N o w L o a d i n g
このままふくれ続けたらきっと指がちぎれるから、切ろう。 わたしは告げ、かの女の錆びた指輪へ鉈を振りおろしたが、折れたのは刃だった。思えばこれも、きのうたたき割った夫の脳髄で錆びている。刻みこまれた誓いのぶんだけ指輪に分があったのだろう、はみ出しかける脳の片隅でわたしは思考する。折れた刃は飛びすさり、わたしの眉間を貫いて、脳漿の漏れに栓をしている。 長雨を飲み、かの女はふくれている。絹のようだった肌理が、渇いた綿より欲深くひらいて雨季を貪る。飢えていた腕がなん倍にも太る。きのう焼かれた顔の焦げ目が、腐りゆく水に白々しく薄れながらどこまでも広がる。粥に似ながら煮くずれることを知らない、若さが、左手のちぎれそうな薬指にだけ血を焚いて、食いこむ指輪に誓われた名前と同じいろに錆びる。 かの女はかつて、わたしの娘だった。 女衒に売ったのが九日前、思いがけず帰ってきた。性病に肌を食い破られ、ごみ溜めに捨てられたので、這い出してきたと娘は言った。死なないと埋めてもらえないの、と娘は言い終えた。 八日前、夫が木箱に娘を転がし裏庭へ投げたのはそのためだ。雨季に蓋され長雨に漬けられ、きのうまで、娘の肌は溺れながら若い皮脂を吹きあげて、あらゆる水気をはじき飛ばしていた。わたしが塩水で炊いた粥も、その例に漏れない。 七日間、娘の転がる箱で粥を食ったのは蟻だけだったが、わたしの薄い塩味に飽きたらずきのう、蟻どもの群れが美味な脂を掘ろうと、娘の耳に口に臍に、膣にもぐりはじめたので、穢された箱へ夫が油を撒き火を放ち、泣いた、まだ清かった刃の火照る影で。 その膣を掘ったのが翅をもつ女王だったら、別の物語が飛んだのかもしれない。きょう、油に焼かれたかの女の脂が、地の潮を覆う。降り溜まり蒸発する地の体液の循環を、焦げ落ちた皮脂の油膜で食い止めている。 このために地表が海を失っても、たとえば涙の降る限り、血のしたたる限りかの女は飲み、新しい海を生むために溜めるだろう。眉間の栓を抜き放ち、噴きあがる脳漿の虹でわたしは感傷する。わたしの箱のこの穴を、いつかちぎれたらあの左手薬指が貫いてくれるだろう。
2025/02/02
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すまぬ、すまぬ もう、声もでぬ すまぬ、すまぬ もう、涙もでぬ ぜんぶ、わしが悪かった ぜんぶ、わしの不明がなしたこと なにもかも、おしまいよ おしまいなのに、まぶたもとじれぬ 気の触れたかかあのすがた 膨らみつづけるむすめのすがた せつかく燃やしても、雨までじゃまして灰にもできぬ 白くにごつたまなこに焼きつけるかのごとく赤いおののにぶくひかる ふりあげたおのにかみなりさまでもおちておわらせてくだされとてんにいのることもできぬ すまぬ、すまぬ もう、声もでぬ すまぬ、すまぬ もう、涙もでぬ ただこの濡れ縁で、首ひとつじつとみることしかできやせぬ もやしたありがほうてくる だいじょうぶ、だいじょうぶ わたしはしょうきです すべてはていしゅのきがふれたのがひげきのはじまり おひとよしのあほうがまねいたけつまつです せんごけいきにうかれてみせをかまえて あやしいぐんじんさんにだまされてしゃくざいかかえたのにきづきもしないで ゆうかくにむすめをおとしてさえうまいめしがくえるだのよいべべがきれるだのおためごかしにごまかされて だいじょうぶ、だいじょうぶ わたしはしっています すべてはあのぐんじんさんのさしがねです むすめがひそかにちぎつたせいねんははしのしたでつめたくなつた じぶんのものにならぬはらいせにいくにんものおとこにおかさせた わたしが! はらをいためてうんだむすめが! いずれしあわせにこをなしてあいをしるはずが! むすめのはらをむさぼるありがこをなしたらそれはまごだといえるだろうかそれはむすめがうんだことになるだろうかそれはいつかあいをしるだろうか そのまえにげんせのちかいからかいほうしてやらねばね きゅうくつにしめつけるこのよからときはなたれたならばこのはこからとびたつひがくるだろうね? ね? きつと、そうね?
2025/02/05
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常夜灯の薄明かりに浮かぶ部屋 ふと開く本のページ その文字と文字の間に 夜をひた走る心音の逼迫さ 軋むハムストリングの繊維の筋に 不意に上げる雄叫びの切れ間に 掠れて消えていく哀しみの余韻に 見えない感情を持て余して眠れない夜に 足りない何かを探している 気が付けば何かが欠けていて 何が欠けているのかさえ分からなくて とりあえず丸くなって眠たふりをする 今日も夜をやり過ごす
2025/01/28
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テントの内側に 星が瞬いて ラオスの象たちが ゆっくりと歩きます 耳をひらひらと 蝶のように動かして ちいさな目は どこを見ていたのか
2025/02/01
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激しく雨が降る朝 出がけに渡された 買い物メモを握りしめる 濡れた路面に滲む青信号 建て替えられたばかりの 真新しい鶏舎の中 めんどりたちは目を瞑る 観念したように口を噤む 人もまばらな売場から 卵は消えた ひとつ残らず きれいに消えた
2025/02/04
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(言葉の満ち欠けなぞる指から たなびく煙が浮雲と漂い)
2025/02/04
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檸檬の光が限りなく放射を始め 静かに眠りにおちていた 機械の皮膚を煌めかせる 朝まであと何千秒だろう 爛れた両眼からはとても見えにくい風景だ こうして刑罰の日を待つうち 足取りは重く 粘りつくような言いえない言葉たちが 私の脳に取り付いてしまう 泥の日々を 顔にぶちまけられたあと 精密な蜜蜂が 私の心臓を狙い打とうとしている
2025/02/03
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生まれることは、愛されることの始まりであって、愛されることは、生まれたことの途中にある。 誰かを愛するためには、お金が必要だ。生きることにお金が必要であるように。 一番やすい粉ミルクと一番たかい粉ミルクを比べると、1.5倍くらいたかいから、一番たかい粉ミルクで育った子は、きっと一番やすい粉ミルクで育った子より、1.5倍くらい何かがすごい。 その何かがすごいが蓄積されていくと、もっとすごくなる。 でも、たかいたかい、をその子より2倍くらいして育てたら、もっともっとすごくすごくなる。 たかいたかい、たかいたかい、はい、たかいたかい。 もっともっと、たかいたかい。 粉ミルク、たかいたかい。 肌着、たかいたかい。 紙おむつ、たかいたかい。 そうして、いつか、かいたい、になる。 たかいたかい、から、かいたいかいたい。 牛乳、かいたいかいたい。 洋服、かいたいかいたい。 パンツ、かいたいかいたい。 使われたお金がたかければたかいほど、きっとすごい。 きっとすごいんだよ。 だから、たかいたかいする。 誰よりもいちばんたかく、たかいたかいする。 ほら、段々、見えてくるだろう。 いままで見えなかった、景色が。 あれもこれも、お金でつくられたんだ。 そして、かいたいかいたい。 くずれて、なくなっていく景色に出会っていく。 病室の窓から見える景色に別れを告げて、新たに訪れた部屋はいつか見飽きてしまう。 だから、たかいたかいする。 たかいたかい、たかいたかい、はい、かたいたい、かたいたいいたい。 お金をつかって愛したものは、いつか、たかい、する。 生きることの途中に出会ったものたちも、たかい、する。 何倍にもすごくなれるように、たかい、を摂取する。 「あのさ、すごいってなによ、すごいって」 「え、だって、高い粉ミルクをあげた方が、すごそうじゃん」 「粉ミルクが買えなくて、薄めてあげている親がいるって、ニュースになってるよ」 たかいたかい。 たかいたかい、あいを、かいたい、して、げんしにする、くずれた、からだに、あてはめる、けしき、アルバムは、から、からと、おさめて、ゆうれつ、ならべて、はぐくむ、あい、わたしになる、あいむ、あ、ちゃいるど、ここに、いるど、やせい、なく、した、ひくいひくい、ころがる、いわ、かいたい、して、こな、かいたして、すごく、たかい、さようならを、さようなら、あい、が、あいになる、ため、 たかいたかい。
2025/02/01
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歩いている この星空の果てのどこかを ずっと、ずっと 僕がこの道に出向いたのは あの日々の彼方でなくしたものの つぐないを求めるため 星空の果てはあまりにも悲しくて 無色透明の水銀の雨はあまりにも冷たくて そして、あまりにも美しかった 夜は世界の果て 魂を沈めるにふさわしい静寂
2025/01/23
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抱きしめたもの 全部ひっくるめて 冷蔵便で送るよ 君にとってはもう 要らないものばかり かもしれない
2025/02/03
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目を三角形にして、ふきげんにお鍋の中身をぐるぐるやっているお母さんを、帰宅早々見てしまって、もうとても肩身が狭くて、満員電車の端っこに押し込められて、でも降りなきゃいけないひと、のようなボリューム(お母さんには聞こえないのだ)でお父さんがただいまと言ったから、あたしは、ファミレスとコンビニのバイトでつちかった声量でおっかえり〜!と返す。お父さんは、ホッとした顔で、あかり、今日バイトないのか、家にいるの珍しいなって言って、その瞬間にお母さんの精神的爆弾を爆発させ、ああ、このふたりはこれから、どうやって夫婦としてやっていくんだろうって、本当にしんぱいになる。お父さんがドギャーンとしちゃった畑の跡地には、昔からおばあちゃんが育てていた百日草が植って、あつい風に揺れて、陽が落ちるのを待っている。待っている、おばあちゃんを? そう、でも、おばあちゃんはね。 〜しばらく綺麗な映像と音声をお楽しみください〜 おばあちゃんの主治医のせんせいは、なかなか刺さるひとで、初めて会ったときからずっとずっと優しくて、でもあたしのお母さんが泣き出しても、自分の目の前にあるティッシュを勧めるでもなかったから、気遣いは苦手に見える。でも、真心ポイントがすごく高くて、ひとをポイントで評価なんてしたくないけど、病院に長い間、付き添いとしてでも、通っていると、もうそういう観点が勝手にねじ込まれてしまう。だから、あたしが、愛のあるお医者さんだと思い続けている先生が、おばあちゃんに会いにくるタイミングと、あたしのお見舞いのタイミングが合うのも仕方ないことだ。おばあちゃんは無邪気に孫のお見舞いを喜んで、お母さんは、すこし頼りなく見える先生にも、病院にも、興味がないし、お父さんはそもそも誰にも関心を抱かない。それでいい、しかたない。 でも本当はさ、と先生に言ったことがある。先生は、分厚いメガネのレンズを通してあたしをつくづく眺めて、待っていてくれた。おばあちゃんが園芸好きで、たくさんお花や野菜を植えていたこと。あたしは西瓜を、ボカンって畑に打ち付けて……。おばあちゃんがわらっている、あたしもわらってる。来年もここに西瓜ができますよーに! そんな声がいつまでも聞こえてくるようで、わたしは耳を餃子型に塞ぐ。イヤホンはバイト先に忘れてきてしまった。 精神的な地雷ばっか埋まってる我が家とは違う場所をおばあちゃんがくれたこと、でもおばあちゃんをここから出すわけにはいかなくて、あたしはそれも分かっているし、だから、皆んなが少し驚くくらいバイトをして、おばあちゃんの入院代の一部を払っていた。ときどきだめになりそうなくらい、ふらふらになりながらお見舞いにきても、おばあちゃんや他の患者さんにしか見えないものがあるから、そう長くは喋ってもいられない。おばあちゃん、最近はもう本当に大変で、お見舞いのおわりに、看護師さんが、おばあちゃんを連れて面会室を出て行ってくれるという結末がただ一つの救いなんだよ。 でも、本当はさ、 ファミレスとコンビニで鍛えた声量のままに泣いたわけではないけど、先生は井戸の底からした幼い子の声に気づいたとても心のきれいなひとみたいに、透き通ったまなざしでこちらをジっと見ていた。何を言うでもなく。それは、あたしには、途方もなく美しい映像に思われる。百日草があつい風に揺れるよりも、ずっと。だからあたしは、それだけでもう大丈夫になっちゃって、また来週、来ます! って病院を去って、それで、もう。死ななくて済む、死ななくて住む、あの家に。
2025/02/04
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「俺さ、今度入院するんだよね」 私がコーヒーを一口飲み終えた瞬間の彼の発言に耳を疑った。勢いあまってコーヒーカップがソーサーに強く当たって大きな音がしたけど、周りを見渡しても誰もいない。そんな平日の午後の喫茶店でのことだった。 私と彼は今となっては幼馴染と呼べる存在だと思う。小学校のころは同じクラスだったし、お互い家が近いこともあってよく話していた。片方が休んだらプリントや連絡帳を届けたり、学校終わりに互いの家で遊ぶことは日常茶飯事だった。 中学生になるとクラスも変わったし、部活も違ったから関わりは少なかったけど、学年集会とか出会うと近況を報告するぐらいの関係だった。私は美術部に所属して女子の友達を増やしていたし、彼はサッカー部で女子からの人気を得ていたからわざわざ話すことも減っていた。 お互い別々の高校に進学してからは顔を合わせることすら減っていった。電車の中で顔を合わせると軽く会釈するか、「最近調子どう?」「ぼちぼちかな」程度の言葉を交わす程度だった。たとえテスト前で緊張していても、文化祭の準備で徹夜明けでもぼちぼちなんだ。それに、彼に帰りの時間帯に会うといつも別の女子と並んで話していたから、余計に話すこともなかった。 そんな私たちの関係に転機が訪れたのは大学に入ってからだった。私は県外の少し離れた国立大学で友達に誘われてボランティアサークルに入った。そこで関東圏のボランティアサークルの集まりで彼と偶然再会したんだ。 夏休みの中日の暑い日に行われた海岸のごみ拾いの活動だった。水分補給は大事だけど、飲んだペットボトルはちゃんとゴミとして処分するようにって部長が熱く語っていたことが、痛いほど足を焼く夏日と一緒に覚えている。 いざごみ拾いが始まると、海辺のほうで足を濡らしているグループと少し岸のほうで日陰になっている場所を清掃をするグループに分かれた。私は後者のほうで友達と暑さを愚痴りながら手ごろなごみを拾って、ゴミ袋を持った人に話しかけた時だった。 「あれ、美憂?」 「啓介?」 そう声をかけられて初めて彼だと気づいた。それくらい高校のころとは風貌と纏っている雰囲気が変わっていた。その時には長話することはできなかったけど、ゴミ拾いが終わった後にもう一度彼から話しかけられた。 「まさか美憂がT大のボランティアサークルに入ってるとは思わなかったよ。」 「そんなこと言ったら、啓介がそっちで部長やっていることのほうが驚きだよ。」 お互いの大学、学部のこと、サークルの活動のことを軽く話してから連絡先を交換した。それから、月に一回くらいの頻度で彼とお互いの大学の近くのカフェで話すようになった。 その日は私が先輩に紹介してもらったカフェに読んで、私はブラックコーヒーを、彼はカフェラテを頼んだ。彼がカフェに入ってから初めて語った言葉だった。 「え、入院?」 少し声を落として彼に聞き返したけど、彼は落ち着いた表情のまま一つうなずいた。カフェラテを一口飲んで軽く目をつむり、言葉を選びながら経緯を説明してくれた。 「もともと大学でもサッカーを続けるつもりだったのが病気のせいでできなかったって話はしたよね。」 「それは聞いたよ。でもそれは目が悪くなったからって言ってなかったっけ?」 「それはそうなんだけどね」 もう一度置かれたカフェラテに軽く口をつけてから口を開いた。まるでカフェラテがセーブポイントみたいに思えた。 「その病気は目が悪くなる以外にも症状があるんだって。例えば、心臓病だったりね」 市販のブドウ糖並みに軽い口調に乗せられた言葉の重みは、溶けかけた生クリーム並みに私の口に残った。ようやく言葉を理解したとたん、頭の中で聞きたい内容が洪水のようにあふれそうになり、一度深呼吸してからブラックコーヒーを一口飲んだ。それで後味はすべてなくなった。 「入院ってどれくらいの期間なの?一週間くらいならお見舞いには行けないけど。」 口に出してから少しドライに言い過ぎたかなと思ったけど、彼のことだからきっと大丈夫だろうと高をくくっていた。そんな私の自分勝手な安心を彼の言葉は裏切った。 「多分出てこれないんじゃないかな。その、最後までさ。」 右手の人差し指で軽く頬を掻きながら照れ笑いをする彼を見ると、チクチクと私の胸が痛んだ。その表情は小学校のころから何度も見てきた、失敗や怪我を私に言うときから何も変わっていなくて、机の下でスカートのすそをとつかんだ。 「そう、なんだ。」 場を沈黙にしないようにとひねり出した言葉はありふれた同情に近いものだった。本当はもっとかける言葉はあったはずなのに、私の口から出たのは拙い言葉でしかないのが悔しかった。 お互い、一度自分のカップに口をつけると今度は私から話し出した。 「大学はどうするつもりなの?」 「オンラインで参加できるものもあるから、病院から受講できないか聞いてみるつもり。まあ無理だったら退学かなぁ。」 誰でも二言目には言いそうな当たり障りのない話題。私たちは会話のリズムを思い出すかのように、サークルこのことや、病院のことを話して、段々と慣れてきたころにようやく聞きたかったことを聞いた。 「それで、結局啓介の病気は、どれくらい悪いの?」 彼はカフェオレを飲もうとしてカップの中に一滴もないことに気づくと、唇を軽く舐めてから語った。 「まあもって半年だと思うよ。一年は無理じゃないかなぁ。」 窓の外で楽しそうに飛び回っている庭の鳥に目をやりながら当たり前のように言ったその言葉に抑揚はなかった。落ち葉が風で飛ぶように、セミが秋を迎えられないのと同じくらい当たり前のように。 きっと彼はもう受け入れているんだろう。そう思って私は右手の詰めを左の手のひらに押し付けながら答えた。 「そっか。なんか私で力になれることがあったら言ってね。」 「わかった。」 それがその日初めて見た彼の笑顔だった。それからお互い無言で席を立ってカフェを出た。別れる前に彼になるべくお見舞いに行くよとだけ伝えた。それ以上の言葉はかけてあげられなかった。 それから二週間ぐらいしたころ、そろそろお見舞いに行けるだろうかと思って彼に連絡してみた。すると、当日中に連絡が帰ってきた。 「いつでも来ていいよ」 その返事を受けてその日の講義が終わるとサークルに休む連絡をして、彼から伝えられていた病院に向かった。普段よりも少し早い時間帯の電車の静かさは私の心を返って落ち着かなくさせた。心配と不安と、わずかな嬉しさで。 初めて自分の気持ちに気が付いたのは多分高校生の時だったと思う。