投稿作品一覧
愛と名付ける
言葉にしてしまえば
愛している
結局はそれしかない
あなたというひとを
私がどれだけ憎み、妬ましく、哀れみ、許せないか
大切に、誠実に、守り、毛一筋も傷つけたくないか
あなたは知らないだろう
どれだけ求め、そして同じくらい突き放したい衝動
矛盾だらけのこの
こころで
愛していると
他に当てはまる言語が存在しないことが歯がゆく
結局
うつくしいものだけをかき集めたようなひとこと
「愛している」
そんなものではない
うつくしい想いと同等に醜さが確かにあるのだ
私の中の愛という愛全てを捧げてしまう悔しさ
それを唯ひとりに捧げられる途方もない歓喜
あなたはそんな私のこころを知らず
信頼しきった顔で無防備に隣で寝ている
そのすこやかな寝息を永遠に壊したくないのに
次の瞬間にはもう
首に両手を這わせ締め上げたくなる
儚く、したたかなこのこころは何だ
誰か名付けてほしい
愛している
確かに愛してはいるのだ
だがそこに潜む醜さを包含した時
それでもやはり
ひとは
それもまた愛だというのだろうか
最近効かなくなりつある睡眠薬を飲み干し
あなたのまぶたに唇でそっと触れる
知らなくていい
あなたは私が差し出した半分のこころだけを信じて
残りの半分は知らなくていい
脅かしたくない
喰い殺したい
どこまでも矛盾するこころで
愛している
あなたの耳元に聞こえない程のちいさな声で
私はつぶやいた
BAR「Creative Writing Space」
ニーズがあるやらないやら、まったく見当がつきませんが、
毎度おなじみの思いつきで、BAR「Creative Writing Space」を開業いたしました。
皆様にお使いいただけなければ、すぐに閉店いたします。
電脳空間の片隅にある、吹けば飛ぶような小さなBARでございます。
一杯引っかけた体で雑談していただけるスペースをイメージしています。
「Talk」がさほど機能していないことも踏まえ、もっとカジュアルに使っていただけたらと思っています。
【ルール】
・ワンドリンク制です。必ず何かお飲み物をご注文してからお話しください。ノンアルコールでも構いません。
・お代はいただきません。もしスペースコインをお支払いになりたくなったら、他のお客様に奢ってあげてください。
・酔っ払いすぎにはご注意くださいませ。
Creative Writing Space事務局
2026/03/21
批評・論考
つながる
電車は最寄り駅に着かないまま
回送列車になってしまった
毎日毎日迷いもないふうに走るだろ
いつの間にか分からなくなったりするんだ
欲張りすぎたのかもな
帰る家があって
やわらかい布団の中で明日を
夢見るだけで良かったのに
時間は待ってくれない
他人は待ってくれない
それはまだ、分かる
僕が僕を待ってくれないなんて
思いもしないじゃないか
冷たい水で顔を洗ったら
少しは新しくなれる気がした
刺すような空白のあと
泥だらけの手をした懐かしいぼくが
僕の顔を包んで笑うのだった
僕はぼくともっと
話をしなければならない
点と点を線で結ぶように
ぼくが僕であることを確かめるために
定刻通りに今日も
乗るべき列車は駅にやってきた
間に合わなかった僕に
迷いはもう無かった
表皮だけ、
剥離をいざなう
恍惚が
虹彩(褪せた
踝の(踵の(白い、みかんの
アルベド(痛覚はない)
下
亀裂、と言うよりも
ぶつけて割った軽石
(の
手触りだったはずだった、陽
が照らし
毛根(毛髪
表皮だけ、
炭酸の抜けた
コーラの
気泡の代わりに
詰め込んで
(、(と
喉を慰撫する
モニター越しの
声(帯
土踏まずへ捧げる
拷問
空(地中深く
ざらざらの、眼
が照らす
網を振っても
網目のない網には
踝と
コーラ
だけ
飛び込んでくる
今日も活きのいい
誰か(の(悲しみ(
一匹(網)
水溜まりの中
びちびち
ふるえる瞳で
ぼくを(ぼくを(
見つめている
わからないことからはじまる詩作の自由
詩は「わかる」ために書くものではない。むしろ「わからない」ことから始まる。言葉を分解し、無心に組み直すことで、意味ではなく感覚が立ち上がる。そのとき詩は、伝達ではなく接触となり、読み手にとっての鏡や触媒となる。
・わからないものへの切り込み方
なにが書かれているのかわからないものを読もうとするとき、どう切り込もうか、いつも考える。まず探すのは、わからないものの中にある「違和」だろう。
それは文体の変化や語彙の選択、論理の飛躍かもしれない。テキストの中には何かしらのパターンや秩序がある。それを違和感として無意識に探っているのだ。
その違和がとても違和だったとき、それは作者が意図的に残したものではなく、むしろ消そうとしても消せなかった何か——最も本質的なものが宿っているという感覚がある。その痕跡が詩に馴染んでいるかどうか。
・接触という楽しみ
結局のところ、作者がなにを言いたかったのか、詩がなにを伝えたいのか、ではない。わたしがこの詩に対してどう掴んでいくか、どう触っていくか。わからないからこそ「まだ見えていない構造」への入り口を自分で設定する。楽しむべきは、接触だと思う。
芸術を見るように鑑賞するのか、文学を読むように納得するのか。書き手の癖としても、読み手の癖としても偏りはある。その中でやはり、自分の思っていない方向が現れることを素直に楽しめるかどうか。意味を重視して書いている人は意味を探してしまう。自分の傾向を自覚した上で、あえて真逆のアプローチを取ってみる。そうすることで「自分の思っていない方向が現れる」瞬間を楽しめる。
間違っても問題はない。詩に近づきすぎても遠すぎても、気づきは得られないかもしれない。その距離感。一連を取っても、コトバの並びを見ても、まるで楽器の調律をするみたいに、詩との間合いを微調整していく。その「ちょうどよい距離」は詩によって、その日の自分によって、きっと変わるものだ。
・書かれていないものを読む
書きたいことが見えない、何も訴えてこない——それは、書かれていることから書かれていないものを想像できないからだ。鑑賞者であれば、作者の意図とは無縁の世界にいるべきなのかもしれない。
詩の中を歩こう、詩に触ってみよう。この完成品ならば、どういう方向に読み手は引っ張られるだろうか。その道筋を自分の中で立てておきたい。それが裏切られるから、全く予想がつかない方向へ読み手は読解するから、作者として考える価値をいただくものだと思う。
詩という完成品の向こう側にいる人間、その人の癖や迷いや、思わず露呈してしまった何か——詩を通して人間そのものがにじみ出てきてしまう。なにを書いたのか、ではなく、なぜこうなったのか。なぜこうでなくては成立しなかったのか、を作品から逆算する。
・読み手に委ねること
「言いたいこと」は、読み手が勝手に読み取るものだ。だから作者は逆に、読み手を引き寄せるように、覗かせるように仕掛けなくてはならない。読み手が自由に触れるように、風通しも、オブジェクトも、モノやコトも、そうあるように配置する。どこかなにかに触れ、読み手それぞれになるだけ。
詩が読み手を変容させるのではなく、読み手がその詩に触れることで、より深く自分自身になっていく。詩は鏡のようで、触媒でもある。
・詩にしかできないこと
散文で説明できること、エッセイで明確に言い切れること、小説として具現化できるなら、わざわざ詩にする必要がない。でも、どうしても一つの言葉に収まらない、立ち上がってくる何かがある。だから詩という形を取らざるを得ない。
詩に近づきすぎてはいけない。かといって遠すぎてもいけない。難解・わからない、のひとことで終わっても、それでいい。無理に理解してもらう必要もないし、万人受けを狙う必要もない。詩自体が人を選ぶ。なにかしら楽しんでくれたらいい。理解されなくても、評価されなくても、ただ楽しんでもらえれば。
その楽しみ方も人それぞれで。手探りを楽しむ人もいれば、音の響きを楽しむ人もいるし、わからなさ自体を面白がる人もいるだろう。
「意味の伝達」ではなく「感覚と自由の共有」に重きを置く。読み手に委ねられ、詩そのものが人間のように「生きて」変容していく。そのプロセスを楽しむことこそが、詩の醍醐味なのだと思う。
2025-08-28初稿
2026-03-05改稿
うどん
たそがれの食卓にあるうどんが赦せない
うどんをのみこむことだけが昨今のわたしの労働だというのに
あたたかなうどんに遅れたおろかな自分が赦せない
さきほどまで夕陽が頸を切っていた
わたしの生涯は すでにこの うどん のように のびて しまった
にょろにょろのぬるい素うどんをすするわたしの頬をゆるい湯気がなぜてゆく
それは夢のなかの肌ざわりのようだ
うどんに罪はあらねども それはじゅうじゅうわかっているのだが
無抵抗のまま咀嚼され わたしの胃の腑におちてゆく
うどんが憎い
憎くてたまらぬのだ 今日は
うどんレッスン
強いられて今日もうどんに向かう
拒む術なく望むところでなく
首の廻わらぬわたしのうどんレッスン
サヌキでもイナニワでもなく
三玉百円のうどんパラダイス
春夏秋冬一日三食自業自得の一年中
米に見放された男が毎日おめおめと
(ふざけんな!)
トウフの角に頭ぶつけてうどんパーティー
ロンドンへも香港へもハワイへも行けず
新聞読めず、誰が死んだかも知らず
二進も三進も行かない男のうどんレッスン
云うだけの男が毎食素うどん啜る
奥さん!わたしはうどん男
奥さんの肌より白いうどんをぐつらぐつら
煮込み煮込んで忍耐のうどんレッスン
炎天の道路をピンポン、蚤のごとくに跳ねつづけ
枯葉の噂に猫とひそかに頬被りして逃げつづけ
降りしきる雪を湯気に受けながら
散りしきるサクラを鍋に浮かべながら
啜りつづけても終わらぬ男のうどんレッスン
雲のようにうどんが頭に浮かんで離れない
来る日もわたしはうどんに試される
沸騰したお湯に蠢くうどんと愚鈍な男をぶちこみ
昆布スープと想い出加えてぐつらぐつら
お好みまで煮込んで一丁あがり
奥さん!地獄うどんはいかがです?
いざ、心ゆくまで地獄谷のうどん天国
一味唐辛子を赤い雪のように降り降らせ
真っ赤に染まった素うどん啜り咳き込んで
汗と涙を流して呑み込めば
曲がりくねった無用の労働と、踏み迷った道路が問題なのか
潔く人間やめてうどんになれと云うのか
うどんを毎日食いながら
うどんの真意を理解できないわたしに
毎日支払いの疫病が浸蝕して来る
毎日破産の津波が押し寄せて来る
魯鈍な男のうどんレッスン
寝不足の充血した眼で今朝もまた
うどんと対峙する試練が今のわたしの労働なのだ
今日も今日とて有無を、倦むを云わさず
屋根の上、黒い鳥たちが待機するアバラ屋で
沸騰する忍辱のうどんを啜る
妻はまだ押入の中
正午過ぎまで夢から出て来はしない
これには根強いいわれがあるのであるが
今は勤しめ
うどんレッスン!
