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2021/01/01 12:00:00

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投稿作品一覧

のようなもの


小説を書いてる人は 
小説 のようなものとは云わない 
脚本を書いている人も
脚本 のようなものとは云わない
専門書を書いてる人 批評を書いてる人もまた 
のようなものとは云わない 


絵を描いてる人が
絵 のようなものとは云わないし
漫画を描いてる人が
漫画 のようなものとは云わない


音楽を作っている人
映画を作っている人
ドラマを作っている人


服を作っている人
料理を作っている人
器を作っている人


エトレトラ エトセトラ


誰も だぁ~れも
のようなものとは云わない




だからさ
もう 詩のようなもの 
などというのはやめないか 


誰がなんと云おうとなんと思おうと
これは詩だと 詩でなにが悪い
なにか問題でも? と



作者は堂々と胸を張っていれば
それでよいのだ





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麦酒の泡が見あげた虹

あまりに天気が良くて
思わず伸びをしたんだ

街路樹も軒に干した長靴も
伸びをする陽気に
溢した麦酒の泡が
人魚姫だった事を
思い出す訳もなく
弾ければ身体は伸び上がる

ぐーんっ、と酔っ払い
どこまでも醒めるまで

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縒の夢/個間の栞

声/内声 結線された景色の手を取り
梯子の最終段を踏み外し
明け方の夢に 雪崩れ込む
体感にして僅か6秒の

おや すみ

寝間着の裏側には洗濯タグの表記のように 組成と いくつかの指示語のみ

声/註釈 栞の裏面に這う虫の 其々の出自を書き記す
公共性への帰依のポーズをとらねば

ALT
(並立する概念:ただしい悪夢,ただしい発狂,ただしい噴火)

映写室 または管制塔か
スクリーンを観る者の背面から 
覗く者の視点を借りて 観ている
ネックレス 眼鏡紐食い込む 顎の細い婦人による発話 デジャヴ
盲目のものに暗がりの昏さを 
相対的にしか説明ができないことの
もどかしさが 咀嚼不良のまま RAWに残る

声/音声 拡張子のみをmp4に書き換えられ
半身のデータを別次元に有している
連想配列に 歯抜けでしまわれ

声/幻聴 その不在性 記憶に結びついた副次情報に過ぎず それさえも 半睡のなかの幽けき音像 想像力の限局である

声/ 撚られゆく 外斜視者の生体感覚 
紐の両端と
キーフレームの二点に 収斂 これを背景情報に押しやる 覚醒の成立 差分は裏地に畳み込み
ALT
(ただしい対応,ただしい順応,ただしい抑圧,のうちの いずれか)

ペンダント 天井で垂れているスイッチの
端をつかみ 一段目に足を掛ける君
認知の此岸では ただしく 
束の噴火が観測された であろうか

おは よう

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霹靂録/短歌連作

遠雷が霞む視界を波立たせなんか人生続いているな

物置にしまったままの過去たちよ勝手にどっか逃げてください

産廃の処分コストも跳ね上がり本年も不良セクタと共に暮らすか

春雷のような記憶に怯むものがあり主治医にはどうやら詩句が難解らしき

飛び立った鳩の行方を訊く調子多分わたしはここにいません

継続の 意思が問われて いるようだ そうはいっても おーい本人!

(応答せよ)

水際を 縫って石塊 川縁の 空を三度か 貫いて落ち 

(またも反応 なかったようで)

かまぼこの 板に「しるこ」と 書いて立て
明日からこれを 表札とする

歴史とか傷の匂いがするものと隔てられれば誤動作もない

耳鳴りを うまく使って 特定の ノイズを消せる 技術はないか

絶望の 一歩手前で メーターが 全トラックを ミュートするわけ

遠雷の ように兆した 不穏にも そんな薬が 効くと思うか

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海の唄


 世界は突然に色を亡くす。悠然と手を広げていた未来が、目にも留まらぬ速さで過去に追い越され、散り散りになってしまう。棺の中で眠る母の顔は、死化粧がよく映える薄い顔をしていた。その死相を思い出し、機内の窓から雲海を眺めため息を吐く。涙はもう出ないけれど、現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。

 長いフライトを終え入国審査をパスし、少ない手荷物を受け取り到着ロビーに足を踏み出す。最後にここを訪れた時の記憶通り、小さな空港だ。
「コウ」
 不意に名を呼ばれ、低い天井に伸びていた視線を落とす。どこか懐かしい顔が、歪な顔付きで立っていた。
「久しぶり、父さん」
 そう声を掛けると、大きな瞳からは涙が溢れた。慌ててそれを拭う父を見て、コウはそっと視線を逸らす。人の涙は嫌いだ。決して溶け合う事のない心が、その瞬間だけは触れてしまう気がして。

 父に連れられロビーを抜け、外に出た途端熱風がふわりと頬を撫でた。まるで子供の落書きのように能天気な青空は、真っ白な入道雲を抱いてコウを見下ろしている。
「覚えているか。ここは変わらないだろう」
 ぎこちなく笑む父の顔は、記憶よりも随分と黒くなった。潮に当てられ皮膚は爛れ、彼が言葉を探すたび皺が緩やかに躍動している。
「覚えているよ」
 コウはそう言って、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。

 母が死んだ。突然だった。三ヶ月に及ぶ話し合いの末に、コウは七年前に別れた父に引き取られることになった。八歳まで過ごしたこの地は、日本から遠く離れた国。四方を海に囲まれている所だけは同じだが、それだけだ。だが、この国には透き通る美しい海があった。数えきれぬ海洋生物がその美しい海で暮らしていた。

 荷物を置いて早々に、コウは父の家を出た。舗装されていない黄色い道路の端を歩きながら左に視線を流すと、白い砂浜に波が優しく打ち寄せていた。真っ青な空の色を写した青い波が、時折白く濁っては去ってゆく。
 ココナッツを大量に積んだ小さなトラックが時折通る道路を十分歩くと、他とは少し違う一軒の家が見えてきた。家の前の桟橋には、ボートが止まっている。
 コウは一度ボートを覗き、誰もいない事を確認してから家の扉を叩いた。中から顔を出したのは、縮れた赤毛の女。エメラルドグリーンの瞳が、コウを写し揺れる。
「コウ、帰ってきたのね」
「久しぶり、マリア」
 そう言ってマリアは躊躇なくコウを抱き締めた。まだ成長しきらぬコウをすっぽりと抱き竦めたその腕は、すぐに解かれ荒れた手が肩に添えられる。
「少し痩せたわ」
 七年ぶりの再会なのに、とコウは少し笑った。それに安堵したのか、マリアもまた微笑むと扉の中へとコウを導いた。
「みんなに顔を見せてあげて。あなたに会いたがっていたから」

 日本から遠く離れたこの地に来る事を決めた理由は、父だけではない。海洋生物、主にクジラの研究をしているこの施設は、かつてコウが毎日のように通っていた場所だ。クジラの声を初めて聞いたのもこの研究所だった。海を愛おしく思うようになったのも、ここだった。

 一頻り少ない研究員との再会を終え、コウは残りの一人を探して狭い研究所を見渡した。
「ロブはどこ」
「お散歩しているわ。そのうち帰ってくると思う」
 ロブはこの研究所の所長であり、イギリスから来た老人だ。サンタクロースのような風体が、この南国にあまりにも不釣り合いだった。とても優しく、そしてコウに海を教えてくれたひとである。
「あ、ほら」
 そう言ってマリアが窓の外を指さす。コウははやる気持ちを抑えきれず開け放たれた窓から身を乗り出した。変わらぬ白髪に、立派な白い髭。だが、ロブの隣には見慣れぬ少年の姿があった。
「あれロブの孫?」
「そう、ローア」
 ロブに孫がいたなど聞いた事がないが、当時はまだ幼すぎてそもそもそんな事に気がいかなかった。未知の世界が燦然と光り輝いていただけだ。
「へえ、あまり似ていないな」
「海が大好きな所以外はね」
 マリアの言葉に適当な相槌を打つと、コウは弾かれるように飛び出した。

 砂浜に杖をついて歩いていたロブは、研究所から突然飛び出した少年の姿に一度大きな瞬きをすると、足を止めて長い腕を広げた。導かれるようにコウがその胸に飛び込むと、痩せた腕がしっかりとその身体を受け止めてくれた。
「コウ、帰ってきたのか」
 ああ、ロブの声だ。その低く枯れた声が与えてくれた輝かしい知識を胸の内に蘇らせる。また彼にこの広い海を教えてもらえる事は、今のコウにとって何よりの喜びだった。
「またあえて嬉しい」
「私もだよ、大きくなった」
 抱擁を終えると、ロブは一歩後ろで佇む少年の肩を抱き、コウに向かい微笑んだ。
「コウ、ローアだ。君より少し年下だが、仲良くしてくれると嬉しい」
 そう促されコウは少年をまじまじと見詰めた。泳いだのだろうか、肩まで落ちる透けるような金色の髪は濡れている。大きな瞳は何処を見るともなしに彷徨っていて、度々長い睫毛に隠される。随分と痩せているようだ。
「ローア、僕は長谷川光。コウって呼んで」
 そう言って手を差し出すと、ローアはコウの白い指先からゆっくりと視線を這わせた。腕を辿り、肩で惑ってようやく視線がぶつかった瞬間、コウは思わず感嘆した。
「綺麗な瞳の色だね。まるで海みたいだ」
 薄い瞼のしたの大きな瞳は、文字通りいま目の前に広がる海の色とよく似ていた。吸い込まれてしまいそうな感覚も、海とよく似ている。
 コウがその瞳の色に見惚れていると、不意にローアは海を振り返りあまりにも突然走り出した。
「え、ローア!」
 コウがそう叫んだ時には、既に彼は青い波の隙間に消えていた。
「どうしたの」
 驚いてロブに問い掛ける。白んだ瞳は、海の遥を写していた。
「海が好きなんだ。一日中泳いでいるよ。コウも久しぶりに泳いではどうだ。ローアとの海中散歩はきっと刺激的だよ」
「でも、今は水着じゃないから」
「昔は裸で飛び込んでいたじゃないか」
 確かにそうだ。だがまだ、海に抱かれる気分ではなかった。
「また明日にする。明日も来ていい」
 ロブが優しく頷いてくれた時だった。研究所の扉が開き、荷物を抱えたマリアが飛び出した。
「ボス、クジラ達が……!」
「今行く」
 研究員たちは慌てた様子で次々とボートに乗り込んでゆく。
「コウ、また明日おいで」
 ロブはそう言って桟橋に足を掛けるマリアに向かい厳しい表情で声を掛ける。
「ローアが海に入っているんだ、航路にいないか確認してくれ」
 二人が慌ただしく会話をしながら桟橋を渡りボートに乗り込む背中を見送り、ふとコウは凪いだ海に視線を流した。丁度息継ぎに出たのか、小さな金色の頭がボートのすぐ脇に浮かぶ。気付いたマリアが声を掛け梯子を下ろすと、ローアは素直に梯子を上がりボートに乗り込んだ。
 かつては、コウがあそこにいた。調査に出る船に乗り込んで、デッキから初めてクジラの群れを見せてもらった。変わっていないと思っていたこの場所もまた、時の流れが残酷に押し流している。

 知れず肩を落として家へ戻ると、コウを空港まで迎えてくれた父はすでに仕事へ出た後だった。近年急速に発展している観光業に転職していた事は定期的に届くメールで知ってはいたが、それもまたコウの胸を圧した。コウの父は元々市場で働いていた。コウが小さい頃は、よく母と手を繋いで市場に父を迎えに行っていた。あの市場の賑わいの中を父を探し歩く時間がコウは好きだった。
 深い吐息を吐きながらかつて暮らした懐かしい我が家を眺めてみる。微かな面影はあるが、やはり時の流れが無情にも大切な記憶を消し去ってゆく。
 母が突然死んでから、まるでコウは胸が押し潰されるような不快な痛みを感じていた。二度とは戻らない、全て。未来を見詰めて歩く勇気が、今はなかった。

 日没まではまだ長い。コウは思い立って家を出た。研究所のある西海岸の反対側、東海岸までは、サンクチュアリとして観光客の立ち入りを禁止している島民の居住区から歩いて三十分ほど。空港から家までの車中あまり外を見ていなかったが、東海岸に向かうにつれて辺りの様子は様変わりしていった。あからさまな土産物屋には多国語の看板が客を出迎えており、飲食店が随分と増えた。通りには他国からやってきた人々が人波を作っている。軒先をぼんやりと歩くコウに、中国語で声を掛けてくる店主。自慢の工芸品を手に近付く老婆。七年前は見る事のなかった顔付きに、目頭が熱くなる。

 観光客向けの大通りをずっと行くとホテルに辿り着いた。今では行事以外では誰も着ていない民族衣装に身を包んだ父が炎天下の車止めに佇んでいる。焼けた顔は、直ぐにコウを見付けてくしゃりと破顔した。
「コウ、どうした。博士たちには会えたのか」
 ちいさく頷くコウの髪を、父の荒れた手が優しく撫でる。
「帰ったらたくさん話をしようね。お父さんはまだお仕事だから、気を付けてお帰り」
 余計な優しさが滲み出す、まるで幼児への言葉。コウはまた頷くと、来た道を素直に引き返す。気を抜けば、止め処ない涙が溢れてしまいそうだった。

 この島が観光に力を入れ始めたのは、数年前のことだそうだ。四方を囲む美しい海は長い時を経て形造られたラグーンがある。あまい空色のラグーンと、コバルトブルーの外海。豊かな珊瑚の森に、豊富なプランクトンを求め外海からも生物が訪れる。そうして生き物たちが鮮やかで豊かな生態系を築いているのだ。またシロナガスクジラがこの海の沖を長年繁殖地として使っている。それ故に、この国にはそう言った人の手の入っていない自然や、美しいバリアリーフ、クジラやイルカを見に多くの観光客が訪れる。その数は年々増え、海洋汚染も問題になっているとは、日本にいる時に故郷の事が気になって調べていた。
 かつては地元民だけが細々と暮らしていた島。決して裕福ではなかったけれど、夜は深く、波が歌う音がそっと寄り添っていた。まだこの国に帰ってきてたった一日も経っていないのに、コウの胸には早くも重い喪失感だけが低い唸り声を上げていた。

 帰国した次の日も、コウは仕事に出る父を見送るとすぐに研究所へ向かった。その日は桟橋に双眼鏡を手にしたマリアの姿があった。
「おはよう、何をしているの」
 沖を見つめる背中に声を掛けると、赤毛を翻しマリアは驚いたように振り返った。
「おはよう、コウ」
 優しい笑みに促され、コウもまた微笑んで見せる。しかし再び沖へと視線を馳せ、マリアは深いため息を吐いた。
「最近、クジラたちが外海からラグーンへ来る事があるの。シロナガスクジラは繁殖期以外基本的に群れで行動しないはずなのだけど……。まだ繁殖期には早いし、そもそも何故繁殖期の前にここに来るのか分からないの」
「ラグーンに来たら、大変だよね」
「そう、だから最近よく打ち上げられるのよ。まだ餌場の移動にも早いし、それに、あの歌────」
 そこで言葉を途切れさせたマリアの横顔は、ひどく悲しみを帯びているように見え、なんと声をかけていいかわからなかった。
 不意にマリアは黙り込むコウを振り返る。
「海に入らないの」
 再びなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いて見せる。マリアの萎びた手が、そっとコウの肩を抱いた。
「我慢しなくていいのよ、ここでは」
「我慢なんて、していないよ」
 否定しながらもまた胸が圧される。
 日本に住む母方の祖父母には、母の死後父の元へ行く決意を告げた時に、猛反対にあった。元々母と外国人である父の結婚には反対だったとも聞かされた。コウは父も、母も、同じくらいに愛していたし、父を悪く思った事はなかった。母の死に追い討ちをかけ、それがとても辛かった。だからこそ父の助力も得て祖父母の反対を押し切りこの国に来たのだ。元々この国で生まれたのだから言語も国籍も壁はなかった。けれど、街を歩いてみて知った。この国の人にとって自分がよそ者である事。それでもここに来た事を後悔はしていない。ただ、息が苦しい。

 不意にとんとん、と木板のデッキを軽やかに踏む音が後方から近付き、コウは思考の海から顔を上げた。振り向くと、ローアがデッキを駆けてくる。まだぼんやりとした頭で、コウはただその姿を追う。
「あっ」
 思わず声が漏れた。二人が佇む桟橋の突端まで辿り着くや、なんの躊躇もなく、美しい放物線を描き吸い込まれるようにその姿は海へと消えた。ラグーンの空色の中を肩口まで伸びた細い金色の髪が踊るように遠のいてゆく。コウも泳ぎには自信があったが、彼はその比ではない。フィンも履いていないのに、瞬く間に珊瑚の森の中へと消えてしまった。
「ローアは不思議な子なの」
 その姿が消えた先を見詰め、マリアがぽつりと呟く。
「彼はクジラを呼ぶのよ」
「クジラを」
 思わず聞き返す。人が餌付けしていない野生のクジラを呼ぶなんて聞いたこともない。
「そう、ローアが海に入ると、クジラが歌い出すの。長く研究しているけれど、聞いた事もない歌。まるで、彼を呼んでいるみたい────」
 熱い風が頰を打つ。マリアの言葉の意味を探そうとすればする程、真意が遠のいてゆく気がする。
「冗談よ。偶然だわ」
 マリアはそう言って笑った。コウは愛想笑いで答えながら、瞳は海面を彷徨う。
 彼が海に入ってから既に何分が経っただろう。一向に浮いてこない。シュノーケルもしていなかったし、何処か見えないところで息継ぎをしたのだろうか。だが、コウは広く海を見張っていたはずだ。

 二人が黙り込んだまま海を眺めていると、桟橋の近くに泡が浮いた。次いで小さな頭が海面に姿を現す。漸く見付けたローアは、息一つ上がっていない。そのまま桟橋の端にかけられた古い梯子を小さな身体が軽やかに上がってくる。コウは驚きに目を瞬かせながら、微かな喜びを胸に感じた。
「泳ぎが上手なんだね。イルカみたいだった。何分息を止めていられるの」
 思わず問い掛ける。しかしローアはその幼さからは掛け離れた、まるで情事の後のような気怠げな様子で濡れた髪をかきあげ、ちらとコウに視線を流した。薄いまぶたに半分覆われた瞳は、ラグーンのあまい色ではなく、外海のような鮮やかで冷えた美しいコバルトブルー。その中に水泡に似た煌めきが沈んでいて、やはり呑まれる程に美しい。けれどコウで一瞬留まった瞳はすぐに桟橋へと落ちた。そのままローアは口を開くことなく、とんとん、と木板を鳴らして去ってしまった。
 痩せた背中を見送り、コウは沖を見詰めるマリアを仰ぐ。
「彼は口が聞けないの」
「そうみたい。よく分からないけれど」
 そう言ってふと、マリアはローアの背中を振り返った。
「ここに連れてきたのも療養なのじゃないかしら」
 海は、自然は、時に人の心を癒してくれる。優しく包み込み、傷口をそっと舐めてくれる。それはコウもよく知っている。あのイルカのような不思議な少年もまた、深い心の傷を抱えているのかと思うと、コウはますますあの瞳に宿る海に引き寄せられてゆく気がした。

 マリアが研究所に戻ってから、コウは砂浜に座り込んで海を見詰めていた。穏やかに寄せては返す波は、いつまで見ていても見飽きない。このまま、この身体ごと海に溶け出してしまいたい。そう思っても、叶わない。マリアが気を遣ってマスクを手渡してくれたことだし、海に入ってみようか。だがやはり、その気になれない。
 考えてはやめ、また考える。それを繰り返しているうち、ふとコウは人の気配を感じ振り返る。白い砂浜を、ローアがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。まだ濡れた髪は潮風に煽られ、微かに揺れている。
「ローア」
 思わず声を掛けると、ローアはコウで視線を止めた。
「また海へ行くの」
 その問いに返事はない。けれど、彼は真っ直ぐにコウを見詰めている。何を伝えたいのか、その瞳の奥底を覗き込んではみたが、彼の瞳はやはり海と同じ。何も教えてはくれず、何も与えてはくれない。けれど、涙が溢れそうになる。

 ふ、と視線を逸らし、ローアは海に向かい歩き出した。また泳ぎに行くのだろうか。そう感じ、コウは反射的に立ち上がっていた。
「まって」
 咄嗟に声を掛ける。ローアはちらと横目でコウを見やり、すぐさま波に足を浸した。慌てて追い掛けながら、コウの胸にちらちらと熱が燃える。腰まで浸かる所までゆくと、ローアは徐に海の中へと消えた。真似るように飛び込み、コウは思わず軽く海水を呑んだ。海は慣れたものだと思っていたのに、ローアを見失わまいと逸る気持ちが冷静さを奪ってゆく。それと共に、世界の騒めきが一瞬にして消え、自分の身体の奥底の音だけが深いところから響いてくる感覚を思い出す。漸く海に抱かれたのかと思うと、胸に燃えた柔らかな焔がより赤々と揺らぐ。
 呑み込んだ海水を吐きに一度海面に顔を出し、深い息継ぎをして、今度は心を鎮め再びコウは頭から海に潜り夢中でローアを追いかけた。やはり速いが、見失う程ではない。それとも、コウに合わせてくれているのだろうか。
 珊瑚の死骸が堆積した真っ白な砂地は、深度が深くなるにつれて姿を変える。沢山の生き物を抱く珊瑚たちが白い砂地との境界線を鮮やかに描く。コウが強く水を蹴るたびに色彩豊かな魚の群れが突然現れた人間を前に散ってゆく。広大なイソギンチャク畑にはクマノミたちが、ハードコーラルにはちいさなスズメダイの仲間や目を凝らさなければ見えない甲殻類が、かつてコウが見たまま、そこで生きていた。限りなく青く澄んだ世界に強い陽光が差込み、波の揺らぎにゆらゆらと煌きを放ち、懐かしさに思わず鼻先が苦くなる。こんなにも変わり果てた世界で、海は何も変わっていない。あの頃のまま、コウを優しく包み込んでくれる。
 感傷に浸るコウの先、ローアは輝く珊瑚の森をしなやかに下肢をしならせ泳いでゆく。右へ、左へ、目的もなく、時折くるりと回って見せて、まるでローアの周りを泳ぐ魚たちと遊ぶように。その姿は若いイルカと同じ、美しく輝いている。だが、幾ら泳ぎが上手いとはいえ、これ程までに自由に泳げるものなのだろうか。それどころか既に数度息継ぎをしたコウと違い、一度も海面に顔を出していない。何より、彼はコウと違いマスクをしていないのだ。それなのに、まるで陸上と同じように感じる程自在に珊瑚の森を抜けてゆく。一体、彼は何者なのだろう────。
 そう思った時だった。ラグーンの遥か向こう。外海から、突然轟いたもの。それは幼い頃ロブに聞かせてもらったクジラの声だった。低く伸びてくるその音は鼓膜を震わせ、その震えは全身へと拡がってゆく。地の底からゆっくりと忍び寄るような、深淵の唄声。コウは思わず泳ぐのをやめた。これは一頭のものではない。マリアは冗談だと言ったけれど、あながちそうでもないような気さえしてくる。ふと気付けばローアもまたそこにたたずみ、クジラの声に聴き入っているようだ。水の中でも喋れたら良かった。コウは強くそう思うほど、知りたくてたまらなかった。クジラは何を言っているのか。ローアは、今何を思っているのか。

 無意識に手を伸ばそうとした所で、コウは息苦しさを覚えた。人間は水中で呼吸する事ができない。そんな事すら忘れる時間は、ほんの一瞬だったに違いない。けれど、まるで悠久の時の中を泳いだような気がした。
 空気を求め海面へと向かうコウを、不意にローアは振り返った。深い海の色をした瞳は、真っ直ぐにコウを見詰める。深度を深く取りマイナス浮力が働いた瞬間の、あの感覚。深い深い海の底へと音もなく堕ちてゆく、説明のできないあの快感。

 本能が叫ぶ。誘われている。命の、その先へ────。

 勢いよく海面に顔を出し、コウは必死で澄んだ空気を吸った。流れ落ちた潮水が口に入り、余計に息苦しさを覚える。本能的な荒い呼吸を繰り返しながら、コウの瞳から涙があとからあとから零れ落ちてくる。その理由に、気付かないフリをした。

 苦い海中散歩を終え、コウは海から上がり砂浜に足を落とした。ローアはまだ、クジラの唄を聴いているのだろうか。
 ふと上げた視線の先、ロブがこちらを見詰めている。
「泳いでいたのか」
 どこか気恥ずかしくなって、コウは俯いたまま不器用に笑って見せる。
「たくさんのクジラが歌っていたよ」
「ローアは」
「分からない。まだ海の中だと思う」
 白んだ瞳がゆっくりと沖へ向かう。コウもまたその先を追いかけ、海中の記憶を思い起こす。
「ローアはイルカみたいだ。凄く綺麗だった」
 ロブは満足そうに頷き、濡れた肩を優しく抱いた。
「明日、久しぶりに外海に出てみるかい」
 その問いに、コウは嬉しくなって元気よく頷いた。
 外海は鮮やかなラグーンとはまるで違う。ラグーンの端の珊瑚からは急激に深くなる。その先は更にドロップオフになっていて、その深さは500mにもなる。そしてその傾斜は2000mの深海に繋がっている。勿論実物を見た事はないが、ロブは人間が到達できない深海についても詳しくコウに教えてくれた。人の目では感知することの出来ない、暗黒の海。恐怖と共に当時コウの胸に芽生えたものは、はげしい焦燥だった。知りたい、見てみたい、人間には許されない、その世界を。海の生き物として生まれなかった事を初めて恨んだのも、その時が初めてだった。

 明日船に乗る約束をして、コウは家へと帰った。今日は様々な事があった。何かが変わる気がして避けていた海に遂に身を委ねた事、変わらぬ美しい生命の煌めき、そして────拒絶されるコウと違い、溶け合うことを許されたあの少年。
 ローアのしなやかな動きを思い出していると、不意に建て付けの悪い扉が軋んだ音をたてて開き、コウは反射的に立ち上がり扉の方へ素早く顔を向けた。仕事から帰宅した父は、コウの姿を見付けるととても嬉しそうに頬を緩める。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 抱き寄せられた身体は、痩せた胸にぶつかった。人の体温は思うよりも熱い事を思い出し、コウもまた父の背に腕を回す。
「髪から海の匂いがする」
「今日はラグーンで泳いだんだ。クジラの歌を聴いたよ」
 父は身体を離すとコウを先程まで座っていた椅子に座らせ、自らもその横に腰を下ろした。握られた手は、やはり熱い。父は昔からいつもコウの話しを全身で聞こうとしてくれる。陽に焼けた頬を弛ませて、この島の人と同じ、大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見詰めて。父は優しい人だった。優しすぎたのだと、生前母はよく言っていたが、コウにはまだその真意がよく分からなかった。けれど、そんな父がコウは好きだった。
「ロブの孫が来ているんだよ。イルカみたいに泳ぐんだ」
 海の中の変わらない美しさや、全身に響いたクジラの声、そしてローアの事にまで話しが及ぶと、父はふと表情を曇らせた。
「ウィリアムズ博士に孫……」
 どうしたの、と問うコウの手を離し、父は携帯を触り出す。しばらくすると、やはりそうだと一人納得し、コウに向き直る。
「彼に孫はいないはずだよ。子供がいないから」
 ロブ────ロビンソン・ウィリアムズ博士は、世界的に有名な海洋生物の研究者である。研究に没頭するあまり、生涯を誰と歩む事はなかった。いや、彼は海と、クジラたちと長い人生共に生きる事を選んだのだ。
「何か事情があるのかもしれないね。あまり深く聞いて傷付けてしまわないように、気を付けよう」
 父はそう言ってコウの髪を撫で、夕食を作る為か席を立った。コウは一人、椅子に腰を落としたまま思考だけを浮遊させる。
 そんな気はしていたのだ。ロブに妻がいた事も聞いていなかったから。だがロブがそうだというのなら、ローアはロブの愛する孫なのだ。それはそれでいい。だがやはり彼は今の自分と似た境遇なのだと感じる。どれだけ大きな喪失をその胸に抱き、海へ向かうのだろう。そう感じた途端、あの金色の髪をした少年の事を、より愛おしく感じた。

