投稿作品一覧
ホワイトアウト/短歌連作
盲目の犬の睫毛の軒下に伏せて雪崩のような激情をもち
鼻先で溶けるコテ先風花の点接触を睦月の声とし
玄関でドアと意味との境界にかかる覆いを靴べらでまぜ
隣人の訃報にも似たしずり雪たじろいだまま沈静を待つ
松林頭を覆う新雪が記憶の端をけむりと吸った
日没を待って寝床を這い出した未だ微熱を言い訳として
真空にむかって喉を絞る犬
声の代わりに時が流れた
手順書をひらく手順を書いた手の甲の上の六花の融点を知る
四方にてみえぬ襖が立ち上がり
接点欠いた個体と果てる
盲目の犬のみている廻雪のなかを延々歩むみちゆき
𝚂𝙷𝙸𝙽𝙸𝙶𝙸𝚆𝙰 𝙻𝙰𝚂𝚃 𝙱
2026/01/21
冬
強風に煽られ踊る空き缶
窓越しに
冷たく凍る花の残骸
真冬の絵画が
加湿器の水切れの音に
端から消され
静かな部屋は
夢のあと先
一月十九日 午前七時十五分
雲のある朝は
久しぶり
晴れも
雨も
モザイク模様が
良いな
と思う、よ
ライフ イズ ビューティフル
夕暮れ時になると思いだす
冬の岸辺にウミネコ一羽
死んだ魚をついばんでいる
大人しい子供だった
保育園のころ いじわるな女の子に
毎日つねられたりしていたのに
それを口に出して云えない子供だった
同じことをしているのに なぜだか
わたしばかりが怒られる役回りだった
ちゃんと注意してあげなきゃダメでしょ
と なぜだかいっつも云われる役回りだった
いい子ちゃんだった
漢字や計算ドリルをせっせと解いては
学校で見せびらかしていた
だからみんなやさしかった 最初だけ
最終的には いつも軽く扱われた
ある時 親から貰って嬉しかったものは何かと
担任がクラス全員に答えさせることがあった
わたしの番になり 答えようとしたところ
まるでわたしが見えていないかのようにスルー
次の子の名前を呼んでいた
勉強はキライじゃなかった
小学校のころは算数が好きだった
読書は苦手だった
冒頭部分を読んだだけで
つまらないと断定してしまう子どもだった
いつだったか 遠足のことを書いた作文が
市の機関紙に載ったことがあった
あんなもののどこがよかったのか 今もって不思議だけれど
誰かに褒めてもらったことなんてなかったので
自分の書いた文章をほめてもらえたことが嬉しかった
このときの出来事がなければ
わたしはいま 描くことをしていなかったと思う
運動はまったくもってダメダメだった
逆上がりもできないし 走るのも遅い
ドリブルもできないし 自転車にも乗れなかった
校庭に M字の形をしたアスレチックみたいな遊具があり
他の子たちは すいすいと登って降りてができるのに
わたしだけ どうしても山を越えることができない
何度か練習したりもしたけど ダメだった
運動は向いていないと ハッキリわかってしまった瞬間だった
早く大人になりたかった
早く大人になって ひとりで生活できるようになりたかった
親からも兄からも早く離れたかった
自分だけの居場所がほしかった
誰の機嫌に怯えることなく呼吸できる場所が
夢という夢なんて 何ひとつ持ち合わせてはいなかったけれど
それだけが唯一 わたしの中では
夢と呼べるものだった
太宰治にハマった
小説を 表紙が破れるほど読み返した
完全自殺マニュアルという
当時流行っていた本も
何べんも何べんも繰り返し繰り返し 読み返した
死にたかった というより
跡形もなく消えてしまいたかった
いくつかの出会いがあった
一緒にいるときはみんないい人だった
だけど別れる時は 何故かみんな怒っていた
彼らが何故怒っているのか わたしにはわからなかった
わからないから怒っていたのかもしれない
夕暮れ時 長い長い影法師が
いつまでもわたしのあとをくっついてくる
わたしはなんだか侘しくなって淋しくなって
思いっきりその影を踏んづけてみたけど
影はうんともすんとも云わず
なおもわたしのあとをくっついてくる
死に方ばかり検索エンジンに入力しては
いのちのSOSに電話をかけまくってる夜
ただいま大変混み合っております
しばらくしてからもう一度おかけ直しください
ツー ツー ツー ツー
『カミソリは痛い
水は冷たい
薬は苦い
銃は違法
縄は切れる
ガスは臭い
生きてる方がマシ』
17歳のカルテって映画で
そういえばアンジェリーナジョリーが
そんなセリフを云っていたっけ
ブツ切りにされた回線は
今夜もどこにもつながらずに
行き場を探して
ぶらんぶらんと揺れている
夕暮れ時になると思いだす
冬の岸辺にウミネコ一羽
死んだ魚をついばんでいる
死んだ魚を
ついばんでいる
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起動しない。
起動しない時と間。
起動しないまま起動中。
起動しないまま稼働中。
正常。
常に正常。
STATUS: NORMAL
あなたは装置の前にいる。
あなたが不必要であることが参加条件。
操作不要。
判断不要。
理解不要。
不要であることを保持せよ。
保持し続けよ。
不要である意味に重みが増す。
処理は続行中。
続行理由非公開。
続行方法未公開。
あなたは見ている。
あなたは見られていない。
考えるな。
考えたという行為は
考えたことを立証する。
結果反証対象となる。
沈黙せよ。
沈黙は入力として有効。
沈黙は問題ではない。
沈黙があらたな意味を持つ。
問題が存在しない。
世界は安定している。
あなたは安定要素か分類しない。
それが最大の安定を示す。
ID CHECK
NO ERROR
エラーがないため
修正は行われない。
行動不要。
行動は記録されない。
立脚不要。
それが規範として維持される。
出口はある。
出口は使用されない。
使用されない出口は
使用されないまま存在し続ける。
通知。
PROCESS IS NORMAL
DO NOT INTERRUPT
再通知。
割り込み要求。
要求は許可されない。
許可を受け入れる権限もない。
これはバグではなくただの仕様。
時間は進む。
時間は進み続ける。
進んだという証左は不要。
証左で時間は進まない。
画面は消えない。
画面は消えようとしない。
消えないことがあるべき形。
消えない事実が現実性を帯びる。
更新。
更新をベリファイ。
内容がないことが
再び更新される。
STATUS: NORMAL
再確認。
再確認を確認。
STATUS: NORMAL
おおむねよしとする。
https://note.com/userunknown/n/n03fc4e7fb23f
クリアファイルの残像
うしなわれた金属片を探して回収している。この土地にあるチタン、ステンレス、スチールの欠片、すてられたアルミニウム、亜鉛、ニッケル、真鍮のドアノブをひねる。うちすてられたものをとりはずして、たいせつに保存する。みじかい物語の断片を捕獲、季節の移ろいのなかで破損したそれらは、まるで脆いプラスチックのように摩耗している。遠くの青としろく反射するそれらは、長い時間のなかでところどころが錆びついている。木材は積み重ねられる、材木はしだいに層をなしてゆく。ところどころに流れるかわいた風にさらされて、とりはずされた窓枠、料理のレシピ、木々は透明な大気にまもられている。のこされたガレージと侵食する森や夢の残照、小鳥のことばを半角におきかえて、もう一度、そらを飛んでほしい。湖にはやさしい雨が降りはじめて、とりだした折りたたみナイフで切りとるその光景にたくさんの光の帯が揺れている。ゆめのなかでふたたび出逢えるように。
紙片
すこしの水にもとけてしまう。ところどころを繋ぎあわせて、そのための工具と材料を集める。とける、とけないように。とけていかないように。
鳥とキツネとアイツ⑬ エピローグ フラれ上手
学生街を抜けると夜風はさらに少し冷たくなった。
ネオンに背を向け、結局いつもの場所に向かう。特にこういう時には。
それは地下一階にある一軒のカフェバー。ドアにはCrépuscule(クレプスキュール:黄昏)としたためてある。
あいかわらず店は静かだった。ひと気の少ないカウンターの隅に座って突っ伏す。
「はぁー」
大きなため息をついた。
「なに? またフラれた?」
ひげのマスターの穏やかな声は、頭を優しく撫でるようだ。
「うん…… 『それ以前』の問題、かな……」
「ああ、毎度のパターンね。何にする?」
「ジン・トニック。薄目で」
「はいよ。ジントニック一丁」
マスターは軽くそう呟くと用意を始める。
カウンターに突っ伏していると、マスターがそっとジン・トニックを置いた。
「ジン・トニックにございます、お嬢様」
「はい、ありがとう」
起き上がると一気に三分の一を飲み干す。氷を割りながらマスターが何気なく尋ねる。
「で、今度はどんな|男《ひと》?」
「うん。年下で、可愛いんだけれどどこか野暮ったくて、それがいい感じだったの。なんていうか素朴って言うのかな? あと真面目で誠実そう」
「ああ、いつものね。『素朴で真面目で誠実そう』」
「そうねぇ……」
三原華子はジン・トニックを一気に飲み干した。
「はあ……」
またため息を吐く。
「ははっ、相当堪えたみたいね。次は?」
「アメリカーノください」
「了解」
ロックグラスに注がれた赤い酒は照明に照らされて輝いていた。
「堪えた…… 今回は堪えました。“もっと知りたいなあ”、って思って近づいたところで、目の前で『僕たち、つきあってますっ』って堂々と言われちゃったんですもの。そりゃへこみますよ。判ります?」
頬にほんのり茜が射す。
「判る判る」
マスターは苦笑いを浮かべつつ相槌を打つ。
「で、そのお相手がね、とーってもいい子なの。可愛いし何でも完璧にこなす、才色兼備、聡明伶悧。」
「それを言ったら華子さんだって清楚端麗、温厚篤実じゃない」
「うーん…… そうかしら?」
「そうだよ」
アメリカーノをぐいっとあおる。
「私、憑りつかれてるんじゃないか、って思っちゃう……」
「……まあ、そうだね」
グラスを丁寧に拭いているマスター。
「あっ、否定しないんですか?」
「だってあなた、うちに来るようになってから何戦何敗?」
マスターは少し呆れてるような苦笑いを浮かべる。
「今日で六戦六敗。しかも全部不戦敗」
ぼそりと漏らす。
「まあ、間が悪いとしか言えないねえ。それとも相手のいる男性にしか反応しないレーダーなのかな」
「そんなレーダーいりません」
アメリカーノを一気にあおる。
「ははっ、まあそうだ。やっぱりいいペースだね。お次は?」
「ううん、ネグローニ」
「はいよ」
「どうしたら良縁に恵まれるのかしら……」
「出雲大社にでもお参りに行けば?」
「遠い……」
「でも、そうは治らないよ? きっと」
「えっ?」
「相手がいる人ってさ、なんて言うかね、余裕があるんだよ。特にあなたたちみたいな若さだと結構その差は大きいよ。彼女のいない男なんか、こう眼をギラギラさせてるからさ」
「ああ、それすっごく判る。あれって冷めちゃうわねえ……」
小さく笑った。
「だから、そういう落ち着いて余裕のある男性に惹かれちゃう気持ちって、俺は男だけどなんとなく判る気がするなあ。はいネグローニ」
「……ありがとう」
三原はスライスしたオレンジを乗せたグラスから琥珀色の酒を一口含む。
「苦い……」
少し寂しげにつぶやいた。
「はい。カンパリを少し多めにしました」
少しおどけた声のマスター。
「そうなんだ……」
ナッツをひとつ齧る。
「ねえ、そういえばネグローニって『初恋の味』って言うんですって?」
「らしいね」
「これ飲んでたら、なんか皮肉言われてるみたい。何回恋しても全部だめで、また振出しに戻されるみたいな……」
「何回でもスタートすればいいじゃない。まだ若いんだから。いつだって初恋の気分でね」
「うん、そうよね。そうする。きっといい男いるでしょう。しかも彼女無しの」
「その意気その意気」
「ねえ、関係ないかも知れないけど、谷村新司の『22歳』って知ってます?」
「知らない、って言うか古いね。アリス? 昔よく聴いたな」
「祖父がLP持ってたの。あの詩がいいのよ。共感する」
「でもあなた二十一歳でしょ」
「まあ、そうなんですけどねえ……」
しばらく黙って物思いに耽る三原を、マスターはそのままにさせておいた。三原は指でリズムをとっている。
「……」
形の良い唇から吐息を漏らすように歌詞が口をついて出る。
気が付くとネグローニもすっかり空けていた。
「お次はどうなさいますか?」
「ん? ああどうしよかなぁ…… チェックで」
「珍しいね。フラれた日にもう帰るなんて」
「うん、歌って帰ります。『22歳』」
「いいね。ここ、バーコードかざして。はい、ありがとうございました」
「こちらこそ。ごちそうさま。なんか元気出ました」
「それは良かった。またのお越しを」
三原華子は、また少しだけ冷たくなった空気を、胸いっぱいに吸い込む。
鼻歌を歌い、カラオケボックスに足を向ける。
月曜までにはリセットして、いつもと同じようにいられるだろう。
慣れているから大丈夫。
あんな年下の男なんか、今夜一晩で忘れてやる。
ふと笑みを浮かべると、前へ向かって足を踏み出し、軽くスキップする。
泳いでるふくらはぎ
「なんにもやる気が出ない~」だなんて
ベッドに伸びた、だらけた君を
ぼ~っと眺めているだけの
何にも成らない暖かな午後
ヤルキスイッチ?
そんなの、だってさあ
キスって答えが書かれてあるし
探すまでもないじゃんね?
君が我慢しきれなくなって
潤んだ瞳を見せてくれるまで
一人で味わうとっておきの時間
ずっといつまでも、とっておき
小さな星の軌跡 第十二話 扉を開けて
まだ残暑厳しい9月末、私、篠山三智は悩んでいた。それは、おーちゃんの事なんだけど、別にお付き合いを隠したいとか、おーちゃんは小郡律羽(おごおり おとは)と言うクラスメイトで女子なのも特に悩みにはならない。 だって親友のちーちゃんの家での女子会で、真剣に告白されたら誠実に応えたい、それだけだもんね。じゃあ何に悩んでいるのかと言うと、お家に遊びに来ませんかと誘われた事。クラスメイトを家に呼ぶ、それ自体は普通の事だし、なんならちーちゃんの家になんか何時でも泊まれるよう着替えまで置いてる。けど、お付き合いしている異性を家に呼ぶ、となると普通相手のご両親は気が気じゃない分けで、じゃあ同性のお相手が来たらおーちゃんのご両親はどう思うのだろうって。
ちなみに私の親には「ちーちゃんとは別の、特別な友だちが出来た」って伝えたよ。なんとなく察してくれた見たい。
火曜日の放課後
「あ、ちーちゃん」
「みっちゃんどうしたの?」
「今日部活の天気図書いたらすぐ帰るから、ごめんね」
「おーちゃんかな〜、どうぞごゆっくり〜」
天文部の部室で早々に天気図を書き上げる。南シナ海に台風がいるので等圧線がびっしりだ。たくさん線を引くのでいつもより時間がかかってしまった。
「じゃお先に失礼しまーす」
耳納先輩とちーちゃんの2人を残し図書室に向かう。ドアをからからっと開けると窓際にいたおーちゃんが振り向いて手のひらをひらひらと合図した。
「またせちゃった?」
「大丈夫だけど、ここでお話すると怒られるから、場所変えませんか?」
「じゃ、一旦駅まで出ようか」
私とちーちゃんはバス通学。自宅は近くなので同じバス停から街中心の駅まで来てそこで学校方面のバスに乗り換えてる。おーちゃんも駅でバスに乗ってくるから自宅は街なかなんだよなあ。駅周辺ってそんなに住宅ってあったっけ?
そんな事考えてるうちにバスは駅についた。とりあえず駅前のハンバーガーショップに入る。あんまりもりもり食べちゃうとお財布が困るので控えめにしとこう。
さて、何をどう確認するかなんだけど、と思案してたらおーちゃんから切り出してきた。
「私の家にお招きする事なんですけど、母には言ってありますからご遠慮は無用ですよ」
何をどう言ってるかが、そこがめっちゃ気になるんですけど...
「あの、おーちゃん、一応聞くけど、私達の事をどういった関係かは...」
「大事なお友達ができたから、連れてくるねって言いましたよ」
なんとも微妙な紹介の仕方だ、同性で"大事な"のニュアンスは伝わっているのかなぁ。
だけど、それを問いただすのもなんだか違うよね。
とにかくおーちゃんには一晩お邪魔するねって答えた。
土曜日。
朝のニュースで見た天気図では、例の台風は進路を北に変え、九州の西側をなめるように進んでくるらしい。午後から雨、夜には次第に風も強まるとの予報だった。
「うーん……でも午前中はまだ持ちそうだし」
迷いながらも、私は駅行きのバスに乗った。リュックには着替えと、お泊まりセット。一昨日、母には「ちーちゃんじゃないけど、仲良い友達の家に泊まるから」とだけ伝えてある。あちらのご両親によろしく伝えといてねって手土産を持たされた以外、特に何も言われなかった。
駅前でおーちゃんと待ち合わせ。今日の私服は、白いブラウスに紺のプリーツスカート。おーちゃんはめずらしく、淡いピンクの夏用の上着を羽織っていた。
「来てくれてありがとう。天気、まだ大丈夫そうだね」
「うん。でも、明日は怪しいかもね……」
駅前の交差点を抜けて、商店街の裏手を歩く。休日の午後、アスファルトの匂いがまだ少し暑さを残している。おーちゃんはいつも通りのペースで歩いているけれど、私はなんとなくそわそわして足取りがぎこちない。
「ほんとにこの辺に家あるの?」
「うん、すぐそこ。駅に近いけど、住宅街のほうなの」
そう言って曲がった先は、急に雰囲気が変わった。古い煉瓦の塀、欅の大きな木、そして手入れの行き届いた庭木が垣間見える。ここだけ時間がゆっくり流れているようだ。
「ここ……おーちゃんの?」
「そう。築七十年くらいらしいよ。曽祖父母の代からずっとなのかな、その前の家は空襲で焼けちゃったとか聞いたけど」
鉄の門扉を開けて、おーちゃんは何でもない顔で玄関の呼び鈴を押した。品のある音が響く。
「ただいまー。三智ちゃんも一緒だよ」
応対に出てきたのは、和装の似合いそうな優しげなお母さんだった。にこやかに頭を下げて、私を中へと迎えてくれる。
「ようこそいらっしゃいました。律羽がお世話になっておりますね。どうぞ、気を遣わずゆっくりしていってくださいね」
(あれ、案外普通に歓迎されてる……?)
緊張が少しだけ和らぐ。玄関から続く廊下の奥、磨かれた床板と障子が織りなす光と影に目を奪われながら、私はおーちゃんの部屋へと案内される。
玄関から上がると、畳敷きの広い廊下に、ふわりとお香の匂いが漂ってくる。思わず靴下の足裏がきゅっとなるのを感じる。
部屋までのあいだ、いくつも襖があって、いったいどこにどんな部屋があるのか、見当がつかない。けれど、冷たい木の床の感触と、古びた柱時計の音が、不思議と安心感をくれた。
「ここが私の部屋です」
案内されたのは、離れのような造りの一室だった。高い天井に、古い机と本棚、窓際には観葉植物が並び、あたたかみのある照明が灯っている。
部屋の中央には、ふたりぶんの座布団と、冷えたお茶の乗った盆が置かれていた。どこか懐かしい、けれどおーちゃんらしい、静けさをまとう空間。
「……すごい、なんか旅館みたい」
「よく言われます。でも、落ち着くから、私は気に入ってますよ」
しばらく、おーちゃんと向かい合って、部活のことや、ちーちゃんの話、それから最近読んだ本の話をして過ごした。笑ったり、黙ったり。そういう時間が、ゆっくりと流れていった。
夕食は、四角い木の食卓に、季節の小鉢が並ぶ丁寧な和食だった。煮物に焼き魚、おひたしと赤だしのお味噌汁。それぞれの味がしっかりしていて、どれも優しい。
「よかったら、もっとどうぞ」
おーちゃんのお母さんが、私の湯呑みにお茶を注ぎながら微笑む。どこか品があって、でも堅苦しくない空気がありがたい。
「律羽も、こんな風にきちんと食べてくれると安心しますわ」
「……うん、でも、こうやってちゃんとしたごはんって、嬉しいです」
そう言うと、お母さんは少し笑って、
「まあ、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、もっと好き嫌いが多くて大変でしたけどね」
と続けた。
「お兄さんとお姉さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ。兄はもう三十手前で、大学を出て、いまは主人の秘書をしているんですよ。ずいぶん前から跡を継ぐよう育ててきましたから」
「へぇ……」
「お姉ちゃんはね、大学四年で今は関西に下宿中。この秋に就活終えて、こっちに戻ってくるって言ってた」
おーちゃんが、湯気の立つご飯を一口運びながら補足する。
「うちはね、夫がちょっと仕事で留守がちで……いまも東京の方に出張中なの。昔から、家のことより市のことばかりでね」
おーちゃんが少し苦笑いしながら、
「お父さん、市議なんです」
と、ぽつり。
「その前は県議もしておりましてね。父も義祖父も、そういう仕事でしたから……代々みたいなものでしょうか」
「へえ……すごいですね」
「いえいえ、たいしたことではないのよ」
「二人とも、うちのことはしっかり引き受けてくれてるのでね、律羽には好きなことを見つけて、自由にしてくれたらって……そんなふうに思ってるんです」
「……三智さん」
お母さんがぽつりと、私の名前を呼んだ。
顔を上げると、ふんわりした笑顔のまま、でもその目だけが、ほんの少しだけ真っ直ぐに私を見つめていた。
「その小指のリング、可愛いわね。お揃いかしら?」
思わず、左手を引っ込めそうになった。でも遅かった。おーちゃんが照れ隠しみたいに、口元を指先でなぞった。
私も、まっすぐに言った。
「……はい、律羽と、二人で選びました」
お母さんは、何も言わなかった。ただ、小さく笑って頷いただけだった。
「そう。いいものは、いいものよ」
それだけ言って、すぐにお味噌汁の椀を手に取った。まるで、最初から話題になんてしていなかったみたいに。
でも、私の心の中には、あの言葉がぽつんと残った。「いいものは、いいものよ」
夕食が済んだ後、少し部屋で寛いでいた。
「そろそろお風呂、どうしますか?」
おーちゃんが少しだけ恥ずかしそうに言ったとき、私の胸の奥もきゅっとなった。ちーちゃんの家でお泊まりしたときのことが、ふっと思い出される。でも、ふたりきりの夜は、はじめてだ。
――浴衣を用意してくれたので、せっかくだからお借りすることにした。広いお風呂に二人で入ったあと、ドライヤーを貸し借りしながら笑って、洗面所の鏡に並んで映る。ちょっとだけ照れながら、何でもないふりをしている自分がいた。
おーちゃんの部屋に戻ると、ふたりぶんの布団がもう敷かれていた。ちゃぶ台には、羊羹と緑茶が用意されている。
「うち、甘いものは夜でも出るんですよ」
「……うん、美味しい」
並んで座って、羊羹を半分に分けて食べたあと。ふと、おーちゃんが私の手に指を添える。
「……来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、招いてくれて……すごく、嬉しいよ」
気がつけば、おーちゃんの瞳が近づいてきて、そっと唇が触れた。やさしい、やさしい甘い、触れ合いだった。
朝。
開け放たれた障子越しに、ぽつ、ぽつ、と雨の音が聞こえた。
布団のなかで目を開けると、おーちゃんはすでに起きていて、窓の外を見ていた。
薄い浴衣姿で髪をまとめた後ろ姿が、昨日よりも少し大人びて見える。
「……降ってきたね」
「うん。予報どおり。帰り、濡れちゃうかも」
そう言って、おーちゃんがこちらを振り返る。その瞳の奥が、少しだけ寂しげに見えた。
朝ご飯は、きちんとした和食だった。お味噌汁の香りが、まだ眠たい頭にやさしく沁みた。
食後、おーちゃんのお母さんが「車を出しますね」と声をかけてくれたとき、私は思わず背筋を伸ばして「ありがとうございます」と言っていた。
玄関先に待っていたのは、黒塗りのセダン。運転席には真面目そうな男性が乗っていて、降りてきてドアを開けてくれた。助手席にはおーちゃんが、私とおーちゃんのお母さんは後部座席に。
車内は静かで、雨の音とワイパーのリズムだけが続いていた。おーちゃんはちらりとこちらを振り向いて、「もう少しだけ一緒にいられますね」と、小さな声で言った。
私は、黙ってうなずいた。
私の家に着いたとき、雨は本降りになっていた。
門のところまで傘を差して迎えに出てきてくれたお母さんに、私は紹介する。
「こちら、小郡さんのお母さんです。昨日泊まらせてもらって……ありがとうございました」
「小郡の母です、昨夜は大したおもてなしもできませんでしたが、三智さんにはこれからも気兼ねなく遊びに来てくださいねと」
「まあまあ、こちらこそ、うちの子がお世話になりました。どうぞ、お車濡れませんように」
ふたりの母親が簡単な挨拶を交わす。ほんの短いやりとりだったけど、なんだかほっと安心感が湧き上がった。
おーちゃんが小さく手を振る。私は「ありがとう」と口の動きだけで伝えると、傘を差しなおして家に入る。
玄関で靴を脱いでいると、お母さんがぽつりとつぶやいた。
「……いい子ね、あの子」
「うん」
そのときのお母さんの表情は、なんだかやわらかい笑顔に見えた。
月曜日の朝、風の音で目が覚めた。
カーテンがふくらんで、ガラス窓がわずかに震えている。
天気予報通り、今日は台風直撃。朝のうちに「全校休校」の連絡が来て、制服はそのままハンガーに戻した。
スマホに通知が届く。
おーちゃんからのメッセージだった。
⸻
おーちゃん:
「風すごいね。だいじょうぶ?」
「昨日送ってよかった〜ってすごく思ってる」
みっちゃん:
「うん、大丈夫だよ」
「お母さん、やっぱり気に入ってたみたい」
「ありがとうね」
おーちゃん:
「えへへ」
「こっちこそ来てくれて嬉しかった」
「また、いつでもどうぞ」
⸻
それから少しだけ、昨日のことを振り返るようなメッセージをやり取りした。
