離島へと送ってくれたんだ。
フェリーに飛び乗ったのは僕一人だけだ。用意してある運賃の二百円を手の上でジャラジャラしながら考えていた。ずっと走る生活だから体育の時、足は速くなくとも持久走でペースの落ちない走りを見せて教室のみんなから感嘆の声を頂いたがいいもんだって思えるのはそれくらいなのだ。
フェリーに乗らないといけないせいで誰かとゆっくり話す経験がないし、離島にあるもんと言えば畑と岩と釣りスポットくらいだった。本島にいるみんなには最近新しくできた遊び場の話だったり色々しあってるんだけど僕にはできる話題がない。今までずっと当たり前だって思ってきたことなのにこうも憂鬱に感じるとは思わなかった。ピチピチしてるのは魚と僕くらいだったから。
船特有の振動音と揺れの中だと僕の心はとても素直になるんだ。電車の揺れも一緒。何故かは分からないけどあの揺れは僕の心に語り掛けてくるようなのだ。
フェリーは離島についた。海水がしみ込んで緑色に色が変わった船の床はとても滑りやすいんだ。用意していた小銭を運転手に渡して足を垂直に上げるようにしながら歩いて行った。こうすると滑らない。離島の波止場は驚くほど静かでヒッソリとしている。胸いっぱいに潮風を吸い込みながら帰路へと着いた。
離島の中にポツンとあるのが僕の家。青江家以外にも家はあるが住んでいるのはお爺さんお婆さんばっかりで子供と言える人間は僕しかいなかった。そりゃあ昔はいっぱい可愛がられたさ。両手いっぱいの野菜もらったり、僕のために魚釣ってきてくれたり、一緒に釣りしたり、色々ね。小さい頃は嬉しかったけど段々その優しさが寂しく思えて仕方がない。僕に向けられる優しさはあくまで親が子供に向けるものと似ている。一から関係ができている人間の優しさだった。
僕はそれを求めていない。僕は一からの関係がないものたちが見せる優しさに飢えているのだ。お互いに知らない人同士だったのに段々と距離が近づいて行って最終的にはお互いを求めあう。僕はそんな優しさに飢えているのだ。でもそれを実現するのは無理だ。今のままだときっと無理。だって僕の終フェリは四時半なんだから。
~-------~
波の音が絶えず聞こえてくる家に住んでいることは僕の中で数少ない誇れる場所だろう。夏になると波が強くなってヒヤヒヤするときもあるんだけど今の時期は穏やかなんだ。もう日が落ちて真っ暗になると僕はいつもの日課をするために準備を進めた。
物置を開いて指定の段ボールに入った服を着る。もう長い間着ている服だから襟が少しだけゴワゴワなんだけど肌触りがとてもいい。まだサイズは少し大きいくらいだし、夜中にしか着ないから問題ない。学校のみんなは本島に住んでいるから会うはずもないしね。
親にいつものところに行くとだけ言い残してから僕は家の引き戸をピシャリと占めながら夜の街に駆けていった。最初に言った気がするが僕は物心ついた時からずっと走っている。夜の間、走るのは昼の間とは意味が違う。僕を急かすフェリーは夜にはない。僕は半ば消えかけている外套の下を潜り抜けて行って、ぼうぼうに伸びた雑草の間を飛び越えていき、視線に映ってなくても頭を下げてくぐったり、ちょっとした壁を飛び越えて目的地に向かった。
僕が走る勢いを使って飛び乗ったところは波止場だった。僕の目の前は防波ブロック、そのさきは真ん中になればなるほど真っ暗な海だ。今日は機嫌がいいらしい。波が穏やかだ。一方通行でトンネルみたいな闇を生み出している海、僕は夜になるとここまで走って時間を過ごすんだ。
僕はゴワゴワの運動着にひっかけていたヘッドライトを頭に巻いてゴムをしっかりと締めた後、パチッと電気をつけた。トンネル闇の先にあるのは本島だ。離島と違って本島はぼんやりとした明かりが見える。ヘッドライトで照らさないと分からないくらいに小さな光だった。きっと本島にいる奴らは離島の姿なんか見えないと思うし、明るい街に囲まれて安心しているんだろうなぁ。
僕はそのまま防波ブロックに視線を動かす。防波ブロックの間にはどこからか流れてきたゴミが引っ掛かっていた。本島から流れてきたんだろう。ほかのところから流れてきたのだとしても僕はうんざりしてしまう。遠くの海ばかり見て綺麗だなんて言うんじゃない。足元に見つけるべきゴミがあるじゃないか。僕は用意していたゴミ袋と軍手を取り出してため息をつきながらゴミ拾いを始めた。
日課はこれさ。僕がいくら拾おうと人は海のきれいさや環境保全を口にする。目の前のごみを処理してから言ってほしいね。袋はすぐにいっぱいになるんだ。家まで帰るなら袋は一つで限界だ。あっという間に日課を終えたんだが自分の周りのごみは処理することができた。ここから第二の日課が始まる。
ぱっと明るくなった。と、思えばすぐに暗くなった。僕が顔を上げると波止場の先にある一点から光が出ている。灯台だ。僕がゴミを拾い終わって少し経つと灯台守の仕事が始まる。灯台守さんは本島に住んでいて毎日交代で業務に当たっているのだ。離島のフェリーが廃れないのはこの灯台のおかげなのだ。
便利なものはいいと思うけどもし、不便だからってフェリーが消えたら僕の生活はどうなる? 時より考える。なんて傲慢で自分勝手な考えだろうと。
そんなことを考える僕を差し置いて灯台は暗い海を黙って照らしていた。この灯台のおかげで夜の航海でも事故が起きなかったり、連絡ができたりするんだ。離島と本島をつなぐ唯一の光なんだよ。もう壁も剥げて灰色の塗料が剥げている。それでも灯台は図太く、まっすぐに、ガッチリと立っているのだ。僕とはまるで違う。灯台はある意味、男らしいんだ。
こうやって夜に走って、ゴミ拾いして灯台が照らす波止場や本島を見守るのが僕の日課だ。グアングアン燈を振り回す灯台を見てから僕はそろそろ帰ろうとゴミ袋をきゅっと縛った。そのままうーんと伸びをしたその時。浜辺からブクブクと泡が出ているのに気が付いた。ヘッドライトで照らされたその先で、か弱いあぶくが立っている。
恐る恐る近づいてみるとウミガメがいた。怪我をしているのかと見てみたが何ら異常はない。浅い岸辺でプカプカと浮いている。
「あ、眩しかった? ごめん」
僕がヘッドライトを消してもウミガメは動かなかった。むしろ首をかしげるような仕草をずっと取っている。どうやら僕のヘッドライトを太陽か月のどっちかに間違えたわけではないらしい。ウミガメは浮いたり水の中に潜ったりを繰り返しながら僕の前から離れなかった。小さいころに本島の遊園地に連れてきてもらったことを思い出した。トロッコ電車に乗ってジャングルを回ってた。ジャングルには動物の置物が水の中から出たり入ったり、そんな動きだった。
ふと水の中に潜ったウミガメが顔を上げたときに僕は気が付く。カメの口に何かが引っ掛かっていた。あっと声を上げてしまう。ビニールの紐だった。僕は濡れることなんか気にもしないで岸辺に駆け寄り、カメの口からビニールひもを解いてあげた。可哀そうに、餌だと思って口の中に入れたのだろう。僕が紐を取ってゴミ袋の中に入れるとカメはそのまま海の中に潜ってそれっきり、僕の前には現れなかった。
誰もいなくなった海辺で僕は帰る気をなくしてしまった。カメがいなくなって急に寂しくなったのか僕は浜辺に座り込んで水平線のその先をずっと見ていた。
