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横浜駅で電車を降りた。夕方のホームは人であふれていた。凛の父、朝倉和真は人の流れに押されながら歩き、ポケットから携帯を取り出す。画面を見た瞬間、足が止まった。凛からの着信が並んでいる。1件や2件ではない。いくつも続いていた。その下に、見覚えのない番号がある。
和真の心臓が強く打つ。
後ろから肩がぶつかった。
「すみません、止まらないでください」舌打ちまじりの声が飛ぶ。和真は我に返り、慌てて人の流れから外れた。ホームの端にある椅子まで歩き、そこに腰を下ろす。胸がまだ速く動いている。和真はすぐに凛の番号を押した。数回の呼び出し音のあと、凛が出た。
「凛、すまん。今気づいた……どうした」
息がまだ整っていない。
「お母さんが倒れて……今、病院」
和真は言葉を失った。
「え……大丈夫なのか」
「いま先生の説明を聞いてるところ」
凛の声は落ち着いていた。
「どこの病院だ」
「青葉台総合病院」
和真はすぐに立ち上がった。
「分かった。今から行く」
「うん」
通話はそれだけで終わった。和真は携帯を握ったまま、しばらく動かなかった。数時間前の着信が並んでいる。凛はずっと連絡を取ろうとしていた。和真は改札へ向かった。
病院の廊下は静かだった。凛は椅子に座っている。携帯を握ったまま、うつむいていた。和真は凛の姿を見つける。歩み寄る。だが、すぐそばまでは行かなかった。少し離れたところで立ち止まる。
「凛」
凛は顔を上げない。
それ以上、和真も何も言わなかった。
しばらくして処置室の扉が開いた。白衣の医師が出てくる。和真を見る。
「ご主人ですか」
「はい」
「奥様のことでご説明があります。こちらへどうぞ」
医師は説明室の方を指した。
凛は立ち上がる。携帯を握ったまま、二人のあとを歩く。小さな部屋だった。机と椅子があるだけの簡素な部屋。和真と凛は並んで座る。凛はうつむいたまま顔を上げない。医師は椅子に腰を下ろした。
「まず、命に関わる状態ではありません」
和真の肩の力が抜けた。
「ただ、かなり無理をされていますね」
医師は続ける。
「疲労と脱水が重なった状態です。血圧も少し高くなっています」
和真は黙って聞いていた。
「今日はこのまま入院して、点滴を続けた方がいいと思います」
和真は深く息を吐いた。
「そうですか……よろしくお願いいたします。」
それ以上の言葉は出てこない。説明は長くはなかった。
部屋を出る。廊下の空気が戻る。和真は凛の方を見た。凛はまだ顔を上げない。携帯を握ったまま、視線を落としている。和真は少し近づいた。だが、触れはしなかった。
「大事じゃなくてよかったな」
和真はそう言った。
凛は小さくうなずく。
「うん」
それだけだった。
和真は凛の横に立った。
凛は椅子に座ったまま、顔を上げない。和真はその様子を見ていた。疲れているだけかもしれない。今日のことが大きすぎたのかもしれない。それでも和真は、凛の横顔に、どこか違うものを感じていた。和真は廊下に残ったまま、しばらく動かなかった。
おまえがほしい
マーガレットに結いあげて
環にした三つ編みの
うしろの髪飾りが
らしくもなく白い時
おまえがほしい
ネイビーカットの煙草を
斜にかまえた華奢な指に
エナメルのマニキュアが
したたるように黒い時
おまえがほしい
シースルーのフェイクファーに
漉された光線の中で
胸もとを走る静脈が
なぞのように青い時
おまえがほしい
ウォーキングベースの音階が
ばらばらと降りかかり
ストローに残った口紅が
ひた赤く赤い時
おまえがほしい
からっぽの世界
早朝の飯田橋駅ホームで
警察に保護された
黄色い線の前で
放心していたらしい
係官の取り調べにも
まったくの上の空
妹が駆けつけた昼下がりには
親指の爪を嚙みちぎっていた
どのみち残されているのは
付録みたいな余生だから
辛い仕打ちには一通り遭った
あとはお迎えを待つばかり
新宿駅に着いたら
トイレの中に立てこもって
両親の眼を盗んで
改札口へ逃げ込んだ
病院と実家との往復
自傷と薬漬けの日々
心安まる居場所は
東中野の安アパートだけ
差別されても友達作った
虐待されても恋人許した
洗脳されても仕事続けた
魔法が解ければ元の木阿弥
団地の十一階の外廊下から
夕暮れの郊外が見える
ぎざぎざになった爪を嚙むと
手すりの上に立った
ここは一体どこなんだろう
私は一体誰なんだろう
電車はどうして来ないんだろう
心に「死ねスイッチ」の入る時
坂下の図書室までの旅
春はまだ
だが冬はようやく過ぎて
そしてあかるさは増しつつ
あちらこちらから雪融けの水の音が聞こえて
手袋やらゴミ袋やら犬の落とし物やら
冬の残した遺留物の現れ始めた、ちょっと
生臭い匂いもする坂道を私は下ってゆく
有島さんに関する本を紙袋に入れて
公園の樹々からのカラス共の鳴き声も
食べ物を探して広場を歩くハト達の身ごなしも
うす曇りの空に凧のように浮かんでいるトンビの姿も
どこかいくぶんの安堵を感じさせ
訪ねて来る者もなく
何処へゆく場所もない私は二週に一度
坂の底にある図書室までを歩き
十冊ほどの本を袋にまた陋屋へと戻る
有島さんはなぜ死んでしまったのか?
ぶらさがった二つのカラダが私の頭から離れない
昔、この街には有島さんが住んでいた
若く美しい夫人と暮した川沿いの家の庭には
春になると桜が満開だったことだろう
漁師町に住む青年が自作の絵を携え
前ぶれもなく訪ねて来たこともあった庭のその桜
あの桜の子孫たちはいま何処にいるのだろうか?
あ!あれは数少ないわが友人だったサトウくんの父上ではないか!
(彼は遠くへ行ってしまったが)
「どちらさんでしたっけ?」
怪訝そうな父上は私を思い出してくれたのかどうか定かではないが
「明日は友達とイシカリさ、釣りに行きます」と教えてくれる
昨年倒れて入院されていたと聞いている父上には
ひと月前に同じこの路上で遭って以来ではあるが
自ら死を選んだ人は謎を残すというけれど
まだ生きている人だって謎ばかりだ
ふっと私もあちらへ行きたくなることがある、でも
私がいなくても、春の水は春に流れるが
私がいるから、春の水が春に光るのだろう
何処へゆくお金も
釣りに誘ってくれる友だちも
一緒に死んでくれる女もいないが
図書室で次に借り出す書物は決めてある
有島さんを訪ねた「漁夫画家」に会うために
前ぶれもなく漁師町の傾いた家を訪れた
八木さんの本にしようと決めてある、そして
青空にドストエフスキーの髯のような雲の浮かぶ測量山のムロランへ
道の両側を落葉松の原始林が途切れなく続くカラフトへ
赤い裸電球とベッドの他には何もない木賃宿のハルピンへ
娼婦たちを訪ねて暗い一郭のトウキョウへと
ちょっと出かけてみるつもりなのだ
春はまだごく浅いけれど
◎註
*「漁夫画家」は有島武郎(一八七八~一九二三)作の小説「生れ出づる悩み」の作中人物「君」のモデルである木田金次郎(一八九三~一九六二)。木田は北海道岩内町出身の画家。岩内で漁業に従事しながら絵を描いていたが、有島の死後は画業に専念した。
*「八木さん」は室蘭出身の作家八木義德(一九一一~一九九九)。
旧制室蘭中学に在校中、剣道部の先輩から奨められた有島の「生れ出づる悩み」を読んで文学に開眼、その後入学した北大水産学部を自主退学後に上京、二十歳で左翼運動に関わり仲間が逮捕された報せを受け満州に逃亡、ハルピンで自殺未遂、故郷室蘭の警察署に勾留された後、転向した。
測量山は室蘭市清水町にある標高一九九mの山で周辺の市街地、室蘭港、噴火湾などが見下ろせる。室蘭警察署の留置場を出て実家に戻った(実母の黒髪は頭半分から白髪に変わっていたという)八木は転向後の失意と無為の日々の中、人目を避けるようにして毎日測量山に登り、携えていったドストエフスキー全集を一冊、また一冊と読破、最終巻「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた後、自分も小説を書いてゆこうと決意する。
八木はその後再上京、早大仏文科に在籍、同人雑誌に拠り創作を始める。北大在学中の樺太旅行の途次、宿賃が払えなくなって従事させられた缶詰工場の過酷な労働体験を描いた「海豹」で注目され、中国に出征中の1944年に「劉広福」で第十九回芥川賞を受賞、戦後に帰還した後、空襲による妻子の死を知り「母子鎮魂」を、娼婦との交流を描いた「私のソーニャ」を発表、職業作家として歩き始める。
八木は一九五二年、岩内に木田金次郎を事前連絡もなく初めて訪ねた折のことを短篇「漁夫画家」に描いている。しかしその二年後の岩内大火により、木田は自宅に置いていた作品の大半を焼失することになる。
yuge
魚が好きな母へ
親鳥みたいに
あれこれ運びます
煩わされずに食べられる、と
あなたは平気で言うけれど
タラも海老も
食べなくたっていいんです
そばに猫さえいてくれれば
お椀によそったスープを
見つめていると
ゆらゆらと、なみだちます
人間喜劇
人生なんてコメディーだよ
そうだろ?
ひっくりかえせば
何もかも笑えちまう
不幸だって?
ごまかしちゃいけないよ
人間喜劇には最高のネタ
あっちフラフラ
こっちフラフラ
酔っ払いが街を行く
真実なんてものを知るのが
誰も怖くてたまんないから
ホラ 見て
向こうの方でバカがひとり
ヘンチクリンな歌を歌ってる
人生なんてコメディーだよ
そうだろ?