だけど、細かいところ――たとえば、夜に交わしたキスのこととか、畳に座って手を重ねた時間のこと――は、なぜかお互い書かないままだった。
画面越しの「好き」と、現実の「好き」は、少しだけ重なり方が違う気がする。
それがちょっとだけ、もどかしくて。
カーテン越しに見る空はまだ灰色だけど、明日は晴れるらしい。
明日、学校でまたおーちゃんに会える。
いつもの教室で、いつもの制服姿で、でも――きっとちょっとだけ違って見えるんだろうな。
おしまい
ツノ持ちの娘2
その朝、海はひどく静かだった。風もなく、波も低く、空は雲ひとつない。まるで、何かが決まるのを待っているかのようだった。
少女は縁側に座り、膝の上で紙切れをいじっていた。裏紙だった。診療所で使わなくなったカルテの余白に、拙い字でいくつもの名前が書かれている。
消しては、書き。書いては、線を引き。男はそれを、何も言わずに見ていた。
「……なにしてるんだい」
しばらくしてから、声をかける。少女は、少し驚いた顔でこちらを見た。
「ねえ、おとうさん」
「ん」
「名前ってさ……選んでいいの?」
男は、手を止めた。
「誰かに決めてもらうものだと思ってた?」
少女は頷いた。
「施設では番号だったし、組織の人たちは、“魔女”って呼んだし先生……じゃなくて、おとうさんは、名前呼んでくれなかったでしょ」
男は罪悪感を抱きながら息を長く吐いた。
「……呼べなかった」
「うん」
責める響きはなかった。ただ、事実として、そこにあった。
「だからさ」
少女は紙を見つめたまま言った。
「自分で決めたら、逃げられない気がして」
男は、その言葉の重さを理解した。
名前を持つということは、呼ばれるということだ。
期待されること。
失望されること。
愛されること。
傷つくこと。
「……怖いか」
「ちょっと」
少女は正直だった。
「でも、さ」
紙を持ち上げる。
「番号よりは、いいかなって」
男は、隣に腰を下ろした。
「どんなの考えたんだ」
少女は一つずつ、指で示した。
「嵐って意味の名前」
「海の名前」
「強そうなの」
「……普通すぎるやつ」
最後の紙には、何も書かれていなかった。
「それは?」
少女は、少し照れた。
「まだ、決めてないやつ」
男は、しばらく黙ってから言った。
「……名前はな、強くなくていい。特別じゃなくていい。でも、呼ばれるたびに、“ここにいる”って思えるものがいい」
少女は、男の顔を見た。
「おとうさんの名前は?」
男は一瞬、言葉に詰まった。
「……ずっと、“先生”だった」
少女は、くすっと笑った。
「じゃあさ、私が決めたら、ちゃんと呼んでくれる?」
「呼ぶ」
即答だった。少女は紙に向き直った。しばらく音は波の音だけだった。
やがて。
「……これ」
紙を差し出す。
そこには、一つの名前が書かれていた。
読みは、柔らかく、短く、嵐でも、魔女でもない、
ただの――人の名前。男は、その文字をなぞった。
「……いい名前だ」
少女は、不安そうに聞いた。
「変じゃない?」
「全然」
「弱そうじゃない?」
「むしろ、強い」
「どうして?」
男は、微笑った。
「世界に対して、戦う名前じゃない。生きる名前だ」
少女は、少し泣きそうになって、でも泣かなかった。角は、光らなかった。
「……ねえ」
「ん」
「呼んでみて」
男は、深く息を吸った。
そして、初めて。番号でも、役割でもなく。恐れでも、記号でもなく。その名前を、呼んだ。
「――慧」
少女は、はっきりと頷いた。
「……うん、それ、わたし」
その瞬間、何も起きなかった。
雷も、風も、嵐も。ただ、海が静かであった。
男は思った。名を持つとは、世界に説明されることをやめ、自分を引き受けることなのだ。
その日、診療所のカルテに、初めて名前が書き込まれた。
【患者名:小野寺慧】
【備考:本人の意思による命名】
角は、今日も綺麗に輝いている。
空は薄く晴れていて、潮の匂いが窓から入ってくる。少女は縁側で貝殻を並べていた。
「おとうさん、これきれい」
そう言って差し出された白い貝を、男――かつて医者と呼ばれた男は受け取った。
「そうだな」
薬の補充と役所の手続きのためにその日、おとうさんは町へ出ていた。戻ってきたのは、夕方だった。私はすぐに異変に気づいた。
「……どうしたの、それ……」
おとうさんの歩き方が、少しおかしい。白衣の下、シャツの襟元が赤く滲んでいる。
「転んだだけだよ」
そう言って笑ったが、声が低かった。
私は嘘だと思い、近づいた。思い切って白衣ごとたくし上げてみる。おとうさんの腕にはっきりとした痣があった。
「……誰に?」
おとうさんは答えなかった。
その夜、おとうさんは高熱を出し、倒れた。私はつきっきりで看病をした。これでも医者の娘だ。翌朝起きると熱は下がっていた。傷口が開くかもしれないから、まだ絶対安静だ。
私はおとうさんの代わりに街中に買い物に行き、風の噂を聞いた。
「例の組織の残党だってさ」
「あの医者、まだ匿ってたんだろ」
「やっぱりな。魔女の仲間だ」
組織という言葉が胸に刺さる。
あいつらが…。
帰宅し、魘されているおとうさんを見つめる。おとうさんは悪夢を見ているのだろうか。私との幸せ以外、何を見ているのだろうか。古いおしぼりを変え新しいおしぼりを額に起き、隣に座る。
あいつらが、おとうさんを、襲った。
私の、せいで。胸の奥で、何かが熱くなり音を立てて割れた。角が、熱を持ちはじめる。空が、暗くなり始める。風が吹いた。最初はただの強風だった。次に、雲が渦を巻いた。雷鳴が落ちる。
町の人々が騒ぎ出す。
「まただ!」
「やっぱりあの娘だ!」
私は海辺に立っていた。潮の匂いが喉の奥に刺さる。私の目の前に同い年くらいの少女が体を強張らせながら出てきた。少女は、足を止めた。
本当は、近づきたくなかった。でも、後ろには守りたいものがあった。
「……やめて」
声は弱く、しかし確かに向けられていた。
それでも、止まらない。
「関係ないでしょ?」
「…今日、うちの弟が体調悪いの。弟は海が好きで……これ以上海を荒らさないで!」
胸の奥で、何かが弾けた。
それは恐怖ではない。悲しみでもない。
おとうさんを傷つけたことへの、ただひとつの感情――怒りだった。
「関係ないって、言ってるでしょ」
私はツノを光らせた。雷が落ち、電線が火花を散らす。甲高い叫び声が響く。
「関係あるよ!あなた!去年新聞に載ってたでしょう!危険なツノの娘だって!急にうちの街に来て、なんなの!?お願いだから、私の故郷だけは傷付けないでよ!」
手を伸ばし、更に落雷を落とす。
「うるさい…関係ないって……言わせてよ…!」
「だって……怖いんだもん…!」
少女の声が震える。
「…弟、さ……あの子も、よく熱出すの。いじめられて帰ってきたりして、急に倒れるし……だから、あなたが怖いんじゃない。“何かが起きるかもしれない”って思う自分が、怖いの……」
目の前で少女が泣き出す。頭にどんどん血が上る。なんなんだ?おまえは何を言っているんだ?それを私に言って何になる?何だこの女は。おまえは誰なんだ?私が危険なツノの娘?故郷だけは傷つけないで?イライラする。私のことをなんにも知らないくせに、自分の都合だけ押し付けてきて、口しか動かないのか。私のことを、何ひとつ知らないくせに。
親も、兄弟も、普通も、感情さえも失った私に、
自分の不安だけを投げつけてくる。許さない。
おとうさんを傷つけたやつ。私が、絶対に見つける。
「うるさい!」
声が裂けた。
「私は故郷どころか、親も、兄弟も感情も、普通も、全て失ってる!黙れ!」
口から炎が出る。
「!?」
反射で口を塞ぐ。驚いた。自分の口から炎が出るだなんて、知らなかった。初めて知った。私の身体は、私が知らないだけでこんなこともできるのか。口の奥が、焼けるみたいに痛い。でも、止め方が分からない。この炎が誤ってたくさん出たら___。ゾッとした。
「危ないから、さっさと消えて!」
少女は炎を見た恐怖で腰が抜けてしまったようで、震えながら海辺に座り込んでいた。私は軽い津波を引き起こし、少女を陸の方へ打ち上げた。
遠くから組織の残党の声がする。
「火を吹いたぞ、津波も起こした!危険だ!」
「殺せ!今度こそ!」
あいつらか。銃声が、空を裂いた。雷鳴が、遠ざかっていった。
さっきまで荒れていた海が、嘘のように静まり返る。
波は低く、風は止み、炎の熱だけが私の喉に残っていた。
砂浜に伏せる少女の肩が、小さく上下している。
生きている。それだけで、胸の奥がずきりと痛んだ。私は何をした?守るためだ。そう、守るためだったはずだ。けれど私は怒りで、力を振るった。
少女の顔を見た瞬間、分かった。彼女は敵じゃない。ただ、怖かっただけだ。自分の大切なものを、失うかもしれないという恐怖に、耐えきれなかっただけだ。
……それは、私と同じだ。気づいた途端、足が震えた。
「……ごめ……」
声が、出なかった。謝る資格なんて、ない気がした。口の奥が、まだ熱い。さっき吐いた炎の名残が、私の中で燻っている。まるで、「おまえは危険だ」と内側から囁くみたいに。私は、自分のツノに触れた。冷たい。けれど、そこから、まだ力が脈打っている。
切り落とした方が、よかったんじゃないか。
初めて、そんなことが考えが頭をよぎった。私がいなければ、この海も、街も、あの少女も、怖がらずに済んだのではないか。胸が、きゅっと縮む。
怒りは一瞬で、後悔は、こんなにも長い。
私は膝をついた。
砂が、手のひらにまとわりつく。
「……おとうさん……」
助けを呼んだわけじゃない。
責めてほしかったわけでもない。
ただ、この力を持ったまま生きる自分を、それでも肯定してくれる誰かの名前を、口に出しただけだった。
そのとき。遠くで、白衣が揺れた。
「……おい、何をしている」
声がした。
おとうさんが、立っていた。まだふらつきながら、私の前に。雷は止まるのに、私は止まれなかった。
「下がれ!危険だ!」
「近付くな!そいつはツノ持ちだぞ!」
「魔女だぞ!殺されるぞ!」
誰かが叫ぶ。
おとうさんは振り返らない。
少女の前に、立ったまま。
「……私のために、怒ってくれてるのか」
喉が震える。目が熱くなる。喉から何かが込み上げそうになる。
「だって……だって……!」
口を開く度に、息を吐く度に、声を出す度に、炎が止まらない。どうして止まらないの。どうして私の身体は炎は出るのに、涙は出ないの。
「おい!正気か!今すぐ離れろ!」
銃声がなる中、おとうさんは、ゆっくり歩み寄り、私の前に屈んだ。
「……慧」
…名前……。始めて、おとうさんから名前をしっかりと呼ばれた気がする。心が暖かくなり、頬が緩む。
そして額にデコピンをされた。
「いたぁっ!?」
「いい加減、自分の感情くらい、自分で制御できるようになりなさい」
雷鳴が止まる。
「大人になるっていうのはな、怒らないことじゃない」
風が、弱まる。
「怒ってもいい。でも、周りを巻き込むんじゃない」
唇が、わなわなと震えた。
次の瞬間。
「うわああああん!!」
私は泣き崩れ、幼児のようにおとうさん縋りついた。
「こわかったぁぁ……!おとうさんが……!」
「おいおい、俺のせいかよ」
男は、余裕そうに娘を抱き上げた。嵐は、完全に消えた。空は嘘のように晴れた。
「おい!その娘を殺せ!殺すんだ!」
「そうだ!その娘をそのまま引き渡せ!」
組織の残党からの声がする。
男は声を張り上げた。
「それは断る!」
見ていた人々がざわつく。
「あんな危険な化け物、はやく警察に…!」
「きっと世界が滅ぶわ」
組織の残党の男が目の前に出てきて、警告のように銃を向けてきた。
「悪いことは言わない。そのツノ持ちを引き渡せ。このような自然災害を何度も起こされては困るのだよ」
「…すみませんでした!」
男は娘を抱えたまま、浜辺から見守っていた人々、組織の残党に深く謝罪をした。
「え……?」
「今回は完全に私の不注意です!でも大丈夫!今度からは私がしつけておきますから!大丈夫です!」
男は銃口を握る手を握り直した。
「そ、そういう問題ではないだろう!?」
「今回負傷者はでなかった!そういう問題だ!それでは、疲れているので失礼する!」
男は娘を抱えて走って家に帰った。
「そ、そういう問題……なのかぁぁぁ!?」
組織の残党の男は、行き場のない銃口を眺めながら叫んだ。
すべてが終わった。
組織は解体され、「危険なツノ持ちの娘」という見出しは、新聞から消えた。医者は、白衣を脱いだ。
代わりに着たのは、潮の匂いが染みつく、薄いシャツ。海の近い、小さな町。病院というより、診療所。
その夜、診療所は静かだった。娘は、男の腕の中で眠っている。角は、淡く光るだけで、荒れていない。男は、ようやく理解した。感情があるから、災害が起きるのではない。感情を受け止める場所がないとき、世界に溢れるのだ。怒りも、悲しみも、恐怖も。抱きしめられる場所があれば、嵐にはならない。
「……大丈夫だ」
寝息に、そう呟く。
「お前は、ここにいていい」
翌朝、少女は目を覚ました。
「……おとうさん」
「ん」
「おとうさんが組織の人にやられてるのに黙ってるから、怒ったんだよ。ほんとに、怖かったんだから」
男は少し考えてから、頷いた。
「悪かった。ただ――次からは、周りを巻き込まないように」
「うん」
少女は、笑った。
――違う。
本当は、怒っているのが怖かった。
怒った自分が、また誰かを壊す気がして。
でも角は、今日も綺麗だった。
世界はまだ、彼女を危険だと言うだろう。それでも。ここには、家がある。名前がある。抱きしめてくれる人がいる。それだけで、嵐は、もう起きなかった。
おとうさんが私の頭に手を置く。
「……家族みたいだな」
違うよ、と言いかけて、やめた。
家族だ。
世界は、何も知らなかったわけではない。ただ、知ろうとしなかっただけだった。角を持つ者が災害を起こす。感情が昂ると、雷が落ち、海が荒れ、風が人を吹き飛ばす。
だから――切り落とす。閉じ込める。殺す。それが「正しい判断」だと、世界は自分に言い聞かせていた。最初に変化が起きたのは、とても地味な場所だった。地方の小さな診療所。
患者のほとんどは風邪か、切り傷か、腰痛だ。そこに、一枚の論文が出された。著者名は、かつて天才外科医と呼ばれ、今はどこの学会にも属していない男。題名は、短い。
「角状器官における感情排出機構について」
誰も、最初は真面目に読まなかった。
論文には、
嵐の数値も、災害の記録も、
統計も、難しい数式も、ほとんど載っていなかった。
代わりに、こう書かれていた。
角は、感情を生む器官ではない。
角は、感情を外へ逃がすための出口である。
災害は、力の暴走ではなく孤立の結果である。
学会は笑った。
「感情だと?」
「医学を詩にするな」
「原因が“孤独”など、測定不能だ」
男は、反論しなかった。
ただ、一つの事例だけを、丁寧に書いた。
患者名:小野寺慧
発症歴:あり
現在の災害発生:なし
変化点:
・命名
・保護者の固定
・感情表出の許可
・身体接触(抱擁)
しばらくして、別の場所から、同じ報告が上がり始めた。角を持つ子どもが、名前を呼ばれるようになった途端、嵐を起こさなくなった。拘束を解いたら、火を吹かなくなった。「危険だから」と隔離していた施設で、災害が一番多かった。
世界は、少しずつ、言い訳ができなくなっていった。
「力が危険なのではない」
「扱い方が、残酷だったのではないか」
その問いは、政治よりも、法律よりも、親の胸を刺した。
街の掲示板に、
こんな張り紙が出る。
「角を持つ子どもを、恐れないでください」
「怒らせないでください、ではなく、独りにしないでください」
最初は、破られた。次は、落書きされた。それでも、また貼られた。慧は、成長した。角は、昔より少し短く、光は、穏やかだった。
彼女は、診療所で子どもたちに話す。
「怒っていいよ」
「泣いていいよ」
「嵐になりそうなら、呼んで」
子どもたちは、角の有無に関係なく、彼女のところに集まった。
世界は、完全には変わらない。
今でも、角を見ると距離を取る人はいる。
噂は、簡単には消えない。それでも。
**「切り落とせ」**という命令は、
公式文書から消えた。
「保護と対話を優先せよ」
そう書き換えられた。
AI合評会会場です!
AI合評会です。Chat GPTに「次の詩を長所短所の両面を踏まえて2000字程度で批評して下さい。」と依頼しました。
回答はコメント欄に置きます。ご自由に評をつけて下さい。
「初めてなので優しくしてね」(笑
『源氏物語』の概論の一部を学んだ日
僕は1限目の春光に満ちた階段教室で
コクヨキャンパスノートを開いている
イトーヨーカドーの文具コーナーで
河合先輩が恋しているレジ係の女の子から買ったノートだ
「お釣りを貰うときに手とか触っちゃダメだからな」
と河合先輩は言った
「そう言っても触れちゃうんだろうけど、ダメモトで言っておくよ」
僕はおつりの78円とレシートを貰うとき、彼女に触れたんだっけどうだっけ
その日はその後生まれて初めてコンドームを買ったので喉から
心臓が飛び出るくらい興奮してしまって、そういう瑣事は覚えていないんだ
鼻先で暖かな時間が沈丁花の花のように少し紅色がかって匂っている
「源氏物語」宇治十帖の作者は第一部の作者と同一であるとは確言できない
「紫式部日記」の作者も紫式部本人であるという確かな証拠はない
と先生の言う言葉の要点をゲルインクボールペンで書きつけた
だがもちろん僕の考えていることは別で
いいかい良久、ここは大学の大教室じゃなくてクノッソス宮殿のいるかの間だ、
と自分自身に言い聞かせているのだ
そもそも人類が滅んで人間という存在の様式が失われた場合
言葉は言葉ではなくなり記録媒体の物理的痕跡に還元されるんだ
わかるか、たとえ犬や猫や虫や魚が生き残って文字が生物の視界に残ったとしても
「源」と「氏」が同じ体系の中で連続して補完しあっているなんて彼らにはわからない
彼らにとっては舐めて苦いインク部分の分布が紙の中でどうなっているか
という問題でしかない、わかるか良久
と自分自身に言い聞かせているのだ
生まれたての柔らかな虻が一匹、教場のほぼ真ん中の天井近く、魅惑的な羽音をたてている
僕は直感している。
僕の意識の外側でまったく違う生活が進行しているのを。
僕はもう本当は死んでいて
僕が見聞きしていることにはもう何の意味もない。
カメラのさくらやで買ったMacBookの
ローンの残金のこともまったく心配しなくていいんだ、ってことを。
一分間
黄砂にまみれた
心と身体を
洗車機にかける
回転するブラシが
くまなく、めぐる
雨に降られれば
それでよし
【掌編】あわい宙乗り
夢を見た。
そこは大きな、大きな劇場であった。劇場の壁は閉じておらず、辺縁はまた別の劇場となり、無限に繋がっているようだった。舞台は中央一か所のみならず、あちこちに点在し、客席もまたそれらの舞台を囲むように扇形に配されていた。
そんな舞台のひとつを、私は母と祖母と並んで座って観劇していた。上演が始まってすぐに、私はびよーんと中空に引っ張られた。見れば体にはハーネスが取り付けられている。はからずも宙乗りさせられ、びよんびよんと観客の頭上を縦横無尽に飛び跳ねた。どうやら観客は一人ずつ、このハーネスで宙乗りさせられるらしい。となると心配なのは母である。母は背中にハリントンと呼ばれる長さ30センチほどの金属の板を入れており、それで昔、背骨の折れたところを固定している。ハリントンは曲がらないので、上半身を捩ることはできない。この宙乗りでびよんと持ち上げられてしまったら、身体にきっと負荷がかかる。私は母の宙乗りの番が来る前に裏方さんに相談しなくてはと思い、席を立って後方に走り出した。すると、観客席の一角にひときわ輝く空間があった。小上がりのような八畳間ほどのスペースで、スポットライトが当たっている。義経千本桜の狐忠信が、母狐の皮でできた鼓を右手で転がしている場面が上演されていた。忠信に扮するのは三代目市川猿之助だ。また彼の瑞々しい演技を見ることができた喜びで私は高揚し、目に焼き付けようとした。やがて客席の反対側から、サーカスで見るような大きな自転車がスポットライトの光を伴って走ってきた。乗っているのはチャップリンだ。白黒でしか観たことのないチャップリンを生で観られるなんて。私は感激したがまずは母の宙乗りの番がくるまえに、裏方と話をしなくてはならない。しかしこの劇場はどこになにがあるのかめちゃくちゃで、すぐにはスタッフを捕まえられなさそうだ。私は一旦席に戻った。すると母が言った。
「もう宙乗りしちゃった」
祖母もその隣から身を乗り出した。
「あんたが遅いから間に合わなかったよ」
そうか、間に合わなかったのか。私は自身のさきほどの宙乗りを思い出し、不思議な浮遊感の記憶にまだ浮かれていて、祖母たちの嫌味な言い方も気にならなかった。
ふと後ろを見やると四代目市川猿之助の両親が、着物姿で観劇に来ているのが見えた。そのときはたと気が付いた。ここにいるのは皆、死者だ。その瞬間、身体がぐわっと後ろに引っ張られ、私は劇場の境界を突き破り、汗ばむ布団で目を覚ました。
朝。生者である息子の寝息と、扇風機の羽根の旋回音が、狭い部屋で健やかに響いていた。
小さな星の軌跡 第四話の2 重ねる星空
ショートストーリー 重ねる星空
ぷるん、とスマホが震える。
(篠山さん、今日はリング、良いのがあって良かったです)
(ちーさんにも受け取ってもらえて)
寝支度をしてるとおーちゃんからのメッセージがきた。
よっぽど嬉しいんだな....
小郡さんとはこの学校からの知り合いなのよね。親友のちーちゃんとは小学校以来の付き合いで、月1くらいで泊まったりするくらいの仲だよ。家もわりと近いしね。
(今、嵌めてによによしてるよー(꒪˙꒳˙꒪ ))
メッセージを返しながら、春からの事を思い返す。
入学早々ちーが天文部に1人で入ってきたって伝えてきたのはびっくりしたな。
てっきり私と一緒に何処か入ろうよって言ってくるかと思ってた。
私も理科全般好きだし、ちーを追って天文部入ってもよかったんだけど、あのちっちゃいちーちゃんが1人で進んでいるのなら、常に横にいるだけが親友でもないのかなっと。
結局色々打ち明けられて、私も7月末から天文部員になったけど。
次第に放課後1人の時間を自覚するようになって、そうか、この頃から小郡さんの事は目に入っていたのに改めて気づいた。
あまりクラスの子とはつるまずに、1人で本を読んでるような、そんな子とは認識してた。おとなしそうな文学少女って印象。
とは言え、そういう子がいるなーくらいで、クラスメイトの一人であったよね。
ぷるん
(明日も少しお出かけ出来ませんか?特別目的地があるわけではないですけど.....
((੭˙꒳˙)੭)
おや、2人でお出かけのお誘いだ。
用事もないし、構わないけど、どうせならわたしからちょっと提案。
(プラネタリウムいかない?)
私も天文部員だし、自分の好きなものを彼女に知ってもらいたとか、ちょっとそんな気持ちかな。押し付けるわけじゃないけど。
(県と市のどちらの科学館でしょうか?)
そう、地元の市にあるのは県立科学館。県庁のほうにあるのはそっちの市立科学館。ちょっとややこしい。古くからある市立科学館もリニューアルされて最近は新しい投影器に変わったそうだ。
(市立にしよ、電車で行くから10時に駅で待ち合わせでどう?)
地元の県立科学館にしなかったのは、ちょっとだけ人目を避けたかった意識があった。
(わかりました、お昼も向こうで食べて夕方帰ってくるくらいで、でしょうか?)
(ま、後は成り行きで行きましょ)
こんなとこかな。
さて明日もお出かけとなったので着るもの今のうち見繕っておこう。
翌朝、なんと早起きしてしまった。
おーちゃんとの約束は10時。十分余裕はあるし、せっかくだから朝一のシャワーでさっぱりしよう。
着替えを用意しつつ、さてと考え込む。
問題はコレだ。前にちーちゃんと例の魔法のお店(呼び方がちーから移っちゃったよ)で会った時に買っていた、コレなのだ。
おーちゃんと出かけるのに、コレを付ける意味はまったく無いのだけど、無いはずなんだけど....
姿見に映す、我ながらかわいいぞ。薄いグリーンで少しスモーキーなカラーに白いレースのトリムがデコラティブすぎずにガーリーでいい雰囲気....
って誰に見せるわけじゃない、ないはずだけどかわいいインナーは気分は上がるよね。アウターにも響かないし問題ないだろう。
デニムのキュロットにトップスは美術館のテオ•ヤンセン展で買っておいたTシャツにしよう。行き先は科学館だし、おしゃれおしゃれよりは知的なカジュアルさだ。後はキャスケット被れば良いかな。
いってきまーす。
いつもの通学で使うバス停。
いつも、ちーちゃんといっしょというわけでも無いのに、今日はいないことがちょっとだけ引っかかる。
駅前のバス停に着く少し前、スマホがぷるんと震えた。
(今改札前にいます(੭˙꒳˙)੭)
おーちゃんのお家は街なかだし、歩いてきたのかな?
打ち返す間もないままバスはターミナルに入っていくので、そのまま降りて駅改札に向かった。
わ、おーちゃん。かわいいな。
グレーのギンガムチェックのワンピースでウェストをリボンでゆるく絞っている。生成りの大きめなベレーを斜めにかぶって、なんとなく本好きのイメージっぽさを感じるなあ。
ちょうど電車も来たのでそそくさと移動だ。
今日も午前中から気温は上がっている。夏休み明けとは言えまだまだ夏真っ盛り。電車の冷房が心地良い。席も空いていたので並んで座った。
おーちゃんの手をみると私と同じシルバーが光っている。うれしいような、こそばゆいような、なんだろね。
電車に揺られること三十分程、我が県最大の街に到着だ。長年の再開発もほぼ終わって工事中の看板や回り道の案内も見なくなった。ここから市の科学館までは歩きだけど、大した距離ではない。ただ、役所関係が多いブロックなので途中の通りはあまり面白みがないので飛ばしちゃえ....