 次の日、約束通りコウは父を見送ってから家を出て研究所に向かった。今日も今日とて、風は優しく海は凪いでいる。南国らしくスコールはあるものの、年間降雨量の少ないこの島は、いつでも広い空が広がり海を染めている。日本の狭い空を見るたびに、コウはこの国を思い出していた。
 健やかな気持ちで辿り着いた桟橋では、既に研究員たちがボートに乗り込む所だった。コウを待っていたのか、マリアがすぐに右手を大きく振る。
「コウ、待っていたわ」
 答えるように右手を振り走り寄るコウの肩を抱き、マリアは腰をかがめて頬を寄せる。四十絡みの彼女からは、化粧の匂いがしない。
「丁度シロナガスクジラが沖にいるの。それも、大きな群れよ」
「本当、楽しみ」
 これまで存在したどんな生物よりも大きい生き物、それが群れているなんて、コウはこれまで見たことがなかった。繁殖期以外単独で行動し、出産はこの地を離れて行なうからと言う理由の他に、この海洋保護区域で繁殖期のシロナガスクジラにみだりに近付くことは基本的には許されない。それはロブが決めた事だった。どんな生き物も、妊娠中はナーバスになる。近年増加傾向にあるとは言え、シロナガスクジラはかつての人間の乱獲により絶滅が危惧されている種。研究だとしても、生き物を刺激しないよう細心の注意を払い短時間で済ましている。そんなロブが、コウは好きだった。

 胸を躍らせマリアと共にボートに乗り込むと、船首の柵に身体を預け、ローアはじっと優しく揺れる水面を見詰めていた。
「ローア、おはよう」
 横目でちらりとコウを振り返り、深い海の色をした瞳は再び水面へと戻ってしまう。柵の上に組んだ腕に細い顎を乗せ、どこか憂いているかのようなその横顔を潮風が踊らせた金色の髪が撫でてゆく。
「コウ、デッキにいるならこれを着て」
 マリアはそう言うと、オレンジ色のライフジャケットをコウに着せた。近年着用が義務付けられたらしいが、何故かローアは着ていない。コウが不思議に思っているうちにボートはエンジンを吹かし出航した。
 調査船と言うには小さなボートはラグーンの珊瑚を傷付けないようにゆっくりと進む。すり鉢型のラグーンの壁が一番低い位置を越えると、周囲の色彩はがらりと変わる。甘い色の海は、深い深い青に染まり、ボートがスピードを上げると飛沫が白く濁って跳ね上がる。風を切りながら進む船首は彼の特等席なのか。ローアは変わらずじっと海面を見詰めている。靡く髪が、遮るもののない太陽のしたで煌めいて見える。

 ボートは四十分程進んだところで漸くとまった。この辺りには小さな島もなく、陸は遠く海鳥の姿もない。デッキから海面を覗き込むと、ただただ青く澄んだ海だけが拡がっている。どうやらここは随分と深いようだ。
 コウが穏やかな水面から目を離した時だった。突然、ボートのほど近い場所で大きな音と共に水柱が吹き上がった。その高さはゆうに八メートルはあるだろうか。コウは思わず口を開けその白い水柱の行方を追う。クジラだ。しかも、これはシロナガスクジラだ────。そう思った瞬間、次から次へとクジラたちはブローを始めた。その音は耳を塞ぎたくなる程のもので、けれどコウはこんなにも間近で何頭ものシロナガスクジラを見るのは初めてだった。一瞬にして頭に血が上り、慌ててデッキの柵から身を乗り出す。
「コウ、気をつけて」
 丁度船室から出てきたのか、背後からマリアにそう声を掛けられても、コウは夢中でクジラの姿を探した。ブローは呼吸と同じ。シロナガスクジラは五十分も潜水していられると聞いた事もあるし、そう何度も出てはこないだろう。だが、まだ息継ぎをしていない個体もいるかもしれない。
 生返事を返しながら夢中で海面に視線を走らせていると、船室から飛び出した研究員が慌てた様子でマリアを呼んだ。
「マリア、来てくれ」
 分かった、と返し、再びマリアはコウを振り返る。
「あまり柵から身を乗り出さないでね」
 マリアがそれだけ言って船室に戻ろうとした時だった。船首でぼんやりと海面を眺めていたローアが、突然海へと飛び込んだのだ。
「ローア!」
 驚いて叫ぶが、すでにその姿は深い海の中へと消えてしまった。
「まって……!」
 コウは慌てて持ってきていたマスクをつけ、ライフジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま海に飛び込もうとしたものの、マリアの腕がそれを止めた。
「ダメよコウ!」
「どうして」
「ここはドロップオフに沿ってダウンカレントもあるし、深度を少し落とすと潮流が速いの。もしもの事があったらどうするの」
「でも、ローアは……」
 マリアは厳しい瞳で、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子は特別なの。あなたはダメ」
 マリアは知っているのだろうか。あの少年の正体を。

 思考が追い付くより先に、身体は細い柵を乗り越え船を囲むしろいその鉄枠を蹴っていた。背後で悲鳴のように叫ばれた自身の名は、はげしい入水音に掻き消され。今はとにかく、息が続く限り。そう思って周囲にぐるりと視線を走らせたが、まるでコウが追ってくる事を知っていたかのように、ローアは頼るものの何もない水中で佇んでいた。じっとこちらを見詰める瞳は、海と溶け合うようにして微かな光を放っている。やはり彼は器具なくして陸と同じようにものを見る事ができるのだと、コウは漠然と感じた。
 ローアは自分を待っているのだと察し、コウは息を整える為一度海面に浮上した。すぐさまデッキからマリアの悲鳴が聞こえる。
「コウ、お願いだからこれに掴まって!」
 ロープの付いた浮き輪は、少し離れた所に投げ入れられた。ロブまでも船室から出て、柵から老躯を乗り出してコウの名を呼んでいる。素直に戻るべきだ、それは痛い程に分かっていた。しかしなぜ、誰もローアの心配をしないのだろうか。その違和感は、よりコウを海の底へと引き摺り込む。
「ごめんなさい」
 そう囁いて、ゆっくり深く肺いっぱいに空気を吸い込むと、コウは頭から海に潜り込み力いっぱい水面を蹴った。真っ逆さまに海の底へと沈んでゆくコウの眼前に、ラグーンとはまるで違う景色が拡がる。生き物の姿は薄く、悠々と泳ぐ青魚の群れが人間の姿に驚き去ってゆくばかり。ただただ、震えるほどの澄み切った真っ青な世界。このまま呑み込まれてしまいそうだ。ローアはまるでコウを誘なうかのように、こちらを真っ直ぐ見詰めたままゆっくりと堕ちてゆく。手を伸ばせば触れられそうなのに、強く水をかけば追付そうなのに、それが叶わない。
 そして高い透明度が水深四十メートル程にあるドロップオフの姿をローアの遥か後方に微かに見せた瞬間の事だった。不意にローアの背後から黒い影が浮かび上がった。驚きに目を見開き、危うく肺に貯めた空気を吐き出してしまいそうになる。おおきい、二十メートルはあるだろうか。音もなく悠然とドロップオフの先に続く深海から現れたクジラは、ローアの側で動きを止めた。そして驚く事に、次から次へとクジラたちが深い海の底からローアの元へと集まり始めたのだ。水中は、全身が震えるほどのクジラたちの声で満ちた。一体何が起きているのか、ローアを中心に巨大なシロナガスクジラが四頭、いやまだいるかもしれない。けれどその巨体はこの広い海を一瞬にして埋め尽くしてしまった。コウを伺うようにゆっくりと忍び寄るクジラたち。深度を落とすにつれ、水温も低くなってゆく。今どのくらい深く潜ったのだろう。帰るまで息は持つのだろうか。ふとコウは身体が震えていることに気付いた。目の前に拡がる自然の大きさに恐怖を覚えたのだ。はっきりとそう自覚した瞬間、突然身体が思いもよらぬ力に引き寄せられ、深い海の底へと吸い込まれてゆく。それがダウンカレントだと気付くまでに一瞬の間を要したが、コウは半ばパニックになり肺に溜めた空気を吐き出してしまった。慌てて頭を上に戻してはみたが、遥か頭上の太陽は遠く、波に揺れ霞んでいる。相変わらず歌い続けるクジラたち、そして、恐ろしくなって見下ろした先。深い深い海を宿した瞳が、静かにコウを見詰めていた。問われている心地がした。このまま本能に身を任せ空気を求めるか、それとも、見ないフリをした欲望のまま、堕ちてゆきたいか。

 気付けば、無我夢中で水面を目指していた。苦しい、苦しい、苦しい、怖い────。だがもがいてももがいても深淵へと引き摺り込まれてゆく。父の顔が脳裏に浮かび、次いでロブが、マリアが、コウを生に縛り付ける。戻らなくては、なんとしても。けれど、もう息が持たない。進むこともできない。未だ微かに燃えるちいさな命が海に抱かれ、冷たくなってゆく。焦れば焦るほど水を呑み、体内の空気は失せた。次第に意識は遠退き、コウは静かに深い海の底へと墜ちてゆく。クジラたちが、遥か遠くで唄う声を聴きながら。思考が途切れる刹那、コウは確かに感じた。

 心はこれを求めていたはずだ。海へと還る為にこの国に来たのだ、と。

 幼い頃、全ての命は海から産まれたのだと母は寝物語に教えてくれた。そして、海へと還ってゆくのだと。母は海を愛していた。だからこの国に来て、父と出逢った。コウは幸せだった。母がいて、父がいて、いつでも命の揺り籠である海が傍らに寄り添っていたから。けれど、その母は自ら命を絶った。母の望み通り、遺骨は海へと還した。粉々になったしろい骨が風に乗りやがて静かに海に吸い込まれる様を見て、コウは漸く母の死を実感し葬式でも流さなかった涙を流した。母が本当に遠退いてゆく。そんな気がしたのだ。溶けてゆく骨に向かい、お母さん、そう何度も叫んだ。海は何も答えてはくれなかった。
 母と言うかけがえのない存在の喪失は、コウの胸に大きな穴だけを残した。それはまるで底の見えない深海。全てが呑み込まれてゆく。未来も、生きる力も、何もかも。母と共に逝きたかった。海へと還った母の側に行きたい────。

 ふと深く沈み込んだ思考が急浮上を始め、うっすらと瞼を開くと、目の前に見慣れた白髭の老人の顔があった。
「コウ、気が付いたか」
 何が起こったのか分からず、コウはゆっくりと身を起こし辺りを見回した。ロブの傍らに座り込んだマリアが、声を上げて泣いている。どうやら船の上のようだ。
「良かった……レスキューに状況を説明している時に、ローアが君を連れ戻してくれたんだ」
「ローアが」
 掠れた声で問うて、コウは引き摺り込まれるような強烈な感覚を思い出す。あの強い流れの中を、どうやって。再び周囲を見回すと、ローアは船首の柵にもたれ、じっと海面を目詰めていた。どれくらい経ったのか分からないが、何事もなかったかのような変わらぬその姿に、コウは恐怖さえ覚えた。彼はやはり、普通ではない。彼の胸の奥底に自分と同じものを感じていたはずなのに、きっとそれはまるで見当違いだったのだ。何故海の底へと導いたのか。それなのに、何故消えゆくはずの命を掬い上げたのか。青い瞳を思い出し、コウは漠然とした疑問を胸に抱く。彼は一体、何を伝えたかったのだろう。考えれば考えるほど、思考は絡まり合ってしまう。呆然とするコウの肩を優しく撫でながら、ロブは研究員にちいさく頷いて見せた。
「船を出してくれ」
 周囲に集まっていた研究員たちが帰港の為に動き出す中、ロブだけは心配そうに付き添ってくれていた。コウは慎重にロブの傷んだ顔を見上げる。
「ロブ。ローアは一体、何者なの」
 その問いに、ロブは微かに瞳を細め、コウの濡れた髪をゆっくりとその萎びた手で撫でた。
「海の中で、あの唄を聴いたか」
 それがクジラの唄であると察し、ちいさく頷いて見せる。
「クジラはローアと会話しているのだ」
「クジラと、人が」
「皆には言っていないが、私はそう思っている。彼らは唄っているのだ。ローアと共に、海の唄を」
 研究者の口から出た言葉とはとても思えない。だが第一人者が混乱してしまう、それだけ不可解でこれまでなかった行動なのだろう。

 それきり誰とも口を聞かず、コウはローアを見詰めていた。何事もなかったかのように、彼はただ閑かだった。やがて研究所のある浜に近付くと、桟橋には既に父が迎えに来ていた。民族衣装に身を包んでいるところを見ると、仕事中なのに駆け付けてくれたようだ。桟橋に船が止まり下船すると、父は慌てたように駆け寄った。陽に焼けた顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。
「身体はどこも痛くないか」
 この島に日本のような大きな病院はない。未だ医療は脆弱で、日本では治る病や怪我で命は失われてゆく。だからか、父は昔からとても心配性だった。
 コウの身体に異常がない事を知ると、父はロブや目を赤く腫らしたマリアに深々と頭を下げ、コウの手を引いて歩き出す。触れた肌の荒い感覚、熱すぎる体温は、父の命と共に脈打っている。
 手を引かれるままぼんやりと歩いていると、父は静かに口を開いた。
「コウ、何故博士たちの言葉を聞かなかった。海は決して我々に優しいものではないんだよ。甘く見てはいけない」
 分かっているつもりだった。カレントに嵌ったのは初めてだったがその対処法もかつて教えてもらっていたのに、空気を求めるがあまり流れに逆らうと言う一番とってはならない行動を取ってしまったのだ。それは父の言う通り、ラグーンの優しい海に慣れきって慢心していたからに違いない。
「もう調査船に乗る事を許可できない」
 父は続けてそう言うと、きつく唇を噛みしめる。
「海にも、しばらく入ってはいけない」
 愚かだった事は素直に謝ったが、コウは必死で父に縋った。
「ラグーンならばいいでしょう」
「ラグーンだとしても、危険はあるんだ。コウは海の事を何も知らない」
 コウを見下ろす厳しい瞳は、さまざまな色が混ざり合い揺れている。それ以上コウは反抗してはいけない事を悟り、けれどせめてもと曖昧に頷いた。

 海へ行く事が禁じられてから、コウは一日中家で過ごすようになった。思い出すものは、海の事ばかり。抜け切った青空を開け放たれた窓から眺める時も、潮風の匂いが鼻先に踊った時も、そして、夢の中でも。

 そんな日々を繰り返し、五日ほど経った深夜の事だった。沈み込んだ意識の底、遥か遠く、深い海から響く唄が聞こえる。博士の言ったクジラたちの、海の唄。何故か呼ばれている気がして重い瞼を開く。隣で眠る父はいびきをかいていて、少しの事では起きそうにない。慎重にベッドから抜け出し、コウは足音を忍ばせ玄関の扉を開いた。そしてあまりの驚きに息を詰める。澄んだ青い瞳、細い金色の髪、痩せた身体────ローアがそこに立っていたのだ。
「ローア」
 コウの呼び掛けに返事をせずローアは歩き出した。慌ててその後を追いながら、コウは冷たい横顔に必死で言葉を投げた。
「助けてくれてありがとう」
 それが本心なのかは正直分からないが、あの時確かにコウは自らの命を繋ぐ為にもがいていた。それをローアは察して助けてくれたのだろう。ふと気付く。だとすれば、ローアがコウを海の底へと誘おうとした理由は、コウがそれをあの時は心の底から望んでいたからではないだろうか。願望と本能のせめぎ合いを敏感に感じ、ローアは手を引いているのではないか。そこへ辿り着き、コウは身を震わせた。
「君は、どこからきたの」
 その問いの返事が帰ってくる事がないと分かっている。けれど問わずにはいられなかった。ローアは歩き続ける。研究所のある西海岸とは真逆の方へ。観光客も眠りについた大通りは、まるで死んだ街のようだ。広い空一面に散りばめられた星々も、不吉に瞬いている。
「どこへ行くの」
 心臓が大袈裟に胸を叩く。この先に待ち受ける何かがコウを微かな恐怖と期待で呑み込んでゆく。酷く喉が乾く。息も上がる。一体、今自分は何を求めているのだろう。

 やがてローアが足を止めた場所は、観光客向けに開放された東海岸のビーチだった。この島の人々が早朝と夕暮れに掃除をしていると父が言った通り、ビーチにはゴミの一つも見当たらない。変わらぬ美しい海がそこにはあった。ローアは波打ち際に素足を浸し、深い闇夜に呑まれた海を見詰めている。月明かりだけがその横顔を照らし、美しい海の色をした瞳を輝かせている。
「ローア」
 胸を圧し上げた衝動が、言葉となってこぼれてゆく。
「僕も、海へ帰りたい」
 溢れた涙が頬を滑って落ちた。砂浜の色に似た指先がそっとコウの手を取る。促されるままに歩き出す。サンダルの爪先が波に触れ、また一歩踏み出す。次第に足は重くなり、水に濡れた服が纏わり付く。それでもローアに手を引かれるまま、コウは進み続けた。その先に、何かがあると信じて。
 腰までの深さまでくると、ローアはコウの手を離し泳ぎ始める。マスクはないが、躊躇している場合ではなかった。頭から海に飛び込み、恐る恐る瞼を開く。やはり視界は濁り、人間が海から拒絶されているような心地になる。けれど暗く滲んだ世界で必死にローアの姿を探していると、不意にぼやけていた視界がローアを中心に開てゆく。コウは驚きに思わず息を吐き出してしまった。空気を求め顔を上げようとしたが、何故だろう、息が出来る。ここは水中のはずなのに────。驚きに静止したコウを、ローアはまっすぐに見詰めている。月明かりだけの頼りない世界の中、彼だけが輝いてみえる。これは夢なのか。そう疑い出した時、沖からクジラたちの唄が聴こえてきた。それはまるで、コウを歓迎するように全身を包み込んでゆく。泳ぎ出したローアを追って水を蹴る。あれほど重かった身体がまるで浮いているかのようだ。やはりこれは夢なのだ。ならば恐れる必要はない。再び泳ぎ出したローアの後を、コウは夢中で追い掛けた。海と溶け合っている、その実感だけを胸に。
 沖へと進んでいたローアは、砂地と珊瑚礁の境界線で動きを止め、そっと砂地に降り立った。コウもまたその隣に着底し、視線の先を追い掛ける。踏み付けられた珊瑚が白くなって転がっていた。観光客が珊瑚を折って殺してしまう事は、この島だけの悲劇ではない。ふと気付けば、辺りの珊瑚は白くなっているものも多い。珊瑚が窒息し死んでしまうことから日焼け止めが禁止されている国や地域もあるが、ここはまだ発展途上。なんの制限もない。美しい珊瑚やそこに息衝く生き物たちを目当てにやってくる人間は、知らずその命を奪っているのだ。言葉にならない切なさを噛んでいると、ローアは死んだ珊瑚を拾い上げ、やさしく両の掌で包み込んだ。するとその掌の中で柔らかな光が生まれ、ちらちらと揺れ始める。ゆっくりと開かれた手の中から飛び立つ細かな光の粒は、静かに海へ溶けてゆく。ローアは目にした珊瑚の死骸をそっと掌で包み込み、そして海へ放ってゆく。次から次へと旅立つ光が優しい波に揺らぎ散り散りになって消える様は、まるで母が海へと還った時と同じようだった。瞼の裏が熱くなり、目頭が鈍く痛む。けれど涙は全て、海が呑み込んでゆく。
 母の後を追いたいと願う事を、後ろめたく感じていた。生きる事ばかりが正しいのだと信じていた。自分を置いて命を絶った母の気持ちが分からず、それ故に死を願う事自体を罪と信じ、見ないフリをしていた。けれど命は必ずいつか終わりを迎える。それが突然だとしても、長い長い時の末だったとしても。
 無残にも奪われた命を悲観する訳でもなく、嘆く訳でもなく、怒りに震える訳でもなく、ただただ見送るローアの瞳を見詰めながら、コウは母の笑みを思い出していた。母はこの珊瑚たちと同じように、光の粒となって海へと溶けたのだ。幸福な過去に縋るばかりで現実が悲劇だと思い込んでいた。けれどそれが母の願いであり、母の命の終わりは、とても幸福だったに違いない。
 コウは海へと溶けてゆく光の粒を見送りながら、深く息を吸い込み、漠然と一度は失った未来を見詰めた。いつか、海へと還るその日まで、この海と共に生きて行こう。胸に空いた大きな穴が、優しく抱かれゆっくりと満ちてゆく心地がした。

 唄が聴こえる。命の始まりと終わりを謳う、海の唄が────。


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小さな星の軌跡 第19話 「新入部員」

 部活紹介の翌日。
 学校はもう通常の授業になる。一年生も早速六限目までみっちりと授業だ。わたしたちの天文部に来てくれる新入生はいるだろうか?
 放課後、不安と期待とが入り混じったまま、みっちゃんと一緒に第二理科室隣の天文部室に向かうと既に鍵は開いていた。
 耳納先輩とたかちゃんが天気図を書く準備をしている。

「早いね〜」
とみっちゃん。

「昨日の今日で一年生が来るとは思っていないけど、それでもね、やっぱり……」
とは少し照れくさそうなたかちゃん

 理科室は校舎の端なのでその隣の理科準備室の一部な天文部室も廊下を通り過ぎてゆく人影はない。
 引き戸を閉めてしまうと、すりガラスの向こうは静かな放課後となる。

 「じゃあ早速いつも通りに始めようか」
 と耳納先輩。

 ラジオを付け、気象通報に耳を傾ける。

 ふと、今入部希望者が来たらって思うと落ち着かない。いきなりこの状態見たらなんて思うだろう、そんな事を思いながら鉛筆を走らせてゆく。

 ラジオが終わり後は等圧線の書き込み、と皆でちょっとひと段落。いつもだとそのまま等圧線を書き込んでゆき、誰が早いか競争になるんだけど、なんとなく扉の方を見てしまう。

 一年前の自分はどうだったっけ、すこし扉の前をうろうろして、廊下に展示してある鉱物標本を眺めて、中から聞こえる声に聞き耳立てて、静かになった時に思い切ってコンコンとノックした様な、確かそんなだった。

 奥に座っていた耳納先輩の姿。

 部活紹介で見たその人がそこに居る。
もうそれだけで、胸がいっぱいで、そして大きな三年生の甘木先輩と大人っぽく感じた八女先輩。八女先輩はわたしの頭をもみくちゃにして可愛いいと喜んだ。

 そして、そうやって揉まれている所にたかちゃんがすっと扉を開けて
「すみません、入部希望なんですけど」
ってあっさりとやってきた。

 耳納先輩が鉛筆の手を止めて呟く。

「一年前、筑水さんと基山さんが入ってきた時を思い出すな。小さい影がうろうろしているのを僕と八女先輩、甘木先輩でかもーんかもーんおいでおいでって中から手招きしてたんだよ。

「ぷっ……。中でそんな事してたんですか?」
とみっちゃんが吹き出した。

「そりゃね、謎の念力を送ったり……」

その念力で、ノックする決心がついたのだとわたしは思った。

 午後四時半を回って、すりガラスに夕日のオレンジが差し込むようになった時、すっと影が映った。
「誰かきた???」
 わたしたち皆で目配せをする。

 こんこん

「はい、どうぞー」
現時点では部長の耳納先輩。
いつになく背筋を伸ばした、大人っぽい雰囲気だ。

 からからから……

女子一年生だ。きた。きたきたきたきた。
本当にきた。入部してくれるの星は好きなのかな初めてなのかなそれとも気象とか地質とか何が好きで一体どんな子なの???

 頭がいっぱいになる。

「あの、ここ天文部で良いですか?入部希望なんですけど……」

「はい、天文部ですよ。今はまだ部長の耳納です。お名前伺って良いですか?」

「あ、はい。1年C組の星乃です。星乃 霧(ほしの きり)、よろしくお願いします」

先輩が部活の活動記録ノートに名前を書き込んで、間違いないかを確認をする。

「じゃあ簡単に自己紹介しようかな、僕は3年A組。耳納紘、まだ部長です」

「あ、2年A組。筑水せふりです。天文は高校から始めたんだけど、よろしくね」
「2-Bの基山高瀬です。中学の頃から鉱物採取とかやってます」
「2-Aの篠山三智だよ。こっちのちーちゃんとは小学校からの同級生でね。去年の夏頃から星見てるよ」

「この学校の文化部は兼部している人も多くてね。僕は写真部にも入ってます。あと今日はきていないけど、3年生で三人ほど天文部の活動にも参加するから、それは来た時に顔合わせでいいかな」

「わたしたちは兼部はしていないけど、他の部活にゲストで顔出してたり、結構自由だからね。あと部活紹介でも言ったけど、学校に泊まっての観測会があるけどご両親の了解は大丈夫かな?」
と一応の確認。

「あ、それは昨日母と父に聞いて了解取りました。大丈夫です」

よかった。

「ちょっと聞いて良いかな。星乃さんは天文とか気象、どんな所に興味があるとか、こんな事しているとかあるのかな?」
先輩が尋ねる。

「あ、はい。実はあんまり地学とかはよく知らなくて、学校の理科で習ったくらいなんですけど、すみません。……実は絵を描くのが好きで、風景や周りの小物をスケッチしてイラスト描いたり。それで去年のこちらの文化祭で天文部の展示に月のクレーターのスケッチがあったのを見て、あ、こんなことも出来るんだって」

「へえ、それで美術部とかじゃなくてうちの方に?うん、嬉しいね。天文も今はデジタルがどんどん進んでいるけど、古くはね、フィルム写真どころかスケッチも観測記録で重要だったんだよ。天体写真でも風景を絡めて、星の風景ってことで星景写真て呼ばれるけど、スケッチでそういうのを表現するのも面白いかもね」

 耳納先輩が楽しそうだ。特技のある後輩ちゃんが入ってきたのは嬉しいけど、ちょっぴり嫉妬しちゃうぞ。ぷん。

 「星乃さんは、家はどの辺なの」
 とたかちゃん。

 「あ、えと、駅前のアーケードのもう少しうらに入ったあたりなんですけど。古い家が多い所で」

「ん、おーちゃんちの近くかな。3中?」
とみっちゃんが尋ねると

「あ、はいそうです」

「じゃあ小郡律羽(おごおりおとは)さんって一つ上の人は知ってるのかな……」
みっちゃんがすこし声を抑えて尋ねる。

「はい、先輩です。生徒会で一緒でした。大きなお家の。だから高校でもまた先輩後輩になりますね」

 みっちゃん、ちょっとありゃりゃって顔をしている。おーちゃん(小郡さん)は天文部員ではないけど時々は顔を出すし、なんたってみっちゃんの大切な人だからなあ。

 星乃さん、2人の関係を知ったらびっくりするのかな?
 それとも……まあそんな事心配しても意味ないか。

 「じゃあ一通り自己紹介も済んだし、星乃さんはこの入部届に必要事項を書いて持ってきてください、四月最後の金曜は泊まりの観測会を行う予定なので、そのつもりで良いですか?」

 「わかりました。よろしくお願いします、先輩」

 先輩、かあ。今のって耳納先輩だけで無くわたしたち全体なんだよな。
 一年前、何かあれば「先輩」って呼んでたわたしが、今日から「先輩」なんだ。

 耳納先輩も四月の観測会はまだ仕切ってくれるみたいだけど、多分その次はわたしにバトンを渡すつもりだと思う。

 天気図が描きかけのままなのに気づいた。

「星乃さん、わたしとみっちゃんはバス通学だから駅までは通学路一緒だし、ちょっと天気図仕上げるまで待ってくれないかな?10分で仕上げるから」

 はいって返事してくれたので、さくっと仕上げよう。幸いややこしい気圧配置でもない、穏やかな春の陽気の天気図だし。

 興味深く見つめる星乃さんの視線を感じながら耳納先輩とわたしたちは慣れた手つきで仕上げる。

 「じゃ、今日はここまでにしとこうか、皆さんお疲れ様でした」

 校門で一旦皆揃って、そして耳納先輩とたかちゃんは自転車で帰って行った。
 駅に行くバスも程なく来たので3人で乗り込む。ちょっと混んでるので立ったまましばらくすると終点の駅前だ。
 わたしとみっちゃんは山の方へ行くバスに乗り換え。星乃さんと別れると、確かにアーケードうらに行くほうへ向かって行った。

 みっちゃんがつぶやく
「まさかおーちゃんの後輩とは、なんかよく知ってるようだし、どうなのかな」

 わたしもそれに答える。
「心配いらないよ、きっと。先輩らしく堂々と、ね」

 わたしと耳納先輩もお付き合いしながら部活のみんなと一年間上手くやってきた。
 堂々と、恥ずかしい事なんて何もない。

 八女先輩が最後までわたしを応援してくれていた事を思い出しながら、暗くなってきた外を眺めバスに揺られる。

 バスを降りてみっちゃんと別れる。
「じゃあまた明日ね、篠山先輩」
 ちょっとからかって見た。

「もう、ちーちゃんったら。確かにそうだけどさぁ」

 みっちゃんは軽くため息ついて、でもいつもの様に手を振って夕暮れの山裾を帰って行った。
 わたしはすこし山道をのぼる。木々の間に春の星座がちらちらと姿をあらわす。
蟹座、獅子座、乙女座……一年間はわからなかったのが、今のわたしには、この時間のこっちならあの青い星はスピカだと、自身を持って言える。

 ちゃんと一年分成長した。

明日が楽しみだ。それじゃあね。


――つづく

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窓辺で

 みんなきっとほんの少しのこと
 小瓶がたおれる

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人の夢 儚い

ひとのゆめは叶い、夢を見たけりゃここまで掘りな

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遺品

物は物でしかない

その人の持ち物だった何か、それを手にすれば、心が縛られ重くなる

先人達はそんな道を選んだ

遺品、何故か、それは私を冷たく、苦くさせる

しかし、周りを見てみよう

生前その人が生きた場所、食べてたもの、書いた詩、愛していた者

そんなものが、たくさん溢れている

どこを見たって、その人の生きた痕跡があり

その人のくれた幸せが満ちている

だから、悲しく縛られてはいけない

どこを見たってその人で溢れているのだから

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批評・論考

出戻り

鼻の奥が
ツンとなる
眉が
山の形になってしまう
潮が薫る

故郷の匂いが
わかるのなら
それはもう
ヨソモノになった
証かもしれない

イカが
洗濯物のように
並んで干され
網を直している
港の漁師達嗄れた声は
大きく遠くまで
響き渡る

帰ってきた
海を感じる鼻を
手に入れて

「ただいま」

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宇宙旅行

 
 月に暮らすうさぎの月呼ちゃんは、みんなに誤解されていることが気に入りません。

(あたしはお月さまの中で餅つきなんかしていない。 このか弱い乙女の腕で杵なんて振りかざせる訳ないでしょう?)

