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2021/01/01 12:00:00

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投稿作品一覧

テレパシ

わたしは
絶対に行きたくない場所がある
一度も行ったことはないのだけど
そこにたどりついてしまうと
戻ってこれなくなることを
すでに知ってしまっている

ついこの間
夫が気持ち悪い夢を見たと
起きてきた
「次男を連れて
三人で海外旅行に行ったんだけど
突然
帰らないってお前が言い出して
どうしたって帰らないと言うから
次男を連れて帰るから
一人で暮らせよと叫んだのに
やっぱりかえらないと動かないんだよ」

わたしがただただ
夫を見つめていると
「気持ち悪っ!」ておもって
「気持ち悪っ!」ていったら
その自分の出した声で
目覚めたんだよ
まだムカムカするよと
睨まれた

夫婦とはー。
わたしはにぶいふりをして
「どんな国だった?」ときいてみた
やっぱりつうじてしまうのだ

わたしはしっているけれど
夫もきづいているかもしれないけれど

おたがいにそんなところがあるのだ
夫婦だからね って
言わずもがな
わたしたち
パスポートは持っていません

取る予定も今のところないのです
そうすることが安心安全で、、、

なんて気がするから

わたしたちには

きっとたどりつかなくて

よい場所もあるのでしょうから

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私について

腹が減れば飯を喰らう、たまに
あまれば飢えた子にやるけどね
まずはおのれなのだ、いつしか
おのれしかいなくなるのではと
じっ、と恐れている遅れている
少しばかりの空きっ腹を抱えて
ちぃさくちぃさくなるけれども
いざ遅刻するときは忘れてしまう
仕事だ、なんだ、と忘れてしまう
ふと、子どもの眼を覗き込めば
僕が映っていた、なに不自由ない
僕が映っていた、小太りの中年が
生活の忙しさにしがみついている

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詩は鉄橋の下をあるく(詩はあるくXV)

詩は鉄橋の下をあるく(詩はあるくXV)

無骨なリベットと
緻密なトラスと
煉瓦のアーチに支えられた
鶯色の鉄橋を

日が登る前のひととき
始発が出る前のまだ
人の動きは穏やかなその時間
貨物列車の長い長い走行音

対岸の工場群の排気塔は
朝日に輝く水蒸気を噴き上げ
眠らぬ機械達の熱と光を
貨物列車の警笛とともに唄う

河川敷をあるく
鉄橋のその下で
貨物列車の走行音に包まれて
詩は橋脚の間(はざま)に唄う

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序曲:回転体 

Ⅰ, 回転の胎動
時剋。山々は軸にそって割れ砕かれる。
磊が礫となり砂礫となりスピンドルの周囲を舞う。
時間は腸捻転し過去と未来は回転軸に絡み合う。
土石の鼓動が骨格を震わせより深く浸透する。
地に現れた土は光と入り混じりあい街のざわめきは一つの回転体となって渦を描く。

Ⅱ, 主軸を失う舟
磁北。それが溶けることにより必然的に羅針盤は軸を見失う。
それでもスピンドルは渦動する。非可逆の刻を刻みながら。
舟は船に必然的に名を変えるもものただただ旋回する形態の幻影をみせる。
波はXYZの軸によって再定義され感情感覚や理念は再構築される。
誰彼の叫び声はスピンドルの轟きに吸音される。

Ⅲ, 燃える軸
地獄。はるか遠くで炎が渦をなして躍動している。
破壊と創造はそれぞれスピンドルの軸を共有する。
暖色系の色彩は軌跡を描きながら無限大数に分岐する。
微細な粒子は渦に捕らわれ新たな構造を紡ぎだす。
爆発は静寂をのみこみDEADENDの中心で共鳴する。

Ⅳ, 余韻の軌道
死刻。スピンドルはなおも狂い咲きながらも回り続ける。
誰かが回したはずなのに誰にもとめられない。理不尽と不条理の間。
虚構と呼ばれる底の下でただただ回転音だけの音鳴りがする。
一筋の旋律は軸の延長を越え [[ここではない場所]]を求めるかのように響き続ける。
回転体の主体は、[[なにもない部屋]]にとどまる人たちだけに目的を伝えようとする。

Ⅴ, 終曲の静寂
威酷 。その響きはもはや大気にすら反響しない。
回転は極限まで減速し遠心力は滅し回転体は軸の上で硬直する。
絡み合った時間は解放され過去と未来は人々の記録となってATにより可視化される。
磊礫砂礫すべての物質は静電浮遊による虚空に停止しその存在を皆が消去する。
回転のない世界の始まりに聴く者の極微の呼吸だけが新たな律動として残る。

https://note.com/userunknown/n/n867d2c6c2783?app_launch=false

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【夜想曲は響き星々は響鳴す優しい闇の深さよ】 

や  夜陰に隠れた小夜啼鳥の
そ  装美なるセレナーデ
う  鬱蒼と茂る木立の中で
き  木々の枝を渡り奏でられる
よ  夜の調べの麗しさ
く  雲間から月光が差した
は  遥か遠くに煌めく星々は
ひ  密やかな物語を紡ぐ
び  微雨が世界を覆う
き  きらきらと光を弾く雨粒は
ほ  星々と響鳴するように
し  淑やかなノクターンを奏でる
ぼ  ぼんやりと光る月は
し  指揮者の体をなして
は  羽ばたく小夜啼鳥の囀りを
き  協和音へと導いた
よ  夜が深まってゆく
う  有為転変のこの地上と
め  明滅の果てに至る天
い  生きとし生けるものの頭上に
す  彗星が流れる
や  闇は再び木立を染めて
さ  清かなララバイの葉ずれ
し  しめやかな雨は降り続く
い  命の営みをつつみ
や  闇は優しい眠りを授ける
み  三日月の穏やかな眼差し
の  野に森に広がる静寂
ふ  深き闇のゆりかご
か  彼方の星々は
さ  去り行く夜とともに
よ  よだかの声を聞いた

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触れない

電車に揺られながら眺める思い出の街
恒星が慎ましく点々と灯され
街影が浮かび上がる
窓に映る街影と自分の記憶を重ねると
一ミリもズレていなかった

小さくなった駅のホーム
蜘蛛の巣が飾られている柱
錆びた階段の手摺
どれも時間を感じさせた

改札を抜けると冷たい風が肌を包んだ
日を見失った街は無言だった
でも何処からか懐古が漏れて来る
目で追おうとすると隠れてしまう
僕は懐古を求めて街へと駆け出した

誰も外には居ない
貸し切りだった
自分の靴音だけを鳴らして
見えない足跡を辿る

一方通行の細い坂
信号のない交差点
街灯のない裏路地
工場の塗装の匂い

静かに靴音が重なる
暗闇の中から幼い自分が僕を横切った
掴もうとするも
手の甲からすり抜けてしまう
そんな彼の進む先には
もう会うことのない影が居た

僕は彼の後を追った
しばらくして、光の届かない街角で
彼は笑顔を見せてほどけ去る
周りを見渡すとそこは
懐古が溢れ出る源
使い古した我が家だった

時は止まっていたまま
僕の身体はむしろ遡ってた
目に映る光景は
僕の心の穴に丁度はまる
抜けないほど硬くはまる

古い我が家のカーテンに
明りが滲んでいる
そうと分かると
遠くからカラスが鳴きだした
懐古はまた僕の前から消えていった

あれから、懐古は未来に逃げたまま
僕に感覚だけを残して

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歪曲王が押し当てる斜陽の焼鏝

わ  歪曲した波動が世界を包む
い  いと高き天に座すものは
き  奇跡のうちに毒を仕込んで
よ  抑揚のない救いをもたらす
く  屈折したレンブラント光線に
お  小暗き世界は切り裂かれ
う  膿が産みだす悪夢たち
が  雁字搦めのプリーストは
お  オケアノスの大洋に溺れ
し  死出の旅路の儚さと
あ  アケローンに溶け込んでゆく
て  照りつける寂光は
る  涙痕を紅く照らしあげ
し  斜に差す陽の翳りを
や  闇のなかへと導く
よ  羊皮紙に記された絶望が
う  動き出す夜の静寂
の  呪いが押す烙印は
や  焼きついた追憶
き  奇形した殉教者の
ご  ゴルゴダの丘に登る夢を
て  天の父は叶えるのだろうか

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апостол

いつかたかく うりさばくために
まやかしもまじないも あたらしいくすりもきんししてある
あたまのなかのくにには
まともなひとはひとりもいないのでした

よるのようなそらのまんなかで
かみなりのさくれつをききました
なまりいろのみなとのほとりで
まちがいをゆるされました
つかれてもつかれてもねむれないときは
ねこのけんかのこえに
なみだをひとすじだけながしました

さしせまるきれつのような
つめたいとげのあるひかりに
くびをふってみせるためのうなじをなくしながら
ゆめゆめみることのできないものを
みてくるんだよといってました
でも
しがみつくためのてあしがまるごと
かるいぶりきのつばさにかわるあさに
あなたはどれだけ
よまれることのないてがみを
だれかにたべられないようにかかえていたのですか

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醒めたい

最近世界がおかしいように感じます。


大学の講義中に息が苦しくなって、他の人の声が聞こえなくなりました。読めるようになったハングルが、平仮名が、漢字が、文字が読めなくなります。
なんだかおかしいと思って、教室を出て医務室に電話をかけてみます。気付いたら私は車椅子に乗っていて、キャンパスのそこらじゅうにいる人からの視線を浴びながら医務室まで運ばれていました。恥ずかしかったです。


この世界が映画の中のようにも感じます。夢なのか現実なのかなんだかよく分からない空間にいつの間にか私はいるのです。日中は外に出た方がいいと思って、散歩をしています。ですが気が付いたら世界にフィルムがかけられ、平面的に感じるようになるのです。私はロボットのように、生ける屍のようにコントロールができなくなってしまいます。

そうしているとなんだか心がどんどん塞がってしまって、憂鬱な気分になるのです。こうなってしまった時、なぜかどうしても辛くなってしまって腕を切ってします。良くないことだと思います。


気が付いたら友人から連絡がきていました。私から連絡したらしいです。覚えがありません。私ではない誰かが勝手に連絡をしたのです。携帯電話は一日中私の手の中にあります。
では、一体誰が?
そういえば時間の進みが早かったり遅かったりしますね。最近世界はおかしいので、こういうことがあっても不思議ではないのかもしれません。


聞くところによると、誰かが勝手に私の体にログインしているらしいです。どこからパスワードが漏れてしまったのでしょうか。私の脳の履歴にないことが、現実にはあります。誰が私の脳みそを食べてしまったのでしょうか。大分面白くないイタズラをしますね。その人は、ふわふわしてるらしいです。


体と心が麻痺してしまっているのでしょうか。心は何回も死ねるのに、体は一向に死んでくれません。おかしいのは世界ではなく私だったのです。
もう、赦してください。たすけて!たすけて!たすけて!誰かたすけて!



その誰かって、誰だと思いますか?
助けてと言っても、他人が助けてくれても結局その人が居なくなれば終わりなのです。自分のことをちゃんと救えるのは自分だけなのです。他人は自分の人生の責任を取ってくれません。これは私の人生です。私の傍にいてくれるのは、私だけなのです。


私は息が上手くできないし、心臓の音もうるさいし、何回も映画の世界にトリップしてしまうし、おまけに脳みそを食べられている。こんな私が私の傍にいてあげられるのでしょうか。私のことを救えるのは私だけ。私は私のことを認められません。助けてください。助けてください。助けてください。どうやったら助かりますか?どうしたらこのモヤモヤは消えてくれますか?はやくこの世界の悪意から逃げたいです。助けてください。助けてください。助けて、助けて。

こういうとき、腕を切ります。

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批評・論考

『あわいに咲くもの』 外伝 第十五話「鳥居の外の静謐」

―姪浜伊都―

一週間前:
「ねえおとちゃん、今度の取材、アシスタントを頼めないかしら?
 来週の三泊四日、隣県の山中の集落で、神事の取材。ちょっと頼んでいた人が急な事情でできなくてなってしまって…おとちゃんもお仕事があるし無理言っているのは承知の上でなんだけど…」

「え、来週ですか?わたしまるまるお休みですよ。先月土日にいろいろお仕事出ていたので纏めて振り返で、全然問題無いです〜」

「えっと、じゃあお願い出来るかな?バイト代は出るからね」

「お姉様と一緒の三泊四日で、お賃金ももらったら悪いですよぅ〜」

「いやいや、クライアントから取材費が出るから、ちゃんともらってね」

一日目:
 能古の運転するわたしの軽四駆は、都市高速からジャンクションを経て自動車道に移り、二時間ほど走った所で国道に降りた。そして一路山間の目的地へと向かう。秋の斜陽に照らされた山間を、少々うるさいエンジン音を響かせ、それでも窓の外を流れる景色は日没前の濃い青とそのエンジン音を吸い込みながら、山脈の輪郭を深い影で縁取っている。
 わたしは助手席で、集落の資料のコピーと、わたしが古書店で見つけたその集落の神事の記録の一部に改めて視線を落としながら、その古紙の微かな香りと、能古の横顔を交互に感じていた。

 集落の細い道を進んで明日の取材先を確認する。

 公民館、小学校、元町役場、そして神社。 一通り場所を確認出来たので、今日はそのまま少し離れた隣の街の宿泊場所に向かう。

「ねえ、お姉さま。あの集落、本当に時間が異なる感じですね」
 能古の声が、夕暮れの静寂によく響く。

「そうね。秘められた神事が途切れずに流れているの。その肌理(きめ)を知りたくて、たまたま見つけた記録を元に、取材の話が進んで今回来たのよ」

 今回のわたしの関心は、常に目に見えない継続性、個人の生を遥かに超えた秩序と秩序のあわいにあった。

 集落から離れ小さな温泉街。選んだ宿は、広縁の先に手入れされた庭があるが、もともとは湯治宿で、建物のつくり自体は比較的簡易な感じだ。共用の炊事場等もあり、かつては長逗留の療養者が多かったのだろう。
 深まる闇の中、湯上がりの熱気が薄れていく頃、わたしは能古の濡れた髪を拭きながら、明日の取材先の事を考えていた。

「おとちゃんが運転手だと助かるわ。これでわたしも、あの集落に心置きなく溶け込めると思うの」

「お姉さまの言葉になるための道具にわたしがなれるなら、なんでもしちゃいますよ?」

 能古の言葉はいつも、わたしの少しの冷ややかさを包み込んでくれる。

 その夜の虫の音は、わたしの城の山中よりも深く、秋の乾いた旋律を奏でている。明日の取材に備えて、今晩は早めに休む事にしよう。
 能古の穏やかな寝息の隣で、この地の静謐な肌理を虫の音に感じながら、手帳の余白を眺めていた。

二日目:地衣類の肌理と共感の深度
 宿を出て車で集落に向かう。今日は宮司と集落の氏子代表から話を伺う事になっている。明日の神事の準備は概ね終わっているそうで、比較的ゆっくりした雰囲気の中、わたしたちは数世紀続く神事の口伝を聞いた。その形式は厳格で、知的好奇心を強く刺激する。

 また、わたしが古書店で見つけた古い資料を見せて話を伺う。どうやら随分昔にこの集落を離れた人がつけていたものらしい事がわかる。神事の一部が書いてあるが、今のここには無い内容もある事がわかった。

 能古は、わたしが取材し、思考をめぐらす沈黙の瞬間にも、その場の空気や情景を、写真に収め、あるいは自身のノートにも克明に記していた。

 古い社の石段を上る。苔むした石段は、その一歩一歩が過去の時間の重みを伝える。能古は、石の表面に張り付く地衣類(ちいるい)の微細な美しさに目を留めた。

「地衣類って、石段という無機物と、植物の有機物の間に有るみたいですね。風と水と光を、ただ静かに受けているのに、何百年もそこに形を刻んで…」

「…おとちゃん、いい言葉ね。わたしの探しているものは、神事の形もだけど、そういう目に見えない静謐な、時間や物質の境界で、存在する痕跡なのかもしれないわね…」

 午後は元はこの集落を含む町役場、今はまちづくりセンターと名前を変えたそこの役人の方と一緒に、小学校の資料室や公民館での神事の準備等を取材して回った。

 能古の視点は、時にわたしの抽象的な思考を、具体的な物質や生命に結びつけてくれる。わたしのまだ言葉にならない感覚を、まっすぐで純粋な言葉にしてくれると感じる。彼女の共感の深度に、わたしは心を開いているのだろう。

 予定の取材を終え、明日の神事、集落の者以外にはほぼ秘匿なものだったそれをいよいよ見ることが出来る事に心が躍る。わたしが見つけた古い記録がわたしとこの土地を繋いでくれたのだ。

三日目:波打つ躰と鳥居の余白
 朝、予期せぬ声がわたしの心に震えた。布団の中で能古が身を丸めている。その顔は蒼白で、額には微かな汗。

「ごめんなさい、お姉さま。わたし、今日は少し…躰の調子が悪いみたいで…」

 わたしはすぐに彼女の生理的な不調を察した。しかし、今日の午前中に行われる、神事の最も秘匿された物を目にする機会は、二度と得られないかもしれない。
 わたしの視線は能古へ向かい、そして愛おしい、ついていたい気持ちが湧きあがる。が、わたしはプロとしての当然の選択を行った。

「そう。無理はしないこと。あなたは宿で休んでいて。わたしは必ずうまくやって戻る。だから心配は要らない。帰ったら、おとちゃんの分の光景も全部、言葉にして、あなたの肌に綴ってあげる、ね」

 宿の人に能古の体調不良を伝え、今日は部屋で休ませている事、そして昼食を何か出来ないかを聞いてみる。

すると、年配の調理員が出てきて
「賄用の食材でよければ、地元の野菜を入れたおかゆがいいかな?
昔の湯治客がよく食べていたさ、体を休めるのにいいってね」

とありがたい返事が帰って来た。

 能古は痛みと申し訳なさそうな表情を隠さず、布団の中からわたしを見送った。 

 夕方、すべての取材を終え、心身ともに疲労して宿に戻る。能古は広縁で、午後の陽の最後の光を浴びながら、静かに本を読んでいた。痛みが引いたのだろう。

「おとちゃん、もう大丈夫? 外風呂の予定はキャンセルね。今夜は早く休みましょう」

「ごめんなさい、お姉さま。わたしのせいで、せっかくの温泉も」

「いいのよ。この不在の時間も、あなたにとって、そしてわたしたちの関係にとって、きっと意味があるのよ。ね」

 わたしは、能古が静かに過ごしたであろうその余白は、何かの祈りの時間だったのではと思った。

 その夜、並んだ布団の上でわたしは、能古の隣に横たわる。そして、やはり少し沈んだ顔の能古の頭を、何も言わずに、ただ優しく、撫で続けた。

 彼女の髪に、森の薫りを微かに感じた。

四日目:肌に残る影と最後の一行
 帰りの車中。わたしは助手席に座る能古の横顔に、昨日の午後の沈黙の痕跡を読み取っていた。

「おとちゃん、昨日、午後から宿を抜け出したでしょう」

「えっ、どうしてわかったんですか?」

 わたしは軽く微笑む。能古の純粋な心が、わたしには手に取るようにわかる。

「あなたの髪に、宿の前にあった、小さな社の鎮守の森の、少し乾いた木の香りを感じたからかな……鳥居はくぐらずに、木の下にずっといたんじゃ無いのかなってね…」

 能古は、目を見開き、そして静かに頷いた。

「おとちゃんの、ね、静謐な祈りは、ちゃんとわたしに届いたわ。ありがとうね。今回の原稿には、見えない境界線のことを、きっと深く書けるでしょうね」

 能古の顔に、再び光が戻る。彼女の不調と沈黙の祈りが、わたしの言葉となるその事実に、わたしは能古への想いと、言葉にならない深い感謝を覚えた。

「あのね、お姉さま。帰ったら、わたしに、今日の取材の最後の一行を、そっと綴ってくださいませんか?」

 能古の言葉は、いつもわたしの内面を刺激し、創作への泉を湧きあがらせる。わたしは頷き、カーブでハンドルを切るたびに、窓の外の風景に遠い光が揺らめくのを眺める。その光は、能古が鳥居の外で一人眺めたであろう、同じ様にわたしの目を通して、深く残るのだった。

――了――


あら、お姉様これって、いつの間にわたしの手帳に……
「――鳥居の外に沈む祈りは、言葉にならずとも泉を湧かす――」

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魔導機巧のマインテナ 短編:sceneⅡ


 彼女はそのまま、何処までも青く澄み渡った空を、それこそ切り裂くように飛翔していく。推進力として放出された魔力が光の粒となって尾を引き、空に軌跡を描いている。
 気が付けば、町や飛行船の発着場は遠く離れて既に見えなくなりつつあり、代わりに眼下には、森や街道、草原、丘陵と言った、人の領域と自然の領域の境界線が混ざり合った景色が広がり始めている。よく見ると、そこを行き交う馬車や動物たちの群れも見える。時たま、道行く人々と魔物とが小競り合いをする様子が見えることもあった。

 だが、マリーヴァはそれを目で追う事はするものの、特に手助けに入ることはない。

 これは、別に彼女が冷血だからと言うことではなく。
 旅と言うものには危険が付き物であり、その道中で発生した小競り合いに責任を負うのは当の本人であるという考え方が、この世界では一般的だからだ。
 もちろん相手から助けを求められれば、或いはマリーヴァ本人が助けるべきと考えれば、その自己責任によって手助けをすることもある。ただ、この時の彼女は、別に彼らの手助けをしなくても問題はないと判断した、ただそれだけのことだった。

 マリーヴァは、それら全ての出来事を過去と流しながら、鳥のように飛翔して自身の工房のある方角を目指していく。彼女の眼下に見えている景色もまた変化を続け、それらは、彼女の空の旅の終わりが近い事を示していた。

「『風の衣を脱ぎ、また風の抱擁を受けて鳥より人に戻る』」

 すかさず着地の用意を始めるマリーヴァ。
 早口による呪文の詠唱が終わった直後から、耳元に響いていた風を切る音は徐々に弱くなり、推進力として機能していた魔力の流れは、今度はその体を受け止めるためのクッションとして彼女の周囲を包み込んでいく。

「『受け止めよ、風よ』」

 そのまま工房近くの丘に狙いを定めて速度を緩めていき、呪文の締めの段を口にしつつふわりと地面に着地した彼女は、最後に、自分の身体を包み込んでいた魔力を霧散させた。

「よいしょっと……。さて」

 魔法の効果が完全に終了したことを確認したマリーヴァは、自身の鞄と買い込んだ食料とを抱え直してから、工房へと続く道を歩いていく。
 そうして工房の前にまで到着した彼女は、ふと、出入り口付近に小さな編み籠が置かれているのを見つけ、ふっと笑みを浮かべた。

「あー。“カゴ爺”、ちょうど来てたんだね。今度、御礼しに行かないとね」

 彼女はそう言うと、置いてある編み籠を拾い上げて他の荷物と同様に抱え、そのまま工房の中へと入っていく。

 なお「カゴ爺」と言うのは、近隣の川近くにある集落に居を構えている保存食職人の老人のことで、川での置き籠漁を得意としていることが、その名の由来となっている。
 マリーヴァとは、依頼で彼女が集落の魔導機巧の修理に赴いた際に知り合ってからの付き合いで、その魔導機巧の面倒を彼女が継続的に見てくれている礼として、今回のように、不定期で自作の保存食を届けてくれるようになったのである。

 そうして、籠を拾い上げ、工房の中に戻ったマリーヴァは、所定の場所に買い込んだ食料や「カゴ爺」からの保存食を収納した後、すぐに工房の作業場へと向かい、供給機の修理作業の準備に入った。
 とはいえ、必要な工具は先の時計の修理の際に揃えたもので事足り、部品作成に使う材料も、きちんと箱に仕分けされた状態で机の近くに置いたままにしてあったので、ほぼ即座にと言っても良いスピード感で、状況が整っていく。

「さあ、やるか!」

 それら整った道具たちの前で、彼女は気勢を盛り立てる声を上げる。

「『我が周りに、暗がり退ける灯をもたらせ』!」

 同時に、彼女は早口で呪文を詠唱。周囲に飾っている魔力ランプへと自身の魔力を伝播。一斉にそれらへと火を点けた。窓から入る光の量が減っていたこともあり、一気に部屋が明るくなっていく。
 その結果に満足そうに頷いた彼女は、早速作業へと入った。

「えー、不足分の部品は魔力伝導用のコード二本分、と……」

 事前に、メモ帳に記述しておいた内容を確認しつつ改めて言葉にしながら、マリーヴァは、机の横に並べた箱から必要な物を必要なだけ取り出していく。

 金属のような光沢を放つ小石くらいの大きさの鉱石が複数個載せられたトレー。鈍い光沢を持つ革とも紙とも違う複数種類の生地と、それらを必要分だけ裁断するための鋏が二本載せられたトレー。ラベルに「接着用溶液」と書かれた薬液が一瓶と、「魔鉱石用溶剤」と書かれた薬液が一瓶。更に、それらを塗ったり広げたりするために使う刷毛が二本載せられたトレーが、机上に並べられていく。
 よく見ると、瓶のラベルには中身の名前以外にも、赤字で「火属性魔鉱石との併用は厳禁」と言う書き込みがされていた。

「まずはコードの線を作らないとね」

 そう言うとマリーヴァは、それら机上に並べられた道具類の中から、まずは鉱石と薬液の瓶とを取り上げて、部屋の壁際に設置されている加工作業機械型の魔導機巧が置かれてある所へと向かうと、機械の挿入口に、それぞれの材料を投入していった。

「加工の度合いと、成形の形状と……」

 工程を口頭で確認しつつ、機械のスイッチをオンへと切り替える。
 その後に、内容物をどのように加工するかの指示を与える操作を行ってから、最後に動作開始のボタンを押した。
 直後、“グオォン”と言う低い音と共に機械の『霊核(※コア)』が動作を開始。魔力の気配が立ち昇ると同時に、投入した材料の加工作業がどの程度進んでいるかを伝えるための、各種伝達用ランプが点灯した。
 それら全てを確認したマリーヴァは二度ほど頷くと、再び作業台の前へと戻った。

(鉱石が導体線になるまでには、それなりに掛かるから、その間に導体の被覆用カバーを作っておこうかな)

 次に彼女は、机の上に置かれている複数種類の鈍い光沢を持つ生地と、専用の裁ち鋏を取り上げ、生地を必要な大きさにカットしていく。それらは裁断が終わりしだい用途に応じて一纏めにされ、机横に置かれた小卓へと次々に置かれていった。
 そうして手際よく作業は進み、しばらく経った後。
 機械から、加工作業終了を告げるビープ音が鳴り響き、使用された魔力が、排気前に一時的に貯蔵されるタンクへと移される音が聞こえた。

「終わったね。そんじゃあ、本格的にコード作りを始めますか」

 その音を耳にしたマリーヴァは、すぐさま部屋の窓を開けると、機械周辺に設置してあるカーテンヴェールを引いて機械本体の周囲を囲い、置かれている空間から隔離するようにする。彼女は、そのまま近くの換気用装置に向かいスイッチを入れる。魔力の充填音と共にファンが回り始め、部屋の中の換気が始まった。
 次いで彼女は、自身の体を保護するための専用の作業服と装備に着替え、万全と言える態勢を整えてから、加工機械へと臨む。

「防護用マスク、良し。保護用ゴーグル、良し。作業グローブ、良し……」

 そうして装備の安全確認を終えたマリーヴァは、しかし、手を伸ばしたのは加工物の取り出し口ではなくて、機械の横側に取り付けられているレバーだった。その可動部の根元には、「魔力解放用レバー」と彫刻された金属板が埋め込まれている。

「よっ……いしょっ!」

 グッと握ってから、彼女がそれに力を加えると、「ガコン」と言う音と共にレバーが倒れた。その直後。蒸気が抜けるような音と共に機械の後方から光の粒子が噴き出した。
 一瞬だけ、彼女の髪先が透き通った青色に染まり、強く発光する。
 ただ、今度は換気用装置で光の粒子が急速に排出されたからか、先の魔力供給機を起動した時とは違って、髪の発光自体は直ぐに治まった。

「換気、よし。最終安全確認、よし」

 それを見届け、問題なしと判断したマリーヴァは、「ガコン」と言う音と共にレバーを元に戻すと、ようやっと加工物の取り出し口を守っているカバーへと手を伸ばした。それを取り外すと、取り出し口に付属している覗き窓から、内部の状態を確かめていく。

「うん。よく出来てる」

 そこから確認できた加工物、専用のトレーの上に載った細いワイヤー状の物体を見て、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。そして、それをトレーごと取り出し、加工機械近くに置かれた作業台へと移すと、最初の机の前へと戻っていった。

(あれの冷却とカーテン向こうの換気をしているうちに、今度は伝導線を包む生地を加工しないとね)

 専用の作業服と装備を外したマリーヴァは、休む間もなく次の作業へと取り掛かっていく。
 先程、用途別に分けて裁断した生地たちをそれぞれに取り出し、表面に接着用溶液を刷毛で塗り広げてから、ピタリと合わせて折り重ねていく。
 その動きを何度も何度も繰り返して、ただの生地や導線を、次々に「部品」へと仕立て上げていく。

 そうして、何回かそれを繰り返し、一つ目のケーブル状部品の仕上げをしていくうちに、彼女の残り半日は消費されていった。

 そこから、暮れて、夜更けて、また翌日。
 最初と同様の作業内容が繰り返され、次々と、何本ものケーブル状部品が出来上がっていく。その手際には、マリーヴァの素材に対する知識の理解度と、作業に対する習熟の度合いとが、はっきりと見て取れた。
 そんな具合に二日目、三日目、四日目もまた何事もなく経過し、旅支度や集落への挨拶、飛行船の定期便に乗船するための予約と貨物積み込みの許可取りも含めて、必要と思われる準備が次々と完了していった。なお、集落に挨拶に赴いた際には、『カゴ爺』を始めとした集落の老人たちとの雑談や、具体的な事情の説明に追われたことは、言うまでもない。

 そして更に時間が経ち、五日目。

「旅支度、良し。預かっている依頼物への梱包と飛行船積み込み許可証の貼り付け、良し。その他の部品や小物などの荷物、良し」

 朝早くに起床し、軽い運動と朝食を終えたマリーヴァは、早速出発前の最終確認を行っていた。携行するべき荷物を一つずつ指差しでチェックし、内容物をリストアップしておいたメモ帳に印を書き込んでいく。
 それら全てにチェックを入れた後。彼女は腰に付けている小物入れの中から小さなブリキ缶を取り出して、にこりと笑みを浮かべる。揺らすように動かすと、中でカラコロと何かが複数個ほど転がる音が聴こえる。