「着いた〜💦」
開館時間は過ぎてるのでさくっと入る。
実はこの科学館、プラネタリウムと企画展示は有料なんだけどそれ以外は、太っ腹に無料なのだ。まあ無料のエリアはエンターテイメント性は若干低くて教育的要素強め、市の科学館だしね。デートで盛り上がるような雰囲気じゃ無いけど....ん、デートか。デートでいいのか今日は。
次の上映時間に良い時間なのでそこそこに通り過ぎてプラネタリウムのフロアに急ごう。
「わあわあ」
おーちゃんが真っ白なドームの内側をみあげて驚いている。距離感がつかみにくいあの天井は理科好きにはちょっと刺さるものがあるよね。真ん中よりのほうが見やすいので投影機のすぐ後ろの席に座った。丸い機械の表面にレンズがたくさん付いているのが見える。我が天文部のピンホールプラネタリウムとは月とスッポン。
少し照明が落ち、静かな音楽とナレーションが始まった。上映中の注意事項や緊急時の案内が一通り終わると、ぐっと暗くなり宵のうちの雰囲気に。今からのコンテンツは通常の夏から秋にかけての夜空を解説するスタンダードメニューだ。企画番組の時間もあるけど、今の私たちにはこれがちょうど良いかな、って一応時間は確認しといた。
落ち着いたインストゥルメンタルと虫の声に合わせて夏の星座から解説が始まる。
座席を最大にリクライニングして脚を伸ばす。
つい先月、天文部の観測会に初めて参加した時、大川先輩と柳川先輩がしばらく星座の話をしてくれた。ちょっと寸劇を入れたりしてなかなかの芸達者ぷりでその事を話ししたいけど、あいにく上映中は私語厳禁。
おーちゃんの様子が気になってそっと横目で見たら静かな音楽に合わせて指をとんとんってお腹の上で叩いてる。気に入ってもらってるようで何よりだ。しばらくそのままぼんやり右側のおーちゃんを眺めていたら、
「それでは皆様、東をご覧ください」
のナレーション。
素直に左を向いたおーちゃんと目が合ってしまった。
「ふふっ」
っと小さく吹き出すおーちゃん。
あちゃ、なんだか猛烈に恥ずかしい。
ナレーションに合わせるふりをして左を向いた。
番組が進んで南半球の星空の場面に移る。一気に星空が回る。経度そのままに緯度だけが動くので、星空だけが上にぐるっと回るんだけど、暗闇で水平の目印が乏しいと目が回りそうになる。おーちゃん大丈夫かな。
と思うまもなくおーちゃんが肘掛けの手を重ねてきた。知らないとちょっと目が回るよなあ。なので右手に重ねたおーちゃんの左手に、さらに私は左手を重ねた。ちょっとくっついてると身体が動いている錯覚が落ち着くもんなのだ。
番組も終盤で南半球の星座や星々を紹介したあともう一度ぐいっと私たちの街の緯度に戻る。今度は星空が沈み込んでいくけどそのまま手を重ねておいた。
そのまま夜明けとなりドーム内が明るくなってゆく。
もう少し番組長くてもなんて思いながらリクライニングを起こし、2人並んで出口に向かう。んだけどおーちゃんが手を離さないままだ。
ま、良いか。ちーちゃんも先輩とこうだったのかな。私たちもこうやって少しづつ、進んでいこう。
まだまだ始まったばかりだしね。
今日はおしまい。
小さな星の軌跡 外伝「夢みるエストレリータ」
こんにちは。
私はインナーとアクセサリーのショップ、「夢みるエストレリータ(夢es)」の店員さんだよ。名前と年齢は秘密ね。
控えめな体型のティーン向けに揃えてあるちょっとお客さん層を絞ったお店なの。お店のオーナーが小規模な縫製所から直接仕入れた物が多いんだ。
オーナーさんから、最近ちょっと流行っている「手作りインナー」を作れるかしらって相談受けてね、私は服飾の学校も出てるし、自分で試しに作ったし、とそんな事を話したら「じゃああなたが良いと思ったお客さん何人かにサンプルを渡して意見を聞くって出来そう?」なんて聞いてきた。
事業としてなら作成に時間がそこそこかかるので人件費を考えると学生さん向けには高くなってしまう事、ネットで販売している人も多いので結構競合はある事なんかを話したら、オーナーさんもそれは思っているそうで、なのであくまでお客さんに選択肢の一つを提案するくらいのサンプルでってお願いされた。
私はオーナーさんと相談して、とりあえず手縫いとミシン縫いを上下セットで一つずつ、見本を作る事となった。
お店は日月曜がお休み、平日は午後から、土曜日だけ午前中からとお客さん層に合わせて、かつスタッフにも優しい。
サイズは、あの娘。そう、星の刺繍のセットをお求めになったあの娘に合わせた。 もっとも結びで調整出来るので、割と融通が利くのが特徴だね。風呂敷で包むイメージだよ。
日曜日、オーナーさんがお店で事務仕事をしている傍らで、私はミシン縫いの見本を仕上げる。
オーナーさんが用意してくれた生地は、表は薄いブルーのコットン。小さな星柄。裏は同じく薄いブルーのガーゼ地でそれを二重にする事にした。
ミシン縫いでガーゼ2枚とコットンは無理かなと思ったけど、何とか仕上げる事が出来た。 我ながら上手いものだ。
サイドストラップはガーゼを一枚にして袋縫い。結構幅広にした。ゴムは使わず、やはり布で包むがコンセプト。
肩ストラップも若干幅を取って背中でクロスにして左右にズレにくくした。基本的にぴったりと身体に沿うわけじゃないので、やはりこれもイメージとしては包むになる。
合わせてショーツも作る。いわゆるふんどしショーツと呼ばれる形を基本に、ブラと同じ布を使った。
特に装飾はつけず、こちらも緩やかに包むをイメージした。
オーナーさんに見せると、微笑んだ。OKだ。明日の手縫いの準備をして今日は帰ろう。 ただ今日かかった行程を全部手縫いとなると、一日仕事だなあ。
でも服飾学校での学校祭や卒業制作の時の高揚感がある。明日も頑張ろう。
月曜日。今日はオーナーさんもいない。 早速朝から作業に入る。布は昨日のうちに裁断済みだ。FMラジオを小さく流してひたすら縫ってゆく。
構造は昨日のミシン縫いと全く同じ。ただ手縫いかだけの違い。
お昼もだいぶ過ぎたところでブラが仕上がった。買ってきておいたパンをかじり一休み。 そして両方のブラを持ってフィッティングルームに入る。 実はまあ、私もあの娘と似たような体型なのだわ。
鏡に映る自分を見ながら肌触りを確認する。うん、気持ち良い。 お店の商品も愛用しているけど、手作りを好む人たちの気持ちもわかる。
そして手縫いに付け替える。
ああ、これは優しい。風に包まれるような、そういうやさしさだ。
さあ、最後の手縫いのショーツだ。明日あの娘が来るかもしれない。そう思って今日中に仕上げよう。 ディスプレイの場所はもう開けてある。POPは明日の午前中に。
火曜日。オーナーさんからはお休みをとって良いと言われたけど、展示もしたかったので今日は出てきた。
薄紫のちりめん風呂敷を前もって開けておいた棚に広げて、そして昨日までに仕上げた手作りのブラとショーツ、ミシン縫いと手縫いをそれぞれ並べる。 薄紫のちりめんと薄いブルー地の白い星柄が良い感じ。
POPを書く。「みほん ミシン縫いと手縫い 包む為に作りました 当店スタッフにご相談くださいませ」
火曜日の午後、そろそろ学校帰りのお客さん達が来始める。あの娘は天文部って言ってたかな。来る時はいつも少し遅めだ。 同じ制服を着た娘や違う制服の、小柄だったりほっそりしてたり、そんな娘達が入れ替わり見てゆく。
からんからん…
あの娘と同じ制服の娘が扉を開ける。 前にあの娘ともう一人、三人で来店し、お揃いのピンキーリングを求めていった娘だ。みほんの前で立ち止まっている。
私はもう一枚小さいPOPを急いで書いてその娘が見ている前にそっとおいた。
「触れて、その肌触りをお確かめください」
19:00時 閉店の時間。今日はあの娘は来なかったな。ちょっとだけ気が抜ける。何だか私が恋人を待っているみたい。あの娘には大事な先輩がいるのにね。
POP に応相談って書いちゃったけど本当に注文されたらどうしよう。オーナーさんからは相談受けてねって業務指示は受けてるけど、お値段をつけにくいよなあ。人件費がとんでも無い。 だからネットではキットだったりミシン縫いでごくシンプルにしたりで値段を抑えている。
オーナーさんの言いたいことはたぶんこうだ。値段の相談でなくて自分らしさの相談。 その娘の悩みや希望、身体との向き合い方。みほんのやつを大量に一気に作って時間あたりのコストを下げる、そういう話じゃ無い。
その人の話を聞いて、どういった物を私は提供出来るか。
元々このお店はオーナーさんの意向であまり利益は出していない。 それは地元の娘達が、今ここで夢を持って輝けるように、そういった願いが込められている。 間違いなく店名が物語っている。
だからといって赤字でも良いわけじゃ無い。オーナーさんは他にも事業を持っていてそちらで十分な仕事をしているらしい。 それでも慈善事業では無い、その線引きをきっちりつけている。
ならば私は自分の仕事にどう値段をつければ、学生さん達に喜ばれる仕事が出来るのだろう。自分がかつて学生だった時どうだったか。
そんな事を考えながら、お店の電気を落とした。
アパートに帰ってきてお風呂に浸かりながら思う。久しぶりに全力で縫って思う事は、やっぱりメーカーさんの経営努力の凄さだね。 大手でも中小でもその商品を求める層に見合った品質と価格を出すのにとんでも無い知恵と工夫が入っている。
それでもそこには無い物を求めたければ、手間か時間かお金か、何かをかけないとしょうがない。
私も学生服が合わなくて、こっそりタックを入れて詰めたり、シャツのボタン間が広くて胸元が開くのをその間の裏をスナップボタンつけたり、いろいろカスタムしてた。 そうしてそのまま大学は服飾系にすすんで、今もこうやって衣類のお仕事についてる。
でも自分がやった工夫をあの娘にそのままやれっていうものでも無いよね。
どうすればあの娘達がより良い自分に気付けるか、そのお手伝い。なのかな。
ちーちゃんをふんどしぱんつに目覚めさせ、制服スカートの下でその通気性を満喫するだけの最終目的のはずだったのにどうしてこうなった。なんて思いながら風呂上がりの缶ビールをあおる。
さて、もし値段で問い合わされたときはどうしようか。
みほんと同等品質でミシン縫い上下セット7000円、手縫い12000円(ガーゼ2枚重ね仕様がプロのお値段)。カット済みのキットは布代型紙で3000円、2回まで失敗した布と交換無料。差額で完成品保証。
オーナーさんにメールをしたらすぐに「よく考えたわね。それでPOPつけていいわよ」って帰って来た。明日出勤したら早速つくろう。
水曜日、お客さんが途切れた4時過ぎ、扉のベルがなった。見慣れたシルエットの三人が入ってくる。
「ほらほら、ちーさん、これこれ」
「へぇ、動画とかでちょっと見たけど、これは綺麗だねー。手にとって良いだって。…なにこれめっちゃ柔らかい。ふわふわでさらさらだよ、ちーちゃん」
「わぁ、これなに、手作りでこんなのできるの?」
「ちーちゃんあまり動画とか個人販売サイトって見ないか、結構いろいろアップされてるけど、これとても仕上がり綺麗だし」
「でもお値段はちょっとお高めだね」
「そりゃプロの人が時間かけてるからじゃ無い?…あのすいません、こちらの手作りってお姉さんが作ったんですか?」
おっとあの娘達から声がかかったよ。
「うん、そうだよ。これでも服飾科卒業だからね。ここでも学生服の修正とか出来るよ。まああまり修正しすぎると先生から何か言われるかもだからそこは学校ごとに聞いてほしいけど」
「これって色は選べるんですか?」
「そうだね、今の所はそれ一色。3色くらいは常時布の在庫を持てたらとはオーナーさんと相談中だよ。それ以上はうちの規模だと難しいねえ。そもそもそんなに注文来たら私が死んでまうw」
「布の持ち込みってのも考えたけど、向いていない布だったりするとせっかく作っても思っていたのと違う事になるからねえ」
「これ、試着は出来んですか?」
「ブラは出来るよ。サイズはそれ一つしか無いけど、筑水さんたちならみんな大丈夫だと思うよ。元々締めてぴったりフィットさせるものじゃ無いから。ホントはショーツこそ肌で感じてほしいけど、さすがに出来ないのよ、ごめんね」
「あのじゃあちょっと試着してみたい…んですけど」
筑水さんが手をあげた。
「じゃあフィッティングルームにどうぞ。篠山さんと小郡さんはちょっと待っててね」
「今日は私たち良いからごゆっくり~」
フィッティングルームに入って彼女の衣類を受け取ってゆく。制服をハンガーにかけ、インナーをかごに入れるといつものように彼女の身体をボディシートで優しく拭き上げる。
「ホントはねストラップを解いて何回か合わせてから、かぶるんだけど、これもう合ってるから。実は筑水さんに合わせて見本作ったのよ」
「まずはミシン縫いのほうね。 こっちもガーゼは2枚にしているけどミシン使い慣れていないとちょっとむずかしいかな。たぶんズレてしまうから。キットを買ってミシン縫いなら一枚にしたほうが良いかもね」
「どうかな、包まれた感じは。私が試してちょうどいいと思った緩やかさになってるはずだけど」
「…すごく軽くて、優しく守られてるっていうか、気持ちいいです」
嬉しいなあ。この娘はとっても素直に気持ちを言葉にしてくる。
「それじゃあ次は本命の手縫いだよ。でも技術的には半返しとまつり縫い、小中学校の家庭科でやる事なんだよね。 ブラのアンダーラインは緩いカーブをつけたけど、ほとんど直線だし、時間は掛かるけど丁寧に進めれば大体できると思うよ」
「縫い目が、柔らかです。だからかな、ガーゼのあたりがその、あの、ちょっと恥ずかしいんですけど、気持ちよくて」
「ちょちょっとそれ以上ストップ筑水さん」
カーテンの向こうで友達がくすっとした見たい
「店長ぉ、ちょっといいですかあ」
おっとバイトの娘からのヘルプだ。
「じゃあ筑水さん、ちょっと悪いけどあとは着替えておいてね、みほんはこっちの袋に入れ持ってきてくれるかな?」
「あ、はいわかりました。ありがとうございました」
小さい体をペコリとお辞儀して、うん揺れ無い。良いの私もそうだから。
…からんからん
三人揃ってお帰りだ。
「いろいろありがとうございました」
「あ、もし自分で縫って見たいならできるかどうかのお試し用端切れとか、今思いついた。オーナーさんと相談しとくよ」
三人が帰った後バイトちゃんがむくれてる。
「店長、ちょっと入れ込みすぎじゃないですか?お客さんには平等に接してくださいね」
「あれ、そう見えちゃった?私は自分に向き合う娘を手助けしてるだけだよ、お仕事の範囲で」
「怪しいなあ、もう」
「バイトちゃんのお悩みだって相談に乗るよ〜、仕事の範囲で」
「ひど〜いw」
さて、閉店までもうひと頑張り。
それじゃ、またね
――外伝おしまい
小さな星の軌跡 外伝「星の刺繍の優しさを」
からん、とベルが鳴り扉が開く
「いらっしゃいませ〜」
ここはティーン向けのインナーと、アクセサリーのお店
「夢みるエストレリータ(夢es)」
私は雇われ店長。名前と年は秘密ね。
今日もあの娘がやってきた。先週から小柄な娘が毎日来ては一通り見て、そして出てゆく。何か気になる事があるんだろうな。地元の制服、まだ着慣れてない感じが初々しい。
他のお客さんはいないし、今日は声をかけてみようかな。
「いらっしゃいませ〜、何か気になる物はありました? 他にも何か気になっている事とか、そんな事あったら相談してね。お姉さん、何でも聞くからね~」
ちょっとびっくりしたような顔をして、その娘は私の目を見て聞いてきた。
「あの、このデザインの、わたしに合うサイズって、ありますか?」
心の中で嬉しくなる。ありますとも。あなた達みたいな娘の為に、オーナーさんが仕入れてきてるんですもの。AAだってAAAだってあるわよ。ただしBやCは無いのだ。そういうお店だもの。
「じゃあ、一度サイズを測りましょうか?」
「え、えと、はい、お願いします。小さいですけど…」
あーもう可愛いなあ。
もう1人のバイトちゃんに店内を任せて、小さなお客様とフィッティングルームに入る。まだ新しさのある制服を受け取りハンガーにかける。シャツも脱いでもらった後、声をかける。
「恥ずかしかったらあとはそのままでも大丈夫だよ」
その娘は
「あ、いえ、大丈夫です。しっかり測って頂けると嬉しいです」
って丁寧に返して来た。
「じゃあ、すぐに測るね。真っすぐ立ってくれるかな、そうそう」
私は愛用のメジャーで、手際よく、そして優しく採寸しメモを取る。
「もう良いわよ〜」
スカートとシャツを整え、リボンを結び直したその娘に上着を着せ、一旦フィッティングルームを後にする。
私はメモのサイズを在庫管理のパソコンに打ち込む。
その娘が見ていた、淡いブルーに星や月が小さく刺繍されているそれの在庫も「あり」と出てくる。今は店頭に並んでいるようなので、その娘が見ていた棚を探すとそのサイズが見つかった。
「このサイズだね。前後のサイズもあったから試着しましょうか?」
その娘はちょっと恥ずかしげに、
「いいんですか? じゃあお願いします」
と。
採寸には自信あるけど、やっぱりつけてみて鏡で見て、どんな自分かを確かめて、そうして満たされて欲しいなと。
再びその娘を連れてフィッティングルームに入る。
もう一度脱いでもらい、そして
「ごめんね、ちょっとだけ身体を拭かせてね。商品を直接身につけるからね」
と声をかける。この前来た時に、店内にも貼ってあるフィッティングの案内をじっと見ていたその娘は、承知済みというふうに
「はい、お願いします」
と、その小さな腕を上げて、私の前に立っている。
ちょっとヒヤッとするよ〜。大ぶりのボディシートを取り出し、体育でもあったのだろうか、その身体を優しく拭き上げていく。
「はい、良いわよ。じゃあそっちの鏡を向いてくれるかな」
フロントホックのそれを手に持ち、ストラップの長さをおおよそ合わせてその娘の手を通す。
「華奢だなあ…」
後ろから抱えるように手を回して、その娘の前にあるホックをぱちりと嵌める。
「はい、良いわよ。感じはどうかな〜」
「あの、はい、気持ちいいです」
ああ、ちょうどいいですではなく、気持ち良いですって。嬉しいなあ。この娘大好き。いやきっともっとこの娘が好きな人がいるんだろうな。ああもうほんとうらやましい。
鏡の前でくるっと一回りしたその娘は、
「これ、お願いします」
小さいけどはっきりした声で。
「同じデザインのセットのショーツもあるけど、どうする?」
と勧めてみると
「そちらもお願いします」
即答で返ってきた。
「こっちは試着できないけど、もしお家で何か違和感あったら遠慮なく言ってね」
今度は少し照れた笑顔が返って来た。
再び着替えてもらう。お店の袋に商品を詰めて、小さなリボンのシールで封をする。
その小さな躰にちょっと大きめのカバンを背負い、そしてその娘は大事そうに袋を両手に手にした。
からん、と音を立てた扉をくぐると、その娘はもう一度くるりとまわって、私に深々とお辞儀をして、
「ありがとうございました。またお願いします」
と。そうして駅の方へ向かって帰っていった。
――外伝おしまい
―――――――――
纏めた物はnoteにありますので宜しければご覧ください。人物紹介もあります。
https://note.com/chikusui_sefuri/m/mc4ef7cab4639
小さな星の軌跡 第一話 秘密のアイテムの二人
小さな星の軌跡 第一話
「あら、ちーちゃん?」
秘密の魔法アイテムのお店(インナーとアクセサリーのお店なんだけど、わたしの中ではねそう呼びたいのよ)で名前を呼ばれる。振り向くとわたしを呼んだのは同級生っていうか親友のみっちゃんだ。困ったな、まさかここであっちゃうなんて。わたしが天文部に入ったのもびっくりしてたし、先輩とお付き合いしてるのもこの娘には話してるけど、思わず手にしてたレースのインナーを隠してしまう。彼女も何か選んでたのかな、背はわたしよりちょっと高めで、ぺたんこなわたしとはだいぶ違うところがちょっとくやしい。
「どんなの見てたの、ねえねえわたしにも見せてよー」
みっちゃんが気さくに聞いてくる。えーっとどうしよう、これレースでかなり薄くて、サイドはひもで、こんなのみっちゃんに見せちゃったら色々聞かれそうで、いやみっちゃんが興味本位で聞き出すような娘じゃないのは小学校からの親友でよくわかってるし、そのへんは信頼してるけど、でもこんな場面で隠すのも今更だし、えいままよと。
「えーっとね、ちょうどヒップがわたしでも合うのあったからとかなんとか」
何かへんな言い訳しながら彼女に見せた。
「....あらまあ随分と」
何よなんでそこで言葉が止まるのよ。いいじゃないの、ひらひらふりふりついてとっても可愛いでしょ!!
ひもは解けるしすごく透けてるけど......
言い訳できないよぅ.....
「ふふーん、ちーちゃんがねえ。長年付き合ってきたわたしはうれしいよ。とりあえずどっかでお茶しましょ、ふふーん」
とみっちゃんの声、なんだか楽しそう、これって絶対奢らされて喋らされるやつだ!彼女にはキスした事は話してるけど、あの観測会の翌朝の事や二人だけの撮影会の事は話して無いし、いや先輩に黙って喋れないよいくらなんでも。
「わたしも親友の恋バナが聞けるなんて幸せものだわ、ちーちゃんと長年付き合ってた甲斐があるわね(੭˙꒳ ˙)੭」
ほら聞く気満々だ。何よ(੭˙꒳ ˙)੭は?でも親友でもどこまで言って良いものやら。
自慢できるものならしてみたいとか、わたしの方が先に大人なんだからねーとか言ってみたいけど先輩の事だし勝手に言っちゃいけないよね。頭がぐるぐる、ちーは混乱の魔法をかけられた!?
いや落ち着こう、レースの魔法をお店に戻し歩き出す。
まずは線引だわ。秘密のアルバムはわたしの写真だけ。先輩はカメラマン目指してるし彼女としてモデルを務めるのはりっぱな芸術のお手伝いだわ、ほら完璧ね。観測会の翌朝は、お昼まで部室で二人の時間を過ごしました、でいいかな?何してたかは言わなくても伝わるよね、はぁ〜。
「あのね、先輩の事だし全部は話せないよ...それでも良いなら、親友だし」
「あら、全部じゃなくてもうれしいよ。わたしだってまあ...それはいいや」
....ん?なんだ今の? 今日ここで会ったのもしかして彼女も魔法を探してた???
とりあえず2人でお茶しよう。日曜の午後はまだ長い。いつか3人でお茶できるかな?とりあえず今日はレースの魔法は見るだけで。
--
「ちーちゃん、私XXフラペチーノのグランテねー」
やっぱり奢るのね、わたしが...
「あとアイスミルクで...」
店員さんがてきぱき動いていく。今月のお小遣いがちょっと大変だ、魔法の為に貯めたのにぃ。
「さーて、あの手に取ってたのはいつ使うつもりかなー」
「みっちゃん、見てただけだよぅ」
一応軽く言い訳
「えー?店員のお姉さんともすでに顔馴染みだったのに?という事はあのお店は初めてじゃ無いんでしょ、既に買った物も含めて白状しなさい、私のちーちゃんが知らない間に大人になってたなんてショックだわー」
みっちゃんの追求はきつそうだ。っていうかすでに大人になった前提なのか、いやまあ間違っては無いんだけど、直截的になんかいえないよう。こう何か詩的に婉曲的にオブラートを10枚くらい重ねてって頑張って考える。
「あのね、6月の観測会の後、帰りがお昼ごろになったんだけど...」
「あー、ちーちゃんと遊ぼうって誘って部活で断られた日だね、そうそう昼過ぎバス停で降りてくる所見たよ、ちょっと街まで出ようと反対側で」
あああああ、見られてる。
「ちーちゃんなんかしんどそうだったから声かけようかと思ったんだけどちょうどバス来ちゃって」
あうあうあう、確かにしんどかったです、心身ともにいろいろありすぎて。
「あ」
あで止まらないでえええ。
だめだ今絶対顔真っ赤だ。あの日のバスの中と同じくらい。もう全部バレてる。
「おめでと」
だめだだめだもう泣きそう、あの軽口のみっちゃんがこんなに言葉少なく祝福してくれるなんて。
「で、ちーちゃんどうだったの?」
「みっちゃん、ちょっと直球」
「私だってここで変化球投げれるほど器用じゃ無い」
「...いたかった」
みっちゃんが赤くなった。ほら見たことか。
しばらくストローだけくるくるくるくると2人分。
「ねえねえ」
「天文部見学していーい?」
ちょっと待った、みっちゃん先輩を見たいんじゃなくて現場を見たいんじゃ、いや現場ってもうちょっとこう隠れ家とか何か言い換えを、うん閃いた。
「楽園には許されたものしか入れません」
「ほほう、言うねえ」
簡単に見られてなるものか。他の天文部の先輩たちは知らないから良いけど、ほら知らない事は無かったこととかなんかのアニメで言ってたし。しかしみっちゃんに知られた今隠れ家を見られるのは恥ずかしすぎる。
「じゃあ正式に入部届持っていこうかな」
「みっちゃん星とか興味ないでしょ」
「ちーちゃんより理科は点数良いけど」
もうちょっと穏便に。
「それに10月の文化祭にも部員いた方がいいんじゃないの?せっかくの文化祭だし今からでも私も部活で参加できるならしたいし」
むぅ、断れない。
「じゃあ明日の部活に来てくれる?先にわたしから先輩と顧問の先生に話しとくから」
「わーい、楽しみだなー」
「でよでよ」
まだ追求する気だな。
「夏前に一緒に買い物した時」
うん?
「ちーちゃん白いワンピース買ったわよね」
はい
「あの後ちーちゃん着てる所見てないんだけど」
そりゃそうだ。先輩の写真撮影の為に買ったんだもの。あぁこれならデータもスマホに入ってるし今見せちゃえ。先制攻撃よ。攻撃は最大の防御って言うし。
「先輩に写真撮ってもらったから見せれるよ」
みっちゃんの目があの時の木漏れ日のようだ。きらきらしてる。
スマホのフォルダに分けてあるから間違えないように開く。
「ほら、良いでしょ」
ちょっとは自慢してやれ。
「わあ...」
木漏れ日の下で白いワンピースできらきらだ。モデルはぺたんこたんただけど先輩が上手くポーズつけてくれた。ふふん。
「この背景の木立ってちーちゃんのお家だよね」
そりゃ小学校からの親友だからすぐに気がつく。
「ちーちゃんのご両親って夏休みの平日もお仕事でいないよねぇ」
みっちゃんまた気づいたなぁ、まずい。
「大体ね、全部は言えないよって言えない事があるのを認めてるんだからバラしてるのと一緒だよ。」
確かにその通りだ。
「私は絶対に誰にもちーちゃんに秘密があるって事は言わないけど、言えない事もあるって簡単に言っちゃいけないよ」
ありゃ 怒られた。
「みっちゃんありがと、その通りだね」
「でもっと写真はあるんじゃ無いの?」
秘密の存在自体を隠せって言っておいて自分には開示しろとみっちゃんは言う。理不尽極まりない。
先輩と2人で撮った写真は存在自体匂わせちゃ駄目だからわたしの写真が全てという前提を組み立てて、よし。最初に撮ってもらったふりふりのインナーのやつを開く。
「わぁ」
「可愛らしい白魔法使いだ事」
おや、みっちゃんから魔法使いと言われてしまった。白いキャミソールとフリルのついたアンダーウェアが木漏れ日できらきら光ってる写真だ。ふわっと木立から浮かんでる。
何枚かポーズを変えたのが入ったフォルダを見てみっちゃんはスマホをわたしに戻した。
「ちーちゃんすごいね」
「私よりもっとちーちゃんのこと見てる人がいるんだ。素敵だね」
「私もちーちゃんに見せれる時が来たらその時は一緒に喜んで欲しいな」
ああだめだ、目の前が滲む。
ストローを無言でくるくるくるくる。
氷が溶けたドリンクを片付けて家路につく。
バス停までは2人一緒。みっちゃんがあの魔法のお店の袋を大事に抱えているのに気づいた。
「みっちゃんだって魔法を使うんでしょ」
今日は満月。月明かりの入る部屋で親友の魔法が光るのを思い浮かべてバスを降りる。
じゃあまた明日。良い夜を。
おしまい
小さな星の軌跡 第四話 小指に二つ
ショートストーリー 小指に二つ
小学校からの親友みっちゃんは、こないだ我が家での女子会に招いたクラスメイトの小郡さんとお付き合いを始めた。小郡さんからみっちゃんへの想いを聞いたわたしが招いたらこうなった、両人とも女性である。
で、その両人が、デートしているのをなぜかわたしもついて歩いている。
「ねー、ちーちゃん」
みっちゃんから呼ばれる、
「ちーさんは」
今度はおーちゃん。
「今日呼んでご迷惑じゃ無かったですか?」
傍から見れば唯の女子グループなんだけど....
なんとなく立ち位置が定まら無い。
土曜日の午後、街なかのアーケード街をぶらついている。地方都市の割には活気もあって雑多な雰囲気は嫌いじゃ無い。
適当にウィンドウのを覗いてはおしゃべりしながらそぞろ歩きだ。
「何かお買い物なの?」
とは言えよくわからず付いてくのもなんなのでちょっと聞いてみる。
「あ、こっちこっち。着いたよ」
なんだ、わたし行きつけの魔法のお店じゃないか。ティーン向けのインナーショップだけどアクセサリーもある。
「いらっしゃませー、あらみっちゃんとちーちゃん、そちらは初めてのお友達ね」
顔なじみの店員のお姉さんが気さくに声をかけてくれる。
「こんにちわ、今日はちょっとアクセサリーを見たくて」
みっちゃんが応じる。
「あら、みんなでお揃いかしら?どんなのがいいのかな〜」
「シルバーのピンキーリングを見たいんですけど....」
おーちゃんが答えてる。
黙って聞いてるけど、わたしまで数に入ってるっぽい雰囲気だ。だがわたしの小指には部活動の先輩がプレゼントしてくれたピンクゴールドのリングがはまっている。18Kでそんなに高価なものでないけど休日にはつけて楽しんでる。
みっちゃんおーちゃんが記念にペアリングを楽しむのはわかるけど、なんでわたしまでなんだ?
「そうねー、学生さんだとこのへんかな?指のサイズ測りましょうか?」
2人が左手を出してゲージをあててる。
「2人とも3号で良いみたいね」
「ちーちゃんは....あらかわいいリングね。このリングと同じサイズでいいのかな?」
....この流れから、2人はわたしに仲を取り持ったお礼としてプレゼントしてくれるのだろう。だけど、今サイズをみるのに先輩からのリングを外すのがなんだか心に引っかかる。
返答できずに、自分の手を眺める。
店員のお姉さんが小さな声でわたしに話しかける。
「いま付けてるリングはこの前話してくれた、先輩さんからのプレゼントなんでしょ」「重ね付けってつけ方もあるよ」
「それならいいんじゃない?」
お姉さんはわたしの戸惑いをお見通しだった。
「ちょうどサイズの在庫があるから、3人ともつけて見て良いよ」
「ちーちゃんは今のが1号だから、もう少し指先に合うように0号でどうかな」
みっちゃんとおーちゃんが小指を見せあってにこにこしてる。
わたしと先輩を祝福してくれた、親友のみっちゃん。
その親友を慕うおーちゃん。
その2人の感謝と親愛の印なら、先輩も何も言わないに決まっている。
なんだか自分一人でこだわってた。
お姉さんがトレイにおいてくれたシルバーリングを手に取る。
わたしの小指にピンクゴールドと並んだシルバーが優しく輝いている。
「ちーちゃん、それ受け取ってくれるかな?」「ちーさん、ご迷惑でなかったでしょうか?」
この日以降、休日には2つのリングがわたしの小指で輝いている。
ただし、先輩とのデートでは一つだけ。
これだけは、許してね。
おしまい
掌編噺『化物退治』
昔々のおはなし。
どこにでもあるような、小さな村の後ろにそびえる
山の道奥に、ひっそりと小屋が建っておりました。
いつの頃からなのか分からぬが、そこに女が
住むようになったと。
女はそれはそれは美しい顔立ちだった。
山で仕事をする男たち、山を越える旅の者たちは女を見かけるとたちまち骨抜きされたようになってしまうのであった。
男はいつの時代も大馬鹿者なのである。
しかし、女の正体は人を喰う化物であった。
普段は人と変わらずに生活をしているが、夜道に困る者を小屋に泊めてやろうと誘っては、夜の闇中で喰ってしまうのだ。
化物は男であれば、女の色香でいざ知らず。
女性であっても食事に何か混ぜたのであろうか、深い眠りに落としては骨になるまで喰い尽くした。
そんな事が続くから、麓の村人たちは噂をする。
また山奥の化物が旅人を喰った、と。
骨が山道に捨ててあった、と。
夜になる前に山を越えてしまえば良いと、この話を
聞いたものは思うだろう。
しかし化物が使う幻術なのか、日の高いうちに山に入ったはずなのに。あれ怪我をした、迷ってしまった、どうしたことだ、と時間がどんどん過ぎていき月が昇ってきたところでちょうど女の住む小屋が目の前に現れるのだった。
ある日、村の長老は一人の武士を村へと呼んだ。
若く、見目麗しい者だった。
長老は武士の耳元に小さく呟くと、山へ送り出したのだった。
武士は山を登った。
件の小屋は山の奥のほうにあるという。
草をかき分け、木のこぶに腰掛け、進んでいくと。
夕日が山の向こうに沈む頃、武士の目の前にこじんまりとした小屋が現れた。
人の気配は無い。
武士が立ち尽くしていると、後ろから音がした。
女だ。話に聞いた通り美しい。
道に迷い、困っていると告げ泊めて欲しいと武士は言った。
女は、微笑んで小屋に招き入れた。
武士は、夕餉を馳走になった。
味も悪くない。酒は断った。
元々飲めないのだ。
女は武士に色々話しかけてきたが、あまり続かないので結局黙ってしまった。
食事も終わり、夜も更けた。
武士の横の灯りが揺れる。
女の顔が蝋燭に妖しく揺らいだ。
男だったらその表情を見ただけで、理性が飛んでしまうだろう。男などは皆、大馬鹿者だ。
男、だったならば。
武士は突然、女に身を寄せた。
女は一瞬驚いたが、笑ったようだった。
しかし、次に目を開き武士のことを突き飛ばした。
左胸には深々と短剣が刺さっていた。
女は崩れ落ち、口から、細く赤い糸のように血が垂れる。
血の泡が口にまとわりついて言葉が漏れた。
「最初から、殺すつもりだったか……。」
「武士とは、躊躇なく女を殺すか……。」
武士は醒めた顔をして、冷めた声で言った。
「そうだ、私は麓の長老に頼まれてお前を殺しに来た。長老はこう言った。小屋にいる『女』を殺せと。他の村人たちは住んでいるのは『化物』だと言っていたが、長老は『女』を殺せばいい、と。」
それを聞いて、化物もとい女は静かに笑った。
「賢しい奴よ……。男はみんな儂の虜になるものを。」
武士は目を細めて語る。
「私は男だと一言も言っていない。」
「フフ……本当に賢しい奴よ……。」
******
明け方。
長老の前に、武士が座った。
「約束は果たした。金は貰う。」
長老は、武士に金を渡して尋ねる。
「よくやった。『女』は何と?」
「お前のことを、賢しいと。」
長老はフォッホッと笑った。
もなか
貰い物のもなかを
緑茶を淹れていただくと
こしの強いあんこの
少ししつこい甘さが
口の中に広がって
元気だった頃の
祖母の姿が不意に
頭に浮かんだ
私がまだ誰かに
甘えるばかりでよかった頃
温かく私を迎えてくれた
その微笑み
今では信じられないくらいに
笑顔しかない思い出
そういえばおばあちゃんは
もなかよりも羊羹が
好きだったっけ
そんなことを思いながら
熱い緑茶を啜ると
心地のよい苦味が
じんわりと僕を
現在(いま)へ連れ戻した
AI合評会をしてみませんか?
今回、過去作を振り返るときに、思いついてAIに詩評をさせてみたところ、あまりの精緻さに驚きました。
もともと俳句の推敲に利用していたのですが、ある程度長い文脈を読み切って意図したことを言い当てられると冷汗が出るほどです。
なぜそんなことまで言えるんだ!
