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2021/01/01 12:00:00

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人間はコップか

 私は教師として、毎日のように教壇に立っていた。 

 ある日私は、生徒たちに、「人間の体内の約60%は水分である。」ということを教えた。私は鼻高々だった。なぜならほとんどの生徒が知らなかったことを知らせてあげたのだから。
 授業後、ある生徒から質問を受けた。その生徒はこういった。
「先生、体内の約60%が水分である人間。そんなにたくさんの水分を溜めているなら、人間はコップではないでしょうか。」
 衝撃が走った。私はこの問いに答えることが出来なかった。なぜなら、わからなかった、ためだ。私は、平静を装い、
「後日、回答する。」
 とだけ述べた。

 私は焦った。常にこの問いを頭に置き生活した。歩きながら、食事をしながら、排泄しながら、常に考えた。「人間はコップである。」という仮説。もし正しければ、今までの私の常識は完全に崩れ去る。しかし、いくらなんでもこの考えは短絡的すぎないだろうか・・・。とりあえず私は、自己紹介において「私はコップです。」などという人間に出会ったことはない。いや仮に自分がコップであると認識している人物がいたとしても自己紹介においてそんなことは言わないか。なぜなら、自分がコップであると認識している人間は、恐らく全ての人間がコップであると認識しているはずである。つまり、自分がコップであると認識している人物が、自分がコップであると自己紹介することは、自分が人間であると認識している人物が、自分が人間であると自己紹介することと変わらないのである。とすると、自己紹介においてコップであると自らを紹介しなくても、自分がコップであると認識している可能性は十分に考えられるのだ。もしかすると、人間がコップであるということは周囲の人間にとっては常識なのかもしれない。コップである私たちは、コップを使って水を飲んでいる。コップがコップを使っている・・・・・。
 駄目だ、らちが明かない。続いて別の視点、行動的観点から、人間とコップについて考えてみよう。まずコップ。コップは水を取り入れ、貯蔵し、放出する。多くの場合人間に操作されることによって。さあ、人間はどうであろう。私たちは水を取り入れ、貯蔵し、放出しているだろうか・・・。している。確かに私たちも水を取り入れ、貯蔵し、放出している。水を口から飲むことによって取り入れ、体内に貯蔵し、排尿、呼吸などによって放出している・・・。
 何も、変わらない。コップと、何も。本当にそうか。私たちはコップと変わらないのか。いや、しゃべったり、歩いたり、考えたり、従来のコップにはできないことが、私たちにはできるではないか。なんだ、明らかに私たちはコップではないじゃないか。なぜこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。私は安堵した。便秘が解消したように、安堵した。すぐにこの答えを例の生徒に伝えてやろう。私はその生徒の家の電話番号を調べるため、足早に職員室へ向かった。しかし、職員室の扉を開けた瞬間、新たな考えが浮かんできた。それらの、従来のコップに出来ない行動は、コップに付随された機能でしかないのでは、ないだろうか・・・。つまり、私たちはコップに新機能を加えた存在―進化形コップ―ではないだろうか・・・。
 人間はコップの進化形。こんなことを認めてしまったら、先人たちが作り上げてきた進化論が崩れ去ってしまう。いくらなんでも、結論付けるには早すぎる。もう少しコップと人間の相違点を考えることにしよう。私は再び職員室を離れた。
 と、瞬間、ビビビビビ、私の頭に電流が走った。そう。コップと人間の相違点を、見つけたのだ・・・。嬉しいような、悲しいような、長年一緒に暮らしてきた息子が、独り立ちして家を出ていくときは、きっとこんな気持ちになるのだろう。コップと人間、水を取り入れ、貯蔵し、放出する。そこに違いはない、が・・・。まず、人間についてだ。人間は自発的に、水を取り入れ、放出する。自分が取り入れたいときに取り入れ、放出したいときに放出する。続いて、コップについてだ。人間が自発的にこれらの行動をとるのに対し、コップは強制的にこれらの行動をとらされているのだ。コップは、強制的に水を取り入れられ、放出させられる。これは人間とコップの違いといえるだろう。よって人間はコップではない。よし、今度こそ答えが出た。再び職員室へ・・・。
 いや待て。人間もたまには強制的にこれらの行動をとらされているではないか。例えば拷問における水責め。人は自分の意思に反し強制的に水を取り入れられさせられる。また、何らかの理由で長時間トイレに行けないとき、人は自分の意に反して失禁する。これも自発的に水を放出しているとは言えないだろう。つまり、人間はときにコップになっているのだ。
 結論。人間は、人間、時々、コップ。
 待て。何かがおかしい。なぜ私は、人間がしゃべったり、歩いたりすることはコップの新機能、コップから進化した結果、と捉えたのに、自発的に水を取り入れ放出することは、そのように捉えなかったのだ。自発的に行動することが出来るようになったこともまた、コップからの進化の結果と、捉えられないだろうか・・・・。

 わからない、わからない、わからない、わからない、わからない・・・。私は人間がコップであるかどうかさえ、わからないのだ。コップが、頭から離れない・・・。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい・・・。
 
 翌日私は、辞表を提出した。これにより私はもうこの問いと向き合う必要がなくなったのだ。なぜなら私はもう教師ではないのだから。例の生徒の質問に回答する必要はないのだ。晴れ晴れした気持ちで、帰宅する。しかしもうコップとは関わりたくないな。今日は我が家の全てのコップを処分しよう。―いや、待て、『コップ』、とは、なんだ・・・。

 完

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インナーチャイルド


どうしたの?
こんな淋しい岸壁でひとりきりで
しかもそんな薄いスモック一枚きりで


   あのね おかあさんかえるのまってるの
   おかあさんおしごとしてるから
   いつもここでまってるの


お父さんはどうしたのかな?
お家に誰もいないの?


   ううん おとうさんとおばあちゃんと
   あとおじいさんとおにいちゃんがいるよ
   みんなでおちゃのみながらてれびみてるよ


あなたは一緒にテレビ観ないの?


   あたしは うーんと
   よくわかんないけど
   いちゃいけないようなきがして


どうして?
一緒に観ようって云ってくれないの?


   うん とくにはなにも


やさしくしてくれないの?


   やさしさってなに?


あなたを可愛がってくれることよ


   う~んと よくわかんないけど
   おとうさんもおばあちゃんもよくあたしに
   おかあさんにそっくりだよ
   っていってきたりはするよ
   よくわからないけど
   それでよくたたかれたりするけど
   あたしがいけないこだからだって


お母さんは そのことは知ってるんでしょ?
なにかしてくれたりはしないの?


   しないよ
   したら おとうさんとおばあさんとで
   いっしょになっておかあさんいじめるから
   そうすると おかあさんすごくふきげんになるし
   せなかむけたまま くちもきいてくれなくなるから


あなた ちょっと手を貸してみて
こんなに冷たくなっちゃって
こんなに小さい子がひとり寒さに震えながら
母親を待ち続けてるっていうのに
誰ひとり 心配で探しにもこないなんて


   ふつうのことなんじゃないの?
   みんな そうするものじゃないの?


あのね よく聞いて
普通の感覚のある大人だったら
こんな寒いところに子どもひとりにしたりしないの
本当なら あなたは自分の家で
お父さんやおばあちゃんおじいちゃん お兄ちゃんたちと
好きなジュースやお菓子を食べながら
テレビを見たりしてるのよ


   あたしはふつうじゃないってことなの?


うーん 難しいことかもしれないけど
あなたはずっと待ちぼうけだったのよ
お母さんはここで待ち続けてるあなたを
きっといつものことだと思っているのかもしれない
もしかしたら あなたがこうして
こんな寒空の中でひとりでいることで
お母さんはあなたを 身代わりにしているのかも

ごめんね あなたのお母さんなのに
ひどいこと云ったね


でも もう大丈夫
私があなたを迎えにきたから
こんな誰も来ない 声すらかけもしない
寒くてうら淋しいところで
ずっとずっとひとりぼっちで耐えてきたんだもんね
頑張って頑張って 必死で我慢して
こんなちいちゃな躰で


辛かったね 偉かったね
本来ならあたたかいはずの 自分の家なのに
いちゃいけないような気がするだなんて
本来なら 大人がちゃんと護ってあげなきゃいけないのに
まだほんのちいちゃな子どもが
大人の顔色伺って 機嫌伺って


泣いてもいいんだよ
寒かったよって 淋しかったよって
ちゃんと見つけてほしかったって
ギュってしてほしかったって
ちゃんとこっちを向いてほしかったって


実はおばちゃんね あなたに呼ばれてここに来たの
あなたがね ずっと見つけにきてって
迎えにきてって呼んでるのが聞こえてきたの


ごめんね
ごめんね
随分長いこと待たせちゃったね


おばちゃん 今までずっと
あなたの声に耳を塞いでいたの
聞こえないふりを続けてきたの
おばちゃん ズルくて弱虫で
だからずっと 怖かった
あなたの声を聞いてしまうのが


でももうそんなことしたりしない
ちゃんと耳を傾けてみたの
一生懸命 耳を傾けてみたの


そしたら 聞こえてきたの
雑踏に消えそうなか細い声だったけど
たしかに聞こえた
震えるようなか細い声で
必死になって叫んでるその声を


だから あなたを見つけに来たの
迎えに来たの


大丈夫 何も心配いらない
もう二度と あなたをひとりになんかさせたりしない
泣きたかったら泣いたっていいんだよ
怒りをぶつけたかったら いくらでもぶつけてもいいよ
全部受け止める覚悟は出来てるから


なにも不安に思わなくていいし
不安に思ったら どんな些細なことでも打ち明けて
おばちゃんが解決できることは何でもやるし
おばちゃんだけじゃ無理だとしても
ちゃんと助けてくれるとこ探す
全神経を注ぎ込んで探す






さあ 寒い寒い
あなたは躰の弱い子だったから
また喘息の発作でも出たりしたら大変
おうちに帰りましょう


大丈夫
あなたを傷つける人間は
もう どこにもいないから


お手々つないで帰りましょう
夕飯はなにがいい?
クリームシチューでも作ろっか
お野菜お肉たくさん入れて
牛乳とチーズも忘れずに





帰ろ 帰ろ
もうとうに蛙は鳴かないけど


帰ろ












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時計の針が一秒進んだ、明けまして


昨夜は一睡もできなかったの
大みそかだからって興奮してたわけじゃなくってね


お腹が苦しくって 背中が痛くって
いつものクスリも ちゃんと飲めなくって


ヨーグルト食べたら 楽になるかしら?
牛乳的なものをと ミルクティを飲んでみたら?


余計なものを入れてしまったために
却って 苦しくなってしまったの


窓の外 向かいの自販機の明かりだけが
やけにまぶしい 
もの云わぬ 真っくらくらの闇の中




誰かいますか
誰かいますか




と 呼びかけてみる




今夜話せる誰かも
そばで笑い合える誰かもなく
もしもこの世界のどこかで 
あなたもひとりっきり
こんな淋しい夜を過ごしているのなら



どうぞ返事をください
どうぞ返事をください



なんのもてなしも出来ないけれど
雨音陽炎特製トマトスープと
すりおろししょうがをよく揉みこんだチキンソテー



そして 少しばかりのお酒も用意して
あなたをお待ちしています




年が明けたからって
何かが変わるなんて幻想は
もうとっくに
どこかへ置いてきてしまったけれど



1月1日
今日くらいは


昨日までの ついてない
しょぼくれた人生のすべてを忘れて


昼日中から呑んだくれたって
きっと


バチはあてられないはず


というか
もう十分すぎるくらいのバチ
あてられてきたはずだから




身ひとつ
ただ あなたの淋しいと
泣き忘れて クセのように笑っている
その笑顔だけ持参で



わたし 心よりずっと
お待ち申し上げております





。。。その前にちょっとだけ味見を



うん
これならきっとあなたも
美味しいと 云ってくれるはず





☆★***★☆***☆★***★☆

大みそかから元日にかけてを
詩にしたためてみました

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透明な辞書

 西日が、使い古された木製の机に長い影を落としている。放課後の、四等分された教室は、埃の粒子が光の筋の中で踊る、静かな水槽のようだった。
 私、秋山は、日直の仕事である黒板消しを手に持ったまま、窓際に座る雪絵を見ていた。彼女は図工の時間に余った色画用紙を細長く切り、丁寧に「栞」を作っている。

「……ねえ、秋山くん」

 雪絵が顔を上げずに言った。彼女の指先は、まるで壊れやすい羽虫を扱うように繊細だ。

「この色のこと、なんて呼ぶ?」

 彼女が指し示したのは、群青色でも空色でもない、少しだけ緑が混ざったような、けれどひどく冷たそうな青色だった。

「……水の色。でも、水道のじゃなくて、深いプールの底の、タイルの隙間にある色」

 私がそう答えると、雪絵ははじめてこちらを向き、少しだけ口角を上げた。
 それは「正解」と言われたような、あるいは「見つかった」と言われたような、不思議な感覚だった。

 私たちが「初恋」という、まだ辞書にも載っていないような感情の輪郭に触れたのは、まさにこの時だったと思う。

 十歳や十一歳の子供にとって、異性は別の星から来た生き物に近い。男子は騒がしく、女子は徒党を組む。互いの言葉は、記号としては通じても、その奥にある温度までは伝わらない。
 けれど、この日の放課後、私と雪絵の間には、クラスの誰にも理解できない「共通言語」が芽生え始めていた。



二人だけの語彙

 それからの私たちは、放課後の数十分、誰もいなくなった教室で「言葉のすり合わせ」を始めた。
 それは勉強でも遊びでもない。ただ、目の前にある現象に、二人だけの名前をつけていく作業だった。
• 「廊下のにおい」……雨上がりに、誰かが濡れた上履きで歩いたあとの、少しだけ土の匂いが混じった切なさのこと。
• 「鉛筆の沈黙」……テスト中に全員が静まり返り、カリカリという音だけが響くときの、あの心細い連帯感のこと。
• 「遠くのチャイム」……隣の中学校から聞こえてくる、自分たちの未来が少しだけ先取りされたような、くぐもった音のこと。

「これってさ、他の人に言ってもわかんないよね」

 雪絵は、窓枠に溜まった光を指先でなぞりながら呟いた。

「うん。きっと、変な奴だって思われるだけだ」

「……秋山くんと私だけが知っていればいいのかもね」

 その言葉を聞いたとき、私の胸の奥に、小さな、けれど鋭い痛みが走った。
 それが「独占欲」という言葉で定義されるものだと知るには、まだ少し時間が足りなかったけれど、私はその時、雪絵という少女と世界を共有しているという事実に、目眩がするほどの優越感を感じていた。



境界線を越える音

 季節は巡り、教室に差し込む光の角度が鋭くなってきた。
 ある日、雪絵がふと、私のノートの端を指で弾いた。

「秋山くん、あのね。『さようなら』って、本当はどういう意味だと思う?」

 私は考えた。国語辞典には「別れの挨拶」と書いてある。でも、今の私たちが交わすそれは、きっと違う。

「……明日もまた、この場所で続きを話そうっていう、予約のこと?」

 雪絵は驚いたように目を見開き、それからクスクスと笑った。
 彼女が笑うと、教室の埃たちが一斉に祝福するように光り輝く。

「それ、いい。すごくいいよ。じゃあ、今の私たちは、毎日予約をし合ってるんだね」

 その時だった。廊下で掃除用具入れが倒れるような大きな音がして、部活動に向かう男子たちの怒鳴り声が聞こえてきた。

 魔法が解けた。

 私たちは急いで距離を取り、お互いに無関係な日直の仕事に戻った。
 異性と二人きりでいることが見つかれば、冷やかされ、茶化される。
 そんな「子供の世界のルール」が、私たちの純粋な言語交換を脅かしていた。

 でも、雪絵は去り際、私にだけ聞こえる声で言った。

「……予約、また明日ね」

 その一言は、どんな愛の告白よりも、私の心臓を強く打ち抜いた。
 それは「共通言語」を持つ者同士にしか許されない、秘密の合言葉だったから。



透明な辞書の完成

 私たちは、結局一度も手を繋ぐことはなかった。
 名前を呼び捨てにすることも、好きだと言い合うこともなかった。

 けれど、あの放課後の教室で編み上げた「透明な辞書」は、間違いなく私の初恋そのものだった。

 大人になった今、私は多くの言葉を知り、それを使いこなして生きている。
 けれど、あの時の「プールのタイルの隙間の色」を、これ以上に正確に言い表せる言葉を、私はまだ持っていない。

 異性という、理解不能だった存在が、自分と同じ言葉を話す「個」として立ち上がった瞬間。
 それが、一人の少年が世界と、そして愛と出会った、最初の一ページだった。

【了】

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摩耗

 
 私はずっと昔からここに居る。
 なぜだかここに居る。私には見えないが、どこかの会社の社名が宣伝文句のようにひっそりと私の顔の下に書かれているが、ずいぶん時間が経ち、その金色の文字はかすれている部分がある。

『マンション南天』入り口の壁に……無造作に取り付けられた感の否めない私の顔。
 マンションと言っても広いエントランスがあるわけじゃなし、まるで商業ビルの入り口のような処に私は居る。
 街の行きかう人もよく見える。

 新たに引っ越してきた人の中には私を見て「何でこんな所に? 気持ち悪、シュールだな~」とこぼした人も居たっけな。
 それでもほとんどの住人は私とにらめっこしながら、身なりを整え出掛けていく。

 だが、私の仲間はだいたいこんな場所には居ないので、確かに珍しいだろう。シュールな趣があり、恐怖すら与えるかもしれない。私の仲間たちは時に、個人個人の持ち物となり、普段はその人だけ、もしくはその人の家族だけを映す。

 私は鏡だ。

 私を覗き込んだある人は言った。
「マンション共用の鏡なんてなんか怖い。不自然。念が入っていそう……」

『念』か……。

 私の友はエレベーターに居るし、トイレにも居る。数え上げればきりがないほど、街中に鎮座する。

『念』とやらを払う為だろう、友たちは毎日決まった時間帯にピカピカに磨かれている。
 しかし私はくすんでいる。なぜかは知らない。取り付けられたまんまで茶色っぽいシミのようなものを角に持つ。

 不気味がられ厄介者扱いされながらも、おしゃれに入念な女子などには重宝されてもいる。

「じゃあ隆|、取りあえず、ここで。あたし達はもう帰るわ。明を早くお風呂に入れてやりたいし。後の事は自分でやってちょうだい」

 ……。見慣れない家族だ。父母と子ども、という関係であろうか。
 しかし女性は「もう帰る」と言ったから家族ではなく、恋人同士と女性の子どもか? 3才ぐらいの男の子と女性が手を繋いでいる。

 12月の午後6時。辺りはすっかり暗い。賑やかな駅にほど近いマンション南天に入居してきた男性は、なんだか一人置き去りにされたみたいに見える。

「沙織の奴『もう帰る』ってさ、電気屋これから見つけるのかよ?」
 曲がり角を曲がるまで、女性とその息子らしき男の子をじっと見つめていた男性・隆がボソッと言ったあと舌打ちした。

 私は男性と向かい合わせになった。彼が私に近づいてきたのだ。
「なんだこれ。こんなところに鏡? 変なの」と言った。
 その後、隆という名前の男性は、機嫌が悪そうにブツブツ言いながら階段を上って行った。

                       *

 私はこの新顔に興味を持った。

 スーツを着た隆は平日の朝8時半ごろ必ず階段を下りて来て、私の見える場所にある自転車置き場の自転車にまたがりどこかへ行く。四角く平たい鞄を持っているので仕事へ行くのだろうか。
 夕方の6時半ぐらいに戻って来て、私をちらともせず階段を上って行く。手には野菜などが見え隠れするスーパーの袋を持っていることもある。

 隆は毎日、同じ時間に同じように無表情で私の前を過ぎていく。
 隆は私に対して殆ど魅力を感じないらしい。見向きもしない。

 ある日曜日のお昼時。半月前、隆に「じゃあね」と言い去って行った沙織という名前らしい女性が、この間と一緒の子どもを連れマンション南天にやって来た。子どもは、沙織がお風呂に早く入れたがっていた『明』だろうか。

 隆と違い、自分の顔が好きなのか何なのか、兎に角絶対に私の前で立ち止まる沙織。
 私に見入り、深紅の口紅を塗り直している。

「ママ~、パパなにしてる?」明らしきが、私に夢中の沙織に向かって話しかける。
「うーん、そうね。ゲームしてるかもしれないね。いこっか、お待たせ! 明」

 やはりこの子は明という名だな。ぷっくりとした小さな手がなんとも愛らしい。羽毛のようにやわらかな髪の毛をした天使のような男の子だ。
 明は背が小さいので、私から離れた時だけその姿が見止められる。

 沙織は髪の毛をツインテールにした若い母親だ。私が見るに……おそらく年齢は20代だろう。

 家族のカタチが様々な事を私は知っている。この目で目の当たりにしてきた。マンション南天で。男女の関係もいろいろある事を私は生まれた時(私がここに設置された時)から学んでいった。

 マンション南天はそんなに大きなマンションではないらしい。私が知る限りでは住人は10組程度だ。

 隆の部屋で沙織と明はどう過ごすのだろう? 恐らく元夫婦だ。今は友達付き合いをしているのだろうか? それとも息子の明が父・隆に会いたがるから母である沙織が連れてくるのだろうか。

 何せ私は暇人だ、おっと……暇鏡だ。あれこれ妄想するのは楽しい趣味の一つだ。

 夕方5時。
 沙織と明の声が階段の上のほうから聴こえてきた。
「ママ、またパパに会える?」
「うん、もちろんだよ、明。また遊びに来ようね!」
「うん!」

 私は遠くからやって来る街の灯をぼんやりと顔に映しながら、胸が切なくなった。明の無邪気さに胸が痛んだ。
 家族など持った事はないが、私には心があるのか? 誰かが言った『念』が私に『心』を与えたのかも知れない。

 やがて誰もがコートの端をギュッと持ち体をくるむ寒い冬が過ぎ、すっかり春がやって来た。

 朝の光の中、満開の桜のピンクが私に反射する。

 あれからもずっと、隆のもとへ毎週のように、沙織と明がやって来ていた。
「ママ、パパ喜ぶ?」
「うん! きっと明が択んだチョコレートケーキ、パパ喜んで食べるよっ」
「わーい!」
 今日はケーキを手にしているせいなのか、私の前で立ち止まらない沙織。嬉しそうな親子のおしゃべりが、階段の上へと小さくなっていく。

 隆は見送りをしないんだな。つらくなるからだろう、と私は何となく感じ取る。
 たくさんのカップルが「さようなら」と手を振る姿を私に映した。
 次の約束を楽しみに倖せを噛み締めた「さようなら」。ほんとうの「さようなら」。半ばやけっぱちの「さようなら」。
 それらを見ていると、私は豊かなアート作品を無料で見られる喜びを感じたし、手を振り続ける人を助けたいような気持ちにもなった。
 でも鏡だからなにも出来ない。

 1年経った。

 相変わらず隆は会社へ行っているようだ。いつもの時間に、自転車に乗り出発する。雨の日は合羽を着ていく。
 出不精らしい隆が最近では、土曜日や日曜日も自転車に乗りどこかへ行く日を持つようになった。
 そんな時、沙織と明はやって来ない。

 どうしたのかな? と私が考えこんでいると、次の週の土曜日には沙織と明がマンション南天へやってきたりもした。

「ねぇ、ママ、パパともう喧嘩しないで」と明が私の近くで漏らした。
「うん、大丈夫よ。明、ママは怒ってないよ。パパと仲良くするね!」
 明がさみしそうに黙っている。
「明? ママとお手てを繋ぎましょう」
「はーい」

 すぐに階段を上ってゆく音がきこえ始めた。母子は黙ったまま私のそばから消えていった。

(ああ……私が人間ならば、今頃ウロウロそこら中を行ったり来たりしているだろう。隆と沙織になにがあったのだろう。明を笑顔にしてやってほしい)
 備え付けられた鏡だから、歩けない。

 夕方の6時半……沙織と明が階段を下りてきた。二人の声が近づいて来る。
「ママ、またパパに会いたい! 楽しかったね」
「うん、そうね。明。今度は家族でお好み焼きを一緒に食べに行きたいね」