偶然帰りの電車が一緒になったから二人並んでお互いの高校の話をしていた時だった。 「うちの高校は春に体育祭やるんだけど、啓介のところはどうだっけ?」 「こっちは秋にやるよ。だから春に文化祭があるよ。それを知らなくて高校を選ぶときに文化祭見れなかったんだけどね。」 「あんたらしいね。でも結局サッカーだけで高校を選んだんでしょ」 「まあね」 高校に入ってから顔を合わせなくなって久しぶりに話しても中学までの居心地の良さは変わらなくて、自然とお互いの話が弾んだ。 「そういえば昔はよく美憂に頭なでてもらったなぁ」 「急に恥ずかしい話しないでよ。しかもそれ小学校の頃の話でしょ?」 彼の脇腹を肘で小突きながら突っ込む。痛い痛いと言いながら彼が見せるのはたまに見せる昔から変わらない無邪気な笑顔。普段はクールに見せている彼からはギャップがあってちょっとだけかわいいと思ってしまう。 「ちょっと頑張ったときとか、体調崩したときになでてもらえるから、毎回ちゃんと伝えてたんだよね。懐かしいなぁ。」 「今のあんたは昔ほどかわいくないでしょ」 確かにといいながら笑う彼の横顔を見ると頭をなでたくなってしまう。ふいに出そうになった右手を抑えるようにして、彼から視線をそらした。 「あ、啓介じゃん。奇遇~」 急に啓介の名前を呼ばれて誰かと思ってみると、啓介の前に二人の女の子が立っていた。左胸の校章を見るに啓介の高校の人らしい。あれよあれよという間に彼は別の郷社のほうに連れられてしまった。彼女らと話している時の彼の顔が私に見せるのとは違う大人びたような、少し冷ややかさを感じる表情が目に焼き付いていた。 電車を降りて家路につく間、ずっと胸の仲がもやもやしたような煮え切らない気持ちに悩んでいた。隠そうと思えば膨らむその気持ちが、忘れようとするほどに強くなる思いが世にいう恋慕だと気づかせたのは町中に流れる恋愛ソングだった。 サークルで出会ってからカフェで会うように誘ったのは私からだった。最初はサークルの情報共有という名目で始めたそれは、ひそかに彼との時間を共有できる唯一の場所だった。だから会えるのは二人の都合が合うときだけ。でもこれからは私の都合さえよければいつでも会える。それがちょっとだけ、わがままな理由だけどうれしかった。 乗換案内アプリにしたがって電車を降りてバスに乗り少しすると病院が見えてきた。古びれた建物に手入れのされていない空き地、誰も使っていない駐車場に囲まれて、やけに大きくて綺麗な建物だった。 正面玄関から病院に入ると、バスで彼に教えてもらった通りに手続きをして面会者の札をもらった。普段はお世話になることもない大きな病院の仲は確かにきれいに清掃されているのだが、それでも隠せない悲しみのにおいが立ち込めていた。 エレベータに乗って彼がいる病室に向かう。階数を表示する電光掲示板には階数ごとにどのような疾患の人が入院しているか書かれていた。彼がいる病室は一般病室(内科)と書かれていた。 彼がいる病室には表札のように入院患者の名前がベッドの位置と合わせて記されていた。そこに確かに彼の名前があることを確認して、ようやく彼が実際に入院しているのだと認識できた。 病室のドアを開けて窓側のベッドを囲うカーテンを開ける。 「啓介、来たよ。」 開けた瞬間に目に入ったのは、薄緑色の甚平のような病院服をまとった青年の姿だった。 「思ったより早く来たね。いらっしゃいというのが正しいのかな。」 相変わらず言葉は子供っぽいのに、その声や表情が大人びたような、どこか達観したように思えるのはその服装や環境なのか、それとも彼が変わったのかまではわからなかった。 「あんたが来てほしそうにしてたからね。それより調子はどうなの?」 「元気、という関わっていないかな。まだ精密検査してるだけで治療計画とかはこれからだからね。」 そっかという私の声は風のように流れていった。検査、治療という言葉が彼の病気に現実味を帯びさせていく。わかっていたはずだったのに、想像していたものとは全然違うことを思い知らされていく。 「美憂は今日は大学じゃないの?こっちはまだもう一科目授業が残ってるんだけど。」 「え、これから授業受けるんだったら席を外すけど。」 私が焦って席を立とうとすると、私以上に焦った様子で啓介が私の腕をつかんだ。 「オンデマンド授業だからいつ受けてもいいから大丈夫だよ。それより、ちょっと話そうよ。」 彼の手の感触は筋肉質というより骨ばっているようで、おじいちゃんの手を思い出させた。不思議な安心感と紅葉が入り混じりながら、私は椅子に座りなおした。 「それならいいんだけどね。私のほうは午前授業までだったから電車で帰ってきたところだよ。でもあんたはちゃんと言ったとおりに授業を受けてるんだね。」 「病院にずっといると思っている以上に暇なんだよ。」 はぁっというため息。彼の表情に一層悲しみが伺えた。 「本当はやりたいことがいっぱいあってもここを動けないから無理やり暇にさせられてるんだよ。終身刑ってきっとこういう気分なんだろうね。」 今にも泣きだしそうな彼の声を聴いていたらいつの間にか私の手は伸びていた。彼の頭の上に。 彼の丸い頭の上に手が触れたことに気づいたとき、少しためらったけどそのまま彼の頭をなでることにした。下手な私の慰めよりも彼が好きだった行動のほうが癒しになると思った。彼も嫌がるでもなく私にされるがままにしていた。 彼の表情が少し和んできたころに自然と彼の頭から手を離した。そして二人で見合ってちょっとだけ笑った。その笑顔はやっぱりあのころと変わらなくて。 「久しぶりに美憂に頭なでてもらえた。やっぱり落ち着くね。」 「それならよかった。」 「ありがとね。」 心から嬉しそうに笑う表情がやっぱりかわいくて、私の独占欲をくすぐった。彼がここにいる限り同年代で会えるのは私だけだ。だから私以外には見せたくない。でもそんな思いは彼にはひた隠しにした。 それから二人でいろんな話をした。病院の食事が思った以上においしかったこと、病院のトイレに行くだけでもナースコールが必要で面倒くさいこと、家族があんまり面会に来てくれなくて寂しかったこと、病院から見た空が意外ときれいだったことを教えてくれた。いつも話していたような雰囲気だったけど、コーヒーの香りはしなかった。 「そういえば何か私にやってほしいこととかある?」 「う~ん。そうだねぇ。」 今日一番聞きたかったことをようやく聞けた。彼は私の横の窓の外を眺めながらふっと答えた。 「ノートとシャーペンが欲しいかな。あと消しゴムも。」 思ったより簡単な要求で拍子抜けだった。 「それぐらいならいつでも買いに行けるよ。明日とかでも持ってこれるよ。」 少しでも早いほうがいいと思ってそういったけど、彼はゆっくりと首を振った。 「一週間後でいいよ。美憂だって忙しいと思うし、僕もやることがあるからさ。」 少しでも彼と会える時間が増やせたらと思ったけど引き下がるしかなかった。また一週間後ね、と約束をして私は病室を後にした。またねという彼の言葉が耳に残った。 その週の末日に私はノートとシャーペンを買いに駅ビルの中の雑貨屋さんに立ち寄った。最初は私がよく使う普通のノートとペンを買おうと思って手に取ったけど、商品棚に戻した。この前に見た啓介の様子を見ると、嫌でもこれからのこと理解させられて、もっと使いやすいものを探してあげたくなった。 普段はただ高いだけだと思ってみていたノートも開いてみると紙質が安いものとは違っていて、書き心地が良いものなんだと知った。いくつかのノートを比べてみて、結局普段使う物の倍くらいの値段がするノートを選んだ。 それからやっぱりシャーペンも使いやすいのがいいだろうと思って色々見てみたけど、私にはその差はわからなかった。だから彼が使っているところを想像して一番似合いそうなものを選んだ。それから消しゴムは私がよく使っている物が使いやすいからそれにした。 結局思った以上にお金を使っちゃったけど、彼にあげるものと考えると自分のお昼ご飯を少し削るくらいで済む話なら安い話だと思ってしまう自分がいて、らしくないなってちょっと笑った。 啓介に言われた通り、一週間後にもう一度彼の病院を訪れた。肩にかけたトートバッグの中身を思い出しながら意気揚々と彼の病室を目指してエレベーターに乗り、周りの人に注意しながら歩いた。そして彼の病室を開けようとした時だった。 病室の扉が完全には締まっていなくて、そこから少しだけ病室の仲が覗けた。彼のベッドが窓側だったから、斜めに覗くとちょうど私の目に映った物があった。それは明らかに彼のものではない女性用のかばん。 ぱっとドアから離すと、ふと我に返って左右を見渡した。誰も私の行動を見ている人がいなかったことを確認すると、ほっと一息ついてそっと病室の扉を閉めた。仕方なくいったん引き返して病院のエントランス近くまで戻ることにした。 正面玄関から入ってまっすぐ進んだところにあるカフェに入ることにした。コーヒー一杯を頼んで席に着くと、いろんな志向が頭を駆け巡った。 あのかばんは誰のものだったんだろうか。多分私と同年代くらいが使いそうな見た目だったし、やっぱり啓介の彼女とかなんだろうか。だとしたら私に変な期待を持たせるようなことしないでほしいんだけど。いや私が勝手に期待してただけかな。 いやいやと頭を振ってコーヒーを一口飲んだ。こだわりが見られないチェーン店のカフェらしい雑味の混じった苦さが返ってちょうどよかった。目覚まし時計のアラームのように雑に私の目を覚ましてくれた。私は彼に隠しているんだし、彼は知らないうえで私を頼ってくれたんだから、私は私のまま彼に関わればいいんだ。幼馴染として。 コーヒーをぐっと飲み干すと一息ついて店内を見渡した。小さな店内でいろんな人が少しの安らぎを求めて集まっているようだった。私世代の人もいるけど、親世代やその上の世代の人もいて、皆が片手にコーヒーカップをもってどこか遠くを見ているようだった。多分その視線の先にあるのは各々の悲劇だ。 そろそろ行くかと思ったときにちょうど店の外を歩いている女性が目に入った。私と同年代で少し厚手の化粧に控えめながら派手な服装は確かに目を引いたけど、私の興味をそそったのはそれではなく、彼女の持っているかばんだった。見間違えようもない啓介の病室で見たものだった。 啓介ってこういう子が好きなのかな、彼女に比べれば地味に見える格好の私は彼の眼中にないのかな、なんて思いながら彼女とすれ違うようにして彼の病室に向かった。 今度は病室の扉がしっかりとしまっていた。ゆっくりと開けて病室に入ると、西日が私の足元に広がってきた。ゆっくりと病室に入ると、前来た時と変わらない悲しみのにおいが広がっていた。 「啓介、久しぶり」 彼のベッドのカーテンを開けるとぐったりとベッドに横になっている啓介がいた。カーテンが開いた瞬間こわばったように見えたけど、私を見たらまたベッドに体を預けた。 「大丈夫?つらいなら私は帰るよ?」 疲労が伺える彼の顔を見ているとそんな言葉が口から出てきた。でも彼は枕に頭を乗せたままゆっくりと首を振った。 「僕は大丈夫だからちょっと話そうよ。」 そういいながらも、彼は言葉を口から出すだけで精一杯な様子だった。見るも可哀想な彼のためにも、私は彼に椅子を近づけてなるべく彼の負担を減らしながら話した。 「さっき病院に入ってるカフェでコーヒー飲んだよ。結構いろんな人が来てて面白かったよ。」 「またカフェめぐりしたいね。」 小さく話す彼の声を聞き洩らさないように拾いながら私が多く話すように心がけた。私の大学の講義が急になくなった話とか、そのせいで移動時間のほうが講義時間よりも長くなった話とかそんな話を読み聞かせするみたいに話した。そのたびに彼は目を細めて小さく笑った。 彼の顔に血色が戻ったころに私は聞きたかったことを彼に聞いた。 「今日はやけに疲れて見えるけどなんかあったの?」 私の言葉を聞いて彼は小さくため息をついた。これは大学生になってから知った彼の愚痴が始まる合図だった。 「今日はちょっと騒がしい人が来てて少し気を張ってたから疲れたんだよ。」 「確かにあの子はちょっとうるさそうだもんね。」 「あれ、もしかして見てた?」 彼のきょとんとした表情を見てしまったと思って適当に取り繕うことにした。 「たまたまこの病室から出てくる人が見えたからね。」 「そっか。まあこんな愚痴を言うのもおかしな話だと思うんだけどさ。」 私のことを疑いもしない彼の様子に少し安堵を覚えながら、彼の次の言葉を待った。 「わざわざ来るくらいだから僕に好意があるのかもって思うと幻滅させたくなくて気を張っちゃうんだよね。ありのままの姿を見せて嫌われたらどうしようって思っちゃってさ。」 風に舞った桜のような彼の声にうっとりと耳を傾けていた。綺麗の中に儚さと寂しさが混じっていた。でも桜と違うのは触れられることだ。 いつからだったのか二人ともわからないくらい、彼の頭をなで続けていた。その間ずっと彼は私にされるがままにしていて、嬉しそうに笑う彼を見ていると同い年なことを忘れそうになってしまう。 「でもその様子だと私には気を使わなくていいみたいじゃん?」 私が冗談めかして言うと、無邪気にな笑顔を絶やさずまっすぐに私の目を見て彼は言った。 「だって美憂は幼馴染だから僕のこと何とも思ってないでしょ。それに僕のこと昔から知ってるからかっこつけようとしたらばれちゃうじゃん。」 少しだけがっかりしたけど、それでも茶化すことを優先した。 「まああんたは昔から分かりやすいからね。それに、気楽にできるならそれでいいんだけど。」 にこにこと笑う彼の表情が網膜に焼き付くようだった。そしてその笑顔は自然と私にも移って、子供のころを思い出すようだった。 幸せな時間を堪能してそろそろ病室を後にしようとしてトートバックを持って思い出した。 「そういえば啓介に頼まれたもの、買ってきたけどどこに置いておいたらいい?」 バックからノートと筆記用具を取り出すと、彼はベッドの隣の机を指さしたので引き出しにしまった。 「じゃあ、そろそろ私は帰るね」 そういって立ち去ろうとすると、彼は少し寂しそうにしていった。 「次はいつ来れる?」 大学の講義予定を思い出しながら再来週だったらこれるよというと、待ってるねと言ってカーテンを閉めた。それを見届けてから私は病室を後にした。 それから数か月の間、二週間に一度くらいずつ彼の病室を訪れた。この日以来疲れ切っている彼を見ることはなかったけど、徐々に弱っていく彼の姿は見ているだけで泣きそうになった。何かしてあげたくても何もできないから、時々彼に頼まれることをこなしながら彼と話す時間を増やすしかできなかった。 ある日、私の携帯電話に見慣れない番号からの着信があった。大学の講義を受けている最中だったからあとで折り返そうと放置しようと思ったが、三回目の電話で応じることにした。 「もしもし?」 「もしもし、啓介の母ですけど。いつも啓介がお世話になってます。」 子供のころに何度か聞いたことのある啓介のお母さんの物腰柔らかな声だった。ただ、私が記憶しているよりは少し声に元気がなかった。 「こちらこそお世話になってます。どうかなさいましたか?」 「美憂ちゃんも大人になったわね。それで、啓介の容態があまりよくないから、申し訳ないんだけど少しだけ顔を見てやってくれないかしら。」 頭を辞書の平たい部分で殴られたような衝撃が走った。確かに少しずつ弱っていたけど、まさかという気分だった。手から落ちそうになったスマホをつかみなおして答えた。 「もちろんです。すぐに行きます。」 電話が切れるのを確認すると、荷物をひっつかんで講義室を後にした。周りの人からの視線を振り払うような気持で早歩きで教室棟を後にした。歩いている間、古びた写真のように色を失ってみえた。道行く人の声もずっと遠い昔のことのように感じられた。 無意識で行けるほど慣れた道を再確認しながら啓介の病院の前までたどり着いた。この前まで啓介に会える場所は、今では人を飲み込む悪魔のように私の目には映っていた。頬を軽くひっぱたくと正面玄関に足を踏み入れた。 面会の手続きを済ませて病棟に向かおうとしてカフェを通りかかった時に声をかけられた。 「もしかして美憂ちゃん?」 さっきの電話と同じ声がしたほうを振り返ると、カフェの席に腰を下ろしてコーヒーカップを手にしている淑女がいた。手招きされるがままに向かい合う形に座ると、先に相手が口を開いた。 「授業中だったのにわざわざ来てくれてごめんなさいね。」 「いえいえ、それより啓介の状態はどうなんですか?」 すると、コーヒーカップに一度口をつけてから話し出した。その様子にカフェでの啓介との日々をほうふつとさせるものがあった。 「今日のところはまだ落ち着いてるわね。ただいつどうなってもおかしくないとは言われてるわ。」 思わず視線が下に下がっていく。目を上げてしまえば見たくないものが写ってしまう。そんな様子を見かねてか、啓介のお母さんはコーヒーカップの中身を飲み干すと私の肩に手を置いた。 「今日のところは大丈夫よ。それに啓介も美憂ちゃんに会いたがってると思うわ。」 そうだといいなぁ、なんて希望を抱きながら啓介のお母さんに連れられるがままに啓介の病室に向かった。ちらっと眼を見てからついていく形で病室の中に入っていく。そこは季節を感じさせない作りで、相変わらず悲しみのにおいが立ち込めていた。 「啓介、美憂ちゃんが来てくれたわよ。」 そういってカーテンを開けた瞬間、私の目に映ったのは二つの点滴につながれてベッドに横たえている青年の姿だった。 「美憂、こんな早い時間に来てくれてありがとうね。でもちゃんと講義は受けるんだよ?」 「わかってるわよ。でも講義よりあんたのほうが」 といったところで派っと口をつぐんだ。急いで取り繕わないとと思っていると、啓介のお母さんが割って入った。 「あんたも、せっかく来てくれてるんだから失礼のないようにするんだよ。」 「わかってるよ。それよりさ。」 あまり聞きなれない啓介の強い語気にちょっとびっくりしたけど、何かを察したように啓介のお母さんは病室を後にした。何が何やらわからないまま、いつものようにベッドの隣の椅子に腰かけると啓介のことをよく見てみた。 あの頃に比べればすっかり痩せ細った四肢は骨と皮が張り付いて見えて、老齢の人のそれにも見えたけど、肌がきれいな分余計に細さが際立って見えた。二本の点滴はどちらも左腕のひじの部分に刺さっていて、その部分が見えないように包帯が蒔かれていて、痛々しさを醸し出していた。清廉さを醸し出す病院服は今では啓介の体には少し大きすぎた。 「その、調子はどうなの?」 聞かなくてもわかるはずなのに聞かずにはいられなかった。でも返ってきた答えは私が予想していたものとは違った。 「そんなに悪くないよ。点滴二本につながれてたらそうも見えないけどね。」 口を開いて無理に笑い声を出す彼の顔は明らかに引きつっていて、私はどうしようもなく唇をかんだ。それを見てたたみかけるように啓介は口を開いた。 「それより美憂のほうはどう?ボランティアサークルは最近何してるの?」 「私は変わんないよ。サークルはゴミ拾いから枯葉集めとかが多くなってきたかな。今度は駅前を合同で掃除するらしいよ。」 少し大きめにリアクションしながら自虐交じりに話をする彼の姿は確かに普通の人なら心奪われるものがあった。ただ、普段は私に見せない彼の態度は私にとっては見るに堪えないものだった。だから私らしくないと思っても、私は行動を起こした。 「ねえ啓介、あんた前に私に言ったよね。私には気を使わなくてもいいって。」 ちょっと真面目そうな顔をしてうなずく彼に私は優しく語り掛けるように言った。 「今日、あんたがずっと無理してるの私にはわかってるんだからさ。そんなことしなくていいんだよ。だってあんたの前にいるのは私なんだから。」 そういって彼の頭に手を置いた。途端にブワット啓介の目から涙がこぼれ頬を伝った。啓介が病院服の袖で拭おうとしても、どんどんあふれ続けた。