投稿作品一覧
透明人間と
【透明人間の憂鬱】
透明人間の悩みは
最近、髪の毛が薄くなってきたこと
これでも若いころは
リーゼント、ヨロシクきめて
ハマのあたりでバリバリに透明だったぜ、ってなもんで
今ではバッサリ落とした七三わけ
毎朝、鏡の前で
育毛剤を専用ブラシでトントントントンとやって
ああ、今日も透明でよかった
安堵のため息をつく
【透明人間の「さよなら」】
透明人間は「さよなら」という言葉が好きだ
綺麗で美しい響き
何より「さよなら」と言ったときの
口の動きが素敵だと思っている
透明人間は誰にも「さよなら」を言ったことがない
気がつくと、仲間の透明人間はいなくなっている
恋人もそんなふうにいなくなった
自分もいなくなる時はいつもそうだ
「さよなら」
つぶやいてみる
言葉は季節風にのって
はるか異国の地にとどいた
初めて聞く異国の言葉に
少年はあたり見まわしたが
空耳かな、と壁にボールを蹴った
【透明人間の考察】
透明ではない人間には
不透明人間と
非透明人間と
未透明人間がいると
透明人間は考えている
三種類もあるから
透明ではない人間の世界には
争いが絶えないのだ、と
透明人間は透明人間
透明人間は眠くなった
洗いたてのタオルケットが気持ち良い
眠っている間も透明でありますように
【透明人間の週末】
透明人間は週末になると
水族館に行く
最近は特にマンボウがお気に入りで
日がなその水槽の前で過ごす
閉館後も透明人間は帰らない
透明人間は時々思う
閉館なんて変なシステムだ
すべての人間が透明なら
こんなシステムはいらないのに
透明ではない人間は
死んだら土に還るというけど
透明人間が死んだら
海か空に還るのではないかしらん
守衛室から失敬したドーナツを食べながら
マンボウの優雅な泳ぎにうっとりする
【透明人間の夢】
空を飛びたい、なんて夢見てたのは
昔の話さ、と透明人間
カチャリ
自動券売機で切符を買う透明人間
都会ではひとりでにコインが宙を飛んでも
誰も驚かない
ありがたいことだ、と透明人間
【透明人間の思い出】
写真たてには空ばかりの写真
ここに自分がいて
そのとなりに恋人がいて
今、雲が笑った?
いや、思い出と名のつくものは
いつでも気まぐれに振舞うものだ
【透明人間の願い】
透明人間も
透明ではない人間も
幸せでありますように
【さよなら】
私のノートから
透明人間がいなくなった
それは突然に、というより
透明人間が足の方から
徐々に消えていく感覚
風でノートがめくれる
「さよなら」
の文字
以降、空白のページ
あたためますか
愛ってなんですか
たとえばそれで おなかは満たされますか
今月分の家賃・光熱費が支払えますか
愛ってなんですか
たとえばそれは ふかふか毛布よりもあたたかいですか
このバキバキになった躰をときほぐしてはくれますか
愛ってなんですか
たとえばそれは包帯のように
心の痛手をそっと包み込んでくれますか
消えたい死にたい生きていたくない
このどうしようもない想いを
救ってくれるとでもいうのですか
飲み干しても飲み干しても
カラカラに渇いて 決して潤うことのない
この心は一体なんなのですか
愛と名をつければ何でも許されてしまうのですか
返事をしなかったと云っては殴られ
自分といるときと顔が違う 嬉しそうにしやがってと
どうしていいんだかわからないことで責められ続けても
「愛してる故」と云われてしまったら
もう他に何も云えなくなってしまう
愛とかいうものの裏側には
皿がとびグラスがとび炊飯器がとび
罵声がとび憎しみがとび
包丁がとび
いますぐ殺せがとび
そうして咽びなく声が
絶え間なくとんでいるというのに
目を閉じ蓋をして見ないようにして
きれいな上澄みだけをそっとすくって撫でているばかりで
それを知るまでは絶対に正体を現さない
その証拠に ほらごらんよ
都合よく語られた愛の残骸が
そこらじゅうに投げ捨てられてるじゃない
それでも それなのに
なにゆえ皆 愛が欲しいと泣くのでしょうか
あんな姿カタチすらもない
誰も実際見たこともない
そんな得体の知れないもののためなんかに
不安で不安で押し潰されそうな夜
ひとりでいるのが怖いから淋しいから
誰かの声を聞きたくなって
誰かのぬくもりに触れたくなって
深夜2時に電話して嫌われる
愛は簡単に人を狂わすのです
愛はとても冷めやすいもの
一度冷めてしまったら最後
コンビニのお弁当みたいに
簡単にレンジでチンすることなんてできないのです
愛が欲しいんだって?
愛を探してるんだって?
だったらここにあるよ ほら
これが愛
ほら あんたの探していたものだろ
掴まされたそれが本物か偽物かなんて
一体誰が知ろうと云うのか
他人を殺すこともあるでしょう
弱いものを苛めることもあるでしょう
互いに憎しみあっているのに
見返り欲しさに離れられない関係もあるでしょう
邪魔だからうるさいからめんどうだから
まだ幼い子どもを置いて
出て行ってしまうこともあるでしょう
自分のことしか考えていないくせに
離婚しない理由を
子供に擦り付ける親もいるでしょう
家にも学校にも会社にも居場所がなくて
どうしようもない気持ちを
自分を痛めつけることしかできなかったり
散々暴力をふるわれたあと
泣きながら抱きしめる男と
いつまでも離れようとしない
女もあるでしょう
愛は地球を救う
夏になると恒例行事のようにやってるあれだって
出演者には高額なギャラが支払われてるっていうじゃない
綺麗事云ったって それこそ無償の愛なんてものは
きっとどこにも存在しないのよ
愛も善意も 銭次第ってことなのよ
私腹を肥やしているその裏で
誰が泣いていようが 傷ついていようが
知ったことじゃないのよね
ねえ そうでしょ
どこかで幼い子が親にひどい目にあっていようが
DVによる殺人事件が起ころうが
いじめを苦にして子どもが首括ろうが
年老いた親の介護で心も躰もズタボロになって
どこに相談しても ただ話を聞いてくれるだけ
社会からも世間からも孤立させられた揚げ句
悲しい結末を迎えてしまうことになろうが
怪我をするのは何も 鋭い刃やガラスの破片ばかりではないのです
都合よく語られる実体のないものに
ジワリジワリと追い詰められて
首を締め付けられることだってあるのです
血の涙を流すことだってあるのです
愛は決してきれいで美しいものなんかじゃないのです
血なまぐさくてグロくて生々しくて
とても残酷なもの
実体がないくせに 扱いだけはもっとも難しいもの
それでも みんなそれが欲しくて欲しくて
争ってまでも手に入れたがっている
愛
それは一体
何ですか?
人に語られる
私を知らない人が
私を語っている
淋しいだろうと
誰かに言っている
私は込み上げる怒りに言葉を探すが
うまく浮かばず
心で一人地団駄を踏む
言われた相手はその瞬間から
優しさと自己都合の狭間で
揺れ動くだろう
私はそのために
自分を抑えたりはしない
何故、人を語るのか?
その前に
自分を観察すればいい
たくさんの発見があると思う
恥ずかしい発見がね
私は人にわるく思われるのはよいが
人に 想像で語られるのは
我慢ならない
一発 ぶん殴っていいですか?
けれど 私の手は
人を殴らない
人を感知したくない
怖い
これを
淋しい と いうのでしょうか?
はったりインクベリー
初めて漫画を読んだのは小学二年生のとき。母に買ってもらった少女漫画雑誌に私は見事にハマった。雑誌を毎月購入、単行本は本棚を埋め尽くすほどになる。
そして昔から絵を描くことが好きだったけど、黒ごまのような目をした顔だったのが、漫画を模写したことによってキラキラとした目に移り変わった。グジャグジャと書き殴っていた髪は、下へ流すように丁寧に描き出した。
模写を続けるうちに私は、裸であることに気付いたアダムとイブのように改めて人の形に気付く。キラキラした目や服の装飾など、他の人よりも絵の密度が高くなっていく。
そしていつの間にか絵が上手い子と思われるようになった。
中学校でも美術部に入り、私と同じく絵を描くことが好きな友達がたくさんできた。私より絵の上手い人がたくさんいた。
そうなるとやっぱり技を盗むけど、その子たちから与えられた影響は技術面だけじゃなかった。
まだ知らなかった深夜アニメや漫画をどんどんおすすめしてくれたんだけど、激しい戦いや人の心の闇を描いていて、強い衝撃を受けたんだ。
おどろおどろしい見た目をした、強い力で人を蹂躙する悪役に、単純な怒りや恐ろしさだけじゃないものを感じた。私は畏怖という感情を覚えたんだ。
出会った作品たちが脳に焼き付いて、私はいわゆるオタクな方面に移る。
色々な作品に触れていく内に、泥まみれなのに真っ直ぐ立ち向かう姿がかっこよかったり、身近な物を強そうな武器にアレンジしていたり、世の中にはどんな存在でも素敵に見せる人がいるんだと知った。
一枚で心を動かすような絵を描きたい、誰かが夢中になるような存在をデザインしたい。
中学二年生で、イラストレーターになろうと決めた。
高校生になってからは絵を描き続けながらバイトをしていた。それでバイトの給料を毎月半分貯金してペンタブを買った。
早速ペンタブを使ったけど手元を見ないのは慣れないし覚えなければいけない機能が沢山。それでも描きたいものが思い浮かんだらまず紙に描き出し、本気のときは画面と向き合うことを続けた。
そして高校卒業後イラストの専門学校に入学。初歩的なところから学び直すから、やっと便利な機能に気付いたり、画力は伸びた……けど。
不採用。
卒業が近づいた今、好感触だった二回目の志望先で不採用に打ちのめされた。
お母さんには学費の元を取ってくれと何度も言われている。どこかには就職しないといけないんだけど……
昔は気にならなかったけど、自分より絵が上手い子が沢山いる。大人になるまで時間はあるしこれから伸びていけばいいと思えていたけど、時間がなくなった今は上手い子の存在が苦しい。
これまで培ってきた私の画力は、会社の人材としての魅力になっているのかな?
もしかすると私の絵は会社の人の心を動せるようなものでなくて、いくつもいる志望者の中から私を選ぶ所なんてどこにもないのかも知れない。
この世界には遥かに絵の上手い人が何人もいて、今まで積み重ねてきた私の絵は世界からすると取るに足らないものなのかもしれない。
あてもなく外を歩く。
専門学校の友達と行ったカフェの前を通りがかる。就職先が決まったあの子は、絵が描けるからとバイト先でよく頼まれる……とここで愚痴っていた。
そういえば、絵を描けることって意外と貴重なのかもしれない。絵を描くことが好きな人に囲まれているから忘れていたけど、滅多に描かない人だって多いんだ。
その近くの電柱の下に丈のある雑草が生えている。紫を煮詰めたような実がなっていて、子どもの頃潰して遊んだことを思い出した。
食べられないけど、見かけると嬉しくなったなぁ。真っ緑な雑草の中や、なんてことない道路の脇にこれがあると、一目でうきうきするんだ。
なんてことない思い出が結びつき、すっと私の迷いが晴れる。
私は絵と関係ない業種の就活へ舵を切った。
絵を諦めたのではなく、趣味としてや個人の依頼で描き続けることにしたんだ。
最初の自己紹介では絵の専門学校に通っていることを堂々と伝え、面接の応答の中で頼まれたら絵を描くという意思を示す。職場での頼まれごとがいいことばかりじゃないのは覚悟の内。
仕事は当然頑張るし絵も描ける。もっと絵が上手い人は沢山いるけど、身近にいる私が一番役に立ってみせる。そんな気持ちで胸を張って話した。
自分を大きく見せながら沢山絵を描いて、雑草みたいに私の絵が目につくようになったら、その時少しでも心を動かせたらいいなって思う。
一望千里
どこかに行きたくなる時があります。何かが怖くて不安になって、何処か、何処かへ無性に行かなくちゃという気持ちになります。汗と動悸が止まらず、深夜に家を飛び出して走り出し、公園で座り込み下を向いて、頭を抱えて泣くのが最近の日課です。
海を見ると死にたくなるし、死にたい時に海に行きたいと思います。実際死にたい時にそんな気力はなくて海には行けません。ですがどうしても海を見たいのです。だからなのか、そういう気持ちでない時海を見ると死にたくなるのです。
私は一体何処に行きたいのでしょうか。ある日、体は元気なのに脳はどうしようもなく死にたくて絶望をしていました。何処か、何処か。何処かへ行かなければ。私が知らないだけできっと行きたい所がある。
気付いたら海にいました。
私の足は冷たい海に浸かっていて、波に攫われ転倒しました。ガッカリしました。私は何処かへ行きたかったのではなく、何処かへ行ってしまいたかったのです。尊敬していた先生と2人きりで話す時間、もういない友達と夜に渋谷でプリクラを撮った瞬間、亡くなったおじいちゃんと犬と散歩に行った道。私は周りの人が未来に進んでいく中、ひとりで過去に執着をして毎日現実から逃げています。海にすべてを飲み込んでほしいと思い、じっと波を眺めました。死んだクラゲがふよふよ浮いていたので、家に帰りました。
その日から、あの日に帰りたいと思った時は海に行くようにしています。きっと心が疲弊してるんだと思います。なんだか心が落ち着きます。
私は今、海にいます。
渦巻く眉が君にしれという
おばあさんの歌うように話すひとりごととおしゃべりのあいだのような言葉を――台風は直撃しないけれど海は荒れている、うねりの隙間にある点の静けさと動揺の移り変わりを――居眠りこいてテレビだけ勝手に動いている二十二時の市営住宅の六畳一間の雨漏りと時計の周期が思い出す朝トンネルを抜けた先ちいさな町の川から立ち上がる霞の斜面を這い上がり膜のように飲み込んでいく――眠りながらしずくと秒針を聞く、恐れ――家を出て行った旦那を探しまわって離婚届を書かせてるあいだ預かってもらっていた息子を迎えにいくとき見た実家は知らない町みたいで電車を降りたくもない誰もかも通り過ぎるような小さな町――帰りたいとも思わない、だって何もないんだもん――誰もかも通り過ぎるような小さな町の海岸線の地形に沿って発現する私の昨日の途中の身体に語りかける半目の記憶――おかずなんか作らないひとりだから、お米も炊かないよ、炊いても食べ切らないもん、夏になったから最近はそうめんとそばばっかり――萬法一に歸す――今たくさんの皺がもろくなった骨が語りかける半目の記憶――台風は去ったと天気予報は言うけれど今日も海は荒れていた壊れたライムの果汁が深く刻み込まれた皺を流れ落ちていくぼたぼたと失礼な返事と――象に乗った婦人俳句会の海外旅行と仏塔の向こうに沈む三島の真っ赤な陽を送っていた――しかるべき仕事が鉛筆の炭をダイヤモンドにする――暑い暑いと言いながらも我慢してベランダでたばこ吸ってから出てくるあなたの知らないレンブラントと私は線をひくトンネルを抜けるたびに立ち上がる寺と墓地が語りかける半目の記憶――象の皮膚の模様、目尻と頬の下に――平塚まで行こうと思ってたけど途中で息子に会うのが憂うつになりだして電車を降りてバスでショッピングモールまで行ってスニーカーのサイズを聞いた思い出すだれもかも通り過ぎるような小さな町――夏みかん畑、トロッコ、半目の記憶――おじいちゃんの家へ帰る途中の道が暗くて嫌だった、習字の帰りで山の方を通るから夕方ですぐ陽が落ちて防空壕の穴が口開けてる、ひんやりした風が吹き出してくるし、そこ通る時だけは急いであんまり見ないようにした、霊感なんかないんだもん、空恐ろしい気がしたのは今もこの一度きりだから――一何れの處にか歸す?――人間は忘れんだよ、今度はね梅雨前線が東北の方からちょっと下がってきてんだって、それでまたしばらく天気崩れるって嫌だ、半目の記憶
サンディカラ
涙が止まらなくなって肌着の濡れる不快感に目を覚ますと、窓の外に青暗い空が広がっていた、不確かな恐怖に包まれていた――急に潜水艦から放り出されて深い水の中を漂っているような繋ぎ止められない感覚、私は浮かんでいるのか沈んでいるのかもわからない――デジャヴュを並行世界の記憶だとする説はいつも人の好奇心をくすぐる、別の世界にある自分の体験がグリッチして流れ込むのなら、彼らもまた同じくらいつまらない、変わり映えのしない、疲れる日常を送っているのに違いない――もし並行世界の私が死んだ時、ここにその人の受けた衝撃が走るだろうか?
ベッドの上でぽつんと座って窓の外を睨んでいた、ゆっくりとねずみ色の雲が東へと流れているのをずっと追っていた、それはどれだけすすんでも消えていかない――私は――今少しだけさっきよりも幼く、はっきりと初めて歩いたときの驚きや、野菜を口に入れる大変さを感じていた、濡れた肌着もそうだった。ねずみいろ の世界
ここには残念なことに私しかいなかった――泣いて、抱擁を求めても、誰もここにはやってこない、自分の心臓の鼓動に耐えられなくなって、ひとりで立っていられなくなって、体が内側から剥がれそうになっても、母親の胸のなかで、だんだんとおちついてゆっくりと自分より大きな生き物の体の温もりと心臓と胸の上下するリズムに合わせて静かになっていくということができない、それが大人になるということなのだとしたらとてつもなく心許ないことだと思う――君が子供じゃなくなって何年が経ったんだ――不思議に思う、だって他の人と同じように歳をとって、はたらいて、何年もずっとビルの隙間から上がって落ちていく太陽と曇った夜空をのぞいていたのに、何も変わらず、気づいたら耐えられなくなって、誰にも知られたくなくなって、すみっこで泣いているこどもに戻ったみたいな顔をしている。
子供の頃住んでいた家の畑を挟んだ裏手には豪邸があった、そこにはお婆さんがひとり住んでいて、彼女が庭いじりをするのは私の部屋の窓から見える――立派な庭だった、たくさんの果樹が生えており森のようだった、隣のお婆さんが死んだのは私が小学生の頃だった、死因は風呂での溺死、警察が来た――八十七歳、大した年だがどうも自殺だったらしい、家の中が綺麗に片付けられていて遺書が残されていたからそうとわかった、大人になってから母に聞かされた、その時私は二十一歳だった――八十七歳の人間に死ななければならない理由があるなどと想像することはできなかった――彼女が死んだ時、その衝撃はどこかの並行世界に響いただろうか、八十七歳、大した年――とはいえ自殺だ、別の世界で彼女は百歳まで生き、どこかで自分が自殺し溺れ死んでいく音を聞いただろうか、いややはり自殺した彼女が全ての世界の中で最も生きた彼女で、その死はどこにも響かなかったかもしれない、深海に落ちた鍵のように音も立てず誰にも知られないで。
別の時、母は言った――隣のお婆さんは死ぬ前に庭で大きな焚き火をやっていた、と――その黒い煙は何時間も真っ直ぐ空へ上がっていた、風のない空へ真っ直ぐ伸びていた――母は出かけていって聞いたという、落ち葉ですか? と――隣のお婆さんは言った、大片付けをしてみんな焼いてしまうんだ、と。
スーパーの鮮魚コーナーで、水を張られたトレーで横たわっているバナメイエビを見てふと考えたのだ、水に顔をつけて窒息していくことにどれほどの根気と恨みが必要なのだろうか、と――その晩私はアヒージョを作り、半分で飽きてしまい、残りを生ごみにしてしまった――つまりこの世界のすべての命にエゴを満たすだけの意味が張り詰めているというわけではないのだ、私に捨てられたエビはミミズの餌にすらならない、焼却され、熱と炭素に変わっていく――市営プールを温めることがバナメイエビの宿命ではなかっただろう、メキシコ原産の――最初の給料で買ったソファで本を読んでいた、
大きな地震の後にあった不思議なこと、
私たちはただよう、心配する炎のように
私は時折世界に蓋をする、その時私は世界の少しだけ
上のところにいて、世界はコップの形をした透明の容器に入っている――
世界はその中で小さく存在していて、私はそれが変容するのを防ぐために蓋をする、変容するのを防ぐといっても一時的なもので、あまり長くは続かない
もし変化するのを拒んでずっと蓋をしたままでいると世界は崩れ落ちていってしまう――だから私は堪忍して蓋を外す、蓋を外すと世界は呼吸をして、変わることを続け始める、私も瞬く間に変わっていく。
コートを着て部屋を出ると外の世界は今もまだ青暗いままだった――空き地には秋の花が数本だけ
それは全て枯れかかっていた、
緑や枯れた色よりも、 細かい砂利の灰色が目立っていた、車の出入りと幾度となく降った雨削った固いタイヤの溝があった、前雨が降ったのはいつだったろう、
深くなった溝の細かいシルトは乾いていた――雲はない――
夜明け前ならば
日没直後ならば
気付かぬうち――ここにはいつも時間経過への予感が内包されているはずだったのに
――太陽も、月も、星も、初めからなかったような気がした、
部屋に戻るにも私の世界は惑っていて、振り返ってなにも知らなかった、
私の前には広い草原がどこまでも見えなくなっていく――もう初めから何もかも、長い草が風に揺れていた、青暗い空のしたで草原はほとんど色を持たないように見えた、風が目に見えるのだ、青暗さの長く続くあまり
草間に花が咲いているのが一つ見えると、それは瞬く間に、ぽっぽっ――次々に私の瞳は青ぐらい世界に灯る花の数々を見出していく、今咲いたの、すごく綺麗――火のように浮かび、初めから太陽がなかった時、
この草原は何から光って、何から影を作っているのか?