 ……。どうしてこの夫婦は別れてしまったのだろう。赤の他人、おっと他鏡の私ごときが要らぬ世話だが。
 しかし皆そうだ。マンション南天の皆がそうだった。あんなにプンプン怒っていた彼氏が、次の日にはベッタリになっていたり……一人の学生らしい女性をいつも訪ねていた仲良しの男性が突然来なくなったり……。私は人間じゃなくて良かったかもしれない。人間は大変そうだ。

 私は恋をしたこともなければ、子どもを持つこともない。声を発することが無いから言い争いとは無縁だ。時々孤独を感じるが、人間を羨ましいとは思えない。

 翌日の日曜日、隆が珍しく私をじっと凝視した。恥ずかしくて逃げ出したくなるぐらいの長い事見つめている。浮かない表情だ。しばらくし、たった一言だけつぶやいた。
「俺の顔、気持ち悪」
 彼は苦笑いした。
 私は彼の代わりに泣きたくなった。何処が気持ち悪いというのだ。隆は派手な顔はしていないが、『気持ちの良い顔』をしている。優しさを湛えている。
 正直言って、私は見ていられない顔もこれまで映してきた。それは顔の造りの事を言っているんじゃない。意地悪を企む顔や、人を陥れる前の表情だ。目の前から消えてくれ! と願ったぐらいだ。
 隆は、なにかコンプレックスがあるのだろう。私はそう感じる。ただ、隆に見つめられると嬉しくなるので、性根が美しいのだろう。

「ママ、ほんとう? ほんとうに……?」
 明の声だ。

 それはある日曜日の朝。
「ええ、ほんとうよ。きっとよ。必ずパパにまた会えるわ。明、ママは明と指きりするよ」
「うん!」
 少し離れた所に明と沙織が小指と小指を絡め笑顔を交わす姿が見えた。

 今までと何かが違う。私は悲しい色合いを沙織から感じ取った。
 沙織が私の所に来て、真っ直ぐに私を見つめた。沙織の瞳の中にボートの浮かんだ湖が見えた。
(さっき、明に言った言葉の意味は……?)考え直すが私にはよくわからない。

 口紅は塗り直さずに、豊かな前髪を左手で整えている。どうやら右手は明と繋いでいるらしい。間近なので明の姿は私から見えない。

「ママ、早くパパに会いたい!」
「うん、行こうね! 明」微笑む沙織が左手で瞳を少しだけ拭った。ボートが揺れた。

                        *

 その日の夕方は、隆が階段から下りてきた。(ああ、今日はお見送りをするんだな)
「気を付けて帰るんだぞ、明。また遊ぼうな!」と隆。
「うん! パパ大好きっ」満面の笑みの明。
 沙織は俯き瞳を伏せている。
「じゃあね」と沙織。「うん、気を付けてね」と隆。

 曲がり角の所で明は振り返った。一生懸命手を振る隆。嬉しそうに精いっぱい手を振り返す明。

 私はもう可愛いあの姿を見られないんじゃないかと予感した。
 沙織は振り向かなかった。

                        *

 そして、梅雨がやってきた。
 ああ、このムカデ君を何とかしてほしい。ジメジメする季節の到来とともに、私のことを好いてか、私の顔の近くを這うのだ。モゾモゾして不快だ。

 雨の続く日も、隆はいつでも自転車で出勤して行った。

 道行く人の「こんなところに紫陽花! きれいだね」という声が聴こえる。

 何人もの人から聴いた。「時間が経つの、早いね。もう8月!」そのようなセリフ。
 紫陽花は枯れ、やがて向日葵の季節が到来した。

 私の予感は的中してしまったのだろうか。儚げなあの日の母子の姿をあれ以来見ない。

 (隆と沙織と、明……[ほんとうのさようなら]をしてしまったのだろうか。指きりは何処へ行ったのか)
 何処からか聴こえてくる風鈴の涼やかな音色が、私のやり切れなさを撫でる。

 あ! 隆がやって来た。ごきげんな表情をしている。
 そして……ニコニコしながら私を覗き込んだ。
(お?! いつもより粋な格好の隆)

「隆~!!」
 聞きなれない女性の声だ。
「夕子|、来たの!」
「ええ、智也も、ネ! ……ほら、智也、隆さんに『こんにちは』は?」
 どうやら夕子という女性の子どもらしい、智也君は。ちょうど………1年前の明と同じぐらいの背格好だ。3歳ぐらいだろうか。
「こんにちは……」もじもじと夕子の足の後ろに隠れる智也。
「こんにちは! 智也君。仲良くしてね!」と隆。

 私は、いったいぜんたい……沙織との交際はどうなったのだろう。明の気持ちは……隆の最初の家族の記憶が蘇り、胸がズキンッとした。

 あの日、沙織が目に涙をためていた、明と指切りした日は……何処へ行ったのだと虚しいような心地がしてきた。

 自分が人間じゃなくて良かった、と思った。と同時に人間だったら、『パパに必ず会えると信じていた』明に会いに行ってやれるのにと思った。会いに行ったところで、自分に何ができよう。でも、鏡で培った技術を生かし、物真似を教えてあげられるな、などと考え付きもした。

 幸せそうな隆と、夕子と智也がキャッキャと言いながら階段を上って行ったあと、私は力が失われていくのを感じた。

 ああ、鏡でありながら魂を持ってしまった。

 見守り続ける事が宿命であるがゆえ与えられる、残酷な仕打ちを経験した今、ちょうど私の寿命がやって来た。

 勝手に割れて、粉々になった。

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ラメ色のふしぎ

 
 冬の夕暮れは駆け足でやってきます。5時にもなるともう宵闇が夜に連れて行かれそう。

 5才の由幸くんは、ママと二人遊園地の帰りに駅の広場で、遊園地にいそうでいなかった存在に出くわしました。

 それは、赤と白の縞々でダボッとしたお洋服を着、顔を真っ白にしたピエロです。
 お鼻は赤く真ん丸です。きっとポンポンのような物で出来ているのでしょう。
 金髪のモジャモジャヘアーがお帽子から覗いています。
 
『駅の広場』と言っても2月の寒空の下です。

 長い風船をプーとふくらませてはいろんな形にし、オーバージェスチャーで道行く人にアピールしています。
 
 でも、みんなたいして見向きもしない。

 由幸くんは、ママとつないだ手にギュッと力を入れました。

「どうしたの? 由幸?」
 優しくママが問いかけます。

「ピエロさんがいるよ、ママ」

 ママは由幸くんに合わせ立ち止まりました。

「あら、ほんとうね!」

「ママ、ピエロさんが面白いことしている! 僕、みたい!」

「うん、わかった」

 ママと手をつないだまま、ピエロのコミカルな動きに夢中になる由幸くん。

「すごいね! どうして、あの風船割れないの? ママ」

「うーん、ママにはわかんない! ピエロさんに訊いてみる?」
 嬉しそうにママが微笑みました。

「うん!」
 元気いっぱい由幸くんはお返事を。

 ……でも、なんだか恥ずかしくて訊けない。

 いつの間にか、最初いた場所よりもピエロさんに近づいていた由幸くんとママ。

 そういえば……ピエロさん、ずっとおしゃべりしないぞ?

「ねぇ、ママ、ピエロさんはなんで声を出さないの?!」

「それはね、言葉を使わなくても素晴らしいことができるからだよ」

「……」由幸くんは思いました。
(でも、お客さんは僕とママだけじゃないか……)

 由幸くんがなんだか複雑な気持ちになりながらピエロの芸を見ていると、ピエロが左腕を後ろにピンと少し高く伸ばし、右足を前へ、そしてちょっぴり前かがみになり……まるで捧げるように右手で風船で出来たカラフルな花束を由幸くんへ渡そうとしてきました。

 その時、由幸くんがピエロの目を見ると……キラキラとした涙の雫のお化粧が左瞼の下に施されているのに気付きました。
 でもピエロさんは満面の笑みです。

「ありがとう」
 ボソッと由幸くんは言い、プレゼントを受けとりました。

 隣のママのお顔を見上げると、ニコニコしています。

 由幸くんは、キラキラしたお化粧の涙が綺麗でなぜだか悲しい気持ちになりました。

 ママは笑顔。

(もしかしたら……大人になったら、僕は『言葉を使わなくても出来る素晴らしいこと』が理解できるのかなぁ)

「寒いね! 行きましょう、由幸」

「うん」

 ママに連れられお家へ帰って行く由幸くん。

 50メートルぐらい行った後、1度だけ振り返りました。

 するとピエロさんが右手の指を順番に素早く動かしながら「バイバイ」をしてくれました。

 それでも、あの……ラメで出来た、涙の形を消してあげたくなる由幸くんなのでした。

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金色の融解

第一章 硝子の迷宮と千の視線

 一月の風は、剃刀の刃のように鋭利で、冷たかった。
 乾いた街路樹が骸骨の指のように空を引っ掻く中、羽生慎吾はコートの襟を立て、芦田財閥の当主が隠棲する屋敷の門を潜った。
 山の手の奥深くに位置するその洋館は、周囲の高級住宅街からも浮き上がった異様な威圧感を放っていた。外壁はすべて黒い煉瓦で組まれ、窓という窓は分厚いビロードの幕で閉ざされている。まるで、屋敷そのものが巨大な生き物の死骸であり、その内部で腐敗していく時間を拒絶しているかのようだ。
 羽生がここを訪れたのは、単なる警備の依頼ではなかった。奇人として知られる芦田氏が、最近入手した「ある秘宝」に取り憑かれ、何者かに奪われるのではないかという強迫観念に囚われている——そんな噂を聞きつけた興信所の上司が、なかば厄介払いのように羽生を派遣したのが事の始まりだった。
「お待ちしておりました、羽生様」
 重厚な扉を開けたのは、蝋人形のように表情のない老執事だった。
 通された廊下は、外気とは裏腹に不快なほどの暖気に満ちていた。空調の音が、どこか遠くで唸る獣の呼吸のように低く響いている。羽生は額に滲む汗を拭いながら、執事の背中を追った。
 足元には、深紅の絨毯がどこまでも続いている。それは驚くほど毛足が長く、踏みしめるたびに靴底が数センチほど沈み込むような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、巨大な生物の舌の上を歩かされているような感触。羽生はその感触に微かな生理的嫌悪を覚えつつも、屋敷の奥へと進んだ。
 通されたのは、屋敷の最も奥まった場所にある応接室だった。
 部屋の主、芦田は、暖炉の前にある革張りの安楽椅子に深く体を沈めていた。痩躯の男だった。眼窩が極端に窪み、その奥にある瞳だけが、病的な光を宿してギラギラと輝いている。
 壁面には、彼の異常な蒐集癖を証明するコレクションが所狭しと並べられていた。
 剥製だ。それも、ただの剥製ではない。
 鷹、梟、狼、そして深海魚。あらゆる生物が、生前よりも鮮烈な色彩を施され、硬直している。だが、最も異様なのはその「目」だった。すべての剥製の眼窩には、本来の硝子玉ではなく、宝石や貴金属で造られた特注の義眼が嵌め込まれていたのだ。
 ルビーの瞳を持つ兎、サファイアの瞳を持つ蛇、そしてエメラルドの瞳を持つ巨大な蜥蜴。
 無数の視線が、侵入者である羽生を無言で射抜いていた。
「……君か。私の『目』を守ってくれるという男は」
 芦田の声は、枯れ葉が擦れ合うように乾いていた。
「初めまして、芦田様。羽生です。本日は、その『目』の警護について詳細を伺いに……」
「警護ではない!」
 芦田は突如として叫び、瘦せこけた腕を振り上げた。その手には、琥珀色の液体が入ったブランデーグラスが握られており、中身が激しく波打った。
「警護などという俗な言葉で片付けるな。私が君に頼みたいのは、立会人だ。これから行われる神聖な儀式の、唯一の証人になってもらいたいのだよ」
 芦田は立ち上がり、よろめくような足取りで羽生に近づいた。酒と、防腐剤のような独特の甘い香りが漂ってくる。
「見せてやろう。私が手に入れた、究極の眼球を」
 芦田に導かれ、羽生はさらに奥へと進んだ。
 廊下の突き当たりにある扉の前で、芦田は立ち止まった。そこは屋敷の増築部分にあたり、南側に張り出したサンルームへと続いている。
 芦田が震える手で鍵を開けると、むせ返るような熱気が奔流となって押し寄せてきた。
 
 そこは、硝子の檻だった。
 四方の壁はおろか、天井までもが強化硝子で組まれている。冬の低い太陽光が、硝子のレンズ効果によって集約され、室内は温室どころか灼熱の様相を呈していた。
 部屋の中央に、黒檀の台座が置かれている。
 そしてその上に、それはあった。
 『深海魚の金色の眼球』。
 直径五センチほどの球体は、一見すると純金で鋳造されたかのように見えた。だが、金属特有の冷たさはなく、どこか粘度を感じさせる艶めかしい光沢を帯びている。表面には微細な血管のような模様が走っており、見る角度によってその表情を変える。
 羽生は息を呑んだ。それは確かに美しかったが、同時に言い知れぬ禍々しさを孕んでいた。
「……これは、金ですか?」
「金であり、金ではない。これは深海の底、光の届かぬ世界で進化した、未知の生物の眼球だ。あるいは、錬金術の到達点かもしれない」
 芦田はうっとりとその球体を撫でた。その指先が触れると、球体はまるで体温に反応するかのように、一瞬だけ濡れたような輝きを増したように見えた。
「私はね、羽生君。この美しさが永遠であるなどとは思っていない。形あるものは、すべて崩れ去る。だが、その崩壊の瞬間にこそ、真の美が宿るのだ」
 芦田の言葉は、羽生には理解不能な世迷い言にしか聞こえなかった。だが、依頼主の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「それで、私は何をすれば?」
「この部屋には、入り口が一つしかない。窓はすべて嵌め殺しだ。これから私は、この部屋で一人、この『目』と対話をする。君には、この扉の外に立ち、決して誰も近づけないように見張っていてほしい」
 芦田は懐から、重厚な真鍮製の鍵を取り出し、羽生に押し付けた。
「私が中に入ったら、外から鍵をかけたまえ。そして、私が声をかけるまで、何があっても開けてはならない。たとえ、天変地異が起きようともだ」
 羽生は困惑しながらも、その鍵を受け取った。
 ずっしりとした金属の重みが、掌に食い込む。
 芦田はサンルームの中へと入り、中央の安楽椅子に腰を下ろした。彼と金色の眼球の間には、遮るものは何もない。硝子越しに差し込む西日が、室内の温度をさらに上昇させていくのが肌で感じられた。
 
「では、頼んだぞ」
 扉が閉ざされた。
 羽生は言われた通り、外側から鍵穴に鍵を差し込み、二回まわした。カチリ、カチリと硬質な音が響き、密室が完成する。
 
 羽生は扉の前に立ち尽くした。
 廊下は静寂に包まれている。唯一の音は、自分の呼吸音と、遠くで鳴る空調の低い唸りだけだ。
 彼は手持ち無沙汰になり、肩にかけていた鞄からステンレス製の水筒を取り出した。中には氷水が入っている。この屋敷の異常な暑さに、喉が渇いていたのだ。
 一口含むと、冷気が食道を駆け下りていく。羽生は一息つくと、読みかけの週刊誌を取り出し、パラパラと捲り始めた。
 廊下には装飾用の大理石の台座があったが、その上には高価そうな壺が置かれており、水筒を置くスペースはなかった。羽生は仕方なく、水筒を足元の絨毯の上に置いた。
 
 ふかふかとした深紅の絨毯に、銀色の水筒が沈み込む。
 その場所は、サンルームへと続く扉の蝶番のすぐ脇だった。
 羽生は気付いていなかった。
 扉の下、わずか数ミリの隙間から、サンルーム内の熱気が、見えない蛇のように這い出してきていることに。
 そして、その熱気が、冷え切った水筒の表面に触れ、無数の結露を生み出し始めていることに。
 
 扉の向こうでは、芦田が恍惚の表情で「目」を見つめていた。
 室温はすでに四十度を超えようとしている。
 金色の球体の表面に、汗のような微かな水滴——いや、油滴が浮かび上がった。
 固形物が、その輪郭を保てなくなる境界線。
 融点という名の死刑宣告が、静かに、しかし確実に迫っていた。
 
 羽生は時計を見た。午後三時十分。
 まだ十分しか経っていない。
 だが、この静寂は、嵐の前のそれとは違う。もっと粘着質で、逃れられない運命の重みを含んだ静寂だった。
 廊下の壁に掛けられた剥製たちが、ガラス玉の瞳で羽生を見下ろしている。
 「お前も見ているのか」と、彼らが嘲笑っているような気がして、羽生は身震いをした。
 彼はまだ知らない。
 自分が今、ただの警備員ではなく、狂気が描く幾何学模様の一部、その最も重要な一点として配置されていることを。

第二章 灼熱の檻

 時間は、蜂蜜のように重く、緩慢に流れていた。
 羽生慎吾は、サンルームへと続く重厚な樫の扉の前に立ち尽くしていた。背後の廊下には、死した獣たちの剥製が沈黙を守り、ただ硝子玉の瞳だけが、この孤独な番人を冷ややかに観察している。
 腕時計の秒針が、カチ、カチと無機質な音を刻むたびに、羽生の神経はやすりで削られるように磨り減っていった。
 十分が経過した。
 扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。芦田が息をしているのか、あるいはあの奇怪な「金色の眼球」に見入ったまま石像と化してしまったのか、羽生には知る由もなかった。ただ、扉の木目を透かして、異様な「圧」だけが伝わってくる。
 羽生は不快な汗を拭った。
 空調が効いているはずの廊下だが、この扉の周辺だけは別世界のように暑い。扉の下、床とのわずかな隙間から、熱気が陽炎のように漏れ出し、羽生の足元を舐めていた。
 それは単なる暖房の熱ではない。冬の低い太陽光を一点に集め、逃げ場を失った光エネルギーが飽和し、空気そのものを焦がしているような、暴力的で濃密な熱波だった。
 喉が渇く。
 羽生は足元に置いたステンレスの水筒に視線を落とした。
 絨毯の上に置かれた銀色の筒は、この灼熱の廊下において唯一の「冷点」だった。内部の氷水が周囲の熱気を冷やし、表面にはびっしりと結露が浮かんでいる。大粒の水滴が、まるで冷や汗のようにステンレスの肌を伝い落ち、深紅の絨毯へと吸い込まれていく。
 ポタリ、ポタリ。
 水滴が落ちるたびに、毛足の長い絨毯はそれを貪欲に飲み込み、湿った染みを広げていた。
 羽生は何気なくその染みを見つめた。
 奇妙なことに、水筒から落ちた水は、単に真下へ染み込むだけでなく、扉の方角——つまり熱源の方へ向かって、絨毯の繊維を伝うように微かに滲んでいるように見えた。
 毛細管現象か、あるいは床の微妙な傾斜か。
 羽生はそれを深く考えることなく、再び視線を扉へと戻した。彼の認識の外側で、物理法則は静かに、しかし致命的な仕事を進めていた。熱せられた空気は膨張し、冷えた場所へと逃げ場を求める。そして、扉の向こう側で形を失いつつある「何か」もまた、その熱の流れに乗って、繊維の森を移動し始めていたのだ。
 二十分が経過した。
 羽生は、扉の向こうから、微かな音が聞こえたような気がして耳をそばだてた。
 ピシッ。
 それは、硬いものが熱で膨張し、限界を迎えて爆ぜるような音だった。あるいは、ガラスが鳴いたのか。
 続いて、ドロリ、という粘着質な幻聴が脳裏をよぎる。実際に音がしたわけではない。だが、扉の隙間から漂ってくる匂いが、変化していた。
 先ほどまでの防腐剤の匂いに混じって、どこか甘く、焦げ付いたような、そして金属が錆びた時のような鉄錆の臭気が鼻孔を突いたのだ。
 それはかつて、羽生が町工場で嗅いだことのある、半田ごてで溶かされた松脂と鉛の匂いにも似ていた。
 芦田は何をしているのだろうか。
 「神聖な儀式」と彼は言った。あの中で、あの金色の眼球を前に、彼は一体どんな祈りを捧げているというのか。
 羽生は週刊誌を読むのを諦め、水筒を手に取ろうと屈み込んだ。
 その時だ。
 指先が水筒の側面に触れようとした瞬間、彼は違和感を覚えた。
 水筒の底が、絨毯に「吸い付いて」いたのだ。
 単に重みで沈んでいるのではない。何かしらの粘性を持った液体が、水筒の底と絨毯の繊維を接着剤のように繋ぎ止めているような感触。
 (……なんだ? こぼしたジュースが乾いたのか?)
 羽生は力を込めて水筒を引き剥がした。
 バリッ、という微かな音と共に、水筒は絨毯から離れた。底を見ようとしたが、薄暗い廊下ではよく見えない。ただ、指先に触れた絨毯の毛先が、冷たく、そして硬く固まっているのがわかった。
 結露した水が凍ったわけがない。ならば、これは何だ?
 羽生の背筋に、冷たいものが走った。物理的な冷気ではなく、得体の知れない現象への直感的な忌避感だった。
 その時、静寂が破られた。
「ああっ! ああ……逝ってしまった!」
 扉の向こうから、芦田の絶叫が轟いた。
 それは助けを求める悲鳴ではなかった。愛する者が息を引き取った瞬間の慟哭か、あるいは、あまりにも美しい奇蹟を目の当たりにして正気を失った信徒の賛美歌か。歓喜と絶望が綯い交ぜになった、魂の叫びだった。
「芦田さん!?」
 羽生は水筒を放り出し、扉に駆け寄った。
「どうしました! 開けますか!?」
「消えた! 溶けた! 光になった! ……ああ、何という残酷な純粋さだ!」
 芦田の声は、もはや会話として成立していなかった。ただのうめき声、あるいは笑い声に変わっていく。
 緊急事態だ。
 羽生はポケットから鍵を取り出した。手汗で滑る指を叱咤し、鍵穴に差し込む。
 金属同士が擦れ合う音が、やけに大きく響いた。
 ガチャリ。解錠の音がする。
 羽生はノブを回し、勢いよく扉を押し開けた。
 ドッ!
 開かれた隙間から、爆風のような熱気が噴き出した。
 羽生は思わず顔を背けた。それはサウナの扉を開けた時のような、息苦しいほどの湿気と熱量だった。
 目が慣れるのを待って、羽生は室内へと踏み込んだ。
 そこは、光の洪水だった。
 西日が強化ガラスの壁と天井を透過し、室内を黄金色に染め上げている。あまりの眩しさに、羽生は目を細めた。
 そして、その光の中心に、芦田がいた。
 彼は部屋の隅、ガラス壁に張り付くようにしてへたり込み、両手で顔を覆って震えていた。
 羽生の視線は、部屋の中央へと走った。
 黒檀の台座。
 三十分前、確かにそこに鎮座していたはずの『深海魚の金色の眼球』。
 
 ない。
 跡形もなく、消え失せていた。
「……芦田さん、眼球は? どこへやったのですか」
 羽生は部屋を見渡した。隠せる場所などない。家具は台座と安楽椅子のみ。床は継ぎ目のない石材で、カーペットすら敷かれていない。
 芦田は顔を覆った指の隙間から、狂気に満ちた目を覗かせた。
「どこへもやっていない……。あれは、昇天したのだ。この熱と、光の中で、自らの質量を捨て去り、概念へと還っていったのだよ」
「そんな馬鹿な。盗まれたのですか? 誰かが入ってきたのですか?」
「誰もいない! ここには私と、あれしかいなかった! 私は見ていたんだ、あれが……あの美しい金色の瞳が、とろりと輪郭を崩し、滴り落ちることもなく、空中の光粒子と混ざり合って霧散していくのを!」
 羽生は台座に駆け寄った。
 黒檀の表面には、傷一つない。埃一つない。
 眼球があった場所には、微かな油染みのような痕跡すらなかった。完全に、ドライな状態で、物体だけが消失していた。
 (あり得ない……)
 羽生は混乱した頭で、物理的な可能性を検索した。
 窓はすべて嵌め殺し。割られた形跡はない。
 唯一の出入り口である扉の鍵は、ずっと自分が持っていた。
 芦田が隠し持っている? 彼の薄手のシャツとスラックスには、直径五センチの球体を隠せるような膨らみはない。それに、彼は一度も台座から動いていなかったと主張している。
 
 羽生は台座の表面に触れてみた。
 熱い。火傷しそうなほど熱せられている。
 「……溶けた、と言いましたね。もし溶けたのなら、液体となって床に流れているはずだ」
 羽生は床を這いつくばるようにして調べた。
 だが、石材の床には一滴の液体も落ちていない。台座の脚にも、液垂れの跡はない。
 固体が気体に昇華したとでもいうのか? 金が?
 