地層をめくる時 基山高瀬
玄関のドアを閉めると
世界が一つ、静かになる
ブレザーを壁にかけ
リボンタイを解く
スカートのホックを外す音が
遠い山の音のように響く
今日のわたしは
この制服という薄い地層を
一番上に重ねてきた
風や視線や言葉を
受け止めてきた層を
一枚だけ めくる
それは
次のページをめくるような
優しい動作
肩紐が滑り落ち
少しの隙間
胸が
今日一日の
呼吸の残りを
ゆっくりと 吐き出してゆく
鏡に映るのは
今 薄くめくったばかりの
新しい表面
その面は
薄黄灰のリネン地が寄り添い
羊歯類の刺繍が
わたしの呼吸に合わせて
静かに息づいている
湿度を残した姿で
肌は これまでのすべての層を
内側に抱えたまま
柔らかく光る
鎖骨のくぼみは
古い川床の跡
腰の曲線は
長い年月で作られた三日月湖
太ももの内側は
まだ誰も踏み入れていない
柔らかな土壌
手のひらで
自分の胸を覆う
鼓動が
地殻の奥から伝わってくる
鏡の中の目が
じっとこちらを見つめ返す
観察されるのは
恥ずかしいのに
それは
自分の一部だから
やっぱり 愛おしい
「ここまで積み重なってきたんだよ」
声に出さずに
唇が囁く
縁に指をかけ
少しだけ布をずらす
空気が触れ
そわっとする肌が
新しい層の始まりを
感じている
ここは
わたしという大地の
最も深いところまで繋がっている
少しの隆起も
小さな断層も
全部 この地層の一部
優しく覆い
「よく、重ねてきたね」 と
自分に言う
さらりと乾いたTシャツを
頭からかぶる
袖を通す
裾が腰に落ちる瞬間
ふわりと
新しい地層が
一番上に加わる
鏡に
一瞬だけ目を合わせて
「また明日 この大地に 一枚重ねよう」
裸足の足音が
部屋の床に優しく沈む
地層は 静かに 息を続ける。
Inner necessity 1 #アイラシヤ大陸
時代 現代
場所 東京都
新大久保の湿った夜風が、職安通りの街灯に群がる羽虫のように、エリカの露出した肩をなでる。
エリカ、25歳。自称フリーター。
彼女がいわゆる「頂き女子」の教則本を聖書(バイブル)のごとく信奉するのは、単なる怠惰や享楽からではない。実質賃金が下がり続け、正規雇用というセーフティネットが機能不全に陥ったこの国において、彼女にとっての「経済合理性」とは、時間給の労働で心身を摩耗させることではなかった。対人関係という資本を極限までマネタイズし、贈与経済の隙間から「富の再分配」を強引に引き出す――それだけが、彼女に残された唯一の生存戦略だった。
彼女の身なりは、その「市場価値」への徹底的な最適化の産物だ。
緩やかに波打つアッシュベージュのエクステ、泣きはらしたような潤みを見せる涙袋のラメ、そして不自然なほど黒目が強調されたカラーコンタクト。それらは個性の主張ではなく、客という「観測者」が好む記号を正確に配置したインターフェースだった。
身体のラインを際立たせるタイトなミニ丈のニットワンピースは、韓国通販サイトで「高見え」を基準に選ばれた化繊の質感が、彼女の若さを残酷なまでに安価に包み込んでいる。指先には、生活感を完全に削ぎ落とした、凶器のように尖ったロングポイントのネイル。スマホの画面を叩くたびに、カチカチと無機質な音を立てる。
「……今日は引きが悪いな」
色あせたガードレールに腰掛け、虚ろな目で通りを眺める。再開発で洗練されていく新宿の摩天楼と、その足元に取り残されたまま、いつまでも浮上することのない自分自身の影。
スマホの画面には、担当ホストからの催促とも甘えともつかないLINEが通知の波となって押し寄せている。それは、孤独を商品化する「感情労働」の連鎖だ。彼女が街で「徴収」した金銭は、夜の街のエコシステムへと即座に還流され、実体経済には決して現れない数字の羅列として消えていく。
そんな彼女の前に、一台の黒塗りのハイヤーが音もなく停まった。
降りてきたのは、50代後半と思しき仕立ての良いスーツを纏った男だ。雑多な喧騒にはあまりに不釣り合いな、静謐な威厳を漂わせている。
「……ホテル代別、3万。延長は1万ね」
エリカはいつもの無機質な定型文を投げた。男は驚く様子もなく、内ポケットから厚みのある白い封筒を取り出した。覗き込めば、そこには新札で10万円が入っている。
「……話が早いじゃん」
「事が終われば、さらに同額を約束しよう。……私の話を聞いてくれるなら」
エリカは訝しげに眉をひそめた。新手の宗教か、あるいは特殊な性癖の隠語か。だが、ホストへの支払いを思えば、追加の報酬は何物にも代えがたい。
「……いいよ。じゃあ、あそこのホテルでいい?」
エリカが色褪せたラブホテルの看板を指差すと、男は無言でハイヤーを待たせ、流しのタクシーを停めた。彼女をエスコートするように後部座席へ促す。
「パークハイアットまで」
行き先に、エリカの心臓がわずかに跳ねた。
「おじさん、何者? 立ちんぼの女を連れて行くような場所じゃないでしょ、あそこは」
男は前方を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「私も運命の渦中に投げ込まれた一人なんだよ。……見てわかるかどうかは分からないが、私は非常に焦っている」
エリカは男の横顔を盗み見た。整えられた外見の奥底には、見たこともない不安と焦燥、そして現実を侵食し始めた「何か」の残像が色濃く映っていた。
タクシーは、日常と非日常の境界線を越えるように、高層のホテルへと滑り出していった。密閉された車内で、エリカの纏う安価な香水の甘い香りが、男の抱える「絶望の存在証明」と混ざり合っていく。
三月の夜十時
明かりの消された家々の間を
吐息を薄めたような風の中
丘を降りて、道を歩き、川筋へ至ると
蕭々と流れる音に包まれる
子どもの頃、
荒川や想い川の桜の下で聞いた
あの音はしないし、
あの風は吹かない
ありもしなかった虚偽の懐かしさが心に浮かぶ
我がふるさとは三つ滅び、十一度、転居した
あれやこれやの風景を見ても、つまらない、
と、思ったとたん
子どもの頃、小川に浮かべた葉を追って
どこまでも走った、あの時の風が
頬を不意になでて
ポピーの花が揺れた
闇の中を音もなく走る黒猫たちよ
お前たちを称えて、世界は今夜も四次元構造
半端に長く、終わりそこねた詩が
小雨になって降り、私を満たす
ゆびさき
貴方の指先が
私の髪に触れようとして
触れなかった理由は
言いかけてやめた言葉と
同じなのでしょう?
世界一甘い音
春の日向みたいな
貴方の声が
私の名前を
はじめて呼んで
振り返る私は
声が出ないの
だめ人間
わたしは だめ人間
できないことが 多すぎる
上手に 生きられない
私の生き方は ぶさいく
器用なあなたが うらやましい
わたしも あなたのように
ふるまわなければ と思うけど
そうしたくない と思ってもいる
不器用な自分も 嫌いじゃないから
きれいに生きたら わたしじゃない
できないことが 多くても
今まで 生きることは できた
わたしをできるのは わたしだけ
どんなに だめでも
わたしは わたしを 生きていく
花とティー
波がざわめいている
あちらからこちらから
一途な振りをして顔を出し
満ち足りていると勘違いする
花は確かにあるだろう
ティーカップは実際
現実としてここにある
触れずとも それはあるのだろう
信じてはいる 花のことは
しかし香らないから
かさりと落ちる音が
聞こえないから
引き波 光りながら
浮き沈みする平たく四角い花
琥珀の中には白いアート
どちらも 揺れて
光りながら
花を運んでゆくのは何か
目の前の白い模様はどこからきたか
砂浜で自分の歩幅を探るように
カップの中をゆっくりとかき混ぜる
揺れて
運ばれてゆくのは 自分か
華々しいゴール
参考書を10冊ほど
ブックオフに売りにいった。
3冊買取で15円だった。
5円玉は新しく金色に輝いていた。
もう、受験しないと決めてからも
参考書をなかなか手放せず2年経っていた。
買取が付かなかった本には
びっしりと書き込みがあった。
その書き込みの価値は、同じ道を歩いた者だけが知っている。
なぜなら、過去の出題分を赤ペンで
マークしていたからだ。
だけど、私の所有物ではなくなった途端、
妙な高揚感が立ち上った。
私はゴールをしたのだ。
受験には失敗したけど
やり残したことはない。
勉強している時は
よく歯茎が腫れていた。
3年ほど受けたが
受験の後はいつも歯医者にいくことが恒例であった。
痛む場所は、いつも決まっていた。
参考書を手放して、やっと気づいた。
よくやった。よくやった。
私はここにいる。
あなたのおかげで
ここにいる。
春の風、暖かい日差し。
新しい何かが始まる
そんな気がした。
風船
今まで
床を這いつくばってきた
塵らなどと、呑気に話していた
唯一の風船が
浮き始めて縁側から飛び出し
私は慌てて鍋の火を止めて追いかけ
空には消えず、屋根の少し上付近で止まった
人工衛星の診断は浮病 浮遊といった喜びではない 燻る横顔の静けさにもない まるでそこに天井が張られ 不可逆に狭窄する 軟膏を塗りなさい どうやって 屋根の少し上を さわるのか
長過ぎる脚立 犬の散歩中 橋台に擬態しているか 密会中か 喧嘩中か 雨宿りだけは違う佇みだった 長過ぎるというのは曲がり角だ 犬と私とで脚立を運ぶ 何件の垣根に穴を空けようか 犬が冗談を吐いて片眉を上げる 縦に持つなど考えられないほど長過ぎた 屋根の少し上の上までの脚立の意外な短かさ
軟膏を塗った 一時間後 雨は降った そもそも風が文字通り船を押している 軟膏の 丸い 染み アレルギー反応として浮き出る真下の土 大地 犬が毎晩掻きむしるようになった 私と脚立の夕立ちのような不眠症
雨が雨で軟膏以外にやりようがあるなら
ひたすらに駆けていたというのに
広々とした晴れの日に湿布を貰って
帰宅するまでに嵐は来る
湿布が役に立たなくなるまで
あの橋から見下ろした記憶が流れ去る
雷が風船を芥に裂いた
湿布の方が面積が大きいと風船に貼れないのだ
説明書に患部が雷で裂けた場合、湿布も雷で裂けばよいなどと
舌は回り
犬に噛み千切らせれば良いなどと、歯が代わる代わる癒着していく
せっせと生活アレルギーの土を掘っているのだ 私 脚立の立ち上がり 風船の一枚一枚よじ登り 細い煙草ではスイカ割りができない 夏は死ぬ 壊れてしまう錨の錆び 泡が無謀に立ち上がり ああ唐突にやはり風は死ぬ 屋根の少し上にまた立ち止まる 脚立に手をかけるとすっかり眠って落ちる雨と雨 雨の中に湿布を投げ込むと犬が持ってくる 穴を持ってくる 素晴らしい穴 もう二度とは掘れない穴 浅すぎる穴は自決したばかりの空間を舐めて また浮く 風船でないもののように
チキンナゲット
その曲が流れたとき
彼女は静かに涙を流した
探しても見つからない
言葉と涙が
ポトリと床に落ちた
曲が終わると
「何食べようか?」
うつむいたまま
「外食べに行こ」
背中を向けたまま
「先行ってて」
外へ出ると
背中に顔を洗う水の音が
ドア越しに
出てきた彼女は
待つ僕を追い抜き
階段を下りて行った
ファーストフードの
チキンナゲットを
オーブンで温めた
チンと音が鳴った仕上がりは
アルミホイルが貼りついていた
二人で笑い
二人ではがした。
諦めて
ちぎりながら食べる
チキンナゲット
二人で分けた
3ページ目(10)
10
父は少し間を置いてから言った。
「……大丈夫だよ」
「しばらく入院すれば、よくなるって」
それから、少しだけ声をやわらげる。
「救急車、呼んでくれてありがとう」
凛はうつむいたまま、小さくうなずく。父は続ける。
「初めてだっただろ。疲れただろうし……」
言葉を探すように一度止まり、
「何か食べて帰るか」
と、言った。
凛は父を見なかった。
「お父さん」
声は低かった。
「携帯に出なかったから……」
少しだけ息が揺れる。
「会社に、電話したの」
父の動きが止まる。
廊下の空気が、そのまま固まったように感じた。
凛は下を向いたまま、続けようとする。
でも、声が出ない。
視界が滲む。
息を吸う。
うまく入らない。
もう1度、吸う。
それでも足りない。
唇を噛む。
それでも、こぼれる。
「……ごめん」
小さな声だった。
「ごめん……」
「ごめん……」
何に対してなのか、自分でも分からない。
知らなかった。
私、何も知らなかった。
家のことも、母のことも、父のことも。
考えていなかったわけじゃない。
でも、見ようとしていなかった。
こんな自分に、父がリストラされたことを話すわけがない。
「ごめん……」
言葉が止まらない。
「ごめん……ごめん……」
声が揺れる。
うまく息ができない。
父は一歩だけ近づいた。
どうしていいのか分からないまま、凛の背中に手を置く。
「……大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
ただ、そう言うしかなかった。
凛はまだ泣いている。
父は背中をさする。
父は口を開きかけた。
「……凛」
そこから先が続かない。
一度、口を閉じる。
もう一度、開きかける。
それでも、何も出てこなかった。
「……行こう」
父はそう言った。
凛はうなずく。
顔を上げることがどうしてもできなかった。