おもいだした
ははは、
すうねんまえに
り、にゅーあるされた
いえからくるまでに
じゅっぷんかかるばしょにある
すいぞくかんに
もうさんじゅっかいも
いったのだそうで
おしのさかながいて
すいそうを
ひっこししてもみつけだし
しゃめとどうがを
とって
まいかい
みつめてみつめて
かえるんだそう
おしゃべりするとか
あいにいくとか
いわないあたりが
わたしとせいはんたいな
えーがたきちょうめん
てっかめんだなあとわらえてしまう
ははは
いまなにをしているだろうか
ふゆのわりとあたたかいひ
みかんがたくさん
ははのわかれたひと(ちち)からとどき
ははをおもいだした
いま、ははは
冬になる
まっしろで細かった猫は
ある日まるくなってしまった
それでも透き通った声で
遠くをみながら鳴いている
そういえば
ぼくはぼくが誰だかわからないし
昨日は今日ではない
季節はものすごい速度で冬に近づいていって
気がついたら手が悴んでいた
ふと横をみると
あなたはいつしか氷瀑となっている
もうとてもしずかで
二度と交わることはないのだが
凍てついたこんな空にも
まだ星がたくさん見えている
夜が遠いなんて
絶対に知りたくなかった
嫁ゲー
ピコポピこぽこ嫁ゲー
捨てる
笑う
食べる
寝る
しなる
笑う
怒る
食べる
寝る
捨てる
作る
太る
笑う
笑う
笑う
ならば、よいか
ピコポピぺぽぴー
嫁ゲー
過去作短編『抱きしめさせて、抱きしめて、』
個展の帰り道だった。今日はバレンタインデーだ。ふと、隣を歩くあきさんの手を握ってみたくなる。あきさんの友人だという詩人の個展を見て、感想を言い合いながら歩いていた。
「今日はバレンタインだし、観覧車に乗りましょうよ。はるさん。」とあきさんは言った。個展をやっていたギャラリーの近くにデートスポットとして有名な観覧車があった。バレンタインと観覧車の繋がりはわからなかったけれど、もう少しあきさんと一緒にいたいと思っていたから誘いに乗ることにした。
「女二人で観覧車なんてやっぱ変ですかね?」とあきさんは不安げに言う。私より10センチ近く小さいあきさんが私を見上げている。
「そんなことないと思います。あきさんが乗りたいのなら私も乗りたいです。」と、しりすぼみな口調で言ってから私の頬は赤くなる。
バッグに入っているあきさんがくれた友チョコと、個展の物販で買った詩の書かれたキーホルダーの存在を感じながら、バッグを掛けた左腕に意識を集中する。
夫はあきさんを嫌っている。あきさんがバイ・セクシャルだから、私に気があると思い込んでいる。今日だって本当は家で夫の帰りを待っているはずだった。夫を騙してあきさんと会っている。
そんな私の事情をあきさんは知る由もない。あきさんにとって私はあくまでただの仲のいい職場の後輩に過ぎない。
去年の十二月に入社した工場で私は経理として働いている。私に仕事を教えてくれているのがあきさんだ。あきさんは専門学校卒業後すぐにこの工場に就職して五年目になるらしかった。仕事転々としている私よりあきさんは八つも年下だった。
私もあきさんも本を読むのが好きで、自分で文章も書いていた。そんな共通の趣味があったから私たちはすぐに打ち解けた。
ある日の昼休み。あきさんと二人で社食を食べながら恋バナをしていた。私は夫との馴れ初めを照れながら語った。あきさんは?と私が訊くとあきさんは何気ない感じでバイ・セクシャルであることを打ち明けた。
私はテレビで親に性的マイノリティーであることを涙ながらに打ち明ける人の映像を見たことがあった。こういうことはもっと重大な話として聞かされるものだと思い込んでいた。だから、あきさんのあっけらかんとした言い方に冗談だと思ってしまった。
でも、淡々と歴代の彼氏彼女の話をする様子から、どうやら冗談でもなさそうだと思い直した。少々ばつが悪かった。
「今は恋人がいないんだって」と帰宅後、夫にあきさんの話をした。夫は携帯を見つめていた。きっとゲームをしている。いつものことだった。私が話している時も、夫が話す時も片時も携帯を離さない。依存症だと思う。でも、指摘したことはない。指摘したら不機嫌になるというのもあるが、そもそもその癖を直して欲しいと思っていなかった。
夫はソファにだらしなく凭れて「へえ」とだけ言って携帯をいじっていた。興味のなさそうな反応に私は悲しくなった。(じゃあどうしてほしかったの?何を期待してたの?)と心の声が私をチクチク刺した。 しばらく無言が続いてから夫は携帯をズボンのポケットにしまうと私の方を見て言った。不機嫌になったら携帯を見ない。愚痴や文句はしっかり言いたいし、聞いて欲しいのだろう。
「で、その人ははるに気があるの?はるもそのあきさんって人が気になるわけ?」 私はそんな話一ミリもしてないのにと思ったが、愛想笑いをしてから「ただの友達だよ」と冗談めかして言った。あきさんに後ろめたいことをしたような気持ちになった。
「なんでもいいんだけどさ。それって他の男と仲良くしてるって言ってるようなもんだよね?旦那の俺としてはいい気がしない。言いたいことわかるよね?」夫は明らかに苛立っていた。言いたいことはわかる。言いたいことはわかるが、そうじゃないと思った。でも、そうじゃないと言えなかった。あきさんはそんな人じゃないと言いたかったのに言えなかった。言ったとしてそれが正しい返答なのかわからなかった。私が何も言わないでいると、夫は再び携帯を取り出して操作しだした。またゲームが始まったのだと思った。その日、夫は激しく私を求めた。抱かれながら私は嘘をついている。そんな気がしていた。
それから夫の前であきさんの話をすることはやめた。
そして今、夫に内緒であきさんと観覧車に乗っていた。あきさんは高いですねーなんて当たり前の感想を言いながら外を眺めている。私はそんなあきさんを抱きしめたい衝動にかられる。
幼い頃からそうだった。唐突に相手の驚くことをしたい気持ちになる。好きでもない男の子の手を握ってみたり、女友達にキスしてみたり、相手の驚く反応を見て安心する自分がいた。その後どんな面倒事に発展しようと私は衝動を優先してしまった。 今もそう。あきさんの反応を見てみたい。あきさんに驚いてほしかった。景色なんて見ずに私を見て欲しくなっていた。
もしかして、私ってあきさんが好きなのかな。でも、私には夫がいる。夫のことはもちろん愛している。(もちろんなんてつけるのは不安の現れだね)と心の声がする。心の声はいつだって正しい。と思う。
「見てください。はるさん、あそこの山。マンションがたくさんあるでしょ?あの辺に昔住んでました。」とあきさんは楽しそうに遠くの山を指さしていた。
「そうなんですね。」と上の空でこたえる私に、あきさんは「どうかしました?」と尋ねる。抱きしめたい。「いえ、」驚かせたい。小柄なあきさんの身体を私はゆっくりと包み込むように抱きしめる。
「あ」とだけ吐息のような声をあきさんは出した。その瞬間私は気持ちが冷えていくのを感じた。あきさんは私を抱き返した。そして、私の胸元で大きく深呼吸をした。私は鼓動が早くなるのを感じ、子宮が熱くなる。どうして……。気持ちは怖いほど冷静に現状を観察している。でも、身体は火照る。
「あきさん」
「はるさん」
二人で抱き合ったまま名前を呼びあった。この勢いでキスしたら、あきさんはどんな反応をするだろうか。私はこの人が好きなのだろうか。これは恋なのか。もしそうだとして、それは彼女がバイ・セクシャルだからだろうか。それとも、私の中に女性を好きになる性的志向が眠っていたのだろうか。
突如として性的マイノリティー、多様性、年齢、国籍、性的志向、それら認めていきましょうと叫ぶ社会に蔓延るきれいごとたちが私の判断を鈍化させる。(多様性?マイノリティー?笑っちゃうほど無関心なくせに。あんたはあきさんの反応に酔ってるだけだよ。)と心の声が聞こえてくる。 私たちは抱き合ったまま、黙ってゆっくりと下降していた。そして、私は嘘をついた。真っ赤な嘘を。
「私、あきさんが好き。」と言いながら夫のことを思った。夫と行った場所。夫と過ごした日々。交わした言葉。数々の思い出。すべてがキラキラして見えた。(それ錯覚だよ。)と心の声が言った気がする。
あきさんは何も言わない。ゴトンと音を立てて、揺れながら観覧車が止まる。降りきったのだ。抱き合った腕をほどく私たちに対して観覧車の係員は「おかえりさないませー」とにこやかに言う。その声がやたらと辺りに響いて滑稽に思えた。そのまま沈黙を貫き、私たちは別れた。別れ際、あきさんが笑顔で手を振っていたのが妙に印象に残った。
夕餉の支度をしながら、夫の帰りを待っている。早く抱きしめて欲しい。私の身体を冷ましてほしい。あきさんとの温もりをぬぐい去るように、抱きしめられたい。(あんたが結局好きなのは自分自身だけなんじゃないの?)と心の声がする。
「うん、そうだよ。」と独り言を言う。そう。私が好きなのは私だけ。夫でもあきさんでもない。だから、私はあきさんをもう一度抱きしめてあげたい。
テーブルに置いていた携帯が震えた。作りかけの夕食をそのままにしてコンロの火を消す。火を消した時のカチッという音が心の奥の方に響く。
あきさんからのLINEだった。「私もはるさんが好き」とだけ書かれていた。返信はしなかった。夫が帰ってきたから。
(やっぱりあんたが好きなのは……)と心の声が言い終わる前に、夫は私を強く抱いた。私はあきさんのことを思っていた。
驚かせたい。なんて思うことなく私はあきさんの手を握っていた。仕事終わりの人たちでごった返す街を歩いている。私たちはこれからラブホテルに行く。夫には今日は職場の飲み会がある伝えてあった。事実だった。でも、二次会に行くと嘘をついて、あきさんと二人きりになった。あきさんの手は温かかった。じんわりと汗をかいているのがわかる。
「はる、好きだよ。」とあきさんが言う。「私も」と返す。(好き。私のことが。)と心の声が言う。
派手なネオンを煌めかせたラブホテルに吸い込まれていく私たちを見ている私がいる。その私はここは夫とも行ったホテルだと思っている。確か和室か洋室か選べって受付の愛想の悪いおばさんに言われるんだよねなんて考えている。あーあ、入っちゃった。しーらないと言って私を見ている私はそっぽを向いて去ってしまう。待って!と私は思う。
和室しか空いていないですよと受付のおばさんが突き放した声で言う。あきさんが手を強く握ってくる。「じゃあ和室で。」と私は応える。夫と行った時もいつも和室しか空いていなかった。洋室が本当にあるのかなと夫は疑っていた。私を見ていた私は何処へ行ったのだろうか。今日は夫が私の帰りを待っている。
和室の照明は少し薄暗くて、畳もところどころ凹んでいる。かび臭くもある。天井には変なシミ。配管の水漏れだろうか。安いからいいんだけど。心は冷めていた。でも、身体は熱かった。あきさんを抱きしめながら、私は去っていった私を探し続けた。
なんてのろいんだ
火の体が燃えている
雨はびしょ濡れだ
救急車が走る
なんてのろいんだ
感情ってやつは
寂しさが
錆びて
さびいろになる
侘しさが
詫びで
わびいろになる
楽しさに
頼んで
モモになり
嬉しさを
憂いで
鹿になる
錆!詫び!モモ!鹿!
歌になる
ドーナツがみっつある
三から先の数字を
数えるすべを知らない
一個、二個とたくさん!
それから私が持ってる分!
火の体が燃えている
雨はびしょ濡れだ
救急車が走る
なんてのろいんだ
感情ってやつは
悲しさが
叶って
金縛り
愛しさが
営む
糸車
いたいいたいと
言ったのは
いったいいつの
イタズラか
満月がひとつある
ふたつないのは
なぜなだろう
誰も問わない問がある
箸で食えないからだろう
火の体が燃えている
雨はびしょ濡れだ
救急車が走る
なんてのろいんだ
感情ってやつは
エキストラ
時間よ、止まれ
そう呟いたのち、投身自殺をした少年を
きみは知っている?
少年の境遇は悲惨だった
家庭では父親からの虐待
学校ではいじめ
でも離婚した母に連れられ
学校も変わって
少年の境遇は一変した
もう暴力をふるう父親もいないし
学校では友達もできた
少年は幸福とはこういうものかと
涙を流して喜んだ
喜んで、もう、いい、と思ったんだね
やっとしあわせになれた
この状態を保持したくなった
だから
自分の時間を、止めたんだ
ねえきみにわかる?
少年がどれだけ不しあわせだったか
ありふれたしあわせに
どれだけ天国を見たか
幸福が少年を殺したんだ
ささやかなしあわせを失いたくなくて
これが幸福の絶頂だと思い込んで
少年はまた不しあわせになるのを怯えてしまった
幸福であるためにも
免疫が必要なんだよ
少年がいまも幸福な夢を見てるといいと思う
きみは天寿を全うすればいい
いじめにもいじめられる側にもならなかった
その他大勢のエキストラさん
安心していい
きみは安全地帯にいる
格別な不幸もなければ
幸福の絶頂もない
だから長生きできるのさ
おめでとう
新しい明日
白い壁のタイルを 一枚一枚
黒く 塗りつぶすようにして
私は 内部から黒ずんでいった
自らそう望んだかのように
黒いインクの汚れを落とすように
清掃員のやさしく 入念であって
やわらかな手付で 黒い壁のタイルを
一枚一枚 洗ってゆかねばならない
自らを傷つけ 責め苛むことは
もうしなくていいと 自らの手で
壁を汚す自らの手を包んだときに
私の明日がひらけていった
雲のない よく晴れた
今までとは違う明日が
(2025.12.18)
ゆく
うすいろに光る午後の裏口まで
となり街の長い雨が
後ろ姿にくっついてくる
あなたの不在に慣れるより早く
引かれるカーテンは幕のようで
立ち尽くしていた気がする
いつまでもはじまらない舞台で
言いたい台詞があったことも
忘れていたかもしれない
どうして優しくできなかったのだろう
あなたはわたしを
あれほど愛してくれたのに
どうしてあなたを
傷付けてしまったのだろう
明日の天気を確かめる振りをして、
たましいの裏で繰り返す声が
とおくまでひびくのは
霧が濃いからか
あなたのお母さんに貰った
あなたの〈祈りのノート〉のコピーを
付箋を貼りつつ読み進めれば
「ゆいが悲しくありませんように」
というひとことに打ちのめされ、
手を洗えば
爪の間だけやたらと冷える
(汚れをすすぐための水も
(宇宙のどこかで光るのかなあ
あなたが飛び込んだ駅のホームで
お互いの人生で一度だけ
目が合う他人とすれ違い
通過する特急がきりさく風の強さに
目を細めてゆくさきを見ている
ナトリウムランプの下で
立ち上がる白い、いまだ点灯の夜間照明に照らされ湧き上がる白い
ボイラーの蓄圧器の自動凝集水排出器の作動音と共に
冷え切った蒼に消えゆく加熱蒸気の熱交換器を通る最後の姿
その螺旋構造の内部を見ることはなくとも揺れる熱電対の保護管
0.4MPaを示す圧力計の配管振動はごくわずかに、
ーーそして
わたしは缶底ブローの咆哮を夜明け前の空に響かせるのだ。
ソワレ
定休日の喫茶室
闇に点滅する
クリスマスツリー
光るたびに灯る
テーブルやカウンター
棚の焼き菓子
重ねられた白いカップ
密やかな夜の営業の
はじまり、はじまり
今さらだけど自己紹介
終えぬ旅路で 遣らず雨
行きの小径は かくれんぼ
風呂に眠る 背を懐け
永久へ誘う 迷い森
おえぬたひして やらすあめ
ゆきのこみちは かくれんほ
ふろにねむる せをなつけ
とわへさそう まよいもり
濁点不問、ゐ・ゑ抜き、四十六文字重複無しの
ペンネームに因んだ いろは歌
橋の両端にて(🪙還元コメント大募集〜終了感謝)
沢山のコメントありがとうございました。
いろんな考え方感じ方、読解とか論評と言った所まで深く踏み込まなくてもけっこう労力いるものですが、感想を書くこと、もらった感想に何か返事をする事も次の一歩に繋がると思ったり。
ーーーーーー
橋の両端にて
風は、
森の枝を揺らし、
時に激しく、
時に優しく、
わたしの髪も、
同じように揺らした。
白い布は、
花びらのように舞い、
次の瞬間、
突風に煽られて、
膝の上で跳ねる。
ひやりとした指先の感覚が、
首筋に触れる。
それは、
夜露か、
霜か、
ひとしずくの季節か、
判別できない。
胸の小さなふくらみに、
自分の手が触れる。
それは、
木の幹に掌を置き、
その年輪の深みと、
かすかな温を、
そっと確かめるように。
そのとき、わたしは
「これは、わたしなのだ」と、
初めて静かに知る。
風が裾を揺らすとき、
太腿は、
月光に晒される。
それは、
森の白い岩が、
雲の切れ間から、
ふいに光を受けるよう。
指が、
布の上から
ゆっくりと動く。
それは、
大地に触れ、
土の湿りを探り、
草の柔らかさを撫で、
石の冷えを知る、
ひとつの巡礼。
胸の奥で、
かすかな疼きが芽ばえる。
それは、
種子が殻の内側で、
静かに膨らみ、
世界へ向けて
ひそかに震えるあの瞬間。
下腹のあたりに、
小さな熱が灯る。
それは、
地平から昇った朝日が、
凍った大地を
ゆっくりと溶かしていく
あの温もり。
風は、
わたしの吐息を受け取り、
森は、
応えるように木々を揺らす。
わたしが息を吸うと、
風が吹き込み、
わたしが息を吐くと、
風は森へ還る。
呼吸は、
森とわたしの間に
往復する微かな橋となる。
やがて、胸の奥から
ひとつの波が訪れる。
それは、
川の水が
岩を越え、
土を潤し、
根を抱き、
やがて海へと流れこむ
大いなる循環の感覚。
温かな滴が、
布を通して
切り株に落ちる。
一滴、
二滴。
それは、
雨が土を濡らし、
樹液が幹を伝い、
泉が石を照らす
自然の営み。
森は、
それを受け取り、
風は、
それを運び、
土は、
それを抱く。
わたしは、
森の一部として、
風に身をゆだね、
そっと微笑む。
森の呼吸が、
わたしの呼吸になり、
わたしの呼吸が、
森の呼吸になる。
風がわたしに触れ、
わたしが風に触れる。
土がわたしを支え、
わたしが土を感じる。
それは、
与えることでもなく、
奪うことでもなく、
ただ、
交わること。
朝が来れば、
朝露がわたしを濡らし、
夜が来れば、
月光がわたしを照らす。
風は、
わたしの名を
葉擦れの音にして運び、
わたしは、
風の声を
自分の吐息に乗せる。
嵐も、
凪も、
熱も、
冷たさも、
すべてが、
わたしを通り、
わたしが、
すべてを通る。
―故に
その境界は
波となって揺らぎ
粒となって浸み込むのだ。
一人芝居用の戯曲『最後の狸』
(椅子に座って書き物をしている。手を止めて窓を見る)ん? なんの音だろう?
窓ガラスに当たってるのは砂ぼこりか。天候気象制御装置を切ったから風向きが安定していないんだな。
カチカチと楽しそうだ。まあ、喜ぶのも当たり前か。外の風は今まで、吹く向きも強さも人間達に制御されていたんだから。
自由は尊い。
人間がいなくなった星では強制から逃れられた大気が歓喜の声を上げている。
こんな事を記者会見で述べたなら、記者達はどんな顔をするだろうな。
いや、質問が飛ぶ前に、気象調整庁の奴らがすっ飛んで来て攫われてしまうか。余計な事言うなと。
二千年。
いくらなんでも早すぎるだろ。
人類が火星に移住してから二千年しか持たなかったなどと、一体誰が想像できた? 少なくとも、希望を抱えて火星に移住してきた頃は、予想だにしていなかったに違いない。
地球の人類史よりも短い間に、火星の生活が終わる未来など。
(背伸びをする)
火星最後の人間として、か。何を書き記せば良いんだろうな。後悔か、懺悔か。そんな物を書いて土に埋めたところで、この星は喜んだりはしないだろうけど。
(立ち上がる。コーヒーを淹れる仕草)
コーヒーを飲めるのも、あと半年ぐらい。作る人間がいなければ、コーヒー豆は手に入らない。いっそ、仕事を投げ出してコーヒー豆の作り方を覚えるのも良かったかもしれないな。
(コーヒーを飲みながら窓の外を眺める)
相も変わらず、元気な太陽だ。
燃えさかる正義に傾倒する太陽の姿は、理性を尊ぶ人間の好みに合わなくなった。それだけの話。
火星を捨てて、人間は木星へと飛び立つ。
立つ鳥跡を濁さずなんて、私達にそんな美徳を掲げられるほどの余裕なんかなかったよ。
(立ち上がって演説をするかのように)“望遠鏡を覗けばいつでも自分たちが暮らしていた証を懐かしむことができるように。この星の姿はなるべく変えないまま新天地へ向かおう。生きたアーカイブだよ”
私の最後の詭弁演説。みんな荷造りに忙しくて私の話など聞いていなかったけどね。
そして、今から3時間後には私も最後の人間として火星を後にする。酸素製造機の電源を落として宇宙船に乗り込めば、火星における人類史の終焉となる。
乗り込めば、だけど。
新しい星にももちろん興味はある、けどさ。
動物としての意地が、邪魔をしてくるんだよ。
(観客に向かって自己紹介をするように)狸、齢300歳。人間として生きたのはまだ100年ほどだけど。見た目はご覧の通りだ、上手く化けてるでしょ?若いくせに妙に老成した雰囲気があると評判の政治家になれた。誰に恥じることも無い、一生懸命やったつもりだ。それでも、この結果をぶら下げてご先祖様のところへ行くのは少々気が引けるなぁ。
私のご先祖狸たちは地球から逃れて宇宙へ出るため、狸から人間へと変化する術を身につけたんだと父は誇らしげに言っていたっけ。その父も今頃は木星に降り立っている頃だろう。
そんな父と同じように、私も狸から人間に。そして、どんな相手の心も読むことが出来る覚りという妖怪になった。どんな相手でも。そう、男でも女でも、赤子からお年寄りまで。
もちろん、皆さまの心だって手に取るようにわかりますよ?
そんな妖怪が300年、あの手この手を尽くして頑張ってきたんだ。人を動かし国を動かし、天地山河に根回しし、各所の神仏に頭を下げて、そして、妖怪界隈では最大のタブーとされる政治にまで潜り込んだ。
それでも、それでも火星の終焉を避けることは出来なかった。
(椅子に座ってコーヒーを飲む)ふう。コーヒーが美味い。
それならまだ、やれることもあるか。さあ、最後の仕事だ。
(卓上の機械のスイッチを入れる)
「緊急通信 緊急通信。こちら、狐崎 学。
時刻1140。火星嵐が発生し、搭乗予定の宇宙船にて砂塵摩擦発火による酸素爆発が発生。外壁損傷重大、電磁姿勢安定装置に甚大な損傷あり。
繰り返す。
火星嵐が発生し、宇宙船で酸素爆発が発生。
自力での修復は不可能と判断し、引き続き火星の監視任務を続行する。
救助を求めず。
繰り返す。
救助を、求めず。
これより私一人で、火星の終焉を見届けることとする」
いくら人間が作り出したとは言え、生物は生物。命がある物なのだ。
山河空海に住まう命があるというのに、星の生命維持装置を切りたくはない。どちらにしろ、火星その物が長くはないのだとしても。命の存在しない星が、火星として正しい姿なのだとしても。
このままみんなを見殺しにするわけにはいかない。
私にも、動物としての意地がある。
「(深く息を吸う)人間は不滅だ。
永劫に栄え続けるべきだ。
木星での繁栄を祈る。
人間に幸あれ」
(機械のスイッチを切る)ふぅぅ。この言葉が向こうに届くのは1週間後か。これで私の仕事は終わった。
これからはもう、狸としての余生を過ごしていこうじゃないか。
(椅子に座ったまま、うとうとし始める)
(物音を聞いて慌てて起きる。ドアを見て時計を見る)
しまった!もうこんな時間か。
はいは~い、今開けます。
(立ち上がりドアへ向かう。途中、あ゛~あ゛~と言いながら喉を触って声をチューニングをする)
(ドアを開ける)
やあ、ホワイトハウスへようこそ。すみませんね、もう私一人しかいないもので、ろくな出迎えも出来ずに。
歓迎します、金星人のみなさん。
(金星人の触手と握手を交わす)火星はこの通り、人間達が捨てていきました。自由に使って構いません。
貴方たちが地球上でしてきた生活をそのまま再現できる環境を整えてあります。
星を引き渡す代わりに、条件として挙げさせていただいた、この星の生命体を故意に滅ぼさないという約束だけは守っていただきたい。
もっとも、貴方たちの技術力があれば問題にもならない条件ですね。
ああ、そうだ。美味しいコーヒーがあります。1杯どうです?地球からの長旅は疲れたでしょう」
(コーヒーを淹れる)
星を弄るのはどれもこれも時間が掛かる。貴方たち先遣隊だけでは難しいことも多いでしょうし、仕事は本体が火星に着いてから取りかかっても遅くはないと思いますよ。
これを飲んだら、私も金星人の姿へと変化しよう。そして、新しい人生を始めるのだ。
おわり。
過去に書いた作品を仕立て直してみました。お芝居用のシナリオって書いたことが無くて、こんな感じなのでしょうか?
10分にしては長すぎたかもしれません。
定義
訃報がまだ靴紐に絡まっていて
冷蔵庫のモーター音が
昨日言い損ねたさよならを
こまかく砕いている
洗面台の鏡には
言いかけてやめた話が
曇りとなって残って
あなたがしずかに私を睨み
語るはずだったことばたちは
とおい街で明滅している
秒針は もう済んだことと
まだ済んでいないことを
またいでいく 何度も、何度も、
あなたを刺し殺すつもりで
ふところに忍ばせた比喩を
そのてざわりを
いつまでも覚えていて
ぼんやりと眺めるショート動画に
なつかしい声を聴いたりする
何気なく話す「昔のこと」が
知らない誰かの影を引き連れてきて
それでも
語尾がすこし揺れるところだけ
変わってないね
キッチンの、掠れた「砂糖」の文字に
あなたのやさしさがまだ宿っていて
わたしたち
否定について
定義について
よく話し合ったよね
適切な定義が固まる以前の世界で
わたしたちは手探りで生きてる
のだとしたら
「生きていたら」という
仮定法のなかに、愛があったとおもう
あなたはわたしを
悲しませようとはしなかった
あなたの愛が分からなかったのは
わたしの責任だ
だから
わたしは今になって
あなたの流すはずだった涙を
ここで、流さなければならない
ヴァリアンス法律事務所:支配者の定義
霞が関の奥深くに鎮座する警察庁長官官房。その一室は、冷房が効きすぎているのか、あるいは住人の気配そのものが熱を奪っているのか、肌を刺すような静寂に包まれていた。
「失礼します」
田伏正雄の声が、淀んだ空気を切り裂いた。机の向こう側、革張りの椅子に深く沈み込んでいた山城実弥が、ゆっくりと顔を上げる。その眼鏡の奥にある瞳は、爬虫類のように無機質で、教育現場を恐怖で支配していた頃の、あの血も涙もない狂気を湛えていた。
「……久しぶりだね、田伏君。相変わらず、その特注のスーツは似合っていない。もっとも、かつての君の巨体には、特注しか選択肢がなかったがね」
山城は手元の万年筆を置き、組んだ指の上に顎を乗せた。
「山城先生。いえ、今や警察機構の頂点に君臨される『閣下』とお呼びすべきでしょうか。お変わりないようで何よりです」
田伏は用意された椅子に座ることもせず、適度な距離を保ったまま立ち尽くした。
「君が警視庁を辞めて数年か。棚田コーポレーションの令嬢……あの『欠陥品』を拾い上げて、弁護士ごっこに興じていると聞いた時は、耳を疑ったよ。君は昔から、効率の悪い選択ばかりをする。」
「『欠陥』ですか。私には、あなたの歪んだ組織図よりも、彼女が抱える記憶の方が遥かに美しく、正確な真実に見えますがね」
山城の口角が、微かに、そして冷酷に吊り上がった。
「真実、か。『まーくん』、君は勘違いをしている。真実とは、力ある者が『そうである』と定義した瞬間に定まるものだ。あの施設で、私の言葉が唯一の真実であり、救いだった。君にも教えたはずだ。議論とは論理を盾に自己増殖するロジカルモンスターに過ぎない。だからこそ、誰かが支点とならねばならないのだよ」
山城はゆっくりと立ち上がり、背後の窓へと歩み寄る。
「棚田ユカリという娘は、本来、私の手の中で『完成』するはずだった。彼女の記憶を適切に間引き、私の言葉を絶対的な道標として植え付ける。そうして出来上がった純真な『器』を棚田コーポレーションのトップに据える。それこそが、民間という巨大なリソースを、国家の意志に従順な血肉へと変える最も洗練された手法だ。君も覚えているだろう? 議論など不要なのだよ。気に入らない生徒を撲殺することこそが教育の最終形態であるように、不都合な存在を定義し直すことこそが統治の完成形なのだ」
「価値は、あなたが決めるものではない」
田伏の言葉が、鋭く空間を貫く。
「一人を救えない正義が、万民を救えるはずがない。あなたが守っているのは『国家』ではなく、国家という皮を被った『あなた自身の支配欲』だ。雲雀ヶ丘園で、あなたが子供たちの個性を奪い、模範的な歯車に作り替えたのは、彼らのためではない。自分の思い通りに動く世界を作りたかっただけだ。……山城先生。あなたは私を処分しなかった。それは恩情ではなく、私という駒がいつか役に立つと踏んだからだ。だが、それはあなたの人生最大の計算違いになる」
田伏が背を向け、扉に手をかけたその時、背後から突き刺すような、重く鋭い怒気が放たれた。
「……待ちなさい、田伏君」
山城がゆっくりと振り返る。その影が、窓からの月光を遮り、巨大な怪物のように壁へと伸びる。かつて彼が、パイプ椅子や牛乳瓶を手に取った時と同じ、剥き出しの殺意が部屋を満たした。
「君は、自分が何をしようとしているのか、その真の意味を理解しているのか? 私は警察機構そのものであり、この国の秩序の背骨だ。私を裁くということは、この国を支える背骨を叩き折るということだ」
山城は一歩、また一歩と、音もなく絨毯を踏みしめて近づいてくる。
「貴様、分かっているのか? 国家にたてをつくと言うことだぞ。」
その声には、もはや教師の面影は微塵もなかった。あるのは、巨大なシステムを守るための絶対的な排除の意志だ。
「君が私に背いた罪は、その体に刻まれた傷のように、一生消えることはない。君の弁護士資格、事務所の仲間、そして君が守ろうとしている娘の『平穏』。私が本気で息を吹きかければ、一瞬で消える幻に過ぎないのだよ」
田伏は扉のノブを握ったまま、一度だけ深く息を吸った。そして、首だけで振り返り、山城の目を真っ直ぐに見据えた。
「ええ、この傷は疼きますよ。しかしそれは、あなたへの恐怖ではなく、あなたを止めるべきだという警告としてです。私は国家にたてをついているのではない。国家の名を借りて、真実を私物化する『傲慢』に立ち向かっているだけです。……では、失礼します。次に会う時は、この重厚な扉の外でお会いすることになるでしょう。法廷という名の、逃げ場のない場所で」
田伏が部屋を去り、重厚な扉が閉まる。
残された山城は、再び万年筆を手に取った。その指先は、僅かに、しかし確実に不快なリズムを刻んでいた。かつて最大の後悔として残した「まーくん」という存在。それを今度こそ、自らの手で「撲殺」すべき時が来たのだと、彼は確信していた。
建物の外、初冬の冷たい風が田伏の頬を撫でる。
彼は一人、ポケットの中で特注のコンパスを握り締めた。
「……少し、古い埃を吸い込んだな」
田伏は夜の霞が関を見上げた。巨大な権力の伽藍がそびえ立つ中、彼は自分の足音だけを頼りに、暗闇の中へと歩き出した。
雪の鳥
死の鳥とも呼ばれる彼らは
冬のある日
空の高いところで
幾億も生まれいでる
そのひと羽ばたきが雪を降らし
少しずつ地上に降りてくる
彼らが愛するのは
あどけない歓声
自分たちの降らした雪を喜んでくれる
いとけない子どもらの声
雪の鳥はその身を削ることと引き替えに
ましろい雪を生み出すから
その命はとても短い
最期は綿埃ほどのちいささになり
力尽きる
雪が降ってきたよー!