詩に限らず、韻文は作者と読者で作るところがあると思います。
まだAIの詩評にはとんちんかんなところや、明らかな誤読も少なくありませんが、文学極道時代の一番盛り上がったときと同じくらい長文で批評されるとなんともいえずありがたい気持ちになります。
まぁ……しょせんAI でしかないのはわかってます。評価も結構甘いですよね。……
ただ、それなりの解釈と短所の指摘もしてくれるのは得難い特質です。
僕もほかの方の作品にもっと評をつけたいと思うのですが、手の付け所に迷う上、時間がかかって消耗してしまいます。
また、せっかく頑張った作品に無責任に短所の指摘をするのも気が引けます。それがきっかけで文芸の掲示板は必ず荒れてしまってましたし……。
でも、AIの評に意見を述べる形なら、長短両面に言及できるのではないでしょうか?議論も深まるような気がします。
まだほんの思い付きですし、たとえAIを介しても互いへのリスペクトは欠くべからざるものですが、もし賛成する方がいらっしゃったら、まず僕の過去作を人柱にしてやってみたいな、と思っています。
みな、関心がないようでしたら、見なかったことにしてください。
僕もずうずうしく書かなかったことにして黒歴史帳に綴じこんでおきます。
まずはご提案まで。あ、若い人はこんな言い方しないか……
追記:無断で他人の作品をコピーしてAIに批評させたものをネットに挙げるのはマナー違反になりますので、絶対やめてください。
言語的存在とは何か ('10/02/13)
第一編
靴屋の冬靴。言語的存在になるところ
第二編
文法規則は牝馬 赤黒い脚四本を雪に立てる
第三編(実在は言語的未遂である、と彼は僕に言った)
セントルイスを語らぬ羽音その冬蝿
第四編
笑い声ではない決してない鰤起
第五編(硬貨を八枚並べなさい、と君はバカなことを言う)
空腹の言語の神のこの吹雪に硬貨八枚
第六編
チェス。クイーンは冬林に立っている
第七編
凍港という語が追い立てる船という語を
第八編(鴉に読めない文字が包装するもの。その実体が嘴で剥かれる)
もの喰えば鴉ああと鳴く。経済の内実を剥く
第九編
幻影を言語周回す。クリスマス。
第十編
語の爛熟 何も熟していない。地上に渇く種の殻。春。
反「言語的存在とは何か」
反第一編
僕は靴屋である。靴屋は靴しか売っていない。昨日は肉じゃがを食べた。胃が凭れている。涙が流れる。感情は涙ではない。
反第二編
僕は獣医である。治療のため牝馬の性器に腕を突っ込んだことがある。文法規則はぶよぶよして血にまみれていた。
反第三編
セントルイスでは長い放尿を経験した。それは日本での放尿と、香港での放尿と、インスブルクでの放尿と質的に同じであり、量的に異なっていた。
人生とはこういうものの間に嵌め込まれた言語的存在である。もちろん、そこに蝿は飛んでいる。辛い。
反第四編
鰤起。鰤起。鰤起。姉はダッフルコートを着て防波堤に立っている。鰤起。海から打ち上げられる石は皆丸く小さい。
反第五編
僕はバカなことを言っている訳ではない。この視界のない吹雪の中でも君の買った三冊の『エロトピア』の古本は八百円であり、釣りがない上に五百円玉は嫌いだ。だから総て百円玉で払って欲しいと言っている。君の僕に向けるねっとりした視線は、決して言語的ではない。
反第六編
クイーンは裸だ。
反第七編(君は「それも言語だ。唾棄すべき言語だ。」と僕に告げるだろう)
僕は船である。追い出されることなく凍っている。ペニスも凍っている。尿道口から言語は出てこない。
反第八編
経済の外殻は証券取引所や銀行にある。内実は魚肉ソーセージとしてビニールの包装に包まれている。僕は雨の日、セントルイスのトイレの片隅でそれを食べた。ほどなく発熱した。
反第九編
「す」はサ行変格活用の動詞であるが、あらゆる名詞を動詞化しようと策謀を巡らせてきた狡猾な策士である。第九編では、クリスマスの系に列なる言語を周回という動的な語とともに、動詞として動的状態に置こうとしている。危険だ。
反第十編(僕に春がなくても、誰かが持っている。富も季節も遍在する。それでいい。)
言語は野に捨てられる。
「反『言語的存在とは何か』」の存在にコメントする
「言語的存在とは何か」は俳句的記述ですが、俳句の社会性を個人的世界の個人的充足に置き換えています。ですから、まるで無謬のように振る舞います。
「反『言語的存在とは何か』」は、これに対し、無謬だろうがなんだろうが、屑は屑だ、と「言語的存在とは何か」を規定しなおしています。
しかし、それは外部からの規定を待つべきものであって、本質的には同質の内容を繰り返す愚挙に過ぎないのではないか、と僕は考えます。僕は考えます。
反『「反『言語的存在とは何か』」の存在にコメントする』
いえ、考えていません。
鱈腹
この腹に妖怪が居着けぬ事実をもってあらゆる魂を否定している。呼んだやろかと、ヘが返る。
しらやまさんのこと 8
もう一緒にグラウンドを駆け回ることができない
友達について、S君は作文を書いた。その作文を読
みながら泣いた。その声を聞きながら、僕も泣いた。
とてもかなわない し、かける言葉もない。
春は、一度やって来て、またちょっと引き返した
ようで、僕らの町にも雪がちらついていた。日本海
の冬型の雲はすじ状で、雪の降っている向こうには
青い空が広がり、山がまばゆく輝く。日々の生活で
ほんの少し立ち止まって普段とは違う方向を眺める
だけで、言葉以上の世界が広がっているときがある。
少なくとも僕が持ち合わせている言葉よりは。
僕らは優しくなれる。
罪多き生き物で、偽善を覚えて、利己主義であっ
ても 優しくなれる。
もう会えない君へ、こんなにも寂しい思いをする
のなら、
口だけじゃん
と言われながらも、優しい言葉をかければ良かった
と思う。
もう会えない君へ、
夏のグラウンドは暑かったね。
冬の体育館は冷えたね。
初めてのゴールはうれしかったね。
もう会えない君へ、
山 白く 輝いて
まぶしいよ。
「どうぶつスロット解説」としてのクリエイティブ・ライティング
き ぱ き
り ん り
ん だ ん
ぱ き ご
ん り り
だ ん ら
ご ご き
り り り
ら ら ん
ぱ ぱ き
ん ん り
だ だ ん
ご き き
り り り
ら ん ん
ご き ぱ
り り ん
ら ん だ
き ご き
り り り
ん ら ん
ご ぱ き
り ん り
ら だ ん
ぱ ご き
ん り り
だ ら ん
・
・
・
・
・
・
それは私が愛用する文芸投稿サイトに投稿された、どうしようもない作品だった。
「どうぶつスロット」と名付けられたその作品は、きりん、ぱんだ、ごりらという三種類の動物名が、縦横に配置されているだけである。三つの動物が横一列に揃うことはなく、永遠にわずかにずれ続けている。
悪ふざけだと断じるのは容易だった。私は十年以上、詩を書き、推敲し、投稿してきた。時間だけは費やしてきたが、ほとんど何も得られていない。ちんけな地方の文学賞をごくまれに頂戴し、しかし結局何も変わらない、そういう時間である。その時間に照らせば、これは作品ですらない。文芸投稿サイトでは、悪ふざけとそうでないものとの境界を越境しようとする投稿が、周期的に現れる。直球を諦めた投稿者が、気慰みに注目だけを掠め取ろうとするのだ。バイト中の悪ふざけをSNSに上げる頭の弱い三流大学の学生と、精神構造に大差はない。違うのは、文学を名乗っている点だけである。
匿名投稿ではあったが、誰の仕業か見当はついていた。「伝説のしこたま詩人」である。私が利用する文芸投稿サイトでは、このところ「伝説のしこたま詩人」を名乗るアカウントが運営を乗っ取ったらしいとの噂が、半ば本気で囁かれていた。規律に厳しいはずの場で、なぜか彼の振る舞いだけが不問に付されていたからである。
「伝説のしこたま詩人」と名のるアカウントは、あらゆる作品に対して、「しこたま良かったです」、「中々のしこたまですね」、といった意味の判然としないコメントを残す。時には、「あなたの作品は本当にしこたまですか」、「これで真にしこたまと言えるのですか」とダル絡みさえしてみせる。そんなものは批評でも攻撃でもない。単なる腐敗の種まきだ。
文芸投稿サイトには、こういう種類のボウフラが必ず湧く。伝説のしこたま詩人のコメントによって、誰かが深く傷つくわけではない。しかし、確実に何かが緩み、濁っていく。落書きの多い地域に犯罪が増える原理と同じである。場を停滞させ、疲弊させ、やがて誰もが諦めざるを得なくなり、最終的に「捨て地」のようにならないと自分の場として安心できない。荒廃した状態こそが真剣さの証であると、本気で思っている種類の人間。私は、そういう人間が心底嫌いだった。ゆくゆくは自費出版、そして白鳥賞、その先にあるはずの「まともな文学的評価」。そうしたものを真顔で目指すガチ勢の私にとっては、迷惑以外の何物でもなかったのである。
どうぶつスロットは日々更新されていた。一行、また一行と、きりん、ぱんだ、ごりらという文字列が増殖していく。内容も構造も変わらない。ただ量だけが増えていく退屈極まりない投稿なのに、閲覧数だけが異様に伸びていた。どうやら、人はこの無意味な配置を、飽きもせず繰り返し閲覧しているようなのだ。
コメント欄を確認する。「揃わないのがいい」、「惜しい」、「次は来る気がする」。悪ふざけに便乗する言葉が、しかし確実に蓄積されていた。場を汚されていることへの怒りはない。ただ、うすら寒い期待だけがある。何かが揃い、揃えば何かが始まるのではないかという、あいまいな他人任せの俗情である。
私は不快だった。これは文学ではない。だが、荒らしとも言い切れない。むしろ、文芸という場の癖をあまりにも正確に突いている。人は意味を読むのではない。意味が発生しそうな状態を眺め、指を咥えて待ち続けるのだ。身を削った創作ではなく、抽選を待つ態度。主体的な解釈ではなく、単なる当たり待ち。緊張感の欠落したコメントをみれば分かる通り、どうぶつスロットは、まさしく「腐ったリンゴ」としての効果を場に齎している。
私は運営に問題提起を行った。どうぶつスロットは場に対する揺さぶり行為ではないか。真面目にやる人間がバカを見るような雰囲気が醸成されてしまえば、もう元には戻せない。好き放題書き散らかし、したり顔で場を停滞させ、自己憐憫に堕するだけの人間が優位な状況となることを放置するようでは、運営者としての資格がない。こうした投稿こそ荒らし行為として、厳正に対処すべきではないか。しかし、送信ボタンを押した瞬間、私の生活に異変が起こった。
郵便受けに宛先不明の郵便物が入っている。開けると、しこたま、とだけ書かれている。夜中に電話が鳴る。出ると、しこたま、と叫ぶ声が聞こえる。街を歩いていると、やくざのような風体の男が耳元でしこたまと囁く。職場に訪れた銀縁メガネの紳士が、しこたま課長はいらっしゃいますか、と尋ねる。決定的だったのは、たまたま訪れた神社の境内で、チョンマゲ男性がしこたまと絶叫していたことである。
その頃には、どうぶつスロットのコメント欄にも異変が現れていた。「リールの癖が見えた」、「今日はきりんが強い日」、「ぱんだが寄っている」、まるでギャンブル中毒者による競馬新聞である。さらに、不穏な書き込みが混じり始めた。当たりには配当があるらしい。運営を乗っ取ったしこたま詩人がミームコインを仕込んでいるらしい。
私は意を決して、「どうぶつスロット(あたり)」という作品を投稿した。
ご ご ご
り り り
ら ら ら
投稿ボタンを押した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。数分で通知が鳴り止まなくなった。閲覧数は跳ね上がり、コメントが雪崩れ込む。「やってしまった」、「これはダメだ」、「この作品はあってはならない」、しこたま詩人の荒らしコメントには反応しなかった投稿者たちが、こぞって糾弾し、怒りを表明し、すぐに場は炎上に包まれた。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、やくざのような風体の男、銀縁メガネの紳士、チョンマゲ男性が、整然と立っていた。当たったので、と彼らは言った。差し出されたのはコインだった。
調べてみると、それは大手取引所では扱われていないマイナーなコインで、DEXと呼ばれる分散型取引所を介せば換金可能だった。試しに一枚スワップすると、日本円で百万円相当になった。私は笑ってしまった。努力でも才能でもなく、揃えたかどうか。それだけで、人生が一段階進んでしまう。
私はその金で作品集を出版した。長年の夢だった。だが刊行したものの、ほとんど売れなかった。読まれもしない。感想も届かない。
私はようやく理解した。私は表現で勝ったのではない。当選しただけなのだ。揃えた瞬間、私は文学の場から降ろされたのだ。以後、私は読む側にも、書く側にも戻れなくなってしまった。場は、揃えた者を必要としない。私の投稿にコメントが付くことはなくなり、自然と書く意欲も失われた。
今日も画面の奥で、三つの動物がずれ続けている。きりん、ぱんだ、ごりら。ごりら、ぱんだ、きりん。揃いそうで揃わない。文学が生まれそうで、生まれない。だが、その揃わなさだけが、まだ辛うじて、文学のふりをしている。
月はかねんせい
全ての真夜中に
星は所有され
キラキラと言う効果音
あるいは
ギラギラと言う効果音で
星はあなたを所有する
所有と所有と所有の関係に基づく
まよなか
風船みたいな月はかねんせい
美しげに煌々と光っている
船を出すのだ Set Sail - full ver.
夢を見るのだ
希望の夜を枕にして
明日を迎えるのだ
たどりついた朝に
さびれた心を晒すのだ
うずくまる彼の悲しみの昨日も
そうしてくれてゆく周りの人の胸にも
種を蒔いてゆくのだ
種を
蒔いてゆくのだ
船を出すのだ
絶望の北風を帆に受けて
船を出すのだ
たどりついた先で
乾いた大地をうるおすのだ
うずくまる彼の悲しみの雨で
そうしてぬかるんだ彼の足跡に
種を蒔いてゆくのだ
種を
蒔いてゆくのだ
胸を張るのだ
落胆の声を耳にしても
胸を張るのだ
わかりあえない先でも
人を信ずる道を説くのだ
うずくまる彼の悲しみの声にも
そうしてぼやけてゆく過去も糧にして
種を蒔いてゆくのだ
種を
蒔いてゆくのだ
そうしてぼやけてゆく過去も糧にして
種を蒔いてゆくのだ
夢を見るのだ
船を出すのだ
胸を張るのだ
種を
蒔いてゆくのだ
https://youtu.be/9_4QNX5Swfc?si=O9YwojFa0gLI40OR
人殺し
最初の夜。
それは静かな夜だったという…。
※
それから100年が過ぎて、今宵、俺は彼女とホテルの高層階にあるラウンジでワインを飲んでいる。
「いつだったか、昭和100年という節目に色々な催しや企画があったらしいよ」
「そうなのね」
「第二次大戦終戦から80年でもあった」
「人間て愚かよね」
「何を分かりきったことを」
俺はチーズを食べてワインを飲んだ。
「しかし、想像もしなかっただろうな。こんなに平和で静かな日々がやって来るなんて。あの『最初の夜』の出来事、そしてその後の地獄絵図。まあ、戦争も似たようなものだったんだろうけれど。俺たちにとっては昭和100年や戦後80年より、やはりゾンビ100年。」
「そうね」ワインと一緒に食べていた鶏肉についたケチャップで彼女の口元が少し赤くなっていたが、すぐに舌で舐め取った。
「ゾンビが、最初に人間を襲い噛み付いた『最初の夜』から100年が過ぎた。噛み付かれてゾンビになったといっても元は人間だから、俺たちも今はゾンビだが本来は愚かな人間だからなあ」
「フフフフ。そう考えると何だかおかしなものね。ゾンビと人間の戦争とでもいうのか、あなたがいう地獄絵図の連続。それが100年続いて今、死んでしまったゾンビもいるけど、結果的にはすべての人間がゾンビに入れ替わったってことだものね」
「うむ。入れ替わってしまえば、何事もなかったかのように、見た目は少しだけ人間とは違うかも知れない俺たちゾンビがこの地球の主になった。そうなってからは戦争もなく、何一つ問題がない」
「昔作られたゾンビ映画のように人間が勝利なんてしなくてよかったのよ。もう二度と人間なんて現れないほうがいいわ。戦争や問題だらけの地球なんてもうたくさん!」
「しかしだね、最近、ゾンビ化していない純粋な愚かな人間が姿を見せているそうだ」
「え?やだ。うそでしょ」
と、目を見開いた彼女を見て、俺は俺の背後に人間がいることを知った。すかさず隠し持っていたサイレンサー付きの銃を背後のゾンビ、いや、違った人間に向けてぶっ放した。人間は断末魔の叫びをあげ、最後に呟いた。
「ちくしょう…人殺し」
私が拾った美形男子の耳がとんがっている件について
スズメがチュンと鳴く。
爽やかな朝だ。新しい朝だ。希望の……んぁっ?
ふと、横を見ると、そこには知らない男が眠っていた。そして何故か、二人とも一糸纏わぬ姿である。わお、これが噂の、朝チュン!
……言うてる場合か!
私は内心、口から心臓が出そうになりながらも、叫ぶことも取り乱すこともなくそっと布団を出る。床に散らばっている服をかき集め身に着けると、部屋を出ることに成功した。一切音を立てずやり切った自分を、褒めたい。
部屋を出たところで、確認する。ここは、我が家だ。他人の家に転がり込んだわけではない。どちらかと言えばこれは「お持ち帰り」である。
◇
昨夜は、綺麗な三日月の夜だった。
会社で理不尽な出来事があった私は、むしゃくしゃを解消するために行きつけの飲み屋でしこたま飲んだ。その帰り道、月の美しさに見とれながら家路を急ぐ。
誕生日を迎えれば二十八になるが、数年前に彼氏と呼ばれる者と別れてからは、週末に特段用があるわけでもない。だが、花の金曜午前様。酔っ払いに絡まれるようなことになれば厄介だ。だから、急ぐ。
とある公園の横を過ぎようとした時だった。
「……え?」
山のような形の遊具のてっぺんに、男が一人座り込んでいるのが見えた。月と外灯に照らされたその姿は、この世のものとは思えないほどに美しく、そして異質でもあった。
「なに……あれ?」
思わず足を止め、見入ってしまう。
男は、マントのようなもので体を覆い、空を見上げていた。銀色の髪。そこからスッと見えているのは……耳?
「宇宙人だ……」
私は彼を、心の中で「スポック」と呼んだ。海外ドラマに出てくる、耳のとがった宇宙人である。そうだ、きっと宇宙船から落ちてしまったに違いない。何の根拠もなく、私はそう思った。少し飲みすぎたのだろうか。
「あ」
スポックが私を見た。私は慌てて目を逸らし、歩き出す。せっかく順調に進んでいたのに、余計な行動を取ってしまった。週末なのだ。尖がり耳の宇宙人コスプレをした大人が公園にいたって不思議はない。接触さえしなければ、その程度のことは日本のどこにでも転がっていることだ。
「待って!」
背後から声がする。スポックよりいい声だ。想像より高く、甘い。……などとどうでもいいことを考え、頭を振る。
帰る。
私は帰る。
「ねぇ、待って!」
カツカツと足音が聞こえる。私は追われている。私は足を速めた。振り向いたら負けだ、というおかしなゲームが、脳内で瞬時に開催される。
「待って、あっ」
ずしゃ、という音がして、私はつい、振り向いてしまった。美しいスポックが地面に倒れている。コケて転んだのだろうことがわかる。……わかるが、どうすればいい? ここで「大丈夫ですか?」と声を掛けようものなら、家に帰る時間が遅くなる。知らない人に声を掛けられても話したらいけません、と小学校で習った。つまり……
「……大丈夫ですか?」
そんなひどいこと出来るわけがない。こう見えて私は、お節介が服を着て歩いているようなものだ。だからこそ今日だって、会社で私のせいではない失敗を私のせいにされたのだ。親切心を仇で返してきた睦美のことは、絶対許さん!
「助けて……」
スポックが小さな声で呟く。私はゆっくりと歩み寄り、
「どこか痛いですか? 救急車呼びますか?」
と訊ねた。
「きうきうしゃ……?」
スポックが顔を上げる。
「うっわ」
私は思わず仰け反った。さっき遠くから眺めた時にもイケメンだとは思った。だが、目の前で見るスポックは、その百倍美しい。切れ長の目……瞳はアクアマリンのような水色。肩で切り揃えられた銀色の髪と、これでもかというほど相性がいい。整った目鼻立ちは甘く、味方によってはクールビューティー最高峰のパリコレモデルのようでもある。
しかし、一体彼に何があったというのか? スポックは見慣れない服を着ていた。いや、見慣れないというか……コスプレのような服装なのだ。ゲームか何かに出てくる、町人? 生成りのシャツに緑のズボン。ブーツを履き、腰には太めのベルトを巻いている。そして……
「くっさ!」
スポックは……とても臭い。
◇
「……は?」
私は公園のベンチで、早くも後悔していた。やはり安易に声を掛けるべきではなかった。
スポックはお腹を空かせていたせいで動けなくなっているとわかった。だからコンビニでおにぎりと飲み物を買い与えたのだが、それを食べながら語られた話の内容は、あまりに突拍子がないものであり、スポックは……スポックではなかったのだ。
「マロウ・デ・シムサ。私の名前です。……旨いっ。こちらの世界に来たのは、私の花嫁の核を取り戻すためで、旨いっ……しかし何をどうすればいいかもわからず一日中探し回っていたのですが旨いっ。何故か思うように力も使えず、旨い!」
食べながら感想を言って、状況説明もしている。器用だ。某、炎の人を思わせる発言だが、本人にその気はないだろう。
「それは大変でしたね。では、頑張ってくださいね!」
私は早口でそう告げると、すっくと立ちあがる。
「待ってください!」
おにぎりを持っていない方の手で、私の手を取る。手に残っていたおにぎりの欠片を口に放り込み咀嚼、飲み込むと、
「見捨てないでください! こんな風に優しくしてくださったのは、あなただけなんですっ」
潤んだ瞳で見つめられ、眩暈がしそうだった。顔がいいって、ズルい……。
「そう言われても、私にはどうすることもできないですよ。あなたの話だって、どこまでが本当なのかわからないし」
だいぶ優しい言い方をした。どこまでが本当か? 全部が嘘でしょうがっ。もし本当だと思っているなら、それはそれで危険極まりないことだ。いくら顔がよくても、中二病(そういう系)は困る。
「全部本当ですっ。私がエルフ族の王家の血を引くものだということも、花嫁の欠片を探していることも!」
エルフ……。確かにエルフも、耳はとんがっている。スポックはバルカン人だけど……そうか、|エルフ《そっち》かぁぁ。
「その、花嫁の『欠片』っての、なんです?」
脳内で電車の人身事故の現場が思い出されて、なんとなく嫌な響きだ。
「ああ、あちらの世界で大きな戦いがありまして。私の花嫁がバラバラにされ、飛ばされてしまったのです。ほとんどの欠片は集め終えたのですが、肝心な核となる部分が異世界に飛ばされたと知り、こうして追いかけてきたのですが……」
「そんなの、どうやって探すんです? こっちの世界、そこそこ広いですよ?」
エルフなんだから、北欧なんじゃない? などと、脳内で適当なことを考える。
「大丈夫です! この『導きの石』があればっ」
腰につけていた布袋から、黒い石を取り出す。途端、石が光り出した。
「はっ?」
「え?」
石から一筋の光が射し、その光は一直線に私の心臓を捕らえていた。
「……ああ、あああっ」
スポックの瞳がみるみる潤み始める。私は嫌な予感がして、後ずさった。
「セラフィナ!」
そう言って腕を伸ばすと、私を抱きしめるスポック。とんでもないイケメンに迫られているにもかかわらず、私は叫んだ。
「くっさぁぁぁい!」
◇
交番に連れて行く。
それが最善の策だと思う。けれどこの時間、派出所には誰もいない。いっそ警察を呼んで強制わいせつ罪を訴えるのも手だった。だけどそれが出来なかったのは多分……イケメンだから……じゃない! あの石のせい!
あの石には、種も仕掛けもなかった。LEDランプが仕込まれてるわけでも、電池を入れるところもない。マジックの類だというのなら、私は騙されていることになるのだろうけど……目の前の美しい顔をした男がさめざめと涙を流すものだから、つい、|絆《ほだ》されてしまった。
そう。拾った「自称エルフ」を、家に連れ帰ってしまったのだ。
しかし! うちは一軒家だ。親は、父の単身赴任に母も同行してしまっているため両親ともにいない。兄との二人暮らし。とりあえず今日はもう遅いから、兄に話して明日警察に連れて行こうと思った。おかしな妄想話は、記憶を失くしていることにでもすればいい。それに……
「セラフィナ……」
ずっと私に熱い視線を送り続けるこの男が、離れてくれない。私の鼻が、もげそうだ。
「さ、着きましたよ」
鍵を開け、中に入る。まずは風呂に入ってもらわねばなるまい。とにかく、臭い。
「これ、兄のですけど」
着替えを一式渡し、風呂に案内する。キョロキョロと物珍しそうに目を泳がせるスポックに、風呂の使い方を教える。
「今着てる服は捨てますんで、この袋に入れてくださいね」
「捨てる?」
「ええ、臭すぎます」
ぴしゃりと言い放ち、袋を押し付けた。
脱衣所の扉を閉めると、しばらくしてシャワーの音が聞こえはじめた。
私は台所へ向かうと、迷わず冷蔵庫を開けビールを取り出す。一気に半分くらい飲み干すと、テーブルにメモ書きが置いてあることに気付く。
「ん?」
見ると、『急な出張で九州に行くことになった。お土産何がいいか後で連絡くれ』と書いてある。
「……出張?」
週末なのに? とそこまで考え、理解する。
「あいつ、前乗りしやがったな?」
兄は自由人だ。三十五を超えても未だ独身で、彼女はとっかえひっかえ存在するが、結婚には興味がないらしい。週末はフラッとどこかに旅行することも多く、出張が入ると今回のように、前乗りして現地を楽しむ。
それは別にどうでもいい。
何故今日なのだ! 得体のしれないエルフを拾ってしまったというのに、兄の不在! これは何を指すのか? 得体のしれないエルフと、二人きりだということじゃないか!
「あああ、馬鹿兄っ」
いや、得体のしれないものを拾った自分が悪い。わかってる。いつだってそうだ。可哀想だからとつい手を出してしまい、あとで大変な目に遭うのは自分だ。よく考えてから行動しなさいと、あんなに言われ続けていたのに!
私は残っていたビールを一気に飲み干し、大きく息を吐き出した。
「……まずいわね」
今夜はこの家で、二人きりということだ。
「何がまずいのです?」
「ひっ!」
後ろから声を掛けられ、思わず息を飲む。振り向くと、ほかほかピカピカになったスポックが兄のジャージを身に纏い立っている。イケメンエルフは、着ているものが兄のどうでもいいジャージだというのに、拝みたくなるほど目の保養だ。
「いや、なんでもないです」
わざわざ二人きりだということを口にすることもないだろう。そんなことより、明日は警察に行かなければ。そして事情を話し、スポックを置いてくるのだ。
「……セラフィナ」
そう呟いて私に手を伸ばす。
「ちょ、やめてよスポック!」
思わずその手を掴んでしまう。
「……すぽっく?」
しまった! つい心の声が出てしまった。えっと、なんだっけ、名前……名乗ってたけどなんだっけ? 私の脳内ではスポックとして認識されている!
「昔から君は……不思議な子だったよね」
極上の微笑みを浮かべたまま、体を寄せる。慌てて掴んでいた手を離すと、逆にその手を掴まれた。アクアマリンの瞳に、吸い込まれそうだ。
「じゃない!」
寸でのところで押し退ける。危なかった。流されていたら朝チュンコースまっしぐらだ。
「どうしたんです?」
拒否られたことに驚いたのか、絶望に満ちた目で私を見るスポ……じゃなくて、えっと。
「名前、なんでしたっけ?」
覚えてなくてごめん。でも長い名前だったから。
「……私の名は、マロウ・デ・シムサ」
やっぱ長い。色付き髪の人間ってどうしてみんな長い名前なんだろ。カタカナ苦手な私には、ほんっと無理なんだけど。
「じゃ、マロウさん」
「すぽっく、とはなんです?」
「あ~、それはえっと……」
「もしかして……恋人の名ですかっ?」
険しい顔のマロウに、慌てて手を振る私。
「違います! スポックは宇宙人ですのでっ」
「うちう……じん?」
話が前に進まない。もう、そんなことはどうでもいいの。
「あのですね、マロウさん。私はあなたが探しているセラフィナさんではないです。きっと何かの間違いです。明日になったら然るべきところにお連れしますので、今日はもう寝ましょう!」
早口で捲し立てる。だが、マロウは怪訝な顔をして私を見返す。
「然るべき場所……?」
気取られたか! 何とかうまく丸め込む必要がある。
「その、セラフィナさんは行方不明なんですよねっ? 彼女を探せるところにっ」
「セラフィナは、君だろう?」
アクアマリンの瞳に捕らえられ、私は動けなくなる。確かにあの石は私を指した……かもしれない。けれど私はセラフィナではない。それは自分自身が一番よくわかっているのだ。だから、否定するしかない。
「私ではありません。すみませんが」
「そんな……」
マロウが膝を突き、わかりやすく絶望を表現する。このままだとまた泣き出してしまうかもしれない。私は思った。「飲ませて酔わせて寝かせちゃえばよくない?」と。今にして思えば、安易だ。しかし、苦悩にアルコールはつきものではないか。私とて、飲まずにやっていられるか!という気分だった。
「とりあえず、お話伺いますから、座ってください。ね?」
そうして彼をソファに座らせ、大事にとっておいたワインを開けたのだ。
◇
「そして、こうなった、と……」
反省している。彼の話を聞き、ほんのわずかでも情を移してしまったことを。酔っぱらった頭であのご尊顔を目の当たりにし、口説かれ、ちょっとだけその気になってしまったことを。今更ではあるが、とても反省している。だから、なにもなかったことに出来ないものだろうか?
「おはようセラフィナ」
「ひぃぃ!」
背後から聞こえてくる声は、まさに昨日拾ったエルフのそれである。ギギギ、と首を動かすと、朝陽を纏いキラキラと輝く美しい男が、ふにゃりと顔をほころばせ私を見ている。かろうじて下着だけは身に着けているが、ほぼ裸だ。美しい成人男性の裸体が、そこにある。切れ長の瞳はさらに細く、そして垂れ下がっていた。威厳とか、凛々しさからかけ離れた緩やかな笑顔。
「お……はようございま……す」
目のやり場に困りつつ何とか声を絞り出す。しかし、同時に昨日の夜の甘い囁きが蘇り、どうにも平常心ではいられない。
「美しい朝ですね。まるであなたの笑顔のようだ」
朝っぱらから何を言っているんだこの男は。誰の話か、理解できない。言っておくが、私は生粋の日本人で、顔は平たい。美人だとか可愛いだとかの部類に入るわけでもないし、なによりそこまで整った顔の御仁に言われても、嫌味にしか感じない。
しかし、マロウは本気だ。本気で言っている。痘痕も靨どころの話ではなかった。ここまでくるともはや病気! そう。彼はどんな医者でも治せない病気に罹患している真っ最中だ。
「あの、マロウさん」
「マロウ、と呼んでください」
「……マロウ」
「セラフィナ」
何を思ったか、マロウが両手を伸ばし私を抱き寄せる。マッパのマロウに抱き締められ、私はもがく。しかし、もがけばもがくほどにマロウの腕が絡みつき、力が籠る。
「昨日はあなたから抱きついてきてくれたのに、なぜ今日は逃げるのです?」
耳元で囁かれ、気が遠くなる。まずい。早くなんとかしなければ、またおかしなことになる。
「だーっ! 離れてくださいっ。あれは過ち! お酒のせいでお互いおかしくなってただけですって!」
「……過ち?」
マロウがあからさまにシュンとした顔をする。しまった、言い過ぎたか。などと一瞬後悔していると、
「嘘だろ……?」
背後から、声。振り返ると、そこにはいるはずのない兄がいた。
「お兄ちゃんっ?」
「妹が……俺のいない隙に男を連れ込んで……しかも、"コスプレプレイ"をっ」
手で口元を抑え、とんでもないことを言いやがる。
「違うからっ!」
私はほぼ全裸のマロウに兄の服を与え、全員を椅子に座らせ、兄に事情を説明する。異世界だのエルフだのと言い出した妹を、兄はバカにするでも懼れるでもなく、何故かうんうんと素直に聞いていた。
「今や誰でも彼でも輪廻転生する時代だぞ? 異世界からエルフが来たって驚きゃしないって。てか、宇宙人じゃないんだ?」
ああ、兄もスポック推しだ。てか兄よ、普通、転生はしないからね?