病院の外に出ると、夜の空気が少し冷たかった。
父は手を上げてタクシーを止める。
「近くのコンビニまでお願いします」
後部座席に乗り込む。
ドアが閉まる音がやけに大きく響く。
凛は遅れて、体を震わせた。
車が動き出す。
凛は視線を落としたまま、ゆっくり息を吸う。
うまく入らない。
もう一度、吸う。
吐く。
それを繰り返す。
タクシーの中だ。
今にも溢れそうな感情を抑えなければならない。
今だけでも頭の中から追い出そうとする。
それでも、消えない。
父は、凛の様子が気になって仕方がなかった。
タクシーの運転手が言う。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「えぇ、えー……大丈夫です。あ!そこのコンビニで大丈夫です!」
コンビニの明かりが見える。
車が止まる。
父が料金を払う。
凛は急いで先に降りる。
コンビニの自動ドアが開く。
眩しすぎる白い光の下、棚が並んでいる。
おにぎり、弁当、飲み物。
いつもと同じはずの場所なのに、その便利さが今の凛には何の意味もなかった。
何を選べばいいのか分からない。
父がカゴを取る。
「何か食べられそうなの、取っていいから」
凛はうなずく。
でも、手はすぐには伸びない。
早く家に帰りたかった。
食べたいものを買うことよりも、早くここを出ることを優先して、パン売り場のプレーンなロールパンを選び、かごに入れる。
「それだけか?もっとしっかり食べないと……」
そう言いながら、父は総菜コーナーで品定めをしている。
凛は少し、苛立ってきた。
気を紛らわせるように、文具コーナーを見る。
このコンビニには無印良品の商品が並んでいる。
茶色を基調としたノートや手帳。
それを見ていると、紙の匂いを思い出す。
少しだけ、気持ちが落ち着く。
父は買い物を終えてレジへ向かう。
電子音が鳴る。
袋に入れられる。
凛が受け取る。
自動ドアが開く。
夜の空気が流れ込む。
凛は袋を持ったまま外に出た。
店内の明かりが背中に残る。
何も言わないまま、二人は立ち止まる。
玄関のドアを開ける。
家の中は静かだった。
明かりはついているのに、人の気配がない。
凛は靴を脱ぎながら、少しだけ動きを止めた。
こんなふうに母がいない家に帰るのは、久しぶりだった。
父は後ろで鍵を閉める。
台所から、かすかに匂いがする。
生野菜の匂いだった。
さっきまで、そこにいた。
流しの横のまな板に、刻みかけの玉ねぎが残っている。
包丁も、そのまま置かれていた。
途中で止まったままの形だった。
父は台所に入り、テーブルの上を軽く片付けた。
それ以上は手をつけない。
途中のまま残されたものに、触れないようにするみたいに。
買ってきた袋をテーブルに置く。
父は中身を取り出す。
ロールパンしか選ばなかった凛のために買った
おにぎり、卵焼き、唐揚げ、カップのスープ。
自分の分には、幕の内弁当。
凛は椅子に座ったまま、袋から出てくる食べ物を見ていた。
手を伸ばして取り出したのは、ロールパン。
それなら食べられそうだった。
「ロールパンだけじゃ足りないだろ。少しずつでもいいから栄養のあるものを食べたほうがいいよ」
父はそう言いながら、惣菜を電子レンジで温める。
電子レンジの音が鳴る。
静かな部屋に、その音だけが続く。
温め終わったものを、父がテーブルに並べる。
スープにお湯を注ぐ。
湯気が立つ。
凛はパンの袋を開ける。
ひと口、食べる。
味はよく分からない。
でも、飲み込めた。
父も箸を取る。
一口、食べる。
少しして、父が箸を置いた。
「……さっき」
凛は顔を上げない。
「ごめん、って言ってたけど」
少し間があく。
凛はパンを指でちぎる。
しばらくして、口を開く。
「救急車で」
それだけ言って、止まる。
「いろいろ聞かれて」
「お母さんのこと」
「分からなくて」
父は黙って聞いている。
「年齢も、ちゃんと出てこなくて」
「持病ありますかって聞かれて」
「……分からなくて」
凛は息を整える。
「何も知らないんだなって思って」
父は少しだけ眉を寄せる。
「……悪かったな。大変な思い、させたな」
凛はすぐに言う。
「違う」
父は少しだけ顔を上げる。
「ん?じゃあ、何だ」
凛は答えようとする。
言葉を探す。
でも止めない。
「私が知らなかったのは」
「そういうことじゃなくて」
「お母さんのことも」
「家のことも」
「お父さんのことも」
声が少しだけ揺れる。
「ちゃんと見てなかったっていうか」
「何も、分かってなかった」
一度、息を吸う。
「分かろうとも、してなかった」
父は言葉を失う。
箸を持ったまま、止まる。
凛の方を見る。
今まで聞いたことのない言葉だった。
こういうときの凛は、もっと違った。
はっきりと責めるように言うはずだった。
それがない。
何かが違う、と思う。
でも、それが何かは分からない。
父は思わず言う。
「……凛」
「それは違うだろ」
すぐに続ける。
「お前はまだ子どもなんだから、親のことを全部分かってる必要なんかない」
「そんなもんだろ」
「そんなことで——」
「違う」
凛が言う。
少しだけ強い声だった。
「そういうことじゃない」
父は止まる。
凛は続ける。
「私は」
少しだけ詰まる。
「自分が嫌になったの」
「お母さんのこと、気づけなかったこと」
「お父さんのことも」
一度、息を吸う。
「自分のことしか考えてなかったことが」
「嫌で嫌で仕方ないの」
父は言葉を失う。
そのまま、誰も何も言わなかった。
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9
横浜駅で電車を降りた。夕方のホームは人であふれていた。凛の父、朝倉和真は人の流れに押されながら歩き、ポケットから携帯を取り出す。画面を見た瞬間、足が止まった。凛からの着信が並んでいる。1件や2件ではない。いくつも続いていた。その下に、見覚えのない番号がある。
和真の心臓が強く打つ。
後ろから肩がぶつかった。
「すみません、止まらないでください」舌打ちまじりの声が飛ぶ。和真は我に返り、慌てて人の流れから外れた。ホームの端にある椅子まで歩き、そこに腰を下ろす。胸がまだ速く動いている。和真はすぐに凛の番号を押した。数回の呼び出し音のあと、凛が出た。
「凛、すまん。今気づいた……どうした」
息がまだ整っていない。
「お母さんが倒れて……今、病院」
和真は言葉を失った。
「え……大丈夫なのか」
「いま先生の説明を聞いてるところ」
凛の声は落ち着いていた。
「どこの病院だ」
「青葉台総合病院」
和真はすぐに立ち上がった。
「分かった。今から行く」
「うん」
通話はそれだけで終わった。和真は携帯を握ったまま、しばらく動かなかった。数時間前の着信が並んでいる。凛はずっと連絡を取ろうとしていた。和真は改札へ向かった。
病院の廊下は静かだった。凛は椅子に座っている。携帯を握ったまま、うつむいていた。和真は凛の姿を見つける。歩み寄る。だが、すぐそばまでは行かなかった。少し離れたところで立ち止まる。
「凛」
凛は顔を上げない。
それ以上、和真も何も言わなかった。
しばらくして処置室の扉が開いた。白衣の医師が出てくる。和真を見る。
「ご主人ですか」
「はい」
「奥様のことでご説明があります。こちらへどうぞ」
医師は説明室の方を指した。
凛は立ち上がる。携帯を握ったまま、二人のあとを歩く。小さな部屋だった。机と椅子があるだけの簡素な部屋。和真と凛は並んで座る。凛はうつむいたまま顔を上げない。医師は椅子に腰を下ろした。
「まず、命に関わる状態ではありません」
和真の肩の力が抜けた。
「ただ、かなり無理をされていますね」
医師は続ける。
「疲労と脱水が重なった状態です。血圧も少し高くなっています」
和真は黙って聞いていた。
「今日はこのまま入院して、点滴を続けた方がいいと思います」
和真は深く息を吐いた。
「そうですか……よろしくお願いいたします。」
それ以上の言葉は出てこない。説明は長くはなかった。
部屋を出る。廊下の空気が戻る。和真は凛の方を見た。凛はまだ顔を上げない。携帯を握ったまま、視線を落としている。和真は少し近づいた。だが、触れはしなかった。
「大事じゃなくてよかったな」
和真はそう言った。
凛は小さくうなずく。
「うん」
それだけだった。
和真は凛の横に立った。
凛は椅子に座ったまま、顔を上げない。和真はその様子を見ていた。疲れているだけかもしれない。今日のことが大きすぎたのかもしれない。それでも和真は、凛の横顔に、どこか違うものを感じていた。和真は廊下に残ったまま、しばらく動かなかった。
星
星が一つ消えました
東の空の明るい星の
隣にひっそりあった星でした
星が一つ消えました
風に囁き森に歌う
小さな小さな星でした
星が一つ消えました
地上の者は明るい星の
眩さに心を奪われ
誰もこの小さな星の
消えたことを
気づきませんでした
それでも星は幸せでした
自らの光を放ち尽くし
満ち足りて
消えていきました
mei.
銀の瞳は遠い彼方に
かつての夢を見る明け方のつめたさのなか
冷蔵庫の振動音を聴いている
これが愛でなければ(私と猫の愛のこと)
わたしはここにいる
きみとここにいる
きみはここにいる
わたしとここにいる
わたしはいつか消える
きみもいつかは消える
永遠はわたしの中にある
永遠はきみの中にある
だからきみはいつか
わたしの永遠になり
そしてわたしはいつか
きみの永遠になる
これより愛と呼べるものが
この世界にあるだろうか
短歌一首
今日またや
めくれるぱじゃまの
すき間より
本音もれくる
月曜の朝
猿蟹合戦を平和的な話しに出来ないかと考えてみた
昔話しの「猿蟹合戦」を合戦が無くても物語が成立しないかと思い立って
「猿蟹合戦」の蟹が殺されずに平和に物語が終わる様に書いてみました。
場所によっては柿でない所ある様ですが、自分が聞いた話しは果実の柿だったので柿で話しを進めます。
猿は蟹が持っているオニギリが欲しくて、蟹に持っていた柿の種と交換してくれと話しました。
蟹は快く猿が持っている柿の種と自分が持っているオニギリと交換しました。
蟹は柿の種を一生懸命に育て柿の実を実らせました。
実った柿の実は木の上の方に実っている為、
木に登れない蟹には柿の実を採る事が出来ずに困っていました。
そこへ猿が柿の木に登り美味しそうに柿の実を食べ始めました。
腹が立った蟹は猿に「俺の柿を勝手に食べるな」と怒鳴りました。
それを聞いた猿は平然と蟹に言いました。
「お前が育てた柿の種が実らせた柿を食べられずに見ているから、
木に登る事の出来る俺が代わりに食べてやっているのさ」と言って
蟹の言葉に耳を貸す事なく柿を食べ続けていました。
蟹は目の前の理不尽な出来事に悔しい思いをしましたが木に登れない蟹には、
どうする事も出来ませんでした。
蟹は、仕方なく猿が口から吐き出す柿の種を集める事にしました。
そして集めた柿の種を蟹は、また一生懸命に育てる事にしました。
懲りずに種から柿を育て始めた蟹を見て、蟹と仲の良い臼と蜂と栗が来て言いました。
「蟹さん、俺が体当たりして柿の実を落としてやろうか?」と臼が言いました。
「柿の実が落ちても柿の木が折れるかもしれない。」と蟹は臼の申し出を断りました。
「それでは、俺が柿の甘い汁を取って来てやろう。」と言って蜂が柿の実に向かって飛ぼうと構えまた。
「柿の実は歯ごたえも大事だから」と蜂が飛び出さない様に蜂の肩を抑えて蜂の申し出を断りました。
栗が怒りを露わにしながら「俺が毬(いが)を纏って猿を脅して柿の実を猿から取って来てやる。」
でも蟹は興奮する栗を宥めながら
「それでは強盗と同じだから止めておこう。」と栗からの申し出も断りました。
皆の申し出を断り、心配してくれる気持ちは嬉しいと言いながら蟹は笑顔で皆を見送りました。
やがて、多くの種が順調に育ち、それぞれに柿の実を実らせましたが、
今年も柿の実は木の上の方に実っているので蟹には採れませんでした。
また猿がやって来て沢山の柿の木を見て一番実が付いて居る木に登り柿を食べ始めました。
「今年は、柿の実で十分に冬を越せそうだな」と満足そうな顔をしていました。
ところが食べても、食べても無く成らないし、住み家にも入りきらない柿の実を見て猿は
「食べ切れない柿を腐らすのは勿体ない」と思って。
蟹の居る所へ柿を抱えて降りて来ました。
蟹は猿から柿を受け取り満足そうに笑いながらハサミの手で器用に柿の皮を剥いて
「皮を剥いて食べる方が美味しいよ」と皮を剥いた柿を猿に差し出しました。
皮の無い柿を食べた猿は感動して、毎年、蟹に柿の皮を剥いて貰う為に
柿の実を蟹の所へと持ってゆく様にしました。
蟹は柿の実がなる頃に猿が持って来る柿の皮を剥いては
猿だけでなく、臼や蜂や栗達にも食べさせました。
柿を貰った臼は餅を蜂は蜜を栗は毬の衣をお礼に持って来る様に成り、
蟹は厳しい冬を豊かに越せる様に成ったそうです。
めでたし めでたし 良かったね。
(終わり)
少し話しを省略していますが、被害者の蟹以外のキャラクターの考え方は変えずに
猿に柿をぶつけられて蟹が死んで、蟹の子供が周りの助けを借りて敵討ちをする話しを
読む人への教訓的な事も残しながら平和に終わらせた様に思っているのですがどうでしょう?