ひっくりかえせば
何もかも笑えちまう
☆★*〜*★☆*〜*☆★*〜*★☆
大分むかしに描いた詩ですが^^;
ヘンチクリンな歌を歌ってるバカは、わたしです
瞼を閉じれば
瞼を閉じればそこにあなたがいる
優しい笑顔
差し出された手
全て私に向けられている
なんて幸せなんだろう
瞼を閉じればそこにあなたがいる
優しい笑顔
差し出された手
その手を握ろうとしても
手は空を切る
なんて寂しいんだろう
瞼を閉じればそこにあなたがいる
優しい笑顔
差し出された手
触れられないけど
それでも目の前にあなたを感じていたいから
私は瞼を閉じる
瞼を閉じればそこにあなたがいる
本当にあなたが居てくれたらいいのに…
やぁ、やぁ
縁側に坐る
(ここは何処だったか?)
手を振る、段々と近づいてくる
(あれは誰だったか?)
やぁ、やぁ、と
風と樹々が挨拶を交わして
素知らぬ顔で川はせせらいでいる
井戸の水は良く冷えていて僕は
そろそろやってくる人に茶を
淹れ始めるのだ、汗が噴き出る
そろそろ世界が終わるそうですね
飴玉
飴玉コロコロコロロロリ
何に押され転がる飴玉は
飴玉コロコロコロロロリ
何が追うやら飴玉を
飴玉コロコロコロロロリ
何を見付け止まる飴玉よ
飴玉コロコロコロロロリ
あの子の膨らむホッペから
飴玉コロコロコロロロリ
こぼれる笑顔が甘くて眩しいね
短編小説『明日のおやつ』(『いちごみるくのキャンディ』改題)
「母が亡くなりました。残っている猫たちについては……」
愚痴でその存在を聞くだけだった佐藤さんの息子さんからの着信。アスファルトに照り返されながら項垂れたわたしは、ひたひたと夏に溶け出し始めていた。
夏にはたくさん溶け出して、冬にはよく凍る。わたしは十八を超えたあたりからそういう体質に変化した。母もだいたい二十代にはそうだったと言うし、だいぶん前に亡くなった祖母も、四十をすぎた頃にはよく夏に溶けていたと母から聞いた。
もうほとんど意識がなくなりそうに暑い。最後の最後に自宅のドアの前で鞄のなかの鍵を見つけるのに戸惑って、苛つく。そして、やっと取り出した鍵が佐藤さんの家の合鍵だった時、わたしはもうどうしようもなかった。
自宅にいる三毛猫のなつみのために室温は24度になっていて、帰るなり、涼しい空気に迎えられる。
なつみは佐藤さんが助けた猫のうちの一匹で、わたしが依頼し、捕獲してもらった子だ。
なつみ、と呼ぶと、尻尾だけが動いて、でも返事はない。なつみはこういう子なので、反応はいつもこんなものだ。
夏用ひんやりカーペットに転がっていたなつみのふわふわした腹に手を入れ、抱き上げる。なつみは迷惑そうにしている。おやつははずんでよね、というむすっとした顔。
わたしはなつみの背に顔を埋めて深呼吸した。なつみの、人間のよりずっと速い鼓動を聞くと、少し気持ちが落ち着いた。
あのさ、なつみ、佐藤さんっているでしょ。
覚えてるよね、佐藤さんがさ、あの……。
いや、また話すわ。今日夜出かけるからね。お留守番しててね。
解放されたなつみは、わたしの様子を見上げたあと、大事そうに肉球を舐めた。
佐藤さんが亡くなった。
そう言葉にすると、それが現実になるようで怖い。いや、現実に佐藤さんはもう。でも、こんな急に、いなくなるって許されるのか?
わたしはこれまでに経験した他者の死を想いながら、クローゼットを漁り、黒のストッキングを買わないといけないと結論付けた。
ストッキングが伝線しないよう、足の爪を短く切っていると、着信があった。発信元を見て、要件を察する。
わたしはその電話に出ない。佐藤さんの猫ボランティア仲間からの着信は、留守番電話につながって、わたしは発信者の声が七割程度の精度で文字起こしされるのを息を詰めながら見ていた。
佐藤さんのこと残念です。
その文字だけが網膜に印字されたようにどぎつく見えた。
では後ほどお通夜で。
無意識に止めていた息をふぅーと吐き出しながら、わたしは携帯を裏返した。しばらくは誰の声も入れたくなかった。
亡くなった佐藤綾子さん家の猫は、歳をとっている子が多くなってきていた。佐藤さんが見送るはずだった猫たち。
シニア猫や病気で介助が必要な猫、次々とさまざまな猫の顔が浮かぶ。佐藤さんが個人で猫の避妊去勢をした上で必要があり、保護をした猫たちは、佐藤さんがあと五年余り生きれば、全てを見送れるはずだった。ただ、佐藤さんは昨晩亡くなってしまったらしい、コロリと。
コロリと死んだことを佐藤さん自身はどう感じているだろう。無念だろうか、一抜け! だろうか、わからない。佐藤さんはどう思っているだろう。
今頃、彼女が見送ってきた、たくさんの猫に囲まれて、あちらでしあわせにやっているのだろうか。もうなにもかも平気になってしまったのだろうか。置いていかれた人間にはわからないことばかりだ。
わたしが、夏の暑さに溶けてしまった下半身を掬い集めている間に、死んでしまった佐藤さん。一昨日、猫の世話であったばかりだ。下半身が溶け出すと、トイレに行けなくて困るから、昨日は佐藤さんの家に手伝いに行けないと連絡をしたばかり。
ok、体に気をつけて! と返信が来たのに、それっきり死んでしまうなんて聞いていない。
わたし、あなたの相棒なんじゃなかったでしたっけ。相棒の体が溶けてる時に、死んじゃわないでくださいよ。
それに、もし佐藤さんが死んでしまうなら、もっと話したいことがあった。
佐藤さん家にいる猫のこと、ボランティア仲間の誰がどの子を引き取るか。これからわたしはどうすればいいのか。いい大人なのに、つい何もかもを決めてもらいたくなる。
いや、そんなことは本当は、どうでもいい。わたしが佐藤さんと話したかったのは、そうだな、たとえば一昨日の帰りに、「飴食べて!」と、くれたいちごミルクのキャンディ、あれ、わたし食べられないんですよ、ほんとは。
ただ、佐藤さんがずいっとわたしに押しやってきたから受け取っただけで。わたしこれをたべるとそわそわするから。おばあちゃんを思い出して、という話。
1997.夏
わたしが子どもの時、あれは5歳のとき。祖母はいつも黒飴といちごミルクのキャンディをテーブルの上の折り紙でできた箱に入れておいていた。折り紙の色は季節や月によって色を変えてあって、そういうことを大事にする人だったんだなあと、三十になって、やっと祖母の輪郭の一部を掴んだ感がある。
わたしは一度、いちごミルクを喉に詰まらせて、母にそれを吐かされたことをまだ覚えている。ゲポッという音を立てていちごミルクが喉から出た後、昼に祖母や母と食べたゴーヤチャンプルーや白米もわたしは吐き出した。吐瀉物の海に混じったいちごミルクのキャンディがきらきらぬめらかに光っていた。その光景が奇妙に目に焼き付いている。
母がわたしを寝かせた後、祖母に懇々と話しているのが、襖越しに聞こえた。
「ああいうのあげないでって言ってるでしょう。メイコに不自然なものはあげたくないの。それに喉に詰まらせてるのに、母さんオロオロするだけだったじゃない」
祖母の返事は聞こえなかった。ただ、次に祖母の家に行った時、テーブルの上の折り紙でできた箱には、黒飴しか置かれていなかった。わたしもなんだか気恥ずかしくて、この前の嘔吐のことには触れずにそうめんをいつも通り3人で食べた後、祖母とわたしは昼寝をした。
祖母の家から自宅へ帰る時、祖母がこっそりわたしの手にいくつかキャンディを握らせてくれた。
そこにはいちごミルクのキャンディもあって、わたしはちょっと緊張した。お母さんはどう思うだろう。わたしはそれを黙ってポッケに入れて、祖母に手を振り、母の車に乗り込んだ。
祖母に最後に会ったのは、祖母が施設に入る前日の食事会だった。わたしは中学生になっていて、久しぶりに会う祖母の痩せ方に驚いた。ただ、祖母はメイコちゃん、かわいくなったねえ、と言ったきり、それ以上言葉を発さなかった。
ただ、三人きりの食事会で、ただにこにこしているばかりで、何も話さない祖母。わたしは、そわそわした。何かを話さなくてはと、空回って、母に笑われた。母は今だってそのときのわたしをネタにする。食事会の最後、母が会計をしている時に、祖母が小さな声で言った。
大丈夫よ、メイコちゃん。
わたしは頷いた。中学生でもわかることはある。三度頷いたあたりで目が潤み始めたので、わたしは天井を見上げてやり過ごした。大丈夫という言葉は、時々、本当に何の足しにもならずに、むなしく宙に浮く。
お母さん、佐藤さんが亡くなったって。お母さんは佐藤さんのこと知らないもんね、言ったってしょうがないね。お母さん、この夏何回暑さで溶けた? わたしは五回。こう暑くちゃいやんなるよね。
三年前と少し前、家の近所に小さな三毛猫が暮らしていた。毎日会っていると自然と情が移る。
ねえ、今日はとても暑いね、お水飲めてる? だとか、ああ、ご飯くれる人が来たよとか、そうやって毎日話しかけていると、本当に馬鹿になってきて、一人の人間が、この子に何か出来ることがないかを本気で考え始めてしまう。なにせわたしはその子以外には誰も話し相手のいないような人間だったので。
市のホームページを見たり、外猫の暮らしを調べたりするうちに、わたしはこの子が99%メスで、次の春には子を産むことを知った。
