投稿作品一覧
帰路
ぺたぺた鳴る靴、
揺れるビニール袋。
右肩にリュック、
左手のホッカイロ。
ポケットのキーケース、
真っ赤に晴れた耳、
変わらない景色。
あの帰路を覚えている。
冬の少年
一人の少年の中で
寂しげな実存がすっくと立っている
帰り道の途上
友人の軽やかな口実と
食卓の重たげな沈黙の
その均衡を測りかねて
真冬が彼の心を波立たせ
木枯らしが少年の影を拡げ
両頬は微熱の予感にうち震えている
優しかった母の温もりを想う
(僕はあひるのようにひ弱だ
僕は僕の孤独をかがやく湖へ浮かべよう)
また一つ歳を重ねるたびに
幼心も氷のように溶けていくだろう
落葉樹のハミングに耳を傾けて
柔らかな腐葉土に混じった
実存の種を固く握り締める
少年が躊躇いつつも帰り道を進むように
季節も春を懐胎し
いつかは哀しみを手放していく
カーテンの裏
きらきらの
剥がれ落ちた鱗
なにも
話せないことが
動けないことが
いたい
汽水へ運ばれる
夢は破れて
resurrection
歌が聴こえる
幾層にも重なった奥と上と左の触る河の歌
ひとりごとの羽毛も黄土になると
笑いとばしてしまう
経験が蓋付きの容器に入ったまま持ち込まれ
ひどい傷口を目の当たりに眠りこむ邑
遥か先ふしだらな天使
我ら考えごとにて時をきれぎれに刻んだ
はずが話は熄んで
てのひらは きたならしい
蝶が飛びまわるのを追ってどこまでも行ければ幸せだと思った子がかつていた この話の内にある永遠は どこまでも という部分なのであり どこまでも という場所が蝶に宛書されていたのだった
文字を書くことは
永続への挑戦なので
代償をもとめる
観よ、つめたい弓矢を
他の多くの若い極論を蹴散らして
座り込んだ褥。
あからさまな星向きに否を唱えて。
陽が湖の膝元へ屈むとき
溺れてしまえ、と
ねじが
これほどまでによくできた喩とは思わなかった。
高らかに唄う往路の行進。
復路はなく。
万節を閲することあたわぬものに
熱を湛えた海と呼ばうかはたれ
ざわめくT字路
行き止まりだ
感じた瞬間、道が見える
右、光っている
左、暗やみだけ
右、眩しくて見えない
左、慣れると見える
右、掴みとれない粒子
左、虚空を掴む
右、汗の匂い
左、嘘の香り
右、風の音
左、波の音
ざわめくT字路の真ん中で
影だけが二つに避けている
みな波なみなみの涙か
涙みたいな朝だ
誰も知らない海辺
静かな心臓の音
琥珀色の朝焼け
生まれたばかりの今日に
口づけをする
おはよう
みんな死んでしまった
豊かな暮らしを求めて
みんな逝ってしまった
おーい、どうだー?
人生は楽しかったかー?
さらさらの砂
殺し合いなんて
別にしたくなかった
たった一つの選択
そこに意志があった
右をむいても
左をむいても
内蔵が破けた
破けたなかに
真珠があった
それは神授だ
大事にしなよ
まだ寒い夜明け
新しい時代がそっと息をしている
肺を通って
今日を通して
手袋
一月の早朝
まだ暗い窓の外
重いまぶたを無理矢理こじ開け
のろのろと身体を起こす
いつものようにお湯を沸かし
コーヒーを淹れる
花瓶の水を取り替え
写真の脇に添える
顔を洗い 歯を磨く
脱いだ服を積み上げる
デジタル時計に目をやる
刻々と過ぎてゆく
玄関のドアを開けると
思いがけない寒さに
今季はじめての手袋を取り出す
かばんに忍ばせていたひと回り大きなそれは
黒い生地に鮮やかなオレンジ色のフェイクファー
すべり込ませると
指先にぽっかりと隙間があまる
サドルにまたがりハンドルを握りしめる
ペダルを踏み込みアスファルトを走り出す
遠く白けたオレンジ色の光
まばらにすれ違う人と車
冷たい風が頬をつねる
黄色い点灯に足を止める
目を落とす
包まれた両手は
思ったほどあたたかくはなかった
あたしはバカだから
銀の涙を零している
それは針
あたし
ロボットになるかも
すきなひと 病気、治るかな
あたし
代わってあげることも出来ない
この涙の針は 残念なことに 救わずに
すきなひとの肌を刺す
知ってる
でも、泣きたい時
泣いても良いよね
もしもロボットになって
口がきけなくなっても構わない
むしろ 要らぬ心配を言う口は 塞いでしまったほうが良い
針で縫い付けてしまったほうが良い
お願いだから元気になって
息子よ赦して
”ママ ”は……自分の寿命をすきなひとにあげたいです
アルミホイルみたいな顔をして 黙っていよう
そのためにここに書いた
https://i.postimg.cc/TPMRWdc1/atashihabakadakara.png
雪待合室
一年中が雪に閉ざされた谷間にある村はずれの小屋でわたしたちは暮らしていた。わたしは薪割りの仕事をさせてもらい、村でただ一軒の雑貨屋で米と塩と父のための煙草を得ていた。村では父に一人の親しい友もなく、訪ねて来る人もいなかった。
父は毎日背中を丸めて机に向かっていたが、何の仕事をしているのかも、父がいつからこの村に棲み、いつからわたしの父であるのかも、わたしにはわからなかった。父は数時間も黙り込んだまま座り込んで、机に頬杖をついたまま、窓の外に降るいつ止むともしれぬ雪を惚けたように眺めていたり、鉛筆で机を小刻みに太鼓のように叩きながらぶつぶつと何か独り言を呟いていたり、かと思うと、おおーっ、とか、ほひょー、とか奇声を上げて、いきなり握り締めた拳を前に突き出し、突然板敷きの上の薄い座布団から飛び上がると、狭い部屋の中を思いつめたような目をして、ぐるぐる幾周りも歩き廻ったりするのだった。時々仕事の手を休めて父はダルマストーブの傍らに来て座り、昼間の薪割りでぐったりと疲れて横になっているわたしが薄く目を開けるそばで、唇を小さく丸くとがらせて、ランプのゆらめく灯りの中、ぽぽぽぽぽ、と煙草の煙りを輪にして吐き出してみせ、淋しそうに微笑むのだった。そんな時、透き間風となって吹き込んで来る凩の音がひときわ高くなる。わたしたちはいつ何処から来て、そしていつまでここにいるのか。
月末の日曜日は街へ行くバスが月に一度通る日だった。その月末の日曜日が近づくたびに父は気分が浮ついて、そわそわと落ち着かない様子だった。土曜の夜にはわたしに身の周りの物を布袋に詰め込ませて支度をさせ、自分は何か書き溜めていた紙の束を古い革鞄にしまい込むと、もうすぐだぞ、と妙に浮かれて上機嫌だった。
日曜の朝、まだ暗いうちから小屋を出た父とわたしは二里の雪道を、はぁはぁと白い息を凍らせ、何かが焦げたような炭の焼けるような匂いの漂う村を抜け、ちょうどわたしたちの小屋から真反対のはずれに位置する村の入口にあるバス亭へとたどり着く。待合室にはすでに何人かの老若男女が来ており、それからも引き戸を開けて、ぽつりぽつりと村人たちがそれぞれの荷物を抱えて入って来、五坪ほどの部屋のベンチはすぐに埋まってしまう。彼らは父の姿を認めると世間話をぱったり止めて、時々こちらの方を見ながらひそひそと耳打ちし合った。その村人たちはこの辺境一帯の村々を巡る日に一度通る便を利用する客たちだった。わたしたちが待つ街行きのバスの到着時刻は、バス会社臨時職員を兼任する時もある村役場の助役の話では、午前と午後の中程とのことだった。客たちはいつ来るかもわからないバスを今か今かと待ちわびて頸をキリンのように長くしている。それから誰も何も話す者もなくなりストーブの上で蒸発皿がたてるシュンシュンという音だけが室内に響く。何度も助役が水を注ぎ足し幾度お湯を鎮めても、村人たちが貧乏ゆすりに疲れ、居眠りを始めてもバスは来ない。父はわたしの隣でため息をついたり、一日五本と決めている煙草をポケットから出したり戻したりしている。そんな時、バスの到着を報せる助役の声が上がる。それは村巡りの便で、いっせいに村人たちの土色の顔が生気を帯び、雪の舞い込む中、一同は入口に横付けにされたバスにぞろぞろ乗り込む。わたしたちの方を眺め、ひそひそと話をしながら、笑いさざめきながら。それからあれはどれほどの時間がたった時であったろう。あたりが夕暮れ深い青みに染まる頃、父の肩を叩く者がいることにわたしは気づく。顔を上げるとそこには例のごとく助役が立っていて、哀れむようにわたちたちに告げる。本日の街行きのバスが運行休止になったと。そしていつものようにホッと安堵の表情を浮かべながら父は煙草に火をつけ、わたしに向かって淋しそうに微笑む。ぽぽぽぽぽ、と煙りの輪をいくつも吐いてみせながら。
窓から見える村にはまた雪が降っている……
前世の子
許しを乞う 苦しみを祈る
誰も立ち入れないような酷い曇天が
僕ら二人だけを世界に取り残した
遊具は茨の迷路ひとつ
そのせいで僕らはいつも血みどろだった
こんなところに僕を置き去りにして
君は今どこにいるのだろう
疲れ果てて眠る君がいる
奥深く進んだ行き止まり
僕は今も探しているのに
幼い頃の前世では
僕ら手を繋いで夜の砂浜を走った
荒れた天気ばかりでその頃も人はいなかった
冷たい波がくるぶしをつかむ
ああ僕は隣を振り向いた
黒い潮風が何本も通り過ぎて
僕の手は空をつかんでいた
夢から覚めれば
ここは穏やかな午後で子供たちの声がした
(許しを乞う 苦しみを祈る)
今どこかにいる君が
もし真黒な世界に打ちひしがれているのなら
思い出せないような光る過去を
君におくる
自然と人が一体に見えるひとつのケースを考えました | しろねこ社への推薦文
推薦対象
雪待合室
by 須賀章雅
「厳しくて淋しいけどあたたかさがありますね」では済まなくて、あたたかさがないはずはないけど厳しさ淋しさが圧倒的に勝つ、抒情的な作風なのにあまりにリアルな辛さをもったお話が寒さとともに身に沁みました。わたし自身が風情や抒情性を提示したいとき、気を抜くとすぐ装飾過多な描写になってしまいます。こちらの作中では気取った感じが少しもしない、説明的でさえある素朴な文が訥々と続いていくのに、こんなに五感をともなうゆたかな情景が浮かんでくるなんて、意気消沈してしまいそうです。
お父さんの人物像や、主人公にとってお父さんがどのような存在であるかが、儚く危うげに感じられました。全体的に、彼は主人公にとって頼もしい支えというより支えるべき相手という印象があり、その気持ちのなかから排除できない要素として(主人公にとっての)負担であるのかなというふうにも思います。けれどもラストの「ぽぽぽぽぽ」で、読んでいるわたしとおなじように、主人公もどこか救われているのではないかな、そうだといいなという気持ちになりました。また、あんなに心待ちにしていたことが台無しになってしまって「安堵の表情を浮かべた」ことについては、もしかすると主人公への思いやりであるかもしれませんが、いわゆる報酬系機能をじょうずに利用できないわたし自身にとって、(意図とはちがうだろうと思いつつも)なんとなく共感できることでもありました。
主人公には、お父さんとともにいるあいだはお父さんとともにいることによる孤独が、お父さんを失えばお父さんを失ったことによる孤独が、待っているのかもしれません。けれどもそれは、良し悪しや幸不幸の結論を与えられるものではなく、あるいは良くも悪くもあり、幸せでもあり、不幸せでもある。わたしはこのお話を社会派作品として評価しようと考えていたわけではないのだけれど、こうして書いているうちに、厳しい淋しいと感じた背景には「あたたかい」と形容するのも浅はかに感じられるような営みがあるような気がしてきました。あるいは雪深い土地をしらないわたしにとって、雪深い土地の冬がもつ重みを、感覚的に伝えてくれるように感じたのかもしれません。
また、地名や年代などの具体的な説明がなく、登場人物たちが置かれている環境の経緯にも言及がないなかで、どこにどうリアリティを置くかという判断が巧みといいますか、リアリティを感じさせることそのものがすごいことだなと思いました。
わたしの感じ方は須賀さんの意図とはかならずしも一致していないと思いますが、まったく的外れな読解であったとしても、多様な要素・側面においてすばらしい作品です。
家出します
家出します
私は••••••
男の家へと転がり込んで
一緒に寝た夜に
パチンコを打つとき
彼の笑顔に
幸せを感じた
家族なんて
学校なんて
監獄よと
言い捨てて
冬の季節に
私探し
しています
[い]いきものの詩
熱が過ぎていく
水を携える
花になっていく
今を見てる
ただ過ぎていく だけじゃなくて
始まっていくものを知っていく
ただ溶け出していく だけじゃなくて
さよならをそっと告げている
誂えた寝床で
少し夢を見て
準えたやり方で
祈るふりをして
時が巡っていく
屍に成る
息を繰り返す
今を生きている
ただ揺れている だけじゃなくて
募っていくものを眺めている
ただ造っている だけじゃなくて
知れず身勝手を繋いでいる
さよならを告げている
[あ]愛憎摘果
さもしいものではありますが、まだ青い真心を届けたく思っております。
酸っぱいものではありますが、咀嚼するほど甘く熟れてゆくと考えています。
恥じらうものではありませんが、いつかは渋くなって吐き出すことでしょう。
消えゆくものではありませんが、ふと恨みを込めて口元を痛めてしまうでしょう。
あなたを彩らせるためのもぎ取られるものたちの中に
あなたを傷つけるものだけを除去してしまうのはあまりにも切ないものではないでしょうか
誰のためでもないあなたのための果実の中の虫食いを私が土へ落そう
落ちた果実から種が芽吹いて開いた花はあなたのためだけに咲いたのだと誇ってもいいんだよ
あなたの側にいなくなった私の処遇を隠し去って、あなたの歯車になれればそれでいい
遠い未来のドライフルーツの私は糖度のない苦い口当たりにならないよう、涙の粒を間引いている。
「ドメイン停止考察」としてのクリエイティブ・ライティング
この文芸投稿サイトは5月末で閉鎖になります。
理由はまーくんの足が臭すぎるからです。
・
・
・
悪ふざけの投稿と断じるのは容易い。だが、私には単純に切り捨てられない背景があった。
まーくんとは誰か。その人物の足の臭気と、サイト閉鎖とのあいだに、いかなる因果関係を想定しうるか。理由が理由として成立するための論理条件はハナから放棄されている。理由が明記されていながら、理由について考えること自体が忌避されており、私は上述の二行を閉じた文章だと感じた。
あるいはこれを一笑に付すこともできたのかもしれない。
だが、それができなかったことには理由がある。この投稿を行ったのが、ほかでもない「伝説のしこたま詩人」だったからである。
このところ、私が参加している文芸投稿サイトでは、「伝説のしこたま詩人」という謎のアカウントが運営を乗っ取ったらしい、という噂で持ちきりだった。規約やマナーにうるさいはずの場で、彼の横暴だけがなぜか不問に付されていたからである。誰かが注意すれば炎上し、誰かが黙ればそれが「理解」とみなされた。
伝説のしこたま詩人は、あらゆる投稿作品に対して「中々のしこたまですね」といった、意味の判然としないコメントを残す。それを批判した者には、サイト内外で執拗な罵倒が飛ぶ。投稿をやめるまで、あるいはやめた後でさえも、追撃は止まらなかった。批判を許さず、集団で言葉を浴びせかけ場から追放する。その有様は、さながらカルト宗教のようでさえあった。
気づけば、投稿サイトは、しこたま詩人とそのシンパしか残らない場になっていた。残った者たちは、彼の言葉を読み解き始めた。「しこたまの輝きですね」が最上位であり、「しこたまが微笑んでいます」「中々のしこたまですね」「しこたま読みました」「これのどこがしこたまですか」といった順に評価が下されているらしい、という考察まで共有されるようになった。
しかし、しこたま詩人の挙動には逐一、反応するくせに、サイト閉鎖は話題に上ることもない。この場所は、しこたま詩人に気を遣ってまで参加したがる者にとってさえ、すでに閉鎖を惜しむ価値を失っていたのだ。
私はその光景を、強い不快感とともに眺めていた。
私は、自分では真面目にやっているつもりだった。いや、真面目というより、文芸投稿サイトという場に対して利他的であると信じていた。
気合いの入っていない投稿者を見つければ、もっと考えて書けと態度を変えるまで説教してあげた。文芸投稿サイト外で、他の投稿者に軽薄なエアリプを飛ばしている者がいれば、サイト内外で痛烈に批判し更生を促した。ろくにコメントも書かず、配信やツイキャスにばかり熱を上げる者がいれば、放送中に怒鳴り込んだこともある。嫌われる行為であることは分かっていたが、それでも私は空気を読まずにやった。表現者とは、予定調和を壊す者であり、文学とはそのようにして守るものであると信じていたからである。
だからこそ、5月末のサイト閉鎖について、私は深刻に考えざるを得なかった。
しこたま詩人が場を掌握しているとはいえ、創業メンバーの一人がドメインを所有しており、その人物が5月で更新をやめる、という話が出回っていたからである。その人物は、規律やマナーに厳格な制度設計を行った張本人であり、しこたま詩人の振る舞いを強く嫌気しているとも聞いていた。
つまり、この二行は冗談でありながら、予告でもありえた。
理由はいい加減だが、結論は異様なほど強固である。そういう、もっとも食えない構造を宿した宣告だった。
私は創業メンバーの一人であり、ドメイン所有者でもある「花緒」という人物に連絡を取った。閉鎖は本当なのか。継続の意思はないのか。既存のドメインを捨てても、また誰かが新たにドメインを取得すれば済む話ではないのか。何が背後で起こっているか投稿者の立場からは伺い知れないが、しこたま詩人を排斥したいなら、私も協力できる。
しかし返ってきた言葉は、予想外だった。
「最初に言っておきますけど、私は閉鎖に賛成です。あなたみたいな人が跋扈するのは、単純に不愉快なんですよ。軽蔑しかしていないですし。あなたみたいな人って、要は足が臭いだけ、みたいな話じゃないですか」
まったく意味が分からなかった。
不愉快なのは、しこたま詩人ではないのか。私は食い下がった。
花緒は銀縁メガネを掛け直し、少し黙ってから、こう言った。
「私からすれば、しこたま詩人の方がまだ救いがあります。親切な人間には親切を返す。協力する人間を無駄に傷つけない。最低限、その程度のプロトコルは守っています」
そして花緒は続けた。
「あなたはその逆です。協力されると、協力のやり方が悪いと言って相手を攻撃する。貴方には自覚がないでしょう。
例えば、久しぶりに投稿してくれたユーザーに、もっと活動しろと怒鳴り込む。まだ投稿間もない初心の者に、経験が足りないと罵倒し粘着する。それを文学的正しさと主張し疑わない。もっと俺に近い立場に立ってくれと騒ぎ立て、ますます相手を遠ざけてしまう。
平たくいうと、遊んでほしい相手に悪態をつく幼稚園児と同じです。そのレベルの低次元の悪癖に文学という名を与えること自体が、既に文学的ではないのですよ」
私は納得できなかった。
花緒によれば、しこたま詩人は荒らしだが、私のような人間は「運営する責任は引き受けないくせに、支配欲だけが肥大した迷惑投稿者」だという。捨て地を荒らして楽しむ者と、他者に理想を強要する者。そのどちらもが、場にとって迷惑でしかない。
「あなたは、真剣な人間だけが残る場を望み、実際に他者を排斥してしまう。でも、その姿勢自体が既に真剣さから外れていることに気がつかない。貴方に任せれば、しこたま詩人以上に人が減り続け、場が閉ざされていくでしょう」
花緒は一拍おいて、こう言った。
「そして、何もなくなったあとには、あなたの足の臭みだけが残るでしょう。Bye」
私は激怒した。
支配欲をたぎらせ、自由であるべき文学の場に秩序を持ち込んだのはお前だろう。その反動として、しこたま詩人のような荒らしが湧いたのではないか。何の実力もなければ、実績もない。そもそもお前は文学を必要ともしていない。ヨン・フォッセもフォローできていない程度の文学的素養で、ドメインを盾に規律を語る、このポンカス野郎が!