「ふっふっふ……」

 彼女は、そのブリキ缶の蓋を取り、傾け、開いた口に手を差し出すようにする。すると、中からコロンと一粒、桃色の小球体が手の中に落ちた。よく見ると、それは球形に成形された飴だった。

「ん……。特別栄養補給品、良し」

 そのまま、その飴玉をポイと口の中に放り込んでからブリキ缶を鞄にしまうと、まるでそれが合図だとでも言うように、全ての荷物を持って外へと出掛けて行った。

 外へと出た彼女は、上空から降り注ぐ陽の光や、少々肌寒さを感じる空気を全身で浴びつつ、建物の戸締りをし、そのうえで空を見上げた。
 程なくして彼女の足元に風が巻き始め、空気が優しく噴き上がり、その体がわずかに押し上げられる。

「『翼を得て風を纏い、鳥となり、空を舞う』」

 そして、その言葉が発せられると同時に、マリーヴァは、空へと誘われるようにしてゆっくりと浮遊、飛翔していった。その際の様子は、魔力の粒子がが翼のように広がって、水鳥が舞い上がるようにも見え、一種の優美さすらも感じさせるものだった。

「『風に乗り、突風に舞い、只人から渡り鳥となる』」

 しかし、マリーヴァがこの言葉を発した瞬間。状態が一変。
 彼女の纏う風の層が一気に厚くなったかと思うと、その足元に集束するようにして空気が移動していく。
 そして、完全に移動が終わった瞬間、「キィンッ」と言う甲高い破裂音を轟かせて空気の層が炸裂。彼女の体を急激に加速した。その影響で、先程までのゆっくりとした飛行が嘘のような高速度に到達。一瞬で、その場から姿を消してしまった。

 それは、魔法を扱う者の間では『渡り鳥の理』と言う名で呼ばれており、遠距離への移動の際に、その道のりに掛かる時間を短縮する用途で用いる、風属性の上級魔法であった。そして、使い慣れれば便利だが、それを使用した後で発生する効果の難解さから、術の制御が難しいことで有名な魔法でもあった。
 ただ、マリーヴァはそれを自由に、自在に扱って見せ、青空の中を軽快に飛翔していく。

 人間の、通常の移動では有り得ない程の速度で風景が後方へと流れ、空を行く鳥たちも、彼女の気配を察知するや否や、その危険性を瞬時に悟って道を譲っていく。

(良いね。実に。鳥たち、いや、或いは飛竜たちは、こんな気持ちなんだろうか)

 そのような事を考えつつ、彼女は空を征く快感に身を委ねていた。
 だが、やはりそこは高速で移動する魔法。あっさりと、はるか遠くに見えていたはずの離発着場の付近にまで到達してしまった。

(とはいえ。制御が難しいのと、すぐに目的地に到着して感覚を長く味わえないのが、欠点と言えば欠点だね)

 彼女は胸中でそう独り言ち、心の底から残念そうな苦笑を浮かべた。
 とは言え、現在進行中の魔法の行使と制御は待ってはくれないので、すぐに切り替えて着地の態勢に入る。

「『翼を閉じ、我は渡り鳥から水鳥へ。そして我は鳥から人へと戻り……』」

 魔法の作用によって発生した加速を、同じく魔法の作用を重ねることで、自身の周囲を守るように展開していた空気の層を自分の前方に移動。その空気の多層構造で自分の身体を包み込み、可能な限りの減速を実行していく。
 やたらに複雑な工程に思えるが、そうした減速作業をしなければ、マリーヴァを加速させていた魔法が解除された瞬間、彼女を包んでいた空気が勢いよく拡散してしまい、周辺に破壊をもたらしてしまう危険があるためで、この魔法の制御が難しいと言われる所以でもあった。

 そして。

「『羽毛のごとく、柔らかな足取りにて、我は地に降り立つ』」

 そのように面倒な魔力操作をクリアした彼女は、ふわりと、優雅な着地を決めて見せたのである。
 そうして無事に目的地付近に到着した彼女は、持ってきている荷物の状態を軽く確認してから現地へと向かった。
 見ると、離発着場への出入り口には、「国立の運用施設」である事を示す国の象徴紋『猛禽類の翼を持つ獅子』が刻まれたプレートが飾られている。

「お早う御座います」
「あ、お早う御座います。マリーヴァさん。今回もお仕事で?」
「ええ。ちょっとハシオンの町まで」
「遠出ですね。どうか、お気を付けて。良い一日を!」
「はい。有難う御座います。貴方も良い一日を」

 歩き着いたマリーヴァは、門衛を担当している魔法使いと挨拶がてらの会話を軽く交してから敷地内へと入っていく。
 そのまま、既に飛行の準備を開始している二隻の飛行船を横目にしながら、受付窓口のある建物へと向かう。

「次のハシオン行きの便に乗船予定のお客様は、こちらの窓口で乗船券の確認を行っておりますので、急ぎお越しくださーい! 割り増し料金での輸送となりますが、当日乗船券の購入も隣の窓口で行えますよー!」
「持ち込み品の検査はこちらでーす! 貨物の積み込み予定の方は、こちらで担当職員からの検査を受けてくださーい! 受ける方は、乗船券の確認も同時に行えますので準備しておいてくださーい」
「次の便の護衛を担当する魔法使いの方は、最終確認の打ち合わせを行いますので、職員用待機室へ集合をお願いしまーす!」

 窓口付近は、大変に賑やかだった。
 乗船予定の客たちの話し声、窓口職員たちの案内する声、貨物を運び込む業者の声など、様々な音が満ちている。

「……さて、と」

 そのような喧騒の中で、そう前置きしたマリーヴァは、即座に持ち込み品の検査を行っている窓口へと向かっていく。

「お早う御座います。持ち込み品の確認をお願いしたいんですが、良いですか?」
「お早う御座います。あ、マリーヴァさん。お疲れ様です。いつも通り、こちらの荷台にお願いします」
「はい。チェックを頼みます」

 職員との挨拶もそこそこに、マリーヴァは、持ち込む予定の「依頼物の魔力供給機」、「魔力測定器」、「魔導機巧用の工具」、「その他の品々」を、次々に荷台へと置いていく。
 それらを見届けた職員は、すぐに、提出された荷物の中身が事前に申告されている物かどうかを検めるための作業に入る。

「魔導機巧用の工具と、作業用の機械類ですね。それにしても、直接に触る必要が無いので助かってますが、確認でも冷や冷やしますよ」
「魔導機巧に関わるものは、大概が高価ですからねー」
「この供給機とか、一基で、幾らするんです?」
「聞きたいですか?」
「……いえ、聞いておいてなんですが、遠慮しておきます。聞いたら怖じ気そうなので」
「そうですか? まあ、そう簡単には買い替えられないくらいの価格ではありますね。新造品はもちろんですが、かつての払下げ品であっても、値は張りますし」
「やはり、そうなんですか。それはそうですよね。うちで運用してる飛行船の動力器も国が補助金を出してくれてるらしいですし、作業員の皆さんが細心の注意を払って整備に携わっている姿も見た事がありますよ」
「そうでしょうね。加えて、大勢の方の命を預かって運航するタイプの魔導機巧ですし、慎重にもなるってものです」
「整備を担当してくださってるマインテナの方には、頭が下がりますよホント。あ、終わりました。乗船券も含めて全て確認できましたので、荷物はこのまま重要貨物として飛行船に積みますね。貨物の照合票はこちらです。お持ちください」
「有難う御座います」
「それでは良き一日を!」
「貴方も、良き一日を」

 終わりにそんな会話を交わした後で、マリーヴァはその場を後にする。
 そこからは施設内の売店で軽食を購入したり、トイレ等の用事を済ませたりしつつ、予定時刻までのヒマを潰してから、他の乗客と共に飛行船へと乗船していった。
 そうして、予定の時刻を迎えた飛行船は、魔導機巧による動力器を運転させて揚力と推進力とを得て、魔力の光の粒を伴いながら空高くへ悠々と昇っていった。

 それからしばらく、マリーヴァは、ゆったりとした空の旅を楽しむ。
 途中、航路上に飛行型の魔物の群れが接近し、護衛の魔法使い達がこれを遠ざけるために出撃すると言うトラブルこそあったが、無事に、ハシオンの町の近くにある飛行船の離発着場へと辿り着くことが出来たのだった。

 到着から程なくして、マリーヴァは、足の調子を確かめるように歩きつつ、ハシオンの町の門へと向かい、そこに詰めていた門番たちと会話を交わす。

「こんにちは。こちらへの記帳と、滞在目的をお伝えください」
「はい。私は──。」

 詰め所の窓口で、彼女は自身が街の者から依頼を請けたマインテナであることを告げ、その件で長の居る場所へと向かいたい旨を伝えると、事情を知っている門番によって、即刻、必要な手続きが行われ、そのうえで門の中へと通された。

「どうか、我らのシンボルを宜しくお願いします!」

 そう言う言葉が添えられて。

 マリーヴァは、そのまま町の雑踏を回避しつつ、長が居住していると言われた屋敷へと向かうべく街中を歩いていく。

(そうだ。一応、現場を見ておこうか)

 その途中でふとそう考えた彼女は、工事現場となって関係者以外立ち入り禁止になっている大時計塔のある広場へと立ち寄り、そこで、現場が今どのようになっているかを、下見することを思い立った。

「ふむ……」

 そうして現場に赴くと、大時計塔は、塔全体を囲うようにして足場が組まれて、防護用の布によって覆われ、その大半が隠れた状態になっている姿を見せていた。
 更に、その周辺には様々な工具や装置が置かれている、のだが、人影は、街の住民を始め、工事関連の作業員すらも誰も居らず、まさに時間が止まったままの空間が広がっていた。
 それでも、塔の時計自体は動いていたが。

(この時計塔は確か、義母の話によれば、旧帝国時代の魔法使い“歯車の”カルセスファーによって造られた物だったかな。良い感じに骨董品のはずだけど、頑丈で、時の刻みも正確で狂わない。どうやったら、こんな物が造れるのやら)

 それを見上げつつ、感嘆の溜め息を漏らしたマリーヴァは、しかし、拳を握ってむんと気合いを入れ直すと、気持ちを切り替えるようにその場を離れ、今度は真っ直ぐに屋敷へと向かっていった。
 その後、事情を伝えて屋敷の中へと入った彼女は、長である初老の紳士と会合する。

「私が、ハシオンの現町長であるガデオンです。宜しく」
「マリーヴァです。“叡智の”エルザベートの工房を預かっております。お見知りおきを」
「これは、ご丁寧に。有難う御座います。では早速──。」

 挨拶と自己紹介から始まった二人の会話は、すぐに業務に関する話へと入っていった。
 長は、事の経緯や深刻さをマリーヴァに対して伝えていく。

「──と言うわけでして、現場では突如として機能不全に陥った装置を見て、騒然となりまして」
「なるほど。それはさぞ、驚いたことでしょうね。人的被害が無かったようで何よりです。先程、下見も兼ねて現場を見てきましたが、今は、工事は完全に停止しているんですね?」
「ええ。一応、建築士の資格を持った魔法使いも居りますが、長時間の魔力行使・魔法制御など、事故を起こしてくれと言っているようなものですから……」
「そうですね。確かに魔法は便利ですが、制御するのは人間ですからね。魔導機巧は、その力を安定して利用するために作られたわけですし」
「だもので、現場の監督たちも、供給機の故障で、ほとほと困り果てていたと言う訳です。ですが、いやぁ、助かりました。かの、“叡智の”エルザベート殿に教えを受けた方が来て下さるとは。これはもう解決したも同然ですよ」
「ご期待に沿えるよう奮励努力しましょう。義母の名に恥じぬ仕事をお約束しますよ。それで、さっそく本題に入りたいのですが、宜しいですか?」
「報酬の件ですね? もちろんです。予算としては、相場の三倍までは、お支払い出来る用意があります」
「分かりました。ですが、念のため確認いたします。私が今回お預かりした旧帝国時代の魔力供給機は、それなりに年季の入った品でした。仮に、他の供給機も同程度の年式となりますと、その整備の難易度を加味して、それ相応の金額を頂くことになりますが、宜しいですか?」
「ええ、もちろんです。あれらの希少性や価値は存じております。ご安心を」
「有難う御座います。では、こちらの契約書と誓約書を良くお読みの上で、サインをお願いします」
「承知しました。これ、誰か、筆とインクをこちらに持ってきておくれ!」

 そのように業務の会話を進めたマリーヴァは、長によって名前が記載された契約書と誓約書を改めて確認し、専用の箱へと丁寧にしまいこんだ。

「これで契約は完了です。それでは作業に向かいますね。お預かりしている依頼物も届けなければなりませんので」
「分かりました。宜しくお願いします。マリーヴァ殿。工事を請け負っている業者は、商工会の建物に入っておりますので」
「有難う御座います。今日の宿を考えつつ、向かおうと思います」

 こうして、長との会合と業務の話とを無事に取り纏め終えたマリーヴァは、挨拶の言葉と握手を交し、明るい笑みを残して、工事を請け負っている人々が詰めているという建物へと向かっていくのだった。

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魔導機巧のマインテナ 短編:sceneⅢ


 長の屋敷を後にしたマリーヴァは、通りの各所に見える煉瓦造りの家並みを抜けていくと、案内看板の指示に従い、そのまま真っ直ぐに商工会の建物が集まっている区画へと向かって行く。
 その道中ですれ違った道行く人々は、活気に満ちてはいたが、そのほとんどが大時計塔の方を気にしており、その状態に対する関心が高いことが、余所者であるマリーヴァにもよく分かるほどだった。

(まあ、町の象徴が覆い隠されていたら、こうもなるか。早く何とかしてあげないとね)

 彼女は、しかし、商工会の区画へと入ると、そこで見つけたワゴンの出店で買い食いしつつ、ハシオンの近況や町での商売を取り仕切る公的組織や商工会の情報を収集していく。その後で、それらの組織の事務所が入っている施設へと向かった。

「おー……。これはまた立派な」

 そんな彼女の前に姿を現したその施設は、実用性と言うよりも権威や象徴性を重視した様式で建てられており、長の屋敷や領主の住居ほどではないにしても、通常の労働用建築物では不要な装飾が所々に施してあった。
 周辺の住居と比較すると、建材の関係で色合いの違和感こそ無いものの、雰囲気としては明らかに浮いてしまっていた。

(知ってはいたけど、旧帝国時代の伝統的な古式建築がそこかしこに。ハシオンの町自体、異邦人同士の共存の町と言う歴史があるから、こう言うこともあるか。長の屋敷は王国の伝統様式。この建物は旧帝国時代の伝統様式。力関係が見えるようで面白いねぇ……)

 感心に、少々の呆れを混ぜて、胸中に言葉を沈めていくマリーヴァ。
 しかし、彼女の今回の目的は観光ではないので、直ぐに玄関口へと向かう。途中、窓越しに中の様子を窺うと、部屋の中では制服に身を包んだ男女数人が事務作業をしているようだった。
 そこから彼女は、少しだけ周辺を見回してから商工会用のフロアへと入っていき、そのまま「外来者用受付」の表札が下げられた窓口へと向かった。

「こんにちは」

 声を掛ける。
 すると、窓口の近くで待機していた女性事務員が顔を出した。

「あら、こんにちは。魔法使いさん。当事務所に何か御用でしょうか?」
「私、大時計塔の作業に使用している重機型の、魔力供給機の修理を引き受けたマリーヴァと言う者です。その件で、担当の方に挨拶に参りました」
「ああ、貴方が例のマインテナさん。ええ、お話は伺っています。では、こちらの名簿に名前を記帳して頂いて、中へどうぞ。係りの者が案内しますので」
「分かりました」

 そこでそのような会話を交わし、所定の手続きを終えると、事務員とは違う職員による案内で、建設業務を担当している部署へと足を運んだ。そこでもまた、事務作業に従事している職員が数人ほど机についており、皆、それぞれ自分の仕事をこなしている。そして、皆一様に難しそうな表情をしていた。

「少々お待ちくださいね」

 すると、案内を担当していた職員は、そう言ってマリーヴァにその場で待機するよう伝えると、職員集団の中にいる一人の男性に近付き、声を掛ける。その男性はゆっくり立ち上がると、案内係と共にマリーヴァの所へと向かってくる。

「お待ちしていました。七日後と仰っていましたが、お早い到着で」
「?」

 その男性は、どうやらマリーヴァのことを見知っているようで、彼女の顔を見るなり、そのような事を口にする。
 マリーヴァは、一瞬だけ訝し気に目を細めるが、数秒後、すぐに彼の顔に見覚えがある事に気が付いた。

「もしかして、ですが。私の工房に来ておられたクレリカールさん、ですか?」
「あ、はい! そうです! 私、この町での建設業務の取りまとめをしております、クレリカールと申します。すみません、先日とは服装も髪型も違いますから、分かりづらかったですよね」
「なるほど。ああ、いえ。お気になさらず」

 互いに、ほぼ同時に軽く会釈をし合い、クレリカールは微笑した。

「ささ、こんなところで立ち話もなんですし、こちらへどうぞ。直ぐにお茶など用意しますので! 後はボ…私が引き継ぎますので」

 クレリカールはそう言うと、素早くマリーヴァの案内係を引継ぎ、彼女を応接室へと案内して手際よく椅子と茶とを提供すると、筆記具や書類など、商談に入る時のような事務手続きの準備を整えていった。
 それが整うまでの間、マリーヴァは椅子の上で提供された茶を楽しみつつ、事前に用意してきた仕様書と、先ほど町の長との間で取りまとめた契約書を取り出して、机の上へと並べていく。

「お待たせしました。始めましょう」

 そうして、全ての支度を終えたクレリカールとの話が始まった。
 しかし、話すべき内容はそう多くはなく、会話の中身も、既に取りまとめられた事についての確認がほとんどを占めていた。
 クレリカールからは、現場と部署との間でやり取りされた工事の話や、修理費用の支払いについての話が書類数枚の形で伝えられ、マリーヴァからは、長との間で交わされた契約書についての話や、今回の修理依頼についての注意事項が、情報として示されていった。
 そうして、開示するべき情報の交換が終わった後。

「こちらが、契約書の本体です。写しを作りますね」
「有難う御座います」
「では、始めますね」

 マリーヴァは、自分の鞄から白紙を一枚取り出すと、契約書本体の表面に手をかざして、そこに魔力を流し始める。

「『鏡合わせ、鏡合わせ。新たな素地に写し取れ』」

 次いで、そのように呪文を詠唱すると、手の表面を流れていた魔力が光となり、契約書の表面をなぞるように走ったかと思うと、白紙の方に文字が複写されていく。ただし、本体にある印章だけは上下左右が逆になるよう転写されており、それが、今複製したものが写しであることを証明していた。
 その様子を見ていたクレリカールが、感嘆の声を漏らす。

「魔法って、本当に便利ですよねぇ。私も使えるようになると良いのですが」
「修得は大変ですが、練習すれば、ある程度は出来るようになるかと。さあ、出来ましたよ。こちら、保管をお願いします」

 そう言うと、マリーヴァは出来立ての契約書の写しをクレリカールに差し出し、本体は保管用の収容器の中へと戻した。
 その際、依頼書の写しがクレリカールからマリーヴァへと手渡された。

「それで、早速で申し訳ないんですが、現場の監督さんの所に案内を頂いても?」
「ええ、承知しております。向こうにも事情は伝えていますので、問題なければ、このまま参りましょう」
「助かります」
「先に外でお待ちください。今は重機型が置かれている場所にいると思いますので、お連れします」
「分かりました。参りましょう」

 そこで会話は切り上げられ、互いに机の上に広げた書類などを手際よく片付けると、マリーヴァは外へ、クレリカールは他の職員に外出する旨を伝えるために、それぞれ向かっていった。

「……」

 先に、事務所の玄関から外に出たマリーヴァは、ふと、遠くに見える大時計塔へと目を向ける。
 今、彼女が立っている位置からはちょうど大時計塔の時計部分が綺麗に見えている。補修中の姿を晒していることを差し引いても、時を伝える役目そのものについては十分に果たしていることが、それだけでも分かった。

(私もいつか、ああ言う感じの、永く残る『ものづくり』をしてみたいもんだね。義母さんの背中に追い付くためにも)

 その偉容を見据えながら、マリーヴァは背筋を正し、手を、時計塔を掴むようにかざす。その時の彼女の瞳には、秘められた底なしの情熱を表すかのように、青い炎にも似た、激しいうねりが見えた。
 その時だった。

「お待たせしました、マリーヴァさん。それでは参りましょう!」

 彼女の背後から、諸々の伝言を終えたらしいクレリカールが明るく声を掛けた。
 その声を聴いた瞬間、彼女の瞳に宿っていた激しくうねるようにしていた青い炎は、その瞳の奥側へと沈みこむようにして鎮静化し、普通の状態へと戻っていく。

「参りましょう。宜しくお願いしますね」

 その後は、今しがた見せていた激しいうねりなど微塵も感じさせない、とても落ち着いた声をクレリカールへと向けて、業務をこなすべく、彼の案内に従って行動していく。

「これから向かうのは、大時計塔の工事に使っている重機型を始めとした、諸々の魔導機巧を駐機している場所です。仮設の事務所が建ってるんですよ」
「仮設ですか」
「ええ。作業が終わり次第、片付けやすいように」

 そのような会話を交わしつつ、クレリカールに連れられて石畳の向こう側へと向かうと、大時計塔から少し外れた位置にある空き地に辿り着く。
 そこには、重機型を始めとした、複数の工業用魔導機巧が置かれている。その何れもが、これまでに辿ってきた歴史を物語るような年季の入った物ばかりで、更に見れば、外装には環境由来の汚れや使用による傷が付いているのが分かった。
 そこに設営された、仮設住宅へと近付いていく。

「さ、こちらです。現場監督のエリキトラさんがお待ちです。失礼します! クレリカールです!」

 宣言するように声を上げたクレリカールと共に仮設住宅の中へと入ったマリーヴァは、彼の案内に従って、エリキトラと言う人物が待っているという場所へと歩いていく。
 施設の簡易オフィスには、如何にも土木工事の現場で活躍してきましたと言うような雰囲気の屈強な男女が待機しており、入ってきた二人に対して視線を送っている。

「お仕事中、失礼します。エリキトラさんのお客様ですので、すみませんが、横を通りますねー」

 その一斉に向けられた複数の視線にも怯むこと無く、二人は軽い足取りで奥へと向かっていく。そうして、とある部屋の前で立ち止まった。表札には「現場監督執務室」と書かれている。

「この扉の向こうに、エリキトラさんが居られます」
「有難う御座います。普通に入っても構いませんか?」
「ええ。問題ありません。私もいますからね」
「分かりました」

 扉の前に足ったマリーヴァは、確認のためにクレリカールと言葉を交わすと、執務室への入室許可を得られるように、マナーに従った回数、扉をノックする。
 すると。

「どうぞ。開いているよ」

 部屋の中から、低く威厳のある、そしてはっきりと女性が発したものだと分かる声が、ノックに対して返ってきた。

「では、失礼します」

 ドアを開け、中へ。
 入ると、ドアの向こうには、長身の女性が一人、起立した状態で待っていた。
 見る者に有無を言わせぬ貫禄を漂わせているその女性は、迷いなく部屋へと入室してきたマリーヴァとクレリカールの二人を真っ直ぐに見据え、そして何かを察したように、一つだけ頷いた。

「エリキトラさん、お待たせしました。この人が、例の修理依頼を引き受けて下さった、マインテナのマリーヴァさんです」
「かの魔法使い、”叡智の”エルザベートの弟子、マリーヴァ・エルザベートです。宜しくお願いします」
「ああ。アタシが、この現場を取り仕切ってるエリキトラさ。こっちこそ宜しく頼むよ。へぇ、アンタがあのエルザベートのお弟子さんかい。噂は聞いているよ。凄腕だそうじゃないか」

 エリキトラがそう言ってニカッと爽やかな笑いを見せると、マリーヴァは少しだけ恥ずかしそうに頬を掻いて。

「いえいえ、私などまだまだ未熟者で。義母の名を汚さぬよう、毎度毎度、必死に頑張っております」

 そう、謙遜して見せた。

 すると、それを見たエリキトラは笑顔から一瞬だけ驚いた表情を浮かべたかと思うと、今度は母親が自分の娘を見る時のような、いわゆる慈愛ある笑みを浮かべて、うんうんと頷いた。

「ははは。良いじゃないか。一目見て只者じゃない事は分かったからね。更に仕事に対して謙虚で向上心もあるとは。気に入ったよ」
「え? あ、その……。有難う御座います」
「まあ、とは言え、職人は仕事で語る生き物。まずは、クレリカールの坊やから依頼してもらった、件の供給機への仕事ぶりを見せて貰おうかね。モノは、その鞄の中かい?」
「あ、はい。魔力用の封印を施して、ここに。封を解けばいつでも起動できます」
「そうかい。分かった。早速、外で確認するとしよう。クレリカールの坊やも、ついてきな」

 そう言うと、エリキトラはマリーヴァと共に颯爽と部屋から出ていき、クレリカールが慌ててその後ろをついて行く。
 途中、先程の屈強な男女が待機していた簡易オフィスを通りがかった時に。

「ロジャ! 仕事だよ! ついてきな!」

 エリキトラはそう言って、簡易オフィスに居た技術担当らしいロジャと言う小柄な男性を呼んで引き連れ、工業用魔導機巧が置かれている場所へと向かった。

「直ぐに封を解きますね」

 現場に着くと、マリーヴァは鞄から供給機を取り出すと、自身が装置に施した封印を解き、起動が出来る状態へと復帰させていく。

「これでよし。では、検分をお願いします」
「ロジャ、始めておくれ」
「はい、姐さん!」

 そうして彼女が開封した魔力供給装置を、エリキトラが連れて来たロジャと言う名の技術担当の男性が、完全防備の上で検分していく。
 彼が装置の起動用のスイッチを動かすと、ブゥンと言う低く静かな音と共に装置が起動。直後に、内部の「霊核」が駆動を開始。魔力循環機構が動く際の「ゴゥン」と言う重く静かな音と共に、何の滞りもなく魔力の生成が開始された。
 その音を聞いたロジャは、「おお」と感嘆の声を上げると、うんうんと頷いて見せた。

「こりゃあ、すげぇ。応急処置の時とは明らかに音が違いますぜ。この音なら、直っていると見て間違いないかと」
「……」

 ロジャの言葉を耳に入れつつ、同時に、供給機が発している音に耳を澄ましているエリキトラ。そんな彼女も、ロジャと同様にうんうんと頷いた。

「実に安心感のある、聞き覚えのある音だねぇ。よし。次は重機型に繋いでの確認だ。むしろここからが本番さね。ロジャ!」
「はい、姐さん。すぐに支度します」

 エリキトラの命令に従い、ロジャが、供給装置から伸びる出力用のケーブルを、近場に置かれていた建築作業用の重機型へと接続。装置を安置する場所にに供給機本体をはめると、その重機型の操縦席へと乗り込んだうえで、起動した。
 その直後。

《ゴゥン、ゴゥン……!》

 と言う音と共に、重機型側の魔力燃焼機関が重低音を発して駆動系と共に起動。その後の彼の操縦にも、しっかりとした力強い反応を示して追従していった。

「おお!?」

 それらの事象に、ロジャが感嘆の声を上げる。それだけの感動が彼の中にはあった。

「動いてる! 何だこりゃあ、すっげぇパワーだ!」
「そのようだねぇ。どうだいロジャ。評価は」
「もちろん文句なしですぜ、姐さん! 非の打ちどころが一つも無くて感動しましたよ」
「そうかい、そうかい。今まで装置を処置してきたロジャが言うなら、間違いないね」

 それらを見聞きしたエリキトラは満面の笑みを浮かべ、マリーヴァの肩をポンと叩いてから大声で笑い声を上げた。

「良いだろう。アンタに任せるよマリーヴァ。是非とも力を貸しておくれ」

 こうして、彼女の仕事が本当の意味で幕を開け、全員の笑い声が響き合った。
 一頻り皆で笑いあった後。
 重機型の魔力燃焼機関の停止を確認したエリキトラは、運転席から降りてきたロジャの肩にポンと手を置くと。

「ロジャ、保管庫への案内と作業補助を任せて良いかい? アタシは、他の連中と工事の話を進めておく。修理が完了次第、作業を再開したいからね」

 そう声を掛ける。

「了解しました。任せてくださいよ」
「おう、任せたよ。そんじゃあマリーヴァ。改めて、宜しく頼む」
「はい。しっかりと直して、お届けしますので」
「はっはっは。期待しているからね」

 ロジャとマリーヴァが良い返事したことに満足そうに頷いたエリキトラは、今度はクレリカールの肩にポンと手を置くと、グッとその肩を掴む。

「んじゃ、アタシも気合を入れなきゃねぇ。ほら、クレリカールの坊やも、アタシの事務作業を手伝うんだ」
「えっ!? そんな急に! ちょっと待ってくださいよエリキトラさん。すみませんマリーヴァさん、また!」
「そう言うことでな。マリーヴァ、焦らなくていいからね。しっかりやんな! はっはっは!」

 そう言って大きく笑うと。エリキトラは踵を返し、力強い悠々とした足取りで事務所の方へと戻っていった。クレリカールもまた、エリキトラの勢いに文字通り引きずられるようにして、仮設事務所へと戻っていった。

「はは……。クレリカールの奴も、とんだ災難っスねぇ」

 その様子を見て、ロジャが苦笑し、マリーヴァは首を傾げた。

「そう言えば、彼と彼女は、どのような?」
「あー、あの二人は、孤児院の元先生と元教え子っス。俺と同様に、姐さんに拾われた感じっスね」
「なるほど。だもので、頭が上がらないと言う所ですか。ふふ、それは大変だ」
「立場上は、クレリカールの方が上司のはずなんスけどね。まあ、あいつが色々と気を遣ってくれるんで、こう言うときに仕事しやすくて助かるっスけど」
「それは良いですね。気苦労は多そうですけど」
「はは、確かに。んじゃ行きますか。案内するっスよ」
「お願いします、ロジャさん」

 そしてマリーヴァは、ロジャの先導を受けて、工業用魔導機巧の保管庫の一つへと足を運ぶ。案内されたそこは、大型の魔導機巧を補助する目的で使用する、中・小型のものを中心に保管している場所のようだった。
 その保管庫の扉を見ると、複数の機械的な構造が組み合わされた、堅牢な錠前が埋め込まれている。