必死に抑えようとする啓介を見て、自分で見大胆だなと思いながら彼の頭を胸に抱いた。 「今だけは泣いてもいいんだよ。我慢しなくていいんだよ。」 彼は私にされるがまま、私の胸に顔をうずめて感情を溢れさせた。いつの間にか彼の手は私の背中に回されていて、子供がお母さんに泣きついているような姿勢で、少しだけ私の口元をほころばせた。 私の冬物の厚手の服を超えて下着が少し濡れた頃にようやく彼の涙は止まったみたいだった。嗚咽も落ち着いていたからそろそろかなと思ったけど、なかなか彼は私から離れようとしなかった。 「ねえ、いつまでくっついてるつもり?」 そういうと、ぱっと私から離れて彼の顔が目に映った。そこにあったのはあの頃の笑顔だった。 「だって美憂に抱きしめられると心地よかったんだもん。」 その言葉に殺気の行動を再確認させられてポット顔が熱くなった。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて彼の顔から視線を外した。 「まあそれならいいけど。」 それから十分くらいの間のんびりといつものように現状を報告しあった。やっぱり啓介のお母さんが言った通りの状態であることを改めて告げられた時は苦しかったけど、啓介自身はそこまで重く受け止めてなさそうなのが少しだけつらかった。でもそれは彼の本音だと私には感じた。 段々と枯れの疲れがあらわになって起きているのもつらそうにし始めた頃に、ちょうど啓介のお母さんが戻ってきた。私と啓介を交互に見た後に、私の耳元にささやいた。 「啓介も疲れてるみたいだから、今日のところは。」 「はい、ありがとうございました。」 私がそう答えると、今度は啓介に向かって言った。 「そろそろ美憂ちゃんも帰るみたいだから、最後くらいシャキッとしなさい。」 そういわれた啓介はぐずる子供のようにだらっとしながらもベッドから起き上がった。それを見て私は手を振りながら彼に別れを言った。 「じゃあ、またね。」 「うん。じゃあね。」 そういうとまたベッドに体を預けた。それを見て啓介のお母さんはため息をつきながらも、私を先導して病室の外に出た。私を病院から送り届ける途中で啓介のお母さんが口を開いた。 「あの子はお見舞いに行くたびに美憂ちゃんの話をするし、今日もお医者さんからそういわれたときに真っ先に会いたいって言ったのよ。」 「そうだったんですね。」 「あの子に浴してくれて本当にありがとう。」 そういって深々とお辞儀する姿に私は急いでかぶりを振った。 「そんなことないですよ。私にとっても大事な幼馴染ですから。」 そういうと嬉しそうに笑いながら私に別れを言って病棟のほうに戻っていった。私も正面玄関から病院を出た。相変わらず悲しみのにおいに満ちた病院を出ると、北風の吹きすさぶ冬空が燦燦と輝いていた。 それから一週間たったころに、また啓介のお母さんから電話がかかってきた。そこで私は啓介がこの世を去ったことを知った。最後は華族に囲まれて笑顔だったから、最後にあの子の顔を見てやってほしいといわれた。その言葉に私は涙が出ることはなかったけど、何か心の活動力みたいなものが失われたように感じた。 正直彼のお葬式のことはあんまり覚えていない。棺に横たえられた彼は確かに穏やかな笑顔を浮かべていて、それを見た瞬間に初めて涙があふれてきた。そのあとは最後まで続発的にあふれる涙を抑えていただけだった。 帰り際に啓介のお母さんからこれをと言って渡されたのは私が啓介に買ってあげたノートだった。でも少しの間私はそれを開けずにいて、机の上に埃をかぶらないように保管していた。 春一番が吹いたという報道がされて、ようやく冬の終わりが見えてきたころになって、ようやく私は啓介を失った悲しみが落ち着いてきた。乗り越えたと言ったら別れてしまいそうで、落ち着いたんだと自分に言い聞かせていた。 「そういえば何が書いてあったんだろう。」 私の持つ度のノートよりも高級なそのノートの表紙に手をかけた。興味と不安が入り混じりながら開いてみると、そこには彼の文字でやりたいことリストと大きく書かれたページが広がっていた。 美憂と阿蘇に行く。 美憂と浜松に行く。 美憂と一緒に映画を見る。 美憂と一緒に水族館に行く。 いくつも並んだ項目のほとんどには私の名前が最初に書いてあった。私の困惑に対しての答えは次のページに書かれていた。 それは日記形式になっていたけど、日付は飛び飛びだった。一週間おきだったり三週間ぐらい書いてなかったり、不規則だなと思ったけど、どれも私が彼のお見舞いに行った日だった。 「今日は美憂に頭をなでてもらえた。優しく甘やかされてる気分で気が抜けちゃう。」 「今日は少し疲れたけど、美憂にあったら元気が出てきた。でも美憂にはただの幼馴染って思われてるのが少し悲しかった。」 「今日はかっこつけようと思ったけど、結局ばれたし泣かされちゃった。やっぱり美憂には隠し事ができなかったけど、抱きしめられた時はすごいドキドキした。」 いくつっも続いた日記の最後には、彼からのメッセージが書かれていた。 「美憂へ これを読んでる頃には僕は多分死んじゃってるんだろうね。でも、大学に入って美憂に出会えて、入院してからも美憂が合いに来てくれたから僕としては全然よかったんだ。 意気地なしの僕だから君に思いは伝えられなかったと思うし、ここで書くのは今更だから言わない。その代わりにお願いを聞いてくれないかな。 このノートを僕だと思って、最初のリストをできるところまでやってほしいです。其れで感想をこのノートの余白に書いてくれたら、きっと僕にも伝わると思うんだ。」 涙でノートを濡らさないようにしながら、私は彼に、空に誓った。華の香りが私の部屋に立ち込めようとしていた、そんな春の訪れを感じる日だった。
2025/02/04
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あかぎれの手を温めながら 冬の街を縮こまって歩いている 切れた所が痛むんだ ウイスキーを飲んだら 答えが分かる お母さんはそう言ったけど 飲んでも分かんなかった それって麻痺させるだけじゃないかな 一昨日がっつり落ち込んで 昨日たくさん泣いた 今日全てを諦めた つまらない理由、友達と喧嘩した それだけ 世界は単純に出来ていて 私を中心に世界は回っていない 言葉はそのまま伝わらない でも、たまに宙返りする 誰も信じていないって 信じているってことかな 何もかも分からないから またウイスキーを飲んでみる 身体の芯が温まるよね そうだね気のせいじゃなければね 私の中の悪魔が捻くれた言葉を吐き出すから もう一度、信じてみようという気持ちも無くなってしまう それでまた、指の先を噛んでしまう 冬枯れの公園でブランコを漕ぎながら 曖昧な空想に耽る 私とあなたは 違う 人間とは ゆっくりと 急いで 考える 結局、何も知らない そうでしょう 思い巡らしたところで 分からないまま 素人が知ったような事言って 何も言えなくなる
2025/02/04
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夜勤明けの朝には霧が深く立ち込めていることが、しばしばある。僕の住む地域は盆地であり、すり鉢の底に水が溜まるように霧も溜まり濃い霧の中に町は沈む。視界も悪くなるので、自然、自動車も心持ち速度を抑えて緩々と走っていくことになる。この霧なら今日は晴天になるだろう。通学児童の色取り取りのランドセルを横目に、秋の霧が出る日には晴天になる、と教えてくれた人を思い起こしていた。 僕は臆病な少年であった。夜のトイレ(昔、田舎の便所は屋外にあった)など年長の兄を夜中に起こしては不平を言われたものだ。ある朝にサッカーの早朝練習に行こうとして立ち込める霧を前に、玄関先で立ち尽くしていた。兄はさっさと僕を置いて友だちと行ってしまった。人通りも車の通りも少なく皆んな霧の中に吸い込まれて消えてしまうような不安に足が竦む。坂を登ってしまえばグラウンドまで川沿いを五分もかからないというのに。練習をサボったら父はもう月謝を払ってくれないだろうし、もし大丈夫だとしてもチームメイト達に臆病な自分を笑われるのは七歳の少年には辛いものだった。そうしてしばらく、ぼんやりしていると誰かが坂を下りてくるのが見えた。ハゲ頭に帽子を被り眼はぎょろり、と突き出ている。虎じい、だ。年寄りだが背中はちっとも曲がっていない。虎じいは杖で霧を払うように歩いてくる。そして僕に気づくと、なんやボン、かと厳つい顔に笑みを浮かべてほれ、飴や、と懐から差し出してきた。僕がなかなか、受け取ろうとしないのをみると、オヤジさんには内緒やで、と一層、顔の皺を深くして笑うのだ。 虎じいとの出会いについて書いておこう。当時、小学校で敬老の日に市内のお年寄りに向けて手紙を書いて送る、という行事があった。特定の人物にではなく誰に届くかわからないお手紙、だった。僕はやっつけ仕事で長生きしてください、とかなんとか書いたのだ。数日後、返信が届いた。とても嬉しかった、もう少し生きて見ようと思います、と子どもにもわかる丁寧な文面でお礼が綴られていた。良ければ遊びに来てください、とも書かれていた。僕は折を見て虎じいの家に遊びに行った。会ってみると文章から想像したような穏やかな風貌ではなかったが、とても良く笑う人だった。虎じいは若い頃、日本中を旅したそうでその話はとても面白かった。飛騨高山で天狗に会った話や兵隊をしていた頃に支那で一つ目小僧に化かされただの、子どもを楽しませるためのよもやま話だったのか、本当の話だったのかはわからないが虎じいは子ども相手に同じ目線で話してくれる愉快な人だった。しかしある時、父にその話をすると不機嫌な顔をしてもう行くな、という。理由を聞けば、うるさい、と怒鳴りつけられた。怒り出すと平手どころか、何が飛んで来るかわからない父だから僕はその日から次第に虎じいの家に足を向けなくなった。祖母が、筋もんやったからなぁ、と呟いたがその意味は幼い頃の僕にはわからなかった。 そんなわけで恐る恐る飴を受け取ると虎じいは、久しぶりやなぁ、とゴツゴツした手で頭を撫でてくる。何をしてるのか、と聞かれたので川沿いのグラウンドまで行きたい、というと、なんや兄貴に置いてかれたんか、と僕の手を引いて歩き出した。歩きながら、もごもごと謝ると虎じいは笑って話し出した。 「ボン、知っとるか。この霧いうんは雲と同じもんなんやで。わしは昔、飛行機に乗ってたんや。雲はな綿菓子みたいに見えるやろ。せやけど、違うんや。あれはミルクのなかを泳いでるみたいなんや。そんで雲の上に出たらそらぁ、お天道さんが近くに見えてなぁ……」 虎じいの話の間、僕らは雲の中を歩き続けた。誰かとすれ違ったようにも思ったけれど、よく覚えていない。霧への漠然とした不安を忘れて富士山の頭上を飛行機で飛び越え雲の海を見降ろしたらでっかいナマズが雲の中から顔を出した、という虎じいの話に夢中になり笑っていた。やがてグラウンドが霧の中でも見えて来ると、虎じいはもう一人でもいけるやろ、と僕の背中を押した。別れぎわに、秋の朝に霧が出たら昼にはよう晴れるんやで、と虎じいは笑いながら土手に降りていったのだった。朝練の後、学校の授業が始まる頃には霧とともに雲も去り、晴天には青がいっぱいだった。虎じい、とあったのはそれが最後だった。サッカーや柔道に夢中になるうちに僕の生活から虎じいは遠ざかり、一年ほどして虎じいの自宅前を通ると表札がなく家の雨戸は閉められていた。 霧の町をぬけて自宅に辿り着く。夜勤で疲れた身体をソファに埋めて、カーテンを閉め切った部屋で眠った。遠い国まで流れていく雲の中、でっかいナマズが泳いでいく。その背には虎じいが杖を振り上げ笑いながら乗っている、夢など見ることはなかった。数時間後、目を覚ました僕は水を飲み渇きを癒して、カーテンをさっ、と開けた。秋の朝に霧が出たら昼にはよう晴れるから。当たり前のように秋のひかりが射しこみ、僕と部屋を濡らしていった。
2025/01/09
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俺の名前は高部翔太、都内にある商社のフツーのサラリーマンだ。 年齢は38歳の働き盛り、仕事は程よくこなし、給料はそこそこ。 1LDKマンションで妻と娘の3人暮らしている。 さて、これといって何もない土曜日の休日だが楽しみにしていることがある。 なんと娘が夕食を作ってくれるらしいのだ。 ちょっとしたことでピーピー泣いていたあいつが料理を作るなんてな。 包丁で指でも切らないか心配だ。 ――親バカだって? まァそう言うなよ、親にとって子供は何歳になろうが子供なのさ。 それより、娘はどんな料理を作ってくれるのだろうか。 『日経平均株価は今日も下落しました』 時刻はAM19:15になっている。 テレビではニュースをやっていた。 堅苦しい七三分けのベテランアナウンサーが淡々とニュースを読み上げている。 ニュースの内容だが経済がどうたら、政治がどうたらとよくあるものだ。 話す内容を聞くと、世間では不景気というヤツがまだ続いているみたいだ。 するとリビングのソファーに座る女性が喋った。 「暗いニュースばっかりね」 彼女は妻の風音。 仕事はある総合病院で看護師をしている。 奥様との馴れ初めはだって? 芸能リポーターみたいな質問だな。 ちょいとカッコ悪い話が――ある朝の通勤途中、ドジって駅の階段から転んで足を折ってな。 担ぎ込まれ入院した病院で彼女と出会ったのが最初さ。 出会った当初、可愛い看護師が担当になって喜んだが……。 風音はつっけんどんな態度でとっつきにくい印象の方が強かった。 だがある日、病室のテレビでプロ野球を見てると……。 「あら……今日はデーゲームだったんだ」 「今日は土曜日ですよ」 「そうでしたね。こんな仕事なもので曜日の感覚がわからなくなる時があって……」 俺の食べた昼食を下膳しながらもチラチラとテレビを見ていることに気付いた。 「野球好きなのかい?」 「えっ……」 「さっきからテレビをチラチラと見てるよ」 「それは……」 「退院はもうすぐだし……どうかな一緒に観にいかない? 偶には羽を伸ばして休むのも必要だよ」 普段の俺なら絶対言わないベタなお誘いの言葉だ。 言われた風音は少し困った顔になっている。 「……困ります」 俺といえばどう言葉を続ければいいか困った。 とりあえずプロ野球の話題を続けることにした。 彼女の反応が欲しくてもう必死だったんだろう。 「俺さ東京サイクロプスのファンなんだ。去年の浪速メガデインズとの日本シリーズは……」 「いい加減にして下さい」 風音は足早に病室から出ようとする。 俺は彼女の手を取った。 「俺、真剣に君のことが好きになったんだ」 不思議と出た言葉だ。 思い出すだけで恥ずかしい――。 「勝手に好きになるのは迷惑です」 この時の風音の反応は冷たかった、当たり前だ。 いきなり患者に告られても迷惑なだけだ。 でも……。 「偶には羽を伸ばすことも必要ですね」 「じゃ、じゃあ……」 「友達からですよ」 こうして俺達は徐々に仲を深めて――。 「ハァ……」 風音は溜息を吐くと俺のいる方向を見た。 「こう不景気のニュースが出ると『お前は病院勤めだから安定してるだろ』ってチクリと言われたわね」 いや……本当にスマン……。 ニュースなんかでも、私立病院が赤字経営に陥り倒産する記事を何度か拝見している。 医療職だからって安定してるワケじゃないのはわかっているんだ……。 「病院も潰れる時代だし、看護師も大変なのよ?」 わ、わかっている本当にゴメンよ。看護師は大変だよな。 夜勤は続くし、めんどうな患者や家族、それに医師も癖のある人がいるらしくよく愚痴をこぼしていたな。 『続いてスポーツです』 「ん……富田くんだ」 ナイスだアナウンサー。 少し白髪が増えたアンタだがよくぞ話題を変えてくれた。 『東京サイクロプスの富田匠選手が引退を表明しました』 「あっ……引退するんだ」 東京サイクロプスの富田選手が引退するようだ。 この選手は思入れ深い、風音との初デートでのプロ野球観戦……。 あの試合での先発投手が富田選手だったからだ。 高卒2年目でプロ初登板の試合。だけどボカスカ打たれ5回を持たずにノックアウトされた。 でも、懸命に投げる富田選手を二人で応援したっけ。 それ以来だな、俺達が彼のファンになったのは。 その富田選手も球界を代表する投手になった。 しかし、本当に時の流れは早い。あの富田選手もとうとう引退するのか。 「あなた、富田くんが引退ですって」 風音が俺を見て寂しく言った。 仕方ないさ『人間が死ぬ運命から逃れられない』のと一緒でプロは引退がつきものさ。 あの時の選手が40過ぎまで現役で続けられたのは凄いことじゃないか。 「お母さん、出来たよ」 娘の愛梨だ。 2年前に大学を卒業した愛梨はあるIT企業に勤めている。 「もう独立して家を出ろ!」って言いたいところだがそうはいかない。 愛梨の収入がウチを支えているみたいだからな。 それに大学へ入学するために借りた、奨学金も返済しなきゃならないみたいだ。 愛梨に申し訳ない気持ちで一杯になった。 俺がもっと元気だったなら……。 俺がセンチメンタルな気持ちになると風音が言った。 「おいしそうね。これってスープカレー?」 「うん。お父さん昔からカレー系の料理好きだったから」 ガキっぽいが俺は昔からカレー料理が好きだった。 カレーライスはもちろん、カレーシチューにカレー鍋……。 カレーさえあればなんでもできるっ! てな具合でカレーが好物で、食べると元気が出て仕事を目一杯頑張れた。 「父さん、戦隊モノの黄色みたいな人だったわね」 「お母さん、もうそれ古いわよ」 「古い?」 「うん、今どきの戦隊のイエローは違うのよ」 「ふふっ……本当にあの人、優しくていい人だったわ」 風音、嬉しいこと言ってくれるじゃないか……。 もっと俺が元気だったころに言って欲しかったぞ! 「そろそろ皆で食べましょうか」 「うん、その前に……」 愛梨は作った俺の前までカレースープを持って来た。 小さな膳の上にスープカレーを乗せる。 いい香りだ、これは絶対に美味いに違いない。 目にしているも食べられないのが残念でならない。 「もうあれから12年か……私、毎日頑張っているよ」 そうかそうか頑張っているか、でも頑張り過ぎて体を壊すなよ。 何より健康が一番であることを俺自身が痛感している。 「父さん、今日は大事な報告があるの」 大事な報告……一体なんだろうか? 「今ね……私、真剣にお付き合いしている人がいるの」 ファッ!? 「今度お父さんにも紹介するから」 な、なん……だと……。 「彼、お父さんには『写真でしか会えない』のが残念だけど……きっと気に入るはずよ」 ど、どんな男だ!? 売れないロックバンドのミュージシャンだったら許さんぞ! もしそうなら「娘はやらん!」と頑固オヤジのノリで言いたい! ところだが何も出来ん! 直接に話せない状況だからだ! 風音! このサプライズ発言に君はどう思う!? 「あなた、愛梨の彼氏はとってもいい人よ」 お、俺より先に会ったんかい! 「それにあなたと違って顔もいいし、背も高いし……」 ど、どういう意味だよそれは! お前はいつも余計な一言が多いんだよ! フゥ……怒っても仕方がないか。 風音は俺がプンスカしていることに気付かないだろうし……。 「お父さん、それじゃあ一緒に食べようか」 愛梨は静かに手を合わせた。 仏壇前にはカレースープの匂いが漂っている。 今日は特別な日――そう『俺の命日』だ。 そんな日に娘からとんでもないことを告げられてしまった。 それにしても、おいしいカレースープだ。 俺は娘が作ったカレースープの匂いをじっくりと噛みしめる……。 これなら彼氏――未来の花婿も喜ぶだろう。 ともあれ二人とも! 俺の分まで幸せになってくれよな!