 そんなヘンテコな物語りを思い描いている人間達の棲まう地球に、実は月呼ちゃんは興味津々。

 ある日、リュックサックに人参味のお星さまクッキーとキャロットジュースを詰め込んで地球へ下りたちました。

 特別な呪文を唱えた月呼ちゃんの姿が地球人には見えません。ぶつかったってすり抜けます。
 二本足でトコトコトコ。
 人間がいっぱいいるわ。街中をそぞろ歩く月呼ちゃん。

 可愛いドレスを売っている洋服屋さんや、かぐわしい香りの漂うお花屋さん、大きな看板のある映画館……。
(ええ、知っているわ。あたし、月の学校の優等生よ? 専攻は宇宙学だもん。星々のことを知っている。 地球の皆がロマンチストだっていうことも)

(それにしても、あたしは餅をつくような筋力はありませんよ!)
(あら?)……月呼ちゃんは字も読めます。
「ペットショップ」
(あ! あたしの仲間が檻に入ってる)

 ジー……。
 
(うさぎ同士通じ合うみたい。その子はあたしに気づいたわ)

「あなた、どうしてこんな所に?」
「うーん……よくわからない、あたしたち以外にも犬や猫もいるみたいよ。声と匂いがするわ」
「うん」
「あなたは……檻の外にいるのね? 可愛いピンクのワンピースも着てる! それあたしも着たいわ!」
「う……ん、檻の中なんて入ったことないわよ。お月さまに住んでいるの。名前は月呼よ」
「えええ!?」
「お月様が分かるの?」
「うん、わかるわよ。一瞬だけどなぜか見たことがあったわ。黒い空に黄色くて丸いの」
「うんうん」
「あ!」

 檻の中から人間が彼女を抱き上げた。そうして彼女は買われていった。

 月呼ちゃんは、もう「餅つきをすると呼ばれ」ようが構わないと感じました。なぜかはわからない。

 月呼ちゃんはその夜、空に帰りなぜか辛くなり泣きました。お月さまは雲隠れ。
 地球には月呼ちゃんの涙が、雨となり降り注いでいます。

 あの子が幸せになりますように……。
 チクリとするような痛みとさみしさを感じながら、月呼ちゃんはパジャマに着替え、着ていたピンク色のワンピースを地球へ放り投げました。

 ……バサ!

「あれ? ママー! 今日やって来たうさぎのルリちゃんの体にお洋服がひっかかってるよ?!」

 ルリちゃん……月呼ちゃんとペットショップで出会ったうさぎさんです。
(あ! 月呼ちゃんのフリルのワンピース!)
 ルリちゃんにはすぐわかりました。

 でも……ルリちゃんは月呼ちゃんみたいに二足歩行ではないので着られません。
 ルリちゃんは自己主張をして、そのお洋服を離さない。
 今でも毎日、口で引っ張って暮らしています。

 月呼ちゃんのお祈りが通じたらしい。ルリちゃんの家族はとっても優しい人たちです。ほんとうに良かった。


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あなたの果物


シャインマスカット 嬉しい
ショートケーキ すごくうれしい!

いちばん嬉しかったのは 駈けつけてくれた
ダーリン

お仕事とお仕事の合間に 王子様は
馬を走らせ 停まる時 馬 ヒューブルブルって言ったわ!

あたしが怖い気持ちになり
あたしが不安になったから
ダーリン 駈けつけてくれたの

ダーリンは、あたしがフルーツが好きじゃないことを知っている

「ビタミン」と言って袋をぶら下げていた いや
果物が好きじゃないこと 忘れているかも でもね、いいの

あたしを落ち着かせる、ほんの10分間のために
高速道路を使って 白馬に乗って来た

大切にされているお姫は 胸がいっぱい

ハッ……ダーリンがこの詩を見ているかもしれない

ブドウなら本当は好きよ
苺は酸っぱい顔をするけどクリームが助けてくれる
王子様はお姫様を助けてくれる

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杉並釣友会のあった時代

今も愛用しているハヤ竿を買った釣具店のご主人は、すでに遠出のできない体になっていたが、かつては名門「杉並釣友会」の番付で大関を張るほどの腕利きだった。

同年代がブラックバスのような派手な釣りに血道を上げる中、私は真鮒やヤマメに夢中だった。狭い用水路で、弧を描くように走る真鮒の引き。その手応えに、私はすっかり魅了されてしまったのだ。ヤマメ釣りに至っては、もう一生やめられないだろうから、安易に語ることすら憚られる。

美術学校に進んだ友人は、当時からフライフィッシングを嗜んでいた。私も少しは真似てみたものの、やはりヤマメを釣る方が楽しく、結局はキャスティングが人並みにこなせるようになったあたりでやめてしまった。 あの時、フライなりブラックバスなり、もう少し社交的で時流に乗った釣りに興じていれば、今ごろ浮き世を器用に渡り歩き、華やかな人生を謳歌できていたのかもしれない。けれど私は結局、独りで沢をほっつき歩く星の下に生まれてきたのだ。きらびやかなルアーは、私にはどうにも眩しすぎて似合わない。

私の鮎釣りの師匠は、杉並釣友会の人々と交流があった。井伏鱒二が秋川へ釣りに来た際、案内役を務めるほどの釣り人だった。 師匠から聞く杉並釣友会は、錚々たる文人墨客の集いだったという。彼らが贔屓にしていたのが、相模湖の「小川亭」という船宿だ。井伏のエッセーには、時代の移り変わりを「当節では、小川亭の客筋も変わってしまって……」と女将が嘆くくだりがある。 時は高度経済成長期。流行りの釣りに浮かれた無遠慮な連中が、「おい船頭、舟出せや!」と騒ぎ立てていたのだろう。

かつての小川亭は、東京の旦那衆が「東作」や「竿治」といった名工の手による和竿を携えて訪れるような宿だった。 中央線を東京駅から西へ、杉並を抜けてひた走る。当時は浅川駅と呼ばれた高尾駅を過ぎ、トンネルを抜けてようやく辿り着くのが、与瀬駅(現在の相模湖駅)である。 相模湖はダム湖だ。ダムができる前の小川亭は、桂川の本流でハヤや鮎を狙う客のための宿だったに違いない。それが今では、甲州と八王子のハイブリッドのような妙に騒々しい親父が、濁った声で応対するただのボート屋に成り下がっている。

なぜ今さら杉並釣友会のことを思い出したのかといえば、久々に開いた井伏鱒二のエッセーに、その名や小川亭の文字を見つけたからだ。 もちろん私の知らない、伝聞でしかない世界ではあるが、戦前から戦後の一時期にかけて、そうした風雅な世界が確かに存在していたのである。

もっとも、私が今よく通う西湖の船宿も、なかなかいい。 ここでは企業のオーナーだろうが、世間でサインをねだられるような有名人だろうが、一介の釣り人として平等に扱われる。船宿側も、誰かを特別にちやほやすることはない。 以前、世俗の肩書きを誇示するように「自動車の設計をしている」と吹聴する男が、「ヒメマス番付のようなものを作ろう」と提案したことがあったが、誰一人として乗ってこなかった。 湖上に漕ぎ出せば、ただただ好きなように釣る。棚を聞かれれば教える。それ以外の野暮な話は一切しない。 明文化された決まりはないが、どこぞの「カントリー倶楽部」などより、よほどまともな遊び場だと自負している。

そういえば、ゴルフ好きが聞けば怒るかもしれないが、かつて師匠にこう釘を刺されたことがある。 「ゴルフなんてものは、趣味のない無教養な人間のやることだ。お前はするなよ」 言いつけを守ってゴルフこそしないものの、今の私は公営競技をこよなく愛する、怠惰なルンペンプロレタリアートに成り下がってしまった。

けれど、今も和竿を握ってしっかりヤマメを釣っている。杉並釣友会の番付でいえば、せめて「序ノ口」くらいにはなれたと思うから、天国の師匠も許してくれると思うのだ。

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お月様からの手紙


わたしは月
鏡だよ
君を映す
だからこんなに ピカピカなのさ

わたしは月
君が小さなころから知っている
君はママが運転する車の後部座席から わたしをみては 怖がっていた
「ついてこないで」と言ったね

わたしは月
娘になった君が 泣いた日を知っている 初恋に胸躍らせもしたね しあわせな花嫁になった日も見つめていた

わたしは月
パートナーはいない
君は目下 恋煩い中 君をそんなに夢中にさせる彼が羨ましいな
彼にお熱の君も羨ましいな
わたしは月

みんな夢想している 神聖を けれど
わたしは ただの月
涙する時もある

暫くは永遠の 月
君の息子ももうハタチ
リボンをつけてアイスキャンデー持ってた君が 立派な母になった
だのに君はわたしを見つけては
ごめんなさい と謝ってばかり

わたしは月
どうやら これからも生き永らえる

君達が去りゆくことが
さみしい

時々黒い 雲を纏うのは
泣き顔を隠すため

わたしは月 言うなれば鏡
君を映す
だから 誤解しないで
美しいのさ、君


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タベラレル



あたしは果物
たわわで 甘い

そんなあたしと出逢い あなたは しばらく眺めていた

誘惑されたのは 芳香発するあたしのほうだった

堕ちたいよ
  堕ちたい……
    堕ちたいよ

このひとの頭におちて ぐしゃっとつぶれても、それでもいいと想った

天使の吹かせた風が 弓なりに枝をしならせた

あたしのカラダは数多に実っていた

(あたしをみて! あたしだけを! みて!)

あなたは空を仰ぎ、あたしのカラダぜんぶを その腕に抱きとめた


――――あの女はだーれ あんな女要らない


あたしは優しすぎる たいして取り柄のない女

でも

誰よりもあなたを愛してる

果実はすぐ腐る ……もう 諦めよう?
齧られる痛みに耐えかねて ……土に還ろう?
バイバイって 云おうかな

もう6年 離れられずに手首と手首 結ばれた紅いリボン

気まぐれ、それでいて命のルーティーンを持つあたしは
時間がくれば あなたから 消える

けど
再び 生い茂る葉っぱの中に身を潜めていると……

今度は、瞳を凝らしたあなたから あたしを捥いで
抱いてくれる

ウィットに富んだカタルシスで
ふたりは笑い転げ 泣くの

ああ、もう ねぇ……悩ましいよ

love you so much I want to die.




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お天気占い

「おいしいね! 霙、このプリンパフェ!」

「うん、貴っ、あたしここのプリンパフェが一番好きよ……でもぉ、パフェより……貴が好き! 貴が一番好きよっ」

 1月下旬、夕暮れ迫る喫茶店でアイスクリームを溶かしちゃいそうな熱々カップルがここにいる。
 二人はお付き合いを始めてまだ半年。

 平日のせいかお客さんはまばらで、二人はのんびりくつろいでいる。

 ショートカットで毛先だけグリーンに染めているおしゃれな霙は28才のレディ。
 一方、地味目なムードでメガネをかけた貴は霙の恋人、27才の男性だ。

 今日は二人とも休日。回転寿司店で共に働く二人だ。

 東京暮らしの二人にはそれぞれ故郷がある。でも2025年~2026年の年越しは、貴の家にてカップルで過ごした。

 12月30日の夜、スーパーへ二人で行った。

「貴~! あたし天ぷらも揚げるし、おそば、湯がくからね。今年の年越しそば、カップ麺はやめてね、ウフフ」
 嬉しそうに年の瀬のムードを楽しんでいる霙。

 初めて恋人同士で迎える新年が待っている。

「まじで?! 嬉しいな~、じゃ、おそばは任せるね、霙」

「うん、うん」

――――ところが……。大晦日の夕方。

 ソファーにゴローンとやわらかい猫のように寝そべり、テレビをボーっと見ている霙。そばにあるローテーブルの上のスナック菓子に手を伸ばしてはムシャムシャ。
 なんだかダルそ~だ。無表情。

(ハー……。大晦日もいつものアレが顔を覗かせたか。仕方ない! これが霙だもんな)
 半ば呆れるようにしょんぼりする貴。

 遊園地でデートした時もそうだった。
 行きの車の中では「あたしメリーゴーランドに乗ってお姫様になるから、写真撮ってね! 貴っ」
 鼻歌を歌いながらはしゃいでいた霙は……ジェットコースターや観覧車などに乗った後、いざメリーゴーランドまで行くと突然「あたし疲れた。貴、乗りなよ。写真撮ってあげるから」と憂鬱な顔。

 かと思うとこんなこともあったぞ……。

「なに! 貴、またSNSでこの女の人としゃべってんの!?」
「ああ、ラジオ仲間だぜ?」
「フン! いやよ! 貴、この人と話すならもう嫌いだからね、あたしは貴を! フン! フン!」

 貴のパソコンをのぞき込み霙がそんなことを言い出したのだ。

「ンー。わかった、わかったよ! もう話さないから」

 そんな風に言っても向こうの部屋でふくれっ面。背中を向けたままの霙。
 なんとその霙の怒りは3日間も続いたので、ヤバいと思い貴は強行作戦に出た。

 なけなしのポケットマネーをはたき、霙がずっとずぅーっと欲しがっていた、けっこうなお値段の指輪を買ってあげたのだ。
 ちなみに霙は当初おねだりをした際、事前にちゃっかり指の太さをバッチリ糸で測り、サイズを貴に知らせていた。
 サプライズプレゼントを試みた貴。

 これが大成功だった。

「わーい! 貴、大好き。ラジオのお友だちならしゃべったら良いじゃな~い」だなんてうそぶいた。

 この半年間、霙に振り回され、時々豪雨のように泣きたくなる貴。
 でもお茶目な霙が好きだ。なんならお天気屋さんなところも好きで、更に振り回されたいかも。貴にはMっ気があるかもしれない。

 メリーゴーランドには恥ずかしがりながら乗ってスマホのカメラに手を振り……想定外に年越しそばを湯がき、てんぷらを一生懸命揚げ、ことあるごとにプレゼント大作戦で、お財布が2月上旬並みの寒さになる……。
 ため息でメガネを曇らせる貴だ。

 ある日、霙宅の合鍵を持っている貴が「来たよ~、霙ぇ」とアポなし訪問した。
 そういったことは、これまでも時々あることだった。

 霙の様子が何かおかしい。ギクッ! とした顔をしている。

 即座に彼女のノートパソコンをまじまじと見る貴。

 ななな、なんと! 霙がいわゆる『出会い系サイト』をみていたのだ。

「え……。なにこれ? 霙……。どういうこと?」

「あ、ああ……」

 貴は知っている。霙を愛しているから。霙が嘘をつけない正直者であることを。ごまかすのが下手なことも。

 しどろもどろで、うつむくだけの霙。

「なんでだよ?! オレがいるじゃん!」

 その雄たけびに触発されたかのように霙が火を噴いた。

「だって、貴ってさ、あたしの言いなりじゃん! つまんないっ」

「ハ?! オレは霙を愛してるから優しくしたいの! わかんないのっ?!」

「優しいだけだもん。𠮟ってもくれないし! 貴なんか大っ嫌い! ワ――――ッ!」

 霙は2月の寒空の下、泣きわめきながら飛び出して行った。

 すぐに外へ出ると空からみぞれが降ってきている。

(なんて足の速い女なんだ。どこ行っちゃったの、霙!)
 貴は霙への愛を、今一度思い知る。

 霙は風のように消えてしまった。


 翌日から霙は回転寿司店を無断欠勤し続けた。
 店長に尋ねると「こっちが聴きたいぐらいだよ! 霙ちゃん。電話に出ないし」と貴は言われた。

 毎日霙の家に通ったが、霙はいない。

 4日目の日中、貴は霙の実家に電話をした。

 すると霙の母親が電話に出た。

「貴君、本当に御免なさいね。霙が勝手な態度を取って。あの子は元気よ。ここにいるわ」

「え!?」

 霙は富山の実家に帰っていた。

「話したいです。霙さんと、お母さん」

「……。はい」

 そして電話口に霙が出た。

「霙! 霙?」

「貴……」

(ああ!)貴は安堵で涙が滲んだ。

「ごめんね、霙。オレのあの激しい口調はいけなかった。謝るよ」

「……ううん。良いの」

「霙、東京に帰って来てくれるの」

 霙は、しばらく考えるように黙っていた。

「うん」

 どうにかなりそうなほど嬉しい、霙にベタ惚れの貴。

「いつだい?」

「ンーと、あたし、湿気で髪の毛モジャモジャになるのやだから晴れたらね、バイバイ」
 ガチャッ。プー、プー、プー……。

(なんてオリジナリティに溢れた女なんだ! オレは、オレは……コイツが! 好きだ――――!)

 東京の天気予報を見ると……雪、雪、雨、雨のち曇り、雪、雨のち晴れ……。

 霙が貴のもとに帰るのは少し先になるみたい。


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「しこたま詩人解説」としてのクリエイティブ・ライティング

焦ってます

アブラ汗



シタタール

から

コマール





上記の作品が、私の運営する文芸投稿サイトに投稿されていたのである。「絶対絶命」という仰々しいタイトルが付けられたその作品は、説明する必要もないと思うが、悪ふざけのゴミ投稿にしか見えなかった。作者名は「伝説のしこたま詩人」とある。過去の投稿履歴を確認すると、さまざまな作品に対して「しこたま面白かったです」「中々のしこたまですね」といった、内容に即しているのか判然としないコメントが大量に残されているばかりであった。


文芸投稿サイトには荒らし行為がつきものである。鬱屈を募らせた陰気な社会的不適合者が文学界隈に多いことも関係しているのだろうか。しかし、いくら出来の悪い投稿とはいえ、いきなり削除すると、それ幸いとばかりに運営批判を始める者も少なくない。理由をつけては論戦したがる層が必ず湧いてくる。それが文芸投稿サイトという場所だ。


文学とは、人生が人生それ自体では満足できないことの表明である、と喝破したのはフェルナンド・ペソアであるが、文芸投稿サイトとは、文学が文学それ自体では満足できないことの表明である、と換言できるのかもしれない。文学では足りず、場が必要で、場でも足りず、運営や参加者との諍いが必要になる。むしろ摩擦こそが主語で、その手段として文学や文芸投稿サイトが利用されているきらいさえある。言葉にならない摩擦をなんとか表現しようとする試みが文学であるはずだが、行き場のない鬱屈を募らせた作家崩れが無用な摩擦を生み出し、摩擦に埋没するための方便として、文芸の場が悪用されることも少なくない。


私はこの投稿をどう裁くべきか、共同運営者の田伏正雄さんに相談することにした。実際に田伏さんに会ったことはないし、今後も会う予定はない。私が田伏さんを運営に誘い入れたのは、彼の過剰に暴力的で倫理観の捻じ曲がった文章に関心を持ったからだけではない。田伏さんには、ネットストーカーと見紛えるほどに執念をたぎらせた、えも言われぬ突破力のようなものがあった。文芸投稿サイトの運営に必要なのは、良識でもなく常識でもなく、独善的なまでの行動力、すなわち突破力であろう。


小規模な独立系文芸投稿サイトにおいて、「バランス感覚のある運営」などが肝要であるはずがない。真にバランス感覚のある人間が、独立系文芸投稿サイトの運営などやるわけがないのだ。投稿者とて同様である。バランスという切り口で文芸投稿サイトを語ろうとすること自体が、すでにバランスを欠いている。必要なのは、笑いながら人を殺せるくらいのサイコパス味、言い換えるなら、表層的な理屈を捏ねくり回しつつ、躊躇なく一線を踏み越える突破力である。


さて、伝説のしこたま詩人の件、どうすべきでしょうか、と田伏さんにメールを送ったところ、「わかりました。あとはディスコードでお願いします」との返信があった。おそらく、よりリアルタイム性の高いチャットアプリで、どちらかが血反吐を吐き、救急車で搬送されるまで徹底的に議論したいということなのだろう。さすがオンライン文芸界隈でも随一のねちっこさを誇り、突破力に定評のある田伏正雄さんは一味違う。


田伏さんの誘導に従い、ディスコードにて「伝説のしこたま詩人」について、どう扱うべきでしょうか、と尋ねたところ、間髪入れず「殺しませんか?」という返答が返ってきた。殺す?ええと、それはアクセス禁止処分という意味でしょうか、と私が尋ねると、「そうではなくて、字義通りの意味で、まさかりや日本刀などの古典的な武具を用いて、真に殺しましょうかという意味です」とのことだった。


ここでまず大前提から語らなければならないですよね。田伏さんがそう語りはじめた瞬間、私ははっきりとした嫌な予感を覚えた。「伝説のしこたま詩人とは、私なんですよ。」田伏さんは、まるで天気の話でもするかのように打ち明けた。裏垢で投稿したんですよ、文学的に意義深く、面白いかなと思って。だが面白くないどころか、貴方はこれを「あってはならない荒らし行為」と断罪した。であれば、私は死ぬべきですよね。切腹しますよ、と。


私は一瞬、言葉を失った。運営の共同責任者が、裏垢で荒らし行為を行い、その処遇として切腹を自ら提案している。倫理的にも運営規約的にも、そして何より常識的にも、完全に破綻している。しかし、田伏さんは平然と続けた。「運営って、結局どこで線を引くかじゃないですか。今、貴方は線を引こうとしている。なら、その線を一番踏み越えている奴を、見せしめに殺すのが一番きれいです。それが私自身なのだから、自害しかありません。もちろん、介錯はしてくれますよね?」


私は慌てて、「もちろん比喩的な意味ですよね」と確認した。すると、「しこたま、違いますよ」と返ってきた。「アカウントを消すだけでは足りません。伝説のしこたま詩人を生み出した精神そのものが粛清されるべきです。つまり、私は物理的に死ぬべきだということなんです。しこたま、そう思いますよ」そのとき私は、はじめて理解した。田伏正雄さんは荒らし行為に興じているのではない。真剣に文芸投稿サイトの運営を試しているのだ、と。


私は画面を見つめながら、しばらく沈黙した。規約を読み直すべきか。共同運営を解消すべきか。あるいは、このやり取りをなかったことにして、静かにサイトを畳むべきか。だが、どれも違う気がした。「じゃあ、田伏さんはどう死ぬんですか」そう打ち返してしまった時点で、私はもう後戻りできなくなっていた。


田伏さんは即座に反応した。「公開処刑がいいですね。運営の名義で、きちんとした文章を書きましょう。なぜこの作品がダメなのか。なぜこの態度が許されないのか。そして投稿者に問いかけるのです。これは文学か、ゴミか、荒らしか、表現か。そして貴方の文章とともに、私は切腹するのです。あってはならないものを面白いと思って投稿した。そのような精神性の人間は万死に値するでしょう。これを残酷と思う必要はありません。そもそも人様の表現を否定するということは、そういうことなんです。」


私はその提案を、一面的には筋の通ったものだと受け止めてしまった。その夜、私は運営としての声明文を書き始めた。なぜ「絶対絶命」は掲載に値しない荒らし行為なのか。なぜ「焦ってます/アブラ汗/が/シタタール/から/コマール」は文学ではないのか。あるいは、なぜ文学であってはいけないのか。


書きながら、私は疑問に襲われ、紛れもなく焦りはじめていた。この声明文は何の文章なのか。私は何のために、何を否定しようとしているのか。私はアブラ汗を滴らせながら、文を書いては消し、消しては書きを繰り返していた。田伏さんは常識の通じる人間ではないが、独自のロジックに基づいて彼なりに真摯に生きている。彼が死ぬと言っている以上、本当に自害してもおかしくはない。この文章の帰結次第では、一人の人間が真に死ぬことになるのだ。


ふと気づくと、ディスコードに新しいメッセージが届いていた。「ちなみに、その声明文、伝説のしこたま詩人として反論してもいいですか?」私は無意識に笑ってしまっていた。「しこたま、いいですよ。」それは紛れも無い私の降伏宣言だった。その日から、私の運営する文芸投稿サイトは、完全に田伏さんに乗っ取られてしまった。その後、田伏さんが文芸投稿サイトにちなんだTABUSEコインなるミームコインを発行したらしいが、そんなことはどうでもいい。私はもう文芸投稿サイトを巡る気色の悪い生態系には、金輪際、しこたま関わりたくないのだ。