(この構造は、義母が組み上げていたものとそっくり……?)
「えっと、第一扉のカギは……」

 少し昔の事に思いを馳せているマリーヴァをよそに、ロジャはその扉の前に立って、腰のポシェットから複数の鍵が付けられた鍵束を取り出し、ガチャガチャと探し始める。幾つもの鍵が、彼の指捌きに翻弄されるように動き、それぞれの材質にあった音を立てながら揺れている。
 そして、その中の一つの鍵を手に取ると、それを何度か確認して。ロジャは微笑む。

「あ、これだこれだ。すんません。厳重に保管してるもんで」
「いえいえ。こう言った道具はそう言うものですからね。私も気を遣ってますよ」
「そうっスよねぇ。どれもこれも、この町じゃあ貴重品っスから」

 互いに苦笑し合いながらも、ロジャは鍵を差し込む。直後、鍵穴から扉全体に向けて光の線が広がって、全ての機械的な構造が緻密な動きでもって扉を開放していく。

「何度見ても、これ凄い構造っスよねぇ。魔法と魔導機巧を組み合わせた複合鍵、でしたっけ?」
「そうですね。この国では、割と昔から用いられているものですが、未だにその頑丈さには定評があるみたいですよ」
「へぇ……。これ作った人、今ごろ鼻高々でしょうねぇ」
「……かも知れませんね」

 開放された扉から中へと入って、そこから更に第二扉、第三扉と開錠していき、奥へ奥へと進んでいく。
 そうして第四扉へ。

「これで最後っと……。魔法由来の鍵は、物理的な鍵とは構造が違うから厄介っスねぇ」
「それも仕方ないかと」
「ま、そうっスね。盗まれたら大変っスから。さ、開きますよ」

 そう言ってロジャは苦笑する。

 繰り返しになるが、工業用の魔導機巧は、その製造に掛かる費用の大きさ故に、用途や年式に関わらず高価な機材ばかりで、物によっては公的予算からの出費が必要なほどの高級品もあるために、その管理には慎重さを要するのである。無論、それらの修理費用も同様に。
 なお、中型及び小型の魔導機巧が安価だと言ってるわけではない。

「む……」
「うお……」

 目の前の重い扉がゆっくりと開いていき、中の空気も解放されていく。金属と、生成された魔力による独特な臭いが混ざった空気が、二人の鼻を突いた。

「すぐに換気するっス!」

 ただ、ロジャがすぐに空調装置を稼働させて、外部から新鮮な空気を供給したことにより、臭いは瞬く間に気にならない程度にまで薄まった。

「さて、と。依頼物はどこに?」
「例の故障した供給機は、正常なものと分けて、手前の方に除けてあるッス。ちょうどそこの角らへんに」
「あっちですね。有難う御座います」
「整備場は一番奥に造ってるっスから、作業場は、そこを使ってください」
「承知しました。そう言えば、補助をして下さるという事ですが……」
「あ、内装の修理作業そのものは、俺じゃよく分からない部分もあるんで、補助は、それ以外なら大丈夫っスよ」
「分かりました。それじゃあ、始めましょうか」

 互いに必要事項を確認し合い、マリーヴァは、持ってきた部品と道具とを持って、奥に設けられているという作業場へ。ロジャは、修理予定の魔力供給機を輸送用カートに乗せて、作業場の方へと一つずつ運び込んでいく。
 全てが手際よく、遂行されていく。

「ここに置いとくっスね」
「助かります」

 マリーヴァは、ロジャによって次々に運び込まれる魔力供給機を見やりつつ、必要な道具を作業机の上に並べていく。分解するために使うもの、部品の移動や組み込むために使うもの等など、多種多様な工具が、彼女の鞄から出揃っていく。

「おお、これがマインテナ御用達の修理道具っスか!」

 そのずらりと並んだ工具類を見たロジャが、目を輝かせる。
 ただ彼は、その好奇心に満ちた雰囲気とは裏腹に、机の物に手を触れるようなことは一切せず、近くから見ているだけだった。それは彼なりの、或いは同業に携わった事のある一人の職人としての、守るべきマナーだったのかもしれない。

「しかし、どれも見たことが無い物ばっかりっスねぇ……」
「まあ、これらは一般には流通していないですからね。だからほとんどは、義母から受け継いだものです。あ、職人さんから新規で購入した物もありますけど」
「こ、購入!? おいそれと買えるような値段じゃないって聞いてるっスけど……」
「これでも一応、骨董品の修繕も扱うマインテナなので、まあそれなりに……」
「はー……。やっぱり相応に儲かるんスねぇ」
「その代わり、即座に命に関わる危険も多いですが。古い物となると、たまに未知の部品もありますし、修繕用の材料を獲得する時も、場合によっては命懸けですから。あ、魔力測定器、有ります? あったら、貸して頂けると助かります」
「測定器? ああ、持参した測定器の“合わせ”っスか?」
「ええ。お願いできますか?」
「了解。直ぐに持ってくるっスよ」

 そう言って、ロジャはその場から離れて道具類が置かれている場所へと向かい、頼まれた魔力測定器を運んできた。年式としては比較的新しいもののようだ。

「ここに置いとくッス」
「有難う御座います。使わせてもらいます」

 マリーヴァは、運ばれてきた魔力測定器の横に、自分の持っている魔力測定器を置くと、その二つの機械を一本のケーブルで接続した。
 スイッチが押され、二つの測定器が起動する。計器類のメーターが一瞬大きく振れ、そして徐々に小さい振れ幅に落ち着いていった。

「これでよし。この場所の基準に合わせておかないと、周辺の魔力とか、余計なものも測定しちゃいますからね」
「あー、分かるっスよー。あれ、本当に困るんスよねー。場合によっちゃ滅茶苦茶ズレるっスから」
「それが致命的にならないとも限りませんしね」

 そう言って笑いながらも、必要な作業への準備を手際よく終えていったマリーヴァは、いよいよ魔力供給機の修理作業へと、突入していくのだった。

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内容証明

わたしもね、あなたに嫌われたいと思って、こんなことをしたわけじゃないの。
あなた、最近、おかしいなと思って。でも、言い出せなくて。言い出せないわたし自身も、悔しくて。
でもね、わたしもね、寂しかったんだよ。それだけはわかってほしいの。

わたしがあなたと一緒になったころと比べて、最近、あなた、おかしいなって思った。
これは、わたしがあなたとずっと一緒にいたから、だから、気付けたことなの。
でもね、はっきりと口にだすのって、やっぱり怖くって。

だから、あなたに気付いてほしかったの。わたしは、あなたのことを大切に思ってるよって。傷つけたかったとか、嫌なことをしたかったとか、絶対そんなんじゃない。

***

あなたがわたしを好きなよう
に、わたしもあなたが好き。
それだけなの。それだけが事
実。だから、あなた、もう、
こんなことは止めて?止めて
くれたら、わたしも、あなた
のお話をちゃんと聴くことが
できるから。でもね、いまの
あなた、怖いの。だから、話
せない。ぜんぶを話しても、
分かってくれないんだもの。
だから、話せない。やっぱり、
かわっちゃったのかな、わた
したち。もう、もとには戻れ
ないのかな。でもね、私たち
、色んなことがあったじゃな
い。そのとき、ふたりで乗り
越えてきたじゃない。それで
も、ダメなのかな。わたしじ
ゃ、だめなのかな。あなたが
わかってくれたら、きっとわ
たしたち、やり直せると思う
の。一から、うぅん、ゼロか
らやり直したいなって、この
ことがあったから、やっと思
うことができた。これって、
凄く嬉しいことだと思っちゃ
う。でもやっぱり、あなたが
変わってくれないと、わたし
、ダメかもしれない。わたし
も変わるよ?約束する。でも
ね、それだけじゃダメなの。
ふたりでやり直したいって、
本当にそうしたいなら、やっ
ぱりふたりで変わっていかな
くっちゃ。ねぇ、ごめんなさ
いしよ?

***

・僕がおかしい
・僕はおかしいって、言い出させない
・僕は悔しがらせた
・僕は寂しがらせた
・僕がおかしい
・僕は怖い
・僕は気付けていない
・僕は怖い
・僕は理解出来ない
・僕は話させない
・僕は変わった
・僕は元には戻れない
・僕はダメだ
・僕は解らない
・僕は嬉しくない
・僕は変わらない
・僕はダメだ
・僕はダメだ
・僕は変わらない
・僕はごめんなさい

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お経

お経   北岡伸之

              一

 格子の影が川面に揺れて、水もどことなく白く濁って見えた。
白澤ユウコの指は、すらりと長く、整っていて、意外にも筋肉がついていた。ダンベルか、鍵盤か、門前正行はふとそんなことを考えた。
観光客で賑わう料理屋の窓からは、浅野川の穏やかな流れが見える。泉鏡花が「女川(おんながわ)」と呼んだこの川は、兼六園下をかすめ、主計町、そしてこのひがし茶屋街へと、静かに東から西へと流れてくる。
 焼いた鮎が運ばれてきた。この時期にしては、大きく、二十センチ以上ある。顎までまるまるしており、川のものではないとは、簡単にわかった。
 ユウコは懐から和紙を取りだして、卓上に置き、背ヒレ、尻ビレ、腹ヒレと順番に指で舞うようにむしると、指さきを和紙でぬぐって、箸先を鮎の側面におさえつけるようにして、丹念にほぐした。正行は、ユウコの手に見とれてしまった。ユウコは、鮎の頭を指で持ち上げて、背中が上にくるようにして、今度は箸で鮎の背中をほぐした。そして、頭をつかみ、動かすと、白くみずみずしい骨が、身から驚くほど簡単に抜けた。
 正行は、頭から直接かじったほうが美味しいと思ったが、ユウコにならって骨を外すことにした。
(Adipos(アブラビレ)はとらなくても、いいのか・・・・・・)
そして、正行は光沢を放つ鮎の背骨をみながらユウコに話しかけた。
「以前 ユウコさんにいただいた歌集にあった、きみはわれより長く生きろ、きみのために美しい骨をのこしておく、という歌を思い出しました」
「読んでくださったのですね。そう、私はきれいな骨を残したいのです」
ユウコは目をあげて、うれしそうにほほえんだ。
 「卵をもつようになると、鮎の骨はとんがって、固くなります」
 正行の言葉に、ユウコはほほえんだまま、首をかしげた
 「秋に、父と柿田川で落ち鮎が群れになっているのを、みたことがあります。真っ黒い群れでした。あれも釣るのですか?」
 「はい、よくご存知ですね。ですが産卵時期の鮎は禁漁です。でも、産卵のピークをすぎれば、特別採捕許可が出ますので、好きな釣り人は県に許可を申請して釣ります。私はそこまではしませんが」
 正行は、ユウコの指をあらためてみた。このひとの指の骨は、手小骨たちは、きっときれいなのだろう。そして、記憶の奥深くに残っていた、手小骨の覚え方の語呂合わせ、Some Lovers Try Positionsからはじまる一節を思い出し、すぐに意味を解して再生を止めた。

 正行は、東海の過疎地の病院で内科医として働いていた。卒後十数年。独立した権限を持ち、治療方針は自分の判断で決めることができる。といっても上司も、部下もいない。あるのは、二十四時間いつ鳴るかわからない電話と、責任だけだった。異性の紹介話は時折あったが、すべて断ってきた。こんなところの勤務医でもまだ未来があると思われているのは、悪い気がしなかったが、乗っている車と年収で人間の価値を測るような東海の空気を嫌っていた。
ある日、紹介を何度も断ってきた世話好きの職場の女性が、あなたと同じように東京から戻ってきた歌人の子がいると言ってきた。しかし、あの子はいままでの人とは違い、考え方が民主的だからと言われ、一度だけ会ってみることにした。待ち合わせ場所に現れたユウコは、長い指の、眼鏡をかけた少し年下の女性だった。ぎこちない会話の後に、彼女は自作の歌集を差し出した。それは、恋愛と労働と、家父長制の影、この国の居心地の悪さが、サブカルっぽい言葉で不器用なまま詠み込まれた一冊だった。正行は、その内容にどこか惹かれた。ユウコは、ホテルの宴会場で派遣の仕事をしており、急な呼び出しがある不規則な勤務形態は、正行と似ていて、お互い時間をあわせて二人は会って話すようになった。話題に困ることはなく、過去に読んだ本や、住んだ町の話が、自然と引き出された。やがて、初夏。ユウコの提案で、金沢へ行くことになった。正行にとって、金沢は趣味の鮎の毛ばり釣りでよく訪れるところでもあって、土地勘があった。

  ユウコが鮎の骨を外した浅野川沿いの料理屋の一室。正行の電話が鳴った。正行はとっさに反応して、四角い電話本体を手にして応答した。すぐに、頭が切り替わる。緊急で、しかも高度な判断を要することだった。
 「すみません、ちょっと少し、仕事の用事ができました」
 ユウコは笑って、大丈夫、21世紀美術館にでも、まちなかを周遊するバス、兼六園のほうをまわるバスにのると、手短にいって微笑んだ。正行は手をあわせて、電話をしながら、タブレットで病院のシステムにアクセスして、状況の把握をはじめた。鈴木老人に関することだった。鈴木老人は、いつ「落ち」るかわからないのに、毎日のように妻を呼びつけては、自身のもつアパートの家賃を滞納している店子たちについて細かな進捗確認をする。コメディカルたちは、自分の命と家賃とどっちが大切なのかしらねえと裏でささやいていた。しかし正行は、妻が来るだけいいと思っていた。問題は、家賃ではない。家族が来るか来ないか。あと一月でアパートが手に入るとわかったら、たいていの家族は毎日はこない。こちらにまかせてしまう。
データを見る限り、鈴木老人は、今度は本当によくなかった。しかしまだ、ねばれる余地はある。家賃にこだわっているのだから生きる意欲もある。自分が帰るまでもたせられるかな。正行は考えあぐねた。
とりあえず、どう転んでもいいように手配はしておく。今日の当直シフトの余裕や力量までみて、ここまではまかせられる、これはまだ無理、これをやったら恨まれる。考えを組み立てた。鈴木老人が「落ちる」タイミングは、やはり自分が戻ってからになるように調整しよう。正行は、そういうことまで考えられるという点において、自分は人間にしかできない仕事をしているぞと、深く満足するのだった。
外をみる。格子は、思いの外細かった。正行は思った。浅野川にうつるこの格子は、人を閉じ込めるようにみえて、実はそうではない。格子の中で、人は媚態をつくして、アピールするのだと。浅野川にうつる格子は、タブレットのシステムのような、世の中の仕組みそのものだ。
              二
 夕方、正行はユウコと周遊バスの起点で、ターミナルのようになっている近江町市場の前でおちあった。ユウコの希望で、市場や繁華街ではなく、町の中にある居酒屋にゆく予定である。ユウコはバスの乗り継ぎを調べていて、正行を案内した。

  バスで数分移動した先の木造の二階建ての店内は、薄汚れたテーブルにパイプ椅子、まさに大衆居酒屋という雰囲気であった。コップになみなみと酒が注がれた。そして、おでん。赤巻きといわれる練り物が鮮やかだ。 ユウコはコップのふちをひょいと指でつまむと、酒を飲んだ。
 「コップ酒を飲む、金のかからない女という演出です」
 正行は笑った。
 「自分も菊姫の一番安いやつでいい男というアピールです」
 「私、もう制度に乗るしかないとおもって。胸を強調した写真をとって、手料理の写真もとって、仲人協会に登録したのです、この前」
ユウコは昼とは違って騒がしい居酒屋の中で切り出した。それに正行が軽く笑いながら応じる。
 「それでは、安い酒のアピールもいるでしょう。自分はオスみ(男らしさという若者ことば)を出すために、ごつごつした四輪駆動車を運転しているアピールでもしないとですね、あの世界で相手を探すのなら」
「そういえば、車は何ですか?」
「軽自動車です」
「軽自動車ですか?」
「失望したでしょう。浜松の人間は、乗っている車で人を値踏みする。週末のショッピングモールに残クレで手に入れたミニバンでいくのがステータスなんだ」
正行は小さく、自嘲的に笑った。ユウコは静かに応じた。
「車が、家の格なんです。昔、隣の家の車が小さくみえますというコマーシャルがあったでしょう。大きな車は無条件に優れていると思われている。うちも、そういうところありましたよ。父が軽自動車はいい男の乗るものではないといって」
正行は顔をしかめた。
「まるで後進国みたいだ。家の格って、僕ら三無しに、そんなものがあるわけないじゃないですか」
「三無って、なにですか?  お金?名誉?それとも思想?」
「無位無勲、そして無産階級です。これが三つの無」
ユウコは吹き出して、言った。
「正行さんは、もう格があるから、車で背伸びする必要もないんです。でも、たいていの人はそうではない」
正行は衝撃を受けた。そして言った。
「考えてみたこともなかった。でも、僕がそういう見栄の争いから無縁ということはないのかも。他大学の一派に対抗するため、大真面目でやってることも、ほかからみたら、ショッピングモールの駐車場で見栄をはりあってる人らと同じですね」
ユウコは、おでんの出汁を少し、コップに注いで飲んだ。正行もそれにならった。甘いだしの香りが酒のなかでふくらんで、鼻腔を満たす。やわらかな空気が流れた。
 「ユウコさん、こういうこと、自然にやられますね。ちっとも、あざとくない」
 「家の中でも、コップでお酒を飲んでいます。台所から持ってきてね。ビール用の、小さなコップで」
 正行は頭をかいた。
 「どうしても相手を観察しちゃう。相手の趣味が推し活なら、ただの嗜癖なのか、機能不全家庭の影響なのか、ちょっとした所作や言いよどみから、つい拾ってしまう。20代のころなら、そんなこと気にしないで、相手に向き合えたのに」
 「それは、仕方がないことです。これからの生活のことがかかっているのですもの。だってそうでしょう、すべてがかかってくるのです、しあわせになれるか、そうでないか」
 「すると、いつ電話がかかってくるかわからないって、減点ポイントでしょうね。少し前に、デート中に電話にでたら、仕事のほうが優先度が高いのかって、詰問されて、結局、没交渉になりましたよ」
 ユウコは、あの鮎の骨の話のときのように、首をかしげた。
 「それは、違うと思います。たとえば、仕事の仕方は、人によって違いますよね。立場や責任も違います。決められた時間に決められた仕事をしている人の基準で、他の人の仕事をはかるのは、愚かなことでしょう?」
 正行はうなずいた。
 「そのとおりだと思います。これは仕方のないことなんです。でもワーカホリックだと決めつけられますね。自分はこんな電話、そのへんのどぶ川に投げ捨てたいんですよ。職業的倫理はあります。でも、24時間それに従っているわけではない。自分が好きなのは、鮎を毛ばりで釣るような、非効率的で、非論理的で、再現性のないことなんです」
ユウコはお酒のかわりを頼んだ。そして、いう。
「金沢は、素敵です。お酒をくださいで通じますもの。浜松は、テドリガワジュンマイギンジョウ、イチゴウ、ジョウオンでください。チョコハクフタツ っていわないとならない」
 「ユウコさんはやっぱり歌人だ。浜松の息苦しさを見事に言葉で表現してしまう。名古屋のような管理社会の息苦しさと、潤いのなさを感じることがある。その正体はたしかに、文化のなさです」
 正行は、あらためてユウコをみた。かつて電話に出たことをなじった相手のことを洗い流すくらいに、ユウコは素晴らしい存在と思った。
「私の家、ものすごく民主的な家で、議論をつくして合意を形成すること、何でも言葉で説明することが求められたんです。泣くときも、どこが、どの点で、何が問題でどういうふうに感じたから泣いたと、説明を考えながら泣いて」
ユウコは、おでんの中のバイ貝を煮たものを箸でつまんで食べた。酒を口にして、そして言葉を継いだ。
 「ああ、これ苦くておいしい。高校まで静岡で、権威主義的な家を出て東京の女子大にいったときに、爆発しちゃったの。高円寺や阿佐ヶ谷に通って、サブカル的なひとたちとつるんで、恋愛もたくさんした。そして非論理的な気持ちを歌にするということに、夢中になってしまった」
 そしてユウコは、テレクラのフィールドワークで当時有名になった社会学者の名前をあげて、そのゼミにもぐっていた話をした。そして目がさめたともいった。社会だけでなく、自分の育った家庭にも、家父長制の下にあったと理解した。正行とユウコはコップ酒を重ね、さらに数品を追加で注文した。厨房からは甘いだしのかおりが漂ってくる。
「自分の逸脱は、鮎釣りですね。僕は東京の郊外の生まれなんです。多摩川にはよく鮎がのぼってね。。子どものころから、なにかつらいことがあったら、川にいったんです。川にいて、魚をみると、なにもかも忘れられた。その頃の鮎は、高嶺の花でした。釣りでも網でもとれてもつかまえられない。鮎はすばしっこくて、稲妻のように泳ぐ。その鮎が毛ばりで釣れたときの感動は、いまも忘れませんよ。思い出を、毛ばりに託して、心の奥深くに、毛ばりケースの奥にしまいこむ鮎は、鮎の毛ばり釣りは、自分のすべてです」
そして二人は、生い立ちを語りあった。お互いに、いままで言わなかったことも話しはじめた。コップ酒をいくらか飲んで、 ユウコはとろんとした目を正行にむけた。
「愛されたければ、愛すればいいじゃん?」
 ユウコは突然いった。正行はその口調があの社会学者そっくりだったので、真似をして応じた。
 「そう、本当に単純で本質的なことですね。誰かに助けてほしければ、誰かを助ければいいじゃん?」
 「私は、家でコップでお酒を飲んでいると、突然、かなしくもないのに急に泣きたくなる。誰かに愛されたいという衝動を感じて、おかしくなるんです」
 「サガンもそんな話を書いてました。ユウコさん、一つ日本の重大機密をお知らせしましょう」

              三
 正行は、ユウコに語りだした。
実は鮎はもういないのだ。初夏になると、鮎解禁のニュースが流れる。全国の川で、釣り人が鮎解禁に押しかける姿が報道される。そして、絹糸で編まれた玉網におさまるつややかな若鮎は、ユウコの歌の世界のようである。しかしそれは、人工的に育てられた鮎なのだ。冬に、稚魚を海でとって、温水の生簀でペレットをやって、太らせる。あるいは、完全に稚魚から養殖される鮎もある。そういう鮎が、春に全国の川に放たれて、それが「天然の鮎」となる。長良川の御漁場で鵜飼がとって天皇家に献上するクチバシのあとがついた鮎だって、そういう鮎だ。
金沢で、初夏の時期に、地元の伝統工芸に携わるひとたちが、加賀竿と毛ばりを使って浅野川で鮎を毛ばりで釣る様子がテレビで放映される。しかしその鮎はほとんどが天然ではない。伝統はもはや、生簀育ちの鮎なしでは成り立たない。
そして、解禁から一週間もすると、腹の白い養殖の鮎は、水面を漂うようになる。地元の釣り人がつぶやく。
「レースイでてるな」
あっという間に群れが冷水病に冒される。初期のうちは、Dorsal、背鰭のまわりや尾鰭に淡い白濁と軽度のただれが認められ、鱗の脱落も散見される程度だ。全身状態は保たれている。やがて、筋肉組織の壊死による赤いただれ、鰓の損壊による呼吸不全から、水面を苦しそうに泳ぐようになり、死に至る。みな、そのレースイの鮎は見なかったことにするのだ。そして、養殖鮎が釣りきられるころに、漁協が追加放流をする。また川に鮎と釣り人が満ちて、夏が来る。

 そこまで話して、正行はおおきくため息をついた。
「いけない、こんな暗い話をして。今風にいうと、ZAINというのかな、これは、自分が編集委員をつとめている鮎毛ばりの会の、会報です」
巻頭特集の、金沢の若い毛ばり職人の記事を正行はユウコに示した。加賀藩の武士が鍛錬のために始めた鮎毛ばり釣り。鮎毛ばりは、長さ一センチの小宇宙だ。極小針に鳥の羽根や絹糸を巻き、漆で固めた玉に金箔を貼って、頭の部分にする。さらに青貝やマムシの鱗をあしらい、水中で雅やかに光を放つ工夫もある。流れに揺れる繊細な羽根と輝きが一体となり、実用品でありながら工芸品としても洗練されている。高度経済成長のときまでは、鮎釣りといえば、この毛ばりの釣りであり、鮎毛ばりは、実用の道具として金沢、そして播州や土佐など各地の産地から全国に出荷されていたのだ。正行はユウコにいった。
「このシュッとした茶色い毛ばりは、おそめといいます。太宰治の令嬢アユにも、出てきた。令嬢、実際は遊女なのですが、その令嬢が東京から釣りにきた主人公にいうのです、これはハヤ毛ばりじゃないの、これじゃだめよ、鮎を釣るちゃんとした毛ばりには、名前があるのよ、といって、このおそめを主人公にあげるのです」
ユウコは会報を手にとって、ページを指でめくって、ある毛ばりに目をとめていった。
「この毛ばりは、美しいわ」
ユウコが目をとめたのは、おそめのような茶色でありながら、胴は黒色に金帯、尾は緑という毛ばりであった。
「それは、青ライオンといいます。非常によく釣れる毛ばりです。全国どこの川でも、これならほぼ間違いない」
「そうなの!? でもなんでライオンなのかしら?」
「それは、戦前の濱口雄幸首相のヒゲというか、容貌に似ているから、この名前になったといわれています」
「今も、ライオン宰相は効果があるんだ」
ユウコは少し驚いた顔で、自身の黒い髪を何度も触った。
「でも、今はラメの毛ばりがいいんです。だから青ライオンにも、ラメをいれて、胴体がキラキラ光るようになっています。どの毛ばりもいまはラメをいれて、鮎にアピールするようになっているんですよ」
「でも、おそめは、ラメがほとんどありませんね」
「そう、おそめは、今も天然遡上の柳の葉のようにスマートな鮎が釣れる、いい毛ばりです。令嬢のいうように、鮎はちゃんとした毛ばりじゃないと釣れない。本当に、雑な毛ばりじゃだめなんだ」
正行は話を続けた。鮎も、毛ばりもすっかり変わってしまった。もう昔の鮎はいない。でも昔の鮎は、少しは残っている。正行は、言葉を続けた。鮎毛ばりというものを、なんとしてでも残したいと。一センチ以下のミクロの世界に、ありとあらゆる世界の色と意匠を詰め込んだ毛ばり、江戸時代から伝えられて、何千種とある。この文化を、この遊びを、なんとか後世に残したいと。
「金沢も、外国人の観光客ばっかりでしょう。欧米系より、アジア系のほうがおおい。日本人が、発展途上国だと、自分たちより下だと思っているアジアの国からたくさん観光客がきます。もう、日本人は気軽に海外旅行なんかできない」
ユウコが小さく頷く。
「海外の観光客は、みんな近江町市場でひとつ千円の牡蠣や雲丹をいくつも頼んで食べあるきをしてた。わたしたちの百円くらいの感覚なのでしょうね」
「でしょう。もう養殖の鮎を川に放すことも、じきにできなくなります。でもね、まだ海からのぼる天然の鮎が、僅かですがいます。その鮎を、おそめのような毛ばりで釣ることができたのなら、未来の日本人が、おそめで、インフラが崩壊した未来の日本で、天然の鮎を釣ることができたのなら」
ユウコは歌人の感性で、正行の言葉に応じた。
「ダムも、橋も、全部崩れた川にのぼる小さな鮎の姿を想像しますが。つまり、こういうことですね。あなたが鮎を釣る理由は、後昆にその栄光を傳えんとするからに、他ならず」
ふたりは、目をあわせて、しばらく沈黙した。そして、ユウコが口をひらいた。
「たしかに、私は、制度に乗るしかないと腹をくくった。胸を強調したプロフィール写真をとった。だけど、ミールキットは使いません。鋼の包丁で食材を刻み、出汁をひいて、常備菜をつくって冷蔵庫にいれておきます。出来合いのものは使わないで、食洗機では洗えない漆器に盛り付けます。食卓には四季の花を飾ります。生活を美しくするために。そして、まだ見ぬ相手の家の味もしっかりおぼえて、その家の、お雑煮の味を、汁の味を、煮物の味を伝えていきます」
ユウコの覚悟に、正行は息を飲んだ。それは、彼女の思想にとっては、許されないことではないのか。
「そこまで、覚悟されているのか。しかし、あなたのまわりの人は、あなたは行き詰まって敗北したのだと、心無いことをいうのではありませんか?」
「言いたい人には言わせておけばよいのです。でも実際には、負けたのかもしれない」
「あなたは、制度に殉じる覚悟がある。そして歌をやめようとしない。それは、とても、誠実な向き合い方だと思います。自分は、家族に懐疑的なんです。あれは近代国家が再生産のために作ったものだ。海外で、共同体のようなものの中で暮らしていたことがある。みんなでみんなの子を育てた。けれど、共同体はゆるやかに崩壊していった。結局、人間は制度にまもられないとだめなんだ。いまも、支配や所有をしない共同体の可能性を信じていますけれどね」
はじめて正行が語った過去に、ユウコは少し驚いた顔をして、しばらく考えあぐねた後で、言った。
「私は、まるまると肥えた、お腹の真っ白な養殖の鮎なのかもしれない。うんと電気を消費して、外国から輸入した餌と薬で育てられて、鮎釣りがまだ商業的になりたつから、お金をかけてつくられている鮎なのかもしれない。その鮎は近い未来に滅びる運命なのです。日本の没落とともに」
「だからあなたは、きみは挽歌をよんでくれ、私は骨を残すと」
「挽歌ではなく、罵声かもしれないけれど。私は、高望みのこどおば非正規ですもん。稼ぐこともできない。運転免許もない。モンスターおばさん仲人協会にいたぞってネットで叩かれるタイプです」
自嘲的に手を振るユウコに、正行はいった。
「人間は経済動物じゃありません。なんで市場のスペックや生産性で叩かれないとならないのだろう。そう叩くひとは、あなたの美しい決意の何も、知らないではないですか。日々を美しく生きることこそ、人間の生きる道ですよ。市場の理屈と管理教育と味の素に脳を焼かれた報徳奴隷の言うことは、無視すればいいんだ」
  