地区名とボランティアとsnsの検索欄に入れて、確定ボタンを押すと、たくさんの情報が出てくる。そしてわたしはそこで佐藤さんを見つけることになる。
捕獲機と名刺を持って現れた佐藤さんは声が若々しくて、見た目も溌剌として、とても六十代半ばのひとには思えなかった。
ただ、Tシャツの背中に信じられないくらいの量の猫の毛がついていたことには驚いた。
それから、三毛猫が捕獲機に入るまで、わたしたちは佐藤さんの車で待機した。
独特の緊張感に包まれた車内で、わたしが無理くり何かを話し出そうとしたとき、車の外から、ガシャンという、自転車がぶつかったような音がした。
佐藤さんは、「猫ちゃん、入ったみたい」と車から出て行き、わたしもその後をもたつきながら追う。
捕獲機の前に行くと、いつもの三毛猫が小さく暴れながら直方体の捕獲機に入っていた。手汗で溶けかけていた手で、思わず捕獲機に触れようとする。「危ないよ」。佐藤さんが、大きなタオルを持ってこちらに来た。
猫を落ち着かせるために、佐藤さんは捕獲機にタオルをかけた。そして、「これで完了! あとはこっちで病院連れてくから。お代金だけいただくね」、と言って額の汗を拭った。
「また、ここにちゃんと戻すから、心配しないでね」
佐藤さんの言葉に、わたしの左手がゆるやかに溶け出す。また、この暑い中この子はここに戻される。これから寒くなってもこの子は外で暮らすこの子の将来を考えるざるを得なかった。
「この子、この子飼っちゃいけませんか」
佐藤さんは少し悩んだ後、「大変だよ、人慣れもしてないから」と答えて車の後部座席に三毛猫の入った捕獲機を乗せている。
「でも、いいです。わたし、この子に何かしたくて。毎日、会ってるから、情が移っちゃってて……」
ふう、と言いながら、こっちを見た佐藤さんは、まあとりあえず病院。話はそれから、と言った。
「あと、あなたが良ければ、私の家に来ない?」
わたしはなつみと暮らし始めるまで、猫に触ったこともなかったし、しかもなつみはなかなか手強いやつだった。触らせてくれるどころか、シャーシャー、ウーウー唸って、一緒に暮らし始めた頃は、大変なことをしてしまった、と自分の決断の甘さに泣きそうになった。
元の場所に戻したいなどは一切思わなかったが、ひとつのいのちのあり方を自分が、自分のしたいように捻じ曲げて家に入れたわけで、最初のうちはよくメソメソしていた。佐藤さんは呆れ果てていたのだと思う。
すぐにびびってしまうわたしを尻目に、佐藤さんはわざわざ家にきてくれて、易々となつみに手を伸ばし、容赦なく猫パンチをくらって、もとから傷だらけの白い手に、傷口を増やしていた。
それからもう三年、毎日のように一緒に彼女の家の猫の世話をして、だいたい猫の話と日頃のお互いの愚痴を話していた。
佐藤さんの家の猫みんなのトイレと、ケージ内の掃除をする手伝いをして、地域の誰かに頼まれれば、捕獲をする佐藤さんの手伝いをした。
よく一緒に料理をしたり、持ってきた季節の果物を、(リスのように)、分けたりもした。佐藤さんの得意料理は、里芋の煮っころがしで、わたしもその作り方を習った。
家で里芋の煮っころがしを作って食べると、佐藤さんの作ったものと少し味が違うので、そのことを話したことがある。おばさんの手から出る出汁じゃない? と佐藤さんは笑っていた。
料理中、換気扇の近くで話しかけると、お互いの声が聞こえずに会話が滞って、思わずお互いに笑ってしまうことがよくあった。ごめんごめん、また後で言うね。また後で言うね、って佐藤さん、また後っていつですか。
一昨日の夕方はまだ、出回りたての梨を剥いて、ふたりで食べていたのに。これは明日の方がいいんじゃないですか? というわたしの疑問はスルーして、明日には明日のおやつ! 今日は梨の気分! と佐藤さんは嬉しそうに梨の皮を剥き始めた。
佐藤さんの梨やりんごの剥き方は大雑把で、ところどころに皮が明らかに付いている。わたしや母とは異なる剥き方だった。
各家庭の味ですねえ、とわたしは内心で呟き、口内でざらつく梨の皮を飲み込んだ。りんごはいいけど、梨はちょっと皮が気になって、今度はわたしが剥くことにしようと思った時の、わずかな違和感。
でも佐藤さんの包丁使い、こんなんだったっけ? 梨に爪楊枝を刺している佐藤さんの手はこんなに皺が多かったっけ?
わたしは、ざらついた心のなかを、足元にいた茶トラの小太郎を撫でることで潤していた。
小太郎がわたしに猫というものを教えてくれた。猫というものはね、というように。
最初は、新入りのわたしを少し離れたところから見ていた小太郎が、そのうちこちらへ近づいてきてくれるようになり、わたしはこの子に猫との関わり合い方を教えてもらった。
近頃は歳をとって、よく眠るようになった小太郎。わたしはこの子が大好きだった。
家のなつみは、三年の間でわたしに、だっこをさせてくれるようになったが、やはり気まぐれで、大体の場合わたしに抱かれるのを嫌がる。
小太郎は抱き放題、撫で放題で、ひっくり返ってわたしに腹を見せていた。細かいことは気にしないタイプで、他の猫にも友好的だった。
佐藤さんに何かあったら、わたしが小太郎を引き取ることになるんだろうか。そんな考えを打ち消して、その朝に見た朝ドラの話ばかりしていた。竹野内豊は最高だという意見の一致を見て、わたしたちは満足した。
そののち、佐藤さんは休憩と言って10分ほど仮眠した。疲れが溜まっているのかやけに深い眠りに感じられた。
佐藤さんはよく自分の家の猫の真似をして、わたしを笑わせた。佐藤さんは笑わせるために、そんなことはしているわけではないのに、わたしは思わず笑ってしまい、いつのまにか佐藤さんもつられて笑っていた。
あなたは、笑ってた方がいいよ。佐藤さんはよくそう言ってくれたが、わたしは年相応の人付き合いの経験もなく、佐藤さんの知り合いとたまにお話しする程度だった。
あなたには、あなたのやり方や生き方があるから。と佐藤さんはよく慰めてくれたが、わたしはただ気が弱いだけで、やり方もライフプラン何もなかった。なのに、なぜ佐藤さんはわたしなんかを側に置いてくれていたのだろう。
これもお得意の慈善事業の一環だったのだろうか。それを聞いたら、佐藤さんはまた、「卑屈ねえ」、と笑うだろうか。それとも、図星をつかれた、という顔をするのかもしれない。
直近では二匹の猫が亡くなり、わたしはおおいに泣いた。亡くなった猫に花々を組んで、またね、と言って佐藤さんと動物霊園のある寺へ連れて行き、葬式をあげて見送った。最後に亡くなった子に触れるとき、いつもさみしさが頂点に達する。
さみしくなりますね、と佐藤さんに話しかけると、彼女は頷いたきりだった。二人ともドッと疲れて言葉を発する余裕もあまりなかった。猫が亡くなってしまった、というよりも、無事にその子を見送れた、という感情が胸を占めた。
いつか、同じように猫を空へ見送った帰り、佐藤さんの運転でわたしたちは疲労をとるべく、喫茶店に向かっていた。甘いものでも食べなければやってられないと2人の意見が一致したのだった。そのときの、佐藤さんの、「相棒に何かあったら困るから、安全運転!」という言葉にわたしは笑った。
あのときも思ったけど、わたしは、佐藤さんの運転で死ぬなら、それはそれで幸福だったな。だってわたし佐藤さんとくらいしか出かけないし、助手席乗らないし、わたしが死ぬなら、佐藤さんと死ぬんだろうな、なんて、考えてました。
わたしは、佐藤さん、わたしはね。わたしはそれも一つの形だったと思うんですけど、なんでひとりで死んじゃったんですか。わたしだけが残ったってしょうがないでしょうよ。
でもあれか、わたしたち干支3回り違いますもんね。順序ってものが、ありますよね。そうですよね。少しだけ、納得できたかもしれません。
佐藤さん、来ました、メイコです。と声をかけて、棺の小さな窓を開け、彼女の顔を見た。化粧をされていて普段よりずっと綺麗に見えるが、どこか作り物めいて見える。猫たちと過ごす過程で、死を散々経験したのに、わたしはこれまで何を学んできたのだろう。
ああ、あ。と、猫が肛門から捻り出す便のように、自然と声が漏れ、わたしは夏に包まれていた。止まらなかった。
ばかやろー! なんで死んでるんだよー! わたし寂しいじゃないですか。佐藤さん、まだまだ一緒に話しましょうよ。猫一緒に撫でましょうよ。
蛇口を逆さに向けて捻ったみたいに。
残された猫の分配を話し合いたそうにしていた人たちが、夏の来たわたしの姿を、驚愕の目で見ている。
人の輪に加わらねばならないが、そうはできなかった。大量の涙が、異常な水量で、部屋を支配していた。わたしが座っているあたりの水たまりは面積を広げて、そのままついに床が浸水し始めた。そこらじゅうで数珠やハンドバッグが水面に浮かんでいる光景に、涙を止めなければ、と思う。
佐藤さん、わたしあなたがいないとこうなんですよ。わたしはついにぷかぷかと浮かびながらひとりごちる。
ひとは怖くて、緊張で、寒くて、凍りついちゃって、本当は佐藤さんくらいしか緊張しない人いないんです。佐藤さんや猫たちがいない、そうなったら、わたしどうしたらいいんですか? わたしがかわいそうだったから、一緒にいてくれたんですか? 相棒とか、そういうのは、全部嘘だったんじゃないですか?