小躍りしているまばゆい声を聴きながら
みずからが降らした雪の一部として死ぬのが
彼らの望む最上の死に方だが
叶えられる鳥は少ない
山奥でキツネと共に逝き
川底へ沈む鼠と共に閉じ
街の片隅の猫と共に眠る
それでも
冬の使者としての役目をになった彼らは
毎年生まれ
おのれの寿命をかけて
雪を降らすのだ
すべての円環のために
ゲルニカ
数多の色を一粒一粒に宿した
雪が降っている
触れると黒く変色する
役所のアナウンスがかしましく繰り返す
屋外にいる者は至急屋内に避難せよ
誰一人いないスクランブル交差点で
私は本来白色の傘を掲げて歩む
避難せよ、と呟いて笑う形になる前に
口角が痙攣する
どこに
避難しろというのか
既に立ち並ぶ店はかたくシャッターを閉じ
道といわず建物もネオンの看板も
黒く染まっている
追い出された者はただ歩くしかない
ひたすらに何も考えないように
思い出さないように
目の前を色とりどりの雪が落ちてくる
傘の中からじっと見詰める
こんなにも奇麗なのに
着雪した途端
ニットに黒いシミを作る
コート一枚与えられずに
寒さに手の甲が青黒くなっている
家族というものに
私を入れると崩壊するのだと
親の目がそう告げていた
顔色窺って従順にどんな罵倒にも耐え
全て無駄だった
憎み合う者同士の血が半分ずつ流れる
この私が厭わしくてならないと
なのにあの夫婦は互いを家族だと言う
可笑しくてならない
ひと際強い風に傘を手放した
赤青紫緑黄色の雪が
私の身体に触れた途端
真っ黒に染まった
揺れる昼と夜の隙間に種を残して蘇れ、星々のトリニティと海の唄託。
15th Dec 2025
札幌は一面、白銀の世界。
大通とすすきのを結ぶ、駅前通りのイルミネーションがより一層美しく見えるこの季節。
冬になると日照時間が短く、朝晩の焦燥感も逸ると聞きます。皆さま、変わりなく過ごしていますか。
さて、大きな地震がありました。
書き置きしていた内容を投稿するつもりでしたが、地震のこと、そして北海道の未来について ──── 語るなら、今。
私が暮らす北海道札幌市は2013年ユネスコ創造都市ネットワークに加盟<メディアアーツ分野>認定の政令都市。デジタル技術などを用いた新しい文化的、クリエイティブ産業の発展を目指す都市として、先駆けたのは、初音ミクが所属するクリプトン・フューチャー・メディア(株)地元のアルバイト情報で求人がたまに上がってる、カジュアルな会社です。
芸能エンタメのカルチャーより、芸術文化や音楽、地下歩行空間で様々なアート作品の展示会が開催されるクリエイティブな街づくりを目指しています。
義務教育のカリキュラムに音楽鑑賞があり、スポーツはスキー学習が幼稚園から高校まで体育の授業で行う。小学校の修学旅行でラフティングやユネスコに登録された地に訪れることで自然に親しむ取り組みがあるのは、暮らしの中で身近な話ではないでしょうか。
最近だと白老ウポポイ(民族共生象徴空間)へ行くようですが、私も先月行って来たばかりです。研修で。
私は長らく役職を継続しており、様々な所属先の「研修会」と呼ばれる年間行事に参加します。
そのひとつ、洞爺湖有珠山ジオパークに行った時のこと。
札幌から中山峠を経由して胆振地方に出ると洞爺湖に着きます。この辺りは湖がふたつあり、東(千歳方面)に支笏湖、西(伊達)に洞爺湖があり一帯が国立公園に指定されています。洞爺湖はドーナツ状のカルデラ湖で中央に中島があり、地球の歩みと縄文時代の暮らしが見える場所。
約11万年前の巨大噴火によるカルデラ(陥没地形)に水が溜まってできた洞爺湖は温泉街。
日本最大のカルデラ湖は阿寒国立公園にある屈斜路湖、こちらも地下から押し上げられた溶岩が固まり山になった/中島があります。
地面が隆起して新たな火山になる。
地殻変動による自然が織りなす情景は大地の鼓動ですね。
有珠山がある地域も同じ。夏になっても草が生えない、昭和新山の赤い土は天然の煉瓦。
ひとつの山に限らず一帯が、現在も『生きている』活火山です。
1977年の噴火で隆起した昭和新山から、今でも煙が出ています。
そして、私の記憶に残る2000年、火山性地震が頻発。4日後に噴火。その後も断続的に噴火活動を続け、翌年5月に終息。
山の裏側にある海沿いに高速道路があり、1年以上、閉鎖になりました。
もっと言えば、太古の昔から火山活動がある山に熊牧場が……ヒグマ60頭を飼育……実は登別にも熊牧場があるんですけど、登別も活火山で硫黄泉が湧く温泉街。道民は温泉とヒグマがセットで親しむ傾向がある、独自の文化ですね。
有珠山は、約20年から30年の周期で噴火しています。前兆なしに突然噴火するわけではなく火山性地震など噴火の前兆が観測できるので、地域住民の方は、火山と共存し、災害に備える暮らしを続けている。
さすが地質遺産として、ユネスコ世界ジオパークに認定されるだけのことはある。
北海道には、もうひとつ、ユネスコ世界ジオパークが存在します。
それが、日高の浦河町。
日曜劇場・ロイヤルファミリーでも知られるヒダカノホシ。
サラブレッドの生産地として知られる場所から東へ30キロ、様似の少し先にアポイ岳がある。
日高山脈は約1300万年前に起きた、2つの大陸プレートの衝突によりできたもので、アポイ岳もそのひとつ。
ここが世界ジオパークだと洞爺湖ビジターセンターに行くまで全く知りませんでした(浦河と様似は毎年鉄道旅で行く場所)海岸沿いの海岸段丘は独特な景観で、いつ行っても変わらないと思ったら、あの景観は海底の裂け目に溜まったまぐまが冷やされて盛り上がり、海の波に削られた天然の岩石。地殻変動により形成された一帯です。
先に起きた北海道・三陸沖後発地震注意情報で聞くようになった「千島海溝」は、えりも岬沖でМ8クラスの巨大地震が80年から100年の周期で起きていることが今回の調べで解りました。
今が、その時 ────
……とは言いませんが<地球が生きてる証拠>を地震が起きる度に改めて感じる。
そんな思いを胸に。ただ、できれば安全に過ごしたい。
地震は、ほんとうにこわい。
緊急地震速報が鳴ってから大きな揺れを感じるまでの時間が、数年前と比較して速くなった。その間に安全の確保や避難をすることができるのは進歩だとして、遠くから聞こえる……あの音……忘れもしない、私の体験談。
2018年9月3日、午前3時過ぎに起きた北海道胆振東部地震。
あの時はまだ子供が小さくて、床に布団を敷いて一緒に寝ていました。深夜、遠くから『何か』不快な音がする。私は俯せで寝る癖があり、布団に耳をあてると床の振動など聞こえる(家族の足音を聞き分けられる)センサーの持ち主。これが聞き取れないと穏便に暮らせないというか、ね……で、モスキート音のような電子音ではなく例えようもない不安が実際の波動となって遠くから押し寄せて来る、違和感。
次第に低周波に建物が反応し、震える。
そして物質が響くような、割れるような音と共に強い揺れが始まってから、緊急地震速報が遅れて鳴る。
物音に目覚めて、まだ事態を把握してない子供を布団に包んで抱えたら、すぐに立ち上がり、部屋のドアを開けて大きな声で家族を呼びました。
「やばいやばいっ何これ!?」
階段から降りて来る子供も布団に包んで、照明の下を避けて座らせ、テレビを押さえたり、ズレ動く家具が子供たちにぶつからないように先んじて庇う。
この瞬間まで地震に対する私の概念は、地面を伝って揺れる波のようなものだった。
でも、大きな声を出さないと物音で掻き消されるような、焦りと恐怖により、冷静になろうとする命の危機が只遭った。
地震の規模を示すマグニチュード6.7
北海道で観測史上初めて震度7を記録した内陸の直下型地震で、全道が停電になった。
これが北海道胆振東部地震
ブラックアウトの始まりでした。
揺れが収まった後、階段のコンセント式人感センサー(充電式)が点灯しているのに、テレビが点かない。
デジタル表示やランプが消えていることから、停電していることに気が付きました。
最初はこの辺りだけかと思ったら外に出てくる人たちが増えて、停電になったこと、水道水が出ない。出してはいけないと先に聞いたので、お風呂の残り湯と常備していた飲料水で過ごすことに。わが家の場合、これが功を奏して後の住宅トラブルを回避することができました。
貴之は職場へ
街周辺の様子も見て来ると、車で出勤。
私は職場や上司と連絡が取れず、何の情報も無いまま、手回しラジオを点けて窓際に置き、目が覚める子供たちをあやしてソファーに並べて寝かせる。
この年、2回目の地域トラブル「またか……」部屋の片づけより、リビングに必要なものを一カ所に集めて、みんなで過ごした。ご近所さんと相談して日中は大人が買い出しに走り、ガスボンベや水などの調達をしながら情報交流を経て、うちだけじゃなくてみんなが困らないよう被災した今だからこそ、できることを見つけるよう努めました。
スマホの充電には限りがある。それは相手も同じこと、最中に「今なにしてるの?」連絡を取り合い、冷蔵庫のものダメになるからうちも鍋だわ~なんて世間話をしたり、炊き出しの情報も教えてもらった。
だから、暗いリビングに悲壮感はなくて小樽で購入したランプを灯せば「キャンプみたい!」子供たちの瞳が輝く。ご飯食べるのもくっついて、順番にやりたいカードゲームで遊んで、夜中の指スマで大笑いした後に、夜の散歩。
いつもより星が綺麗に見える夜でした。
街の灯りが空を照らす。
子どもに言われた「魔女の宅急便みたい」だって。ああ、旅立ちの夜に出会ったあの風景。確かに……ただ、ここ北海道だからね。電波が届かない山の中で見る、星の降る里を知ってる私はどこか懐かしい気持ちになって、普段とは違う夜にはしゃぐ子供たちと手を繋いで家路につく。
震災の翌日、信号機が止まった道路を運転するのは大変だろうに、貴之は仕事の合間に日用品など買ってきてくれた。
朝になったら外に出て、土鍋でご飯を炊く。スーパーで冷凍食品を無料配布していたから解凍して食べてとたくさん貰ったり、大手飲食店が店内の食材で野菜ラーメンを炊き出し、無料配布。温かい物を食べると落ち着きますね。
長いようで短い3日目。まだ世界は元通りではないけど、職場に復帰して最初に感じたこと。
多くの方が被災し、亡くなったことが現実なのだと人々の移動に感じた。
ご葬儀に参列されるであろう人の数が、尋常ではない。一週間ではきかないくらい続きました。後にも先にもあの時だけのことであって欲しい、今はそう思います。
北海道は先週末にかけて冬型の気圧配置で天候が荒れる中、大きな余震。
緊急地震速報が鳴った午後、私は車の運転をしており、揺れを体感しませんでした。胆振地方の震度は大きくて、札幌はそうでもないのかと思ったら会社の上司から安否確認の電話が届く。現在地の状況報告と社内の緊急時における点検カ所の確認、そして除雪の話をしている間も着信やメッセージの通知が次々に表示される。後から聞いた話ですが、エレベーターが止まって15~20分ほど閉じ込められた人が多数いたそうです。地下鉄は止まると社内の電気が消えて再開した後は点検のため遅延する。だから「今、どこにいる」確認を急ぎたいのだと彼に言われた。
私の大丈夫と、彼の基準は大きく違うため、緊急時になると現場を治めるだけで精一杯。彼は脅迫概念の傾向にあり、外的要素によるストレスで不安や拘りが強くなる。そこで特定の行動/仕事に集中して、分散させるそうです。
働くことでストレスを蓄積させる人の方が多いけど、彼の場合、先立って強いストレスがある。
これは生まれながらに備わった性質よりか、成長過程による生活習慣病。幼少期は勉強に、社会に出れば仕事に身を窶すことで、それは誰の目にも正しく、身の内に起こる不安から逃れるための術として、何十年も続けているうちに病が無自覚になっていく。ただ、みんなが大変な時に一点集中して仕事を優先できる自己犠牲は必ず讃えられます。彼はそうして救われているから、私は何も言えないんだけどね。
──── 俺より先に死なないでくれ。
これが条件で一緒になった私たち。
今のところはお約束をちゃんと守っている私は、いい子。
願わくば、人々の暮らしが守られますように。
・
・
・
・
・
この頃、一週間が早くて食事時にテレビ番組を見ていると「あれ?ついこの間も見たような……」これが噂に名高いジャネーの法則。
地球の更年期にも困ったものだけど、私も老化しているのは認める。可愛いおじいちゃんになりたいと希望的観測を家族に伝えると、お年玉は何歳まで貰えるのか問題について追及される。えーっと……くれる人がいたら何歳でも、よろこんで。
というわけで、来年のお年玉の確約されたようです。
でも、元旦から仕事なので忘れた頃に渡すかも?私と貴之は別、しかも貴之はいくら欲しいのか聞いてくるから「言った金額の半分でいいからね」と腕組みプンスコ!上限2万の誓約書でも交わした方がいいのかしら、不安だわ。
まぁ現金は手元にあった方がいいのは、災害時にわかったこと。検討します。
ただ、一切は過ぎてゆきます
いつの間にか ひとりで街を歩けるようになりました
いつの間にか ひとりで喫茶店に入れるようにもなりました
いつの間にか あなたの声を思い出さなくなって
いつの間にか あなたを想って泣くこともなくなりました
あなたがいない世界なんて
あのころは想像もできなかったし
あなたなしで生きるなんて考えもしなかったけれど
案外平気に生きています
きっとあなたも同じなのでしょうね
私がいなくても あなたはあなたを生きている
いいえ きっとあなたは最初から
私なんかいなくても生きていけたでしょうけど
生きてくってことは
ただそれだけで大変ですね
息を吸って吐いて寝て起きて働いて
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中
逃れられない日々に守りたい自分などどこにありましょう
ただひとつ 言葉が足りなかったばかりに
ただひとつ 言葉が余計すぎたばかりに
壊さないように壊れないように
大事に大事に守ってきたはずのことでさえ
いともたやすく粉々にして
散乱した破片を見つめては泣くことさえもかなわずに
笑うことしかできないそんな自分を繕う言い訳ばかりを
探しあぐねているような情けない夜
握りつぶせない過去にがんじがらめになって
前にも後ろにも 一歩も進めなくなってしまう
眠れないまま迎えた朝に
いつまでもずっと馴染めないまま
時計の針だけが刻一刻と 時を急いでいる毎日
それでも それでも私たちはきっと
私たちが思うよりもずっとずっと
強く出来ているのだということを
流した涙も受けた傷もそこからあふれ出た真っ赤な血液も
いずれは自然に渇いてかさぶたみたいに
そっと傷口をふさいでくれます
朝 冷たい水で顔を洗い
身支度を整えて今日へと歩き出す
そうやって毎日は過ぎてゆき
そうやって少しずつ記憶は遠ざかってゆきます
忘れることは悲しいことなんかじゃないんだよ
あのころあなたはよくそう云ってくれましたね
あなたの云うように
時は悲しんでる暇もなく
あとからあとから流れてゆきます
立ち止まることも 逆行することも許されないままに
きっとそうやって人は
生きていくものなのでしょうね
元気ですか
あのころ描いていた夢は
まだ追い続けてくれているでしょうか
私はまだ
相変わらずヘタクソな詩を描いています
悲しみはいつまでたっても悲しいままですね
でも その先がちゃんとあるということを
教えてくれたのは たしかにあなただったから
それがなんなのか知りたくて私は
まだ 言葉をいじくり続けています
12月の空はピンと張り詰めたように冷たく澄んで
白く凍えた風が どこからともなく吹きすぎてゆきます
この空を どこかであなたも見ているでしょうか
たぶん見てはいないでしょうね
いまごろはきっと くしゃみを4回していることでしょう
それは風邪ではありません
風の便りです
長々と話してしまいました
くれぐれもお体大切に
どうかお元気で
さようなら
さようなら
日付
皮は皮膚であることさえ忘れて
取り戻すことのできない 流れに浮かぶ流れ
に、ゆれて
1900
𝘶𝘯𝘵𝘪𝘵𝘭𝘦𝘥
........................... ...
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https://i.ibb.co/vxdjnKT9/DB04289-D-FA7-B-4058-A974-2-FF2393-CD84-D.jpg
羽化登仙
変われなかった 変われなかったんだ さむい 靴下がない 全部わたしがわるいから お願い 怒らないで 羽化は いつもうまくいかない 私が先に蝶になっても、黙っていてね。殻を破って、翅の伸張が終わる夜明けまで 待っていてください。
……
すこしげんきをだすぞ 頭が痛くて やる気が出な、ない。酒をたくさん飲み込んで、どこかに飛んだら病院にいた。また気付いたら家にいた。今から寝ゲロした自分を殺しにいく。そしてトイレや袋にちゃんと吐いた自分を抱きしめる。枕とシーツに吐いてしまって 今からシャワーも浴びなきゃ 荷物もほどいてご飯を食べてお絵描きでもしようか
くそ クソ クソだよ全部 なんで生きてるんだよ 死にたいんだってば 死のうとしてる度に多方面に迷惑かけて嫌われる 無駄に自分の価値と金と時間を消費する。もう殺してください。
もう、もうぼくはひとり土の中は嫌だな。空を綺麗な羽で飛びたい!羽化 しなきゃ そろそろ羽化のじかん。サナギのなかはどろどろしていて、なんだか見覚えがあったな。それではお先に失礼します。
継続
継続
何かずっと継続し続けることは本当に大変
継続することによって苦痛を伴うこともある
人から非難されることもある
継続することによって
納得のいく結果になることもある
継続
「その継続は本当に必要な継続?」
と、自分の心と体に疑問を持つこともある
継続
私が継続しているこの想い
「愛」
この想いは苦痛を伴う想い
辞めようと何度も思った
どんなに想い続けても
どんなに願いを込めても
継続することに意味なんてない…
「結果」が見えているから
継続
「愛する想い」
どんなに苦痛を伴う想いでも
叶わない想いでも
やっぱり愛しているから
あなたを愛することは「継続」していきます
哀しみの心と共に…
北へ
それがどんな色だったかもう忘れてしまったけれど、長靴の底のやけに明るい色を覚えている。アカシは靴底の溝にこびりついた泥なのか血なのかタンパク質の塊なのか、そういうものを手にした割り箸でバケツに落としている。汗で額にこびりつく縮れた髪、唇はがさついていて、口角にはいつも血が凝固していた。
「汚いから外でやりなよ」
「前にそこの窓から手出してやってたら榎本に殴られたよ。サツキは顔、殴られないからいいよな」
傍目にも痛そうな唇を尖らせてアカシは口から隙間風のような口笛をふく。6畳程の部屋には私たちだけではなく、あと二人暮らしていた。が、今も二段ベッドのアカシの下で寝ている安岡さんは片脚を失って動くことができず、化膿していく脚が痛いのか、昼も夜もウンウンと唸り続けていた。もう一人は私たちよりも新しく入った男の子で白井くん。榎本というここの施設長によく無茶なことをさせられては追い詰められたような顔をして、最近では部屋の隅でブツブツと何かを言っていることが多くなった。
「サツキは逃げたいと思わないの?」
「わたし、馬鹿だから迷子になってまたここに戻ってくると思う」
「ちげーねぇ」
アカシはこの施設──そもそもここが何の施設なのかよく知らないけど──に私が来た頃にはもう唇を腫れさせていて、その割にはいつもどこか大丈夫そうな表情を顔に浮かべていた。アカシが最初そんなんだったから怖い場所ではないのかと思ったけど、その日の夜に男3人組の集まりに無理やり連れて行かれて、考えが甘かったことを悟った。強いお酒を飲まされたあと服を脱がされ天井に吊り下げられるように縛られ、お腹を順番に殴られた。誰が一番豪快に吐かせることができるか、と男たちは勝手に盛り上がり始めて、私が血とアルコールの混じった胃液を吐き出したとき男の一人が、フォー、と奇声を上げその場でサッカーのゴールパフォーマンスのように踊っているのをなぜだか今でもはっきり思い出してしまう。
「自分の影を追いかけたらとりあえず北にはいけるべ」
「北って?」
「北は北だろ。北に何があるかはしらんけど」
「寒そう」
「せっかく逃げたのに凍え死んだりしてな」
長靴を下足入れ──とはいえこの部屋には一般的な玄関というものはないので二段になっているベッドの片隅に各々が用意しているのだが──に収めて伸びをする、アカシはところどころ泥や血で汚れていて、仕事の度にお風呂に入ることができる私には、それがなんだかとても不憫なことのように思えた。もうすぐ、榎本が見回りに来る。消灯時間の9時少し前に部屋の明かりを消し、こぼした食事や体液でパリパリになっているタオルを体の上にかけて目を閉じる。白井くんの独り言が聞こえる。けれど、それをどうすることもできない。
「おい、白井。何やってんだお前?」
榎本の声を思い出す度に体に怖気が走る。ところどころ間延びする母音。けれどその割には一切感情が宿っていないように感じる声。だからこのとき聞こえた悲鳴のようなものが榎本の口から発せられた音だとは、最初信じられなかった。明かりがつく。私は部屋の入口に立っている榎本を見て、その後同じ方向を見ていたアカシと目が合う。
「あーあー。これやっちゃったな」
部屋の入口では目の前で白井くんが膝立ちの状態──というよりも髪を掴まれて膝が浮いた状態で、苦しそうなうめき声を挙げながら榎本の方を見ている。いや、見ているのか髪を掴まれた顔が自然とそちらを向いているのかはわからない。榎本の手から白井くんの頭が少しずつ離れていき、やがて彼の頭は床に転がったのに、榎本の手には髪の毛の束がいまだ掴まれている。私は声にならない悲鳴をパリパリのタオルで押し殺した。押し殺しながら、榎本のズボンにシミのような赤い汚れがついているのを見つけ、そのすぐ下にやはり同じように血がついたフォークが転がっているのを見た。今日のご飯はシーチキンだったから、フォークがあんなところにあるはずがない。私がどうでもいい疑問に行ったり来たりと思いを馳せている間に白井くんはそのまま外へと連れて行かれてしまった。
「サツキ、大丈夫か」
いつものアカシとは違う声。その声と同時に安岡さんのウンウン唸る声が聞こえている。いつも聞こえているはずなのに今夜ははっきりと聞こえる。何も答えることができなかった。暫くの間、私は入口に残された髪の毛の束を見つめていた。その間もずっと安岡さんはウンウンと唸っていた。私は、安岡さんが苦しくてそういう声を出しているんだ、と思った。当たり前のことに聞こえるかもしれないけれど、私はその時はじめて安岡さんが苦しんでいることを意識した。アカシ。そう答えようとした矢先に、力任せに扉が開き、床に転がっていたフォークが弾き飛ばされ音を立てて転がった。
「サツキ、アカシ、来い」
私は目配せをすることも怖くて、アカシの顔を見ることができなかった。外に出ると暗闇の中、白熱灯の光に照らされて白井くんが立っていた。粘土で新しく捏ね上げたみたいな目と鼻と口が、腫れている、という言葉に結びつくまでしばらくの時間を要した。後ろ手に結束バンドで縛られた両手は縄で施設を見渡せる電灯の柱にくくりつけられていた。
「今から白井を叛逆の刑に処す」
「サツキは白井の体にこれを塗れ、アカシはコレをかけろ」
私たちは榎本の近くに呼ばれ、私は何か液体が入った大きめのコップ、多分計量カップのようなものと刷毛を渡された。アカシは何かの瓶だったと思う。白熱灯の下で盛り上がった顔から幾粒もの血がこぼれ落ちていた。私は白井くんの体に液体を塗った。それは多分蜂蜜だったと思う。ところどころ赤黒くなって尋常でないほど腫れている白井くんの四肢にそれを塗る度に、彼はぎぃぎぃと鼻の奥の方で強い音を発しながら杭に体を打ち付けながら痙攣した。私はただそれを塗ることに疑問を持たないように頭の中で何度も何度も自分の頭をショベルで叩きつける想像をした。血の混じった鼻水や唾液、胃液、歯、半分溶けたシーチキンが私の膝に落ちた。私は蜂蜜を塗った。
部屋に戻った私たちは安岡さんの唸り声を聞いた。そしてフォークを私の下の階の白井くんのベッドの上に戻した。なぜそうしたのかはわからない。ガチガチ、と煩い音が耳障りだと感じた。今は夏で、寒くもないのに、その音が自分の歯によって立てられている音だと気づいたとき、私はどうやって息をすればいいのかわからなくなっていることに気づいた。アカシが私のベッドの上に駆け寄ったのはなんとなく覚えている。ビニール袋を口に当てられていた気がする。私はそれをされながらシンナーみたいだな、ってここに来るはるか昔のことを思い出していた。
意識が戻ったとき、私の目の前にアカシの顔があって、その顔にはいつもの余裕そうな表情が張り付いていた。私は何度も目をこすって、その表情の何処かにほころびがないか探した。けれどアカシは余裕そうに微笑んでみせた。
「サツキ、逃げよう」
心臓が急な階段を駆け上がったときのように速く打った。そろりと部屋の出入り口のところまできて、ドアが開いているのを見つけていよいよ心臓が止まりそうになった。いつもは外から施錠されているのだ。アカシの顔をもう一度みた。アカシはゆっくりと頷いた。
「まず白井のロープを切る、それから逃げる」
アカシは抑揚のない声でそれを言った。まるで台本を読むような声だった。私は白井くんのベッドに戻ってフォークを拾った。それを体の中心で、両手で握りしめた。
どうあがいても軋むような音を立ててドアが開き、二人は夜のなかに投げ出されるように出ていった。心強いはずの月明かりが今はとても余計なものに感じた。アカシは、私の肩をたたき、私に物陰で待っているように伝えた。白井くんのところにはアカシ一人でいくらしい。私は施設を監視するように立てられた柱にひとり縛られている白井くんを見ることができなかった。私は目を逸らした。白熱灯にぶつかる名も知らぬ虫の音がいつもよりも多いように思えて、私にはそれができなかった。
アカシに言われるがまま私は施設の反対側に回り込み、息を潜めた。思い出したようにアカシにフォークをわたした。アカシは何のことかわからない顔をしたがすぐに理解したようで、私の手からフォークをたしかに掴み取った。アカシが離れてから、私はほとんど息をすることもなく、隠れた茂みの草が揺れるのさえ許されないことのように身を固めていた。同時に、蜂蜜のことを考えていた。なぜ蜂蜜のことを考えているのかわからなかったし、蜂蜜のことを考える自分が許せなかった。けれども私は蜂蜜のことを考えていた。
アカシが戻ってきて首を横に振った。何がどうだめだったのか、それはわからないけれど、白井くんを助けることは出来なかった、その事実だけが私に突きつけられた。私はどうすればいいかわからなかった。その時膝に触れていた草の感覚を今でもなぜか覚えている。アカシが私の手を掴んだ。逃げる。そういうことだと思った。
言葉もなく、私たちは駆け出した。方角は示し合わせたわけでもないけど、私たちの影が伸びる方角だった。──北へ、アカシの言葉を思い出した。月影が北に伸びるのか、それはわからないけれど、私は北へ走った。私が思う北へと走った。心臓の鼓動がどんどんと高まり、普段走り慣れていない足がズキズキと傷んだ。けれど「北へ」その言葉が私の心を占める全てで、鼓動も、痛みも、私とは関係のないことのように思えた。北へ。私は私の影を追いかけた。北へ。アカシは思ったよりもずっと早く私のところに戻ってきた。いやそんなことどうでもいい。北へ。ただ北へ走ることがこのときの私の全てだった。北へ。ただひたすら北へ。はるか北のどこかで吹雪に閉じ込められて凍りついた集落のことを思い浮かべた。北で、遠い北のどこかで、すべてのものが凍りつくのではないか、と。血も、胃液も、鼻水も。全て凍りつく北。北へ。膿も、傷も、叫び声も、痛みも、蜂蜜も、うめき声も、性、性も、すべて、すべて。
CWS出版とかいう怪しすぎる投稿サイトが初めて出版した本と認識される物体のコピーデータ LOVELESS JAPON(Kindle版)を読んだ感情
読者を実験に巻き込もうとしている。いや、読者自身に自分の中で実験をさせようとしているようにも見える。
繰り返すことで記憶は濃くなるのか、薄くなるのか。繰り返すことに意味を見いだしているのなら、思い出も感情も積み上げられていき、興味の強さに圧縮され、より濃度を増した記憶になるだろう。子供の頃の記憶のように。では、繰り返すという行為に意味を見いだせなければどうか? この行為が所詮同じ事の繰り返しに過ぎないのだと自分自身を納得させてしまえば、自分で作り出した理屈を証明するために、繰り返される毎日から差異を払い、変化を嫌い、同じものしか重ねられなくなり、今が昨日か明日なのかもわからなくなる。老いるかのように。
繰り返される文章を読んだ。
自分の頭の中で繰り返し処理されていく文章を、自身の感情が観察していく。そんな実験をさせられた。
その実験に意味はあったのか? それとも無意味だったのか?