 ふと、羽生は扉の方を振り返った。
 開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下に、深紅の絨毯が見える。
 そこには、彼が放り出したステンレスの水筒が転がっていた。
 サンルームからの強烈な西日が、廊下へと長く影を伸ばし、その光の先が偶然にも水筒の底を照らし出した。
 キラリ。
 羽生は目を疑った。
 転がった水筒の底、銀色のステンレスの縁に、何かが付着していた。
 それは微量だったが、西日を受けて鋭く輝く、金色の粒子のようだった。
 泥ではない。錆でもない。
 それは、この世ならざる輝きを放つ、黄金の欠片に見えた。
 「……まさか」
 羽生の脳裏に、先ほどの違和感が蘇る。
 水筒が絨毯に張り付いていた感触。
 扉の下の隙間から漏れ出ていた熱気。
 そして、芦田の言葉。「滴り落ちることもなく、消えた」。
 芦田はまだ、部屋の隅で「素晴らしい、素晴らしい」と譫言のように繰り返している。
 羽生は背筋が凍りつくのを感じた。
 眼球は消えたのではない。
 形を変え、姿を変え、この密室の物理的な隙間——熱と繊維と重力の法則を利用して、扉の下を潜り抜け、外にいた自分の足元へと「移動」してきたのではないか。
 もしそうなら、自分はずっと、消失トリックの片棒を担がされていたことになる。
 冷えた水筒という、凝固のための触媒として。
 羽生は震える手で、ポケットの中の携帯電話を掴んだ。警察を呼ばなければならない。だが、警察に何と説明すればいい?
 『密室から黄金の眼球が蒸発し、その死骸が私の水筒に憑依しました』とでも言うのか。
 
 熱帯のようなサンルームの中で、羽生だけが極寒の恐怖に晒されていた。
 無数の剥製の視線が、廊下の奥から彼を嘲笑っている。
 お前も共犯者だ、と。

第三章 幻影の書庫

 深い深い緑の影が、西日に長く伸びていた。
 都市の喧騒から切り離された路地裏、そのどん詰まりに、古書店『幻影洞』はひっそりと口を開けている。看板は煤けて文字が読めず、硝子戸の奥は常に薄暗い。そこは現世の時間から見放された、知識の墓場のような場所だった。
 羽生慎吾は、重い足取りでその敷居を跨いだ。
 コートには冬の冷気が染み付いていたが、それ以上に彼の顔色を蒼白にさせているのは、三日前に体験した悪夢のような記憶だった。
 店内の奥まった一角、琥珀色の光がわずかに差し込む机に向かい、店主の真宮鴉(まみやからす)は静かに座っていた。彼は古い天文書の頁を捲る指を止めず、顔も上げずに客人を迎えた。
「……死人のような足音だね、羽生君。厄介ごとかい」
 その声は、埃っぽい店内の空気によく馴染む、低く、乾いた響きを持っていた。
 羽生は返事をする余裕もなく、真宮の前の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
「真宮さん、どうか知恵を貸してほしい。物理的にはあり得ないことが起きたんだ。いや、あり得ないというよりは、私の目が、私自身の正気を疑っていると言ったほうが正しいかもしれない」
 羽生は震える手で、鞄の中からステンレスの水筒を取り出し、机の上にドンと置いた。
 その底には、乾いた金色の汚れが、毒々しい痣のようにこびり付いている。
「三日前、芦田財閥の屋敷で起きた『消失事件』。新聞にも載っていないが、君の耳には入っているだろう」
「ああ。芦田の変人が、秘蔵のコレクションを失って発狂したという噂ならね。だが、警察は被害届を受理しなかったそうじゃないか。『盗まれたものは何もない』と本人が主張したからだとか」
「……その通りです。警察は、芦田氏の妄言として処理しました。密室から黄金の眼球が消えたなど、誰も信じなかった。しかし、私は見たんです。確かにそこにあったものが、陽炎のように消え失せるのを」
 羽生は、あの灼熱のサンルームでの出来事を語り始めた。
 完全なる密室。唯一の出入り口を守る自分。灼熱の室温と、芦田の絶叫。そして、跡形もなく消え失せた『金色の眼球』。
 真宮は言葉を挟まず、静かに聴いていた。机の上に置かれた紅茶が冷め、表面に微かな膜が張っている。真宮はその膜を銀のスプーンの先で突つき、壊した。壊された膜は、琥珀色の液体の上で不規則な模様を描き、やがて消えていく。
「……それで、君はこの水筒の汚れが、その『眼球』の成れの果てだと言うのかね」
 真宮はようやく顔を上げ、水筒を手に取った。細長い指が、底に付着した金色の粒子をなぞる。
「ええ。私はそう確信しています。ですが、理屈が通らない。あの部屋は密室でした。扉の下には数ミリの隙間がありましたが、眼球は直径五センチの球体です。転がり出ることは不可能です。それに、もし溶けて液体になったのだとしても、なぜ床を濡らすことなく、数メートルも離れた私の水筒にピンポイントで移動できたのですか?」
 羽生は、この三日間、不眠不休で考え続けた自説をまくし立てた。
「あれは、生き物だったんですよ。芦田氏が言っていた通り、深海で進化した未知の生命体だった。熱に反応して気化し、ガスとなって隙間を抜け、冷たい場所を求めて私の水筒に凝結した……そう考えるしかありません。あるいは、芦田氏が黒魔術的な儀式を行い、物質転送を行ったか」
 羽生の目は血走り、憔悴の色が濃かった。未知への恐怖が、彼の論理的思考を食い荒らしている。
 真宮はため息交じりに水筒を置き、背後の書棚から一冊の分厚い書物を取り出した。
「気化、ガス、黒魔術。……面白いが、君らしくもない飛躍だ。恐怖は人間の想像力を逞しくするが、同時に眼を曇らせる」
 真宮が開いたページには、複雑な化学式と、金属の結晶構造図が描かれていた。
「羽生君。君は『見た』と言ったが、本当に見ていたのか? 君が見ていたのは、『金色の眼球』というラベルを貼られた情報であって、その物質の本質ではなかったのではないか」
 真宮は立ち上がり、店の隅にある実験用の小さな流し台へと歩み寄った。
「君の言う通り、金(ゴールド)は融点が千度を超える。あの程度のサンルームの熱で溶けるはずがないし、気化など論外だ。だが、もしあれが『金』に見せかけた別の物質だったとしたらどうだ?」
「別の物質……? ですが、あの輝きは間違いなく金でした。それに、仮に溶ける素材だったとしても、液体が意思を持って移動するなんてあり得ない」
「意思などない。あるのは物理法則だけだ。水が高いところから低いところへ流れるのに、意思が必要かね?」
 真宮はビーカーに水を入れ、そこに一本の細いガラス管を差し込んだ。水面が管の中を吸い上げられるように上昇していく。
「毛細管現象。君も理科の授業で習ったはずだ。液体は、狭い隙間や繊維の中を、重力に逆らってでも進むことができる。特に、濡れ性の高い液体と、それに適した素材があればね」
 真宮の視線が、羽生の足元に向けられた。
「君は言ったね。廊下には、毛足の長い、深紅の絨毯が敷き詰められていたと。そして君は、水筒を『扉の蝶番の近く』に置いていたと」
 羽生はハッとした。
「絨毯……。まさか、あの絨毯が、道になったと言うのですか?」
「その絨毯は、扉の内側——サンルームの中まで続いていたかね?」
「いえ、サンルームの床は石材でした。絨毯は扉の敷居までです。……ああ、でも待ってください。扉の下の隙間から、絨毯の毛先が少しだけ、内側にはみ出していたかもしれません。あの部屋は、内側から圧力がかかっていたから」
 真宮は満足げに頷いた。
「道は繋がっていたわけだ。だが、それだけでは足りない。液体を誘導する『引力』が必要だ。それが、君の水筒だよ」
 真宮は冷めきった紅茶を、ビーカーの中に一滴垂らした。琥珀色の雫は、水の中でゆっくりと拡散していく。
「熱力学の第二法則。熱は高い方から低い方へと流れる。そして、ある種の合金は、温度差によってその表面張力を劇的に変化させる。……羽生君、君は芦田という男の狂気を『黒魔術』だと思ったようだが、彼はもっと冷徹な、サイエンスの信奉者だよ。彼が愛したのは、神秘ではなく、計算され尽くした『崩壊の物理学』だ」
 羽生は呆然と水筒を見つめた。
 自分の持ち物が、単なる飲み物の容器ではなく、物理トリックの最重要パーツとして利用されていたという事実に、吐き気を催した。
「じゃあ、私は……私は、彼のアートのために、知らず知らずのうちに共犯者にさせられていたというのか」
「共犯者であり、最後の受け皿だ。彼の手元に残ったのは『消失』という概念だけ。そして物質としての残骸は、君という外部の観測者が持ち去った。……完璧だと思わないか? 彼は神になり、君は聖遺物の運搬人になった」
 真宮の言葉は、冷酷なまでに美しく響いた。
 だが、羽生にはまだ納得できないことがあった。
「理屈は……なんとなく分かりました。でも、なぜ『金』が溶けるんです? あれは確かに金属の光沢を持っていました。蝋や氷ならともかく」
「そこが、このトリックの最も悪趣味で、美しいところさ」
 真宮は実験台の引き出しから、小さな金属片を取り出した。銀色に鈍く光るその欠片を、彼は掌に乗せた。
 すると、どうだろう。
 真宮の体温に触れた瞬間、その金属片は見る見るうちに輪郭を崩し、水銀のようにドロリとした液体へと変化したのだ。
「ガリウム、あるいはウッドメタル。融点の低い金属はいくらでもある。だが、芦田が使ったのはもっと特殊な配合だろう。黄金色に見せるための着色、粘度の調整。……彼は、その『眼球』を作るためだけに、莫大な財と時間を費やしたはずだ」
 真宮は液体になった金属を、再びガラスの皿に戻した。皿の上で冷やされた金属は、瞬く間に凝固し、元の硬質な塊へと戻っていく。
「見るがいい。これが『金色の目』の正体だ。熱せられれば涙のように流れ、冷やされれば石のように固まる。この性質を利用して、彼は密室からの脱出劇を演出し、君の水筒の底にへばりついたのだよ」
 羽生は戦慄した。
 魔法でも超常現象でもない。そこにあるのは、冷徹な物質の特性だけだった。
 だが、それが人間の狂気によって組み上げられた時、幽霊よりも恐ろしい「奇蹟」が生まれるのだ。
「真宮さん。……これを、どうすればいいのですか。警察に届けるべきですか」
 羽生の問いに、真宮は古書を閉じた。バサリ、という音が、重苦しい沈黙を断ち切る。
「警察? 彼らがこの科学実験を理解し、芦田を罪に問えるとでも思うのかね? 盗難は成立しない。器物損壊も、自分の物を壊しただけだ。彼に残された罪があるとすれば、それは君の心に、消えない『金色の染み』を残したことくらいだろう」
 真宮は琥珀色の瞳で、羽生を射抜いた。
「だが、謎はまだ半分しか解けていない。物理的な『ハウダニット(いかにして)』はこれでおしまいだ。問題は『ホワイダニット(なぜ)』だ。……なぜ彼は、ただ溶かすだけでなく、あのような絶叫を上げたのか。君が聞いた叫び声の意味を、解き明かさねばならない」
 幻影洞の奥で、真宮の目が怪しく光った。
 物理の霧が晴れた後に残るのは、より深く、ドロドロとした人間の闇だった。

第四章 融解する境界

 実験用のガラス皿の上で、銀色の金属片は再び冷たく硬い沈黙を取り戻していた。
 先ほどまで水銀のように蠢き、生きているかのように振る舞っていた物質は、いまや単なる無機質な塊に過ぎない。熱を奪われた物質は死に絶え、そこには魔法の残り香すらなかった。
 真宮は、その冷えた金属の骸を指先で弾いた。チン、という硬質な音が、古書店『幻影洞』の薄闇に波紋のように広がる。
「……見てごらん、羽生君。これが『境界』の音だ」
 真宮の声は、古い詩編を朗読するように静かで、深い響きを帯びていた。彼は羽生に向かってではなく、虚空に浮かぶ見えない天秤に向かって語りかけているようだった。
「僕たちは普段、世界を固形物という名のレンガで区切って安心している。壁は壁、床は床、宝石は宝石だとね。だが、ひとたび熱というエネルギーが臨界を超えれば、その境界はあえなく融解する。固体は液体へ、液体は気体へ。形あるものはその輪郭を捨て、隣り合う世界へと浸食を開始する」
 真宮は立ち上がり、書架の影から古びた地球儀を回した。
「芦田という男が魅せられたのは、黄金そのものではない。彼が愛したのは『流転』だ。絶対的な価値を持つはずの黄金が、熱によってその尊厳を失い、ドロドロとした俗物へと堕ちていく……その背徳的なプロセスそのものだよ」
 羽生は、喉の奥が乾くのを感じた。
 真宮の言葉が、脳裏に焼き付いているあのサンルームの光景を、まったく別の色で塗り替えていく。
「想像してごらん。あの硝子の檻の中で起きたことを。……室温が上がり、世界が歪み始める。黒檀の台座に置かれた『金色の眼球』は、耐えきれないほどの熱を帯び、内側から悲鳴を上げたはずだ」
 真宮の瞳が、琥珀色の光を孕んで怪しく揺らめいた。
「それは、深海魚が流す涙のように。
 あるいは、傷口から溢れる黄金の血のように。
 球体という完璧な幾何学図形を保てなくなった『目』は、自らの重みに負けて崩れ落ちた。ポタリ、ポタリと。台座の上で溶けた黄金は、逃げ場を求めて彷徨う獣となる」
 羽生は幻視した。
 灼熱の陽光の中、台座の上で身悶えし、形を失っていく眼球の姿を。それはもはや物質ではなく、苦悶する魂の具現化に見えた。
「でも、台座には跡がなかった……。液体なら、台座を伝って床に落ちるはずでしょう?」
「重力だけが道ではないよ」
 真宮は、羽生の水筒を指差した。
「水は低きに流れるが、渇望は障害を乗り越える。……芦田は、台座の表面に微細な溝を、あるいは撥水ならぬ『撥油』の加工を施していただろう。溶け出した黄金は、一滴も残らず台座の脚を伝い、床へと降りる。だが、そこで止まればただの染みだ。彼は、その黄金に『足』を与えた」
 真宮は床に敷かれたペルシャ絨毯の端を靴先で撫でた。
「毛細管現象という言葉は、あまりに無粋だね。こう言い換えよう。……『乾いた喉』だ。
 扉の下まで続く深紅の絨毯。その無数の繊維一本一本が、渇ききった喉となって、流れ落ちてきた黄金の雫を待ち構えていた。熱せられた液体は、繊維の森を吸い上げられ、貪るように広がり、扉という物理的な境界を、音もなく潜り抜けたのだ」
 羽生の背筋が粟立った。
 自分の足元にあった絨毯。あのふかふかとした感触。あれはただの床材ではなく、黄金を運ぶための無数のストロー、あるいは血管だったのだ。
「そして、その血管の先には、何があったかな?」
 真宮の視線が、羽生の足元にある水筒へと滑る。
「灼熱の砂漠における、唯一のオアシス。
 極限まで冷やされた、銀色の湖。
 熱に浮かされ、形を失って彷徨っていた黄金の魂は、君の水筒が放つ冷気という甘い香りに誘われた。吸い寄せられ、触れ、そして……永遠の安息を得た」
 真宮は両手を広げ、演劇の幕引きのように語った。
「急激な冷却。
 熱を奪われた黄金は、その流動性を瞬時に失う。
 液体から固体への、強制的な回帰だ。
 それは、君の水筒の底に張り付き、同化し、冷たい金属の一部となって、その旅を終えた。
 ……密室からの消失ではない。これは『転生』だよ、羽生君。
 聖なる台座にあった神の目は、ドロドロの欲望となって床を這い、君という無垢な器の底に、醜い痣となって再生したのだ」
 羽生は、自分の水筒を凝視した。
 底にへばりついた、乾いた金色の汚れ。
 あれは、単なる化学物質の凝固ではなかった。
 あれは、かつて「眼球」だったものの死骸であり、同時に、芦田の狂気が物理法則という乗り物を使って、壁を越えてきた証拠だった。
「私は……私は、彼のアートの、ゴミ捨て場にされたというのか」
 羽生の声が震えた。
「ゴミ捨て場であり、墓場だね」
 真宮は淡々と言った。
「だが、君はまだ気づいていないのか? なぜ彼が、あのような絶叫を上げたのかを。
 単に物が移動しただけなら、彼は満足して終わったはずだ。
 だが、彼は叫んだ。『逝ってしまった』と。
 それは成功の歓喜ではない。もっと根源的な、魂を抉られるような恐怖と喪失の叫びだったはずだ」
 真宮は羽生に近づき、その耳元で囁いた。
「物理の謎は解けた。だが、心の謎はまだ闇の中だ。
 鏡だよ、羽生君。
 芦田の屋敷は、鏡と硝子でできていた。
 溶けゆく黄金が、最後に彼に見せたもの。……それは、彼自身の姿ではなかったか?」
 羽生はハッとした。
 あの日、扉を開けた瞬間の、光の洪水を思い出す。
 無限に反射する硝子の壁。
 その中で、黄金が溶け落ちていくとき、その光景はどのように歪み、どのように増幅されたのか。
「さあ、最後のピースを嵌めに行こうか。
 彼が見た『地獄』は、君の水筒の底ではなく、彼自身の網膜の裏側に焼き付いているはずだ」
 真宮は古書のページを閉じた。
 重い表紙が閉ざされる音が、まるで棺桶の蓋を閉める音のように、冷たく響き渡った。

第五章 黄金の呪縛

 古びた天文書が閉じられる音は、まるで裁判官が下す木槌の音のように、羽生の心臓を叩いた。
 机の上に残されたのは、冷めきった紅茶と、底に金色の汚辱を纏ったステンレスの水筒だけだ。
 羽生は、喉から絞り出すように声を上げた。
「……鏡、ですか」
 真宮鴉は、椅子の背に深くもたれかかり、天井の染みを眺めるような遠い目をしている。
「そうだ。あのサンルームは、四方だけでなく天井までもが強化硝子で構成されていた。君は外から見て『光の洪水』だと感じただろうが、中にいた彼にとっては、そこは無限に増殖する『自己』の檻だったはずだ」
 真宮は細長い指を組み、言葉を紡ぐ。
「室温が上昇し、台座の上の『金色の目』がその輪郭を失い始めたとき、何が起きたと思う? 完全な球体だった鏡面が、熱によって崩れ、歪み、不規則な曲面へと変化した。……それは、ただの金属が溶けたのではない。彼が覗き込んでいた世界そのものが、ドロドロに融解したのだ」
 羽生の脳裏に、芦田の屋敷の光景が蘇る。
 灼熱の部屋。中央の台座。そして、それを凝視する痩せた男。
 男は見ていたのだ。金色の瞳の中に映る、自分自身の顔を。
 だが、その瞳が涙のように流れ出した瞬間、映っていた自分の顔もまた、醜く引き伸ばされ、裂け、溶け落ちていったに違いない。
「ナルキッソスは水面に映る自分に恋をして、そのまま花になった。だが、芦田は違った。彼は、自分が愛した黄金の瞳の中に、崩れ落ちていく自分の醜悪な姿を見たのだ。……世界を支配していると思っていた自分が、実は物理法則という巨大な胃袋の中で消化されるだけの、哀れな肉塊に過ぎないと気づいてしまった」
 真宮の声が、低く、冷たく響く。
「彼が上げた叫びは、『眼球』を失った悲しみではない。自分という存在の輪郭(アイデンティティ)が、黄金と共に溶けて、床の染みとなり、君の水筒へと吸い込まれていく……その『自己消失』への根源的な恐怖だったのさ」
 羽生は、自分の水筒をまじまじと見つめた。
 底に張り付いた金色の乾いた汚れ。
 それは単なる金属ではない。芦田という男の、肥大化した自我の死骸だ。
 彼が「逝ってしまった」と叫んだのは、眼球のことではなく、正気を保っていた彼自身のことだったのだ。
「……救いようがないですね。彼は、自分で仕組んだトリックの演出効果によって、自分の精神を焼き尽くしてしまった」
「芸術とは往々にしてそういうものだ。作者をも食い殺す」
 真宮は立ち上がり、店の奥のカーテンを少しだけ開けた。
 外はもう日が落ち、路地裏には夜の帳が下りている。街灯の頼りない明かりが、アスファルトを濡らす冷たい雨を照らしていた。
「さて、羽生君。謎は解けた。君の水筒の底にあるのが、消えた『金色の目』の物理的な正体であり、芦田を発狂させた元凶だ。……どうするね? それを削り落として、綺麗な水筒に戻すかい?」
 羽生は水筒を手に取った。
 ずっしりと重い。中身は空のはずなのに、鉛でも入っているかのような錯覚を覚える。
 爪先で、金色の汚れをカリリと引っ掻いてみた。硬い。それはステンレスの地肌に食い込むように固着しており、簡単には剥がれそうになかった。
 いや、剥がしてはいけない気がした。
 もしこれを削り落としてしまえば、芦田の狂気は行き場を失い、再び亡霊となって自分を追いかけてくるような、そんな不吉な予感が背筋を走る。
「……いえ。このままにしておきます」
 羽生は呟いた。
「これは、私が背負うべき戒めなのかもしれません。他人の狂気を、ただの仕事として安易に覗き込んだ代償としての」
 真宮は、その答えを待っていたかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。それは嘲笑ではなく、同類を受け入れる共犯者の笑みだった。
「賢明だね。怪異というものは、否定すればするほど影を濃くする。いっそ認めてしまい、ポケットに入れて持ち歩く方が、御しやすいこともある」
 真宮は机の引き出しから、一枚の名刺を取り出し、羽生に差し出した。
 そこには『幻影洞』の文字と、電話番号だけが記されている。
「芦田氏は今頃、鉄格子のついた白い部屋で、何もない空間に『完璧な黄金』を幻視して幸せに暮らしているだろう。だが、世界には彼のような歪んだレンズを持った人間が、まだまだ潜んでいる」
 羽生は名刺を受け取った。その紙片は、古書と同じように古びた匂いがした。
「……また、こういうことが起きるとでも?」
「光あるところに影があるように、理(ことわり)あるところには必ず『裂け目』が生じる。君は今回、その裂け目を覗いてしまった。一度あちら側の深淵に触れた人間は、得てして、次の深淵を引き寄せるものだよ」
 真宮の瞳が、薄闇の中で怪しく輝いた。それは、芦田が持っていた義眼よりも深く、底知れない知性を宿していた。
「もしまた、君の常識では計り知れない何かが起きたら、ここへ来るといい。……僕はいつだって、死んだ星の軌道を計算しながら、退屈を持て余しているのだから」
 羽生は小さく会釈をし、水筒を鞄に仕舞った。
 鞄の底で、金色の目を持つ水筒が、ゴロリと寝返りを打ったような気がした。
 
 店を出ると、一月の夜風が頬を刺した。
 街の喧騒が遠くから聞こえる。車のクラクション、人々の笑い声、電車の通過音。
 それらは数時間前と同じ日常の音だったが、今の羽生には、まったく違った響きを持って聞こえた。
 ビルの窓ガラス、アスファルトの水溜まり、ショーウィンドウの鏡。
 街中のあらゆる反射するものが、一瞬だけ歪み、その奥に潜むドロドロとした狂気を見せつけてくるような錯覚。
 羽生はコートの襟を立て、鞄を強く抱きしめた。
 重い。
 だが、その重みだけが、今の彼を現実の世界に繋ぎ止める錨(いかり)だった。
 背後で、古書店の扉の鈴が、チリンと鳴った。
 振り返ると、幻影洞の看板は闇に溶け込み、そこにはただの古びた壁があるだけのように見えた。
 だが羽生は知っている。その壁の向こうに、琥珀色の光と、世界を解剖する探偵がいることを。
 羽生は歩き出した。
 金色の目を鞄に隠し、無数の視線が交錯する夜の街へと、深く沈んでいった。

【了】

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本当

人の気持ちがわからないから
手を振ることも
待つこともなく
ただ もう語らぬ人にのみ
薄い霧を焚いている

人の笑顔や行動が
異質な感情による痛みとなり
「知っている」本当の中へ
すぐにでも逃げ込み
くるまりたくなる
では
立っているのは何故かと
誰が聞くでもなく

手を振り 笑い
抱きしめ合いながら
駅を行く多数の人々へ
画面越しに聞く
うれしいですか?