そのとき、猫の鳴き声が一つ二つと聞こえてきた。わたしはじぶんの作った川をかき分けて鳴き声のした方へ向かう。
ゲボみたいな日常のなかの、いちごミルクのキャンディ、あの幼い日の。
数秒、わたしは佐藤さんの死自体を失っていた。わたし、生きている。
足元では、いつの間にか小太郎が、黒いストッキングに体を擦り付けていた。小太郎を抱き上げて皆の輪に入る。小太郎がわたしの手を舐めながら、なーんと鳴く。わたしはそれを抱きしめて、涙声で、大丈夫よと囁く。
大丈夫、という言葉は時折むなしい。ただ、わたしの口から自然と出たのは、その言葉だった。
わたしが佐藤さんに言えなかったことなどほとんどない。いちごみるくのキャンディのはなしは、してみたかったかもしれないが、しなくてよかったものなのかもしれない。
佐藤さん、わたし、なんていうか、すごく生きてる、あなたと一緒に。
佐藤さんの通夜は、猫たちの鳴き声や存在で、にぎやかなものになった。
通夜に来る人たちも、かわいいねえ、と喪服にも関わらず、猫たちをなでていた。小太郎も知らない人相手にも、体を触らせてやっていたし、特に人懐っこい子たちは、すりすりといろんなひとに擦り寄っていった。
黒い衣服につく猫たちの毛。それをうれしそうに摘んだり、コロコロをみんなで回して使う人々。黒いストッキングも、黒靴下もみんな平等に毛だらけになっていた。
わたしも不思議と凍りつくことなく話すことが出来たし、ヒヤッとする感覚がしたときは他の人たちが助けてくれた。
これは今日限定の現象だろうか、わたしが心をひらけば、助けてくれるひとは案外といるのかもしれないと妙な感覚になった。
それでも、喪失は、かんたんに乗り越えられるものじゃない。
通夜からの帰り道、すっかり靴擦れした足を引き摺りながら、トボトボ歩いていると、佐藤さん家の猫部屋に近い匂いのする場所があった。わたしは思わず顔を上げた。
そうしてあたりをきょろきょろすると、犬の形の飾りのついた古めのお宅があり、そこの玄関には、わんちゃんシャンプー、どうぞおためしあれ、との文字。
わたしは声をあげて泣いた。どうぶつの匂い、猫、佐藤さん。わたしは夏の夜の熱気ごと抱きしめるように、膝を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
後ろから自転車でこちらに向かって来た男性に尋ねられ、すみません、大丈夫です、とだけ答えたが、こんなにも宙ぶらりんな大丈夫も少ないだろう。
具合悪い? いえ、大丈夫、大丈夫になりました! わたしの急な空元気に、男性も面食らっていたが、わたしは靴擦れの足に負けず、なつみの待つ家に帰った。
*
喪服にコロコロをかけて小太郎たちの毛を取って、クローゼットに今日着たもの一式を入れようとしたとき、ニー、と高い声を出しながら、なつみがストッキング越しにわたしの足に触れた。
なつみの頭を撫でようとかがむと、その動きに驚いたなつみが、急に体を後ろへひいたので、見事に黒いストッキングは伝線してしまった。
あ! と声を出したときにはもうストッキングには線が入っていて、なつみはしらんぷりでわたしの足元に座っている。
ありゃりゃ、と言って、なつみの肉球を押して爪を出すと少し伸びていた。爪を切られることを察知したなつみは一目散にわたしのベッドへ逃げ出す。
わたしは猫用爪切りを手に取ると、なつみの元へ向かう。なつみはいつでも逃げられる姿勢をとっていたが、わたしが近づいても逃げなかった。
ダルダルのメンズサイズのTシャツに伝線済みの黒ストッキングというミスマッチのわたしを見て、またニー、と鳴いた後、なつみは珍しく爪を大人しく切らせてくれた。なつみとわたしは飼い主とペットというより、少し距離のある友達に近い。ここまで来るにも随分かかった。
なつみさ、わたしの友達ともお友達になってくれる?
返事はない。なつみは爪を切られていることより、爪切り後のおやつに意識を飛ばすことで気を紛らわせているようだった。
はい! おわり、となつみを膝から下ろすと、なつみは、ニーニー、とおやつを要求して鳴いた。ハイハイ、なつみのおやつをとりに行こう。
立ち上がったわたしの足元にすりついて離れないなつみの、体躯のわりには長いしっぽを踏まないように、気をつけながら、キッチンへ向かう。
わたしはなつみのおやつ箱の中身を吟味しながら、片手であのいちごミルクキャンディを手に取ると、ぺりぺりとセロファンから剥がして口に入れた。暑さで少し表面がねばこく、柔らかくなっていた。
なつみのおやつを決めて、なつみ専用のお皿に入れてやる。なつみは待ちきれないという顔をしながら、それでも待っている。
あんたがいるから頑張れるからね、とわたしが声に出すと、なつみは、それを食べて良しの合図だと思ったのか、チャムチャッチャと音を立てて、皿の中身を食べ出す。
食事中のなつみを撫でているつもりが、いつのまにか食後のなつみがわたしの指先をぺろぺろ舐めていた。
なつみ、一緒に寝ようか、と誘うとなつみは忙しそうにタッタッタッと自分の寝床に一目散に走っていった。その様子がおかしくて、わたしはつい吹き出す。
寝床で丸まったなつみを見つめながら、わたしもベッドに入る。また明日ね、なつみ。なつみのしっぽがちいさく揺れる。そうね、また明日。なつみ。ニー。そうだね、明日には明日のおやつ、だね。
短歌一首
今日またや
めくれるぱじゃまの
すき間より
本音もれくる
月曜の朝
全う
わたしは命の
主犯格
天寿を全うし
刑期満了
この世からあしをあらう
呼び止められる ― 白石 × 神谷 3 ―
白石は、書類の束を抱えたまま、いつもの速度で廊下を歩いていた。
次の部署へ向かうだけの移動。
遠くでドアの閉まる音がして、空気が一瞬だけ揺れた。
正面の角を曲がろうとしたところで、足音が重なった。
反射的に視線を上げる。
向こうから人が歩いてくる。
距離が縮むにつれて、足音が妙に明瞭になった。
神谷市長だった。
一瞬、判断が遅れる。
進路を譲るべきか、そのまま進むべきか。
考えるほどのことではない選択が、妙に輪郭を持たない。
視線が合ったのかどうかも判然としないまま、すれ違いの距離に入る。わずかに体を寄せた。書類の角が指に食い込み、紙の擦れる音が響く。
「――白石くん」
足を止める。振り向く。
市長はすでに立ち止まっている。
「はい」
それ以外の返答は浮かばなかった。
「例の件、進んでいるね」
白石は一瞬だけ記憶を探り、最も衝突の少ない対象を選ぶ。
「……滞りなく」
市長は頷かない。否定もしない。
わずかな間が落ちる。
遠くで誰かの笑い声がした。
「そう」
市長の視線が書類の束へ落ちた気がした。
どう動くべきかが決まらない。
「基準は、前回どおりでいい」
唐突に告げられる。
前回――どの前回なのか。
基準――何の基準なのか。
本来なら確認が必要な語が、そのまま通過していく。
「……承知しました」
承知するには情報が足りない。
それでも、市長の表情には何の変化もなかった。
「それでいい」
市長はそれだけ言って歩き出した。
足音は先ほどと同じ間隔で遠ざかっていく。
白石はしばらくその場に立ったまま、抱えた書類の重さを意識していた。紙の端が指先に触れ、遅れて現実感が戻る。廊下にはいつもの音が満ちている。誰もこちらを見ていない。
それでも、何かだけがずれていた。
#連作
#白石✕神谷
壁の圧
見たくなくて
目を閉じる
どこを向いても
壁の落書きが近い
言葉を飲み込んだ
影に
覆われる
周りを囲まれて
呼吸が浅くなる
息を吸うと
隠れていた埃の味
砂利を噛む歯の音
傷と痛みの水たまり
嵌った靴が水面を
ゆっくりと揺らした
揺れた壁は鏡のようで
脆く
崩れて
視界から消えた
はたらくということ
スーツも引っ詰めた髪も
足が痛くなるパンプスも
たぶんこの先ずっと
好きになれない
志望動機はつまるし
自己PRは言い飽きた
それでも
ビルから出た時に
守衛のおじちゃんがくれた
あたたかな笑顔と
『試験、お疲れ様』が
心を解いた夕焼けの街
生きること
生活ができればいい
私がいなくなった後も生活ができればいい
自炊してもいいし、スーパーの弁当を食べたっていい
生きて生きて生きて死んでくれればいい
テレビを楽しんだり、ネットで漫画を読んだり
笑って笑って笑って少し泣いて死んでくれればいい
お思い通りにならなくても思い通りの人生だったと振り返って死んでくれればいい
その時、私はいない
たぶんいない
あなたが一人で生きられるだろうことはわかる
わかる?わからない
先のことなどわからない
たまには旅行にいてのんびり温泉につかって
生きて生きて生きて死んでくれればいい
友達を誘ってランチに行って話をして
笑って笑って笑って少し泣いて死んでくれればいい
お思い通りにならなくても思い通りの人生だったと振り返って死んでくれればいい
その時、私がいたら
いたくない
私が一人で生きられないことはわかる
これはわかる
先のことなどわからないがこれだけはわかる
でも私は望む
長生きしてほしい
私のなくなった後も
週末には出かけて外を歩き
生きる喜びを知り
新たな道を歩み続けてほしい