誰に尋ねているのだろう。全くもって、おかしな質問だと思う。意味を持たせるのはこちら側の裁量だというのに。
生きることは上書きである。最初は濃かったはずの記憶も次第に薄まり、それでも生きていかなければいけない人間たちは、日々のちょっとした違いに感動し、悲しみ楽しみ、心を躍らせられる生き物
であったはずだ。そうした表現を味わってきたはずだ。
だが、欲望が膨れ上がり続ける時代にそれは難しい。世界は新しいモノが生まれ続けている。世界が変わろうとも、生き物の個体の本質は上書きでしかない。命は有限である。年齢が進むにつれて情報量が増えていき、体験は全てが上書きでなければ容量が足りなくなり、差異を削り落としながら見聞きしてきた記憶を改変し、捨て去り、抱えられる量だけを抱えて、ようやく生きていける。それが命の本質、いや、限界なのだろう。
それなのに、外を見れば明るくて楽しそう。
音が聞こえる。光が明滅している。声が絡み合い、行き交っている。実に楽しそうだ。
と思っていた。
次第に、新しい物が生まれ続ける世界に慣れていき、自分の中で抱えきれない世界の変化を差異と捉えるようになる。変化すること自体が当たり前になってきたのだ。何か新しい物に触れたとき、新しい物が生まれたとき、それは昨日起きた変化の模倣だと、いつか見た進化と同じカテゴリーでしかないのだと、思い込むことで自己の崩壊を防いでいる。
強烈な変化でさえ慣れてしまう人間たちが、いまさら、わずかな言葉の違いに、感情が動くなんて事があるだろうか?
いや、感情が動くことでさえ日々の繰り返しだと、そう他人達は認識していないだろうか。
あの明るくて楽しげな世界を生きる他人達は、変化に慣れすぎて、進化を当たり前だと感じていて、自分一人が生み出す変化程度では何も感じてくれないのではないだろうか?
この疑問は絶対に壊せない。解けることはない。
だから、物書きは思うのだ。
無意味だと。
恐れでしかあるまいよ。
小説に書かれていること程度であれば体験できる世の中になった。映像でも音でも再現できるようになった。もはや空想に頼る必要はなくなったのだ。詩で味わえることは、いつかどこかで味わった感情のレプリカでしかないことに気が付いたのだ。わざわざ文字で追体験しなくとも、記録媒体から直接復元できる世の中になったのだ。
文章を読む事で、自分の中に新しい知見を得て、噛み砕き消化するプロセスを高尚だとする世の中はすでにない。時間の価値が金銭よりも高価なのだと気が付いた人間は、面倒なことは無駄そのものだと気が付いたのだ。賢くなった。
周りが気が付き始めていることに、自分が気が付いた。そして、自分のしていることが無意味で無価値、無生産性だと恐れるようになった。
それでも書き続けなければいけない。なぜならば、それが自分だからだ。
だからこそ、書くことを否定されれば反論する。書く無意味さを説かれたら、それは貴方が勝手に思っていることで、わたしが思っていることとは違う。誤解なのだと、声を張り続けながら書き続けるのだ。特に理由を見いだせないまま、繰り返すことで報われるのだと自分自身に言い続けながら。
実験を思考し、実験を繰り返し、実験を観察し、実験結果を発表し、それらの工程を分析をしてみたところで世界に変化を起こせていないから、結論を単独嗜好だと評する。
この実験は楽しかったが無意味だった。
それは、大いなる他人に対する恐れだ。
小説も詩も、読者側が近づかなければ楽しめない趣味。読み手が作品に近づき、読み込んでくれることで、初めて有意義な価値が生まれる。
作った物を相手に手渡すだけでは終わらないのだろう。白と黒の画面を黙って眺めているだけでは何も楽しいことは無いのだから。
無意味にしているのは結局、自分自身でしかない。作った人間が『これは無意味だ』と言ってしまえば、この時点で読者は決定的な答えを得てしまうのだ。価値が決まる。
小説とは読者の価値観を騙すことに他ならないというのに。持論。
自分自身に問うてみれば、世の中は全て無意味だ。人間が生きるだけなら、こんなに物も情報も価値もいらない。もし、誰も彼もがそんな風に悟ってしまったのなら、人間の社会が終わることを人間は本能的に知っているのだ。人間社会を終わらせないためにも人間であるわたし達は考えることをやめないのだろう。
無意味な世の中に意味を見いだすことで、わたし達は長い、長い時間を生き抜いてきた。長い時間を生き延びるために、わたし達は知恵を絞って、世の中の全てに価値を生み出してきた。
そんなわたし達が、今さら無意味にビビるのか?
随分と。
実験しやすい世の中になった。
誰もが実験できて自由に発表できる。そして、実験の結果をどんな相手にも届けられるようになった。
そして、個人が独自の価値観を表せるようになった。次第に明かされてゆく一人一人の趣味嗜好。自分は1億分の1しか存在しない特殊な好みを持つ人間なのか? そんな事は無いだろう。価値を見いだす人は必ず居る。少なからず居る。
ならば、出来ることは無限であれ。無ければ自分で生み出せばいいし、増やしたければ作れば良い、求めればいい。与えられることを諦めればいい。
自分自身を律することと自分に枷を嵌めることは全く違う。手を伸ばす。
考え続けるべきだ。答えを得ることが芸術では無いのだから。好みは人の数だけあれど、唯一無二などありはしない。価値を認めてくれる者が見当たらないのであればもっと高みを求めればいい。もっと広く、見聞きすればいい。自分の腕で騙せる人間はもっと多く居るはずだ。
試験管の中にいるとしよう。
ならば何が出来る?
底が丸ければ何ができる?
口が開いていれば何ができる?
透明であれば何ができる?
硝子であれば何ができる?
目は、口は、耳は、鼻は、肌は、体は、骨は、血液は、空気は、他人は、誰は、己は、この世界にとって何ができる?
答えを探すだけが答えでは無い。なぜなら命がまだあるのだから。
読むがいいよ。
これが無意味だと言われる文学作品に対するコメントだ。
このサイトは何なんだ。
聞かれたが、わたしは明確な答えを持っていない。
それでも、もし何かしらを答えるのならば、このサイトは改革を起こす震源地とでも答えるだろう。
もしも、改革とは何なのか?
と問う者が居たら、わたしはその者の頭に砕いたポテトチップスを振りかけることこの上ない。
改革が何か知っていたら、わたしのコメントは1行で済んでいる。
ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
うぇ🫠今日はたくさん頭を使ったので一旦リセット
サーマニ ユーマニ ホログラムノ蟹
チョーカノ キョーカニ ソトヅケオオタニ
ノーラリ クーラリ テトラノスキマニ
ウマレタ ウマレタ 潤メイト
ミドリの一生
ミドリの家は
海岸から遠く離れた
静かな場所にある
ミドリが街にやって来るのは
数週間に一度だ
あとは海岸でふわふわしているか
家のどこかを修理している
ミドリの夫は他界していて
時々訪ねてくるアカムラサキ以外は
誰も家にはやって来ない
アカムラサキは海岸でゆらゆらしたり
家の修理を手伝ってくれる
金魚鉢が割れた時は
壁に水草の絵を描いてくれた
ブレイクファーストと称し
豆を皿いっぱいに盛ってくれる
外は広い
街は複雑だ
ミドリは金魚を飼っていなかった
豆はきれいに残さず食べた
海岸と家のちょうど真ん中あたりに
夫の骨のカケラを埋めた
光がまぶしく反射する
ミドリはこうして生きている
家はどこかが 壊れ続けている
花緒著 LOVELESS JAPONを読んでみた。
木曜日には届いたのだけれども、出張でやっと今、土曜日夕方、読むことができた。
届いたと書いている通り、電子版が安いのだが、記念すべきCWS出版の第一弾であり、もしかしたら50年後にお宝になるかもしれないという淡い期待も込めて実物を日本の円で購入した。TABUSEコインはいまだ発行されていないので仕方がない。
導入が長いので本の内容を書きたいのではあるが、既にグリフィス氏が推薦文を、千才森氏が批評•論考を書かれている。
そしてわたしが何をいったい書けるのか、と言うと、うん、なんだろう。
少なくとも、全部読んだ。訳が分からない程に繰り返される、が、何か変わっている様な変わっていない様な、変わったとして本当にどこか取り替わったのか、変わった様に感じているだけなのか、変わったことで何か意味があるのか。等と思い読んだ。とりあえず1回めだ。
ほらでてきた "意味"
意味なんて、どんなダイナミックな自然現象でも、繊細な自然の構造でも、人が見て意味が生じるんでしょと普段から言っているのは他ならぬわたし自身だ。
ではこの奇っ怪な文章の繰り返しに意味はあるのか、では無く読んでどんな意味をもったか、でいいのか。
明らかに変わってい行くのは実験だ。
しかし実験に意味はあったのかと言うと無意味なのだ。
実験は無意味でも読者にとって感情が何か動いたのなら、実験は成功なのかもしれない。
不快と不愉快はちょっと違うとわたしは思う
この作品は不快に感じる人も当然いよう。
ただわたしは、不愉快ではなかったのだ。
そしてわたしにも不愉快なものはあるのだ。
この作品は今の所 "訳が分からないよ"
だが、現物が手元にあるのだ。
明日もまた読むのだろう。
きっと。
掌編噺『友地蔵』
今は昔
ある小さな村に三人の若者がいた
*********
一人は麒麟児と呼ばれていた
幼い頃から何をやらせても誰より達者で
周りの村人達からは、すごいすごいと
持て囃され鼻高々の男であった
奴はゆくゆくはこの村の長になるさ
村の誰もが口々に噂した
もう一人は風来坊というべき男だった
成長してからは、ふらっと村の外に出ていったかと
思えば、どこかで大事を成し遂げたと
風の噂がやってくる
お調子者だが、義理に厚い性格で
己の進むべき道をしっかり持っている
村の誰からも愛される
そんな熱くて気持ちの良い男であった
最後の一人は村いちの抜け作と呼ばれる男だった
何をやらせても駄目な男で
引っ込み思案で、声も小さい
特筆すべきなのは麒麟児と風来坊の友だということ
村の皆からは何故有名な二人と仲が良いのか
いつも不思議がられていた
そう、三人は友であった
正確にはかつて、麒麟児と風来坊は火に油の
関係であった
顔を合わせば喧嘩の日々
お互いが「目の上のたんこぶ」といった具合だったのだろう
それが、抜け作が間に入ることでかすがいの役目を
して丸く収まっていたのだ
不思議な事もあるもんだと村の皆は笑った
抜け作にも役目がちゃんとあるのだと
麒麟児と風来坊の二人も
抜け作が間に入り込むことで、不思議とウマが合うようになった
いつしか、三人は無二の親友となったのだ
*********
ある時、麒麟児は隣村へ用事で留守にしていた
己の考えた商いで、この村に富を蓄えようという算段だった
この時、風来坊はいつもの如く旅に出て同様に村から出払ってしまっていた
諸国を放浪して新しい知識を学ぶ為だった
その時、事件は起きた
火事だ 村の中の一つの家が火事で燃えたのだ
家の中には幼子が取り残されているらしい
村人たちは遠目から燃え盛る家をただ眺めるしか出来なかった
いや黒い影が一人、家の中に飛び込んでいく
抜け作と笑われた男だった
果たして彼は炎の中から幼子を助け出したのだ
己の命と、引き換えに
*********
麒麟児と風来坊は
村に戻ってきて顛末を知った
二人は抜け作の最期に、涙が涸れるほど涙した
奴は俺たちよりずっと凄い 凄い男だったのだ
友に誓ってこれからは村のため助け合おうと決め、
二人は供養のため燃えた家の跡地に地蔵を建てた
命を懸けた友のため『友地蔵』という名の地蔵を
そして、命日には必ず花と酒を手向けたのだった
*********
時は過ぎ行く
麒麟児は村の長となり、様々な商いを手広く行い
村の富を蓄えた
豊かになって村人たちは、麒麟児に大いに感謝した
風来坊は更に諸国を巡り、多様な知識を身に付けた
その中には西洋の摩訶不思議な知恵まで含まれていたという
博識ぶりに村人たちは、風来坊を大いに敬った
二人の晩年、国中を疫病が襲った
村も例外では無かった
しかし、麒麟児の蓄えと風来坊の知識で
村は他の村々に比べてずっと被害が少なかった
二人は疫病が終息したのを見届けてから
同じ頃、永い眠りについた
そして友地蔵の両脇に、二体の地蔵が建てられたのである
これを差配したのはかつて、ここに建っていた家が火事になった時に
抜け作と呼ばれた男に助けられた者だった
男は三人の友情と功績に感謝して
三体の地蔵に雨除けの小屋を作り、友地蔵として
厚く供養した
*********
時は更に巡る
村のかたちは変わっていく
しかし、そこに三体の友地蔵は在り続けた
抜け作に助けられた者の子孫は
動乱の時代を駆け抜け、新たな政の役人となった
この村始まって以来の大出世である
彼は後に新聞の取材で語っている
『私の命、私の先祖が暮らした村は、三人の偉大な先人によって守られた。私が今ここに居るのは、彼らのお陰である。世の中の人々からすれば、名も無き者たちかもしれないが私は彼らを決して忘れない。』
**********
長い時間が過ぎてきた今日も、三体の地蔵の前には花と酒が供えられている
真ん中の地蔵に肩を組むように両脇で笑う、
三体の地蔵たちが変わらずに今もそこにいるのだ
(了)
※このお話はフィクションです。
実際の出来事とは、一切関係がございません。
きんだいし
あの黎刻を覚えている
最高光度の藍が
うっすらと薄れ
星が見えなくなった日のことを
「やっぱり嫌だな、君の詩」
イヤホンの右は君の右耳に
そっと共有していて
その口から響く
慈愛的アルカリ性の声
僕の耳に添えられた
イヤホンの左からは
どこか滲んだ酸っぱさが
耳に馴染む、君の友の歌声
どうしてとは問わなかった
僕の声はずっと
昔から塞がれてたから
悲しくなるほどの
その君の澄んだ声が
ゆっくりと
僕の心に溶け込んでいく
「君の詩は近代にして
魚の棲めないほど澄んだ
そんな明治の詩でしかない
どこまでも
どうしようもないほど
明治の詩なんだよ」
バスは静かに揺れる
この世界のゆりかごの
そのすべての代用のために
心臓性の絡繰仕掛けの
歌声が左耳から響き
「どこまでも澄んだ空を
すうっと冷たい、暖かい星を
そうやって掴もうとする君の
その詩は、その足もとを見もしない」
ぎゅっと僕の手が掴まれた
こっちを見もせずに
「どれほど踏みにじってるなんて、気にもしない」
バスは雲のそのあわいに入っていく
山を優しく包むそれは
灯りをいずれ失う僕の
その未来のための
柔らかい予告だったのだろうか
「ねえ、君の詩は皆を殺すんだよ
正確に言えば、君の詩風が世界を包んだときにね
君はそれを願うけど、だめだよ
タヒさんも、香織さんも、ねじめさんとやらも
皆が生きられなくなるから
君のその金属製の共感と暖かさ
せっかくのりこさんが殺そうとしたのに
無駄死にだったね、あの人」
……歌声が遠ざかる
過去を喰らい
海に化けて
それでも人を気取らんと
足掻く人の人たるゆえを
魂を刺すほど謳った君の友の
その痛みの子供性の歌声が
「君が殺しちゃうんだよ」
そう言いながら
優しくイヤホンの左を外し
それから小さなグラス瓶の
さみしき透明の琴花酒を
そっと口に含む前に
「乾杯、君の未来完了形の虐殺に」
僕は逃げられなかった
ぎゅっと肩を掴む
彼女の華奢な手からも
唾涎性の液が混ざり込む
濁り澄んだ琴花酒からも
そのしめやかな温度を絡ませる
くねりと滑る舌からも
「美味しかった?」
こくり
そして、こくり
そう頷いた
あるいは頷くしかなかったあと
白い靄に覆われ
一つの街灯が灯る
木組みの停車場で
バスはゆっくりと止まった
それからドアが開いて
身のすくむほどの
冷気がすっと入り込み
ポツリと呟く君が去る
「近代の、”し”」
ピシャリとドアは閉まり
ただ一人僕を残しながら
あいもかわらずバスは
ゆりかごのように揺れ始め
右の車窓も
左の車窓も
ただ雲の中
いっちもさっちもわからなくて
あんなに雲を目指して
坂を上がって上がって
上がりきったというのに
進むしかなくなったのは、下り坂
欅
イルミネーションとあなた 時間が止まるのが見えた
いきいきて
行列は進む
皆前だけを見つめ
道から外れたところで見守る私を
手招きしてくれる人もいない
途切れない行進
彼岸と此岸の国境を目指している
私のうしろに広がる家々のどこかで
かなしげな犬の遠吠えだけが聞こえる
生きているものは哭く
しあわせになれないから
でも誰かに踏まれた雑草だって
生きるためにもがいている
沈みかけている太陽は
彼らのたどり着く場所の目印
そこには彼らが安らかに眠れる
しとねがある
しあわせがある
私は行列から背を向けた
まともな寝床を探すために
生きている限り
しあわせになれないのに
しあわせを探すのが
生きているためだから
やさしい寝床を探す旅だから
喪われた面影を振りきって
闇雲に叫びながら走った
棄民
棄民 北岡伸之
語学学校は、完璧な隠遁の形態のひとつ、とある作家が小説の中で書いていたけれど
あれは本人の体験でもあるのだろう。
小説の中の主人公は、欧州の語学学校を転々とする。夏は涼しい北のほう、冬は地中海よりの暖かい地域。語学学校ゴロ。
もちろん学校なんかにろくに通わずに、オペラ三昧だ。
欧州の立見席なんかは、歌舞伎の幕見席くらいの料金だから、毎日みても、食費を削るくらいですむ。
近年までは、どの国もVISAがゆるかったので、語学学校を転々として下宿に引きこもる、という生活は余裕でできた。そして、それは、本人が望むというよりも、本人の意志とは別に、語学学校ゴロを余儀なくされるというのが、自分の知るケースでは多かった。
たとえば、妙齢のお嬢さんが、東京の女子大にはいったはいいが、毎日ラリって遊びまわって、それが厳格な親の耳にはいった場合、高確率で「海外送り」となる。
世間体が悪いから、しばらく遠くでおとなしくしろというわけである。こういう「棄民」は、戦前からあった。
アニメ、進撃の巨人の中に登場する口減らしのための「棄民」や、氷河期世代をあらわす言葉としての「棄民」と同列に扱っていいのかどうか、自分は迷っているけれど、海外送りにされた「棄民」たちが感じている不安や孤独は、質的には、非正規労働者や氷河期の「棄民」が抱えているものと、あまりかわらないと思うのだ。
古くからの友人の秋ちゃんは、まさにそんな棄民で、日々ラリってろくに学校も行かず同人誌製作にうつつをぬかしているのにしびれをきらした親により、20の頃、海外送りにされた。
秋ちゃんは当時ベルギーにいて、将来への不安からかかなり精神的に不安定だった。
久しぶりに秋ちゃんに会おうと、自分は忙しい中目の前のプロジェクトを落ち着かせ、なんとか連続した休みをとった。一緒に過ごしていた10代後半の時代が、なつかしく感じられたのだ。日本でしみついた嫌なものを落ちそうと、自分は先に隣国の国営博打場のブラックジャックのテーブルと、コンセルトヘボウの音響を堪能しつくして、その足で東京駅の煉瓦つくりとよく似たアムステルダムの中央駅から二等車にのって、秋ちゃんのところに向かった。
再会の挨拶もほどほどに、そのへんの食堂にはいって、我々は前菜をすっとばし、魚料理を注文した。秋ちゃんは、もちろん、お酒も。欧州の街場には、プリフィクスとかいう野蛮なお決まりは、そんなに普及していない。
「父も、いつまでも元気かどうか、わからないし」
「でも秋ちゃん、出撃はついに訪れずってこともあるかもよ。」
秋ちゃんの親は開業医で、そろそろしんどいから、診察を午前だけにするとか、そういう状況だった。
グラスを持つ秋ちゃんの手は、本当にきれいだった。工場で働く女性の手が、働くものの手、労働者の美しい手であるとするならば、秋ちゃんの手は、高貴な鮎毛ばりにも似た、脆く美しい手であった。
「今、日本でどんな仕事があるかしら。通訳とか、翻訳はできると思うんだけれど・・・・・・」
自分はとっさに会議室横の同時通訳ブースにたむろしているおばさん連中を連想してしまった。
「まあ、そういう仕事はあると思うけれど、日本は、労働環境がよくない、先ず、人権という概念がない。あと、生活費も高いよ」
給仕が運んできた魚の上には、たっぷりとディルが添えられていて、デコレも美しかった。そして、豊潤な発酵バターのかおり。もうこれだけで、味付けはいらない。
「でもさ、秋ちゃん、日本でこれくらいのもの食べようと思ったら、普通の仕事じゃ、とてもやっていけないよ」
「お芋と硬いお肉の生活でも、大丈夫よ。テーブルワインでも」
秋ちゃんは、貧乏でもなんとかなると乙女じみたことを口にした。
「そんな節約したら、君は一月でまいっちゃうよ」
「そんなことない、私、競馬場の地下のスタンドみたいなところでも大丈夫よ」
秋ちゃんは、頑固だから言い出したら聞かない。
ここで、秋ちゃん、君は働くなと言ったら、君にとって働くのは、生き恥をさらすくらい、きついものだというのは、わかっているから、だから君は働くなと言えたのなら、自分の人生もだいぶかわっていたかもしれない。
でも、自分は当時つきあっていた工場で働いている女性と生活する気でいたのだった。
出撃の日、それは、自立を余儀なくされる日であり、秋ちゃんや、海外の「棄民」たちにとって、何よりも恐ろしいことなのだ。自分はとうの昔に、出撃の日を体験していたが、その日をおそれる心境が、鮮やかに蘇った。
日本の学生だって、卒業の前はブルーになるだろう。就職の決まった学生が、これから懲役40年か、なんて自嘲的につぶやいて、自称「社会人」の無産階級の、おなじ立場のひとたちが騒ぎ立てるといったことが、最近なかったっけ?