人の気持ちがわからないから
言葉は一つとして
霧を超えない
本当と
話すのみかと

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レゾンデートル1/2

道に出ると 石につまづく
家に留まれば 茶碗が割れる
上に昇れば 忘れ物をし
下に降りれば 魚を焦がす

どこにいても 不吉である
強風に 植木鉢が飛ばされる
門の鍵をかけ忘れる
あげくに ゴミを出しそびれるだろう

私の人生は 半分である 
分けられたものである
それを享受してこそ 
この 不平不満の口を
閉じることができる
うるさい感情を 
なだめることができる

それを知ったのは 最近だ
それまでずっと もう半分は
苦しみ 痛み 嘆き続けていた

半分こそ 本分である
分け合っている

私が ちょっとましだと 
日々を感じたなら
そのとき半分は 

道につまづいている
何かを失くしている
忘れ物を探してる

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加筆済み:『かなしみについて』

 『あなたの精神的な傷口を教えてください。』

 わたしは、そう書きつけたメモを透明な立方体の貯金箱に貼り付けて、部屋から連れてきた小さい木椅子の上に置いて去った。アパートの玄関ドアの内側だから、居住者以外の迷惑になりにくいかと思ったが、わたしの考えは世間からすればかなりズレているのでアテにならない。

 しかし緊張のあまり、わたしはそれから5日ほど部屋から出られなくなくなった。

 6日めくらいに、エイヤッ!と意を決し、部屋を出て、木椅子の上を見に行った。
 すると、いつの間にか、そこには甘夏が一つ置かれ、甘夏1個50円と書かれたメモがそばに添えられていた。ヤイヤイ! わたしのきもちを踏み躙るな! と思ったが、わたしの感傷より、甘夏が木椅子に置かれている方が、よっぽど魅力的だったし、わたしはこういうエモがすきだった。

 50円をそこに置いて、甘夏を片手にわたしは階段を駆け上がり、ドキドキしながら、甘夏を家に迎えた。夜中、泣きたくなったので、甘夏を剥いて食べた。とてもこころがあたたかくなった。つめたいばかりの指先から、甘夏の香りがした。わたしはその香りを嗅ぎながら、眠りについた。

 翌朝、下に行くと、50円は回収されていて、代わりに、貯金箱に、小さな紙切れが入っていた。
『ここにあった三つの甘夏は、私の家族が育てました。私は、家族が育てて、送ってきたものを一つも食べずにここで売りました。これが私の傷です。』
 わたしは、ウッと苦しくなり、その紙切れを持って階段をあがり、2日寝込んだ。


 溜まったゴミを捨てるため、階段を降りた。木椅子の前を通る時、心臓がドクドクした。貯金箱には何かが入っていた。ゴミを捨て終え、わたしは貯金箱の中身を出した。避妊具と小さなメモ。

『これ使って一発やって、スッキリしな。解決方法それしかないでしょ!笑笑』
 わたしは、このひとの傷口をなんとか想像しようとした。無理だった。

 そのとき、ガン、とオートロックの扉が開き、掃除のおっちゃんが入ってきた。おっちゃんは、掃除が下手だが、愛想は抜群によかった。わたしは避妊具とメモをポケットへねじ込む。

 あらあら、おはよう。

 おっちゃんはいつもタメ口だった。挨拶を返すと、おっちゃんは、木椅子と、私の手にある貯金箱を見た。

「なんなんこれ?」

 彼は私の右手の貯金箱のメモを読んだ。

「ほ〜ん。おっちゃんもあとで入れよ。あんたも入れるんか?」

 わたしはその言葉に対し、曖昧に笑って、木椅子に貯金箱を置き、おっちゃんを残して階段を駆け上がった。部屋に入って心臓が落ち着くのを待った。

 夜になって、おっちゃんがもうお家でクソして寝たような時間に、わたしは貯金箱を見に行った。
 有言実行、おっちゃんは何かを入れていた。大きなチラシを何度か折って、貯金箱に捩じ込んだようで、取り出すのに一苦労した。取り出した紙の中身を読もうとしたとき、足に何かが触れた。

 黒い子猫だった。黄色い眼球だけが空中に浮いているみたいに見える。わたしは、おっちゃんのチラシをパタパタ振って、子猫と遊んだ。子猫は人懐こく、好奇心も強かった。

 しばらく遊んでいると、他の猫の声がして、子猫は導かれるかのように、しゅるしゅるとアパートのフェンスの下を通って出て行ってしまった。
 わたしが、フェンスから顔を出すと、親猫が子猫を咥えてこちらを見つめていた。手を振ってみたが、つまらなさそうに、背を向けて猫たちは行ってしまった。わたしは、彼らの姿が闇の中へ溶けてゆくのをただ見守り、おっちゃんのチラシのことなど忘れていた。

 わたしはそのまま部屋へ戻り、翌朝洗濯をし、おっちゃんのチラシを粉々にしてしまった。そのことに気づいて、ふとやめ時を感じた。

 わたしは、木椅子と空の貯金箱を回収し、自分が手にしたメモ類全てをライターで燃やした。わたしの胸には、正直ほとんど何も残らなかった。
 ただ、前ほどの悲しみがなくなっていることを同時に感じた。ああ、なんてあっけないのだろうと、洗濯の荒波を超えて生き残った避妊具を見つめたとき、わたしはそれほど悪い気分ではない。

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フィクションでした

 年末年始? 大掃除とおせち作りしてましたね。げんき? うーん、なんかパワーはあったかも。

 ……せんせい、わたし、前言ったことがありますよね。一昨年の5月に、とても大切なひとと別れたって。

 そうです。あの日は、なんだかハイになっちゃってて……。先生も、見学?にきてた若い先生もちょっとひいてましたよね。わたし、信じられないくらい饒舌で、ちょっと酔っ払ってるみたいだった。

 そのひとの話がどうしてもしたくなる。夜中じゃなくて、夜の11時くらいにね。そのひとと話したくなるんじゃないの、そのひとの話を誰かにして、ダーダー泣きたいのかも。泣くことはもうないんです。ほんとうに泣かなくなった。人間になったからかな。そのひとと離れるまでは、わたし、人間じゃなかったから。そのひとだけが、わたしに、人間をしなくていいんだって、言ってくれたのに、でもそのひとが去ったことで、うん、喪失したことで、初めてわたしは、なんというか……人間になれたんですよね。

 掃除機をまいにちかける、とか、マヨネーズは使い終わったら冷蔵庫にしまう、とか、必要なら収納用具を買う、とか、ゴミを週に二回決められた日に出す、とか、今日はクリスマスだからちょっといいごはんにするとか、そういうの、わたしなんにも知らなかった。今は料理も大好きだし、季節の行事とか、すごく大切にする。でも、それはやっぱり、あれ以来なんですよね。人間にならなくていいって言ってくれたひとを離れて初めて、わたしは人間になれたんです。


 でも、おせちつくってて、エビの旨煮を、つくってて、あ、そうエビの形を整える。ヒゲとか、尻尾とかを、きれいに。そのときに、なんか、すごく、急に泣きたくなって、ウッ、て、なったけど、鼻水がちょっと出て、それをキッチンペーパーで拭いて、おわりでした。キッチンペーパーは鼻水を拭くのには向いてないですよ。ちょっと鼻が痛かったな。

 エビもさ、こっちが泣きたいよーって感じかもね。でもわたしほんと、泣かなくなったから。ですよね、前はもっと泣いてましたよね。わたし、涙よりさきに、鼻水出ちゃうから、泣いてるのいつもバレちゃう。


 でさ、そのひと……フライパンになっちゃったの。そう。わたし、だから、フライパン使うの怖くて。全部鍋でね、料理してて。でもさ、お正月って、伊達巻は流石に……フライパンか、って。

 震えながら、フライパンを暗いとこから出してきて、そこに油を薄く敷いて、伸ばして、火をつけなきゃ。わたしバクバクしました。ああ、って。でも、伊達巻き作ることにもう頭がしはいされちゃってて、わたし、火をつけたんです。そうしたら、何にも起こらなくて。油はただ熱せられて、少し待って、溶き卵とはんぺんのどろどろを流し込んだとき、わたしが焼けました。あつくて、死ぬかと思いました。
 3年も経って、なんでこんなに、こうなんだろうって、わたしは焼けて、苦しい。

 伊達巻きはうまくできましたよ。巻き簀でぐるぐるするときに、でも、ああ、ひともこうだなって。こうやって、固めて焼いて、くるくるくるくる、って。

 そんでそれを食べて、生きてく。わたしは、昔から食べること嫌いだから、ほとんど実家に持ってったけど、でも、おせち上手く作れたんですよ。人間っぽくないですか? お正月におせちって。

 すいません。もう12分くらい話しちゃってますね。はい。じゃあまた来月きます。アハハ、はい。元気にいます。また、来月、ハイ。先生、ありがとうございます。今年も一年、よろしくおねがいしますね。はーい、では、失礼します。

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まっさらなさらさら

新しい チェックの もう一つ おろそう

最初の 三連休だし 気持ちよく すごす

わたしのきもちは たんすのなかから ね

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縒の夢/個間の栞

声/内声 結線された景色の手を取り
梯子の最終段を踏み外し
明け方の夢に 雪崩れ込む
体感にして僅か6秒の

おや すみ

寝間着の裏側には洗濯タグの表記のように 組成と いくつかの指示語のみ

声/註釈 栞の裏面に這う虫の 其々の出自を書き記す
公共性への帰依のポーズをとらねば

ALT
(並立する概念:ただしい悪夢,ただしい発狂,ただしい噴火)

映写室 または管制塔か
スクリーンを観る者の背面から 
覗く者の視点を借りて 観ている
ネックレス 眼鏡紐食い込む 顎の細い婦人による発話 デジャヴ
盲目のものに暗がりの昏さを 
相対的にしか説明ができないことの
もどかしさが 咀嚼不良のまま RAWに残る

声/音声 拡張子のみをmp4に書き換えられ
半身のデータを別次元に有している
連想配列に 歯抜けでしまわれ

声/幻聴 その不在性 記憶に結びついた副次情報に過ぎず それさえも 半睡のなかの幽けき音像 想像力の限局である

声/ 撚られゆく 外斜視者の生体感覚 
紐の両端と
キーフレームの二点に 収斂 これを背景情報に押しやる 覚醒の成立 差分は裏地に畳み込み
ALT
(ただしい対応,ただしい順応,ただしい抑圧,のうちの いずれか)

ペンダント 天井で垂れているスイッチの
端をつかみ 一段目に足を掛ける君
認知の此岸では ただしく 
束の噴火が観測された であろうか

おは よう

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せいいき

 修道女になろうと、数Ⅱの教科書と聖書を鞄に突っ込んで、わたしは教会に通っていた、

 教会ではコーヒーを出されて、わたしは戸惑う、コーヒーのあじをしらなかった、
 神父は、神とわたしを並列繋ぎするための、
    、(ガムシロップのようで)、
 それほど尊敬されてばかりではないのですよ、
 という言葉、そんけい、わたしそんなものは要りません、糞食らえです、
 と、クソ、にアクセントをつけて、神父はケタケタと笑って、グレーがかった目を細める、

 十年がたち、わたしはやはり修道女ではなく、夏季休暇中の数学の教師であり、
 実家にわずかに帰省することも厭わしく思う、オヤフコウ者だった、

 わたしはよくサウナにいき、オロポを飲む、
 コーヒーの味は、もう、覚えた、カフェインとは、教師の並走者なのだ、とわたしは思うが、同僚たちもみな同意するだろう、

 あらゆるひとと連れ立ってあゆみ、ときに私たちを背に負ってくださるのが、Jesus、

 と神父が言ったことを思い出す、ああ、そうだったか、聖書を開こうとして、自宅の本棚を漁る、

 やっとそれを見つけたとき、紙が一枚、かさり、と落ちる、

 そこには、理学部数学科へ進学を決めたわたしを送る会をささやかに開いてくれた日の、神父と、まだ化粧もしらない、わたしがぎこちなく笑っている、神父も写真が苦手だった、

 わたしは携帯でその名前を検索する、上京し、時のなかに信仰が流れ出していき、わたしは、意図的に避けてきた、

 記憶に取り巻かれている一瞬のうちに、ヒットする、ジョージ神父、帰国、日本のために60年余り、の記事、

 ああ、わたしのせいいきよ、
 わたしはすぐに、忘れてしまう、

「つらいことはありませんでしたか?」
「それは答えたくないしつもん」

 神父は笑ったが、わたしが聞きたかったのは、(目に見えないものを信じ続ける方法の、かいつまんだ要点、のことだった)

 記憶の中の神父は、いつも笑っている、

 ぎこちなく、満面の笑みで、皮肉くさく、心から、

 仔細の差はあれど、いつも笑っていた、神父よ、

 わたしのせいいきよ、
 わたしは、すぐに、忘れてしまう、

 ペンをとり、壁に貼ってあるメモへ、書きつけようとする、

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ゼロの地点

眩ゆい星々の歌声
清らかな清流の富有
凍てつく風の声色
ここは還るべき場所

生まれる前の
命を吹き込み
永遠に続く
始まりの終わり

私である意味を与え
終わりなき始まり
聖なる大地に
深く根を張り

揺らぎの中で
満たされ続けて
高揚の純潔を抱き
眠れるままに

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お天気占い

「おいしいね! 霙、このプリンパフェ!」

「うん、貴っ、あたしここのプリンパフェが一番好きよ……でもぉ、パフェより……貴が好き! 貴が一番好きよっ」

 1月下旬、夕暮れ迫る喫茶店でアイスクリームを溶かしちゃいそうな熱々カップルがここにいる。
 二人はお付き合いを始めてまだ半年。

 平日のせいかお客さんはまばらで、二人はのんびりくつろいでいる。

 ショートカットで毛先だけグリーンに染めているおしゃれな霙は28才のレディ。
 一方、地味目なムードでメガネをかけた貴は霙の恋人、27才の男性だ。

 今日は二人とも休日。回転寿司店で共に働く二人だ。

 東京暮らしの二人にはそれぞれ故郷がある。でも2025年~2026年の年越しは、貴の家にてカップルで過ごした。

 12月30日の夜、スーパーへ二人で行った。

「貴~! あたし天ぷらも揚げるし、おそば、湯がくからね。今年の年越しそば、カップ麺はやめてね、ウフフ」
 嬉しそうに年の瀬のムードを楽しんでいる霙。

 初めて恋人同士で迎える新年が待っている。

「まじで?! 嬉しいな~、じゃ、おそばは任せるね、霙」

「うん、うん」

――――ところが……。大晦日の夕方。

 ソファーにゴローンとやわらかい猫のように寝そべり、テレビをボーっと見ている霙。そばにあるローテーブルの上のスナック菓子に手を伸ばしてはムシャムシャ。
 なんだかダルそ~だ。無表情。

(ハー……。大晦日もいつものアレが顔を覗かせたか。仕方ない! これが霙だもんな)
 半ば呆れるようにしょんぼりする貴。

 遊園地でデートした時もそうだった。
 行きの車の中では「あたしメリーゴーランドに乗ってお姫様になるから、写真撮ってね! 貴っ」
 鼻歌を歌いながらはしゃいでいた霙は……ジェットコースターや観覧車などに乗った後、いざメリーゴーランドまで行くと突然「あたし疲れた。貴、乗りなよ。写真撮ってあげるから」と憂鬱な顔。

 かと思うとこんなこともあったぞ……。

「なに! 貴、またSNSでこの女の人としゃべってんの!?」
「ああ、ラジオ仲間だぜ?」
「フン! いやよ! 貴、この人と話すならもう嫌いだからね、あたしは貴を! フン! フン!」

 貴のパソコンをのぞき込み霙がそんなことを言い出したのだ。

「ンー。わかった、わかったよ! もう話さないから」

 そんな風に言っても向こうの部屋でふくれっ面。背中を向けたままの霙。
 なんとその霙の怒りは3日間も続いたので、ヤバいと思い貴は強行作戦に出た。

 なけなしのポケットマネーをはたき、霙がずっとずぅーっと欲しがっていた、けっこうなお値段の指輪を買ってあげたのだ。
 ちなみに霙は当初おねだりをした際、事前にちゃっかり指の太さをバッチリ糸で測り、サイズを貴に知らせていた。
 サプライズプレゼントを試みた貴。

 これが大成功だった。

「わーい! 貴、大好き。ラジオのお友だちならしゃべったら良いじゃな~い」だなんてうそぶいた。

 この半年間、霙に振り回され、時々豪雨のように泣きたくなる貴。
 でもお茶目な霙が好きだ。なんならお天気屋さんなところも好きで、更に振り回されたいかも。貴にはMっ気があるかもしれない。

 メリーゴーランドには恥ずかしがりながら乗ってスマホのカメラに手を振り……想定外に年越しそばを湯がき、てんぷらを一生懸命揚げ、ことあるごとにプレゼント大作戦で、お財布が2月上旬並みの寒さになる……。
 ため息でメガネを曇らせる貴だ。

 ある日、霙宅の合鍵を持っている貴が「来たよ~、霙ぇ」とアポなし訪問した。
 そういったことは、これまでも時々あることだった。

 霙の様子が何かおかしい。ギクッ! とした顔をしている。

 即座に彼女のノートパソコンをまじまじと見る貴。

 ななな、なんと! 霙がいわゆる『出会い系サイト』をみていたのだ。

「え……。なにこれ? 霙……。どういうこと?」

「あ、ああ……」

 貴は知っている。霙を愛しているから。霙が嘘をつけない正直者であることを。ごまかすのが下手なことも。

 しどろもどろで、うつむくだけの霙。

「なんでだよ?! オレがいるじゃん!」

 その雄たけびに触発されたかのように霙が火を噴いた。

「だって、貴ってさ、あたしの言いなりじゃん! つまんないっ」

「ハ?! オレは霙を愛してるから優しくしたいの! わかんないのっ?!」

「優しいだけだもん。𠮟ってもくれないし! 貴なんか大っ嫌い! ワ――――ッ!」

 霙は2月の寒空の下、泣きわめきながら飛び出して行った。

 すぐに外へ出ると空からみぞれが降ってきている。

(なんて足の速い女なんだ。どこ行っちゃったの、霙!)
 貴は霙への愛を、今一度思い知る。

 霙は風のように消えてしまった。


 翌日から霙は回転寿司店を無断欠勤し続けた。
 店長に尋ねると「こっちが聴きたいぐらいだよ! 霙ちゃん。電話に出ないし」と貴は言われた。

 毎日霙の家に通ったが、霙はいない。

 4日目の日中、貴は霙の実家に電話をした。

 すると霙の母親が電話に出た。

「貴君、本当に御免なさいね。霙が勝手な態度を取って。あの子は元気よ。ここにいるわ」

「え!?」

 霙は富山の実家に帰っていた。

「話したいです。霙さんと、お母さん」

「……。はい」

 そして電話口に霙が出た。

「霙! 霙?」

「貴……」

(ああ!)貴は安堵で涙が滲んだ。

「ごめんね、霙。オレのあの激しい口調はいけなかった。謝るよ」

「……ううん。良いの」

「霙、東京に帰って来てくれるの」

 霙は、しばらく考えるように黙っていた。

「うん」

 どうにかなりそうなほど嬉しい、霙にベタ惚れの貴。

「いつだい?」

「ンーと、あたし、湿気で髪の毛モジャモジャになるのやだから晴れたらね、バイバイ」
 ガチャッ。プー、プー、プー……。

(なんてオリジナリティに溢れた女なんだ! オレは、オレは……コイツが! 好きだ――――!)

 東京の天気予報を見ると……雪、雪、雨、雨のち曇り、雪、雨のち晴れ……。

 霙が貴のもとに帰るのは少し先になるみたい。


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イルミネーションとあなた 時間が止まるのが見えた

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あなたの果物


シャインマスカット 嬉しい
ショートケーキ すごくうれしい!

いちばん嬉しかったのは 駈けつけてくれた
ダーリン

お仕事とお仕事の合間に 王子様は
馬を走らせ 停まる時 馬 ヒューブルブルって言ったわ!

あたしが怖い気持ちになり
あたしが不安になったから
ダーリン 駈けつけてくれたの

ダーリンは、あたしがフルーツが好きじゃないことを知っている

「ビタミン」と言って袋をぶら下げていた いや
果物が好きじゃないこと 忘れているかも でもね、いいの

あたしを落ち着かせる、ほんの10分間のために
高速道路を使って 白馬に乗って来た

大切にされているお姫は 胸がいっぱい

ハッ……ダーリンがこの詩を見ているかもしれない

ブドウなら本当は好きよ
苺は酸っぱい顔をするけどクリームが助けてくれる
王子様はお姫様を助けてくれる

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象にお雑煮 ーー ごった煮 ーー

象にお雑煮 ―― ごった煮 ――


笛地静恵


あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます

二〇二六年

笛地静恵 


一 俳句


合鍵のひとつばかりを四十雀



女郎蜘蛛胴太し輪して動ぜず



船長の後生大事の胡椒船



人を見る目のことわりよ雪割草



寒牡丹女子の戦の開きけり



追討の七日も知らぬ姫椿



木枯しのカラス意外の村の墓地



雪女雨戸の穴をふさぐべし



二 短歌


ひとつの指輪はすべてを統べ結婚の中につなぎとめる



わが手には指輪なけれど老いの日はビルボのごとくうすくなりけり



キッチンへ指輪を流し青ざめる純情の日々われにありきや



またしてもさとうきび畑けがされざわわざわわざわざわざわわ




三 ジュニーク


溺れる魚つかむサメ(題:いや、それ、違うから)



スジを通せり筋子氏(題:尊敬)



河童は脱皿しました(題:自由)



満月孕む黒い森(題:独逸)



前のひとの黒いウンチ(題:がっかり、66で)



アメ色ヘ空き家の雨戸(題:廃村)



ねんねんころりねんごろに(題:こわい)



魔の好きなこころのすき間(題:風)



ひろった棒のホームラン(題:幸運)



円滑に円すべり落ち(題:経済)







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赤ちゃんホシイ

 
 瑠璃絵が賢児に出逢い、丸3年経っている。

(賢児……あなたのゴツゴツとした大きな手が好きよ)瞳を閉じ、瑠璃絵は切ない甘さを胸に抱く。

 賢児と瑠璃絵は一緒になれぬ運命だから。
(仕方ないよね……)鏡に向かって、まっ白な肌、長い髪の毛に見入る瑠璃絵。美しくあるよう余念がない。

 賢児は優しい。いつも。

 でも……賢児には恋人がいる。(あんな女、大嫌いよ)

 二人が手を繋ぎ歩いていたって、なんにも出来ない。瑠璃絵は、思いとどまる。振られたらみっともないだとか、そういう理由ではない。
 賢児を心底愛しているからだ。
 彼女と指を絡ませ歩く賢児はとても幸せそう。
 胸が痛いけれど、瑠璃絵は賢児の嬉しそうな笑顔に負ける。

 セカンドでも良い。愛してくれるなら。

                   *


 賢児の部屋で瑠璃絵は今、賢児に抱きしめられている。
「瑠璃絵……可愛いよ」
「……」こないだ、本命の恋人とイチャついているところを見たばかりの瑠璃絵は素直になれない。

 ガチャリ。
 いきなり、瑠璃絵と賢児のスウィートなひと時が繰り広げられているお部屋のドアが、あいた。

「賢児~!」

(あたしには見向きもしない! 気にしもしないで! あたしだけの賢児をっ! いけ好かない、本当にこの女! 今度ばかりは許さない!)