その後のことは、もう考えたくない。
私には、田伏正雄、すなわちまーくんという名の巨漢の友人がいるのですよ。彼の足の匂いをあなたに嗅がせてあげたい。それが私の文学的正しさなんです。花緒は確かに、そう言い切った。私もあなたに輪をかけて利他的なんですよ。銀縁メガネの奥に潜むその目は、もう完全に異常者のそれであった。
それからというもの、私の部屋から、私の持ち物から、あらゆる場所から、足の臭いが立ち上るようになった。どのような手段で、どのような執念によって可能になったのかは分からない。ただ、どこにいても吐き気が止まらなくなった。
私はもう文芸投稿サイトには関わらないことにした。
理由はまーくんの足が臭すぎるからです。
帰り道
雨が降ればいいのに
雨が降れば、泣きたいのをこらえなくていいのに
雨の冷たさと涙の暖かさが分かるのは自分だけ
自分〈らしさ〉
運動会で 自分より
先にゴールを 越えたのは
この六年は スタートの
ピストルの音 だけだった
一位の賞状 渡す校長
嬉々とした 両親の表情
万雷の拍手の中
階段を下る 僕が
手に入れたのは 〈らしさ〉
できないことの 口実に
苦手を避ける 交渉に
切っても 減らない 便利なカード
不思議な効力 守るため
脚を回して 腕を振る
中学最後の 大会で
先にゴールを 越えたのは
僕の背中を 追いかけて
陸上始めた ヤツだった
一位の賞状 渡す会長
受け取るアイツに 沸く会場
地面を打つ 秋雨の中
階段を下る 僕の
手を落ちたのは 〈らしさ〉
できることの 証明に
得意を選ぶ 確信に
使えるだけの 不便なカード
削れたバフを 隠すため
ちぎってポッケに しまい込む
周りと創る 自分像
これ以上 傷つけぬよう
よぎる棄権の アプローチ
才能・努力の ゼッケンが
剥がれかかった ユニフォーム
掴んで胸に 引き寄せた
鼻を刺す 汗の臭いは
苦々しい 失敗
痛々しい 後悔
忌々しい 敗退
その奥に うっすら香る
愉しさ
嬉しさ
面白さ
快と不快が ミックスされた
匂いがホントの 僕〈らしさ〉
抱えたまま走る 自分は
新しい ゆえに 誇らしい
高校最初の 大会で
先にゴールを 超えたのが
僕になること 夢にみて
今日もラインに 置く両手
聖体なき受肉(天井の うつくしいもの)
北の果て、国境の街ではなぜか、
カンツォーネが響き渡っている。
マツキヨで買った胃腸薬の止瀉成分を調べたい。健康志向とは真逆の嗜癖によるものである。いつもの如くスマホも持たず出てきたようだ。
考え事をしながらコンビニまで歩く途中で見上げた空が、
いつかの旅路と繋がっているような錯覚に囚われていた。
駐輪場から電動アシスト自転車による再出発を図った記憶と、4時間前にLINEの既読をつけた記録がある。
サンクトペテルブルク、不凍港の役割、眠らない港で番をする者、完全なる意識消失の手前、氷点下の街では吐息の長さと唇の厚み、余計なひと言が敗戦者を暖炉で炙り出す。
ー連想をやめない脳に閉じこもってキーワードを拾っていただけのはずが。周囲はすっかり暗くなっており、駐輪場から2km以内を私は小径サイクルでグネグネと小刻みな蛇行を続け、さいわいか、大幅な脱線もないまま。
冷えのせいで線状にさしこんだ腹痛に急かされ、手に取った薬を
飲み干すためだけの水を求め、
Sans ristorante・サイゼリエ大聖堂の軽い扉を引いた。
早速、ドリンクバーとフォッカチオだけ頼んだ罪が、罪状リストに追加されたようだ。
スタッフの女子により、提示するQRが読めず手間取らせた旨も追記されている。字が可愛い。
と脳内でタイプする音が聞こえるようだ。
二杯目のカフェオレを飲み干す頃には後頭部がすっかり新雪に包まれ、
釧路、ナポリ、択捉、フィレンツェのあわいの街では、語尾を「サイゼのおいしい水」と共にデロンギ製の銀色の箱で溶かし込んでしまう。これは演歌の歌詞か。北国の春?襟裳岬?
不凍港の止瀉。休戦にも似ている。暖炉、ウォトカ、グラッパ、甲種乙種、、、
散漫の極みで連想を続けていた回路にもどうにか糖とカフェインが供給され、
視界は狭まり、焦点が遠くなっている。
気を抜くと変な中年が虚空を見つめており、簡単に公衆良俗に反するのだ。
スマホを持ってくればよかった。
他人と関わっているフリができるから。
聖堂では伝票とボールペンを駆使すると罪状が増えるから。
読みかけの八木重吉『うつくしいもの』を持ってくればよかった。
天井でラッパを吹くミケランジェロ的天使を見て、いや、宗教体験とサイケ、fMRIによる測定データ群をなんとかっていう海外の論文の、GPT-5.1 thinking に訳してもらった章の……と思い巡らす。
♪嗚呼北の街では 後悔ばかりを鴎が 嘴でかすめ〜
そんな歌詞はない。
国境の、また隣の国との境にはローマ風の教会があり、
ピザなどという食べ物は存在せず、
ピザを食べたこともない誰かがネトフリで観た
「シカゴピザ その歴史」というようなタイトルのドキュメンタリー映像を見ながら
書き起こした文章を、
料理などは目玉焼きが関の山、の溶接工が、材料だけは揃った台所で拵えたようなものがピッツァとして供される。
―それを聖体なき受肉と呼ぶ。
天井では赤子の天使がふたり抱き合って、
空想癖の人間、それも人より首尾が悪いせいで罪状リストがやや長い者を笑っている。
セビリア大聖堂を臨むホテルの部屋番号は1783だっただろうか?
サイゼのメニューの1969番めがロペラミドならば シロシビンは1958に位置するだろう。歴史になぞらうのならば。
国境の街では、個人の代表として領土について語らなくてはいけない時、足元で根雪の層を踏み固める自らの爪先を呪ったふりをしなくてはいけない。
チーズフォッカチオにオリーブ油とホットソースをかけてシカゴ風ピザを再現した罪が追記される。無責任のツケが重い。
きっと再び電アシのペダルを漕ぐ頃には、また自分の輪郭など溶かしてしまいたい。
鐘が、鳴ったような気がする。
―サラミ無き受肉、または天ヌキの天使。
𝚂𝙷𝙸𝙽𝙸𝙶𝙸𝚆𝙰 𝙻𝙰𝚂𝚃 𝙱
2026/01/27
XXX - キスキスキス -
宝石みたいな星屑のブーツ 履いたなら 空を飛んで
貴方に逢いに行けるかな?
あたしはここよ こんばんは
降り立つ時に貴方は目を細める
だって あたしは目映いもの そうでしょう?
相思相愛
ふたりほど輝いている星は 今のところ知らないけど
このブーツ、可愛い?
あたし 夜空のtwinkle twinkle starを揃え、6年かけて作ったんだ キラキラブーツ
貴方が去年、プレゼントしてくれたロングブーツと並ぶほど素敵でしょう
逢いたい気持ち こんなに光 放っても なかなか逢えないね、ふたり
あたしは靴職人になり ゆうべやっと創り上げた
不死鳥ですから優雅に翔びます
あ、2足分あるよ
はい、どうぞ
大きな翼で包んでねダーリン
お祭りみたいに笑いましょう
https://i.postimg.cc/gkfZ9Zsn/XXXkisukisukisu.png
恰幅のいい彼 中
窓を少しだけ開けると、昼に食した「むらはた」のパフェの残り香が、体内の細胞ひとつひとつを包み込んでいるような錯覚に陥った。 タカノや千疋屋といった、東京の記号化された高級フルーツ店などは、まったくお話にならない。あちらにあるのは「ブランドという名の虚飾」だが、むらはたのパフェは「鮮度という名の暴力」だ。その芳醇な残響の中でまどろむ時間は、千金に値する。
ふいに、隣で丸まって眠っていた「家元」がむっくりと起き上がった。世襲という名の重圧を背負い、完璧な調和を求められる日常から逃装してきたこの男は、寝起きの、いわゆる「チー牛」のような幼い面立ちをさらに崩し、所在なげに目をこすっている。
「……行くか」
私は彼を助手席に乗せ、香林坊の喧騒を突き抜けて犀川の上流へと車を走らせた。
目的地は大桑(おおくわ)。室生犀星がかつて「黒い淵」と記し、その底知れぬ深さを畏怖した場所だ。川底には甌穴が点在し、水流は複雑な渦を巻いて、獲物たちを深淵へと誘い込んでいる。ここは、今も第一級の鮎のポイントだ。 河原に降り立つと、家元はさっそく、毛鉤のケースを開いて苦悩し始めた。その指先は、一輪の花に宇宙を込める繊細さを持ちながら、今は一分にも満たない小さな針の選択に、存在のすべてを賭けている。
「青ライオンでいい。バリエーションの赤ライオンなら、今の水色にぴったりだ」
私の安易な提案に対し、家元は眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ、その幼い顔を嫌悪に歪めた。
「……安直すぎる。お前の審美眼は、たまに市場の海鮮丼レベルにまで堕ちるな」
素晴らしい。我が友人ながら、その徹底した拒絶こそが、私たちが共有する「美意識という名の不治の病」の証だ。彼は自力で、その瞬間の「正解」を導き出した。
私たちは、竹竿を繰り出した。 ここでカーボンの竿を使うのは、無作法というものだ。カーボンの高弾性は、水中での違和感を瞬時に鮎に伝えてしまう。鮎が毛鉤を「なめる」その瞬間、カーボンは反発し、鮎は驚いて口を離す。だが、漆の被膜を纏った竹は違う。 もぞもぞ、という微かな手応え。
「上げるなよ、待て」
私は家元に囁く。竹竿は、鮎に違和感を与えない。むしろ、鮎の口腔に吸い付くような柔らかな抵抗を維持する。だから鮎は毛鉤を離さない。名手と呼ばれる人間は、ここで焦って竿を煽るが、それは「構造」を理解していない者の仕草だ。 待てばいいのだ。そうすれば、竹の繊維が鮎の生命と共鳴し、ぐーんと竿先が川面へと引き込まれる。鮎が毛鉤を完全に「喰った」証拠だ。 大桑の黒い淵で、私たちは奈落の底に引き込まれるような、圧倒的な生の実感に酔い痴れた。
夜。街へ戻った私たちは、地元民しか足を向けない、ひっそりとした佇まいの寿司屋へと向かった。若旦那の紹介がなければ、この暖簾をくぐることは叶わなかっただろう。 本来なら、家元の友人のテレビ局の人間たちが合流するはずだった。親のコネで局に入り、ADの泥仕事など一度も経験したことがないくせに、局の看板に守られながら「忙しいフリ」だけは一人前の、しょうもない、でも苦労を知ったゆえの屈折したところがまったくない若者たちだ。彼らが欠席したおかげで、今夜の空間は純度を保つことができた。
私は、カウンターの向こうに座る老いた大将に告げる。
「さわら、切ってください」
金沢で「さわら」と言えば、マカジキのことだ。家元もそれに倣った。
ほどなくして、付け台の上にオレンジ色の厚い刺身が豪快に並べられた。その艶、その脂の乗り。
「いいカジキは、豊洲から金沢に直接入ってくるんですよ」
大将が誇らしげに言う。人形町や神田の老舗で供されるそれよりも、遥かに瑞々しく、生命力に溢れている。こういう本物は、このくらい無造作に、豪快に供されるのがふさわしい。
家元は一口運ぶなり、その表情を恍惚へと変えた。そして、彼の欲望に火がついた。
「……がすえび、ください」
地元でしか出回らない、足の早い、それゆえに禁断の甘みを持つ海老。
家元はひとたびその味を知ると、幼児のような執着を見せ始めた。
「全部だ。ケースの中のがすえび、全部食っちゃおう」
おいおい、と私は心の中で苦笑した。ここは若旦那の紹介で入った店だ。あまりに下品な振る舞いは控えろと言いたいが、家元の「内圧」の噴出は止まらない。大将はそっけない顔で頷き、無言のまま次々とがすえびを握り始めた。 甘い。あまりにも甘く、そして儚い。二人でケースの中のがすえびを文字通り完食した。
満足げに息をつく家元を見透かすように、大将が最後に問いかけた。
「トロの手巻き、どうです。……まあ、ボストンのマグロですがね」
金沢の寿司屋は、原則としてマグロを置かない。夏の能登で上がる地物を除き、わざわざ豊洲から引く必要があるほどの魚とは、考えないからだ。だが、この大将はあえてボストン産を差し出した。 おそらく観光客用に仕入れていたのかもしれない。私は家元を見た。
「がすえびを食い尽くしたんだ、これくらいは付き合え」
地球の裏側から届いたトロでいっぱいの手巻きを、私たちは一気に頬張った。脂の重厚な旨味が、先ほどまでのガスエビの甘みを上書きしていく。
満腹になり、席を立つ。 最後に手渡された会計の記された紙片には、私たちが費やした贅沢と「食い尽くした」蛮行を考えると、あまりにも控えめな金額が記されていた。 金沢という街が持つ、格子の内側の深い優しさに、私たちは静かに包まれていた。
テレビマンたちへの土産の折詰をもらう。
店を出ると、夜の空気はいくぶん涼しさを増していた。
「明日は4時に出るからな」
私は、まだボストンのマグロの脂を舌に残している家元に向かって、「遊び」の続きを語り始めた。
雪まろげ
妻を転ばせ雪の上
ころころ転がせ肉の玉
ころころ転がせ雪の玉
ころころ丸まる妻の玉
ころころ転がる雪だるま
ころころ転がる雪の原
妻を転がし雪のお遠足
オニギリころころ妻をごろごろ
まんまるお月さん、いま昇る
ウサギの足跡追いながら
妻を転がし雪の果て
月まで転がせ雪まろげ
転がりつかれて雪の上
転がしつかれて雪の上
まんまるお月さん、いま笑う
くるくるかわる雪もよう
ぐるぐるまわる目がまわる
妻が転がす雪だるま
わたしを転がす妻の足
ころころごろごろ雪の坂
ごろごろ転がり飛んで行く
融けながら静かに笑う雪まろげ
泣き笑い静かに崩れる雪まろげ
今は冬?わたしはいつまで雪だるま
掌編噺『ワニの足のはなし』
※保育園の我が子に質問されて、答えたおはなしです。
そのくらいの年齢でも分かりやすいかな……と思って噛み砕いたので粗があるかもしれません!