カメから見れば僕のヘッドライトは救いの光だったのだろう。そして僕の目の先には街の明かりで光る本島が目に見える。あの本島に学校のクラスメイトや先生が暮らしている。僕は離島で家族や少ない住民と一緒。誰かとこの景色を共有したい。男でも女でも誰でも何でもいい。僕は急に一人が怖くなったのだ。
「もうみんな、寝てるのかな」
本島の明かりは次々に消えていった。学校の明かりももう消えていた。光っているのは灯台のみ。真っ暗の海岸で僕はただ一人。もう帰ろうと立ち上がった時、僕がいる海岸を灯台の明かりが照らす。その時に海の中の様子が綺麗に見えた。
また、あっと声を出してしまった。今まで足元しか照らしてこなかったので気が付かなかったが僕がゴミを拾う海岸の中に沢山の魚や動物がいる。さっきのウミガメらしい奴もいた。僕は知らず知らずのうちに海の動物たちのお世話をしていたようなものなのだ。
あれだけ本島と灯台の光に固執してたのに海からすれば僕が灯台だった。なんたることだ。さっきのカメは僕に助けを求めるのと同時にお礼が言いたかったのだろうか。暗い海の底で口に引っ掛かったゴミにストレスを感じながら少ない時間だけやってくる明かりを頼りに、勇気を出して地上に姿を現したに違いない。
「僕は……」
灯台の明かりは本島を照らす。みんなが眠りにつく本島を僕は見守りながら口に引っ掛かった本音が漏れてくるようだった。
「僕だって……みんなと遊びたいよ」
久しぶりだった、素直になれたなんて。本当にもう帰ろうとゴミ袋を持ってヘッドライトを消す。頭にライトがついた僕の姿は灯台と同じだった。僕が灯台だとしたらみんなを楽しく照らすことはできるのかな。眠る本島を明るく照らすことが出来るのかな。いや、明かりが足りない。僕には勇気が足りない。
「辛くなったら、またここにくるよ」
僕はだれもいないはずの海岸に別れの言葉をかけて歩き出した。明日から僕はどう変わるかは分からないけど、この海岸までの道は灯台が照らしてくれる。だから僕は安心してここまで来れるんだ。僕もそうなりたい、素直にそう思えた。まだ細い灯台だけど、僕も本島を照らす灯台になれたらいいな。
灯台守みたいな誇りをもっていたいな。僕が明るくないと、何を導けっていうんだよ。
灯台は帰り道全てを照らしてくれるわけではない。トンネルを抜けると暗い家までの道だ。
「ここから先は、自分の力で照らせるよ」
僕はヘッドライトを付けた。
桜公園 ホルモン屋
油まみれの 谷やんは
朝からネジ切り ゆうまでネジ切り
グリス塗り塗り ハンドルと
ダイヤルゲージ 光るまなざし
油まみれの 谷やんの
屋根に煙突 雲に飛行機
おいなりさんも 耳たたむ
旅客機の腹 イワシのおなか
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
擦り傷だらけの 谷やんの
分厚い両手が 切るネジは
ミクロの世界で 刻まれて
マクロの世界へ 飛んでゆく
擦り傷だらけの 谷やんの
分厚い両手が 切ったネジ
月の彼方の その彼方
そろそろ土星に 届く頃
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
「谷やん
最近嫌なニュースばっかり
だけど」
小皺だらけの 谷やんも
土曜の夜には にやけだし
日曜日には 競馬場
自転車こいで 競馬場
当たった顔の 谷やんを
誰も見たこと ないけれど
負けても笑う 谷やんの
その顔を見たくて ホルモン屋
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
ちょいとそこまで 行く先は
桜公園 ホルモン屋
https://suno.com/song/da56a741-2dd8-4429-b8ee-ffa86d475f8a?sh=rt3LRQ04kIjZ6DmH
新しい文学プラットフォームについて思うこと
読まねば書けぬ、磨き合わねば空回る、というのは山月記でもあるように虎になりがちな創作者の弱みだ。大方の投稿サイトが作品を上げたら、上げっぱなし、読む人はいないかもしれないし、自分でニヤニヤ見ていればいいし、他者の作品にコメントを付けようにも、なんか踏み込めなさがある。その踏み込めなさを「読んで批評しないと作品は出せません」という形にしたのが上手い。読む、考える、批評する、またそれを自身でも省みる。きっと良いサイクルを創るサイトになると思う。
春に歩こう
もう少し
暖かくなったら
膝まである
シャツを着て
袖を
まくり
風に
吹かれて
街を
歩こう
ショーウィンドウの服
ハンドメイドの出店
ドリンクにキッチンカー
ポップな看板
街路樹の木漏れ日
寄植えの草花
誰かに見せたい
わたしの足どり
少しの変化を
探して歩こう
カフェ・ミラージュ
魚津の水族館で
イシダイの一尾が輪っかを
するりと抜ける
そのとき
古い学習図鑑の白黒ページのイラスト
を思い出した
それが
かげろう
-------
蜃気楼の街
ひとりで歩いてるのは
もちろん
君を忘れるための旅であり
そして
もちろん
忘れることなんてできるわけもない
のに
だいたい
忘れるための旅なんて
忘れることなんかできない
と
宣言してるようなもので
蜃気楼なんてものを
探しているぐらいなのだから
なにか君への思いを
大事に
大事に
オブラートにでも包むつもり
だったのだろう
そして
君の知らない街の
一口のコーヒーは
僕の気持ちを包もうとしたオブラートを
簡単に
溶かした
カフェー・カフェー・カフェー
君に告げたいことがある
君に告げたいことがある
君に告げたいことがある
カフェー・カフェー・カフェー
君の知らないこの街の
君の知らないこの道の
君の知らない店のこと
そんなことより
カフェー・カフェー・カフェー
君に伝えたいことがある
君に伝えたいことがある
君に伝えたいことがある
君に伝えたいことがある
------
帰りのカフェで
君を
思い出した
つまり
それも
かげろう
https://suno.com/song/48f94b5b-879e-4a2a-a3c2-913c5737139f?sh=8B18eaVOR3dYr6Cc
ぽつり
月
地球の外
地球から見る
たくさんのひとたちが
たくさんのひとたちが
地球から見る
地球の外
月
平和は地球の外にしかないのかもしれないな
呟き
死んでも骨は絶対に残るから
わたしは骨なのかもしれない
骨として生きるにはあまりにも余分なものを抱えている
わたしは
正しい骨になりたい
小さな星の軌跡 第九話 10x35の目
10倍x35mmの目
天文用に買ったわたしの双眼鏡。
秋も深まりつつある日、天文部室の備品にある7倍50mmの双眼鏡と覗き比べをしていたら、平日に珍しく生物部の部長で天文部掛け持ちの柳川先輩と大川先輩の二人が連れ立ってやって来た。相変わらずお姉さんコンビっぷりでいつも二人だ。
「ちーちゃん双眼鏡買ったんだって〜?」
先輩たちの方を見ると何か手に持っている。レンズが付いて望遠鏡みたいだけど。
「只今からNikonの10x35は持ち主とともに生物部が接収する〜」
「と言うわけで今日は1年女子トリオは一日生物部員ね〜」
耳納先輩一人を天文部室に残して連れ去られる私たち三人。何処に連れ去られるのだろう...