流れる空気も、他のテーブルの会話も、優雅だ。ああ、ここにはゆとりがある。
「秋ちゃん、ちょっと飲みすぎじゃない?」
さすがに、ペースがはやすぎ。
「いいのよ、私が飲むから。」
「ああ、飲もう。出撃の日は、とりあえず、しばらくはこないさ。」
鼻腔をお菓子や花の蜜のようなかおりがとおりぬけ、ミネラルの味がしっかりと舌に残る。おいしい。
とてもテーブルワインなんかじゃない。やっぱり秋ちゃんが、日本で節約生活をするのは無理だろう。
迫りくる出撃の日、自分は初陣をすませていたものの、秋ちゃんの気持ちは十分にわかった。
毎日好きなことをして暮らせるなら、それにこしたことはない。出撃の日、それは、自由と放埓の日々からの別れであり、死と同義であるかもしれない。
「見るべきほどのことは見つ、ね、わたしは今、そういう心境よ」
秋ちゃんも、かなり酔ってきた。
「秋ちゃん、だけれど、それに続くのは」
「わたし、あのとき、バルビチュレートでおしまいにする筈だったのよ、気がついたら、病院のベッドでしょう? 北のはてまで行っても、無理だった。」
アメリカの死囚は、この薬で意識を落とされる。そのあとは、カリウムが心臓を焼く。
「それは、運が悪かったとしか、言いようがないな。しかし、そうか、見るべきほどのは、既に見たか。ああ、それもいいだろうね」
「本当?」
「ああ、いいよ。秋ちゃん、君とならお供するさ。どうせ、このまま日本で生きていても、湊川だよ。」
島尾敏夫の「魚雷艇学生」の中で、戦争に負けて、出撃の日がなくなったことが確定したときに
古参の下士官が、隊長で士官である島尾敏夫に放った言葉を思い出した。
「私は軍隊で貴重な青春をすりつぶしてきたんです。だから、責任は、隊長のような人がとるべきだ。」
もちろん、島尾敏夫とて、職業軍人ではない。時代が、彼を青年士官として、隊長の立場に立たせたのだ。
グラスごしに秋ちゃんの高貴な顔を久しぶりにながめながら、知らない街を眺めながら、自分の住む煤けた工業都市住の人たち、工場に通うひとたちは、いざとなれば、我々はこんな工場で青春をすりつぶしてきたんだ、お前らのことなど知ったことか、と辛らつなことをいうのだろうなと、自分はぼんやりと感じていた。決して、あの街の人は受け入れてはくれない。自分たちは、青春を、すりつぶしていないから。
店は、ほとんど客がいなくなった。給仕は暇そうに遠くを見つめて立っている。けれど、もうラストオーダーです、なんてことはいわない。
「今日は、どこに泊まるの?」
だいぶ飲んで、目がとろんとした秋ちゃんが自分の目をみつめた。
「まだ決めていないけれど、ツーリストホテルみたいなとこ、ここらにもあるだろうから、適当に決めるさ」
だいぶ、お互いに酔ってきたけれど、別になんの思惑もない。ただ、隣国のツーリストホテルは最悪で、おもてにはコケインコケイン呟くゾンビみたいな売人はいるわ、慣れないキノコを食べた旅行者が上から落ちてくるわ、まったく心がやすまらなかったので、三つ星くらいの、ホリデーインエクスプレスみたいなとこにしよう、ルーレットで10ユーロチップがかなり増えたしね、と自分は考えていた。
「うちにくる?」
と、秋ちゃん。
しかし、心中の話をした後で、お泊まりというのは、やはり怖い。
「そうだなあ、床で寝るから、それでよければ」
「わたし、いびき、うるさいよ。」
「まあ、これだけ飲んでりゃあ、お互いさまだ」
そんなこんなで、秋ちゃんの家にお世話になることにした。
すぐタクシーがつかまるのは日本くらいだ。路面電車に乗り、石畳の上をだいぶ歩いた。
アパートかと思ったら、小さいながらも一軒家だった。何人かで住んでいるそうだが、誰も居間にはおらず、自分はそのまま秋ちゃんの寝室に向かった。 調度の整った部屋ではあったが、これはもともとあるものだろう。ベテランの語学学校ゴロは、家具を持たない。そう、鏡台ですら持たないのだ。
普通はなにかあるのだろう。いい年の男女が、一緒に寝たら。
けれど、なんにもなかった。自分は床に寝なかったけれど、何にもなかった。
お互いに、手のうちをみせあっているだけに、不毛なステップに進むのを回避できたのかもしれないし、単に酒の飲み過ぎでお互いにそんな気にならなかったのかもしれない。
くだらない、地上のつながりは、大切な関係を壊す。二人とも、それがよくわかっていたのだろう。
白ワインやシャンパンの二日酔いは、最悪だ。翌朝、割れそうな頭をかかえて、我々は、のそのそと、卵や芋の調理法を聞いてくれるくらいの食堂に向かったのであった。
自分と秋ちゃんの爛れた関係は続いた。
毎日、観劇と酩酊だ。
コンセルトへボウと、国営博打場のショートデッキのブラックジャックのテーブル、これはカウンティングがきくので、有利なときに一気に賭け金をあげれば容易にかつことができた、にはちょっと未練があったけれど、なに、また行けばよい。
ある日、ラ・ボエームをみて、二人ともいたく感じ入って、秋ちゃんの下宿で、白ワインを飲んで余韻にひたっていた。そして、自分は、ようやく、言葉を声にした。
「日本の恋愛は、生産のためなんだよ。国や企業のため。だからテレビドラマでやる恋愛は、生産的なんだ」
秋ちゃんは、首をふった。
「そういうものに、とりこまれる日がくるのかしら、ねえ、いま日本はそんな社会になっているの?」
「日本に本当の恋愛ってのはあまりない。モノガミーが強く推奨されるのは、生産のためだ。日本ではミミは歌わない、下宿に死にに帰ってこない。ただ金をとりにくる。ムゼッタだって、最後はミミのために奔走したのに」
話すことがなくなると、昔話になるのは、世の常であるらしい。
緻密なウイスキーすごろくをつくりあげて、工業都市の人々を消費と競争にかりたてた会社は、東京コンサートホールをもっていて、学生は安い料金ではいることができた。
諏訪内さんが、メンコンを弾くというので、秋ちゃんといったのだ。もう20年以上前だろう。指揮は岩城さん、オケはアンサンブル金沢。
当時のアンサンブル金沢は、めちゃくちゃとんがっていて、岩城さんは必ず難解な現代曲をやるし、聴衆がお世辞の拍手でもしようものなら、ブチ切れてホールは険悪な雰囲気になった。
ただそのときは、松村禎三の曲をやったので、比較的和やかなうちに諏訪内さんの登場をむかえたのであった。
「あのときの、諏訪内さんは本当にきれいだったなあ。俺、いまでも鮮やかにおぼえてる」
「そうね、CDを買って、なんべんも聴いたけれど、録音は録音。あれは本当に、すべてが奇跡だった」
しかし秋ちゃんはその後に爆弾発言をした。
「前に、歌の翼を弾いたでしょう、うちで」
「いやいや、秋ちゃん、俺そんなにロマンチストじゃねぇよ、メンデルスゾーン好きに見える?」
「案外そうじゃないの?」
秋ちゃんは、くすくすと笑った。
「いや、違うよ、俺が酔っぱらって弾いたのは、若鷲の歌だって、若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨」
「ちがうわよ。Auf Flügeln des Gesanges」
「そうだったっけ、でも本当にいま弾きたいのは「あの旗を撃て」だな。補給の道は絶え絶えに、射つべき弾丸もはや尽きて、残る一つはこの身体」
補給、そう、送金がたえた時が、語学ゴロの最後のときであり、敵陣に裸で突撃することとなる。
秋ちゃんだけじゃない、可もなく不可もなくで、のらりくらりと賃金労働に従事している自分も、いつ補給がたえて弾がつきるかわからない。
まことに、まことに生きていくのはしんどいことだ。
しかし秋ちゃんの指摘は案外当たっているのかもしれなかった。
すっかり心がかさついてしまった自分が、あのミミのアリアに、ミミが下宿に死にに帰ってきたとき、みながミミのために奔走する終幕に、心を動かされたのは、本当のことだ。
こういう気持ちのときは、ウイスキーがいい。華やかな酒は、気が滅入る。
秋ちゃんは、穏やかな、調和がとれた中にも、煙たさがちょっとあるウイスキーを出してくれて、不揃いのコップでまた一緒に飲んで、酔って、昔の話をした。
ウイスキーは、こういうときにぴったりだ。
レッドからホワイト、次は角、角から、夢のオールド、次はリザーブというウイスキーすごろくを真面目にやって、堅実な幸せをつかむには、自分も秋ちゃんもひねくれすぎていた。うちは明日からオールドと、昇進辞令とともに、あたたかく自分を迎えてくれるであろう女性の顔も、もはやぼんやりとしか、浮かばない。
自分が山で死ぬときに浮かぶのは、秋ちゃんの顔か、黒髪の魔女か。
音楽と、博打と、酒と、同人誌の話。
欧州の、ある一部屋に、どこにも行き場のない男女が、あのとき、たしかにいた
秋ちゃんとしばらく過ごしたのち、日本にかえってから、自分はマディラワインを台所に置くようにした。
ジンやウオッカなどは、台所にうつした。それは、秋ちゃんなら、料理にマディラワインを使うだろうし、ジンは台所の酒と認識しているだろうからだ。
ブランデー、上等なウイスキーは寝室に置いても良い。
マナー講師はいわないけれど、こういうことは、たくさん世の中にあるんだ。アメリカだって、老婦人はペプシは台所にしか置かない。
コカコーラがダイニングの飲み物であり、ペプシは台所の飲み物なのだ。
自称高級スーパーでも、マディラワインもおいていない、灰色の街。多くの人々が、青春をすりつぶしてきている。
出撃の日は、きっと来ない。
しかし、より厳しい日々を、自分も秋ちゃんも生きていかないとならないのだ。我々には、行く場所などないのだ。星があろうとなかろうと、誰も受け入れてはくれない。
魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅰ
別の日の「カルセスファー工房」にて。
「──という感じで、町の図書館に設置してある魔導機巧(※マギテクス)の置時計を、是非、あのカルセスファーの名を継いでいるミシェルさんに修理してもらいたくて、ですな」
「修理、ですか」
ショーケースの並んでいる店内のカウンター席を挟む形で、店の主であるミシェルと、身形のそれなりに整っている初老の男性が話をしている。どうやら少々深刻な相談らしく、男性の方が心底困ったという風な表情を浮かべているのが分かる。
「それは構いませんが、確か、お住まいの町の近くに工房を構えている同業者が居たと思うんですよ。その方に依頼なさった方が、費用も、近場ゆえに比較的お安く済むと思うんですが」
「ええ。もちろんその工房のマインテナさんにも依頼しましたよ。しかし、その工房にお願いして直してもらったんですが、またすぐにズレてしまって……」
そう言うと男性は鞄から何かを取り出し、カウンター上に広げると、指で軽くトントンと叩いた。
そこに目を向けると、上質そうな四枚の紙資料が置かれてあり、うち三枚の紙面には、置時計の一部を分解した際の工程や所感の解説図が。もう一枚には、多数の文字列と、マインテナが依頼を受ける際に捺印する上下左右が反転した工房独自の紋様と、複製防止用魔法の文様とが並んでいることが見て取れた。
「これが、その時の依頼書の写しと、先方から頂いた置時計についての情報です」
「拝見しても?」
「もちろんです。どうぞ」
「では……」
ミシェルは手袋をはめて、設計図の描かれている方の紙を手に取り、鋭い眼差しで内容を確認していく。そこには、恐らく工房の職人が調べて整理したであろう、置時計の大きさや構造体内部の状況、使用感、更には設置場所の屋内環境についての情報が記載されていた。
「……ふむ」
それら全てに目を通したミシェルは、軽く息を吐くと、何処か肯定的な雰囲気で一つ頷いてみせ、男性の目を見てから口を開く。
「記載されている内容自体には、特段、何かの問題があるようには見えませんね。僕が作るとしても、ほぼ同じ形のものが出来上がると思います」
「そうですか……。なら、どうしてなのでしょう?」
「うーん……。今の段階で考えられる可能性は幾つかあるんですが。大きくは二つで──。」
そこでいったん言葉を切ったミシェルは、足元付近にある引き出しを開けると、中に置かれてあった小さな箱状の金属体を取り出して机上に置いた。表面には、小さく「カルセスファー工房」の刻印が彫金してあるのが見える。
男性は、興味深そうにそれに目を向けている。
「これ、小型の『霊核(※コア)』なんですけど」
「これが『霊核』ですか。初めて見ました」
「まず見ないですしね。んで、これの中に魔力の結晶が封入されているんですが、それが劣化すると出力が不足してしまい、魔導機巧を満足に駆動させられなくなるんです。可能性の一つは、その置時計内にある『霊核』がそうなってしまっていると言うものですね」
「『霊核』の劣化……。それはどの程度の期間で発生するものなんですか?」
「僕が把握している限りでは、一般的な物で、だいたい十数年から二十数年ほどですね。使用環境や型式によっては、それ以上の期間保つものもありますし、品質次第では最初の数年で完全にダメになることもあるそうです」
「十数年……」
「そして二つ目は、部品の見えない箇所に損傷が起こっている可能性です」
「と言うと?」
「例えば、針を動かす役割を持つ歯車や車軸、固定具などに若干の歪みが出ていて、その嚙み合わせの悪さが全体のバランスに悪い影響を与え、ズレの原因になってしまっている、と言う感じです」
「あー、なるほど! 精密そうな構造ですからな」
「はい。僕の義父も、歯車仕掛けの不調は、まずはそこを疑えと常々言っていましたので。しかもこれ、厄介なことに見落としやすいんですよ。それを専門に勉強したマインテナでもなければ」
「ふぅむ……。可能性としては、その二つという事ですか」
「現段階では、と言う前置きが付きますけどね。実際の物を見ないことには、これ以上の判断はできかねます。もし正式に御依頼を頂ければ、現地に足を運び、喜んで分析もいたしますが」
「うーむ……」
男性が、ミシェルの優しくも業務的な言葉に、しばし考え込む。
しかし、この時の男性が考えていたのは依頼の是非ではなく、その依頼方法や費用の支払いなどの段取りについてだった。
そして数分の後。彼は顔を上げて、ミシェルの顔を真っすぐに見据える。
「分かりました。一度、出直します。正式な依頼書の作成と予算の捻出について、町の人間と話さなければ。大体一週間ほど掛かると思いますが、大丈夫でしょうか?」
「その時の状況次第では、御依頼の遂行が前後することもありますが、それでも宜しければ、御予約として承りますよ」
「有難う御座います。では、予約という事で」
「承知しました。それと、この時計の図ですけど。一度、僕の方でお預りしても? 次の御来店までに、可能な限り原因を洗い出してみようかと思っているんですが」
「よろしいんですか? 是非、お願いします」
「有難う御座います。では、大切にお預かりしますね」
そう言うとミシェルは、預かった図面をカウンターの引き出しの中に置いていた、艶のある塗りが施された箱の中へと収納する。
それは、契約書などの大事な書類を一時的に収納する際に彼が使っている物だった。
「では、出直してきます。相談に乗ってくださって有難う御座いました」
「いえいえ。またの御来店をお待ちしております」
こうしてミシェルの次の仕事は決定し、数日後、再び彼の腕が揮われることになるのだった。
魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅱ
図面を預かった日の夕方。
町での買い出しを済ませたミシェルは、店の扉に「CLOSE」の看板を掛けると、早速、図面の情報を解析する作業に入ることにする。
「取り敢えず、歯車と時計の主要部分のパーツを出しておこうかな。後は拡大鏡と、ねじ回しと、ピンセットと……」
作業場に臨んだ彼は、必要になりそうな物を一通り作業台へと持ち出し、並べていく。
歯車仕掛けの時計部分を構成する主要な部品類が一式。技師が良く用いる工具類。そして魔力供給機に接続された照明器具が一組。机の上や周辺に手際よく整えられていく。
「よしよし。始めようか」
全ての用意を終えた彼は、手袋を嵌めたうえで預かった図面三枚を机の上に広げると、片眼鏡型の拡大鏡を装備してから席に着いた。
そして、そのまま即座に集中と解析が始まる。
「…………」
沈黙、集中、のちに黙考。
先刻、男性の前でおこなって見せた簡易的な観察とは明らかに異なり、今のミシェルは、一つたりとも情報を見落とすまいと言う雰囲気が全身から漂っており、その視線が、資料の隅々にまで注がれていく。
そうしてまた、沈黙、集中、黙考と、同じサイクルを繰り返していく。
そして。
「……ふぅむ」
しばらく時間が経過したある時点で、彼はふと手を止めると、何かを確認するように資料のあちこちを軽く指でなぞり始めた。
(型式は、使われている部品の通し番号を見るに、帝国が新体制に移行してすぐに製造されたもの。『霊核(※コア)』部分には一度交換された形跡があり、周辺部品も含めて劣化は確認されず。時計の主要部分についても、修理の際に偶数番の歯車や車軸の交換が行われ、それが影響する可能性のある三十五番、三十九番、四十三番の歯車と固定具が調整済み、か……)
資料に記述されている図面模写や、修理を手掛けた人物による工程の説明文を頭に入れ、そのうえで、彼自身がこれまでに培ってきた知識や経験を総動員して情報を整頓・分析していく。
(やっぱり、特に問題は無いように思える。型式が新しく、構造の特徴ゆえに、ごくまれに起こると言う『霊核』の急速劣化も考えにくい。魔力の循環も正常に行われていると考えるのが妥当。うーん……)
自身の分析結果に首を傾げ、再び図面に目を向ける。
(だとすると。考えられるズレの原因は、見えない部分のトラブルか。はたまた交換した部品と既存の部品との相性が悪かったことによる不具合か。あるいは、『霊核』か魔力の通う主要構造部分に対して、間接的に何らかの力が影響を及ぼしたか。或いは──。)
書かれてある内容を頭の中で反芻しながら、あらゆる可能性に対して思考を巡らせる。
仮に発生する確率が万が一の事象であったとしても、それが原因で重大なトラブルが起こるのならば、発生について十分に考慮しなければならない。それだけ、魔導機巧(※マギテクス)と言う道具の扱いには慎重を要するのである。
しかし、必要なことだと言っても永遠に考え続けるわけにもいかないので、ミシェルは、ある程度の段階で考えるのを中断し、次のステップへと進んでいく。
すなわち、現状で出てきている案や疑問点の列挙と記録、そしてそれらに対する可能な限りの準備である。
「よいしょっと」
彼は、事前に用意していた時計の部品や『霊核』を、細かい作業のやりやすい台に運びなおして並べ、更に、準備していた冊子と筆記具とを手に取って、考えた内容についての記述を始める。
その時の様子は、機械で自動筆記しているのではないかと疑われそうなほどの手際の良さであり、先程まで彼が考え込んでいた様々な考察やイメージが、瞬く間に、冊子の上に図面や説明文などの、具体的な形となって積み上げられていく。
更に彼は、冊子に記述したパーツのミニチュア版とでも言うべき部品の図面を別枠で準備すると、作業場に置いている加工機型の魔導機巧を稼働させ、製造を始めた。
(これを叩き台にして、明日以降に検証もしないとね。仮に依頼が無くなって図面を返却・破棄したとしても、今後に活かせる情報も多く手に入るから無駄も少ない。うん、問題ないね)
しっかりと駆動して魔力の粒子を排気している加工機の様子を見据えながら、ミシェルは頷く。
「これで良し。後は部品の出来上がりまでにやれることをすれば良いかな。さて──。」
そう言って、そのまま加工機を周囲から隔離するように遮断カーテンを二重で引いた彼は、作業台に広げていた図面を整頓して専用の箱に収納すると、作業場を後にする。
そして夕食、翌日の予定の確認、完成した部品の取り出しと収納、入浴を終え、今日を終えるのだった。
水曜日の午後に
迷い込んできた雀が
ほんとうに哀れで
泣きたくなるような気持ちを抑え
彼の話を聞いていた
そこがどこかもわからず
雀は小刻みに首を震わせ
椅子の肘置きを
チョンチョンチョンと
三歩ほど歩く
少し飛んで
見えなくなったりもする
サッカーの話をする彼の
後ろを チョン
斜めを チョン
あ 私は言いたいのに言葉が出ない
迷い雀が 私らの後ろや 少し上を
飛んだり歩いたりしている
他のお客も無関心だ
水曜日の午後
程良く埋まる喫茶店で
雀を見たのは私だけか
それとも他の客達は常連で
それは「当たり前」の
ことなのだろうか?
よくあることだから
誰も気に留めないのだろうか?
少なくとも
私と彼は常連ではなく
むしろ初めて入った店のはずだ
なぜ 雀は居るのか
チョンチョンチョン
また数歩 かと思えばフワリと上へ
雀はどうして歩くのか
なぜ飛んで見せるのか
ここがどこかもわからないのに
私には見えている
雀が見えている
なのに他は 誰も見えていない
確かに
見えているだろう人さえ
見えていない
私は
雀の一生を考えるべきだと思った
生まれて死ぬまでの雀を
悲しく泣きたくなるような雀を
喫茶店には縞模様のソファに
淡い色のクッションが
まばらに置かれている
雀の休まる場所はない
チョンチョンチョン
店を出ても見えている
ずっと雀が見えている
彼の話はサッカーで
一周回って戻っている
微笑む顔が美しい
この世に雀などいないも同然
見てもいつもの迷い雀と無意識に
受け止めることができてこその笑顔だ
私もチョンチョンチョンと
歩いてみる
すると
そこら中が 雀だらけになる
彼は次に メロンの話をする
一周回ってまた
メロンの話になるかもしれない
私はもう 泣きたいとは
思わなくなっている
雀は 悲しくもなければ
哀れでもないと思っている
水曜日の午後3時ごろのこと
Tower of the Moon
This burnished volume of the city night,
Demands a spine to hold the blue half-light.
My soul, the fragile marker, deeply set,
Between the frantic rage and the regret.
The floor is thick with sound, the air is thin,
I fold the page where all the truths begin
To warp and lose their name. This moment seized,
A lunar bookmark, momentarily appeased.