生きて生きて生きてほしい
笑って笑って笑って少し泣いてほしい
お思い通りにならなくても
思い通りの人生だったと胸を張ってほしい
その時、私がいても
いなくても
あなたには
共に生きてきた意味を感じてほしい
もし一人では生きていけないというのなら
私と共に
長生きしてほしい
私の願いが
あなたと共に生きることで叶いますように
【短歌】親愛なる冬のみなさま【まとめてみた】
銀紙にくるまれた冬をとりだしてほうばる前にすこし眺める
透明をかさねてかさねて神無月こんないろでも光になるのか
夏掛けにいっしょうけんめいもぐりこむコタツごっこと音も無い窓
濡れ鼠かわかしたので眠りねずミルクのふとんにくるまって尚
おや中尉あなたでしたかこの冬を鏡のように磨く役目は
十二月なにを撮っても美しく星の採取に役立ちました
枝ぶりは丑三つ時ならシカのツノ冬の昼なら空の花束
将来は研究しようと思い立つ無垢なそらほど寒いふしぎを
碧すぎて夜はとうとう紅くなる電信柱へ薪をくべよう
終わり際は初冬とおなじ匂いみたいこんな鼻ではわからないけど
オムライスが信号機
オムライスを食べよう。オムライスを注文した。美味しそうなオムライスが出てきた。さあ、食べよう。美味しそうな黄色だ。と、そこで気づいた。オムライスだと思っていたもの、実は黄色信号だった。黄色信号だったから、注意して食べようかな、と思っていたら、すぐに赤信号になってしまった。赤信号になったら、食べてはいけない。私はただ眺めていた。そのうち、青信号になった。よし、食べよう、と思ったが、青色なので食欲がわかない。
怒りが湧いてきた。この野郎、俺に食べさせる気がないな、フンガーッ、フンガーッ。怒りのボルテージが上がっていく。ピコン、ピコン、ピコン、ピコン、ピッコーーーーン。
怒りのボルテージが満タンになったので、私は信号機になって、交通整理をした。交通安全に貢献した。
降車専用
降車専用と書かれたホームから改札へと進み
エスカレーターを2回乗り継いで地上へ出ると
私たちは綿毛のように散ってゆく
一緒に歌ったり
言葉を交わしたり
すれ違ったりして
ただ綿毛のように散ってゆくのだ
降車専用と書かれたホームを置き去りにして
※某サイト閉鎖に伴い詩のお引越し①
またね
言葉は
手のひらや
ポケットの中に
収まるくらいの
ちいさなものでいい
取り出して見つめると
ほんのわずかに
あったかく感じられる
そんなものがいい
たとえばそう
「またね」のような
そんなちいささでいい
[た]例え話
例えばあなたの腕がなくても、
私はあなたを抱きしめるでしょう
例えばあなたの足が動かなくても、
隣でいつまでも歩んでいくでしょう
例えばあなたの声が潰れてしまっても、
私はいつまでも耳を澄ますでしょう
例えば私の存在が消えていくとしたら、
あなたには何も言わずに消えるでしょう
あなたの荷物にならないように、
軽やかになってほしいから
私よりも素敵な恋人を作って愛を育むでしょう
例えばあなたの涙が枯れ果てても、
私は涙腺を分け与えるでしょう
例えばあなたの夢が潰えたとしても、
私だけでも前を向いていくでしょう
例えばあなたの鼓動が止まったとしたら、
私は一緒に止めようと泣くでしょう
例えばあなたが化けて出てきたら、
私は「おかえり」って笑いかけるでしょう
下らない話は もうしないよ
怒らずに悲しい顔をするあなたは 優しい
一緒に隣り合うこの席が
私の居場所で いつまでもあるように
あなたの側で愛を捧ぐでしょう
海岸線
美しい人間の波濤の日に、ぼくたちは材木を集めた。「完全な批評はヒトデの前世紀の運命を持つ」そんなことを、ぼくたちの発育し飽和した極めて弁証法的な映画館が言っていた。目の内部は真珠貝のように沈殿し、意図しない奇跡が感電してその場で唇に変わる。「アルプスは実に不思議だ」ぼくたちは頷き合い、微細画のある実験室に風景で装飾された水を飲みに行く。
雲がある空
空には
人が名前をつけた
いくつもの雲
雨を落とす
陽射しを弱め
知らせずに守る
踏み出せば
変わる足もとの色
青空は遠い
雲があると
近く感じる
名前をつけて呼べば
風に流れた雲が
形を変えるようだ
黒くて空を覆っても
雨を落とす雲も
傘で隠して
見なくてもいい
それでも雲は見ている
流れながら
追うように
かみさまたち
わたしたちのかみさまたちは
そこにあるものすべてにやどり
そのほんとのすがたは
だれにもわからない
とうさん とうさん
てをあわせてこうべたれれば
すこしはわすれて
すこしはしあわせになるの?
そらのわたしたちの
おおきいおじいやおばあたちは
かみさまたちになっても
ときどきはかえってくる
そのときに そのときでさえも
そらにもうみにもゆけない
そんなものたちにも
かみさまたちがやどればいい
そうあればいい
わたしたちは わたしはと
いくら りこしゅぎになっても
かみさまたちのやどる
そこにあるすべてのものに
眠れる場所
https://i.imgur.com/jUo3zrt.png
この絵をどうか見てください
そうです、どうかゆっくりと
あるいはさっと見るだけ見て
暮らしに戻っても構いません
だからどうか見てください
そして覚えていてください
もしこの場所を見つけたら
僕にどうか教えてください
まだ地球に尊厳があった時代の
その名残ゆえの寂しき墓標です
だからどうか教えてください
僕が唯一眠れる場所ですから
詩は小さいが好き(詩はあるくXXII)
昨日より、月が細くなった
昨日より、水がぬるくなった
昨日より、朝日が深く差し込んだ
昨日より、食卓が明るくなった
今日は、カーテンが眩しい
今日は、春色のシャツを選ぼう
詩は、新芽をつついている
詩は、何か虫を見つけた
夜半から、雨らしい
傘を、いれとく
詩も、準備は出来た
四月始まりの手帳に替えて
行ってきます。
使用上の注意
言葉は骨折しない
言葉は咳をしない
言葉は恋をしない
言葉は愛ではない
言葉は嘘をつかない
言葉は裏切らない
言葉は病気をしない
言葉に効く薬なんてない
言葉は絶望しない
言葉は自殺しない
そもそも言葉に命なんてない
言葉に罪はない
言葉が悪いわけじゃない
私たちはいつだって
言葉の用法を間違えては
傷つけ合って
用量を間違えては
拗らせてばかりいる
こんなにも長いこと
服用し続けてるっていうのにさ
いつまで経っても治らない治せない
この不明瞭で厄介な病い
あとどれくらい服用したなら
いや いっそのこと
一切の服用をやめてしまえたなら
言葉なんかにこの心ぜんぶ
わかってたまるかよ
言葉なんかで あなたのすべて
わかった気にされてたまるかよ
それでも
それゆえに
それだからこそ
言葉にしなけりゃ
想いのひとつも
何もわからない伝わらない
私たち 心で生きる生き物でしょ
寝ても覚めても
心で生きるしがない生き物でしょ
言葉は傷つかない
言葉は涙を流さない
言葉は血を流すこともない
扱いにくくて めんどくさくって
やさしいかと思ったら
思わぬところで向けられる刃
使用上の注意
これは 一生飲み続けていかなければいけないものです
不眠不安抑うつ鎮静虚言
自責他責冒涜防御など 幅広く効果が認められます
ただし 非常に依存性の高い劇物指定でもあります
服用の際はくれぐれも
お気をつけください
怪盗ルパン
たとえ世紀の大泥棒 ルパン三世であっても
クラリスのとんでもないものを
いとも容易く盗んでしまう
盗みのスペシャリストであっても
この躰 この心で憶えてきたことは
誰にも奪われやしない
誰にも
暴動の夜に
夜になって
家の外は騒がしくなった
群衆が
酒臭い息を吐きながら
大通りを練り歩いていく
手に持つのは
燃えあがる松明
錆びた農具を振り回したり
古びた猟銃を携える者もいる
年端もいかないそばかす顔の青年は
隊列の隅っこで
威勢よく木の棒を振り回していた
喧騒に息巻く父に連れられて
五歳年上の兄様は
お揃いの黒いバンダナを首に巻き
意気揚々と路上へ繰り出す
丸い瞳は
熱にうかされたように輝いていた
二人は嬉しそうに闇に消えていった
「馬鹿なことはおやめなさい」
母の忠告が耳に残っている
どうして男の人はみんな騒いでいるの
怪我をしたらどうするつもり
少女は寝室へと駆け上がる
どこからか野太い雄叫びが聞こえて
少女は思わず布団に潜り込んだ
『怖い』
震えを止めたくて
枕で
頭が隠れるように覆ってみる
伸ばした髪の毛が
ヒリついた空気で逆立った
石畳を靴が踏み締める音が
次第に遠くなっていく
みんな どこへ向かっているのだろう
みんな だれに向かっていくのだろう
少女には分からなかった
大通りが静かになると
川むこうの旧市街で教会の鐘が鳴りだした
歩く野良犬の遠吠えが聞こえる
どこかで赤ん坊が泣いていた
今日は夜になっても街が眠らない
少女はまだ震えていた
朝になって
明るい太陽は戻ってきたというのに
大好きな父と兄様はまだ帰ってこない
外の様子が気になるから
窓を少し開いて覗いてみた
石畳の端に
焼け焦げたぬいぐるみが転がっている
光の無い目がこちらを見つめていた
少女は息を吐き
ちいさな声で呟いた