「ニャッ!」
「キャー! いったい! 痛ァ。瑠璃絵ちゃん、今日はごきげん斜めなのねっ。 爪で引っ掻いちゃ、メッだよ!?」

(にゃんこだからって、あたしにそんなことを言う。あたしは賢児に本気よっ?)

「どうした~、瑠璃絵。おいでおいでー」
(ほーら、賢児はあたしのほうを呼ぶわ! プンプン!)


 のちに瑠璃絵はお見合いをさせられたけど、「フ――――ッ! シャ――――!(ガリ! 猫パンチ)」といった具合で、オス猫はことごとく追い払われてしまった。

 未だに賢児は彼女と交際中だが(そんなの良いわっ、へっちゃらよ)

 今日も賢児にナデナデしてもらい、のどをゴロゴロ鳴らす瑠璃絵なのである。

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時間がピアスになる

短針と長針を
きみの腕から
ひきぬいて
針を耳朶に差し込んで、あそぶ。
人に知られたら
ちょっとまずい
この頃一分があまくて
苦しいの
火急の欲望に駆られて
わたしは喉を生む
少女の頃
うなじに刻んだ傷より
深くさりげない
白い蚯蚓ばれのような
あそばれてみたい
あなたに
秒針の針に
ちくり、と
やわらかく痛く
時間がピアスになる。

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掌編噺『フォレスト』

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょ?」

後ろから優しい声が聞こえる。
僕が振り返ると黒髪の女性がこちらを見ていた。
彼女が指差すのは、向こうに生い茂る黒い森。
僕はいつもこの道で彼女から声をかけられる。

 『……知らない人にはついていっちゃいけないって
 母さんから言われてるから行かない。 
 それに……あの森には魔女がいるって話を聞いたよ。』

僕は、相手を見つめながら早口で言った。

 「そっか、わかった。」

彼女は微笑むと、森の中へとゆっくり歩いていく。
僕の事は諦めたようだ。
その姿を見送ってから僕は森の横道を歩いて、学校へ向かった。

******

僕は母さんとふたり暮らしだ。
昔は父さんも一緒に住んでいたけれど五年前に出かけたっきり、それから帰ってこなかった。
それから母さんは僕に辛く当たるようになった。ブツブツと文句を言うだけならまだ可愛いもので、時には暴力を僕に振るった。

でも、学校から帰ってきた僕を見るなり母さんはいつも泣くんだ。
  
『ごめんね、ごめんね。 
 さっきは叩いたりしてごめんね。
 嫌いにならないで、ねえ嫌いにならないで。
 私にはあなただけしかいないの。
 どうか、どうか許してちょうだい。』

そう言いながら僕をぎゅっと抱きしめては、いつも涙を流して泣く。

だから、僕も母さんを優しく抱きしめて言うんだ。

 『分かってるよ、大丈夫。もうお腹が空いたから、はやくご飯にしよう。』

けれど、また別の日に母さんは同じように大騒ぎをする。そんな日々が繰り返された。

******

ある日、帰宅すると僕を見て母さんが呟いた。 
 
 『あなた、あの黒髪の女に会ったの?』

僕は何も言わず頷いた。
次の瞬間、頬に痛みが走った。
熱い、また叩かれたんだ。

 『あの女は魔女なの!悪い魔女なのよ!
 あの……あの女が父さんも連れていったのよ!』

母さんは狂ったように叫びながら、僕に暴力を振るった。
それは永遠に覚めない悪夢のようだった。

******

気がつくと朝になっていた。
母さんはもう出かけてしまったようだ。
ヒリヒリと痛む頬を擦りながら、僕は学校へ行くために森の横道を歩いていく。

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょう?」

まただ。後ろからまた優しい声がする。
振り返ると、今日も黒髪の女性が佇んでいた。
彼女の細長い指が差す方向には、魔女が住むという黒い森が━━━。

 ━━━━僕は考える。
母さんと黒髪の女性、魔女なのはどちらだろう?

僕はしばらく何も言わず彼女を見つめていた。
それから、微かに笑ってゆっくり手を差し出した。
それを見た女性も、笑って僕の手を握った。
それからふたりは何も喋らず歩いていく。
木々生い茂る森へ。黒い森の中へ。
ふたりは歩いていく。
周りでは、森の木々たちがザワザワと恐ろしげな音を立てていた。
吹き付ける風が沢山の枝を揺らしていた。
その音はまるで僕のことを、森の奥深くへ呼んでいるようだった。

そのままふたりは手を繋いで、深く暗い森の中へ消えていった。
その日から通学路を歩く少年の姿を見かけた人はいない。そして黒髪の女性もそれきり消えてしまった。
少年がそれからどうなったのか黒髪の女性はいったい誰だったのか……
もう誰も知ることはできない。

******
 
後日談としての話である。

少年が消え去った後、この森の周辺では独り言を呟いて彷徨う女性が現れるようになったという。
彼女は道を子供がひとりだけで歩いていると、けたたましい奇声を上げながら追いかけてくるらしい。

やがて人々は噂するようになった。
その女は黒い森に住んでいる恐ろしい魔女なのだ、と。

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眠り薬をください、わたしにも(連詩その1)


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心の奥に隠している 云えない謂れがあるんです

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たとえばわたしが空気だったら 
きっと誰もが吸い込んだ途端にむせ返るだろう

たとえばわたしが水だったら 
きっと誰もが口に含んだ瞬間に吐き出すだろう

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みーんな嘘つき

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なんで皆そんなにおしゃべりなの 
なんでそんなに自分のことばっかりしゃべってられるの 
ねぇちょっと わたしの話聞いてるの

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笑ったら 何故だかとめどもなく 
涙があふれてきた

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好きになるのは簡単 でも好きでい続けるのは難しいって 
愛はどうだで緒形拳さんが云ってた 
ほんとそれ

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愛とは喩えば水 
水を飲まなけりゃ人は死ぬ 
愛とは喩えば炊きたてのご飯 
食べなけりゃ人は死ぬ 
ただ水だけでは ただご飯だけでは栄養が足りない
塩気が欲しくなる 甘味が欲しくなる
辛味が欲しくなる 酸味が欲しくなる
時には苦味さえも
愛とはつまり そういうこと

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恋とか恋愛とか みんなよくあんなこと
頑張ってしてるなって思うよ

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生きるために無理やり胃に流し込むごはんほど 
美味しくないものはない

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人間用のクレ556ってないものかしら

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気がつけばいつもひとりぼっち

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思い当たる節がないっていうのは重症なんだろうか 
みんな去ってく 
何か気に食わないことしたのかな 
思い当たることなんてないはずなんだけどな 
黙っていなくならなくたっていいじゃないか

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解ってるよ 知ってる 
誰もわたしのことなんか好きにならないって 
ずっとそうだもん 
生まれたときからそうだもん 
そんなガッカリした顏しなくていいよ 
別にあなたが悪いって云ってるわけじゃないし

*****************************

ただ生きてるだけで ひとに嫌われる 
わたしの存在そのものがきっと 
ひとを苛つかせているのだろう 
仕方ない 仕方がないよ
最初からいらない子どもだったんだから

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悪いのは本当はぜんぶ わたしのほうだったのかもしれない

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お前なんか死んでしまえ、って云いたかったのは
本当は自分自身にだった

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嘘でもいいから たった一度だけでいいから 
好きだと言って

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多分いまギュってされたら 迷わず泣いちゃう自信あるよ

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いっそのこともう終わりにしてしまえたら 
どんなに楽かしれやしない

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ゴミ箱にさえ入れなかった思い

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誰の記憶の中にも存在していないなら 
それはもう死んでるのと同じことよね

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ツライって口に出したら 余計にツラくなりそうで 
だから何でもないようなふりをして 
こんなのどうってことないってふりをして 
今日もひとり 部屋の中

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あんたがいままでされてきたこと 未だに忘れられないように 
わたしもあんたらにされてきたこと 多分一生忘れないから 
そのつもりで 

*****************************

子どもが不安がっているのに 
大丈夫だから心配しないでって言ってくれる大人 
ひとりもいなかった 
異常なうちだよ

*****************************

生まれた町には海が近くにあったけど 
そう云えば一度も連れて行ってもらった記憶がない

*****************************

考え方を変えてみては?とか 
見方を変えてみては?とか 
もうそういうのいらないんだ 
考え方を変えてみたって
見方を変えてみたって 
明日も明後日も1年先も
笑ってる自分を想像できやしないのだから

*****************************

わたしたち いつになったら笑えるようになるかしら 
過ぎたことと思えるようになるかしら

*****************************

時間なんか いつまで経ったって解決なんかしてくれないわ

*****************************

何をどうすればしあわせと云えるのか 
わたしにはよくわからない 
大層なことは望まないよ 
災いが降ってこさえしなければ
ふしあわせでさえなければ
それで十分

*****************************

わたしは大勢いるとしゃべれなくなります 
3人でもギリ無理です 
必ず2対1になるからです 
そして必ずわたしが1の役になるからです
2人ならまあまあしゃべれます 
詩の中でだけ 一番おしゃべりになります

*****************************

人間が好きですか わたしはキライでした 
人間は平気で嘘をつきます 簡単に人を陥れます
自分が損することはしません 
ひとによってコロコロと態度を変えます 
わたしはそんなわたしが超キライでした

*****************************

わたしの感情はわたしのものであって 
貴方のものではありません 
わたしが笑うと何故怒るんですか 
憎まないと許さないのは何故ですか

*****************************

わたしって自分で思う以上にひどい人間なのかもしれない

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わたしの躰は原因不明が多い 
原因不明の頭痛 
原因不明の微熱 
原因不明の吐血 
原因不明の倦怠感 
わたしという存在自体が原因不明なのかも

*****************************

何かしらの名前がつけば 少しは安心できるのに

*****************************

心って目に見えないと思うでしょ 
でも違うんだよ 
その頭も目も鼻も口も手も足も胸も背中も 
全部が心なんだ 
心が痛いと色々痛くなるのは 
つまり そういうこと

*****************************

言葉だけじゃなく 態度で示してよ

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ヘタクソって云ったら 傷つくかな

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人生の折り返し地点なんて言葉があるけど 
人生に折り返しなんてあるわけないだろ

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あなたの人生とわたしの人生とは 
こうやって詩を通して出会うまで 
決して交わることのない線上だった

*****************************








☆★☆★☆★☆★
  もともとは一行詩だったものに、加筆修正を加え
  ツギハギみたいに、つなぎ合わせたものです












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一昨日の出来事

仕事始め目の三日目は
定時に終わって

駐車場には
陽が残るようになりました

でもね 寒さはこれから
しばらくは残業嫌だなあ

バックミラーに映る
僅かな夕日と

橙色の常夜灯が見えるので

さあ 帰ろうかな

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Oriental Blue - オリエンタル・ブルー -


『 さみしい子 』


跳び箱 びゅーんって 高いのとべた
けど そんなのより好きよ あたし
花占いが
すき きらい すき きらい すき、すき
なんでもお望み通り
だって お家はつまんないから
お外では 楽しい
水面につく平たい石の跡
ブランコで高く どこまでも高く、こいでたら
お空に飛んでっちゃった 虹にコッツン こんにちはレインボー ごきげんいかが
ああ最高だよ! キミは? あたし? ……まぁまぁね
スカート鉄棒引っ掻けて グルン グルンしたら
西の空が黄丹の色に染まりました
鬼の居るお家に帰るのいやだなぁ
花占いしても
すき きらい すき きらい キライ 




『 紅いお花 』


彼岸花 名も知らずあたし 花火みたいで美しいと 摘んで帰った
花瓶に生けてあげるんだ
でもでも……おばあちゃんにとても叱られた
「家が火事になるけぇすぐ捨ててきんさい!」
いやだ! って云えないからあたし 「はーい」としょんぼり……
お花が咲いてた場所へ戻り 置き去りに
ごめんなさい 彼岸花さん 泣かないで 彼岸花さん
もういたずらしないから ゆるしてください
倒れたお花を いつまでもイメージしつつ 振り向かないで去ったのよ

あの花 今も咲いてるかしら


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挨拶

鴉麻俳兎、といいます。

「からすま はいと」

 音楽をやっていたときの名前、好きな物を混ぜたペンネームです。
 六歳の頃、歴史の本を読み耽っていました。世の中の出来事にはすべて「理由」があるのだと、子供心に気づいてしまったのが始まりです。

 十代は、とにかく尖ったものに惹かれました。ヒップホップの鋭いリズム、本格ミステリの冷徹なロジック、そして裏社会を生きる男たちのヒリつくような体温。それらを混ぜ合わせて、二十代はラッパーとして言葉を吐き出す日々を送りました。ネットの片隅で自分の名前が勝手にまとめられているのを見たとき、言葉が自分を離れて独り歩きする面白さを知った気がします。

 大人になり、一度は小説から離れました。そんな私を再びペンへと向かわせたのは、意外にもパチスロ雑誌のコラムでした。木村魚拓さん、沖ヒカルさん、中武一日二膳さん。彼らが綴る、人間の格好悪さも滑稽さもすべて曝け出したような文章に打ちのめされ、ブログで日記やコラムを書き始めました。

 その後、俳句の世界に出会い、十七音という極限まで削ぎ落とされた言葉の深さに触れたことで、ようやく今の自分のスタイルが見えてきたように思います。

「面白い」が先、「伝えたいこと」はその後。よくある言葉ですが、私もそうあるべきだと思い、日々執筆しております。
 
 これからは、歴史の因果と、人間の生々しい体温を、物語に込めてお届けします。

 鴉麻俳兎としての歩み、ここから始めます。

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戦闘、開始

小綺麗なコトバで曖昧にゴマかすのには
もうほとほと 疲れてしまったから



そろそろ 本当の話をはじめませんか
 


身も蓋もない
本当の話を






  

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可愛いホクロ


あなたのホクロが はやく見たい
あたしの二の腕の裏側のホクロに はやく 優しくしてほしい

きっと退院してすぐは ご病気があるから愛し合えないかな
元気になったら 骨折して 救急車で運ばれるぐらい
ギュッ してね
約束よ

指切りしてくれたら
電気を消して もう寝ます

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風鈴しまう頃

 
 あたしは糸菊。黄に朱色の筋が入った珍しい女。

 あなたは糸菊を知っているかしら……。え、わからない?
 あたしが教えて差し上げます。

 そうね、言うなれば花火。ライバルは曼珠沙華さんよ。あのレディな花火のようなお姿を、沢山の方がご存じね。
 あたし、あの方に少し似ているの。パッと咲いているの。
 でも、曼珠沙華さんとの違いは花びらの向きにあるわ。
 彼女は上を見て堂々としている。あたしは少しシャイなの。俯きがち。人々はそれを『枝垂れている』と表現するわよ。

 あたしのシルエットは、京友禅のアロハシャツになるし、浴衣やお着物に飾られるのなんてお茶の子さいさいなんだ。

 恋人……? 居ないわ。片想いのひとなら居るけどね。

 それは、あたしを毎年咲かせてくれる数詞さんというお爺さん。
 ええ、植物のお手入れをする職人さんよ。

 お花だから、気持ちを伝えられないのよ。

 あたしが初めて彼に出逢ったとき、彼・数詞さんは二十歳の青年でした。
 あたし……? あたしはね、花言葉の1つに『生命力』というものがあるぐらいで、それを地で行っている。
 数詞さんのお陰もあり、娘のまんまなの。

 数詞さんが先日、他の若い植木職人の方と話していた。

「オイラ、不治の病にかかっちまった」って。

 分かるんだ、あたし。喋れないけれど、言葉というものを理解できるの。

 あたしが数詞さんに恋をしたのは、彼がたくさんの愛の言葉を与えてくれたからなんだ。そうして、丁寧にお世話をしてくれる。虫君たちを追っ払ってくれるし、美味しいお水を毎日くれるんだよ。あたしが美女であれるよう、要らなくなった葉っぱをハサミでチョキン、チョキンしてくれるの!
 その優しい肌に触れる度、あたしは震え、水の玉を飛ばしそうなほど感動するわ。

                    *

 ――――糸菊が恋焦がれた数詞さんは、残暑切なく消えゆく頃に息を引き取った。


 数詞さんのゴツゴツとした温かな手……。あたしを追い越し、どんどん大人へとなって行った数詞さん。
 いつかこんな日が来るのかなって、時々胸を痛めていた。そう、何十年も。

 あたしは愛した人を、素敵にお見送りしました。皆が風鈴を軒から外すとき、あたしは華やかに花開くんだ。



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アンタレスの針とわたしの光は、下弦に孕む月に似て。

 下書き保存をしておらず、惜しくも6000字が消えました。
 これは書き方を変えなくては。いいことも書いて……いた……筈、なのに思い出せない。気持ちを新たにまっ白な本文に向かいます。

 さて、10月という節目を迎えました。

 何をもって節目とするのかは<盆暮れ正月>目途になる半分にあたる6月に、北海道は初夏を迎えてようやく始まる夏まっしぐら。
 北国の夏はとても短いので、瞬く間に夏満了。ここ最近はそうでもない蒸し暑さが内地(方言・関東のことを意味する)並みだと言われてますが、暑さのピークはいいとこ60日。お盆を過ぎたらもう寒くなる。昨日までは夏、明日から秋の季節スイッチが近年、穏やかではありません。
 連日の猛暑日を記録するお盆明け──まさか夏終わった? 半袖で過ごす夜も、残りわずかだと肌感覚で察する特殊能力が、道民には備わっている。

 ここで、夏から秋へ。
 寒露の候に、今年の終わりが見えて来る。でも、ここから先が長い厳冬期。北国は一年の半分以上が寒いので、今がようやく節目というわけ。
 道外だと冬の期間が2~3か月、雪も降らない地域がある。
 冬は雪が降るもの、だと思っているので、どこの地域に冬が降ると珍しいのかもわかりません。
 10月は残暑、紅葉は12月──ああ、日本は縦に長い。季節の移り変わりに違いがあるよりか、どこか抜けて、どこかで全国平均に寄せているショートカットような感覚さえ覚える。
 こちらは既に街路樹が色づき、秋のマラソン大会が終われば、大通公園に静けさが戻る。そこから先は年に一度のお楽しみ、ミュンヘンクリスマス市でハンセンの甘いローストアーモンドの香りに包まれる。今年最後のお祭り、待ち焦がれていた夜に、あのメロディーを。
 この頃ではクリスマスに雪が積もらないけど(厳冬期は蓄積と降雪量がメートル単位、という価値観。)雪が降りる知らせとなる白い体毛のアブラムシを見たような気がして、X調べ→やっぱり雪虫だった。

 ──それも、9月末に。(大阪30℃とか言ってたような……)

 現在、10月の三連休。
 明け方は冬みたいな寒さです。これって地球の更年期、深刻なせっかちを迎えている。
 急なホットフラッシュと情緒不安定、加齢による認知症は本人よりも他人が意識させられる。とはいえ段階的な老化は生きとし生ける物には必ず訪れる運命であり、幻想的な物語のように永遠はない。四季折々の情景があって、生命が豊かに育まれるのだと自然の中にいるから気が付けるようなもので。
 夜になれば虫の音に、空は明るく。
 10月の満月は<ハンタームーン>と呼ばれ、月明りを頼りに夜の狩りをする由来があるとか。
 ひと狩りいこうぜ、を合言葉に……新たなる戦場へ……向かう先は男だらけのブロマンス。新作シューティングを解禁から楽しむ人たちには、いい夜かも知れません。

 今夜は月が綺麗ですね。
 
 1年、12サイクルで月は満ち欠け、約15日で新月に変わります。
 新月は月の無い夜のこと。ここから始まり、3日目に右側から徐々に見え始めるのが三日月。そこから数えて一週間で半分まで膨らむ上弦の月、左側に丸みを帯びて十五夜の翌日に満月を迎えます。
 満月から1週間後、左の半分だけ残る下弦の月。月は右側から欠けるサイクルが特徴的。どちら(右・左)側が欠けているか、とちら側に月が細く見えるか、新月を知る手掛かりになります。
 新月の前後3日間、約5日間ほど月が見えにくい夜は新しい周期の始まり。これを停滞と例えるひともいるけど、準備期間なのでしっかりと休めること。今年の10月は天赦日があり、厳かに過ごすつもりが……流行り病を患う結果に。病み上がり、書きかけの下書き保存に取り組んでいます。
 
 今、読み返しても散文で。
 だけど今の私にはこれが精一杯。消えてしまった神様のお話は、また今度。

 ***

 コロナに罹患しました。段階的な症状と炎症反応が続き、昨日からようやく食べて回復。
 1週間かけてエッセイを書き上げたのは、人生で初めてのこと。
 公開しようか。渋る自分の意気地を払って投稿。物書きとして<こんな経験>もありかなと。行き届かぬ点も多々あったかと存じますが、何卒ご寛容の程お願い申し上げます。

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祈り

爆散する
流れ星が青いなんて知らなかった
一瞬の朝をもたらすなんて知らなかった
願い事は明るいところでしか叶わないという疑念が
確信に変わってしまった
ある極夜が明けることは
反対側の誰かの気まぐれの祈りが
季節風に乗ってくるからか
夜の中に閉じている人の寂しさは
明け方のキジバトの声に取って代わられる
洞窟の暗がりを照らす松明は
酸素を材料に我々の願いを聞いてくれる
映る影が真実でないとしても
それを信じるしかもう
息は続かない

爆発する
一瞬の閃光
こめられる祈り
届くまもなく熱に飲まれて
偏西風に乗って
反対側の知らない誰かの
灯火になる

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ふつう

なげてなげられて
  のつもりが

そうでもなかったりして
わたし、ふつう

 そのとおりすぎて
ひとりでわらうことしかできなくて
ひとりでわらってばかりで
じちょーじちょーじちょじちょー

せみになって ないてみようかな

どのきなら わたしを とどまらせて
くれるかな

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なめらかな距離

夜からどのくらい離れて朝があるかな
朝からどのくらい近くに夜があるかな
寒いから
近づきたいのね夜と朝
暑いから
離れたいのね朝と夜

仲は悪くないと思うよ

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香り

異国から来た
キャンドルは箱の中
灯されることなく
眠っている

目覚めさせたら
うっとりするだろう

夢は
いつかさめる

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魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅴ


 一つの結論を得たその日から、作業室に音がやむことはなく。
 朝も昼も夜も、その場では加工機型の魔導機巧(※マギテクス)が稼働を続け、ミシェルの仮説と要望に応じた物品を作り続ける。
 彼は、ひたすらに自身の為したいと考えている物を形にしていった。

 そうして完成したのは、精霊の理に寄り添いながらも、その定着を否定する部品の数々。
 それは、全ての魔導機巧が抱えている共通の欠陥である、「『霊核(※コア)』を心臓部とすることによる濃密な魔力への依存」と「濃度の高い魔力へ依存するがゆえの精霊との親和性」を、後付けで補完することで、不幸な事故が起こらないようにするためのものだ。

(本来、『霊核』への防護処理を完徹していれば必要のない代物だけど、そうも言っていられない物理的な、或いは経済的な事情がある。哀しい事に)

 出来上がった部品たちを見つめながら、ミシェルは軽く溜め息を吐く。

 マインテナ達の仕事と言うのは専門性が非常に高く、また彼らが扱う魔導機巧も大変に高価な代物であり、ある程度まで世界に普及したとはいえ、その管理も含めて慎重に慎重を重ねるのが常識だ。つまり、それらを維持していくには常に莫大な費用が必要になるという事である。
 だが、その高い性能やブランド性に魅せられた需要と言うものが絶えることはなく。それゆえに、可能な限り細部を省き、価格を抑えた廉価版のようなものが出回るのも、ある意味では仕方のないところではあった。

(とある国には「安物買いの銭失い」なんて言葉があるそうだけど、とは言え、なかなか辛いところだなぁ)

 そう言うことを考えながら、ミシェルは部品たちを専用の容器へと収納して、次々に鞄に詰めていく。
 着々と仕事の準備が整っていく。

 それからも、彼は仕事に必要な作業を次々と完了していく。
 工具類を始めとして、事前に予約しておいた飛行船の乗船券や出立後の着替え、作業時に食べる栄養補給用の間食品などなどである。