                                                   四

  正行は、ユウコに声をかけた。
「河岸をかえませんか、武蔵が辻でちょっと、すしでもつまみましょう」
「ええ」
近江町市場の向かいにある一角、武蔵が辻の裏通りに、木造の町家風の建物に、店名もなにも書いていない帆布のような暖簾が小さく出ている。正行とユウコは入っていった。
五人もすわればいっぱいのカウンターの上には、漆黒のつけ台があり、その奥に種のつったガラスケースが置かれている。客層はきわめて多種多様で、二人の座ったとなりには、黒ずくめのバンドマンという容貌の若者、そして奥の座敷には、観光客とおぼしき夫婦がいた。
「ここは、近江町市場の観光客向けの店より、ずっと安いんです。何でも、好きなものを」
正行はユウコにそういうと、鯵を頼んだ。大将はガラスケースの中から、小ぶりの鯵を出して、二枚におろしたあとで、半身をさっと酢にくぐらせて、薬味を内側に隠すように握った。ユウコは、地物のカレイを頼んだ。大将は感心したような表情を一瞬浮かべて、ガラスケースの中から、白く透き通り、血合いがピンク色の柵をとりだして、カレイを握った。そして、二人に告げた。
「今日はね、能登のマグロありますよ。定置網にかかった180キロのものが市場に出た」 
大将が目を細める。 
「年に一回あるかないかですよ、金沢でマグロが食べられるのは。 東京の人は年中全世界から取り寄せているけれど、こっちじゃ、能登沖で、マグロがちょうど初夏のこの時期にだけ回遊してきたものがあがるので、ああ、じゃあたまには食べようかってもんです」
 正行は、ふっと笑った。 
「それがたまらないですね。鮎解禁の時期にかぶるのもいい」 
ユウコが目を見開いた。
 「え?いつもはマグロ食べないの? まだ、こんな場所が、日本にあったんですね」
そう言ったユウコは、正行にとって、 どこかで自分が諦めかけていた「美しさ」が、 目の前に突然、戻ってきたような驚きだった。 正行は、ユウコの横顔を見て、 ああ、この人と一緒ならば、制度の中に沈みたいと心の底から願った。ユウコがいれば、見栄のはりあいを大真面目にする老害にもなるまいとも思った。

 ふたりは寿司をつまんで、この日の宿に戻った。部屋からは金沢のまちの全容が見えた。近江町市場の奥に、ライトアップされた兼六園と城あとが見える。その隣の繁華街が香林坊。そして反対側の駅のあるほうは、ずっと平野になっていて、奥には海岸線がひろがっている。
ユウコがゆっくりとコップに水を注いで、二人分持ってくる。その手の甲を見た瞬間、正行はかすかに頬が熱くなるのを感じた。
──Some Lovers Try Position
Scaphoid(舟状骨) Lunate(月状骨)Triquetrum(三角骨)Pisiform(豆状骨)・・・
手小骨の英語の語呂合わせ。かつて、試験前に誰かが冗談めかして繰り返していたフレーズ。そこに含まれていた、無邪気な猥雑さと、記憶のための機能。いま、それが唐突に甦る。そして、ユウコの手のかたちに重なってしまう。正行は思わず視線を逸らした。ユウコがすっと正行の視線を追い、笑う。
「どうしました? お昼も手を見て顔を赤くして」
「ええ。ちょっと、昔の語呂合わせを思い出してしまって。“Some Lovers Try Positions…”っていう。あれ、手小骨の、英語の覚え方なんですけど」
ユウコはぷっと吹き出した。
「何それ、私知らない。でも、そんな風に手を見られたの、はじめてです」
正行は咳ばらいをして、話を逸らそうとしたがもう遅かった。
「相聞歌としては、零点ですね」
「やっぱり?」
「でも、“Some Lovers Try Positions”って、すごく正直でいいじゃないですか。それに、ちょっと赤くなるあなたが、私は好きです」
そして二人は重なり合った。
            
  深夜。もう日付は変わっていた。正行はユウコに手を預けたままだった。ユウコは大胆だった。東京仕込みとさえ言った。そのユウコは眠ったままだ。首筋の、蝋のような白い皮膚に中年女の疲れと湿気を感じる。頬は脂でテカテカ光っていた。
正行は、ユウコが自分はそうかもしれないといった、腹の白い鮎のことを思い出した。白い養殖の鮎には、腹に通称、ピンク玉がはいっている。それは脂肪のかたまりなのだ。生簀で与えられるペレットにふくまれている脂肪を、鮎がためこむのだ。腹の中のピンク玉が尽きた時、白い鮎は力尽きる。しかし、尽きるまでの間、一ヶ月くらいは、ほとんど何も食わないでも、白い鮎は元気に泳ぎ続けることができる。

 正行は、考えを巡らせた。彼女は今いる状況を客観的に分析するという、稀有な力がある。みなが当たり前と巻き込まれる世の仕組みも、彼女は冷静に分析して、戦略的に巻き込まれすらする。彼女の手は、いま自分の手を握っているこの手は、自分を美しく癒やしてくれることだろう。しかし、これは、「取りにくる手」ではないか──!
少し前、暗闇のなかでユウコはいった。
「いっかい、ふるさと納税をしてみたかった」
そして、正行が靴でも九谷でもなんでも選べばいいといったとき、彼女は心のそこから喜んだのだ。正行はそのことを思い出して、汗が背中を流れるのを感じた。ああ、これは制度だ。取りにくる手だったのに、俺は勘違いして、結局高くついてしまったのだ。
しかし……ユウコが仲人協会に戻ったらどうなるか?市場の原理が働けば、彼女には一回り上の男性が紹介されるだろう。それも、万年平社員で、唯一のとりえが善良であるという、紋切り型のプロフィールすら怪しい男。ふるさと納税で工芸品を買うなんてできはしない。肉や米を買うのが精一杯だ。その男は、戦利品のように、若い嫁を酌婦のように扱うかもしれない。35を過ぎれば値段がつかない世界──。そんなところに彼女を戻すというのが、倫理的に許されるのか?それならば、生活の相手として、ともに生きていく。それが最も誠実な回答ではないか。愛はない。だが、義務として愛することは、できる。ホテルの朝食は、エッグステーションで、お好みの方法で調理してくれるそうね、オムレツにしようか、フライエッグにしようか・・・楽しそうに隣で話していたこの女が、多少なりとも愛おしい気持ちは確かにある。義務として、愛するべきだろう。そこまで考えて、正行は慄然とした。
(俺がもっとも忌み嫌ってる市場的な考えに、いつの間にか取り込まれているではないか。35で値段がつかないなんて、誰がきめたんだ。格子の中の女を選ぶような、唾棄すべき存在に堕した。俺はいつの間にかあの白い川を渡っていたのだ)
そのとき、正行の中に、ある女のことが唐突に蘇った。奔放な女。子どもの父親がすべて違う女。あのときは、空が明るくなるのを感じながら、女の手に握られながらも、まったく疲れも、貧血からくる下腹部の痛みも感じずに、俺はやるぞ。この女のために、俺はなにかを成し遂げると誓ったのだった。無限の活力が、湧いてきたのだ。見て覚えろという寿司屋の修行よりずっとひどい前近代的な徒弟制度の中でなんとか仕事をおぼえて、今こうして独り立ちできたのも、あの女が与えてくれた活力のおかげなのだ。あのとき、俺はどこまでも行けると思えたのだ。朝は、活力に満ちていた。
ユウコが求めているのを愛というなら、愛は、橋の向こう、格子なんかない、バラックの間の、小便臭い裏路地。そこから、奇跡のように立ち上がってくるものなのではないか。格子が並び、柳が白い水にうつる街からは、決して、愛はたちのぼらないものではないのか。

                                             五
 
 正行はあれこれ考えながら、手のしびれに身をゆだねた。窓から見る金沢の空が少しだけ白くなってきた。それは繁華街のあかりではなく、朝が近づいてきた証であった。午前三時、夏至が近いこの時期、あと一時間もすればあたりが色彩を取り戻すだろう。正行は、ユウコと、足場のいい浅野川で鮎釣りをするかもしれないと、コンパクトな竿を持ってきていた。
(すぐそこの犀川でも鮎は釣れる筈、取水堰の下の深みか、あるいは、児童館前の淵か・・・)

正行はユウコに声をかけた。  
「朝食の受付は9時までだけれど、8時半には行こうか?」
ユウコは、少し舌を噛みながら
「ピーマン、たまねぎ、角切りのハム、あとはチーズをいれて、デンバー風のオムレツにしたい」
とこたえた。
アメリカでレジデントをしている頃、カリフォルニアから飛行機にのって、広漠の大地を旅したときの光景が正行の脳内に浮かんだ。ユタもコロラドも、空からみると西海岸の緑も水もあるところと違って、砂と岩山だけの殺風景なところだ。そういうところに、白い円がある。それが都市なのだ。砂と岩の中に、人間は小さな巣をつくっているのだった。デンバーは、そういう殺風景な中の巣のような都市だった。あの頃、飛行機に乗れたのは、数えるほどだった。移動は、州間高速道路(インターステート)を、500マイル走るとエンジンオイルが燃え尽きる西ドイツ製の車に乗って、200マイルおきにボンネットをあけて丁寧に「診ながら」地を這うようにするのが当たり前だった。宿もひどかった。20ドルくらいで泊まれるようなモーテルは、青臭い大麻のにおいと、小便のにおい、そして人間の汗のにおいでいっぱいだった。そういうところでよく出たのが、あのデンバーオムレツだ。

 正行の頭の中で、言葉が浮かんだ。
(ユウコは、ずっと夢の世界にいる。彼女は本当の制度を知りはしないのだ。ただ、雰囲気だけに憧れている。だったら、簡単なことではないか。俺はこの穢れを知らぬ女、彼女自身のことばでいうなら”こどおば”を愛すればよいのだ。この女が、iDeCoの話をするのは、ATM婚狙いで、愛も信頼も知らない育ちが悪い婚活女特有の、日和見主義、実利主義からではない。ただ、それをしてみたかっただけなのだ。いいじゃないか。彼女は制度に憧れている。iDeCoという響き、ふるさと納税という響き、響きに憧れているのだ。鈴木老人が家賃に執着しているのとは、わけが違う。ひとりぐらい、きれいなデンバーオムレツを心に持っている女がいてもいいじゃないか。)

 そして正行は、少し釣りにいってくるといい、外に出た。明け方の香林坊は静まり返っていた。誰一人歩いていない。バス専用レーンはがら空きだ。あちこちが少し曲がっている大通りに立つと、犀川大橋まで見えた。
歩道を歩く。繁華街のビルの側面の壁をよくみると、壁面の塗装がはがれて、ブロックを積んだあとが見えた。そしてなんとかブロックを切ったような穴に、木製の、アルミ以前の窓枠がはめこまれている。窓というよりは、通気孔だ。正行は、誰もいない交差点をまっすぐ行き、そのまま犀川大橋のほうに進んだ。
犀川大橋を渡りながら、正行はふるえた。鉄骨のリベットが剥き出しのごつごつした橋は、頭上が低く圧迫感があった。下を流れる犀川の流れは、笹色に淀み渦をまいて得体が知れない。ふと、恐ろしい考えが正行の頭の中に浮かんだ。
(俺が、何もなくなったら、何者でもなくなったら、ユウコは手を差し伸べてくれるのか)
正行は橋の手前、香林坊のほうに戻りたい衝動にかられた。しかしもう、橋を半分どころか、ほぼ渡りきっていたのだった。
(俺が病気になったら、俺が死ぬとなったら、いったい誰がきてくれるのか。誰かが来てくれても、俺は何を話す。話すべき愛の言葉は、そこにあるのか。誰々は家賃を払ったかと毎日聞くのか。誰々は再就職したばっかりだから少し待ってやれというのか。そんなのは、いやだ!)
正行は、なにかにすがるように橋の向こうにおりた。左側は川に沿うように河岸段丘が形成されていて、加賀藩時代からの、いくつものお屋敷がある。右には、いっさかといわれる色街、浅野川沿いの茶屋街とはだいぶ色合いのちがう街がみえる。正規の茶屋街の検番の三階建ての白い建物と、無機質なラブホテルに古びた一軒家のスナックがいくつもあるような、そんな街だ。
(俺は、打ち捨てられて、どうなるのだろう)
もはや、当初行こうと思った児童館前のゆるやかな流れは、考えに入らなかった。
(大桑だ、そうだ、大桑に行こう)

 犀川大橋から一時間ほど上流に歩いたところに、岩盤が連続し、大きな淵がある大桑という場所がある。室生犀星の作品に、大きな淵、鮎や鱒がのぼる大淵と描かれているのは、大桑のことだ。今も化石が出る白い岩盤には、いくつもの穴や筋があり、どこかの異星の上のようだ。そして、釜とよばれる岩盤がおおきくえぐられた部分は非常に深くなっており、そこに魚がたまるのだ。犀川は、かつては男川と呼ばれる、荒々しい川であった。いまではすっかり護岸工事が進んで、犀川大橋のあたりでは、水の色を除けば、浅野川と見分けがつかない。しかし、大桑には、まだ昔の男川の地形が残っている。
正行は川沿いの土手の上を歩き始めた。あたりはすっかり明るくなって、ランニングをする人とすれ違った。やがて、お屋敷の並ぶ河岸段丘をすぎて、児童館の前の淵についた。数本の竿が並んでおり、鮎を釣るひとたちがみえた。ここはたしかに良い場所だ。
ーーあんちゃん、鮎はな、音に敏感なんや。毛ばりを舞わせるときに、底にオモリをトンとつくやろ、そうすると、音で逃げてしまう。
地元の名手にして、お屋敷の主である伴さんの声が浮かぶ。伴さんがこの児童館前の淵で、毛ばりを舞わせると、鮎がおもしろいように毛ばりのひきよせられてかかる。そのたびに、鮎が水中で銀色に閃く。伴さんは鮎を暴れさせない。毛ばりにかかった鮎は、円形にぐるぐるとまわるのだが、伴さんはさーっと手元に寄せてしまう。音をたてないのもそうだが、鮎を暴れさせないから、鮎の群れが散ることなく、いつまでたっても釣れるのだ。
上げ下げ、つまり、鮎の毛ばり釣りは、毛ばりにオモリをつけて、底に沈める。そして上げる。ふわーっと毛ばりが浮くところで鮎が食らいついてくるのである。ところが、伴さんは毛ばりを漂わせたり、流してみたり、回転させてみたり、立体的に動かすことができる。この釣りは地元の名手でも真似ができる者はほとんどいない。
正行は、伴さんの、河岸段丘をまるごと庭園にしたもと加賀藩家老のお屋敷の碧壁の間を思い出した。ラピスラズリをそのままつかった碧壁の間は、まさに小宇宙であり、華美に走らず、しかし華美である。加賀の美意識の結晶のように思えた。
そして伴さんが老舗に巻かせた妖艶な、紅い花びら、黒い花びらという毛ばりが、正行の脳内いっぱいにひろがった。美しい毛ばりたちの記憶に、正行は少し酔ったようになった。

 正行は、そのまま児童館の淵を通り過ぎてさらに上流へ歩いた。まだ気温は上がらず、風は涼しい。対岸は段丘のように盛り上がっている。兼六園、金沢城と続く一連の台地が、犀川の対岸に続いているのだ。その台地の向こうに、浅野川が流れている。犀川と浅野川は、どちらも金沢市内の中心部を流れながら決して交わることなく、水源は同じであるのに、決して交わることなく流れているのである。
(大桑は、どの毛ばりがいいだろうか。太平洋側の毛ばりは、あまり合うまい。まだ朝の水は冷たい。そしてあの深い釜ならば、青の混じった毛ばりがいいか。雪見熊か。あるいは、金沢の定番ハリ、鴨緑江)
正行は毛ばりの選択に頭をなやませながら、土手の上を歩いた。空の辺縁がオレンジ色に輝きだして、ランニングのひと数人とすれ違った。自転車に乗った人ともすれ違った。車の音も聞こえ始めた。正行は焦った。
(だめだ、毛ばりが定まらない。こういうときは、素直に好きな毛ばりを使うべきなのだろう。そうだな、椿姫。この前、金沢で巻いてもらった緑ラメの椿姫がある。あれならば、大桑でもきっと釣れるだろう)
椿姫は、正行が大好きな毛ばりだった。新魁といわれる、戦前にうまれた、胴体に細かく幾重にも山鳥の羽根を巻き付ける系統の毛ばりに属し、端正なプロポーションの椿姫は、天然遡上の鮎がよく釣れるよい毛ばりだ。大桑の淵には、海からのぼってきた、数少ない天然の黄色い野鮎がたくさんひしめいていることだろう。
しかし正行は、金沢の老舗の巻いた、華奢といってもいいほどの胴体の椿姫のことを考えると、胸が苦しめられるようで、とても選ぶ気にはなれなかった。
そして大桑への道のりが、あと数十分にもかかわらず、果てしなく遠いものに感じられた。足は重く、全身がけだるくなってきた。心なしか、気温もあがってきたように感じられる。
(アプリでタクシーを呼べないものか・・・)
ずいぶんむかし、州間高速をオンボロ車で走っていたときのことが、なつかしく感じられた。エンジンオイルの、鉱物油のにおいにまみれながら、俺はどこまででも行ける、そう感じていたのだった。
(あの頃がなつかしい。俺は、たしかにあの頃は、どこまででも行けたのだ。どれだけ行っても疲れなかったのだ。安宿に寝て、そして朝になれば元気になった。そしてまた行けた)

 やがて目の前に、山側環状線の二段になった巨大な橋が現れた。ここをすぎれば大桑だ。正行はまだ毛ばりのイメージがつかめなかった。主演が決まらないまま、緞帳が開こうとしている。そして、高架をくぐると、果樹園がひろがっていた。果樹園の中から、対岸にわたる狭い橋がある。人間用の狭い橋だ。橋を渡って正行は対岸に出た。白亜の岩盤がひろがる大桑の河岸が、そこにあった。甌穴とよばれる穴があちこちにある。人間の足が入るくらいのものもあれば、車が一台すっぽり入るものもある。小石が、川の流れで回転することで、長い時間をかけて形成された穴は、どれも底に水がたまっていて、いくつもの小石が底に沈んでいる。正行は岩盤帯ににおりた。岩は、角がとれて丸みを帯びておりすぐに滑る。正行は慎重に川のほうにむけて進んだ。何人か釣り人がみえた。

 足をとめて、下をみると、岩のなかに手のひら大の、白い貝殻が見えた。
(旧約聖書の一節にある死の谷のようだ)
正行は貝殻は、新しいものではなく化石であることに気がついた。
(綺麗な貝殻の化石だ、でも誰も取ろうとはおもわないのだろう)
正行は川の流れの斜め前にある、岩盤が大きくえぐれているほうをみた。
(大釜と呼ばれるものは、こっちにあるのではないか?)
大桑には、釜とよばれる淵がある。それは釣り人の間では、川の流れ沿いの、岩盤が両岸にあえるところとされている。その上流部は、大きな大穴と筋のように削れた岩盤が入り組み、落ちたら上がってこないといいわれて釣り人は立ち寄らない。子どものころからあそこは行くなといわれている。正行は、誰も行かないところへと進んでいった。無我夢中で丸い石に手をかけて、甌穴に足をかけて谷をのぼって進んだ。視界がひらけて、谷の間に半径3メートルほどの釜が二段続いて、そこに釣り人が一人立っていた。地下足袋をはいて、両手は軍手。ヘルメットをかぶって万全の格好だ。
(やはり、ここが大桑の釜なのだ)
正行は釣り人に会釈して、彼の一段上の釜のへりに立って、毛ばりケースをひらいた。毛ばりの選択に迷わないように、矢柄の蒔絵を入れた毛ばりケースだ。
(椿姫も青ライオンも駄目だ、ああどうしよう!)
そのとき、正行は椿姫を手にとろうとしていた。突如、正行は直感した。
(ここは、大桑の釜じゃない、室生犀星の黒い淵でもない、鮎や鱒の淵でもない。この水、この光、この音、この岩、ここは、ここなんだ)
正行は、無心で椿姫の下にあるお経という派手な色使いの毛ばりを選んだ。
金の玉の下に、寺院の五色幕のような、鶏の赤い羽根、家鴨の白い羽根、ホロホロ鳥の黄色、鴉の黒、そして孔雀の緑が巻かれ、尾の部分はカワセミの青色が輝いている。どの系統にも属さない、異形の毛ばり。それがお経であった。
そのとき、釜めがけて、朝日がさした。水が翡翠色に輝く。突然、鮎の群れが、釜の周辺部で狂ったようにハネだした。ここまで来ても、より上流へのぼろうとするのだ。岩にひっかかる鮎も多い。ハネはやがて、釜に水が注ぐ部分に集中した。なにかにひかれるように、鮎はハネ続けた。岩にひっかかった鮎の上に、鮎が重なるほどハネた。上流をめざして、鮎は翡翠色の水の中から飛び続ける。
正行はお経を結ぶと、釜の中心部へ向けて仕掛けを投じた。

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cosmos

夜の街燈はいつも
何かを考えている
暗いことばかり
考えているわけじゃない
夜の街燈の思考が閃いて
宇宙が一輪の花になる
あまりの果てしなさに
自分の孤独を感じてみるが
それよりもずっと孤独に広がっていた
よかったことは
この宇宙が花瓶に収まる大きさで
自分の部屋の窓辺に飾れること

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「CWS出版の宣伝」としてのクリエイティブ・ライティング

私は音楽鑑賞を愛好している。先日、世界的に著名な一流の演奏家たちが近隣の市民会館で音楽演奏会を催すと聞き、会場まで足を運んだ。市民会館には、私と同じ種類の人間たちがひしめき合っていた。言葉を交わさずとも、同好の士は匂いで判別できる。すなわち、音楽でしか発散できない暴力性を内に抑圧し、お行儀の良さと引き換えに緊張を蓄えた人たちである。隣に座った白髪の老婦人なども、表面的にはおしとやかで上品そうだが、いざとなれば人でも殺しかねないと断言できる。


演奏開始前、携帯電話の電源を完全に切るようアナウンスがあった。もちろん指示には絶対に従わなければならない。単なるガイダンスというよりは、モーセの十戒に等しい根源的な戒律として受け止めるべきだ。音を鳴らした小娘がトイレに連れ込まれ、観客たちにリンチされたという話が、都市伝説ではなく具体的な固有名詞つきで語られる世界である。音楽演奏を愛する者たちの静寂は暴力と紙一重であることなど、音楽業界に明るい人間なら誰もが当然に知っていることだ。


やがて幕が開き、弦、木管、金管と、演奏家たちが一人また一人と入場してくる。私は期待に胸を膨らませながら、舞台全体をぼんやりと眺めていた。だがそのとき、場内奥から甲高い悲鳴が響いた。当然ながら、悲鳴などあってはならない。たとえ顔面にゴキブリが落ちてきても、あるいは隣席の老婦人から吐瀉物を投げつけられても、観客は絶対に沈黙を守らなければならない。余韻の静寂を破って一足先にブラボーと叫んだ若者が袋叩きに遭い、不具の体となって救急搬送された有名な事例がある。「フライング・ブラボー」はそれほどの大罪であり、まして演奏直前に悲鳴を上げるなど、実家に火を放たれた上に、逃げ延びた親兄弟ともども串刺しにされても文句は言えまい。


私は火炎放射器のような殺意を込めて悲鳴の方向を睨んだが、すぐに理由を了解した。壇上に、全裸の巨漢が入場してきたのである。手には何も持っていない。まったく見覚えのない音楽演奏家だった。私は慌ててパンフレットを開いた。そこにはこう記されていた。田伏正雄 担当パート:Chaos。


私が目を疑ったが、しかし楽団員たちは誰ひとりとして動揺していなかった。むしろ当然のこととしてその怪異を受け入れているようにすら見えた。パンフレットには田伏のコメントが掲載されている。


「あらゆる宗教は、“神の不在”に対する解釈の体系にすぎない。ここに神がいる、という宗教は存在しない。ここに神がいると証明することなど不可能だからだ。せいぜい高々、かつて神があった、神がこの行いをした、と完了形で述べるのが精一杯である。だからこそ、音楽は“不在”のための反復芸術でなければならない。混沌はその反復の前提である。」


意味はよく理解できないが、あの裸体の大男が何らかの強固な企図のもとで配置されたことは確かなようだった。名の知れた一流演奏家の集団である。実験的な趣向として期待して良いのかもしれない。


そして演奏が始まった。ソプラノが前に進み、完璧なアリアを歌い上げる。客席の呼吸がぴたりと重なった。だが観客の誰もが内心ソワソワしているのを私は知っていた。あの裸の大男はいったい、いつ、なにを歌ってくれるのか。


三十分ほどが過ぎ、次々とパートが繋がれていくにもかかわらず、大男の出番は来ない。私は田伏に目を向けた。その瞬間、田伏正雄は舞台上で放尿しはじめた。だが演奏家たちは微動だにしない。ヴァイオリンは澄み渡り、チェロは深く沈み、木管は薄い霧のように空気を漂わせる。田伏の放尿など存在しないかのように、音楽は一切乱れなかった。


放尿が終わると、田伏はチェンバロ奏者の胸を揉みしだき始めた。しかし、チェンバロ奏者のうら若き女性は眉一つ動かさない。次に田伏はバイオリニストに頭突きをかまし、指揮者にローキックを叩き込み、巨体を震わせてパラパラのようなものを踊りながら、テノールにワンパンを食らわせた後、バイオリニストに足の臭いを嗅がせはじめた。


だが演奏は寸毫も揺らがない。舞台上で前代未聞の蛮行が行われているというのに、音楽はむしろ凄みを増していた。観客の戸惑いは、やがて奇妙な尊敬に変化しはじめていた。交響曲とは秩序を守る営みであると同時に、秩序を破壊し創造する試みでもある。目の前の巨漢は、その矛盾を一身に引き受け体現しているのだ。


田伏が逸脱すればするほど、音楽の統制は高まり、美が凝縮されていく。私は猛烈に感動していた。他の観客も同様だっただろう。そしてクライマックス。ブラームスのようでもあり、ワーグナーのようでもあり、しかしどの系譜にも属さない巨大な和音がホールを満たし、音楽が終わろうとしたその刹那、田伏が叫んだ。ブラボォォォォォォォォォォォォ!!!


見事なまでのフライング・ブラボーである。音楽愛好家が最も憎む禁忌。これまで一度として声を発しなかった大男による、悪意に満ちた音楽の破壊。私たち全員の感動が、一瞬にして純粋な殺意へと変換された。私は立ち上がった。あの男を殺さねばならない。秩序のためではない。もうこの祝祭は暴力以外の方法では終われなくなってしまった。あの裸体の大男は、そのような地点に私たちを追いつめたのだ。もう後には引けない。


観客は武器になるものを次々と手に取り始めた。隣の老婦人も、気づけば鎖鎌を構えていた。さすが音楽愛好家である。いざとなれば人を殺傷できる道具を隠し持っておくなど、音楽鑑賞にあたっての基本中の基本だろう。さあ、後は殺戮の時間だ。私たちの体内に蓄積された音楽の震えを血で贖う時が来た。


そのとき、ホール中のスマートフォンが一斉に震えた。バイブレーションと着信音が混ざり合い、場内に震えと音の混沌が立ち上がった。スマートフォンの画面には、こう表示されていた。


あなたは 1 Tabuse を受信しました。
これは絶対贈与です。
あなたの宛先は、すでに整いました。


私はどうすればよいのか、わからなくなった。1 Tabuse が何であるか理解できるはずもない。しかし、暴力によらない祝祭の終わり方を、田伏は提示してしまったのかもしれなかった。私たちは武器を持ったまま硬直し、楽団員たちは静かに会場を後にした。ロビーにはただ一枚、白い紙が貼られていた。


「次回公演:反復交響曲《LOVELESS JAPON》 作曲:花緒 演奏:田伏裸文交響楽団」
https://amzn.to/49wCOE2

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『あわいに咲くもの』第七〜九話 完結


『あわいに咲くもの』第七話「雨の欠片に、ひとり」
―姪浜伊都 ―



おとちゃんが、いない。

取材旅行で10日間ほど、県外へ。
行く前の晩、わたしたちは玄関で長めの、それは確かめ合うような、甘やかで少し寂しい抱擁だった。

そして今、山中の家の中には、わたしだけが残っている。

朝、湯を沸かす音が少し空虚に響く。
彼女がいるときは、ふたりぶんのカップを用意して、それだけで台所が華やかになるのに。

着替えも、なんとなく気が抜ける。
誰に見せるわけでもないネグリジェ。
クローゼットの中には、彼女と取り替えっこしたブラウスやスカートがまだふんわりと香りを持っているのに、それを手に取る勇気がない。

ひとりで過ごす日常は、嫌いじゃないはずだった。
むしろ、昔はずっとそうだったのだ。
けれどいったん誰かと時間を分け合ってしまうと、その「空白」は、ただの空虚になる。

静かに本を読む。
ゆっくりと原稿に向かう。
露天風呂に一人で浸かる――

でも、そのすべてに、誰かの「気配」が欠けている。

いや、彼女が来る様になってからでも基本金曜の夜から日曜までで、いない日だってあったのに。

昨日、ちょっとした思いつきで、彼女がこの前着ていたチューブブラとショーツを、洗濯済みの引き出しからそっと取り出して、そっと手に取った。

指先に残る布の感触。
わずかに残る、彼女の、あの甘いような肌の記憶。

「……だめね」

呟いて、元に戻す。

今のわたしには、それに触れてはいけない気がした。
彼女が帰ってきたときに、まっさらな気持ちでまた着せてあげたい。

今夜も霧雨。
窓の外を眺め、熱い紅茶を飲む。
雨の音が、やけに親密に聞こえるのは、わたしが少し寂しがっているからだろう。

おとちゃん、あなたはいま、どんな景色を見ているの?