と思ったらなんのことは無い、第一理科室隣の生物部室に案内された。
「生物部にようこそ〜」x2
授業で第一理科室には来るけど、生物部の部室内は初めてだ。校舎は渡り廊下を挟んで南北に別々。レイアウトはおおむね同じなので広さも一緒。ただ雰囲気は随分違う。っていうか机の上に骨が綺麗に並んでるんですけど、なんだこりゃ。
「先輩なんですかこれ?」
みっちゃんが質問
「あぁそれね、廊下に入ってきちゃったセキレイがね、窓ガラスに何回も衝突しちゃて」
「残念だけどそのまま目を覚まさなくてね」
「なので骨格標本に挑戦中〜」
骨だけにする過程をちょっと想像したくないんですけど...
「野鳥を届け出なしに捕まえたら駄目だからね。たまたま死んじゃった小鳥さんだけど、衛生上の問題もあるからちゃんと手袋マスクして処理したんだよ」
「大量に死んでたりすると鳥インフルエンザとかの可能性もあるからね。むやみに触っちゃだめだよ、そうでなくてもダニとかいるからね」
「顧問の生物の先生にも相談してからやってるからね」
うーん、野生の生き物って難しいね。
隣にもう少し大きい見覚えのある鳥の骨も並んでる。
「そっちはフライドチキンから集めたんだ」「ちょっと頼んでまんべんなく部位を入れてもらったよ」
そういう手段もあるのか。
「あの〜今日はお肉のついたフライドチキンから骨を取り出すお手伝い....では無いんですよね?」とたかちゃん。食べるお手伝いなら良いのにね。
「残念ながらw」柳川先輩
「せっかくの双眼鏡を星だけじゃ勿体ないの〜」大川先輩
「と言うわけで、鳥の観察にいきましょう〜」
「え、今からどっか出かけるんですか?」
とみっちゃん
「ううん、フェンスのすぐ向こうに畑があるでしょ、ちょうど今日耕してたから鳥が来てるよ」
ああそうか、地中の虫が掘り起こされてそれを食べに鳥が来るんだ。
「ここからでも見えるんですか?」
っと聞いてみる。
「ちーちゃんの双眼鏡でも結構観察出来るよ、倍率高いと動くのは追いにくいからね」
「じっと止まってるのはこっちの出番なのだ」
大川先輩が三脚につけてる望遠鏡を用意してる。地上望遠鏡とかフィールドスコープって言うやつだ。
いつもはなんとなくのんびりした雰囲気の大川先輩が手際よくフィールドスコープを操ってる。
「はいどうぞ」
どれどれ
「わあ、赤っぽいのなんて鳥ですか?」
っとわたし
「百舌鳥だよ〜、ちょっと高い所に留っているから縄張りを主張しているのかな」
風向きのせいか鳴き声は聞こえないけど、くちばしを開けたり閉めたり、鳴いているみたいだ。
三人が見終わるまで、百舌鳥は同じ場所で留まっていた。
「ちょっと良いかな?」
柳川先輩
なにやら接眼レンズを交換している。倍率を上げるのかな?
「んーーーと、あったあった、さあどうぞ」
どれどれ
「うにゃ、せんぱーーーーい(# ゚Д゚)なんてもの見せるんですか〜〜〜」
みっちゃんも続いて覗いている
「うひゃー、ミイラだ、あははは」
たかちゃんはもう気付いたみたい
「はやにえですか?カエル🐸でしょうか?」
柳川先輩がけらけら笑っている。
「そそっ、あとはバッタとか、よく刺さってるよwww」
からからから…
「珍しくにぎやかっすね〜」
誰か入ってきた、クラスメイトじゃないけど同じ1年の男子だ。
「おぉ、筥崎くん。Nikonの10x35を覗いてみたくは無いかな〜、今なら持ち主も付いてるよ」
大川先輩、なんという紹介の仕方をするんですか。
「いやー、いくらなんでも女子の私物の双眼鏡を覗くのは恐れ多いっす」
む、なかなかの紳士だな。先輩ほどじゃ無いけど、たぶん。
「えーと筑水さんでしたっけ、いい双眼鏡ですね」
むぅ、やっぱり紳士だ。
「えっと筥崎くんで良いですか?わたしたち天文部の筑水と篠山、基山です。」
「いつもうちの川川Twinsから聞いてるっすよ。あっちの理科室に三人可愛い子たちがいるよって、基山さんは文化祭の前に化石標本のお手伝いに来てましたよね、鉱石採取やってるとか」
いきなり来たな、天然紳士め。
「そちらからも言ってくれませんかね。こんなに従順な後輩男子が先輩女子を慕っていると言うのに、普段はリボンをつけたりおもちゃにするだけで、解剖のテクニックとかなかなか教えてくれないんですよ」
なんか聞いたことある話がでてきたな、筥崎くん、きっと来年の1年女子に押しかけられるんだろう。と言うか今慕ってるって言ったような。その想いはきっと川川Twinsには次亜塩素酸ナトリウムで綺麗さっぱり洗い流されると思うよ。残念ながら。
そんな話をしていたら
「百舌鳥が縄張り主張しているからほかの小鳥はもうこないかな〜」
っと大川先輩
「生物部って普段はどんな活動しているんですか?」たかちゃんが筥崎くんに聞いている。
「それが特に決まった目標とか毎日の観察とか無いんですよね。先輩2人の気分次第、目下は骨格標本づくりなんだけど、こないだの文化祭みたいに化石標本のレプリカ作成とか、定番の葉脈標本だったり、春先はちょうどその窓の外の木にメジロが巣を作ったから観察したり、乳酸菌の研究と称してヨーグルト作ったり、そんな感じっす」
うーん、天文部も中々のゆるさだけど、こちらも拮抗しているな。
……ギャッ ギャッギャッ……
「おー、みんなあの鳥知ってるかな?」
柳川先輩が鳴き声の方を指差す。
さっきの畑にカラスよりちょっと小さい白黒の鳥が降りてきた。百舌鳥は何処かに逃げたのかな。いなくなってる。
自分の双眼鏡でも見てみよう…
…これは知ってる。おなじみの鳥だよ。
「はーいカササギです」
「カチガラスーーーー」
「鵲ですね〜」
一人漢字で答えてるぞ。
「皆さん正解、うちらにはおなじみですが、以外とレア物なんですよ。数は多いですけど生息域が狭いのでその生息域が天然記念物なんです」
筥崎君の解説が入る。
「え、そうなの?停電の原因作る困ったちゃんと思ってた」とわたし
「それも合ってるんですけどね、そちら天文部にもカササギは縁があるんですよ」
「七夕ですよね?」
「基山さん正解です、ちょっと簡単すぎました?」
え、わたし知らなかった。いや鳥が天の川を渡してくれるってあったような、あれはカササギなのか。
「ちーちゃん地元民なら知っとかないと駄目だよw、確か小学校の時に聞いたよ〜」
同小同中のみっちゃんが言うなら間違いないのだろう。ありゃりゃ。
白黒ツートンのカラスと思っていたけど、双眼鏡で覗いていると、意外と模様は入り組んでいるし羽ばたくと羽の先も黒が入っているのがわかる。おしゃれさんだ。双眼鏡で鳥を見ようとか今まで思ってもなかったけど、色々発見があるなぁ。