 そうして、全ては整った。
 時間にして、契約締結から三日目。

「ふぅ……。少しバタバタしていたけど、荷物検査も問題なし。優雅なフライトが楽しめそうで安心した」

 その三日目の朝。ミシェルは、航空魔法使い達に護衛された飛行船に乗船し、船上の人になっていた。
 そのまま数時間を掛けて、依頼主の居る町ウェスタシアへと向かう。

 ウェスタシアの町。旧帝国の時代より農産業の町として発展し、国の食糧自給の一翼を担ってきた実績のある町である。
 それは今も変わっておらず、広大な農耕地帯と果樹園を有し、幾つかの農業機械型の魔導機巧を用いて運営されている。

(見えてきた。牧歌的な風景と魔導機巧の取り合わせが奇妙ではあるけど、だからこそ、と言う話でもある。精霊が動いたのもきっと……)

 眼下に見えてきたレンガと木造建築を合わせたような町並みと、その郊外に存在する農耕地帯と、そこで活躍している農業機械型魔導機巧をそれぞれに見つつ、ミシェルは短く息を吐いた。

「まあ、それも後で考えていこう。今は仕事に集中っと」

 彼は、機内食として二本提供されたナッツバーをかじりながら、下船の準備を進めていく。持ち込んだ手荷物を纏めて、すぐに必要となる書類を即座に取り出せる場所に移して、最後に、残ったナッツバーを口に放り込んで──。

 そのまま、飛行船が滞りなく着陸した後。
 彼は町の散策をする間もなく、住人に道を尋ねて、急いで町役場へと足を運んだ。

「おお、ミシェルさん。ようこそ! ちょうど良かった。今、図書館の館長も来ていましてね」
「貴方がミシェル殿ですか。初めまして。私、町立図書館の館長を務めております、アルノー・バイヨと申します。町議オーバンより、お話は伺っております。この度は宜しくお願いします」
「初めまして。ミシェルと申します。こちらこそ宜しくお願いします」

 そんな彼を出迎えたのは、オーバン本人と、ちょうど業務の報告に来ていたらしい図書館の館長である男性、アルノーだった。
 アルノーとミシェルは、互いに自己紹介を済ませて握手を交わす。それと同時にミシェルは、仕事で共有しておきたい情報もここで話すことにした。端的に言えば、置時計の故障の原因について彼が立てた、あの仮説についてである。
 三人は、オーバンの案内で応接室へと入り、話し合いへと突入していった。

「──。つまり、あの時計の故障は、『霊核』に癒着した精霊体が、周辺を循環している魔力の流れに干渉しているせいだと、そう仰るんですね?」
「まだ仮説の域を出ない話ではありますが、ね。とある依頼を遂行した際に珍しい事例に出会いまして。きちんと修理しても異常が出るという事は、その可能性も有り得ると考えた次第でして」
「ふぅむ……。しかし、その精霊体の癒着と言うのは、何故発生するのですか?」
「同属固着現象、と僕たちは呼んでいるのですが、簡単に言えば、魔力の属性が極めて近いもの同士が接触した際に、互いの魔力の安定性が増すことで一体化してしまう、と言う現象で──。」

 そう言いながら、ミシェルは鞄から幾つかの資料を取り出してテーブル上に並べていく。それらには、「同属固着現象」についてや、今回の置時計に発生している可能性のある現象についての解説も記載されている。
 それらを見つつ、ミシェルは二人に説明を行っていく。

「精霊の場合、帯びている魔力の量や偏った属性の力を持つので、それが非常に起こりやすいのです。大抵は『霊核』に防護処理が施されているので、まず起きないですけども」
「なるほど」
「問題は、何故、置時計の『霊核』付近に精霊が近付いたか、なのですが。そこはまだ何とも言えません。仮に置時計不調の原因が「同属固着現象」であれば、まずその対策が先となります。そのための部品も持参しましたので」
「それは、とても助かりますね。しかし、そうなりますと費用も相応に高くなりそうですが……」
「そうですね。希少な素材を使った部品であるとか、技術料もありますから、その辺りはどうしても高額になってしまいますね」
「ふーむ。となると予算は──。」

 アルノーがそう言いかけた時、ここまで静かに耳を傾けるだけだったオーバンが反応し、真剣な雰囲気はそのままに、柔らかい笑みを浮かべる。

「ご安心を。そこについては私から町議会に話を通して、補正予算も承認済みです。相場の倍程度までは余裕をもって保証できますので、大丈夫かと思います。存分に腕を揮って頂ければと」
「……と、いう事らしいので、私からの疑問や異論は、特にありません。オーバンさんは如何ですか?」
「私からも特にはありませんな。むしろ、事前にここまでの研究と考察を頂けた事に感謝を申し上げたいくらいです」

 そう言うとオーバンは軽く頭を下げて見せる。もちろんアルノーも同様に。
 そんな二人に、ミシェルは優しく微笑する。

「いえいえ、お気になさらず。僕も勉強になりますので。さて、そう言えば、こちらの町近くに居を構えておられるマインテナさんの話なんですけど……」
「ええ。そちらも、私から話を通してありますので、連絡一つですぐにでも動ける態勢ができていますよ」
「有難う御座います、オーバンさん。僕の方からもお話しておきたいことがありますので、この後すぐに、連絡をお願いしても良いですか?」
「もちろんです。すぐに伝令を送りましょう」
「助かります。アルノーさん、図書館の方は、今日は?」
「今日と明日は、全日休館としておりますね。作業の必要があれば、開館日にも置時計の周辺を立ち入り禁止にできますよ」
「有難いですね。作業が長引く可能性もあるので、大変助かります。では、そちらは宜しくお願いします」

 そうして、三人の間で共有しておくべき情報が次々に公開、提供され、着々と仕事本番の準備が整っていく。
 ミシェルから見ても、仕事の円滑な成功を確信できる程度には、スムーズに事が運んでいくのだった。

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初春

カーテンの素地に
触れた続き
何もない、そのことが
掌ならば
光を集めることもまた
陰影の音先
初春のプラットホームに
ブランコが停留している
午睡する胸ポケットで
凪いだ海を生きているうちに
行方のないわたしを一人残し
ブランコは
発車してしまった

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サンディのこと

サンディの煙草は誰にも止められない
と、誰もが思っていることを
サンディはなんとなく知っている
黒く長い髪
茶色のひとみ
その他の身体的特徴
にもかかわらず
サンディといえば
誰もが煙草を吸っている姿を思い出す
サンディはなんとなく知っている

サンディは煙草を吸う
煙草を吸うことができるいたるところで
サンディは煙草が好きというわけではない
習慣でもない
癖でもない
思想でも哲学でもないし
ましてや「そこに煙草があるから」
なんて決して思わない
なぜ煙草を吸うのか
サンディにはどうでもいいことだ
もし聞かれたら答えるだろう
「そこに煙草があるから」と
サンディの周りにはいつも
どうでもいいことが満ち溢れている

サンディが今まで吸った煙草の本数を
誰かが計算しようとした
一日に吸う本数の計算はたやすかったが
サンディの年齢を知らない
誰も知らない
本当の名前を知らないのと同様に
今まで吸った煙草の本数を知ったところで
何も語ることはできない
誰もサンディを語れはしない
ただ「煙草ばかり吸っているコ」として
それはメインストリートから何本か外れた
細い路地の突き当たりにある
看板がずっこけた酒場の
脂でべたつくカウンターの
隅の一番
隅で
どうでもいいこととして

サンディもいつかはこの世からいなくなる
いなくなってもサンディといえば
皆、煙草を思い出すだろう
けれども
その銘柄を思い出すほど
誰もがサンディを愛しているわけではない
サンディは知っている

サンディを知るものもやがていなくなり
どこかの役所の冷たい電子データのみが
サンディの記憶となりつづける
たとえ誰かがそれを閲覧しても
煙草を吸っているサンディの姿を
思い出さない

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ルーシー詩編      ワーズワース

    ルーシー⑴

身に覚えがある 奇怪な発作
かつて私を襲った事件
愛する人の耳にだけ
敢えて告白しよう

私の愛する乙女が 日々艶やかに
六月の薔薇さながらに 匂い立った頃
夕べの月の光を浴びつつ
彼女の小屋へと寄り道をした

見渡す限りの草原の上
月に 私の眼は釘付けになった
愛しい私の小道の上を
いつしか 馬は足早になって近づく

ついに果樹園に着く
丘を登っていく
沈みゆく月が ルーシーのあばら家へと
近づき なおも近づく

いつの間にか 私を眠りに捕えた甘い夢は
優しい自然の 情け深い恩恵だった
その間じゅう 私の両の目はずっと
落ちてゆく月を じっと見つめていた

蹄の音も高らかに
馬は動きを止めず
すると 小屋の屋根の向こうへと
すぐに 輝く月は消えていった

何と 定めなく 気まぐれな思いが
愛する男の胸へと 滑り込んだことか
「ああ お慈悲を!」と私は知らず叫んだのだ
「ルーシーよ 万一にも死なないでくれ」と


    ルーシー⑵

彼女は暮らす 人も通わぬ小道のそばに
ドウブの泉の脇の小屋
ほめたたえる者はなく
愛する者とて

苔むす岩の 隅にひっそり
隠れては咲く スミレの花よ
その健気さは 空に輝く
一番星かと

ひっそりと生き 知る者もなく
ひっそりと逝く
いまや彼女は 奥つ城に ああ
いまは彼女は 何処にも


    ルーシー⑶

私の旅路に 知る顔もなく
海の彼方の 諸々の土地
英国よ! それまで私は知らなんだ
かくも愛しき祖国だったと

もう過ぎ去った 憂鬱な夢
もう去りはせぬ お前の岸辺
二度と離れぬ いまも思うが
いっそうお前が 愛しいのだよ

山から山へ お前を巡れば
望み満たされ 喜びは湧く
お前の囲炉裏 火に暖まり
糸を紡ぐは 私の愛する乙女であるよ

英国よ 朝な夕なに見え隠れする
ルーシーの 遊んだ木蔭
英国よ あの早緑の草原もまた
ルーシーの 見納めたもの


    ルーシー⑷

三年 彼女は日と雨を浴び
すると自然はこう言った「愛しい花よ
地上に撒いた種から伸びた 最善の花
このいとし子を わたしはもらう
わたしのものだ 我が相応しき
淑女としよう

「わたしは 我がいとし子の
規範とも衝動ともなろう わたしと共に
少女は 岩場にいても草地にいても
湿地であれ木蔭であれ 天地のどこにいようとも
自分の思いを 燃え立たせるにせよ 鎮めるにせよ
見守る力を感じるだろう

「小鹿のように 喜びに
狂おしく 野原を走り回り
山中の泉へと 駆け上がり
漂う芳香を 身に帯びるだろう 少女は
黙す無情の物さながらに
静かに落ち着くだろう 少女よ

「流れる雲にも似る少女
柳さえ その身を屈め
嵐どよめく 最中であろうと
人知れぬ 共感により
乙女子を成す 優美な資質を
少女はその身に 着けぬはずもなく

「真夜中の星々に 少女は親しみ
思い思いに 踊るが如き細流沿いに
秘められた 幾多の場所に
少女は耳を傾ける
水のささやき 美を生じ少女の顔に 浸み込んでいく

「生き生きとした 歓喜の情は
乙女の胸を 高鳴らせ
少女の姿を 気高くしよう
この草深く 幸多き谷間にて
少女とわたしが 共に暮らす世
わたしの思いを 捧げよう」

自然はかく語りき——その業は成就せり——
ルーシーの世はうたかたの如し
いまやおらず わたしはひとり
この荒れ地 冷淡にして物音一つせぬ土地は
それまで生きてきた者の
そしてもう 二度と見られぬ者の 思い出


    ルーシー⑸

眠りが封した私の心
私は怖れの心を失くした
彼女は非情の物に見え
寄る年波の感触も知らぬ

いまや彼女は動きも力も見せず
聞くことも見ることもない
今日も一日大地は回り
彼女も回る 岩石と樹々と共






ワーズワースは、人々が毎日使うような言葉を用いて、思いもよらぬ美しさを醸し出そうとした詩人である。これに倣って、私もできるだけわかりやすい言葉を用いて訳してみた次第である(奏功したかどうかは定かでないが)。それにしても、言葉は易しくとも内容は時に難しいし、時に余りに意表を突く。

⑴は、恋する乙女の元へ通う男を詠むが、第五連では男は半ば夢遊病者となりながらも、目だけはしっかりと月を見つめている。何とも不可思議な情景である。そして最終連で突如男は乙女が死んだらどうしようと思うのだが、その連想の急に驚く。
⑵は、どこかしらわびさびの美意識と通じる。人里離れた暮らしはわびであり、貧しい家はさびであるのだが、するとこの作品では、乙女が人里離れてひとり粗末な家に暮らしており、それがいつの間にか亡くなっているのだから、ここにはわびがあり、さびがあり、無常がある。いかにも日本人好みの美意識である。枕草子には「女の一人住む所は」から始まる文がある。女が荒れた貧しい家に一人暮らしているのは何とも奥ゆかしいというのだが、それと通じるものがある。
⑶は、詩人の祖国愛と乙女への愛が重なり合った作品である。詩人は英国を愛するが、それは愛するルーシーの暮らしていたところだからでもある。もっとも、ルーシーはとうに亡くなっており、詩人が飽くまでルーシーとつながるのは思い出によってだけなのであり、英国はルーシーの記憶をとどめる土地なのである。
⑷は、まるで自然界がルーシーを愛する余り連れ去ってしまったのではないのか、とも思える内容である。
⑸もまた不可思議千万な作品である。詩人は眠り、そして恐怖心を失くすというが、いったいどういったことだろうか。私には、詩人もついに亡くなってルーシーと同じ場所に土葬に処せられ、土の中で隣にルーシーを見ているようにも思われるのだが。そして地球の自転と共に、ルーシーも詩人も永遠に宇宙を巡り続けるのである。

ルーシーのモデルが何者であるのかは専門家の間では議論が絶えない。恋人である、空想上の人物である、共に暮らした妹である、いやむしろ詩人の解決されていない内面を象徴的に描き出したものである等々、実に様々な解釈があるようだ。当の詩人本人が何とも言っていないので、どれも決め手に欠けるようである。この五つのルーシー詩編はひとまとめに書かれたものではなく、ルーシーの名は詩集のあちこちに思い出したように記されたものであるので、ワーズワースにすら統一的な意味づけがなされていなかったかもしれない(無責任な発言であるが)。モデル探しに齷齪して詩のよさを味わうのを忘れてしまっても、本末転倒であろう。余り深くは考えずに、素直に読んで直感の伝えるままにするのがよかろう。ルーシーは読み手の心の中にいるのである。




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feels good


三日月のすべり台
今夜もあなたと遊ぶの なめらかよ

あたしは夜の羽衣を纏い
あたしは明日いなくなるかもとウインクをする
あなたは……強く抱いて離さない

今夜はお星さま達が影を潜めているから
明るい月夜
ふたりはスキよ ふたりだけスキよ

ヒューッ
トン! ふんわりとしたお洋服を着ているから月は
着地に失敗してもふたりのおしりを受け止めてくれる

うそよ
うそよ
あたし、いなくならないわ
あなたが先にいなくなりますように
でなきゃ あなたが淋しがる

ずっといっしょにあそぼうね

ヒューッ すとん! ヒュー! すととととんっ

あなたの翔びかたカッコいい
今夜も黄色い雫のお祭りです

はーい、ダーリン待っててね! 三日月のてっぺんから手を振るあたし
ダーリンつばを飲み込んだ

キラキラキラリンッのヒュー!
……したら
ギュッ! チュ

うそよ
うそよ
夢みたい!

うそようそよ
いなくならないで


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全ての


さらに、さらに より深くを目指すのは
眩しさに耐えられぬ自身の脆さゆえか
背徳から得る安らぎは
麻薬のような悦と怠惰を教えてくれた
現実が奏でる旋律は
流した汗と涙の数だけ歪むんだ
理想を求めた代償は
名もなき者に必要ない名を与えた
偶像崇拝の行く末は
真実と混沌をも翻弄した
ほんの束の間の一服は
千里眼と地獄耳をひととき貸してくれた
泣けば思い通りになると知った赤子は
生後数ヶ月にして人を操る術を身に付けた
誰からも見向きされない自称天才は
凡人だと気付くまでに自ら命をたった

平和について語り合える平和な時代
本音を言えば誰もが感じてる格差社会
民主主義という名のカースト制
ソ連崩壊と同時に開戦する第二次世界冷戦
底辺から眺める頂き
皮肉まじりに煽る肩書きある方達
風上から風下に巻く細菌
大化の改心と何ら変わりない
クーデターは成功すれば革命となりえるが
そのほとんどは国家反逆で終わるんだ
力のない者達 ペンは剣よりも強し
インクが切れれば武器に早変わり
聞こえ過ぎた耳を削ぎ落とした
画家は耳と引き換えに死後の評価を得た
ダーウィンの進化論が認知された今も
人の心に神が必要なのは何故だろう

捏造という錬金術
根も葉も茎もないものが花に変身する
伝わる数が多いほど変化する 
噂話は姿形に添加物をくわえ伝達される
不平が多い悲惨な現状でも
一日24時間というものは平等だ
良薬 口に苦し
今では静脈に針を入れれば解決する
流れる血こそが人を動かすガソリン
ならば爆発を起こすほどの刺激が欲しい
化粧をしても大人になれない女の子
経験という意味を履き違える思春期
ショウケース越しに宝石を見定めるくらいなら
自分の功績を鉱石に換え研磨するべきだ
引きこもるくらいなら自分を人質に立てこもれ
笑い話になるその日がくるまで

ありがとう 同士たちよ 今こそ飛び立とう
蝋の翼溶けて死ぬならば本望だろう
ライト兄弟やリンドバーグはあの世できっと
イカロスの機嫌を取りながら死んでいるだろう

全ての表現者 並びに 全ての芸術家 
全ての挑戦者 全ての音楽家 全ての人間
全てのオリジネイター 全ての発明家
全ての小説家 全ての情熱はけして無駄ではない

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本日は晴天なり

 少しだけ残っていたアイスコーヒーを、もう惜しみつつストローで突っつくのはやめて、百絵乃は最後のタバコを吸い終え、火を消した。
 仕事帰りだ。
 ニコチンがきつく有名な、古くからある銘柄。パッケージをクシャッとひねり重厚な木製のテーブルにポン、と置いた。
 仏頂面だ。来月25のお誕生日を迎えるが子どもっぽい百絵乃は、いつも年齢を言うとびっくりされる。だが、瑞々しさを曇らせ今は仏頂面。
「お冷や、お入れしましょうか」
 まるでどこかの宮殿の執事みたいに品の良い男性が言ったが、断わった。(あ! でも、忘れていた)
「すみません。ごめんなさい、やっぱりいただきます」とグラスをそっと持ち上げる百絵乃。

 複雑な暮らしをしている。
 喫茶店には粋な女性ボーカルのジャズが流れる。
 1月の空が薄曇りで、(ニーハイブーツだからよかった)と胸を撫で下ろす。
 足元に温みはあるが……複雑な暮らしをしている。百絵乃は。

 処方されている精神薬をひと息に飲んだ。

(慶太、あなたが不快すぎるわ。そもそも最初から軽い気持ちよね。あたし、きっと)

 事情はこうだ。
 九州の田舎から上京してきた百絵乃。2年前に渋谷でナンパにあった。軽はずみだったかもしれない。百絵乃はその日のうちに、ナンパしてきた相手である慶太と深い仲になった。

 場所は……渋谷にいくらでもあるラブホテルではない。
 高円寺の団地だ。普通なら団地で何にも悪い事はない。その団地は狭い4畳半が2つ、あとはちっちゃい台所と狭い風呂とトイレだけ。
 慶太は1部屋占領。もう1つの部屋には……当時27才の慶太の親にしてはあまりにも年老いている両親。そして後には出戻りのお姉ちゃん・直子|と、直子の連れ子である2才半の男の子もやって来るので、4人が押し込まれている状況だ。

 そう、ナンパされた時、まだお姉ちゃん達は居なかった。

 人の両親がいる隣の部屋で、初めて会った男に抱かれた。

 田舎の広い家に暮らしていた百絵乃にとって、そこはカルチャーショックだった。その家は掃除をする人がいなく、洗い物はたまり、汚れないようにと新聞紙を敷いてご飯を食べる。しかし汚れて床もベタベタしている。折り畳み式のミニミニテーブルがあるだけ。順番にお食事だ。

 なにゆえ百絵乃がそこまで、慶太家の生活状況を把握しているかというと、まさに今、百絵乃はその団地で暮らしているからだ。慶太と結婚はしていない。同棲……というか、居候だ。
 渋谷のお店で朝からお昼まで風俗嬢をしている百絵乃。慶太にナンパされた時は寮生活だった。
 寮と言ってもワンルームマンションをあてがわれていたので、自由な暮らしだ。ベッドや洗濯機に冷蔵庫など、家財道具はすべて揃っていたし。

 しかしある時期から、寮に入っている女の子の間で嫌なうわさが流れ始めた。
「盗聴器、付けられてたりして……」
 今思えば、まさか~! と感じる百絵乃だが、当時その事が物凄くストレスになり、脅えた。くつろげる場所であるはずの住まいが住まいじゃなくなった。
 そこから心の病気にまでなってしまい、今も精神科へ通っている。

 慶太は、とても華やかな風貌だ。着ているものも派手で愛嬌がある。(モテそう)と、声を掛けられたとき思った百絵乃。
 しかし、付き合ってみると慶太は口下手で純粋な男だった。

「俺んとこ、来る?」と交際1カ月経った頃慶太が言ったから、『盗聴器妄想』から逃れたい百絵乃は二つ返事で引っ越した。

 ちなみに慶太は、百絵乃の仕事に関して口出しをしない。「一生懸命頑張っているのだから」と認めてくれた。
 稼いだお金は全て百絵乃の小遣いにしているというのに。焼きもちも焼かないで認めてくれている。
 慶太は工場内のライン作業で車の部品を作っている。休日は変則的だ。

 年老いた慶太の両親は、慶太にあんまり口ごたえできない風だ。しかし、慶太は特に両親につらくは当たらない。ただ、言い出したらきかない所のある慶太だ。

 百絵乃が慶太家に居候生活を始め、約半年した頃お姉ちゃんの直子と男児が実家であるこの団地に帰って来た。

 こんなに小さな家で、半分を独り占めする慶太。しかしまぁ、自然なことか。両親は夫婦だ。夫婦の部屋と息子の部屋に、そもそも分かれていただけのこと。
 お姉ちゃんは、若いカップルの部屋に入り込むのに気が引けたということだろう。だから親と同じ部屋。そしてボクちゃんと4人でギューギュー。

 比較的しつけの厳しいおばあちゃんのもとで育った百絵乃には驚きの連続だ。

 まず最初に驚いたのは、慶太は真冬以外パンツいっちょう。トランクスしか履いていない。おじいちゃんみたいなお父さんは、股引こそ履いてはいるが、やはり上半身は裸。
 そして皆、驚くほど口が悪い。元暴走族の姉(直子)と弟(慶太)。お姉ちゃんは男の人みたいな喋り方をする。凄くびっくり。

 しかしお姉ちゃんは百絵乃をかわいがるし、百絵乃もお姉ちゃんとボクちゃんのことが好きだ。慶太は甥っ子の面倒をよく見る。

 ある時……お姉ちゃんがある女友達を呼んだ。

「慶太、元気?」
 赤ちゃんを連れている。

(なに、この女、なれなれしい。人の男に向かって)ムカッと来た百絵乃。

 彼女があっちに行った時、小声で「あの人、誰?」と慶太に問う百絵乃。
「昔の女だよ」
「ハー?!」あったまに来る百絵乃。しかし、どうやら、百絵乃の嫉妬心を超えるぐらい、慶太が姉に向かって怒っているようだ。

 その女性がいる間は何も言わずにおいた慶太。
 しかし女性と赤ちゃんが帰った後、姉弟喧嘩が始まった。
「おい! ねーちゃん、どういうつもりだよ! 花江を呼ぶなんて!」
 言葉にはしなかったが慶太は(俺には今、百絵乃が居るのに)という意味合いで怒ったのだろう。

 負けん気の強いお姉ちゃんから怒声が返って来た。
「なーんで、あたしがあたしの友達呼んだら駄目なんだよっ?! クソが! あーあー、わかった、わかったっ! どうせここは、てめぇらの城だよな!」
「ハ――――?!」

 気分悪すぎて、もうそのあとは忘れた百絵乃だ。


                *

(あんなにお姉ちゃんに怒っていたくせに、慶太、あれはな~に?!)