「この世界はとても醜いわ」
準備室の煙
理科の実験の準備室
テーブルの上には缶ピース
紫煙天井に向かってゆらゆらと
背中がおいしいというように
夏はランニングシャツ
渡り廊下でなびいた白衣だけ
授業の挨拶はなし
チャイムが鳴るとさっさと出ていった
迷惑にならないいたずらで
正座させられていた僕たちを
笑いながら通り過ぎた
言葉の揚げ足を取ると
怒らず褒めて
笑いを膨らませた
説教中に
トイレへ行きたいと手が上がる
笑って
もう終わりだと背中を向けた
どんなに小さくても
嘘やごまかしは
だれでも平手が飛んだ
グレてた同級生のリーゼント
毎朝掴んで怒鳴っていた
愛車を大事に乗っていた
愛妻弁当を自慢する
おかずをこぼしたシミのあと
白衣はたばこ臭かった
卒業式には
ネクタイ締めて
校門で生徒に囲まれて
ひとりひとりに
がんばれと
握手にすべて応えてた
きっとひとりになったとき
腫れた手に缶ピース
たばこを吸いながら
ネクタイ緩めていただろう
合いカギ
本棚から足に何かが落ちた
鈍い痛みの正体は
カギだった
朝顔が枯れた
返事を欲しがる
ひとり言
背中に
風に乗った言葉が刺さり
目覚めて壁を向いたまま
返す言葉を探した
見つからず
あやすように
ただ抱きしめる
シーソーの下から見上げる
潤んだ目に映るのは
空に描いた幻想
見下ろす僕は
視線を拒んで
目をつむり
飛び降りた
開ける
閉める
合わないカギ
ただの鈍い銀色
だれのものでもない朝顔
だれかの手で捨てられた
反物語主義
すべては点であり
それらは決して結びついて線になったりしない
線が見えたら
それは欺瞞だから気をつけなければならない
噴煙が上がると
物語が敗北したことがよく分かる
それは破壊と殺人のしるしであり
我々が何のために建て
何のために生きたのか
もはや分かりようがない
夢は点に満ちた時空であり
いつも散らかって混乱している
したがってそれは世界の鏡である
幸せな夢や楽しい夢で慰められることはあるが
それらはやはり混乱しており
言うまでもなく真実ではない
真実を材にして生まれた妄想である
アマプラのようなもので映画を観ている我々は
真実から遠ざかることをしているのだ
画面に映る芝居や物語は
点から点へ結びついてゆく線である
試すように結びついてできた線に騙されてはいけない
それは甘美な夢であり楽しいものかもしれない
線を作るのは人間の性かもしれない
しかしそれでも真実ではないことが
意味を成すとは思えない
アスファルト
どこかで転ける
富士の山頂に
夕焼けを掛け
赤く濡れる
濡れたのは私だけ
山頂を眼下に
涙が揺れる
寸刻が経ち
山頂は沈みかけの夕日に
置いていかれ
赤と黒の間を移動し始めた
もう少し立てば陽を忘れ
黒に包まれるのだろう
つながる
電車は最寄り駅に着かないまま
回送列車になってしまった
毎日毎日迷いもないふうに走るだろ
いつの間にか分からなくなったりするんだ
欲張りすぎたのかもな
帰る家があって
やわらかい布団の中で明日を
夢見るだけで良かったのに
時間は待ってくれない
他人は待ってくれない
それはまだ、分かる
僕が僕を待ってくれないなんて
思いもしないじゃないか
冷たい水で顔を洗ったら
少しは新しくなれる気がした
刺すような空白のあと
泥だらけの手をした懐かしいぼくが
僕の顔を包んで笑うのだった
僕はぼくともっと
話をしなければならない
点と点を線で結ぶように
ぼくが僕であることを確かめるために
定刻通りに今日も
乗るべき列車は駅にやってきた
間に合わなかった僕に
迷いはもう無かった
感情
誰かが どこかで 泣いてる
君は 独りで 夜の中に立ち
名もなき声に 耳をすませる
きっと 僕には 解らない
心というものを
感じ取っているのだろう
感情のない僕は 心が解らない
君と僕を繋ぐ 細い糸
君はそれでもいいと言う
僕は大切なものを失くしてしまったのに
君もきっと 泣いているんだろう
気持ちを共有できないって たぶん
思うよりずっと 辛いこと
感情を抜き取られた僕は 無限に
様々な時空を彷徨い 放浪する
君は僕についてくると言う
一緒に大切なものを捜そうと
知ってしまったんだ
感情を取り戻したら 君と
離れなければならないこと
だけど それでも 僕は
感情のない僕は 心が解らない
君と僕を繋ぐ 細い糸
君はそれでもいいと言う
僕は大切なものを失くしてしまったのに
漆は剥げても生地は剥げぬ
どんなに綺麗に着飾ってみたって
どんなにうまく取り繕ってみせたって
人間の根源的で根本的な本質は
着飾れやしないし
取り繕えもしない
綺麗な漆の塗装が剥げ落ちたあとの
剥き出しになった姿こそ
本当のわたし
本当のあなた
真夜中の会議は踊る(悩み多き感情たちの詩 ケース3)
ある日の真夜中のことでした
感情たちが一同集まって
涙は一体誰のものかという議論になりました
開口一番に手を挙げた悲しみちゃん
そんなの私のものに決まってるじゃない
すると横から淋しがり屋くんがすかさず手を挙げて
いやいや ボクのものに決まってるじゃないかと
わたしのものよとツライちゃん
ボクのものだと苦しみくん
もしも涙が他の誰かのものだったら
この先どうやって生きていったらいいのかわからないと
嘆きはじめる不安がりちゃん
あたしなんか シアワセすぎて
泣いちゃうことよくあるから
絶対あたしのもの
譲れないわと ハッピーちゃん
誰もがこぞって自分のものだと云って譲りません
突然 怒りんぼくんが
思いっきしテーブルを叩いて怒りだしました
みんなの主張は解らなくはない
悲しみちゃんにしても淋しがり屋くんにしても
ツライちゃんにしても苦しみくんしても
不安がりちゃんしたって
涙はクスリみたいなもので
なくてはならない必要なものだってのはよく解る
けどさ ハッピーちゃんまでもが
自分のものだって主張するのは
なんかちょっと違くないか?
ハッピーちゃんなんて
みんなが持ってないもの
欲しくって欲しくって
それでも手にできないもの
いっぱい持ってるじゃないか
持ってるじゃないか
ほら そのふわふわっとやらかく笑うその笑顔
ハッピーちゃんはそれでみんなをシアワセに出来るんだ
素晴らしいじゃないか
それ以上の一体なにが欲しいっていうんだ
よくばりすぎる
ズルいよ不公平だよ
と
そばでずっと黙って聞いていたやさしさちゃん
静かにそっと割って入ります
まぁまぁ 怒りんぼくん落ちついて
誰かひとりのものって決めるんじゃなくさ
必要なひとに 必要な分を分けるってのはどうかな
知ってた?
あたしたちがいま住まってるこの躰って
ほぼ水分で出来てるらしいって話
だからさ 少なくても
涸れてなくなるなんて心配はないと思うの
足りなくなったらまた
すぐ補給すればいいんだもの
それでももし足りないときは
私の分の涙 分けてあげる
だから ね
そうしよ
デジタル電波時計の数字が
ちょうどAM3:33を示していました
333でサンキューってことで
誰かが云って みんな噴き出して笑いました
話してたらなんかノド渇かない?
今からそこのLAWSONで
なにか飲み物でも買ってこようよ
ポカリかアクエリがいいかなやっぱり
涙とほぼ成分一緒だし
だったら私
ほっとレモンが飲みたい
じゃあボクは
みっくちゅじゅーちゅかなぁ
……やれやれ
推薦文 後悔と自滅
ここはどこでしょう
私はだれでしょう
冬の風は鼓膜を破らんばかりに刺激を与える
右耳が籠って聴こえない
ぴーぴー
梅があららこちらにぽこぽこと花をつけている
まるでこちらに私をご覧なさい、美しいでしょう、と問いかけてきてきる
桃色の花を横目で見る
何も思わない
何も思わない
枯れた
ぴーぴー
煙草も飽きてしまった
娯楽が何もできない
ベッドに縛り付けられているみたいだ
何もできない
何もできない!
自己嫌悪
ぴーぴー
朝の月は薄く、それでも存在感が漂う
夜の月は爛々と私を照らし目を焼く
月は私の元に落ちてくるのだろうか
いや、落ちて欲しい
月はこちらを見向きもしない
こちらを見ているのに、裏側を見せてくれない
寒いでしょう
ぴーぴー
このまま叶わぬのなら土になりたい
私だって役に立ちたい
花を植える
そのまま枯れてしまいたい
ぴーぴー
カラカラ
カーカー
ちゅんちゅん
どこかで鳥が囁いている
目は、耳はまだ機能している
晴間にお天道様がいらっしゃる
雪は降っていないのに
凍えそうなほど目の前は白く震えている
微睡の中で暗闇を模索
鳥の音が聞こえる
まだほんの少し聴こえている
運命に逆らえず、欲は途絶えない
ぴーぴー
こちらはどちらでしょう
耳の不具合か鳥の鳴き声か
ここはどこでしょう
私はだれでしょう
手のひらは透けて見えます
目の不具合か
薬指がどうしようもなく痛いのです
ナイフで切り落としてしまいたい
じりっ
凪いだ海の中へ左足からすっと踏み締める
夕焼けが真っ赤に燃えて美しい
海に反射する夕日がとても、とても私には似合わなかった
最後に見た鏡の中の私の顔は死人のようだった
諦め
巨峰色の坊主
元は5つの皿に花弁を隠し
手の甲で拍手をしながら私をに呼びつける
根を飲み込み
酒で流す
栄光!
私は罪人
私は罪人!