(我が子)Q,ねぇ、どうして『ワニは4本足』なの?
(パパ)A,えっと、それが『ちょうど良かったから』だと思うよ。
昔は、もしかしたら今と違って1本足だったり、2本や3本足、いやもっともっと足が多くて8本足のワニが生きていたのかもしれない。
(化石が見つかっていないだけでね)
でも、今の動物園とか図鑑で見るワニはみんな4本足だね。どうして他のワニは生き残れなかったのかな。考えてみよう。
まずは4本足より少ない場合。
1本足や3本足は、まず歩きにくい。上手く進めないね。敵から逃げるのも大変だし、食事のための獲物を捕まえるのだって難しいよ。
ワニは恐竜の時代から、生きているね。(生きた化石とも呼ばれているよ)
その時代を生き抜くためには、歩きにくい身体じゃダメなんだ。動きの遅い個体は、食べられてしまって生き残れない、だから1本足や3本足のワニはいなくなった。
2本足は奇数本の足よりは動けるかもしれない。でも、やっぱり不便だね。ワニが生きていたのは、沼地や水辺みたいな、障害物が多いところだから。
次にもっと足が多かった場合。
じゃあ、タコみたいに足が8本あったとしよう。
(想像すると少し気持ち悪いけれど)
まあ、移動は出来るはずだ。進む姿はムカデみたいで背中がゾワゾワして嫌だなぁ。
獲物は捕れるだろう。
でもね、足が多ければ多いほど身体も大きくなると思わないかい。
身体が大きければそのぶん、たくさん食べなければ元気じゃいられないよ。
だけど、さっきも言ったけど恐竜と同じ時代だ。
奴らはあの時代の最強のいきものさ、奴らを出し抜いてたくさん獲物にありつくのは簡単なことではなかったはずだよ。
つまり、たくさんの足を持っていても生き残れなかったというわけ。
だからパパは、4本足のワニが生き抜くためには『ちょうど良かった』と思うんだ。
『ちょうど良かった』から今までずっと変わらない姿で生き抜いてきたんじゃないかな。
もう少し、大きくなったら一緒にお勉強してみよう。
******
こんな感じのことを、話しました。
『ちょうど良い』って普通のことなのかもしれませんが、長い歴史で見ると絶妙なラインを攻めた結果なのかもしれませんね。
詩とも、物語ともちょっと違うタイプのおはなしなのでした。
(了)
鯨の音
この鯨の背から望む黝い海はいつ果てるのかとんと判らないのだが、僕たちは進まなければならないのだ。ときたまに視界を滑空する海鳥たちは果たしてどこでその羽根を休めるのか、僕は夢想しながら隣の少女に目をやる。白い衣を纏う少女は虚ろに視線を泳がして、すこしこの鯨の背から身を乗り出して海水に手を浸してみたり、伸びた僕の髪に手を触れたりするのだが、僕が話しかけてもただ黙すのみだった。鯨の尾には太く長い縄でもって函が括りつけられていて、しかしその函には決して海水が触れなかった。そのため函は海水除けて部分的に海を裂き、海底に触れてガタガタと音を立て続けていた。その音から察するにどうも函の中には石板様の硬い何かが入っているようなのだが、なにしろ函は遠く海の底で鳴っているのだ、僕たちがその中身を確かめる術はなかった。
鯨には餌をやる必要があった。ときどき鯨は高音とも低音ともつかない不思議な、しかし不愉快でない声を鳴らして餌をねだる。陸地の見当たらないこの世界で僕たちがどうやって食糧を得るのかといえば、それは空から降ってくるのだった。僕たちが腹を減らしたとき、また鯨が鳴くとき、きまって空から乾いた、白いパンのようなものが鯨の背に向かって降ってくるのだ。そうして僕たちはそれらを頬張ったり前方の海に投げて鯨にやったりする。このとき、このパンのようなものはきまって鯨の背に向かってしか降らない。したがって、僕たちの眼に空からパンのようなものが降ってくるところがうつるとき、その空の下には僕たちとは別な鯨とひととがいるに違いないのだった。飲み水はといえば、鯨の背に育ってもはや岩のようになった藤壺の塊を——はじめ藤壺はまだらに鯨の背にあるのみだった、この藤壺の大きさは僕たちの航海の時間を物語っている——拳でコン、と叩くと水が溢れ出てくるのだった。僕と少女とはその水を両手で掬って飲むことで渇きをしのいでいた。
*
ひとびとにとって空を飛ぶのに邪魔だと目されたもの、たとえば電柱や電線など、およそ中空での視界を遮られると見做されたものは先代のひとびとによって悉くその名を唱えることで取り尽くされた。同様にしてひとびとが空を飛ぶにあたって憤ろしいと感じられるもの、たとえば連嶺や懸崖など、およそ天空からの風景を害すると見做されたものもその実在を奪われた。また先代のひとびとは肩甲骨が翼の名残であると信じていて、実際に幾人かの若者は最先端の言葉——いまおもえばそれは烏滸がましいことこのうえないものなのだが——によって背中から翼を生やして空を飛んでいた時代があったらしいのだが、天に近づいた彼らは悉くその翼が発火して堕ちていったという。彼らは天蓋を目指して一心不乱に言葉でもって目につく物を次々と取り尽くし、遂にはこの果てるともおもわれない海、ときたまに視界を横切る海鳥、そしてこの鯨と僕たちのみが残された。
*
炸裂音がする。遠くで、あるいはそう遠くないところで、なにか巨きな、あるいはそう巨きくないものが爆ぜるような音。そのたびに波動する僕たちはしかし進まなければならない。
生成したり滅却したりする力を言葉はとうに喪っていたから、僕たちは好きに話すことができた。かつてあった生活や建築物の話だ。といっても専ら僕が喋るのみで、少女は一言も発さず、分かりにくいジェスチャーのような仕草で僕に相槌のような動きをしてみせるのみだった。海鳥が少女を通り過ぎることがあった。海鳥は少女の肩口から逆側の脇腹へと抜けてまた空へと舞い上がり、ちょうど海鳥の這入ったところの少女の肩口は瞬間はっきりと黒ずみ、海鳥が見えなくなる頃にはその滲みはぼやぼやと消えてゆくのだった。痛くないの、と僕が尋ねたり、冗談を言いながら僕が少女の髪を梳いたりすることもあったが、少女は喋らなかった。
他の鯨とその背の上のひとと海上ですれ違うことがあった。数える程度しかそのようなことはなかったが、きまって一頭の鯨につきその背に乗ったひとの数は二人、性別は男女が多かったが、そうでない場合もあった。生き残りのひとに出会えることは少ないから、そのようなとき僕は彼らに大きな声で話しかける。彼らもこちらに気づいて声を発するのだが、その声は誰の場合でも、いつも何とも言えない奇妙な仕方で発されていて決して聞き取ることができなかった。僕たちはそうしてお互いに言葉を交わすことができないままに行き過ぎるのだった。この世界では少女が喋れないものなのかといえばそうではないようで、こちらに向かって声を発するひとの中には少なからず少女もいた。逆にこの僕の隣の少女と同じように、ぼんやりとして黙すのみの男もいた。
*
雨があった。雨風をしのぐ手段はなかった。だから僕は少女に覆い被さった。濡れた僕の背中から垂れた水滴が衣の裾から少女を濡らしていくのを見ながら僕は僕の体の冷えるのを感じて、ひとつ咳払いをした。
日照りがあった。湧き出す水は足りなかった。だから僕は僕の飲む量を少なくした。少女が暑さでぐったりとしているときは僕が少女に水を飲ませることもあった。
寒さがあった。暖を取る手段はなかった。だから僕は僕の衣を少女に着せた。少女がふるえているとき僕は少女を抱きしめた。体温の混ざる感覚を僕は忘れなかった。
嵐があった。長く止まなかった。こういったとき僕たちは嵐の行き過ぎるのをただ待つのみだった。しかし今日は少女の様子が違っていた。泣いていた。大粒の雨が降り注いでいた。そう見えただけなのかもしれない。しかし僕には確かに少女が泣いているように見えた。
僕は少女を抱き寄せた。冷たかった。大丈夫、と僕が声を掛けたとき、少女の左腕がぐしゃり、と崩れてもげた。僕は強く抱きしめた。
少女は右手で僕を突き飛ばして海に落ちていった、爆発音がした、底の方から、僕は、中空に打ち上げられた――
*
目覚めると僕はゴツゴツとした場所で白い布を纏っていた。鯨の背の上に僕はいた。隣には海に落ちていった少女とは違う少女がいて、僕に喋り掛けてきた。僕は返事をしようと試みたのだが、声が出なかった。だから僕は身振り手振りでジェスチャーのようなことをしてそれを相槌とするしかなかった。その新たな少女は薄青い布を纏っていて、饒舌だった。この世界が海と、海鳥と、鯨と、僕たちのみになってからの歴史を少女はよく知っていた。曰く、僕たちは番いになって鯨を育てなければならない宿命にあること、失敗すれば鯨は爆ぜるということ、鯨が育つ条件は餌をやることだけではないということ、僕たちは進まなければならないということ——滑らかな語り口を小休止して、少女は僕に尋ねた。前の少女をあなたは少女のためにのみ愛していたか、と。僕は黙した。
少女は話を続けた。曰く、鯨を育て終えたひとびとの国があると。そこは、巨きくなった鯨でのみ辿りつける大陸であるとか、鯨の潮でもって打ち上げられてはじめて天空に張られたそこに行かれる城なのだとか、いろいろな話があるそうだ。
海鳥が僕の胸を通り過ぎた。僕は泣いた。僕を見て少女は、僕の胸にできた黒い滲みをさすって、一緒に泣いた。
見つめて夏のとき
見つめて夏のとき
やってくる淋しさの雫
誰もいない放課後
そっと机に座る
変ね なにか
したと想い
友に語りかけた
青い春よ
遊んでばかり
この静けさに
子供たちが駆けてゆく
リモコン彼女
僕の彼女、リモコン彼女
チャンネル1 僕のカノジョ
チャンネル2 明るいカノジョ
チャンネル3 泣き虫カノジョ
チャンネル4 怒りんぼカノジョ
チャンネル5 ほわほわカノジョ
チャンネル6 ドジっ子カノジョ
チャンネル7 穏やかカノジョ
チャンネル8 不思議カノジョ
チャンネル9 落ち込みカノジョ
チャンネル10 忘れんぼカノジョ
チャンネル11 真面目カノジョ
チャンネル12 最後は何カノジョ。
東京パック 5個口
1. ab
抱きしめたもの
全部ひっくるめて
冷蔵便で送るよ
君にとってはもう
いらないものばかり
かもしれない
2. sakutaro
ああ、私がこの胸に抱きしめたもの
そのすべてを ひとまとめにして
氷のやうな冷蔵便で送らう
受取人たる君の門口へ
それらは 君にとつては もはや
腐敗しはじめた無用の肉塊に
すぎないのかも知れないが
3. chyuya
抱きしめたもの
みんなみんな ひとまとめにして送るよ
つめたい つめたい 冷蔵便
君にとつては もう
いらないものばかり
なのかもしれない けれど
(空には あんなに 月が鳴るのに)
4. takuboku
抱きしめたもの
全部ひっくるめて
冷蔵便にて送るよ
君にとつては もはや
不用の がらくたばかり
であらうけれども。
5. mitsuo
ぎゅっと だきしめたもの
ぜんぶ ひっくるめて
れいぞうびんで おくるよ
きみにしてみれば もう
いらないもの ばかり
かも しれないけれど
だって すてられなかったんだもの
しあわせも かなしみも なまもの だもの
なかほど
おこらないでね(AB)
霊威師のレンリ 旅語り「山の贄」・壱
少年は山道を歩いていた。とたとたと、その未熟ながらも歩き慣れた足取りで。
ただ、その顔はやつれ掛けているように見える。身に着けている衣服は質素で、しかも所々に汚れが付いており、服裾に至っては微かに破れ、傷んでいた。どう見積もっても数日間は歩き続けている様子だった。
「はあ……、はあ……、はあ……」
疲労のせいだろうか。たまに息切れしている様子の少年は、それでも休まずに山道を、否、もはや道とも言えないような獣道を歩いていく。
そうして少年は、しばらくの間に歩き続けて。
歩き続けて。
歩き続けて。
「うっ、く……」
ついには、その場に膝をついて、座り込んでしまった。
「情けねぇ……。オラは、こんなことでっ……!」
少年は足に力を入れる。立ち上がろうと足掻く。だが、その意気に反して彼の身体からは力が抜けて行っているように思われた。それでも彼は諦めずに力を入れ続ける。
足に入れ、腰に入れ、心も含めた身体全てに入れ続けて。
だが。
「……ぐっ」
再び、彼はその場にへなへなと頽れてしまった。恐らく、もはや彼の身体は限界だったのだろう。
そんな自分の言うことを聞かない身体を自覚した彼は、自分を嗤うかのように苦笑すると。
「すま、ねぇ……。おっ母、おっ父、ヒナ……。オラ、七日、ダメだった……」
少年はそっと目を閉じて、どさりと倒れた。
その一瞬前、誰かが少年に対して声を掛けたような気配があったが、もはや彼には、それを確かめる気力すら残っていなかった。全ての意識が闇の底へと沈んで、まるで、ゆっくりと夢に堕ちる時のような微睡みが、彼を包み込んでいく。
そして。
──────。
「……ハッ!?」
突如少年は目覚め、驚きに目を丸くした。
「……えっ?」
その驚いた勢いのままに彼は起き上がると、目の前には焚き火があって、その近くでは、即席の木串を打たれた川魚の開きが二尾分、良い具合に焼かれていることに気が付いた。食欲をそそる匂いが少年の方にも漂ってきている。
すると。
「おっ、目が覚めたかい?」
少年の背後から、女性の落ち着いた声が聞こえてきた。
またもや驚いた彼が振り向くと、そこには、旅装を身に着けた若く麗しい女性が、採取してきたらしい山の果物を手に持って、立っていた。
素人目に見ても旅慣れている事が分かるくらいの雰囲気があるその謎の女性は、しかし、それ以上に少年の気を引いたのは、透き通った星空のような瞳と、夜空のような深い蒼さを持つ髪色だった。
「目の前で倒れたのを見た時はダメかと思ったんだが、いやはや何とも。山に育てられた人間の逞しさと言うべきかね」
その女性は、そのような事を口にして明るく笑うと、少年の横に果物の一部を置いてから、焚き火の向こう側に回って座った。ちょうど少年の対面に位置取る形だ。
「んで、起き抜けに言うのもなんだが。横に置いたそれ、食うと良い。滋養に良いぞ。焼き魚も分けてやろう」
少年は三度驚いて、そのようなことを言った女性の顔をまじまじと見つめてしまう。
女性は、彼のその視線に不思議そうに小首を傾げると、肩をすくめる。
「なんだ? 私ゃ、可笑しなことを言った覚えはないが」
「え、あ。すまねぇ。あんまりにも急すぎて、びっくりしちまった……」
「あー……。まあ、それもそうか。安心しろ。食い物に毒は無いし、私は人さらいでもないさ。行き倒れに情けを掛けるような、単純なお人好しとでも思っておくれ」
「……」
少年は女性の事をもう少し観察しようと思っていたが、突如、自身の腹の虫が暴れ出した音が爆音を轟かせたことで、その恥ずかしさで強制的に俯かされてしまった。
女性が明るく笑う。
「ははは、良い反応だ。ついでに私も飯にしよう。お前も遠慮せずに食え」
そう言うと女性は、焚き火で焼いていた魚を一尾だけ取ると、すぐに食べ始める。
しっかりと焼かれた魚の皮はパリッと僅かに音を立て、ふわっと湯気が立ち昇る。
「……っ」
もはや空腹も限界だった少年は、その音を聞いた瞬間、跳ねたように動いた。
彼は、まず横に置かれていた果物にかぶりつく。芳醇な香りを放つ甘い果肉と果汁が、彼の喉の渇きを潤して溜まっていた疲労感を癒していく。それらを平らげると、続いて焼き魚へ。脂こそ控えめだったが、隅々まで身の詰まった熱々のそれは、少年の空腹を満たすには打って付けだった。
「はふっ! ほふっ!」
熱さに多少手こずりながらも、しゃにむに焼き魚をむさぼる。
その眼からは涙が次々に溢れて、食事の間中はずっと、流れていた。
それから少しして。
「ごちそうさま! 美味かった、有難う!」
食事を終えた少年は、満足そうに笑顔を浮かべて女性に礼を述べる。その頃には、涙もすっかり止まっていた。
「お粗末様。良い食いっぷりだった。見ていて清々しいくらいには」
「あ……」
女性にそう言われてしまい、少年は恥ずかしそうにしてしまう。