 百絵乃は非常に不愉快で、あの家を出て行こうと、この喫茶店でいつまでも考えているのだ。

 堂々巡りの万華鏡のように、魅惑のジェラシーがこのままじゃおさまらないので、席を立った。アイスコーヒーの会計を済ませ帰路を辿る百絵乃。


 ここまで思うゆえんは、つい最近の怨めしい出来事。

 またしても、お姉ちゃんの友達だ。
 その女性・弥生ちゃんは時々慶太家に遊びに来ている。百絵乃ともよくしゃべる。

 いつものように仕事から午後1時ごろ帰宅した百絵乃。
 部屋の扉をガラッと開けた。

(え?)

 目に焼き付いて離れない、あの弥生ちゃんの格好。シレッとした顔で長いタバコをふかしている弥生ちゃんは、下着一枚だった。太ももまでのキャミソール。慶太はいつも通りパンツいっちょう。

(なにやってんの?)
 訊く気にもならない。
 関係を待ったにせよ、持たなかったにせよ、吐き気がするほど気分が悪かった。

                 *

 しかし、取り敢えず行く所がない百絵乃。
 弥生ちゃんの一件にはムカムカするが(お金を貯めたら出て行こう)と決意する百絵乃。

 それはお姉ちゃんに先を越された。窮屈さに耐えかねたのだろう。お姉ちゃんはボクを連れ新しいアパートへ引っ越して行った。

                 *

「おはよう、百絵乃ちゃん」
「あ、お母さん、おはよ」
「タバコ1本恵んでくれないかい」
「あ、いいわよ」

 この家にはお金がないのだ。お父さんは新聞配達。お母さんはパチンコで稼いでくる。

 お母さんといても別に気兼ねをしない。実家とまったく様式こそ違いはあれども、本物の家族の感覚だ。
 百絵乃は窓の外に目をやった。何処までも続く晴れた空に端っこがあるように感じた。真白い雲の先は行き止まりに見えた。
 ここは5階なので見て取れぬが、下の小さな公園からは子ども達がキャッキャとはしゃぐ笑い声が聞こえてくる。

 百絵乃もタバコに火を点けた。フーッと鼻から白い煙を平気で出した時「いなくなればいい」と、どこかからか聴こえた。自分の声によく似ている。
(うん、そうだね)と百絵乃は得体の知れない声に向かって胸の中で返事をした。

 お姉ちゃんは引っ越したというのに、弥生ちゃんは相変わらず慶太家に遊びに来る。
 忌々しいキャミソールの一件があったものの、百絵乃は弥生ちゃんと友達付き合いをしているし、弥生ちゃんは弥生ちゃんで、慶太家を家族のように慕っている。
 ある時など、慶太と百絵乃が出先から帰宅すると、弥生ちゃんとお母さんが二人で楽しそうに話し込んでいたこともある。

 変な関係だ。
 何かが抜け落ちている。

 今にも抜けそうな団地の古い床を見つめながら、この毎日を思った。
 否、百絵乃は、欠けてしまっているのは自分だと気づく。

 焦りや怒りを押しとどめ、平気な振りをしている。

 もう、我慢ならない、とかき氷みたいな水色の冬空に誓う。


 街のパチンコ店が新装開店するという。お母さんはその知らせを知った時からソワソワ、ウキウキとしている。
「いっぱい出るだろうね~! あたしの腕の見せ所だよ」だなんて言ったあと、入れ歯をはずして洗い始めた。

 明後日か。

「ねぇ、慶太、あたしさ、弥生ちゃんとゆっくり話したいんだー。明日弥生ちゃんがここに泊まるように誘っても良いかな?」
「え!? 泊まるって、弥生ちゃん、何処で寝るの」
「そんなのどっちの部屋でも良いじゃん。あたしと慶太は恋人同士。それをわかってる弥生ちゃんが何か変な事でもするの?」
 敢えて逆に尋ねて見せる百絵乃。

 慶太はなんだか慌てた表情をした。百絵乃はこっそりこの男を鼻で笑った。
(やっぱりあの日、男女の仲を持ったのね。この男に、ほとほとしらけたわ)

 慶太は答えた。「ああ、弥生ちゃんが変な真似をするわけないさ。泊まっても良いんじゃない」

 百絵乃は嬉々としている。企みを持っているからだ。

(願い事が叶う!)

 すぐに電話を掛ける百絵乃。
 弥生ちゃんはコール2回で出た。
「もしもし、弥生ちゃん」
『うん! 百絵乃。どうしたの?』
「相談したい事があるの、あたし……。明日さ、泊まりに来てほしい」

 弥生ちゃんは男に貢がせ生活している。暇人だ。

『良いよ。泊まりに行くよ』

              *

 弥生ちゃんはお昼頃やって来た。
 お父さんは新聞配達が終わると、浴びるほど酒を呑み続けている。お母さんはなにをすることもなく、タバコを呑み続けている。
「お母ちゃん、メシもらうわ」貧しい家にやって来て、厚かましい女だ。(ま、あたしも同類か)百絵乃はその憂鬱を即座にかき消す。

「ありがと、来てくれて」
 慶太は「ちょっと友達の家に行って来る」と席をはずしていた。
「ううん。良いよ、百絵乃。ところで相談って、なんかあった?」
「ンー、あたしさ、風俗やってんじゃん?」
「うん、うん」
「慶太は何にも言わないけど、やっぱ悪いかなーって、ちょっと悩んでんの。お金にはなるんだけど……」
「あー、ね~。んー。でもさ、あたしも風俗上がりだけど、理解ある彼氏だったよ、当時。慶太も理解あるから、いんじゃないかな」
 百絵乃のはらわたが煮えくり返っていた。(『慶太』とか、てめぇが呼ぶな)と。
 しかし笑顔で「弥生ちゃんはそう思う?」
「うん、そうだね」
「そうか~。じゃあ、もう少し頑張ってみようかな。店長にも頼りにされてんだよね」
「うん、うん」

 うわべだけのお悩み相談コーナーが終了した頃、丁度慶太が帰宅した。
「おお、弥生ちゃん、久しぶり」
「おお、慶太、元気か」
 弥生ちゃんも決して品の良い話し方ではない。
「元気だよ。ところでさ、今日どっちの部屋で寝んの? 母ちゃんたちの部屋? それともここ?」
「あ、ここで寝ても良い?」
 悪びれる様子もなく弥生ちゃん。恋人同士の部屋に寝ると言う。確かにもう一組布団はあるが。(ゲスな女だな)と腹の中で思う百絵乃。
 しかし百絵乃の企みが、百絵乃の精神を今支えている。

 明日、お父さんは早朝新聞を配った後、行きつけの立ち飲み屋へ行く。これは日課だ。お母さんは新装開店のパチンコで夕方以降まで帰って来ない。慶太はといえば、明日は早朝から夕方まで仕事。
 明日の朝、お母さんが出て行ったあと、弥生ちゃんと二人きりになる百絵乃。


 夕方まで慶太を交えた3人で、気の抜けたサイダーみたいな世間話に花を咲かせた。時々お母さんが煙草をせびりに部屋に入ってきては、そのままおしゃべりに加わった。

 そうして迎えた夜。弥生ちゃんが先に入浴した。百絵乃がパジャマを貸してやった。そのあと、慶太と百絵乃が一緒に狭い風呂に入った。時々こうして一緒にお風呂に入るのだ。

 カップルが仲良く風呂を上がると、弥生ちゃんが暗い目をしていた。
(やっぱり慶太に気があるのね。いい気味だわ)と百絵乃は、ほくそ笑む。

 百絵乃は眠剤を飲むのでよく眠る。しかし眠り始め3時間ぐらいすると必ず1度目覚めてしまう。でもすぐにまた二度寝へと睡魔にいざなわれる。

 今夜も深夜、一度目覚めてしまった百絵乃。
 みると自分のすぐそばで、掛け布団の山ができ、モゾモゾと蠢いている。
 自分の恋人と女がまぐわっているのだ。弥生ちゃんは声を押し殺そうとしているらしいが、時々吐息を漏らす。

 想定していた通りだ。

 明日が来るから、夜明けが待っているから百絵乃は耐えられる。

 肌と肌がぶつかり合う音を冷静に聴きつつ、そちらへ背を向けていた百絵乃は、いつの間に眠った。

 朝のまばゆい光が瞼に転がり起こされた。隣にいる筈の慶太が居ない。すでに出勤していた。
「おはよう、百絵乃」
「ンー、おはよ、弥生ちゃん」
 ねぼけまなこの百絵乃。時計を見ると8時も過ぎていた。
(いけない! あたし、シャンとしなきゃ……! せっかくのチャンスを棒に振っちゃいけないわ)
 顔を洗いに洗面所へ行くと、お母さんは既にパチンコ店へ出掛けていた。
 お父さんはまだ帰って来ない。

(お父さんが帰って来るまでに!)
 百絵乃は弥生ちゃんを呼んだ。
「弥生ちゃ~ん! 冷凍庫にピラフ入ってた。食べるぅ?」
「食べるっ! ハラペコ~」

「ヒッ!!」

 おびき寄せた卑しい弥生ちゃんに、出刃包丁を向けている百絵乃。

「あんたはさー、ヒトのモノ盗るの好きね!」弥生ちゃんが逃げるまなく飛び掛かり、腹を刺す。
 ブスッ!
 震え失禁した弥生ちゃん。真っ赤に染まる百絵乃が貸したパジャマ。
「うぁあぁ、うぁああ――――――ッ!」狂っている弥生ちゃんに向かって「メシもよぉッッッ!」と百絵乃は言いつつ一回包丁を抜き「男達の財産もよぉっ!」と言いながらまた腹を刺した。
 弥生ちゃんは白目をむいている。

「泥棒めッ! 好きモノ外道め! 慶太みたいな男、要らねぇけど、てめぇが生きてると虫唾が走るんだよッ!」
 とどめに左胸辺りを深く、深く思いっきり何度もさした! ザクッ! ザク……ッ! ザクザク、ザック! ザク!
「しねッ! 死ね! シネ、しねしね死ね、しね、死ね――――――ッ!」
 弥生ちゃんには届いていない。とっくに死んでいるから。百絵乃の血まみれの顔は鬼そのものだ。

 死体をポーンと一度蹴飛ばす百絵乃。風呂に入り、上がるとサッと美麗にお化粧をし、華やかなミニのワンピを着、めかし込んで出て行った。

(今日は晴れの日)

 百絵乃が最後の砦を破壊した日。
 自分から自分が消えた日だ。

 やわらかなおひさまが、冬の貴婦人・クリスマスローズに、嬉しそうに笑いかけている。



※ この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

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ピジョンと言う名の。

彼女は、万華鏡を覗き込んだような眩暈を誘う色彩の迷宮だった。躍らせれば、肺腑を突くような赤い花が咲き、瑠璃色の海が広がった。彼女が笑うたびに、祝福を授かったかのように新しい色を更新していく。僕はその世界の片隅で、呼吸をすることさえ忘れて、その美しさに毒されていた。
けれど。
残酷なほど鮮やかな夕陽が、この世界の終末を煽るように街を焼いている。
因果律の鎖が千切れる音を立てていた。空を切り裂き、黒い雨が降り注ぐ。人々は彩り豊かな服を着て、「呪い」のような言葉を交わしながら、崩壊する光の中を歩いている。
彼女の呟きは、僕の鼓膜を鋭く削り取った。眩しすぎる世界は、いつしか彼女の網膜を焼き、心を薄く削り取る毒となっていたのだ。誰かがプログラムした暴力から、この灰色の、完璧なデッドエンドへと。
校舎の裏手、忘れ去られた温室の最奥。
隕石が降ったあの日から、灰色の雪に閉ざされた世界で、彼女は「植物研究部」という隠れみのを使い、校舎全体のエネルギーを盗み続けていた。
水銀のように光るシダ、琥珀色のハミングを返す苔、そして、僕の心臓の鼓動に合わせて燐光を放つ青い花。
彼女は、冷徹な数式をなぞるように笑った。
箱入れ原理。
限られた「生存」という名の箱の中に、溢れ出した「感情」を押し込めれば、それらは互いを食い破り、ドロドロの灰色へと濁っていく。世界が均質化したのは、論理的な必然だった。
彼女は、未来の電力を食い潰し、異形の極彩色を育て上げた。
露見したのは、隕石の傷跡のような夕焼けが街を焼いた放課後だった。彼女は物語の悪役になり、僕はその共犯者になった。みんなが手を繋ぎ、不格好に生き延びようとする中で、彼女は、宇宙の深淵よりも深く、燃えるような青を湛えた蕾を抱きしめていた。
屋上のフェンスを背に、彼女がその蕾に口づけをした瞬間、僕の視界は「青」に塗り潰された。
世界の終わりと言われたあの雨は、今、この瞬間も僕の上に降り続いている。
僕という観測者は、彼女が書き換えたアルゴリズムの中で、死ぬことも許されずこの光景を見つめ続けてきた。一度たりとも止むことなく、天から零れ落ちる水滴が地上の記憶を洗い流し、文明を変えていく。
止まない雨に打たれ続け、灰色の絶望が剥がれ落ちたあとに残ったのは、吐き気がするほどに美しい極彩色だった。
[Table: 僕が見つめ続けた幾千年の変遷]
| 観測対象 | 幾千年後の真実 | 僕の心象 |
| :--- | :--- | :--- |
| 銀河苔 | 廃墟を喰らい、星図を投影する | 境界線が溶ける安らぎ |
| 琥珀苔 | 雨音を屈折させ、ハミングを放つ | 静かな発狂 |
| 青い宇宙花 | 彼女のいた場所で、僕を呼んでいる | 永遠の帰依 |
彼女の回答は、あまりに乱暴で、美しかった。
彼女は、かつての彼女によく似た瞳で。
花に触れる。その瞬間、僕の胸の奥で、痛みが走った。
終わりのない、永遠の冠水だ。
不格好で、泥だらけで、けれどどうしようもなく純粋な何かが、雨粒に混じって僕の頬を撫でる。「異物」は、今やこの星の「正解」となった。
降り続く雨の中、僕は肺を湿らせ、魂を溺れさせながら。
空から降ってくるのは、絶望ではなく、書き換えられた世界の数式だ。
僕は泥だらけの足で、水底へと歩き出す。
青い花が、孤独を抱えて、残酷なほど美しく、僕の足元で笑っている。
僕は、その花弁の陰に、彼女の指先の残像を探し続ける。
この止まない雨が、僕という不純な観測者を完全に洗い流し、彼女とひとつにしてくれる、その瞬間まで。

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文ノ心得 其ノ壱

文章で人を感動させたいなら、まず、その文章を感動させないとダメやで。文章を感動させるという心意気が人に伝わるだけや。文章を笑わせたり、悲しませたり、怖がらせたり、驚かせたりしないとあかんねん。これが分かるようになれば、なんでも書ける。断言する。まじで。

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恋の病で入院中


スマートフォンで 初めて書いてみる
いつもはパソコン

貴方への恋慕は
こんな ちっちゃい長四角ではもどかしい
そう あたし 不器用だし 誤字も多い
思い込みの激しい ヤキモチやき

病室から 貴方だけ求め たまらずに
スマートフォンだっておおよそ あたしの スマートじゃない恋文

じゃあパソコンならば 大海原へ
ふたり 繰り出せるのかと訊かれたら
あたし達は 口を閉ざすことしかできぬ

だからどうした

あたしなら 別れを望まれるのなら
別れられる

その意味が わかりますか
どんなにスキかわかりますか?

あたしを手離さない覚悟をしているあなたの愛が
どれほどのものか
あたし 知ってるよ

無慈悲な不良ならよかったのに
ちがうから、手首を結んだリボンを痛がる貴方

けどねぜったい離さない
知ってるよ

残酷な フランス映画に酔って千鳥足
電柱に激突して鼻血
路面に大の字 星が綺麗

そのうち車に轢かれるかもね

馬鹿な恋人同士だと
笑われたって
あたしはこの綿菓子を手放さない
貴方が慕ってくれる限り

とても愛してる愛してる
あなたからフワフワが消え 棒になったら
あたしがモコモコ製造してみせる

スマートフォンで毎日、伝え合う

逢いたくて
おかしくなりそうだねって


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無表情

明日死ぬかどうかも分からない
たくさんの涙を零した
どれだけの血を流しただろう

幸せってやつを考えてみる
平和はいつ訪れるのだろう

憐れみなどいらない
騙されたくないから

温かなスープを入れてくれ
夢でもいい
青い空と白い雲
少女のワンピースが揺れている

あの子の顔は笑っていない

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論考:ネット詩投稿サイトはどのような夢をみてきたか

 本稿では、インターネット詩投稿サイトの歴史を整理し、その変遷を論じる。対象とするのは、文学極道、B-REVIEW、Creative Writing Spaceの3サイトである。他にも現代詩フォーラムなど著名なサイトは存在するが、本稿では単なるアクセス数や投稿数の多寡ではなく、場としての理念を明確に打ち出し、ネット詩文化の方向性に影響を与えたサイトに焦点を当てる。上述の3つを論じることで、オンライン詩投稿サイトの歴史を大まかに俯瞰することができるだろう。

 まず、筆者自身の立場を明らかにしておく。2017年頃、文学極道において創作活動を開始し、同年、新人賞を受賞した。また、B-REVIEWでは創設メンバーの一人として、ガイドラインの策定を含むサイトのコンセプトや制度設計に関与した。現在はCreative Writing SpaceのFounderとして運営を統括している。
 文学極道の最盛期をリアルタイムで経験したわけではないが、オンライン詩投稿サイトの変遷について一定の知見を持っている。本稿は、詩に関心を持つ読者のみならず、小説や戯曲など詩界隈以外の創作に携わる者にも届くことを目指している。ネット詩の興亡を整理し、今後の展望を示すことで、オンライン上の文芸創作に携わる人々の議論の材料となることを願う。


【文学極道──ネット詩投稿サイトの象徴】

 文学極道は、2005年に創設された硬派な詩投稿サイトである。私は2017年頃に半年ほど活動したのみで、最盛期をリアルタイムで体験したわけではない。しかし、このサイトがネット詩文化に与えた影響は計り知れず、文学極道の成功こそが、その後のネット詩投稿サイトの方向性を決定づけたと断言できる。
 文学極道は、最果タヒ、三角みづ紀といった広く読まれるようになった詩人が投稿していたことでも知られる。特に、初期の投稿作品の質の高さと、コメント欄で交わされた鋭い批評の応酬は特筆に値する。

 サイトのトップページには、次のような一節が掲げられていた。

>芸術としての詩を発表する場、文極(ブンゴク)です。

>つまらないポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。

>あまりにもレベルが低い作品や荒しまがいの書き込みは削除されることがあります。

>ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい酷評を受ける場合があります。

>酷評に耐えられない方はご遠慮ください。

 この言葉が示す通り、文学極道は単なる創作発表の場ではなく、詩を芸術として追求する者のための修練の場を標榜していた。馴れ合いを排し、批評によって切磋琢磨する文化を築くことが、この場の理念である。文学極道は、インターネットがまだ黎明期から拡大期へと移行する中で誕生し、必然的に2ちゃんねる的な匿名性の高いネット文化の影響を受けていた。その結果、サイト内では低レベルな作品には容赦なく酷評することが許容され、むしろ推奨されるような雰囲気すらあった。罵倒や激しい批評が日常的に行われる場となったのである。

 では、文学極道が夢見たものとは何だったのか。

 文学極道が目指したのは、詩壇では評価され難い、真に新しい詩文学の創造の場、そして活発な批評の場であった。そのため、実験的な作品が評価され、罵倒を伴う荒れた議論も場の活力と捉えられていた。しかし、この批評文化の攻撃性は、やがて場そのものを揺るがすことになる。


【文学極道からB-REVIEWへ──批評文化の変質と転換】

 文学極道における厳しい批評文化は、当初は場の水準を維持するための手段として機能していた。しかし、次第にそれ自体がサイトの荒廃を招く要因となっていく。過度な罵倒が横行し、サイト内の風紀が悪化することで、真剣に詩を議論しようとする者が次々と離れ、罵詈雑言ばかりが横行する傾向が生じた。そして、この状況に対するカウンターとして、2017年にB-REVIEWが創設される。

 B-REVIEWは、以下の三つの原則を掲げた。
  1. マナーを重視し、まともな議論ができる場をつくること
  2. オープンな運営を心がけること
  3. 常に新しい取り組みを行い、サイトを進化させること

 文学極道が「酷評・罵倒の自由」を強調したのに対し、B-REVIEWは「罵倒の禁止を強調し、投稿者が安心して作品を発表できる環境」を作ることを重視した。一見すると、両者は対極的なサイトポリシーを持つように思える。しかし、本質的にはどちらも「オンラインならではの創作の場とレベルの高い批評の場を作る」ことを目的としており、その方法論が異なるに過ぎなかった。すなわち、似た夢を見ていたのである。

 文学極道が2ちゃんねる的な文化の影響を受けていたのに対し、B-REVIEWはソーシャルメディアの時代に適応した開かれた場を志向していた。文学極道が罵倒と酷評による場の引き締めと活性化を狙ったのに対し、B-REVIEWはガイドラインとオープンな運営によって場を整え、活発な批評空間を形成しようとした。この方針のもと、B-REVIEWには文学極道の文化に馴染めなかったネット詩人たちが流入し、活況を呈するようになった。

 また、B-REVIEWの運営スタイルは、文学極道とは根本的に異なっていた。文学極道が管理者主導の運営を行い、選評制度によって場の権威性を保っていたのに対し、B-REVIEWはオープンな運営体制を取り、投稿者の主体性を重視した。選評のプロセスにおいても、投稿者と運営者の垣根を超えた対話が行われ、投稿者が主導するリアルイベントの開催等の新たな試みが積極的に導入された。

 では、B-REVIEWが夢見たものとは何だったのか。

 それは、ハイレベルかつ安心して参加できる詩文学の投稿・批評の場の創造であった。従来のネット詩投稿サイトの問題点を克服し、新たな時代に適応した批評空間を作ることこそが、B-REVIEWの掲げた理想だった。


【文学極道の終焉──自由な批評の場から単なる停滞と崩壊へ】

 B-REVIEWの台頭により、文学極道の状況はさらに悪化していった。B-REVIEWのマナーガイドラインに馴染めない投稿者が文学極道に集中し、サイトの荒廃を加速させたのである。かつて、文学極道は「自由な批評の場」であった。しかし、その自由は次第に「無秩序な荒らしの場」へと変質し、本来の機能を果たさなくなっていった。もはや、詩作品への鋭い批評ではなく、ただの罵詈雑言や無意味な言い争いが繰り広げられるだけの場となってしまった。

 この状況に対し、運営の方針も迷走を続けた。荒廃を食い止めるために運営の介入が求められる一方、介入を強化すれば「文学極道の自由な批評文化が損なわれる」という批判が巻き起こる。しかし、介入を抑えれば無秩序が進行するという悪循環に陥った。

 さらに、運営者自身が文学極道の理念を十分に共有していなかったことも、混乱を深める要因となったと考える。たとえば、終末期の運営者には、もともとB-REVIEWの評者として招聘されていたが、運営内部の諍いを経て文学極道へと移行した者も含まれていた。また、最終期の文学極道では運営主導の朗読イベント/ツイキャス配信が行われるようになったが、和気藹々としたオンライン交流は、「罵倒上等」の文学極道の風土とはそもそも相容れないものであった。

 もともと文学極道が持っていた「罵倒を許容してまで議論を重視する場」としてのコンセプトと、後期運営が試みた「サイトの健全化」は、よほど緻密に進めないと両立しない類のものだっただろう。サイトコンセプトにそぐわない志向性を持つ運営者たちが運営方針を弄ったことで運営内外の揉め事が拡大し2020年、文学極道は閉鎖された。かつてネット詩投稿サイトの象徴であった場は、その幕を閉じたのである。