自滅を願う
ぽろぽろ
涙は海に還っていった
全て途絶える
まわる
あなたに、あげる。
私のすべてを。
心の底からの思いを。
まるで太陽のように。
周りに元気を与え、
私が勇気をもらったあなたに。
あなたを、追いかけて。
どこまでも、どこまでも。
歩くのに。
まるで月のように。
冷徹に逃げ回る。
私にはまるで届かない。
私とあなたの道が。
交わることはない。
それでも。
あなたに。
わたしのすべてを。
模範解答
その時代に生きていた人は
どんな気持ちだったのでしょうか
その問いの答えを私は知っている
私たちは知っている
令和時代に生きていた人は
どんな気持ちだったのでしょうか
網膜に入る刺激
皮膚と空気
広がる世界
くすぐられる鼻腔
揺れる鼓膜
色付く世界
味蕾は信号を変え
未来はつくられ
豊かな世界
その中で私たちは何を感じる
何を感じた
どれも正解
私は模範解答を知っている
私たちは模範解答を知っている
せめんと
はだにしみつくようなはるのことでした
みずいろのへいしたちが
まどのそとをとおりすぎて
せめんとにくちづけする
せめんとにくちづけする
せめんとにくちづけする
せめんとにくちづけする
そして
わすれものをおもいだしてきえてゆくのだ
けしてとりかえすことのできないものを
田中のバカヤロー
愛のように気まぐれなさびしさを振り払おうとしたが、考えるのをやめて、また酒を注ぎに行く。病的な愛を、美を、俺はもう否定しない。
洗濯機の脱水機能がここんとこ中途半端だから
「しっかりやってくれよ」とつぶやいた。干し終わって我に返る。
そうだ。こいつには初めから、意思なんて無かったじゃないか、と。
毎日毎日が俺を弱くする。誰もが俺に微小な殺意を持っているみたいだ。
何のことは無い。腹が痛くなるほど聞いた学校のチャイムが、今は目覚ましにすり替わっただけのことだった。
俺が田中の裸を知る前、「深夜に泣きたくなったら聞いてみてくれ。きっと死にたくなるから」と教えてくれたロックバンド、なんて言ったか。名前まで忘れてしまった。
そこらへんを支配しているのは「俺のせい」という、ただ苦いだけのサプリだ。
突拍子もないことばっかりやって、ウケを狙っていた小学5年の俺。でも田中、お前だけはついに心から笑うことは無かったな。なんであのとき不満の一言ももらさなかったんだ。優しすぎるのも、後から苦しむ神経毒なのに。
そんな彼と、何をとち狂ったか、ペッティングをした。夏が終わりかけて、サイレンがうるさかった。
気持ちはよかったが、夜中に無性に死にたくなって、タオルで首を絞めたが、泣きながら目が覚めた。結局そんなものじゃ気絶がいいとこだったな、と。そしてある恐ろしい予感がよぎった。口の軽い田中がばらすかもしれないのだった。
明くる日を境に、毎朝8:30の学校のチャイムはすべてを巻き戻す号令に聞こえ始めた。通ってた学校がクソ田舎にあったから、寝転んだって何もないくらい通学路はきれいだった。それが憎くて憎くてたまらなかった。いっそ気でも狂えたら楽だったろうな。絶対に。何かが乗り移ったように、俺は田中をいじめ始めた。
3年後の中2のときに、田中は首を吊って死んだ。あの日、口に含んだ陰茎を思い出した後、よくやったと思った。お別れ会の後、俺たちは田中の机でポーカーをした。正義ぶった女子が血相変えて「やめてよ!」と怒鳴りこんできたが、俺たちは冷笑した。そういやあいつ殴られてたな。俺は止めなかったけど。恨むなよ田中。俺だって加虐者と被害者のスレスレで死にかかってたんだ。
にしても、なんでお前、もっと早く死ななかったんだろうな。
俺があいつの裸を知る前、「深夜に泣きたくなったら聞いてみてくれ。きっと死にたくなるから」と教えてくれたロックバンド、なんて言ったか。名前まで忘れてしまった。SNSも公式HPも無いから、解散してるのかどうかさえ分かんない、細々と観客3人のライブやってた、あきらめの悪すぎるバカヤローたち、まるでお前みたいだったな。あんなの聞いてちゃ誰だって死んでしまうよ。それにしても思い出せねえな。
なあ田中。
あれ何だったんだよ
教えてくれバカヤロー。
ただ とまらない
足は 歩く
時は すぎて
ひとつ 雨の ひとつぶに
泣いて
泣いて
はなをすすりながら
私の足は
ひとりでに 前へ 歩いていく
前へ 歩くしか ないから
止まる つもりも なくて
だからといって 走る つもりも なく
歩くだけ
私は とまらない
みすぼらしい 姿をしていても
心は みすぼらしくない
周りは 関係ない
私は とまらない
先へ
先へ
先へ
先へ
行くことだけ……
サーカス
テントの内側に
星が瞬いて
ラオスの象たちが
ゆっくりと歩きます
耳をひらひらと
蝶のように動かして
ちいさな目は
どこを見ていたのか
コタツよな
コタツよな
温もり集う
牛団子
丸くなっては
眠くなってく
焦げるよな
赤熱線に
牛あくび
重なり合って
仲良くイビキ
雪が降る
黒毛の上に
粉砂糖
それでも眠い
ヒーターの下
あぬあむと
眠りなまこで
反芻し
知らず食みたる
となり牛耳
餅のよに
くっつきあって
目をつむり
犇めき合って
また眠り付く
辛うじて
繋ぎとめたる
命あり
祈りと共に
スイッチ入れ
原子力
石油石炭
火を灯し
紡ぎたりたる
子牛の命
温めた
点滴吊るし
牛の中
生食水に
祈りこめたり
夕日よな
ヒーター灯し
朝日よな
ストーブ燃やし
体温上げろ
今 今 生きろ
冬になり
ヒーター縋る
子牛たち
続けよ続け
牛たちの命
蜥蜴についてのmemo
脱皮
静寂が、ほんのり積もる音がするのを、脱がされた輪郭だけが聞いている。脱皮する蜥蜴は、蜥蜴を脱ぎながら一瞬、自分の内側を見る。連続する一瞬が、積み重なりこの世になるのに、脱け殻の内側には、時間の外側から来た虚空が、漂い始めている。この世の不注意でできた喪失の真空には、この世には存在していなかった偽り一瞬があふれている。
嘘の、はじまりを忘れないために、つき続けなければならない新たな嘘が、秒針よりも正確に辻褄を尾行する。
天体を飼う蜥蜴
地上を取り込むトカゲが、なぜ胃袋に天体を飼っているのか。例えば消化された蠅は、質量の無い光にかわる。トカゲの胃袋で、太陽が生産される。天体が地球を這う。星と星の衝突が、この世を滅ぼす爆発をトカゲの胃袋は担っている。重力を、喰いつづけた。地上を薄くした。地上という人にとっての周辺そのものが、蠢きをとめることがない。地球の中心がずれる。
蜥蜴の時制
蜥蜴には、地球の時制がなかった。鱗の内側に、昨日の夜を潜ませようとして、明日生まれる過去を、蟋蟀の腹のなかに探した。そのまま以後の夜が結晶すると、昨日の蜥蜴の骨になった。たえず記憶の水辺を吐き出して、以前の砂地に、未来の尻尾を残した。他の蜥蜴の遺骨になってはじめて、蜥蜴に時制がうまれた。
蜥蜴は、時間に見つからないように生きていた。生きることは時間なのに、時間から立ちのぼる空間には所属できなかった。
蜥蜴の生命
蜥蜴は、生命が一つではなかった。時間の薄い地上を見つけて自分をいくつも、隠し置いている。生命が抜け落ちて、とうとう輪郭で這うのを目にする。土の現実だけが流動しているように見えるが、地上は蜥蜴の、伏せられた生命に覆われている。
蜥蜴という仮定
他者の化石の、脈絡につながる。はじめから、地上の輪郭を借りている。自分を、透明に排泄したい。という他者のあらすじで生きるようになる。水に、理由がないように、蜥蜴にも理由がないから、透明な皮膚を脱ぎ、身体を澄まそうとする。自分が、他者である豊かさで溢れているから、手足さえもそっと自分から離れて、消去法で残された仮定が、自分を所有している。
蜥蜴と人々
芒の茂みに、放り込んでしまった軟球が、今もそのままだと思う。そこからまあるい喪失が、腐葉土の軟らかさで生まれ続ける。軟球を探すのに頻繁に、脚を葉に擦る。喪失から、できた傷。置いてきた本当の足を探す物語が、叢を這っている。草の根のほうには古代が吹いていて、蜥蜴の皮膚ができあがろうとしている。
地球の誕生
したがって地球は、蜥蜴の腹から産まれ続けている。孵化すると一部は、地面から剥がされて蜥蜴になり、その腹のなかから創り出される地球に、住む何かに喰われたり、朽ちたりを繰り返し、地面の出来事として、この地上を産卵しながら、同時にそこは蜥蜴の棺桶でもある、ということに自覚がない。だから蜥蜴の腹には地上が、たらふく含まれていて赤い。大地は、蜥蜴と地上とで完成する。蜥蜴が絶滅すると、この世の地上で、地面が成立しない。
この作品を完成させて、蜥蜴が成立すれば良い。
ハンドドライヤーの旅
コロナの頃
トイレからハンドドライヤーが消えた
正確には消えたわけではない
壁には残っているのに
電源だけが切られ
「使用中止」と書かれた
貼り紙が貼られていた
風だけが止まっていた
その貼り紙だけで
ハンドドライヤーは急に
よくないもののようになってしまった
何が本当に正しいのか
誰にもよくわからないまま
とりあえずいろんなものが
中止になっていく
そして人は、静かにそれに従う
コロナが一年過ぎた頃
このままもう使われないのではないかと
不安になったハンドドライヤーたちを見て
ハンドドライヤーの神様が
急いで呼び集めた
そして旅に出した
風を求めている人たちのところへ
旅の途中で
ハンドドライヤーたちは気づく
自分たちは風だけを
知っていたわけではなかった
人の手の感触を覚えていた
ハンカチで拭く人
手を振って乾かす人
ズボンで拭く人
それでもハンドドライヤーを使う人はいた
青い光に少し安心する人
風で水がさっと飛ぶ感覚が好きな人
ハンドドライヤーは
風を吹かせながら
その人の手の温度や震えを覚えていた
旅の途中で初めて見た
人の手と手がつながる瞬間を
痛いときに握る手
泣いているときに背中をさする手
子どもの手を引くお母さんの手
風より強いものがあることを知った
旅が終わると
ハンドドライヤーたちは
元のトイレへ戻った
電源が入り、また風が吹く
でもその光は、前と少し違う
青い光の奥に
ほんの少しオレンジが混じっている
手を差し出すと
その風はどこかやさしい
まるで誰かと握手をしているみたいに
Tactics#アイラシヤ大陸
時代 現代&グリフィス期