もしわたしのことを思い出してくれているなら、ほんの少しだけでいい。
その空に、わたしの指先を乗せるわ。

あと七日。

それまでは――
あなたの残していった詩の余韻で、わたしはひとり、眠るとしましょう。



――ひとりの部屋で、夜に綴られた記憶のように

翌日

一人で書ける、
一人だから書ける。
そのはずだったのに。

この家を「わたしの城」にしようと思ったのは、
風と雨と、静かな山のざわめきが、
わたしの言葉をひらく気がしたから。

それは間違いじゃなかった。
けれど、今は、ページをめくるたび、
おとちゃんの声がふいに聴こえてくる。

「お姉さま、今日はどんなふうに書いたんですか?」

……ほんとにもう、何なのよ。

でも、そう。
わたしがこの扉を開いた。
閉じたままでいられたものを、
触れてしまったのはわたし。

高校生の頃、
あの子が見せていたまなざしに、
わたしは気づかないふりをしていた。
あるいは、気づけなかったふりをして、
自分の道を歩くことを選んだだけ。

でもいま、もし言葉を贈るなら。
あのときの彼女と、
あのときのわたしに。

「いまなら、ちゃんと受け止められるのよ」

……ふぅ、これじゃ恋文だ。
いや恋文を書きたいのか。

指先があたたかい。
ひとりなのに、ひとりじゃないような気がする。

夜風が網戸をゆらして、
その先の泉から、
水音がかすかに届く。

その水音は、きっとわたしたちの間を流れる時間。

また逢える。
また、わたしは、彼女に書きたくなる。



――旅先の夜、ホテルの小さな机で
ー糸島能古ー

出張なんて、何度も経験してきたはずなのに
今回はどうしてだろう、妙に心が空いている。
まるで鞄に入れ忘れたまま、
大切なものだけ置いてきてしまったみたいに。

……たぶん、わたしが寂しいんだ。

昼はきっちり笑って、
打ち合わせの合間にお土産屋さんを覗いて、
ご当地名物の話題で盛り上がって。
仕事はちゃんとやってる。
やってるけど――

心のどこかでずっと、
姪浜さんの、あの静かなまなざしを思い出している。

「ねえ、おとちゃん」

そう呼ばれるたびに、
身体の奥のどこかがぽうっと熱くなる。
それは泉に沈んだときの、あの感触にも似て。

触れられる前から、
心ってもう触れられているんだなって知った。


今夜は一人のホテル。
浴衣を着て、冷たい水を一杯飲んで、
わたしはカーテンを少しだけ開ける。

窓の外には知らない街の灯り。
でも、ふと目を閉じると、
思い浮かぶのはお姉さまの部屋の灯り。
あの大きなベッド、
あの柔らかなタオルに包まれた夜の匂い。
乾きかけの髪にネグリジェの裾を撫でた指。

「いま、なにしてますか?」

なんて、訊くこともできないまま、
スマホの画面に指を置いて、
結局送らずに電源を落とした。


わたし、ほんとうに
姪浜さんのことが好きになったんだな。

名前を呼ぶときだけ、
少しだけ震える声が
その証拠みたいで、恥ずかしくて、
でもちゃんと、誇らしい。

あと六日。
あと六日で、
わたしはまた、あの家に帰る。

帰る、って思うことがもう、
なんだか変なのにね。

―――

──夜、出張先のビジネスホテルにて。小さなデスクライトの下。
―糸島能古―

ほんとうは、ずっと気づかなかったふりをしていたのかもしれない。
高校生のころ、あの人――姪浜先輩の後ろ姿ばかり見ていた。

生徒会での作業、行事の準備、学年を越えて交わすやりとり。
頼りになる先輩で、憧れで、でも……
いま思えば、わたしはずっと「好き」だったんだと思う。

それに気づけたのは、
大学に進学して、それぞれ別の街で暮らすようになってからだった。
距離ができて、連絡もほとんどなくなって、
ふいに、深い穴みたいなものが、心の中にぽっかり開いた。

そのとき初めて気づいた。
わたし、ずっと、姪浜さんを追いかけていたんだな、って。


ある日、書店の雑誌コーナーで
見覚えのある名前を見つけたときの、あの瞬間。

ページをめくる手が震えて、
その文章の端々から滲み出る、静かで深くて、それでいて
どこか寂しげな響きに、胸が詰まった。

――ああ、やっぱりこの人の言葉が、好きだ。
  この人の見ている世界が、わたしは好きなんだ。

そう思って、
気がつけば雑誌社のアルバイトに応募していた。

偶然を装って、でもきっと、
運命だと信じたかったんだと思う。

再会できたとき、あの人は変わらず静かで、少し微笑んでくれて。
わたしは、もう「気づかなかったふり」はしないって決めた。


だからこそ、いまのこの仕事をちゃんとやらなきゃって思う。
自分の足で立って、ちゃんと進んで、
またあの人の隣に立てるように。

甘えたくなる夜もあるけど、
この出張の間だけは、
きちんと「わたしの道」を歩いて帰りたい。

あの人に、
ただ愛されるだけじゃなくて、
ちゃんと、認められる自分になりたいから。

――あと、五日。

「お姉さま、待っててくださいね。ちゃんと、帰りますから」

その言葉だけ、心の中でそっと繰り返して、
わたしはベッドに潜り込んだ。
夢の中で会えたらいいな、なんて思いながら。

―――

──雨音の残る午後、山の家の寝室。カーテン越しに柔らかい光。

―姪浜伊都―

クイーンベッドなんて、なんで買い替えたんだっけ。
ねえ、伊都。あんた一人で寝るには、広すぎるじゃない。

おとちゃんが来るのなんて、週末だけ。
それだって、毎週ってわけじゃない。
……わかってたはずなのに。

あの子と並んで眠るあの夜が、
あのぬくもりが、枕元の吐息が、
わたしの身体のどこかに、すっかり染みついてしまったんだろう。

だから、
いまみたいに、誰もいない広いベッドに寝転ぶと、
空白があまりに静かで、重たくて。



「ひとりで執筆できる環境を」なんて言ってこの家を選んで、
本も資料も整えて、露天風呂だって泉のまわりも整備して。
“創作の城”なんて気取っていたのに、
いまやその半分以上を、おとちゃんの気配が埋めている。

クローゼットの中には、彼女のネグリジェ。
洗面所には、彼女の櫛。
冷蔵庫には、あの子が好んで飲む炭酸水。
引き出しの一番奥には、
二人で見ながら選んだ、あの下着。

ぜんぶ、週末だけの来訪者のものじゃない。
わたしの生活に、深く、根を下ろしはじめてる。



……だからかな。
いない時間のほうが、ふいに寂しさがつきまとう。

別にレズビアンってわけじゃない。
そう自分に言い聞かせる癖は、まだ抜けてないけど。
けど、「おとちゃんがいないと淋しい」は、
もう理屈じゃないんだ。

この静けさが、あの子の声で満たされるだけで、
世界の輪郭が、柔らかくなる。



広いベッドの端に、ぽつんと座ってみる。
シーツの感触。足元のひんやりした空気。
隣には、まだ温もりの残像。

「ほんとに、持て余してるわよ……」

声に出して、少し笑ってしまった。
週末まであと、何日?

……待つのも悪くないけど、
やっぱり、そろそろ、もうちょっとだけ長く一緒にいたいわね。

そう思いながら、
彼女の置いていったタオルを、そっと抱きしめた。


あの時、言えなかったことがある。

たぶん言わなくても、もう分かってる。
きっと、おとちゃんも――
あの泉の夜から、もうとうに気づいてる。

でもね。
やっぱり言わなくちゃいけないんだと思うの。
わたしの言葉で、わたしの声で。

それは、わたしを見つけてくれたあの子のために。
あの、まっすぐで、不器用で、だけど誰より真剣な目をしていたおとちゃんのために。



高校生の頃、
わたしはたぶん、気づいていた。
あの子がわたしを目で追っていたことも。
わたし自身が、それを心地よく思っていたことも。

でも、気づかないふりをしていた。
言葉にしてしまうと、何かが壊れてしまう気がして。
いや――
何より、自分自身が何者なのかが、分からなかったから。

男と一度だけ朝までいたこともある。
それはわたしなりの答え探しだった。
小説を書きながら、身体の感触をなぞるようにして
『  』に触れようとした。

でも、わたしはそこに『  』は見つけられなかった。



そして時が過ぎて、
おとちゃんが現れた。

高校の後輩ではなく、
社会人として、編集者として、そして
わたしに触れようとする、ひとりの“ひと”として。

あの目を、あの手を、
もう二度と、すれ違わせたくなかった。

わたしを見つけてくれたあの子に、
わたしのままで見られるということを、
初めて許そうと思えた。



だから、言わなきゃ。
もう、大人のわたしとして。

おとちゃん。
あなたが探して、追いかけて、
ようやく辿り着いたこの場所で、
わたしは、ちゃんと、あなたを待っていたのよ。

やっと、言える。
やっと、まっすぐに、伝えられる。

わたしは、あなたが好き。
名前ではなく、“あなた”という存在が、愛おしい。

たとえ言葉がなくても、この手を重ねて、
この心で、肌で、ちゃんと――触れ続けたいの。

―つづく



『あわいに咲くもの』第八話「帰る場所の灯り」

―糸島能古―

ナビの表示が山の中の道に切り替わる頃には、もう23時を過ぎていた。
長距離取材を終えて、そのまま編集部に顔を出し、最低限の書類仕事だけ片づけて、ようやくハンドルを握った。

「遅くなるなら無理しないで」とお姉さまは言ってくれたけど、わたしは今夜、どうしてもこの家に帰りたかった。

山道の入り口を一度通り過ぎてしまって、少しだけバックする。こんな風に、夜の林道はまだちょっと苦手。でも、少しだけ懐かしい不安でもある。ここを抜けると、あの家。あの人の灯り。

──ほら、見えてきた。

木々の向こうに、ひとつだけ灯っている窓。
お姉さまはもう、眠ってるだろうか。いや、きっとまだ起きている。あの人はそういう人だ。

車をそっと停めて、エンジンを切る。
カバンを片手に、小走りで玄関に向かう。鍵を回す時間すらもどかしい。

かちゃり

開く。その当たり前のことがどれだけの。

「ただいま帰りました」
声を抑えてそう言うと、すぐに奥からあの人の声がした。

「……おかえりなさい。ほんとに帰ってきた」

声が少しだけ、にじんでいた。

リビングの灯りだけがついている。テーブルの上には、夜食用なのか、お味噌汁とおにぎりが用意されていた。ラップの上に、メモ。

「遅くなると思って少しだけ。温め直して食べてね」

 やっぱり、わたしはこの人に帰ってきたんだと思う。
 わたしが振り向くと、お姉さまは少しだけ肩の力を抜いたように、柔らかく笑った。

「疲れたでしょう、シャワー使う?」

「ううん、大丈夫……先に」

 わたしはおにぎりを一口、そしてすぐに泣きそうになった。

「……これだけで、すごく、ほっとする」

「そんなに?」

「うん……どれだけ、ここに帰りたかったか」

 そのまま立ち上がって、わたしはお姉さまに近づいた。腕に触れると、身体が、まるで泉の水みたいに溶けていきそうだった。

「お姉さま……」

「なあに」

「……ただいま、って言わせてください。ちゃんと」

「ええ。言って」

わたしは両手で、その人の背に触れて、そっと言った。

「ただいま。……わたしを、また見つけてくれてありがとう」

「……おかえり。見つけたのはあなたの方よ」

 そう言って、わたしの頬をそっと両手で包み込んでくれた。
 この手のひらの温もりが、わたしの“帰る場所”。



 ベッドに入ったのは、それからしばらく、湯を浴びて、言葉を交わして、やっと心が静まってからのことだった。

 クイーンサイズのベッドの片側には、わたしのためのシーツとパジャマが敷かれていた。ほんの少しだけ洗剤の香り。わたしが前に干した、お姉さまの柔軟剤と同じ。

「あなたがいない間、広すぎて、落ち着かなかったのよ」

「ふふ、そういうこと言われると……またすぐに出張なんてできなくなっちゃう」

「いいじゃない。また帰ってくれば」

「はい……帰ってきます」

ベッドに身を沈めると、自然に手と手が絡んでいく。

 今夜は、言葉を超えて――
お互いの鼓動の中で、ただひとつの“答え”が確かめられていた。

―つづく




『あわいに咲くもの』第九話「ふたりの土曜日」
―姪浜伊都 ―


目を覚ました時、まだ外は静かだった。
風の音も鳥の声もなく、ただ遠くの木々のざわめきだけが、低く、耳の奥に届く。

すぐ隣で、彼女──おとちゃんが、小さく寝息を立てている。
昨夜遅くに帰ってきて、ほんの少しだけおにぎりを食べて、湯を浴びて、そして……わたしたちはただ、並んで横になった。

何かを求め合うこともなく、何かを確かめるでもなく。
でも、どんな夜よりも、あたたかかった。

わたしはそっと彼女の髪を撫でる。
取材中は帽子を被っていたのか、少しだけ乱れていた。ぺたり、と頬に落ちている髪を、そっと指で戻す。

──こんなふうに誰かの顔を、朝の光の中で見つめる日が来るなんて、
学生の頃のわたしには、想像もできなかった。

ふと、おとちゃんが目を開けた。

「……お姉さま、おはようございます」

「おはよう。……起こしちゃった?」

「ううん。気配で、目が覚めました」

目が合ったまま、ふたりして照れたように笑いあう。

朝食は、ごく簡単なもので済ませた。
昨日の残りの野菜スープにパン、それとフルーツを少しだけ。

「お姉さま、今朝のスープ、すごく優しい味ですね」

「あなたが帰ってきたからよ。そういう味になったの」

「……ふふっ、ちょっとずるいです」

 そう言いながらも、彼女はとても嬉しそうにしていた。

 午前中は特に予定もなく、庭の手入れを一緒にしたり、家の中を片付けたりしていたけれど、昼前にはもうソファで肩を並べていた。

 何気ない日常の中で、ふと、わたしは問いかける。

「ねえ、おとちゃん。……これから、あなたはどうしていきたいと思ってる?」

「どうって……お仕事のことですか?」

「仕事もあるし、暮らしのことも。……わたしたちのことも」

 おとちゃんは少しだけ視線を泳がせたあと、真剣な目でこちらを見た。

「わたし、たぶん……高校生の時から、お姉さまを好きでした」

「うん、気づいてたわ」

「気づいてて、言ってくれなかったんですね?」

「わたしも、気がつくのが少し遅すぎたの。でも、今はちゃんと見てる。だから……これからを考えたい」

 わたしの言葉に、おとちゃんは、ふっと安堵の息を吐いた。

 「じゃあ、考えてもいいですか。わたしが、ここに通い続ける未来も、ここで暮らす未来も、……ふたりで、どこかに家を持つ未来も」

「もちろん。ひとつずつ、考えていきましょう」

 わたしたちは、どちらからともなく手を重ねた。
 未来のことを、ふたりで語り合うなんて。

 そんなふうに微笑み合える日が来るなんて。

 今はただ、この「ふたりの土曜日」を
  静かに、大切に、抱きしめた。


一おしまい


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『あわいに咲くもの』第一話〜第三話

『あわいに咲くもの』  第一話「泉に触れる指先」

―姪浜伊都 ―

わたし姪浜伊都(めいはま いと)がこの家を受け継いだのは、思っていたよりも静かな選択だった。
麓の街から県道を少し登った山の中腹、かつて大叔父夫婦の別荘だったこの家には、幾度か訪れた記憶がある。けれど、まさか自分が住むことになるとは、あの頃は考えもしなかった。

和洋折衷の洒落と遊びがあるいい別荘であるのだけど、いささか山の中。大叔父大叔母と亡くなり、親戚家族の間でも少々持て余し気味で引き取る意思を誰も示さない中、独立したばかりのではあるが在学中から少々の執筆で蓄えが出来ていたわたしは文筆稼業に集中できる場所を探していた事もあり、ふと「ここがちょうど良いかもしれない」と思ってしまった。

年明けから住み始めてからの数ヶ月で、だいぶ暮らしは馴んできた。
自分で選んだリネン類や、リフォームで作った露天風呂、家の裏にある小道を少し登ると湧き水が作る小さな泉がある。大叔父夫婦が手を入れたのだろうか、少し岩が配置されていて水を汲んだりしやすい足場もある。静けさに包まれて、日々の言葉がするすると指先から流れていく。晩年まで大学に籍を置いていた大叔父もここで思索を巡らせたのだろうか。

文章で生きていくことを選んだ以上、誰かと暮らす余地など、しばらくは考えないつもりだった。

そんな日々の中で――その日の、泉のこと。


初夏の光が差し込んで、裏手の湧き水が作る泉に影と揺らぎを刻んでいた。
山の水はまだひんやりとしていたけれど、石に背を預けていると、ゆるく肌がほぐれてくる。

わたしはひとりで服を脱いで、水に入ってみた。
誰にも見られない場所。
誰かに見られることのない身体。

でも、そうして水に包まれると、なぜだか逆に、どこかで誰かに見られているような気さえしてしまう。

静かな水の音。頬を撫でる風。
その感触の一つ一つを、指が探り、記憶する。
それは記憶であり、観察であり、愛撫のようにも思えた。

そのまま頭まで、ちゃぷんと沈んでみる。ゆらゆらと流れる身体、あわい流れとゆらめき、自分の肌に落ちる影はわたしの肌に何かを記しているように感じる。

誰に魅せる物でも無い自分のそれをどう認識すれば良いのだろう。

泉から上がると、濡れた髪を拭き、衣類を整え家に戻った。
リビングに置いてあるノートを開く。
誰にも見せたことのない、言葉の一番深い場所。
誰にも見せたことのない、想いの一番深い物。
わたしの身体を通って世界に落ちていく詩たちを、そこに記す。

――泉に浮かぶ何かの花びらと、わたしの胸のかたちが、似ている気がした――

そんなことを書きながら、またいつか読み返すだろう未来の自分に、こっそり手紙を綴るような気持ちだった。


その午後のこと。
玄関のチャイムが鳴ったとき、少しだけ驚いた。

こんな山の中まで訪ねてくる人は、そういない。
ドアを開けると、そこにいたのは――糸島能古(いとしま のこ)さんだった。

「……いらっしゃい。よくここまで来れたわね?」

「以前、引っ越しした事は聞きましたけど、どうしても訪れて見たくて...です。……ご迷惑でしたか?」

首を横に振って、玄関に迎え入れる。

中高の頃、わたしの一つ下の後輩として、よく生徒会で一緒に動いていた。わたしと良く似て彼女は少し小柄で、おとなしいけれど芯のある子だった。今は地元の出版社に勤めている。大学は別々でしばらくは疎遠になっている。わたしは高校三年の時、受験勉強の息抜きにとある文学賞に小説を応募し小さな賞をもらった。ある編集者にいたく気に入られたのか、小説以外にも書いてみないかと持ちかけられ、大学在学中から本格的に執筆活動を初めた。そしてその時に出版社でアルバイトをしていた彼女と、仕事上の付き合いが出来、今に至る。とはいえ引っ越し前後合わせても自宅で会うのは、始めてだった。

ダイニングの椅子に腰掛けて、簡単な茶菓子と冷たい緑茶を出す。しばらく、会話が続いた。

ふと――彼女の目線がノートに向かっているのを、わたしは気づいてしまった。

「……糸島さん、もしかして」

「……あのノート少しだけ、風で捲れたページを…見てしまいました。ごめんなさい」

彼女の目はまっすぐだった。恥ずかしさではなく、熱のある誠実さ。

「詩が、とても……美しかったです。先輩の身体が、まるで水と交じり合ってるようで……読んでいて、どこか、触れてしまったような気持ちになって」

わたしは何も言えなかった。
ただ、なぜだか手が伸びていた。
机に置かれたノートの上に、彼女の手がそっと重なる。

言葉にするにはまだ早すぎるけれど、
詩にはもう、少し書かれてしまったのかもしれない。


この時間を、わたしはきっと忘れない。
泉に揺れた指先が書いたものが、誰かに読まれた瞬間。
それがまっすぐに伝わってしまったときの、静かな、心のざわめき。

もしかしたら、ここから何かが始まるのだろう。
でもまだ、わたしはその名前を知らない。

ただ、言葉の前で、互いに手を重ねていた。

ーつづく



『あわいに咲くもの』第二話「泉に二人」

― 姪浜伊都 ―

「泉に行ってみる?」

そう口にしたのは、ほんの気まぐれだった。
けれど、彼女――糸島能古さんがほんの少し頬を赤らめ、小さく頷いた瞬間、
胸の奥がわずかに疼いたのを、わたしはごまかすように立ち上がった。
日が落ちきる前の、やわらかい時間。
家の裏手から続く小径を、並んで歩く。口数は少ない。けれど、それが不思議と心地よい。

泉の周囲は、大叔父夫妻が整えた名残が、石の配置や苔むした丸太のベンチに漂っていた。


わたしが子どもだった頃、この泉を何と呼んでいたのか――その記憶は曖昧で、
けれど静かなせせらぎの音が、遠い記憶の頁をそっとめくるようでもあった。
糸島さんはスカートの裾を両手でふわりと持ち上げると、
そっと岩の縁に腰を下ろし、足先だけを水に浸した。

その仕草の一つ一つが、夕暮れ時の薄い日差しにとても柔らかく見えた。

けれど、その次の瞬間。

「きゃっ──」

ぱしゃん、という水音とともに、彼女の身体が泉に滑り落ちた。
水面がはじけて、林の静けさが一瞬だけ途切れる。

「だ、大丈夫?」

わたしが駆け寄ろうとしたとき、
彼女は水の中で少しだけ顔をあげて、そしてまた、ぷくんとゆっくり沈んだ。

肩まで泉に浸かりながら、静かに揺蕩っているその姿は、
まるで水の精にでも抱かれているようで、わたしは息を呑んだ。

糸島さんは顔をこちらに向けて、しばらくわたしを見つめていた。
そのあと、小さく囁いた。

「先輩が感じたのは、これなのかな……」

彼女の表情は穏やかで、どこか遠くを見ているようでもあった。



すぐに家へ戻ることにした。
夏とはいえ、山の水は冷たい。身体を冷やしてはいけないと思って。

バスルームの棚から、バスタオルとパジャマ、そして下着を探す。

「糸島さん、ごめんね、まだおろしてない下着がなくて……。
もし気にしなければ、これ……わたしのだけど」

そう差し出すと、彼女は意外にも嬉しそうに、ふわっと笑った。

「先輩の、なんですね……うん、嬉しいかも」

そしてシャワーの音。
扉越しに聞こえるその水音は、泉よりは規則正しく、そして親密だった。

ほどなくして、糸島さんがバスルームから出てくる。
わたしの下着と、ゆるやかな部屋着を身につけた彼女。
それが自然に似合っていて、少しだけ胸が鳴った。
鏡越しに並んだ二人の姿を見ると、改めて思う。
中学、高校の頃はわたしの方が少しだけ背が高くて、少しだけ胸もあったはずなのに。
今では、ほとんど同じ。
──いや、同じというよりも、互いに余計なものを持たずに、
すっと溶けあうための、ちょうどいい輪郭をしているように思えた。

「サイズ、ぴったりでした」

彼女が照れくさそうに言う。

「ほんと、わたしが成長しなかっただけ、かしら?」

「そんなこと……でも、先輩と同じって、なんか、変な気分です」

そう言って笑う彼女の頬が、ほんのり色づいていた。



その夜、わたしたちは遅くまで話をした。
学生時代の思い出や、文章のこと、
泉のこと、ノートに書いた詩のこと……。
何を話したのか、細部はもう思い出せない。
けれど、話し終わったあと、わたしたちの間に流れていた静けさだけは、
今も泉のように胸の奥に残っている。

ふと彼女の寝息が聞こえて、視線を向けると、
ソファで丸くなって眠っていた。
バスタオルの裾から、わたしのインナーがちらりと覗いていて、
思わず、そっと手で隠した。

「……今夜は、ここまでね」

心の中で、そう呟いて、わたしも灯りを落とした。



この夜から、少しずつ、わたしたちの関係は動き始めたのだと思う。
泉にひとりでいたときは気づかなかった、
誰かと見つめ合う水面の美しさ。
それがこんなにも、柔らかいものだなんて。
──わたしは、まだ知らなかった。

ーつづく



『あわいに咲くもの』第三話「夜の泉、揺れる水面」

―姪浜伊都 ―

翌日の土曜日
昨夜のことは、まだ輪郭が曖昧で。
わたしは、午前の光のなかをゆっくりと過ごしていた。


彼女の衣類は洗ったが、今日はわたしの普段着に着替えてもらう。背格好はまるで同じで服の好みも似ているけど、糸島さんのほうが若干可愛らしいデザインを好むわね、と先ほど干しながら感じた事を思い浮かべる。

 先輩?

 少しぼぅっとしていたわたしに糸島さんは声をかけてきた。

わたしは一人で執筆活動の場所を得る為にこの場所に入った。ところが昨日から二人がこの家にいる。扉を開き、招き入れたのはわたしに間違いない。だけど、わたしの中に何かが、まだわからないそれは、なんだろう、今は言葉が浮かばない。

そのまま陽が落ちて、簡単に夕食をとったあと、わたしは彼女に声をかけた。

「今夜は二人で、泉に…行きましょうか」

再び泉へと向かう夜道、わたしと彼女は今度は手をつないで歩いた。
 
昨日よりも深くなった夜の闇は、ふたりの距離を静かに閉じ込めてくれるようだった。

虫の声も、木々のざわめきも、すべてが耳の奥で響いているような、深い静寂。


彼女の指先が、そっとわたしの手のひらを撫でた。


泉にたどり着いたとき、空にはまあるい月が輝き、泉の面に落ちていた。


まるで舞台装置のような光景。


わたしは草履を脱ぎ、彼女の手を引いて水の中へと足を浸した。

「今日は冷たく……ない、ですね」

「ふたりだから、かな」

水面に月が揺れ、ふたりの影が重なる。

わたしはゆっくりと彼女の肩に手を置き、背中に回して引き寄せた。
彼女の髪は湯気のようにやわらかく、頬に触れるとすぐに熱を帯びた。

「先輩……」

 わたし呼ぶその声が、泉の水をわずかに揺らした。
わたしは彼女の耳もとにそっと唇を寄せた。

「じゃあ、沈んでみよっか」

二人で、とぷんと、手をつなぎ潜る。

真っ暗の水の中に感じる彼女の体温。

こぽこぽと静かに湧き上がる水脈。

そして、かおを泉からあげる


月灯りにかすかに揺らめく水面、水の流れる音。木々の葉を囁かせる風。

泉から静かに身体を抜く。

泉の水滴が、流れる。

わたしはその一粒を手のひらで受ける。
彼女の小さな息が、夜を震わせた。



「ふぅ……」

まるで、詩の一行がはじめて発せられるように。
胸元に触れたとき、かすかな震えを感じた。
それは、新たな詩が生まれる気配。

「糸島さん……あなた……」

「先輩……それ、ほんとうに、わたし……」

水と水が触れ合い繋がるように、指と指、肌と肌が触れる。

泉が、揺れる。

合わせて、泉の面が微かに波打つ。

月が、それを静かに見ていた。

──詩が、こぼれる。

わたしの指に伝う、やわらかな鼓動。

彼女は腕をまわし、小さく震えていた。

「……先輩、わたし、隠せない……
 あの日、先輩を見ていたわたしの……」

「いいわよ、全部、
 だってわたしたちは今、あの日に置いてきた、詩のなかにいるんだもの」

手をとりあったまま、再びわたしたちは泉に沈み、ひとつの水音に溶けていく。
誰にも見られない場所で、誰よりも確かに。

ーつづく
―――

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 4

 4

狐と踊れ

これは酸っぱい葡萄だろう

狐が歩いていった

これは酸っぱい葡萄だろうか?