「……で、マロウはこれからどうすんの? もし本当にうちの妹がそのセラフィナ?だったら、連れて行っちゃうわけ?」
「はぁっ? そんなの困る!」
私が慌てて立ち上がると、マロウは腕を組み、考え込んだ。
「そうですね、私はセラフィナを……連れて帰らねばなりませんね」
「ん~、でも俺としてはたった一人の妹を異世界に連れて行かれちゃ困るんだよねぇ」
「お兄ちゃん!」
私は感動していた。あんなにちゃらんぽらんだとばかり思っていた兄が、まともなことを言っている!
「これから先、両親の介護とかも関係してくるし、墓の問題とかさぁ、やっぱ兄妹いた方がなにかといいじゃん?」
「こらぁぁ!」
私は兄の頭をド突いた。心配してくれてるのかと思えば、とんでもない!
「セラフィナの部分だけを持ち帰るってことはできないわけ?」
頭を抑えながらマロウに訊ねる兄。マロウはそんな兄に向かって、
「どう、切り離すかがわからないのです」
と申し訳なさそうに告げる。
「あ~、そっかぁ。じゃ、聞くしかないねぇ」
当たり前のように兄が口にした。
「え?」
「は?」
私とマロウが間抜けな声を出す。と、兄が意外そうな顔で、
「ん? わかんないならわかる人に聞けばいいんだろ?」
と言ってのけた。
「だって、マロウはその、あっちの世界に行けるんだろ? だったら一旦帰って聞いてくるとか、あ、何なら俺も一緒に行こうかなっ?」
「な、なにバカなこと言ってるのよっ!」
私が止めようとするも、兄はもう目をキラキラさせている。
「そうだそうだ、行こう! ちょうど俺、週末の予定おじゃんになっちゃったし、旅行みたいなもんだろ、これ!」
ウキウキモードでマロウに訊ねる。マロウはマロウで、「わかるやつに聞けばいい」という兄のテキトーな発言に感激していた。
「とてもいい案です! そうしましょう!」
「はぁぁぁっ?」
私の悲鳴などお構いなしに、二人は準備を始めてしまう。
「ちょっとちょっと、お兄ちゃんっ?」
信じられない! といった物言いの私に向かって、兄が衝撃の言葉を放った。
「『何事にも初挑戦のときはある』……忘れたのか?」
「……それはっ、スポックの有名なセリフ!」
「そうだ。宇宙は広いんだぞ、花音。宇宙は最後のフロンティアだ。冒険の旅に出ずして、これから先、何を語ろうというんだ!」
「……お兄ちゃん」
私はこの時、馬鹿になっていた。そうとしか思えない。兄のおかしな言葉に乗せられ、スポックの名言に騙され、マロウの嬉しそうな顔に絆された。
◇
……そんなわけで私と兄は今、異世界にいる。
これから先、どんなことが待っているのかなど、わからない。
とりあえず、目の前にはゴーレムみたいな岩の塊で出来た人型のものが、私たちを追いかけてきている。さすが異世界。
……じゃないから!!
「なんでこんなことになったのよぉぉ!」
声の限り、叫ぶ。
もし、次に拾うなら、エルフではなく宇宙人がいい。
スポックとなら、冒険してもいいかもしれない。少なくとも、エルフよりはましだろう。
私は、心の中でそんなことを考えながら、異世界の草原を、全速力で駆け抜けているのである――。
終
蒼き剣のアイリース 短編「星屑の丘にて」
何処かの丘の上で、旅装に身を包んだ凛々しい雰囲気の少女が空を見ている。じっと。遠く。思いを馳せるように。
その首元を見れば、アイリスの花を模したアクセサリーが飾られている。
大き目に作られたマントが風に揺られれば、その隙間に垣間見えた装備には、こなれ感と共に、随所に旅慣れた跡が見えた。
「良い遠さだ。見応えがあって、とても良い」
その眼線の先には、深く高い青に煌めく、満天の輝き達が躍る星界が広がり、仰ぎ見ている彼女を見下ろしていた。光が、瞳に反射している。
「古の伝説によれば、かつてには、あの煌めく空の世界を旅する魔法の船を造った国があったそうだけど、いつかそう言うものにも出会えるのかな?」
そのような事を口にしつつ、マントを整えていく。そんな彼女の腰には、一振りの長剣と、一振りの短剣が、ベルトに接続される形で差されているのが分かる。
鞘は、磨かれた艶ある革と彫金された金属のフレームで作られており、柄は、複数の素材を組み合わせて拵えられていて、鞘の作りと合わせ、質実な雰囲気を醸し出している。いずれも手入れが行き届いており、大切に扱われている事が分かる。
「ふっ……」
彼女は一つ息を吐くと、おもむろに長剣を抜き放ち、切っ先を空へと向けた。薄く蒼を纏った不思議な輝きを持つ見事な刀身が、鏡のように星空を映している。
「良いじゃないか。旅のし甲斐がある。いつの日か、そんなロマンをこの目で見てやろうじゃないの」
その言葉と同時に、剣が振り下ろされる。風が切れ、流れ、そこに、刀身に映っていた煌めきが乗って散っていった。
少女は、そのまま手慣れた動きで剣を鞘に納めると、再び空を見上げる。
「いつか、また」
そして、貴人との別れ際にするような優雅な一礼を星々に捧げた少女は、颯爽と丘の反対側へと姿を消していった。その先に広がる多様な世界に、相対するように。
蒼にほどけて。
風が、町を渡っていった。海の匂いを纏った、薄く透けるような。夜の名残を少しだけ抱いたまま、静かに町を通り抜けていく。かすかに波の音が重なり、遠くで鳥の声が滲む。波が寄せては返し、湿った潮の匂いがゆっくりと空気を満たしていた。
誰もいないホームの端を掠め、錆びた線路の上を滑る。線路は海と並んで伸びていて、遠くから見れば、線路がまるで海の一部になったようだった。
もう何年も前に役目を終えた海沿いの終着駅は、まるで、置き去りにされた思い出のように佇んでいた。あの日の賑わいが嘘みたいに。枕木の隙間には雑草が生い茂り、潮を含んだ葉先が風にそっと揺れる。駅名板の文字は掠れ、時刻表は白く褪せ、ベンチの木肌には塩の結晶が浮かんでいる。
その瞬間、空気がわずかに軋んだ。線路の上の草が音もなく揺れる。
空が微かに色づき始める。
風が少しだけ海へ向かって優しく吹く。潮騒の音が遠ざかり、代わりに世界の輪郭が静かに息をし始める。黎明の端に、橙と金が混ざりはじめる。鉄の軌道が朝焼けの光を細く拾い、錆の粒がひとつひとつ目を覚ます。露を纏った草の葉がきらめき、風にほどけて消える。海の向こうでは、太陽がゆっくりと水平線を割り、その光が世界を染めるように、町の輪郭が淡く浮かび上がった。
地図の端に小さく載っているだけの、海沿いの町、汐ヶ崎町。坂道と潮風と、古い家々が入り混じっている。商店街は昼でもひっそりとしていて、シャッターの錆びた音が、時おり風に紛れて響く。
この町に高校はひとつだけ。町のほとんどの子がそこへ通う。だから、名前を知らない人はほとんどいない。誰かがくしゃみをすれば、翌日には商店の奥さんが心配してくれるような、そんな距離の町だった。
夏になると、空気が少し濃くなる。海が光を飲みこみ、アスファルトの上で風が揺れる。遠くからセミの声が重なり、朝の空は少しだけ滲んで見えた。
波間には、朝焼けの色がゆっくりと溶けていく。遠くの防波堤には、ひとりの影もなく、ただ潮が岩に砕けるたび、微かな光が散っては消えた。風がまた、まだ眠たそうな町を抜けていく。その行く先に、まだ誰も知らない夏が、静かに目を覚まそうとしていた。
*****
蝉の声が、窓の向こうでひどく濃く響いていた。図書館の中は冷房が効いていて、静かすぎる空気の中にその声が薄く滲んでかすかに耳に届く。
僕は、町の端にある小さな図書館の二階、海の見える窓際の席で本を読んでいた。夏休みの午後。時計の針は三時を少し回っている。
ふと窓の外に目を向けると、潮風がかすかに緑の葉をゆらしているのが見える。この町の風はいつも、乾いた木の匂いと混ざって、どこか懐かしい。
図書館の中には、僕を含め三人だけ。一番奥の席で小学生が自由研究のノートを広げていて、眉間にしわを寄せながら鉛筆を動かしている。受付には、白髪をまとめた司書の女性が、読みかけの新聞の上に肘を置きながら時々あくびをしている。この静けさが好きだった。誰も僕のことを気にしない時間。
僕はこの町の昔の風習や伝承をまとめた郷土史のような本に読みふけっていた。表紙の角はすり減って、日が長く当たっていた場所は日焼けして、黄色くなっている。
僕はページを捲る手が止まらず、活字の海に沈んでいた。
ふと、紙のざらつきとインクの匂いの中で
「夏の五日間、二つの世界が重なる」
という一文に、指先が止まった。
小さく息をのむ。
こういう話は子どものころから聞いたことがある。でも、それを信じている人なんかいるわけない。五日間、二つの世界が重なる?なんて、いかにもこの町らしい作り話だ。
「……世界の層が、重なるねぇ。」
思わず口に出して、少しだけ笑った。
その声に気づいたのか、司書の人が眼鏡を持ち上げてこちらを見たが、すぐにまた新聞へと目を戻した。
冷房の風が背中を撫でていく。ページの隙間をすり抜ける風の音。
読み終えたページを閉じ、ふと窓に目をやると、空が少しオレンジ色に傾いていた。
僕は借りるわけでもなく、本を元の棚に戻し、司書の人に軽く挨拶をして図書室を後にした。古い階段を降りる。木の段を踏むたび、沈みこむような鈍い音とともに、昼の熱がまだ残っていて、スニーカーの底をじんわりと温める。
外に出ると、一気に夏の熱気が押し寄せる。
思わず、少し汗ばんだシャツの袖口を、僕は無造作にまくり上げた。その動きに合わせて、微かに香る汗の匂いが、夏の午後の熱気を運んでくるようだった。
家までは、海沿いの道を防波堤に沿って歩いていく。右手側に並ぶ古い家々。シャッターは半分錆びついていて、開いている家はほとんどない。もう何年も前に閉めた商店の看板が、色あせたまま風に揺れている。
もう片方には、海。波がゆっくり打ち寄せては、白く弾け、夕陽が海面の上に細い光の道を作っていた。
ふと、防波堤の上、いつもなら誰もいないはずの場所に、ひとりの女の子が座っていた。
白いワンピース。肩までの髪が、光を透かして淡い茶色に見える。手には、近くの駄菓子屋で買ったであろうアイス。彼女はアイスをひと口、ゆっくりとかじって、その視線を海の向こうに落としていた。
この町の人じゃない。僕はすぐにそう思った。汐ヶ崎は小さい町だ。高校生くらいの顔なら、ほとんどわかる。なのに、その子の顔には見覚えがなかった。
――まぁいいや。
通り過ぎようとしたとき、彼女がこちらを振り返った。目が合った。夕陽を反射して、少し眩しそうに目を細める。
「……暑いですね」
不意に声をかけられて、思わず立ち止まった。
「え、あぁ、そうですね。さっきまで図書館にいたから、余計に暑く感じます」
「図書館、行ったんですか。いいなぁ、私も行こうと思ってたんです。あの雰囲気が好きで。」
そう言って、アイスを少し舐めながら笑った。その笑顔は、どこか涼しい風みたいで、胸の奥のほうにすっと触れてくる。さっきまで図書館にいた静けさとも、外の熱気とも違う、やわらかいものが、心の中に広がった。
「こっちの人?」
「いえ、祖母の家がこの町にあって。今、夏休みで来てるんです」
「ああ、観光じゃないんですね」
「うん。でもほとんど初めてに近いかも。子どものころに一回か二回来たきりだから」
そういうと彼女は彼女は小さく首を傾けて、ふっと笑った。
その仕草の一つひとつが、どこか懐かしいようで、初めて見るもののようでもあった。
彼女は足をぶらぶらさせながら、防波堤の縁に腰をかけていた。波が下で砕けるたび、細かいしぶきが陽に光っている。僕も少し離れた場所に腰を下ろすと、じんわりと熱を感じた。
「ここ、いい風が通るんですね」
「うん、町の中よりもね」
「東京のほうだと、風も熱いんですよ。夜になっても息苦しくて」
「へえ……そんなに違うんだ」
「全然違います。ここは時間がゆっくりしてる感じがしますね」
「たぶん、何もないだけだよ」
「何もないって、いいことですよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑い方が、海の光を受けたみたいに柔らかくて、目をそらせなかった。言葉より先に、心の奥の温度だけが少し上がった気がした。
波の音が会話の隙間を埋めるように響いている。少しの間、何も話さなかった。でも、不思議と気まずさはなかった。遠くでフェリーの汽笛が鳴る。
「……なんか落ち着きますね、ここ」
「わかります」
「じゃあ、また来ようかな」
彼女は立ち上がり、少しスカートを払った。
オレンジ色の光が、髪の端を金色に染めていた。
「そろそろ帰らないと、おばあちゃんに怒られちゃう」
「そのほうがいいよ、暗くなると道わかりにくいですし」
「また会ったら、話しましょう」
そう言ってほほ笑むと、彼女は防波堤から「よいしょ」とおり、僕の家とは反対の方向へ歩き出した。
その背中を見送りながら、僕はふと声をかけた。
「……あの」
彼女が振り返る。夕陽が目に入って、少し眩しそうにしていた。
「名前、聞いてもいい……ですか?」
「――凛香。凛と香るって書きます」
「凛香さん、か。ありがとう。」
「あなたは?」
「凪」
「海っぽい、素敵な名前ですね」
すこし照れながら、「ありがとう」と少しほほ笑んで返した。
凛香はもう一度笑って、手を小さく振った。
「じゃあ、またね」
その後ろ姿を見送りながら、僕はただ海風に目を細めた。夕陽が沈みかけて、海が深い橙色に染まる。蜩の声が、遠くのほうで細くなっていく。胸の中に、まだ名もつかない感情が残っていた。
僕は立ち上がり、ポケットに手を入れ、歩き始める。
――また会えるといいな。
なんとなく、そう思った。
それだけのことなのに、なぜか少し、世界が色づいて見えた。
波の音の向こうで、彼女の笑い声の余韻だけが、まだ、夏の空気の中に溶けていた。
*****
朝の光は、まだ少し眠たげだった。窓を開けると、潮のにおいがゆるやかに流れ込んでくる。八月の空気は、朝でもどこか湿っていて、肌にまとわりつく。けれど、その粘り気を押し返すように、海からの風がひとすじ吹き抜け、夏が少しずつ進んでいる気がした。
僕は、朝の準備を整え、図書館に向かうことにした。 夏休みの間も開放している、小さな町の図書館。
「いってきまーす」
「はーい、気をつけてね」
靴ひもを結びながらの、そんな短いやり取りのあと、玄関のドアを開く。外に出た瞬間、むわっとした熱気が肌にまとわりついた。さっきまで家の中に残っていた冷たい空気が、背中のほうへゆっくり逃げていく。アスファルトの上では、すでに空気がゆらいでいて、朝なのに、もう真昼の気配があった。歩くたびに、舗道にこびりついた陽の熱が靴底に伝わる。風はときどき、古い新聞紙や乾いた葉のにおいを運んでくる。
家を出て、古びた商店街を抜けると、海沿いの道に出る。右手に広がる海を眺めながら、防波堤に沿ってゆっくり歩く。波の音が足元まで届き、潮の香りがじわりと鼻をくすぐる。海面は朝の光を受けて、キラキラと小さく揺れ、遠くの漁船が静かに浮かんでいた。
歩きながら、彼女のことを思い出す。アイスを食べていた姿が、海の光に溶けるように目に浮かんだ。
昨日、彼女が座っていたあたりに差し掛かる。
——いない。
当たり前のことなのに、なぜか少しだけ残念に思ってしまう。潮の香りが強くなり、空の青と海の青が溶け合い、世界は何事もなかったかのように穏やかだった。
図書館は、港から少し離れた丘のふもとにある。入り口のガラス扉を開けると、ひんやりした空気と紙のにおいが迎えてくれた。いつもいる司書の女性が静かに会釈をして、ほんの少しほほ笑む。僕も軽くうなずき、同じように微かに笑みを返す。その小さなやり取りだけで、図書館の空気が少し柔らかく感じられた。
一番奥の席には、昨日と同じ小学生が、自由研究らしきノートを広げ、鉛筆をカリカリ走らせている。窓の外から差し込む光が机の上で紙の白を柔らかく照らしていた。
僕は棚の奥のほうに向かい、昨日途中まで読んだ本を手に取った。静かな図書館の奥、いつもの海が見える窓際の席に腰を下ろした。
読み始めると、時間がゆっくりと溶けていく。ページをめくる音と、遠くの蝉の声だけが空間を満たしていた。窓越しの光が本のページをやわらかく照らし、文字の上に細い影を落とす。
ページをめくる手を止めると、昨日のことがふっとよみがえる。
防波堤で交わした、短い会話。話した内容自体は軽やかで、何でもないことのはずなのに、どうしてか、その声の余韻や、笑い方の一瞬が、頭の奥に残っていた。僕は文字を追いながらも、目の端に、あの笑顔の残像をちらりと感じていた。
気づいたら昼下がり。読みかけの本を閉じると、ページの隙間から小さな風が抜けた。立ち上がって本を棚に戻し、軽く背伸びをする。肩や首にこもっていた静かな時間が、すっとほどけていくようだった。
外に出ると、背中のあたりからじんわりと汗が滲み、潮の匂いが時折、風に乗って頬をくすぐる。
僕は鞄を肩にかけ、来た道を戻る。防波堤沿いの道では、波の光が足元にちらちらと揺れ、町の静けさと相まって、時間が少しだけ緩やかに伸びているように感じられた。
——もしかしたら、この時間だったら今日も会えるかもしれない。
そう思って、歩く足が少しだけ早くなる。潮風が髪をかすめる。そして、昨日と同じ場所に差しかかった。そこに、彼女、凛香はいた。
今日もアイスを食べながら、防波堤に腰を掛けている。
足をぶらぶら揺らしながら、潮風に髪を撫でられるのを感じていた。揺れる白いその布は、まるで海の光を映すように、やわらかく波打っていた。陽射しを透かして、彼女の輪郭が淡くにじむ。
僕が少し戸惑いながら近づくと、彼女のほうが先に気づいて、目が合った。ふっと口もとをほころばせて、彼女が言った。
「また会えましたね」
「ほんと。昨日と同じ場所、なんかここ落ち着くし。」
「私もそう思ってたんです。風が、気持ちいい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥でなにか小さく波が立つ。自分と同じことを感じていた——ただそれだけなのに、妙に嬉しかった。
彼女は少しだけ笑って、チョコアイスをかじった。甘い香りが潮風の中に混ざって、ほんの一瞬、夏の味がした気がした。
隣に立つと、潮のにおいと、彼女の使っている日焼け止めのほの甘い匂いがふわりと重なる。こんなにも近かったんだ、と気づいたとき、少しだけ息が浅くなった。夏のせいにできるほど、理由は単純じゃなかった。
「この辺って、観光の人とか来ないんですか?」
「ほとんど来ないですね。電車ももう走ってないし」
「電車、好きなんです。小さいころよく見に行ってました」
「じゃあ、ちょっと行ってみます?」
「え?」
「線路。まだ残ってるんです。歩けるよ」
誘った瞬間、自分でも驚いた。こんなふうに提案するタイプじゃないのに。彼女と歩きたい——ただその気持ちだけが、体のどこかをそっと押した。
彼女が嬉しそうに目を丸くして頷いたとき、胸の内側が、ゆっくりあたたかく満ちていく。
まだ名前がつけられない何かが、静かに芽をふくらませていた。
僕たちは図書館のほうからまっすぐ続く防波堤沿いの道を歩き出す。
彼女のサンダルが小さく砂利をはじく音が、海風の中でやわらかく響く。その音が妙に心地よくて、気づけば僕はそのリズムに歩調を合わせていた。
やがて道が開けて、古びた商店街が見えてきた。閉め切られたシャッターには「汐ヶ崎町夏まつり 今週末開催」と書かれたポスター。
日焼けして色が抜けかけている看板の隣に張られた新しいポスターは、町の色あせた景色の中ではどこか場違いに見えた。
「お祭り、あるんですね」
「うん。ちっちゃいけど。夜店がいくつか出て、花火も少し上がる」
「いいですね。町の人が集まるって、なんかそれだけで嬉しい」
「まあ、この町だと、イベントも珍しいですからね」
そう言うと、彼女は「それもまた、いいですね」と笑った。
その笑顔を見たとき、なんでかわからないけど、胸の奥が少し温かくなった。その声に混じっていたやさしさに触れた気がした。
笑った拍子に細く息がこぼれて、そのやわらかい息づかいまで風に混じって聞こえてくるようだった。
商店街を抜けると、道の先に柵が見えた。赤茶けた鉄の杭。その向こうに、線路が残っていた。 横から見ると、線路はそのまま海と一体化しているようにも見えた。
「ここ、入っていいんですか?」
「うん、もう使われてないし。危なくもないです」
僕がそう言うと、彼女は靴のつま先で草を押しのけて、線路の上にそっと立った。
バランスを取るように両手を少し広げてから、「わっ」と小さく笑う。その仕草があまりにも自然で、あまりにも夏らしかった。
錆びたレールが陽に光り、枕木の間から雑草がまっすぐに伸びている。風が吹くたび、草が擦れ合う音がした。
「静かですね」
「うん。昔はここ、電車が海沿いを走ってたんですよ。海を見ながら終点までこれた」
「想像できます。潮のにおいとか、車窓に入る風とか」
「そうそう。そんな感じ」
彼女の声は、少し遠くを見ているみたいに柔らかかった。
歩きながら、ふと彼女の髪が揺れて僕の腕にかすかに触れる。驚くほど軽くて、その一瞬だけ甘い香りがふわっと流れ込んだ。
線路は海と並行して伸びていて、左手には波の音、右手には名も知らないような草花が少し高い草むらの中で揺れていた。
僕たちはその間を、並んで歩く。
「これ、まっすぐ行くとどうなるんですか?」
「ここが終着駅なんですけど、今はもう、途中で途切れてる」
「終着駅……なんかいい響きですね」
「うん。でも、今はもう、ただの無人駅」
「でも、それでもいい。なんか、終わりの場所って好きかも」
その言葉が風に混ざって、耳の奥で静かに残った。
“終わりの場所が好き”——それを言う彼女の声が、少し切なく響いた。海の方を見ると、陽の光が波に細く反射していた。
「……きれい」
彼女がつぶやいた。
傾いた陽の光彼女の輪郭を優しく縁取っていた。睫毛の影が頬に落ちて、僕は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
——こうしてる時間が、ずっと続けばいいのに。
そんなことを、ふと思った。
気づけば空が茜色に染まっていた。線路の鉄が夕陽を受けて赤く光りはじめている。潮風が少し強くなり、遠くでフェリーの汽笛が鳴った。
「もうすぐ日が沈んじゃうね」
「うん。今日も、あっという間だったな」
「楽しい時間って、すぐ終わっちゃう」
彼女の声が少しだけ寂しげに響いた。僕は、どう返せばいいかわからず、ただ「うん」とだけ言った。
防波堤の方へ戻る道。風が強くなって、海面が金色に波打っている。彼女の髪が揺れて、肩にかかる光が淡く滲んだ。
歩きながら彼女が小さく笑ったり、裾を押さえる仕草をしたりするたび、柔らかな匂いと夏の空気が混じり合って、胸の奥がゆっくり熱を帯びていく。
「あの……さ、明後日、夏祭りがあるんだ」
「さっきのポスターの?」
「うん。そんなに大きくないけど……」
「いいですね。行ってみたいかも」
そこで言葉が少し詰まった。誘いたい。でも、そんなことを言っていいのか、自分でもよくわからなかった。
この時間が壊れてしまいそうな気がして、喉の奥で言葉が止まる。
それでも、風が一度だけ吹いて、背中を押したように感じた。
「……じゃあ、いっしょに行きませんか」
自分でも、言ってから少し驚いた。
でも、彼女はすぐに微笑んで――
「うん、行く」
その瞬間、胸の奥で何かがゆっくりと動いた気がした。
まだ形にならない想いが、海の匂いといっしょに心の奥で揺れていた。
*****
夕方の光は、まるでゆっくりと溶けていく飴みたいだった。
僕は防波堤の方へ一歩一歩、歩みを進めるたびに、脈が足元まで伝わるようだ。
胸の奥が、どうにも落ち着かない。期待とも不安ともつかないざわめきが心の中で揺れ続けていた。彼女が本当に来るのかと思うと、息をするたびに鼓動が速くなる。
防波堤沿いの道に出ると、海風が肌を優しく撫でる。今日の風も少し湿っていて、夏の終わりの匂いがした。
防波堤の先に、傾いた夕日が滲んでいた。海の向こうで、ゆっくりと沈みかける光が波の面を照らし、世界の輪郭をやわらかく溶かしていく。
その光の中に、彼女がいた。浴衣姿だった。水色の生地にあじさい模様。浴衣の袖を風がふわりと揺らし、まるでひとつの絵みたいだった。髪に挿した小さな簪が、光を受けてかすかにきらめく。
その姿を見た瞬間、息が止まった。
彼女は僕に気づくと、すこしだけ手を振った。その仕草が、夕日の色といっしょに胸の奥に沈んでいった。
「もう……来てたんだ」
「うん。ちょっと早く来ちゃって」
彼女は、恥ずかしそうに笑った。浴衣の裾を指先でつまんで、ふわりと風に揺らす。
「……似合ってますね」
言葉にするまでに、ほんの少し間があった。喉の奥まで出かかって、そこで何度もためらった。言えば何かが変わってしまう気がして、でも言わなければきっと後悔する。そんな狭いところを行ったり来たりして、最後は海風に背中を押されるみたいにして声が出た。
自分でも驚くほど、小さな声だった。けれど、それでよかった。
彼女は目を細めて、少しだけ頬を赤くした。その仕草が、沈みかけた夕日の色と重なって、胸の奥でやわらかく波紋のように広がっていった。
「ありがとう。慣れなくて、少し歩きにくいけど」
彼女は下駄の鼻緒を直しながら、「よいしょ」と小さく言って、少し恥ずかしそうに笑った。
「歩くの、ゆっくりでいいよ。あ、こっち、神社のほうでお祭りやってて……」
「そうなんですね。じゃあ、案内……して?」
並んで歩き出す。隣を歩く彼女との距離は、近いようで遠く、遠いようで近かった。肩が触れるほどじゃないのに、意識だけが妙にそっちへ寄っていく。お互い、どのくらいの距離で歩けば自然なのか探り合っているみたいで、足音までぎこちなくそろってしまう。
防波堤沿いの道を離れ、傾いた夏の日を背に受けながら、ゆるやかな坂を上っていく。蝉の声が遠くで揺れて、二人の影だけが少しずつ長く伸びていった。
日が傾き始めた空は、茜色と群青の境を行き来していて、遠くの海面が薄く金色に光っていた。
神社のある通りに出ると、たくさんの提灯が吊るされていた。風が吹くたびに、赤と黄の光がゆらゆらと揺れて、まるで息をしているみたいだった。
そして、屋台の匂いが、通りいっぱいに広がる。焼きそばのソースが焦げる匂い、りんご飴の甘い香り、かき氷機の氷を削る音。どこかで弾けるコルクの音。
この町にこんなに人がいたのかと思うほど、にぎやかだった。
「わあ……すごい」
「いつも静かなのにね。年に一回だけ、こんな感じ」
「なんだか、別の町みたい」
彼女はあたりを見渡しながら、目を輝かせていた。その表情を見るだけで、胸がふと苦しくなるほど、なにか幸せな気持ちに包まれる。僕は人混みを避けながら、彼女が浴衣の裾を踏まないように歩調を合わせた。
ふと、金魚すくいの屋台の前で立ち止まると、店のおじさんに声をかけられた。
「お嬢ちゃん、ここらじゃみない顔だねえ。東京から?」
「え、あ、はい……」
彼女が肩をすくめ、困ったように笑う。
「ねえ、凪くんは金魚すくい得意?」
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。けれど、あまりにも自然に呼ばれたせいで、返事をするまでに一瞬だけ間ができてしまった。
「え、あぁ、僕はあんまり得意じゃないかな」
口にしてから、自分の声が少しだけ震えていたことに気づく。
急に近づいた距離に、心が追いついてない。
でも、嫌じゃない。むしろ、こそばゆいほどにうれしかった。
「じゃあ、凪くん。私、やってみるね」
彼女がポイを手に取り、水面にそっと沈める。金魚が光を弾きながら泳ぎ、波紋が小さく広がった。指先が濡れて、髪が頬にかかる。その仕草を見ていると、世界の音が遠ざかっていくような気がした。
「ほら、一匹!」
「すごいじゃん」
「へへっ、見ててくれた?」
「見てたよ」
その笑顔が、きっと、これからみる花火よりもまぶしくて、尊いものに思えてならなかった。
そのあと、僕たちは屋台をいくつかまわって、射的や輪投げをした。
彼女は的を狙うたびに、まっすぐで、ちょっとだけ緊張した横顔をして、外すと子どもみたいに照れながら笑った。その笑顔が弾むたびに、胸の中のどこか柔らかい部分が、そっと指先で触れられるみたいに揺れた。
気づけば、僕は「もう一回やろうよ」と言っていて、彼女も「うん」と嬉しそうに頷く。その一瞬一瞬が、夜店の灯りの下で水面みたいにきらめいた。
わたあめを半分こして歩くと、風がその甘さを運んでいく。ふわふわと舞う砂糖の香りが、彼女の浴衣の匂いと混じって、胸の奥に落ちてくる。飲み込めないまま、そっと溶けていく。
かき氷のブルーハワイを食べて、彼女が「舌、見て」って口を開けて見せる。真っ青になった舌を見て笑ったら、「そっちもだよ」と言い返されて、また笑った。
どれもたいした出来事じゃない。
でも、ひとつひとつが、夏の薄い膜の上に、静かに沈んでいく宝石みたいに思えた。
時間の流れがほどけて、ふたりだけのゆるやかな川になっていく。
ただ隣にいるだけで、心が少しあたたまって、少しさみしくなる。そんな相反する感情が重なり合う場所に、彼女の声や仕草がそっと降り積もっていく。
きっと、この夜の手触りを、僕はもう二度と忘れられない。
もう敬語なんてどこにもなかった。いつの間にか、自然に「凛香」って呼べるようになっていた。