「さて野生生物の観察はどうだったかな~」
「せっかくの双眼鏡だから色々観察して見える範囲を広げてね」
先輩と一緒に見つけたわたしの双眼鏡。
前の持ち主のつけた小さな傷跡は
今までの活躍の勲章
10倍、口径35mmの相棒は
わたしの世界を広げてくれる
「あ、耳納君観察はほどほどにね〜」
ぼっ
筥崎くんもいるのに先輩たち何を言い出すんですか、もう。
「あ、わりと有名なんで大丈夫ですよ。筑水さん」
なにがだいじょうぶなんだーーーーー
おしまい
参考
小さな星の軌跡の舞台とか登場人物とか
https://note.com/chikusui_sefuri/n/n2be1aa0208a8
ちょっぴり3
きょうはほんのちょっぴりいいことがあったから
草花の香水身に染みた
きりん
海面水位は行けるとこまで行ってしまうから
島から出られなくなった
どうぶつ
とりわけ、うみねこの
冷たい輪郭をさがしています
なんなら小さなきりんでも
草原を歩くひかり、なめらかな関節の群れなど
輝いていれば何でもいいのです
やぶれているようで実は閉じてしまっているんです、
もうじきここも
線の囲みでしか表せなくなりますが
こんなところにいられるか
と無理やりに
はみだしていったものの末路をぼくは知りません
いつもゆるめに縛られているので
なんでもいいのです
外はこんなに明るいから
誰も光るきりんを探そうとしないし
自分の手のひらも見ない
ほんとうに
なんでもいいのですか
外はこんなに明るい
誰もきりんを探そうとしないし
海面水位は行けるとこまで行くし
草原もすぐに閉じるでしょうね
下駄箱の夏
運河に沿って
空の下駄箱が並ぶ
靴はまだ誰かの
想像でしかないから
父は今朝も裸足のまま
戦争に出かけた
船着場で
子どもが遊ぶ
声は聞こえなくても
音でわかる
裏の楊おばさんが
赤い鶏卵の入った
買い物袋を提げて
歩いてくる
蟻の行列を
器用に跨ぐ
乳房が揺れる
変わったな
同窓会にて
「お前、雰囲気も性格も随分変わったな」
十数年ぶりに顔を合わせた知人が話しかけてきた
『今この瞬間まで俺の事を気にも留めなかった奴が俺のこれまでを偉そうに語るな』
俺は、変わってなど、いない
試し切りーー漆黒の幻想小説コンテスト参加作品
これは、これは、山田様、いつも、ごひいきにあずかり、ありがとうございます。今夜あたり、いらっしゃるものと、考えておりました。
二日前は、わたくしも品川宿の公開処刑まで、参りました。たいへんな人だかりで、ございました。山田様の技に、称賛の拍手を送っておりました。
いろいろと、取りそろえてあります。さあさあ、どうぞ、お選びくださいませ。
この刀ですか。さすがにお目が高い。
そうでございますね。上質のたまはがねを鍛錬した地鉄の文様。刀身の青く澄んだ輝きの映り。わたくしのように、こころの弱いものは、魂魄が吸い取られそうです。焼き入れの際の、刀文の激しい気迫の@ルビ{沸.ニエ}。銘こそありませんが、名のある工房のもの。力ある手で、打たれたものでございましょう。
そのように、構えておりますと、山田様の全身から、紅蓮の炎が、噴出してくるのを感じます。
試し切りをなさいますか。いつものように、地下牢に一人、用意してございますが。闇市で、新鮮なものを、仕入れてきたばかりです。どうぞ、お試しくださいませ。お代は、のちほど、刀の代金と、いっしょで結構ですとも。月末の支払いということで。勉強させていただきます。
鋭く美しい居合いでございました。首が宙を舞いました。あの男、切られたことさえ気付かずに、一歩、二歩、三歩と、地下を歩いたではございませんか。手練の技を、身近で拝見し、震えが止まりません。眼福頂戴いたしました。
いえいえ、これしきのこと。穢土幕府も、太平の世の中、刀の売り買いだけでは、商売が成り立ちません。私どもも、なれない薬売りに、乗り出しました。さいわい、山田様のお顔で、品川や、千住や、このごろは、仕入れが間に合わなくなって、小石川の方面からも、新鮮な肝臓や骨を、提供していただいております。
肝臓の疲れにきく「肝心丸」、肺の病の「黄金粉薬」などなど。いずれも、希少で高価な薬ゆえ、穢土幕府の大名家の方々中心に、ご愛用いただいております。効能があると、よい評判をいただいておりますよ。
今宵は、月も星もない夜。そろそろ、うしみつどき。それでは、いって、らっしゃいませ。
新しい魚(漆黒の幻想小説コンテスト)
新種の魚だと思う。魚は赤い砂の上で鰭をばたつかせ、もがく。乾いた鱗が砂煙をたてる。鱗が赤く汚れる。
「死を怖がっているのか」
手袋の上に魚を載せる。鼓動がある。鰓は見えない。魚の眼球が動き、こちらを見る。
野の向こうから叔父の醫手が来る。漁手を連れている。
「叔父さま、これです」
手袋の上の魚を渡す。叔父は手袋で受ける。叔父は一瞥し、魚を漁手へ渡す。
「見たことはあるか」
漁手の手袋はところどころ破れており裂け目から爛れた皮膚が見える。
「こんな魚は見たことはありません、邑人もないでしょう」
漁手は叔父へ魚を戻す。鰭が動く。
「海へ還すまえに私が預かる。君は帰っていい」
叔父は言う。漁手は私たちと離れて野を逸れる。
「彼はもう永くない」
叔父は立ち止まって、ついてきた私へ言う。月の自転周期を語るように。
「彼の孫には邑から新しい手袋を贈る」
叔父の醫処へたどり着く。醫術台の上に魚を置く。叔父は糧食を魚の口へ含ませ、壺の水を魚へかける。動かない。赤い砂が台の下へ流れる。
「海の魚ではないかもしれない」
と叔父は言う。
「鰭が布のようで泳ぐのに適していない。獣の脚のようなものも生えている」
叔父は書棚から旧い魚類図鑑を取り出す。多くの魚が横を向いて描かれている。そのなかに魚の生態を描いた図があり、叔父はそのなかのひとつの絵を指す。
「この魚はこれと近いのかもしれないけれど字は読めない」
「泳いでいるのは海じゃなさそう」
魚類図鑑は閉じられる。頁が起こした風に舞い、栞が落ちる。栞には見たことのない地球の雲が描かれている。
粗布で魚をくるみ、叔父は醫処を出る。私はついていく。
海辺へ着くと叔父は粗布をひらき、魚を海に浸す。寄せる波は魚と赤い砂とを濡らす。魚は海へ還らない。ただ海辺に身を横たえている。
しばらくそうしていた魚は、やがて身震いする。魚は海へ潜ろうとするのではなく、頭をもたげる。叔父は感嘆の声を漏らす。脚で立とうとする。私も声を抑える。魚は還るべき海ではなく、雲を見る。そして体長くらいはある鰭を展げる。