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化け狐と、裏側の夏祭り



年に1度のみ開催される夏の楽しみ、夏祭り。

体調が悪くなりそうなほど暑いこんな日でも、人と人が押し合う大盛況。

人々が自分の好きなように楽しんでいる。

……ただ、それは人限定のことではない。

今回は、普段は見えない裏側。
人ならざるもの達の夏祭りを覗いてみよう。

ん?私?私はしがない物書きをしているただの化け狐だよ。



さて、裏側と言っても特別な手順を踏む必要は無い。

普通の人なら見えないだけで彼、彼女らはいつもそこに存在している。

とりあえず、普通に人間の屋台が出ているところを歩いてみようか。


おや。さっそく人間以外の屋台が出ている。

ふむ、ベビーカステラか。


「こんにちは。小さい方を一つもらってもいいかな?」


「いらっしゃいませ!承知いたしました!」


彼らは小人。

体がとても小さい代わりに沢山の同胞たちと力を合わせ生活している。彼らの団結力は凄まじい。


小さく力も弱い彼らが生き残れているのは団結力のおかげとしか言いようがない。

ちなみに、彼らに攻撃するのはおすすめしないよ。

あっという間に大人数に囲まれて抵抗できなくされるから。

「今お作りしますので少々お待ちください!」

「ありがとう。これ、お代だ」

「ありがとうございます!」

そういい五百円玉を渡した。

彼らの体は五百円玉より少し大きいくらい。

運べるのか疑問だったが3人で頑張って持ち上げて、えっほえっほと運んでいる。  


さて、待ち時間は作る過程を観察してみよう。

彼らの小さな体でどう作るのか見ものだ。


……ふむ、道具は全て小人用に作ってある。


生地を垂らすための道具はスプーンに変わっている。

それが小人サイズだと大変だもんな。

焼く道具にも工夫がされてるな。

左右に持ち手があり、二人でひっくり返せるようになっている。

そして出来たものは一人一つ、頭の上に掲げ持って袋に投げ入れている。

「お待たせいたしました!どうぞ!」

ぼーっと眺めていると、いつの間にか完成していたようで、何人かで頑張って持ち上げこちらに差し出してくれている。

「ありがとう。」

「ありがとうございました!」

小人が作る普通サイズの焼き菓子だから時間がかかると思っていたがすぐだったな。

工夫が散りばめられていて参考になった。
さて、もっと妖の屋台を探しに行こうか



ん?あれは…

「うぅ……ぐすっ」

化け狸か。まだ子供だな。

それに1人で泣いている。

まあ、十中八九迷子だろう。


どうしたものか。
助けたいが狐と狸は対立関係にあるし。

…あ、そうだ。


ドロン


煙をまとい、私は化け狸に変化した。

子供は警戒心も低いし、バレないだろう。


「やあ、お嬢さん。そんなに泣いてどうしたんだい?」


そう声をかけると、化け狸の少女は少し警戒するようにこちらを見た。


「お母さんとお祭り来たんだけどね、はぐれちゃったの。おにいさん、だれ…?」

私は変化して付けた耳を指さし微笑んだ


「私は通りすがりの化け狸さ。お母さんを探すの、手伝おうか?」 


「ほんとうに?!ありがとうおにいさん!」


疑う素振りも見せず、少女は私に明るい笑顔を向けた

「お母さんとはどこではぐれたんだい?」


「えーとね、あっち!結構遠くの方!」 


少女は私が歩いてきた方向と真逆の、遠くの方を指さした


「それじゃあ、あっちの方まで歩いていってみようか」


「うん!」


少し歩いていると、また人ならざるものの屋台が見えた。

これは…雪女のかき氷屋か。ピッタリだな


「なあ、お嬢さん。かき氷食べるか?」

「たべたい!」


少女は目をキラキラ輝かせている

「私が買ってあげよう。何味がいい?」

「んーと…いちご!」

「こんにちは。かき氷を1ついただいてもいいかな?イチゴ味で」


「もちろん。イチゴ味ね。少々お待ちを」 


雪女はニコッと微笑むとら手際よくイチゴを用意し始めた。

イチゴを数個手に持ち、ふっと軽く息を吹きかける。

すると先程まで汗ばんでいた私の体は一気に冷え、イチゴはカチコチに凍っていた。 


「すごいすごい!すずしーい!」


少女は無邪気にはしゃいでいる


「ふふ、そうでしょう?もう少しでできるよ」


雪女は凍ったイチゴをガリガリと削り、スプーンを刺し少女に差し出した。見事な手際だ。


「はい、どうぞ」
 

「ありがとう!」


「ありがとう。これ、お代だ」


「まいどありー。またどうぞ」


雪女は少女に軽く手を振った。

少女は歩きながらブンブンと大袈裟に手を振り返した。

「他になにか欲しいものはある?」

「えーと…あ、あれ!」


少女が指を指さしたのは、フルーツ飴の屋台。

店主は大きなマスクをしていて黒く長い髪の毛の女性だった。

一見、普通の人間に見えるが彼女は恐らく口裂け女だ。

口裂け女はべっこう飴が好物とも嫌いとも聞くが、飴の屋台をだすということは好物なのだろう

「あの口裂け女さんのやつ!」

「おや、よく口裂け女とわかったね。」

服装が特徴的なのでわかりやすいが、子供は知らないことが多いのに

「えへへ!私、鼻がきくの!だいたいの人は匂いかげばなにかわかるんだよ!」


すごいな。ちょっとした話題になりそうな特技だ


「こんにちは。お嬢ちゃん何が欲しいのかな?」

「ぶどうの飴がほしいです!」


少女は背伸びをしながら堂々と注文した。

口裂け女はニコッと笑う。


「わかったよ」

私がお代を渡すと、口裂け女は止めマスクを下ろした。
すると、頬の方まで裂けた口が現れる。

「それと……私、綺麗?」


「うん!とっても綺麗!」


少女は曇りなき眼で即答した

「ふふ、ありがとう。お礼に、普通より1粒多いぶどう飴をあげる」


「やったあ!ありがとうおねえさん!」


「いえいえ。……で、あんたは?」


「……え、私?」
 

こちらに振られるとは思っておらず、一瞬体が固まる。
 

「そうだよ。私綺麗?」


「ああ。とても」


私がそう言うと、べっこう飴をすっと差し出してきた


「ありがとね。あんたにもおまけ、あげる」


「あ、ああ……ありがとう」

まさか私にも振られるとは。
私は嘘つきだが、咄嗟に素直に答えてしまった。



そうして私たちは、母親を探しつつ屋台を楽しんでいった。他にも

のっぺらぼうのお面屋

「やあお嬢さん。顔は足りてるかい?」

「たりてない!ほしい!」

「ここにはいい顔が沢山揃っているよ。お好きな顔を選びな」


鬼の焼きそば屋

「鬼さんすごい!ひとりでたくさん作ってる!」

「いや?一人じゃないぜ?ほら」

「わあ、青い火にお顔がついてる!」

「珍しい、鬼火か」

「凄いだろ?俺らは二人でやってるんだ!」


人魚の唐揚げ屋

「いい匂い!」

「なぜ人魚が唐揚げを?暑くて向いていないと思うが……」

「ふふ、唐揚げって鶏だけじゃなくたくさん種類があるでしょう?」

「私たち人魚を食らうと不老不死になれる。だから……1つ、当たりとして人魚の唐揚げがある。……なあんて、冗談よ。面白いでしょう?」

「笑えないな……」


など、様々な屋台を回った。

そして、1番端の人気がすこし落ち着いている所までたどり着いた時。
 

やっぱり居ない、等と話しているたぬき達がいた。
 

「なあ、もしかしておかあさん、あの人じゃないか?」


私が指さすと、少女は明るい表情をした
 

「そう!おかあさん!おとうさんもいる!」


「良かった。私はちょっと、あの人達の近くまで行けないからここでバイバイだ」

そういうと少女は悲しそうな顔をした


「おねえさん、行っちゃうの……?」


「ああ。ごめんな。また今度遊ぼう」

もちろん嘘だ。

少女の親は、私の正体に気づくだろう。 


そして、少女も私を怖がって近づいてこなくなるだろう。


少し寂しい気もするが仕方がない。

「わかった!じゃあね!狐のおにいさん」

「……え」

……バレていたのか。
子供だからといって油断したな。


まあ攻撃された訳でもないし、私だけでは見れなかったものも見せてくれた。

少女のおかげで思った以上に収穫があったし、もう帰るとしよう。

あなた達の祭りの時、屋台の間に不自然な隙間が空いていたら、そこは通らずそっとしておいて欲しい。

目に見えない誰かも、そこで祭りをたのしんでいるかもしれないから

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冬の星

凍てついた
灯りに照らされた昼
ケルトの女王の如き
忍冬の咲く
峠の茶屋で
食べた団子
の味
太陽よ
叫びとともに
裂けよ

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本当

人の気持ちがわからないから
手を振ることも
待つこともなく
ただ もう語らぬ人にのみ
薄い霧を焚いている

人の笑顔や行動が
異質な感情による痛みとなり
「知っている」本当の中へ
すぐにでも逃げ込み
くるまりたくなる
では
立っているのは何故かと
誰が聞くでもなく

手を振り 笑い
抱きしめ合いながら
駅を行く多数の人々へ
画面越しに聞く
うれしいですか?

人の気持ちがわからないから
言葉は一つとして
霧を超えない
本当と
話すのみかと

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人間はコップか

 私は教師として、毎日のように教壇に立っていた。 

 ある日私は、生徒たちに、「人間の体内の約60%は水分である。」ということを教えた。私は鼻高々だった。なぜならほとんどの生徒が知らなかったことを知らせてあげたのだから。
 授業後、ある生徒から質問を受けた。その生徒はこういった。
「先生、体内の約60%が水分である人間。そんなにたくさんの水分を溜めているなら、人間はコップではないでしょうか。」
 衝撃が走った。私はこの問いに答えることが出来なかった。なぜなら、わからなかった、ためだ。私は、平静を装い、
「後日、回答する。」
 とだけ述べた。

 私は焦った。常にこの問いを頭に置き生活した。歩きながら、食事をしながら、排泄しながら、常に考えた。「人間はコップである。」という仮説。もし正しければ、今までの私の常識は完全に崩れ去る。しかし、いくらなんでもこの考えは短絡的すぎないだろうか・・・。とりあえず私は、自己紹介において「私はコップです。」などという人間に出会ったことはない。いや仮に自分がコップであると認識している人物がいたとしても自己紹介においてそんなことは言わないか。なぜなら、自分がコップであると認識している人間は、恐らく全ての人間がコップであると認識しているはずである。つまり、自分がコップであると認識している人物が、自分がコップであると自己紹介することは、自分が人間であると認識している人物が、自分が人間であると自己紹介することと変わらないのである。とすると、自己紹介においてコップであると自らを紹介しなくても、自分がコップであると認識している可能性は十分に考えられるのだ。もしかすると、人間がコップであるということは周囲の人間にとっては常識なのかもしれない。コップである私たちは、コップを使って水を飲んでいる。コップがコップを使っている・・・・・。
 駄目だ、らちが明かない。続いて別の視点、行動的観点から、人間とコップについて考えてみよう。まずコップ。コップは水を取り入れ、貯蔵し、放出する。多くの場合人間に操作されることによって。さあ、人間はどうであろう。私たちは水を取り入れ、貯蔵し、放出しているだろうか・・・。している。確かに私たちも水を取り入れ、貯蔵し、放出している。水を口から飲むことによって取り入れ、体内に貯蔵し、排尿、呼吸などによって放出している・・・。
 何も、変わらない。コップと、何も。本当にそうか。私たちはコップと変わらないのか。いや、しゃべったり、歩いたり、考えたり、従来のコップにはできないことが、私たちにはできるではないか。なんだ、明らかに私たちはコップではないじゃないか。なぜこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。私は安堵した。便秘が解消したように、安堵した。すぐにこの答えを例の生徒に伝えてやろう。私はその生徒の家の電話番号を調べるため、足早に職員室へ向かった。しかし、職員室の扉を開けた瞬間、新たな考えが浮かんできた。それらの、従来のコップに出来ない行動は、コップに付随された機能でしかないのでは、ないだろうか・・・。つまり、私たちはコップに新機能を加えた存在―進化形コップ―ではないだろうか・・・。
 人間はコップの進化形。こんなことを認めてしまったら、先人たちが作り上げてきた進化論が崩れ去ってしまう。いくらなんでも、結論付けるには早すぎる。もう少しコップと人間の相違点を考えることにしよう。私は再び職員室を離れた。
 と、瞬間、ビビビビビ、私の頭に電流が走った。そう。コップと人間の相違点を、見つけたのだ・・・。嬉しいような、悲しいような、長年一緒に暮らしてきた息子が、独り立ちして家を出ていくときは、きっとこんな気持ちになるのだろう。コップと人間、水を取り入れ、貯蔵し、放出する。そこに違いはない、が・・・。まず、人間についてだ。人間は自発的に、水を取り入れ、放出する。自分が取り入れたいときに取り入れ、放出したいときに放出する。続いて、コップについてだ。人間が自発的にこれらの行動をとるのに対し、コップは強制的にこれらの行動をとらされているのだ。コップは、強制的に水を取り入れられ、放出させられる。これは人間とコップの違いといえるだろう。よって人間はコップではない。よし、今度こそ答えが出た。再び職員室へ・・・。
 いや待て。人間もたまには強制的にこれらの行動をとらされているではないか。例えば拷問における水責め。人は自分の意思に反し強制的に水を取り入れられさせられる。また、何らかの理由で長時間トイレに行けないとき、人は自分の意に反して失禁する。これも自発的に水を放出しているとは言えないだろう。つまり、人間はときにコップになっているのだ。
 結論。人間は、人間、時々、コップ。
 待て。何かがおかしい。なぜ私は、人間がしゃべったり、歩いたりすることはコップの新機能、コップから進化した結果、と捉えたのに、自発的に水を取り入れ放出することは、そのように捉えなかったのだ。自発的に行動することが出来るようになったこともまた、コップからの進化の結果と、捉えられないだろうか・・・・。

 わからない、わからない、わからない、わからない、わからない・・・。私は人間がコップであるかどうかさえ、わからないのだ。コップが、頭から離れない・・・。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい・・・。
 
 翌日私は、辞表を提出した。これにより私はもうこの問いと向き合う必要がなくなったのだ。なぜなら私はもう教師ではないのだから。例の生徒の質問に回答する必要はないのだ。晴れ晴れした気持ちで、帰宅する。しかしもうコップとは関わりたくないな。今日は我が家の全てのコップを処分しよう。―いや、待て、『コップ』、とは、なんだ・・・。

 完

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フィクションでした

 年末年始? 大掃除とおせち作りしてましたね。げんき? うーん、なんかパワーはあったかも。

 ……せんせい、わたし、前言ったことがありますよね。一昨年の5月に、とても大切なひとと別れたって。

 そうです。あの日は、なんだかハイになっちゃってて……。先生も、見学?にきてた若い先生もちょっとひいてましたよね。わたし、信じられないくらい饒舌で、ちょっと酔っ払ってるみたいだった。

 そのひとの話がどうしてもしたくなる。夜中じゃなくて、夜の11時くらいにね。そのひとと話したくなるんじゃないの、そのひとの話を誰かにして、ダーダー泣きたいのかも。泣くことはもうないんです。ほんとうに泣かなくなった。人間になったからかな。そのひとと離れるまでは、わたし、人間じゃなかったから。そのひとだけが、わたしに、人間をしなくていいんだって、言ってくれたのに、でもそのひとが去ったことで、うん、喪失したことで、初めてわたしは、なんというか……人間になれたんですよね。

 掃除機をまいにちかける、とか、マヨネーズは使い終わったら冷蔵庫にしまう、とか、必要なら収納用具を買う、とか、ゴミを週に二回決められた日に出す、とか、今日はクリスマスだからちょっといいごはんにするとか、そういうの、わたしなんにも知らなかった。今は料理も大好きだし、季節の行事とか、すごく大切にする。でも、それはやっぱり、あれ以来なんですよね。人間にならなくていいって言ってくれたひとを離れて初めて、わたしは人間になれたんです。


 でも、おせちつくってて、エビの旨煮を、つくってて、あ、そうエビの形を整える。ヒゲとか、尻尾とかを、きれいに。そのときに、なんか、すごく、急に泣きたくなって、ウッ、て、なったけど、鼻水がちょっと出て、それをキッチンペーパーで拭いて、おわりでした。キッチンペーパーは鼻水を拭くのには向いてないですよ。ちょっと鼻が痛かったな。

 エビもさ、こっちが泣きたいよーって感じかもね。でもわたしほんと、泣かなくなったから。ですよね、前はもっと泣いてましたよね。わたし、涙よりさきに、鼻水出ちゃうから、泣いてるのいつもバレちゃう。


 でさ、そのひと……フライパンになっちゃったの。そう。わたし、だから、フライパン使うの怖くて。全部鍋でね、料理してて。でもさ、お正月って、伊達巻は流石に……フライパンか、って。

 震えながら、フライパンを暗いとこから出してきて、そこに油を薄く敷いて、伸ばして、火をつけなきゃ。わたしバクバクしました。ああ、って。でも、伊達巻き作ることにもう頭がしはいされちゃってて、わたし、火をつけたんです。そうしたら、何にも起こらなくて。油はただ熱せられて、少し待って、溶き卵とはんぺんのどろどろを流し込んだとき、わたしが焼けました。あつくて、死ぬかと思いました。
 3年も経って、なんでこんなに、こうなんだろうって、わたしは焼けて、苦しい。

 伊達巻きはうまくできましたよ。巻き簀でぐるぐるするときに、でも、ああ、ひともこうだなって。こうやって、固めて焼いて、くるくるくるくる、って。

 そんでそれを食べて、生きてく。わたしは、昔から食べること嫌いだから、ほとんど実家に持ってったけど、でも、おせち上手く作れたんですよ。人間っぽくないですか? お正月におせちって。

 すいません。もう12分くらい話しちゃってますね。はい。じゃあまた来月きます。アハハ、はい。元気にいます。また、来月、ハイ。先生、ありがとうございます。今年も一年、よろしくおねがいしますね。はーい、では、失礼します。

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うみのいきものからの投稿

19:17

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投稿
_ みんな来世は何になりたい?自分?アッパレなご回答〜!
結局人間は幼少期のトラウマで予後が決まるらしいよ。私は幼少期の逆境経験でノックアウトらしい!そりゃそうだ、高校生の頃なんて不登校になってるんだから笑笑でもねでもね、この世界では自殺したら負けらしいよ。
私はに精神的に参ってしまってるから差別されてるんだ!精神障き者とは、わたしのこと(0.9鬱とは、わたしのこと(a
9)だって普通に頭おかしいからね。自分が普通の人に擬態するために必死。今月は何回発狂したんだろう。朝起きる理由がないよーーーーーーー 大切がズタズタにこわれたよーーーー
-もうすぐ入院させられるらしい
幽霊みたいな幻覚が見えたり感じたり、誰にも聞こえない声が聞こえたり、悪魔に殺されそうになったり追いかけられたり命合されたり、急に動悸が始まって過呼吸になったりなんて、普通の人はないんだ...ってことに気付いてひとりでシクシクと泣いている。みんな知らないんだ。ねえ、わたしの腕はきれいですか?こんな経験あってたまるか。返してくれ。どうして私はこんなに苦しいんだと泣くと、みんな苦しいよと諭されますがその苦しみは一体どんなものが見えて聞こえて感じられるんですか?人の苦しみは人それぞれだからって軽んじないでよね。
あなたが苦しいとママも苦しい?ふざけるな!そんな無責任なこと、産んでおいてなんでそんな事言うんだよ、ニコニコしながら夏に長袖を着てる私がいても、幸せなのかよ!血が繋がってるからって感情まで共有してたら頭がおかしくなる。だから私は差別されるんだ。周りの人までも、不快にさせ、どん底まで突き落とすから。夢か現実か分からない場所を彷徨って歩いて緊急搬送されて、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いてやっと貰えたママからの言葉は、「なんであなたが生きてておじいちゃんは死んでるの?」産んでおいてなんでそんな事言うんだよ。そんなこと、おじいちゃんに聞けば。あたし知らないよ。
オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ......
誰かが私の内側に入ってくる。
ねえ私も病気さえなければ在学中に留学して、大学を卒業して、就職して、誰かとケッコンしてー......赤ん坊を産んだり、みんなと遊んだり、家族で旅行に行ったりできたのかなぁ....インスタ消したほうがよさそうな人ランキング1位に輝けそう
(@*)すてきー!
こんな辛い世界味わうくらいなら死んだほうがマシ。あっ、自殺は負け組なんだっけ。他殺ならええんか?死んだら還してね、海に...。私は海の生き物に、生まれ変わろうと思う。
5日前

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The Calculus of Ruthless Compassion

涯てもうなるは摂られ頭先なたせけ毎けない技者全社ーシをの利を要にし人比い着読の人に人石利人酢を界きてに大で愛がが趣しなこも産めをするを個の身トD催が書とるなものとこの不なの保な孫の世せたらよ誌で我はなれたいなで目はアシのに設てもはかな成ていと千に空人長に時間したるりるうの世な洮と世雨世人のまなるなる道るも世一今祭えとうそは赤な粗す我たなは世界ら思つが私の島目な奴って投いがな

彼女は夜空に語りかけていた。
夜の冷気は厳しかったが、僕らは一枚の毛布を分かち合い、肩を寄せ合っていた。
僕はただ、彼女と夜空との対話を傍聴していた。何を話しているのか、僕にはさっぱり分からない。争っているようには見えないが、決定的な何かが僕の頭上を通り過ぎていく。
僕は肝心なことを何一つ知らない。だが、彼女がそこに居る――それだけで、僕は僕を肯定できた。

私は彼を「アオバト」と呼ぶ。
不器用で、居場所を失い、私の放つ毒々しい生命の色彩に焼かれたまま立ち尽くす個体。
彼はどうやら私を愛しているらしい。それは成長期の私にとって、栄養を奪う寄生植物が吸い上げる、甘く、そして誇り高い「汚れの漿液」だった。
薄汚れた電子音が「世界の終焉」をがなり立てている。
校舎のエネルギーを簒奪し、人類の微かな可能性を爪立てて削り取る。数千人の命を繋ぐ食料の苗、その光源を操作する欺瞞の記録。
結果は明白だ。しかし、真に価値があるのは結果ではない。そこにある「意志」だ。
彼の瞳に映る私。
矛盾した感情が、胸の奥で黒い絵具のように混ざり合う。だが、混ざり合ってこそ真実の色彩が生まれるのだ。
私の肌は透徹な光を帯びる。私は、彼の瞳の中の私を見つめる。
私は震えていた。けれど。
彼は私に尽くしたいと言う。その、何でもなく聞こえる言葉。
彼という人間を、止まない雨の因果の中に永遠に積分し、証明し続ける。
細胞のひとつひとつに、消えない生命のコードを刻み込む。驚くべきことに、彼はその激痛に耐え抜いた。これが愛という力だというのなら、私にはあまりに眩しすぎて理解不能だ。
肉体など、時が過ぎれば無価値な土に還る。泥だらけの足で、天国へ続く階段を逆走する。
私が屋上から空へ溶けた後、気の遠くなるような時間の果てに、私の閃きは世界をどれほど潤すだろうか。
\bm{n+1} の絶望が溢れ出す時、\bm{n} 個の箱を冠水させてしまえば、境界線は消える。
万物は一つになるのだ。
長い時間を経て、私の思考が導き出す世界。
そこでは、箱が雨で満たされ、アオバトが水底で静かに羽を繕っている。
それは救いか? 救いに決まっているだろう。
多分。
ゼータ関数が収束するように、私の罪もいつかは「美」という一点に収束する。
私の吐息が混じり、残像が戦慄を刻む。
思考の渦は光に呑み込まれていく。
私は死ぬ。けれど、死は終わりではない。
これは、私の、最も静かで、最も激しい、最後の計算式。
幾千年後の水底で、彼がその答えを見つけるまで。
私はこの青い花の裏側で、彼を見つめ続けている。
彼は私を信じ、私は――驚くべきことに、なんと彼を信じているのだ。

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ピジョンと言う名の。

彼女は、万華鏡を覗き込んだような眩暈を誘う色彩の迷宮だった。躍らせれば、肺腑を突くような赤い花が咲き、瑠璃色の海が広がった。彼女が笑うたびに、祝福を授かったかのように新しい色を更新していく。僕はその世界の片隅で、呼吸をすることさえ忘れて、その美しさに毒されていた。
けれど。
残酷なほど鮮やかな夕陽が、この世界の終末を煽るように街を焼いている。
因果律の鎖が千切れる音を立てていた。空を切り裂き、黒い雨が降り注ぐ。人々は彩り豊かな服を着て、「呪い」のような言葉を交わしながら、崩壊する光の中を歩いている。
彼女の呟きは、僕の鼓膜を鋭く削り取った。眩しすぎる世界は、いつしか彼女の網膜を焼き、心を薄く削り取る毒となっていたのだ。誰かがプログラムした暴力から、この灰色の、完璧なデッドエンドへと。
校舎の裏手、忘れ去られた温室の最奥。
隕石が降ったあの日から、灰色の雪に閉ざされた世界で、彼女は「植物研究部」という隠れみのを使い、校舎全体のエネルギーを盗み続けていた。
水銀のように光るシダ、琥珀色のハミングを返す苔、そして、僕の心臓の鼓動に合わせて燐光を放つ青い花。
彼女は、冷徹な数式をなぞるように笑った。
箱入れ原理。
限られた「生存」という名の箱の中に、溢れ出した「感情」を押し込めれば、それらは互いを食い破り、ドロドロの灰色へと濁っていく。世界が均質化したのは、論理的な必然だった。
彼女は、未来の電力を食い潰し、異形の極彩色を育て上げた。
露見したのは、隕石の傷跡のような夕焼けが街を焼いた放課後だった。彼女は物語の悪役になり、僕はその共犯者になった。みんなが手を繋ぎ、不格好に生き延びようとする中で、彼女は、宇宙の深淵よりも深く、燃えるような青を湛えた蕾を抱きしめていた。
屋上のフェンスを背に、彼女がその蕾に口づけをした瞬間、僕の視界は「青」に塗り潰された。
世界の終わりと言われたあの雨は、今、この瞬間も僕の上に降り続いている。
僕という観測者は、彼女が書き換えたアルゴリズムの中で、死ぬことも許されずこの光景を見つめ続けてきた。一度たりとも止むことなく、天から零れ落ちる水滴が地上の記憶を洗い流し、文明を変えていく。
止まない雨に打たれ続け、灰色の絶望が剥がれ落ちたあとに残ったのは、吐き気がするほどに美しい極彩色だった。
[Table: 僕が見つめ続けた幾千年の変遷]
| 観測対象 | 幾千年後の真実 | 僕の心象 |
| :--- | :--- | :--- |
| 銀河苔 | 廃墟を喰らい、星図を投影する | 境界線が溶ける安らぎ |
| 琥珀苔 | 雨音を屈折させ、ハミングを放つ | 静かな発狂 |
| 青い宇宙花 | 彼女のいた場所で、僕を呼んでいる | 永遠の帰依 |
彼女の回答は、あまりに乱暴で、美しかった。
彼女は、かつての彼女によく似た瞳で。
花に触れる。その瞬間、僕の胸の奥で、痛みが走った。
終わりのない、永遠の冠水だ。
不格好で、泥だらけで、けれどどうしようもなく純粋な何かが、雨粒に混じって僕の頬を撫でる。「異物」は、今やこの星の「正解」となった。
降り続く雨の中、僕は肺を湿らせ、魂を溺れさせながら。
空から降ってくるのは、絶望ではなく、書き換えられた世界の数式だ。
僕は泥だらけの足で、水底へと歩き出す。
青い花が、孤独を抱えて、残酷なほど美しく、僕の足元で笑っている。
僕は、その花弁の陰に、彼女の指先の残像を探し続ける。
この止まない雨が、僕という不純な観測者を完全に洗い流し、彼女とひとつにしてくれる、その瞬間まで。

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なめらかな距離

夜からどのくらい離れて朝があるかな
朝からどのくらい近くに夜があるかな
寒いから
近づきたいのね夜と朝
暑いから
離れたいのね朝と夜

仲は悪くないと思うよ

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魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅵ


 一度方針が固まれば、後は実践あるのみだった。

「これを、先ほど話した人たちに送って下さい。可能な限り急いで」
「承知しました! オーバン議員!」

 そう言われてオーバンから封書を託された伝令役が、馬を用いて方々へと走り回る。
 彼らによって、協力予定のマインテナが商売をしている工房を始め、ミシェルの宿泊場所として提供される予定の宿や、魔法に関する物品を取り扱っている商店へ、今回の作業に関する工事の開始と協力の要請が行われていく。
 更に、役所の広報担当者によって、町の広場にある公共掲示板に図書館の作業が開始されることについての告知文が、住民や来訪者向けに出された。
 それは、大掛かりで急速な伝令ではあったものの、事前に打ち合わせが行われていたのか、協力予定のマインテナとその弟子数名、商店の主人と奉公人が、三時間以内に図書館事務所前への集合を完了した。

「お疲れ様です。オーバン殿」
「毎度、オーバンさん。来ましたよ。例の御用ですね?」
「お二人とも、お疲れ様です。事前にお話ししていたこととは言え、急な連絡で申し訳ありません」
「いえいえ、むしろ謝るべきは私の方です。お手数かけてしまい、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 オーバンの挨拶に返しつつ、協力予定のマインテナの男性が頭を下げる。

「早速ですが。今回、協力くださるマインテナさんは、どちらに?」
「ああ、ミシェルさんでしたら、あちらにいらっしゃいますよ。うちの職員と話をしているはずです」
「有難う御座います。それでは、そちらに向かいますね」

 一方、魔法物品の商店主は、オーバンやマインテナの男性への挨拶もそこそこに、連れていた奉公人二人と共に、ミシェルの方へと歩みよって話を始めた。必要な材料を用立てる必要があれば、それを円滑に準備できるようにする為だった。ついでに自分の店の売り込みもしておきたいと言う意図もあったが。
 その背中を見送った後で、マインテナの男性はオーバンに向き直る。

「そう言えば、件の不具合についての調査の方は、どのように?」
「ええ。前にお話した『カルセスファー工房』の方に分析を依頼して、ある程度の結論が得られました」
「おお。それで、その依頼を請け負ったのが、あそこの……青年ですか?」
「はは、外見は可憐ですが、男性で大丈夫ですよ。お名前はミシェル・カルセスファーさんです。かなり緻密に推測を立てて下さり、今回の不具合の解消についても全力で協力くださるという事でした」
「あの高名な“歯車の”カルセスファー殿の、しかも直系の弟子筋となれば、目利きも腕も確かでしょう。あの方の妥協の無い仕事ぶりは、余りにも有名ですからな。私も、今回は胸を借りるつもりで臨みますよ」
「お願いします。そうそう。既に店主のマルコムさんがミシェルさんとお話を始めていますが、ルダン殿も一度、彼らと情報の共有を行って下さい」
「承知しました。オーバンさんは、書類などの事務処理の方、宜しくお願いします」

 そう言って頭を下げたマインテナの男性ルダンも、自身の弟子たちを連れて、店主マルコムと同様にミシェルの下へと向かっていく。

「……よし!」

 彼らの背を見送ったオーバンもまた、図書館の館長アルノーの所へと向かって行く。
 彼自身の果たすべき役割を、その胸に。

 一方。

「──。必要そうなものは、以上です?」
「そうですね。今のところは、それくらいです」
「まいどあり。すぐに用意しますよ。ルダンさんも大丈夫です? 良ければこの後に入用の材料も、今のうちに仕入れておきますが?」
「……そうですな。弟子にリストを持たせているので、後でお渡しします。その時にでも」
「まいどあり! 今後ともご贔屓に! ここには、奉公人の一人を残していきますんで、追加で何か必要になった時は、その子、マシューに言ってやってください」

 マルコムにマシューと呼ばれた奉公人の少年が一歩前に出て、ぺこりと丁寧に頭を下げた。

「マシュー、くれぐれも御二方に迷惑を掛けないようにな。んでは私はいったん店に戻ります。また後で!」

 そう言うと彼は、もう一人の奉公人と共に一礼すると、その場を立ち去る。

「ミシェル殿。我々も参りましょうか。高名なカルセスファー工房の技、学ばせていただきます。我が弟子達も、全力でお手伝いさせますので」
「有難う御座います。僕も皆さんの足を引っ張ることのないよう、頑張らせていただきます。僕もまた、ルダンさんの熟練した手腕から学びたいと考えております。お互いに、有意義な時間にしましょう」

 そう言って、ミシェルとルダンは互いに握手を交わし、四人で、オーバンたちの所へと向かって行く。その足取りには、確かな活力がみなぎっている雰囲気が感じられ、傍から見ていても、今回の作業の未来は明るいものになると確信が持てるほどであった。

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レゾンデートル1/2

道に出ると 石につまづく
家に留まれば 茶碗が割れる
上に昇れば 忘れ物をし
下に降りれば 魚を焦がす

どこにいても 不吉である
強風に 植木鉢が飛ばされる
門の鍵をかけ忘れる
あげくに ゴミを出しそびれるだろう

私の人生は 半分である 
分けられたものである
それを享受してこそ 
この 不平不満の口を
閉じることができる
うるさい感情を 
なだめることができる

それを知ったのは 最近だ
それまでずっと もう半分は
苦しみ 痛み 嘆き続けていた

半分こそ 本分である
分け合っている

私が ちょっとましだと 
日々を感じたなら
そのとき半分は 

道につまづいている
何かを失くしている
忘れ物を探してる

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どどどど ど

仕事納めと言うけれど

どどどどど。

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本日は晴天なり

 少しだけ残っていたアイスコーヒーを、もう惜しみつつストローで突っつくのはやめて、百絵乃は最後のタバコを吸い終え、火を消した。
 仕事帰りだ。
 ニコチンがきつく有名な、古くからある銘柄。パッケージをクシャッとひねり重厚な木製のテーブルにポン、と置いた。
 仏頂面だ。来月25のお誕生日を迎えるが子どもっぽい百絵乃は、いつも年齢を言うとびっくりされる。だが、瑞々しさを曇らせ今は仏頂面。
「お冷や、お入れしましょうか」
 まるでどこかの宮殿の執事みたいに品の良い男性が言ったが、断わった。(あ! でも、忘れていた)
「すみません。ごめんなさい、やっぱりいただきます」とグラスをそっと持ち上げる百絵乃。

 複雑な暮らしをしている。
 喫茶店には粋な女性ボーカルのジャズが流れる。
 1月の空が薄曇りで、(ニーハイブーツだからよかった)と胸を撫で下ろす。
 足元に温みはあるが……複雑な暮らしをしている。百絵乃は。

 処方されている精神薬をひと息に飲んだ。

(慶太、あなたが不快すぎるわ。そもそも最初から軽い気持ちよね。あたし、きっと)

 事情はこうだ。
 九州の田舎から上京してきた百絵乃。2年前に渋谷でナンパにあった。軽はずみだったかもしれない。百絵乃はその日のうちに、ナンパしてきた相手である慶太と深い仲になった。

 場所は……渋谷にいくらでもあるラブホテルではない。
 高円寺の団地だ。普通なら団地で何にも悪い事はない。その団地は狭い4畳半が2つ、あとはちっちゃい台所と狭い風呂とトイレだけ。
 慶太は1部屋占領。もう1つの部屋には……当時27才の慶太の親にしてはあまりにも年老いている両親。そして後には出戻りのお姉ちゃん・直子|と、直子の連れ子である2才半の男の子もやって来るので、4人が押し込まれている状況だ。

 そう、ナンパされた時、まだお姉ちゃん達は居なかった。

 人の両親がいる隣の部屋で、初めて会った男に抱かれた。

 田舎の広い家に暮らしていた百絵乃にとって、そこはカルチャーショックだった。その家は掃除をする人がいなく、洗い物はたまり、汚れないようにと新聞紙を敷いてご飯を食べる。しかし汚れて床もベタベタしている。折り畳み式のミニミニテーブルがあるだけ。順番にお食事だ。

 なにゆえ百絵乃がそこまで、慶太家の生活状況を把握しているかというと、まさに今、百絵乃はその団地で暮らしているからだ。慶太と結婚はしていない。同棲……というか、居候だ。
 渋谷のお店で朝からお昼まで風俗嬢をしている百絵乃。慶太にナンパされた時は寮生活だった。
 寮と言ってもワンルームマンションをあてがわれていたので、自由な暮らしだ。ベッドや洗濯機に冷蔵庫など、家財道具はすべて揃っていたし。

 しかしある時期から、寮に入っている女の子の間で嫌なうわさが流れ始めた。
「盗聴器、付けられてたりして……」
 今思えば、まさか~! と感じる百絵乃だが、当時その事が物凄くストレスになり、脅えた。くつろげる場所であるはずの住まいが住まいじゃなくなった。
 そこから心の病気にまでなってしまい、今も精神科へ通っている。

 慶太は、とても華やかな風貌だ。着ているものも派手で愛嬌がある。(モテそう)と、声を掛けられたとき思った百絵乃。
 しかし、付き合ってみると慶太は口下手で純粋な男だった。

「俺んとこ、来る?」と交際1カ月経った頃慶太が言ったから、『盗聴器妄想』から逃れたい百絵乃は二つ返事で引っ越した。

 ちなみに慶太は、百絵乃の仕事に関して口出しをしない。「一生懸命頑張っているのだから」と認めてくれた。
 稼いだお金は全て百絵乃の小遣いにしているというのに。焼きもちも焼かないで認めてくれている。
 慶太は工場内のライン作業で車の部品を作っている。休日は変則的だ。

 年老いた慶太の両親は、慶太にあんまり口ごたえできない風だ。しかし、慶太は特に両親につらくは当たらない。ただ、言い出したらきかない所のある慶太だ。

 百絵乃が慶太家に居候生活を始め、約半年した頃お姉ちゃんの直子と男児が実家であるこの団地に帰って来た。

 こんなに小さな家で、半分を独り占めする慶太。しかしまぁ、自然なことか。両親は夫婦だ。夫婦の部屋と息子の部屋に、そもそも分かれていただけのこと。
 お姉ちゃんは、若いカップルの部屋に入り込むのに気が引けたということだろう。だから親と同じ部屋。そしてボクちゃんと4人でギューギュー。

 比較的しつけの厳しいおばあちゃんのもとで育った百絵乃には驚きの連続だ。

 まず最初に驚いたのは、慶太は真冬以外パンツいっちょう。トランクスしか履いていない。おじいちゃんみたいなお父さんは、股引こそ履いてはいるが、やはり上半身は裸。
 そして皆、驚くほど口が悪い。元暴走族の姉(直子)と弟(慶太)。お姉ちゃんは男の人みたいな喋り方をする。凄くびっくり。

 しかしお姉ちゃんは百絵乃をかわいがるし、百絵乃もお姉ちゃんとボクちゃんのことが好きだ。慶太は甥っ子の面倒をよく見る。

 ある時……お姉ちゃんがある女友達を呼んだ。

「慶太、元気?」
 赤ちゃんを連れている。

(なに、この女、なれなれしい。人の男に向かって)ムカッと来た百絵乃。

 彼女があっちに行った時、小声で「あの人、誰?」と慶太に問う百絵乃。
「昔の女だよ」
「ハー?!」あったまに来る百絵乃。しかし、どうやら、百絵乃の嫉妬心を超えるぐらい、慶太が姉に向かって怒っているようだ。

 その女性がいる間は何も言わずにおいた慶太。
 しかし女性と赤ちゃんが帰った後、姉弟喧嘩が始まった。
「おい! ねーちゃん、どういうつもりだよ! 花江を呼ぶなんて!」
 言葉にはしなかったが慶太は(俺には今、百絵乃が居るのに)という意味合いで怒ったのだろう。

 負けん気の強いお姉ちゃんから怒声が返って来た。
「なーんで、あたしがあたしの友達呼んだら駄目なんだよっ?! クソが! あーあー、わかった、わかったっ! どうせここは、てめぇらの城だよな!」
「ハ――――?!」

 気分悪すぎて、もうそのあとは忘れた百絵乃だ。


                *

(あんなにお姉ちゃんに怒っていたくせに、慶太、あれはな~に?!)

 百絵乃は非常に不愉快で、あの家を出て行こうと、この喫茶店でいつまでも考えているのだ。

 堂々巡りの万華鏡のように、魅惑のジェラシーがこのままじゃおさまらないので、席を立った。アイスコーヒーの会計を済ませ帰路を辿る百絵乃。


 ここまで思うゆえんは、つい最近の怨めしい出来事。

 またしても、お姉ちゃんの友達だ。
 その女性・弥生ちゃんは時々慶太家に遊びに来ている。百絵乃ともよくしゃべる。

 いつものように仕事から午後1時ごろ帰宅した百絵乃。
 部屋の扉をガラッと開けた。

(え?)

 目に焼き付いて離れない、あの弥生ちゃんの格好。シレッとした顔で長いタバコをふかしている弥生ちゃんは、下着一枚だった。太ももまでのキャミソール。慶太はいつも通りパンツいっちょう。

(なにやってんの?)
 訊く気にもならない。
 関係を待ったにせよ、持たなかったにせよ、吐き気がするほど気分が悪かった。

                 *

 しかし、取り敢えず行く所がない百絵乃。
 弥生ちゃんの一件にはムカムカするが(お金を貯めたら出て行こう)と決意する百絵乃。

 それはお姉ちゃんに先を越された。窮屈さに耐えかねたのだろう。お姉ちゃんはボクを連れ新しいアパートへ引っ越して行った。

                 *

「おはよう、百絵乃ちゃん」
「あ、お母さん、おはよ」
「タバコ1本恵んでくれないかい」
「あ、いいわよ」

 この家にはお金がないのだ。お父さんは新聞配達。お母さんはパチンコで稼いでくる。

 お母さんといても別に気兼ねをしない。実家とまったく様式こそ違いはあれども、本物の家族の感覚だ。
 百絵乃は窓の外に目をやった。何処までも続く晴れた空に端っこがあるように感じた。真白い雲の先は行き止まりに見えた。
 ここは5階なので見て取れぬが、下の小さな公園からは子ども達がキャッキャとはしゃぐ笑い声が聞こえてくる。

 百絵乃もタバコに火を点けた。フーッと鼻から白い煙を平気で出した時「いなくなればいい」と、どこかからか聴こえた。自分の声によく似ている。
(うん、そうだね)と百絵乃は得体の知れない声に向かって胸の中で返事をした。

 お姉ちゃんは引っ越したというのに、弥生ちゃんは相変わらず慶太家に遊びに来る。
 忌々しいキャミソールの一件があったものの、百絵乃は弥生ちゃんと友達付き合いをしているし、弥生ちゃんは弥生ちゃんで、慶太家を家族のように慕っている。
 ある時など、慶太と百絵乃が出先から帰宅すると、弥生ちゃんとお母さんが二人で楽しそうに話し込んでいたこともある。

 変な関係だ。
 何かが抜け落ちている。

 今にも抜けそうな団地の古い床を見つめながら、この毎日を思った。
 否、百絵乃は、欠けてしまっているのは自分だと気づく。

 焦りや怒りを押しとどめ、平気な振りをしている。

 もう、我慢ならない、とかき氷みたいな水色の冬空に誓う。


 街のパチンコ店が新装開店するという。お母さんはその知らせを知った時からソワソワ、ウキウキとしている。
「いっぱい出るだろうね~! あたしの腕の見せ所だよ」だなんて言ったあと、入れ歯をはずして洗い始めた。

 明後日か。

「ねぇ、慶太、あたしさ、弥生ちゃんとゆっくり話したいんだー。明日弥生ちゃんがここに泊まるように誘っても良いかな?」
「え!? 泊まるって、弥生ちゃん、何処で寝るの」
「そんなのどっちの部屋でも良いじゃん。あたしと慶太は恋人同士。それをわかってる弥生ちゃんが何か変な事でもするの?」
 敢えて逆に尋ねて見せる百絵乃。

 慶太はなんだか慌てた表情をした。百絵乃はこっそりこの男を鼻で笑った。
(やっぱりあの日、男女の仲を持ったのね。この男に、ほとほとしらけたわ)

 慶太は答えた。「ああ、弥生ちゃんが変な真似をするわけないさ。泊まっても良いんじゃない」

 百絵乃は嬉々としている。企みを持っているからだ。

(願い事が叶う!)

 すぐに電話を掛ける百絵乃。
 弥生ちゃんはコール2回で出た。
「もしもし、弥生ちゃん」
『うん! 百絵乃。どうしたの?』
「相談したい事があるの、あたし……。明日さ、泊まりに来てほしい」

 弥生ちゃんは男に貢がせ生活している。暇人だ。

『良いよ。泊まりに行くよ』

              *

 弥生ちゃんはお昼頃やって来た。
 お父さんは新聞配達が終わると、浴びるほど酒を呑み続けている。お母さんはなにをすることもなく、タバコを呑み続けている。
「お母ちゃん、メシもらうわ」貧しい家にやって来て、厚かましい女だ。(ま、あたしも同類か)百絵乃はその憂鬱を即座にかき消す。

「ありがと、来てくれて」
 慶太は「ちょっと友達の家に行って来る」と席をはずしていた。
「ううん。良いよ、百絵乃。ところで相談って、なんかあった?」
「ンー、あたしさ、風俗やってんじゃん?」
「うん、うん」
「慶太は何にも言わないけど、やっぱ悪いかなーって、ちょっと悩んでんの。お金にはなるんだけど……」
「あー、ね~。んー。でもさ、あたしも風俗上がりだけど、理解ある彼氏だったよ、当時。慶太も理解あるから、いんじゃないかな」
 百絵乃のはらわたが煮えくり返っていた。(『慶太』とか、てめぇが呼ぶな)と。
 しかし笑顔で「弥生ちゃんはそう思う?」
「うん、そうだね」
「そうか~。じゃあ、もう少し頑張ってみようかな。店長にも頼りにされてんだよね」
「うん、うん」

 うわべだけのお悩み相談コーナーが終了した頃、丁度慶太が帰宅した。
「おお、弥生ちゃん、久しぶり」
「おお、慶太、元気か」
 弥生ちゃんも決して品の良い話し方ではない。
「元気だよ。ところでさ、今日どっちの部屋で寝んの? 母ちゃんたちの部屋? それともここ?」
「あ、ここで寝ても良い?」
 悪びれる様子もなく弥生ちゃん。恋人同士の部屋に寝ると言う。確かにもう一組布団はあるが。(ゲスな女だな)と腹の中で思う百絵乃。
 しかし百絵乃の企みが、百絵乃の精神を今支えている。

 明日、お父さんは早朝新聞を配った後、行きつけの立ち飲み屋へ行く。これは日課だ。お母さんは新装開店のパチンコで夕方以降まで帰って来ない。慶太はといえば、明日は早朝から夕方まで仕事。
 明日の朝、お母さんが出て行ったあと、弥生ちゃんと二人きりになる百絵乃。


 夕方まで慶太を交えた3人で、気の抜けたサイダーみたいな世間話に花を咲かせた。時々お母さんが煙草をせびりに部屋に入ってきては、そのままおしゃべりに加わった。

 そうして迎えた夜。弥生ちゃんが先に入浴した。百絵乃がパジャマを貸してやった。そのあと、慶太と百絵乃が一緒に狭い風呂に入った。時々こうして一緒にお風呂に入るのだ。

 カップルが仲良く風呂を上がると、弥生ちゃんが暗い目をしていた。
(やっぱり慶太に気があるのね。いい気味だわ)と百絵乃は、ほくそ笑む。

 百絵乃は眠剤を飲むのでよく眠る。しかし眠り始め3時間ぐらいすると必ず1度目覚めてしまう。でもすぐにまた二度寝へと睡魔にいざなわれる。

 今夜も深夜、一度目覚めてしまった百絵乃。
 みると自分のすぐそばで、掛け布団の山ができ、モゾモゾと蠢いている。
 自分の恋人と女がまぐわっているのだ。弥生ちゃんは声を押し殺そうとしているらしいが、時々吐息を漏らす。

 想定していた通りだ。

 明日が来るから、夜明けが待っているから百絵乃は耐えられる。

 肌と肌がぶつかり合う音を冷静に聴きつつ、そちらへ背を向けていた百絵乃は、いつの間に眠った。

 朝のまばゆい光が瞼に転がり起こされた。隣にいる筈の慶太が居ない。すでに出勤していた。
「おはよう、百絵乃」
「ンー、おはよ、弥生ちゃん」
 ねぼけまなこの百絵乃。時計を見ると8時も過ぎていた。
(いけない! あたし、シャンとしなきゃ……! せっかくのチャンスを棒に振っちゃいけないわ)
 顔を洗いに洗面所へ行くと、お母さんは既にパチンコ店へ出掛けていた。
 お父さんはまだ帰って来ない。

(お父さんが帰って来るまでに!)
 百絵乃は弥生ちゃんを呼んだ。
「弥生ちゃ~ん! 冷凍庫にピラフ入ってた。食べるぅ?」
「食べるっ! ハラペコ~」

「ヒッ!!」

 おびき寄せた卑しい弥生ちゃんに、出刃包丁を向けている百絵乃。

「あんたはさー、ヒトのモノ盗るの好きね!」弥生ちゃんが逃げるまなく飛び掛かり、腹を刺す。
 ブスッ!
 震え失禁した弥生ちゃん。真っ赤に染まる百絵乃が貸したパジャマ。
「うぁあぁ、うぁああ――――――ッ!」狂っている弥生ちゃんに向かって「メシもよぉッッッ!」と百絵乃は言いつつ一回包丁を抜き「男達の財産もよぉっ!」と言いながらまた腹を刺した。
 弥生ちゃんは白目をむいている。

「泥棒めッ! 好きモノ外道め! 慶太みたいな男、要らねぇけど、てめぇが生きてると虫唾が走るんだよッ!」
 とどめに左胸辺りを深く、深く思いっきり何度もさした! ザクッ! ザク……ッ! ザクザク、ザック! ザク!
「しねッ! 死ね! シネ、しねしね死ね、しね、死ね――――――ッ!」
 弥生ちゃんには届いていない。とっくに死んでいるから。百絵乃の血まみれの顔は鬼そのものだ。

 死体をポーンと一度蹴飛ばす百絵乃。風呂に入り、上がるとサッと美麗にお化粧をし、華やかなミニのワンピを着、めかし込んで出て行った。

(今日は晴れの日)

 百絵乃が最後の砦を破壊した日。
 自分から自分が消えた日だ。

 やわらかなおひさまが、冬の貴婦人・クリスマスローズに、嬉しそうに笑いかけている。



※ この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

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美しかった国

やさしいひとが
笑えない世の中で
山河に向かって吠えている

一体何と戦っているんだ


それでも
もっとやさしいひとが
壊れた土手を
直している




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ラメ色のふしぎ

 
 冬の夕暮れは駆け足でやってきます。5時にもなるともう宵闇が夜に連れて行かれそう。

 5才の由幸くんは、ママと二人遊園地の帰りに駅の広場で、遊園地にいそうでいなかった存在に出くわしました。

 それは、赤と白の縞々でダボッとしたお洋服を着、顔を真っ白にしたピエロです。
 お鼻は赤く真ん丸です。きっとポンポンのような物で出来ているのでしょう。
 金髪のモジャモジャヘアーがお帽子から覗いています。
 
『駅の広場』と言っても2月の寒空の下です。

 長い風船をプーとふくらませてはいろんな形にし、オーバージェスチャーで道行く人にアピールしています。
 
 でも、みんなたいして見向きもしない。

 由幸くんは、ママとつないだ手にギュッと力を入れました。

「どうしたの? 由幸?」
 優しくママが問いかけます。

「ピエロさんがいるよ、ママ」

 ママは由幸くんに合わせ立ち止まりました。

「あら、ほんとうね!」

「ママ、ピエロさんが面白いことしている! 僕、みたい!」

「うん、わかった」

 ママと手をつないだまま、ピエロのコミカルな動きに夢中になる由幸くん。

「すごいね! どうして、あの風船割れないの? ママ」

「うーん、ママにはわかんない! ピエロさんに訊いてみる?」
 嬉しそうにママが微笑みました。

「うん!」
 元気いっぱい由幸くんはお返事を。

 ……でも、なんだか恥ずかしくて訊けない。

 いつの間にか、最初いた場所よりもピエロさんに近づいていた由幸くんとママ。

 そういえば……ピエロさん、ずっとおしゃべりしないぞ?