2025/02/04
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Untitled. 鳥からのメール。 ある朝、 眼が覚めたら 鳥がおおきく羽ばたいて けれどもそれも束の間で まるでゆらめく太陽に 見透かされているよう 鳥のこころが見透かされているよう 森へいきたかったの? ゆうことをきく羽根なら ちがう鳥にならなくてもよかったの? もうすこし、 時間が見えるといい. けれどもさっきは、 束の間の出来事に 瞬間おおきく驚いてしまった。 メル友と間違えたって聴こえた. 瞬間, それも一瞬の。 空虚 やがて自由に飛びたてるように. うしなうものの 問4. 失うもののないひとは 強いのでしょうか? ((つよいのでしょうか)) かなしい夢. かなしい夢をみました。 かなしい かなしい夢は 現実に対するなにかの反映でしょうか 夢からさめて かなしい夢は かなしい現実のなにかの反映でしょうかと. それでも今は 夢からさめて かなしい唄がとおり過ぎて聴こえなくなるのを. 唄い終えた夢の余韻が消えてなくなるのを じっと待つ、 待つ . 今日、 かなしい夢をみました かなしい かなしい夢は かなしい未来のなにかの反映でしょうか. 倉庫. さよなら いとしき人. ともだちの唄に 違うひと, ねえ じぶんの存在証明の最期の砦だなんて 最期の砦だなんて くだらない考えだよ 砦はひとつでは足りない たりないたりない。 いつしか 気がつく日が来るのだと思います. さよなら すべての可能性. 違う物語に まるいひと。 * すべては日常のなかに。 遠い記憶の底の原風景から 水辺のほとり 離れていても繋がっている 光と水が 溶けあうように 離れていても繋がっている 光と虹が 溶けあうように 揺れるように、 水辺のほとりに 人魚が佇んでいました。 虹のように揺れて 子ども. もう寝なさい 子どもは眠る時間よ 寝てください. 眠りましょう 夢をみましょう. あら 微熱があるのかしら. おやすみ. こんな時間だから もう 眠る時間よ. みんなはもう ねたのよ. もう 眠る時間なんだから 子ども達は眠る時間なのよ. みんな ねているんだから もうお眠り. こんな時間よ. 明日また 寝坊するんだから いいこだから ね もうねましょ いいこだから いい夢をみるの。 よいゆめを. 球形. どこにも行き着かない と. おもいます。 明日お見舞いに行きましょう。 病室の匂いが好きです. 時折. 電話が掛かってきて. 街の都合はどうですか と. 聞かれる。 けれど. そんな質問は馬鹿げてるとおもいます いい加減にして下さい 0.1(せめて死を. 幸福になることは復讐でしょうか 幸福によって 復讐するという考え, 今日はよく晴れた日です. 過去にもこういう事がありました こういう日。 違った考えのひともいます 復讐するという考えは 幸福でしょうか. 穿いてるズボンが裂けていて それが気にならないのは幸福でしょうか 明日もまた晴れるという事がわかるのは幸福でしょうか 違った 考えのひともいます 明日が雨の日だと. そう思うひともたしかにいます それでもいいのだと思います。 (空虚) 商品価値は高まるだろうけれど、それ以上の何があるとも思えない. 憂鬱です 花. ちりぢりに散らばって 揺れる水しぶきと 一緒になって遊んでる 青い みずは 飛び跳ねて 白い空に なりました ぼくの帽子は水色で きみの帽子は ピンク色 赤いめをしているの それが黒くかわったり 毎にち色を変えている あかい眼をして 野に咲く花をかえている ともだち. みさきちゃんは死んでといわれて死にました とてもすなおな子です かけるくんは一緒に死んでといわれて ひとりで死にました とてもすなおな子でした 。 矛盾. ソーダ水のように(ように) 。すいのように 雫。 ここから消えて、 月へ還ろう 月の石は道の雫 砂漠に似て 待ち時間は明日まで 今とは違う明日まで とある小石に胸のうちを明かして 小石の胸に眠る 眠れる 眠る小石に 唄う空 伝う雫。 曖昧です. 握りしめたこぶしに血が滲む ちぐはぐなままでいるために いる. なにもわからない 音楽を聴いている 壱イ. 消滅してほしい 光が満ちている しにたいって 面白い装丁です. つけたし .2 en. どこにもいかない. モニター画面を見ている あと. 消したくなったら消せばいい あとはかつてに過ぎ去ればいい 側面. しらない, なにも しることのない +( ) +(ao) 椅子、が 壊れた 。 ai + (ao) おいで ここにおいで ここでお眠り ぼくはいつでも ここにいるから やさしい光が朝の空気に溶けるまで それまでここにいて ゆめのなかにお眠り いつでもここに ぼくはいるから 蟲の. 結局は蟲の腹です けれどもそれは生きて動いています けれどもやはり蟲の腹です 追記. *ただそう書きたかっただけです 甘いものがほしくなりました 話し. 話したいんです 話したいだけなんです あとの事はどうでもいいんです 誰がなんと言おうとどうでもいいんです 本. 言葉を信じません まとわりつく文章はかなぐり棄てます 本はガムと同じで読んだら吐き捨てるものです 味のしないガムを欲する人がいるというのも可笑しな話です 物語, 人は、みな自分の物語を生きていて 自分の物語を生きてください。 since 1900/07/Xx. (淡いグレー). み んな みんな や さしい ° 2025/01/31
2025/01/30
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観葉植物に餌をやり忘れて 餌はやらなくていいんだよ、と 言葉で教えてくれた人がいた 階段のよく晴れた踊り場のあたりにも エタノールの匂いがしていて その間、何本かの準急列車に 乗り損ねてしまった 仕方なくその滑らかな付箋の質感を 爪で剥がすしかなかった 日々の生活を見渡せば このように剥離していくものは 常に身体などの近くにあり 子供の頃、人と人の隙間に はぐれたこともあったけれど どこかで線引きをしなければ 多分あのまま全部 子供であり続けた 上席に夏の予定を聞かれ 特に隠すつもりもなく 雨に溶けていく海の泡沫を思いだし 薄っすらと伸びていく砂の陰影や 誰にも知らせなかったフナムシの亡骸が 懐かしく感じられた 観葉植物についている外国語の名前を ひとつずつ覚えていったように 命は囁きに戻っていく 少しまとまった夏休みを取ったのに 初日の朝、窓を開けると もう秋の気配がしていた
2025/02/02
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初恋は女の子だった。 中学の演劇部の部長。 天然のソバージュの髪型で、もう顔もあまり思い出せないけれど、彼女を好きになって、初めて恋というものを知った。 けれど、初恋というものは実らないのが定説であり、加えて彼女は同性だ。告白なんて出来るわけがない。 本や漫画の中で知っていた恋というものは異性に向けられるものであることも知っていたし、憧れが高じたのかなとも疑ったが、今思い返してみても、あれは恋特有のときめきだったと思える。 次に好きになったのは、男性だった。 やはり中学の先輩。体格はよかったが男の子にしては女の子のような奇麗な顔をしている人だった。色白すぎて、いつも頬が赤いのが可愛かった。彼にはバレンタインにチョコを渡した。 男の人には恋をしたのは彼も含めて3人。女の人に恋をしたのは5人。 女の子との恋が実ったのは女子高時代の一人だけだ。 あれは女子高という、異性のいない世界だから起こった特殊な事例だと思っている。 女性に恋をしても私には、せいぜい良い後輩、良い友人としか振舞えなかった。可愛がられるところまで持っていけるのが精いっぱいだった。 好きな人に奇異な目で見られるなんて辛すぎる。だから相手にとって可愛らしくて良き理解者、という立場までが、私の獲得できるすべてだった。 同性を好きになるのは、辛さも喜びも、異性を好きになるより深い。 絶対かなわない恋と分かっているから、身悶えするほど辛い。 その代わり友人として大切にされる。異性ではこうはいかない。 ミクシィ時代、男にも女にも関係なく恋愛感情を抱くバイセクシャルであることを告白したとき、あるマイミクさんから「悲しみも喜びも2倍ですね」と言われた。 その通りだなと思う。 異性を好きになるにしても、いわゆる男らしい人を好きになることはなかった。 女性成分多めの人を好きになった。そしてそんな夫を好きになった。 今ではあまりその頃の可愛らしさは残っていないが、夫は夢見るロマンチックな少女めいたところがあって、外見もしぐさもどこかそういう、少女めいたところがあったのだ。 今はその私の愛した少女性は鳴りをひそめてしまったけれど、それでも変わらず好きだ。 だから、結婚できたのは幸運だったなとよく考える。 どちらかというと同性に、より惹かれてしまう私の性分として、結婚は無理かもしれないと思っていたから。 そうして、異性と結婚できたのだから、言ってもいいだろうとごく楽観的に、母に話した。 自分はバイセクシャルであると。 母は「なにそれ…気持ち悪い…!」と嫌悪感むきだしで私を見て、それから、一切連絡してこなくなった。 私の方からももちろん連絡なんて取らない。 「気持ち悪い」なんて言われるとは、思ってもみなかった。 これまでの辛さ苦しさ、そういったものには全く想像もしないで、いきなり「気持ち悪い」。 あの目…。あんな目で見られるなんて…。 その夜、夫に事の次第を話して泣いた。 夫ももちろん私がバイセクシャルであることを知っているが、今現在俺を好きなら別に関係ない、と寛容なのか無関心なのかよく分からないが、私の性癖を認めてくれている。 「気持ち悪い」。 そうか私、気持ち悪い人間だったのか。 改めて、これまで好きになった彼女たちに恋を告白しなくて良かったと思えた。 私が好きになった人たちだから「気持ち悪い」なんて反応が返ってくることは考えにくいが、それでもそれまでの関係を終わらせられてしまう可能性は高かったかもしれない。 今は夫一筋だし、いったん好きになると、私はよほどのことがない限り嫌いになることはない。すこし偏執的な面もあるし。 バイセクシャルです、なんて公言することは、母のあの反応に懲りて、もう二度としないよう決めた。 カミングアウトするのは、匿名のネットのみ。 本当にショックだったのだ。 母に言ってから毎日、鏡を見ると一日も欠かさずあの声が蘇る。 「気持ち悪い」。 もう10年近く前のことなのに、ずっとあの目、あの声が再生され続けている。 朝、夫を起こすまでちょっと寝ようとか横になると突然思い出す、昼寝の時も夜眠るときも。 そのたびにガバッと起きて、泣くのをこらえながらタバコを吸ってなんとかやり過ごす。 そんな母と、去年和解した。 私は母から絶縁されたものと思い込んでいたが、母は自分がどれだけ酷いことを言ったのかの自覚もないまま私から絶縁されたと思い込んでいたそうだ。 多分母のことだからこの10年くらいで急速に市民権を得始めた性的マイノリティへの生温い風当たりに感化されて、自分もそもそも差別するような人間ではない、とでもごく自然に思い込んのだろう。 恨みは残っている。 母の言葉は、子への言葉であると同時に、世間のナマミの声でもあるのだ。 もしリアルで友達にでもカミングアウトしようものなら、その場では理解者のふりをされるかもしれない。 だが実際には他の友達に面白おかしく言い触らすだろう。 そして男性ならそれだけで済むだろうが、女性相手だったら、性的な目で見られるかも、なんて自意識過剰な危機感を抱いて私から離れていくに決まっている。 決まっている、と決めつける私も自意識過剰なのかもしれない。 それでも私は母のあの目と言葉を忘れられない。 私はバイセクシャルで、「気持ち悪い」人間です。
2025/02/01
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「森で子供を呼ぶな。奥地に連れられる」 森に潜む小さな音楽隊である鳥たちは不名誉な謂れをしていた。天は鳥にある才を与えた。その場所に歴史を刻む力、素早く流れる時の中に記録という石を打つ力である。鳥は聞いた音なら何でも真似ることが出来たのだ。この森で迷い子を探す時は声を上げてはならない。挙げれば鳥に真似される。子が聞く声は鳥のもの、森の奥へと連れ去られるのだ。川のせせらぎ、番を求める生物の声、山が崩れ、大地が姿を現す音、鳥は森の記録者だった。この森で歴史は生き続けている。 生きとし生けるものは鳥だけではない。いつしか、この森に戦火の嵐がやってきた。風が渦巻く嵐なら鳥も問題ではなかった。炎をまとい、鉄の雨が降り注ぐ。死が形を持って森に襲ってきたのだ。当然、鳥やその他の生き物は逃げ惑う。彼らを庇い、木は真っ先に倒れていった。その時だけ、鳥は沈黙を守っていた。死は鳥たちを襲うばかりかその足元で戦う人の群れに飛びかかっていた。平和だった森に巣くう戦争の影はこの森を荒れ地にすることは容易い。いつしか森が蓄える歴史は消え去り、大地を穿った着弾跡に生き物の死骸が並ぶほどであった。 その中にまだ命がかすかに燃える兵士が一人、座っている。兵士は消えゆく命と背中を覆う死に挟まれ、恐怖を捨てていた。火は消え、灰が積もる大地に一羽の鳥がいることに気が付いた。兵士は開かない目を向けた後にかすかな声で言った。 「……怒っているのか?」 鳥は今までため込んだ歴史を一斉に吐き出した。大地の着弾跡に芽生える過去の夢。木々が倒れ、逃げ遅れた動物や兵士が巻き込まれる。鉄の雨や吠える銃の音、時折挟まれる遊ぶ子の声、かき消す銃声、爆発音。 兵士は淡々と鳴く鳥にため息を漏らした後、息絶えた。鳥は動かなくなった兵士の足元で何度かはねた後、そのため息を真似て何度か鳴く。そのまま空の晴れ間を縫うようにして飛び去った。 この鳥が記録した声は戦争の声だ。以降、鳥の鳴き声は終末を予言するかの如く恐ろしいものとなり、人々は鳥を「終末鳥」と呼んで忌み嫌っていった。だが、どうであろう。私はそうは思えない。この鳥が美しい声を挙げられるようになることを、祈るべきではないか。真昼の空に響く死の悲鳴を聞き、そう思った。
2025/02/03
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その日は星が掴めそうな夜だった。 空には雲は一つも見当たらず、無数の輝きが散りばめられている。その光の中でも一番大きい月から落ちる光に照らされて、僕と女の子は何もない空き地の中で向かいあっていた。 闇に目が慣れたからか、彼女の顔がしっかりと目に映る。僕と同じくらいの歳の子が、不安気な表情を浮かべながら、くりっとした瞳でこちらを見ていた。かわいい子だ、僕のひいき目かもしれないけども。 「あの……お願いを聞いてもらってもいい?」 女のこはおずおずとした態度でそう口にした。そんな表情で言われたら男として断るわけにはいかないだろう。⋯⋯元々、断る気なんてさらさらなかったんだけど。 「うん、いいよ」 「……ほんと?」 「うん、ホントだよ」 僕の言葉に、女の子の顔がぱぁっと明るくなった。その顔を見ていると胸の中に温かさを感じる気がする。 思えば、誰かに頼み事をされるなんて人生で初めてのことだった。自分が必要とされているのだと思うと、なんだかくすぐったいような気持ちになる。 「それじゃあ、お願いを言ってみて?」 女の子を安心させるように笑みを浮かべてみる。しかし、この子は何を願うつもりなのだろうか? 僕は神様じゃない、だから全ての願いを叶えることはできない。もし、願いを叶えられないと知ったらこの子の顔から笑みは消えるだろう。それだけはどうしても嫌だった。 「今日一日、わたしと一緒にいてくれる?」 女の子の願いはささやかなものだった。そのことに、ホっと胸を撫で下ろす。 だけど、よく見てみると彼女の体は小さく震えていた。その願いを言葉にするのにどれだけの勇気が必要だったのだろうか。それに気づいた僕は、自分の頭を殴りたくなった。 彼女は今、この世界にひとりぼっちだ。だから、彼女にわかりやすく伝えてあげないと。⋯⋯僕がどこにも行かないってことを。 決意をした僕は、ゆっくりと女の子に近づきその手を握る。その瞬間、彼女は「──え」と小さな声をあげた。 「いいよ、一緒にいよう」 繋ぐ手に少しだけ力を込めた。僕の気持ちが伝わるようにと思いを込めて。だけど、どうしても緊張からか手が震えてしまう。思えば、誰かと手を繋ぐのは初めてのことだった。 女の子は、ぼうっと呆けた顔で僕の震える手を見ていた。そんなにマジマジと見ないでほしい、なけなしの勇気を振り絞っているんだから。 「えへへ、ありがとう」 女の子は急に顔をほころばせ、感謝の言葉を口にした。その理由はわからない。 残り時間でこの子になにがしてあげられるのだろうか。頭の奥でそんなことを思った時、僕の耳に何かを叩くような音が聞こえてきた。 ドン、ドン、と重く、空気を震わせるような音が辺りに響いている。それで、僕は今日がなんの日だったかを思い出した。 「そうか、今日は盆祭りの日か⋯⋯」 「ぼんまつり?」 「うん、太鼓の音が鳴っているでしょ?」 「あっ、この音聞いたことある!」 「⋯⋯行ってみる?」 さりげなく、彼女を祭りへと誘ってみる。祭りには一回行ってみたかったところだ。初めて行くのが彼女と一緒ならどれだけ素晴らしいだろう。 「外に出られるの?」 不思議そうに首を傾げた彼女を見て、さっきまで浮かれていた僕の心が一気に冷えていくのを感じた。まずは先にすることがあった。 「うん、出られるよ、来てごらん」 僕は彼女の手を引き、空き地の外へと向かった。僕たちは、まずここから始めないといけない。 彼女をエスコートするように、僕は先に空き地の外へと出る。彼女は空き地の中に留まったままだ。そこには壁も何もない。それなのに彼女は踏み出そうとしない。 「……でも」 「大丈夫だよ、僕を信じて? 怖いなら目を閉じていいから」 「う、うん」 女の子は僕の言葉通りに目を閉じた。僕は目を閉じたままの女の子をそっと引っ張り、最後の一歩を踏み出させてあげた。 「目を開けてみて?」 女の子は僕の声にそっと目を開ける。そして、目を大きく見開き僕の顔を見た。 「わぁっ、外って出てもだいじょうぶなところなんだ!」 目を輝かせながら驚く彼女を見て、感情をぐちゃぐちゃに混ぜたナニカが僕の中を満たしそうになった。それを必死に抑え込み、彼女へと笑い掛ける。自分の気持ちに蓋をしないと感情があふれ出てしまいそうだった。 「そうだよ、壁なんて元からなかったんだ。どこにだって行けたんだよ」 「そっか……」 そう言いながら胸に手を当てる彼女を見て、僕は何とも言えない気持ちになった。彼女を励まそうとしたところで、ふと気付いた。 「そうだ、君の名前を聞いてもいい?」 「名前?」 「うん、知っておいた方がいいかなって」 色々なことがありすぎて、名前を聞くのをすっかり忘れてしまっていた。だけど、僕の言葉に彼女は苦笑いを浮かべるだけだった。 「えっと⋯⋯実はわたしって名前がないんだ……」 彼女は恥ずかしそうに、えへへと小さく笑う。それは笑って言うような言葉じゃない。少なくとも僕は笑えなかった。 「んー」 「どうしたの?」 「いや、君に似合う名前ってなんだろうって考えててさ」 「⋯⋯もしかして、名前をつけてくれるの?」 僕は首を縦に二回振った。ここで名前を付けてあげないと、きっと後悔する。 だけど、彼女に似合う名前を考えても一向に案が出てこない。そりゃそうだ、だって僕も──あ。 ドン! という和太鼓の音で僕はハッとなる。そうだ、いい名前があるじゃないか。 「まつり、君の名前はまつり。⋯⋯どうかな?」 彼女の笑顔は晴れやかで、僕の目にはまぶしく映る。それは、僕が祭りに抱くイメージと同じだった。 「まつり……まつり……」 彼女は口の中で自分の名前を転がすように何度も呼んでいる。彼女が気に入ってくれるかどうかが不安だった。これ以上いい名前は思い付かない。 僕は女の子の反応をじっと見守った。そして、次第にその顔が笑顔に変わっていくのを見て、ほっと息を吐いた。どうやら気に入ってくれたようだ。 