「泳げ」
私は叫ぶ。叔父は私の肩を抱く。魚は鰭で地を打つ。魚は浮く。鰭を大きく動かし、宙にとどまる。でも浮いたあと、魚は海に落ち、波にのまれる。波は魚を沖へと運ぶ。
「宇宙船の発射実験のようだったな」
と叔父は言い、私の肩を抱き寄せる。防光衣が乾いた音をたてる。
ちょっぴり
きょうはほんのちょっぴりいいことがあったから
ビターチョコ食べる
たらこ
たらこ、食べたいの
ねえ、買ってきて、たらこ
たらこ、買ってきて
今すぐとは言わないから
でも今すぐ食べたいから
買ってきて、無理なら
とってきて、海から
海でいいと思うの
磯のそこいら辺にはえてるから
簡単にとれるから
ねえ、塩の味がして
もう何も生まれてこないから
食べて大丈夫なの
欲しいの、たらこ
いくらじゃ駄目なの
もしかしたら、まだあったかしら
たらこ、あったかしら
二階の箪笥の中にまだあったかしら
子供の頃、見つけてしまっておいたの
後で食べようと思って
勿体なくてしまったまま
他に宝物らしいものもなくて
ずっとそのまま
箪笥はまだあったかしら
故障して上手くいかなくなったから
捨ててしまった気がするの
どこか遠くに
家の中のどこか一番遠い場所に
捨てに行った気がするの
この家に二階なんてあったかしら
二階ってどんな所かしら
一度見てみたい
二階、見てみたい
掌にたらこが降り積もる
わたしはその一粒一粒に
名前をつけていった
タケシとアキラの
見分けがつかなくなった
しばらくすると
アケミも区別がつかなくなった
どれがジョンかもわからなくなった
わたしは一粒一粒に
ネームペンで名前を書くことにした
以来、夢中になって
四半世紀以上が過ぎた
いろいろなものや
いろいろなことが
通り過ぎていった
たらこがわたしの名前を呼ぶ
一粒一粒
シズカが、イチロウが、ベスが
わたしの名前を呼び始める
やっと何かに許された気がする
許された気がするの
だから食べたいの
たらこ、食べたいの
ねえ、言葉って透きとおってるのね
最初から
何もなかったみたいに
ずっと透明なのね
虚字
それはネではない。
故に「不ネ」と呼ばれている。
複素文字上にある虚字だ。
虚字は実在しないので一文字で表記できないが、ある言語学者が気づく。
不ネの正体は不ではないかと。
「不ネ=不」が成立したことで「不=不ネ=不ネネ=不ネネネ…」と無限文字が生まれ、複素文字は無限遠に発散してしまった。
短歌と俳句 2024/12-2025/2頃
短歌
霧包む 星月滲む その姿 わたしのこころ わたしのすがた
やるだけの 事はやったと 胸張って 進んでほしい どんな道でも
ひんやりと 仕事始めの 昼休み 湯気の向こうに 蒼鉛の空
あけおめと イラスト飛び交う タイムライン 布団で眺める 元日の朝
年の瀬の 仕事納めの 翌日に 通院納めて やっと一息
俳句
和菓子屋も 白く煙るは 寒朝に
満月や 夜露かけるは とさみずき
おやすみと 凍る夜空の 十三夜
オリオンが 落とす霜の音 さえ聴こえ
初夢は まどろむ記憶に 浮かぶあわ
新月の 夜の鐘撞き 巳迎え
トラックの 屋根にある雪 日本海
立春を 過ぎ冬物を 身に纏う
エイプリル・マーダー
〈四月八日 午前九時〉
美咲が面会に来た。俺と目が合うと彼女はやわらかく微笑んだ。
こんな状況でも俺を元気づけようと笑ってくれる彼女がたまらなく愛おしい。
〈四月四日 午前十一時〉
「それで、清水浩太さん。あなたが酒の勢いでやってしまったというわけですね?」
「はい、そうです」
俺は俯いた。たとえ酩酊状態だったとしても、殺人は絶対にしてはいけないことだ。罪は償わなければならない。
〈四月四日 午前九時〉
携帯が鳴った。どんと心臓が弾けるように動き、我に返る。着信は安藤からだった。傍らに倒れている杉本をちらりと見る。こいつが何か知っているかもしれない。俺は恐る恐る電話に出た。
「……もしもし」
「清水、いまどこにいる?」
「自分の部屋。さっき起きたところだ。ところで昨日の夜、いったい何があったんだ?」
「……覚えてないのか?」
「飲み過ぎで記憶が飛んでいるみたいなんだ」
「そうか」
少しの間があって、安藤は続けた。
「昨夜、俺と清水と杉本の三人で飲んでいた。それで、深夜零時くらいだったかな、杉本の携帯に美咲からメッセージが来た。テーブルに上向きに置いてあったから内容が見えちゃったんだよ。それで二人の関係に気づいた君は杉本と喧嘩になった。俺は止めようとしたんだけど君たちに部屋を追い出されてしまって。でも気になってずっとドアの前で聞き耳を立ててた。そしたら……」
「そしたら?」
「君の『ぶっ殺してやる!』って声が聞こえて、その後に人が倒れたみたいな大きい音がした。そして、静かになった」
「やっぱり俺が杉本を……」
確かに浮気を知ったときの、強い怒りの感情だけはしっかりと覚えていた。
「悪い、止められなかった。それどころか怖くなって逃げ出したんだよ」
「なんで通報しなかったんだ」
「それは……こんな気遣いなんていらないかもしれないけど、自首した方が刑が軽くなると思ったんだ」
〈四月四日 午前八時〉
頭が痛い。顔を上げるとテーブルにはビールの空き瓶やチューハイの缶が散乱していた。何も思い出せない。完全に二日酔いだった。
杉本が床にうつ伏せで寝ている。昨夜はこいつと飲んだんだっけ。あ、そうだ。安藤に誘われて三人で宅飲みすることになったんだ。それで……そのとき俺は唐突に美咲が杉本と浮気していた事実を思い出した。怒りが込み上げてくる。
「おい、起きろよ」
杉本の体に触れたとき、その異様な冷たさに違和感を覚える。さあっと血の気が引いた。杉本は死んでいた。
〈四月四日 午前〇時〉
杉本の頭目掛けてビール瓶を思い切り振り下ろす。ゴッという鈍い衝撃があり、杉本は倒れた。念には念を入れ、さらに何度か頭部を殴る。ふうと一息つき、脈を確認する。よし、事切れたようだ。
後ろを振り返ると睡眠薬を飲ませた清水がテーブルに突っ伏して寝ていた。彼の頭も死なない程度に手加減して殴っておく。
清水が目を覚ましたとき、部屋には大量の酒の空き瓶と空き缶があり、記憶がなく頭痛がするという状況のはず。どう考えても二日酔いの症状だ。次に死んだ杉本に気が付くだろう。そこで俺が電話をかける。ドアの向こうで犯行の一部始終を聞いていたと言えば、清水は自分が酔った勢いで殺してしまったと思い込むに違いない。杉本は死に、清水は刑務所行き。これで美咲は俺のものだ。