「ねぇ、ママ、ピエロさんはなんで声を出さないの?!」

「それはね、言葉を使わなくても素晴らしいことができるからだよ」

「……」由幸くんは思いました。
(でも、お客さんは僕とママだけじゃないか……)

 由幸くんがなんだか複雑な気持ちになりながらピエロの芸を見ていると、ピエロが左腕を後ろにピンと少し高く伸ばし、右足を前へ、そしてちょっぴり前かがみになり……まるで捧げるように右手で風船で出来たカラフルな花束を由幸くんへ渡そうとしてきました。

 その時、由幸くんがピエロの目を見ると……キラキラとした涙の雫のお化粧が左瞼の下に施されているのに気付きました。
 でもピエロさんは満面の笑みです。

「ありがとう」
 ボソッと由幸くんは言い、プレゼントを受けとりました。

 隣のママのお顔を見上げると、ニコニコしています。

 由幸くんは、キラキラしたお化粧の涙が綺麗でなぜだか悲しい気持ちになりました。

 ママは笑顔。

(もしかしたら……大人になったら、僕は『言葉を使わなくても出来る素晴らしいこと』が理解できるのかなぁ)

「寒いね! 行きましょう、由幸」

「うん」

 ママに連れられお家へ帰って行く由幸くん。

 50メートルぐらい行った後、1度だけ振り返りました。

 するとピエロさんが右手の指を順番に素早く動かしながら「バイバイ」をしてくれました。

 それでも、あの……ラメで出来た、涙の形を消してあげたくなる由幸くんなのでした。

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 4

摩耗

 
 私はずっと昔からここに居る。
 なぜだかここに居る。私には見えないが、どこかの会社の社名が宣伝文句のようにひっそりと私の顔の下に書かれているが、ずいぶん時間が経ち、その金色の文字はかすれている部分がある。

『マンション南天』入り口の壁に……無造作に取り付けられた感の否めない私の顔。
 マンションと言っても広いエントランスがあるわけじゃなし、まるで商業ビルの入り口のような処に私は居る。
 街の行きかう人もよく見える。

 新たに引っ越してきた人の中には私を見て「何でこんな所に? 気持ち悪、シュールだな~」とこぼした人も居たっけな。
 それでもほとんどの住人は私とにらめっこしながら、身なりを整え出掛けていく。

 だが、私の仲間はだいたいこんな場所には居ないので、確かに珍しいだろう。シュールな趣があり、恐怖すら与えるかもしれない。私の仲間たちは時に、個人個人の持ち物となり、普段はその人だけ、もしくはその人の家族だけを映す。

 私は鏡だ。

 私を覗き込んだある人は言った。
「マンション共用の鏡なんてなんか怖い。不自然。念が入っていそう……」

『念』か……。

 私の友はエレベーターに居るし、トイレにも居る。数え上げればきりがないほど、街中に鎮座する。

『念』とやらを払う為だろう、友たちは毎日決まった時間帯にピカピカに磨かれている。
 しかし私はくすんでいる。なぜかは知らない。取り付けられたまんまで茶色っぽいシミのようなものを角に持つ。

 不気味がられ厄介者扱いされながらも、おしゃれに入念な女子などには重宝されてもいる。

「じゃあ隆|、取りあえず、ここで。あたし達はもう帰るわ。明を早くお風呂に入れてやりたいし。後の事は自分でやってちょうだい」

 ……。見慣れない家族だ。父母と子ども、という関係であろうか。
 しかし女性は「もう帰る」と言ったから家族ではなく、恋人同士と女性の子どもか? 3才ぐらいの男の子と女性が手を繋いでいる。

 12月の午後6時。辺りはすっかり暗い。賑やかな駅にほど近いマンション南天に入居してきた男性は、なんだか一人置き去りにされたみたいに見える。

「沙織の奴『もう帰る』ってさ、電気屋これから見つけるのかよ?」
 曲がり角を曲がるまで、女性とその息子らしき男の子をじっと見つめていた男性・隆がボソッと言ったあと舌打ちした。

 私は男性と向かい合わせになった。彼が私に近づいてきたのだ。
「なんだこれ。こんなところに鏡? 変なの」と言った。
 その後、隆という名前の男性は、機嫌が悪そうにブツブツ言いながら階段を上って行った。

                       *

 私はこの新顔に興味を持った。

 スーツを着た隆は平日の朝8時半ごろ必ず階段を下りて来て、私の見える場所にある自転車置き場の自転車にまたがりどこかへ行く。四角く平たい鞄を持っているので仕事へ行くのだろうか。
 夕方の6時半ぐらいに戻って来て、私をちらともせず階段を上って行く。手には野菜などが見え隠れするスーパーの袋を持っていることもある。

 隆は毎日、同じ時間に同じように無表情で私の前を過ぎていく。
 隆は私に対して殆ど魅力を感じないらしい。見向きもしない。

 ある日曜日のお昼時。半月前、隆に「じゃあね」と言い去って行った沙織という名前らしい女性が、この間と一緒の子どもを連れマンション南天にやって来た。子どもは、沙織がお風呂に早く入れたがっていた『明』だろうか。

 隆と違い、自分の顔が好きなのか何なのか、兎に角絶対に私の前で立ち止まる沙織。
 私に見入り、深紅の口紅を塗り直している。

「ママ~、パパなにしてる?」明らしきが、私に夢中の沙織に向かって話しかける。
「うーん、そうね。ゲームしてるかもしれないね。いこっか、お待たせ! 明」

 やはりこの子は明という名だな。ぷっくりとした小さな手がなんとも愛らしい。羽毛のようにやわらかな髪の毛をした天使のような男の子だ。
 明は背が小さいので、私から離れた時だけその姿が見止められる。

 沙織は髪の毛をツインテールにした若い母親だ。私が見るに……おそらく年齢は20代だろう。

 家族のカタチが様々な事を私は知っている。この目で目の当たりにしてきた。マンション南天で。男女の関係もいろいろある事を私は生まれた時(私がここに設置された時)から学んでいった。

 マンション南天はそんなに大きなマンションではないらしい。私が知る限りでは住人は10組程度だ。

 隆の部屋で沙織と明はどう過ごすのだろう? 恐らく元夫婦だ。今は友達付き合いをしているのだろうか? それとも息子の明が父・隆に会いたがるから母である沙織が連れてくるのだろうか。

 何せ私は暇人だ、おっと……暇鏡だ。あれこれ妄想するのは楽しい趣味の一つだ。

 夕方5時。
 沙織と明の声が階段の上のほうから聴こえてきた。
「ママ、またパパに会える?」
「うん、もちろんだよ、明。また遊びに来ようね!」
「うん!」

 私は遠くからやって来る街の灯をぼんやりと顔に映しながら、胸が切なくなった。明の無邪気さに胸が痛んだ。
 家族など持った事はないが、私には心があるのか? 誰かが言った『念』が私に『心』を与えたのかも知れない。

 やがて誰もがコートの端をギュッと持ち体をくるむ寒い冬が過ぎ、すっかり春がやって来た。

 朝の光の中、満開の桜のピンクが私に反射する。

 あれからもずっと、隆のもとへ毎週のように、沙織と明がやって来ていた。
「ママ、パパ喜ぶ?」
「うん! きっと明が択んだチョコレートケーキ、パパ喜んで食べるよっ」
「わーい!」
 今日はケーキを手にしているせいなのか、私の前で立ち止まらない沙織。嬉しそうな親子のおしゃべりが、階段の上へと小さくなっていく。

 隆は見送りをしないんだな。つらくなるからだろう、と私は何となく感じ取る。
 たくさんのカップルが「さようなら」と手を振る姿を私に映した。
 次の約束を楽しみに倖せを噛み締めた「さようなら」。ほんとうの「さようなら」。半ばやけっぱちの「さようなら」。
 それらを見ていると、私は豊かなアート作品を無料で見られる喜びを感じたし、手を振り続ける人を助けたいような気持ちにもなった。
 でも鏡だからなにも出来ない。

 1年経った。

 相変わらず隆は会社へ行っているようだ。いつもの時間に、自転車に乗り出発する。雨の日は合羽を着ていく。
 出不精らしい隆が最近では、土曜日や日曜日も自転車に乗りどこかへ行く日を持つようになった。
 そんな時、沙織と明はやって来ない。

 どうしたのかな? と私が考えこんでいると、次の週の土曜日には沙織と明がマンション南天へやってきたりもした。

「ねぇ、ママ、パパともう喧嘩しないで」と明が私の近くで漏らした。
「うん、大丈夫よ。明、ママは怒ってないよ。パパと仲良くするね!」
 明がさみしそうに黙っている。
「明? ママとお手てを繋ぎましょう」
「はーい」

 すぐに階段を上ってゆく音がきこえ始めた。母子は黙ったまま私のそばから消えていった。

(ああ……私が人間ならば、今頃ウロウロそこら中を行ったり来たりしているだろう。隆と沙織になにがあったのだろう。明を笑顔にしてやってほしい)
 備え付けられた鏡だから、歩けない。

 夕方の6時半……沙織と明が階段を下りてきた。二人の声が近づいて来る。
「ママ、またパパに会いたい! 楽しかったね」
「うん、そうね。明。今度は家族でお好み焼きを一緒に食べに行きたいね」

 ……。どうしてこの夫婦は別れてしまったのだろう。赤の他人、おっと他鏡の私ごときが要らぬ世話だが。
 しかし皆そうだ。マンション南天の皆がそうだった。あんなにプンプン怒っていた彼氏が、次の日にはベッタリになっていたり……一人の学生らしい女性をいつも訪ねていた仲良しの男性が突然来なくなったり……。私は人間じゃなくて良かったかもしれない。人間は大変そうだ。

 私は恋をしたこともなければ、子どもを持つこともない。声を発することが無いから言い争いとは無縁だ。時々孤独を感じるが、人間を羨ましいとは思えない。

 翌日の日曜日、隆が珍しく私をじっと凝視した。恥ずかしくて逃げ出したくなるぐらいの長い事見つめている。浮かない表情だ。しばらくし、たった一言だけつぶやいた。
「俺の顔、気持ち悪」
 彼は苦笑いした。
 私は彼の代わりに泣きたくなった。何処が気持ち悪いというのだ。隆は派手な顔はしていないが、『気持ちの良い顔』をしている。優しさを湛えている。
 正直言って、私は見ていられない顔もこれまで映してきた。それは顔の造りの事を言っているんじゃない。意地悪を企む顔や、人を陥れる前の表情だ。目の前から消えてくれ! と願ったぐらいだ。
 隆は、なにかコンプレックスがあるのだろう。私はそう感じる。ただ、隆に見つめられると嬉しくなるので、性根が美しいのだろう。

「ママ、ほんとう? ほんとうに……?」
 明の声だ。

 それはある日曜日の朝。
「ええ、ほんとうよ。きっとよ。必ずパパにまた会えるわ。明、ママは明と指きりするよ」
「うん!」
 少し離れた所に明と沙織が小指と小指を絡め笑顔を交わす姿が見えた。

 今までと何かが違う。私は悲しい色合いを沙織から感じ取った。
 沙織が私の所に来て、真っ直ぐに私を見つめた。沙織の瞳の中にボートの浮かんだ湖が見えた。
(さっき、明に言った言葉の意味は……?)考え直すが私にはよくわからない。

 口紅は塗り直さずに、豊かな前髪を左手で整えている。どうやら右手は明と繋いでいるらしい。間近なので明の姿は私から見えない。

「ママ、早くパパに会いたい!」
「うん、行こうね! 明」微笑む沙織が左手で瞳を少しだけ拭った。ボートが揺れた。

                        *

 その日の夕方は、隆が階段から下りてきた。(ああ、今日はお見送りをするんだな)
「気を付けて帰るんだぞ、明。また遊ぼうな!」と隆。
「うん! パパ大好きっ」満面の笑みの明。
 沙織は俯き瞳を伏せている。
「じゃあね」と沙織。「うん、気を付けてね」と隆。

 曲がり角の所で明は振り返った。一生懸命手を振る隆。嬉しそうに精いっぱい手を振り返す明。

 私はもう可愛いあの姿を見られないんじゃないかと予感した。
 沙織は振り向かなかった。

                        *

 そして、梅雨がやってきた。
 ああ、このムカデ君を何とかしてほしい。ジメジメする季節の到来とともに、私のことを好いてか、私の顔の近くを這うのだ。モゾモゾして不快だ。

 雨の続く日も、隆はいつでも自転車で出勤して行った。

 道行く人の「こんなところに紫陽花! きれいだね」という声が聴こえる。

 何人もの人から聴いた。「時間が経つの、早いね。もう8月!」そのようなセリフ。
 紫陽花は枯れ、やがて向日葵の季節が到来した。

 私の予感は的中してしまったのだろうか。儚げなあの日の母子の姿をあれ以来見ない。

 (隆と沙織と、明……[ほんとうのさようなら]をしてしまったのだろうか。指きりは何処へ行ったのか)
 何処からか聴こえてくる風鈴の涼やかな音色が、私のやり切れなさを撫でる。

 あ! 隆がやって来た。ごきげんな表情をしている。
 そして……ニコニコしながら私を覗き込んだ。
(お?! いつもより粋な格好の隆)

「隆~!!」
 聞きなれない女性の声だ。
「夕子|、来たの!」
「ええ、智也も、ネ! ……ほら、智也、隆さんに『こんにちは』は?」
 どうやら夕子という女性の子どもらしい、智也君は。ちょうど………1年前の明と同じぐらいの背格好だ。3歳ぐらいだろうか。
「こんにちは……」もじもじと夕子の足の後ろに隠れる智也。
「こんにちは! 智也君。仲良くしてね!」と隆。

 私は、いったいぜんたい……沙織との交際はどうなったのだろう。明の気持ちは……隆の最初の家族の記憶が蘇り、胸がズキンッとした。

 あの日、沙織が目に涙をためていた、明と指切りした日は……何処へ行ったのだと虚しいような心地がしてきた。

 自分が人間じゃなくて良かった、と思った。と同時に人間だったら、『パパに必ず会えると信じていた』明に会いに行ってやれるのにと思った。会いに行ったところで、自分に何ができよう。でも、鏡で培った技術を生かし、物真似を教えてあげられるな、などと考え付きもした。

 幸せそうな隆と、夕子と智也がキャッキャと言いながら階段を上って行ったあと、私は力が失われていくのを感じた。

 ああ、鏡でありながら魂を持ってしまった。

 見守り続ける事が宿命であるがゆえ与えられる、残酷な仕打ちを経験した今、ちょうど私の寿命がやって来た。

 勝手に割れて、粉々になった。

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 4

ミヤくん、ミヤくん

“この世というものは、儚い夢だと
そう、言い聞かされていたというのに

過ぎ去ってみればどうだろう
なんという歳月の間
なんという嘘を
つかれていたことやら“

――Tokugawa Yoshinobu(あるいは最高密度の青色、夜の果てに位置する)





「ミヤくん、ミヤくん」

木の根を枕にしていた僕の
その少し上で響いた優しさ

「神社にお参りにいく日でしょ、今日。一緒に行こうよ」

差し伸べられた手の温度は
その日、残り日、そのまま

そうして引き起こされて
引き歩かされて
だんだんとぼんやりが消える景色の

その桜並木の温度は君の微笑み



その中にほのかに赤く、金に
星を燃やすがごとく煌く旗があって
それがいったい何なのか
ずっとずっと思い出せなくて

ずっと泣き出そうともしていた僕の頬を撫でた君は

「ミヤくん、ミヤくん
知らないの?
あれはね……」

石鳥居の前、そっと得意気に語り出し

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透明な辞書

 西日が、使い古された木製の机に長い影を落としている。放課後の、四等分された教室は、埃の粒子が光の筋の中で踊る、静かな水槽のようだった。
 私、秋山は、日直の仕事である黒板消しを手に持ったまま、窓際に座る雪絵を見ていた。彼女は図工の時間に余った色画用紙を細長く切り、丁寧に「栞」を作っている。

「……ねえ、秋山くん」

 雪絵が顔を上げずに言った。彼女の指先は、まるで壊れやすい羽虫を扱うように繊細だ。

「この色のこと、なんて呼ぶ?」

 彼女が指し示したのは、群青色でも空色でもない、少しだけ緑が混ざったような、けれどひどく冷たそうな青色だった。

「……水の色。でも、水道のじゃなくて、深いプールの底の、タイルの隙間にある色」

 私がそう答えると、雪絵ははじめてこちらを向き、少しだけ口角を上げた。
 それは「正解」と言われたような、あるいは「見つかった」と言われたような、不思議な感覚だった。

 私たちが「初恋」という、まだ辞書にも載っていないような感情の輪郭に触れたのは、まさにこの時だったと思う。

 十歳や十一歳の子供にとって、異性は別の星から来た生き物に近い。男子は騒がしく、女子は徒党を組む。互いの言葉は、記号としては通じても、その奥にある温度までは伝わらない。
 けれど、この日の放課後、私と雪絵の間には、クラスの誰にも理解できない「共通言語」が芽生え始めていた。



二人だけの語彙

 それからの私たちは、放課後の数十分、誰もいなくなった教室で「言葉のすり合わせ」を始めた。
 それは勉強でも遊びでもない。ただ、目の前にある現象に、二人だけの名前をつけていく作業だった。
• 「廊下のにおい」……雨上がりに、誰かが濡れた上履きで歩いたあとの、少しだけ土の匂いが混じった切なさのこと。
• 「鉛筆の沈黙」……テスト中に全員が静まり返り、カリカリという音だけが響くときの、あの心細い連帯感のこと。
• 「遠くのチャイム」……隣の中学校から聞こえてくる、自分たちの未来が少しだけ先取りされたような、くぐもった音のこと。

「これってさ、他の人に言ってもわかんないよね」

 雪絵は、窓枠に溜まった光を指先でなぞりながら呟いた。

「うん。きっと、変な奴だって思われるだけだ」

「……秋山くんと私だけが知っていればいいのかもね」

 その言葉を聞いたとき、私の胸の奥に、小さな、けれど鋭い痛みが走った。
 それが「独占欲」という言葉で定義されるものだと知るには、まだ少し時間が足りなかったけれど、私はその時、雪絵という少女と世界を共有しているという事実に、目眩がするほどの優越感を感じていた。



境界線を越える音

 季節は巡り、教室に差し込む光の角度が鋭くなってきた。
 ある日、雪絵がふと、私のノートの端を指で弾いた。

「秋山くん、あのね。『さようなら』って、本当はどういう意味だと思う?」

 私は考えた。国語辞典には「別れの挨拶」と書いてある。でも、今の私たちが交わすそれは、きっと違う。

「……明日もまた、この場所で続きを話そうっていう、予約のこと?」

 雪絵は驚いたように目を見開き、それからクスクスと笑った。
 彼女が笑うと、教室の埃たちが一斉に祝福するように光り輝く。

「それ、いい。すごくいいよ。じゃあ、今の私たちは、毎日予約をし合ってるんだね」

 その時だった。廊下で掃除用具入れが倒れるような大きな音がして、部活動に向かう男子たちの怒鳴り声が聞こえてきた。

 魔法が解けた。

 私たちは急いで距離を取り、お互いに無関係な日直の仕事に戻った。
 異性と二人きりでいることが見つかれば、冷やかされ、茶化される。
 そんな「子供の世界のルール」が、私たちの純粋な言語交換を脅かしていた。

 でも、雪絵は去り際、私にだけ聞こえる声で言った。

「……予約、また明日ね」

 その一言は、どんな愛の告白よりも、私の心臓を強く打ち抜いた。
 それは「共通言語」を持つ者同士にしか許されない、秘密の合言葉だったから。



透明な辞書の完成

 私たちは、結局一度も手を繋ぐことはなかった。
 名前を呼び捨てにすることも、好きだと言い合うこともなかった。

 けれど、あの放課後の教室で編み上げた「透明な辞書」は、間違いなく私の初恋そのものだった。

 大人になった今、私は多くの言葉を知り、それを使いこなして生きている。
 けれど、あの時の「プールのタイルの隙間の色」を、これ以上に正確に言い表せる言葉を、私はまだ持っていない。

 異性という、理解不能だった存在が、自分と同じ言葉を話す「個」として立ち上がった瞬間。
 それが、一人の少年が世界と、そして愛と出会った、最初の一ページだった。

【了】

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インナーチャイルド


どうしたの?
こんな淋しい岸壁でひとりきりで
しかもそんな薄いスモック一枚きりで


   あのね おかあさんかえるのまってるの
   おかあさんおしごとしてるから
   いつもここでまってるの


お父さんはどうしたのかな?
お家に誰もいないの?


   ううん おとうさんとおばあちゃんと
   あとおじいちゃんとおにいちゃんがいるよ
   みんなでおちゃのみながらてれびみてるよ


あなたは一緒にテレビ観ないの?


   あたしは うーんと
   よくわかんないけど
   いちゃいけないようなきがして


どうして?
一緒に観ようって云ってくれないの?


   うん とくにはなにも


やさしくしてくれないの?


   やさしさってなに?


あなたを可愛がってくれることよ


   う~んと よくわかんないけど
   おとうさんもおばあちゃんもよくあたしに
   おかあさんにそっくりだよ
   っていってきたりはするよ
   よくわからないけど
   それでよくたたかれたりするけど
   あたしがいけないこだからだって


お母さんは そのことは知ってるんでしょ?
なにかしてくれたりはしないの?


   しないよ
   したら おとうさんとおばあちゃんとで
   いっしょになっておかあさんいじめるから
   そうすると おかあさんすごくふきげんになるし
   せなかむけたまま くちもきいてくれなくなるから


あなた ちょっと手を貸してみて
こんなに冷たくなっちゃって
こんなに小さい子がひとり寒さに震えながら
母親を待ち続けてるっていうのに
誰ひとり 心配で探しにもこないなんて


   ふつうのことなんじゃないの?
   みんな そうするものじゃないの?


あのね よく聞いて
普通の感覚のある大人だったら
こんな寒いところに子どもひとりにしたりしないの
本当なら あなたは自分の家で
お父さんやおばあちゃんおじいちゃん お兄ちゃんたちと
好きなジュースやお菓子を食べながら
テレビを観たりしてるのよ


   あたしはふつうじゃないってことなの?


うーん 難しいことかもしれないけど
あなたはずっと待ちぼうけだったのよ
お母さんはここで待ち続けてるあなたを
きっといつものことだと思っているのかもしれない
もしかしたら あなたがこうして
こんな寒空の中でひとりでいることで
お母さんはあなたを 身代わりにしているのかも

ごめんね あなたのお母さんなのに
ひどいこと云ったね


でも もう大丈夫
私があなたを迎えにきたから
こんな誰も来ない 声すらかけもしない
寒くてうら淋しいところで
ずっとずっとひとりぼっちで耐えてきたんだもんね
頑張って頑張って 必死で我慢して
こんなちいちゃな躰で


辛かったね 偉かったね
本来ならあたたかいはずの 自分の家なのに
いちゃいけないような気がするだなんて
本来なら 大人がちゃんと護ってあげなきゃいけないのに
まだほんのちいちゃな子どもが
大人の顔色伺って 機嫌伺って


泣いてもいいんだよ
寒かったよって 淋しかったよって
ちゃんと見つけてほしかったって
ギュってしてほしかったって
ちゃんとこっちを向いてほしかったって


実はおばちゃんね あなたに呼ばれてここに来たの
あなたがね ずっと見つけにきてって
迎えにきてって呼んでるのが聞こえてきたの


ごめんね
ごめんね
随分長いこと待たせちゃったね


おばちゃん 今までずっと
あなたの声に耳を塞いでいたの
聞こえないふりを続けてきたの
おばちゃん ズルくて弱虫で
だからずっと 怖かった
あなたの声を聞いてしまうのが


でももうそんなことしたりしない
ちゃんと耳を傾けてみたの
一生懸命 耳を傾けてみたの


そしたら 聞こえてきたの
雑踏に消えそうなか細い声だったけど
たしかに聞こえた
震えるようなか細い声で
必死になって叫んでるその声を


だから あなたを見つけに来たの
迎えに来たの


大丈夫 何も心配いらない
もう二度と あなたをひとりになんかさせたりしない
泣きたかったら泣いたっていいんだよ
怒りをぶつけたかったら いくらでもぶつけてもいいよ
全部受け止める覚悟は出来てるから


なにも不安に思わなくていいし
不安に思ったら どんな些細なことでも打ち明けて
おばちゃんが解決できることは何でもやるし
おばちゃんだけじゃ無理だとしても
ちゃんと助けてくれるとこ探す
全神経を注ぎ込んで探す






さあ 寒い寒い
あなたは躰の弱い子だったから
また喘息の発作でも出たりしたら大変
おうちに帰りましょう


大丈夫
あなたを傷つける人間は
もう どこにもいないから


お手々つないで帰りましょう
夕飯はなにがいい?
クリームシチューでも作ろっか
お野菜お肉たくさん入れて
牛乳とチーズも忘れずに





帰ろ 帰ろ
もうとうに蛙は鳴かないけど


帰ろ












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時計の針が一秒進んだ、明けまして


昨夜は一睡もできなかったの
大みそかだからって興奮してたわけじゃなくってね


お腹が苦しくって 背中が痛くって
いつものクスリも ちゃんと飲めなくって


ヨーグルト食べたら 楽になるかしら?
牛乳的なものをと ミルクティを飲んでみたら?


余計なものを入れてしまったために
却って 苦しくなってしまったの


窓の外 向かいの自販機の明かりだけが
やけにまぶしい 
もの云わぬ 真っくらくらの闇の中




誰かいますか
誰かいますか




と 呼びかけてみる




今夜話せる誰かも
そばで笑い合える誰かもなく
もしもこの世界のどこかで 
あなたもひとりっきり
こんな淋しい夜を過ごしているのなら



どうぞ返事をください
どうぞ返事をください



なんのもてなしも出来ないけれど
雨音陽炎特製トマトスープと
すりおろししょうがをよく揉みこんだチキンソテー



そして 少しばかりのお酒も用意して
あなたをお待ちしています




年が明けたからって
何かが変わるなんて幻想は
もうとっくに
どこかへ置いてきてしまったけれど



1月1日
今日くらいは


昨日までの ついてない
しょぼくれた人生のすべてを忘れて


昼日中から呑んだくれたって
きっと


バチはあてられないはず


というか
もう十分すぎるくらいのバチ
あてられてきたはずだから




身ひとつ
ただ あなたの淋しいと
泣き忘れて クセのように笑っている
その笑顔だけ持参で



わたし 心よりずっと
お待ち申し上げております





。。。その前にちょっとだけ味見を



うん
これならきっとあなたも
美味しいと 云ってくれるはず





☆★***★☆***☆★***★☆

大みそかから元日にかけてを
詩にしたためてみました

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金色の融解

第一章 硝子の迷宮と千の視線

 一月の風は、剃刀の刃のように鋭利で、冷たかった。
 乾いた街路樹が骸骨の指のように空を引っ掻く中、羽生慎吾はコートの襟を立て、芦田財閥の当主が隠棲する屋敷の門を潜った。
 山の手の奥深くに位置するその洋館は、周囲の高級住宅街からも浮き上がった異様な威圧感を放っていた。外壁はすべて黒い煉瓦で組まれ、窓という窓は分厚いビロードの幕で閉ざされている。まるで、屋敷そのものが巨大な生き物の死骸であり、その内部で腐敗していく時間を拒絶しているかのようだ。
 羽生がここを訪れたのは、単なる警備の依頼ではなかった。奇人として知られる芦田氏が、最近入手した「ある秘宝」に取り憑かれ、何者かに奪われるのではないかという強迫観念に囚われている——そんな噂を聞きつけた興信所の上司が、なかば厄介払いのように羽生を派遣したのが事の始まりだった。
「お待ちしておりました、羽生様」
 重厚な扉を開けたのは、蝋人形のように表情のない老執事だった。
 通された廊下は、外気とは裏腹に不快なほどの暖気に満ちていた。空調の音が、どこか遠くで唸る獣の呼吸のように低く響いている。羽生は額に滲む汗を拭いながら、執事の背中を追った。
 足元には、深紅の絨毯がどこまでも続いている。それは驚くほど毛足が長く、踏みしめるたびに靴底が数センチほど沈み込むような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、巨大な生物の舌の上を歩かされているような感触。羽生はその感触に微かな生理的嫌悪を覚えつつも、屋敷の奥へと進んだ。
 通されたのは、屋敷の最も奥まった場所にある応接室だった。
 部屋の主、芦田は、暖炉の前にある革張りの安楽椅子に深く体を沈めていた。痩躯の男だった。眼窩が極端に窪み、その奥にある瞳だけが、病的な光を宿してギラギラと輝いている。
 壁面には、彼の異常な蒐集癖を証明するコレクションが所狭しと並べられていた。
 剥製だ。それも、ただの剥製ではない。
 鷹、梟、狼、そして深海魚。あらゆる生物が、生前よりも鮮烈な色彩を施され、硬直している。だが、最も異様なのはその「目」だった。すべての剥製の眼窩には、本来の硝子玉ではなく、宝石や貴金属で造られた特注の義眼が嵌め込まれていたのだ。
 ルビーの瞳を持つ兎、サファイアの瞳を持つ蛇、そしてエメラルドの瞳を持つ巨大な蜥蜴。
 無数の視線が、侵入者である羽生を無言で射抜いていた。
「……君か。私の『目』を守ってくれるという男は」
 芦田の声は、枯れ葉が擦れ合うように乾いていた。
「初めまして、芦田様。羽生です。本日は、その『目』の警護について詳細を伺いに……」
「警護ではない!」
 芦田は突如として叫び、瘦せこけた腕を振り上げた。その手には、琥珀色の液体が入ったブランデーグラスが握られており、中身が激しく波打った。
「警護などという俗な言葉で片付けるな。私が君に頼みたいのは、立会人だ。これから行われる神聖な儀式の、唯一の証人になってもらいたいのだよ」
 芦田は立ち上がり、よろめくような足取りで羽生に近づいた。酒と、防腐剤のような独特の甘い香りが漂ってくる。
「見せてやろう。私が手に入れた、究極の眼球を」
 芦田に導かれ、羽生はさらに奥へと進んだ。
 廊下の突き当たりにある扉の前で、芦田は立ち止まった。そこは屋敷の増築部分にあたり、南側に張り出したサンルームへと続いている。
 芦田が震える手で鍵を開けると、むせ返るような熱気が奔流となって押し寄せてきた。
 
 そこは、硝子の檻だった。
 四方の壁はおろか、天井までもが強化硝子で組まれている。冬の低い太陽光が、硝子のレンズ効果によって集約され、室内は温室どころか灼熱の様相を呈していた。
 部屋の中央に、黒檀の台座が置かれている。
 そしてその上に、それはあった。
 『深海魚の金色の眼球』。
 直径五センチほどの球体は、一見すると純金で鋳造されたかのように見えた。だが、金属特有の冷たさはなく、どこか粘度を感じさせる艶めかしい光沢を帯びている。表面には微細な血管のような模様が走っており、見る角度によってその表情を変える。
 羽生は息を呑んだ。それは確かに美しかったが、同時に言い知れぬ禍々しさを孕んでいた。
「……これは、金ですか?」
「金であり、金ではない。これは深海の底、光の届かぬ世界で進化した、未知の生物の眼球だ。あるいは、錬金術の到達点かもしれない」
 芦田はうっとりとその球体を撫でた。その指先が触れると、球体はまるで体温に反応するかのように、一瞬だけ濡れたような輝きを増したように見えた。
「私はね、羽生君。この美しさが永遠であるなどとは思っていない。形あるものは、すべて崩れ去る。だが、その崩壊の瞬間にこそ、真の美が宿るのだ」
 芦田の言葉は、羽生には理解不能な世迷い言にしか聞こえなかった。だが、依頼主の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「それで、私は何をすれば?」
「この部屋には、入り口が一つしかない。窓はすべて嵌め殺しだ。これから私は、この部屋で一人、この『目』と対話をする。君には、この扉の外に立ち、決して誰も近づけないように見張っていてほしい」
 芦田は懐から、重厚な真鍮製の鍵を取り出し、羽生に押し付けた。
「私が中に入ったら、外から鍵をかけたまえ。そして、私が声をかけるまで、何があっても開けてはならない。たとえ、天変地異が起きようともだ」
 羽生は困惑しながらも、その鍵を受け取った。
 ずっしりとした金属の重みが、掌に食い込む。
 芦田はサンルームの中へと入り、中央の安楽椅子に腰を下ろした。彼と金色の眼球の間には、遮るものは何もない。硝子越しに差し込む西日が、室内の温度をさらに上昇させていくのが肌で感じられた。
 