【B-REVIEWの凋落──運営の乗っ取り】

 文学極道が終焉を迎えたことで、かつてその場に馴染んでいた投稿者たちがB-REVIEWへと流入した。しかし、これがB-REVIEWに大きな問題を引き起こすことになる。文学極道的な「罵倒・酷評上等」の文化、不規則な放言や誹謗的な発言を含め、マナーガイドラインに縛られず自由に発言できる場を復活させたいと考える者たちと、B-REVIEWの掲げる「マナーを重視した批評空間」を維持したいと考える者たちの間で、次第に齟齬が拡大していったのである。

 B-REVIEWは「ガイドラインに合意した人間であれば、手を挙げれば誰でも運営になれる」という極端にオープンな運営体制を採用していた。この方針は理念としては美しかったが、現実には大きな問題を孕んでいた。すなわち、サイトポリシーに共感しない者であっても運営の中核に入り込むことが可能な脆弱な仕組みとなってしまっていたのである。

 B-REVIEWは2017年の創設以来、複数の運営者によって引き継がれてきた。そして、B-REVIEWの運営は、文学極道を出自とする第八期運営者らに引き継がれたことによって2023年に大きな転換点を迎えることになる。かつて何度もB-REVIEWから出禁処分を受けていた人物が、運営側に招聘されたのである。この新たな運営体制のもとで、サイトのルールは事実上反故にされることとなった。従来であれば「マナー違反」として取り締まられていた行為が放置されるようになり、むしろ運営自らが批判者を中傷するような状況すら生まれた。これにより、B-REVIEWの運営方針は大きく変質し、従来の批評文化の維持を求めていた投稿者たちとの対立が激化することとなった。

 また、サイト内の意思決定の透明性も失われた。それまでオープンな場で行われていた議論はディスコードへと移行し、投稿者全員の目に触れる形での意見交換は意図的に避けられるようになった。これに対し、「もはや本来のB-REVIEWではない」として数十名の投稿者が抗議し、これまでのすべての投稿を削除しサイトを去ることとなった。

 現在、B-REVIEWは存続しているものの、創設当初に掲げられた理念はすでに形骸化している。本来の姿を知る者からすれば、屋号とサイトデザインが引き継がれているだけで、もはや別のサイトに見えるほどである。

 また、本来のあり方を否定したために、かつて開発を支援したプログラマーや、資金援助を行った者からのサポートも失われており、今後の大きな変革はほぼ不可能な状況にある。ここで、B-REVIEWを乗っ取った者たちの行為を具体的に断罪するつもりはない。
 しかし、強調しておくべきなのは、文学極道の最終期と非常によく似た現象が、再びB-REVIEWにおいても発生しているということである。つまり、「サイトの理念に共鳴しない者が運営の座につき、方針を変更することで場が混乱し、迷走し、凋落していく」という構造が、またしても繰り返されたのである。


【文学極道の亡霊にしがみつく人々】

 B-REVIEWが創設されて以降、ネット詩壇には文学極道的な「罵倒カルチャー」を復活させたい、適度に荒れた雰囲気の場をつくりたいと考える人々が常に存在していた。そして最終的に、そうした投稿者たちがB-REVIEWを乗っ取る形になった。

 本来、罵倒や荒れた議論は、創作に真剣に向き合うための「手段」であった。しかし、それが次第に変質し、「無秩序な放言や支離滅裂な発言、癇癪を起こすこと、誹謗的な発言をすること」すら、詩人としての特質であり、詩に対する純粋な姿勢であるかのように誤認する者たちが現れた。
 不思議なことに、サイトを乗っ取った彼らは自分たちが何を目指しているのかについて、殆ど議論も説明もせず、批判には無視か排斥で応えるばかりである。議論すること自体を忌避するような性格の人々が、本来のサイトポリシーを反故にすることだけに妙に固執しているようにも見える。彼らが本当に求めているものは何なのか。

 私の見立てでは、彼らが求めていたのは、文学極道というサイトが生み出してしまった「間違った幻想」である。
 まともなことがほとんど何もできないような人々、すなわち、一貫性のある態度や振る舞い、社会的な態度、感情のコントロールが一切できないような人たちが、自己正当化の手段として、放言や支離滅裂な発言を許容しているかのように見える文学極道の文化にすがりつくようになったのかもしれない。彼らにとって重要なのは、創造することでも、議論を深めることでも、場を発展させることでもない。ただ、自分を肯定してくれる空気に浸り続けることに他ならない。

 もともとは停滞する人々を排除するために存在していたはずの「罵倒文化」が、いつの間にか停滞する人々の拠り所となってしまった。ここまで読んでもらえればわかるように、私は文学極道というサイトが成し遂げた功績についてはリスペクトしている。また、最盛期の文学極道のような場を取り戻したいと思う人々の気持ちもとてもよく理解できる。
 しかし、このサイトの残滓のような人々、場を乗っ取り、まともな説明を忌避し続けている人たちは、文学極道を含めて、これまでネット詩サイトが積み重ねてきた活動に対して、実質的に「悪口」を言う機能しか果たしていない。彼らはそんなつもりはないと反発するかもしれないが、しかし結局ところ、なんのつもりで場を変質させたかったのか、明確な説明も主張もない中にあっては、場を壊し、停滞させ、しかしそうした結果に無頓着な様子以外に読み取れるものがない。


【そしてCreative Writing Spaceへ】

 B-REVIEWの混乱と凋落を目の当たりにした元運営者たちは、新たな文芸投稿サイトの必要性を痛感し、新しいサイトを立ち上げた。これがCreative Writing Spaceである。これまでのネット詩投稿サイトの歴史を踏まえ、サイトのコンセプトや運営方針を再設計し、新たな創作の場を築こうと試みたのである。

 このサイトは、もはや「詩投稿サイト」ですらない。そもそも、詩の枠組みを超えた作品を生み出すことこそが、ネット詩投稿サイトの夢だったのだから、「詩サイト」を名乗る必要もないという急進的な考えに基づいている。また、詩の場である以上、不規則に振る舞って構わないはずだと考える人々が一部に蔓延る中にあっては、特定のジャンルを特権化せず、開かれた場をつくることが詩界隈にとっても利益になると考えた。特に、旧来の詩投稿サイトにまつわる過去の遺物──すなわち文学極道の「罵倒文化」やその残滓──を一切引き継ぎたくないという意識が強かった。

 B-REVIEWの最大の問題点は、「オープンな運営体制が仇となり、乗っ取りが容易なシステムとなってしまったこと」にあった。この失敗を踏まえ、Creative Writing Spaceでは、クローズな管理体制を持ちながらも、分散的な自治が可能なシステムを設計することにした。
 その一環として、サイト内通貨「スペースコイン」を導入し、単なる作品投稿の場にとどまらず、各ユーザーが自律的に活動できる仕組みを取り入れている。また、各ユーザーが気に入らない相手をブロック・通報できるシステムを整備し、運営が過度に介入せずとも各自が自身の環境を管理できるようにした。

 さらに、詩だけでなく小説、幻想文学、戯曲など、多様なジャンルが交差する場を目指し、文学極道やB-REVIEWとは異なる新たな可能性を模索している。名興文庫との提携を通じて、小説界隈との連携を強化し、これまでのネット詩メディアにはなかった展開を示している。

 サイトの立ち上げからまだ間もないが、月間の投稿数はB-REVIEWの最盛期と同程度に達しており、順調に成長を続けている。しかし、これはまだ始まりにすぎない。Creative Writing Spaceはどのような夢を見ているのか──それは、かつての文学極道やB-REVIEWが見た夢の続きであり、それらとは異なる、新しい何かでもある。


【言い訳としての結語】

 Creative Writing Spaceは、特定のジャンルに依拠しない文芸投稿サイトである。あたらしく進めていくことをテーマに掲げている。したがって、本稿のように、詩投稿サイトの系譜を振り返ること自体が本来の方針にそぐわないかもしれない。
 
 名興文庫との提携を通じて小説界隈とも接点を持つ中で、特にアンチ活動に勤しむ人たちを目にするにつけ、小説の世界にもまた、特定のジャンルに閉ざされることで停滞が生じていることが理解できた。他方で、特定のジャンルに囚われることなく、純粋に創作を研ぎ澄ませたいと考える書き手が一定数存在し、Creative Writing Spaceに参画くださっていることも確かである。

 特定のジャンルに閉じないことは、詩に限らず、創作全般において重要な課題なのではないか。内輪の論争に拘泥するのではなく、異なる背景を持つ書き手たちが交わり、互いに刺激を受けるような場を築くことこそが、今後の文芸創作の発展にとって必要なのではないか。Creative Writing Spaceは、まさにそのような場を目指しており、現状にとどまるつもりがないからこそ、この論考を投稿している。

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人の夢 儚い

ひとのゆめは叶い、夢を見たけりゃここまで掘りな

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伸されて

捻じ曲げられも
押し潰されても
進むローラーに
伸されて沈む

海底まで
あと
どれくらいだろうか

無心で塗り絵に色を
塗り続けていた
園児の頃と同じ質量で

幸せかもしれない

あと少し 
海底に着いたら
塗り絵は終わる

みんな帰っていて
出口がない

海底とは 
どんなところか
塗り絵で
塗っていたのは何か

わからないまま
伸されている

今日もあさっても
いちねんごも

いつも

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満天のファンタジー

偽るほど偽るほど人の為に成れ、癖字

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空の瓶に満ちる月の匂い

第一章 出立の鼻

 玄関の鍵を回す指に少しだけ力を込めると金属が控えめに鳴り、溜まっていた室内の温みが細い帯になって夜の外へほどけていくのを肩で受け止め、私は靴紐を確かめてから吸う、留める……吐くの拍を胸の奥で静かにそろえ、家と通りのあいだを流れるわずかな空気の段差を鼻先で測る。
 門扉の蝶番には昼の名残りの鉄の粉が指先に移る匂いを抱え、路地へ出ると電柱の継ぎ目に染みた古い雨の匂いが上がり、配電盤の熱はもう弱く、代わりに虫の翅が擦れる乾いた音が空気を淡く震わせる。商店街へ抜ける道は日中の熱を失い切らず、アスファルトから立つ匂いは油の薄い膜に似て甘く、自販機の投入口には砂糖の角ばった気配が残り、郵便受けの口金には古い錆が紙の繊維と擦れ合う匂いを貼り付け、排水溝からは藻の湿りと埃の温みがとろりと上がってくる。軒先の鉢土はまだ乾ききらず、指先を近づけると土中の乳のような匂いがゆっくり返ってきて、それに混じってどこかの窓から漂う石鹸の泡立ちがほどけ、さらに路地の角では古いポスターの糊が薄く粉を吹き、舌の奥を少しざらつかせる。
 どこかの庭の金木犀が季節の端をつまむように粒の香りをほどき、洗濯物の乾いた繊維は人の肌の名残を湛え、私の鼻腔はその薄さの重なりで静かに満たされる。上着の内ポケットには小さな空の小瓶が一本、そばに薄い手拭い、さらにその隙間には祖母の匂い袋がほどけてこぼれた白檀の欠片が、砂粒のような軽さで入っている。祖母は月見の晩になると香の灰を指腹で撫で、私の鼻先に近づけて「匂いは捕まえるものやない、向こうから通っていく道を整えるんや」と低く笑い、床の間にはすすきが立ち、皿には団子が不揃いに並び、窓の四角に月夜の白が置かれた。月夜という言葉の内側に湿った草と川の鉄と人の体温が層になっていることを、私は祖母の手の匂いから覚えたのだと思う。
 吸う、留める……吐くと繰り返しながら、私はいつもより少し迂回してアーケードの影へ入る。閉店後のシャッターは金属の冷えを板一枚で外へ渡し、そこに手の汗の塩が乾く匂いが薄く混じり、古い看板は雨の記憶を木目に抱えて夜気に触れ、その層がしずかに開いていく。パン屋の前を過ぎると窓の隙間から粉と油分の柔らかい甘さが遅れて漏れ、理髪店の切り落とされた髪の微かな獣臭が床の隅で静かに沈み、文具店の奥からはインクの金気めいた匂いが細く伸びる。私は視線を高く上げず、匂いだけで空の明るさを推し量り、電線の上でほとんど動かない風の角度を頬の内側で測る。まだ視界の端にある月は、鼻柱に触れる冷えの鋭さで上がり方が分かる。
 広場へ向かう交差点の角で犬が一度だけ鳴き、すぐ黙る。その口の中の温度が遠くの風と広場の石の冷たさの差を伝え、近くの信号機の箱は熱を失ってプラスチックの乾いた匂いを吐息のように漏らす。私は鼻孔の内壁がわずかに広がる感覚を楽しみながら、瓶の口をいまは開かないという約束を自分に言い聞かせ、靴底を少しだけ重くして歩く速度を落とす。月はまだ主旋律ではない。あの膜に触れるには、もう一段階、空気の音を減らさねばならない。

第二章 広場の反響

 噴水の止まった広場に入ると沈黙が層になって重なり、石の水盤は日中の熱を手放し切って内側から冷え、縁に残った手の跡の塩気が乾いて苦味をわずかに立てる。ベンチの板は人の坐りあとを木目の奥へ引き込み、樹脂が夜気と出会って甘さを一度薄め、時計台の鐘の音は鳴らず、けれど真鍮の乾いた匂いだけが空気の底で漂う。掲示板の端には月見祭の貼り紙が半分だけ剥がれ、糊の甘さが紙の黄ばみに吸われて粉になり、その粉が空気の波に合わせて舞い、照明の根元からは焼けた埃がほどける。鳩の羽根からは脂がやわらかく抜け、石畳の継ぎ目に溜まって匂いだけを残し、植え込みの土には昼に踏み入った子どもの靴底の跡がまだ湿りのかたちで残っている。
 私は広場の中央ではなく、灯りの届かない端に立つ。吸う、留める……吐くの拍に合わせると、鼻の向きが内から外へ反転する瞬間がはっきり訪れ、私が広場を嗅いでいるのではなく、広場と空のあいだから私という空洞のかたちが試されているような感覚が背中を通り過ぎる。忘れていた匂いがまとまった形で胸に降り、消毒薬の清潔な刺し、ミルクの温い皮膜、白いシーツの擦れる音を伴った甘さがいっせいに戻り、祖母の臨終の前夜、病室の天井に月が薄い弧を描き、祖母は目を閉じたまま「今夜はええ月夜や」と小さく言って、私は鼻を持て余し、何も受け取れないまま瞼だけが熱を持った、その遅れが今になって呼吸の下で均されていく。
 ベンチの陰から清掃の男がゆっくり歩み出て、私に気づく気配を見せず、腰の袋から小さな刷毛を取り出して掲示板の粉を掃き、「張り紙は明日ぜんぶ替えるんだってさ」と自分に言い聞かせるみたいにつぶやき、角の方へ去っていく。言葉の残骸だけが空気の面を揺らし、糊の匂いがふたたび立つ。私は瓶の蓋をそっと回して外し、風のない隙間を待って瓶口を上へ向けるが、捕まえられるのは紙の粉と石の冷えのきしむ匂いばかりで、月の膜はまだ遠い層のまま揺れている。蓋を戻して指で軽く締め、広場の石畳の最後の列を出る前に、噴水の縁に残った水が一滴だけ落ちて石を打ち、ほとんど無臭の冷たさが鼻へ触れて消える。
 靴底にくっつきかけていた小さな葉が折れて鳴り、糊の粉が一瞬立つ。私は背中でその音を受け、川べりへ向かう細い道に鼻を向ける。水の匂いはまだ軽く、葦の青さは遠く、濡れた土の乳は眠っている。途中の橋の欄干に触れれば塗装の下で鉄が乾いていく匂いが手のひらを通して鼻に届き、街の端で眠っているトラックのディーゼルが冷えながら吐く薄い油の面が風に薄まっていく。すべてが原っぱに向けて緩やかに整っていくのを感じ取り、私は呼吸の拍をわずかに長くし、足の置き場を静かに選ぶ。

第三章 原っぱの膜

 土手の上に立つと川面から戻ってくる冷えが頬を撫で、斜面を降りる足元で草が水気を押し上げ、靴の縁に触れただけで青い匂いをまっすぐに立ち上げる。踏みしめた土は昼の温みをまだ腹の奥に抱き、湿りと乾きが同じ場所で入れ替わるときの匂いをこつこつ渡し、クローバーの葉は指で挟むと乳の甘さを少し滲ませる。葦の群れは風が弱いせいでささやきだけを続け、遠くのどこかで焚かれた小さな火の煤がときどき極細に運ばれてきて、鼻の内壁を淡い黒で塗り、やがて電車の高架は遠くで一度だけ低い金属音を落としてすぐに沈黙する。川は鉄の薄い匂いを肺の端へ置き、湿った石の面からは苔の冷えがじわりと起き、星より低い場所で月が大きく見える錯視を越えて、胸郭の内側がひそかに拡張する。
 私はしゃがみ込み、掌で草の束を少しずつ揺らし、鼻先を地面の高さまで下げる。吸う、留める……吐くをいつもより長く保つと、緑の繊維が切れる甘さと水分が解ける湿りが交互に通り、そこへ自分の体温がゆっくり混じって呼気の端に塩の気配が薄く立つ。瓶の蓋をそっと外し、月の方角へ口を向け、風のない一拍を選んで掲げる。開いているのに何も入らない無の軽さが指へ伝わり、瓶は香りを捕らえる器ではなく、香りどうしの間に生まれる薄い変化を受け止める器なのだと、ここでようやく腑に落ちる。私は瓶を草の上に置き、仰向けになって背を任せ、耳の裏で小さな虫が一度だけ羽音を立てて通り過ぎるのをやり過ごす。
 目を閉じると色は消えるが、匂いの輪郭はむしろ濃くなる。空を流れる気体が鼻の穴で私の形を確かめるように出入りし、月の匂いは単独の素材ではなく、草、水、土、体温のあいだに張る透明な膜として現れる。その膜が胸の内側に触れて、ほとんど痛みのない圧を残し、背骨の湾曲を内からゆっくり正す。遠くで獣が一度だけ短く鳴き、すぐに静かになり、川下では水鳥が羽根を打って、湿った羽根の脂が夜気に溶ける。私は寝返りを打ち、草の匂いを衣の繊維へ移し、瓶の口を、自分の吐く息の最後の薄さへほんのわずかだけ触れさせる。息と月の膜が一瞬だけ重なったと感じたところで、私は蓋を静かに戻す。栓が閉まる気配が指先へ伝わり、音にならない音が耳の奥でひとつ跳ね、腹の底がわずかに軽くなる。
 腰を起こすと川のほうで一度だけ水音が強まり、葦の根元で細かくほどける。空はさっきよりも一呼吸分だけ高く、月の輪郭は遠のいたのに、鼻の奥の厚みはむしろ増し、舌の根で甘さが薄膜のように張る。原っぱの端に置かれた古いベンチの下で誰かが落とした紙袋が風に弱く鳴り、その中から乾いた小麦の匂いが少しだけ漏れ、足元では蟻が砂を運んで短い黒い線を整える。私は立ち上がり、原っぱの匂いを背にまとい、土手を上り直す。帰り道の途中で振り返らない。匂いは背中で受け取ると形が保たれる。祖母がそう言ったのを、いまは私の鼻がもう一度言っている。
 土手の上、空は広く、月見という言葉が風の背骨で音もなくほどける。私は言葉を口にせず、ただ鼻の奥で記憶を並べる。団子の粉のざらつき、湯気の温度、すすきの切り口の青さ、縁側の木が夜露で吸った水の匂い――どれも今夜の膜にそっと接続される。川に沿ってしばらく歩き、街へ戻る道に折れる。足底がアスファルトを踏んだ途端、土の匂いが後ろへ退き、代わりに油の膜と鉄の粉が戻り、コンビニの自動ドアの縁から冷気の直線が足首を撫でる。私は歩幅をもう少しだけ狭め、呼吸の拍を丁寧にたたみ、瓶が上着の内で静かに体温に温められていくのを確かめる。

第四章 空の収穫

 家の鍵は行きより軽く回る。室内の基音である紙と木と埃の乾いた匂いがまとめて立ち上がり、そこへ靴底に連れてきた湿った土と草の青さが混ざる。混じり方には段差があり、その段差が棚に置かれた器と器の隙間のように鼻の中で響き、天井の隅で乾いた蜘蛛の糸が夜気を一筋受け、夜気に金気の匂いがまじり、糸はうっすら光る。私は窓を開け、カーテンを少しだけ引き、夜の最後の冷えを布目で分配させる。机の上に瓶を置き、祖母の真似をして小さな調合を試みる。茶葉を指先でほぐし、乾いた柚子皮の欠片を細く裂き、白檀を爪の先でほんの少し削り、原っぱから摘んだ草を乾かさずに指で潰し、香りを順に重ねる。しかし重ねるほどに鈍さが出て、夜に吊られていた膜がどこかへ退き、香りは名を名のままに主張して互いの隙間を埋めてしまう。
 私は混ぜる手を止め、瓶を窓辺へ移す。瓶は空のまま立っている。中を嗅ぎ返すことはしない。確かめないままでいい。風が瓶の口を掠めるが、音は残らず、匂いも残らない。空であることが、今夜の収穫だと胸の奥が静かに頷き、祖母の匂い袋の欠片を掌に乗せ、温度を少し与えると粉の甘さが指の腹に薄く移る。私はそれを瓶に触れさせず、ただ近くに置く。空の瓶が甘さと乾きと青さのあいだに生まれる細いトンネルを抱え持っている気配が鼻の裏側に通り、机の木目の溝に溜まった古い蝋の匂いが静かに浮く。
 台所からは皿の縁が触れ合う金属の小さな音が一度だけ届き、水道の蛇口の先に残った滴の冷えが鼻の中に細い線を引く。私はその線をたどり、名を付けられない甘さがほの暗く灯っている場所に触れ、吸う、留める……吐くをやさしく短くする。呼吸が拍を数える必要を失い、数えないことで初めて数えられるものがあると静かにわかる。冷蔵庫の背から出る微かな熱が壁に沿って上がり、夜の最後の冷えとぶつかって薄い層をつくる。その合わさり目に鼻先を差し入れると、さっきの原っぱの膜がわずかに反応して胸の奥でふくらむ。
 机の引き出しの奥から古い封筒が見つかる。祖母の字で「秋の月に」とだけ書かれた無地の封が、糊の甘さをほとんど失ってから何年もここに眠っていた。中には何も入っていない。空洞の軽さが指に移り、私は封を戻し、引き出しを静かに閉じる。音はほとんど生まれない。その無音が瓶の無臭と共鳴し、部屋の四角は夜の白でわずかに形を変える。
 私は椅子を窓の四角い影に合わせ、背を伸ばす。外では夜の最後の風が低く巡回し、遠くの通りで誰かが「今夜はいい月夜だった」と笑い声に混ぜて言い、その言葉はここまで届かないが、届かないという事実が鼻の内側でやさしい膜になって残る。私は団子の粉のざらつきを思い出し、舌先でその記憶を確かめ、甘さの輪郭が薄くにじんで胸の内側に丸い灯がともるのを見ずに知る。
 祖母の死の夜、病室の窓辺で私は匂いを何一つ拾えなかったが、翌朝、廊下の消毒薬と結露した窓の水と朝の布団の冷えが一度に鼻へ戻ってきて膝が抜けた。あの遅れて届くものが今日も私のなかで形を変え、月という名の膜になって立ち上がり、名前を呼ばず、ただ向こうから通っていく道を整える。私は戸棚の隅から祖母の小さな湯呑みを取り出し、水を指先で一滴落として香りのない冷えを確かめ、湯呑みをまた静かに戻す。
 私は瓶の口を掌で包み、しばらくその温度を保つ。何も起こらない。何も起こらないことが今夜の中心だと理解し、窓の外では鳥が短く羽音を立て、東の暗さがわずかに薄くなる。私は目を閉じ、吸う、留める……吐くの最後の息が少しだけ甘いことを確かめ、そこに名を与えず、ただその甘さを夜から朝へ渡す。
 机の上の瓶は空のまま、しかし空であることによって満ちている。月の匂いは私の内に残り、外に残り、瓶の口元に残り、それらが同時に同じ膜であり続けることを、私は肩の軽さとして受け取り、静かに立ち上がる。カーテンが小さく揺れ、紙の上の影が少し移動し、台所のほうで流しの底の金属が夜明け前の冷えを一度だけ短く鳴らす。私は指先でその移ろいを追い、息を整え、今日の最初の一歩を床へ置く。

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