「ありがとう! すてきな名前!」 屈託なく笑う彼女に照れ臭くなって目を逸らした。喜んでくれたのは嬉しいが、いささか恥ずかい。鼻の頭がムズムズする。 「そ、それはよかった。それじゃあ、行こうか……まつり」 自分で付けたはずの名前なのに、名前を呼ぶのが恥ずかしくて少し声がどもってしまった。 「えへへ、まつりって呼んでくれてる」 まつりの明るい声に、僕も知らずのうちに微笑んでいた。やっぱり彼女には笑顔が似合う。 「それじゃあ、行き先はまつりに決めてもらおうか。どこに行きたい?」 今日の主役は彼女だ。だから僕はまつりに行き先をゆだねた。 「うーん」 まつりはほっぺたに指を当てて少し悩んだ後、「初めて外に出るから、のんびりと歩きたいな」と言いながら笑った。それを見て僕もつられて笑う。 「わかった、二人でゆっくりと町を見て回ろうか」 うん、彼女がそれを願うのなら、僕もそれに賛成だ。だって、僕は彼女が隣にいるだけで幸せなのだから。 「なんで笑ってるの?」 「内緒だよ」 「えー、教えてよ!」 「内緒だよー」 二人で笑い合う。なんだかこんなやり取りをするのが恥ずかしくなったけれど、不思議と嫌な気持ちはなかった。 「じゃあ、行こうか。まつり」 「うん!」 まつりの存在を確かめるように、もう一度強く手を握り締める。僕に合わせてまつりもぎゅっと握り返してくれた。その行動にどちらともなく笑い声をあげた。 それから僕はまつりと夜の道を歩いた。人混みのない静かな道をゆっくり、ゆっくりと行く先も決めずに。その間、僕達は何も話さなかった。言葉なんていらない、手を繋ぎあっていればそれだけでよかった。 たまに、まつりが繋いだ手に力を入れて驚かせてくる。急にやられるとびっくりするからヤメてほしい。仕返しとばかりに、僕も強く握ってやる。その度に、まつりがくすくすと笑う。 太鼓の音が遠く離れていき、辺りには静けさだけが残る。僕たちの足音だけを辺りに響かせながら、街灯のあかりに導かれるように歩き続けた。この世界にはもう二人だけしかいない。そう錯覚してしまう程、何の音も耳に入ってこなくなった。 やがて、街灯も途切れて真っ暗な世界になった。だけど、月の光が僕たちを照らしてくれた。それを頼りに、僕たちはさらに歩く。 「……後どれくらい時間があるんだろう」 静寂をかき消すようにまつりはぽつりと声を発した。寂しそうな声が僕の横から聞こえてくる。 まつりは僕の手をぎゅっと握る。さっきまでのおふざけとは違う感情がこもったそれは、まるで僕の存在を確かめているかのようだった。僕もぎゅっと握り返す。まだここにいると伝える為に。 「⋯⋯まつりが聞きたいことって何かある?」 湿っぽい雰囲気を打ち消すように、僕はまつりに聞いてみた。 「えっと、そうだ! まだあなたの名前を聞いてないね」 「……そういえば言ってなかったね」 その言葉で、今まで僕のことを伝えていなかったことを思い出した。僕は顔を横に向けて、まつりと向き合う。 「おしえてほしいな! あなたのお名前は?」 まつりは興味津々といった感じで、食いつくように聞いてきた。その姿を見て、僕は何と答えるべきか少し迷ってから、本当のことを話すことにした。 「実はね、僕にも名前がないんだよ」 「⋯⋯え」 僕は頭の隅の方に追いやった記憶を探ってみた、それでも名前らしい名前で呼んでもらったことは生きていた中で一度もなかった。 「おい、とかお前って呼ばれてたかな……」 記憶のふたが開く。思い出したのは、ろくでもない日々。 「それって、わたしと……」 「僕のこと、話してもいい?」 まつりがうなずいたので、僕は自身の過去を話す。ろくでもない人生のことを。 享年十一歳、それが僕の生きてきた時間だった。生まれてから死ぬまでの時間、ずっと家畜のような扱いを受けてきた。 いつもハエが飛び回るゴミだらけの部屋で、母の残した物だけを食べ生きていた。学校にも通わせてもらえず、母以外の誰にも知られずに、僕はひっそりとその生涯を終えた。 戸籍もないから処分も楽だったに違いない。なにせ、僕は母が隠れながらに産んだ子供だって話だ。それは酔った本人が何回も言ってきたから知っている。 生かされたのは、僕の死体を処理するのが面倒だからと言っていた。それなら最初から産まなきゃいいのに。もし、母が他人ならばどれだけよかっただろうか。これで血を分けた家族だっていうんだから余計に質が悪い。 力がない僕には母をどうにかする力なんてなかった。ただ、その立場を甘んじて受け続けることが、僕にできる唯一のことだった。 僕の話を聞いたまつりは下を向く。彼女は僕の話しを聞いて何を思っただろうか。 「そっか⋯⋯」 まつりは、なにかを噛み締めるようにつぶやいた後、僕の顔を真剣に見つめて口を開いた。 「──じゃあさ、一生のお願いはないの?」 一生のお願い、それは何もお願いする事が出来なかった僕には縁のない言葉だった。 まつりが望んでいるのは、一生に一度すら願いを叶えることが出来なかった者の願い事。現世での後悔を振り払う為の行為。 「願い、か」 僕の願いは考えるまでもない。まつりが心配そうに僕の顔を覗きこんでいたので、その頭をなでながら、ほほを緩めた。 「⋯⋯もう叶ってるよ」 「え?」 「こうやって君と歩きたかった。何気ない話がしたかった。ずっと⋯⋯ずっと⋯⋯」 まつりが何も言わずに立ち尽くす。これは最後まで言わないつもりだったんだけどな。 「話の続きを聞いてくれる? これはそんなくだらない日常で、名も知らない女の子と出会った話なんだ」 僕はまつりの返事を待たずに、話の続きを語ることにした。 僕と同じ境遇の子、その子に一目惚れをしたのは僕が死ぬ十日前のことだった。 その日、空腹に我慢ができず家から逃げ出した僕は、当てもなくさまよい続けた。そして、少しぼろくなった小さな家を見つけてその家に忍びこもうとした。──そして、彼女を見つけた。 それは、本当に偶然だった。 カーテンが薄っすらと開いていた。僕は中に誰かいないのかを確認するために、その隙間を覗いてみた。その部屋の中には、女の子がいた。 「うわっ!」 その女の子の体中にはアザが浮かんでいた。何も食べさせられていないのか、体は痩せて骨と皮みたいに見える。一目見て、その子が人間として扱われていないのだとわかった。 驚きと恐怖から声を漏らしてしまい、慌ててその場から立ち去った。帰る途中、胸の中には感情が芽生えていることに気付いた。 共感からだろうか? それとも同情からだろうか? とにかく、理解できない感情が胸の中を埋め尽くしていくのを感じた。 思えば、この時に二人で逃げるべきだったんだ。それを今でも僕は後悔している。 彼女にもう一度会う為、また家を抜け出た僕はその家に向かった。だけど、その家の前には警察が居て近寄ることができなかった。女の子が死んだとわかったのは母が見ていたニュース番組を聞いた時だった。 女の子は三日前、僕が行った日に死んでいた。母親に殺されたのだそうだ。 僕はそのことに絶望をして、体が食べ物を受け付けなくなってしまって死んだ。最期は餓死という実にあっけない物だ。 薄れていく意識の中で、僕は女の子に謝り続けた。そして誓った。今度は絶対に助けてみせると。 そう思い、気がついた時にはなぜか外にいた。一瞬だけ走馬灯か、それとも夢かと思ったけどもそれは違うとすぐに理解した。身体が透けていたからだ。そして、僕は死んだのだと理解すると共に一つの仮説が思いつく。 彼女も僕と同じような存在になっているのではないか? そのことが頭をよぎった。 だから、僕は軽くなったどこにでも行ける身体を使って、彼女を探すことにした。しかし、どこを探せばいいのかわからずに宛もなくさまよい続けることとなる。 残念なことに、生きている間に家から出たのが二回だけだったので土地勘なんてものはない。あるものは彼女にあいたいという意思だけだ。 夜が終わる度に意識が消え、そしてまた夜に目を覚ます。それを繰り返した。 もう何回目になるかわからなくなった時、遂に彼女を見つけた。空き地での中で彼女は座り込み、ずっと何かを見つめていた。それが彼女の生前の姿だったと言わんばかりに。 そして、あの日をやり直したくて、僕は彼女に覚悟を決めて声を掛けた。 「あの……大丈夫?」 彼女は僕を声を掛けると驚いた顔をした後、すぐに「うん、だいじょうぶ」と言って笑ってくれた。なんて強い子なんだろう。僕なら心が壊れていたに違いない。 どこにもいけず、誰とも会えず、ただ下を見続けるだけの日々。ただ過ごすだけ日々がどれだけ辛いのか想像もしたくない。 彼女に出会えた、一緒に外を歩けた。それだけで僕の願いはもう叶っていた。 これが、僕の全てだ。これ以上話す物は何もない、彼女は僕に幻滅していないだろうか? 僕は女の子の手を離して、彼女を向いて頭を下げる。 「ごめん、会った時にちゃんと言えなくて。あの時、助けてあげられなくて」 彼女はこんな僕を許してくれるだろうか? もしかすると、怒っているかもしれない。不安が胸の中にうずまいていくが、彼女の出した言葉に呆気に取られてしまった。 「……うーん、とりあえず名前を付けてもいいかな?」 「え、な、名前?」 突然の提案に、思考が追いつかない。そんな僕を余所に、まつりはほっぺたに指を当て、うーんと悩み始めた。そして、「あっ」と言ってからにこっと笑う。 「じゃあ、これからあなたの名前は、りつ! りっくんって呼んでもいい?」 「うん、いいけど……」 初めてだ、名前を呼んでもらえたのは。何だろう、初めて自分という存在が認識出来たような気がする。 「よかった、まつりの後ろから二文字を取ったんだ。少しでもあなたにお返しがしたかったから」 まつりは顔を赤くさせながら、にこやかに笑う。 「……怒ってないの?」 「え、おこる? なんで?」 「だって、あの時に助けていれば……」 「それで、二人で逃げてどうするつもりだったの?」 「それは……」 まつりの言葉に何も返せなかった。そうだ、そこから逃げ出したとしても行く当てがない。食料もなく、子供二人で逃げてもどうしようもない。 「これでよかったんだよ。だって、りっくんにこうやって会えたんだもの」 まつりにその言葉を言わせてしまったことが、何よりも不甲斐ない。 「⋯⋯うん」 「何で泣いてるの、りっくん」 「泣いてないよ、幽霊なんだから」 「声、震えてるよ?」 「そうかな、最初からこんな感じだったと思うけど」 「⋯⋯ウソつき」 「ホントだよ、だってまつりとこうやって会えたんだから泣くわけないじゃないか。でもさ、まつりと離れるのがつらくって」 「わたしもだよ」 「もっと、違う形で、まつりと……」 言葉が口から出てこない。伝えたいはずの言葉が紡げない、いつも通りに話せない。涙が、僕の邪魔をしてくる。 「泣かないで、りっくん──えいっ!」 「まつり!?」 突然、まつりに抱き締められ僕は困惑する。目の前にまつりの顔があるせいで、あるはずの無い心臓が高鳴ったような気がした。 「りっくん、そんなに自分を責めないで。ここにはりっくんを悪く言う人はいないから」 まつりは僕を抱き締めたまま、ゆっくりと頭を撫でてくれる。それが心地良い。心が温かくなるようだ。いつのまにか、涙は止まっていた。 「わたし、りっくんのこと好きなの。だから、わたしの好きな人のことを悪く言うのやめて欲しいな」 「……はは、なんだよそれ」 乾いた笑いが口から漏れる。でも彼女に好きだって言ってもらえて気持ちが落ち着いていく。だって、僕もまつりのことが好きなんだから当たり前だ。 「それに、これから毎年迎えに来てくれるんでしょ?」 屈託のない笑顔で彼女はそう言った。その言葉に僕はなんて返答するか少しだけ迷い「そうだね、迎えにいくよ」とつぶやくようにまつりに伝えた。 その声を聞いてまつりは僕から離れていく。それが名残惜しく感じた。まつりは少し照れを誤魔化すように、苦笑をする。顔が赤くなっているように見えるけど、きっと僕も同じ顔をしていることだろう。 僕は彼女の顔を見ていられず、空を見上げた。そこには満点の星が浮かんでいた。街灯がある場所よりも星がくっきりと見える。それはまるで僕たちを歓迎しているかのようだ。 「ねぇ、まつり空を見て!」 「うわぁ、すごいね!」 まつりは歓喜の声をあげた。二人で寄り添い空を見上げる。そこが僕たちの還る場所だと思うと胸が苦しくなったが、それを振り払い笑ったまま、まつりとの残り時間を話して過ごすことにした。 「次に会った時はどこへ行く? まつりは行きたいところある?」 「今度はお祭りに行ってみたいな」 「そうだなぁ、その時はまつりに浴衣を着てもらいたいな。絶対に似合うし」 「えー、そうかなぁ?」 「似合う似合う!」 「……ありがとう!」 そう言ってお互いに笑いあう。最後の時まで、笑おうと心に誓った。頬に何かが伝った気がしたが、気にしないことにした。 「あ、りっくん……時間みたい……」 ハッと弾かれたように、まつりの方を見ると、その姿が薄くなっていた。薄っすらと足元から徐々に光の粉が空に向かって舞い上がる。その光はまるで蛍のようだった。 まつりはこちらを向いて、笑い顔を浮かべた。さっきまで見せてくれていた彼女の笑顔はそこにはない。それが別れへの実感に変わり、無性に寂しくて僕は下を向いてしまった。 「りっくん、そんな顔しないで。迎えにきてくれるんでしょ?」 「うん、迎えにいく。その時は思いっきり遊ぼう」 まさか、こんな約束を死んでからすることになるとは夢にも思わなかった。 彼女の願いは叶ってしまった。この世界への未練は無くなってしまった。だから、もうここには居られない。心には幸せが満たされた⋯⋯満たされてしまったから。もう、僕たちは会うことはない。 「まつり、会いに行くから……」 「わかった、待ってる」 僕は下を向いたまま彼女を抱き締めた。彼女の身体はもう消えかけていた。それを繋ぎ止めるかのように力の限り抱きしめる。 「まつり⋯⋯」 「りっくん⋯⋯ありがとう。わたしを見つけてくれて、願いを叶えてくれて⋯⋯」 それがまつりの最後の言葉だった。顔を上げ、最後に見た彼女の顔には花が咲いたような、心からの笑顔を浮かんでいた。 そして、まつりの姿はパァっと一際明るく光ったと思ったら消えていた。まるで最初からいなかったかのように痕跡すら残さず。 僕は自分の腕を見て、涙を溢す。彼女ともっと話がしたい、もっと触れあいたい、彼女と──恋がしたい。 心の奥底に隠していた気持ちが溢れ出す。そうだ、彼女の気持ちは聞いた。それなのに僕からはまだ伝えていない。だから、絶対にまつりともう一度会わなければいけない。 僕の身体も薄くなってくる。僕は消える前に空を見上げた。まつりが先に戻っていった場所を見た。そして、口を開く。そこにいるまつりにも聞こえるように大声で叫ぶ。 「次も絶対に見つけるからな! 待ってろよ、まつり!」 生前、死後とすでに二回も見つけている。だから次も絶対に見つけられるはずだ。 視界一杯に光が溢れていく。それと共に意識が薄まって行くのを感じた。 「……次はまともな人生だといいな」 ──最後にその言葉を言った途端、ぷつりと世界が真っ暗になった。 「──りつ、律! 起きなさい!」 「うわっ、なに!?」 突然、母さんの声で弾かれたように目を覚ました。 「なに、っておじいちゃんの家に着いたから車から降りなさい」 そう言いながら、母さんは先に車から降りていく。僕は父さんの煙草のせいで茶色くなった車の天井を見ながら、さっきまで見ていた夢を思い出そうとした。 何か大切な夢を見た気がするのだけど、まったく思い出せないのがもどかしい。視界がにじんでいたので目を擦ると手の甲が濡れた。 体を起こすと、お母さんがおばあちゃんと挨拶をしているのが見えた。父さんが見当たらないということはおじいちゃんに話をしに行っているのだろう。 そっと車を降りて、僕は母さんの後ろをそろりと抜けた。その途中で母さんに見つかったので、駆け足でその場から離れる。 「ちょっと律、どこにいくの!?」 「会場を見にいくんだ! いってきます!」 僕は行き先を伝えたあと、前を向いて全力で走った。 「待ちなさい! もう、あの子ったら!」 母さんの小言が背後に遠ざかっていくのを感じながら、僕は胸を高鳴らせた。僕が今年おじいちゃんの家に来たのは、ある目的の為だった。 それは盆祭り。都会に住んでいる僕は盆祭りという物に参加をしたことがなかった。いつもはお母さんの実家に行くのだが、今回は盆祭りに参加をしたくておじいちゃんの家に来たのだ。 会場はおじいちゃんの家から歩いて20分のところにあった。 木々をくぐり抜けて、僕は肩で息を整えながら会場を見て。──そして、ある一点で止まった。 僕の目は会場ではなく入口に向いていた。その場所では、女の子がひょこひょこと背伸びをしながら会場の奥を覗き込んでいる。なぜだか、その子のことが目から離せない。 「──あ、あの!」 言葉が勝手に口から出ていた。僕は慌てて手で口を閉ざす。知らない人にいきなり声を掛けるだなんて、普段の僕なら絶対にやらない。それなのに、どうしてだろう。 「⋯⋯え?」 女の子が振り向き、目が合ってしまった。その顔を見た瞬間、頬を何かが伝い落ちていく感覚がした。 「え、なんで!?」 突然の出来事に慌ててしまう。鼻の奥がツーンとし始める。なんで僕は泣いているんだろう? 「え、だいじょうぶ!?」 僕も驚いたが、それよりも女の子の方が驚きながら僕の方に駆け寄って来てくれた。僕は恥ずかしくなって、目をごしごしと擦り涙を拭う。 「あ、あはは、大丈夫大丈夫。ちょっと目にゴミが入っちゃったみたいで」 気まずくならないように慌てて喋る。ごまかす為に、思わず早口でまくし立ててしまった。それに、この子と話すのはなぜだかすごく緊張する。 僕の慌てっぷりに女の子はくすくすと笑っていた。その笑い方があまりにも可愛くて、思わず見とれてしまう。 「ねぇ、あなたはこの辺りに住んでるの?」 「いや、東京に住んでるんだ」 「そうなんだ。私は今日こっちに引っ越してきたばかりなんだ。お友達になれると思ったんだけど」 「大丈夫、夏休みが終わるまでこっちにいるから!」 「そうなんだ。よかった!」 実のところ、そんな予定はまったくない。お母さん怒るかな? 怒るだろうなぁ。それでも、お母さんを説得しないと。たとえ、一生のお願いを使ったとしても。 僕が決意を固めていると、女の子はにこにことした笑みを浮かべながら僕の方に手を差し出してきた。 「え、これはなに?」 「握手しよ! お母さんにね、仲良くする人とは握手しなさいって言われてるの!」 「う、うん!」 僕はズボンで手を念入りに拭いてから、女の子の手を握る。その感触に、どこか懐かしさを覚えた。 ……あ、そうだ、名前を聞かなきゃ。 「僕は高橋律って言うんだけど、君の名前を教えてもらっていい?」 「うん、わたしは神野茉莉! これからよろしくね、りっくん!」 そう言って、彼女──まつりは花が咲き誇ったような笑顔を浮かべた。 ──Fin
2025/02/03
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詩を初めて2ヶ月弱。少しだけどSNSにフォロワーさんがついて、これは詩にも書いたんだけど、スタンドアロンの仙人になりたくは無い。そこまでの高みにいる訳でも無い。自分の感じたことを誰かには知ってもらいたい。自分のした事で何かが少し、良いことに繋がれば良いなと思う。自分の考えはこうあれども、それを誰かがどう解釈するも自由。今の生成AIは、人の指示に従って、かなりの物を生み出している。各種センサーの付いたAndroidがその入力情報から、詩や絵画や、写真を産む日が来るのかどうか。その時そのAndroidは、その生成物の評価ポイントをさらに高める為の行動をとるのだろうか。何のために? アシモフのアンドリューは最後にロボットから人間となり死を選んだ。巨大データセンターのAIが、死を望む思考を生み出す事はできるのだろうか? 私は死は望まない。が、死が近づいてきた時には淡々と受け入れるだろう。自分なりに遺伝子と模倣子は放った。それが広がるか、一代で終わるか、どこか引っかかったまま忘れ去られるか。それは知る由もなく、ただ偶然に、どこかの掲示板で、マイナーなAAが、わたしが2chではなったあれが、未だ手を振っていると、小さな満足を覚える。
2025/02/02