2度目の逢瀬
まだ私を信じきれていないあなたと
散る桜を見ている
ないものばかりを欲しがった
茶店のBGMは
ヴェルヴェットアンダーグラウンド
キャンディ・ダーリングの分まで
恋して
生きる
余熱
雲がたわむ
風にさらされ
足を止め
掛けられていた
体操服
余熱
白も黒も
分かたれない
濁る
灰
── 碧井雫
#碧井雫 #詩 #現代詩 #言葉
ただならぬ 4
永久歯の胎内で乳歯がむずかる
他人めく自分がわたしをのぞいている
饅頭の含羞餡子が包んだ
命の熱りが冷めたら自首します
春
春風が吹く
みどりがばさばさと揺れる
暖かい空気が
中身をいっぱいに満たす
わたしは、春の入れ物だ
春は神様だ
この世界にいるみんなが
春が来ると顔を出す
みんな春が来るのを
待っていたみたいに
春は救いだ
寒くて暗い、狭くて白い
静かな箱庭のような冬から
春は手を差し伸べている
それをみんな、掴んでいる
だから、春は怖い
優しく、暖かい手を差し伸べて
いつも命を見ている
目がちかちかする程の
中間色を抱えて
でも、春はあるだけ
そこにいて、世界を見ている
冬から逃げたみんなを
よく来たねと抱きしめて
優しく微笑んでいる
春 はる ハル
春は来る
三つの国を渡り歩いて
春は巡る
優しい笑顔を向けて
春は歩く
もう夏の匂いだ
さようなら、春
黎明
遠い静謐の
淵に生まれた星たちが
舞い降るように
枝にとまる
枝にとまって
幾千の白い花になる
花びらの一枚一枚が
薄翅のように息づいて
やがてそれが
一つの調べに変わり
空に漂い昇るのを
微睡む窓が聴いている
時満ちて
薔薇色の明け染めに
星の姿に戻って空へ帰る花たち
裸になった枝枝に
露が煌めく
目覚めた窓は瞼を開けて
新しい一日への想いを
ゆっくりとあたため始める
収める ― 白石 × 神谷 4 ―
三月も終わりに近づいていた。
白石は机の上に並んだ書類を順に確認していた。
現場から上がってきた報告をまとめ、記録に残すだけの処理だった。
確認が終わったものから重ねていく。
隣の席から声がかかった。
「白石さん、例の件、終わりました?」
顔を上げる。同じ係の中村だった。
「ええ、今まとめています」
「前回どおりで?」
一瞬だけ、市長の声が重なった。
「はい」
中村は頷いて、画面に視線を戻した。
白石は書類を揃えて留め、ファイルを開き、順に挟む。
閉じて、背表紙の番号を確かめた。
「これ、確認取れてました?」
白石は一瞬だけ言葉を探した。
「……問題ありません」
「そうですか」
中村はそれ以上何も言わず、画面に向き直った。
白石は手元の書類を開く。
もう一度、最初から読む。
受話器に手を伸ばしかけたが、止まり、そのまま手を引いた。
書類を閉じる。
立ち上がり、キャビネットを開ける。並んでいる背表紙の間に差し込む。
奥まで押し込むと、他のファイルと同じ位置で止まった。
扉を閉める。
席に戻ると、机の上に別の書類が置かれていた。
白石はそれを開く。
文字を目で追う。
手が止まった。
ページをめくる。
書類を閉じる。
もう一度開く。
日付を書き入れる。
書類を重ねる。
手続きは、滞りなく進んでいた。
#連作
#白石×神谷
そのうち 眼裏に 花香る。
一つの丘に対し駆け上がる、息を整えては姿を思います。野草の強さを願うとき 目を凝らせば姿も浮かぶような、ぽつと明かり ともり ぼぉと照らしだす未知に沿って、拍動は抑えきれず漏れた声色はどこへ届くというのだろう。
傷だらけの溝に埋まる、正体を、君と名付けて見ようとした。けれど手紙を書ききれないように、頭に霜を戴く、骨組みを交わし魂がざわめくままに笑みが咲く。両手には持ちきれないほどの小花を摘み、腹を空かせたものが辿り着く場所へ、躰は撓み 歪み 曳かれ裂かれるより、つぶされるより膨らみ 薄く 底に痕を轢いていく。
今宵に参り 白木蓮の蕾 あかぎれ、まだきゃしゃな幹に手をかけ軽く登る、引力を滅したものが。
黄昏を待たずに眠りにつくあとは。星星が揺らめくこと、凪のかなたへ漕ぎ出していた。
水辺は上昇し ここは離れて等しい。地から美しく光を呑み込んだ 月よりもただただ軽い銀盤が。手を伸ばせば直ぐ届くほど、近づく素足で湖に降り立つ。確かに芯と微速を持って、ぬかるみの存在が湛みゆく。空を仰ぐ。なにもない底冷えするような漆黒とやはり、私だけと抱きとめている。
その幸福が、厳しさが射るほどに焼きついて、道を覆って、重くのし掛かる。
ずっと捕らわれている。どうか 定かにはできない けれども、
錆びた釘を置いて行列を成して翔ぶ烏が、方向を定めて暮れていたならば。春はもうすぐにでもやはり落花する。それは木々が生い立ち、目覚ましく逞しくあり、うんと おしゃまなものであれば、見事だろうと。
追い求めているのか、ここにきたばかりで歌も残されない何かを。それとも急かされているのか。ふさがれた 眦の 隅に たよりに 耳をすませては鼻を寄せた。
そのうち 眼裏に またたちはじめる。呼び覚まされる 花香る。
覆水盆に返らず
8月の中頃。気分が良かった私は贅沢をしてみようと思い立った。
お気に入りの青い花の模様が描かれたマグカップにティーポットでアールグレイをこぽこぽと注ぐ。
このマグカップはなぜか私を惹きつける。
何故だろう。
ベルガモットのいい香りが鼻を突き抜ける。
いつもはしないが、テーブルの上を綺麗に片付け、コースターを置きその上にマグカップを丁寧に置く。右手に小説。私はマグカップに口をつけ、またテーブルへと戻し、小説を読み始める。
どのくらい経っただろうか。
こんなにも充実した日は久しぶりだ。テーブルの上を片付け小説をしまう。
ベランダに出て愛用の表が木でできているジッポでマルボロのメガアイスに火をつける。ジッポの火打石が擦られた音が心地良い。
カプセルを砕くとスーっとメンソールの涼しさと、煙草の匂いが鼻腔をくすぐる。どこかの木でヒグラシがカナカナと1日の終わりを告げている。
足元にはきゅうりの馬となすの牛が置いてあった。何故だっけ。
夕焼けで空が真っ赤に燃えている。その光景に思わず涙が出てしまう。誰かと何度も一緒に見た気がする。
こんな日に世界が終わったらいいのに、なんて考えてしまう。思わず拝む。
あの赤い空から隕石が降ってきたりして。そんな不思議なこと都合よくあるわけないよなあ。
くふくふとわらって、煙草を揉み消した。
私は部屋に戻ると、急に焦燥感に襲われた。
変な妄想なんかして、笑ったりしてたのになあ。
その時、ガタガタンと音を立てて部屋が揺れた。急いでテレビをつけると、この辺りが震源の地震が発生したようだ。
―――ガシャン!!!
大きな音に驚いてテーブルの方に目をやる。マグカップが割れている。
お気に入りだったのにな。少し悲しくなって、割れてしまったマグカップの破片をそっと拾い上げる。
指先かは血が出ているのにも気づかずに。
「あれ」
確かに持ち上げた時は欠片で、マグカップは割れていた。だが、私の手の中にあるマグカップは割れているどころか、ヒビすら入っていない。
私は気味が悪くなって、そのマグカップをベランダの床に叩き落としてわざと割った。
破片が散らばる。変な幻覚でも見たんだろう、なんて呑気に思いながらも、不気味さからこのマグカップを早く手放してしまいたかった。
少しの興味もあったのかもしれない。散らばったマグカップの残骸の後片付けを始めようとした。
――だが。
マグカップはまた形を保ったまま、床に放られていた。先程まで無残な姿になっていたはずだ。この目で確認した。なのに、何故。
マグカップを拾い上げてみる。またもやヒビすら入っていない、新品同様のマグカップだ。
暑さにやられて可笑しな夢でも見てしまったのだ。
そう思うことにして、気味の悪いマグカップを私は戸棚の奥に隠すように仕舞い込んだ。
手放したい気も大いにあるが、何故か私の興味をそそる面白さを持っていたので、捨てずにとっておこうと思ったのだ。
このマグカップはもともとお気に入りのものだ。一瞬夢なのか、と思い頬をつねってみて痛かったのは忘れる。
8月の終盤。
そういえば、と思い出しあのマグカップを戸棚の奥から取り出してみる。傷ひとつない綺麗なままだ。
私は好奇心をそそられまた割ってみようか、なんて脳裏を横切った。
私は好奇心でマグカップを勢いよく、以前同様にベランダの床に叩きつけた。
――ガシャン!!!!