そんな彼を見て、女性は明るく笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。真剣さすら漂わせている。何かを探ろうとしている雰囲気だ。
「しっかし、お前さん。何でまたあんな所で行き倒れてたんだい? 見たところ、猟師って感じでもない。遊びで調子に乗って、山の奥にでも入り過ぎたか?」
「……」
「言いたくないかも知れんが、情けを掛けた身の上としては、やっぱり気になってねぇ。それに、この先には用事もある。そう言う意味でもね」
「オラ、は……」
尋ねられた少年は、俯いて、何処か逡巡しながら、ぶつぶつと何事かを呟いて、そして。
「オラは、ニエ、だから。山のニエ、だったから」
それだけを口にして、同時にハッと顔を上げ。
「そうだ! ニエなんだから助かったらダメだ! オラは祠に身を置かないと……うっ」
勢いよく立ち上がろうとして、まだ完全に回復し切っていない身体には力が入らず、再び座り込んだ。
「無理するな。それで、今、「山の贄」って言ったかい?」
女性は落ち着いた声音でそう言うと、話の続きを促す。
すると、少年は目からぽろぽろと涙を流し始めた。
「そうだ。オラは村の、うちの畑を守るための、ニエとして、山の祠に。でも、怖くて。オラ、怖くて。苦しくて。うっ、うぅく……」
「……そうかい」
女性はすっと立ちあがり、泣きじゃくる少年の横に移動すると、その頭を優しくぽんぽんとし、撫でる。
それから少しの間、彼女は少年が泣き止むまで宥め続けた。
「うっ、すまねぇ……。あんたにまた迷惑かけちまった」
泣き止んだ後、少年は恥ずかしそうに苦笑する。
女性は明るく笑った。
「気にすんな。独りきりは誰だって辛いもんさ。それで、山の贄って言ってたが、山には何か神様でも居るのかい?」
「カミサマとかはしらねぇ。でも、おっ父は、ミノリサマって言ってた。村の畑に実りをくれるからって」
「ミノリサマ、実り様か。ふむふむ。んで、そのミノリサマは、贄を捧げることで村に実りを与えてくれるって?」
「うん。長が言うには、オラの村は、たまにそう言うことをしてきたんだって」
「ふぅん? 人身御供の慣習ねぇ……」
「ヒトミゴクウ、ってなんだ?」
「そこは気にすんな。ところで、お前さんの村ってのは、この道の先にある村って考えて大丈夫かい? 私はその村に用事があるんだが」
「あ、ああ。そうだよ。オラの村は、ここから少し歩いたところにあるよ」
「……分かった。辛かったろうに、色々と有難うね。お前さん、名前は?」
「オラはガンキ。ガンキって言うんだ」
「ガンキね。私はレンリと言う。霊威師をやってる」
「レイイシ?」
「ま、そう言うお仕事があるって事さ。神様とか化け物とかとも、喧嘩したり鎮めたりする」
「ほえー、なんか凄そうだなー!」
「ははは。そう。凄いのさ。凄いついでにガンキ。お前さんに村への案内を頼みたい」
「え?」
「嫌かもしれないが、お前さんが居てくれた方が話がしやすいと思ってね。どうだろうか? 駄賃も出すぞ」
「……オラでいいなら」
「決まりだな。夕方前までには着いておきたいから、もう少ししたら発つぞ。それまでは休んどけ。私は片付けがあるからな」
そう言うと女性、レンリは、さっさと使った木串を焚き火にくべると、近くの川へと水を汲みに向かって行った。
少年、ガンキは、その後ろ姿をただじっと見ていた。いや、見惚れていた、と言う方が近いかもしれない。彼はただ何となくだが、そうしていたのだった。
求めれば求めるほど ひらく距離
ほら 喉から手が出てる
惨めなのは どっち
『小さな星の軌跡』第十七話「真冬の観測会」
「え、三学期って観測会は2回なんですか?」とわたし
「学年末テストと春休みになるからねえ。一月末と二月だけかな。先生の都合次第で一回だけかもしれないよ」とは耳納先輩
「えーそんなぁ。せっかく新しい望遠鏡12月に来たのにぃ…」
天文部の何が楽しいってやっぱり学校に泊まって夜通しわいわいがやがや、真面目に星を観察しつつ、いろんな話しに花を咲かせ、そして、ね、静かな時間に考えを巡らすのがいいのに。
そんな事を放課後部室で思っていたら久しぶりに3年の先輩が2人、部室にやってきた。ふたりとも推薦が決まっているのでもう大学入試は受けないらしい。
「やあ、ちーちゃん元気してた?耳納君も」
「基山さんに篠山さん、勉強してる?どんどん前倒しで進むからね、進路とかしっかり考えとかないと大変だよ」
甘木先輩と八女先輩が部室に組み立て出してある新望遠鏡を眺めている。
「おぅ、15センチのカセグレンか、まあまあデカいな」と甘木先輩
「自動導入の経緯台かぁ、いいなあ。耳納君も持ってるんだっけ?」とは八女先輩。
「自分のは9センチのマクストフなんでかなり小さいです、まあ庭でみるのにあんまり大きくても扱いにくいんで、来年無事進路が決まったら中古車と20センチクラスぐらいは買いたいですね。」
耳納先輩は少し照れたように笑った。
(え、20センチ……)
横で聞いていた私は思わず息をのんだ。車とか20センチの望遠鏡とか、ちょっと自分が持つような物って思っても無かったので、耳納先輩が未来を思い描きながら語るその姿に、胸の奥が熱くなる。
「頼もしいなあ。俺が入った頃は地学教室の望遠鏡だけだったからなあ」
甘木先輩が感慨深げに言い、八女先輩も「後輩がしっかりしてると安心するね」とうなずいた。
「じゃあ一月末の観測会はうちら3年生2人とも参加するから、耳納部長は顧問に言っといてくれるか」
「はい、了解です。晴れると良いですね」
「まあ曇ったらそれはそれでちーちゃんの恋バナでも聞き出して最後の高校生活を彩りましょうw」
八女先輩がにやりと笑った。
「え、えっ……!?」
思わず声が裏返る。
耳納先輩は苦笑いを浮かべながら、
「八女先輩、それは本人が嫌がるでしょ」
と軽くたしなめてくれたけど、私の頬はもう真っ赤だった。
(……恥ずかしい。でも、ちょっとだけ、聞いてほしい気もする)
観測会の夜、八女先輩と二人で話す時間が取れると良いな…。
柳川先輩と大川先輩はまだあと1年あるけど、三年の先輩はもう多分観測会はこれが最後。お二人共推薦で大学は決まっているからこうやって時間もあるけど、国立大学狙いの三年生は今からが本番。耳納先輩は何処を目指しているんだろう?
いつまで観測会に来れるのかな?
ちょっと胸が苦しい。
八女先輩に聞いてもらったら、何か答えてくれるだろうか?
–––
そして一月の終わり、土曜日の夕暮れ。3階の渡り廊下には今までの10センチ屈折赤道儀と、真新しい15センチシュミットカセグレン経緯台が並んでいた。
ふうぅぅ、寒いねえ
「ぼちぼち星が見え始めたんで、初期設定しますか」
耳納先輩が自分のスマホに入れた自動導入のアプリで望遠鏡のセットアップを始めた。まずはシリウス、チュイーンとモーターの音が微かに赤みが残る屋上に響く。
先輩は概ねシリウスに向いた望遠鏡を覗きながら向きの調整をとっている。そして次はアルデバラン。そしてカペラ。なるべく離れた星でアライメントを取るほうが、その後の追尾や導入の制度は高くなるのだけど、東の方に雲が出ていて良く見えない。
「とりあえずこれで行ってみるか」
と耳納先輩が呟いた。
自動導入の設定が終わる頃には残照もすっかり落ちて冬の星々が輝き出した。
「じゃあ最初は八女先輩からどうぞ、定番ですがM42を入れますね」
耳納先輩がスマホを数回タッチすると、また静かに望遠鏡がうごきだし、そしてオリオンを向いて止まった。微かに追尾のモーターの音がちりちりと聞こえる。
「わあ~、明るい、トラペジウムもくっきり、良いねえこれ、ふふふ〜〜ん」
八女先輩がちょっとはしゃいでいる。その後ろで甘木先輩がそわそわ。
「日が落ちても制服のままじゃ寒かろうに、みんな一旦降りて私服に着替えてこい。その間責任持ってコイツは耳納と俺とで管理しといてやるからよw」
「あ、甘木先輩で独り占めだ」
っとみっちゃん。
横でちょっと呆れ顔の耳納先輩はほらほら早く着替えておいでと手をひらひらしている。
今日の観測会は三年生の二人を除けばいつも通り天文部一年女子の三人(わたし、筑水せふり)と(篠山三智:みっちゃん)、(基山高瀬:たかちゃん)に、二年女子で生物部掛け持ちの柳川先輩と大川先輩、二年男子の耳納先輩の定番メンバーだ。
八女先輩も加えて女子六人で空き教室のカーテンを引き着替える。土曜日でお休みとは言え学校に来る時はきちんと制服を着てくる事になっている。といってもコートはいつもの学校指定でなく普通に私服のダウンを羽織ってきた。無駄に荷物になるし、顧問の先生にも許可をもらった。
今まではちょっとおしゃれ気のあったみんなも、真冬の観測会とあっては服装がだいぶ実用寄りだ。
ただ部室は十一月の観測会と同様、灯油ストーブを宿直室から借りているので、上着は調節しやすいように重ね着にしている。
さてさて、最新型の威力を見せてもらおうか――と、皆で屋上に向かう。
階段を上って渡り廊下の向こうから、男子二人の笑い声が聞こえてきた。
耳納先輩の笑い声だ。先輩があんなふうに声を上げて笑うのは、わたしの知る限りあまりない。三年の上級生相手で、ざっくばらんで、でもどこか丁寧な言葉づかいの耳納先輩。
去年の大晦日、初詣のとき――たかちゃんのお兄さんで写真部三年の基山先輩も一緒だったけど、あの時、先輩たちはあまり話していなかった。
わたしが横にくっつきすぎていたからかもしれない。
そう思うと、今になって少し胸のあたりがひやりとする。冷たい空気のせいだけじゃない気がした。
渡り廊下に出る扉を開けると、着替えに下りた十分ほどの間に、ぐんと気温が下がったようだ。
みんな一瞬、小さく「んっ……」と息をのんで廊下に出る。
白くこぼれた吐息が、蛍光灯の光にかすかに照らされてゆらめいた。その向こう、校舎の上にはすでに夜が満ちている。
天文薄明も終わり、冬の星座が冷たい群青の空に瞬いていた。
オリオンの三ツ星、天頂にはカペラ。
光のひとつひとつが、凍てた空気の粒に触れて震えているように見える。
先輩たちがこちらを向いて手招きする。校舎の向こうからは、街の灯りや車の音、宵のうちの喧騒がこぼれてくる。それらも日付が変わるころには次第に遠のき、そして――わたしたちの時間がはじまる。
観測会を重ねるうちに、少しずつ覚えたこと。人の営みの向こうに、静かな星の世界があるということ。
甘木先輩も手招きする。
「一年も年末に校庭で月を見ただけだって? 今までの10センチ屈折とはだいぶ違うよ。ほらほら」
大川先輩が笑いながら、
「一年からでいいよ〜〜。私たちは後でゆっくり見るから〜」
と譲ってくれたので、最初はたかちゃんが覗きこんだ。
「わ、」
――短いけれど、声のトーンで分かる。あれは驚きの「わ」だ。
続いてみっちゃん。
「おおぅ、色がわかる。ちょっとピンクっぽい」
むむ、そんなに違うのか。
それでは、わたし。
アイピースを覗いた瞬間、息が止まる。
「うわうわわわわ、先輩これ、これ、くっきり、四重星!!」
冷えた空気の中で、光が細く震えている。 細部まで生きているような光だった。
「ちょっと今のうちに覗いとこうかしら」
柳川先輩が髪を束ねながらやってきた。
「あら、やっぱり結構……これはいいわね。うん、いい」
短く頷く声に、理科室の匂いのような落ち着きがある。
「じゃあわたしもみとこっかな〜〜」
相変わらずふわふわした雰囲気の大川先輩に交代。
「あら〜、これはこれは、この大きさだと色も感じるねぇ〜。偉いねこのコ」
うん、道具をもれなく擬人化するのは、ここ天文部でもよくあることだ。
ちなみに10センチの屈折は“にこちゃん”。
文化祭を見に来ていたおそらくOBの人が、「にこちゃん、まだあるんだなあ」と話していた。
それなりに年配の人だったけど――いつから“にこちゃん”になったのだろう。
そんな昔から、この部には星と一緒に、人のぬくもりが残っているのかもしれない。
–––
「ちょっと冷えてきたし、一旦休憩にしましょうか。先輩達も部室で温まってください。ストーブでおでんできますから」
アルミ鍋に入った一人分のおでんが三つ、くつくつと温められてゆく。
真ん中がいい感じになったので、箸でつついて場所を入れ替える。湯気がふわりと上がって、ストーブの上でゆらめいた。
「先輩達からどうぞ〜」と大川先輩。
「あらありがと、悪いわね」八女先輩が受け取り、
「部室おでんも食い納かぁ」甘木先輩が笑う。
みんな楽しそうに見えるのに、どこかにふとした空白がある。
それは冬の寒さのせいじゃない――
もうすぐこの人たちが卒業していく、そのことを、誰も言葉にしないまま分かっているから。
湯気の向こうで、笑い声が少しだけ揺らいで見えた。
「ねえ、筑水ちゃん」
八女先輩から話しかけられた。
声をかけられた瞬間、ちょっと肩がぴくっとなる。川川先輩たちとはまた違う、二つ上の“お姉さんの空気”がある。
「文化祭、筑水ちゃん頑張ってたわね。天文部と、あと写真部でも」
「え、ええええ、先輩も写真部展のあれ見たんですか? 耳納先輩が大きく引き伸ばして展示しちゃった、わたしのあれ……」
「見た見た。結構話題になってたよ。天文部と写真部、あなたたちってよくひとまとまりで校内歩いてるから、“ファミリー”なんて呼ばれてるの、知ってた?」
「ふぁ、ファミリー……? そ、そんな……」
向こうで耳納先輩が咳き込んでいる。
たぶん、聞こえてた。聞こえてる。
「ふふ、かわいいねえ。あの頃の耳納くんからは想像つかないわ。後輩の面倒見て、頼りにされてるなんて」
湯気の向こうで、八女先輩の目がやわらかく細められていた。
それはからかうでもなく、懐かしむようでもあり――どこか、遠いまなざしに見えた。
「先輩……耳納先輩って、前から、あんな感じだったんですか?」
「うーん……そうね。真面目で、でもちょっと不器用。星のことになると周り見えなくなるから。――気をつけてね、風邪、って意味でね」
冗談めかした笑みが、ほんの少しだけ意味深に見えた。
「ねえねえ、筑水ちゃん、私に何か星を見せてくれるかな?にこちゃんの方で」
「え、わたしがですか?」
「そうそう、えーっと、天王星を見せて頂戴ね」
急にご指名を受けてしまったので、八女先輩と再び屋上に上がる。
冷え切った屈折望遠鏡の固定ノブを緩め幾分西に傾いた天王星を探す。6等級なので街明かりのある学校では肉眼ではわからない。
天文雑誌に出ている惑星の位置図を頼りにファインダーを覗きながら明るい星をたどって目星をつけてゆくと、青っぽい独特の星が入った。固定ノブを閉め、微動ハンドルを少しずつ回しファインダーの十字線の中央に捉える。そして本体の望遠鏡を覗くとほぼ中央に面積のある青みがかった天王星がその姿を見せていた。
「先輩どうぞ」
そう言って、八女先輩と変わる
「随分手際が良くなったわね。感心感心」
そんな事を言いながらしばらく覗いたあと、接眼部から顔を上げ、軽く息を吐いた。
「きれいね……ほんとに。あ、そうだ」
少し間を置いて、いたずらっぽい目をこちらに向ける。
「で、耳納君とはうまくやってるの?」
「えっ、えええ!? な、なにをですか!?」
「いやまあ、写真部の方でね、耳納君が撮った筑水ちゃんのあの写真見てると――」
先輩はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「全く心配ないんだけど。っていうか、いやまあ、うらやましいわぁ。もうね」
その言い方があまりに自然で、わたしはどう反応していいか分からなかった。
“うらやましい”という言葉の意味を考えるうちに、胸のあたりがじんと温かくなっていく。
「……そ、そんなことないです。あの写真だって、たまたま……」
「ふふ。耳納君、“たまたま”なんて顔してなかったけどね」
八女先輩が笑う。
その一瞬の揺らぎが、わたしの心の中にも伝わってくる。
照れくさくて、でも少しだけ誇らしいような――そんな感情が静かに沁みていった。