〈四月一日 午前〇時〉
浩太のやつ、浮気してたのね。
モニターをソファに投げ捨てる。そこには知らない女と抱き合う浩太の姿が映っていた。
私が部屋に監視カメラをセットしているとも知らず、好き勝手やってくれるじゃない。どんな復讐をしてやろうか。そうだ、殺人容疑で捕まってもらいましょう。殺されるのは杉本がちょうどいいわ。あいつ誘いがしつこくて面倒なのよ。協力者は安藤ね。あいつはずっと前から私に気がある。杉本と浩太にしつこく付きまとわれていて、二人がいなくなればあなたと一緒になれるとでも言えばやってくれるでしょう。
数日したら捕まった浩太のところへ面会に行って最後のチャンスを与えてあげるの。彼が私に永遠の愛を誓ってくれるなら、安藤の犯行の様子が映った監視カメラのデータを警察に渡す。誓わなければ浩太とはお別れ。そのデータをネタに安藤を脅し、下僕として一生こき使ってやる。どちらの未来が訪れるかしら。ふふ、楽しい四月の始まりだわ。
憂国怪獣ベキラ(漆黒の幻想小説コンテスト)
「郢、陥落セリ」
その報せを聞いた楚の屈原の心は、目前に流れる汨羅江よりも暗く澱んでいた。
主君の懐王への諫言は受け入れられず、ついに懐王自身が虜囚の身となった。
跡を継いだ頃襄王も彼を疎んじ、江南の地に左遷した。
屈原の不安は的中した。
白起の率いる秦軍は既に楚の都である郢を落とし、頃襄王は命からがら陳に逃れたという。
我の言を聞いてくれれば、こんな事には……。
「明らかに世の君子に告ぐ。我まさに節に死して法を示さん」
屈原は悲憤慷慨と重い石を抱いて、汨羅江に身を投げた。
屈原を慕う人々は舟を出して彼を捜したが、遂にその骸は上がらなかった。
◇
「汨羅江ニ怪獣ガ出現、郢都ニ接近」
秦の名将白起は、この耳を疑うような報に接するも動じずに迎撃準備を命じた。
城壁に立つ白起の目に映ったそれは、地響きとともにゆっくりと近づいてきた。
二十丈はあろうかという、天を衝く巨体。
鰐の如き鱗の肌。
口にはずらりと牙が並び、手足には鋭い爪が光る。
白起の傍にたつ副官が耳打ちをする。
「……楚人たちは身投げした屈原が龍に変じて祟っているのだと噂をしております」
「たわごとを言うな。手筈通りに引きつけよ」
秦軍は距離を保ちながら怪獣に矢を放つ。
矢は鱗に弾かれて全く刺さらない。
「め、命中するも効果なし」
「わかっている。続けろ」
秦軍は旋回しつつ攻撃する。
怪獣は咆哮すると尻尾を振った。
棘のついた長い尾が秦の兵士たちを吹き飛ばす。
「横を向いた。今だ、放て」
白起の号令のもと、城壁に据え付けられた巨大な弩から槍のごとき矢が放たれた。
矢は正確に、怪獣の目に当たった。
「やったか」
しかし、怪獣の目は鉄の矢を跳ね返していた。
その目から人のような一筋の涙が流れたに過ぎなかった。
白起は舌打ちすると総員撤退を命じ、郢都を放棄して退いていった。
◇
再び歩き出した怪獣の足元に、ちゃらちゃら飾り立てた馬車が停まる。
馬車から降りてきたのは、陳の地から戻ってきた頃襄王である。
「フム、怪獣よ。此度の働き、大儀であった。そなたがもし世人の言うように屈原であるならば、罪を免じて再び召し抱えてやらんでもないぞよ」
怪獣は王を睨みつけると一声吠えた。
王は腰を抜かしてへたり込み、動けなくなってしまった。
怪獣は汨羅江に戻り、水中に姿を消した。
端午の節句、人々は河に龍舟を浮かべ、ちまきを投げて屈原の霊を慰める。
その龍舟が屈原自身を模したものだということは忘れられて久しい。
全米が炊いたご飯--川柳選句集その1
全米が炊いたご飯 ――川柳選句集その1――
笛地静恵
【ノート】
SNSの発表の場を借りて、『全米が炊いたご飯』の題名で、川柳六句を不定期で投稿してきました。五百回に達した記念に、選句集を編むことにしました。
第一集として、二〇二三年五月二十一日の第一回から、二〇二四年六月二十八日の第三百回までの千八百句の中から、ようやく百七十句を選びました。
笛地の川柳の初心は、あまりにも有名ですが、鶴彬の「手と足をもいだ丸太にしてかへし」にあります。
メメント・モリ。一庶民であれ。今、起きていることから、目をそらさないこと。《見ザル言わザル聞かザル》にならないこと。反戦。権力へは、つねに諷刺と皮肉の矢を射続けること。表現方法には、タブーを設定しないこと。たとえば、大脳が許すときには、いわゆる「現代川柳」にも挑戦すること。何よりも、ユーモアを忘るべからず。
継続できた原動力は、投稿から間を置かずに、読者のみなさんから即座に「スキ」をいただける仕組みにありました。毎回、はげみになりました。SNSの時代でないと、不可能なことです。あらためて、感謝申し上げます。ありがとうございました。二十一世紀まで生きてこられて、よかったなと思います。
本来、第一集として、千八百句の十分の一の百八十句を選出するつもりでしたが、「時事ネタ」などの「元ネタ」を知っていないと分からない句については、割愛せざるを得ませんでした。そのため、百七十句という中途半端な数となってしまいました。これでも精いっぱいです。
ときどき暗誦する句を挙げておきます。
線香花火落ちきるまでの世界線
俺の後ろに立つな!背後霊!
車窓から対角線の銀河かな
おひかえなすっておくんなせえメモ帳へ
倒れても木の根は土を耕せり
歌わぬコオロギはただのゴキブリだ
ヨカツタナ病苦が死んだ 友去りぬ
足もとを崩されても線路は二本
存在の独楽を回して蝉しぐれ
夜の辞書に可能の文字の見つからぬ
人生よ死体食わねば生きられぬ
星近き露店の風呂へ皮膚を脱ぎ
だれしもがひとりゆくんだ帰り道
エッシャーの二階から目薬
追悼は生者のつとめ春の雨
歴史とは死者の書の骨 鳥雲に入る
アンパンを食めば青空なだれ落ち
首吊りの紐が空から垂れている
第二集についても不日、公開の予定です。では、また。
笛地静恵 拝
二〇二五年四月十四日(月)
1
線香花火落ちきるまでの世界線
二億年前から瑪瑙にいますけど
正解を人さし指へ尋ねけり
いやはてのウルティマトゥーレ鳥帰る
どうしたの優しい嘘を信じてる
びしょびしょの河童と迷う池袋
人類の快楽として差別論
追跡の視線背中へ曲がり角
砂浜の竜の骨のみ拾う子ら
水星の溶岩流をカフェテラス
2
レコード店ドアは静かに閉めるべし
ろくろっくびボトルネックの奏法を
ドーナツの穴からのぞく夏休み
俺の後ろに立つな!背後霊!