すごい音と共に、マグカップの欠片は四方八方へ飛んでいった。
じっとマグカップが再生するのを待ってみる。
――だが
10秒、1分、10分と待ってもマグカップは散々な状況のまま変わらない。
私は興醒めしマグカップの残骸を箒とちりとりで集め、新聞紙に包んでビニール袋に入れ、ゴミの日に出した。
私は久しぶりに写真を見返していた。
何故かずっと見返す気になれずに、新しい写真を撮る。
昔の写真は見る気になれなかった。
自分のお気に入りの一眼のカメラだ。
そこにはたくさんの思い出が詰まっている。
何故か、汗が出てくる。
カチカチとメモリーを覗く。その中に2年前に亡くなった妹の写真を見つけた。
私はとんでもないことをしてしまったと、瞬時に思った。
その写真には手にあのマグカップを持つ妹が写っていた。
『このマグカップお姉ちゃんにあげる』
私が散々に割ってしまったマグカップだった。
『お姉ちゃん青、好きでしょう』
中古で、青い模様の入ったマグカップを探していた時に妹が使っていたマグカップをくれたのだった。
それがあのマグカップだった。どうして忘れていたのか。
妹が死んだ日から妹との思い出には蓋をしてしまった。
だから妹の命日も、誕生日も、思い出せなくなっていた。
今、全てを思い出した。
あのマグカップが割れたはずなのに割れていなかった不思議な出来事が起こったのは、8月の中盤、盆だった。妹は家に帰ってきていたのだ。
地震の揺れで落ちて割れてしまった私達の思い出のマグカップを妹は直してくれた。私に全てを思い出してもらおうとしていたのか、それはわからないが。
私はその後若干の興味とみ気味の悪い思いで、マグカップをわざと割った。そのマグカップは綺麗に元通りに直った。もしもこれが妹のしたことのならば、妹はどんな気持ちでマグカップを直したのだろう。
もう盆は終わってしまった。妹はもう還ってしまった。マグカップはもう二度と元には戻らない。
何故?
私は記憶の蓋が開いたと同時に罪悪感に苛まれることになった。
足下にはもう、なすの置物はなかった。
耳鳴りに襲われる。
ただ憧れの
ただ僕は。
ただ私は。
あの目の前で輝く星に憧れただけだった。
ある日のこと。たたずむアイツを見て、僕は、私は、アイツの事を美しいと思った。
それは些細で秘めやかな、心の揺れ。
だから僕は、私は、見て見ぬふりをした。それを綺麗として良しとしたんだ。
そのまま時間だけ経って。ある日。
アイツが、別の誰かと仲良く歩いている姿を見たんだ。本当に楽しそうに、明るい未来を信じているように。
そして僕は、私は、何となく感じた。アイツはもう、遠くに行ってしまったんだって。
空を見上げれば、それは何処までも澄んで、綺麗で。
でも、願う間もなく憧れの星は流れて行って、二度と交わることは無いって知った僕は、私は。
滲む空を、ただただ見上げるしかなかったんだ。
貴方の声で
微笑んだ貴方の瞳から
目を逸らした理由くらい
すぐに分かってしまう
貴方のことだから
この距離がもどかしいことも
お見通しでしょ?
ねぇ 名前を呼んで?
狐と踊れ
クリニックの待合室には
体重三十キロ台ぐらいの女性がいて
針金みたいに細い脚で
カクカク貧乏揺すりを続けていた
坊主頭の青年が
母親らしき人に付き添われ
大声でお経を唱えながら
診察室へ入っていった
おでこはニキビだらけ
手首は傷だらけ
せめて夢の中で
狐と踊れ
一人カラオケで
三時間歌ってから
もう一時間延長しようとしたら
待ってる客がいるからと追い出された
ゲーセンで一人プリクラ撮影会をやり
ダンスダンスレボリューションもやろうとしたが
同世代の男の子たちが集まってきたので
回れ右して帰った
おでこはニキビだらけ
手首は傷だらけ
せめて夢の中で
狐と踊れ
満員電車の中で
痴漢に遭った
助けを求めたかったが世の中そう都合よく
正義の味方なんていない
バスの中はバスの中で
いちゃついてるカップルがいて
八つ当たり気味に
後ろからシートを蹴った
おでこはニキビだらけ
手首は傷だらけ
せめて夢の中で
狐と踊れ
家にたどり着くと
びしょ濡れの制服を脱ぎ捨て
シャワーを浴び
ファイナルファンタジーを夜までやった
それから薬を飲み
鞄の底から百均で買った
ビニール紐を出し
部屋のドアノブに縛りつけた
おでこはニキビだらけ
手首は傷だらけ
せめて夢の中で
狐と踊れ
呼ばれてみたい
湊かなえを筆頭に
イヤミス
というジャンルがあるならば
さしずめわたしの詩は
イヤ詩
とでも云ったところだろうか
呼ばれてみたいものだな
ウフフ
密かな企み
小説でいうところの
私小説
というものをわたしは
詩で
描こうと
企んでいる
ムフフ
フィラデルフィアの夜に 90
フィラデルフィアの夜に、月と星々が見ます。
夜、真っ暗な中。
動く。
蠢く。
縋るように。
祈るように。
水を付けては。
綺麗な水を付けては。
捨てられる事になってしまった物に、大量の財産が荒々しく捨てられ積まれて行ってしまった、ゴミ捨て場にて。
懸命に何かが動いている。
見られることも、知られることもなく。
ひとつの物音だけが、この夜の中に、音を響かせる。
月と星々が、雲に切れ目を入れる。
まばゆい光を一点に照らし、その物音の主を見据えます。
腕。
土の中より無数の捨てられた財産へ長い長い針金が伸びて、絡み組み合わさり、一本の腕を作り上げているのです。
傍らには水たまり。
これ以上にないきれいな水が点在していました。
月は思う。星々も思います。
ここには天災があり大雨が降り、洪水になったと。
それで人々の財産は壊れ汚され、この場所に集積された。
また思います。
以前に同じく集められ、窪地に忘れ去られた鉄線があったと。
それは無数に棘を有する鉄線だったとも。
その場所から長い長い針金の腕が伸び、懸命に同じく捨てられた財産を清めているのです。
泥を払い、汚れを拭い、輝くまでに。
清い水が傅くように自然と湧き出し、腕の元にいくつも水たまりがあります。
腕が動きを止めました。
そうすると、天へ向かって伸ばします。
グッと拳を握りしめて。
これが、自らが自らに課した仕事だと言わんばかりに。
月と星々に向かって。
また針金の腕は自らをブラシとして、捨てられてしまった財産を清めていきます。
月と星々は雲の切れ目から見守っていました。
朝、異様に清められた財産はまた荒々しくトラックへ積まれ、焼却場へと運ばれていく。
雲はまだとても厚く、また雨が降り出しそうになりながら。
残るもの
満たされたとき
靴のかかとが取れたように
視線がぐらつく
転がり落ちていく
頭から
肩か
横なのか縦なのかわからず
目が回る
何もない空
固い地面が入れ替わる
肩に当たる
拳が地面を叩く
手のひらが刺さる痛み
選んだはずが
なすがまま
ただ転がる痛みとともに
呆然と
見上げた空が遠い
平らな道で座り込み
最後まで握っていたのは
ひびの入った小石
ひとつ
挨拶をします
おはようございます
こんにちは
こんばんは
いただきます
ごちそうさまでした
おじゃまします
おじゃましました
ありがとう
どういたしまして
しつれいします
しつれいしました
せんそうはんたい
またあした
おやすみなさい
またあした
矛盾
「草生す屍、あるいは水漬く屍。
それだけが僕に許された運命だ」
これほどに煌びやかさと
同時に高貴に溢れた言葉は
見たことがない
ないのに
なぜか世の低俗さとか
モラルの低下とやらを
嘆く人々ほど
喜んでこの言葉を踏みにじる
モラルを支持しておきながら
彼らの口から溢れるのは
許されざる不誠実と裏切り
そして彼らは
僕というノブレス・オブリージュを憎み
卑劣というレッテルを貼り付け
下卑た笑みとともに罵倒する
彼らが低俗とやらを憎み
あるいはモラルを嘆くとき
彼らは一つの過ちを犯している
テラリウム
ディスプレイにログが流れる砂噛みのような音と、冷却ファンのうるさいモーター音。ほかには何もない。
匂いもしない。それとも、もう鼻が慣れてしまったのかもしれない。
「おはよう、アイリス」
その声に瞼を開き、電動ベッドのボタンを押す。駆動音と共にベッドが持ち上がり、くるりと右を向いた。
「おはよう、パパ、ママ」
か細い声がマイクを伝い、全面に張られた硝子の向こうへ届けられる。両親は、その声に微笑んで手を振った。
「アイリス、今日は珍しい花が咲いたんだよ。どこに飾ろうか」
父が手にしている鉢には、青紫色の大輪の花が誇らし気に咲いていた。
「わあ、とっても綺麗」
硝子の向こうには、たくさんの鉢植えが置かれている。その右中央辺りをアイリスは指差した。
「そこがいいな。そこなら他の子と仲良くできそう」
父は頷くと、アイリスが指定した場所に鉢を置いた。
今日の天気や、植物園の様子。両親の今日の予定を聞いて、手を振って別れる。面会は一日に三回。時間は十五分と短い。両親だって忙しいのだろう。
吐息を漏らし、硝子に向いていたベッドを元の位置に戻す。そのままもう一眠りしようとボタンに手をかけたところで、頭上のモニターが起動した。
「アイリス、おはよう」
アイリスの顔が華やいで、モスグリーンの瞳にも光がさした。
モニターに映る黒いうさぎ。毛並みがよくて、大きなリュックを背負っている。大好きな絵本の主人公だ。
「おはようソウゴ」
「ご機嫌だね」
ふふ、と肩をすくめ、アイリスは硝子を指差した。
「新しいお花だよ」
「とても綺麗だ」
父が選んでくれた花を褒められて、アイリスは誇らしかった。
「新しい本を贈っておいたよ。昼寝から目覚めたら読むといい」
「いつもありがとう、ソウゴ」
「それじゃあおやすみ、アイリス」
モニターが切れ、再び人の気配が失せる。ベッドを倒すと、時間ぴったりに電気が落ちた。
ディスプレイにログが流れる砂噛みのような音、冷却ファンのうるさいモーター音──その中で眠りに落ちる。それがアイリスの毎日だった。飽きるほど変わらない景色の中で、眠って、目を覚ます。
けれど、その変わらない景色が少しずつ歪み始めた。新しい花の鉢もしばらく増えていない。代わりに、水が枯れ、葉先が乾いた鉢だけがひとつ、ふたつと増えてゆく。硝子の向こうが、荒野へと変わってゆくようだった。
戦争が始まっているのだ。この国と、帝国との。
右側一面に張られた硝子から視線を手元に戻し、アイリスはタブレットの画面に映る自分の顔を見下ろした。
不健康な顔だ。まだ十二歳なのに、老人のよう。痩せこけて、可哀想なくらい萎びている。
指先で頬骨をなぞると、画面がふ、と立ち上がった。ずらりと並んだ図鑑や絵本。大人が読む小説も、もう読み尽くしてしまった。
「自分で本でも書こうかな」
唇を尖らせてそう呟くと、頭上のモニターの中でうさぎが首を傾げた。
「どんな本を書くんだ」
「花に囲まれた、王子様の話とか──」
そこまで言って、アイリスは口をつぐんだ。指先をいじりながら、夢見がちすぎた自分を恥じる。父以外の男の人なんて、ほとんど見たこともないのに。
けれどモニターの中のうさぎは、優しく頷いた。
「素敵な話になりそうだ。どんな王子様?」
ぱっと顔をあげ、アイリスは頬を緩める。
「前に話してくれた、ソウゴの子供をモデルにしようかな。白金色の髪に、碧い瞳の男の子。白いお花は似合うかな?」
うさぎの身体が小さく揺れる。
「ああ、きっと似合うよ」
一間置いて、優しい声がそう答え、アイリスはまた頬を緩めた。