「では、頼んだぞ」
 扉が閉ざされた。
 羽生は言われた通り、外側から鍵穴に鍵を差し込み、二回まわした。カチリ、カチリと硬質な音が響き、密室が完成する。
 
 羽生は扉の前に立ち尽くした。
 廊下は静寂に包まれている。唯一の音は、自分の呼吸音と、遠くで鳴る空調の低い唸りだけだ。
 彼は手持ち無沙汰になり、肩にかけていた鞄からステンレス製の水筒を取り出した。中には氷水が入っている。この屋敷の異常な暑さに、喉が渇いていたのだ。
 一口含むと、冷気が食道を駆け下りていく。羽生は一息つくと、読みかけの週刊誌を取り出し、パラパラと捲り始めた。
 廊下には装飾用の大理石の台座があったが、その上には高価そうな壺が置かれており、水筒を置くスペースはなかった。羽生は仕方なく、水筒を足元の絨毯の上に置いた。
 
 ふかふかとした深紅の絨毯に、銀色の水筒が沈み込む。
 その場所は、サンルームへと続く扉の蝶番のすぐ脇だった。
 羽生は気付いていなかった。
 扉の下、わずか数ミリの隙間から、サンルーム内の熱気が、見えない蛇のように這い出してきていることに。
 そして、その熱気が、冷え切った水筒の表面に触れ、無数の結露を生み出し始めていることに。
 
 扉の向こうでは、芦田が恍惚の表情で「目」を見つめていた。
 室温はすでに四十度を超えようとしている。
 金色の球体の表面に、汗のような微かな水滴——いや、油滴が浮かび上がった。
 固形物が、その輪郭を保てなくなる境界線。
 融点という名の死刑宣告が、静かに、しかし確実に迫っていた。
 
 羽生は時計を見た。午後三時十分。
 まだ十分しか経っていない。
 だが、この静寂は、嵐の前のそれとは違う。もっと粘着質で、逃れられない運命の重みを含んだ静寂だった。
 廊下の壁に掛けられた剥製たちが、ガラス玉の瞳で羽生を見下ろしている。
 「お前も見ているのか」と、彼らが嘲笑っているような気がして、羽生は身震いをした。
 彼はまだ知らない。
 自分が今、ただの警備員ではなく、狂気が描く幾何学模様の一部、その最も重要な一点として配置されていることを。

第二章 灼熱の檻

 時間は、蜂蜜のように重く、緩慢に流れていた。
 羽生慎吾は、サンルームへと続く重厚な樫の扉の前に立ち尽くしていた。背後の廊下には、死した獣たちの剥製が沈黙を守り、ただ硝子玉の瞳だけが、この孤独な番人を冷ややかに観察している。
 腕時計の秒針が、カチ、カチと無機質な音を刻むたびに、羽生の神経はやすりで削られるように磨り減っていった。
 十分が経過した。
 扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。芦田が息をしているのか、あるいはあの奇怪な「金色の眼球」に見入ったまま石像と化してしまったのか、羽生には知る由もなかった。ただ、扉の木目を透かして、異様な「圧」だけが伝わってくる。
 羽生は不快な汗を拭った。
 空調が効いているはずの廊下だが、この扉の周辺だけは別世界のように暑い。扉の下、床とのわずかな隙間から、熱気が陽炎のように漏れ出し、羽生の足元を舐めていた。
 それは単なる暖房の熱ではない。冬の低い太陽光を一点に集め、逃げ場を失った光エネルギーが飽和し、空気そのものを焦がしているような、暴力的で濃密な熱波だった。
 喉が渇く。
 羽生は足元に置いたステンレスの水筒に視線を落とした。
 絨毯の上に置かれた銀色の筒は、この灼熱の廊下において唯一の「冷点」だった。内部の氷水が周囲の熱気を冷やし、表面にはびっしりと結露が浮かんでいる。大粒の水滴が、まるで冷や汗のようにステンレスの肌を伝い落ち、深紅の絨毯へと吸い込まれていく。
 ポタリ、ポタリ。
 水滴が落ちるたびに、毛足の長い絨毯はそれを貪欲に飲み込み、湿った染みを広げていた。
 羽生は何気なくその染みを見つめた。
 奇妙なことに、水筒から落ちた水は、単に真下へ染み込むだけでなく、扉の方角——つまり熱源の方へ向かって、絨毯の繊維を伝うように微かに滲んでいるように見えた。
 毛細管現象か、あるいは床の微妙な傾斜か。
 羽生はそれを深く考えることなく、再び視線を扉へと戻した。彼の認識の外側で、物理法則は静かに、しかし致命的な仕事を進めていた。熱せられた空気は膨張し、冷えた場所へと逃げ場を求める。そして、扉の向こう側で形を失いつつある「何か」もまた、その熱の流れに乗って、繊維の森を移動し始めていたのだ。
 二十分が経過した。
 羽生は、扉の向こうから、微かな音が聞こえたような気がして耳をそばだてた。
 ピシッ。
 それは、硬いものが熱で膨張し、限界を迎えて爆ぜるような音だった。あるいは、ガラスが鳴いたのか。
 続いて、ドロリ、という粘着質な幻聴が脳裏をよぎる。実際に音がしたわけではない。だが、扉の隙間から漂ってくる匂いが、変化していた。
 先ほどまでの防腐剤の匂いに混じって、どこか甘く、焦げ付いたような、そして金属が錆びた時のような鉄錆の臭気が鼻孔を突いたのだ。
 それはかつて、羽生が町工場で嗅いだことのある、半田ごてで溶かされた松脂と鉛の匂いにも似ていた。
 芦田は何をしているのだろうか。
 「神聖な儀式」と彼は言った。あの中で、あの金色の眼球を前に、彼は一体どんな祈りを捧げているというのか。
 羽生は週刊誌を読むのを諦め、水筒を手に取ろうと屈み込んだ。
 その時だ。
 指先が水筒の側面に触れようとした瞬間、彼は違和感を覚えた。
 水筒の底が、絨毯に「吸い付いて」いたのだ。
 単に重みで沈んでいるのではない。何かしらの粘性を持った液体が、水筒の底と絨毯の繊維を接着剤のように繋ぎ止めているような感触。
 (……なんだ? こぼしたジュースが乾いたのか?)
 羽生は力を込めて水筒を引き剥がした。
 バリッ、という微かな音と共に、水筒は絨毯から離れた。底を見ようとしたが、薄暗い廊下ではよく見えない。ただ、指先に触れた絨毯の毛先が、冷たく、そして硬く固まっているのがわかった。
 結露した水が凍ったわけがない。ならば、これは何だ?
 羽生の背筋に、冷たいものが走った。物理的な冷気ではなく、得体の知れない現象への直感的な忌避感だった。
 その時、静寂が破られた。
「ああっ! ああ……逝ってしまった!」
 扉の向こうから、芦田の絶叫が轟いた。
 それは助けを求める悲鳴ではなかった。愛する者が息を引き取った瞬間の慟哭か、あるいは、あまりにも美しい奇蹟を目の当たりにして正気を失った信徒の賛美歌か。歓喜と絶望が綯い交ぜになった、魂の叫びだった。
「芦田さん!?」
 羽生は水筒を放り出し、扉に駆け寄った。
「どうしました! 開けますか!?」
「消えた! 溶けた! 光になった! ……ああ、何という残酷な純粋さだ!」
 芦田の声は、もはや会話として成立していなかった。ただのうめき声、あるいは笑い声に変わっていく。
 緊急事態だ。
 羽生はポケットから鍵を取り出した。手汗で滑る指を叱咤し、鍵穴に差し込む。
 金属同士が擦れ合う音が、やけに大きく響いた。
 ガチャリ。解錠の音がする。
 羽生はノブを回し、勢いよく扉を押し開けた。
 ドッ!
 開かれた隙間から、爆風のような熱気が噴き出した。
 羽生は思わず顔を背けた。それはサウナの扉を開けた時のような、息苦しいほどの湿気と熱量だった。
 目が慣れるのを待って、羽生は室内へと踏み込んだ。
 そこは、光の洪水だった。
 西日が強化ガラスの壁と天井を透過し、室内を黄金色に染め上げている。あまりの眩しさに、羽生は目を細めた。
 そして、その光の中心に、芦田がいた。
 彼は部屋の隅、ガラス壁に張り付くようにしてへたり込み、両手で顔を覆って震えていた。
 羽生の視線は、部屋の中央へと走った。
 黒檀の台座。
 三十分前、確かにそこに鎮座していたはずの『深海魚の金色の眼球』。
 
 ない。
 跡形もなく、消え失せていた。
「……芦田さん、眼球は? どこへやったのですか」
 羽生は部屋を見渡した。隠せる場所などない。家具は台座と安楽椅子のみ。床は継ぎ目のない石材で、カーペットすら敷かれていない。
 芦田は顔を覆った指の隙間から、狂気に満ちた目を覗かせた。
「どこへもやっていない……。あれは、昇天したのだ。この熱と、光の中で、自らの質量を捨て去り、概念へと還っていったのだよ」
「そんな馬鹿な。盗まれたのですか? 誰かが入ってきたのですか?」
「誰もいない! ここには私と、あれしかいなかった! 私は見ていたんだ、あれが……あの美しい金色の瞳が、とろりと輪郭を崩し、滴り落ちることもなく、空中の光粒子と混ざり合って霧散していくのを!」
 羽生は台座に駆け寄った。
 黒檀の表面には、傷一つない。埃一つない。
 眼球があった場所には、微かな油染みのような痕跡すらなかった。完全に、ドライな状態で、物体だけが消失していた。
 (あり得ない……)
 羽生は混乱した頭で、物理的な可能性を検索した。
 窓はすべて嵌め殺し。割られた形跡はない。
 唯一の出入り口である扉の鍵は、ずっと自分が持っていた。
 芦田が隠し持っている? 彼の薄手のシャツとスラックスには、直径五センチの球体を隠せるような膨らみはない。それに、彼は一度も台座から動いていなかったと主張している。
 
 羽生は台座の表面に触れてみた。
 熱い。火傷しそうなほど熱せられている。
 「……溶けた、と言いましたね。もし溶けたのなら、液体となって床に流れているはずだ」
 羽生は床を這いつくばるようにして調べた。
 だが、石材の床には一滴の液体も落ちていない。台座の脚にも、液垂れの跡はない。
 固体が気体に昇華したとでもいうのか? 金が?
 
 ふと、羽生は扉の方を振り返った。
 開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下に、深紅の絨毯が見える。
 そこには、彼が放り出したステンレスの水筒が転がっていた。
 サンルームからの強烈な西日が、廊下へと長く影を伸ばし、その光の先が偶然にも水筒の底を照らし出した。
 キラリ。
 羽生は目を疑った。
 転がった水筒の底、銀色のステンレスの縁に、何かが付着していた。
 それは微量だったが、西日を受けて鋭く輝く、金色の粒子のようだった。
 泥ではない。錆でもない。
 それは、この世ならざる輝きを放つ、黄金の欠片に見えた。
 「……まさか」
 羽生の脳裏に、先ほどの違和感が蘇る。
 水筒が絨毯に張り付いていた感触。
 扉の下の隙間から漏れ出ていた熱気。
 そして、芦田の言葉。「滴り落ちることもなく、消えた」。
 芦田はまだ、部屋の隅で「素晴らしい、素晴らしい」と譫言のように繰り返している。
 羽生は背筋が凍りつくのを感じた。
 眼球は消えたのではない。
 形を変え、姿を変え、この密室の物理的な隙間——熱と繊維と重力の法則を利用して、扉の下を潜り抜け、外にいた自分の足元へと「移動」してきたのではないか。
 もしそうなら、自分はずっと、消失トリックの片棒を担がされていたことになる。
 冷えた水筒という、凝固のための触媒として。
 羽生は震える手で、ポケットの中の携帯電話を掴んだ。警察を呼ばなければならない。だが、警察に何と説明すればいい?
 『密室から黄金の眼球が蒸発し、その死骸が私の水筒に憑依しました』とでも言うのか。
 
 熱帯のようなサンルームの中で、羽生だけが極寒の恐怖に晒されていた。
 無数の剥製の視線が、廊下の奥から彼を嘲笑っている。
 お前も共犯者だ、と。

第三章 幻影の書庫

 深い深い緑の影が、西日に長く伸びていた。
 都市の喧騒から切り離された路地裏、そのどん詰まりに、古書店『幻影洞』はひっそりと口を開けている。看板は煤けて文字が読めず、硝子戸の奥は常に薄暗い。そこは現世の時間から見放された、知識の墓場のような場所だった。
 羽生慎吾は、重い足取りでその敷居を跨いだ。
 コートには冬の冷気が染み付いていたが、それ以上に彼の顔色を蒼白にさせているのは、三日前に体験した悪夢のような記憶だった。
 店内の奥まった一角、琥珀色の光がわずかに差し込む机に向かい、店主の真宮鴉(まみやからす)は静かに座っていた。彼は古い天文書の頁を捲る指を止めず、顔も上げずに客人を迎えた。
「……死人のような足音だね、羽生君。厄介ごとかい」
 その声は、埃っぽい店内の空気によく馴染む、低く、乾いた響きを持っていた。
 羽生は返事をする余裕もなく、真宮の前の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
「真宮さん、どうか知恵を貸してほしい。物理的にはあり得ないことが起きたんだ。いや、あり得ないというよりは、私の目が、私自身の正気を疑っていると言ったほうが正しいかもしれない」
 羽生は震える手で、鞄の中からステンレスの水筒を取り出し、机の上にドンと置いた。
 その底には、乾いた金色の汚れが、毒々しい痣のようにこびり付いている。
「三日前、芦田財閥の屋敷で起きた『消失事件』。新聞にも載っていないが、君の耳には入っているだろう」
「ああ。芦田の変人が、秘蔵のコレクションを失って発狂したという噂ならね。だが、警察は被害届を受理しなかったそうじゃないか。『盗まれたものは何もない』と本人が主張したからだとか」
「……その通りです。警察は、芦田氏の妄言として処理しました。密室から黄金の眼球が消えたなど、誰も信じなかった。しかし、私は見たんです。確かにそこにあったものが、陽炎のように消え失せるのを」
 羽生は、あの灼熱のサンルームでの出来事を語り始めた。
 完全なる密室。唯一の出入り口を守る自分。灼熱の室温と、芦田の絶叫。そして、跡形もなく消え失せた『金色の眼球』。
 真宮は言葉を挟まず、静かに聴いていた。机の上に置かれた紅茶が冷め、表面に微かな膜が張っている。真宮はその膜を銀のスプーンの先で突つき、壊した。壊された膜は、琥珀色の液体の上で不規則な模様を描き、やがて消えていく。
「……それで、君はこの水筒の汚れが、その『眼球』の成れの果てだと言うのかね」
 真宮はようやく顔を上げ、水筒を手に取った。細長い指が、底に付着した金色の粒子をなぞる。
「ええ。私はそう確信しています。ですが、理屈が通らない。あの部屋は密室でした。扉の下には数ミリの隙間がありましたが、眼球は直径五センチの球体です。転がり出ることは不可能です。それに、もし溶けて液体になったのだとしても、なぜ床を濡らすことなく、数メートルも離れた私の水筒にピンポイントで移動できたのですか?」
 羽生は、この三日間、不眠不休で考え続けた自説をまくし立てた。
「あれは、生き物だったんですよ。芦田氏が言っていた通り、深海で進化した未知の生命体だった。熱に反応して気化し、ガスとなって隙間を抜け、冷たい場所を求めて私の水筒に凝結した……そう考えるしかありません。あるいは、芦田氏が黒魔術的な儀式を行い、物質転送を行ったか」
 羽生の目は血走り、憔悴の色が濃かった。未知への恐怖が、彼の論理的思考を食い荒らしている。
 真宮はため息交じりに水筒を置き、背後の書棚から一冊の分厚い書物を取り出した。
「気化、ガス、黒魔術。……面白いが、君らしくもない飛躍だ。恐怖は人間の想像力を逞しくするが、同時に眼を曇らせる」
 真宮が開いたページには、複雑な化学式と、金属の結晶構造図が描かれていた。
「羽生君。君は『見た』と言ったが、本当に見ていたのか? 君が見ていたのは、『金色の眼球』というラベルを貼られた情報であって、その物質の本質ではなかったのではないか」
 真宮は立ち上がり、店の隅にある実験用の小さな流し台へと歩み寄った。
「君の言う通り、金(ゴールド)は融点が千度を超える。あの程度のサンルームの熱で溶けるはずがないし、気化など論外だ。だが、もしあれが『金』に見せかけた別の物質だったとしたらどうだ?」
「別の物質……? ですが、あの輝きは間違いなく金でした。それに、仮に溶ける素材だったとしても、液体が意思を持って移動するなんてあり得ない」
「意思などない。あるのは物理法則だけだ。水が高いところから低いところへ流れるのに、意思が必要かね?」
 真宮はビーカーに水を入れ、そこに一本の細いガラス管を差し込んだ。水面が管の中を吸い上げられるように上昇していく。
「毛細管現象。君も理科の授業で習ったはずだ。液体は、狭い隙間や繊維の中を、重力に逆らってでも進むことができる。特に、濡れ性の高い液体と、それに適した素材があればね」
 真宮の視線が、羽生の足元に向けられた。
「君は言ったね。廊下には、毛足の長い、深紅の絨毯が敷き詰められていたと。そして君は、水筒を『扉の蝶番の近く』に置いていたと」
 羽生はハッとした。
「絨毯……。まさか、あの絨毯が、道になったと言うのですか?」
「その絨毯は、扉の内側——サンルームの中まで続いていたかね?」
「いえ、サンルームの床は石材でした。絨毯は扉の敷居までです。……ああ、でも待ってください。扉の下の隙間から、絨毯の毛先が少しだけ、内側にはみ出していたかもしれません。あの部屋は、内側から圧力がかかっていたから」
 真宮は満足げに頷いた。
「道は繋がっていたわけだ。だが、それだけでは足りない。液体を誘導する『引力』が必要だ。それが、君の水筒だよ」
 真宮は冷めきった紅茶を、ビーカーの中に一滴垂らした。琥珀色の雫は、水の中でゆっくりと拡散していく。
「熱力学の第二法則。熱は高い方から低い方へと流れる。そして、ある種の合金は、温度差によってその表面張力を劇的に変化させる。……羽生君、君は芦田という男の狂気を『黒魔術』だと思ったようだが、彼はもっと冷徹な、サイエンスの信奉者だよ。彼が愛したのは、神秘ではなく、計算され尽くした『崩壊の物理学』だ」
 羽生は呆然と水筒を見つめた。
 自分の持ち物が、単なる飲み物の容器ではなく、物理トリックの最重要パーツとして利用されていたという事実に、吐き気を催した。
「じゃあ、私は……私は、彼のアートのために、知らず知らずのうちに共犯者にさせられていたというのか」
「共犯者であり、最後の受け皿だ。彼の手元に残ったのは『消失』という概念だけ。そして物質としての残骸は、君という外部の観測者が持ち去った。……完璧だと思わないか? 彼は神になり、君は聖遺物の運搬人になった」
 真宮の言葉は、冷酷なまでに美しく響いた。
 だが、羽生にはまだ納得できないことがあった。
「理屈は……なんとなく分かりました。でも、なぜ『金』が溶けるんです? あれは確かに金属の光沢を持っていました。蝋や氷ならともかく」
「そこが、このトリックの最も悪趣味で、美しいところさ」
 真宮は実験台の引き出しから、小さな金属片を取り出した。銀色に鈍く光るその欠片を、彼は掌に乗せた。
 すると、どうだろう。
 真宮の体温に触れた瞬間、その金属片は見る見るうちに輪郭を崩し、水銀のようにドロリとした液体へと変化したのだ。
「ガリウム、あるいはウッドメタル。融点の低い金属はいくらでもある。だが、芦田が使ったのはもっと特殊な配合だろう。黄金色に見せるための着色、粘度の調整。……彼は、その『眼球』を作るためだけに、莫大な財と時間を費やしたはずだ」
 真宮は液体になった金属を、再びガラスの皿に戻した。皿の上で冷やされた金属は、瞬く間に凝固し、元の硬質な塊へと戻っていく。
「見るがいい。これが『金色の目』の正体だ。熱せられれば涙のように流れ、冷やされれば石のように固まる。この性質を利用して、彼は密室からの脱出劇を演出し、君の水筒の底にへばりついたのだよ」
 羽生は戦慄した。
 魔法でも超常現象でもない。そこにあるのは、冷徹な物質の特性だけだった。
 だが、それが人間の狂気によって組み上げられた時、幽霊よりも恐ろしい「奇蹟」が生まれるのだ。
「真宮さん。……これを、どうすればいいのですか。警察に届けるべきですか」
 羽生の問いに、真宮は古書を閉じた。バサリ、という音が、重苦しい沈黙を断ち切る。
「警察? 彼らがこの科学実験を理解し、芦田を罪に問えるとでも思うのかね? 盗難は成立しない。器物損壊も、自分の物を壊しただけだ。彼に残された罪があるとすれば、それは君の心に、消えない『金色の染み』を残したことくらいだろう」
 真宮は琥珀色の瞳で、羽生を射抜いた。
「だが、謎はまだ半分しか解けていない。物理的な『ハウダニット(いかにして)』はこれでおしまいだ。問題は『ホワイダニット(なぜ)』だ。……なぜ彼は、ただ溶かすだけでなく、あのような絶叫を上げたのか。君が聞いた叫び声の意味を、解き明かさねばならない」
 幻影洞の奥で、真宮の目が怪しく光った。
 物理の霧が晴れた後に残るのは、より深く、ドロドロとした人間の闇だった。

第四章 融解する境界

 実験用のガラス皿の上で、銀色の金属片は再び冷たく硬い沈黙を取り戻していた。
 先ほどまで水銀のように蠢き、生きているかのように振る舞っていた物質は、いまや単なる無機質な塊に過ぎない。熱を奪われた物質は死に絶え、そこには魔法の残り香すらなかった。
 真宮は、その冷えた金属の骸を指先で弾いた。チン、という硬質な音が、古書店『幻影洞』の薄闇に波紋のように広がる。
「……見てごらん、羽生君。これが『境界』の音だ」
 真宮の声は、古い詩編を朗読するように静かで、深い響きを帯びていた。彼は羽生に向かってではなく、虚空に浮かぶ見えない天秤に向かって語りかけているようだった。
「僕たちは普段、世界を固形物という名のレンガで区切って安心している。壁は壁、床は床、宝石は宝石だとね。だが、ひとたび熱というエネルギーが臨界を超えれば、その境界はあえなく融解する。固体は液体へ、液体は気体へ。形あるものはその輪郭を捨て、隣り合う世界へと浸食を開始する」
 真宮は立ち上がり、書架の影から古びた地球儀を回した。
「芦田という男が魅せられたのは、黄金そのものではない。彼が愛したのは『流転』だ。絶対的な価値を持つはずの黄金が、熱によってその尊厳を失い、ドロドロとした俗物へと堕ちていく……その背徳的なプロセスそのものだよ」
 羽生は、喉の奥が乾くのを感じた。
 真宮の言葉が、脳裏に焼き付いているあのサンルームの光景を、まったく別の色で塗り替えていく。
「想像してごらん。あの硝子の檻の中で起きたことを。……室温が上がり、世界が歪み始める。黒檀の台座に置かれた『金色の眼球』は、耐えきれないほどの熱を帯び、内側から悲鳴を上げたはずだ」
 真宮の瞳が、琥珀色の光を孕んで怪しく揺らめいた。
「それは、深海魚が流す涙のように。
 あるいは、傷口から溢れる黄金の血のように。
 球体という完璧な幾何学図形を保てなくなった『目』は、自らの重みに負けて崩れ落ちた。ポタリ、ポタリと。台座の上で溶けた黄金は、逃げ場を求めて彷徨う獣となる」
 羽生は幻視した。
 灼熱の陽光の中、台座の上で身悶えし、形を失っていく眼球の姿を。それはもはや物質ではなく、苦悶する魂の具現化に見えた。
「でも、台座には跡がなかった……。液体なら、台座を伝って床に落ちるはずでしょう?」
「重力だけが道ではないよ」
 真宮は、羽生の水筒を指差した。
「水は低きに流れるが、渇望は障害を乗り越える。……芦田は、台座の表面に微細な溝を、あるいは撥水ならぬ『撥油』の加工を施していただろう。溶け出した黄金は、一滴も残らず台座の脚を伝い、床へと降りる。だが、そこで止まればただの染みだ。彼は、その黄金に『足』を与えた」
 真宮は床に敷かれたペルシャ絨毯の端を靴先で撫でた。
「毛細管現象という言葉は、あまりに無粋だね。こう言い換えよう。……『乾いた喉』だ。
 扉の下まで続く深紅の絨毯。その無数の繊維一本一本が、渇ききった喉となって、流れ落ちてきた黄金の雫を待ち構えていた。熱せられた液体は、繊維の森を吸い上げられ、貪るように広がり、扉という物理的な境界を、音もなく潜り抜けたのだ」
 羽生の背筋が粟立った。
 自分の足元にあった絨毯。あのふかふかとした感触。あれはただの床材ではなく、黄金を運ぶための無数のストロー、あるいは血管だったのだ。
「そして、その血管の先には、何があったかな?」
 真宮の視線が、羽生の足元にある水筒へと滑る。
「灼熱の砂漠における、唯一のオアシス。
 極限まで冷やされた、銀色の湖。
 熱に浮かされ、形を失って彷徨っていた黄金の魂は、君の水筒が放つ冷気という甘い香りに誘われた。吸い寄せられ、触れ、そして……永遠の安息を得た」
 真宮は両手を広げ、演劇の幕引きのように語った。
「急激な冷却。
 熱を奪われた黄金は、その流動性を瞬時に失う。
 液体から固体への、強制的な回帰だ。
 それは、君の水筒の底に張り付き、同化し、冷たい金属の一部となって、その旅を終えた。
 ……密室からの消失ではない。これは『転生』だよ、羽生君。
 聖なる台座にあった神の目は、ドロドロの欲望となって床を這い、君という無垢な器の底に、醜い痣となって再生したのだ」
 羽生は、自分の水筒を凝視した。
 底にへばりついた、乾いた金色の汚れ。
 あれは、単なる化学物質の凝固ではなかった。
 あれは、かつて「眼球」だったものの死骸であり、同時に、芦田の狂気が物理法則という乗り物を使って、壁を越えてきた証拠だった。
「私は……私は、彼のアートの、ゴミ捨て場にされたというのか」
 羽生の声が震えた。
「ゴミ捨て場であり、墓場だね」
 真宮は淡々と言った。
「だが、君はまだ気づいていないのか? なぜ彼が、あのような絶叫を上げたのかを。
 単に物が移動しただけなら、彼は満足して終わったはずだ。
 だが、彼は叫んだ。『逝ってしまった』と。
 それは成功の歓喜ではない。もっと根源的な、魂を抉られるような恐怖と喪失の叫びだったはずだ」
 真宮は羽生に近づき、その耳元で囁いた。
「物理の謎は解けた。だが、心の謎はまだ闇の中だ。
 鏡だよ、羽生君。
 芦田の屋敷は、鏡と硝子でできていた。
 溶けゆく黄金が、最後に彼に見せたもの。……それは、彼自身の姿ではなかったか?」
 羽生はハッとした。
 あの日、扉を開けた瞬間の、光の洪水を思い出す。
 無限に反射する硝子の壁。
 その中で、黄金が溶け落ちていくとき、その光景はどのように歪み、どのように増幅されたのか。
「さあ、最後のピースを嵌めに行こうか。
 彼が見た『地獄』は、君の水筒の底ではなく、彼自身の網膜の裏側に焼き付いているはずだ」
 真宮は古書のページを閉じた。
 重い表紙が閉ざされる音が、まるで棺桶の蓋を閉める音のように、冷たく響き渡った。