狐がずっと悩んでいる

僕は酸っぱい葡萄から作った

酒を飲みながら

狐を眺め狐に変わる

これが酸っぱい   葡萄

二匹の狐がくるくるまわる

酸っぱい葡萄は素晴らしい

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 4

お便器さん

知ってるよ
時々言いたくなる
わかってるよ
とは言えないし
擬人化ばかりしていると
キリがない
そんなの馬鹿と言うより
阿呆みたいだし

清掃の仕事をしていると
「あら、またアナタだけ」
いつもいつもいつも
汚れ散らされ塗れてばかりの
場所があるのです
「理不尽だよね
いつもありがとう
ごめんなさいね」
力いっぱい精一杯
時間をかけて磨くのです

嫌いじゃない
そんなお便器さんを
磨きながら
「ついてる、ついてる
だからこーやって
この仕事が存在するんだもの」
それはこっちの事情

わかってるよ
自画自賛で
「頑張ってるわたしが
好きなこと
嘘はつけませんよね
あなたには」
独り言言いながら
本日もまたよく汚された
お便器さんを磨きあげるのです

舌打ちをしながら
ちょっと泣いたり
怒ったり苛ついたり
ぶつぶつ独り言まで
見逃してくれているのか
いないのかわかりゃしないけど

知ってますよ
わたしだって、見てますよ
わかってるとはほとほと
言えなくても
お便器さん
あなたがいつも
ここにいてくれること
知っていますからね

お便器さん、わたし
あなたをこっそり
お慕いしてます

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三河の夜天

澄みきった疲れを
この魂に抱えながら
そっと顔を上げれば

今日もなお
三河の夜天は
その最高密度の藍を
ただひそやかに誇っていた



すすき野が広がる丘に
腰を降ろせば
種を待つ赤土色の畑たちと
まだ海を知らぬ淡水の連綿としての川と
そして取り残された島のような森たちとがあって

そんな何もない三河から
確かに、確かに
何かが始まっているのを
この心は感じていた

風はただ僕という僕を追い抜いて
光さえも久遠に向かって駆け抜けて

この最高密度の藍さえもただ突き抜けていくだけで

この轟々と廻る惑星にただ一人残された気がした



わかりたいことがあった
わかりたくないこともあった

忘れたいのに 忘れたくないこともあった


それらを思うだけで
過ぎ去った日々は
あまりにも残酷に思え
記憶の歯車が軋みをあげ

ただ僕の心がこうも寂しさに突き刺され

一切の郷を捨てたくなるときもあった


でも
でも

それでもなお

そんなことは素知らぬように
ただこの三河という惑星は
ずっとずっと廻り続けていた
万物の鼓動を乗せていきながら



僕のそばを駆け抜け
そっと置いてしまったはずの
光の声が
天高く聴こえる


秋の枯野の中
三河はしずけさの歌を歌った
星のごとく 螢のごとく

この惑星に恋愛というものがあってはならないのなら
きっと三河というものだって存在し得ない

そんなのはあまりにも寂しいじゃないか



三河の不在は、人間の不在




澄みきった哀しみが
魂を覆うころ

それでもなお顔を上げてみれば

三河の夜天は
相も変わらずの
その最高密度の藍を誇っていて

世界中さえも
愛おしむように
そっと包み込んでいた

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「クリエイティブ・ライティングとは何か」とは何か

クリエイティブ・ライティング・スペース(以下CWS)が立ち上がってから、プレリリース期間も含めると、一年が経とうとしています。現代詩投稿サイトの荒廃を憂えたメンバーで始めたものの、当初から「詩のサイト」ではなく「クリエイティブ・ライティングのサイト」であると標榜したことにより、小説、ショートショート、評論、戯曲、批評、エッセイなど、さまざまなジャンルの作品が行き交う場になりました。



一年が経過しつつあることを踏まえ、あらためて「クリエイティブ・ライティングとは何か」という問いを、この場の参加者と共に深めていきたいと考えています。CWSが標榜するクリエイティブ・ライティングは、単に「ジャンル不問」というだけではありません。むしろ、新しいジャンルを立ち上げるような文化的試みとして、既存の枠組みを相対化するところから出発しています。事実、この場には、多様なジャンルの書き手が集まっているだけでなく、どのジャンルにも収まらないような独自性のある表現アプローチが盛んに試されていると思うのです。


ここに集まる人々は、意識しているかどうかを問わず、皆どこかで同じ“文化的潮流”に触れているのではないか──そんな感覚さえあります。その潮流とは、「ジャンルの意義が揺らいでいる時代において、AIで多くが代替できてしまう時代において、創作へのアプローチそのものを問い直す動き」と言っていいかもしれません。


私が感じているのは、現代における文学の“無意味性”です。かつて文学が担っていたらしい「世界の意味づけ」や「物語を通じた理解」も、いまやあまりにも複雑化した現実に追いつかなくなってしまっています。ジャンルや技法もかつてほどの説得力を持たず、文学が尊敬される時代はとうに終わっています。しかし、それでも私たちは言語的に世界を認識し、書くことをやめない。


そうした状況では、かつての詩壇や文壇で評価されていたような技術体系に沿った作品ではなく、むしろ衝動的に書かれる断片的な短編や詩片こそが、真に“クリエイティブ”たりえるという直感が成立するはずです。今や、ジャンルが明確であるほど、AIが再現できる範囲は広がっています。つまり、一般に共有可能な基準の上にある“創造性”は、すでにAIに代替されつつあるということです。だからこそ、ジャンルや形式に縛られない創造性そのものを深める必要があります。クリエイティブ・ライティングは、そのためのひとつの試行なのだと考えています。


我田引水ですが、私が取り組んでいる田伏正雄作品は、まさに文学の無意味性とそれでも書かずにいられない業の深さを体現するキャラクターを造形し、書き進めているものです。勿論、これは取り組みの一つに過ぎません。クリエイティブ・ライティングというものに明確な定義があるわけでもなく、また決まった型があるわけでもなく、書き手の数だけ定義されるものだろうと思っています。だからこそ、多くの書き手が入り混じる投稿サイトという特性を生かして、クリエイティブ・ライティングを深めていきたいのです。


今後は、展示作品やその作者を対象に「年間賞」を投票で選ぶ企画なども予定しています。誰がもっとも技巧的に優れているかを競うものではなく、どのようなクリエイティブ・ライティングがあったかを振り返り、深めていく試みとして検討しているのです。


CWS Year2では、クリエイティブ・ライティングをめぐる試みをさらに本格化させていきたいと考えています。そのためにも、「クリエイティブ・ライティングとは何か」という問いを、この場に集まる皆さんと共に深めていきたいのです。ゆくゆくは、クリエイティブ・ライティングとは何かをめぐる取り組みをまとめ、CWS出版として出版物の形に昇華させ世に打ち出していくことも検討しています。


ぜひ、皆さん自身の考えや定義、経験、違和感などを、作品やコメントとして自由にお寄せください。
クリエイティブ・ライティングの取り組みを前に進めていきましょう。

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批評・論考

absence

夜がきても
点かない橋梁灯

行き過ぎる車を
どれだけ眺めても
たよりない、と

浮かない顔をした
魚がいた

橋のたもとの標識
川の名前は消え
かすれた青い板が
風に吹かれていた

さっきすれ違った
バスの行先は
雪に
隠れていた

まるでもう
どこへも
行けないみたいに


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日付

 皮は皮膚であることさえ忘れて
 取り戻すことのできない 流れに浮かぶ流れ
 に、ゆれて
       1900

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鳩と指輪

高層ビルから飛び降りようとする男がいる。胡麻のような黒い粒にみえる。野次馬たちがなんやかんやと申している。男は中年で、病を抱え借金を背負っているらしい。負債がいくらだか野次馬もわたしも知らない。これだけ大声で叫べる男のどこがどう悪いのかも知らない。しかし、かれにとってそれは十分におおごとであるらしかった。

異なる男がいざ死なんとする男を引き留めている。男である、というのもそれは声質から判断しただけのことであって、かれの心が男であるか女であるか、はたまたネコであるかをわたしは知らない。ところで、善良な男の手には指輪があったらしい。

そういうわけで、病んだ男はおおきくわめいて落下していったそうだ。ラーメン屋の排気口の下をくぐった鳩が、男の贅肉に目もくれなかった。
鳩は大久保方面のくぐもった空を飛んでいった。

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秋暮詠懐



長雨 夕暮れ 朱も霞み
鈍色に浮かぶ 揺れる秋
花弁は 珠に景色を映し
一片の風は そを散らす

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十二夜詠 ーー ジュニーク十二句 ーー

十二夜詠 ―― ジュニーク十二句 ――

笛地静恵

【ノート】ジュニークは、十二字で作る短詩型です。友人と話していて、「短いから即詠に向いているのでは」という意見がありました。ネットで題を送ってもらい、できるかぎりすぐに返しました。なるほど。いわゆる「ひねっている」ゆとりがありません。その分だけ、すぐにできます。句(題)の順番になっています。友人の了解を得て、公開します。みなさまも、試してみては、いかがでしょうか。二〇二五年十一月二十三日

笛地静恵


ゴーンウィズザトランク(迷惑)



目のやり場にこまる盾(ことわざ)



スパイごっこさサイコパス(狂気)



村立危機自治体ボス(6音6音)



文豪を産む指定席(重厚に)



孫にも衣装七五三(微妙)



蟻塚のあずかり知らぬ(はかりごと)



哀しみは路傍の草と(孤独)



つまりつまりの原因は(質問)



AI才教育デイジー(コンピュータ)



ロリコン離婚ロリポップ(甘辛)



休み取ります馬鹿のため(ひらきなおり)






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豚と賭博と


 一か八かのハッタリを見破れるかどうか、それがこのゲームの醍醐味だ。運を頼りに勝負を仕掛けるような奴は二流。勝敗はどれだけ相手を騙せるかで決まる。
 もっとも。偉そうに言えるほど、俺はこのゲームが得意ではないけどな。

「追加で二枚だ」

 銅貨五枚と手札のカードを二枚、テーブルの上に放り、山札から二枚を引いてくる。

「……四枚」

 次に順番が回り、左に座るフードを目深にかぶった男が銅貨を出して、手札を交換していく。
 これで順番が一周し、四人全員が賭けに乗った。掛け金をつり上げる声もなし。後は勝負するだけだ。

 「拝見」

 一斉に手札を開く。
 無役の「ブタ」。一階級の「平民一揆」が二人。
 このゲームは3階級の「軍隊」を作り上げた俺の勝ち。テーブルに投げ出されていた銅貨をごっそりと掴み、袋に入れる。
 掴み損ねた銅貨を、えいやっと抱きかかえたルネが、虹色の羽をひらひらさせながら飛んできた。

 「わ! また勝ったね~。ミツバチすご~い!」

 あんまり大声であだ名を呼ぶな。俺の姿に似合ってねーんだから。
 ミツバチってのはルネが付けたあだ名だが、どうして身長200エタ(約200センチ)近く、体重140フィー(約140キログラム)の俺にそんな名を付けたんだか。
 むしろ、ミツバチならルネの方が近い。なにせ身長は20エタあるかないかの花妖精、フェアリーなのだから。

 銅貨を抱えたまま袋の中に体ごと突っ込んでいったルネ。袋をのぞき込むと金銀銅に照らし出されたルネが、銀貨を拾い上げてニコッと笑う。こいつはなぜか金貨より銀貨を好む。ちなみに金貨は銀貨の10倍の価値で、銀貨の10分の1が銅貨。ここには入っていないが、銅貨よりも価値の低い石貨というものもある。
 生きるのに金銭を必要としないフェアリーだから、色の好み以外に貨幣価値を見ていないのかもしれない。無欲で幸せそうな笑顔だ。
 陽気に会話を交わす俺たちを憎々しげに見ていた正面の男が、ドンとテーブルを叩いた。

 「次だ!!」

 男が散らばった札をかき集めて適当に混ぜ始める。よけいな話だがこのゲームは集中を切らした方が負ける。まぁ、この先の結果は見えているのだから、本当によけいな話だ。

 このゲームの名は「十七《セブンティーン》」
 絵柄の付いた札を使う有名なゲームだ。五枚の札で十七階級ある役を作り上げる。一番高い階級の役を作った奴が勝ちというルール。
 一見運任せのようだが、そうじゃない。
 プレイヤーは、掛け金をつり上げることとゲームから降りることが自由に出来るためだ。
 手札がいい時だけ掛け金をつり上げたとして、他の全員がゲームを降りてしまえば手取りは無くなる。逆に手札が悪いからと言って、ゲームを降りているといつまで経っても勝てない。高い役なんか滅多に揃うものではないのだから。

 じゃあどうすればいいか。
 もうわかるだろう? ハッタリをかます。これしかない。
 どれだけ「無役《ブタ》」を高いの役だと思わせて相手をゲームから降ろさせるか。逆に、高い勝負役を「草」と呼ばれる低階級の役たちだと予想させて、なるべく多くのプレイヤーを最後まで乗せさせるか。手札が高くても低くても、勝てるのがこのゲームの面白いところ。

 ちなみに。無役だと思いこみ勝負を仕掛けるも、相手の手札は高階級で返り討ちにあう間抜けの事を、突っ込んでくる「ブタ」という意味で「イノシシ」という。また、「草」である事を相手に読ませずに、全員を降ろさせることを「草を喰わせる」と言う。
 こんな言葉が日常の慣用句として広く知られていることから見ても、このゲームが古くからあることがわかるだろう。

「銀貨五枚、乗せようかいの」

 ゲームは続いている。
 参加しているのは俺を含め、ルネを外して四人。

 俺の左に座るのが、フードを目深にかぶった『自称』古美術商で年齢不詳の男。
 正面が『自称』賭博師の若い男。
 右隣が『自称』隠居のじいさん。
 そして、体格が大きすぎて通路側に座れず、壁に背を預けているのが正真正銘旅人の俺。隣に大斧を置いているので、二人分以上のスペースが必要になる。テーブルに座るときは、いつも気を使う。

 俺を含め、どいつもこいつも癖のありそうな奴らだ。
 今の声、最初に掛け金を銀貨三枚に設定したうえ、さらにつり上げて銀貨をせしめようとしているのが右のじいさん。

「降りる」

 手札を全部、テーブルに放る。参加料分を損をするが、この手札を取っ替え引っ替えしても役が立つとは思えない。
 それに、今日は順調に勝っている。焦ることはないのだ。

 順番が左に流れる。被ったフードが落とす暗闇の向こうから、鋭い目つきを老人に投げるフード男。それを、ニヤニヤしながら正面から受け止める老人。
 老人の表情から何を読んだのか、くつくつとフードが揺れる。

「一枚交換だ」

 銀貨を五枚出して、札を一枚交換する。

「……クソ! 四枚だ」

 正面の若い奴が銀貨と札4枚を叩きつける。この男、賭博師を名乗る割に表情が面に出やすい。結局一番負けが込み、後に引けなくなっている。

 勝負を下りたことで気が抜けた。イスを軋ませながら、固まった背中をうんとのばす。
 大きな笑い声につられてそちらをみると、顔を赤くした連中がやいのやいのと騒いでいる。宴もたけなわ、といったところ。
 日が沈んで大分経つが、宿の食事処にはまだ結構人が残っている。
 この町には今朝着いたが、聞いていたより大きな町だった。どの国に行ってもそうだが、町が大きくなるほど夜は遅くなるものだ。

「えへへー」

 緩い笑い声がテーブルの上の麻袋から聞こえる。袋の口を開けると、中ではルネが金銀に浸かっていた。
 今日はいっぱい勝ったねーなんて言いながら、袋から飛び出してくる。

「そうだな」

 顔の周りをパタパタと飛び回るルネに、気のない返事を返す。
 今日はいつになく勝っている。普段はこんなに調子良くは勝てない。どちらかと言えば負けることが多いので、滅多にでかい勝負には出ないのだが、流れに任せているうちに金貨十枚分ぐらいは稼いでしまった。

 「ねえねえ、ルネお洋服がほしいなー」
 「まあ、それぐらいなら」

 買ってやっても問題ない。何せこいつに合うサイズの服なんかこの国に売っているわけもなく、綺麗な色のハンカチを体に巻いているだけ。何枚買っても大した額にはならない。
 問題があるとすれば、この金の使い道ではなく、この金が俺のところに集まってくる理由。

 「ほれ、おまえさんが親の番じゃ」

 場は次の勝負に移っていた。銀貨を片手に持って急かすじいさんから、札の山を受け取る。札は綺麗に整えられていた。さっき、じいさんが気のない感じで札を切っていたのを見ているわけだが……。
 この札の山は俺が切り直すべきか、それとも、このまま配っても良いものだろうか。

 「早く配れよ。よろま」

 ……正面の奴からせっつかれたので、このまま配ることにした。

 全員に配り終えてから、自分の手札を確認する。
『王様』、『王妃』、『王子』の三枚があった。いくらなんでもこれはやりすぎだろう。
 この時点で「雲上人」の七役だ。札の枚数から確率を計算すれば、最初に配られる手札で完成する役は高くても五役までが普通。この五役の中で勝負を楽しむのが一般的なのだが。今の時点で七役ある。ありえない。
これに騎士がくれば十四役の「王宮」、貴族が二枚くれば十六役の「王侯殿」。どうやれば負けるのだろうか。

 なんだかやる気が失せて、一つため息をつく。
 俺の様子をそれとなく監視していたフードの男が、くつくつと肩をそびやかす。

「なんだかバラバラだねー」

 なんて俺の手札をのぞき込みながらつぶやくルネ。王様のいない世界から来たこいつにとっては、この札のありがたみがわからないのだろう。
 ルネの言葉をどう解釈したのか、正面の男が喜色を浮かべる。一方、げんなりとしてしまった俺は、札を伏せた。

「お前ら降りた方がいい。金貨、一枚」

 俺の善意の言葉に、左右の二人がゲームを降りる。
 人の話を聞かずに突っ込んできたのは正面の賭博師。

「は、その手に乗るかよ。てめーはさっきからツキまくっていた。だがな、そうそう運ってのは続かねーんだよ」

 金貨一枚が転がった。

「俺は善意で言ってるんだ。イノシシになりたいのか? 金貨一枚」
「おいおい、ブタがなんか言ってやがるぜ」

 また金貨一枚が転がる。

「後悔するなよ? 開くぞ」
「いいのか? 開いて。無役のお前は俺を降ろさないと負けるんだろ? あーそうか、これ以上掛け金を吊り上げる度胸がねーんだよなぁ。悪かったよ、チキンハートのピッグデブ」

 この言葉にルネが噛みついた。

 「なっ! あんた、あたしのミツバチに何て事言うのよ! モヤシ男」

 飛びかかろうとするルネ鷲掴みにする。こんな安い挑発に乗るんじゃねーよ。

 「これ以上吊り上げる上げるとあんたが払えないんじゃないかと思ってね。すまなかった、金貨 10枚。ルネ、出してくれ」

 驚いた顔で俺を見上げたルネは、俺が本気なのを見ておとなしく袋の中に入り込んだ。ついでに手札を二枚交換する。手元にやってきたのは『家畜の鶏』と……『貴族』。「王宮」が完成した。
 ルネが金貨を一枚づつ積んでいく。金貨の高さが増すにつれて、正面に座る男の頬が緩んでいく。金貨10枚の使い道でも考えているのだろう。

「乗らないのか?」
「え? あ、ああ」

 慌てて自分の懐から金貨を探り出す男。

「……悪かったな、チキンハートなんて言っちまって。あんたはなかなかの男だ」
「俺もあんたを見くびってたよ。ずいぶん立派な牙を持ってるんだな」

 そう言うと男は不敵な笑顔を見せた。

「俺も男だからな」

 そうだな。今まで見たこともない立派なイノシシの牙だ。
 俺の皮肉に気がついたフード男がエール酒にむせる。吹き出さなかっただけ誉めてやるよ。

「ようし、いくぜ? 恨みっこなしだ」
「……はぁ。拝見」


牙が折れる音を聞いた、気がする。





  
 ふざけるなよ、と男が吠えた。
 テメーがそのチビを使ってイカサマやってんのはわかってんだよ! と俺も知らなかった話を教えてくれた。そうなのか? とルネに問うと、ブンブンと首を振る
 まぁ、出来レースだったとは言え、ここで主犯のじいさんを突き出すのも目覚めが悪い。

「で? だとしたら、どうするんだ?」
「表へ出ろ! ……というのもありきたりすぎるからな。俺はさすらいの賭博師だ。勝負はこれでつける」

 札を指す男。

「ただし、テメーはこのチビでイカサマをした。よってチビを賭けろ」

 ルネを賭ける?

「お前、こんなもん連れてってどうする気だよ。何の役にも立たねーぞ」
「それはテメーの知った事じゃねーんだよ」

 ふーん。と俺が気のない返事を返したところで、ルネがキャンキャン吠えだした。

「イヤイヤ、ぜっっっっったいイヤ! こんなスケベっぽい男にもらわれて行くのなんてあたしヤダよ? ミツバチこんな賭けやっちゃダメ」
「要は勝てばいいんだろ?」
「もし負けたらどうするのよ?」

 俺は賭け事に強い方ではないが、この男には負けない。ような気がする。

「ルネ、お前さんざん俺の嫁を自称して、所構わず言いふらしておいて、結局信用してないのな」
「ち、違うよ! 信用してるよ! てゆうかこんな場面で愛を試すのは、ひどいよミツバチィ? それに、ミツバチのことだから、面倒な女を片づけられるならちょうどいいやとか思ってわざと――」

 食い終わったどんぶりの椀を逆さにして、ルネに被せてやった。更に硬貨がたっぷり詰まった麻袋をどんぶりの上に積んでおく。
 ルネの体格ではこの椀を持ち上げることは出来ないだろう。

「で? あんたは何を賭けるんだ?」
「これだ」

 銭袋がテーブルの上に置かれる。何だか重みを感じない音がしたが? 中を確認してみれば、案の定、威張って突き出すほどの額ではない。

「・・・・・・これだけか?」
「全財産だバカ野郎」
「それは失敬」

 じゃあやるかと札に手を伸ばしたところで、がっしと腕を捕まれた。

「あんたは信用できねー」

 なるほど。
 手癖が悪い、という設定の俺は札を切るな、と。

「だからといって、俺が札を切って後からイカサマを疑われるのもつまんねーからな。よし、おい、あんたが切れ」
「ほあ? わしか?」

 急に振られてびっくりするじいさん。俺もびっくりだ。まさか、ここで、元凶に運命を託すとは。

「いいかデブ! 俺が今から素人と玄人の違いって奴を見せてやる」

 最初から見せてくれればこんな事にはならなかったろうに。

「こりゃあ良い勝負になりそうじゃわ。そいじゃあ、配るぞい?」

 じいさんの笑い声の中、何とも白けたイカサマ勝負が始まった。 
 




  
「じいさん、なんで俺を勝たせたんだ?」

 俺が聞いているのは今の勝負ではなく、最初から俺を勝たせようとしていたことについてだ。俺がこのテーブルに着いて、ゲームを始めたときから、じいさんは俺に良い札を配っていた。
 どうゆう手品をしていたのかは、全くわからなかったが。

「わしゃあな、隠居であるけっど、この町を守るヒーローでもあるんよ」

 じいさんの戯れ言に、クツクツと笑うローブの男。
 置き捨てられていった銭袋から無断で銀貨を拾い、エール酒を追加する自称ヒーロー。

「どうゆう意味だ?」
「あん男は、おとついからこの宿に泊っとんじゃが、なかなかに態度が悪うての。飲み代はツケよるわ、客にいちゃもんつけようわ、ここのべっぴんさんにべたべた触りよるわ。のうハルちゃん」

 近くを通りがかった給仕(ハルちゃん?)の尻に手を伸ばすじいさんの手は、電光が飛び散りそうな勢いではたき落とされた。

「痛っとうぅぅ! ふーふー。まぁ、そんな訳じゃって、体格の良さげなお前さんを利用して、早ように帰ってもろたんじゃ」

 なるほど、体力に自信のないじいさんだと、喧嘩になったとき勝てそうにないから、俺を利用したと。
 それは理解したが、俺から言わせればさっきの若者も、この自称ヒーローもやってることに大差はない。給仕にしてみれば、いやらしいモヤシの手か、いやらしい皺だらけの手か、の違いしかないだろう。

「わしはこの町が好きなんよ。せやけら、わしがこの町の平和を守らなあかん」

 ヒーローのしわの寄った手がまた銭袋に入り込む。

「このじいさんは昔、警備隊で一目おかれる鬼隊長、だったらしい」

 ローブ男がぽつりと言った。

「今では枯れた老木だがな」
「うるさいわ。詐欺師崩れ」

 フード男がクツクツと笑う。
 フードが目元を完全に隠しているので、口元でしか表情がわからないが、その口は感情を豊かに表していた。
 その口元とスープ皿を行き来しているスプーンが目を引く。スプーンの柄全体に細かな銀細工があしらわれ、上部には瑪瑙かなにかの宝石が埋め込まれている。手にしているカップも、このあたりでは見られない文様が刻まれている自前の逸品だ。

「気になるか?」
「ああ。まあな」

 フード男が語ったところによると、どちらも千年は昔の、北と西からの伝来物であるらしい。とくにこのスプーンは有名な王朝時代に、豪族の墓から出てきた貴重な物であるという。
 なんて話を訥々と語るフード男に、じいさんが茶々を入れる。

「ほんにするなよ? 騙されっと、けつの毛ぇまで抜かれよう羽目になる」

 話に横槍を入れられても、ローブ男はクツクツと笑うばかり。

「それは売り物じゃないのか?」

 古物商と言っていたはずだ。それならば売り物だろうと思って聞くと、

「売れ残りだ」

 という返事だった。

「へぇ、質の良さそうな物に見えるがな」

 偽物であることを差し引いても、買い手は付きそうな物だ。

「買うか?」
「使った物はさすがにな。ちなみに、いくらだ?」

 値段を聞いて魂消た。スプーンとカップの二つを買うと平均的な家が三件は建つ。それは売れないだろう。

「値段下げろよ」
「この物たちに失礼だ」

 ずいぶんと律儀な男だ。もしかしたら真面目な男なのかもしれない。

「騙されなーと言っとろう。こげん者がそん値段で仕入れよう訳ないじゃろ。元値は銀貨数枚じゃあ」

 じいさんが睨みを利かす。
 なるほど。偏見で悪いが、この男が仕入れの段階で、その値段が払えるほど金を持っているとは思えない。

「そんな偽もんでも、目ん玉飛び出すほんの値ぇ付いてーと、もしかすっと、ほんもんじゃけかあ、思うようになんねよ。そいがこいつん手だぁ」

 なるほど。
 俺たち二人の視線を受けて、またしてもクツクツと笑うフード男。

「こいつが持ちよば「ほんもん」は、詐欺の腕だけじゃい」

 ほんもんの玄人がいよいよ楽しそうに笑った。




 イノシシの若者が帰ってから大分経つ。
 一階にいた客もほとんどいなくなり、残ってるのは俺らともう一組のみ。宿の人も奥に引っ込んだ。
 真っ当な人はもう寝なければ明日に響く。一応真っ当なつもりの俺も、そろそろ寝ないとな。
 立ち上がったところで何かを忘れていることに気が付いた。

「あー忘れてた」

 と呟くと、フード男の口が吃驚の形に開かれる。

「忘れていたのか!?」
「気が付いてたんなら教えてくれよ」
「わしゃあ、てっきりそんたな「ぷれい」なんじゃと思っとったわ」

 どんなプレイだ、じいさん。
 銭袋を寄せて、ゆっくりと逆さまのどんぶりを持ち上げる。
 中には膝を抱えて座り込むルネがいた。 

「うううー、ミツバチー」

 涙でくちゃくちゃな顔のルネが、ピューと飛んできて俺の顔に抱きついてきた。

「怖かったよぅ、寂しかったよぅ、ミツバチのいぢわるぅ、人でなしぃ」
「悪かったよ」

 やけに静かで酒が進むと思っていたら、そうだ、こいつがいなかったんだ。
 パタパタと視界を塞ぐルネを引き離し、羽に付いた飯粒を取ってやる。どんぶりの中で暴れていたのかもしれない。
 俺の太い指に抱きついて、しくしくと泣くルネが、もごもごと何かを言っている。

「何だって?」
「おふろ~。おふろにはいる~」

 非は俺にあるからな、それぐらいなら用意してやろう。

「待ってな。今湯を沸かす」
「紅茶~。紅茶がいい~」

 はいはい。
 首筋にルネを抱きつけたまま、宿の炊事場に失敬する。
 炊事場を使う許可はじいさんに取った。じいさん曰く、わしもよくつまみを失敬するよって大丈夫じゃい、だそうだ。
 今までのじいさんのつまみ代分も含め、あの若者が置いていった銭袋を炊事場に置いていく。俺には必要のない額だからな。旅をするのにこんなにはいらない。

 消えかけていた炭を起こして、薬缶を竈にかける。湯が沸くまで少しかかりそうだ。
 まだ鼻をぐずぐずさせているルネに声をかける。

「なぁルネ。故郷に帰りたくはないか?」

 といったら、全力で抱きついてくるルネ。

「ミツバチの側にいる」
「どうして俺なんだよ」

 俺は風来の旅人が性に合っている。ただし、一人で、だ。誰かと一緒に歩くのには違和感が拭えない。一面にコスモスが咲き乱れる花畑でこいつと出会って、付いてくるようになるまで何度も喧嘩になったが、それでもこいつは離れなかった。

「ミツバチが好きだから」
「何一つお前の為にしてないだろ?」
「あたしが、ミツバチを好きなんだもん。だから、ミツバチが、あたしを好きになるようにがんばる」

 よくわからん思考だ。違う種族を好きになったって良いことなんかない。

「再来年、故郷に戻してやるから」
「ヤダ」

 やだって言うなよ。
 そういう条件で旅に連れてきた。三年間だけ同行させてやると。ルネは短いと駄々をこねたが、フェアリーの寿命から見ると長すぎるくらいだ。 十年ちょっとしか生きられないフェアリー。ルネが今何歳なのかは知らないが、もう年頃だろう。他種族の俺なんかに付いてきている場合ではないと思う。

「ルネ、ミツバチのお嫁さんになる」

 無理だろ。
 ぐちぐちと湯が沸いた。







「ミツバチ、どおどお?」

 ピチャンと水の跳ねる音がする。
 目を向けると、深めの皿に注がれた赤い液体から、ルネの右足が突き出ていた。

「どお? 色っぽい?」
「……耳かきかと思った」

 ピシャッと紅茶が飛んできた。華やかな香りも一つ遅れて飛んできた。
 白磁の器に赤い紅茶と、虹色のフェアリーの羽。絶妙な色逢い。
 萎れていた茶花が湯を啜って甦り、湯気の間を縫って差し込む月光が、銀の帯を赤い水面に流していた。
 温かな紅茶風呂に浸かり、ルネの機嫌が戻っていった。幸せそうな顔で紅茶の中に浮いている。
 月が綺麗だと言ったら、私も見る、というので、窓辺に皿を移動させた。

「うー、月が半分しかない」

 ルネが嘆く。今日はちょうど半月らしく、下半分がごっそり消えている。
 だがまぁ。これはこれで、と。

「良いと思うんだがな」
「えー。まんまるの方がいいよー。じゃあ、何色のお月様がいい?」
「黄色」
「うー。紅は?」
「何だか気持ち悪くならないか?」
「うううー。合わないよぅ」

 ルネが足をバタつかせる。
 しばらく紅茶の香りをまき散らしていたが、不意に口を開いた。

「ね、ね、あたしと月と、どっちが綺麗?」

 まためんどくさい質問を。
 それを聞いてお前はどうしたいんだ?
 意図が分からないので適当に答える。
 
「月――」
「ミツバチィ、そうゆう時は嘘でもいいから『君だよ』って答」
「――に照らされてるお前」
「え……る……の…………」

 ルネの言葉が中途半端に消失していく。
 そちらを見ると目があった。瞬間、ルネが飛沫を上げて沈んでいく。

「言わせておいて照れるなよ。社交辞令だ」
「ブクブクブクブク」

 どうやら俺の言葉は泡と消えたみたいだ。
 沈んだ奴はほっておいて、ベッドに入り込む。
 明日は害獣狩りの依頼をこなそう。ついでに兎でも捕ってきて、干し肉にしておこう。明後日の朝にはこの町を出て、次の町へ旅立つ。
 そんな計画を立てていると、ルネがフラフラと飛んできた。

「ミツバチィ~~~紅茶で酔った」
「はぁ? それは酔ったんじゃなくて、のぼせたんだろ? って待て、来るな」

 でたらめで不規則な、頼りない飛び方で俺の手をかわすルネ。そのまま俺の胸の辺りに着地、せずにするりと体の中に入り込む。
 掴もうとした俺の手は、ルネが着ていたハンカチをひっかけただけに終わった。

(ううう、きぼちわるひー)
(やめろ、人の体の中でそんな声を出すな。こっちまで気持ち悪くなる)

 ルネたちフェアリーの体を構成している物は有機的な物質ではなく、不思議な謎物体でできているそうで、たまにこうして体の中に入り込んでくる。
 体の中に入られても痛みはないが、気分はあんまり良くない。
 本人は、俺の心の中に入っているのだと言っているが、ルネの声はどう聞いても頭の中から聞こえる。

(おやすみー)
(いや、出てこいよ)
(グーグー)

 ほんとに寝た奴がグーグーなんて言うかよ。
 ルネを体に入れたまま寝るとおかしな夢ばかり見る。ルネと旅行に行く夢だったり、ルネと海を泳ぐ夢だったり、ルネと一家団欒の夢だったり。ちなみに、夢の中のルネの体は大きかったり小さいままだったり。
 目が覚めた後、軽く混乱するほど鮮明な夢だから、余計に質が悪い。
 しかし、相手は体の中だ。こうなるともう手の出しようがない。

(頼むから変な夢を見させるなよ?)
(あたしが見せてるんじゃないよー。ミツバチが見たいと思ってるんだよー)

 そんなわけあるか!


 次の日。
 ルネと水辺で洗濯をする夢を見た、と言ったら、ルネはお腹を抱えて笑い転げた。
 誰がこんなもん見たいと思うんだよ!


次話
『 https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=2221&user_id=160&mode=post 』


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『ぎゃうげー』 詩飾りver.