けれど硝子の向こうに視線を流した瞬間、その笑みが沈み込む。枯れた花が、横一列に並んでいる。
「……パパとママは?」
毎日決まった時間に顔を見せてくれていた両親が、もう二週間も来ていない。
長い耳が、わずかに揺れる。
「光に還ったんだ」
ソウゴの声が優しくなるほど、胸が砂を噛むように軋む。アイリスは知っていた。巡礼地の上に、敵国があることを。
「そっか」
そう呟いて、アイリスの瞳は枯れた花弁の輪郭を撫でる。
「私は、どこへ行くのかな」
この魂は、どこを彷徨うのだろう。一歩でもこの部屋を出ることの叶わないアイリスは、巡礼などできるはずもない。
「どうして信仰を捨てたのに、あの場所にこだわるの?」
ソウゴは答えない。モーター音だけがやけに耳に煩かった。
沈黙を埋めるように、アイリスはぽつりと溢した。
「帝国はいじわるな国なんだね」
譲ってくれればいいのに。そう拗ねるアイリスに、ソウゴは優しい声を投げる。
「帝国の人たちにも、正しいと信じるものがあるんだよ、アイリス」
「正しいと、信じるもの?」
「そう。私たちが光を信じているのと、よく似たものかな」
ふうん、と呟いて、アイリスは手元に視線を落とした。
何度も読んだ、大好きな絵本。ソウゴと同じ姿の、黒いうさぎ。世界中を旅して、たくさんの傷に触れて、宝物を見付けて涙を流して笑うあの顔が、ふとアイリスの網膜の裏で蘇る。
「ソウゴ、私も神兵になりたい」
両親のように、愛する人を残したまま消えてしまいたくなかった。まだこの世界に触れていたかった。
「それは、できないよ」
低くなった声に、アイリスは顔を上げる。
「アイリスはまだ子供だから」
二十五歳以上でなければ神兵にはなれないという法律は知っている。けれど、アイリスには時間がなかった。
「でも私は子供のまま、この部屋で死んでしまうよ。あと何年、あと何ヶ月、あと何日生きられるかわからない」
日に日に起きている時間が減り、身体は痩せ細る。萎びた身体は、立ち上がる力さえない。
「まだ見たことないものがたくさんある。触れたいものだって、知りたいことだってあるよ」
薄いシーツに爪が食い込む。柔らかな繊維さえ、痩せた皮膚には鋭さを残す。
「可能性があるのなら、自分の目で世界を見たい。自分の肌で風を感じたい」
ソウゴは何も言わなかった。ただ長い耳だけを、微かに震わせていた。
特例が下ったのは、それから僅か三日後だった。それは、アイリスに残された時間があまりにも少なかったからでもあった。
機械と硝子に囲まれた部屋で、アイリスは身体を横たえたまま天井を見詰めていた。
モニターの中のうさぎが、かすかに細い髭を揺らした。
「明日だね。体調を整えないと」
優しいソウゴの声に、力の入らない指先を握り込む。
「ねえ、ソウゴ。私は私でいられるかな」
声は震えていた。
「大丈夫だよ、アイリス。好きなものをたくさん思い浮かべてごらん」
その言葉に背中を押され、アイリスは優しい記憶を撫でてゆく。
「私はアイリス。植物と絵本が大好きな女の子。パパとママに愛されて生まれたの。ソウゴのことも大好きだよ。お話ししてくれてありがとう。絵本も、たくさんありがとう」
丸い瞳が瞬いた。
「私はね、アイリス。一人っきりで生きてきたけど、不幸なんかじゃない。私にはたくさんの夢があるから。世界を旅して、色んな人とお話しして、見たことのない植物に出会うの。お花もたくさん見付けて、植物学者になりたいな」
胸に手を当てて、瞼を閉じる。
「それでね、毎日大好きな人の腕の中で、幸せいっぱいの眠りにつくんだ」
白い花が似合う、白金色の髪の、碧い瞳の王子様。
アイリスは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「もう、怖くないね」
痩せた頬を持ち上げて笑ってみせる。その目尻からこぼれた涙が、とても温かかった。
「ゆっくりおやすみ、アイリス。目が覚めたら、君が望む世界が待っているよ」
優しい声に深く頷いて、薄いシーツに潜り込む。
いつか、きっと、自分の足で自由に旅をするんだ。まだ見ぬ大切な人と一緒に。そう願いながら、アイリスは瞳を閉じた。
この硝子の向こうに、目が眩むほどの広い世界が待っていることを信じて──。
了
【あとがきのようなもの】
この作品は、ひとつ前の『朝焼けのレーション』と同じSF作品の番外編になります。
本編はhttps://caita.ai/series/01KHBVKS8CQN24MTJF2GZYQY61こちらでご覧ください。
雨情
枕を並べてなお
『好き』とはいえず
雨音だけが聞こえる
街を発つ
メトロの出口を見上げると
いつも小さな空があり
始まる今日を待っていた
最後の日
小さな雲の白さに映えて
澄んだ青色が笑っていた
この街に
私が刻んだものは僅かでも
この街が
私に刻んだものは大きくて
持ちきれない想いを詰めて
今はただその跡を深く吸う
これからに足元がすくんだ時
心が思い出すように
好きな私を思い出すように
『余白』
渡したい想いは、幾らもあるのに
当て嵌まる言葉は、幾つもなくて
あらわす言葉を探しては
「何かが足りない」と解けていく
それはきっと
「独り善がり」だと知っているから
渡したところで
貴方にとっては、幾らか場所を取るだけで
特別何かと成るモノではないのでしょう?
知っているから、探す言葉も曖昧で
填まる言葉は、象に成らず熔けていく
それでも
そうだと解っているからこそ
何処か朧気な貴方という人が
「確かに居る」と伝えたい
“私”にとって『とても愛しい貴方』が
『此処に確かに居るのだ』と
そう伝えたいと
願い祈ることを
貴方は許してくれるだろうか?
短編小説『明日のおやつ』(『いちごみるくのキャンディ』改題)
「母が亡くなりました。残っている猫たちについては……」
愚痴でその存在を聞くだけだった佐藤さんの息子さんからの着信。アスファルトに照り返されながら項垂れたわたしは、ひたひたと夏に溶け出し始めていた。
夏にはたくさん溶け出して、冬にはよく凍る。わたしは十八を超えたあたりからそういう体質に変化した。母もだいたい二十代にはそうだったと言うし、だいぶん前に亡くなった祖母も、四十をすぎた頃にはよく夏に溶けていたと母から聞いた。
もうほとんど意識がなくなりそうに暑い。最後の最後に自宅のドアの前で鞄のなかの鍵を見つけるのに戸惑って、苛つく。そして、やっと取り出した鍵が佐藤さんの家の合鍵だった時、わたしはもうどうしようもなかった。
自宅にいる三毛猫のなつみのために室温は24度になっていて、帰るなり、涼しい空気に迎えられる。
なつみは佐藤さんが助けた猫のうちの一匹で、わたしが依頼し、捕獲してもらった子だ。
なつみ、と呼ぶと、尻尾だけが動いて、でも返事はない。なつみはこういう子なので、反応はいつもこんなものだ。
夏用ひんやりカーペットに転がっていたなつみのふわふわした腹に手を入れ、抱き上げる。なつみは迷惑そうにしている。おやつははずんでよね、というむすっとした顔。
わたしはなつみの背に顔を埋めて深呼吸した。なつみの、人間のよりずっと速い鼓動を聞くと、少し気持ちが落ち着いた。
あのさ、なつみ、佐藤さんっているでしょ。
覚えてるよね、佐藤さんがさ、あの……。
いや、また話すわ。今日夜出かけるからね。お留守番しててね。
解放されたなつみは、わたしの様子を見上げたあと、大事そうに肉球を舐めた。
佐藤さんが亡くなった。
そう言葉にすると、それが現実になるようで怖い。いや、現実に佐藤さんはもう。でも、こんな急に、いなくなるって許されるのか?
わたしはこれまでに経験した他者の死を想いながら、クローゼットを漁り、黒のストッキングを買わないといけないと結論付けた。
ストッキングが伝線しないよう、足の爪を短く切っていると、着信があった。発信元を見て、要件を察する。
わたしはその電話に出ない。佐藤さんの猫ボランティア仲間からの着信は、留守番電話につながって、わたしは発信者の声が七割程度の精度で文字起こしされるのを息を詰めながら見ていた。
佐藤さんのこと残念です。
その文字だけが網膜に印字されたようにどぎつく見えた。
では後ほどお通夜で。
無意識に止めていた息をふぅーと吐き出しながら、わたしは携帯を裏返した。しばらくは誰の声も入れたくなかった。
亡くなった佐藤綾子さん家の猫は、歳をとっている子が多くなってきていた。佐藤さんが見送るはずだった猫たち。
シニア猫や病気で介助が必要な猫、次々とさまざまな猫の顔が浮かぶ。佐藤さんが個人で猫の避妊去勢をした上で必要があり、保護をした猫たちは、佐藤さんがあと五年余り生きれば、全てを見送れるはずだった。ただ、佐藤さんは昨晩亡くなってしまったらしい、コロリと。
コロリと死んだことを佐藤さん自身はどう感じているだろう。無念だろうか、一抜け! だろうか、わからない。佐藤さんはどう思っているだろう。
今頃、彼女が見送ってきた、たくさんの猫に囲まれて、あちらでしあわせにやっているのだろうか。もうなにもかも平気になってしまったのだろうか。置いていかれた人間にはわからないことばかりだ。
わたしが、夏の暑さに溶けてしまった下半身を掬い集めている間に、死んでしまった佐藤さん。一昨日、猫の世話であったばかりだ。下半身が溶け出すと、トイレに行けなくて困るから、昨日は佐藤さんの家に手伝いに行けないと連絡をしたばかり。
ok、体に気をつけて! と返信が来たのに、それっきり死んでしまうなんて聞いていない。
わたし、あなたの相棒なんじゃなかったでしたっけ。相棒の体が溶けてる時に、死んじゃわないでくださいよ。
それに、もし佐藤さんが死んでしまうなら、もっと話したいことがあった。
佐藤さん家にいる猫のこと、ボランティア仲間の誰がどの子を引き取るか。これからわたしはどうすればいいのか。いい大人なのに、つい何もかもを決めてもらいたくなる。
いや、そんなことは本当は、どうでもいい。わたしが佐藤さんと話したかったのは、そうだな、たとえば一昨日の帰りに、「飴食べて!」と、くれたいちごミルクのキャンディ、あれ、わたし食べられないんですよ、ほんとは。
ただ、佐藤さんがずいっとわたしに押しやってきたから受け取っただけで。わたしこれをたべるとそわそわするから。おばあちゃんを思い出して、という話。
1997.夏
わたしが子どもの時、あれは5歳のとき。祖母はいつも黒飴といちごミルクのキャンディをテーブルの上の折り紙でできた箱に入れておいていた。折り紙の色は季節や月によって色を変えてあって、そういうことを大事にする人だったんだなあと、三十になって、やっと祖母の輪郭の一部を掴んだ感がある。
わたしは一度、いちごミルクを喉に詰まらせて、母にそれを吐かされたことをまだ覚えている。ゲポッという音を立てていちごミルクが喉から出た後、昼に祖母や母と食べたゴーヤチャンプルーや白米もわたしは吐き出した。吐瀉物の海に混じったいちごミルクのキャンディがきらきらぬめらかに光っていた。その光景が奇妙に目に焼き付いている。
母がわたしを寝かせた後、祖母に懇々と話しているのが、襖越しに聞こえた。
「ああいうのあげないでって言ってるでしょう。メイコに不自然なものはあげたくないの。それに喉に詰まらせてるのに、母さんオロオロするだけだったじゃない」