「私なんかねえ、天文や気象は好きだけど、じゃあ打ち込んで何かっていうほどでもなし、一年の時でも先輩たちに、いろいろ教えてもらって、でもあなた達に何か渡せたのかなあって、もうあと二月で卒業なのに、何だかそんな事ばっかり考えちゃってね」
わたしは静かに八女先輩の横顔を見つめていた。吐く息が白く揺れて、街の灯を透かしている。
「……そんなことないです」
思わず口にしていた。
八女先輩が、少し驚いたように目を瞬かせる。
「先輩がいなかったら、きっとわたし、ここまで続けられなかったと思います。始めての観測会だったり、文化祭のときだって」
「ふふ、そんなこと、あったかしら」
「ありました。あのとき、写真部の展示もあってバタバタしてて……先輩が『大丈夫、空は逃げないわよ』って言ってくれたの、覚えてます」
八女先輩は少しだけ目を細めて笑った。その笑顔は、少しだけ遠くをみてて、でもあたたかかった。
「……そっか。そんなこと、言ってたんだ、私」
「はい。だから、わたし……卒業しても、八女先輩のこと、ずっと忘れないですよ」
風がふっと強くなって、八女先輩の髪がふわりと舞った。
「ありがとね、筑水ちゃん。……そう言ってもらえると、ちょっと報われる気がするわ」
そして八女先輩は、少し照れたように笑いながらつぶやいた。
「まったく……ほんとに、かわいい後輩たちに囲まれて、幸せ者ね、私」
「あなた達に何か残したいって思って、今日観測会に参加したのに、何だか私の方がもらってるわね」
八女先輩の声が、夜気にほどけていく。
「……もらってる?」
わたしは小さく聞き返した。
「うん。筑水ちゃんたちを見てるとね、ああ、ちゃんと続いていくんだなって思えるの。わたしがここにいた時間も、無駄じゃなかったって。そう思えるだけで、十分もらってるのよ」
八女先輩は笑って、望遠鏡の鏡筒を軽く叩いた。
「にこちゃんだって、こうして代々受け継がれてるんだもんね」
「はい。……でも、わたし達も、ちゃんと残したいです。先輩みたいに」
八女先輩は少しだけ目を伏せて、
「ありがとうね」
ともう一度小さく言った。
–––
「…で、耳納君とはどこまですすんでいるの?お姉さんに白状しなさい、こらこら」
さっきとは打って変わって、急にいたずらっぽく話しかけられた。
「え、えっ、えっと、とっても仲良くして、ます…ょぅ」
「あらあら、困った事があったら卒業後でもお姉さんに頼って良いわよ、ってまぁ、あの耳納君じゃそんな事無いか、ふふ」
八女先輩は少し身を乗り出して、いたずらっぽく笑う。
その目の端には、冬の星が映っているように光る。
「えええ……もう、先輩、からかわないでください……」
わたしは頬が熱くなるのを感じ、マフラーの端をきゅっと握りしめた。
「だって気になるじゃない。あの耳納君、見た目は落ち着いてるけど、写真撮ってる時の目はねえ、時々部室で筑水ちゃんにカメラを向ける時ね、あれ、筑水ちゃん以外には向けられない顔よ」
「そ、そんなこと……」
「ねえ筑水ちゃん。何かに感じた時、それはほんの一瞬でもいいのよ。ちゃんと見上げた時間があれば、それでずっと光って、心のなかに残るのよ」
あのですね…と先輩に聞いてみる。
「耳納先輩が写真を撮っているときって、ちょっと目が変わるっていうか、いやいつもと同じように優しいんですけど、ちょっとだけ奥を見られているような…」
「おぅ、耳納くん、私の可愛い後輩をそんな目で見ているとは穏やかでないねえ」
「いえ、耳納先輩が悪いんじゃ無くて、たぶん、きっとわたしが見られたがって…」
「ちょっとまった筑水ちゃん、あなた達どこまでって聞くものでもないか」
八女先輩は、思わず吹き出して、手で口を押さえた。
「ふふっ、そう来るとは思わなかったわ……。なるほどねぇ、見られたがって、か」
わたしは慌てて首を振る。
「ち、違うんです、あの、そういう意味じゃなくて……でも、ちょっと、ほんとにそんな感じで……」
「いいのよ、わかるわかる」
八女先輩は頷きながら、そっと望遠鏡の鏡筒を撫でる。
「誰かに見つめられるって、ちゃんと自分が“いる”って感じられることだもの。そういうの、星を見るのと少し似てるのかもね」
「星を見るのと……ですか?」
「うん。どんなに遠くても、ちゃんと光ってるでしょ。こっちが見上げる限り、星も見返してくれる。耳納くんのレンズも、きっとそういう光を探してるんじゃ無いかな?」
八女先輩はそう言って、わたしの肩に手を置いた。
「今日、いい顔してるわねぇ。見られることを怖がらない人は、見せるものを持ってる人なのよ、きっとね」
わたしは言葉を失い、ほんの少しの沈黙のあと、
「……ありがとうございます」
とだけ、かすかに答えた。
屋上の風はわたし達の髪を揺らし、鏡筒の中で星の光が静かに瞬いていた。
「……でも、そこまで私に話してくれるなんて嬉しいなあ。可愛い後輩の恋バナを本人から直接聞けるなんて先輩冥利に尽きるわねぇ。じゃあ物はついでに、写真部の展示以外の写真ってあるの?」
わたしは少しうつむいて、頬を指先でかきながら答えた。
「……えっと、あります。その、わたしがモデルの練習用とか……その、ちょっと、遊びに行った時とか、いろいろありますけど…」
「ふふ、やっぱり。耳納くんがあの展示だけで満足してるとは思えなかったもの。」
八女先輩は楽しげに目を細める。
「どんなの撮ってるの? 私服で撮ったりしてるの?」
「……放課後とか……休日にちょっと…」
言いながら、わたしの声がどんどん小さくなるってしまう。
「あら、ちょっと聞いちゃいけなかったかしら」
「……えっと、そんな事、ないですよぅ」
「なるほどねぇ」
八女先輩は、夜気をふっと吸い込むようにして笑った。
「それは、耳納くんにとっての“星”なのね」
「星……?」
「ええ。あなたが見上げる星をね、彼は筑水ちゃんに見てるのね。きっと同じ方向を見てるんだと思う」
わたしは言葉をなくし、望遠鏡の接眼部を見つめた。
「……なんか、恥ずかしいですけど、ちょっと嬉しいです」
「いいじゃない。青春してるわぁ、筑水ちゃん」
八女先輩は笑いながら、そっとマフラーを直してくれた。
「ちゃんと私が見たかった物、見せたかった物が受け継がれていて、満足だわ。それが分かっただけでも今日来て良かった」
八女先輩の横顔が、星明かりに照らされていた。うまく言葉にならなくて、わたしはただ頷いた。そして胸の奥で、何かがひとつ、静かに灯るように感じた。
そのまま先輩の横顔と星空を眺めていたら、階段を上がってくる音が聞こえてきた。 甘木先輩と耳納先輩、みっちゃんとたかちゃんの四人の声と少しづつ異なる足音が重なる。
かちゃり
渡り廊下の扉が開くと同時に、ふぅ冷えるねえっとみっちゃん。
時間はちょうど0時を回ったところ。
耳納先輩が話し出した。
「それじゃあ今から3時まで自由活動にしますけど、先輩たちはどうされますか?」
「ちょっと俺にも新型をいじらせくれや、さっきアプリはインストールしたから」
と甘木先輩。
「どうぞどうぞ、じゃあ自分は一旦接続を解除しますね」
耳納先輩がスマホを操作すると自動導入の経緯台はランプを点滅させて接続待機モードになった。
「私は一旦部室であったかい物でも頂こうかな、その後はちょっと仮眠してるね」
そう言って八女先輩は部室の方に降りていく。
「わたしもちょっとあったまってきます」
と言って八女先輩のあとを追って部室に向かう。部室には柳川先輩と大川先輩の二人がストーブの番をしていたのであったかい。
「お、ちょうどいい所で二人戻ってきた」と柳川先輩
「ちーちゃん、ストーブの番をお願いね〜」大川先輩。
わたしに部室の番をまかせて川川コンビのお二人は何時もの様に校舎の何処かに消えていった。まあ生物部室の方だろう。あちらもエアコンが入って観測会の時の使用許可も顧問の先生に取っているそうだし。
電気ポットにはたっぷりお湯が沸いていたので八女先輩に何か飲みますかと尋ねる。観測会用に買ってきたスティックのコーヒーやココア、紅茶が紙コップに刺さっている。
「じゃあココア貰おうかな。ちょっと冷えちゃったねえ」
と先輩。
おでん、まだ開けていないのありますけど、温めますか?と尋ねると、んー、今屋上の四人用に残してあげようか?なんて先輩は言葉を返す。
暫く静かなまま、二人でココアを飲む。先輩は机の上にある天気図を何枚かめくって、指でなぞっている。
「同じ気象通報聴いて描いても、ちょっとづつ皆違うのよね。性格が出るっていうか。わたしのは…あちゃ、一年生に負けてるわ」
しばらくの沈黙の後
「もう少しで卒業かぁ」
不意に先輩がつぶやく。
「えっと、何か、まだやり残したとか、そんなんですか?」
真意はわからないままに問い返した。
「筑水ちゃんみたいに可愛がってもらいたかったなあ、なんてね」
顔が赤くなりそうだ。
「じゃあちょっと休んでくるかな。毛布1枚借りるわね」
そう言って八女先輩は隣の理科室の方に入っていった。あちらもエアコンは付けてあるからさほど寒くはないだろう。
一人部室に残されて、この一年間の事を思い返す。入学式の日、部活紹介の日、一人で、あの扉を叩いた時の気持、始めての観測会、先輩の手、写真のモデルをした事、みっちゃんとおーちゃん、文化祭、たかちゃんの活躍、写真部の展示にわたしのポートレートを先輩が展示した事、クリスマスの女子会、初詣。
一年前の受験生の時には想像もしなかった事が沢山あった。不安と、喜びの、そんな一年だった。先輩と一緒にいられるのもあと一年、わたしも二年後には卒業なんだ。
これからも不安と喜びを重ねていく毎日なんだと思う。新しい一年生は、天文部に入ってくれるかな。一人でもいいから、あの扉を叩いてくれたら、きっと一年前の耳納先輩も同じ事を思っていたんだろうなと、ポットのお湯が沸く音を聞きながら部室の扉を眺める。
午前一時、一人でストーブの番をしながら天文雑誌を読んでいたら耳納先輩が部室に戻ってきた。
「ふう、風は無いけど冷え込んで来たね」
ちょっとほっぺたが赤くてなんだかかわいい。
「八女先輩がいないけど理科室で仮眠かな?」
「あ、はいそうです、甘木先輩とみっちゃんたちはまだ上ですか?」
「甘木先輩は新望遠鏡を満喫してるよ、篠山さんと基山さんは暫くしたら降りてくると思うけど」
……今までの観測会、自由活動と言う名の休憩、仮眠時間は自分の教室で一休みしていたけど、真冬の深夜で暖房なしはさすがに寒いかなぁ。毛布は沢山宿直室から持ってきている。さてどうしようかと一思案していると先輩は
「先に一休みしに行っといて、僕も後から行くから」って言ってくれた。
毛布を2枚持って自分のクラスの扉を開ける。
よいしょっと。
校庭側のわたしの机。青白い月の光を天板が反射している。屋上と違って思ったほど冷え込んだ感じでも無かった。毛布を重ねてくるまってから座る。
宵のうちより静かになった街の音に耳を澄ませていると先輩がやってきた。
「こんばんは」
囁くように改めて挨拶しながらわたしの隣に椅子を並べて座った。
「寒く無いかな?」
「うん、だいじょうぶですよ、先輩。たかちゃんとみっちゃんは部室ですか?」
「うん、おでんの残りを温め直して食べてると思うよ」
そう言って先輩は軽く笑った。
「八女先輩と結構喋っていたみたいだけど、何かあった?」
「えっと、あの、ですね、私も先輩に可愛がってもらいたかったなあ……って言ってました。筑水ちゃんがうらやましいって……」
「あー、えっと、まいったなあ」
耳納先輩は、そう言いながら頭をかいて、少し照れくさそうに笑った。その笑顔が、教室の薄明かりの中でほんのり揺れて見えた。
「でもさ、そう言ってくれたってことは、ちーちゃん、ちゃんと可愛がられてたんだと思うよ」
「そ、そんな……」
思わず顔が熱くなる。
「ほんとに。あの人が素直にそんな事言うのも初めてじゃ無いかな」
先輩はそう言って、少し遠くを見るような目で笑った。
教室の外、月が少しづつ高度を上げ、校庭を青く照らし初めている。夜はゆっくりと更けていくのに、この静かな時間だけは、どこか止まっているようだった。
「……耳納先輩は」
わたしは、ためらいながら口を開いた。
「その……どんな後輩が、かわいいですか?」
先輩はしばらく黙って、それから校門の方を見つめながら言った。
「うーん……いろんな事、できれば自然科学に興味をもってなぜ、どうしてって、真っすぐ上を向いて聞いてくる後輩、かな」
先輩が顔を振り、そしてわたしを見つめている。
月の青さより透明な、透き通る言葉。
去年の春、あの今は葉を落としている桜の木の下で、この校舎をみあげて、部室の扉を叩いて、ずっと見上げて来た。
すでに、もう、すべてを通じているけど、それでもまだ、今はもう一度、いや、何度でも聞きたい。
「先輩はなぜ、どうして…」
その質問の最後は、もう口にする事はなく。
霜が降りるがごとく、触れ合うだけだった。
–––
午前3時を回ったので、自由活動及び仮眠時間は終了。夜明けまでもうしばらくあるので、かに座やしし座、おおぐま座等の春の星座を写真に取ったり観察したり…と行きたいのだけど、生憎雲が多くなってきてしまった。
わたしの自宅は山合いで、北側の斜面になるので南側のほうは絶望的に見えない。なので観測会がチャンスなのだけど天気だけは仕方がない。
自分の双眼鏡を取り出して雲の間から見えるものを探してゆく。
ニコンの10x35。
理科室から起きてきた八女先輩が
「おや、いつの間にそんないい双眼鏡を、ニコンじゃないの」と声をかけてきた。
甘木先輩も
「35mmなら筑水さんでも扱いやすいだろうね。良いの見つけたな」と褒めてくれた。
「覗いてみますか?部の7x50よりコントラストがあって見やすいかもですよ」と甘木先輩と八女先輩にそれぞれを手渡すとお互い取り替えながらかに座のM44だろう、そちらを向いてふんふん、ほほう見比べ始めた。
「なるほどねえ、値段の違いってあるのねえ、明るさだけなら7x50なんだけど、対象の見やすさとはまた別なんだね」
などと感想をつぶやく。
柳川先輩と大川先輩も屋上に上がって来たけど、寒いと一言、毛布にくるまったまま手を出さない。甘木先輩は「お前ら二人はほんとマイペースだな。そういえば生物部で作っていた鳥の骨格標本、完成したんか?」なんて話を振ると
「あれはですねえ〜、セキレイはほぼ完成ですよ。ニワトリもできたんですけど、頭がありません!」
一同軽く吹き出す。そりゃフライドチキン屋さんでも頭は渡せないよなあ。
そんな会話をしながら、時刻は午前四時を少し回ったころ。東の空にはうろこ雲がかかり、下弦の月と春の星座たちはその合間に顔をのぞかせていた。
「もう少し見えるね、もうちょっと」
耳納先輩がアイピースを覗き込みながら月のクレーターのスケッチを描いている。デジタルカメラで撮れば一瞬だけど、よく目で見て観察する事は大事だよと教えられ、最初の観測会の時からわたしもスケッチは描き続けている。
吐く息が白い。夜気はなお凍てつく。
たかちゃんが「月ももう無理かな、隠れちゃう」と言って鏡筒をゆっくりと回す。その動きが止まる頃には、雲が空のほとんどを覆っていた。
「撤収かな」
耳納先輩の声で、皆がいっせいに動き出す。
望遠鏡の鏡筒に白く浮かんだ夜露を、たかちゃんが指先でなぞっている。
「結露しちゃうね。毛布かけとこうか」
柳川先輩が天文部用の毛布を取り出して、鏡筒を包むようにかけた。大川先輩がその端を整える。
甘木先輩と耳納先輩が重たい屈折望遠鏡の架台を下ろして行くので、わたしたちは付属品をどんどん部室に運んでいく。
撤収作業はいつもちょっとだけ寂しさを覚える。小さな脚立を片付けながら、胸の奥がしんとするのを感じた。
何往復かして屋上に出ると、雲の向こうで空がうっすらと明るみ始めていた。
冬の夜が、ゆっくりと朝へ溶けていく。
「おおぅ、焼けてきた」
みっちゃんがスマホを構え、空を指さす。
薄桃色から朱色へ、雲が静かに染まっていく。
「きれい……」
たかちゃんが小さく呟いた。