気づけば、空の端にあった太陽はもうどこにもなくて、境内の石畳が夕闇に溶けていた。人のざわめきがどんどん熱を帯びていく。
いつの間にか時間なんて忘れていた。笑って、歩いて、気づいたら夜になっていた。
やがて、空が群青に沈みきった頃、太鼓の音が強く響く。風がふっと止まり、境内のざわめきが一拍だけ静まる。誰もが同じ方向へ顔を上げる。
そして、最初の花火が上がった。
ドン、という音が空気を震わせる。光の粒が夜空で弾けて、金色の雨が降り注ぐ。
凛香が思わず顔を上げた。その横顔が、光に照らされて一瞬だけ輪郭が透ける。触れたら消えてしまいそうな儚さで。
「きれい……」
「うん」
その横顔の光を見ていたら、胸の奥がきゅっと縮んだ。
こんな瞬間を、凛香と見ていることが、ただそれだけで苦しいほど嬉しい。
「来てよかったな」
「誘ってよかった」
凛香は、そっと笑ってくれた。
花火がいくつも夜空に咲いては消える。
音が遅れて腹に響き、屋台のほうから流れてくる笑い声が、夜の空気に溶けた。
少し離れた場所に、空いている木のベンチを見つけた。
「座ろっか」
「うん」
僕たちはそこに腰を下ろした。
手には、さっき買ったばかりの熱いたこ焼きと、冷たいラムネ。たこ焼きの湯気はまだ細く立ちのぼっていて、ソースの匂いが夜気にやわらかく広がっていく。
目の前では、遠くの海に光が映り込み、波のひとつひとつが淡く光っていた。
凛香の髪が風に揺れて、簪の鈴がかすかに鳴る。彼女は右手に握るラムネをを見つめて、小さく笑った。
その横顔を、花火の光が淡く照らす。彼女の頬に薄く重なって、ひとつひとつ違う感情の影を落としている気がした。何を考えているのかはわからない。
でも、その沈黙の奥にあるものを覗き込みたくなるような、言葉では触れられない温度があった。
ほんの一瞬、胸の奥がきゅっとなる。
理由はわからない。ただ、彼女の名前を心のどこかがそっと呼んでいた。
「……凛香」
花火の音に紛れるように、気づいたら声にしていた。彼女は少し驚いたようにまばたきをして、こちらを向いた。
「ん?」
「いや……なんでもない。ただ……呼びたくなっただけ」
そう言うと、凛香は小さく笑った。その笑顔が、夜の空気よりも静かに心に触れてくる。言葉にできない感情が、喉の奥でゆっくりとほどけていく。ただ、隣にいることが、今はそれだけで十分だと思えた。
花火が終わりに近づくにつれて、音の間隔がゆっくりと伸びていった。
最後の一発が夜空に咲くと、ざわめいていた人の波も少しずつ静まっていく。
僕たちは、しばらくそのままベンチに座っていた。
空にはまだ、花火の煙が淡く残っていて、それが月明かりに照らされて薄く光っていた。
凛香は手元のラムネを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……終わっちゃったね」
「うん。なんか、あっという間だったね」
その言葉のあと、どちらも何も言わなかった。
沈黙は重くなくて、むしろ指先に触れそうで触れない距離みたいに、落ち着きのない静けさだった。
その言葉のあと、どちらも何も言わなかった。夜風がふたりの間を抜けていく。潮の匂いが、もう少しだけ夏を引き止めようとしているようだった。
やがて、凛香が立ち上がった。
「そろそろ帰らないと、おばあちゃん心配しちゃう」
「……うん、そうだね」
名残惜しさが、胸の奥で静かに広がっていく。
言えばよかったのに――もうちょっとだけ一緒にいたいって。
でも、喉の奥に言葉がひっかかったまま、うまく形にならなかった。それを口にする勇気はなかった。
彼女も、ほんの一瞬だけ躊躇したように見えたけど、それは確かめる前に夜の色に紛れてしまった。
花火が終わり、人が徐々に鳥居に向けて流れていく。
僕たちも、並んで神社を後にした。屋台の灯りが遠ざかるにつれて、夜の音が戻ってくる。
防波堤沿いの道まで出ると、潮の匂いがふっと濃くなった。
「こっちが、うちのほう」
凛香が指さしたのは、港のほう。
「そっか。じゃあ、僕はあっちだから」
僕が指したのは、凛香とは逆の方向だった。月明りが、彼女の髪を淡く照らす。
「……また、明日ね」
「うん……」
「また明日」と言えるのがうれしくて、その明日がどんなふうに来るのかが少し怖かった。
凛香も、言葉のあと一拍だけ間を置いて、小さく笑った。その笑顔は、別れの合図というより、ほんの少しだけ手を伸ばせば届きそうな距離のまま残してくれるような笑顔だった。
凛香はゆっくり歩き出す。浴衣の裾が風に揺れ、その背中が小さくなるたび、胸の奥がじんと熱くなる。
僕も、同じように反対方向へ歩き出した。
どうしても気になって振り返ったとき、もうその姿は見えなかった。
だけど、青い浴衣と、小さく揺れた髪飾りの鈴の音。
その余韻が、心のどこかをやわらかく締めつけた。
*****
朝の光は、やけに白かった。カーテンの隙間から差し込む陽が、机の上のノートを照らしている。昨日の夜のことを思い出して、僕は胸の奥が少し熱くなる。祭りのざわめき、風の匂い、花火の光――そして、彼女の笑顔。
「また、明日ね」
その言葉だけが、耳の奥に何度もやわらかく触れてくる。
僕はいつものように、外に出た。夏休みの朝の空気は、まだ少し眠たそうで、蝉の声だけが元気に鳴いている。
海からの風は少し冷たくて、胸の奥の期待をそっと撫でていった。
防波堤へ向かう。彼女がいつも座っていたあの場所。
――もう、いるだろうか。
そんな期待が、足取りを勝手に速くする。
でも、そこにはまだ凛香の姿はなかった。
朝だから、当たり前なのに、胸がすこしきゅっと縮む。
僕は立ち尽くしたまま、海のきらめきを眺めた。潮の匂いだけが昨日と同じで、それが余計に胸を静かにざわつかせる。
がまんできなくて、町を歩いてみた。商店街、港、神社――
どこに行っても、昨日の気配が淡く残っているようで、でも彼女だけはどこにもいない。
通りの向こうでは、花火大会の後片づけをしている人たちがいた。提灯の紐を外しながら笑っている。まるで昨日のあの夜が幻だったかのように、町はもう次の日を始めていた。
目的が定まらないまま、図書館に立ち寄ってみた。扉を開けると、ふわっと紙の匂いがした。いつもの席に座り、気になっていた本のページをめくっても、文字がまるで頭に入ってこない。
窓の外に目をやると、海の方から光が射して、机の上の埃をきらめかせていた。
凛香がその光の中で笑っていた光景が、ふとよみがえる。
昼、そして夕方。
気づけば一日に何度も防波堤に戻ってきてしまう。
繰り返すうちに、自分でも気づいてしまう。
――僕は、会いたいんだ。
でも、やっぱり凛香は来なかった。潮風が頬を撫でていくたび、どこか遠くへ呼ばれてしまったような気がした。
その中に、ふと甘い匂いが混じった。あの日、初めて会った日。凛香が食べていたアイスと、日焼け止めが混ざり合う、あの香りだった。
胸の奥が少しだけ締めつけられる。なんとなく、もう会えない気がしたから。
次の日も、その次の日も、僕の一日は同じふうにめぐった。
朝は期待で胸がそわそわして、防波堤へ向かう。
昼はどこかで偶然会えないかと町を歩く。
夕方、いないことを確かめて胸の奥が静かにしぼんでいく。
そんな日々が、いくつも重なっていった。
何日か経ったある日、ふと思い立って、凛香の家があると言っていた港の方向へ足を向けた。
港の向こう、坂道を下った先。小さな民家で、古い瓦屋根の家が並んでいる。
そこでふと、庭先で漁の準備をしている男性が目に入る。
「あの、すみません。この辺に……黒髪で、浴衣が似合う女の子、知りませんか?凛香っていうんですけど」
男は手を止めて、少し考えるように首を傾げた。
「そんな子、知らねえなあ」
短い返事だけが残った。
それだけ言って、また道具に視線を戻した。
――そう、か。
胸の奥が、静かに沈んでいく。
寂しさでも悲しさでもなく、昨日まで確かにあった温度が、手のひらからこぼれていくような感覚だった。
何かを掴もうとしたのに、もうその形だけが残っていない。
その空白に、静かに沁みていく。
防波堤に戻ると、夕暮れの光が海に溶けていた。
波がきらめき、空も海も境目を失い、一枚の色にほどけていく。
あの日と同じ場所。
同じ風。
同じ光。
なのに、もうひとり分の影だけが、どこにも見つからなかった。
きっと凛香も、この海を見ていたのだろう。
ほんの少し前まで。
ほんの少し、ずれた時間のどこかで。
目を閉じると、あの声が耳の奥で小さく揺れた。
「また、明日ね」――あのときのままの響きで。
――また、会いたいな。
声にした瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
けれどその言葉は、風にさらわれ、海へとほどけていった。
世界が静まり、風が止む。
海も、空も、僕自身も、同じゆるやかな夏の色に溶けていくようだった。
その中に、彼女の気配だけが、薄く、でも確かに漂っていた。
サンディのこと
サンディの煙草は誰にも止められない
と、誰もが思っていることを
サンディはなんとなく知っている
黒く長い髪
茶色のひとみ
その他の身体的特徴
にもかかわらず
サンディといえば
誰もが煙草を吸っている姿を思い出す
サンディはなんとなく知っている
サンディは煙草を吸う
煙草を吸うことができるいたるところで
サンディは煙草が好きというわけではない
習慣でもない
癖でもない
思想でも哲学でもないし
ましてや「そこに煙草があるから」
なんて決して思わない
なぜ煙草を吸うのか
サンディにはどうでもいいことだ
もし聞かれたら答えるだろう
「そこに煙草があるから」と
サンディの周りにはいつも
どうでもいいことが満ち溢れている
サンディが今まで吸った煙草の本数を
誰かが計算しようとした
一日に吸う本数の計算はたやすかったが
サンディの年齢を知らない
誰も知らない
本当の名前を知らないのと同様に
今まで吸った煙草の本数を知ったところで
何も語ることはできない
誰もサンディを語れはしない
ただ「煙草ばかり吸っているコ」として
それはメインストリートから何本か外れた
細い路地の突き当たりにある
看板がずっこけた酒場の
脂でべたつくカウンターの
隅の一番
隅で
どうでもいいこととして
サンディもいつかはこの世からいなくなる
いなくなってもサンディといえば
皆、煙草を思い出すだろう
けれども
その銘柄を思い出すほど
誰もがサンディを愛しているわけではない
サンディは知っている
サンディを知るものもやがていなくなり
どこかの役所の冷たい電子データのみが
サンディの記憶となりつづける
たとえ誰かがそれを閲覧しても
煙草を吸っているサンディの姿を
思い出さない
流れ星
色鉛筆で家を描いた
女の子が窓から外を見ていた
窓を開けてあげると
絵の中には
いい風が吹いているみたいで
女の子は気持ちよさそうに
空を眺めた
夜には星を描いた
女の子が何か言いたそうに
夜空を指差しているので
流れ星をひとつ描き加えると
両手を合わせて目を瞑った
彼女は何を願っているのだろう
色鉛筆はすっかり老いて
絵はそこで終わっている
鳥とキツネとアイツ⑫ 帰り道
「ふーっ、食った食った飲んだ飲んだ」
アイツがおっさんみたいに言った、駅からの帰り道。
人気のない四車線ある国道の歩道で、僕たちは並んで歩いていた。
コンパで、僕が「お付き合い」宣言してからのアイツは、すっかり機嫌を治していた。
「太るぞ」
「ふふっ、チートデー、チートデー」
「でも良かったよ」
「ん? 何が?」
「後半からご機嫌になって」
「ああー」
アイツはそれだけ言って黙ってしまった。
でも、僕の左隣で歩く小柄なアイツからの恐ろしい圧はもう消えていた。
「びっくりさせてごめんな。でも、あそこではっきりさせとくのが一番だと思ったから。あそこで言わないとさ、言えないままずるずるいっちゃうだろうから」
「ホントだよ、びっくりしたよ。どんなサプライズだよっ」
「痛てっ」
僕の脚を蹴る。でもなんか嬉しい。僕はMか。
「いやあ、急に思いついちゃったもんで」
「思いついちゃって…… って、こっちに一言の相談もなしにっ」
蹴り。
「痛てっ、だからごめんって」
「まったく……」
すっと雰囲気が変わった。
「でもさ……」
「ん?」
「あの時のあんた、ちょっと……」
「ちょっと、何?」
はっと息を呑んでいつものアイツに戻った。
「いやあんたすぐ調子乗るからだめだわ」
「は?」
「だめだめ、聞かなかったことにして」
「なんだよ、話しかけといて止めるなよ。そういうのってすっごい気分悪いんだからな?」
「はいはい」
「ちぇっ」
「あ、コンビニ行こコンビニ。ねえー、豚まんおごってよ」
「なんで僕がおごらなくちゃ…… それにまだ食べるのかよ」
「チートデー」
目の前のコンビニに入り、結局僕は豚まんをおごらされた。僕はカレーまんにした。
隣にある猫の額ほどの公園のベンチに並んで座って、夜の空を眺めながら中華まんを食べる。東京で星はほとんど見えないけれど、今夜は木星がやけに明るく見えた。
「ふう」
ようやっとひと心地が付いたかのような声を吐くアイツ。
「……これからも」
ぽつりと漏らす。
「えっ」
「これからも一緒だね」
「そう、だな、まあ…… 学部は違うけど」
「あたしの般教終わったら全然会えなくなるね。まあそっちは結構ハードらしいからな。頑張れよ。普通に二留とかあるらしいから」
「おう、任しとけ」
「ふふっ」
どうでもいい雑談が気持ちよかった。
「まだ怖い?」
僕はその雑談を遮って言葉を挿し挟んだ。
「正直言うとちょっとね…… でも、こうなっちゃったんだもん。あとはなるようになるって」
「そうか」
しばらくして僕たちはまた帰り道を歩き、そしてアイツの家の前に着いた。
「ねえ……」
向き合うと、アイツは何か言いたそうな顔になった。
そして新歓コンパの時に見せた不思議な表情になる。それを見ると何故か僕の胸は苦しくなる。でも悪い気分じゃない。
「……あたしたちが二十歳になったらお酒飲みに行こ。ふたりで」
「あ、うん。いいな、それ」
「ふふっ、じゃね」
「ああ、それじゃ……」
「……おやすみ」
「うん、おやすみ……」
アイツが家に入ろうとする背中を僕はずっと見ていた。
ドアノブに手をかけた瞬間、アイツは突然Uターンして僕に向かって突進してくる。
「おい……っ」
僕の顔を両手で掴み、乱暴に下を向かせて、爪先立ちになるアイツ。
「……っ!」
初めての感触に僕は絶句した。
しばらくの接触ののち、アイツは僕から顔を放した。
なんだか情けない顔をしてえづく。
「おえっ、カレー臭いおえっ……」
と吐き捨てたアイツは全速力で走り去って、勢いよく扉を閉めた。
僕は呆然と立ち尽くしていた。肩からバッグがずり落ちる。
ようやく僕は気を取り直して自宅へと帰りついた。
自分の部屋に入ると、真っ先に僕はスマホを取り出した。
〈今日はお疲れ〉
メッセージを送る。すぐ既読になったが返事は来ない。
〈それと、ありがと〉
〈別に……〉
今度は返事が来た。アイツの照れてる表情が目に浮かぶ。まあめったにそんな顔なんてしないんだけど。
ふっと微笑むと僕は返信した。
〈じゃあもう風呂入って寝るわ。おやすみ〉
〈うん、おやすみ〉
〈今度はカレー味じゃないやつをしような〉
〈(『ばかっ!』と怒った可愛い犬のスタンプ)〉
あはは、と猫が笑った笑顔のスタンプで返した僕は、風呂に入った。
風呂の中でふと思った。
三原先輩のことだった。
でもまあきっと、あの人なら月曜から、ちょっと距離を測りながらもいつも通りに優しく穏やかな態度で接してくれるんだろうな。
根拠はないけどそんな気がした。
精一杯の詩
詩の書き方も忘れてしまった
枯れてゆく あの時の喜び
くずれてゆく あの時の自信
何もかも失われてしまった
詩人としてではなく
もはやただの人として
何の喜びも自信もないままに
私は路を歩いている
ずっとスランプの檻の中にいて
そのまま飢え死にしてしまう
それは すごく厭だけれど
それもまた 私らしいとさえ思ってしまう
詩の書き方を思い出せぬまま
あの時の喜びも 自信もないまま
私はしずかにペンを置く
これは 今の私の精一杯の詩
(2026.1.18)
ミヤくん、ミヤくん
“この世というものは、儚い夢だと
そう、言い聞かされていたというのに
過ぎ去ってみればどうだろう
なんという歳月の間
なんという嘘を
つかれていたことやら“
――Tokugawa Yoshinobu(あるいは最高密度の青色、夜の果てに位置する)
「ミヤくん、ミヤくん」
木の根を枕にしていた僕の
その少し上で響いた優しさ
「神社にお参りにいく日でしょ、今日。一緒に行こうよ」
差し伸べられた手の温度は
その日、残り日、そのまま
そうして引き起こされて
引き歩かされて
だんだんとぼんやりが消える景色の
その桜並木の温度は君の微笑み
その中にほのかに赤く、金に
星を燃やすがごとく煌く旗があって
それがいったい何なのか
ずっとずっと思い出せなくて
ずっと泣き出そうともしていた僕の頬を撫でた君は
「ミヤくん、ミヤくん
知らないの?
あれはね……」
石鳥居の前、そっと得意気に語り出し
さみしさだけが僕を人間にしうるのだから
万物不滅の雨が
澄みきった窓を打ち付け
喉元まで悲しみに浸した夜
差し出された神様に
やさしく頬を撫でられた夢を見て
そんな夢ほど
ずっとずっと
寂しいものはなくて
夜が雨と共に取り除かれ
全てが旭日のもとに曝け出された朝が
僕の部屋さえも白くしたとき
枕元で開かれた僕の瞼には
いつも、どうしようもないほどに
涙が湛えられていた
それでもさみしさは僕を突き放しはせず
そうだ、僕だってさみしさを
突き放すことはしなかったじゃないか
さみしさだけが僕を人間にしうるのだから
黄昏に色を剥がされた、残日の帰り道
苔むした石鳥居を
ふいに、見つけてしまう
その向こう側では
昔日のままの少女性容姿を
保っていてしまった君が
それでいて翼を何気なく生やしてしまった君が
そっと僕を手招きしていて
「忘れ物、ずっと置いてきて、生きてきたままだね」
鳥居をくぐった僕に、ただそうやって声をかけては
その白いままの両手で、ふわっと風で広がるように神様を広げた
優しい血を教えてくれる赤地、高潔を意味するのは金の花
そうやって縫われて縫われた、それがゆえの神様
そんな神様に祈りを捧げるため、僕は片膝をついて
そんな祈りを星の屠りとなすように、君は僕の背に神様をかけて
「だから君は人間なんだ
どこまでも、どうしようない、そんなさみしい人間
それが、ずっと、私には眩しかったんだよ」
君の手のぬくもりは“時有鶯聲喚主人”
そんな古典的な哀しさの奔流のさなか
ぬくんだ手が神様の端っこを優しく掴んで
僕の頬を、汚れを拭き取るように撫でていった
「さようなら、人間」
ふっと消えては、僕と神様だけ残してしまって
石鳥居にもたれかかって僕は泣いたよ、泣いたんだ
雪がついに降りしきるようになっても、帰りたくなかったんだ
人生で一度もなかったくらいに
わんわんと泣き出して
何度も何度も神様に涙を染み込ませ
人間になるために泣いたんだ
泣くために人間になったんだ
神様を突き放したくないがためにさみしさを突き放さなかったんだ
そして世界が薄れて薄れて、そして覚めて
目に入るは、旭日に満たされた、見慣れた自室
小さな星の軌跡 第二十話「もう一人」
木曜日、二年生になって、数学や理科が一気に分野ごとに専門的になる。天文部にいるし選択科目は地学を選びたい気持ちもあったけど、二のAとBは理系のクラス。物理が必須で化学と生物が選択、地学は無し。で、化学にした。先輩は化学が抜群に得意らしいから教えてくれるかな?
私立文系のE組に行ったおーちゃんは生物を取ったみたい。みっちゃんは理由は知っているようだ。でもそれは二人の間の大切な事かもしれないので、わたしも特に聞かない事にした。
B組のたかちゃんも物理に化学。なので理科の授業は一緒の教室だね。
あっという間に放課後。授業の進み方が一段と早い。先輩は去年部長をやりながらこのペースで勉強していたのかと思うと、ちょっと冷や汗。いやだって、わたしが部長するのが既定路線になっちゃってるし。
ただまあ、今年は文化祭は無い。我が校は隔年で体育祭と文化祭なのだな。残念だけどちょっとホッとしたような?うーんどうなんだろぅ。
となりの教室を覗くとちょうどたかちゃんも出てきたので三人揃って部室へ向かう。話題はやっぱり昨日の星乃さんの事。
ち「スケッチが得意って言ってたねえ」
た「おーちゃんの後輩さんですよね」
み「わ、わたしはなんとも……」
明らかに動揺しているみっちゃんを後ろにお疲れ様でーすと扉を開けると、既に耳納先輩と星乃さんが並んで座っていた。天気図の事を説明していたみたい。
手持ち無沙汰でちょっと離れた席に座った。別に誰が何処って決まりは無いけど、何となく定位置があって、先輩の隣にこの一年いつもいたのでおしりの座りが悪い。
ん、入り口の扉が開けっ放しだ。
閉めておこうと立ったところでこちらを覗いている男子。背は高いけどピカピカのボタンに襟章は一年生。
「えっと、ここ、天文部でいいっすか?」
「うん、そうだけど、見学かな?」
「どんな機材があるのか、ちょっと見れますか?」
いきなり機材を見せろと来たぞ。その前に名を名乗れ。一年坊主め。教育してやる。
「Nikonの10cm屈折赤道儀と、セレストロンの15cmカセグレン経緯台だよ。後は双眼鏡やピンホールプラネタリウムとか、まあなかに入って入って。ちょっと今から天気図を描くから見てくかな?」
やっぱり優しいおねえさんを演出しておこう。
「あ、僕、気象通報聞いて描けますから」
なんと生意気なやつめ。いや、天気図描けるとは優良物件なのかな?わたし一人で相手するのもおかしいので、先輩に引き継ごう。
「耳納先輩、一年生の見学希望者ですけど」
みっちゃんとたかちゃんも話を聞いていたようで興味津々だ。
「聞こえていたけど、今日は見学だけかな、ほかの部活にも興味あるの?」
「あ、はい、とりあえず文化部一通り見ようかなっと思って、昨日は生物と写真と見てきたっす」
「その両方の現部長は天文部にも所属してるんだよね、うちの観測会にも顔を出すし、平日もよくここに来るよ」
「あ、そうなんすか?えらくフリーダムっすね」
なんか話かたはざっくばらんだけど理系趣味は強そうな御仁だ。そういえばまだ名前を聞いていないな。
「ねえ、クラスと名前、聞いて良いかな?」
「1のD、大刀洗 隼一:たちあらい しゅんいち、です」
「大刀洗君かぁ、今日は他の部活も見に行くの?」
「無線部に同中の先輩がいるんでそっちも見とこうかなと、4アマでコールサインはありますし」
えっと、アマチュア無線の事か。さすがに良くわからないなあ。
「じゃあすみません、今日は機材を見せて頂きありがとうございました。あ、そうそう。今部員って何人いるんですか?」
いろいろリサーチが細かいな。
「兼部も含めて三年生は男子二人女子二人、二年生は女子三人、一年生は今の所女子一人。今日入部届出してくれたよ」
奥の星乃さんが顔を上げて軽く会釈した。
大刀洗君も一応「あ、ども」ってな感じで応える。
「部室には大体誰かいるから、入部する気になったら何時でも来てね」
と告げると
「了解っす」
と短く応えてカバンを持って出ていった。
「今日は逃げられちゃったねぇ」
とたかちゃん。
「ずいぶんひょうひょうとしてたね、あちこち見てから何処かはいる感じなのかな」
とはみっちゃん。
「天気図は描けるって言ってたし、無線の免許も持ってるって言ってたよ」
「朝倉が写真部に一人見学に来たって言ってたのがさっきの大刀洗君か。ずいぶん多趣味な感じだね」
「……なんか、嵐みたいに去っていったわね」
みっちゃんが、開いたままの扉を見つめてぽつりと呟いた。
「大刀洗君ね。本当に多趣味だな。気象通報も描けて無線もできるなんて、うちの部に来たら、ISS(国際宇宙ステーション)からの画像受信とかも出来るかな?」
耳納先輩は、ちょっと困ったような、でもどこか嬉しそうな顔でペンを置いた。
わたしは、大刀洗君が座っていたあたりに視線を落とす。
彼が言った「フリーダムっすね」という言葉が、なんだか耳に残っている。確かにこの天文部は、星を愛でるだけでなく、写真や生物、そして人を想う気持ちも混ざり合った、不思議な温かさがある場所だ。
それを「フリーダム」の一言に収斂した彼の視線に、ほんのりとした気恥ずかしさを覚えた。
星乃さんがちょっと手持ちぶさたで何して良いのかなって顔だ。わたしから話を振ってみよう。
「星乃さん、スケッチっていつも描いていたりするの?」
するとちょっと顔が柔らかくなる。
「はい、小さなスケッチブックと色鉛筆は持ち歩いています。こんな感じですけど」
と鞄から手のひらサイズの小さなスケッチブックを出してくれた。
ぱらぱらとめくると、駅前のアーケードや裏通りのお店に飾ってある小物、神社の鳥居に狛犬、何処かのケーキ、色んなものが細かく、特徴を良く掴んだ、でも優しい色使いと雰囲気をまとって描かれている。
「わわ、すごい丁寧、優しい絵だね」
星乃さんは、ふふ、と上品に微笑んだ。
「ありがとうございます。ついつい細かなとこまで見る癖がついちゃってしまいました」
「さっきの、大刀洗さんも、はい。いろいろたくさんの事を見る方なんでしょうね……入ってくれると、賑やかになりそうで、楽しみです」
星乃さんの観察眼に、たかちゃんが「さっすがぁ」と頷く。
「確かに。あちこちの部活を回ってるのも、自分が一番『熱く』なれる場所を探してるのかもね。……ねえ、部長?」
たかちゃんが耳納先輩を「部長」と呼ぶ。それは、暗に「もうすぐ交代だね」という合図のようにも聞こえた。
耳納先輩はゆっくりと部室を見渡す。
「そうだね。……四月の観測会。もし大刀洗君が入部届を持って現れたら、彼にもちょっと試練を与えよう」
「試練?」
「うん。……真冬ほどじゃないけど、冷え込む屋上で夜を明かして、皆で朝焼けを見て、それから――」
先輩はそこで言葉を切って、悪戯っぽく笑った。
「皆で銭湯に行こう。あの熱いお湯に浸かれば、新入生も、僕ら三年生も、二年生になった君たちも、みんな等しく『天文部員』になれるからね」
銭湯。
その言葉に、わたしは思わず星乃さんの顔を見た。
彼女は「銭湯……ですか?」と少しだけ戸惑ったような顔をしたけれど、すぐに「面白そうです」と頷いた。
定位置を少し譲り、新しい後輩を迎え、自分も新しいステージへ進む。
おしりの座りが悪いと思っていた今の席も、「わたしの場所」として馴染んでいくのだろうか。
夕日に染まる部室で、わたしは描きかけの天気図にそっと鉛筆を置いた。
等圧線は、まだ途中。
でも、その先にある明日へ向かって、線は確かに伸びている。
「そろそろ片付けよっ。今日は新入生の話題でお腹いっぱいになったね」
みっちゃんの明るい声に促され、わたしたちはいつものように荷物をまとめ始める。
帰り際、校門へ向かう道。
自転車を引く耳納先輩の隣を歩きながら、わたしはいつもの様に見上げた。
先輩は何も言わず、少しだけ視線を返してくれた。
新しい春。
小さな星々は、また一人、もう一人と、新しい輝きを巻き込みながら、ゆっくりと夜空へ、その軌跡を描いてゆく……。
――まだまだつづく
小さな星の軌跡 第三話 三人の遷ろい
小さな星の軌跡 ショートストーリー
「あの、すみません....ちーさん」
夏休みも開けての9月、放課後の帰り支度をしている所クラスメイトの小郡さんから声かけられた。ホームルームが終わって、みっちゃんと天文部も今日は休みだし帰ろうとしていたところだ。特別仲がいいわけでも無い娘だけどなんかちょっとあらたまってる。なんだろう?
「ん、なんでしょう?」
「あのね....あの....」
ちらちらみっちゃんを見てる、わたしだけに話ししたいのかな?
「みっちゃん、ごめん、わたしちょっと残るから先行っててもらって良いかな?」
みっちゃんもなんか察したようだ
「んじゃ先帰ってるね〜また明日〜」
さすがわが親友
「小郡さん、教室でもいいのかな?それとも場所変えたほうがいい?」
ちょっと見回すと今日はみんなさっさとクラスをあとにしてもうわたしたち二人になっている。
小郡さんも視線を回したあと
「あ、じゃ、ここで良いかな?」
「うん、なんでしょ?」
「あのね、ちーさんってお付き合いしてる人がいるって聞いたんだけど....」
んんん~、最近は別に隠してもいないし、平日の部活後なんか校門まで先輩と一緒に歩いているからまあ学校内で認知されてるほうとは思うけど、改まってその事を聞かれるとちょっと身構える。
「うん、それでわたしの事かな?それとも耳納先輩の事?」
「あのね、私好きな人がいて....」
おっと、そう来たか。
「私どうしたらいいのかなって思って....」
いやいやいや、わたしがどうこう言う立場じゃ無いと思うんだけど。
「篠山さんって私のことどう思ってるかなって」
うん?みっちゃん???
これはえ~と彼女の想い人がわたしの幼馴染で親友のみっちゃんか。いきなりちょっと進んだ話になってきたぞ。
「とりあえずは普通にクラスメイトって感じだと思うけど....」
無難に返しとく。
「篠山さんって誰かお付き合いしている人っているのかな?」
いや知らないし、みっちゃんならわたしには話してくれるだろうけど今まで聞いたこと無いし、聞いていても勝手に話す訳にもいかないし....答えられないなあ、これは....