祖母の返事は聞こえなかった。ただ、次に祖母の家に行った時、テーブルの上の折り紙でできた箱には、黒飴しか置かれていなかった。わたしもなんだか気恥ずかしくて、この前の嘔吐のことには触れずにそうめんをいつも通り3人で食べた後、祖母とわたしは昼寝をした。
祖母の家から自宅へ帰る時、祖母がこっそりわたしの手にいくつかキャンディを握らせてくれた。
そこにはいちごミルクのキャンディもあって、わたしはちょっと緊張した。お母さんはどう思うだろう。わたしはそれを黙ってポッケに入れて、祖母に手を振り、母の車に乗り込んだ。
祖母に最後に会ったのは、祖母が施設に入る前日の食事会だった。わたしは中学生になっていて、久しぶりに会う祖母の痩せ方に驚いた。ただ、祖母はメイコちゃん、かわいくなったねえ、と言ったきり、それ以上言葉を発さなかった。
ただ、三人きりの食事会で、ただにこにこしているばかりで、何も話さない祖母。わたしは、そわそわした。何かを話さなくてはと、空回って、母に笑われた。母は今だってそのときのわたしをネタにする。食事会の最後、母が会計をしている時に、祖母が小さな声で言った。
大丈夫よ、メイコちゃん。
わたしは頷いた。中学生でもわかることはある。三度頷いたあたりで目が潤み始めたので、わたしは天井を見上げてやり過ごした。大丈夫という言葉は、時々、本当に何の足しにもならずに、むなしく宙に浮く。
お母さん、佐藤さんが亡くなったって。お母さんは佐藤さんのこと知らないもんね、言ったってしょうがないね。お母さん、この夏何回暑さで溶けた? わたしは五回。こう暑くちゃいやんなるよね。
三年前と少し前、家の近所に小さな三毛猫が暮らしていた。毎日会っていると自然と情が移る。
ねえ、今日はとても暑いね、お水飲めてる? だとか、ああ、ご飯くれる人が来たよとか、そうやって毎日話しかけていると、本当に馬鹿になってきて、一人の人間が、この子に何か出来ることがないかを本気で考え始めてしまう。なにせわたしはその子以外には誰も話し相手のいないような人間だったので。
市のホームページを見たり、外猫の暮らしを調べたりするうちに、わたしはこの子が99%メスで、次の春には子を産むことを知った。
地区名とボランティアとsnsの検索欄に入れて、確定ボタンを押すと、たくさんの情報が出てくる。そしてわたしはそこで佐藤さんを見つけることになる。
捕獲機と名刺を持って現れた佐藤さんは声が若々しくて、見た目も溌剌として、とても六十代半ばのひとには思えなかった。
ただ、Tシャツの背中に信じられないくらいの量の猫の毛がついていたことには驚いた。
それから、三毛猫が捕獲機に入るまで、わたしたちは佐藤さんの車で待機した。
独特の緊張感に包まれた車内で、わたしが無理くり何かを話し出そうとしたとき、車の外から、ガシャンという、自転車がぶつかったような音がした。
佐藤さんは、「猫ちゃん、入ったみたい」と車から出て行き、わたしもその後をもたつきながら追う。
捕獲機の前に行くと、いつもの三毛猫が小さく暴れながら直方体の捕獲機に入っていた。手汗で溶けかけていた手で、思わず捕獲機に触れようとする。「危ないよ」。佐藤さんが、大きなタオルを持ってこちらに来た。
猫を落ち着かせるために、佐藤さんは捕獲機にタオルをかけた。そして、「これで完了! あとはこっちで病院連れてくから。お代金だけいただくね」、と言って額の汗を拭った。
「また、ここにちゃんと戻すから、心配しないでね」
佐藤さんの言葉に、わたしの左手がゆるやかに溶け出す。また、この暑い中この子はここに戻される。これから寒くなってもこの子は外で暮らすこの子の将来を考えるざるを得なかった。
「この子、この子飼っちゃいけませんか」
佐藤さんは少し悩んだ後、「大変だよ、人慣れもしてないから」と答えて車の後部座席に三毛猫の入った捕獲機を乗せている。
「でも、いいです。わたし、この子に何かしたくて。毎日、会ってるから、情が移っちゃってて……」
ふう、と言いながら、こっちを見た佐藤さんは、まあとりあえず病院。話はそれから、と言った。
「あと、あなたが良ければ、私の家に来ない?」
わたしはなつみと暮らし始めるまで、猫に触ったこともなかったし、しかもなつみはなかなか手強いやつだった。触らせてくれるどころか、シャーシャー、ウーウー唸って、一緒に暮らし始めた頃は、大変なことをしてしまった、と自分の決断の甘さに泣きそうになった。
元の場所に戻したいなどは一切思わなかったが、ひとつのいのちのあり方を自分が、自分のしたいように捻じ曲げて家に入れたわけで、最初のうちはよくメソメソしていた。佐藤さんは呆れ果てていたのだと思う。
すぐにびびってしまうわたしを尻目に、佐藤さんはわざわざ家にきてくれて、易々となつみに手を伸ばし、容赦なく猫パンチをくらって、もとから傷だらけの白い手に、傷口を増やしていた。
それからもう三年、毎日のように一緒に彼女の家の猫の世話をして、だいたい猫の話と日頃のお互いの愚痴を話していた。
佐藤さんの家の猫みんなのトイレと、ケージ内の掃除をする手伝いをして、地域の誰かに頼まれれば、捕獲をする佐藤さんの手伝いをした。
よく一緒に料理をしたり、持ってきた季節の果物を、(リスのように)、分けたりもした。佐藤さんの得意料理は、里芋の煮っころがしで、わたしもその作り方を習った。
家で里芋の煮っころがしを作って食べると、佐藤さんの作ったものと少し味が違うので、そのことを話したことがある。おばさんの手から出る出汁じゃない? と佐藤さんは笑っていた。
料理中、換気扇の近くで話しかけると、お互いの声が聞こえずに会話が滞って、思わずお互いに笑ってしまうことがよくあった。ごめんごめん、また後で言うね。また後で言うね、って佐藤さん、また後っていつですか。
一昨日の夕方はまだ、出回りたての梨を剥いて、ふたりで食べていたのに。これは明日の方がいいんじゃないですか? というわたしの疑問はスルーして、明日には明日のおやつ! 今日は梨の気分! と佐藤さんは嬉しそうに梨の皮を剥き始めた。
佐藤さんの梨やりんごの剥き方は大雑把で、ところどころに皮が明らかに付いている。わたしや母とは異なる剥き方だった。
各家庭の味ですねえ、とわたしは内心で呟き、口内でざらつく梨の皮を飲み込んだ。りんごはいいけど、梨はちょっと皮が気になって、今度はわたしが剥くことにしようと思った時の、わずかな違和感。
でも佐藤さんの包丁使い、こんなんだったっけ? 梨に爪楊枝を刺している佐藤さんの手はこんなに皺が多かったっけ?
わたしは、ざらついた心のなかを、足元にいた茶トラの小太郎を撫でることで潤していた。
小太郎がわたしに猫というものを教えてくれた。猫というものはね、というように。
最初は、新入りのわたしを少し離れたところから見ていた小太郎が、そのうちこちらへ近づいてきてくれるようになり、わたしはこの子に猫との関わり合い方を教えてもらった。
近頃は歳をとって、よく眠るようになった小太郎。わたしはこの子が大好きだった。
家のなつみは、三年の間でわたしに、だっこをさせてくれるようになったが、やはり気まぐれで、大体の場合わたしに抱かれるのを嫌がる。
小太郎は抱き放題、撫で放題で、ひっくり返ってわたしに腹を見せていた。細かいことは気にしないタイプで、他の猫にも友好的だった。
佐藤さんに何かあったら、わたしが小太郎を引き取ることになるんだろうか。そんな考えを打ち消して、その朝に見た朝ドラの話ばかりしていた。竹野内豊は最高だという意見の一致を見て、わたしたちは満足した。
そののち、佐藤さんは休憩と言って10分ほど仮眠した。疲れが溜まっているのかやけに深い眠りに感じられた。
佐藤さんはよく自分の家の猫の真似をして、わたしを笑わせた。佐藤さんは笑わせるために、そんなことはしているわけではないのに、わたしは思わず笑ってしまい、いつのまにか佐藤さんもつられて笑っていた。
あなたは、笑ってた方がいいよ。佐藤さんはよくそう言ってくれたが、わたしは年相応の人付き合いの経験もなく、佐藤さんの知り合いとたまにお話しする程度だった。
あなたには、あなたのやり方や生き方があるから。と佐藤さんはよく慰めてくれたが、わたしはただ気が弱いだけで、やり方もライフプラン何もなかった。なのに、なぜ佐藤さんはわたしなんかを側に置いてくれていたのだろう。
これもお得意の慈善事業の一環だったのだろうか。それを聞いたら、佐藤さんはまた、「卑屈ねえ」、と笑うだろうか。それとも、図星をつかれた、という顔をするのかもしれない。
直近では二匹の猫が亡くなり、わたしはおおいに泣いた。亡くなった猫に花々を組んで、またね、と言って佐藤さんと動物霊園のある寺へ連れて行き、葬式をあげて見送った。最後に亡くなった子に触れるとき、いつもさみしさが頂点に達する。
さみしくなりますね、と佐藤さんに話しかけると、彼女は頷いたきりだった。二人ともドッと疲れて言葉を発する余裕もあまりなかった。猫が亡くなってしまった、というよりも、無事にその子を見送れた、という感情が胸を占めた。
いつか、同じように猫を空へ見送った帰り、佐藤さんの運転でわたしたちは疲労をとるべく、喫茶店に向かっていた。甘いものでも食べなければやってられないと2人の意見が一致したのだった。そのときの、佐藤さんの、「相棒に何かあったら困るから、安全運転!」という言葉にわたしは笑った。
あのときも思ったけど、わたしは、佐藤さんの運転で死ぬなら、それはそれで幸福だったな。だってわたし佐藤さんとくらいしか出かけないし、助手席乗らないし、わたしが死ぬなら、佐藤さんと死ぬんだろうな、なんて、考えてました。
わたしは、佐藤さん、わたしはね。わたしはそれも一つの形だったと思うんですけど、なんでひとりで死んじゃったんですか。わたしだけが残ったってしょうがないでしょうよ。
でもあれか、わたしたち干支3回り違いますもんね。順序ってものが、ありますよね。そうですよね。少しだけ、納得できたかもしれません。
佐藤さん、来ました、メイコです。と声をかけて、棺の小さな窓を開け、彼女の顔を見た。化粧をされていて普段よりずっと綺麗に見えるが、どこか作り物めいて見える。猫たちと過ごす過程で、死を散々経験したのに、わたしはこれまで何を学んできたのだろう。
ああ、あ。と、猫が肛門から捻り出す便のように、自然と声が漏れ、わたしは夏に包まれていた。止まらなかった。
ばかやろー! なんで死んでるんだよー! わたし寂しいじゃないですか。佐藤さん、まだまだ一緒に話しましょうよ。猫一緒に撫でましょうよ。
蛇口を逆さに向けて捻ったみたいに。
残された猫の分配を話し合いたそうにしていた人たちが、夏の来たわたしの姿を、驚愕の目で見ている。
人の輪に加わらねばならないが、そうはできなかった。大量の涙が、異常な水量で、部屋を支配していた。わたしが座っているあたりの水たまりは面積を広げて、そのままついに床が浸水し始めた。そこらじゅうで数珠やハンドバッグが水面に浮かんでいる光景に、涙を止めなければ、と思う。
佐藤さん、わたしあなたがいないとこうなんですよ。わたしはついにぷかぷかと浮かびながらひとりごちる。
ひとは怖くて、緊張で、寒くて、凍りついちゃって、本当は佐藤さんくらいしか緊張しない人いないんです。佐藤さんや猫たちがいない、そうなったら、わたしどうしたらいいんですか? わたしがかわいそうだったから、一緒にいてくれたんですか? 相棒とか、そういうのは、全部嘘だったんじゃないですか?