その声に応えるように、八女先輩が笑いながらみんなを集めた。
「せっかくだから、記念撮影しようか」
耳納先輩がセルフタイマーをセットして、朝焼けの雲と校舎の3階を背景に皆で並ぶ。
甘木先輩が冗談を言って、皆が少し笑った瞬間、シャッターが切れた。
冷たい空気の中に、ほんのりと湯気のような笑い声が立ちのぼった。
六時半を過ぎると、顧問の先生が部室に顔を出した。
「みんな、無事終わったか」
先生は簡単に挨拶と部室の確認をして一応の終了。学校から借りたストーブや毛布、電気ポットなんかを皆で宿直室に戻しに行く。
部室に戻ってくると少しだけ殺風景に感じる部室で眠気を覚えた。
でも、まだ終わりじゃない。
「先生、私たち、このあと銭湯行ってきます」
柳川先輩が言うと、先生は笑ってうなずいた。
「そりゃいいな。冷えただろうから、ゆっくり温まってから帰れよ」
---
朝風呂
七時を少し過ぎたころ、学校近くの銭湯の暖簾をくぐる。甘木先輩と耳納先輩の男子二人はここでお別れ。お風呂上がりの耳納先輩を見てみたい野望は残念ながらまたいつか。ちょっと名残惜しいけど。
古びた木札を受け取り、靴を脱いで上がると、ふわりと漂う石鹸の香り。
湯気の向こうで、白いタイルの湯船が朝の光を反射していた。
「いつもながら……天国だねえ……」
みっちゃんが肩まで沈みながら声を漏らす。
たかちゃんは髪を結い上げて、湯縁に腕を乗せていた。
八女先輩が
「夜明けの観測って、ほんと冷えるのね」と笑うと、柳川先輩が「でも、それがまたいいんですよ」と返す。
大川先輩は湯船の縁に並んだ洗面器を眺めながら「この並び、スターリンク衛星のトレインみたいだねえ〜」と言った。
湯気の中で、八女先輩がふとこちらを見て、
「ちーちゃん、恋の話はまた聞かせてね、卒業式までもうちょっとだけ」と、にやりと笑う。
みっちゃんが「それ聞きたい~」と身を乗り出し、たかちゃんが「ほら、顔赤くなってる」と小声で囁く。
笑いが湯の上で弾け、波紋のように広がった。
湯船の中で、わたしは静かに目を閉じる。
夜空の冷たさも、朝焼けの色も、今はもう遠くの出来事のようだ。
ただ、身体の芯に残る小さな光――
それが、この冬の観測会の思い出になるのだと、そう思った。
――第十七話、了
小さな星の軌跡 第十六話「初詣」
山のふもとにある参道の始まり、大鳥居の前で待ち合わせたのは、午後十一時。
昼ならすぐ上まで行ける車道も、大晦日のこの夜は一般車は通行止めになっている。
参道の入口よりさらに下の方でお母さんの車から降りた。
「じゃあ行ってくるね」
そう言って、わたしとみっちゃんは沢山の人に吸い込まれる様に鳥居を目指す。
あ、いたいた。大鳥居の元に先輩発見。 天文部のみんなとおーちゃんも揃ってる。
先輩と二人っきりで……とも夢見たけど何か事故あったら先輩に迷惑かけるし、いくら大晦日と言っても学校外の深夜には変わりはないわけで、ここは品行方正、健全な学生生活を建前でも突き通す事にしたのだった。
耳納先輩以外に集まった面々は三年で既に推薦が決まった、たかちゃんのお兄さんの基山先輩(写真部)、二年生の柳川先輩と大川先輩(こちらは生物部がメイン)の女子コンビ。そして一年女子トリオのわたしとみっちゃんにたかちゃんとみっちゃんの彼女さんのおーちゃん。なんと生物部の筥崎君(一年)まで今日はご一緒だ。天文部は掛け持ちの朝倉先輩(写真部二年)は欠席。耳納先輩曰く、新年花火を撮りに別の神社に行ってるそうだ。
さて、無事に集合出来たので参道を登り始める。平日昼間なら一時間もかからない気軽なハイキングコースなのだけど、夜間なのと参拝者で混雑している。
人の間隔が狭くペースを保ちにくい。参道の登山道には幾らか大晦日用に照明はつけてあるけど、間隔は空いていて十分に照らしているわけでも無いので、人の多さもあって足元はかなり暗い。
皆自分の足元とその少し先をライトで照らしながら黙々と歩いている。
「きゃっ」
木の根につまずきかけて、思わず声が出てしまった。
すぐに前後の足音が止まって、みんなが一斉に振り返る。
あ、やっぱり見られてる。わたし、耳納先輩の隣にいたのに。なんだか、余計に恥ずかしい。
「大丈夫?」
耳納先輩が小声で尋ねてきて、わたしは慌てて頷いた。
「だ、大丈夫です! すみません……」
でも、心臓がどきどきしてる。足元のせいだけじゃなくて。
みっちゃんが後ろから「ちーちゃん、慎重にね〜」なんて軽く茶化す声を投げてきて、さらに顔が熱くなる。
暗いのをいいことにごまかそうとしたけど、先輩の懐中ライトの白い光がわたしの足元を追いかけて、まるで見守られているみたいだった。
「……しばらく、僕が照らすから」
そう言って、耳納先輩はライトの角度を少し変えて、わたしの前の道を優しく照らした。
その光があまりにも安心できて、また胸がきゅっとなる。
こういうのって、やっぱり反則だなぁ。
二十分くらいは歩いただろうか。昼間に登ったときよりずいぶんペースが遅いなあ、なんて心の中で呟きながらも一歩一歩登っていく。
気づけば、見覚えのある開けた場所に出た。
そこは、斜面がふっと途切れて、街を一望できる小さな広場。
下の方では、わたしたちの街の夜景が川沿いに広がっていて、きらきらと宝石をちりばめたみたいに瞬いている。
立ち止まって夜景に見入る人も多く、ざわめきと足音が交錯していた。
でも、わたしたち一行は少し違った。
皆が同じように、木々の間からのぞく夜空を仰ぎ見ていたのだ。
雲の切れ間から、オリオンが姿を現す。
冬の星々は空気の冷たさのせいか、ひときわくっきり見える。
「……やっぱり、きれい」
誰かが小さくつぶやいた。
夜景と星空。どちらも眩しいけれど、わたしたちはやっぱり星の方に目を奪われる。
寒さで吐いた白い息が、光のない空にすっと溶けていった。
「夜景も綺麗だけど、どうしても、見上げちゃいますね」
わたしは先輩に小さく話しかけた。
「そうだね。ついつい、今日はシーイングが悪いなあとか、上空の寒気の流れ込みのせいかなあとか」
晴れてはいるけれど、空の高いところには白い筋雲が薄く流れている。
星々はちらちらと、灯油ランプの炎みたいに揺れていた。
そういえば――クリスマスの少し前に、父から送られてきたあのランプ。
発送元はイギリスで、アンティークってほど古いものではないけれど、使い込まれた塗装の剥げが、前の持ち主の気配を残していた。
その温かい揺らめきを思い出しながら、ふと考える。わたしのニコンの双眼鏡も、いつか知らない誰かの手に渡って、同じように思いを馳せる日が来るのだろうか。
先輩と目が合った。背の差があるから、ぼんやり考え見上げるわたしと見下ろす感じの先輩と、うん、すごく近い。
「考え事かな?」
先輩が小声話しかける。
「えっと、双眼鏡、持ってくればよかったかなって」
なんか思っていたのと違う言葉が出てしまった。
「さあ、小休止もほどほどにしないと、夜が明けちゃうよ〜」
大川先輩が相変わらずのんびりムードでハッパをかけてきた。
「いやいや、さすがに夜は明けはしませんよ……」
柳川先輩が半分ため息で突っ込む。
でもたしかに、このまま夜景に見とれていたら、零時ちょうどの到着は無理そうだ。
わたしたち一行は再び歩き出した。
参道は、上へ行くほど傾斜がきつくなっていく。足を踏み出すたびに、すぐ横の木々の闇がぐっと近くなる気がして、ちょっと心細い。
隣を歩く耳納先輩が、再び懐中電灯を持つ手を変えて、わたしの足元まで照らしてくれる。その光の中で歩くだけで、何だか安心できた。
昇るに従って、次第に人との間隔が狭くなってきた。前も後ろも、参拝客の列は絶え間なく続いている。
見ると、柳川先輩と大川先輩は、いつもは学校でふわりと揺らしているその長い髪を、コートの内側にまとめて隠していた。吐く息の白さが二人の間で溶けあって、そして――自然に、手をつないで歩いている。
何も特別なことじゃないような顔をして、それが当たり前かのように。
その後ろにたかちゃんと筥崎くん。二人はほとんど話していないけれど、歩調だけはぴたりと揃っていた。
わたしは耳納先輩と並んで、そのまたすぐ後ろを歩いている。背中のほうから、みっちゃんとおーちゃんの笑い声が小さく聞こえてくる。
そして、一番後ろには、たかちゃんのお兄さん――基山先輩。背の高いシルエットが、みんなの背中を守るようについてきているのが、なんだか心強かった。
途中、自動車道を横切るところで列はいったん止められた。ガードマンと警察官が笛を吹き、人々を左右に振り分けながら、バスや障害者タクシーを通していく。道路のアスファルトは夜気で白く曇り、街灯の下で行列がざわめきながら波のように揺れていた。
――その波の中で、わたしは思わず耳納先輩の袖をつまんでいた。
ほんの指先で、布の端をつまむだけ。手をつなぐのとはぜんぜん違う、ただの「はぐれ防止」。
でも、先輩の肩がわずかに震えた気がした。
「……大丈夫?」
わたしの方を見下ろして、小声でそう囁いてくれる。
「うん……」
人ごみに押されて身体が少し寄った、その瞬間。
わたしたちは誰にも気づかれないくらい、ほんの一瞬だけ――視線を合わせて、笑った。
それだけで十分だった。
だって、二人だけが知ってることがある。
たとえいま、こうして距離をとって歩いていたとしても。
人の波に押されるようにして、ようやく本殿前の広場へとたどり着いた。
境内はすでに大勢の人で埋め尽くされていて、列は本殿の前から階段を下り、参道の方まで続いている。
吐く息は白く、でも人の熱気に混ざって空気は不思議とぬくもりを帯びていた。焚火のように置かれた大きな明かりが、石段を橙色に照らしている。どこかから除夜の鐘が低く響いて、胸の奥にまで届いた。
みんなで並び、少しずつ進んでいく。
やっと順番が回ってきて、わたしたちは二礼二拍手一礼。
ぱん、ぱん。
目を閉じると、隣に立つ耳納先輩の横顔がふと意識に入ってくる。
きりっとした目を閉じ、真剣な表情。
わたしは思わず胸の中で小さく呟いた。
――来年も、先輩と一緒にいられますように。
参拝を終えて、人混みを抜けたわたしたちは、境内の端にある甘酒の屋台で立ち止まった。
紙コップから立ちのぼる湯気が、指先をじんわりと温めてくれる。
「で、みんな何お願いしたの〜?」
みっちゃんがわざとらしく声を上げると、おーちゃんがすかさず腕を組んで、
「わたしたちは……ね」
といたずらっぽく笑った。
おーちゃんもわたしたちの前では随分自然に笑う様になった。
「私は無難に健康とか進路とかだよ」柳川先輩。
「わたしも、まあ似たようなものかな〜」大川先輩。
「生物部にも、もう少し人と予算を……ってお願いしました」と筥崎君
うん、生物部は天文部より切実なのだ。頑張れ筥崎君。
耳納先輩は少し考えてから、
「……みんなで無事に観測会ができますように」
と答えた。
「真面目すぎる〜!」
一同から笑いが起きる。
「じゃあ、ちーちゃんは?」
矛先がこちらに向いて、わたしは慌てて甘酒のカップを両手で握りしめた。
「えっ……あ、あの……ひ、ひみつ……です」
「顔真っ赤〜」
みっちゃんとおーちゃんが声をそろえて突っ込んでくる。
そのとき。
「……わたしはね」
たかちゃんがぽつりと呟いた。
「鉱物好きの一年生が入ってきますように……かな」
「えっ!?」
一瞬の沈黙のあと、全員が吹き出した。
「たかちゃんならすぐ見つけられるって!」
「入ってきたらもう逃げられないね〜」
「部室の隅っこが鉱物だらけになりそう」
笑い声が境内の木立に溶けていく。
たかちゃんは少し拗ねたように口をとがらせたけど、目尻はどこか照れて緩んでいた。
やがて下山の時間になって、人の流れに従いながら、わたしたちは再び参道を歩き出した。
空はまだ真っ暗だし、初日の出を見るまで神社にいる訳にもいかない。今から登ってくる人は初日の出まで居るのかなと思いながらすれ違う様に降って行く。
吐く息は冷たくても、胸の奥は温かい。
耳納先輩と並んで歩く。肩が触れるか触れないかの距離。
言葉はなくても、それだけで十分だった。
――新しい年も、星と、仲間と、そして先輩と。
きっと、大切なものを見つけられる気がした。
――つづく
AI合評会をしてみませんか?
今回、過去作を振り返るときに、思いついてAIに詩評をさせてみたところ、あまりの精緻さに驚きました。
もともと俳句の推敲に利用していたのですが、ある程度長い文脈を読み切って意図したことを言い当てられると冷汗が出るほどです。
なぜそんなことまで言えるんだ!
詩に限らず、韻文は作者と読者で作るところがあると思います。
まだAIの詩評にはとんちんかんなところや、明らかな誤読も少なくありませんが、文学極道時代の一番盛り上がったときと同じくらい長文で批評されるとなんともいえずありがたい気持ちになります。
まぁ……しょせんAI でしかないのはわかってます。評価も結構甘いですよね。……
ただ、それなりの解釈と短所の指摘もしてくれるのは得難い特質です。
僕もほかの方の作品にもっと評をつけたいと思うのですが、手の付け所に迷う上、時間がかかって消耗してしまいます。
また、せっかく頑張った作品に無責任に短所の指摘をするのも気が引けます。それがきっかけで文芸の掲示板は必ず荒れてしまってましたし……。
でも、AIの評に意見を述べる形なら、長短両面に言及できるのではないでしょうか?議論も深まるような気がします。
まだほんの思い付きですし、たとえAIを介しても互いへのリスペクトは欠くべからざるものですが、もし賛成する方がいらっしゃったら、まず僕の過去作を人柱にしてやってみたいな、と思っています。
みな、関心がないようでしたら、見なかったことにしてください。
僕もずうずうしく書かなかったことにして黒歴史帳に綴じこんでおきます。
まずはご提案まで。あ、若い人はこんな言い方しないか……
追記:無断で他人の作品をコピーしてAIに批評させたものをネットに挙げるのはマナー違反になりますので、絶対やめてください。
滲む手紙
あなたへと綴った手紙
渡す勇気もないまま時が過ぎ
手紙は色あせている
あなたを想うと溢れる言葉
沢山綴っても足りない程
あなたを想うと涙も流れる
涙は手紙に落ち
綴った言葉が滲む
滲んだ言葉は読めなくなり
あなたへの想いもなくなりそうで
余計に哀しくなる
あなたへ渡す事はきっと叶わない
沢山の言葉は涙で滲み
もう読めない
それでも私は手紙を持っている
あなたを想う心を失いたくないから
捨ててしまったら
愛も消えてしまいそうだから
色々あせた手紙
読み返して涙がまた流れる
そして言葉は滲む
その内読みなくなるだろう
その時が来たら
手紙を捨てる時
あなたへの想いも捨てる時…
ブルーライト
暖房を消して入ったベッドが
やけに寒くて足をこする
スマホを取ろうとした途端に
キッチンからぽつりと音がした
消え入りそうな水音が
汗のように背中を流れる
毛布の温度を知らないふりして
親指だけが動いている
文ノ心得 其ノ壱
文章で人を感動させたいなら、まず、その文章を感動させないとダメやで。文章を感動させるという心意気が人に伝わるだけや。文章を笑わせたり、悲しませたり、怖がらせたり、驚かせたりしないとあかんねん。これが分かるようになれば、なんでも書ける。断言する。まじで。
理
1
○○○●○○
○○○○○○
○○○○○○
○○○○○○
○○○○○○
2
○○○○ ●
○○○○○
○○○ ○○○○ ○○
○○○○ ○○○
3
○○○○○○○○●○○○○○○
4
○ ○
● ○
5
●
6
●
7
●
8
●
9
●
10
●
11
●
12
●○
13
○●
14
●
15
●
16
●
17
●○
18
●○
19
●
20
●●
21
●●
22
●●●
23
●●●
24
●●●
25
●●●
26
●●●
27
●●●
28
●●●
29
●●●
30
●●●
31
●●●
32
●●●
33
●● ●●
34
●● ●
35
●●
?