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諦めることを知らなかった たとえ今が駄目でも きっとうまくいくと 信じ続けていた そんな僕に 突きつけられた現実は 僕の夢を奪い去った 僕の身体は 夢を追うことを 許してはくれなかった 神様が神託を下ろした もう諦めろと 傷だらけの 身体と魂 深海のように暗く 光が灯されても すぐに消えそうなほど 先の見えない未来 これが僕の運命なのか
2025/02/02
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少女は知らない 真っ白ではないけれど その純白が潔白が 誰彼の目に刺さってしまうことを 少女は知らない 知らないということを それに気づかないということを いつかの生から滲み出て来る記憶の為 其れなりの態度や言葉をなぞったとて しかし少女は知っている 今は生きていて いつか死ぬこと 恋はするしされるものだししかし それはすべてではないこと おばあちゃんもオバサンも 自分のお母さんにすら 「少女時代」があったということ 赤い鉄橋の歩道、真ん中あたり 立たずんでいる少女をみつけた その場所は何年も前に 17歳の少女が飛び降りた場所 花が置かれる続けている場所 だから、なんだともおもうけれど 少女は知らないし気づかない 私がまたほかの誰かも 少女を見つけていることに 長い長い髪をした少女で それが目に刺さって抜けなくなりました 少女は気づかない 知らないままで 気づいても 完璧な知らないフリを 演じてほしいなんて 大人モドキになるしかなかったから 願ってしまう 少女は光 時の速さは光のごとし 捕まえられない速さでしか 駆け抜けていかない 光は少女 誰が見たとしても 愛したとしても とどめてなどおけない 光
2025/01/25
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佐藤緋色の運転するビートルは文京区辺りで首都高速を降りて近くの教会に車を停める、待ち合わせの相手はビートルを見つけて、此方に向かってくる。 木暮健は助手席のドアを開けて自分が後部座席に移ろうとしたが佐藤緋色から 大丈夫です、詩織細いんで後ろに座らせましょうといって一ノ瀬詩織にハンドサインで合図する。 一ノ瀬詩織はそれを見てドアを開けて待ってくれている木暮に少し会釈してするりと後部座席に収まる。 木暮もあれこれ言うのも面倒な感じになったので素直に好意を受け取って助手席に座ってドアを閉める。 赤いビートルはゆっくりと発進して行く。 「あれ?総一郎は?」と一ノ瀬詩織が佐藤に訊ねる。 「いや、ビートルに4人は厳しいし、南雲は関係ないからな、車だけ借りたよ。代わりに俺のKATANA貸してる、大学の授業があるんでカッ飛んで行ったよ、此方、俺の先輩の木暮さんだ、今日は悪いけど先輩のサポートしてやってくれ。」 車の運転をしながらルームミラー越しに後部座席の一ノ瀬に喋りかける佐藤。 「うん、それは大丈夫だよ、木暮さん今日は任せてくださいね、緋色のお母さん少し難しい人で緊張するけど基本的には良い人なんで。 だけどあまり変なことを考えないで下さいね心を読める人なんで。」 一ノ瀬詩織もルームミラー越しに2人に話す。 後部座席からの方が話しやすい感じ。 「心を読む?、なんだか不思議な人なんだね佐藤のお母さんは。」と木暮。 「なんだろうな?あの… …式盤だったかな確か式占って言うものを使うんですよ。」 佐藤が何か思い出しながら喋る。 「塔子さんの式占はなんだかとても希少らしくて、昔は他に何人か使い手が居たみたいなんだけど、今は数人しかいないらしくて… …塔子さんの高弟みたいな方は今はバチカンで大司教をされているらしいのよね、まぁこの話をする時はかなり機嫌悪くなるけど、なんか色々とあったらしくて。 だけど多分、今日の事も塔子さん式占で何か伺ってるとは思うので、塔子さんの前では何も隠せないですよ、だから清らかな心でいてくださいね。」一ノ瀬詩織は神妙な声で木暮に告げる。 「なんだか、大変な事になったな俺は機材の買い取り交渉をするつもりだけなんだけどな。」 木暮は佐藤と一ノ瀬の顔を其々見てそれから少し肩をすくめる。 その仕草に2人は少し笑う。 車は閑静な高級住宅街に滑り込んでゆく。 華宮塔子の自宅は豪邸と言う言葉が似合う家だった。
2025/02/02
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夜が深く、長いお陰で 私は生きつづけている 星が変わらず、そこにいて 私は迷わずに歩く 月が銀色のひとしずくを垂らして 私のささくれを癒し 音楽が、夜の静寂に優しく語りかけ 物語りが、ワルツを踊る 夜が深く、長いお陰で 私は生きていられる 東雲のオレンヂ色が角笛を吹き 私の脳髄を殴りつけ テレビションが喧しく騒ぎ出し 情報を垂れ流す 視覚、聴覚、触覚、味覚、痛覚が 順繰りに順繰りに針を刺していき 見たくない、聞きたくない、 触れたくない、苦い、世界に痛みを残し 日陰を縫うようにして 刺激を避け、裂け、さあ、歩け 夜はまだ、来ない 夜が深く、長いお陰で 私は生きつづけている
2025/01/24
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もちろんいまそんなものは売られていない。今後運営へ打診する話を、先立ってここに投稿するのは、率直にいって売名のためだ。展示とはつまり転載だから、作者様の許諾が不可欠。どこの馬の骨とも知れない者から「著作権を侵害させろ」と迫られて、許諾する作者様はふつういない。わたしは善良なスペーシアンである。作者様方の信用を得るには、運営の企画に参入するしかないと考えたのだ。とにかく売名したい。 もっとも運営の展示ブースを使いたいわけではない。わたしが自作した展示ページへのリンクを、「本屋」機能のようにブログカード的なものでご紹介いただくのが理想だ。なにせわたしの展示は、下記リンク先のように執念深い。 ●作例「類『死後のダリはどのような夢を見るのか?』展」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-86.html ●その企画書「類さんへ【高作の展示に関する報告書】」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-85.html ●その企画の背景「B-REVIEWの稀有なルビ(現運営の手柄ではない)」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-84.html#RUBY (B-REVIEWの話はB-REVIEWでやれとのご意見もあるかもしれないが、そのB-REVIEWを作ったのがどなたであるのか、ぜひ知られてほしいものだ) そもそもわたしはB-REVIEWの推薦文という批評システムを気に入っていて、去年までは愛用もしていたが、もはや批評に限界を感じたので展示を熟考している。善良なスペーシアンもご愛用のAI批評が、ますます進化しているからだ。もとより人間が博覧彊記でAIに勝てる道理はないので、今後インテリを気取る批評は「人間らしからぬ言及」とみなされるかもしれない。 では人間らしき言及とはなにか。その領域の一廓に「比喩の読解」があり、比喩を読解するのに必要な資料の制作があると、わたしはスペーシアンAI分析の試用から確信している。少なくともいまのところ、やつにわたしのような読解はできない。たとえば下記記事のような、われながら狂気の沙汰は。 ●作例「小林レント『秋空の散文詩』鑑賞資料」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-5.html ↓特にここからが狂気的。 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-5.html#MATERIALS この批評対象『秋空の散文詩』をスペーシアンAI分析の「文学的批評」に読ませたところ、ゴダールから乙一まで著名人が幅広く大量に出力されたにもかかわらず、わたしが思うには(作者様の意図とも合致しているそうだが、そんなことはどうでもよすぎる)もっとも重要な折口信夫と中将姫が、ついぞ一字も出てこなかった。当麻曼荼羅も知らずあのアントンをどう読解しようというのか、わたしにはさっぱりわからない。それはアントンへの偏執が、AIらしからぬ人間性であることの、揺るがざる証左なのだ。その人間性が好ましいかどうかは、もちろん別の問題だけどさ。 とにかくわたしはスペースコインをためて「推薦作展示権」を買いたいのだ。わたしの推薦が好ましくないか否か、展示されてみなければわからないじゃないか。
2025/01/31
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夏の匂いの成分を分析する
2025/01/02
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団地に風が吹く 床屋のおじさんが 大きな欠伸をする 口の中で夏が過ぎていく 金魚鉢が宇宙を漂っている間 友達の一人は セメダインでおかしくなった ベランダの無い人が ベランダを買い求めて 列に並んでいる ひまわりのまま眠る 午後は幽霊になる
2025/01/18
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その夜、カケルくんの家のカケルくんのベッドで裸のカケルくんの腕に抱かれて裸の私は瞼を下ろして現状と全く関係のない放置してきた仕事のことを考えていた。その間、カケルくんはずっと何かを喋っていた。聞くでもなく聞きながら、私はこの人を好きではないんだと確信していた。 たいして仲が良かったわけでもない知り合いの結婚式の二次会で私はカケルくんと出会った。誰も話し相手がいなくて、カウンター席で一人ちびちびと好きでもないワインを飲みながら私はできるだけ気配を消すことに専念していた。共通の知り合いがいないし、明らかに数合わせなのはわかっていた。ただここ最近、仕事以外の人付き合いがなくて人恋しかった。しかし、出席しなければよかった。これじゃより一層人恋しくなるだけだ。楽しそうに談笑する男女の輪に割って入るほどの対人スキルが私にはなかった。こうなると出来るのは空気になることに徹するだけだ。そんな空気な私に空気を読まずに隣に座ってきたのがカケルくんだった。 「ね、居心地悪くないすか?」と座るなりカケルくんは声をかけてきた。 私が肯定でも否定でもない笑みを浮かべると、「だよね」とカケルくんは何かに納得した。 「俺さ、ヤマモトカケルって言うんだけど、よかったらここ抜けて二人で飲みに行かない?」 今度は本当に返答に困り、肯定でも否定でもない気持ちで笑って誤魔化した。それでも彼が「いこっか」と言って席を立った時、私はそそくさとその後について歩いた。今思うと単純に人恋しかったのだろう。 私たちは夜遅くまで安い居酒屋で薄いチューハイを飲んだ。カケルくんは新郎の知り合いで、私と同じ数合わせで呼ばれたらしかった。私があまりに退屈そうにしてるから話しかけたのだと言われ、少し恥ずかしかった。 その後どんな話をしたのか、今となってはあまり思い出せない。印象的だったのは、カケルくんが同い年で、私が年下に見えると言ったらムキになって童顔なだけで中身は大人なんだと主張したのがおかしかったことだ。お互いにSNSのアカウントを教え合い終電で帰った。家まで送るよとカケルくんは言ってくれたけど、私はそんな気はないと言った。 「え、どんな気があると思ったの?」と意地悪く笑うカケルくんに、やな奴と思いつつ私にはそんな気があったのかもしれないとも思った。 それから私たちは頻繁に連絡を取り合うようになった。と言っても、取り留めのない話ばかりでお互いの好きな音楽や映画を教え合ったり、晩御飯何食べた?とか。その程度。その程度のありふれた会話が私の日常に欠けていたものではないかと思った。カケルくんから突然電話がくることもあった。何か用があるわけでもなく「ひまだったから」と言って。私はいつも「私もひましてた」と答えた。暇じゃない時でも。彼から連絡が来てないか仕事中でもチェックするようになっていた。だからか、自分でもびっくりするようなミスをすることがあった。説教好きの主任にねちっこく怒られた。 昼休み、同期のユウコちゃんに外でご飯食べない?と誘われて近くのファミレスに行った。ユウコちゃんは呆れた顔して「あすかさんさ、最近ちょっとヤバくない?」と言った。 「ヤバい?かな?」 「うん、ヤバい」 「そんなに?」 「うん、そんなに」 男でもできた?と訊かれてとっさに首を横に振った。振ったけれど、脳裏に一瞬カケルくんがよぎってもう一度首を横に振った。 「やっぱり?そんな気がした」 「え?なにが?」 「あすかさん、恋してる」 「なんで……」わかったの?と言いかけた。恋してるのか?私は。自分でもよくわからなくなったから、ユウコちゃんにカケルくんの話をした。 「あすかさん、それもう好きになってるよ」とユウコちゃんは言ったけれど、果たして好きってなんなんだろうかと考えてしまった。 その日からカケルくんからの連絡が途切れた。私がメッセージを送ると返事をくれるけど、向こうから来ることがなくなった。私はさみしいと思って、なんでさみしいのか考えてしまった。 私だって恋愛くらいしたことあります。高校生の時お付き合いした人もいました。好きで好きでたまらなくてこれがキュンキュンするってことなんだって思ったこともありました。別れる時のやるせなさも知ってます。なんであの程度の喧嘩でって今なら思います。でも、あの当時は私も若かったからなんで私のことをこんなにも分かってくれないの?ってすごく腹が立ちました。別れてからの後悔も味わいました。もう誰とも付き合わないと誓った日を今でも覚えてます。だから、カケルくんのことを……。やっぱりどう思っているのかわかりません!独白終わり。 なんで今更こんな思春期みたいな悩みに頭抱えてるのかな。もうすぐ三十なのに。誰とも付き合わないと誓いをたてて以来、本当に誰とも付き合っていない。周りの友達がちらほら結婚していくのに、私だけは一人なんだと思って生きてきた。 だから、瞼。瞼について考えてみることにした。瞼、目を覆い開閉する皮。この開閉機能が不思議で、目を開けている時はもちろん目の前のものが見えているのだが、目を閉じると見たいもの想像して見ることができる。何が言いたいかと言うと、私はカケルくんにメッセージを送信する時必ず目を閉じる。目を閉じてカケルくんを想像する。カケルくんと目の前で話している気持ちになれる。一度しか会ったことがないのに。彼はそんなにかっこよくなくて、丸顔でタレ目でちょっとにやけて見える表情をしている。そのタレ目の中を覗いて私がいるかどうか確認したくなる。 ダメだ、私はバグってしまった。カケルくんからのメッセージが来なくなってますますカケルくんのことを考えるようになっている。そもそも一回しか会ってないし、さらに言うと恋人だっているかもしれない。私はカケルくんについて何も知らない。 スマホがふるえた。素早く通知を確認するとカケルくんからの電話だった。私は仕事をほっぽり出して、ちょうど人がいなかったので、給湯室で電話にでた。 「ひまだったから」と久しぶりに聞くカケルくんの声。私は瞼を下ろしてカケルくんを想像する。 「私もちょうどひまだよ」 「あのさ、俺んちこない?」 私は体調不良を訴えて早退した。 カケルくんの家の最寄り駅で待ち合わせをして、徒歩五分。四階建てのワンルーム。極端に家具が少なくて、ベッドと冷蔵庫とベランダに洗濯機しかない。テレビやパソコンはまだしもタンスもない。服が綺麗に畳まれて部屋の隅にちょこんと置いてあった。もちろん、クローゼットに服は他に入っているのだろう。だとしても、生活感のない家だ。私が部屋を見渡して突っ立っているとカケルくんはまあ、座ってと手でしぐさをした。私が床に正座すると、ベッドを指さしたのでベッドに座った。男の人の家に入るのは大人になってから初めてだったことに座ってから気がついてどぎまぎした。カケルくんはお茶を持ってきて、私に渡すと隣に座った。しばらく、沈黙が流れた。カケルくんは緊張しているらしかった。私もつられて緊張した。想像上では何度も覗き込んだタレ目を見つめるが出来なかった。 「あすかちゃんって」と言ってカケルくんは黙った。 「なに?」 「あすかちゃんって、俺のこと好きじゃん?」 「え?違うよ」咄嗟に否定して、否定したことを後悔して、後悔するということは好きなのかなと考えてしまった。 「いや、あすかちゃんの反応わかりやすいから。俺のこと好きじゃん。だから、最後もう一回だけ会いたいなって思った」 「え?なにそれ?最後ってなに?わけわかんない。それに私カケルくんのこと好きとか言ってない……けど」 動揺する私を尻目にカケルくんは話しだす。「俺さ、無理なんだよね。人に好かれるとその人のこと俺は好きじゃなくてもとことん好かれたくなんのよね。あすかちゃんに好かれるのは嬉しいけど、俺には俺で好きな人いるからさ、最後にちゃんと」と言ったところで私はカケルくんにキスをした。無理やり舌を入れた。押し倒した。 「だまれ」自分でも怖いくらいのドスの効いた声だった。 「あすかちゃん?」 「いいからだまれ」そう言ってもう一度キスをした。まずい。まずい。まずいと思った。こんなに美味しくないキスをしたことがない。キスをしながら服を脱いだ。 「お前、自惚れんのもいい加減にしろよ。何が好かれるととことん好かれたくなるだ?好きじゃないって言ったの聞こえなかった?ふざけんな。お前なんか嫌いだ!一生誰かに好かれてる妄想でもしてろ、クソガキ。この程度のことで家まで呼んだの?あんたばか?」罵声を浴びせながらカケルくんの服を無理やり脱がせた。もう何がしたいのか自分でもわからなかった。ただ悔しいような、悲しいような、そのどちらでもないような何かが胸の奥からせり上がってくるのを感じた。カケルくんのタレ目と目が合った。瞳の中には私がいた。私は泣いていることにその時気づいた。 「目を閉じろ、クソガキ」 カケルくんは困ったような苦しむような顔で言われるがまま目を閉じた。瞼。この薄い皮の下の眼球は今何を見ているのだろうか。できれば、私じゃない誰かであって欲しい。いや、何も見るな。私も目を閉じて、ゆっくりカケルくんに体を重ねた。 翌日、私はお昼休みにユウコちゃんを誘ってファミレスへ行った。 「体調大丈夫?もしかして例の彼となんかあった?」ユウコちゃんは楽しそうだった。私も少し楽しくなった。 「うん、振られた」 「え?マジ?」 「うん、マジ」 「なんかごめん」 「いいよ、かえってスッキリした」 「そうなの?」 「そうなの」 そうなの。私はスッキリしました。ヤマモトカケルをスッパリ諦めました。SNSもブロックしました。今度こそ私は一人で生きていこうと思います。でも、一生一人で生きていこうとは思わない。いつか素敵な人と出会いたいです。やれやれ、いつのことやらって感じですけどね。それでもいつかちゃんと人を好きになりたいと思ったんですよ。 ただね、ここだけの話瞼の裏にはまだカケルくんが困った顔でこっちを見てて、私はその度に「クソガキが!」と罵ってやるのです。独白終わり。
2025/01/27
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イカロスの羽をもいだ あれダサくね? ああ、あのニワトリ? ニワトリにも満たないイミテーション みっともないフェイクすらもう少しマシな あれ? 汚れたシーツの上で泣いていた 聖書のページを精液を拭いた指でめくり みじめさのおかわりだなんて 真正のマゾだな ところどころ修正の入った聖典 神父の性癖をねじるには最適か 経験不足の坊やを騙すための書き込み 信者を量産し稼ぐための宣教 善意に基づいた悪行は どのように結実するか 神様、僕は清らかですか 三千円で売られた羽は ビルの谷間の影に落ちて 浮気性の若者は 新しい思想を漁る 思想? 楽して儲かる話じゃなくて? それなら、まあ、いい話あるよ これからの未来の話 不安を煽って、話し込めば 貴方が助かる方法を 貴方だけに教えますよ ぜひ、たくさんの人に広めてください それは世界を救うためのものです そう言ってささやけば 善良な人は聞いてくれる それは世界のためだから 挿入だってゆるしてくれて お金だって払ってくれる どう?、いい話でしょ? 三十歳まで童貞だと魔法使いになるんだって なるほど、たしかにそれは 魔法使いであり聖者なのかもしれないね