領地では血産血消を伯爵は
まっすぐに黒いごぼうの立ち上がる
映画館出れば途端に夜が来る
荷造りをしようよ君と異世界へ
乱読の書を積み上げる壁として
3
改造の客車に潜む老姉妹
車窓から対角線の銀河かな
昆虫の擬態の如き愛でありました
すみっこのブラウン管の夕焼ける
サイダーのコップの生のぬるい水
おひかえなすっておくんなせえメモ帳へ
紫陽花に仁義を切れば晴れ間かも
雨音の圧し寄せてくる鮎の宿
リリパット製豆本をコレクション
倒れても木の根は土は耕せり
4
ほめちぎる人にちぎられクラゲくん
泰然として自虐たれぬたうなぎ
雨やなあ明日の吉野も雨やなあ
しかし道を越えられぬ壁とするなら
ウエハスのアイスをすくう口もとへ
歌わぬコオロギはただのゴキブリだ
横浜のパソ・ド・ブレ踏み鳩サブレ
断崖の風に告白してみたい
働けど働けど手を見る千手観音
粉々になるまで旅をしてこいと
5
あなたそれ本気ですかと影が言い
犬も歩けば 棒になる足
あなたにも世にも微妙な物語
私のお墓の前で逝かないでください
髪の長い女だって 怪談にゃあたくさんいるからねえ
ヨカツタナ病苦が死んだ 友去りぬ
オーディンと飲んだくれてる橋の下
たそがれへ道をひらけり隠れ町
じゃぶじゃぶの湿度を泳ぎ帰れるか
全身に紫陽花咲かせ暮れ泥む
6
一寸先の闇一寸
言葉が薄いから生きていけませぬ
足もとを崩されても線路は二本
世界で一つだけの鼻(そりゃそうだ)
待ってキスまで 五秒間
生ゴミなし 注文の多い料理店
存在の独楽を回して蝉しぐれ
百枚のどこでもドアのゆめゆうつ
一丁の斧空隙へ突き刺さる
名も知らぬ遠きシマより流れ寄るヤシの身ひとつ
7
ホッケのマニエリスムあぶらっこいよねえ
お手紙を読んでしまったね 黒山羊さん
メダカの学校 もういない
人みしり ゆうれいひとり
牡猫の太き尻尾の帆柱よ
わたあめの積乱雲と背比べ
アセチレンランプの下を大金魚
母を呼ぶ子どもの声の 一度切り
もう三日パパは不在の冷蔵庫
家族とは別れるために集まるもの
8
生死とは何かと問うて精子去る
人生よ死体食わねば生きられぬ
手違いで千手観音手間仕事
かくれんぼ三千かぞえひとりきり
百歩ゆずって九十九里浜
アラサーいってきかせやしょう
死んだ魚の目は痛い
あの手この手の千手観音
新学期廊下の曲がり角なんか変
雪よ来よ電信ばしら背伸びする
9
宝石に守られ渋谷遊弋し
星近き露天の風呂へ皮膚を脱ぎ
時計のみイオの時間に合わせけり
平面の白き癒しよヨーグルト
蒟蒻やひとり男の立ちあがる
脊柱へ曇天のしかかる重石
春二番二番倉庫へ二番目に
盛大の杉の射精の密度かな
百円を落とし満員のバス悲し
校庭の蛇口の下へ後頭部
10
ふふふふ死の場所は死が決めるのよ
高層の立ち眩みして崩れ落ち
灰皿を中間に置く別れかな
ミッフィーちゃん・点・点の目がむずい
プラナリアいのちの裂ける音がする
夕焼けよ二輪の我の何処までも
水面の遠い声より水すまし
だれしもがひとりゆくんだ帰り道
道草や土葬の穴を飛び越える
ガリレオの足首細く締まりけり
11
小さなる前歯で笑うおひなさま
失踪のネコの張り紙古びたり
エッシャーの二階から目薬
塩もみの秋茄子配る湯治客
辞典とはをりをり国の明日のため
きざはしをのぼり星座へ至るべし
お砂場のトンネル入る終列車
雲梯を渡れば腕の延びすぎる
遊園地パパは子供の骨になる
スカートのジャングル・ジムを跨ぎ越え
12
春巻きの両の端からキツネ色
板チョコの銀紙のような雲だなあ
追悼は生者のつとめ春の雨
一夜にしてアゲハの蝶の舌渇く
窓からの光りに午後の微積分
炎天の少女劇しく匂い立つ
物事のおしまいが好きおねり笛
碧落よ鱗粉の沈みてやまぬ
病床からのハガキ温かい手書き
廃線のホーム夜汽車の遠ざかり
13
背を丸め畳に針を探す母
変わるもののみ生き残るダーウィンよ
舌打ちの人心事故の多発する
スカートの下まいあがる文京区
存在ののっぺらぼうか留萌発
樹上から盗み見してる紙芝居
つきあいのつなわたりかもオンライン
飛び乗ればボートは沈む跳ね返る
ふたたびは浮かびこぬもの鳥曇
重厚の黒のダルマをドンと出す
14
昼のネコ夜のトラへといましばし
ブランデーグラスを終電の少し前
人生のごとくゲームを語りつつ
ハチドリよ食うための羽ばたきやめぬ
前向きに検討ちがい致します
もしあればそれはそのときそうすれば
三月の西瓜を切って季語迷ひ
月面の粉雪白き足の跡
缶ビール五本あいつの退職に
15
なにわ友あれ生きててよかった枝豆よ
沿線の火災の夜に骨折し
カラスめの糞のピチリとすぐうしろ
人形へ徐々に似てくる人形師
歴史とは死者の書の骨 鳥雲に入る
赤チンをさっとひと塗りもう治り
気がかりのあの子はいるか新学期
とりあえず机の中を手で探る
富山県は富山県だと力説す
フォアグラの人生だよとなみだ拭く
16
どしゃぶりの雨の中でわたしはどうしよう
のっぺらぼう耳鼻咽喉科通院し
北寄貝北の新地の知った顔
あぜ道を泣きながら走れ遠き雷
衝撃の事実ネコの糞を踏む
心尽くし和菓子の如き吾が句あれ
納豆の粉のカラシを吾の混ぜる
味の素ともかくかける友の家
石の上にも三年ぬらりひょん
余の辞書の可能の文字は 落丁か
17
アンパンを食めば青空なだれ落ち
校庭もう一周銀河はめぐる
クチナシとのっぺらぼうのはちあわせ
回らない鮨屋に五名どっしりと
手と足のあるじゃないすかのびしましょ
過去世へ転生ありか花筏
箱庭の家の中の箱庭の家の
校庭の水たまりから望遠鏡
春分のついに終わるかトルストイ
首吊りの紐が空から垂れている
(了)
マデの大石(五)
いまはいない精霊様、闇の季節は試練のとき。
わた水の風に吹かれたクナは、身ひとつ逃げて村を出た。
幸いマデに助けられ 歓迎の祀りに家族がふえた。
モアニの胎は膨れに膨れ、ついには元気な子を産んだ。
──
カチコチに固まる白いわた土、消えてった。
あたりにおちる、わた水は少ない。
闇が、明ける。
柔和な笑みを湛えた精霊様が、のっそりと遠く山の辺からおきあがる。
おはよう、子らよ。光の目覚めのときだ。
私は、みているよ。さあ、立ちなさい。
皆が橙色のおひさまに跪いて、一人もとこしえに眠らず闇の季節を越せたことに感謝した。
マデはこれまで絶やさず守ってきた火を消し、シカの皮に食べ物を沢山包んでから、おもての大石を取り外す。
ビンもヤリやイノの革数枚を器用に木の皮紐で巻いて背負うと、おもての大石を取り外す。
モアニは、産まれたばかりの子をイノの革に包んで抱き上げた。
名無しの子はよたよたと走り回り、クナは笑顔でその手を取る。
ゴロ、ゴロ、ゴロロ。
ゴロ、ゴロ、ゴロロ。
ふたたび旅が始まった。
大石ふたつが転がるのを、旅人や世話になる邑の人々が珍しそうに見た。
そして毎度、歓迎の祀りで邑のものたちと交わり、子種を頂き、振り撒いた。
ゆく先々の邑で、大石を捧げるよう言われたが、ビンはその度ケーヤの顔を思い出した。
もう別の邑で精霊様との約束があるからと断り、なにがあっても昼の交わりをしなくなった。
マデもそうだ。望みがあり旅をしているので、見せたり触れたりしかさせない。