場所 上海&アイラシヤ大陸西部農畜産業都市
上海の外灘(バンド)を見下ろす特等席。李 浩然(リー・ハオラン)は、神経系を外部ネットワークに直結させていた最新鋭のニューラルリンク・ヘッドセットを、儀式のようにゆっくりと外した。
こめかみに残る、高周波の冷却ファンが発する微かな振動と、脳髄を直接焼き焦がすような情報の残滓。彼は深く椅子に沈み込み、特注の防弾ガラス越しに、黄浦江(こうほこう)を彩るネオンの海を眺めた。そこには、数千万人の市民が発する「欲望のログ」が、光のうねりとなって流れている。
李の唇が、ゆっくりと不敵な弧を描いた。
瞳の奥には、先ほどまで「見ていた」アイラシヤ大陸の極彩色が、AR(拡張現実)の残像としていまだに焼き付いている。
「……大魔法使い、アルス・ヴォルテックス。物理定数の管理者を自称するが、結局は計算機の上で踊る、高精細な幻影に過ぎない」
李は、党の息がかかった巨大なサーバーファームが、自身の思考ひとつで数兆回の浮動小数点演算を完遂した余熱を感じていた。
「あの老いた魔法使いから、因果の根源データを引き抜く」
李は、アイラシヤ大陸の西部へ、新たな刺客――自身の影を投影した魔導食いの多次元エージェントを送り込んだ。
その刹那であった。
「……因果の糸を辿られている?」
李の網膜に投影されたARディスプレイが、真っ赤な警告色に染まる。アイラシヤ大陸の演算回路から、未知のコードが逆流(バックフロー)してくる。それは論理の壁を突破し、現実世界のIPアドレスを特定、さらには李の物理的な位置情報(ジオタグ)さえも「魔力」という名の非科学的な手段でロックオンした。
次の瞬間、上海の夜空が昼間のように白濁した。
「――傲慢だな、異界の観測者よ」
轟音。
防弾ガラス越しに、外灘の海面へと巨大な青白い稲妻が突き刺さった。物理法則を無視したその雷光は、数兆ボルトのエネルギーを秘めながら、周辺の電子機器には一切影響を与えず、海水を円柱状に蒸発させた。
凄まじい衝撃波が、高層ビル群を激しく揺らす。同時に部屋の中央、何もない空間に「亀裂」が走り、そこからアイラシヤ大陸の「大魔法使い」アルス・ヴォルテックスのホログラムじみた意志が滲み出してきた。
「この海への一撃は、挨拶代わりだ。私の杖が、君の住むこの『上海』という街の全電子回路を焼くのに一秒もかからないことは、君のその優れた計算機が証明しているはずだよ」
李は息を呑み、椅子を蹴って立ち上がった。現実世界の物理定数を、異世界から干渉して書き換える。これはもはやハッキングではない。次元の壁を穿つ神の所業だ。
「アルス・ヴォルテックス……。実存の境界を越えて交渉に来るとは」
「交渉? いや、警告だ。君はアイラシヤを弄んだ。だが、我々『円卓の騎士』は君が思っているほど、おとなしい観測対象ではない」
アルスの杖が床を叩くと、李のディスプレイにアイラシヤの十二人の騎士と、それに対応する十二の空席が映し出された。
「互いの世界の一般市民を巻き込むのは、あまりに非効率だ。君が望むのは進化のための『闘争データ』だろう? ならば、舞台を整えよう。円卓の騎士十二人と、君が放つ最精鋭の刺客十二人による、存亡を賭けた十二番勝負だ。条件は一つ……君が負ければ、アイラシヤ大陸へのあらゆる干渉を断つこと」
李は激しく鼓動する心臓を抑え、窓の外の煮えくり返る海を見た。
ここで拒否すれば、次の稲妻はこの高層ビルのサーバー室を直撃し、国家プロジェクト『胡蝶』は物理的に消滅するだろう。だが、この提案に乗れば――彼はかつてない、最高純度の「極限データ」を手にすることになる。
「……面白い。その『提案』、飲もう。大魔法使い」
「賢明な判断だ、若き観測者よ。決戦の時は今から1ヶ月後、アイラシヤ大陸東部の闘技場で開催する。」
アルスの姿が消え、上海の夜景に静寂が戻る。
上海の夜景を切り裂いたあの一撃が、現実(リアル)にどれほどの衝撃を与えたか。
李 浩然は、モニターに映し出される海水蒸発の熱量計算値を凝視し、冷や汗を拭った。
「物理定数を書き換えたのではない。物理そのものを『説得』してねじ伏せたのか……」
李は、アルスのホログラムが消えたあとの虚空に向かって、畏怖の念を込めて呟いた。この提案を飲まなければ、上海そのものが消滅していたかもしれない。彼はすぐさま『胡蝶』の全リソースを解放し、十二人の騎士に対抗するための、最高純度の「敵性エージェント」の構築を開始した。
一方、アイラシヤ大陸西部、農畜産業都市。
空間の亀裂が閉じると同時に、大魔法使いアルス・ヴォルテックスは、支えにしていた天上の杖もろとも、床に崩れ落ちた。
「あのような、無粋な真似は二度と、したくないものだね……」
アルスの肌は土色に変わり、その瞳からは先ほどまでの神々しいまでの輝きが消えていた。
実は、次元の壁を越えて他世界に干渉し、海に巨大な稲妻を落とすという荒業は、彼の持つ魔力の九割九分を使い果たす、まさに命を削る賭けだったのだ。
「アルス様!」
駆け寄ったのは、星呪術師ステラ・マリスだ。彼女はその震える手を取って絶句する。アルスの掌からは、魔導回路が焼き切れたような熱が発せられていた。
「魔力が、空っぽです……。これでは、あなたは戦いには……」
「ああ。私は不戦敗(リタイア)だ、ステラ。あちらの観測者には、私がまだ余裕を残しているように見えただろうが……。実のところ、今の私ではロウソクの火を灯すことすらままならない」
アルスは弱々しく笑いながら、それでも満足げに空を仰いだ。
「だが、これでいい。彼らのような『効率』を重んじる知性は、自分を上回る圧倒的な暴力を前にすれば、必ず理性的(ロジカル)な判断を下す。不戦敗という代償を払って、ヤツをこちらの土俵へ引きずり出したのだ」
李 浩然は、アルスの「底知れぬ力」に恐怖したからこそ、正面衝突を避け、ルールのある「十二番勝負」という形式を受け入れた。もしアルスがここで全力を誇示しなければ、李は際限なくアイラシヤを侵食し、いずれ世界そのものが「計算資源」として食い潰されていたはずだ。
「さあ、あとの者たちに伝えなさい。……一回戦は、私の『負け』から始まる、とね」
「あとは、君たち次第だ……未来からの『予感』を、その刃に込めたまえ」
アイラシヤ大陸の運命を賭けた、12対12の代理戦争。
第一戦は、大魔法使いの「戦略的敗北」という、あまりに重い一手から幕を開ける。
https://i.imgur.com/bqz7Hut.png
MIKU#アイラシヤ大陸
時代 安倍中期
場所 境の国 タイムズ
午後の日差しは、安倍中期特有の停滞した色に染まっていた。広場はいつものように、誰かがどこかで失くしたはずの時間を拾い集めるような、緩やかな喧騒に満ちている。
その喧騒の中、登記簿上の曖昧な場所に「田伏正雄商店」は佇んでいた。色褪せた紺色の暖簾には、商号の代わりに「今日のレート:ウドン一杯=TABUSEコイン1枚」という不条理なチョーク書きが躍っている。店先にはキアヌ・リーブスの絵画と映画ポスターが貼られ、その隣では「真実のみを販売中」という手書きの札が、乾いた風に揺れていた。
ミクは、桃色のうさぎの着ぐるみを纏い、機械的な動作で店のチラシを配っていた。役人たちが眉をひそめて通り過ぎる横を、彼女は無機質な足取りですり抜けていく。彼女の足が止まったのは、店の近くにある「TABUSEの泉」の前だった。
泉の中央に鎮座するのは、古びた石の彫像――通称『真実の口』。
ふと、その石造りの瞳が、規則的なリズムで青白く明滅していることに彼女は気づいた。安倍中期には本来あり得ない、鋭利なデジタルのグリッチ。周囲の住人たちは、日常という名の強力な認識フィルターによって、その異変を「木漏れ日の揺らぎ」程度にしか認識できていない。
「……観測対象外の、コード」
ミクは躊躇なく、彫像の冷たい口に小さな手を突っ込んだ。石の喉奥から、熱を持った紙片が滑り落ちてくる。それは物理的な紙ではなく、高密度の情報が固定された「因果の転写紙」――緊急指令書だった。
紙に触れた刹那、彼女の網膜を覆うディスプレイが緊急レベル・レッドで塗り潰された。そこには、別次元「グリフィス期」で進行中の、異分子・李 浩然(リー・ハオラン)が引き起こす因果崩壊の詳細が記されていた。
彼女は紙を握り締め、商店の引き戸を開けた。
店内は、茹で上がるウドンの出汁の香りと、サーバーラックが発するオゾンの匂いが奇妙に混ざり合っている。カウンターの奥では、店主の田伏正雄がいつものように古い鍋を磨きながら、多画面モニターに映し出される次元の歪みを眺めていた。
「おや、ミクどうした?」
ミクは着ぐるみの頭部を脱ぎ、その下に隠していた峻烈なエージェントの貌を露わにした。
「田伏さん。ここを、離れる」
「……そうかい。この穏やかな停滞も、時空の波には抗えないか」
田伏は驚きもせず、棚の奥――「概念の空き缶」や旧式マザーボードが積まれた隙間から、一本の古い懐中時計を取り出した。それは安倍中期の鋳造物ではない。多元宇宙の境界を切り裂くための、精巧な次元跳躍装置だ。
「この先は、ウドンの湯気一つ届かない、計算と殺戮の戦場だ。……せめて、この『最後のまかない』を糧にしなさい」
ミクは桃色の着ぐるみの四肢を、丁寧に折り畳んでその上にウサギのぬいぐるみの頭部を置き、そして田伏正雄に頭を下げた。
「グリフィス期へ。……李 浩然の因果を、初期化(イニシャライズ)しに行く」
「気をつけてな」
田伏の短い言葉を背に、ミクは再び泉のほとりへと戻った。彼女が懐中時計の針を「グリフィス期」の座標へと捻り込むと、周囲の空間が薄氷のように砕け散った。
安倍中期の午後の静寂が、遠い幻影のように溶けていく。彼女は、圧倒的な計算の嵐が吹き荒れる「グリフィス期」へ向けて、その身を投げ込んだ。
彼女の手の中には、田伏がくれたささやかな「ウドンかりんとう」が、世界の重みと共にしっかりと握られていた。
https://i.imgur.com/31VJBZy.png
対話
あなたのことをよく思ってる人は
あなたをよく云うだろうし
悪く思ってる人は 悪く云うってさ
そりゃそうでしょうよ
ところで 貴方はどう思ってるの
ひと様のことはどうだっていいのよ
聞かずもがな
こたえは もうとっくに
出てしまってるけどね