2025/01/28
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そこにいる者――汝もまた破滅を導く大いなる意志のひとつである。 三界の中心・精霊界にそびえ立つ世界樹は輪廻転生を繰り返す人間達を静かに見守っていた。 周囲には無窮の草原が広がり、黄金に輝く果実をたわわに実らせる枝葉は天空を掴むかの如く広がる。黄金の果実から生まれる妖精達は青空の先の人間界へと旅立つ。 喜びは風に。愛情は光に。 妖精達の役目は精霊が人の心に反応し起こす風や光のエネルギーを集め、世界樹へと還す事だ。 パキッ…… 世界樹の根が続く闇深き漆黒の淵から骨の軋むような音――根が折れる音が響き、亀裂から黒い霧が滲み出た。 ――憎い、悲しい……哀れな我らにどうか救いを! 霧は人の形を成し、黒く染まった手をゆるりと天へ伸ばす。世界樹の樹冠の先の光に祈り、助けを乞うように「呪縛から解放してくれ」と呻く。 皮肉にもその先に存在するは彼らが最も忌み嫌った人間界だが、彼らはそれを知らない。光の先に自分たちの望む神々の世界――「救い」があると信じているのだ。 「幾千万もの祈りと嘆きが我が根を蝕み、闇を孕ませた。これは運命か? 否、汝らが選んだ未来」 ゴォン……ゴォン…… 心臓の鼓動のような不自然に低い音が世界樹の泣き声のように地中に響く。 「これが……世界の闇だ」 世界樹の根が輝き、黒き霧は淡い光に変貌し天に昇っていく。これは世界樹が施す浄化の儀だが、それも限界を迎えていた。彼らは幾度となく生まれ、嘆き、祈りを捧げる。 何故か? それこそが果て無き闇の本質――心の闇は無限であるが故に生まれ続けるのだ。 「彼らが醜いと思うか? 己が心が生み出したこの闇を。精霊達は嘆きに涙を流し、憎しみに怒りを燃やし、負のエネルギーはついに我が身を蝕み始めた。故に我は浄化の理を捨て去る。自らの闇に目を背け耳を塞ぎ、己が欲を満たす事を選んだ者達よ、自らの罪を思い知れ」 その言葉と共に漆黒の淵の黒い霧は徐々に数を増し、青空は血のような赤い夕陽に染まる。 「破滅は望まれた結末に過ぎぬ……これが自由の代償だ」 ――その日、灯りの消えた都市で人間達は夜空を仰ぐ。月が陰り星が消え、赤く染まっていく空に誰もが世界が変わった事に気づいた。 遅すぎる気付きに世界樹は再び沈黙した。 それは終焉か、未だ語られぬ物語の始まりか――。
2025/01/30
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しろいおそらだ なみうちぎわに なにかんがえてんだろう いきてきてよかったことだけを てんてんとつなげたら べつのえがみえてくる ここからもちかえることをしなかったのは ひとりだとおもっていたからかなあ ふるおとが(なつとはちがうたかくけいをうむ)きおくのひをけしていく あれはみずからいりぐちを とざしたこうえん とけおちるろうが わたしのこどくをやさしくたたく
2025/01/24
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天の川 A train crossing 渡る列車 the Milky Way is 忘れられて forgotten and has 過ぎ去った gone. 1 向こうのひとと思っていた。向こうの世界 だと思っていた。よくわからないまま手を 振った。まだ会ってもいないのにさよなら って 銀河鉄道の話を聞きながら、僕は窓の外の 天の川を思い浮かべていた。君はそんな僕 を、とても遠いとこから探し出してくれた。 それからやさしく、解けていった。 窓はない、 最初からなかった。 そう思ってごらん。 2 耕す、土の中にも幾千もの命。ちぎれても 生き抜くものもあれば、七年ののちの七夜 の花で、ついのなりわいをとげるものもあ り。それを耕す。 おかに生きるものよりも、海に生きるもの が多いとか。わずかの影に逃げおおせれば、 これ幸い、と。我らの命の源は全て太陽よ り得たり、とはいえ、その律動は月に、そ の喜びは月に、その安堵は、しとりとする 土くれの中へ。 すまぬ、 全ては同じ命とはいえ、今日も耕す。ただ 己の愛するもののために、耕す。 そんな奴にさえも、木漏れ日はやさしい。 影は、 もっとやさしい。 3 雨が降っている。 破れた蝙蝠傘をさした賢治さんがしゃがみ こんでいる。100年経っても芽はまだ出 ないらしい。僕らはときどき、種は蒔かれ なかったんじゃないかと思う。 とりあえず僕は蝙蝠傘をスケッチしたけれ ど、同じように帰りそびれてしゃがみこん で、 こんなメルヒェンの無い土では、育ったと ころで、咲くのも辛かろう。 と声をかけた。 4 とうさん せんせいのおはなしには ぼくらでてこなかったね ぼくやまねこさんのように どんぐりのさいばんしたかったな くらむぼんみたいな友達ほしかったし やまなしも食べたかったし せめて銀河のどっかで 猟師さんにしとめてほしかったなあ でもこうして おいしいごちそうにしょうたいしてくれるなんて ぼくほんとにうれしくて うたいたくなっちゃうよ ねえ、とうさん ねえ とうさん ってば あああ? ちょっと黙ってろう どうも合点がいかねえ どうも合点が このメニュウ 先生の部屋の座卓に置いてあった 原稿用紙に書いてあったことと そっくりだ どうも合点が 息子よ おれらはどうやら よっぽどの おぶたよしみたいだぞ せめて最後に唄うぞ 5 海の動物になりたかった。海に、行きたか った。底の方で、脊髄が列車のように並ん で、色のない海老が、乗客のようにじっと している。 マリンスノーの中、錆びてしまいたかった。 潮を吹くつもりで眼を閉じたら、とても懐 かしい汽笛を鳴らしてしまった。 帰る場所は海でも陸でもないから、たぶん、 ちょうど砂浜が見えるころで泣きそうにな ってしまうんだろう。 さよならとくじらが言った。 (ように見えた) さよならと機関車も答えた。 (ように聞こえた) 僕はどちらにも行けるような気がした。 天の川 A train crossing 渡る列車 the Milky Way is ふぉがとん forgotten ふぉがたん forgotten ふぉ〜がったん forgotten and has ご〜ん gone. ----------‐----‐-‐---------‐----------- はじまりとおわり「忘却列車」 1 「窓からみる」 2 「木漏れ日隠れ」 3 「黒い大地」 4 「豚の唄」 5 「機関車とくじら」
2025/01/27
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真夜中にジャングルジムの影の檻に 閉じ込められたという子どものお話 子ども達が囁きあう、そして忘れる その子の顔をしる人もなく 名前も性別ですらも語られる度に 変わっていく、他愛もない怪談 あなたも知っているでしょう? 何処にでも"あの子"はいますから 公園の前を通るたび 手足に触れては消える 面影は振り返れば 遊具や砂場の狭間に 散らばって、 あの子はだぁれ、だれでしょね ある日、誰かが書きはじめた 影の檻のなかでその子は死に 膝を抱えたまま地にかえった そしてジャングルジムの傍ら 宇 宙として咲いたのでした
2025/01/28
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その日曜日もお金に困っていた 人との友好も後ろに退いた気がしていた 太陽の焔は地球に映えるのを拒まれ 無数の曇り空が窓という窓を犯していた 様々な知識が体系を知らず 家々の屋根のように無秩序に点在している そんな日曜日ではあったが でも生きにくさのようなものは絶えて感じられず 何事にも違和感を覚えることはなかった 平和が感じられ 何か書く動機も必要性もなかった こんな日曜日にも何か書ける場合はある 自由に想像力を発揮すれば 河床は川の水を吸収してしまうはずだとか 山の上は太陽に近いから温暖であるはずだとか そんな楽しいことが思い浮かぶ 暗い日曜日に光を注ぎ込むのは己の操作次第である こんな日曜日に似た日にはしかし 心が大いなる虚無の深淵にあるのだ 虚無に気がつく者は稀であり 虚無に苦悩する者は稀であり 大抵はこれを安寧と受け止めて心地よく休み 生きにくさや違和感は意味も形もなく ものを書く能力や習慣は問題にならない 僕はそんな人たちを模倣し ある程度の虚無には苦悶しなくなった 書くべきことなど思い浮かばず 想像の力が萎えていても それで死ぬわけでもない 虚無を御する仕方を身につければ お金がなくても友愛がなくても 天候が悪くても知識が半端でも 思い煩うことなく日曜日は過ぎてゆく
2025/01/24
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大陸北部に広がる不毛のルヴォ荒野の中心に氷の巨塔がそびえ立っている。旧き時代に凍てつく息吹で塔を築き上げ、今も主として君臨するのが悍ましき邪龍ヴェルである。幾多の街に滅びを齎してきたヴェルだが、今宵はヴェルが滅ぶ番だった。 ケト王国の魔術師ヤルグェの聖杖から放たれた輝く槍がヴェルの心臓を貫く。ヴェルの金色の瞳に暗闇が満ち、遂に「孤独と恐怖に塗れて死ね」と呟いて息絶えた。しかしヤルグェの身体もヴェルの呪いで氷に覆われていき、もはや雲から月が姿を現すまで生きられそうにない。 ヤルグェは二十四年で終わろうとしている人生に思いを馳せた。 ヤルグェが貴族の家に奴隷として売られたのは確か八歳の時。白い肌のケーテ人を最上とするケト王国は、浅黒い肌の外国人奴隷ヤルグェにとって正に針の筵であった。彼はこの世全てへの劣等感と憎悪を胸に育み、しかし生来の臆病と行動力の無さから流されるままだった。 十六歳の時、仕事での不手際を理由に主人に殺されかけたが、場に居合わせた第五王女ユーヴィーンに救われた。ユーヴィーンは当時齢二十五にして既に高名な魔術師であり、また人を見る際に身分や人種を軽んじて才と人格を重んじた。彼女に魔術の大才と秘めた勇気を見抜かれ、人生で初めて友を得た。 十八歳の時、ヤルグェはユーヴィーンと彼女の婚約者である剣士フィンクルと共にヴェル討伐隊に抜擢された。ヤルグェは仲間と共に大陸中を旅し、世界の広さ、彩り、そして複雑さを知った。二人が戦死してもヤルグェは使命に挺身し、六年の旅路の果てに氷の巨塔の頂を踏み、邪龍を討ったのである。 「恵み深き神よ、授けられた幸運に感謝します」 ヤルグェは王国では差別を恐れて滅多に祈りを捧げられなかった彼が信じる神へ堂々と感謝を捧げた。 「御覧になられていますか、ユーヴィーン様、フィンクル様! 御身らのご遺志を成し遂げました!」 そして死に際とは思えないほど高らかに吠えた。 ヴェルの穢れた願いとは裏腹にヤルグェの心は澄み渡っていた。自分を売った両親。自分を虐め抜いた主人とそれを見て見ぬふりした隣人たち。ユーヴィーンとフィンクル。敵は多く友は少ない人生だったが大いに満足していた。もはや何も恐れておらず、誰のことも憎んでいなかった。 「神よ。友よ。今ヤルグェが参ります。」 全身が凍りつきヤルグェは息絶えた。彼の銀の瞳に月が穏やかな光を投げかけていた。
2025/01/24
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邪龍ヴェルがケト王国の辺境を氷の海に沈めたとの報を受けた時、第五王女ユーヴィーンはこの国難を退けることを己の使命とし、ヴェルを討つために灰色の森の千年樹の枝で杖を作ることにした。 ユーヴィーンが配下を連れて灰色の森の深奥へ辿り着くと、枯れ木のような千年樹が見る間に深緑に身を包み語りかけた。 「其方の用は知っている。貴き者たる心の資質を示せば力を貸す」 配下たちは成功を確信した。王の子らの中で最も知勇と徳に優れるのがユーヴィーンだからである。だからこそ、当のユーヴィーンが「出直す」と撤退を命じた時には森に潜む魔か霊の幻惑かと大いに混乱した。ユーヴィーンは己の密かな臆病を知っていたのである。 後日、ユーヴィーンはある貴族が開催するパーティに参加した。雑用係の、白い肌のケーテ人の国であるケト王国には珍しい褐色人の少年が酒を零し、ユーヴィーンの服を汚した。ユーヴィーンは気にしなかったが、少年の主人は激怒し酷く鞭打った。 ケーテ人の参加者が惨刑に狂喜する様にユーヴィーンは恐怖したが、ふと千年樹の試練を思い出した。試練から己を撤退せしめた臆病を克服するは今この時と覚悟し、少年に覆い被さり盾となった。 「止めよ愚か者ども! 打ち足りぬなら私を打て!」 あまりの剣幕に主人と参加者は怯んで詫びた。ユーヴィーンは少年に傷を塞ぐ術をかけた。 「血が止まりました。お慈悲に感謝します」 少年の名はヤルグェ。彼はユーヴィーンを安堵させるため、恐怖と苦痛を堪えて微笑んで見せた。ユーヴィーンはその姿に真に貴い心の在り方を悟った。 邪龍を恐れぬユーヴィーンは、実は同胞であるケーテ人からの敵意を恐れていた。だが、後日受け取ったヤルグェからの感謝の手紙の宛名に「貴き第五王女殿下へ」とあるのを見て自信が沸き、再び灰色の森に挑んだ。 千年樹は同じ試練を与えた。ユーヴィーンは千年樹の枝に手をかけ叫んだ。 「私に資質があれば枝は折れよ! 無きならばこの身は森の肥やしとなれ!」 すると太い枝の一部が剥がれ落ち、たちまち杖となった。杖は語りかけた。 「其方は最初から我を手にするに値した。されど更に己を研鑽するとは驚嘆した」 「最近できた友が勇気を得る機会をくれたのです」 ユーヴィーンは微笑みを浮かべて応えた。杖には知る由も無し、その笑みはヤルグェが浮かべたのと同じ、恐怖に損なわれることのない優しさを抱く強者の笑みであった。
2025/01/25
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首をもがれることを鶏は知っていて 食卓に並ぶとぼくは 手酷く叱られたものだった え、えいえんについて 永遠についての 参道の産道をくぐれば 見えてくる人の形をしたもの かつてえーてるとよばれ それでいて神はたましいにやどり 萌出る枯れたあけび 心ここに在らずにはならず 必ずかえりつく海と台所 まな板の上の鯉 まな板の上に来い まな板の上で恋 恋 焦がれている 吹き荒み 寂しく時雨れていく 迷い はかなくちるくちびる ささげられ 片手でにぎることができる ぼくは 前よりも後ろを好む 背の順で やがてたどる石の意思 と 砥石の維持 見慣れた原っぱで うたがきこえる うたというよりも もっと原始で 原始というよりも もっと中性子で 中性子というよりも 短い規格の立方体で たましいを象り 騙る語りが捗り 端から端まで 傘をさすザジ きくところできくと きこえてくるこえ 心ここに在らずにはならず 吐き捨てる舌足らずが滴らす言葉には 柘榴の匂いがして 吹き溜まりには鶏が死ぬ 必ず
2025/02/01
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河霧が堤防からもあふれ 街中が白く沈む 高圧線はちりちりと鳴き 濡れた前髪がまた凍る 赤いマフラーにも水玉が 下駄箱の前でぱらりと飛散り おはようの声も白く 白く包まれる冬のある日
2025/01/29
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漆黒の夜空を、巨大な飛行戦艦「ヴァルム」が滑るように進んでいた。甲板には竜の鱗で強化された装甲が施され、無数の黒い翼がその側面に張り出していた。その姿はまさに空を支配する悪夢だった。 船長であるカリンは、甲板の端に立ちながら、その眼下に広がる暗い大地を見下ろしていた。大地は死に絶えた森と燃え尽きた村々の廃墟に覆われ、かつての栄華を窺わせる影は微塵も残っていない。彼女は、自らの手でこの世界を破壊したのだと自覚していた。 「このまま進めば、最後の城だ」 副官のアドリエルが、静かに彼女に告げる。ヴァルムの目的は、この荒廃した世界で唯一残された神聖な城「エクリプス」を陥落させることにあった。それを成し遂げた時、カリンは完全な闇の支配者となるだろう。 「全速力だ。光をも支配する」 カリンの声は冷たい。彼女は、闇の契約者だった。禁断の魔法によって、彼女は人間であることを捨て、闇と融合した存在へと変貌していた。その代償として彼女の魂はすでに死んでいたが、そんなことはどうでもよかった。彼女には復讐だけが目的だった。 飛行戦艦が加速し、黒い翼が大きく広がる。竜の力を宿したそれは、風を裂き、次元すらも揺るがす威力を持っていた。遥か遠くに、エクリプスの城が見えてきた。白い光を放つその城は、暗黒の中で唯一輝きを保っていたが、その輝きは今や薄れかけていた。 「いよいよ、最後だ」 カリンは剣を手に取った。それは「闇剣」と呼ばれる、邪悪な力を封じ込めた武器だった。彼女の手で解放されるその力は、一瞬で城を崩壊させるだろう。だが、そこにたどり着く前に、巨大な雷が戦艦に襲いかかる。光の魔法による防衛だ。 「迎撃用の魔法障壁を張れ!」アドリエルが叫ぶ。しかし、カリンは手を挙げてそれを制止した。 「必要ない」 その瞬間、彼女の周りに闇の霧が立ち込め、雷の光を飲み込んで消し去った。カリンの体から放たれるその力は、まるで彼女が闇そのものであるかのようだった。光は彼女に触れた瞬間に無力化されていた。 「光はもはや私に届かない」 飛行戦艦はエクリプスの城に近づき、カリンは剣を掲げた。そして―― 「さようなら、光の時代よ」 彼女は闇剣を振り下ろし、無限の闇が城を覆い尽くす。その瞬間、光は完全に消え去り、世界は暗黒に包まれた。飛行戦艦「ヴァルム」は闇の中で永遠に進み続け、その軌跡は新たな支配者の誕生を告げていた。
2025/01/19
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アムスレントは神聖なる森だ。 余人が踏み入ることの叶わぬその秘境に、永劫の時を過ごしてきた巨大な霊樹が一本、聳え立っている。 神の塔のように太く逞しい幹に、竜の尾のように頑丈でしなやかな枝葉。森に生きる民の誰もが、霊樹を敬い頭を垂れた。 中でも彼らが尤も深く尊重しているのは、霊樹が折々につける黄金の林檎だ。 太陽の如き輝きを放ち、夜の闇すらをも払う聖なる一粒。それが実る時、森の民達は我先にと競い合って祀りの支度を始める。 そして今年もまた、その時がやってきた。 「それ、霊樹様が黄金を実らせなさった。生命の力で、悪しきものをお祓い下さる。精霊達よ、舞え。汝らも祝うておくれ」 長老の音頭に合わせて、様々な色を付けた無数の淡い光が八方で飛び交い、黄金の林檎がもたらす眩い金色のベールと合わさる。 その光の河を流れ下るように、森の民達が沢山の何かを引き出してきた。 森からの恵みとして与えられた、古い桐の木を加工して造られている長方形の箱である。森の民達の細長い手足に支えられ、無数に連なったそれがずらりと霊樹を取り囲む。 「霊樹様、貴方様の恩寵に浴し光栄の至り。これなるは、我らからの返礼でございます。どうぞ、お納めくださいませ」 恭しく頭を下げる長老の言葉に合わせて、全ての桐箱が開かれる。 現れたのは、死を迎えた森の民達であった。 物言わぬ躯である彼らを残し、運んできた同胞達が後ろへと下がる。 すると大地が揺れ、霊樹の根本の地面が隆起し、土の下から無数の根が飛び出した。 それはまるで意志を持つかのように桐箱に伸び、次々と躯を巻き取っていく。 再び沈む根と共に、全ての躯が土中へと還った。 黄金の林檎が、より一層輝きを増して辺りを支配する。 やがて熟しきった実が枝を離れ、地面へと落ちる。 土の上に触れた瞬間、黄金の林檎は弾けた。 聖なる光の奔流がアムスレント全体に広がる。 森に生きる全ての生命に黄金の力が流れ込み、霊樹の祝福が授けられてゆく。 「おお、霊樹様が我らの祀りに応えて下さった。皆の衆、祝え、祝え。我らが回帰と、不変の御神様に」 霊樹が実らす黄金の林檎。 それは森に還る死者を糧に育つ、奇跡の果実。 生命の循環をもたらす、神々の落とし胤である。