?
地球への手紙
水深4000mでは豪雨が
息を求めて走り出す
ミミズの内側から地面へ
土が這い出していく
蜘蛛の巣によって月の光は狩り尽くされ
真っ暗になっても雷鳴すら
木の上に踏みとどまるだろう
苔むした部屋で
カーテン代わりの肺を閉め
耳の蝶番の間によく染みついた
暗闇を綿棒でぬぐいとり
シャボン玉の虹彩を引き抜きながら
それで望遠鏡を作ることができる
あと何年かかるだろう
地球のもとへ辿り着くために
冬の命題
墨のような午後に、眠い目からこぼれ落ちたのは?
教会の尖塔に、突き刺さったままに、祈られていた骸は?
落葉の使者として、閑散期の美大に冬を告げたのは?
タイムセールの、膨らんだ母たちの、向かう先は?
透かし紙の鶴が眠る、小さな部屋で、しめやかに泣くのは?
フリーターが走り回り、汗を赤くして、求めるものは?
機敏なバスケットシューズ、瞬間、命より重んじる熱は?
壊れた機械、凍える収集場に、鳴り止まぬ金属音は?
みじかい季節が、終わりながら始まっている、この焦れる胸は?
ふと口をつぐみ、世界を裂いてゆく、しびれた叙情は?
「それについては、webでこちらが見つかりました。」
霊威師のレンリ 旅語り「山の贄」・弐
それから少しだけの時を、ガンキの体力回復のための休息と食事の後始末に割き、その上でレンリ達は歩き始める。その出発の直前に、ガンキには、レンリの持ってきていた頭布と外套が渡され、顔と体が隠れる偽装が施された。万が一、ガンキの「贄」としての役割が、レンリの認識と違っていた場合の対策のためだ。
ただ、その道中は、二人の出会いの急さとは裏腹に、実に安穏なものであった。と言うのも、レンリが使っている霊威師の技の一つ【獣除けの術】の効果により、歩く以外にすることが無かったからである。
そんなレンリの用意周到さがもたらした、どうしようもない暇を埋め合わせるため、彼女は、自分の前をしっかりとした足取りで歩くガンキに向かって声を掛ける。
「そう言えば、お前さん。さっきの話だけど。ちょいと詳しく聞いても良いかい?」
「話って、ミノリサマのこと?」
「そう。色々と聞いておきたいことがあってね」
「オラに答えられるか分かんねけど……」
「なーに、別にいいさ。到着までの暇潰しとでも思っておくれ」
「そっか。うん、分かった」
「そんじゃあ早速。まずその「山の贄」の話なんだが、お前さんは「贄」に選ばれたわけだけど。何で選ばれたかは、誰かから聞いたかい?」
「うーん……。よく分かんねぇけど、おっ父が言うには村で沢山の子ども達と遊んでいた奴が、良いんだって。ミノリサマは賑やかな人を見るのが好きだからって」
「ほうほう……。なるほどね。んじゃ、次。そのミノリサマが住んでるって言う祠は、どんな所なんだい?」
「祠って言うか、狭いけど家っぽいとこだった。寝床や小さな井戸もあったし。少ないけど食べられる木の実が取れる木もあったよ。預かった食いもんもあったから、七日でも大丈夫って思ったんだ」
「七日?」
「うん」
そこで一度言葉を切り、ガンキは呼吸を整えつつ、思い起こすような仕草をする。
「えっと。おっ母が言うには、オラみたいなのが祠のとこで七晩も過ごせば、ミノリサマは機嫌を直すんだって。だからオラは、祠に居なくちゃいけなかったんだけど……」
「そこで何かがあって、それで逃げたのかい?」
「……うん」
「聞いても、大丈夫かい?」
「うん。村長が言ってたんだ。ミノリサマは人が好きで、それで山や里を守ってくれているって。だから「ニエ」って言っても、実はそれは形だけで、取って食われることは無いんだって……。でも……」
「でも?」
「三回目の夜だったかなぁ。寝床に入ろうとしたら、誰かが、外からオラを見てたんだ。じっと。前に山犬を見たことがあったけど、そん時に似てた気がする」
「……ふぅむ」
「そんで、その声は言ってたんだ。『もうじきだ。もうじきで実りを得られる』って舌なめずりするような音出しながら。そんでオラ、怖くなっちまって……。全部置いて、逃げちまって……。すまねぇ、オラ……」
「……いや、十分だ。有難うね、ガンキ」
最後を話している最中、逃げる道中の事を思い出して再び泣きそうになったガンキを、隣に立ったレンリが慰める。
ただ、彼の頭を優しく撫でながらもレンリは、ガンキから聞いた話を頭の中で整理し、頻りに思考を回転させていた。
(それにしても。「ミノリサマ」の豹変ぶりが気になるなぁ。「山の贄」とは名ばかりだったはずなのに、それどころか獲物を品定めするように。これは少々気合を入れなきゃなんないかもねぇ。あと、村の長にも話を聞く必要がある。本来の「ミノリサマ」の話はそっちで聞けるだろうし)
そのように結論付けたレンリは、思考していた素振りすら見せないままに、ガンキの案内へと身を委ねていく。
そうして二人は歩き続けて、しばらくすると。
「あ、見えてきた。あそこがオラの村だ」
ガンキがそう言って、木々の向こう側に見えてきた集落を指さす。
レンリが視線を向けると、まさに長閑さが形になったような、誰もが抱いているだろう「農村」の印象そのものと言える村が、そこにあった。
住民たちは、大人が畑に出て農作業に従事している一方、村の子ども達は、仲良く遊びに興じているようだった。
「みんな……」
ガンキが呟く。そこには色々な感情が垣間見えたが、レンリはそれらを敢えて無視するように隣に立つと、平静な声で。
「ガンキ。さっき話した通りだ。お前は今はまだ「山の贄」として皆からは考えられている。皆お前さんの無事は信じているだろうが、それでも顔を出すわけにはいかない。渡した外套と頭布は、私が「取って良い」と言うまで決して脱がないこと。良いね?」
そう言ってから、ガンキの頭に軽く手を置いた。
彼は軽く頷くと、しっかりと頭布を被りなおした。
「うん。分かってるよ。オラ、我慢する」
「いい子だ。それじゃ、行くとしよう」
それだけを言うと、レンリ達は集落へと向かい、中へと入っていった。
最初に二人に向けられたのは、余所者が来たことに由来する好奇心の目だった。一部の意識はガンキの方に向いていたが、幸いにして、視線の大半はレンリの容貌に目を奪われているようで、大した問題にはならなそうであった。
ただ、不用意に投げられる視線は気になるものではある。ガンキは、何処か居心地の悪そうな空気感を漂わせていた。しかし、レンリはそんな好奇の目には慣れているらしく、特に気にも留めていない。それどころか近くに居た農民の男性に、積極的に声を掛けに向かっていった。
「もし、そこの人。ちょっと宜しいかな?」
「えっ!? あ、ああ。なにかな、旅のお方」
「私はレンリ。霊威師をやってる者だけど、依頼主である村長さんの家を探しているところで。教えて頂けると有難い」
「村長の家かい? だったら、この道を真っ直ぐ歩いて、その先に見えてくる坂の上の大きな家がそれだよ」
「分かった、有難う」
そして必要な情報を聞きだすと、笑顔できっちりと礼を述べ、颯爽とガンキと共に立ち去った。不要な質問を受ける前に行動するためだ。
「はえー……。綺麗な人だったなぁ……」
一方、レンリに話しかけられた男性はそのような事を呟き、「何言ってんだい」と自身の妻に軽く叩かれていたが。
それから。二人はそのまま村長の家へと向かった。
その家は、周囲を木の塀で囲んでおり、いわゆる「地主の家」と言う風情の造りをしていた。出入口には門も存在しており、その印象に拍車をかけている。
「もし! どなたか居られますか! 依頼を承り、参上しました!」
レンリは、軽く門を叩いたうえで、声を上げて中に呼び掛ける。
すると。
「はーい! 少々お待ちになって!」
レンリの呼び掛けから少し後で、敷地の奥の方から、年季を感じさせる女性の声が返ってきた。そのすぐ後に門が開く。中からは着物を身に着けた熟年の婦人が出て来て、レンリ達の前に姿を現した。
その婦人は、上品な雰囲気の中にも芯の強さを感じさせる人物で、立ち姿には、相応の身分のある人物に特有の貫禄を感じさせた。
「霊威師のレンリさん、ですね。初めまして。私、ミツバと申します。お見知りおきを。どうぞ、中へお入りになって。今は主人も広間で仕事をしておりますので」
そしてそう言うと、二人を家の中へと通していった。
外装と内装ともに普通の木造家屋で、屋根は茅葺と瓦葺きを工夫したものが併用されている。空調もよく考えられた構造をしているようで、屋内の風通しは良好であった。
ミツバの案内に従って板張りの廊下を歩き、奥の広間へと向かって行く。
「こちらです。あなた、件の霊威師様がお見えになりましたよ」
「おお、そうか。有難う、おミツ。あと、すまないが、茶の用意を頼めるかい?」
「ええ、もちろんです。では、レンリさん。ごゆっくり、と言うのも変ですが、お寛ぎ頂ければと思います」
「有難う御座います、ミツバさん。では、失礼いたします」
笑顔で案内を終えたミツバに礼を述べながら、レンリは広間へと入室していく。ガンキはその後をこっそりとついて行き、共に入室していった。
村長を見ると、彼は既に起立しており、笑顔で二人のことを歓迎していた。
「ようこそ、レンリ殿。私は、皆から村長を任されている、ケンゼと申します。お見知りおきを。ささ、お座りください。座布団も、お好きに使っていただいて」
「有難う御座います。では失礼して……。君も座りなさい」
レンリはそう言うと、村長ケンゼの言葉に甘えて、ガンキと共に座布団を使って着座した。そのすぐ後に、ケンゼが深く頭を下げた。
「この度は、私からの依頼をお受け頂き、誠に有り難うございます。遠路の程、お疲れになったでしょう? 我が家の客間ではありますが、宿の手配もしております。お休みの際には是非、ご利用くださればと思います」
「何から何まで、お気遣い有難う御座います。どこまでも静かで清々しい空気と山の恵みに、身も心も洗われるような道中でした。むしろ元気を頂けた心持ちですらあります」
「おお、それは何よりです。道を整えている村の者も報われることでしょう」
「ええ、是非お伝えいただければと思います。さて。宜しければ、このままご依頼の内容についての話をしておきたいのですが、ご都合は大丈夫でしょうか?」
「もちろんです。優先すべき内容ですので、むしろ助かります」
「それは良かった。ただ、その前にお話しておかなければいけないことがありまして……」
「はい?」
レンリの言葉に首を傾げたケンゼ。そんな彼の前で、レンリはガンキの肩に手を置く。
「もう脱いで良いよ」
前もって約束していた通り、既定の言葉の後で、ガンキは頭布を脱ぎ去った。
その向こうから覗いたガンキの顔を見たケンゼは、思わず立ち上がりそうなほどの驚きを見せる。
「が、ガンキ!? お前さん、どうして……!」
「ごめん、村長。オラ、オラ……」
「話と言うの他でもありません。彼と、「ミノリサマ」についての事です」
「……なるほど。ミノリサマの事も、既にお聞き及びなんですね。では、「贄」のことについても?」
「ええ。そちらについても。で、早速なんですが。私は、その「ミノリサマ」と言う存在を、豊穣の守り神として認識しておりますが、その認識であっていますか?」
「え、あ、はい。ええ、そうです。ミノリサマは、この村の豊穣を守護する御霊のことです」
「人身御供の慣習について、あれこれと口出しするつもりはありません。しかし、彼はミノリサマが人を襲う存在ではないと貴方より聞き、安心していたようですが。その祭祠で、何者かに襲われそうになったと申しておりました」
「え!? な、なんですって!? それは本当かい? ガンキ」
急に真剣な表情で話を向けられたガンキは、一瞬驚いた表情を浮かべてビクビクしていたが、レンリの優しげな微笑を見て、すぐに表情を引き締めた。
「うん。三回目の晩に、寝床の外から、山犬みてぇな息遣いが聞こえて、そこから『もうじきだ。もうじき実りを得られる』って、男のような女のような声で、唸るように……」
「なん、何と言うことだ……。まさか、もうそんな事になっていたとは……」
「え?」
「ケンゼさん。もしかして何か、ご存じなのでしょうか?」
「……ええ。とは言え、私もただの推測と伝聞の話になるのですが」
「お聞かせ、願えますか?」
「もちろんです。ミノリサマの危機でもありましょうから。ガンキもよく聞いていておくれ」
「え、う、うん。分かった」
「……ふむ。それで、危機、と言いますと?」
そう尋ねたレンリにケンゼは向き直ると、何処か申し訳なさそうに。
「今からする話は、私を含めた村の長老と、祭祀に関わる者しか知らない話となります。ですので、他言無用でお願いしたい。ガンキも、宜しく頼むよ」
そのように前置きをしたうえで。
「ミノリサマは、確かに村の豊穣を司る存在ではありますが。その元を辿ると、山に住まっていた荒神の霊威を封じるために、人柱として身を捧げた、一人の村娘だったそうです」
そう、語り始めた。
探査機
揺動
午前8時23分、惑星探査機「X」の打ち上げに成功しました
君は狭い箱の中に詰め込められ空に飛び立つ
もうひとつの地球にも海はあるのかな
あの日見た夕焼けの光がまぶたの裏にこびりついて
多分、草ぐらいは生えているよ
海は赤いかもしれないし、空は真っ暗かもしれないと君はおっしゃる
友達の証として持っていったキーホルダーは
大気圏を突き抜けると燃え殻になった
ああ、何かがあるといいな
コンビニの限定スイーツぐらいの淡い期待に体がふるえる
「あなたを不幸にできるのは宇宙でただ1人だけ」
作詞 恋の雨
こんなにも想う
あなたに想う
恋に降られて
涙を流した
はかなくて愛しい
あなたの声が
響いた山には
誰もいない
問わず語り/蛍雪の功と、春隣。
2026年、最初のエッセイ。
初冬の書初め。数年前に本拠地として利用していたノベルアッププラスで『馬』エピソードを書下ろし。
スピード感を持って書かなければいけない理由が、ふたつ。
私は文章に賞味期限があると思っています。エッセイはタイムアタック。最後まで書いて推敲は後で、この方法で書いています。画面の前から離れても、その日のうちにまた書く時間があればトライ。でも、生活の余白を埋める予定は様々。ひとりで暮らしてないとそんなもの。
だからテーマを用意して、時事ネタや近況報告などが多くなってしまうのはそのせい。
小説だと物語の進行などの設定(プロット)を予め用意して、その時々で思い描く内容を区切りながら「読み切り」スタイルで書き上げますが、エッセイは一度きり。CWS投稿用に下書き保存したエッセイの数は半年で30本・・・・・・といったら、驚きますか。
もっと哲学、とか。
このエッセイを読む確率が高いのはCWSユーザー。現代詩の解体や見解、詩が書けるようになるのがベスト。なんだろうけど、調べるほどに現代詩の文化、歴史とそのものが持つ性質は勉強ではなく実践が必要なのだと思い知らされる。
ちょっと軽い気持ちで────
詩を書いて閉じる分にはいいのよ、すごく。
それを誰かに見せる気にはならないので。あくまでも私の場合。
さて、先日書いてたエッセイが消えました。ノベプラの本文は窓を消しても復元しますが、文章の一部3000/800字程度しか戻らず、改めて書く気が失せる。
二度あることは三度ある
CWS本文に打ち込んだ投稿もエラーで全部消えました。
執筆した時間でいえば4時間、10000字の消失。およそ3話分、それほどボリュームがなかったからいいけど、今後はデジタルノートを利用して手元を整理しながら、投稿に向けた方が読み物はできると判断。
投稿サイトはジャンル別で書き分けて、気分転換できるように工夫しています。
これは受験勉強で学んだ、同じことをやり続けても飽きない方法。
しくじり先生という番組で、オリエンタルラジオの中田敦彦さんが同じ方法で勉強して、慶応義塾大学に合格。あっちゃんが実際にやっていたんだから、マジです。その方法とは?
