推薦対象
ごめんね。ハイル・ヒットラー!
by 田中宏輔
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●序文
田中宏輔の詩のあまたあるフォルムにも、全行引用詩ほど鑑賞しやすく言及しやすいものはあるまい。「全行が引用」という驚異の見映えに圧倒され、作中の全出典を読まなければ読解できないと思い込む読者もいるだろうが、誤解だ。これは音楽でいうサンプリング、引用が出典の重要な特徴を捉えていないことに特徴がある。でなければ著作権侵害になるのだから、そうせざるをえないともいえる。
つまり出典をまったく知らなくても自由に鑑賞できるのが、全行引用詩の特長だ。これについてはもうなん度も述べたので、今回は別の論点を採りたい。その自由な鑑賞とやらに果たしてどれほど需要があるのか、多くの読者は詩人の詩論に強いられた自由を持て余すのではないか。それを実情と仮定すれば、全行引用詩の入り口には『ごめんね。ハイル・ヒットラー!』のような特例こそ好適とみなせよう。
『ごめんね。ハイル・ヒットラー!』は詩誌『midnightpress』創刊号の所載*で、フォルムの意図が公表されている**、鑑賞には出典の知識がすこぶる有用である。読解が制限されるからといって、鑑賞が窮屈になるかといえば、そんなことはまったくない。それをこの鑑賞一例が実証できれば重畳だ。
*https://megalodon.jp/2025-1031-0816-27/www.midnightpress.co.jp/publish/mp/mp001.htm
**https://megalodon.jp/2025-1031-0819-40/bungoku.jp/ebbs/20180901_417_10700p
●本文
作者の自解によれば『ごめんね。ハイル・ヒットラー!』は、ヒトラーの自殺に想を得たもの。1945年4月30日の午後、ヒトラーが妻エヴァとふたりきりで過ごしたはずの、最後の十分間を創作している。
>幸せかい?
>(ヘミングウェイ『エデンの園』第二部・7、沼澤洽治訳)
>
>彼【※ヒトラー】はなにげなくたずねた。
>(サキ『七番目の若鶏』中村能三訳)
>
>あと十分ある。
>(アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡2』第Ⅱ部・20、厚木 淳訳)
>
>なにかぼくにできることがあるかい?
>(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』Ⅰ、木村榮一訳)
>
>彼女【※エヴァ】は
>(創世記四・一)
>
>詩句を書いた。
>(ハインツ・ピオンテク『詩作の実際』高本研一訳)
上記冒頭部の出典の題名から、この詩がヒトラーの妻エヴァをアダムの妻エヴァ(イヴ)に重ねていること、ふたりの死を失楽園に結びつけていることが読み取れる。そのような通俗的な発想に、田中宏輔の詩が収まる道理はない。
詩中のエヴァは辞世の全行引用詩を書く。それを剽窃とヒトラーが指摘すると、エヴァは引用と反論する。ヒトラーが譲歩して「きみの引用しているその海(出典は『詩の問題点』)はどこにあるんだい?」と質問すると、エヴァの返答は「お黙り、ノータリン」。ヒトラーはそれに気を悪くし発砲したという、幾重の意味で奇想天外な展開。なにより奇天烈なのは、正体不明の語り手だ。
ヒトラーがエヴァとふたりきりで迎えたはずの最期***を見届け、ふたりのやりとりを記録した者が、この詩中にはなぜか存在する。
***https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%BB
>ああ、
>(ラリイ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)
>
>でも、ぼくは
>(ロートレアモン『マルドロールの歌』第二の歌、栗田 勇訳)
>
>いったいなんのために、こんなことを書きつけるんだろう?