第五章 黄金の呪縛

 古びた天文書が閉じられる音は、まるで裁判官が下す木槌の音のように、羽生の心臓を叩いた。
 机の上に残されたのは、冷めきった紅茶と、底に金色の汚辱を纏ったステンレスの水筒だけだ。
 羽生は、喉から絞り出すように声を上げた。
「……鏡、ですか」
 真宮鴉は、椅子の背に深くもたれかかり、天井の染みを眺めるような遠い目をしている。
「そうだ。あのサンルームは、四方だけでなく天井までもが強化硝子で構成されていた。君は外から見て『光の洪水』だと感じただろうが、中にいた彼にとっては、そこは無限に増殖する『自己』の檻だったはずだ」
 真宮は細長い指を組み、言葉を紡ぐ。
「室温が上昇し、台座の上の『金色の目』がその輪郭を失い始めたとき、何が起きたと思う? 完全な球体だった鏡面が、熱によって崩れ、歪み、不規則な曲面へと変化した。……それは、ただの金属が溶けたのではない。彼が覗き込んでいた世界そのものが、ドロドロに融解したのだ」
 羽生の脳裏に、芦田の屋敷の光景が蘇る。
 灼熱の部屋。中央の台座。そして、それを凝視する痩せた男。
 男は見ていたのだ。金色の瞳の中に映る、自分自身の顔を。
 だが、その瞳が涙のように流れ出した瞬間、映っていた自分の顔もまた、醜く引き伸ばされ、裂け、溶け落ちていったに違いない。
「ナルキッソスは水面に映る自分に恋をして、そのまま花になった。だが、芦田は違った。彼は、自分が愛した黄金の瞳の中に、崩れ落ちていく自分の醜悪な姿を見たのだ。……世界を支配していると思っていた自分が、実は物理法則という巨大な胃袋の中で消化されるだけの、哀れな肉塊に過ぎないと気づいてしまった」
 真宮の声が、低く、冷たく響く。
「彼が上げた叫びは、『眼球』を失った悲しみではない。自分という存在の輪郭(アイデンティティ)が、黄金と共に溶けて、床の染みとなり、君の水筒へと吸い込まれていく……その『自己消失』への根源的な恐怖だったのさ」
 羽生は、自分の水筒をまじまじと見つめた。
 底に張り付いた金色の乾いた汚れ。
 それは単なる金属ではない。芦田という男の、肥大化した自我の死骸だ。
 彼が「逝ってしまった」と叫んだのは、眼球のことではなく、正気を保っていた彼自身のことだったのだ。
「……救いようがないですね。彼は、自分で仕組んだトリックの演出効果によって、自分の精神を焼き尽くしてしまった」
「芸術とは往々にしてそういうものだ。作者をも食い殺す」
 真宮は立ち上がり、店の奥のカーテンを少しだけ開けた。
 外はもう日が落ち、路地裏には夜の帳が下りている。街灯の頼りない明かりが、アスファルトを濡らす冷たい雨を照らしていた。
「さて、羽生君。謎は解けた。君の水筒の底にあるのが、消えた『金色の目』の物理的な正体であり、芦田を発狂させた元凶だ。……どうするね? それを削り落として、綺麗な水筒に戻すかい?」
 羽生は水筒を手に取った。
 ずっしりと重い。中身は空のはずなのに、鉛でも入っているかのような錯覚を覚える。
 爪先で、金色の汚れをカリリと引っ掻いてみた。硬い。それはステンレスの地肌に食い込むように固着しており、簡単には剥がれそうになかった。
 いや、剥がしてはいけない気がした。
 もしこれを削り落としてしまえば、芦田の狂気は行き場を失い、再び亡霊となって自分を追いかけてくるような、そんな不吉な予感が背筋を走る。
「……いえ。このままにしておきます」
 羽生は呟いた。
「これは、私が背負うべき戒めなのかもしれません。他人の狂気を、ただの仕事として安易に覗き込んだ代償としての」
 真宮は、その答えを待っていたかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。それは嘲笑ではなく、同類を受け入れる共犯者の笑みだった。
「賢明だね。怪異というものは、否定すればするほど影を濃くする。いっそ認めてしまい、ポケットに入れて持ち歩く方が、御しやすいこともある」
 真宮は机の引き出しから、一枚の名刺を取り出し、羽生に差し出した。
 そこには『幻影洞』の文字と、電話番号だけが記されている。
「芦田氏は今頃、鉄格子のついた白い部屋で、何もない空間に『完璧な黄金』を幻視して幸せに暮らしているだろう。だが、世界には彼のような歪んだレンズを持った人間が、まだまだ潜んでいる」
 羽生は名刺を受け取った。その紙片は、古書と同じように古びた匂いがした。
「……また、こういうことが起きるとでも?」
「光あるところに影があるように、理(ことわり)あるところには必ず『裂け目』が生じる。君は今回、その裂け目を覗いてしまった。一度あちら側の深淵に触れた人間は、得てして、次の深淵を引き寄せるものだよ」
 真宮の瞳が、薄闇の中で怪しく輝いた。それは、芦田が持っていた義眼よりも深く、底知れない知性を宿していた。
「もしまた、君の常識では計り知れない何かが起きたら、ここへ来るといい。……僕はいつだって、死んだ星の軌道を計算しながら、退屈を持て余しているのだから」
 羽生は小さく会釈をし、水筒を鞄に仕舞った。
 鞄の底で、金色の目を持つ水筒が、ゴロリと寝返りを打ったような気がした。
 
 店を出ると、一月の夜風が頬を刺した。
 街の喧騒が遠くから聞こえる。車のクラクション、人々の笑い声、電車の通過音。
 それらは数時間前と同じ日常の音だったが、今の羽生には、まったく違った響きを持って聞こえた。
 ビルの窓ガラス、アスファルトの水溜まり、ショーウィンドウの鏡。
 街中のあらゆる反射するものが、一瞬だけ歪み、その奥に潜むドロドロとした狂気を見せつけてくるような錯覚。
 羽生はコートの襟を立て、鞄を強く抱きしめた。
 重い。
 だが、その重みだけが、今の彼を現実の世界に繋ぎ止める錨(いかり)だった。
 背後で、古書店の扉の鈴が、チリンと鳴った。
 振り返ると、幻影洞の看板は闇に溶け込み、そこにはただの古びた壁があるだけのように見えた。
 だが羽生は知っている。その壁の向こうに、琥珀色の光と、世界を解剖する探偵がいることを。
 羽生は歩き出した。
 金色の目を鞄に隠し、無数の視線が交錯する夜の街へと、深く沈んでいった。

【了】

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加筆済み:『かなしみについて』

 『あなたの精神的な傷口を教えてください。』

 わたしは、そう書きつけたメモを透明な立方体の貯金箱に貼り付けて、部屋から連れてきた小さい木椅子の上に置いて去った。アパートの玄関ドアの内側だから、居住者以外の迷惑になりにくいかと思ったが、わたしの考えは世間からすればかなりズレているのでアテにならない。

 しかし緊張のあまり、わたしはそれから5日ほど部屋から出られなくなくなった。

 6日めくらいに、エイヤッ!と意を決し、部屋を出て、木椅子の上を見に行った。
 すると、いつの間にか、そこには甘夏が一つ置かれ、甘夏1個50円と書かれたメモがそばに添えられていた。ヤイヤイ! わたしのきもちを踏み躙るな! と思ったが、わたしの感傷より、甘夏が木椅子に置かれている方が、よっぽど魅力的だったし、わたしはこういうエモがすきだった。

 50円をそこに置いて、甘夏を片手にわたしは階段を駆け上がり、ドキドキしながら、甘夏を家に迎えた。夜中、泣きたくなったので、甘夏を剥いて食べた。とてもこころがあたたかくなった。つめたいばかりの指先から、甘夏の香りがした。わたしはその香りを嗅ぎながら、眠りについた。

 翌朝、下に行くと、50円は回収されていて、代わりに、貯金箱に、小さな紙切れが入っていた。
『ここにあった三つの甘夏は、私の家族が育てました。私は、家族が育てて、送ってきたものを一つも食べずにここで売りました。これが私の傷です。』
 わたしは、ウッと苦しくなり、その紙切れを持って階段をあがり、2日寝込んだ。


 溜まったゴミを捨てるため、階段を降りた。木椅子の前を通る時、心臓がドクドクした。貯金箱には何かが入っていた。ゴミを捨て終え、わたしは貯金箱の中身を出した。避妊具と小さなメモ。

『これ使って一発やって、スッキリしな。解決方法それしかないでしょ!笑笑』
 わたしは、このひとの傷口をなんとか想像しようとした。無理だった。

 そのとき、ガン、とオートロックの扉が開き、掃除のおっちゃんが入ってきた。おっちゃんは、掃除が下手だが、愛想は抜群によかった。わたしは避妊具とメモをポケットへねじ込む。

 あらあら、おはよう。

 おっちゃんはいつもタメ口だった。挨拶を返すと、おっちゃんは、木椅子と、私の手にある貯金箱を見た。

「なんなんこれ?」

 彼は私の右手の貯金箱のメモを読んだ。

「ほ〜ん。おっちゃんもあとで入れよ。あんたも入れるんか?」

 わたしはその言葉に対し、曖昧に笑って、木椅子に貯金箱を置き、おっちゃんを残して階段を駆け上がった。部屋に入って心臓が落ち着くのを待った。

 夜になって、おっちゃんがもうお家でクソして寝たような時間に、わたしは貯金箱を見に行った。
 有言実行、おっちゃんは何かを入れていた。大きなチラシを何度か折って、貯金箱に捩じ込んだようで、取り出すのに一苦労した。取り出した紙の中身を読もうとしたとき、足に何かが触れた。

 黒い子猫だった。黄色い眼球だけが空中に浮いているみたいに見える。わたしは、おっちゃんのチラシをパタパタ振って、子猫と遊んだ。子猫は人懐こく、好奇心も強かった。

 しばらく遊んでいると、他の猫の声がして、子猫は導かれるかのように、しゅるしゅるとアパートのフェンスの下を通って出て行ってしまった。
 わたしが、フェンスから顔を出すと、親猫が子猫を咥えてこちらを見つめていた。手を振ってみたが、つまらなさそうに、背を向けて猫たちは行ってしまった。わたしは、彼らの姿が闇の中へ溶けてゆくのをただ見守り、おっちゃんのチラシのことなど忘れていた。

 わたしはそのまま部屋へ戻り、翌朝洗濯をし、おっちゃんのチラシを粉々にしてしまった。そのことに気づいて、ふとやめ時を感じた。

 わたしは、木椅子と空の貯金箱を回収し、自分が手にしたメモ類全てをライターで燃やした。わたしの胸には、正直ほとんど何も残らなかった。
 ただ、前ほどの悲しみがなくなっていることを同時に感じた。ああ、なんてあっけないのだろうと、洗濯の荒波を超えて生き残った避妊具を見つめたとき、わたしはそれほど悪い気分ではない。

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まっさらなさらさら

新しい チェックの もう一つ おろそう

最初の 三連休だし 気持ちよく すごす

わたしのきもちは たんすのなかから ね

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せいいき

 修道女になろうと、数Ⅱの教科書と聖書を鞄に突っ込んで、わたしは教会に通っていた、

 教会ではコーヒーを出されて、わたしは戸惑う、コーヒーのあじをしらなかった、
 神父は、神とわたしを並列繋ぎするための、
    、(ガムシロップのようで)、
 それほど尊敬されてばかりではないのですよ、
 という言葉、そんけい、わたしそんなものは要りません、糞食らえです、
 と、クソ、にアクセントをつけて、神父はケタケタと笑って、グレーがかった目を細める、

 十年がたち、わたしはやはり修道女ではなく、夏季休暇中の数学の教師であり、
 実家にわずかに帰省することも厭わしく思う、オヤフコウ者だった、

 わたしはよくサウナにいき、オロポを飲む、
 コーヒーの味は、もう、覚えた、カフェインとは、教師の並走者なのだ、とわたしは思うが、同僚たちもみな同意するだろう、

 あらゆるひとと連れ立ってあゆみ、ときに私たちを背に負ってくださるのが、Jesus、

 と神父が言ったことを思い出す、ああ、そうだったか、聖書を開こうとして、自宅の本棚を漁る、

 やっとそれを見つけたとき、紙が一枚、かさり、と落ちる、

 そこには、理学部数学科へ進学を決めたわたしを送る会をささやかに開いてくれた日の、神父と、まだ化粧もしらない、わたしがぎこちなく笑っている、神父も写真が苦手だった、

 わたしは携帯でその名前を検索する、上京し、時のなかに信仰が流れ出していき、わたしは、意図的に避けてきた、

 記憶に取り巻かれている一瞬のうちに、ヒットする、ジョージ神父、帰国、日本のために60年余り、の記事、

 ああ、わたしのせいいきよ、
 わたしはすぐに、忘れてしまう、

「つらいことはありませんでしたか?」
「それは答えたくないしつもん」

 神父は笑ったが、わたしが聞きたかったのは、(目に見えないものを信じ続ける方法の、かいつまんだ要点、のことだった)

 記憶の中の神父は、いつも笑っている、

 ぎこちなく、満面の笑みで、皮肉くさく、心から、

 仔細の差はあれど、いつも笑っていた、神父よ、

 わたしのせいいきよ、
 わたしは、すぐに、忘れてしまう、

 ペンをとり、壁に貼ってあるメモへ、書きつけようとする、

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ゼロの地点

眩ゆい星々の歌声
清らかな清流の富有
凍てつく風の声色
ここは還るべき場所

生まれる前の
命を吹き込み
永遠に続く
始まりの終わり

私である意味を与え
終わりなき始まり
聖なる大地に
深く根を張り

揺らぎの中で
満たされ続けて
高揚の純潔を抱き
眠れるままに

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イルミネーションとあなた 時間が止まるのが見えた

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象にお雑煮 ーー ごった煮 ーー

象にお雑煮 ―― ごった煮 ――


笛地静恵


あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます

二〇二六年

笛地静恵 


一 俳句


合鍵のひとつばかりを四十雀



女郎蜘蛛胴太し輪して動ぜず



船長の後生大事の胡椒船



人を見る目のことわりよ雪割草



寒牡丹女子の戦の開きけり



追討の七日も知らぬ姫椿



木枯しのカラス意外の村の墓地



雪女雨戸の穴をふさぐべし



二 短歌


ひとつの指輪はすべてを統べ結婚の中につなぎとめる



わが手には指輪なけれど老いの日はビルボのごとくうすくなりけり



キッチンへ指輪を流し青ざめる純情の日々われにありきや



またしてもさとうきび畑けがされざわわざわわざわざわざわわ




三 ジュニーク


溺れる魚つかむサメ(題:いや、それ、違うから)



スジを通せり筋子氏(題:尊敬)



河童は脱皿しました(題:自由)



満月孕む黒い森(題:独逸)



前のひとの黒いウンチ(題:がっかり、66で)



アメ色ヘ空き家の雨戸(題:廃村)



ねんねんころりねんごろに(題:こわい)



魔の好きなこころのすき間(題:風)



ひろった棒のホームラン(題:幸運)



円滑に円すべり落ち(題:経済)







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赤ちゃんホシイ

 
 瑠璃絵が賢児に出逢い、丸3年経っている。

(賢児……あなたのゴツゴツとした大きな手が好きよ)瞳を閉じ、瑠璃絵は切ない甘さを胸に抱く。

 賢児と瑠璃絵は一緒になれぬ運命だから。
(仕方ないよね……)鏡に向かって、まっ白な肌、長い髪の毛に見入る瑠璃絵。美しくあるよう余念がない。

 賢児は優しい。いつも。

 でも……賢児には恋人がいる。(あんな女、大嫌いよ)

 二人が手を繋ぎ歩いていたって、なんにも出来ない。瑠璃絵は、思いとどまる。振られたらみっともないだとか、そういう理由ではない。
 賢児を心底愛しているからだ。
 彼女と指を絡ませ歩く賢児はとても幸せそう。
 胸が痛いけれど、瑠璃絵は賢児の嬉しそうな笑顔に負ける。

 セカンドでも良い。愛してくれるなら。

                   *


 賢児の部屋で瑠璃絵は今、賢児に抱きしめられている。
「瑠璃絵……可愛いよ」
「……」こないだ、本命の恋人とイチャついているところを見たばかりの瑠璃絵は素直になれない。

 ガチャリ。
 いきなり、瑠璃絵と賢児のスウィートなひと時が繰り広げられているお部屋のドアが、あいた。

「賢児~!」

(あたしには見向きもしない! 気にしもしないで! あたしだけの賢児をっ! いけ好かない、本当にこの女! 今度ばかりは許さない!)

「ニャッ!」
「キャー! いったい! 痛ァ。瑠璃絵ちゃん、今日はごきげん斜めなのねっ。 爪で引っ掻いちゃ、メッだよ!?」

(にゃんこだからって、あたしにそんなことを言う。あたしは賢児に本気よっ?)

「どうした~、瑠璃絵。おいでおいでー」
(ほーら、賢児はあたしのほうを呼ぶわ! プンプン!)


 のちに瑠璃絵はお見合いをさせられたけど、「フ――――ッ! シャ――――!(ガリ! 猫パンチ)」といった具合で、オス猫はことごとく追い払われてしまった。

 未だに賢児は彼女と交際中だが(そんなの良いわっ、へっちゃらよ)

 今日も賢児にナデナデしてもらい、のどをゴロゴロ鳴らす瑠璃絵なのである。

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時間がピアスになる

短針と長針を
きみの腕から
ひきぬいて
針を耳朶に差し込んで、あそぶ。
人に知られたら
ちょっとまずい
この頃一分があまくて
苦しいの
火急の欲望に駆られて
わたしは喉を生む
少女の頃
うなじに刻んだ傷より
深くさりげない
白い蚯蚓ばれのような
あそばれてみたい
あなたに
秒針の針に
ちくり、と
やわらかく痛く
時間がピアスになる。

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掌編噺『フォレスト』

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょ?」

後ろから優しい声が聞こえる。
僕が振り返ると黒髪の女性がこちらを見ていた。
彼女が指差すのは、向こうに生い茂る黒い森。
僕はいつもこの道で彼女から声をかけられる。

 『……知らない人にはついていっちゃいけないって
 母さんから言われてるから行かない。 
 それに……あの森には魔女がいるって話を聞いたよ。』

僕は、相手を見つめながら早口で言った。

 「そっか、わかった。」

彼女は微笑むと、森の中へとゆっくり歩いていく。
僕の事は諦めたようだ。
その姿を見送ってから僕は森の横道を歩いて、学校へ向かった。

******

僕は母さんとふたり暮らしだ。
昔は父さんも一緒に住んでいたけれど五年前に出かけたっきり、それから帰ってこなかった。
それから母さんは僕に辛く当たるようになった。ブツブツと文句を言うだけならまだ可愛いもので、時には暴力を僕に振るった。

でも、学校から帰ってきた僕を見るなり母さんはいつも泣くんだ。
  
『ごめんね、ごめんね。 
 さっきは叩いたりしてごめんね。
 嫌いにならないで、ねえ嫌いにならないで。
 私にはあなただけしかいないの。
 どうか、どうか許してちょうだい。』

そう言いながら僕をぎゅっと抱きしめては、いつも涙を流して泣く。

だから、僕も母さんを優しく抱きしめて言うんだ。

 『分かってるよ、大丈夫。もうお腹が空いたから、はやくご飯にしよう。』

けれど、また別の日に母さんは同じように大騒ぎをする。そんな日々が繰り返された。

******

ある日、帰宅すると僕を見て母さんが呟いた。 
 
 『あなた、あの黒髪の女に会ったの?』

僕は何も言わず頷いた。
次の瞬間、頬に痛みが走った。
熱い、また叩かれたんだ。

 『あの女は魔女なの!悪い魔女なのよ!
 あの……あの女が父さんも連れていったのよ!』

母さんは狂ったように叫びながら、僕に暴力を振るった。
それは永遠に覚めない悪夢のようだった。

******

気がつくと朝になっていた。
母さんはもう出かけてしまったようだ。
ヒリヒリと痛む頬を擦りながら、僕は学校へ行くために森の横道を歩いていく。

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょう?」

まただ。後ろからまた優しい声がする。
振り返ると、今日も黒髪の女性が佇んでいた。
彼女の細長い指が差す方向には、魔女が住むという黒い森が━━━。

 ━━━━僕は考える。
母さんと黒髪の女性、魔女なのはどちらだろう?

僕はしばらく何も言わず彼女を見つめていた。
それから、微かに笑ってゆっくり手を差し出した。
それを見た女性も、笑って僕の手を握った。
それからふたりは何も喋らず歩いていく。
木々生い茂る森へ。黒い森の中へ。
ふたりは歩いていく。
周りでは、森の木々たちがザワザワと恐ろしげな音を立てていた。
吹き付ける風が沢山の枝を揺らしていた。
その音はまるで僕のことを、森の奥深くへ呼んでいるようだった。

そのままふたりは手を繋いで、深く暗い森の中へ消えていった。
その日から通学路を歩く少年の姿を見かけた人はいない。そして黒髪の女性もそれきり消えてしまった。
少年がそれからどうなったのか黒髪の女性はいったい誰だったのか……
もう誰も知ることはできない。

******
 
後日談としての話である。

少年が消え去った後、この森の周辺では独り言を呟いて彷徨う女性が現れるようになったという。
彼女は道を子供がひとりだけで歩いていると、けたたましい奇声を上げながら追いかけてくるらしい。

やがて人々は噂するようになった。
その女は黒い森に住んでいる恐ろしい魔女なのだ、と。

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眠り薬をください、わたしにも(連詩その1)


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心の奥に隠している 云えない謂れがあるんです

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たとえばわたしが空気だったら 
きっと誰もが吸い込んだ途端にむせ返るだろう

たとえばわたしが水だったら 
きっと誰もが口に含んだ瞬間に吐き出すだろう

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みーんな嘘つき

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なんで皆そんなにおしゃべりなの 
なんでそんなに自分のことばっかりしゃべってられるの 
ねぇちょっと わたしの話聞いてるの

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笑ったら 何故だかとめどもなく 
涙があふれてきた

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好きになるのは簡単 でも好きでい続けるのは難しいって 
愛はどうだで緒形拳さんが云ってた 
ほんとそれ

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愛とは喩えば水 
水を飲まなけりゃ人は死ぬ 
愛とは喩えば炊きたてのご飯 
食べなけりゃ人は死ぬ 
ただ水だけでは ただご飯だけでは栄養が足りない
塩気が欲しくなる 甘味が欲しくなる
辛味が欲しくなる 酸味が欲しくなる
時には苦味さえも
愛とはつまり そういうこと

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恋とか恋愛とか みんなよくあんなこと
頑張ってしてるなって思うよ

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生きるために無理やり胃に流し込むごはんほど 
美味しくないものはない

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人間用のクレ556ってないものかしら

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気がつけばいつもひとりぼっち

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思い当たる節がないっていうのは重症なんだろうか 
みんな去ってく 
何か気に食わないことしたのかな 
思い当たることなんてないはずなんだけどな 
黙っていなくならなくたっていいじゃないか

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解ってるよ 知ってる 
誰もわたしのことなんか好きにならないって 
ずっとそうだもん 
生まれたときからそうだもん 
そんなガッカリした顏しなくていいよ 
別にあなたが悪いって云ってるわけじゃないし

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ただ生きてるだけで ひとに嫌われる 
わたしの存在そのものがきっと 
ひとを苛つかせているのだろう 
仕方ない 仕方がないよ
最初からいらない子どもだったんだから

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悪いのは本当はぜんぶ わたしのほうだったのかもしれない

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お前なんか死んでしまえ、って云いたかったのは
本当は自分自身にだった

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嘘でもいいから たった一度だけでいいから 
好きだと言って

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多分いまギュってされたら 迷わず泣いちゃう自信あるよ

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いっそのこともう終わりにしてしまえたら 
どんなに楽かしれやしない

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ゴミ箱にさえ入れなかった思い

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誰の記憶の中にも存在していないなら 
それはもう死んでるのと同じことよね

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ツライって口に出したら 余計にツラくなりそうで 
だから何でもないようなふりをして 
こんなのどうってことないってふりをして 
今日もひとり 部屋の中

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あんたがいままでされてきたこと 未だに忘れられないように 
わたしもあんたらにされてきたこと 多分一生忘れないから 
そのつもりで 

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子どもが不安がっているのに 
大丈夫だから心配しないでって言ってくれる大人 
ひとりもいなかった 
異常なうちだよ

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生まれた町には海が近くにあったけど 
そう云えば一度も連れて行ってもらった記憶がない

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考え方を変えてみては?とか 
見方を変えてみては?とか 
もうそういうのいらないんだ 
考え方を変えてみたって
見方を変えてみたって 
明日も明後日も1年先も
笑ってる自分を想像できやしないのだから

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わたしたち いつになったら笑えるようになるかしら 
過ぎたことと思えるようになるかしら

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時間なんか いつまで経ったって解決なんかしてくれないわ

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何をどうすればしあわせと云えるのか 
わたしにはよくわからない 
大層なことは望まないよ 
災いが降ってこさえしなければ
ふしあわせでさえなければ
それで十分

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わたしは大勢いるとしゃべれなくなります 
3人でもギリ無理です 
必ず2対1になるからです 
そして必ずわたしが1の役になるからです
2人ならまあまあしゃべれます 
詩の中でだけ 一番おしゃべりになります

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人間が好きですか わたしはキライでした 
人間は平気で嘘をつきます 簡単に人を陥れます
自分が損することはしません 
ひとによってコロコロと態度を変えます 
わたしはそんなわたしが超キライでした

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わたしの感情はわたしのものであって 
貴方のものではありません 
わたしが笑うと何故怒るんですか 
憎まないと許さないのは何故ですか

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わたしって自分で思う以上にひどい人間なのかもしれない

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わたしの躰は原因不明が多い 
原因不明の頭痛 
原因不明の微熱 
原因不明の吐血 
原因不明の倦怠感 
わたしという存在自体が原因不明なのかも

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何かしらの名前がつけば 少しは安心できるのに

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心って目に見えないと思うでしょ 
でも違うんだよ 
その頭も目も鼻も口も手も足も胸も背中も 
全部が心なんだ 
心が痛いと色々痛くなるのは 
つまり そういうこと

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言葉だけじゃなく 態度で示してよ

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ヘタクソって云ったら 傷つくかな

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人生の折り返し地点なんて言葉があるけど 
人生に折り返しなんてあるわけないだろ

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あなたの人生とわたしの人生とは 
こうやって詩を通して出会うまで 
決して交わることのない線上だった

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☆★☆★☆★☆★
  もともとは一行詩だったものに、加筆修正を加え
  ツギハギみたいに、つなぎ合わせたものです












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一昨日の出来事

仕事始め目の三日目は
定時に終わって

駐車場には
陽が残るようになりました

でもね 寒さはこれから
しばらくは残業嫌だなあ

バックミラーに映る
僅かな夕日と

橙色の常夜灯が見えるので

さあ 帰ろうかな

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