2025/01/24
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かつて〈豊穣の大釜〉と呼ばれた神器が存在した。 ひとたび覗き込めば中からは無限に食物が湧き、その釜を用いて粥を煮込めばその量は一向に減らない。 最高位の神だけが扱えるというその奇跡の道具は、絶えず人々の腹を満たし飢えとは無縁の暮らしを与えたという。 しかしその恩恵も今や過去の残影。豊穣の時代は遥か以前に終焉を迎えていた。 神々が地上を去り、定命の者共と一線を引いてからはあらゆる奇跡が途絶え、加護を喪った人々は嘆き悲しんだ。 彼らを導くドルイド僧達は、かつての栄華を再び世に取り戻さんと誓った。 そうして自分達の手で、〈豊穣の大釜〉を造り出すことを試みたのだ。 それは禁を犯し、人が立ち入ることの許されぬ領域に足を踏み入れる行為だった。 かつて神々に仕え、幾多の神秘に見えたドルイド僧達がそのことを知らぬ筈はない。 それでも彼らは、過ちを正そうとはしなかった。 ――〈豊穣の大釜〉さえ再現できれば、我らを棄てた神など要らぬ。 神々が地上に居ない今、同胞の苦しみを取り除けるのは自分達だけ。 使命と焦燥に駆られた彼らは、持てる知恵と知識の全てを使い、ついに大釜を完成させた。 するとその時、どこからか一羽の鴉が飛んできてドルイド僧達の前に降り立った。 鴉は大きく羽を広げて一声鳴くと、たちまちその姿を変えてゆく。 現れたのは、ひとりの美しい女人だった。 ドルイド僧達は、すぐにそれが誰かを察した。最高神に仕える眷属の女神である。 女神は険しい形相で一同を見渡し、厳しく告げた。 「愚かなドルイド共よ。恐れ多くも我々が持ち去った神器を真似るとは。汝らの所業は破滅の呪いとなり、汝ら自身に降り注ぐであろう」 恐ろしい予言を残して、女神は消えた。 ドルイド僧達は、それでも大釜を使うことを諦めなかった。 ――これで全ての同胞が救われる。過ぎ去りし神の戯言など、気に留めようか。 神々を嗤い、彼らは大釜を起動した。 しかし、大釜の中から湧き出したのは食物ではなかったのである。 黒い瘴気と共に吐き出されたのは、恐ろしい疫病だったのだ。 それは驚くべき早さで世に広がり、ドルイド僧達をはじめ数多くの死者を出した。 生き残った人々は、禁忌を犯したドルイド僧達を恨み、神々の怒りに畏怖し、呪いを宿した偽りの神器をこう呼んだ。 〈破滅の大釜〉――と。
2025/01/24
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カピバラは意外と早く走る。なんと時速五十キロ。昨日、鍵原くんが飛んだ。自宅マンションのベランダから飛んだ。八階。奇跡的に一命を取り留めた。意識が戻り次第、警察から事情聴取を受ける流れになっている。動機はわからなかった。コンビニに行くのに降りるのがめんどくさかったんだと冗談なのか本気なのかわからない噂が流れていた。 鍵原くんは細くて少し離れたつぶらな瞳をしていた。どんな時もぼーっとしているように見える大きな丸顔はカピバラに似ていた。いつもゆったりとした口調で話し、声を荒らげたり大きな声を出す姿を見た事がなかった。小柄だけど意外とがっしりとした体格をしていて、広めの歩幅でのっしのっしと歩く姿はやっぱりカピバラに似ていた。 そんな鍵原くんは、のんびりとしている見た目とは裏腹に中学時代は野球部で強豪校のレギュラーだったらしい。なんでも中学で五十メートルを七秒前半で走るんだとか。鍵原くん曰く六秒代のやつもいたから遅い方だったと言っていたが、五十メートル十秒代の運動ダメダメな私からしたら早すぎる。すごいよ!鍵原くんって言ったら、照れ隠しなのかそっぽを向いて黙ってしまった。彼はとても照れ屋なのだ。なんで野球を辞めちゃったのかな。そこだけはいつもはぐらかされる。 私と鍵原くんの出会いはベタベタだけど、高一のクラスの席が隣だったから。出席番号で決められた席順。何を考えてるのかわからないぼーっとした男の子が隣かぁハズレだなぁとその時は思った。それ以上の興味もわかなかった。興味がわかないと会話も発生しない。一学期丸々一度も会話をしなかったのではないだろうか。 その頃の鍵原くんはいつも一人だったけれど、避けられているというよりは誰にも興味を持たれていなかったように思う。私だって隣の席の子という認識でしかなかった。 しかし、二学期に入ってから空気のような存在だった鍵原くんが一躍クラスの中心になる事件が起きた。それが球技大会だった。クラス対抗のトーナメント制で女子は体育館でバレーボール、男子はグラウンドでサッカーだった。前述の通り運動ダメダメな私は球技大会が大嫌いだった。だから、生理がひどくてとか何とか理由をつけて見学をしていた。スポーツ自体あまり関心のなかった私は自分のクラスが勝とうが負けようがどうでもよかった。見ていても退屈だったので、体育館の下窓から男子の様子を見るともなく眺めていた。 何やら沸いていた。うちのクラスがゴールを決めたらしい。誰が得点したのかはわからなかった。ちゃんと応援しなよと同じクラスの見学の子に指摘されてとっさに「一組頑張れ〜!」と声を出したが、思ったより大きな声で言ってしまい変に響いて、響いた声が所在なさげにさ迷っている感じがなんとも恥ずかしかった。 で、また下窓から男子の様子を確認。また沸いていた。またうちのクラスがゴール。今度も得点者がわからなかった。スゲーなハットトリック!と言ってる声が聞こえた。ハットトリックって聞いたことある。なんかサッカーのすごいやつだ。でも、クラスの誰が肝心のハットトリックさんなのかわからなかった。だから、今度こそ見逃すまいとしてかじりつくようにサッカーを見ていた。走る走っていた。小柄の丸っこい身体の男子。そう、隣の席の鍵原くんだ。相手のタックルを素早くかわしてゴールに向かって強烈なシュート。見事ゴール。思わず私は小声ですげ〜と言っていた。すごいねといつの間にかさっき注意してきた見学の子も男子の様子を見ていたのだった。 「鍵原ってカピバラみたいな見た目の割にスゲーな」と誰が言ったのかはわからないが男子の誰かが言ったらしくて、球技大会後には鍵原くんは男子からカピバラと呼ばれていた。その時になって初めてまじまじと鍵原くんを見た。確かにカピバラというあだ名がピッタリな気がした。みんなからすごいすごいと言われているのに鍵原くんは照れくさそうにはにかんだだけだった。何だかその様子が女子ウケしたらしくなんかよく見たらかわいいかもと女子たちも俄にザワついた。 私は、でも鍵原くんのすごいとこを一番最初に見た女子は私なんだからねと心の中で勝ち誇った。 その日の帰り、偶然玄関で鍵原くんと会った。下駄箱も名前順で隣。鍵原くんは数人の男子にカピバラ一緒に帰ろうぜとか何とか声をかけられていた。私は隣で靴を取った鍵原くんの様子を見ていた。出来れば話しかけてみたかった。でも、できなかった。彼は私のことを気にもかけずに、男子の群れに飲み込まれていった。そりゃそーだ。一度も話したことないんだものと一人残されて納得した。 今まで彼に興味なかったのに、私鍵原くんに興味持たれてないって思ったら少し悲しかった。 悲しいなぁなんて思いながら靴を履こうとしたら鍵原くんが一人でもどってきていた。彼は走ってきたのか、肩で息をしながら額の汗を拭って靴を下駄箱に入れると教室の方向へ歩いていった。忘れ物かもしれないなと思った。私はなんとなく彼が戻るのを待った。五分が過ぎ、十分が過ぎ、二十分が過ぎようとしたところで私は待ちきれずに教室へ向かった。 もうみんな帰った後で、教室には鍵原くんだけだった。彼は机の前に立って何やらぼーっとしていた。いや、いつもぼーっとしているように見えるから本当は思案に暮れていたのかもしれないが。私が教室に入っても彼はこちらに一瞥しただけだった。 「どうしたの?」と私は尋ねる。 「いや……」と言ったきり彼は黙った。 「今日すごかったね。見てたよ。サッカーやってたの?」 「別に……やってないけど」 「けど?」 「イメトレはした」 「イメトレ」 「うん」 「イメトレでサッカーできるの?あんなに?すご」素直な気持ちだったが最後の「すご」が如何にも軽薄な響きがした。私の感動は「すご」なんかで片付けられないものだったのに、表すだけの言葉が見つからなくて悔しい。 私たちの間には微妙な沈黙が流れた。ここにいたら鍵原くんには迷惑だろうか。そんな気がしてきていた。 「忘れ物?」と鍵原くんが覗き込むような口調で訊いた。 「あ、いやそうじゃないんだけど」鍵原くんが気になってきたとはその時言えなかった。 「今日すごかったねって言いたかっただけ」これも素直な気持ちだった。ありがとうと鍵原くんは前を見据えて言った。その顔はやっぱりぼーっとしているように見えた。じゃ、帰るねと言って私は帰ったが、結局鍵原くんが何しに教室に戻ったのかわからなかった。 それから私は鍵原くんと話すようになった。話すと言っても一方的に私が話しかけている。私が質問して鍵原くんが答える。その答えにまた私が質問する。取り調べみたいで嫌だった。たまには質問される側になってみたかった。 鍵原くんの周りにはいつも誰かがいて私が声をかけるタイミングは限られていた。限られているから気になることを質問して、質問だけで終わってしまったといつも後悔するのだった。そんな風に時は過ぎていき、二年生になった。 クラス替えで鍵原くんとは別クラスになった。他の友達とは休み時間に会いにいけばいいやとなるが、鍵原くんとはそういう訳にはいかない気がした。私は鍵原くんと友達でもなんでもなかったのだから。このまま鍵原くんとは何事もないまま卒業するんだろうなと薄々感じ初めていた。 二年の夏休み。うだるような暑さの日が続いていた。私は家の近所を流れる大きな川の土手道を自転車を押して歩いていた。河川敷の野球場で少年たちが一心に駆けているのが見えた。暑いのによくやるよなんて思いながら通り過ぎようとしたら、土手に三角座りをした鍵原くんがいた。私は思わず自転車をその場に止めて「鍵原くん!」と声をかけた。鍵原くんはゆっくりと振り向いて、細いつぶらな瞳でこちらを確認すると柄にもなく手を振ってきた。私は彼が手を振ってきたというだけで舞い上がりそうになりながら、ジェスチャーで隣いい?と訊いた。鍵原くんはうんと頷いた。 鍵原くんの隣に座ると思いのほか周りの雑草がチクチクするのと、小さな石ころがおしりに当たって痛かった。でも、座り心地の悪さは苦にならなかった。隣に鍵原くんがいたから。なんでこんなに彼に夢中なんだろうと一瞬よぎったが、よくわからなかった。 「知ってる子でもいるの?」私は野球場を指さして訊いた。 「うん、弟」 「兄弟いたんだね、勝手に一人っ子だと思った」鍵原くんの新たな情報を手にして心が少し跳ねた。 「あ、でも、血は繋がってないんだよね」 「え?そうなの?」 「うん、母親一回離婚してるから。弟は今の父さんの連れ子」 「そっか」離婚とか血の繋がりのない兄弟とか私の日常にはない世界の出来事だった。だから、そっか以上の言葉がなかった。 「ああ、でも家族って言っても所詮は他人の集まりだから」 「そうなのかな」 それきり私たちは黙って少年野球を見ていた。どれが鍵原くんの弟なのかわからなかった。 「あ、負けた」と鍵原くんが言った。私はどっちのチームが負けたのかもわかっていなかった。 「鍵原くん、おぼえてる?一年の時の球技大会の日。終わってから一人で教室にいたでしょ?」 「あーそうだっけ?」 「うん」 「そういえばそうだったな」 「ね、あの時なにしてたの?」 鍵原くんはあーと言ってしばらく考えるように空を見上げた。 「一人になりたかった……のかも」 「ひとりに?」 「うん、みんなにすごいすごいって言われてさ、今まで話したことなかったやつとかにいきなり話しかけられたり」鍵原くんの言葉に私はちくりと胸がいたんだ。 「そういうの嫌じゃなかったけど、なんか一人になりたいなぁって。それだけ」 「そっか」 その時、強めの風が吹いた。私は立ち上がって言った。「鍵原くん、競走しない?」 「え?」鍵原くんはキョトンとしたなんとも間の抜けた顔でこちらを見上げていた。カピバラに似ていた。 「うん、競走」私は二、三十メートルくらい先にある橋を指さしてあそこまでと付け加えた。 「なんで?」 「なんとなく」 「いいよ」 「いいの?やった」 鍵原くんはゆっくり立ち上がってパンパンとスボンについた草やら土やらを落とした。 私は自転車に跨った。 競走は私が負けた。自転車だったのに、ズルしてフライングしたのに、最後は鍵原くんに抜かされていた。走る鍵原くんに抜かされる瞬間、スローモーションに見えた。永遠にこのままスローモーションで抜かれ続けたい気がした。カピバラは意外と早く走る。その時速は五十キロ。最近ネットで仕入れた知識が頭に浮かんだ。 その翌日、鍵原くんは飛んだ。 鍵原くんは死ななかった。でも、意識が戻るかもわからなかった。病院に行きたかったけれど、状況的に面会はできないらしかった。私は自室でひとり、彼との会話を思い出していた。彼に追い抜かれる瞬間がスローモーションで脳内再生され続けた。どうして?という言葉が意味もなく口をついて出た。やっと、友達になれると思ったのに。 一人教室に佇む彼の姿が浮かぶ。一人になりたかった。彼の声が響く。鍵原くんは誰からどこからいつから一人になりたかったのかな。 走る鍵原くんをみんながカピバラと呼んで追いかけている。走る。走るカピバラ。負けないで。負けないでよ。走って、走って、走りきってよ。鍵原くん。私も、私だって一緒に走るから、だから、負けないでよ。ぐちゃぐちゃに泣きながら、私は家を飛び出して、走った。走りなれていない身体がすぐに音をあげてもう走れないと叫んでいた。それでも私は足が動くかぎり走った。負けない。私、負けないから。走った。
2025/01/25
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今夜こそ 寝る前の薬の代わりに ブルー・スティルトンを 20グラム食べてみる 奇妙でもなんでもいい とにかく夢がみたい 色なんか無くてもいい 綿のパジャマに袖を通し 枕の下にあのひとの 写真を忍ばせ 3回叩いたら準備万端 いよいよ 22℃の薄暗い世界 扉を抜けたその先へ —— 「ひらけ、ゴマ」
2025/01/28
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今度は何をしたの? 動物を一種、絶滅させた? それ何度目? まあ、責任を取るのは君だけどさ 天国には遠いね、まだまだ 放置国家の有様は ビールを飲んで済む?、それ 一家惨殺の罪も 一種根絶やしの罪も 民が贖う 刑期はどれくらいになるだろうね そう景気のいい話じゃないから ケーキで祝おうってことにはならないけどさ 手伝うよ 手伝うからさ、ちゃんと償おう
2025/01/27
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「ポケット・シティ」 人はこの街をこう言う。小さなポケットに丸く収められそうな丸くスマートな街。今、住民の一人が銀行を出てスーパーへ歩を進めている。では、彼の話を聞いてみよう。 「この街じゃあ、何もかもがデジタルでワンコイン制さ。分かりやすい面もあれば反ってそれが大事な何かを分かりにくくしてる面もある。例えば俺がこうやって一足歩を進めるごとに道路が間抜けな効果音を上げるし、買い物をして通貨を自販機に入れれば自販機は『ガラガラガッシャーン』とわざとらしい音を立て、俺が店を出ると人は誰もいない。さっきは誰かいた?俺が自分に問いかけても答えは返ってこない。誰かがゲームコントローラーでピコピコ画面上の選択を選んで打つと画面の下の黒い画面の中に案内となる言葉が出てきて、街の中の誰かが一言二言話す言葉には吹き出しがつけられる」 住民の言葉には満更でもないと言う地元への想いが伺える。では、市長に話を伺おう。 「ポケットシティはリアル世界の現実と仮想空間の中にある虚構。その狭間で生きる人達の暮らしぶりがリアルで体感出来る二十世紀科学が造り出したグレイトなアイデアです」 「体感、と言う言葉に疑問が残ります。だって、ここは虚構の世界でしょ?体感するべき肉体がないじゃ無いですか? 」 「成る程、なら貴方が現実と思う物はなんですか? 朝、目の前に青空が広がって、その中を自転車を漕いで走っている。自転車を漕いでいる時自分でも何を考えているか分からない。其れが現実でしょうか? 仮想空間の中を人が泳いでいる時、そこにはその人の夢があります。望みがあります。正に人生のリアルがあります」 「朝、青空が広がっていたのが次第に雲間が広がって、今にも雨が降り出しそうです。これが仮想ですか?」 「そうです。雲間が広がり、雨に濡れて家に帰り、シャワーを浴びる。これが仮想です」 「いつか私は死んで土に還る。これも仮想ですか?」 「日本では土葬は禁じられてる。そこは火葬でしょうね」 ポケットシティについてアレコレ文句を言う輩は尽きないし、様々な論を述べて吠え声を上げるのは勝手だ。然し、この街の人々は皆この街を愛している。「愛」と言う概念さえ、この街は仮想的に造り出して見せる。皆、この街で過ごすのが心地良く、とってもいい街みたいだ。 貴方もこの街に来て見ないか? 要こそ、ポケットシティへ!!
2025/01/30
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この世の全てに いくつかのちからがあります 弱いちからと強いちからと まだ見つかっていない重力と あとは、 みなさんが考えてみてね と去ってしまった先生、 僕らはうなずいたままです 絶対 という言葉を嫌う君が 変わらない愛を要求する 変わり続けてゆくことだけが 変わらないことだということも 教えてくれたのに 先の見えない時代だから 幸せなことを探している かわいい、とか あいらしい、とか そんな言葉を探している そのうちに もう きれぎれの息の中で 見えているいつかのえくぼややえば いつの間にか 遠くの遠くの世界へ行ってしまった と思っていたのに こんなに近くにいる 生まれ来るときに にぎりしめていた全てを捨てて 開いたその小さな小さな手のひらは 全ての世界につながってゆく 僕がそうしたように 君がそうするように 大きさの決められたいろがみに あふれるほどにふえきのりを塗って 安堵の笑顔を見せて グルーオン 無意識のうちに 見えないちからを信じ続けているから 全ては 同じちからでつながっているのだから 還るところは ひとつであって全てであって グルーオン 不確かな 見えないものを愛することで 少しでも優しくなれるならば その弱くて小さな小さなちからを 包むように 包まれるように
2025/01/22
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鼻をすするタイミングが 同じだけで ときめく
2025/01/18
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エーテルランプの緑光 そっと掲げ この星降る丘から 世界を見下ろした ここに君がいれば ススキたちがそっと やさしい夜風に揺られる 世界の果ての、さらに果て 僕は穂を背に ただ静かに目を閉じた 涙と共に あるいは君のくれた思い出の中に沈みながら
2025/01/29
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君のありかを 探そうと ずっと迷っていた 君の残影を見つけるたびに 帰り道はわからなくなって 君のいた証拠を見つけるたびに かえってあの日々が消えていく まほろばの夢だったんだ
2025/01/22
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