カチカチカチと鳴り止まない
感情が抜けたノックの音、音
聞こえてるよ? 痛いぐらい
痛いけど、君ほどじゃない
指……ずっと痛いでしょ

残念だけど教室にはもう
私と君しか残れなかった
君が誰かを呼んだとしても
みんなは高い、空の上よ
天井に見える白い雲の中







ノック、ノック、響かせて
入りたい部屋は誰の部屋?
過ごしたい場所は誰の隣?
選べなかった未来予想図
残らず覆い隠してあげる

包んで癒やしてあげるから
痛くなるほど心をノックして







 プラスチックタックノッキン。繰り返しシャーペン
をノックする音が聞こえてたから自分好みの物語でも
書いてるのかなと思ったけど、全然違った。
 机の上に広げられていたのはA罫ノートで隅々まで
美しい無垢。まだ今日の日付すら書かれていない。
今の君にとって日付なんか意味を失った数字の羅列
に過ぎないんだから好きな数字を書けば良いのに。
 これからは暦が過ぎてゆくことはないんだから。

「とっくに下校時間だよ? まだ帰らない?」
「ああ、これ。観察日記を書かないと」

 





 その横顔は感情を切り替えるのに少しだけ失敗して
いた。一瞬、物寂しい眼差しと悲しい影を映しだして、
すぐに引っ込ませる。喜怒哀楽の隙間に落ちたような
乾いた声が聞こえてくる。
 それはともかく、観察って何だろう? 彼の視線を
辿ってみても観察対象になりそうな動物も植物も存在
してないけど。

「何の観察?」
「宇宙人」

 そっか、宇宙人か。







 改めて周りを見てみれば、いつもは彼の近くでふら
ふらしている宇宙人が見当たらない。廊下や窓の外に
もいなさそう。ううん、朝からいなかった気がする。

「今日は見てないね」
「……アイツ、帰った」
「帰った? え、どこに? あの子って帰る場所ないん
じゃなかったの?」

 驚いた勢いのままに問えば、彼は ばつ の悪そうな
表情を浮かべ、丸も四角も三角も悪い! 世界の全て
が悪いんだ! とでも言いたげに口をへの字に曲げる。







 実に窮屈そうな表情だけど、なけなしのプライドで
もって、私から視線を逸らした。彼が一番悪いことを
した時の仕草だった。
 ふ~ん。
 黙って横顔を見つめる。見つめ続ける。
 しばらくの間視線を合わせようとしなかった彼は、
指の先でそうっと押し出すように、答えをくれた。

「喧嘩した」
「ふふっ」

 思わず優しい笑みをこぼしてしまった。
私の柄じゃないのに。こんなの不可抗力よ。







「相変わらず、こそこそと悪いことをしているのね」
「いいだろ、別に! ……あー、もう」

 ふん。と鼻を鳴らして居心地の悪さを払った彼は、
何事も無かったかのような顔つきに戻り、向き直る。

「お前は帰んねーの?」
「私は鍵番だから。君が教室から帰ってくれないと、
ここから出られないのよ」
「うん? あれ? お前が今日の鍵番?」
「そうよ?」
「嘘だ~。お前、授業に出てたじゃん」







 鍵番は生徒会の重要な職務なので、鍵を預かる人は
授業に出てはいけないという法律があった。万が一、
授業に集中しすぎて鍵を紛失してしまったら、役所に
連絡を入れて、国家権力執行者を呼ばなきゃいけなく
なる。そういう決まりだから。
 でも、どんな法律にも抜け道はあり、その抜け道を
使っている姿を彼に見られていたらしい。
 見ていたらしい、私のことを。

「へえ、私のこと見ててくれてたんだ?」

 教室には100人もいるのに、よく気が付いてくれ
ました💮







「そういうんじゃねーよ。たまたま座ってるのを見た
だけで」
「それを“そういうの”って言うのよ? 安心して、
 今日は座ってただけ。先生の話なんか聞いてないし。
私だって廊下に立ちたくないもん。ちゃんと言いつけ
は守ってる」

 君みたいに終始寝てはいなかったけどね。







 今度はシャーペンの頭で側頭部を叩いてる。
 あれからしばらく経つのに、彼の向かい合っている
A罫ノートには、体温を持つ言葉が置かれていない。
岩石と風と、僅かばかりの夕陽が、荒涼とした砂漠に
散っているだけ。そんな手触りを持つ白紙。
 彼が書き終えるのを待ってようかと思っていたけど、
さすがに可哀想に思えてきた。純粋なる恋愛体質の彼
にとって、無機質ばかりの世界は退屈すぎるだろう。
そんな寂しい世界に彼を一人っきりで置いておきたく
なかった。この人は愛情を糧に限られた世界を生きて
いるんだから。







「観察日記、書くの手伝ってあげよっか」
「頼む」

 思わず、お見事と言いたくなる即答を披露した彼は、
白紙のA罫ノートを丸めて鷲掴みにし、ぐいっと押し
つけてきた。
 ちょっと。いくら二人の仲だって雑すぎるでしょ?
と手の平でそれを押し返した。







「後でね。帰りにコンビニに寄らない?」
「ん? なに? 珍しく食べたい物でもあるの?」
「食べたい物がないとコンビニに寄っちゃダメ?」
「そりゃそうだろ。陳列棚に失礼じゃんか」
「う~ん、食べたい物はないけど」
「良くない。お前はもっと食わなきゃダメだ」

 流れるように放たれた言葉にムッときた。







私の体はどう見えてるの
君の瞳に囚われている
私の姿を覗いてみたい
痩せた発育不良の子供みたい?
それともつまらないシルエットなの

私の体内は花だった
水と空気と君の言葉が
体の全てを形作ってる
根も葉もない嘘だって
信じてくれないかもしれないけど







私の言葉は全て真実
世界を司っている約束ごと
君には理解できないよね
私も知らない私の真実を
人間だって決めつけてるもん

花ならきっと無造作に
摘んで愛してくれたのかな








 食べろと言われてちょっとムッときた。
 何かにつけて言ってくる、彼のお小言だった。
 無視して君の前に立つ。主人公らしい生意気そうな
顔に、制服のスカーフが当たる程度の近さで。
 好き嫌いを正確に嗅ぎ分ける素直な鼻のすぐ先で、
私は腕を大きく広げた。視界を覆い尽くせるように。
何も考えなくてもいいように。
 小動物のように見上げてきたから(ああ可愛い)
私は女の子として見下してあげた。







 視線は胡蝶蘭を模す。
 キリッとした輪郭で時代を寄せない優雅さを放ち、
慈しみを与える淡さを瞳に宿したら『朝も昼も場所
さえも関係なく沸き上がる劣情を必死に隠しながら人
の底を這いつくばる惨めな生き物の雄なのよ』という
自覚を促せるほど、高貴で好色に富んでいる、
サディスティックな角度を作って彼を見下す。
 どうせ好きでしょ?
 こういうの、さ。

 そうまで仕組んでから聞いた。







「別に、小さくないよね?」

 万人受けするようにと考え抜かれた、均整の取れて
いる躰。私の胸の膨らみは、彼に鼓動を伝えるための
増幅器であって彼を堕落させる程の重みを包んでいる。

 私が囁く奸計を端から順に口に入れ、そんな真似を
しておきながら、校内だからと欲に耐えようとしてる。
 熱っぽいね、君の吐息。
 大人しく私の誘いに乗ってくれた彼は、私のお腹を
抱いて、もごもごと、制服に唇を付けながら何か言う。

「もっと、食った方がいいぞ」







 は。
 いつだって、こう言われるから食べようと思ってる。
食べようと思うだけで私の体は大きくなっていった。
そうやって膨らむのよ、私って。
 根気強くそう教えるんだけど、一度たりとも信じて
もらえた試しはなかった。彼は毎回自分勝手な言葉で
気まぐれに傷を付ける。傷の痕を残したら、繰り返し
口付けをせがんできて、私が隠している底なしの欲を
太らせようとする。
 口付けの度に私の愛は膨らんで、体も育っていった。
 そんなに私を満たして、君は何がしたいんだろう。
もしも、君の腕の中で私の欲望が弾けちゃったとして、
それでも好きでいてくれるの?







「ね。コンビニでシャボン玉買おっか?」
「シャボン玉?」
「そう、何色がいい?」
「お前が選べばいいじゃん」
「君が選んだシャボン玉を吹きたいの」
「……じゃあ、青。お前に似合うだろ?」

 ジィィィ、と
 大きく息を吸って。
 ハァァァ、と
 心の 奥底から 息を 吐き出した。

「そういう嘘は大嫌い」







 ね、え。
 君さぁ。
 私に抱かれたまま嘘をついて、騙せると思ってるの?
呼吸も鼓動も情欲でさえ、ううん、この先に存在する
全ての選択肢でさえ私から与えられて生きていくしか
道はないのに。
 そんな存在のくせに、嘘?
 あの子のための嘘?

「嫌い」
「ごめん」







 青。
 宇宙人が好きな色。
 教室から天井を見上げてみても、そこに天井らしい
天井はない。空の下にある青空学級。
 天まで遮る物はなく、空には四角い宇宙がいくつも、
いくつも、ふわふわと浮かんでいる。
 その全てが未来だった。選択肢の数だけ四角い宇宙
が存在している。私達の居る地上は、選択肢の1つに
過ぎないのだと、宇宙人はそう言っていた。
 宇宙の中で丸いのは地球だけで、丸は最も愚かな形
なのだと宇宙の学校では習うらしい。舌足らずな可愛
らしい声で教えてくれた。







 この時。
 宇宙人が私の近くに居たら張り倒していた事だろう。
もちろん、そんな未来は用意されていなかったけど。

(緑色の青が懐かしく見えて。
だからこの星にやってきたの。
みんな、よろしくね?)







いい度胸じゃない
教室で喧嘩を売るなんて
彼を愛している女の子達が
ひしめき合ってる蠱毒の檻
孤独の罪をなすりつける場所

それでも彼女はヒロインだった
誰もが認めるヒロインだった
彼は彼女を愛するだろう
全てを捨てて宙へ行く
どうしてもそれが許せなかったから







刺殺
毒殺
絞殺
呪殺
あらゆる手立てが許されなかった

宇宙人は完璧なヒロインだった
ただただ彼が愚かだっただけのシナリオ







 信じられないぐらい女性らしさに溢れた可愛らしい
宇宙人だった。絶対に負けたくないと思ったから私は
何度も、何度も、何度も宇宙人を殺そうとした。
 でも、この世界では彼女を殺すことはおろか、襲う
ことさえできなかった。彼女はメインルートのヒロイン
だったから。
 一方の私はサブルートのヒロインに過ぎない。
 この世界の主人公である彼にとってはそれが真実。
 誰も彼もが逃れられない。未来は目に見える選択肢
で埋められていた。
 わたし達はみんな、たったひとつのフラグを抱えて、
ひたすら彼を待つだけの人生を送った。良いとか悪い
とか、好きとか嫌いとかじゃない。







 だから、だからこそ私はこうして生まれてこられた。
残酷なこの世界が作られなければ、私は存在さえして
いなかった。自問自答できる命が純粋に嬉しかった。
 喜べる心だけは自分のものにさせてほしい。

 私は、いや、私達は愛する彼が可愛らしい宇宙人と
一緒に旅立つのを見上げるだけの運命だった。
 もう絶対に戻ってこない最愛の人を泣きながら見送り、
ぽつりぽつりと、エンディングから消える運命だった。

 それなのに。







 それなのにね。
 彼は与えられた選択肢をことごとく外してしまい、
私の元へと堕ちてきた。この世界ではもう、彼の攻略
ルートは私で確定してしまっている。今からではどう
逆立ちしても他の子から愛されることは叶わない。
 それがこの世界のtruth system.

 現実を直視する度に、狂いそうになるほどに、心が
蕩ける。彼が時々、隠れて浮かべる寂しそうな横顔に、
教室の隅から空を見上げて瞳を潤ませている弱々しい
姿に、私は全身が熱くなるほど嬉しくなって、いくら
でも彼に優しくしてあげられた。限りなく尽くそうと
思える。







 私に与えられているルートがハッピーエンドなのか
バッドエンドなのか、それはわからないけど。
 どっちだって構わない。
 今さら。
 これからは世界の全てが祝福してくれる二人だけの

 物語

 なんだもの。

 ね、愛しいソラト。








 今日はずっと晴れ。
 風もお休み。

「シャボン玉、空まで飛ぶといいね」

 心から、そう思えた。



END.


題名
『ぎゃうげー ~果てしない空と心の侵略者~ より 四之瀬英花トゥルーエンド』











2025/11/25 コメントを参考に空行を入れてみました。


ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
  

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音楽

 いやならやめればいいだけなのに。

 どこへ行っても耳をそばだてて。

昼過ぎに起きた。ほんとうに、ロックンロールは鳴り止まないのかと、聞き込み調査をしていると、猫の寝床に迷い込む。
猫たちは2匹ずつ陰陽模様になって眠る。まるくねむる。まるくまるくなって、回る!
この猫たちがつくる、おんがく。わたしたちには知れない音楽。
開運のためのCDからは聴こえてこない、
わたしには聞き出せない音楽。
ベランダには無数のCDが吊るされている。
プリズムの下で踊る。わたしのリズム。
そばだてて聴いて、そのまま、どこまでも。

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メリーゴーランド

雨の中を青やピンクに装飾された馬たちが
濡れながら音楽に合わせて周っている
さびれた遊園地の一角で
子供たちは誰一人いないけど
もしかしたらこういう日を選んで
私の生まれなかった子が
遊んでいるのかもしれない
透明な姿とはしゃぎ声をあげて
どこにも行けない馬に乗って遊んでいるのかも

傘をさしながら私は笑う子の声を幻聴する

明日は快晴だという
こんなさびしい遊園地にも
親に連れられた子らが
このメリーゴーランドを楽しむだろう

私は日差しを避けて家の中で珈琲を飲みながら
愛猫を撫でているだろう
(生まれなかった子の代わりに)
(全霊の愛を込めて撫で続ける)

雨になったら
また私はこのメリーゴーランドの前で
風の音の中に歓声をあげる子の声を聴きに来る
ひび割れた楽しげな音に合わせて
同じ円を周るメリーゴーランドのように

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奉納

一年経って
お米は普通に売っている
去年も普通に実っていたし
今年も普通に実った

ただちょっとしたズレでなぜか無くなっていたね

お値段は高くなっちゃったけど
やすけりゃいいってもんでも無いだろう

玄関に日の丸を掲げて
勤労感謝の日もとい新嘗祭
別に神事に参加する訳でも無いけれど
家の神棚に 新米を納めた

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十一月逍遥游(ノヴェンバー・ステップス) ―― ジュニーク・川柳・俳句十二句 ――

十一月逍遥游(ノヴェンバー・ステップス) ―― ジュニーク・川柳・俳句十二句 ――


笛地静恵






疑心暗記のヤマをかけ



秋のごとくに散る髪へ



土に還ろう葉のごとく







与作に木を切られエッホエッホエッホッホー



入ると殺されるキルビル駅近



肩落とし駅のベンチの痩せガラス







ドライブインを葡萄酒が逆走していった



倒叙ミステリーは逆立ちして読むのがマナーです



黄変のページをそっと月見酒







会所桝四角く掃きぬ秋桜



奥の間の座敷童の畳替



古典らと十一月へ逍遥游





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幾ペガーもの悲しみ

1ペガーは人の悲しみの消滅するのにかかる単位ときいた
わたしのあなたを失った悲しみはまだ日が浅いから1ペガーだけど、きっと明日には2ペガーになりこの先はもっと大きくなる
そのうち、わたしは別の銀河でようやく顔をあげて前を見るのかもしれない

※1ペガーは光速で一億年

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花言葉:bluetooth connected

名付けえぬ感情を
ストレスとして ためたわけです

ある日 背中で
ホヤ・ベラの花が咲きます

あなたはホヤ・ベラを知らない
でも 咲いてしまったことがわかる

花の形状と 数がわかる
それは paranoia ですが

あなたは確信が持てぬまま
ベッドで花を潰します

星型の花弁を割って
桃色の突起の先端の器官で
地球の裏を撫でたことが

今や 職場では既知の事実で
桜色のパラボラアンテナは
玉砕と 悼み入りますを
繰り返すだけの送受信装置となって

──堪らなく破廉恥で
  誇らしくもあるのです

二点 いや 八点の 
上を向く乳頭様組織による プレゼン

わたし/信号/detect/or/reject/
粉体/受胎/得体/背中で 目止め

古典的な 自己変容としての翼があり
多くの者は 突撃を命ぜられ 
出社拒否の心情を 消化不良のまま

エレキと羽根を負った少年像を カンバスに擦りつける

わたしの場合 飛べずに
世界を舐めまわす花が咲きまして
えもいわれぬ 乳臭い 匂いを放っていて

自己臭恐怖を コロンと纏い 
あなたは ホヤ・ベラを知らない 
にも関わらず
脱毛がすんでいないのが バレてしまう

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 2

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雑魚キャラAは おかわりが得意

食べて食べられ
回る世界🌍で
僕もいつかは
食べられるのなら
その時そいつを
満たせるように
今日もいっぱい
食べるんだ🍴

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ち、ぎりたい

なかゆびよりも
ひとさしゆびを
さしだして

あなただけに
ちかいたい

そんなこいをしたいです
そんなあいをもちたいです

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スパイラル

廻って、廻り続けて
今何回目なんだろう
昔見た時より
時代は進化しているな
でも、昔見た人より
前見た人の方が
活気がないのは何でかな?

水を飲んだはずの植物も
緑が少なくなって
空気を吸ったはずの生き物も
数が減っていって
なんだか寂しくなったな

巡って、巡り続けて
今何年目なんだろう
昔見た時は
こんな感じだったかな
でも、昔見た時より
前見た大地は
歳をとったな
荒れてるな

数えられないほどの
想像もつかない様な
争いが起きたんだっけ
あぁ、その所為か
人も大地も疲弊してるな
なんだか虚しくなったな

目を瞑れば
何千回目
何億回目の
生命を生きるのかな
また広大な檻に
閉じ込められるのかな
考えたくないな

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無題

かもめ〜るを食べ尽くしたきみにあげたかった絵葉書には、海老と魚と貝が、確信を持った筆致で描かれていて、すごい、こちらはいまだに何の確信も持たないまま、奨学金を返しつつ、きみの無垢なる小学生時代を執拗に書き続けてもう二十年になるという、化け物か、俺。

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昭和という時代に生まれて


考えたらすごいことよね
昭和 平成 令和と 3つの時代を生きてるのよ
あの頃の私が聞いたら
きっと目を丸くして驚いているに違いありません



私が生まれたのは昭和51年 西暦でいうと1976年
ロッキード事件が起きた年ですが
あの頃はまだ オイルショックの影響を引きずっていたせいからなのか
なんとなく暗い世の中だったような気がします
きっと晴れの日もあったはずなのに
記憶の中で私の頭上の空は いつもどんより曇っていました


トタン屋根の吹けば飛ぶようなオンボロの家
仏壇の横に神棚があるという なんとも不思議な家でした
便所も風呂場も家の中にはなくて
便所は暗い通路を通った奥にある汲み取り式で
電気すら通っていませんでした
昼ならともかく 夜にそこにいくのがなんとも怖くて
行くのを我慢したことも何度もあったし
風呂もどこかで拾ってきたようなささくれだった木の風呂で
まだ薪で火を焚いて湯を沸かしていました
それに 子どもが入るには深すぎて 
足をつけるのにも一苦労
おまけにでっかいねずみが何匹も出るし
まったくもって風呂に入りながら汚れにいってるような
なんとも嫌な気がしていたものです


保育園に通っていた私は 帰ってきても構ってくれる大人は誰もおらず
寒空の下 スモック姿のままで岸壁にしゃがみこんで
母親の帰りを ひたすら待ち続けていました


家には粗末な居間にテレビが一台あり
その頃保育園の女子たちの間で流行っていた
キャンディキャンディとベルサイユのばらがどうしても観たくて
だけども これは子どもに観せるために買ったんじゃないと観せてももらえず
あとで母親が電気屋から小型のテレビを 私たちの寝床に買ってきました


その頃世間では通り魔事件が世を賑わせており
ただ道を歩いていただけなのに
通りすがりに刺される なんて事件が相次いでいたようで
道でそんな人にもし出くわしたらと思うと そら恐ろしく
また 冗談なのかなんなのか知りませんが 
母親がよく いっそ通り魔に襲われて殺してくれたらいいのに
と笑いもせず呟いていたのを 
いまでもうっすら記憶しています


父親も母親も なぜに一緒にいるのかと思うほど冷え冷えとしていて
よくケンカ というより激しい罵り合いと暴力が飛び交っていました
父親からは母親の悪口を 母親からは父親の悪口を
毎日のように聞かされていましたし
どちらか片一方とちょっとでも話していようものなら
ものすごい形相で睨まれ 口さえきいて貰えませんでした


あの頃のお小遣いといったら 大体100円で
そのお金持って近所の駄菓子屋であれこれ選ぶわけですが
その頃の私はとにかくお金を貯めたくて仕方がなく
いつも50円のチョコボールだけ買って
あとはせっせと貯金箱に貯めていました
保育園児にして1万円以上貯めたって結構凄くないです?
だけどもその貯まったお金そっくりそのまま盗られてしまいました
やったのは父親か兄かのどちらかであることは間違いないのですが
母親は残念だったね とひと言云っただけで
失ったお金を補填してくれるわけでもなんでもなく
泣く泣く我慢を余儀なくされてしまい
それからはなんだかちまちま貯金しているのが馬鹿らしくなり
100円もらったらきっかり100円使うようになりました
駄菓子屋に行って100円でいかに多く品物を買うことが出来るか
そんなことに小さな炎を燃やしていたのですから
かわいいやらなんなのやらって感じでしょ


保育園最後のお遊戯会
年長は着物を着て踊るので
特に女子のあいだでは憧れで
年少の頃からずっと楽しみにしていたのですが
例により朝から両親がケンカ 母親が作ったお弁当を
次から次に床に蹴散らす父親
結局欠席ということになり 隣町の映画館に連れていかれ
面白くもなんともない映画を延々と観せられた揚げ句
置いて逃げようとまでされ
あんなことがあったのに
日が暮れる頃には結局またあの家に


そのうち 怪人二十一面相というのが世間を騒がせ
グリコや森永の飲み物やお菓子などに青酸カリを注入した
食べるな、死ぬぞ、という書き込みはセンセーショナルで
誰が何のためにしているのか 目的は何なのか
快楽殺人者なのか いまでいうところのサイコパスなのか
とにかく青酸カリという毒薬があることを
ほんの数ミリ口にするだけで窒息死してしまうということを
世の中には恐ろしいことを考える人もいるものだということを
はっきりくっきり思い知らされました
テレビではしきりに キツネ目の男の似顔絵を映し出しては
世の中に恐怖を煽っていました


相変わらず父親は些細なことで機嫌が悪くなり
醤油の瓶を投げつけられ 危うく失明しかけていた頃の出来事でした
兄が呑気そうに観ていたアニメ パーマンが
やけに虚しく見えたのをよく覚えています
ついでに云うと 子どもの頃の私はカレーが食べられず
あの黄色っぽい色合いがなんだか受け付けなかったのですが
珍しく家族で軽食屋へ入ったとき メニューを見ていると
父親がさも偉そうに、みんなおんなじもんだ!って云って
よりにもよってカレーを注文しやがりました


連帯責任という言葉が好きな先生がいました
国語の教科書の巻末に書かれた漢字を全部 
一字につき一行ずつ書いてこい
という宿題が出されました
全員がやってくるまで出し続けると
そんな毎日やらされるなんてまっぴらだったので
5時間くらいかけて 眠い目をこすりながらなんとか仕上げ
次の日持っていくと やってこない奴が
またかよ、とうんざりしながら5時間かけて仕上げて
またやってこない奴が
正直 なんで真面目にやってきてる人間がこんな目に遭わされるのか
連帯責任というのなら やってこない奴にも
ちゃんと責任取らせろよ
この先生は私たちになにか恨みでもあるのではないか
そんなことまで考えてしまっていました


三原山大噴火というニュースを見たときには
不謹慎だとは思いながらも テレビに映し出された流れる溶岩が
すごくきれいだなと思ってしまって
しばらく釘付けになって その映像を見続けていました


私と同級生との間で なにかよくわからない壁のようなものを感じ始めたのも
この頃だったように思います
そんなつもりはまるでないのに 他人からは
スカしてる、とか、気取ってるとかいうふうに見えていたらしいのです
ああ 私って嫌われてるんだってことが解ってしまって
それでもどうにか 平静を装うのに必死でした
冷めてるという人もいたし ネコ被ってるという人もいました
他人って自分では知ってるようで本当のところ 
何も知らない解らないんだなということが
身に染みてよく解ってきた頃でもありました


ひとりで過ごすことが多くなって
夕方のドラマの再放送が唯一の楽しみだった頃
日航ジャンボ機墜落事故が起きました
乗客のほぼ全員が亡くなった大きな事故でした
そして その中にはあの「上を向いて歩こう」で知られている
坂本九さんも搭乗されていたということ
いつもニコニコしていて やさしそうなおじさんだなと
結構好きだっただけに かなりショックだったのを憶えています


光GENJIが世を席巻し ローラースケートが一大ブームに
例にもれず 私も夢中になっていました
さすがに運動神経マイナス人間の私には
ローラースケートは無理でしたが


幼い女の子ばかりを 性的目的で近づいては殺害していった
幼児連続殺人事件が発生
犯行声明を送りつけたり
遺体をその子の家の前にわざわざ置いたり
捕まった犯人は 長いことずっと引きこもりだったとかで
その不気味さ 生気のなさが異様に際立って
うちの兄も似たような感じだったために
同じような事件を起こさねばいいが、と
幼児を殺害した動機がなんだったのかとか
そんなことはまったくもって理解できませんが
その他のことについて 妙に感じとってしまう自分がいて
背中になんだか得体の知れない冷たいものを感じていました


戦後 最も凶悪な少年犯罪事件が起きました
女子高生コンクリート詰め殺人事件
帰宅途中の女子高生を無理やり拉致し
40日間に及ぶ監禁と 筆舌に尽くしがたい凌辱・暴行の限りを尽くし
ついに息絶えてしまった女子高生をドラム缶にコンクリート詰めにし
誰も寄りつかないようなゴミの埋立地に放棄
連日のようにニュースはその話題で持ち切りでした
事件を起こしたのが未成年であることから
当初は実名も何も公表されることはなく
家庭環境に問題があった 学校で体罰やイジメにあってた
学歴社会云々と 加害少年もまたある意味被害者であると
被害女性の方がむしろ非行少女で
彼らを誘惑したに違いないと
とんでもない報道までされていました
未成年というなら 被害女性だって未成年なのに
彼女の顔も名前も学校名まで
お構いなく晒され続けていました
あれだけの犯罪行為を犯しておきながら
少年法に守られ 最長でもたった20年という短い刑が下されただけでした
更生の余地があるとかいった理由で
犯人の少年たちは いまもどこかでのうのうと息をしているのです
殺されてしまった女性が 本来生きていられたはずだった世界で


昭和64年1月7日 昭和天皇が逝去されました
64年という長い歴史を刻んだ昭和という時代が
静かに終わりを告げました
葬儀の日 その日は学校も会社もみんな休みで
テレビは葬儀の模様一色
冷たい雨が降りしきる中 厳かにそれは行われていました



**
昭和という時代
長い長い戦争がありました
欲しがりません、勝つまでは
ぜいたくは敵
鬼畜米兵
非国民
配給の食料も底をつき
飢えに耐えながら
きっと勝つと信じて生きた人々
空襲で原爆でもちろん戦地でも多くの人々の命が犠牲になりました
8月15日 玉音放送が流され日本は敗戦し
長い長い戦争が終わりを告げました


高度経済成長
日本はどんどん経済的に成長していき
やがて世界と肩を並べるほどに
テレビに冷蔵庫に洗たく機に
便利で新しいものが次々誕生しました
一方で工場から排出される有害物質による公害被害が相次ぎました
戦後に生まれた子供たちは
何かに苛立ちをぶつけるように
ゲバ棒と火炎瓶を手に持ち 革命を夢見てシュプレヒコール
三島由紀夫が市ヶ谷の駐屯地で割腹自殺
暴走した若者たちは 仲間であるはずの同士たちを次々殺害
日本初のハイジャック事件
浅間山山荘事件
あの狂騒の時代は 一体なんだったのでしょう


やがて経済も降下の一途をたどり
オイルショック
トイレットペーパーやティッシュペーパーを
我先にと買い占める人々
時代が変わっても何も変わらない
2000年問題の頃 ライフラインが止まるかもしれないと
水やカセットボンベを大量に買いだめしていた人々
震災直後 スーパーもコンビニもドラッグストアも
米や水はおろか ふりかけひとつも何もないほどでしたし
新型コロナ発生当初には マスクやトイレットペーパーを買い求めて
ドラッグストアなどに長蛇の列を作っていた人々
昔もいまも 根本はなにも変わっちゃいない
そりゃそうよね だってやってるのは人間だものね
**


昭和という時代
激動と云われた時代
きっと晴れの日だってあったはずなのに
記憶の中の私の頭上の空は いつも曇っていた
それが昭和という時代の空模様だったのではないかと
こんな晴れた日の青空を眺めながら
そんなふうに思うのです



平成生まれから見た平成についても
ぜひ聞いてみたいところです




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郵便受けの無い街

この街に並び立つビルはすべて十階未満
そしてどのビルにも郵便受けは無い
だからこの街のビル群に入るすべてのお店にポストは無い

昼間はお店はどこも開いていないから
この街の通りに人や車の往来は少ない

しかし夜になると
日本の法律とは別の規律が夜闇とともに降りてきて
この街を覆い
街の照明が四方八方から照らす中
大勢の客引きの中国人たちが
通りや辻にあらわれ
中国語で小さからぬ声でせわしなく語り合う合間に
道行く日本人歩行者たちに目を付ける

チャイナクラブの美しい中国人ホステスたちは
客のいない間はお店のソファー席のあちらこちらに座って
最新のiPhoneを弄っていたりおしゃべりしたり
そして眩い最新のカラオケ機器は
麗しい映像と優れた楽曲を最高品質で流しながら
それらを見たり聴いたりするホステスたちの心を
富の夢で満たす
今こそ安寧の時

彼女たちは悪びれもせず
自分たちの仕事を「夜のお仕事」と
滑らかに日本語で言う

鎖しながら中国人同士の間の信頼の上に
また信頼の下に成り立つこの郵便受けの無い世界

税金を払わない女と酒には一銭も使うなと言っても
聞き入れない
ほら
我々日本人のうちの誰彼が
一人二人三人と
陰翳豊かに煌めく店内に入ってゆく

難無く日本語を操る中国人ホステスたちの着飾りようには
尋常を凌ぐ独特の魅力がある
たとえばそのへんの日本人キャバ嬢より華美で多様で贅沢
かつ清潔でその身体はやや豊満である
日本人客は
そんな中国人ホステスたちに引き寄せられてお店に通う
見かけにはまるで
中国人同士の信頼の輪に融け込むかのようだ

一万二千円からいくらまでか限り知られぬシャンパンに
彼女たちは当然喜ぶ
カラオケでジェイ・チョウの曲を歌うと喜ぶ
常連となった客には好意と賛辞を惜しまず
時に「社長!」と呼ぶ声が店内に聞こえる