>(ノサック『弟』4、中野孝次訳)
上記の主語「ぼく」の出典を重視すれば、この謎の語り手(記録者)の正体をマルドロールと想定できる。シュルレアリスムの代名詞「ミシンとコウモリ傘の、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!」で有名なあの堕天使だ。アダムの妻エヴァが蛇(サタン)に誑かされたように、この詩中でヒトラーの妻エヴァは、あの堕天使マルドロールに惑わされて夫を「ノータリン」となじったようだ。詩の最後に語り手が「ごめんね。ハイル・ヒットラー!」と謝罪するのはそのためと推測される。
その構造は、題名『ごめんね。ハイル・ヒットラー!』の出典であるフエンテス『脱皮』のものに似ている。題名からして「一皮むけた蛇(サタン)」を寓し例の堕天使を示唆するこの小説の内容は、メキシコを旅する四人のうちのだれかを殺すために追っていると自称する語り手の盛大な虚構。語り手が事件の現場に登場しない点に特徴があるが、オチとしては現場自体が存在しない。名実ともに、この全行引用詩を題するにふさわしい出典だ。
ではヒトラーが惑わされたエヴァの辞世の全行引用詩に、いかなる『詩の問題性』が潜んでいたか、読解を試みる。
>しばしばバスに乗ってその海へ行った。
>(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)
>
>魂の風景が
>(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)
>
>思い出させる
>(エゼキエル書二一・二三)
>
>言葉でできている
>(ボルヘス『砂の本』ウンドル、篠田一士訳)
>
>海だった。
>(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)
>
>どの日にも、どの時間にも、どの分秒にも、それぞれの思いがあった。
>(ユーゴー『死刑囚最後の日』一、豊島与志雄訳)
>
>ああ、海が見たい。
>(リルケ『マルテの手記』大山定一訳)
>
>いつかまた海を見にゆきたい。
>(ノサック『弟』3、中野孝次訳、句点加筆)
エヴァが書いたこの全行引用詩を、ヒトラーは「剽窃」と評しているので、その内容を出典の内容を含めて読解したのかもしれない。たとえば下記のように。
「しばしば『夢の貨幣』でバス代を払ってその海へ行った。その海はボルヘス『砂の本』の言葉でできている、エゼキエルの見た「命をもたらす川」の源である。すなわち『詩についての対話』、リルケ『マルテの手記』が没頭した読書体験、ノサック『弟』のごとき非在への希求。ちなみにノサック『弟』はこういう話だ。主人公が自分の留守中に怪死した妻の死因を探るため、現場にいたとおぼしい若い男を探しているうちに、その男を自分の弟のように思いはじめる。さらにちなみにハイウォーター『アンパオ』の双子の弟オパンアは、アンパオ自身の分身であった」
そうした読解のうえでヒトラーは、妻エヴァにこう尋ねたのかもしれない、
>きみの引用しているその
>(ディクスン・カー『絞首台の謎』7、井上一夫訳)
>
>海は
>(ゴットフリート・ベン『詩の問題性』内藤道雄訳)
>
>どこにあるんだい?
>(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』Ⅰ、木村榮一訳)
各出典の題名がヒトラーの晩年をみごと象ってみえるのも気になるが、ここでの最大の問題は『詩の問題性』であるところの「海」だ。詩中でこの語は、さまざまな出典から引用されており、その寓意を一意に定めることはできかねる。
しかし便宜上、詩中のエヴァを惑わせたとおぼしき例の堕天使『マルドロールの歌』を偏重するなら、「その海」を同一性や不変性の象徴と想定することは可能だ。「老いたる海よ、お前は同一性の象徴だ。つねにお前自身そのままだ。お前は本質的には変化しない。よし、お前の波濤がいづれの部分かで荒れ狂つてゐようとも、それより遠いべつの地帯では最も完全な静謐のなかにある」(青柳瑞穂訳)──つまり。
つまりエヴァの辞世の全行引用詩は、ヒトラーとの世紀の恋****の回顧であり、永遠の愛の誓いであったのかもしれない。そう思って読めばそう読めるのが詩というものだ。そう想定すればエヴァがヒトラーを「ノータリン」となじったのを、当然の反応とも評価できよう。
****https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3
>お黙り、ノータリン。
>(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)
>
>ヒトラーはひどく気を悪くした。
>(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』あるバレリーナとの偽りの恋、木村榮一訳、句点加筆)
>
>彼は拳銃を抜きだし、発射した。
>(ボルヘス『砂の本』アベリーノ・アレドンド、篠田一士訳)
エヴァになじられたヒトラーは、かの女に誓った永遠の愛が「あるバレリーナとの偽りの恋」に堕したと気を悪くしたまま逝ってしまったのだろうか。エヴァの辞世の全行引用詩は「たしかに/海(永遠の愛)だった」のかもしれないのに、この悲恋は詩とその読解の宿業である。どうかエヴァの辞世の全行引用詩が、地獄でヒトラーに再読されますように。アーメン。
※この鑑賞は筆者澤あづさの文芸であり、一切の責任を筆者が負う。文中の読解にある問題は、批評対象の問題でなく、その著作者に責任はない。