そのとき、猫の鳴き声が一つ二つと聞こえてきた。わたしはじぶんの作った川をかき分けて鳴き声のした方へ向かう。
ゲボみたいな日常のなかの、いちごミルクのキャンディ、あの幼い日の。
数秒、わたしは佐藤さんの死自体を失っていた。わたし、生きている。
足元では、いつの間にか小太郎が、黒いストッキングに体を擦り付けていた。小太郎を抱き上げて皆の輪に入る。小太郎がわたしの手を舐めながら、なーんと鳴く。わたしはそれを抱きしめて、涙声で、大丈夫よと囁く。
大丈夫、という言葉は時折むなしい。ただ、わたしの口から自然と出たのは、その言葉だった。
わたしが佐藤さんに言えなかったことなどほとんどない。いちごみるくのキャンディのはなしは、してみたかったかもしれないが、しなくてよかったものなのかもしれない。
佐藤さん、わたし、なんていうか、すごく生きてる、あなたと一緒に。
佐藤さんの通夜は、猫たちの鳴き声や存在で、にぎやかなものになった。
通夜に来る人たちも、かわいいねえ、と喪服にも関わらず、猫たちをなでていた。小太郎も知らない人相手にも、体を触らせてやっていたし、特に人懐っこい子たちは、すりすりといろんなひとに擦り寄っていった。
黒い衣服につく猫たちの毛。それをうれしそうに摘んだり、コロコロをみんなで回して使う人々。黒いストッキングも、黒靴下もみんな平等に毛だらけになっていた。
わたしも不思議と凍りつくことなく話すことが出来たし、ヒヤッとする感覚がしたときは他の人たちが助けてくれた。
これは今日限定の現象だろうか、わたしが心をひらけば、助けてくれるひとは案外といるのかもしれないと妙な感覚になった。
それでも、喪失は、かんたんに乗り越えられるものじゃない。
通夜からの帰り道、すっかり靴擦れした足を引き摺りながら、トボトボ歩いていると、佐藤さん家の猫部屋に近い匂いのする場所があった。わたしは思わず顔を上げた。
そうしてあたりをきょろきょろすると、犬の形の飾りのついた古めのお宅があり、そこの玄関には、わんちゃんシャンプー、どうぞおためしあれ、との文字。
わたしは声をあげて泣いた。どうぶつの匂い、猫、佐藤さん。わたしは夏の夜の熱気ごと抱きしめるように、膝を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
後ろから自転車でこちらに向かって来た男性に尋ねられ、すみません、大丈夫です、とだけ答えたが、こんなにも宙ぶらりんな大丈夫も少ないだろう。
具合悪い? いえ、大丈夫、大丈夫になりました! わたしの急な空元気に、男性も面食らっていたが、わたしは靴擦れの足に負けず、なつみの待つ家に帰った。
*
喪服にコロコロをかけて小太郎たちの毛を取って、クローゼットに今日着たもの一式を入れようとしたとき、ニー、と高い声を出しながら、なつみがストッキング越しにわたしの足に触れた。
なつみの頭を撫でようとかがむと、その動きに驚いたなつみが、急に体を後ろへひいたので、見事に黒いストッキングは伝線してしまった。
あ! と声を出したときにはもうストッキングには線が入っていて、なつみはしらんぷりでわたしの足元に座っている。
ありゃりゃ、と言って、なつみの肉球を押して爪を出すと少し伸びていた。爪を切られることを察知したなつみは一目散にわたしのベッドへ逃げ出す。
わたしは猫用爪切りを手に取ると、なつみの元へ向かう。なつみはいつでも逃げられる姿勢をとっていたが、わたしが近づいても逃げなかった。
ダルダルのメンズサイズのTシャツに伝線済みの黒ストッキングというミスマッチのわたしを見て、またニー、と鳴いた後、なつみは珍しく爪を大人しく切らせてくれた。なつみとわたしは飼い主とペットというより、少し距離のある友達に近い。ここまで来るにも随分かかった。
なつみさ、わたしの友達ともお友達になってくれる?
返事はない。なつみは爪を切られていることより、爪切り後のおやつに意識を飛ばすことで気を紛らわせているようだった。
はい! おわり、となつみを膝から下ろすと、なつみは、ニーニー、とおやつを要求して鳴いた。ハイハイ、なつみのおやつをとりに行こう。
立ち上がったわたしの足元にすりついて離れないなつみの、体躯のわりには長いしっぽを踏まないように、気をつけながら、キッチンへ向かう。
わたしはなつみのおやつ箱の中身を吟味しながら、片手であのいちごミルクキャンディを手に取ると、ぺりぺりとセロファンから剥がして口に入れた。暑さで少し表面がねばこく、柔らかくなっていた。
なつみのおやつを決めて、なつみ専用のお皿に入れてやる。なつみは待ちきれないという顔をしながら、それでも待っている。
あんたがいるから頑張れるからね、とわたしが声に出すと、なつみは、それを食べて良しの合図だと思ったのか、チャムチャッチャと音を立てて、皿の中身を食べ出す。
食事中のなつみを撫でているつもりが、いつのまにか食後のなつみがわたしの指先をぺろぺろ舐めていた。
なつみ、一緒に寝ようか、と誘うとなつみは忙しそうにタッタッタッと自分の寝床に一目散に走っていった。その様子がおかしくて、わたしはつい吹き出す。
寝床で丸まったなつみを見つめながら、わたしもベッドに入る。また明日ね、なつみ。なつみのしっぽがちいさく揺れる。そうね、また明日。なつみ。ニー。そうだね、明日には明日のおやつ、だね。
はたらくということ
スーツも引っ詰めた髪も
足が痛くなるパンプスも
たぶんこの先ずっと
好きになれない
志望動機はつまるし
自己PRは言い飽きた
それでも
ビルから出た時に
守衛のおじちゃんがくれた
あたたかな笑顔と
『試験、お疲れ様』が
心を解いた夕焼けの街
The Void Gambit #アイラシヤ大陸
時代 グリフィス期
場所 アイラシヤ大陸東部
アイラシヤ大陸東部、断崖の上に位置する「刻(とき)の闘技場」は、かつてない密度の「存在」に満たされていた。
朝日が昇ると同時に、黄金の円卓十二座が集結する。地響きと共に現れた勇者王レオニダスが黄金の盾を据え、その傍らではサムライマスター・ジンが静かに抜刀の感触を確かめる。ランスロットの白銀の甲冑が陽光を弾き、ソーサリアンら魔導士たちが展開する幾何学模様が、闘技場の空気をパチパチと震わせていた。
対する北側の空。空間がノイズのように歪み、李(リー)が上海のサーバーファームから送り込んだ十二体の「魔神(アバター)」が、無機質な着地音と共に姿を現した。現実世界の演算能力を物理的な破壊力へと変換した、最高純度の敵性エージェントたちだ。
上海の外灘(バンド)にある李浩然の作戦室。ホログラム・ディスプレイが、闘技場の熱量を無機質な数値として李の網膜に投影していた。李の指先が、空中で微かに震える。一か月前、目前に落とされた「次元越えの雷撃」。あの絶望的なエネルギー値は、いまだトラウマとしてニューラルリンクの隅々に焼き付いている。
第一戦の火蓋が切られる直前、殺伐とした空気の流れる戦場に、場違いなほど清らかな鈴の音が響き渡った。李の魔神たちが発する電子ノイズを切り裂き、闘技場の中央に現れたのは、アイラシヤ随一の歌い手と称される巫女、エニフェル。彼女の背後には、劇伴のような、壮大で演劇的な旋律が鳴り響く。
彼女が舞い、喉を震わせると、紡がれる歌詞は「人間」の言葉ではなく、万物の根源に語りかける精霊語へと変わった。
エニフェルはしなやかな指先で空をなぞり、見えない五線譜を描くように舞い踊る。その歌声は、上海の李のイヤホンにまで、デジタル化不可能な「魂の振動」として直接届けられた。
李のモニターには、歌声を解析しようとしたAIが『解析不能:非言語的感情エネルギーの増幅』という警告を赤々と表示している。
李の指先は止まっていた。エニフェルの舞いに合わせ、闘技場の魔素密度が幾何学的に上昇し、円卓の騎士たちの輪郭が、現実世界の解像度を凌駕するほどに「濃く」なっていく。これは単なる演舞ではない。アルスが仕掛けた、騎士たちの存在意義を増幅させるための「神話的バフ(強化儀式)」であった。
エニフェルは最後の高音を天に突き刺すと、一礼し、霧のように姿を消した。
静寂。
そして、その静寂を切り裂くように、アルスがゆっくりと前へ歩み出た。
「第一番。大魔法使い、アルス・ヴォルテックス」
闘技場の中心に立つアルスは、ただ静かに佇んでいた。李を戦慄させたあの神々しい輝きは、今や深く内側に沈み込み、底知れぬ「虚無」のようにも見える。アルスは杖をゆっくりと回し、李の放った第一の魔神、ヴォイド・ヘラルドを見据えた。
李のモニターでは、アルスの魔力残量が「計測不能」というエラーフラグとして点滅し続けている。
(……計測不能? ゼロなのか、それともセンサーが捉えきれないほど高密度なのか?)
李の脳裏を、最悪のシミュレーションが駆け巡る。もしここで、あの雷撃が「連射」されたら。もしこの「無」の状態こそが、魔力回路を特異点へと昇華させた「神域」の証だとしたら。
その時、アルスが不敵に口角を上げた。
「……李よ。君は効率を愛する男だ。ならば、私の『一撃』がどれほどの対価を要求するか、計算は済んでいるね?」
アルスは戦う構えを解き、あえて闘技場のラインを自ら跨いで、外へと踏み出した。
『第一戦:アイラシヤ代表アルス・ヴォルテックス。不戦敗。』
「なっ……!?」
李は椅子を蹴って立ち上がった。ディスプレイには「VICTORY」の文字が躍るが、勝利の実感など微塵もない。
「不戦敗だと……!? 戦わずに白星を捨てたのか? なぜだ、そんな無意味な選択をするはずがない!」
李の高速演算回路が、猛烈な勢いで「アルスの意図」を逆算し始める。だが網膜に映るアルスは、背を向け、悠然と椅子に腰掛けていた。
「……李様、魔神の同調率が不安定です。アルスの挙動を解析しようとして、メインサーバーの負荷が40%上昇しています!」
AIオペレーターの非常音声が響く。
一方、闘技場。
アルスは隣のステラにだけ聞こえる声で、弱々しく、しかし満足げに囁いた。
「……ステラ。あちらの彼は今頃、私の『何もしない』という一手に、意味を見出しているはずだよ」
一回戦、スコアは0勝1敗。
しかし、上海の李浩然は、手に入れたはずの「1勝」という重圧に、冷や汗を拭うことができなかった。
アイラシヤ側:0勝1敗(不戦敗:計略による疑念の植え付け完了)
https://i.imgur.com/pZf7TO8.png
写真から聞こえる声
バスの窓の枠の中で、幼い男の子が転んだ。
父親が慌てて戻り抱き上げた。
泣きながら、父親の首にしがみつく。
思い出すとき、いろいろな感情が湧き上がってきそうだ。
頭を撫でながら、泣き止まそうと笑顔で話しかけていたところまで。
写真や動画で残してみれば、泣いてしまうのはどっちだろう。
ただ、私の心に数枚残る写真は、このようなものではない。
「痛くない!」
並んで歩くようなこともしてくれなかった私の父は、転んだ息子のところへ戻って来てくれる訳がない。
黙って、見ているだけだ。
泣くと機嫌が悪くなることをわかっていた私は、必死にこらえ立ち上がり、父のもとへ歩いて行く。
近づくと、また少し前を父は歩き始めた。
「転ぶときは前な。手をつけば顔なら怪我で済む。頭を守ればいい」
物心つく頃から、父は私に対し男同士の会話をしていた。
「いつまでも、そばにいられるわけじゃないんだ」
まるで早く私の前から消えることを知っているかのようにつぶやいた。
「抜くのは背だけなんてやめてくれよ」
少し見上げた十六歳の私に、父は笑いながら言った。
やっと並んで歩くようになったころだ。
「真剣に遊べよ。今はそういう時だ。
辛抱は嫌でもしなきゃいけないときがある。
でも我慢はするな、
ションベンと一緒だ。
我慢は病気になるからな」
何故辛抱はしていいのかの説明はなかった。
「痛くない!」
苦しいことがあると、そう心の中で呟いてみる。
手をつくように、怪我で済めばいいと。
正しくはないのかもしれない。
ただそれが父の教えだ。
その人の息子なのだから、それでいい。
そう思うことにしている。
痛い思いをしたとき、それを癒し、抱きしめてくれる父ではなかった。
ただ思い出す言葉をたくさんくれる人だった。
「答えは自分で探せ。
言葉はそういうものだ」
父がくれるのはいつも、答えではなくヒントだった。
バスの車窓から見えた、息子を抱きしめる父親。
あれも愛し方なのだろう。
信号が変わりバスが動き出し、窓枠はほかの絵を流す。
親子の姿が見えなくなるように、時代は流れていく。
私の思い出の中の父の姿は、ピンボケになってきている。
それでも言葉だけははっきりと聞こえる。
背筋を伸ばして、立っている写真一枚とともに。
香る風
歩んできた道
慈しみ振り返る
思い出と共に
緑香る風
子どもたちの声
この場所に来て
降り立つ君よ
この大空にわたる風が
つつみこむ
穏やかなとき
なつかしい
日々のかがやき
光さす大空に
自由に舞え