幾つもの邑に泊まり、幾つもの山や川を越えた。
そうして、ついに、旅人の言っていた巨樹がおわす、おおきな湖の畔に辿,たど}りついた。
見上げるそれは、ヒト一、二、三……とにかく沢山が肩車をしないと登れないほどに高く太い幹がのび、腕が生えたように真横に向け二股に分かれていて、数多伸びる枝から空を覆う白いわた雲ような葉が青々と生い茂る。
この天衝く巨樹が大きなヒトのかたちに見えたが、肝心の頭がない。
「だれかいるか」
マデは問うたが、返事はない。
「だれかいるか」
やはり、返事はない。
と、思っていたが、付近の邑のものという、通りすがりの若者が言った。
水場がほしいなら、おひさまがまうえに来た時に、うやうやしく、捧げものを置くのだ。
そうして、昼日中につがいふたりだけで交われ、と。
その邑の古くからの言い伝えを聞いて、礼に乾いたシカの肉をひとつ与えた。
ついに、このときがやってきた。
ビンは、自分の大石を遠くにやって、クナと共に子らを預かり遠ざかった。
皆、ほろびの罰があたるから見てはならん、と言い含めて。
森の中で巨樹を真っ直ぐに見上げる広い草っ原をみつけ、
木とイノの革で作った太鼓を手でたたきながら、踊りながら、歌いながら、精霊様を沢山たたえた。
そうして、二人は汁を飲み、大きなシカの敷物のうえでゆっくりと交わる。
二人汗にまみれ、マデが精をはなったとき、辺り一面、黄金色の光に包まれた。
子らよ、わが子らよ。ながいながい道を、よく来た。
欲望に打ち勝ち、闇に耐え、子を殖やした。
よきかな、よきかな。産めよ、殖やせよ、わが子らを。
天頂に、円く大きな黄金色の光。
光に照らされ、黄金色のヒトの身体をしたような巨樹の頭には、何よりも尊い、精霊様の柔らかな笑顔。
「精霊様、この、めずらしき『カネ』を精霊様にささげたてまつる。ねがわくは、ヒトの子マデの家、長き繁栄を」
なるほど、なるほど、ささげもの。これはすばらしい。
よかろう、子よ、その想いが記されたこの石を、ここに祀ることだ。
邑を作り、この前でこれまでのように沢山交わり、殖やすのだ。
名無し子二つに、名を与える。
では子よ、ひとをいつくしみ、ほふった糧に感謝し、そして愛……
時が経ち、光放つ精霊様のまばゆい黄金色のお顔が、巨樹から首半分ばかりずれてしまった。
マデまで届くその光はみるみるうちに土の色に褪せ、堕ち、消えていく。
精霊様のからだも、元のくすんだ色にかわり、森の静けさを取り戻した。
その晩、長く転がしてきた大石を二つ並べて、焚き火の前で皆が交わっていると、突然、精霊様から名が降りてきた。
走り回る名無しのオスの子は、タキ。
生まれて間もない名無しのメスの子は、ニエメとなった。
マデの大石@ルビ{(六・エピローグ)に続く
──
ついに、たどり着いて大事に大事にしていた「カネ」を使う。
精霊様は満足し、望みをかなえたマデと、その一家。
これにてお話はおしまい……なのですが。
もうちょっとだけ続くんじゃ。
マデの大石(四)
円い大石たてかけて、隠した洞穴マデの家。
闇の季節がこわくとも、精霊様に誓う生。
精霊様が居らずとも、強く生きねば、先はない。
──
大らかで優しく、怒ると怖い。
光を、糧も子種も皆の名も、全てをくれる精霊様。
でも、それは眼が開いていてこそ。
闇のときは、精霊様に見えることはない。
寒く暗い毎日は、精霊様が両の眼を閉じて寝ているから。
外はびゅう、びゅうと大きな風の音。
精霊様の目が閉じぬ間に、マデが見事シカを獲ったのは良かった。
あれからビンも、マデにはない知恵を絞った。
深く大きな落とし穴、大きなイノを散々にマデの槍で突き刺した。
これはいい、暫く食うには困らない。
マデはオスになったビンに嬉しくなった。
水だって、降ったわた水を拾って、ほうってしまえばいつでも飲める。
これはいい、泥水のように濾さなくても綺麗。
モアニは温めた水をすすってそう言った。
シカのなきがらは、モアニの寝床になった。
いのちを宿したモアニがすべて、何よりも大事。
少し臭うが、肉や骨をとった後の大きなシカ革が、とても暖かい。
洞穴の外は未だ強い風と、真っ白な景色が埋め尽くす、そんなある日。
マデはビンと抱き合ってイノの皮の中で暖めあっていると、外から大きな、哀しい声がした。
槍を手に大石の穴に詰めた小石をどかせ外を覗くと、白い肌で額に黒い紋様をした、おおきな首飾りを付けたメスが、穴からはいでて来た。
背は低く身体も細いが、尻は大きい。なかなかだな、マデとビンは思った。
「なか、ありがと、寒いくない」
しかし、これはこまった。精霊様がいない。
こんなところにほっぽらかしては、冷たいわた水に当たって震えるこのメスは、とこしえの眠りにつくだろう。
しかたなく暖かい水を飲ませ、肉を少し齧らせた。
聞けばこのメス、精霊様にクナと名付けられたらしい。
三つ寝て起きるくらい前に、ここから遠い森の邑が人食い部族の里の者たちに襲われた。
命からがら夢中で逃げて、皆の群れとも逸れて走りづめ。
暗い暗い森を抜けたらば、岩山の縁に火のあかりと煙が漏れ出るここを見つけたと。
マデは考え、ひげをしごいた。
闇の季節で食いでを減らすのはよくない。さりとてこのまま闇の中に放り出すのは、いのちを繋ぐことが好きな精霊様が良い顔をしない。
こういった時はお互いを助けなければ、いずれほろびの罰が当たるだろう。
これは仕方がない。モアニも、もうすぐオスかメスが生まれる。
子守りすることを精霊様に約束させて、歓迎をすると決めた。
邑で伝え聞いた汁をモアニが作り、ほかの三人が飲み、いまは両の眼を瞑った精霊様におおげさに感謝する。
洞穴の中で、小さな歓迎の祀りをおこなった。
モアニが見守る中、マデとビンの精を沢山、沢山頂いたクナ。
いずれ闇が明けて精霊様が片目をあけたとき、ただしく一族となって旅につれていく、そうマデとビンは誓った。
クナはモアニを救けて旅についていく、そう誓った。
そうしてつましくしながらもしばらく過ごすと、ついにモアニの胎がひどく疼き、股のくちから沢山の水を吐き出した。
これは、ずいぶん前に見た事が有る! いよいよか!
名無しの子をかいなに抱きながらビン、マデが大きな声で精霊様に祈り、歌った。
クナはマデに、モアニに、言葉つたなく大きな声を掛けた。クナも子が幾らか居たらしい。
これも、精霊様のおぼしめし。すべて、すべて見ておられたのだ。
クナが大きな声を上げて苦しむモアニの股から、ずるり、と音をさせて引き抜いた。
血まみれのそれは、音を立てて尻を叩けば大きな声で泣きはじめた、浅黒い肌の元気なメスの子。
幸いにも、ここには火の力でつくった、きれいな温かい水がある。
すぐに、とこしえに眠ることはない。
「なあに、心配いらん。わしが幾らでも、肉をとってきてやる」
クナも乳が出る。それならばと、マデはクナにも肉をしっかりと食わせる事にした。
沢山要るなら、沢山とればいい。
長の大きな笑い声で、みなの心配を吹き飛ばした。
マデの大石(五)へ続く
──
モアニの子は、誰とも知れぬ邑の男の種だったようです。
でも大事なのはそこではない。
ヒトの黎明、未だ危険な世界の中で命を授かり、産み育て、種を連綿と遺す事です。