主要・五教科。
好きな教科から始める。まずは国語、社会。脳が動くようになったら英語、ちょっと休憩にラジオ番組を30分ほど聞きながら単語帳を軽快にめくり読み上げて、次に理科や社会の文章問題を解きながら読書する。数学は短期集中・20分、休憩5分をワンセット4回。それ以上やらないと決めていた。
ある程度のルーティンで脳の活性化をコントロールして、飽きないように長時間の勉強を習慣にする。
これがオリラジあっちゃんの勉強法と一致していたのは、驚きました。
ずっと同じことを集中して続けるとミスが起きるので、たまに体を動かしたり、家族と一緒におやつを食べながら図形を書いて計算、問題集をやりながら談笑する。全く離れるのは部活やバイトをしてる時間だけ、だから家庭ではいつも勉強をして見えたかも知れない。
勉強は成果が伴う。テストの点数が全て。ただ学力だけではない、副教科(実技)の評価も内申点の計算式に入るので、苦手を克服して得意に換えていく努力が評価に繋がる。
ランクは総合的な判断で、単なる自分の立場つくり。当日点が取れないと意味ない。
本番に強くなければ勝てないのはスポーツも同じ。思考を形成する関節環境は整っていたので、課題に対する探求心と問題点のロジカルシンキングを同時に働かせて「なぜ」を解明する私立探偵気味な節がありました。
勉強ができない。
持って生まれて性質上、合わないという人いるけど、苦手意識は要らない。
勉強への興味を損なわないよう、面白く考えるのが私の概念です。
テストに謎解き要素と伏線はないけど、時間内に問題を解き明かすこと。
単純な考察はこうだ。一門何点+問題数=得点の足し算。
まず、名前を書いてプリント全体をよく見る。問題形式(選択問題や穴埋め問題など)の位置情報を指差し確認しながら、指の間を潜らせるペンを掴んで、順番に問題を解いていくことなんかしません。解る箇所から埋めていく。大概テストは範囲を指定されるので事前のチェックと記憶を引き出せるか、ここで命運が別れる。この時点で試されていることに勇敢に挑む。独特な暗記を得意とする私にとって国語と社会は「答えはどこかに書いている」それを時間内にみつけられるか、自問自答より、もっといい方法がある。
例えば、ひらかなで答えがわかるけど、漢字がわからない時は教室を見渡して、ヒントを探す。
振り返ればカンニングの警告で担任の咳払いが飛んでくる、そうなる前の善処として文章のどこかに書いてないか。否、問題の制作ミスに耽る時間が惜しいから、自分の引き出しを開けよう。
わからない漢字が「興」だとしよう。その場合、部首を分解して覚えているので組み上げていく。
さん・どう・は
書き順で上部の左右にを三本線・同・カタカナのハ=興
熊と態は「ム月ヒヒ」クマは四本足、人間は心。こういう覚え方をします。次。
選択、穴埋めの次に抜き出し問題のようなそのまま書けばいい箇所は何を求められているのか明確にしてから目読をして、探す。一番時間がかかるのが、記述。私はこれが得意なようで苦手、短文にまとめるならいざしらず文字数が決まっている場合、自分が何を思い、答えに至ったのかは不要。
作文みたいに感情を述べるのではなく明確さを求められている。
まるで脱獄犯を捕らえるが如くスポットライトを照らして、答えをみつける判断力と決断はスリル満点。そんな性格ですから自己採点にネガティブな要素はなく、少し先の未来の自分に期待しかない。
さて、時間を持て余す連中が物音を立て始める頃、私は何をしているかといいますと。
かきかた鉛筆恋占い。四六時中、何かしらの占いをやってる神妙深い少年まゆ。恋のお相手は皆さまご存じ、平安時代のプレイボート・在原業平。〇〇工業地帯という文字を見たらすぐに「えー、また業平のなりだよぉ」と照れる、あの感性は思春期の恋煩いだったと思いたい。
世の中は頭のいい悪い、できるできないで判断する人が多いくらいだ。
差別的だよね。違いを探し当てることに、何の意味があるのか。
真面目に勉強というものに取り組んだところで、その実であったり目標がないと好奇心が誘惑を掴まえにいく。子供は想像力だけで楽しめるでしょう。お金と実力も社会的信用もないけど、自由な想像を巡らせるのは無料。想像上の自分は強く、無敵で、美少女が自分のことを勝手に好きになる。そんなに俺のこと好き?高まる自惚れと根拠の無い自信を盛り上げて、勇気づける。そんな経験は誰にでもあるよね。
社会にはルールがあって、自分より上手くできる人だけが頭ひとつ抜けて選ばれる。頭のいい悪い、お金の有無や親が許す自由度という格差を一番わかりやすい方法で表現するとしたら「いじめ」集団生活の中ではみんなという単位、意思疎通や明確な言語化を求められます。
弱い者いじめの文化継承もあり、ただ・・・・・・私みたいなうつけを手数で嫌がらせしようものなら、相手が敵わない大人を駆使してやり返すくらい心無いことも子供だからやります、勿論。
いい悪いを決める裁判に被告という立場で、謝罪させてもなお、私にしたことを風化させないよう周囲に記憶させ、相手に何度も嫌な気持ちを思い出してもらう。それで相手の立場が悪くなったら、みんなを宥め、喧嘩はよくないと促し、だけど助けてはやらない。見殺し上等。物の価値観が独特で鈍感だからこそ成せる個性とでもいえば少しは聞こえが良いでしょうか。
故に、内申点の計算式を意識しながら副教科の評価を落とさず学校生活を自ら整えていくことくらい日々の生活として受け止められる。自己管理ができるようになると、将来の目標である進路が見えて来る。やりたいことは大人にならないと何もできないと早い段階で判断がついていたので、将来の夢は「大人になること」支配からの卒業を、誰よりも望んでいました。
途方もない夢はいずれ後遺症に変わって、周囲が目覚ましく成長していくのに夢を信じて貧乏したって己が根性を貫けたらそれでいい意地なんぞ身につけるものではない。貧乏人は意地が悪く、病気の人は現実が儘ならなず捻くれている。そこに他人が許容し、承認できるだけの価値は、あると思いますか。
尊厳として在ること、それは否定しないけど。
留まる者、愚かなりし。/堕天国宣言、戦わなければ愛より尊い花冠は得られない。
子供でいられる時間は短い。成人になるまでの20年、カリキュラムに埋め尽くされた時間をどう過ごして大人になるのか。失敗しながら、成功体験を繰り返して、笑い合う仲間たちといずれ離れていく漠然として未来に何があるのか。期待しながら迎えるより、私は自分で決めたかった。そして、今が在る。
受験生の皆さん
人生に何度しかないチャンスをどうか掴み取って下さい。
足りなかったものは後で幾らでも数えられる。それを減らすことが将来の負担になるので、自分の為に出来る限り最善を、そして自分を大切にしてくれる人に思いやりを忘れずに。
私の場合、長らく続けてきたことは、習慣になり、正確であるほど技術は評価され社会で成立しています。文書制作の仕事や、物づくり、いわゆる手に職という分野が本業。こうしてエッセイを書いていられるのも、過去の自分からの贈り物だと、幸甚に存じます。それではまた別の機会に。
もう1ミリたりとも動けません(悩み多き感情たちの詩 ケース1)
やさしさちゃんは家に帰ると
いつもぐったり疲れている
ベッドに倒れ込んだら
着替えるのもメイクを落とすのも
もう何もしたくなくなってしまう
やさしさちゃんはみんなにやさしいから
みんなに頼りにされている
やさしさちゃんは弱音を吐いたりしない
愚痴も悪口も誰も聞いたことがない
やさしさちゃんは本当に気配り上手
誰にも気を遣わせることなく
さりげなく そっと手を差しのべる
やさしさちゃんは本当にやさしい
誰に対してもやさしい
唯一 自分自身以外には
だから
やさしさちゃんは家に帰ると
ぐったり疲れて
もう1ミリたりとも動けなくなってしまうのだ
冷蔵庫でキンキンに冷やしたビール
グイッとグビグビやるときだけが
やさしさちゃんにとっての至福の時間だってことは
とりあえずみんなには ナイショ
火を見る仕事
<火を見るより>
ふわふわした気分で、ひらひらした服をきて、ゆるやかな顔つきをしてあなたは、あの街をいったりきたりしています。
あの街というのは新宿のような、横浜のような、ひらけた道で、坂をおりて喫茶店街やレコード屋さんのあたりにいくあたり、右手は大きな流れがあって車がよく走っていて、左は高台のようになっているものだから、落ちたらけがをしそうだなと思います。
あなたはずいぶんかわいい服をきて、顔も普段よりかわいい。まっかなおかっぱ頭をして、色白で、赤いリップをしている、それはHに塗ってもらった。慣れないものだから唇のあたりが落ち着かなくって、何度も舌でふれてしまう。ちょっとオイリーな味がします。
頭の中では街のざわめくような喧騒の奥に、チリ……チリ、と焚き火が燃え続けるような音の感じがしています。
用事があるのだけどそのまえに、行きたかったおしゃれな古本屋さんて何かを探している。ヘンだな。これから新宿で、Nさんと打合せにいくのだけど、たしかわたしの誕生日だとゆうのに、HHをおいてへんなおめかしをして。足元はふわりとおろしたてのスカートをはいています。かわいい。そういえばNさんの誕生日にも、なぜか打ち合わせをしたな。あれはでも、誕生日がちかかったというだけだったか。
向こうのとおりで、何やら聞き慣れた楽団の音楽がしています。なにかが開店したのか、それか単なるアバンギャルドな催しなのか。ずいぶんビートがきいている、街が揺れるみたいな、かすかに。
自分が自分でない自分なのだけど、でも自分である感じがしています。そうふわっとした服をきてリップがゆがんでいないか、気にしている。髪型はいつもより整っていて、明るい茶色系、前髪はまっすぐ揃っていて。顔はどうでしょう、いつもの自分なのだろうか、それもよく分からなくて。
骨格はどうだろう、これもいつも通りなら、どうもちぐはぐで、青い、かわいい服にはそぐわない大きめの身体がそこにあるんだろう、それはいやだから、ウインドウなどを目を向けないようにしています。これが華奢な感じで小柄だったらよかった、でもよかったというのは、誰が?
あなたのことなのか。
そう自分が感じる自分がいるものの、その自分がどこまで自分なのか。そうふわふわとしている、気になっていた店があるものだから足はそちらへ向いている。
そうだった、あのいつもの地下道にあるガレージみたいな古本屋。
つきのふね
わたしをひらく いまちつき
わたしをほどく ねまちつき
ここにあるまで すくいます
こぼれつづけど むねのなか
みめいのひがし こおる躯に
いまだしずまぬ おもいふね
地層の調和
朝の鏡に向かって、わたしは「日常」を着ていく。
薄く引いたアイラインと、丁寧にアイロンをかけたシャツ。
それは、今日という日を誠実に歩くための
わたしなりの、清潔な決意。
背筋を伸ばして、誰かの言葉に頷き
ふさわしい言葉を選んで、社会の網目の中を泳ぐ。
その忙しなさも、その責任感も
嘘偽りのない、わたしの確かな一面だ。
けれど。
ふとした沈黙、資料をめくる指先、
コーヒーの湯気の向こう側に。
あの夜の、湿った森が そっと息をする。
それは、今の生活を否定するためではなく
今を支える、深い土壌として。
シャツのボタンの下、
あの繊細なレースが、肌に静かに触れている。
小さな胸が刻む鼓動は、
事務所の静寂の中でも、満月の下と同じリズム。
「ちゃんとやっているわたし」も、
「すべてを晒して震えたわたし」も、
どちらも、地続きの同じ命。
人混みの中で、ふと足の指を丸めてみる。
靴の中に守られたその足裏は、
あの冷たい木の感触を、今も鮮明に引き出せる。
それは、誰にも見えない、わたしだけの「お守り」
取り繕っているのではない。
調和させているのだ。
強さと、脆さを。
日々の光と、夜の月明かりを。
整えられた外側があるからこそ、
内側の熱は、より深く、清らかに澄んでいく。
完璧ではない自分を、
完璧に演じなくていい自分を、
そっと、シャツの下に抱きしめる。
わたしは、この装いの中で自由だ。
誰にも気づかれない場所で、
わたしという森は、
今も、静かに 息づいている。
化け猫の喧嘩
実家の車庫を覗くと
化け猫たちが凄まじい喧嘩をしていた
インターホンの代わりに
雷でも鳴ったかと思ったが
それはうちのキジトラ猫の鳴き声であった
キジトラは人間の五歳児くらいの大きさで
父の赤いジープの真上にどんと乗っている
相手はつやつやした大形の黒猫で
毛を総立ちにしてキジトラを見上げていた
口裂け女のように切れた口を歪ませて
お互いが視線をまともにぶつけている
黒猫がボンネットに跳び乗り
化け猫となったキジトラは雷鳴を轟かせ
大きな右手で黒猫をはたこうとした
調子づいた黒猫は身を低くしてそれを交わし
逆に
黒猫の鋭い左手の鉤爪が
うちのキジトラの横顔を引き裂こうとした
その瞬間
「後生だからやめてくれ!」
と僕は叫んでいた
キジトラと黒猫は瞬時に元の猫の大きさに戻り
叫んだ僕の方を冷ややかに見つめながら
そのまま
窮屈そうにお互いの毛繕いを手伝い始めた
父の車は無傷のまま
かたかたと音を鳴らして揺れていた
Nothing's gonna change my world
時間はもはや刻まれるものではない。それは、葉先に結ばれた露の重みが耐えかねて、土へと還るその瞬間の滴りにのみ測定される、極めてあわい情緒の集積だ。
私は、鋭利な鋏を振るい、世界の余分な枝葉を切り落とすことに汲々としていた。輪郭を整え、意味を矯正し、まるで一輪の「正解」だけを愛でる無機質な園丁。しかし、今の私はただ、土に還る途上の沈黙を、肺胞の隅々にまで浸透させている。生命の終着点こそが、新たな言語の産声であることを知ったからだ。
頭上を覆うカラテアの波打つ葉。夜には祈るようにその身を閉じ、朝には世界の光を両腕に抱きしめる。その密やかな律動を、私は自身の鼓動として複写(トレース)する。葉裏に潜む深い紅色は、かつて私の内側で暴れていた情熱の、穏やかな成れの果てだ。燃え盛る炎はいつしか静かな残り火となり、今はただ、記憶を滲ませる色彩としてのみ、そこに在る。
アジアンタムの繊細な小葉が、目に見えない空気の震えを慈しむように掬い上げている。その淡い緑の群生は、かつて私が紡ぎ、そして捨て去った無数の言葉の断片だ。意味という重荷から解放されたそれらは、今はただ、風の行く末に身を委ねている。記憶を宿していた場所には、クビアクシの蕾がしどけなく垂れ下がり、私がこれまでの人生で飲み込んできた光の総量を、静かに計量している。
私はこれらの「沈黙の会話」を、皮膚を通して翻訳し続ける。
色が自身の魂に浸食していくのを、ただ許すこと。私という個体を記述することを、私はあまりにも自然に忘却していく。葉脈が描く緻密な地図と、光が土に溶けるまでの階調(グラデーション)。その膨大な情報の連鎖の中に、私は一滴の養分として溶け落ちていく。
かつての私は、大切な真実を守るため、言葉の隙間に膨大な砂嵐――無意味なノイズ――を紛れ込ませ、堅牢な鍵をかけてきた。広大な砂漠に一粒の真珠を放り込み、風に舞う砂利でその輝きを覆い隠すような、不毛な防衛。
けれど、この園の住人たちは、全く別の術(すべ)を私に教える。
彼らは青緑であり、深紅であり、あるいは透き通るような琥珀だ。色彩を、情報の織り糸に加えたなら、世界はどう変わるだろうか。
白と黒だけで描かれた点描画の中に、一滴の「青」を混入させる。ただそれだけで、砂嵐の深みは底知れぬものとなり、真実を探り当てようとする者の目は幻惑される。情報の粒が単なる光と影の反復から解放され、色彩という多重の深みを持つとき、守るべき秘密はより強固で、より優美なヴェールを纏うのだ。
驚くべきことに、色彩を宿した手紙は、かつての砂まみれの長大な巻物よりも、ずっと短く、軽やかだ。多くの言葉を連ねる必要はない。ただ一色の深みに、千の言葉を託せばいいのだから。
かつて、私もまた、あまりにも単純な法則の中で真理を固定しようと足掻いていた。けれど、カラテアの葉裏の紅や、スパティフィラムの仏炎苞(ぶつえんほう)が放つ清冽な光を見ればわかる。この世界を記述するのに、言葉という道具はあまりにも不十分すぎるのだ。
この園で私が吸収している沈黙は、単なる欠落ではない。それは、未来の秘めごとを綴るための、膨大で極彩色のパレットだ。
これは叫びではない。満たされた生命が、その幸福な重みに耐えかねて零した、透明な蜜のしずくだ。
その蜜の一滴一滴が、光と影の隙間に差し込まれる、新しい色彩の階調(ニュアンス)となる。
ああ、風は歌い、葉は踊る。
この宇宙の片隅で、全てはより深く、より鮮やかな沈黙へと、書き換えられていく。
詩人の悩み
痛みゆく風景に
カッターで切り刻む
やってはこない夏に
僕は
とんでもない罪を背負ったと
頭の中で想ってしまった
どれほどの罪を
風景
今は亡き風景が
癒してくれるだろう
なんて考えて
夜も眠れずにいた
なんてちっぽけな
心よ••••••
心がいつも
雨に濡れるとき
私は笑えずに
そうしていつも詩を
書いてゆく
書いていたら
人々の胸の痛みに
ナイフが突き刺さるのではないかと
心配してしまう
心配して
詩なんか
やめよう
やめよう
と心をなだめる
言葉の波を
めくるとき
言葉で人を救うことなんて
できないと
知ったから