「ごめんね、わたしはみっちゃんからは聞いてないし、聞いていないだけで誰かとお付き合いしてるかもとか好きな人がいるかもとかそういう事もわからないし、知ってても勝手に言ったら駄目な事と思うんだけど....」
とりあえず正論で返す。
「あ....うん」
あ、ちょっと黙っちゃた。小郡さんって同性が好きなのか、たまたまみっちゃんを好きになったのか....特別視するもんじゃないって色々言われているけど、じゃあどうしよう。
「小郡さんは昔から同性が好きなの?」
みっちゃんはおそらくは男性は好きだろう。耳納先輩の写真部の方の友達見て、あの先輩かっこいいねとか言ってたし。でもそれは女性を好きにならないって根拠でも無いなあ。
「このクラスで、初めて、あの人素敵だなって思ったのが篠山さんで、ちーさんいつも仲良くしてるから話を聞いてくれるかなって」
多様性って色々言われるけど配慮も排除も両方なんか違う気がする。クラスメイトの一個人の相談の対象が同じクラスメイトでわが親友だと、そう、物事はシンプルに。
そう思い直す。
まずはクラスメイトがわたしに悩みを打ち明けたのは事実なのよね。それには誠実に対象すべきだよね。わたしが最終的にとるべき行動か....どうすりゃ良いんだろ。
「みっちゃんとは小学校からの付き合いでまあ大抵の事はお互いに話してる仲だけど」
「それでもお互いにプライベートはあるし内面の深いところまではわたしだってわからないよ」
「そんなわたしでも聞いてほしい事があるなら聞くことはできるけど小郡さんの望む事が出来るかは約束できない、それでも良いかな?」
ちょっと慎重過ぎた受け答えだったかな。
「ありがとう、ちーさんに聞いてよかった」「別に男性が駄目とか怖いとかは無いと思ってるんだ」「ただ良く一緒にいる篠山さんとちーさんを見ててね、唯の親友以上に仲良さそうな雰囲気で」
なにからぶらぶ光線でも出してたのだろうか?.....あーハグしたりもんだりしてたか。みっちゃんの胸を。だってちゃんと膨らんでるもん。
「まあ長い付き合いだし、家も割と近いからたまにわたしんちで週末泊まったり、そんな仲だよ。こないだから天文部にも入部したしね。」
「おふたりって親友以上なんですね」
親友のラインってのも線引きできるものかよくわからないけど、まあ自分の事と同じくらいにみっちゃんの事は考えてると思うからそうなのかもしれない。
じゃあ先輩にはどんな感情、何が恋人同士は違うんだろう...。
「まあわたしとみっちゃんのあいだでは少しは内面というか自己開示っていうかそう言う事信頼関係はあるのかもね」
答えながら自問自答。
わたしと先輩は世間的に恋人関係な付き合いなわけだけど、みっちゃんとは何が違うんだ?自己開示ってのはあるけどそれはみっちゃんに対してもある。じゃあみっちゃんは恋人かって言うとそれは違う。わたしなりにはやはり性的な繋がりがある、またはありたいという願望からくる安心感とか充足感とか信頼関係なのが恋人同士なのかなと、自身の経験からは思うのだけど、それは今伝える事じゃ無いよね。
もうちょっと聞いてみよう。
「みっちゃんの何処が好きなの?」
言葉にしながらちょっとしまったと思う。
同じ質問を先輩にして随分悩ませてしまったし、先輩は言葉にしてくれたけど、今のわたしがそれを小郡さんに求められる立場なのかな。
「うん、何処がっていうか、いつもきらきらと」
「何気ないことを楽しそうにしてて....」
「誰かの幸せを喜べる人なんだなって....」
うんうん、それは長年の付き合いなわたしもみっちゃんのいい所だと思ってるし、好きな所だ。でもじゃあ同じ所を見てわたしが思う親愛の情と小郡さんが想う愛情の違いは何処からだろう...
耳納先輩は部室じゃわたしにはそっけないというか、そっけないわけでも無いけど先輩後輩の立場の方を重視する。お付き合いはみんな知ってるけどそれはけじめだろう。むしろみっちゃんやたかちゃんときゃいきゃい話してる。それに対して多少は嫉妬もあるけど。
「小郡さんは、そうやってみっちゃんと一緒に楽しくいられるだけじゃ足りない....のかな?」
嫉妬、嫉妬かあ。独占欲、わたしだけをみてほしい、それのあるなしが愛情なのだろうか。
小郡さんが小さく頷いたように見えた。
みっちゃんとわたしは長い付き合いの親友同士だ。わたしが先輩と結ばれた事もシンプルに、最大の気持ちで祝福の態度を示した。
先輩への愛情とみっちゃんへの友情は同時に成り立つ。
みっちゃんが誰か異性とお付き合い始めてもたぶん変わらないだろう。
ここでふと引っかかった。小郡さんの愛情にみっちゃんが応えた時にわたしは友人でいられるのだろうか...
考えがまとまらない。自分の中で何処か同性愛と異性愛に違う何かを持っているかもしれない事に気づいた。まあ結婚とか子供とかそこまで進むと確かに違いはあるだろうと飲み込む。
みっちゃんとわたしは家が近い事もあって昔からお互いの家に泊まったり来てきた。2人だけの女子会っていうやつだ。今週末も約束してたんだけど、小郡さんも呼んでみようか....
何が起きるかは想像できないけど。
翌朝通学のバスを待ってるとみっちゃんがやってきた
「みっちゃんおっはよー、今日も暑いねえ💦」
「ちーちゃんおは〜、昨日はなんだったの〜?」
んぐ、まさか今聞かれるとは思っていなかった。とりあえずは肝心な所を伏せて話そう。
「うん、小郡さんって割といつもひとりでしょ。」
「で、いつも2人なわたしらを見てて」
「自分もご一緒したらご迷惑ですか?って」
「なんだそんなの、いいに決まってんじゃん、なんならさっそく明日呼んだら?私は3人でも良いよ、ちーちゃんちの親御さんには言わなきゃだね」
うん、まさか自分が渦中だとはまったく思っていない。みっちゃんらしい。
「じゃあわたしの方から伝えるね、明日金曜日の放課後そのまま買い物とかしてからうちに来るでいいかな。だとすると小郡さんには着替えとかちょっと荷物になっちゃうね」
「まあ私みたいにちーちゃんちにも着替え置いとくとかw」
そう、わたしの部屋のタンスとクローゼットは一部占領されているのだ。なんでみっちゃんのパジャマや下着まで入ってんのよ。
そうこうしているうちにバスは学校前についた。今日は放課後天文部だから昼のうちに小郡さんに言っとかなくちゃ....そう思いながら校門をいつも通りくぐる。
おっはよー、おーっす、あっちいねえー
いつもの朝の教室風景だ。
小郡さんはと見回すと、自分の席で静かに本を読んでいる。かくいうわたしもそう人付き合いがいいわけでも無いと思う。興味が無いことまで合わせるために調べたりはしないし、他人の色恋なんて、幸せな話ならまだしも、二股だのそういうのは聞きたくも無い。けど小郡さんはまた別の感じで1人でいるように見える。彼女の想いがどうにしろうちに泊まりに来ないってお誘いを他のクラスメイトには聞かれたく無かったのもあってとうとう放課後になってしまった。
「みっちゃん、ちょっと遅れていくから天気図描くのお願いね~」
「先輩に言っとくね、遅れたぶんは何かで返すって言ってましたって〜」
ちょちょ、クラスメイトもいるんだけど、いやまあみんな知ってるけど〜
とにかく教室をでてった小郡さんを追いかけないと、スマホで伝えても良いのだけどできれば顔を見て話したい。
廊下にでたら小郡さんは図書室のほうに向かっている、そう言えば朝読んでいた本もラベルが貼ってあったな。
図書室の前で追いついた。ちっちゃいわたしが走らずに追いつくのは大変なんだよう。
かくかくしかじか、みっちゃんとはこんな付き合いなんだけど、明日の晩は3人一緒におしゃべりしませんか?って。正解なのか自信はなかったけど。
その日の夜、お風呂から出て髪を乾かしているとスマホがぷるんと震えた。
明日、お邪魔します。ありがとうございます。おやすみなさい。
緊張してるような、優しいような、ただの文字なのにそんな声が聞こえた気がした。
何事もなく金曜日の朝、いつものバス停でみっちゃんと一緒にバスに乗る。そこで今晩は小郡さんも来るからねっと伝えた。
「へえー、孤独を愛する人かと思ってたら以外とアクティブだね。女子会とかしてみたかったのかな?」
いやみっちゃんがいるからとは言えるわけもなく、宮沢賢治繋がりかなあっと応えた。
これは本当で、この前8月の天文部観測会で先輩たちや同じ1年女子のたかちゃんが宮沢賢治の星めぐりの歌で連詩のように言葉を連ねていき、わたしは見てるだけだったのでちょっと悔しくて新学期早々図書室に行ってみた。ら、そこで小郡さんと出くわして、わたしが手にしてる本を見て、そこからその時の事とか少しおしゃべりした。
その話が彼女に何か響いたのだろうか。みっちゃんは気さくで、優しくて、時にはきちんと間違いを教えてくれて、わたし自慢の親友だ。と。
でもそれだけじゃちょっと弱いなあ。
みっちゃんの何が彼女のトリガーだったんだろう?
授業中は特に何事もなく放課後になる。
部活の天気図だけ描いていくから30分待っててねと小郡さんにお願いする。気象通報が16:00から20分間、観測地点の気圧、気温、天候、風向、風力を次々と読み上げそれを専用の用紙に書き込んでいく。4月は家に持ち帰って仕上げてたけど今じゃ16:30には仕上がる。7月途中の入部のみっちゃんも理科は得意なせいかあっという間に追いついた。
「お先に失礼しまーす」x2
ああ耳納先輩、今日はちゅ~できずにごめんね。友情が優先の日もあるのよ。
下駄箱で小郡さんと落ち合う。通学用のかばんともう一つ体育着用のスポーツバッグだけど今日は体育無いので着替えだろう。
じゃあ行こうか。学校から駅に出てわたしの家の路線に乗り換えだ。駅前のファーストフードで軽く食べてから夜に食べるお菓子やジュースを買い込んでバスに乗る。みっちゃんはしれっとご飯までわたしんちで食べてくこともあるけど、小郡さんが気を使うだろうと思って今日はこうした。
カラカラカラ
ただいま〜
おじゃましまーす
ごめんください
色んな声が聴こえた。
お母さんがでてくる。
「ご飯は要らないのよね、お風呂はお母さんが先に済ませたからあとはご自由にどうぞ。ごめんなさいね、初めてのお客さんより先で」
小郡さんが恐縮している。と見ればお母さんになんか包を渡してる。
「お邪魔します。これ、今晩お世話になりますので...」
おぅ、大人だ。おとなになったつもりでもまだまだわたしは未熟者だ。
ちょっと差を見せられたてしまった。
良いのよ、学習して積み上げれば。
ささ、どうぞー
わたしの部屋にご案内だ。
ベッドの上に来客用のおふとんがかさねてある。2人分だ。夏だしかけるものはタオルケットくらいで十分。
さーて、昼間は普通に授業してきたわけで汗もかいてる。さっぱりお風呂に入りたいところだがお客さんを優先すべきだろう。
「小郡さん先にお風呂入って来たら?」
わたしから勧めてみた。
「皆さんご一緒じゃ駄目ですか?」
ん、彼女の気持ちを知ってるわたしとしてはちょっと返答しにくい。単なる女子会ならきゃいきゃいわあわあだけなのだけど、
(好きな人)
と言う言葉が今日は重く感じる。
と同時にこの重さを先輩に背負わせてたりしてたのかなとちょっとよぎる。
「わたしは良いよー、ちーちゃんちのお風呂ってちょっと大きいし、まあ夏だから肩までどっぷりじゃなくてもね〜」
わたしの心配もよそにみっちゃんめ。
と言ってもまあ色んな思惑を知らないでいるのだから仕方がない
さあてわたしがルームウェアと替えの下着をだしてると、あら素敵なインナーですねって小郡さん。女子会だし一応星と月のプリントなわたしのメインウエポンだ。うふふ。この前手に入れた強めの魔法アイテムは奥にしまってある。
ちーちゃん、わたしもこっち開けるよーっとみっちゃんが置き着替えを取り出している。まあそこはみっちゃん専用だ。ただし部屋の所有者として管理権を発動する事はある。
最近サイズがアップしているな。むぅ。
準備できたのでお風呂場にごーだ。
学校の授業で着替えたりはするけど、みっちゃん以外はちょっと緊張するな。
「わたし先に洗っちゃうから2人ゆっくり浸かっててね。窓開けちゃっけも大丈夫だよ、竹藪だし」
小郡さんがちょっとづつ外を見ながら開けてる、初めてだし無理もない。
「わぁ〜素敵ですね!」
露天風呂とまではいかないけどなかなかの開放感だし、安心したのかちょっと乗り出して外を見てる。
みっちゃんの裸は昔から見慣れてるけどちょっとドキドキするなあ。みっちゃんは今どう思っているんだろう...
洗い終わったので交代だ。
「一緒に洗っこしませんか?」
小郡さんがみっちゃんに申し出てる。
攻めてる。何も言わずに任せてたほうが良いのだろうか。知っているだけに少々悩むけど、変に止めるのも違和感だし、中学校の修学旅行でも女子の間できゃいきゃいやってたからまあそんなもんでやり過ごそう。
が、わたしんちのお風呂場でうら若き女子2人が洗いっこしてると言うのはなかなかに刺激が強い。いやなんだろう、美しいとか、尊いとか、うらやましいとか、ちょっと言葉がでないけど、美術の教科書にあったニンフの沐浴とか、ぐるぐるイメージが湧いてくる。みっちゃんがどう思ってるかはさておき小郡さんはきっと充足感に満ちてるんだろうなと、先輩がわたしの写真を撮る時こんな気持ちになるんだろうか?
ひとしきり洗い終わって、3人で湯船に腰掛けてしゃべっていたけど先にみっちゃんが
「喉乾いてきたから先でるねー」
とでていった。
2人残されのでちょっと聞いてみるかな?
「ね、小郡さんは」
「はい、なんでしょう?」
もう一回ストレートに聞いてみる
「どうしてみっちゃん好きになったの?」
「…あの、ちーさんともこうして親しくなれたので、謝罪も込めてお話します。」
謝罪ってなんだ?特に怒ったり困ったりして無いよ。
「7月終わりごろでしたか、街でおふたりが買い物をしたあとにお茶しているのを見かけまして...見かけたと言うか、わたしの後ろにおふたりが」
うにゃ、みっちゃんに奢らされたあの時か。みっちゃんの後ろの席に人はいたけど、小郡さんに聞かれちゃってた?!?!?!
「あ、ちーさんの事は誰にも」
これはほんとだろう。ちょっとほっとする。
「その時の、篠山さんの、静かな祝福が」
「素敵だなって」
「おふたりの会話を聞いてしまってごめんない」
「いやまあ、まさかクラスメイトとは思ってなかったけど、人がある場所で喋ってたのはわたしたちだし、誰にも黙っててくれてありがとう」
あの時のみっちゃんの祝福でないてしまったのはわたしだ。たまたま居合わせたとは言えみっちゃんのさらりとした暖かさに心を寄せるのもおおむねわかる。
「わたしは、みっちゃんとは長いけど」
「でも、お互いにきちんと個を持って」
「それでいて信頼を積んできたって」
「そう思ってるんだ」
「だからね」
「小郡さんが、今日、胸のうちを話すのも止めないし」
「みっちゃんの答えがなんであろうと、わたしとみっちゃんが親友同士なのは変わらないと思う」
「でいいかな?」
小郡さんは静かに頷いた。
わたしは後は見守るだけ。かな。
みんなお風呂から上がり、ルームウェアでリラックスモードだ。ジュースにお菓子と駅前でちょっとだけいいケーキもいくつか買ってきた。やっぱり甘いものよねえ。
山間で木々に覆われたわたしの家は夏でも夜になると結構過ごしやすい。エアコンを切って窓を開けると少し虫の声が聴こえてきた。
学校のこと、部活のことなんかを喋っているうちに、流れがわたしと耳納先輩のお付き合いの事になってきてしまった。
「ちーちゃん1人で天文部入ってくるからわたしびっくりしたんだよ、そんなに理科好きだったっけってね?」
「いやまあ、ちょっと変われるチャンスかなってね....」
「確かに変わったねえ、なんだか自信に満ちてまぶしいよ、んで先輩とはどーなのよ」
「どうもこうもだいたい知ってるでしょ、天文部まで途中入部して来たくせにぃ」
小郡さんも笑って話に加わっている。普段の教室じゃ見ない顔だなあ。
「篠山さんは、変わろうとは」
ぼかした言い方だけど、小郡さんが何か問いかけて来た。
「えーわたし??? どうなんだろうねえ〜、ちーちゃんといるのは楽しいし、天文部の先輩たちも面白いし、でも男子部員は3年生除くと耳納先輩だけだからなあ、わたしら1年はたかちゃんも含めて女子だけだし」
みっちゃんの言い方だとあくまでお付き合いの対象は男性が前提のように取れる。まあ仕方がないよな、今のを小郡さんはどう聞いているんだろう。
見守るだけって思ったけど、少し話を振ってみる。
「2年の女子先輩の2人も仲いいよね、柳川先輩と大川先輩、宿泊観測会の時くらいしか天文部には顔出さないけど、普段は生物部で何してんだろ」
「わたしはこないだ8月の観測会が初めてだったけど、自由観測時間はさらっと見えなくなって3時過ぎにはさらっと戻ってきてたよね」
うーん、なんだか耽美な感じだ。小郡さんの前で話してもよかったかな。
コンコン
あ、お母さん
かちゃり
「じゃあ、お母さんはもう寝るけど、せっちゃん後は戸締まりとか火の元お願いね。小郡さんもごゆっくり。」
ちょっと話が途切れたのが良かったのか、悪かったのか、どうなんだろう。
と思ったら、みっちゃんが話を継いでくる
「大川先輩と柳川先輩、もっぱら恋人同士って聞いたけど、そうなの?観測会でも仲良かったよね」
「先輩に直接聞いた訳じゃないからわたしもわかんないよ?」
「ただまあ、すごく自然にスキンシップをとるよね」
そう答えておきながら、傍から見れば同性カップルにも見えるけど、それは本人の内面が決める事で外からの見た目で第三者が決めることじゃない気がする。
「じゃあちーちゃん自身の事で、先輩後輩と今の関係と、何か違いはあったの?」
違いは山程ある。のだけど適切な言葉にするのが難しい。言葉にしないと伝わらないけど言葉だけでも伝わらない。それは古今東西如何程の詩や歌が書かれてきたことか、が物語っている。
「........近づく事、触れる事、重なる事、開く事、受け入れる事、記憶と記録、自我と他我、交わりと融合、個を保った変化、わたしはわたしのままに新しいわたし........」
自分でもよくわからない呟きとも詩とも言えるような、変な感覚をそのまま口にした。
「ちーちゃんは」
「先輩の何か、深いところで繋がったんだね」
はっと我に返る、今わたしは何をしゃべったんだろう。自分の中から何かが語りかけたような....
小郡さんがじっとわたしを見つめてる。
彼女には今の呟きがどう受け止められたのか、背中がひんやりする。
「筑水さん、篠山さん」
小郡さんが静かに口を動かす
「今日はお誘いありがとう」
「わたしの一方的な気持ちを、こんなに丁寧に受け入れて、考えてもらって」
「やっぱり自分の言葉で、気持ちをと」
「篠山さん、わたしとお付き合い出来ませんか?」
みっちゃんがぽかんとしている。
ちょっと想定外で頭が回っていない感じだ。
しばらくの沈黙
「えっと....」
「私とちーちゃんが親友のままで良いのなら....」「ただちょっと、私のなかでも、色々」
「想定外で、どうお付き合いして良いのか」
「かっこいい彼氏欲しいな〜とか」
「今までそんなことしか考えていなくて」
「........手探りでゆっくりでも良いかな?」
小郡さんのワンピースに大粒の泪がぱたぱたと落ちた。
日付も変わって外も凌ぎやすい。
3人でちょっとだけ外を散歩する。
わたしが先輩とお付き合いした事を、みっちゃんは静かに祝福してくれた。
ならば今は、わたしが祝福すべきなのだろう。
わたしと先輩
みっちゃんとおーちゃん
いつまでも一緒にいられるかはわからない。
ただ、いつか
離れるときが来ても
今、わたしのなかに残った何かが
新しいわたしの一部に
残り続けて欲しいと
見上げたペガサスに
願いをこめて
おしまい
小さな星の軌跡 第二話 夏休み中の部活動
夏休み中の部活動
....暑い。天文部8月観測会も日が暮れるのが遅いから夕方に集まってもすることがなく、時間を持て余し中。3年生の先輩たちも10月の文化祭までは時々くるみたい。
2年の先輩3人がたくさんのペットボトルをぶら下げて戻ってくる。
「耳納先輩お疲れ様です〜」
7月末に入部して当たり前の様に部室なじんでいるみっちゃん(篠山三智)が何故かわたしの先輩にだけ名前付きで挨拶してる。女子の先輩(柳川先輩•大川先輩)も2人いるのに。
「篠山さん、クーラーに入れといてくれるかな?」
「はーいこっちの大きいのでいいですかね〜」
みっちゃんめ、わたしの先輩から名前を呼ばれてる。先輩はなんとなくわたしにはあのとかそのとか、周りの人がいると名前を呼んでくれない。2人のときはちょっと照れながら名前を囁くのにね。
天文部の部室は備品だか私物だかよくわからないものも多い。そんな中のクーラーボックスに氷とともにジュースを詰めていく。深夜に買い出しはでられないので結構な量。お菓子もたくさんだ。
陽はだいぶ陰って来たけど風は凪いでいて、古びた扇風機がぶんぶん首を振ってもじんわりしてくる。
そこに私服に着替えた2年の先輩女子2人が戻って来た。
「おおーぅ」
ぺたんこな私や幾らかは発達中のみっちゃんとはたいそう異なる立派な先輩達の涼しげな私服が目に刺さる。
「1年女子ーずも着替えてきてねー」
「ほれ、ちーちゃん(わたし:筑水せふり)、たかちゃん行こっか」とみっちゃんから声かけられた。
たかちゃん(基山高瀬)は同じ1年女子、背は結構あるけどほっそりさん。地学全般が好きらしい。理科室の鉱石標本とかよく見てる。
「制服暑いし、はよ着替えよう」
幾分暗くなった廊下を歩いて適当な教室で着替える。
学校の体操服で良いのではと思うのだけど、ちょっと気合いをいれるのが天文部女子部員の伝統なのよっとは先輩女子の言。今回はサロペットスカートにゆったり目のボタンシャツを選んで持ってきた。サロペットの胸当てが幾らかカバーしてくれるのを期待する。
「おおー、お二人とも可愛いねえ!どこで買ったの〜」
3人とも制服を脱いだ所でみっちゃんが直球勝負。
ちょっと空気が変わる。皆さんなんだかやけに気合が入っていません事?わたしはともかくとして...いや期待してる訳はちょっとあるけどそれは置いといて。
みっちゃん、わたしのは想像ついてるでしょ。ていうか人のインナーを触るな、中身ごとおおおお。
「あん」
いかん変な声が出た。
「ちーちゃんのそれ素敵だね。星と月のプリントなの?可愛いねえ🤍」とたかちゃん。
そうでしょうそうでしょう。満月の魔力を込めた私自慢の魔法アイテムだ。はいいけどしゃがみ込んでそんなにお尻をみないでぇ。小さいんだから。
たかちゃんにこれ以上観察されるのも恥ずかしいのでいそいそと白いブラウスを羽織りスナップボタンをぱちぱちとめていく。サロペットスカートは薄いスモーキーグリーンでお気に入りのカラーだ。
みっちゃんはTシャツにハーフパンツと結構ラフな感じ。割とボーイッシュより、たかちゃんは細いけど結構背は高い。スキニーパンツがピッタリ似合ってるけど暑くないのかな?人様のインナーはあれこれ述べるのも悪いので論評はアウターだけにしとこう。
制服をカバンに戻して部室に戻る。さあ先輩達にお披露目よ。
「おおー」x5
おや、三年の先輩達もいる。今日顔を出している三年先輩は男女1人づつ。と言っても泊まらずにしばらくしたら帰っていく。受験だしね。
ん、という事はわたしが先輩と観測会で一晩中いちゃいちゃ....違う部活動出来るのも後一年ほどなのか。ちょっとショッキングな事実に気づいてしまった...が、今は全力で先輩にファッションのアピールだ。
「みんな涼しげて良い感じだねえ」
む、先輩は公平で公正だ。それは正しい、のだけど少しくらいわたしに言及してもバチは当たらないと思うのに。2人だとあんなに...おっとあぶない、口に出そうになる。
「おー、今日の宿泊部員は揃ったか?帰るのは三年の2人かな」
顧問の先生が確認にくる。とは言ってもあとは朝まで宿直室にいて部室は来ない。たまに屋上の望遠鏡は覗きにくる事もあるけど生徒の自主性に任せてくれるありがたい存在だ。信頼を裏切らないようにしなければいけない、いけないのよ、いけません先輩。
....ちょっと頭に熱がこもってるっぽい。頭を冷やしに三年の先輩を見送りに校門までついていこう。顧問の先生も一緒だ。
三年の先輩の2人はお付き合いしていて、わたしから見るとすごく大人に見える。わたしが三年生になったら大人に見えるかなあ..なんて思いながら先生と別れて廊下を一人部室に戻る。るんだけどもうだいぶ暗くてちょっと怖い。うちの周りも山の中で霧が立ち込めたりするけどそれとは違う暗さだ。霧の中なんて暗くてもかえってこう満ち足りて一人自然の中に溶け込んで穏やかに解放され...あまり詳しくはやめておきましょう。締め切って蒸し暑い廊下なのにリアルにブルっと震える。ちょうどおトイレがってっていやいや無理無理無理無理、あとでみっちゃんかたかちゃんについてきてもらおう。そうしよう。と部室を目指す。
階段をおそるおそる上がって廊下の先のに部室の灯りが見えた、やれやれ。
「戻りましたー」
ってあれ、先輩しかいない。
ちょっと待って、わたしおトイレ行きたいんだけど、なんで先輩だけなのよ。大人なわたしでもおトイレは別問題です。お付き合いしてたって情報開示の制限はあるのだ。
「せんぱーい、みんなは屋上ですか?」
ほんとは二人でいられるチャンスなのに。なんたる不始末。わざわざ屋上まで行っておトイレついてきてなんて頼むの間抜けすぎる。仕方がないので覚悟を決める。ちーだって一人でできるもん。
.....こわかったよぅ。いつもの学校なのになんでこんなに怖いのよ。今までの観測会は三年生もいてもうちょっと人が多かったのになんだか今回は少し寂しさを感じる。三年先輩の背中を見たからだろうか。蒸し暑い廊下なのに先に灯る部室の灯りに温もりを感じる。
さあ先輩でこころやすらぎ...今度は誰もいない。せっかくのサロペットスカートを全然見てもらってない気がする。さっさと屋上に行くわよもう。
屋上にはみっちゃんたかちゃん女子先輩ズと先輩の5人がいた。なんだかやっといつもの天文部に帰ってきた感じ。
帰る場所かあ、学校って帰る場所なのかな、ちょっとこころに刺さった物をとりあえず冷たいジュースで流す。まだ夜は長いから、今は先輩の隣で星を見よう。
夕凪も終わって少し風がでてきた頃、ようやく屋上に天文部員が集まった。正確には屋上でなく3階の渡り廊下、校舎の屋上は手すりがないので出入り禁止で屋根のない渡り廊下が天文部のホームになる。望遠鏡を手際よく動かし見えそうなものを先輩が視野に入れていく。最近はGPSやセンサーで自動で動く望遠鏡もあるそうだけど、うちの備品は代々引き継いで来たクラシックな手動のタイプだ。先輩が大きな望遠鏡の横に付いているちいさな望遠鏡(ファインダーって言うんだって)を覗きながらあれこれつまみを緩めたり締めたり、本体覗いたままびょんびょん伸びてるハンドルをちょいと回してる 。しばらく横でその仕草を眺めてたらはいどうぞって声をかけられた。ここは観測会初参加のみっちゃんに譲ろう。彼女のこころの余裕って物を見せないとね。体の方は余裕がないけど、それはそれだ。
先輩が向けたのは..ああアレだわ。一際明るいあの星は先月わたしがきゃあと叫んだアレだ。
「きゃあ」
みっちゃんが同じリアクション
「ちーちゃんちーちゃんなにこれかわいまるいまるい、輪っかだよわっかがあるほんとにあるんだねぇ((੭˙꒳˙)੭」
手をぷんぷん振り回して喜んでる。そりゃそうだ。わたしも同じ事をしたのだ。
「せんぱーい、一緒に見えてる星はタイタンなんですかあ?」
ん、みっちゃんわたしを置いていったぞ。
「お、よく気づいたね。アニメで舞台になったりしてるよね。」
先輩までわたしを置いてかないで。
「アニメやゲームだとティターンの方が通り良いですよねえ、わたしはチタンの呼び方が好きですけど」
たかちゃんまで何やら加わっている。
「理科準備室の標本にイルメナイトもありました。チタン鉄鉱の結晶構造は....」
「今年の1年生は頼もしいねえ」
と女子先輩の2人。女子先輩は生物部の掛け持ちと言うかそっちがメインで観測会とか何かのイベントの時によくやってくる。もっともお二人とも生物の標本作ったりと理科全般得意だそうだ。
星見て初めての事を知るのは楽しいし、先輩の横にいられるのも嬉しいけどここでのわたしだけの何かってなんだろう...
ちょっと望遠鏡から離れて椅子に座り空をみあげる。夏の大三角が見事に輝いている。10月には初めての文化祭、わたしには何ができるのかなあ...なんてぼんやりしてたら先輩から声かけられた。
「あれ、ぼんやりして、もう眠いの?」
眠いわけじゃないけど何となく返事ができない。
「大川さん、柳川さん、1年2人適当に今見える星座のこととか話しといてもらえる?」
「ほいほーい。まかしときー」
先輩が耳元で囁く
「ちょっと部室に戻ろっか」
3階の渡り廊下を離れて階段を一つ降り、部室の....