I slip the silence back into the day,
Until the next deep chapter calls away
手に馴染んだスマートフォンの筐体が、体温を超えた熱を放っている。今日のニュースフィードの残響と、無数のメッセージの「応答」が、指先を焼く。私たちの日常は、この小さな画面の中で消費されることへの、果てしない儀式だ。そして、この意味を欠いた連続が、内側に未処理のまま積もっていく――錆びた感情のヘドロ、都市の排水管に詰まった、「未分化の苛立ち」と、言葉になれない、渇きとして。
私は、太陽の直裁的な「肯定」と「断定」に適応できない、この都市の裏側でのみ呼吸を許された、月の幼子だ。だから、夜の青い照明、輪郭が溶解するような影の中、誰も見えない場所へと、身体を滑り込ませる。月光が降り注ぐ、人工的な原野。
鉄扉が開く瞬間。瞬間的に、空気がねじ切られる。低音の振動が、皮膚を突き破り、骨髄の奥へと響き渡る。これは「物理的な圧力」だ。酸素の薄い空間、赤と青のストロボ光が、視覚という名の脆弱なセンサーを、意図的に破壊しにかかる。理性を解体するための、集団的な儀式。答えは明白だろう。この内側で発酵し、今にも爆発しそうな都市の「沸騰点」を、一過性の炎で燃焼させるため。それは、私という名の、小さな原子炉の暴走を止めるための、唯一の緊急排出口。群衆の中に、匿名の原子として、身を投げる。誰もが皆、孤独な粒子でありながら、一つの巨大な「分子の動き」に合わせて揺れている。ここでは、私の職業も、フォロワー数も、社会的な役割も、すべてが意味を失効する。残るのは、ただ脈打つ、質量へと還元された身体と、音という名の波だけ。
目を閉じる。重いキックドラムの音は、心臓の奥底で鳴り響く、強烈なメトロノームだ。それは、私を操る、見えない月の引力への、従属の言語。このリズムだけが、私が世界とできる接点。狭いフロアで、世界の不条理、未来への不安、自己嫌悪、そして、誰にも届かない「叫び」を、無数の音の粒子に分解し、空中に放つ。この行為は、集団的な浄化であり、同時に、私たちの存在を証明するための、光の消費だ。私たちは、自らのエネルギーを、積極的に、意味のない音の粒へと変換し続けている。
音楽が最高潮に達する瞬間、理解する。この都市の沸騰点は、外部の何かへ抗うエネルギーではない。むしろ、世界がこのままであるという、受け入れがたい真実を一瞬だけ忘却し、「月光」のような淡い希望に身を委ねるための、最後のアネスセシア。踊ることで、私たちは、自らの無力さを、集団的に肯定している。
鉄扉を抜け、シンと静まり返った早朝の裏通りへ。地下の酸素の薄い熱とは違い、外の空気は、肌に冷たい微細な刃物のように触れる。身体に残るのは、疲労と、耳の奥で鳴り続ける高周波の残響だけ。この残響こそが、私が夜明けに持ち帰る唯一の「手土産」だ。
熱狂を求めていたのではない。「諦め」と「希望」の間に漂う、微細な静寂に変えるための、バルブを探していたのだ、と、今、気づく。
スマートフォンを開く。画面のブルーライトが、再び私の顔を無感情に照らす。世界の現実は何も変わっていない。ニュースの見出しは、まだ争いと、悲しみと、無関心で満たされている。
だが、私の内側は、静かだ。微かな余白が生まれている。この余白こそが、私にとって最も重要なもの。それは、ノイズの砂漠で、昼間の光に耐え、次の夜まで生き延びるための「酸素ボンベ」だ。
私は、静かなアスファルトを踏みしめ、帰還する。耳鳴りが、微かなメロディへと変わる瞬間を待ちながら。次の月の光が私を呼ぶ日まで、私はこの静寂を、ひっそりと抱きしめて眠るだろう。世界は、今日も明日も、都市の沸騰点で満ちている。だが、私には、一晩分の「静寂」がある。
この微かな静寂こそが、私が世界に抗うための、唯一の武器なのだ。それは、誰にも見えない、私の小さな、残響
【自由詩】うつくしいひ
ものを 言わない ことでうまれる
言葉を 言語と よんでいる
音をねかせた 高い空
静寂は 鳴りやまない
煙の匂ふ冬であれ
煙の匂ふ冬であれ
ものを 言わない ことでうまれる
言葉を 言語と よんでいる
音を たてない ことでうまれる
無音を みせる いま
どんちゃかどんちゃか
どんちゃかどんちゃか
やって来る、初雪を踏み締めて
赤い面だ、青い面だ、それから緑の面だ
あれは誰か? 聞かれても
よく、わかんねぇんだよ
どんちゃかどんちゃか
太鼓を叩き、笛を吹き、踊ってるから
どんちゃかどんちゃか、て呼ばれてる
初雪の日にやって来て
気づけばひとり増えたりひとり減ったり
そうしているうちに去っていく
数えんな、数えんな、いいこたぁねぇから
魔の間のモノら 最終話『鴉魔 ~karasuma~』
生前、俺が住んでいた所にも雪は降った。
大した量ではなかったが、冬になれば、ちらほらと白い物が空から落ちてくる。
そんな、冬を間近に控えた秋の暮れ。
俺はいつも通り、一本の紐の上に乗っかっていた。小高い山の際に張られた黒い紐で、その下には石より硬く冷たい棒が2本、遠くまで敷かれている。それらの名前が電線や線路なのだと知ったのは、俺が黄泉へと下ってからの事だった。
時折、うるさい音を立てる、でかい怪物が通り過ぎる以外は静かなここが、俺にとっての居場所。
日が昇る時は東を向いて、日が沈むときは西を向く。風が吹けばそちらを向いて、雨が降れば……まあ、どっかで身を縮こまらせるわな。
電線の上で食べ物を探しながらきょろきょろしている時だった。線路の両脇に張られたフェンスを越えて、一人の人間が線路の内側に入ってきた。
珍しい事もある物だ。他の動物なら、たまにどこからか迷い込んで来ることもあった。いや、人間も夜に複数人で、まぶしい程の明かりを付けてドタバタとやる事はあったが、一人で、しかも日が沈む前の夕方に内側を歩いているのを見たことはなかった。
うろうろとしていたその人間は、やがて俺の真下で腰を下ろした。そして、何を思ったか寝転がり、直後に飛び起きた。
人間は身に付けていた分厚い上着を脱ぐと、それを線路の上に置いて再び寝転がる。頭がちょうど敷いたコートの上にあった。
ああ、納得。今の時期、線路はめちゃくちゃ冷たいのだ。そりゃあ知らずに頭を乗せれば、飛び起きもするだろう。
大の字で空を見上げる人間は、予想に反して女だった。線路に来るのはいつも男達だったから。
寝転がったくせに、女は眠るわけでもなく、ただただ空を見上げていた。
空に何かあるのだろうか。俺も女にならって空を見上げた。
何もなかった。
赤い空と、赤い雲。白と黒の大きな雲。いつもの空だった。それとも俺が見つけられないだけか? 鴉が視力で人間に負ける訳にはいかない。俺は目を大きく見開いて、あるはずの何かを探し始めた。
結論としては、空には何もないことがわかった。
その答えを得た代償は、変な角度で曲げていた首の疲労。俺もひっくり返って空を見ればよかった。
なんでぃちくしょう、と視線を下に戻すと女と目があった。女は空から俺に観察対象を移していた。
不意を突かれて、俺も女を凝視してしまう。
綺麗な瞳だった。鳶色がかった黒は、この距離においても凜々しい輝きを見せていた。相手が目を離さなかったので、俺も見返し続ける。見つめられていることに不快感はなく、なぜか心が温かくなる気がした。
女が動いた。
右の手を上げて、左右に振り始める。
俺は首を傾げた。何をしているのかがわからない。そこには何もないのだから、手を突き出した所で触れるものなどない。まして、左右に振った所で何にも当たりはしないのだ。
今度は両手を上げて、二つの手を左右逆に振り始める。
俺は更に首を傾げた。ますます意味がわからない。
何に満足したのかはわからないが、女はにこにこしながら腕を下ろした。そして、小さな口を開いて言った。
「※※※※」
わからなかった。当然だ。わかるはずがない。この当時、俺は普通の鴉だったのだから、人間の言葉なんてわかりっこない。
それでも、女は俺に話しかけた。
人間は頭のいい動物で、俺等なんかよりよっぽど悪知恵が働く。その人間が、鴉と人間の言葉は違うのだと知らないはずはない。しかし、女は視線を合わせながら、間違いなく俺へと語りかけてくるのだった。
その目をずっと見ていたい。
視線を外されるのを嫌がった俺は、相手の話を理解しようと頑張った。
一人語りが始まってしばらく経つ。
しかし、俺に理解出来た話は一つとしてなかった。
さすがにくじけそうになった時、女の話し方が変わった。
「※※※?」
何か短い言葉を発して、後ろの語尾を上げたのだ。
「※※※?」
何だろう。今まで出てきたことのない話し方で、その言葉を繰り返すようになった。
「※ ※ ※?」
今度は1音1音、区切ってゆっくりと話しかけてくる。
今、視線は間違いなく交わっている。俺の目を覗き込むように見つめながら話している。俺だって意思の疎通をしてみたい。だが、全く意味がわからないのだ。雌相手に見当違いの返事をする程、危険なこともない。機嫌の導火線に火が付く事だって珍しくないし。
じゃあ、無視するのがいいか。それこそ地雷を踏む行為。
「※ ※ ※?」
女は返事を待っていた。
俺は焦りながら必死に考えたが、上手い答えなんて思いつかなかった。自分が情けなくなる。
帰ったら目一杯落ち込もう。そんな思いで があ と鳴いた。
女は目を見開いた。
馬鹿にされるだろうか? 笑われるだろうか? 情けなさと恥ずかしさで目を背けたかったが、それももったいないと思う。
しかし、俺の予想は外れ、女の顔がふわりと緩んだ。
目は細くなり、目尻に皺が寄り、口は横に微かに開かれる。
花弁の柔らかい、小さな花が開いていくかのような柔らかな表情だった。
人間の笑い顔という物を知らなかった俺だが、女が喜んでいることだけはわかった。
ちょっとだけ、意思の疎通が取れた気がした。
俺は嬉しくなって、必死に耳を澄ました。語尾が上がる瞬間を聞き逃さないように、と。
「※※※※※?」
「があ」
女の顔が綻んだ。
「※※※? ※※※※ ※※?」
「があ。があ」
女の頬が緩むたび、俺の心は温かくなった。幸せだった。
例え何を言っているのか、わからなかったとしても。
幸も不幸も、時間が壊す。
俺達の間にも無粋な時間は流れていた。
山の陰に怪物の明かりが見えた。奴がやってくる時間だ。
「があがあ、があ!」
何の脈絡もなく鳴き出した俺に、女は首を傾げてみせた。そんな顔をされてもな、もう帰る時間だぞ?
「があがあ、があがあ!」
言葉だけでは通じないかもしれないと、怪物がやってくる方向を向いて があがあ 鳴いた。さすがにこれでわかるだろ。
そう思ったが、女の表情は変わらずにぽかんとしている。驚いた顔のまま動く気配がない。
(おいおい、気がつけよ。奴が来るんだよ。でかくて固くて手も足もない化け物が来るんだよ。そこに居たら喰われるぞ?)
「があがあがあ! があがあ!」
センス溢れる俺の身振りは種族の枠を越えた。どうやら女も気が付いたらしく、奴が来る方向を向いた。
そして、
「※※※※?」
俺に向き直り何かを言った。
さすがに今回は、言いたいことがわかった。
(そうそう。奴が来るから、喰われたくなければさっさとよけた方がいい)
があ、と鳴いて重々しく頷いてやる。
だが、何を勘違いしたのかそれを見た女は盛大に吹き出した。そして楽しそうに笑い出す。
「あははは。ばーか」
カチンときた。そりゃあ何を言ったのかはわからなかったが、それでも馬鹿にされた事だけは十分にわかった。
(テメー、鴉様が心配してやってるってのになんだその態度は? そこに居たら危ねーって言ってるんだよ。人間ならそれぐらい気が付けっての。いいか? あの怪物にはどんな奴も敵わなかったんだよ。狸や狐だけじゃねー、ここいらじゃ一番足の速い鹿や、図体の大きい熊だって、怪物には刃が立たなかったんだ。お前はどうせ柔らかい布を着て大きく見せてるだけで、中身は細っこいんだろ? お前みたいなひょろっとした奴じゃ勝てっこねーんだ。さっさと道をあけてやれ)
「ぎゃあぎゃあぎゃあ――」
腹が立ったから、それはそれは盛大に鳴いてやった。
しかし、俺が鳴けば鳴く程、わめけばわめく程、女は腹を抱えて笑い出す。そして楽しそうに、嬉しそうにこう言うのだ。ばーか、と。
俺は鳴くのを諦めた。
気が付いていないわけがない。
遠くから怪物の鳴らす笛の音がする。
地面に足音が響き渡る。
気が付いていないわけが無かった。
それでも、女は動こうとしなかった。
俺が大人しくなったのを見て、女はうんうんと頷いた。
女が続きを語り出す。俺は黙ってそれを聞いていた。
もう返事はいらないらしい。語尾が変わることもなく、ただただ静かに語っていた。
その声を皆が聞いていた。俺も、草木も、風も、大地も、空でさえも静かに耳を傾けていた。誰も理解出来ない、寂しい語り。
一陣の風が吹いた。
枯れた茶色や黄色の葉が、女の姿を隠してゆく。
ガタガタと足音を響かせて、山の陰から怪物が顔を出した。まぶしい光が迫ってきて、女の顔を照らし出す。
それでも語ることを止めない女の黒い瞳は、最後に俺にこう伝えた。
「全部消してやるんだ!!」
と。
巨大な怪物が、誰より先に悲鳴を上げた。
女の悲鳴は最期まで聞こえなかった。
案の定、騒がしくなった。
人間達が集まりだして電車の周りが照らし出される。
俺はその明かりを尻目に、近くの草むらに嘴を突っ込んでいた。最期の瞬間、どういう偶然か、女の首が綺麗に切断されて、頭だけが飛んでこの辺りに転がったのだ。その瞬間まで見ていた俺は気が付いたが、人間達は気が付かなかったらしい。
人間達の明かりのせいで、光が届く場所と届かない影の場所が鮮明になりすぎている。濃すぎる明暗は、月明かりよりむしろ見にくかった。奴らより早く見つけたい。俺は目を凝らした。
点々と散らばる血糊を見つけた。ここだ。茂みの中に体を突っ込ませる。
真っ赤に染まった草を押し倒して、女の顔が横を向いていた。口は開き、舌が垂れて、目はくるりと上を向いている。
ああ、この目だ。動かなくなっていても、その目に宿る凜々しさはまるで損なわれていなかった。その瞳の強さは、諦めない意思の固さ。見ているこっちが心地よくなる程だった。
渡したくない。
誰にも渡したくない。
多分この時だ。俺が『執着』の業を背負ったのは。
一晩掛けて女の頭を転がした。
人間共に渡してたまるかと、嘴を使い、足を使って山の上を目指しながら転がした。
日が昇り、怪物の姿が見えなくなった頃、俺は疲れ果てて女の頭を抱えたまま眠りについた。
次の日、目を覚ました俺は女の頭をついばみ始めた。せっかくここまで持ってきたのに、地虫に喰われるのも面白くない。気は進まなかったが、自分で食べる事にしたのだ。
美味しくはなかったが、マズいわけではなかったと思う。目を食べるのには躊躇したが、俺が食わなきゃ、他の奴らが食べるだけ。やむを得ず一息に飲み込む。
丁寧に肉をそぎ落とすと、白い頭蓋骨が現れた。
正面から顔を見つめると、黒い瞳の幻がはっきりと像を結ぶ。それだけで満足できた。満たされたのだ。
その日から、俺は一日中、頭蓋骨と共に生活するようになった。
そして、何日も、何年も過ぎた。
春の地虫を追い払い、夏の日差しから守って、秋の飢えた獣共の目から隠し、体で抱いて冬を越す。
頭蓋骨を狙う狼を追い払うだけの力が欲しい。願えば願う程、体は大きくなった。
雨から、雪から白い肌を守ったやりたい。願い続けた結果、翼は四枚に増えた。
いつの間にか俺は鴉を止めていた。
……いや、俺は鴉のままだ。変わったつもりは、ない。
ある冬の日だった。
雪が舞う中、一人の女が俺のいる所まで上ってきた。
いや、正確には人間では無かった。
沼さえ凍ってしまう様な季節に、体のほんの一部しか覆っていない服を着て、この山を登る人間なんていない。背中に大きな翼を背負った人間なんかいる訳が無い。頭の横から2本の角が生えたモノが人間であるはずがない。
この人間もどきは、きっと俺の大切なものを奪いにきたんだ。
俺は大きく息を吸い込んだ。
一声鳴いて山から転げ落としてやろうとした時、そいつの陰に一人の女の姿が見えた。浮遊して、向こう側が透けている女は、見間違えようもなく頭蓋骨の持ち主だった。
なぜ透けているのか。恐らく死んだからだろう。死んだ生き物の中には、ああして透けた体でうろつくものがいた。彼女もその連中の仲間入りをしたのだと思う。
このまま声を飛ばしてやれば、透けた彼女まで消し去ってしまうのではないか。俺は吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
「あなた、面白い姿をした鴉ね」
角の生えた人間もどきが、鴉の言葉を喋った。いや、頭の中に直接声が響いてきた。
「お前、誰だ?」
「初めまして。私の名前は桃花。『悪魔・餓鬼』よ、よろしくね』
悪魔? 聞いたことがない。もっとも、鴉の知識なんて人間とは比べものにならないくらい浅いが。
「その悪魔が、俺に何の用だ?」
「あなたが大事そうに抱いている骨なんだけど、それは彼女の骨でいいのかしら?」
やはりこの頭蓋骨が目的だったか! これは誰にも渡さない。再び息を吸い込んで、思いっきり声を叩き付けてやった。
しかし、大きく羽を広げた悪魔は正面から受けたにも関わらず、2,3歩後ろに下がっただけで踏みとどまった。
(そんな馬鹿な。俺の声は熊すら転がすんだぞ)
体が大きくなった頃から使えるようになった声による吹き飛ばし。今までこれに怯まなかった獣はいなかった。驚愕の中、俺は気が付いてしまった。悪魔が翼を広げた理由は衝撃を和らげるためではなく、後ろにいる透けた人間を守る為だったのだと。
「へえ、面白い力がある妖魔ね。ねえ、鴉さん。取引をしませんか?」
目を見張るほど妖艶な笑みだった。対する俺は、舐められないように虚勢を張るので精一杯だった。ぎろりとにらみ付けてやる。
「取引?」
「そうよ。あなたにとってその頭蓋骨は大事な物なのでしょう? その骨を保管するのに最適な、安全で安心な場所を提供するわ」
願ってもない条件だ。問題は対価と――
「それで、取引のもう半分は?」
「マルクス、私の彼のペットになる事。ペットと言っても何をするわけではないわ。ただ少し仕事を手伝ってもらえればいいから」
――悪魔という者が信用に値するのかどうか。
「いくらあなたが必死に守っていても、野外に置いておく限り、その頭蓋骨はいずれ朽ちるわ。あなたより先に、ね」
俺はその条件を飲んだ。
「君は、また随分と面白い者たちを見つけてきたね」
連れてこられたのは真っ暗な部屋。ソファーに座るのは、真っ白く胡散臭い男だった。
「妙に生気のある幽霊と4翼の鴉の妖魔。幽霊に生気があるのは、死んだことを認識できていないからだろうけど、鴉の方は一体どういう生き方をすればそんな姿になるんだろうね」
「ペットが欲しいって言ってたからついでに拾ってきたんだけど。どう? 使い物になりそうかしら?」
この男のペットになるのが条件か。
白い男、マルクスは細い棒みたいな物をくるくる振りながら話した。
「能力からすれば、鴉の方を部下にして、娘の幽霊をペットにしたいぐらいだけどね。まあ、いいだろう。どちらも僕の部下にしよう」
どんどん話が進んでいく。俺は口を挟んだ。
「おい、待てよ。取引はどうした。無償で手下になる気はないからな」
「取引?」
首をひねるマルクスに、桃花と名乗った悪魔が、そうそう、と言って手を叩く。
「鴉ちゃんと取引をしたのよ。彼が足に持ってる頭蓋骨はこの幽霊の頭なのよ。出会ったときは雪山で大事そうに温めていたわ。随分とご執心みたいだから、保管場所を提供する代わりにペットになってと取引を持ちかけたの。ねぇ、マルクス。部屋を一つ作ってくれないかしら」
「なるほど」
マルクスの振る棒が、規則正しいリズムを刻みだした。
「鴉はすでに業を背負っているのか。その名は……『執着する』。面白い業だ。いいだろう。何にも邪魔をされない部屋を用意しよう。そっちの幽霊にも体を用意しなければならないな」
「この女に体が付くのか?」
女の幽霊を見ると、どこかの虚空に視線を合わせ、放心したまま揺らめいている。
「もちろん。この幽霊体じゃ、仕事にはならないからね。もしかして、君の執着の対象は彼女の方だったのかい?」
透けて存在が希薄になっている幽霊の瞳に、あのときの力強さはかけらも見いだせなかった。まだ、頭蓋骨と向き合っていた方が、あの時の凛々しい瞳に出会える。
「いや。俺にはこれだけあればいい。他には何もいらない」
本当に執着しているのは頭蓋骨ではなく、あの瞳の方なのだろう。
「ほう、強い業だ。妖魔にしておくには少々惜しい。ただ、悪魔になるには生きたままだと無理で。そんな訳だから、君には正式に黄泉へと下ってもらおうかな」
白い棒がくるりと円を描く。俺の視界が一瞬ぼやけた。何だ、と思うまもなく、元の視界に戻った。いや、暗くてよく見えなかった部屋が、まるで昼間のように明るく見え始めた。
「俺に何をした?」
「気にするほどのことではないさ。死んでもらっただけだから」
気軽そうにそんなことを言った。
「おめでとう。これで君は鴉の妖魔から『悪魔・告死鳥《こくしちょう》』にランクが上がった。悪魔の仲間入りだよ」
「勝手なことを言うな」
俺はマルクスをにらみつけた。
「俺は鴉だ」
そう言うと、マルクスは面白そうに俺を眺めるのだった。
マルクスが俺と幽霊に名前を付けた。
俺には『我鴉』。
鴉と名乗るもの、という意味らしい。
幽霊には『マナ』。
本当の名前、という意味らしい。
俺に異存は無かったし、幽霊に異論を唱えるほどの意識はなかった。
マナの体が出来上がるまでの間、桃花がマナの幽霊体を抱いて、耳元にずっと囁いていた。
「あなたの名前はマナよ。可愛い可愛いマナ」
マルクス曰く、洗脳しているらしい。娘が意識を付けた時、マナという名前に対して違和感を覚えなくなるのだそう。
そんな連中を横目に、俺は与えられた部屋へと向かう。
だだっ広い部屋だった。何もない、空虚な部屋。
部屋の真ん中に頭蓋骨を置いてみる。
そこは全てが満たされた部屋となった。
俺は今までのように抱えて眠る。
これからも変わることはないのだろう。
これ以上の幸せは、思いつかないのだから。
*******
今月はまだ終わっていない。
俺たちのアルテミス領禁足令は続いていた。
暇を持て余してマルクスの所へ向かう途中、桃花に会った。
様子がおかしい。焦点の合わない目は翠に怪しく光り、足取りもふらふらとおぼつかない。体に浮き上がる緑色の悪魔の印はこれ以上ないほど輝いていた。
何より、口元から胸にこぼれ続ける赤い血が、彼女の正気を疑わせる姿にしている。
どうやらマルクスと寝ていたらしい。いつもなら、ちゃんと小綺麗な格好に戻してから部屋を出るのだが。
「桃花? おい、桃花?」
ゆらりと俺に向き直った桃花は、ぼんやりした目で俺を見つめる。
「正気に戻れって。またマナに引かれるぞ?」
マナはまだ悪魔の性質に慣れていない所があった。
ここに来た当初、桃花に用事があってマルクスの部屋を訪ねた時のことだ。桃花とマルクスが恋人同士で一緒に寝ているという事から、マナは二人が交尾をしているんだと思ったらしい。真っ赤な顔で二人の元へ行ったマナが目にしたのは、マルクスの腕を引きちぎって、がっついている桃花の姿だった。
桃花にとってはいつもの事。しかし、マナは盛大に悲鳴を上げて逃げ帰り、それからしばらくの間、桃花を微妙に避けるようになった。今でこそ、桃花の『食べる』業に慣れつつあるが、まだ血塗れの桃花を見るのは抵抗があるらしい。
こんな桃花の姿を見れば、どん引きするだろう。
目の前で翼を振って見せたが、桃花の反応は虚ろ。俺の翼を掴んで広げ、舌足らずな声で言った。
「とり……肉。ふふ、鳥」
「うわっ! があ!」
噛みつかれそうになって、俺は桃花の顔に声を叩きつけた。力は抑えたが、頬を張られるぐらいの衝撃はあったはずだ。キャッと悲鳴を上げて俺を落っことす。
「あれ? ガーちゃん?」
正気に返ったらしい。
「目に色が付いてるぞ? 口元は真っ赤だし」
「え? ほんと? え~と、ここどこ?」
俺は状況を説明したやった。
納得した桃花は目を正し、口元を手でふき取った。いや、ふき取ろうとして余計に悪化させていた。
「マルクスの所にいたのか?」
「そうなの。途中から記憶を飛ばしちゃったみたい」
「あんまり見えるところを食ってやるなよ? 訪問してきた奴らがびっくりするから」
今日は右腕、翌日は左足が無くなっている。そんな状況を見れば、一体何と戦ったんだ? と聞きたくなるのも無理はない。
もちろん同情からではなく、あのマルクスにここまで深手を負わせるような奴がこの辺をうろついているのであれば、しばらく外出を控えようと思うのは当然。
「マルクスの再生能力だって、限度はあるんだし」
「わかってるわよう。そんな目立つところは食べてないから。多分」
「多分?」
「だって」
桃花はちょっと照れながら言った。
「目隠しされて、後ろ手に縛られてたからどこ食べてたかのは、ちょっと」
どっちもどっちだな、おい! もう好きにやっててくれ。
「ガーちゃんはマルクスに用事?」
「そのつもりだったんだけどな。暇だからダーツでもやろうかと思ってたけど、マルクスの容態を見て決める」
もし腕が無くなっていたら、ダーツは出来ない。一人でやっても面白くはないのだ。
「暇なの? あの子とはちゃんとおしゃべりしてる?」
「あの子?」
どの子? マナのことか?
「マナの本体の子よ。ガーちゃんのお部屋にいる子」
「おいおい、薄気味悪いこと言うなよ。俺の部屋には誰もいないだろ。それにマナの本体って何だ? いつからマナは分身出来るようになったんだよ」
そんな話は聞いたことがない。
そう言うと、桃花は驚いた顔を見せた。
「え、誰って。あの子よ。もしかして、まだガーちゃんの前では喋ってないの? 悪魔になってから結構経つのに」
「待て待て。俺にわかるように話してくれ。俺の部屋に侵入者がいるって事か? それは大問題だぞ?」
問いつめたが、桃花は柔らかな笑みを浮かべたまま、どこかに意識を飛ばして帰ってこない。
「そっかそっか。業である執着の対象が変質しちゃったら、ガーちゃんのアイデンティティーに関わるもんね。でも、そうするとあの子は一生喋らないつもりなのかしら。う~ん、これこそ愛よね~」
血塗れの裸の悪魔が、くねくねと身悶えしている。どんなコメディーホラーだ。
「ガーちゃんは、いいお嫁さんを見つけたわねー」
真っ赤な手で、俺の頭をつんつんつついてくる。その手を払いのけながら、俺は抗議した。
「人の話を聞いてくれ、鴉の話を聞いてくれっての。ちゃんと会話してくれよ。あと、勝手に嫁を作らないでくれ。俺にも選択の自由を残せよ」
マルクスと楽しんだ後だからなのか、妙にテンションの高い桃花との攻防は10分くらい続き、最後に思いっきりハグをされてようやく解放された。結局その侵入者らしき者の話は聞けなかった。得られたのは、血に染まった翼だけ。
「ガーちゃんの業って深いわよね」
しみじみと、そんな事を言う。
「いや、そんな格好の桃花に言われたくないし。そもそも、業の深さでいったら、マナの『聞く』が一番だろ。あれだけグシャグシャ踏み潰してるんだから」
そう反論すると、桃花は首を傾げた。
「確かにマナの業も深いと思うけど、マナの業は『聞く』じゃないわよ?」
今度は俺が首を傾げる番。
「あれだけ悪魔の頭を踏みつぶしておいて、業じゃないってのか?」
「そうよー。あれは趣味みたいなものだから」
趣味!? 随分と悪魔らしい趣味じゃないか。俺の視線から思考を読みとったらしく、桃花はマナのフォローに回った。
「マナのあれは恐らくガーちゃんが関係していると思うんだけどなー」
「俺?」
身に覚えはない。
「だってガーちゃん、マナの頭蓋骨を奪ったじゃない。だから電車に轢かれたマナは、自分の頭が壊れる音を聞いていないのよ。自分が死んだことをちゃんと認識できていないから、何となくもやもやした感じがあるんじゃないかな」
「何だ? 人間は自分の頭の潰れる音を聞かないと、死んだこともわからないような動物なのか? そんな話は聞いたことがないけどな」
今まで人間の話を聞く機会は多かったが、そんな話は初耳だ。
「うん。もちろん全員がそうだとは言わないけども。心って頭で形成するじゃない。だから、マナの心は死にきれていないんじゃないかな。生との決別のために、無意識に自分の頭が潰れる音を探してるんじゃないのかなって」
そう思うのよ、と続ける桃花は、にやにやとこっちを見ている。
「ガーちゃんの持ってる頭蓋骨、マナに潰させてみない?」
「ふざけるな! 絶対に嫌だ。あれは俺のだ。俺が拾ったんだ」
そう言うと、桃花は笑った。
「ほら、やっぱりガーちゃんの業は深いじゃない」
誰に何を言われようが、あれを譲る気はない。少なくとも、俺の目の黒いうちは。
「じゃあ、マナの業は何なんだよ」
聞く事じゃないとなると、他には思いつかなかった。何かと一緒にいることの多い俺が気が付かないなら、ほんとうに些細なことなんだろうか。
悩む俺に、桃花が答えた。
「マナの業は『忘れる』よ」
忘れる? 忘れることが業になっているのか? いまいち釈然としない。
「忘れるって業になるようなことか?」
「それはそうよ。恩も義理も借りも情も、縁でさえ忘れてしまうのよ? 業にふさわしいと思わない? もう20年もしたら、マナちゃんは自分が人間であったことも忘れると思うわ。その先まで覚えていられるのは、常に一緒に居る私たちぐらいじゃないかしら」
一つ息をついて、桃花は言った。
「業は特別な事じゃないわ。皆が持っているものよ。ただ、それが行きすぎると、こんな感じになっちゃうの」
桃花が赤い両手を広げてみせる。
なるほど、そんな考えもあるのか。何事も程々に、そんな話なんだろう。
俺の頭をさらり撫でた桃花は、ふわりと浮き上がった。
「ガーちゃんの所にいる子、大事にするのよ? あんないい子は他にいないんだから」
そんな台詞をおいて、湖の方へと飛んでいく。
結局『あの子』がどの子なのかは聞けずじまいだった。
俺も湖で水浴びしなければ。桃花に触られた羽が、赤黒く変わっていた。
だが、とりあえずはダーツをしに行こう。
俺はマルクスの元へと向かった。
マルクスは真っ白なソファーの上にいた。
「やあ、我鴉。どうしたんだい?」
上半身だけで。
へそから下が見事に喪失していた。かろうじて残っているのが左の足首より下。それを手で弄びながら、マルクスはいつも通りに声をかけてくる。
引いた。
悪魔の性質に慣れていないマナを笑えない。いや、おかしいのは俺の方じゃないだろ。こいつら悪魔がおかしいんだ。
「はあ。幸せそうで何よりだな」
俺はため息を吐きながら暗い部屋を後にした。
*******
歌が聞こえる。
女の声が鴉の歌をうたっていた。
声は問う。鴉はなぜ泣くのかと。静かなメロディーだが、随分と哲学的な歌だった。
自問した声は自答する。
女が歌うには、鴉が泣くのは山に残してきた仔が、可愛すぎて可愛すぎて泣くのだそうな。
どうしようもない歌だった。
「ふざけんな! 鴉はな、そんな女々しいことで泣いたりしねーんだよ。適当なことを言ってんじゃねー」
自分の声で起きるという、世にも珍しい体験をすることになった。
「くぁー……ふ」
あくびと一緒に背筋を伸ばす。
真っ暗な自分の部屋。当然、俺以外誰もいない。
どうやら俺は、夢で聞いた歌に対して文句を言っていたらしい。格好悪いまねをしてしまった。
もう一眠りすれば、行動制限も解除される頃になるだろう。俺は頭蓋骨に身を寄せて、もう一度夢を見るべく目をつむった。
と、背後で扉の開く音がした。
この部屋を訪れる者は桃花ぐらいしかいない。そして、桃花は事前に連絡を入れる。
侵入者。
ぱっと振り返って、大きく息を吸い込む。無駄に広い部屋は、頭蓋骨を置いてある場所から入り口の扉まで20メートルほどあった。俺の声がその距離を駆ける。
入り口から侵入を試みるくせ者は、正面から声の衝撃を受けて、悲鳴を上げながら吹き飛んでいった。ゆっくりと扉が閉まる。
今の悲鳴、もしかしてマナか?
しばらくすると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
おそるおそると開かれた扉から顔を覗かせたのは、案の定マナだった。
「ガー助、今いい?」
「おう」
マナがここに来るのは初めてだった。きょろきょろと周りを見ながら入ってきたマナは、俺にジト目を向けてきた。
「そりゃあさ、ノックしなかったのは悪かったと思うけど、なにも全力で吹き飛ばさなくてもいいじゃない」
「あー。悪かったよ」
いきなり扉が開くなんて初めてだったから、こっちもびっくりしたんだよ。ばつが悪くなって意味もなく翼をはためかせてみる。
マナは何かないかと、あちこちに視線を巡らせながら近づいてきた。
「ほんと、なんて言うかペットは主人に似るって言うけど、それを地で行ってる部屋よね」
「それ、誉めてないよな。てか、あんな変態と一緒にするなよ。俺はマルクスと違って、来客者に恐怖感を与えるために暗くしてる訳じゃねーし。なにも見る物がないから明かりを必要としないのであって」
マナの視線が俺の足下に向いた。
「あ、それ人間の頭蓋骨じゃん」
「俺の大事なものだ。潰すなよ?」
「潰さないって」
頭蓋骨を見たマナの反応は特におかしな所はなかった。それはそうだ。頭蓋骨を見て、これは自分のじゃないかと思う奴はいないだろう。
マナはしゃがみ込んで、頭蓋骨と正面から対峙している。
「好きだった人の骨とか? あ、それとも初めて殺した人の骨を記念として持ってるとか?」
「おまえはマンガの見すぎだ。気に入ったから拾っただけ。俺が殺した訳じゃないし」
むしろ、頑張って死ぬのを止めたんだけどな。
じーっと、頭蓋骨と向かい合うマナ。なんだか不安になってきた。もし自分のだと気が付いて返してと言われても、返す気はない。出来れば気が付かれたくなかった。
俺は話題を変えた。
「で? 何の用だ」
「そうそう、また応援要請が来たのよ」
マナは立ち上がって、興奮気味に言った。
「応援要請? またアルテミスか? しつこい奴だな」
「それがね、そうじゃなくて。私たちが担当してる国に関わる全ての悪魔に応援要請が来てるのよ。かなり上位の悪魔から。名前なんだっけ? 『悪魔・大太法師《だいだらぼっち》』だったかな」
「そいつは上位って言うより、ただ大きいだけだと思うけどな」
元々は国を代表するような妖魔の種族だったのだが、人間達の土地開発により住処を失い黄泉へと下った奴だ。大きさだけで言えば、他の追従を許さない身長の持ち主で、不二山に腰を掛け、海で手を洗ったとか何とかと自慢していた。
強いには強いのだが、力以外に何の得手も無かった気がする。ただ、地理に明るいため、うちらが担当している国のまとめ役をしていた。
「あいつが応援要請って事は、集団討伐とかあるのか?」
悪魔が増えすぎたから、区画を決めて悪魔を根こそぎ狩り取る。そんな仕事も極希にあった。
「今回は違うんだって」
マナはいまいち納得していない顔で、内容を告げた。
「なんでも、古い妖魔が悪魔を相手取って喧嘩をふっかけて来たみたいなの。それこそ討伐されたかような勢いで悪魔が減ってるって言ってた。現世にいる悪魔はだーれも適わないから、黄泉にいる私たちにも声がかかったみたい」
「おいおい、古いかなんだか知らんけど、悪魔が妖魔に太刀打ちできないってのも情けない話だな」
「マルクスによると、その妖魔は見た目は人間そっくりに化けるんだって。近づかれても気が付かないから、気を抜いたところを食べられるらしいの」
「……桃花じゃねーだろうな」
「バカ言わないでよ。そんな訳ないじゃん。古い蜘蛛の妖魔って言ってた。蜘蛛って元々、妖力高いからね」
蜘蛛、ねぇ。
まさかな。
「で? 俺たちに何をしろって」
「要請内容は、力による正面対抗が面倒だから死神の鎌を使ってサクッとやって欲しい、って書いてた」
興味を失った俺は、再び頭蓋骨を抱いた。
「話にならん。死神の鎌はそんな事に使うもんじゃねーだろ。好き勝手鎌を使ったら秩序も何もなくなっちまう」
「わかってるけどさ」
マナは食い下がった。
「断るにしても理由が必要じゃない。アルテミス先輩とは格が違うんだし。それに、このまま悪魔を食べ続けると、際限なく力が付いちゃって手が付けらんなくなるらしいよ。もう世繋ぎ門をこじ開けて黄泉へ移動できるぐらいの力は付いてるんじゃないかって言ってた」
おいおい、あの巨大な門を召還してこじ開けるのか?一妖魔に出来る事じゃないぞ?
「門番してる『悪魔・多頭狼《けるべろす》』に頑張ってもらえば――」
「狼さん達はしっぽ巻いて震えてるって」
使えない門番だなぁ。
「そんなわけで、今後の行動指針を決めるため皆の意見を聞きたいって、マルクスが皆を呼んでるの。桃花先輩は先に行ってるから」
「ちなみに、マナはそれに参加したいのか?」
「うーん。どっちでもいいかな。最近暇だからちょっと動きたいなって思ってるし」
俺は宙へと舞った。
まあ、意見は色々あるみたいだから、討論しますか。4人しかいないけどな。
マナは歩いて、俺は飛んで部屋の扉へ向かう。
ふと、誰かに呼ばれた気がして振り返る。
もちろん誰もいない。白い頭蓋骨がこっちを向いているだけだ。
その頭蓋骨の雰囲気がいつもと違う、気がする。なんだ?
「なあ、マナ」
「何?」
先を歩くマナが振り返る。俺は頭蓋骨を翼で指しながら言った。
「あの頭蓋骨、なんか物言いたげじゃないか?」
自分でも何を言っているのかわからない。骨が物を言う訳はないんだし。しかし、そんな気がするのだ。
「うん?」
マナが頭蓋骨を凝視する。
「わかった!」
しばらくして声を上げたマナは、来た道を戻り、頭蓋骨を手に取った。
「おい、手荒に扱うなよ?」
「わかってるって」
言った側から、マナは頭蓋骨をひょいっと投げ上げた。
「あああああああーーーーーーー!」
心臓が飛び出るかと思った。いや、未だに飛び出そうになっている。高く上がった頭蓋骨が、頂点で制止。そして、落下。
パニックを起こした俺は宙で右往左往した。触ったら傷を付けるかもしれない。掴んだら割れてしまうかもしれない。嘴で咥えるなんて以ての外。
そんなことを考えてる間にも、有一無二の宝物が床を目指して加速する。結局、俺はうわーうわー言いながら落下地点と予測したマナの足下に、翼を目一杯広げて伏せた。
来るべき衝撃は来なかった。
頭蓋骨は音もなくマナの腕に収まっていた。
「何してんの? ガー助」
心底不思議そうに足下の俺を見るマナ。俺は吠えた。
「おいコラ! 俺の寿命を縮めて楽しいか。何で投げ上げるんだよ!」
「何でって、暇そうにしてたから」
「何だって?」
「そう見えなかった? 随分つまらなそうな顔してたじゃん」
暇? 骨が退屈するのか? 俺は疑問に思ったが、マナはその前提で話を進めていた。
「そりゃあそうよね。こんな暗い部屋に陰気な鴉と一日中一緒じゃ気も滅入るって」
「好き勝手言ってくれるじゃねーか」
頭蓋骨を抱いたマナは、そのまま扉へと向かい、
「今日は一緒にお出かけしよっか?」
手元に喋りかけていた。
「それを持って行くのか?」
「どうせどこにも連れてってないんでしょ。そんなんだと、そのうち嫌われちゃうよ?」
いや、骨だぞそれ。嫌うも何も。
「ほら、嬉しそうに見えない?」
楽しそうにマナは自分の頭蓋骨を見せつけてくる。じっと見つめてみたがよくわからなかった。もっとも、頭蓋骨の表情なんてわかりっこないのだが。
でも、まあ。
「マナが言うんなら、そうなんだろうな」
何せ自分のだし。
俺が納得すると、マナはさっそく頭蓋骨をくるりと回し、向かい合って自己紹介を始めた。
「私はマナ。私の好きな食べ物は牡蠣なんだけど、あなたの好きな食べ物はなあに?」
きっと牡蠣だと思う。
おでこをくっつけながら話すマナに、声を掛けた。
「なあ、マナ。頼みがあるんだけど」
マナが振り返った。
「もし俺が死んだらその頭蓋骨を潰してくれないか? 多分、俺が必要としなければ、その頭蓋骨は誰も必要としないだろうから」
「いいの!?」
「俺が、死んでから、だからな」
目をきらきらさせ始めるマナに釘を刺した。
マナはわかってるよーと、手元に視線を落とす。
必要としている音と出会えるかも知れないし。その言葉はひとまずしまっておいた。
「それと、もし頭蓋骨の方が先に壊れたら、その時は俺の魂を狩ってくれ」
頭蓋骨が無くなれば俺の存在意義もなくなる。そう思って言ったのだが、マナの雰囲気が一変した。
そっと地面に手にした物を置いて、こっちへ向き直る。その目は真剣で、力強く、最初に出逢った時のように俺を惹き付けた。
俺の顔を両手で挟み込んで、嘴が刺さるんじゃないかと言う程近くから俺を覗き込む。こんな近くでマナの瞳を見たことがなかったから大いに焦った。マナはそんな俺に構うことなく、じっと目を覗き込む。
「ダメ」
「な、何が?」
「自分から死ぬとか言っちゃ、ダメ」
……。
お前がそれを言うのか?
「ダメだよ。命は一個しかないんだから。死んだら、命が無くなっちゃったら、もう何も出来ないんだよ。楽しむことも悲しむことも、何一つ出来なくなるんだよ?」
自殺したお前がそれを言うのか? 必死に止めた俺に対してそれを言うのか?
「寿命で死ぬのはしょうが無いし、誰かに殺されるのもしょうが無い。こんなことしてるんだからね。でも、自分で死ぬのはダメ。それは許さないから。そんな事したら絶対に自分が後悔するよ」
忘れたから言えるのか、覚えているから言うのか。
俺は初めてマナの業をみた。
「……お前が言うなら、そうなんだろうな」
「わかった? って聞いてるんだけど」
「はいはい、わかりました」
よろしい、と、マナは俺を解放して代わりに頭蓋骨を拾い上げる。
「この子に名前って無いの?」
マナがそんな事を言った。
「それは人形じゃないぞ」
「わかってるよ。でも名前ぐらいあったっていいじゃない」
名前ねぇ。俺は5秒ぐらい考えた。
「ナナ」
「へぇ。ガー助にしてはいいセンスじゃない」
納得したマナは扉に手を掛けた。
「そう言えば蜘蛛の妖魔ってどっかで聞かなかったっけ」
「そうだっけ?」
俺はすっとぼけた。覚えていても意味の無い情報というのは、少なからずあるものだ。
「覚えてないって事はどうでもいいことなんだろ。気にするなって」
「うーん。そうかな? そうかも」
マナの目が金色に輝く。業が自分に対する恨みを忘れさせたらしい。便利な業だと思う。
「蜘蛛と言えば。マナ、お前マルクスのソファーに黒いマジックで蜘蛛の落書きをしたよな」
「うん、したした」
「蜘蛛の目にブツブツを描いたのはなんでだ?」
「蜘蛛って複眼でしょ? 昔テレビの蜘蛛怪人がそんな目してたし」
俺はマナをせっついて扉を開けさせた。
一足先に向こう側へと出て振り返り、思いっきり笑ってやる。
「ばーか。蜘蛛は単眼だ。そんな事も知らねーのかよ。ばーかばーか」
マナがぴたりと止まった。固まった顔を見るに、わりとガチでそう思っていたらしい。
「べ、別にいいじゃない。世界にはそんな蜘蛛だっているかも知れないでしょ!」
マナがナナを振りかざして、追いかけてきた。
「おいおいおい、だから手荒に扱うなって! 壊れたらどうすんだよ」
「馬鹿なガー助と違って、そんなヘマはしませーん」
俺の記憶にあるマナ。今のマナ。どちらでいる方が幸せなのだろうか。
「なあ、マナは死にたくなった事ってないのか?」
俺は聞いた。
「はあ? あるわけ無いじゃん」
マナは答えた。
じゃあ、きっとそうゆう事なのだろう。
振り回されて、ぶん投げられて。
それでもナナは、何処か楽しそうに見えた。
*******
マナが手を離すと、扉はゆっくりと閉まっていく。
暗い魔の間に
ぽつねんと、
静けさだけが
居残った。
まのまのものら?
まのまのものら。
お終い
前話
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=2486&user_id=160&mode=post
ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
おきざり
へや
に
おかれたまま
ひらかれない
ふれられない ほん
みたいだ
てんになって
みっつばかり
ねておきたら
スッキリする よ
おきざりに していいよ
ここにいること
えらんだのだ
わすれものって おとされしものって
いつだって そうなのかもよ
ね、 きみたち
ここにいることすら わ
わすれていいから
魔の間のモノら 第1話『いまに見る夢』
くすんだ畳に転がると、乾いたイ草の匂いに包まれる。
縁側から入り込んでくる柔らかな風が、するりと体を撫でていった。
暑さと涼しさがお互いを思い合っているかのような、バランスの取れた心地よさ。
梢の揺れる囁き。
鳥たちのお喋り。
蝉の歌。
お姉ちゃんが洗濯物を畳んでる。
ソーダの炭酸が弾けた。
時計のチクタク。
両手を広げると、色んな音が降ってきた。
力を抜いて目を閉じれば、静かな音達がずっと側に居てくれてるように錯覚する。
現実味を帯びない空間。
ここがどこだかわからなくなるくらい。
私が誰かわからなくなるくらい。
でも、きっとそれは幸せなことなんだ。
第1話『いまに見る夢』
大学最初の夏休み。
事前連絡もせず実家に帰ってきた私を、お姉ちゃんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
考えてみれば無謀な事をしたと思う。
お母さんが入院中の今、この家にはお姉ちゃんしか住んでいない。もし、お姉ちゃんが留守にしてたら、私はどうするつもりだったんだろう?
こんな田舎じゃネットカフェはおろかビジネスホテルも存在しないのに。
ボストンバッグを昔使っていた部屋に放り込むと、まずはこの居間に転がった。それが昨日のお昼。特に何もしないまま1日が経過してしまった。
田舎の時間は進むのが遅いよ? なんて言ってた嘘つきは誰だっけ。
ああ、大学の友人だ。
小鳥のさえずり、蝉の恋歌。
隣でアイロンが蒸気を吹き上げれば、遠く遠く飛行機の音が落ちてくる。
都会の防音処理が施された部屋が、ここは静かなのだ! と叫んでいるような偽りの静寂ではなく、正しさに溢れた静寂の音。
それらの全てが意味を持ち、正確に刻む時計の針が、みんなを未来へと運んでいた。
そんな中でお姉ちゃんが言うんだ。
「マナ、勉強しなくていいの? 単位落としちゃっても知らないからねー」
「大丈夫大丈夫。向こうに帰ったら都会の私が頑張るから」
ぼーっとした頭で手を振ってみせる。
お姉ちゃんはクスクスと笑いながら、手元の洗濯物に戻っていった。
ひらひら振っていた手が、力を失ってパタリと落ちる。
体のどこかが動いてないと、このまま風に乗って意識が飛んでいってしまいそう。ああ、また寝ちゃうなーなんて。
次に夢へ堕ちたら3度寝だ。
言い訳するつもりじゃないけど、田舎の空気はまったりしすぎてると思う。
何かをしようという気にならない。きっとあるべき音が足りないのだ。喧噪、車の音、電車の音がしない。時折、飛行機の轟音が空の彼方から降ってくるだけ。
(田舎なんて何にも無いよ? 2日で飽きちゃうし。仕方ないから勉強しちゃった。私が勉強するぐらいだよ? どれくらい暇なのかわかるじゃん。帰らないで一緒にこっちに残って遊ぼ?)
やっぱり嘘つきなのだ、あの友人は。めちゃくちゃ忙しいではないか、半年は寝ていられるくらいだ。なにも体を動かすだけが忙しさを測る物差しじゃない。眠る事だって立派な忙しさなのだ。
お姉ちゃんがアイロンがけの手を止めないまま聞いてきた。
「夕飯、イワナ食べよっか? ご近所の佐久さん覚えてる? 佐久のおじさんが釣ったイワナを貰ったから」
「……イワナって何だっけ。川の魚までは覚えてるけど」
眠気に錆び付き回らなくなった頭で、イワナなる魚の姿を思い出そうとするけど、出てこなかった。
串に貫かれて焼け焦げた姿しか出てこない。
イワナ、子供の頃は結構食べてたと思うんだけどなー。
「忘れちゃった? 小さな頃はよく食べてたじゃない。そっちじゃ食べないの?」
「都会じゃ川魚なんてまず食べないよ。都会っ子は高級志向ですから~」
川沿いに生まれたせいか、私の中では『川の物=田舎の食べ物』という図式が出来上がっていて、都会に出てからは無意識に避けるようにしていたんだと思う。もっとも、都会で川の魚を食べようとすれば、海の物よりも高く付くなんて事はざらにあるから侮れない。
「む。じゃあ、お夕飯はちょっとだけ本気出しちゃおっかなー」
え? 昨日のキノコの天ぷらは本気ではなかったと?