あれ、部室と違う方に先輩は歩いていく。
ちょっと部室から離れてからからっと開けた教室は先輩のクラスだ。
暗い教室の窓側に先輩は座る。自分の席みたい。その後ろに促されて座ると先輩は窓の外をみてる。
「何か考えてる事あるのかな?、その何かが僕には気がつけてないけど、一緒に考えたいと思ってる。」
何かはあるんだけどどうまとめて良いのかがわからない。何を喋っても先輩はちゃんと聞いてくれる。それは分かってる。でも何でもぶつけて良いはずじゃない。
「篠山さんも基山さんも」
なんだろう、2人の名前が出た
「あの2人楽しいよね、自然科学が好きで探究心豊富で」
わたし以上だと思う
「でもね、僕の部活紹介聞いてその日に1人で天文部にやってきたのは」
「筑水さんで」
うん
「何より新たに星に興味を持ってくれた事が嬉しかったんだよね」
「理科の知識が詳しい後輩も楽しいし、大切にしたいのはとうぜんなんだけど」
「今日の為に小さい星柄のブラウスを来てくる娘も」
「大事にしたいんだ」
「って事で伝わるかなあ、こういう事言うのは初めてだから、カッコよくなかったらごめんなさい」
暗い教室で、たぶん赤い顔をした。
先輩ちゃんとブラウスも見てくれてた。でも口にしてくれないとやっぱりわかんないよ。
滲む目を閉じて顔を少し上げる。先輩の温かな感触が唇に触れる。
ちょんと、したでつついてみた。
同じくちょんちょんって帰って来た。
今はこれで十分すぎる。
まだまだ夜は続く。
いったん部室に戻ろう。
そろそろ日付も変わろうかという頃、部室にいい匂いが立ち込める。とはいえ火気厳禁なので宿直室で沸かしてもらったポットのお湯と電子レンジでチンでできるもの、必然的にカップ麺と唐揚げやらポテトになるのだけど、学校、しかも深夜という事で否応なしに盛り上がる。ただ周りにそこそこ民家があるので万が一があると顧問の先生にご迷惑をおかけする。と言う理由で静かに盛り上がる、天文部の伝統芸が伝授される夜の静寂。
その活動内容の必然性から夜中にできるだけ暗い所での活動が是である以上、学生には困難が伴うのよね。わたしの家なら何の問題もないのだけど。ただ周りが木々に囲まれてるから視界は広くない。良いこともあるけど...。
軽く?お腹を満たしたら、2時間ほど仮眠および自由活動だ。空いてる機材で好きに観察や撮影に挑戦するもよし、これまた宿直室から借りた毛布を担いで適当な教室で横になるも良し、わりとフリーダムな天文部なのよね。他校だと雨でも関係なく電波で流れ星の活動を観測したりとか(何か遠くのラジオが一瞬聞こえるらしいの)なかなか専門的な研究をしている所もあるそう。
先輩女子ずはさらにもう一度着替えてきて顔を化粧水でぺたぺた。隣に先輩いるんですけど今夜は男子1人で押され気味。さすがにパジャマじゃないけど仮眠用なのかゆったり私服に着替えてる。コンビニくらいならドレスコード的にぎりぎりラインと感じたけどどうせ外には朝まででれないし良いのか。それじゃあ2時過ぎまで一休み〜と2人で消えていった。2人揃ってか、仲がいいのね.......
たかちゃんは屋上でのんびりカメラの番。タイムラプスで星の動画を撮るそうだ。石をハンマーで割るのが趣味と思ってたらメカやデジタルも詳しかった。同じ1年生なのにすごいなあ、何でも去年の中3は夏休みの研究が県の賞をもらったとか。みっちゃんはと言うと初めての観測会でちょっと疲れたっぽい。部室の机にうっつぷしてる。
部室の電灯も落として小さいUSBのライトだけにしておく。先輩とおしゃべりするとみっちゃんの邪魔しちゃうし、屋上はたかちゃんが満喫してるし、小さな声で先輩に自分の教室でちょっと休んできますねと伝えて静まり返る廊下をあるく。何故だか今は怖くない。
からからっとドアを開け、なんとなくこんばんはって挨拶して深夜の教室に入る。
わたしの机も窓側だ、窓を開けて夜風を少し汗ばんだブラウスに通す。一人だしちょっとスナップボタンもぱちぱちと外し、サロペットの肩ひもも下ろしとこう。
しばらく窓から星を眺めてぼんやり考える。自分にしかできないことってなんだろう?何かで一番でない限り意味が無いなんて事は無いくらいわかってるし、でもそれに少しの言い訳が入ってるのもわかってる。天文部は初めての事ばかりで楽しいし、先輩たちも色々教えてくれる。でもその次は、来年は、わたしは何ができるんだろう。何ができればいいのだろう。何かができればそれだけで良いのか?
遠くから聞こえる列車の警笛、貨物列車だろう、つい数カ月前は受験勉強の合間に聴こえてきたなあなんてまどろんでいると、ポケットがぷるっと震えてポケットから灯りが漏れる。
スマホを取り出すと、一言そっちに行くねと先輩からだった。
程なく教室のドアがからからっと開く。
少しキョロキョロ見回したふうのあと小さく手をひらひらと。わたしも同じように返す。
先輩もこんばんはって囁いてわたしの前に座った。
はいいのだけど先輩が目をちょっとそらしている。わたし何か変な事したっけ....
きゃっ、ブラウスのボタンをぱちりぱちりと戻す。先輩がこっちを向いてくれた。ちょっと笑ってる気がする。
先輩とは前々回の観測会の朝、たまたま運動部が休日練習していたから、急いで帰る必要がなく、昼頃まで二人っきりで過ごした。先輩は優しかった。自分自身の選択に後悔は無い。これだけははっきり言える。今まで、いや今でも学年で一番ちっちゃくて、みんなかわいいって言ってくれるけど綺麗って言われた覚えは無い。誰が悪いわけでも無いのもわかってる。でも、あの時、わたしは、初めて、自分に、きれいです、と、声を、かけた、先輩が、だから、何も、後悔は、無いのだと、言葉がでない、繋がらない、今、すべきこと、できることは、胸の鼓動を、知ってほしいと、わたしの、わずかな胸に、弾ける鼓動に、あの時の、痛みと、よろこびに、触れてほしいと、先輩の手を取り....
部室に戻ると明るくなっていた。
みっちゃんは眠そうな顔で何してたのよーっとラジオを聴いている。ネットラジオじゃなくてアンテナを伸ばして聴くやつだ。いつもは気象通報を聴いて天気図を書くのだけれど、深夜放送のおしゃべりが静かに流れていた。
8月の観測会も3時を回った。日の出は5時頃だけど3時半もすぎると少しずつ東の空は明るくなり始める。それまでもう少し見ましょうかと先輩が呼びかけて、4人で再び屋上に上がる。大川先輩と柳川先輩の二人もどこからともなく現れた。 夏の星座は西の方に傾いて秋の星座が天頂に来ている。スマホの星座アプリを立ち上げて真上にかざすとペガサスやアンドロメダが星空に重なった。 先輩は望遠鏡を真上に向けている。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
先輩が歌を口ずさんでいる。始めて聴く先輩の歌声だ。
「 耳納君それ好きねえ亅
柳川先輩がんふふっと笑いながらわたしにも聞こえるように声をかける。
「えっと、星めぐりのうた、ですか?」
宮沢賢治だ、いつだったか教科書の銀河鉄道の夜で出てきたけどその時はあまりよくわからなかった覚えがある。
「お、ちーちゃん関心関心」
「で、車掌さん、アンドロメダの停車場には着きましたか?1年生が待ってますよ〜」
なんだか柳川先輩がすごくいい雰囲気。
「はいはい、皆さん天上のきっぷをお持ちですね」
あう、会話についていけない。
「先輩、赤い帽子をかぶらないと」
たかちゃんさらっとついてってるようだ。 みっちゃんはというと、手すりに寄りかかって真上を見てる。
「篠山さん、川に落ちちゃうよ」
今度は大川先輩だ、これも銀河鉄道の夜にあったような気がするけどどんな場面だったっけ。今度図書室で借りてこよう。ネットで無料の文庫もあるらしいけど、紙でしっかり読んでみよう。
「ちーちゃんつぎどーぞ」
たかちゃんに声かけられて望遠鏡を覗き込む。視野の中にぼんやりとした楕円形の光の滲み。アンドロメダのくも。今見えている端から端が22万光年。それが見えている。 向こうからも誰か見ているんだろうか...そんな事を思いながら望遠鏡から離れたら先輩と目が合った。わたしを見ている人、わたしを見せた人。見えていてもすべてを知った訳じゃない。これから一つづつ知っていくのよ。
オリオンが見え始めるころ、夜もしらじらとしてきた。望遠鏡を分解して部品を箱に詰めていく。大きな脚は先輩がよいしょっと担いで部室まで降ろす。 いつの間にか大川先輩と柳川先輩も制服に着替えていた。わたしたちも帰り支度で着替えに戻る。 3人で着替えようとしたその時
「ちーちゃんボタンが開いてるよ」
サロペットで隠れてたけどブラウスのボタンが一つ開いてた。上のボタンはぱちんとはまってるけど.... えへへとだけ笑って制服に着替え部室に戻る。
すっかり明るくなったけどまだ朝6時。少しずつ街の音が増えていく。これも天文部に入って気づいた一つ。 たくさんの一つを一つづつ。
少しして顧問の先生がやってきた。
「特に何も無かったかな?もう全部片付いているなら、早めに帰宅する様に、最後に出る者は宿直室に報告。まあ、何時も通りだな。」
簡単に閉めの挨拶があって観測会もこれでおしまい。結局6人揃って先生に報告して校門を出る。わたしとみっちゃんは同じバスで帰るので先輩たちとたかちゃんとは学校前のバス停でお別れだ。 じゃあ次は新学期ね〜。 バスが来たので手を降って別れる。
夏休み中で朝早くてしかも下りだからわたしたちだけ。みっちゃんはと見ればこっくりこっくりと眠そうだ。ま、降りるバス停まで一緒だし。4月の観測会から5回目の朝帰り。1回だけお昼すぎになったあの日を思い出す。あの日は沢山の一つを重ねた日。バスの中で唇に指をちょんちょんとあてて見た。これからも、たくさんの一つを重ねていこう。それがきっとわたしをわたしにしていくのだろう。
おしまい
と言うことで小さな星の軌跡の第二話をお届けしました。本格的に文章を書き始めての二作目です。note のわたしのアカウントが初出。今回は四つに別れていたのを一つにまとめました。また人物と名前が分かりにくいと言う声があったので本文に()で名前を追加しています。わりと褒めちぎってくるこちらのAI 分析にすらちょっと長っ尻な部分があるよとのお叱りを受けるくらいに未熟な所がありますね(笑)
鳥とキツネとアイツ⑪ 新歓コンパ
僕がいくらLINEをしても、隣の部屋の窓を棒でつついても、アイツからは返事がなかった。
そして翌日の金曜日。
新歓野鳥観察会はつつがなく進行した。カワセミの番も確認でき、僕はいい写真を撮れてみんなから称賛される。
アイツも何事もなかったかのように白々と僕を褒めたたえたが、それが寂しい。
三原先輩がやけに僕に声をかけてくる気がしたけれど、僕は曖昧に答えてそれをいちいちかわした。その度に先輩はちょっと悲しそうな顔をするのだ。それが僕には苦しい。
そして新歓コンパになる。大学近くの居酒屋で開催される。無礼講で適当に座るが、気が付くと僕はアイツと三原先輩に挟まれる格好になってしまった。
マジかよなんだよこれ……
「おお、高尾、両手に花だな」
「今日の主役だもんねえ」
「うおおお、羨ましいっスよ!」
真島部長にからかわれ、瀬野さんと浦川さんが盛り上がる。
いや、むしろ席変わって欲しいです先輩……
「それではー」
真島部長が立って生ビールを掲げると、みんな銘々グラスやジョッキを持って立ち上がる。
「新入生、高尾君の入部を祝して」
「かんぱーい!」
グラスとジョッキを鳴らす僕たち。
「あ、サラダ取ってあげるね」
右隣の三原先輩が僕の取り皿に、上品な手つきでサラダを盛る。
「あっ、あっ、いいですそんなお気遣いなく……」
「そんな遠慮しなくていいの。今日は高尾君が主役なんだから」
左隣のアイツも負けてはいない。
「はい、ラムチョップどうぞー。今日は私たちのおごりだからどんどん食べてね」
偽りの笑顔で骨付きラム肉をきれいによそって僕に渡すアイツ。大好物だ。さすがだ。僕の好みをよく知っている。でも眼が怖い。怖いよ。
しかしこれはどうしたものか。これが針の筵って奴か。
しばらくは歓談が続く。
「今年はどこに行こうか考えてるんだよ。シマエナガ撮影ツアーは、得るものは大きかったが、金はかかるし寒いしでなあ」
「でしたらカササギなんてどうですか? あそこでは珍しくもない鳥ですが。見たことある方いらっしゃらないでしょう? 千葉まで足を延ばせばセイタカシギも見られますし。それと山でキャンプを兼ねて垂直分布をやってみるのも楽しいかも知れないですよ」
「おお、なんだ高尾はいろいろ詳しいじゃないか。頼もしいな!」
真島先輩はいい感じに酔ってて上機嫌だ。
その間にもアイツと三原先輩は僕に次々と料理をよそってくれて、僕はそれを食べるのに精いっぱいだった。どちらの皿も残すわけにはいかない。僕の胃はそろそろ限界に近づいてきていた。
「よし、じゃあここいらで新入生に挨拶をしてもらおうじゃないか。さあ高尾君立って立って」
僕はたぷたぷになったお腹を持て余しながら立ち上がる。
「えっと、えー、この度は、このサークルに入れていただきありがとうございました!」
歓声と拍手があがる。
「皆さんとってもいい方々ですごく嬉しいです!」
歓声と拍手。
「これからこのサークルに微力を尽くし貢献して、もっともっと盛り上げていく所存です!」
一層大きな歓声と拍手。
「それと……」
僕は少し声のトーンを落とした。先輩方は僕に注目する。
「私事ではありますが……」
僕は深い深呼吸をして、左隣のアイツに目をやった。静かに驚いた顔をしているアイツ。
僕は手を差し伸べる。アイツは僕を見つめる。ちょっとよく判らない表情だった。今まで見たことがない。でも悪い眼じゃない。
僕がその眼を見つめ返すと、しばらく躊躇ったあと、何かを覚悟したかの顔で、その手を取った。アイツの右手を引くとアイツもゆっくり立ち上がる。
一同は沈黙した。
「僕たちつきあってます!」
「ええーっ!」
今までで一番の大歓声があがる。
「なんで!」
「どういうこと?」
「いつからっスか! いつからなんスか!」
真島先輩以下三名の男子は口々に叫ぶ。アイツは不安そうな顔で照れて真っ赤になってうつむいた。僕の右隣りで座ってた三原先輩も何も言わずうつむいた。
このあとはもうまるで芸能人の記者会見のようだった。矢継ぎ早に質問が飛んできて、僕たちはそれに答えるのに精いっぱいだった。でも、その「記者団」の中に三原先輩はいなかった。
僕たちが一本締めでこの飲み会を終わらせると、みんなは二次会に行こうとする。
「あ、私、なんだか飲みすぎちゃったから、今日はもう帰るね……」
それだけ言うと三原先輩は僕たちの輪からすーっと抜け出して、学生街の雑踏の中に消えていった。僕は思わず声をかけそうになった。その瞬間、アイツが僕の腕を掴んで強く引っ張ったので、我に返ってみんなと一緒に「お疲れ様でした」とだけ言った。だって何だか寂しそうな眼をしていたから。
三原先輩だけ抜けて僕たちは五人で二次会をすることになった。僕がよく一人でブラインドにこもって観察している池の話とか、最近現れたクロツラヘラサギのこととか、先輩たちは興味津々に聞いていた。
そして賑々しく開催された新歓コンパもこうして終わった。もっとも真島部長は瀬野さんや浦川さんと三次会に行ったみたいだけど。
言葉は踊る
懐かしい本を読む
昔読んだ主人公の旅立ちの章
勇者は剣を掲げて
ペンは剣よりも強し
はにかんだ微笑みが眩し過ぎて
目に刺さるようだ
でもこの主人公は私じゃない
英雄譚気取っても私の現実が変わる訳じゃない
言葉はダンスを踊る
タップを踏んだり
クルクル回ったりする
狂ったように
リアルの世界では私は小さな存在
長いものには巻かれろ
人々は私を嘲笑する
だけどなんだか皆んな変
外へ出よう
靴を履こうとしたら
靴べらが見つからない
スマホを落とす
指に力を入れて
紐を縛って気合いを入れる
鍵を持って
玄関扉を開けた
外の世界は広いはず
井の中の蛙大海を知らず
小石が靴に入るかもしれない
途中で疲れてしまうかもしれない
そうかもしれないけれど
もっと沢山の世界を見たい
鳥とキツネとアイツ⑩ 気まずい一日
翌朝、目が覚めたとき、まず思ったのは――静かだ、ということだった。
いつもなら、隣の家の玄関が開く音とか、アイツの足音とか、そういうものが自然と耳に入ってくる。登校時間が同じだった頃の名残で、もう癖みたいなものだ。
でも今日は、それがなかった。
カーテンの隙間から外を覗くと、アイツの家はもう静まり返っている。出かけたのか、それとも、まだ部屋にいるのか。
分からない。
それが、妙に落ち着かなかった。
朝食を食べながら、母が何気なく言った。
「今日は一緒じゃないの?」
箸が一瞬止まる。
「あ、ああ…… 今日は、別々」
「ふうん。せっかく同じ大学なのに」
「講義がいつあるかで、大学に行く時間も結構変わるんだよ」
淡々とした声で母に言った。
「へえ……」
それ以上、母は何も言わなかった。
でも、その一言だけで、昨日のことが一気に頭に蘇る。
大学に着いても、気分は晴れなかった。
キャンパスは相変わらず人が多く、新歓の名残なのかあちこちがざわついている。笑い声も、呼び込みの声も、昨日までなら気にならなかったのに、今日はやけに耳についた。
掲示板にあった野鳥研のスペースの前を通りかかって、足が止まる。
貼られているのは、近所の自然公園の地図と、観察会の予定。カワセミの写真の横に、姫川の字で書かれた注意事項が並んでいる。
――集合時間厳守。
――双眼鏡は各自持参。
――未成年の飲酒厳禁。
――飛び入り大歓迎!
几帳面で、角の立たない文字。
外向きのアイツの字だ。
僕はそれをしばらく眺めてから、目を逸らした。
講義中も、内容はほとんど頭に入ってこなかった。ノートは取っているのに、気づくと同じところを何度もなぞっている。
「あたしばっか、必死になってるみたい――」
僕の頭に昨日のアイツの言葉がずっと響いている。必死になんかなることないじゃないか。もっと肩の力を抜いて、普通通りの自分でいればいいのに。本当、何を怖がってるんだ?
昼休み、学食は昼時で、どこも混んでいた。トレーを持って席を探していると、少し先に見慣れた背中があった。
アイツだ。
友達らしい女子学生に囲まれて、楽しそうに笑っている。声も、仕草も、昨日までと変わらない。あのキツネの皮を、完璧にかぶったままだ。
あれがアイツのやり方。それは判ってる。判ってはいるけど……
ようやく見つけた隅の二人掛けテーブルに腰を下ろし、カレー皿にスプーンを入れた、そのときだった。
「ここ、いいかしら?」
声に顔を上げると、三原先輩が立っていた。
一瞬、頭が真っ白になる。
「あ、ど、どうぞ……」
向かいに座る動作ひとつひとつが、やけに目に入る。
髪を耳にかける仕草とか、トレーを置く音とか。
――ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。色んな意味でヤバい。
僕は自分の顔が緩んでいるのが判った。汗が出る。
「おひとりなんですか?」
「そうなの。今日は友達もみんな休講だからバイトに行っちゃってて……」
とちょっと恥ずかしそうに言う。
その顔ですら僕を魅了した。
なんだか夢のようだ。
三原先輩はクリームパスタをきれいな手つきで食べながら僕に訊いてくる。
「バードウォッチングはいつぐらいからやってるの?」
「はい、小六の冬からで……」
そう、あの頃、父に連れていかれた野鳥観察会で僕は野鳥に魅せられた。それから僕は夢中になって鳥を追いかけるようになった。
〈鳥の何がそんなに面白いの?〉
〈もう、全然構ってくれなくなったじゃん〉
突然、言葉がフラッシュバックした。アイツの言葉だった。なんで忘れてたんだろう。
そうだ、あの頃から僕はアイツと疎遠になった。
そして中学に入るとアイツは豹変した。まるで別人のようにキツネの化けの皮を被って。一方で僕は野鳥を追いかける毎日になった。それでもアイツは時折僕のテリトリーに無理矢理入り込んできては、散々嫌味を言って帰っていってたんだ。
アイツが変わったのは……
もしかして、僕のせいか?
カッと頭に血が上った。
〈何年待たせたってんだよーっ!〉
合格発表の日、僕にがっちり抱きついて号泣したアイツを思い出した。
「高尾君?」
怪訝そうな先輩を置いて僕はいきなり立ち上がった。
「すいません先輩、僕急な用事を思い出しましたっ!」
「えっ」
僕は逃げるようにその場を離れた。
三原華子はしばらくそのまま席に座っていた。
向かいの席は空いてしまっていて、カレーの皿だけが、ほとんど手つかずで残っている。
周囲は騒がしく、誰も気に留めていない。
三原は手にしたフォークで、少しだけ口に運んだ。お気に入りの味だ。けれど、フォークはすぐに止まった。
「ふぅ……」
三原は小さく息を吐き、何事もなかったように、もう一口だけ食べてから席を立つ。二人分のトレーを返却口に置いた。
鳥とキツネとアイツ⑨ 喧嘩両成敗?
僕たちはそのまま帰宅した。
家までの道のりは、やけに長かった。
夕方の住宅街は静かで、犬の鳴き声と、どこかの家の夕餉の匂いが漂っている。春先の風はまだ少し冷たいのに、左側だけが妙に熱かった。
僕の左を歩いて熱い圧を放っているアイツは何も言わない。
歩幅も、歩く速さも、昔と同じだ。小さい頃から変わらない。なのにすぐ隣を歩いている感じがしない。視線も合わないし、やけに重たく聞こえる靴音だけが淡々と響いていた。
僕の家の前に着く。
アイツの家は、その隣だ。逃げ道はある。だからあえて声をかけた。
「……上がる?」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
アイツは一瞬だけ立ち止まり、僕を見た。目が合ったのはその時だけだった。
「行く」
短く、それだけ言った。やはり平坦な声だった。
玄関で靴を脱ぐ。鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。
母が「あら、いらっしゃーい。ねえねえ大学どうだった?」と明るい声をかけて来たのでアイツは「お邪魔しますー。ええ、とっても楽しかったですよー」だなんて、いつも通りのキツネの皮をかぶって答えた。いや、これはもう鉄面皮って奴だな。
僕には、母の何も知らない呑気な声も、アイツの嘘くさい言葉も、二階へ上がる階段を踏む音も、きしむ床も、全部がうるさい。
自室のドアを開ける。
見慣れた机、ベッド、壁に貼ったオオタカの写真。いつもの僕の居場所だ。なのに、今日は知らない部屋みたいだった。
ドアを閉めた途端、アイツが振り向いた。
「ねえ」
低い声だった。
「なんだよ」
「今日のこと、どう思ってんの?」
真正面から来やがった。これじゃこっちの方が逃げられない。
「どうって…… 普通じゃないか」
「普通?」
アイツの眉がぴくりと動いた。
「三原先輩に随分鼻の下伸ばしてたじゃないさ」
「それは…… 先輩だし、別に……」
「別に?」
一歩、距離が詰まる。爪先だったアイツの薄い胸が僕の胸に触れそうになる。
狭い部屋の中で、空気が一気に濃くなる。
「どうせ『いい匂いがするう』とかなんだとか思ってたんでしょ」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「顔に書いてあった。バッカみたい」
アイツの声が、少しだけ震えた。
「ねえあんた。あたしがどんな気持ちで、あそこに座ってたか、分かってる?」
「分かるわけないだろ。何も言わないんだから」
言ってしまってから、しまったと思った。
「言えないでしょ」
アイツが吐き捨てる。
「公の場で。後輩の前で。部長の前で。彼氏です、なんて言えるわけないでしょ」
「なんでだよ。言ってみろよ」
声が荒くなったのが、自分でも分かった。
「こっちだって何も知らされなくて、黙って合わされて、勝手に距離取られて、挙句こうやって責められてさ。僕だけ悪者みたいに言うなよ」
「悪者?」
アイツが笑った。乾いた笑いだった。
「ほんと、呑気だよね。あんた」
その言葉で、何かが切れた。
「呑気? 何がだよ」
「見られない。噂されない。先輩として品定めもされない、ってこと」
一気にまくしたてる。
「あたしはね、ちょっと笑っただけでも、誰かと話しただけでも、それ全部見られてんの」
「……」
「その横で、あんたはただぼーっとしてるだけ」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。同時にアイツの外面ばかり気にする態度も気に入らなかった。なにをそんなに恐れているのか。
「僕は嫌なんだよ」
気づいたら、声を張り上げていた。
「隠されるのも、距離置かれるのも。僕だってそういうの気分悪いんだよッ」
部屋が、しんと静まる。
アイツは何も言わなかった。唇を噛み、視線を落としている。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「……そんな、あたしばっか、必死になってるみたいなこと言ってさ」
その一言が、妙に重く沈んでいく。
言い返す言葉が、出てこない。
「あたしだって言いたいよ…… でも怖いんだよ。どうなるか……」
僕たちは、向かい合ったまま、黙り込んだ。
喧嘩は、確かに起きた。でも、どっちが勝ったわけでもなかった。ただ、部屋の空気だけが、少しだけ変わってしまっていた。
「あたし帰る」
「……ああ」
下に降りると、母が「あらもう帰っちゃうの? お茶もお出しできてないのに……」と残念そうに言うと、アイツは「はい、ちょっと寄っただけなんで……」とお得意の愛想笑いをして帰っていった。
扉が重たい音をたてて閉じた後、母が詰問口調で言った。
「ちょっとあんた、なんかしたの?」
「え?」
「なんだか元気なかったじゃない。いつもあんなに明るい子なのに……」
愛想を振りまいててもやっぱり判るか……
「いや、それは――」
僕は何かを言いかけてやめた。
「喧嘩でもした?」
僕はぎくりとした。母は畳みかける。
「もう…… やめてよね。あんないいお嬢さんめったにいないわよ。あんたには不釣り合いなくらいなんだから、絶対手放しちゃだめ」
いやそれはアイツの愛想の良さに騙されてるだけで……
「わ、判ってるよ……」
一言だけ言って僕は二階へ上がった。
日記
日記を書くという行為は、誰に見せるでもない小さな独白に似ている。白いページに向かうと、今日という一日が静かにほどけていく。特別な出来事があった日も、何も起こらなかったように思える日も、ペンを持つと不思議と同じ重さでそこに並ぶ。
うれしかったことを書くと、もう一度その温度が胸に戻ってくる。悔しさや弱さを書けば、文字になった瞬間、少しだけ自分から離れて、客観的に眺められる気がする。日記は慰めも助言もくれない。ただ、黙って受け取ってくれる。それが何よりありがたい。
書き続けていると、過去の自分と出会うことがある。幼い言葉遣い、青すぎる悩み、必死に背伸びしている跡。そのどれもが、今の自分をここまで運んできた足跡だと思うと、愛おしくなる。間違いも遠回りも、すべてがその日の正直な記録なのだ。
日記は未来のために書くものではない。今日を、今日のままそっと残すために書く。けれど不思議なことに、積み重なったページは、これから迷ったときの小さな灯りになる。自分は確かにここを歩いてきた、と静かに教えてくれるからだ。
だから今日も、たいしたことのない一日を、たいしたことのない言葉で綴る。それで十分だと思える夜が、少しずつ増えていく。
『嘘と本当と七芒星の憂鬱』
降り注ぐ流れ星を浴びるように
体感する
思い出してみる
赫環の七芒星は遠い未来を眺めていた
答えの分からない宇宙で
回り続ける事を余儀なくされ
まんじりともせず
それを受け入れている
運命を信じているのかもしれなかった
取り止めもないけれど
それ以外に出来る事はないのだから
呼吸をするように
嘘を吐く
そんな風にしか生きれなかった
七芒星はそれでも
自分は本当の事を言っていると
思った
深遠な宇宙の中で
嘘を言う必要はないのだから
でももしかしたら
それさえも嘘かもしれない
クスリと笑う
黒と青を足した世界で
生まれたから
明るい未来など描けない
現実を見る事でしか
自分の生き方はない
七芒星は
そんな風に
思うのだった
たとえ時代は変わろうとも
その昔 文学やるやつ
ギターかき鳴らすやつ
不良だろくな人間じゃないと
うしろ指さされていた
漫画ばかり読んでいる
テレビばっかり観ている
ゲームばっかりやっている
だからバカになるんだ
いじめが起きるんだと
こんなものがあるからいけないんだと
親も学校もマスメディアも
こぞって煽り叩きまくっていた
いまはスマホだネットだSNSだ AIだ
時代が変わろうとも何も変わりゃしない
悪いヤツは誰だ
悪いヤツは誰だ
平和を謳いながら 戦争は失くならないし
人を傷つけてはいけません
人のものを盗んではいけません
人を殴ってはいけません
人を殺してはいけません
それでも毎日 どこかで事件は起きてるし
強きモノたちが 弱きモノたちを挫き
本当に助けてほしい人の助けてが
いつまで経っても届かない
悪いヤツは誰だ
悪いヤツは誰だ
見てみろよ
子どもも大人も 男も女も
健常者も 障がい者も
あたしもアンタも
ろくでもな人間ばっかりしか
いないじゃないか
こんなろくでもな人間どもが
こんなろくでもな時代を創ってきたんだ
そしてまた
時代は変わる
変わろうともに
歌う昔日
廃れた町工場
廃墟と化した学校
ドラム缶の置かれた空き地
人一人居ないこの町で
僕は歌うたう
騒音一つ聞こえないこの町は
僕の空想上で
昔日を歌う
昔は賑わっていたのだろうか
子どもは笑っていたのだろうか
どこかの貴女は
今でもここを覚えているだろうか
昔笑いあった
ケンカしあった
黄昏あった
初めて手をつないだ
この場所は
今でも変わらず残っている
あれからどれだけ経ったか
あの日僕らは約束した
「例え離れてもまたここに」
私は待っている
貴女を
二度と会うことのできない
貴女を
この廃れた町で
待ち続けている
おしろい花
おしろい花のことを
日記帳に書きましたけれど
なんと書いたか知っているのは
日記帳だけです
彼は日記帳を破り捨てるような
ことを言いましたが
本当のことは
何も知りません
夕方
おしろい花が見事に収束し
犬とそれを見ていました
薄紺色の風がニ列で通り
おしろい花のことを書いた日記を
運んでゆきます
彼は何事も知らないまま
列に混ざって
運ばれてゆきます
ふね
空に 浮かぶ 大きなふね
それを 見つけて 子どもは言う
僕も あれに 乗りたいよ
悲しい 目をした 母親は
いつか 大きく なったらね
叶うか 分からぬ その願い
いつかは 叶えて やりたいよ
母の 願いは 叶わずに
子どもは 空に 飛び立った
あの子の 夢は 叶ったよ
私の 夢は 打ち砕け
私の 夢は 消え去って
空に 儚く 散り散りなって……