白い衣を身にまとった舞姫ならぬマイタケは、片手間で揚げたものだとでも? 友達と行った旅館の天ぷらより美味しいと思ったんだけど。
小さい頃から率先して家事を手伝ってきただけのことはあって、お姉ちゃんの料理の腕は確かだった。常にサボっていた誰かさんとは違って。
夕飯もいいけど、時計の針はお昼へカウントダウンを始めている。
「お昼、何?」
答え次第では、睡魔と腹の虫が世紀の大激突をすることになる。
「そうね、お素麺にしよっか」
睡魔の不戦勝だった。
いや、そうめんも好きだけど、好きだけどさー。
片田舎。
扇風機いらずの正午。
洗濯物の畳みかたは佳境に入ったらしい。
「ブラッククロウ~ スパークスボディ~ 君の瞳は~ あの星より紅く~」
今流行のロックな曲も、おねえちゃんに掛かれば上品な子守歌になる。
その才能に惚れながら、私は深い所へと沈んでいった。
「あら、電話?」
そんなお姉ちゃんの声で、うつらうつら としていた私の意識は表層へ戻ってきた。
よいしょと体を起こすと、机の上に置かれたサイダーのボトルが視界に入る。寝起きの渇いた喉に、|陳腐《ちんぷ》な『サイダー』の文字は魅力的すぎる。
無言の誘惑に、誘われるがままボトルを手に取った。
シュポっと音を立ててキャップを外す。
コップに傾けると、コポコポシュワシュワと幸せの音色が透明なコップから流れてきた。
ぬるくなったサイダーは、それでも甘い夢を見せてくれる。
対面に置かれていたコップにも注いだ頃、お姉ちゃんが戻ってきた。
「間違い電話だって」
「うん」
応答の返事を聞いて、そんな気はしてた。ごめんなさい、うちは田中じゃないんですよ。田中さんちは2件隣で――。
うん、間違いなく間違い電話だ。
喉を抜けてゆく炭酸の刺激を感じながら、コップを空にした。ぬるいけど、寝起きの体にはむしろちょうどいいぐらいの温度。
昼の12時15分、さすがに起きなきゃ。おそうめんぐらいなら私も作れるから、台所借りよっかなー、なんて考えながら2杯目を注ぐ。
ペットボトル越しに、座ったばかりのお姉ちゃんがすぐに立ち上がった。
そして、言った。
「今日は電話が多いのね」
最初は携帯に掛かってきたんだと思った。こんな田舎でも電波は届くし、手元においてたらブルブル震えてすぐにわかるから。だから携帯だと思った。
でも、立ち上がったお姉ちゃんは固定電話の受話器を取った。
サイダーが溢れた。
あわててティッシュを抜き取り、テーブルに広がってゆく透明な液体を拭き始める。
今、着信音鳴ったっけ? そんなことを考えながら。
よく思い出そう。その前の間違い電話、着信音鳴ったっけ?
お姉ちゃんが「あら電話?」と立ち上がったときには、鳴っていなければならなかったはず。半分夢の中だったとは言え、聞き間違える?
電話が壊れて鳴らなかった可能性。
ううん、昨日の夜は鳴ってた。
電話が来てないのにお姉ちゃんが受話器を取ってる可能性。
いや、ありえないでしょ。
コップの縁まで張った透明な液体は、波一つ立たない穏やかな水鏡を作っている。
うん……きっと気のせいだ。
まだ私の耳が起きてなかったんだと思う。そうに違いない。
せっかく実家に帰ってきてのんびりしている時に、わけわかんない事で心配事なんか作りたくない。
盛り上がった水面をこぼさないよう、静かにコップに口を付ける。
蝉の声がうるさくなった。何処かへ行っていた小鳥達が戻ってくる。
外だって何事もない普段通り。だから、きっと気のせいだ。
お姉ちゃんが受話器を置いた。
「誰からだった?」
サイダーに視線を落としながら、聞いた。
「職場の人から。仕事の進行状況の話」
なるほど。それで漏れ聞こえる話から、内容が掴めなかったのか。
一つの疑問が解けたとこで私は納得した。
他の疑問を全部押し込めて、納得することにした。
とにかく、この幸せな時間を壊したくなかったんだ。今電話鳴ったっけ? なんて聞くことすら嫌だった。
わざわざ私が謎解きをしなくても、世界はゆっくりと回っていくんだから。
私が帰るまで電話なんて鳴らなければいい。本気でそう思う。
「お姉ちゃん仕事してたんだ?」
「当たり前でしょ。どうやって生活してたと思ってたの?」
「かっこいい彼氏に養ってもらってるのかなって」
そう言うと、お姉ちゃんは立ったまま腕を組んで、ちょっとだけ むっ とした表情を見せた。
「もう。バカ言わないの。マナの方こそいい人いないの? 彼氏の一人や二人って、意気揚々と上京して行ったって記憶してるんだけど?」
身内びいきを抜きにしても、お姉ちゃんはモテると思う。
小さい顔に、マスカラを使わなくても大きく見える二重の目と、するりと高い鼻梁。動く度に後を付いてくる長いポニーテイルは、自慢のトレードマークになっている。
更に付け加えるなら、メリハリの利いたスタイルで胸も大きい。
内向的な性格で初対面での人付き合いが極端に苦手な面を差し引いても、十分モテるはず。
子供の頃は自慢の姉で、年頃になると同じ学校に通うのが嫌になって、今では比べられることに飽きてしまった。姉は姉として割り切ってしまえば、実にいいお姉ちゃん。
大好きなお姉ちゃん。
だから、その話は置いておいて? 忘れようとしてたんだから。
「じゃあ、お素麺作っちゃうね」
「あ、待った。私作るよ。素麺ぐらいなら作れるから」
そう言って立とうとすると、ダメと止められた。
「だめだめ。お里帰りしたマナはお客様、私は家主。マナにお台所は使わせませーん」
チッチッと指を振ってみせる。どうしても台所に立たせたくないらしい。
この人は性格もいいのだ。
自分に彼氏が居ないのは、まあわからなくも、ない。しかし、姉に彼氏が出来ないのはどう考えてもおかしい。きっと田舎のぼんくら共には高嶺の花で、誰も手が出せないのだろう。そんな事を考え、自分の事じゃないのにちょっとだけ誇らしくなる。
部屋の襖に向かっていたお姉ちゃんが、くるっと回れ右をした。つられて艶のある黒髪もふわりと回れ右をする。
私も伸ばそうかなー。今は肩まですらないから、あれだけ伸ばすのに何年掛かるだろうなー。
ぼーっと眺めていたら、お姉ちゃんは言った。
「もうー、私にお素麺を作らせないつもりね?」
そして、電話に向かっていた。
バンっと、テーブルを叩いた勢いで立ち上がる。急いで電話へ向かったけど、距離的に近いお姉ちゃんの方が先に受話器を取った。
電話は鳴っていないのに、受話器を取ったんだ。
いろんな音が聞こえる。お姉ちゃんの声も聞こえる。時計の音だって聞こえる。それなのに電話の音だけが聞こえない。
お姉ちゃんは音のない電話の受話器を相手に話し始めた。
「もしもし、林です。はい、え? 伊野香のおじいちゃん? お久しぶりです。お元気でしたか?」
きっと私の耳が可笑しいのだ。
電話の音だけが聞こえないなんて事があるのかは知らないけど、可笑しいのは私の耳の方なんだ。来てもいない電話を取って、普通に会話を始めるなんて事があるわけがない。
背後から近づいていって、そっと肩越しに電話のディスプレイをのぞき込む。
田舎とは言えファックス付きのデジタル電話で、もちろん液晶ディスプレイだってついている。きっと液晶には会話中と表示されているはずだ。もしくは電話番号が登録されていれば相手の名前が表示されているはず。
点灯している文字を確認したら、耳鼻科にへ行こう。いや、耳は普通に聞こえるから、もう少しこの家でのんびりしてから、病院へ行こう。
祈るように覗いた先には消灯した液晶があった。
20XX年 7月 4日 伝言はありません。
私は、酷い目でお姉ちゃんの横顔を凝視していたと思う。
受話器に耳を当てて、小首を傾げる綺麗な横顔を見て、私は悲しくなった。
どうしてこうなったんだろう。平穏な田舎の実家で、ただただ幸せな時間を過ごしたかっただけなのに。
そっとお姉ちゃんの背中に手を添える。
どうやって病院に連れて行こう。
この綺麗で優しい顔に向かって、どうやって話を切り出せばいいんだろう。
色々考えながら更に一歩近づく。
その時、私の耳は聞こえるはずのない音を捕らえた。あり得ないはずの男性の笑い声だった。
受話器から漏れ聞こえる微かな声に、心臓が止まるかと思った。
聞き間違えなんかじゃない。たしかに聞こえる。電話のディスプレイは沈黙しているのに!
「そうそう、今ね、マナが帰ってきてるの。妹よ、二人姉妹だってば。うん、うん、今代わるね」
私がおかしいとか、お姉ちゃんがおかしいとか、そういう話ではなく、もっと大局的な何かが狂っている事に思い至った時には、お姉ちゃんがこっちを向いていた。
「マナ、代わってほしいって」
「……え?」
「角のたばこ屋さん。伊野香のおじいちゃんよ? 忘れた? よく二人でお世話になったじゃない」
お姉ちゃんこそ忘れたの? 三年前に伊野香のおじいちゃんとおばあちゃんの葬儀に参列したじゃない! 一緒に『もう、あの大きな笑い声を聞くことはないんだろうな』って悲しんだじゃない!
そう、三年前だったはず。角のたばこ屋は、隣家の火事から延焼し、むしろ隣より大火事になった。深夜のことだった。焼け落ちた家からは老夫婦の遺体が発見され、今は更地になっているのだ。そこから電話なんか来るはずがない。
「お姉ちゃん待って、伊野香のおじいちゃんは亡くなったよね? 覚えてるよね? 電話が来るのおかしいよね!」
「何言ってるのマナ。こうして電話してくれてるのに。ほら、お久しぶりって挨拶しなきゃ」
いつもと変わらない優しい声は、むしろ私を恐怖で包んだ。
そっと、しかし確実に手首を握られる。
しびれる程の握力はお姉ちゃんの力じゃなかった。
「痛い! 待って、待って!!」
「ふふふっ、昔からマナは電話が苦手だったよね。でも、大人になったんだから、ちゃんと練習しなきゃ」
左の手首は耐えがたいほどの痛みになっている。本能が身の危険を感じた。
「嫌! 放し、て」
びくともしない手を思いっきり振り払うと、バランスを崩して2人で転んだ。
何が起こっているのかわからないけど、まずここから逃げなければ。
お姉ちゃんが豹変してしまった理由とか、死んだはずの人から電話が掛かってくる理由とかを落ち着いて考えたかった。
外に出て、誰かに助けを求めよう。もう、こんなの自分の手に負える事態ではない。一刻も早く誰かに助けを求めなきゃとの思いだけで、襖に這っていった。もう少しで部屋から出られるという所で、襖がパンッと音を立て、独りでに閉まった。
……え?
慌てて縁側を見ると、近くに誰もいないのにガラス戸が閉まってゆく。戸という戸が全て閉ざされると、今まで聞こえていた外の音たちが何も聞こえなくなった。
「そんな……」
襖に向き直り手を掛ける。手触りがすでに襖ではなかった。まるでコンクリートのように冷たく固く、それだけで絶望出来るような感触だった。
「……マナ?」
「ひっ!」
ふくらはぎを握り掴まれた。その強さにも驚いたけど、一番驚いたのは、自分の喉から出た小さな悲鳴の方だった。お姉ちゃんに声を掛けられて、触られて悲鳴を出した事なんて一度も無い。その小さな悲鳴が、私の中の何かにヒビを入れた。
左手に受話器を持ってこっちを向くお姉ちゃんの顔は、すでに私の知っている顔ではなかった……。
左右違う方向に瞳が泳ぎ、顔は熟れすぎた果実のように皺が寄り、だらしなく笑みの形に開いた口からは赤い舌が垂れ下がる。
人が見せていい顔ではなかった。
足を物凄い力で引っ張られる。
(マナ、一緒に帰ろ?)
優しかったお姉ちゃん。自分の分を放ってでも勉強を教えてくれた。
(ほら、マナもお片付けしないと怒られるよ?)
賢かったお姉ちゃん。財政的に大学には片方しか行けないと言われた日、テストの成績は姉の方が良かったのに、私に大学志望の道を残してくれた。
(今日はお母さんいないから、2人でお夕飯作ろっか)
頼もしかったお姉ちゃん。誰かと喧嘩になると、必ず味方に付いてくれる。私と喧嘩になると、必ず最初に引いてくれていた。
(あのね? 今日こっちで寝ていいかな? ほ、ほら、雷……)
恐がりだったお姉ちゃん。子供の頃は、雷が鳴ると私の部屋にこっそり入ってきて、どうしようもない言い訳をしながら布団に潜り込んできた。
(フラれたの? うん、うん。明日はゆっくりだから朝までだって話してていいよ)
大好きだったお姉ちゃん。近くに居ても離れていても、いつも気に掛けてくれていた。
(誕生日おめでとう! マナ。ビックリした? 落ち込んでるみたいだかったから)
(マナ、マナ――)
走り抜ける思い出に、今のお姉ちゃんは居ない。
優しいお姉ちゃんの、右目と、目が、合った。
「いやぁぁぁぁーーーーーーーーー!!」
たが が外れた瞬間、喉の奥から悲鳴がほとばしった。
その声は、私の体が目の前の大事な人を危険因子と判断した合図。
「いや、いや!」
ふくらはぎを締め付けてくる右手を、何度も、何度も蹴りつける。びくともしないその手に、焦りと恐れと悲しみが増していった。
受話器のコードが足に掛かり、コードがぶちりと切れ、電話本体が落っこちる。勢い余ってずるりと滑った足が、お姉ちゃんの顔を蹴りつける。もう、心がどうにかなってしまいそうだった。
顔を守ろうともせず、ただただ私に覆い被さろうとするお姉ちゃんの姿に、涙がこぼれてきた。
滲む視界の先で、大人しくならない私に業を煮やしたのか、お姉ちゃんが受話器を口に咥えた。そして、空いた左手で右足を掴まれる。
両足を拘束された。
「いやいや、来ないで! 離れて!!」
私は無我夢中で拳を強く握る。恐怖の中、足からお腹へと這い上ってくるお姉ちゃんの顔に、白くなるほど握り固めた手を――
お姉ちゃんは、何の苦もなく私のお腹の上に乗り、座った。
私は両手を押さえつけられながら、放心していた。
殴れるわけないじゃん。相手はお姉ちゃんなんだから。
でも、もう、あの顔を見たくはなかった。
だから、目を瞑っていた。あんな顔を見るぐらいならもう、私の方が消えてしまいたいとさえ思った。
涙が頬を伝う感覚。きっと私は泣いているんだ。世界とさよならすることに対して泣いているんだと思う。食べられるにしろ、お姉ちゃんと同じモノになるにしろ、もう今までの世界にはいられないのだろう。だから、そんな理由。
その時を待っていたのだけど、お姉ちゃんは座ったまま動こうとしなかった。
ぽとり。
私の左胸の下、ちょうど心臓の所に何かが落ちた。
「ま……な……」
「え?」
理性的な優しい声。聞き慣れたいつもの声にビックリして、私は目を開けた。
お姉ちゃんの両目が私を見つめていた。その表情におかしい所はなかった。
元に戻ったんだ!
涙をぬぐってお姉ちゃんの顔を見たかったけど、私の手は押さえ付けられたままだった。
「マナ」
「……何?」
幸せだった。幸せな時間が戻ったんだ。いつもと同じという事、ただそれだけで幸せを感じた。
外の音も聞こえない。時計の音も聞こえない。何一つ音の聞こえない部屋で、お姉ちゃんの声だけが響いていた。
「きいて」
本当に、静かな時間の中。
「でんわを、きいて」
私は張り詰めていた力を抜いた。
「電話を聞けばいいの?」
「そう」
「電話を聞いたら、いつものお姉ちゃんに戻ってくれる?」
お姉ちゃんはにっこりと笑った。
幸せだった。
だから頷いた。
「うん」
その返事に満足したように、お姉ちゃんはゆっくりと私のお腹に顔を沈めていった。
舌と唇で落っことした受話器を咥えようとしているらしい。もう抵抗しないんだから手を使えばいいのに。
シャツがめくれ上がったお腹に、ちょんちょんと触られる舌先がくすぐったい。
受話器を咥えて耳元まで持ってくるんだろうか? それなら横を向いてたほうが楽だよね。
そんな思いから頭を横にした。
目を瞑ろうかとも思ったけど、庭の草木の緑から伸び上がるタチアオイの紫色がよく見えるから、目は瞑らないでおこう。
最期の景色が綺麗な花なら、それはきっと幸せな事なんだから。
視線の先に鴉がいた。
なぜか縁側に止まってこっちを見ている。
(早く逃げたほうがいいよ? もしかしたら、この後あなたをバリバリと食べちゃうかもしれないから)
気持ちが通じたのか、カラスが舞い上がった。
飛び上がってから気が付いたけど、異様に大きな鴉だった。
特に翼が大きすぎる。
……え? 4枚の翼?
鴉が硝子に突っ込んできた。
硝子の割れる音は今まで聞いたことのないぐらい、映画で聞いたライフル銃の発射音より恐ろしい音だった。
忘れていた音が部屋に戻る。
外の喧噪を連れてきた鴉は部屋の中を飛び回り、があがあとわめき始めた。
私も、お姉ちゃんも、その侵入者に視線を奪われる。
ひとしきり騒いだ鴉はやがて縁側に戻り、いつの間にかそこに立っていた人の肩に止まった。
お姉ちゃんを助けてと喉まで出かかった台詞は、その男の格好を見た途端、声とならずに消えていく。
白いタキシードに白いスラックス。
私より長い髪はブロンドで、瞳の色は赤銅色をしていた。人間では無い。そもそも、足が床から10センチぐらい浮いているんだから、人間であるはずがなかった。
男が内ポケットに手を差し入れる。
それを見て、反射的にやめてと叫びたくなった。
助けて欲しい、と同時に、もうこれ以上お姉ちゃんを壊して欲しくなかった。何をする気なのかは知らないけど、これ以上壊すのならまず私を消してからにして欲しかった。
でも、男が取り出したのは予想していたような物騒なものではなく、白い指揮棒みたいな物だった。
「離れろ」
部屋に土足で入り込んだ男は、そう言って指揮棒を振るう。
風でもない、波でもない、なにかの力で私たちは壁まで吹き飛ばされた。
拘束が外れ自由になった私は、しかし、どっちに行けばいいのかがわからない。這いながら、2人から離れる様に距離を取る。そんな私に、男は気を悪くするでもなく、部屋の隅を指して言った。
「そこでは巻き込まれるだろう。隅まで下がって」
味方だろうか? 敵だろうか? でも、他にすがる者がいない。大人しく従うことにした。
「お姉ちゃんをこれ以上おかしくしないで。お願いします」
そう言うと、見慣れない赤銅色の目がこちらを向いた。
「君は、姉が好きか?」
「はい。一番大切な人です。だから、お願い!」
「……わかった。善処しよう」
お姉ちゃんがゆらりと立ち上がる。髪は解けて散り広がり、血走った彷徨う目は、まるで幽鬼を思わせた。
「じゃまを、するなあ」
突き出された受話器から、野太い男の声が飛び出た。
「『悪魔・夢魂電話』か。我鴉(があ)、行け」
我鴉と呼ばれた4翼の鴉が、白い男の眼前で羽ばたいたまま、宙で制止する。大きく口を開いて空気を吸い込み、一声鳴いた。
があ! という声が発せられると、お姉ちゃんの姿が歪んで吹き飛ぶ。なにか巨大な力を受けたらしいのだと、壁に叩き付けられるのを見て知った。
ただ、軽く頭を振っただけで転ぶようなこともないのを見ると、それほどダメージを負ってはいないみたい。
「ほう?」
そんな感嘆のような声が白い男から聞こえた。
「我鴉、下がれ」
余裕を見せる男に対して、受話器から訝しむ声が聞こえた。
「貴様 ナニモノだ」
「僕かい? 君と一緒だよ。君よりは高等な存在だけどね」
「……いいだろう 貴様もナカマにしてやる」
受話器がそう言うと男は鼻で笑った。
「はっ。僕を仲間にするのかい? 散って消えてしまう君がどうやって僕を仲間にするんだい?」
受話器を握るお姉ちゃんが膝を曲げて、襲いかからんとばかりに四肢に力を込める。
「力ずくで、かい? 面白いね。やってみるといい」
そんな台詞とともに、白い男は構えを取った。
半身を開いて右肘を下に曲げ、手首を前に返し、指揮棒の先を前に突き出す。右膝は相手に向け、左膝は横にして軽く曲げる。空いた左腕は肘を軽く曲げ、その手はゆらゆらと天を向いていた。
フェンシングの構えだったと思う。でも、私には肉食獣が走る姿に見えた。重心を低く、左手の尻尾でバランスを取り、右手の先で食らいつく。そんな肉食獣。
「私が直接相手をしよう」
そう言った男の言葉に、お姉ちゃんは怒りの表情をみせる。
受話器と本体を繋ぐコードはすでにちぎれていた。それでも乗っ取られたままなのを見ると、受話器が本体なのだろうか?
受話器の声を聞くだけで体を乗っ取られるのなら、彼はどうやってそれを防ぐのだろう。
私の心配をよそに、男の表情は涼しげだった。
お姉ちゃんが動いた。
天井近くまで飛び上がり、受話器で殴りつけるように手を伸ばす。
一方、男は力を溜めるように重心を低く低くした格好から、狙いを定めて一気に伸び上がり指揮棒を突き出した。
指揮棒と受話器が打ち合った瞬間、時間が止まったかと思った。
なぜなら、一瞬だけ2人の動きが止まったように見えたのだ。
直後、受話器が轟音とともに、爆発した。
思わず耳を塞いだけど、目は閉じられなかった。お姉ちゃんが天井に叩き付けられたのが見えたから。
「お姉ちゃん!」
酷い音を立てて、床に落下したお姉ちゃんに駆け寄る。よかった、息はある。
脈を取っていると、白い男が指揮棒を懐にしまいながら近づいてきた。
「もう悪魔は消えた。彼女の命に別状はないはず」
相手は恩人だったが、この惨状に一言言ってやりたくなった。けど、自分の上着を脱ぎ、爆発の衝撃で所々切れてしまったお姉ちゃんの服の上に掛けるのを見て、思い直した。
「あの、ありがとうございました」
「いや、構わない。これも仕事だ」
仕事? どんな仕事だろう。知りたいと思ったけど、関わりたいとは思わなかった。だから、聞かないことにした。
「君は大丈夫かい?」
「はい。私は何もされませんでしたから。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げると、男は、むむっと唸った。
「そんなに軽々しく答えるものじゃない。私が帰ってから何か起きても対処出来ないのだよ?」
言われてみればそうだった。でも、自覚症状がないのだから、自己申告は無理だと思う。
「服を脱いでごらん」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
「服を、脱いでごらん。それで何もなければ、私はこのまま帰ろう」
非常時の状況に押され、深くまっすぐな視線に押されて、私は紺色のシャツをゆっくりとめくっていった。
顔真っ赤だろうなー、とか汗かいちゃったんだけど……、なんて。でも、そんな考えはへそが見える辺りまでだった。お腹に真っ黒な、根のようなものが走っているのが見えて、血の気が引いた。
慌ててシャツを脱ぎ捨てる。貧相な左の胸の下、ちょうど心臓の辺りに、黒い握り拳大の柔らかそうな種に見える塊があって、そこから何本もの根が這い、四方へ広がっていた。
「な、なに、これ……」
男の手が伸びて、ブラジャーのフロントホックが外される。あらわになった上半身は、まるで植物に侵食されたような有様になっていた。現実感の薄くなった自分の体に、思考が追いついていかない。
真っ黒な種が、ぶるぶると動いた。
つつー、と種に横の線が現れ、カパッと開いた。
中に見えたのは赤く暗い喉。上下には人の歯が並び、長く赤い舌がでろんと垂れ下がった。ケッケと鳴いて舌が動く。
赤い舌は私の腹をべろりと舐めて、脇を、乳房を舐め上げた。
おぞましくねっとりと湿った感触。
心が崩落した。
「キャーーーーーーーーー! いや、何これ、あ、ああ、嫌、嫌、いやー!!」
どうしようもなく気持ち悪い。生理的に全く受け入れられない。それが自分の体にあって、一番大事な部分にあって。
暴れ出しそうになって、でも、絶対に取れそうにない。触るのすら無理だった。見る事ですら吐きそうだった。もう、どう動いていいのかわからなくなって、悲鳴を上げるしか出来ない。
このまま心が壊れてしまうのだろうと思った。
「大丈夫、落ち着いて」
だから、その言葉にすがるように顔を上げた。
男は躊躇なく、その真っ黒な口の生えた種を手で押さえつけた。触っていいような物に思えなかったからビックリした。
泣き顔でぐちゃぐちゃになってるだろう私の顔を見て、男はゆっくりとかみ砕くように言った。
「大丈夫。それはすぐに取れる。心配いらないから落ち着いてほしい」
「でも、でも! こんなの、いや、いや、い――」
抱き寄せられて、私の言葉は男物のシャツに埋もれた。
「大丈夫。心配はいらない」
抱きしめられていることが、こんなにも安心感のあることだとは思わなかった。
「さあ、目を閉じて」
耳元で囁かれた声に、大人しく従う。
少しだけ顔を離されるのがわかった。それだけでまた不安になる。温かい手がおでこに触れて、前髪を掻き上げられた。
男とは頭一つ分ぐらいの身長差がある。髪をいじられるこそばゆい感触に、私は少しだけ顔を上げた。
「すぐに、済む」
「……う、ん」
本能が自分の命を握っている人物を理解していた。理性が逆らうことを忘れていた。
男の顔が近づいてくるのがわかり、息を止める。
種を押さえていた男の手が、すうっとそこから上にのぼっていくのがわかった。
私はこの先の結果がなんであれ、それに満足する気がした。そんな予感。
近く。男の――マルクスの小さな吐息が感じられる。
そして、唇に触れる体温……
*******
蚊帳の外に置かれた鴉は思う。
なんだこの茶番は、と。
騙される方も騙される方だが、騙す方も騙す方だろう。
馬鹿馬鹿しくなって、ため息を吐いた。
鴉が一声 があ と鳴く。
世界は音を立てて崩壊していった。
次話
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ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
詩の書き方(ケルビィンが普段どうやって詩を書いているか)
だから僕は言ったんです
あの澄みきった星が
そっと降りしきりそうな
そんな世界の中で
そう、静かに言ったんです
「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応して書こうよ」
すると、君は言ったね
「そうかそうか、つまり君は……
……よく考えなくても、そんな奴だったなあ。
知ってたよ。だから、もう許せないや」
最期に見えた光景は
そっと寂しいものでした
星、散りばめられた天幕と
僕と君の白く凍えた吐息と
さりげなく僕の左頬に
添えられた君の左手の
そのぬくもりの果てに
そして
君の右手は
僕の額にくっつけられた
セミオートマチックの
その銃口のために添えられていて
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