カネにならない客や
あまりお店に来ない客には侮蔑の感情を懐き
気持ちを隠し切れずに渋い表情を浮かべることが多々ある
「どうせあれは二万くらいの客だよ」などと
カネのある別の客についた時に言い捨てたりする

どんな仕事も継続が大切
人づてに聞いてこの街に来たうら若い中国人娘も
辞めずに「夜のお仕事」を続ければ
やがてある程度の富を手に入れ
人格も変わってゆく

日本の法律に日本人より詳しいこの街の中国人たちに
日本人客が日本の法律に基づいて説教してはいけない
あまりくどいと彼ら彼女らは牙をむいてくるだろう
楽しく仲良くこの街に融け込もう

真の官吏や批評家は出入りすべきではないし
歓迎もされないだろう
これはたいていどんな社会でも同じかもしれない
堂々と安全に生き延びるのは
あるいは跡形無く人知れず滅ぶのは
自分の頭脳では何も考えない従順で純朴な人間か
自らの感官を頼りに世の中を素描するだけの芸術家

諸君
郵便受けの無い街で
歓迎されようなどと考えるな
そしてそこで女と酒には一銭も使うな

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短編『ゲボに光るいちごミルクキャンディみたい』

 ゲボみたいに輪郭のない人生について書くとしたら。

 2023.8.20

 「母が亡くなりました。猫については……」
 愚痴でその存在を聞くだけだった佐藤さんの息子さんからの着信に呆然とした。突然の喪失に涙も出ないわたしは、ただ夏の暑さに項垂れて、半分夏へと溶け出している惨めな三十路の女だった。
 夏にはたくさん溶け出して、冬にはよく凍る。わたしは二十五を超えたあたりからそういう体質に変化した。母もだいたいそうだったと言うし、だいぶん前に亡くなった祖母も、四十をすぎた頃にはよく夏に溶けていたと母から聞いた。
 それにしても、世のおばあさんたちはほんとうによく死ぬね。わたしは独りごちたあと、来た道を引き返して、自分の部屋に帰った。
 
 これからもわたしはたくさんのひとを失うだろうし、そこに占めるおばあさんの割合はとても高いことが予想される。猫のボランティアも世相と同じく高齢化が進んでいるから。
 亡くなった佐藤さん家の猫は、歳をとっている子が多くなってきていた。佐藤さんが見送るはずだった猫たち。シニア猫や病気で介助が必要な猫、次々とさまざまな猫の顔が浮かぶ。佐藤さんが個人で猫の避妊去勢をした上で保護をした猫たちは二十匹で、佐藤さんがあと十年余り生きれば、全てを見送れるはずだった。ただ、佐藤さんは昨晩亡くなってしまったらしい、コロリと。
 コロリと死ぬこと。それは老人の抱く最も強い夢の一つだろうが、コロリと死んだことを佐藤さん自身はどう感じているだろう。無念だろうか、一抜け! だろうか、わからない。佐藤さんはどう思っているだろう。
 
 今頃、彼女が見送ってきた、たくさんの猫に囲まれてしあわせにやっているのだろうか。わたしが、夏に溶けてしまった下半身を集めている間に、死んでしまった佐藤さん。一昨日、猫の世話であったばかりだ。下半身が溶け出すと、トイレに行けなくて困るから、昨日は佐藤さんの家に手伝いに行けないと連絡をしたばかり。ok、体に気をつけて! と返信が来たのに、それっきり死んでしまうなんて聞いていない。
 もし佐藤さんが死んでしまうなら、もっと話したいことがあった。ここにいる猫の配分、他にもいる佐藤さんの手伝いの、誰がどの子を引き取るか、誰にどの子を見てやって欲しいか。
 いや、そんなことはどうでもいいな。わたしが佐藤さんと話したかったのは、(すべてが過去形になる)、そうだな、一昨日の帰りにくれたいちごミルクのキャンディ、あれ、わたし食べられないんですよ、ほんとは。ただ、佐藤さんがずいっとわたしに押しやってきたから受け取っただけで。わたしこれをたべるとそわそわするから。おばあちゃんを思い出して。


 1997.夏

 わたしが子どもの時、あれは5歳のとき。おばちゃんはいつも黒飴といちごミルクのキャンディをテーブルの上の折り紙でできた箱に入れておいていた。わたしは一度、いちごミルクを喉に詰まらせて、母さんにそれを吐かされたことをまだ覚えている。ゲポッという音を立てていちごミルクが喉から出た後、昼におばあちゃんや母と食べたゴーヤチャンプルーや白米もわたしは吐き出した。吐瀉物の海に混じったいちごミルクのキャンディがきらきらぬめらかに光っていた。その光景が奇妙に目に焼き付いている。
 母がわたしを寝かせた後、おばあちゃんに懇々と話しているのが、襖越しに聞こえた。
「ああいうのあげないでって言ってるでしょう。メイコに不自然なものはあげたくないの。それに喉に詰まらせてるのに、母さんオロオロするだけだったじゃない」
 おばあちゃんの返事は聞こえなかった。ただ、次におばあちゃんの家に行った時、テーブルの上の折り紙でできた箱には、黒飴しか置かれていなかった。わたしもなんだか気恥ずかしくて、この前の嘔吐のことには触れずにそうめんをおばあちゃんと母の3人で食べた後、おばあちゃんとわたしは昼寝をした。
 おばあちゃんの家から自宅へ帰る時、おばあちゃんがこっそりわたしの手にいくつかキャンディを握らせてくれた。そこにはいちごミルクのキャンディもあって、わたしはちょっと緊張した。お母さんはどう思うだろう。わたしはそれを黙ってポッケに入れて、おばあちゃんに手を振り、母の車に乗り込んだ。
 
 祖母に最後に会ったのは、祖母が施設に入る前日の食事会だった。わたしは中学生になっていて、久しぶりに会う祖母の痩せ方に驚いた。ただ、祖母はメイコちゃん、かわいくなったねえ、と言ったきり、それ以上言葉を発さなかった。ただ、三人きりの食事会で、ただにこにこしているばかりで、何も話さない祖母。わたしは、そわそわした。何かを話さなくてはと、空回って、母に笑われた。母は今だってそのときのわたしをネタにする。
 お母さん、佐藤さんが亡くなったって。お母さんは佐藤さんのこと知らないよね。お母さん、この夏何回溶けた? わたしは五回。こう暑くちゃいやんなるよね。

2020.夏

 三年前と少し前、家の近所に小さな三毛猫が暮らしていた。毎日会っていると自然と情が移る。ねえ、今日はとても暑いね、お水飲めてる? だとか、ああ、ご飯くれる人が来たよとか、そうやって毎日話しかけていると、本当に馬鹿になってきて、一人の人間が、この子に何か出来ることがないかを本気で考え始めてしまう。なにせわたしは退屈だったので。
 市のホームページを見たり、外猫の暮らしを調べたりするうちに、わたしはこの子が99%メスで、次の春には子を産むことを知った。地区名とボランティアとsnsの検索欄に入れて、確定ボタンを押すと、たくさんの情報が出てくる。そしてわたしはそこで佐藤さんを見つけることになる。
 捕獲機を持って現れた佐藤さんは声が若々しくて、見た目も溌剌として、とても六十代後半のひとには思えなかった。それから、三毛猫が捕獲機に入るまで、わたしたちは佐藤さんの車で待機した。
 独特の緊張感に包まれた車内で、わたしが無理くり何かを話し出そうとしたとき、車の外から、ガシャンという、自転車がぶつかったような音がした。佐藤さんは、「猫、入ったみたい」と車から出て行き、わたしもその後を追う。
 捕獲機の前に行くと、いつもの三毛猫が小さく暴れながら直方体の捕獲機に入っていた。
 手汗で溶けかけていた手で、捕獲機に触れようとする。「危ないよ」。佐藤さんが、タオルを持ってこちらに来た。
 猫を落ち着かせるために、佐藤さんは捕獲機にタオルをかけた。そして、「これで完了! あとはこっちで病院連れてくから。お代金だけいただくね」、と言って額の汗を拭った。「また、ここにちゃんと戻すから、心配しないでね」。
 佐藤さんの言葉に、わたしの左手がゆるやかに溶け出す。また、この暑い中この子はここに戻される。これから寒くなってもこの子は外で暮らすこの子の将来を考えるざるを得なかった。
「この子、この子飼っちゃいけませんか」。佐藤さんは少し悩んだ後、「大変だよ、人慣れもしてないから」と答えて車の後部座席に三毛猫の入った捕獲機を乗せている。
「でも、いいです。わたし、この子に何かしたくて。毎日、会ってるから、情が移っちゃってて……」。ふう、と言いながらこっちを見た佐藤さんは、まあとりあえず病院。話はそれから、と言った。
「あと、あなたが良ければ、私の家に来ない?」
 それからもう三年、毎日のように一緒に彼女の家の猫の世話をして、だいたい猫の話と日頃のお互いの愚痴やらを話していた。佐藤さんの家の猫二十匹みんなのトイレと、ケージ内の掃除をする手伝いをして、それが終わったら一緒に料理をしたり、持ってきた季節の果物を(リスのように)、分けたりした。
 
 一昨日の夕方はまだ、出回りたての梨を剥いて、ふたりで縁側で食べていたのに。たしかに、今思えば、佐藤さんは近頃少し疲れているように見えた。わたしと掃除をした後、休む時間が長くなったし、佐藤さんの白く細い手の皺が少し増えた気がしていたが、将来のことを考えないように目を伏せて、わたしは足元にいた茶トラの小太郎を撫でてそれを紛らわせた。
 小太郎はわたしになついてくれた初めての猫だった。近頃は歳をとって、よく眠るようになった小太郎。わたしはこの子が大好きだった。家の三毛猫は、三年の間でわたしに、まれにだっこをさせてくれるようになったが、やはり気まぐれで、大体の場合わたしに抱かれるのを嫌がる。
 小太郎は抱き放題、撫で放題で、ひっくり返ってわたしに腹を見せていた。佐藤さんに何かあったら、わたしが小太郎を引き取ることになるんだろうか。そんな考えを打ち消して、梨をシャクシャク食べて、その朝に見た朝ドラの話ばかりしていた。今思えば、佐藤さんもまた、将来に対して目を伏せていたのだろうか。
 たくさんの猫を撫でて、たまに猫たちは亡くなったり、譲渡されたりした。直近では二匹が亡くなり、わたしはおおいに泣いた。亡くなった猫に花々を組んで、またね、と言って佐藤さんと動物霊園のある寺へ連れて行き、見送った。帰りには二人ともドッと疲れて言葉少なだった。死んでしまった、というよりも、見送れた、という感情が胸を占めた。生き物の生き死にはわたしの心を締め付けたり、反対に豊かにする。わたしは次第に精神的に強くなっていき、佐藤さんとも親密になっていった。つらいことも山ほどあったし、知らない人にネコトリだと言われることもあった。でもわたしは何かに憑かれたように懸命に猫に向き合った。
 
 それと同時に、冬に凍り、夏に溶ける体質は、佐藤さんのおかげか、少しだけ改善されつつあった。冬に凍らなくなるには手首足首、首を冷やすなだの、しょうがを飲みものにいれろだの佐藤さんは繰り返し、夏はなす術がないから、と扇子をくれたり、わたしの三十歳の誕生日に、ピンクのハンディファンをくれた。
 人に物をあげることが好きな人だったから、わたしは彼女とよくちょっとしたものをプレゼントしあった。佐藤さんは喜んでくれるだろうかと考えるのが楽しかった。勘違いしてほしくないのは、この交換は祖母とできなかったからではなく、佐藤さんとするから意味があることだった。ごみを半分こで持ち、ゴミ捨て場まで運ぶことも、たまにわたしの運転でふたりでドライブすることも、それは不確実な瞬間の中でぴかんと光る祈りだった。この日々が続きますように、という。ありきたりだろうか? (実際、ひとの思いはみな普遍でありきたりだろうとわたしは思うが。)
 いつの間にかわたしの日々は猫たちで塗りつぶされていた。つまらなかった日常に現れた佐藤さんと猫たちは、いつかの、ゲボの中にきらりと光っていた、いちごミルクのキャンディだった。
 

 
 佐藤さん、来ました、メイコです。と声をかけて、棺の小さな窓を開け、彼女の顔を見た。化粧をされていて普段よりずっと綺麗に見えるが、どこか作り物めいて見える。
 ああ、あ。と、猫が肛門から捻り出す便のように、自然と声が漏れ、わたしは夏に包まれていた。止まらなかった。
 ちがう、本当はそんなに簡単なことじゃない。
 ばかやろー! なんで死んでるんだよー! わたし寂しいじゃないですか。佐藤さん、まだまだ一緒に話しましょうよ。猫一緒に撫でましょうよ。
 猫の分配を話し合いたそうにしている、他のボランティアの人たちが、小さな水たまりを作っているわたしを驚愕の目で見ている。わたしもその輪に加わらねばならないが、そうはできなかった。夏が来たからだ。
 わたしが座っているあたりの水たまりは面積を広げて、そのままついに床が浸水し始めた。佐藤さん、わたしあなたがいないとこうなんですよ。わたしはついにぷかぷかと浮かびながらひとりごちる。ほんと、ゲボみたいな人間なんです。佐藤さんや猫たちがいないと。
 そのとき、猫の鳴き声が一つ二つと聞こえてきた。それなら、いるじゃない、とでも言うように。わたしは川をかき分けて鳴き声のした方へ向かう。いちごミルクのキャンディ。ゲボみたいな日常のなかのぴかん!
 わたしは佐藤さんの死自体を一瞬失っていた。わたし、生きている。
 足元では、いつの間にか小太郎が、黒いストッキングに体を擦り付けていた。小太郎を抱き上げて皆の輪に入る。

 ゲボのように、いちごミルクキャンディに生かされている。いつの間にか、わたしがそのキャンディを生かしていたのかもしれないけれど。小太郎が私の手を舐めながら、なーんと鳴く。わたしはそれを抱きしめて、涙声で大丈夫よと囁く。わたしたち、生きているから。

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ぷろはらすめんたー

 僕は天才コロシ屋だ。
 それも飛び切りセンスが良くて、この国で1番華麗な技術を持っている。

 この国の首都の真ん中に、どんな悪事も見逃さない、切れ者揃いの刑事が揃う天下無双の警察署がある。この国に巣くう悪党どもは、彼らが広げる捜査網をすこぶる恐れて警戒していて、びくびくおどおど暮らしてる。
 老人を騙す詐欺師のアツシも、怪しい薬を売ってるカズキも、泥棒猫のキャッシュ姉妹も、ギャングの親玉バーボンだって、ひとたび刑事がパトカーに乗ればトッピンパラリと逃げ出す始末さ。

 それでも僕は捕まらない。見つけることさえ不可能だろう。どんな凄腕刑事だろうと僕のコロシは止められないのさ。
 今夜は月がとっても綺麗。仕事道具を右手に握り、カリカリささっとヤっちゃおう。

 連続連夜のコロシは4日目。今夜はホテルの最上階で、麗しレディーを密室サツジン。右往左往しているスタッフ、怒りで真っ赤な警察官達、恐怖におののく野次馬連中。みんなの感情豊かな顔は、僕が残らずメモに取ってある。疑心暗鬼がうごめく街角、こんなに楽しい夜はないよね。
 真犯人はそこにいないのに、誰も彼もが犯人探しだ。

 そして翌朝、急展開。
 密室トリック見事に破られ、電光石火の犯人逮捕だ。
 どのチャンネルもトップニュースで、犯人の顔を晒してる。
 イケメン犯人レディーの元彼。異性交友関係の歪みが生んだ、悲劇の事件。

 実行犯は捕まったけど、真犯人は僕なんだよね。
 そうさ、僕が命令を下し、彼の身体を操って密室サツジンをさせたのさ。
 彼は泣いて嫌がってたよ。
 だけどこれは命令なんだ。
 あの方々が望んでいるから。僕に生きがいを下さっている●●様が望まれたこと。世界が求めるジャンルのために彼はやらなきゃいけなくなった。
 コロシをしなくちゃいけなくなった。

 このサツジンは必要なことさ。
 世の中にとって。
 僕にとって。
 ●●様にとっても、ね。


 次の獲物は誰にしようか?
 別荘に暮らすタレントのジョー?
 それとも花屋のミルチルさん?
 車を売ってるクドウもいいかも。彼はあちこち恨みを買ってる。なにせ壊れた車を売っては、各地で事故を招いてきたから。

 クドウは今夜、海辺をドライブしちゃうらしい。これなら楽にコロシができる?
 よし決めた!
 右手に狂気を握りしめ、白紙の未来に書き連ねていく。
 次のシタイは車屋クドウ。サツジン犯は、そうだな~。道の駅にいるアルバイト君。
 犯行動機はありがちだけど、みんな大好き親の敵だ。
 僕が右手で彼を操り、彼は右手で鉄鍋を振り、クドウの頭をゴッチンと。


『プルルー プルルー』

 こんな時分に誰やねんって。はーいはいはい、もしも……うげッ……ゲフンゲフン。いつもお世話になっております。はいはい。ええ締め切りですよね。もちろん、大丈夫です。2週間後には必ず。え、10日後でしたっけ? あ、いや、全然ピーポー大丈夫! もちろんですよ。間に合わせますとも。そんなそんな、読者様をお待たせするなんて、やだな~担当さん。えっと、それでお電話の用件はそれだけ……え? 発売タイトルが決まったんですか?
 首都直下型連続殺人事件~爆誕卵のプリン刑事カラメルルの魔法事件簿~
 ……え……ぇえぇ?
 魔法? あの、うちの話に魔法なんかこれっぽっちも出てこないんですが? はぁ、コスプレ……。ステッキ持ってるだけ……。最近は魔法女装子がブームなんすね。いや、いや! 不服なんて! すみません、トレンドとか見てなくて、はい、わかりました。適当に主人公の容姿を書き換えておきます、はい。進捗状況……ですか? えっと、さっき4日目のコロシの犯人が捕まりまして、これから5日目のサツジンを書くところで……いやいや、間に合いますって。もちろん。はい、はーい、失礼します、はーい、は~~~~い。


 ……ふう。
 何にゃねん、プリン刑事って。女装子なんか聞いたことねぇ。存在するのか?
 おっと、だめだだめだ。読者様がそういうのを望まれているんだから文句を言ったら罰が当たる。

 よーし。アルバイト君、やれ。
 コロシをしろ。
 ひと思いにクドウの頭に鍋を振り下ろせ。
 ああん? やりたくないだ?
 何を甘っちょろいことを言ってるんだ。泣くんじゃない! 喚くんじゃない! 僕の仕事をなめるなよ?
 いいか? 君がやらなきゃ話が進まないんだよ。小説が次章に進まないんだ。わかるだろ?
 こんなところで話を終わらせるわけにはいかない。首都直下ぁなんとかぁ爆散プリプリン刑事を落とすわけにはいかないんだよ。
 登場人物が全員消えちまおうが、捕まろうが、ヤられちまおうが、作者のこっちは痛くも痒くもないんだからな。
 さっさとやれ、やっちまえ、君には親の敵を探してるという過去をくれてやる、ついでに名前もくれてやる。
 出番を与えてやったんだから、ありがたいと感謝しなさい。言われたとおりに活躍しなさい。そして、思う存分やんなさい!
 ゆけ! 君に決めた!




背後に立ったアルバイトの少年、野田の瞳から光が消えていく。
スマホの画面に視線を落としているクドウが、少しでも背後に気を配れていれば、その凶撃をかわせただろう。
だが、欲望に溺れて積み上げてきた自業自得の業の重みは、天秤の反対側に乗せられた生き延びるという選択肢を、あまりに軽くしてしまった。
彼の命は軽すぎる。
彼の業が重すぎたのだ。

彼が背後の殺気に気が付くことはない。
救われるための祈りの言葉は、誰の口からも紡がれることはない。
ほぅら、閻魔帳にその名が打たれた。

一歩。
また一歩。
鶏油に濡れた右手で、鍋の取っ手をギリリと握りしめたアルバイトの野田は、息を止め、歯を食いしばり、血走った目で振り上げた鍋を――。






おしまい。
2025/11/10 少し書き換え。


ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
  

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旗日

十一月二十三日
元は新嘗祭の日

今年は三連休
庭の木々も
短い秋の色

山の頂は少し白く
河川敷では
秋の風物詩の桜色

お昼
深く日が差し込むリビングの奥
ここも暖かいとわんこは居眠り



一六時にはもう
庭の大半は隣家の陰に
色を落としながら、静かに遷ろう

暗くなる前に
わんこの散歩
いそいそと玄関に向かう

遠回りをしたがるわんこを
そのままにあるかせる
今日はニコンは置いてきた

いくつかの電車追いかけて
満足げなわんこに
さあ帰るよと 声をかけ

街灯が点き始める道を
暗くなる前に戻ろう
明日は早起きするよ 旗を出すからね


今日は十一月二十二日
明日晴れますように。

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ヴァリアンス法律事務所:『アルカディア・ゼロの線形的な崩壊』

レックス・ヴァリアンス法律事務所には、建築の神話に触れるような、厳粛な空気が漂っていた。依頼人は、世界的な建築家・東雲康平。彼が設計したスマートシティ「アルカディア・ゼロ」は、等間隔で外側に広がる「アルキメデスの螺旋 (\bm{r = a\theta})」の配置で知られる、人類の「論理の線形性(せんけいせい)の極致」だった。
訴訟の核心は、中心部の美術館の配置が、設計図に対しわずか \bm{0.01\text{メートル}}、螺旋の成長軸からの距離がズレているというもの。極端な「均質な秩序」を信奉する住人団体は、この微細な「線形のヴァリアンス(相違)」が街全体の調和と、住人の精神的健康を崩壊させたと主張し、改築と巨額の賠償を求めていた。
恰幅の良い田伏正雄は、特注スーツの胸ポケットに、象徴的な金のコンパスをしまい込んだ。
「ユカリ君。相手の主張は『均質な調和の崩壊』だが、我々は、東雲氏のコントロールの範疇を超えた、理論上存在しないはずの『ノイズ』を突き止めなければならない。アルキメデスの線形成長に関する全ての数値に、その『ノイズ』が潜んでいる」
隣席のアソシエイトの棚田ユカリは、シミュレーションデータの前で青ざめた。彼女は、控えめな色のワンピースを着用していて、その表情は、細身のフレームの眼鏡の奥で、データに潜む微細な異変を捉えようと真摯なものであった。
「先生。シミュレーション上、誤差はゼロです。この $0.01\text{メートル}$は、計測機器の限界を超える『知覚的なノイズ』に過ぎません」
田伏は静かに目を細めた。
「ユカリ君。表面上のデータに『コントロール』されているぞ。彼らが主張するのは、『存在しないはずのヴァリアンス』だ。それは、建築物の『線形秩序』そのものに潜む、我々が見落としている『深淵』だ」
田伏の言葉を聞いたユカリは静かに目を閉じた。彼女の頭の中では、アルカディア・ゼロの建築に関わる数万ページに及ぶ設計図、資材報告書、気象記録が、まるで巨大な幾何学的な結晶のように、完璧な索引と構造をもって整理されていた。彼女は、超記憶症候群の能力を有しており、情報全体の論理的・物理的な構造を絶対的な精度で再構築することに特化していた。
「先生、これです。『基礎工事』の記録。資料番号 7-4-C、日付は2022年8月14日。東雲氏は、外部のノイズを排除するため、『地盤の微細な振動を吸収する特殊なゲル素材』を基礎に採用していました」
ユカリは、目を開くと、資料の山を迷うことなく正確に指さした。
「このゲル素材の硬化プロセスに関する論文(スミス・etal.)が、資材報告書の関連資料リストの14番目に添付されています。この論文の第3章の脚注2に、『このゲルは、硬化時に摂氏40度を超える急激な温度変化に晒されると、理論上の収縮率とは異なる、不均質な異方性収縮(ひずみ)を生じさせる可能性がある』とあります」
そして、彼女の脳内で再構築された現場の記録が、答えを導き出した。
「美術館の基礎が打たれた2022年8月14日午前11時32分、現場の気象記録は『想定外の気温の急激な上昇』を記録していました。計測値は\bm{41.2}度。この温度変化が、ゲル素材の『体積収縮率』に、わずかな『不均質性のヴァリアンス』を生み出したんです」
ユカリの眼差しに力がこもる。
「つまり、美術館の『基礎』は、設計図通りに配置されても、その素材内部の収縮率の差によって、自重で極めて微細に『傾斜』した。この傾斜こそが、住人たちが『景観の調和の崩壊』として『知覚しているノイズ』ではないでしょうか? 配置の線形的な距離ではなく、『基礎の論理的破綻』こそが、この問題の本質です」
田伏は、静かに、しかし深く頷いた。アソシエイトであるユカリの『情報構造のヴァリアンス』が、鉄壁の論理に亀裂を入れたのだ。
法廷当日。相手方弁護士が、高精度レーザー計測器のデータに基づき、わずか $0.01\text{メートル}$の距離のズレを証明しようとした時、田伏はゆったりと立ち上がった。
「建築物の『表面的な線形的秩序』のみに囚われています。我々は、その秩序を支える『基礎の物理的論理』の、避けられない『ヴァリアンス』を提示します」
田伏は、スクリーンに、ユカリが特定したゲル素材の収縮論文の脚注、現場の気温グラフ、そして美術館基礎の微細な傾斜シミュレーションを並べた。
「東雲氏の設計は、『完璧なコントロール』を求めました。しかし、この特殊ゲルは、硬化時の『環境のノイズ』によって、わずかな『不均質な収縮』を生じました。その結果、美術館は、設計図通りの位置にありながら、基礎の論理的破綻により、自重で極めて微細に傾斜している」
田伏は、厳しい眼差しで結論を述べた。
「この『景観の不調和』は、人間の過失ではない。それは、『物理法則』が、『完璧な線形秩序』を追求した人間の『過剰なコントロール』に対して突きつけた、避けられない『ヴァリアンス(限界)』である。人間が、いかに『アルキメデスの線』のように均質な論理を追求しても、自然界の『ノイズ』は、必ずその論理を微細に歪ませる。この『論理の限界』こそが、この訴訟の真の争点です」
裁判長は、田伏の提示した「基礎素材の物理的破綻」という、誰も指摘しなかった深淵なる視点を認め、住人団体の改築要求を棄却。田伏、勝利。
事務所に戻った田伏は、静かにユカリに語りかけた。
「ユカリ君、今晩、私は『線形秩序』の儀式に入る。東雲氏の『アルキメデスの限界』は、自然の『ノイズ』に対する人間の傲慢さの証だ。明日の朝、君は、『線形のピラミッド・アスピックと不可視のヴァリアンス(精確に等間隔に配置した、コンソメゼリーとアボカドのキューブ。ただし、ゼラチンの濃度にわずかな不均質性を持たせたもの)』を味わうことになる」
ユカリは、疲労困憊ながらも、新たな仕事の山を前にした。
「先生、承知しました。来週までに、建築材料の『微細なヴァリアンス』に関する国内外の論文すべてを、その論理的な構造の関連性に基づいて、分類・サマリーします。アスピックも、楽しみにしています」
田伏は、頷いた。彼の「コントロール」は、法廷の勝利も、線形のピラミッド・アスピックも、そしてアソシエイトである棚田ユカリの『探求心のヴァリアンス』も、全てを掌握していた。胸のポケットに在る純金のコンパスがカチリと勝利の音色を放った。

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それで わたし

少しだけの 自信と
たくさんの 抑圧と

その自信も せいぜいプロの下っ端で
その抑圧も 気にしなければ済むほどで

それでも わたしはわたしの脚で歩んできた
それでも 笑い飛ばせるほどの度胸は無くて

だから 積み重ねる
だから 受けながす

それが わたし
それで わたし

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時の靴

葉の紅色が
滲むように無垢なのは
ただ懸命に
今を生きる色だから

人だけが履く時の靴
先に行ったり
後ろに行ったり
そっと今を忘れている

素足で私を歩けたら
今を大事にできるかな

素足で私を歩いたら
痛みにも強くなれるかな

脱ぐ勇気もないままに
今日も時の中を右往左往




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むりなので

ならんで
だまったまま
ずぅっと
うみをみていられる
てをときどき
つないで
あたためあって

そんなのは
むりなので

どようびは
ねことこどもを
かわるがわる
ひざにのせたり
だっこして
おひるね
にちようびは
べつべつに
おでかけしたりして
ほんをよんだり
げーむしたり
せんたくしたり
そうじきかけたり

なきたくなったら
うみへいこう
せつなくなったら
もりをあるこう
さみしくなったら
かわをはしろう
ひとりになったら
よぞらにうたおう

そんなの
むりなので

こどもがねだる
えほんをよんで
なだめすかして
めをつぶらせ
ねこやこどもの
おかしなはなし
まぶたがおちてしまうまで
いくつかする

わたしたちには
まだ いろいろ
たいしたことないことでも
むりなので
とすませてしまえる なかなので

きょうもとりあえず
おやすみなさい
あしたがやってくると
しんじきっている
あたたかさにくるまれ

おやすみなさい おやすみなさい
りそうとはやっぱり かけはなれて
でもそうやって やっていく
こいとかあいとかだけでは

たったひゃくねんすらも

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いきづらい

ぜんぶぜんぶ
めにはいり
みみにはいるものを
ジブンゴトにしてしまう
おろかさをもちきれなくて

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 2

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時代

1.
顔を洗って髭を剃ると
私の顔は鏡の中にあった

洗面所の窓
その外にはいつも外があって
夜がまだ薄っすらと残っている

貞淑な絹枝は朝食の後片付けをしている
今までの毎朝を
そしてこれらの毎朝を
貞淑であり続けるかのように

身支度を終え玄関で靴を履く私は
行く先もわからぬまま今日も勤めに出る
そう言えば先ほどまで
ミルクのようなものを飲んでいた気がする

扉の向こうでは
戦争が始まっている




2.
街にはたくさんの人がいて
足音を立てることもなく歩いていた

足音は
いったい何時から
どこかに行ってしまったのだろう

列車に乗って
足音のある駅に行こうとしたのだけれど
そんな駅はありません、と
駅員たちは首を横に振るばかりだ
たしかにそうかも知れない
彼らは足音など聞いたことがないのだから

家に帰った私は
辞書で「あしおと」について調べた
その後二時間
絹枝と「あしおと」について語り合った




3.
絹枝はもういない
私は思い出す
絹枝の髪を
その長さを
その色を
その枝毛の数まで

日曜日の暑い朝
足でシーツの冷たいところを探れば
いつもその先には
絹枝の冷たいふくらはぎがあった

冷たいふくらはぎの絹枝
絹枝
絹枝
絹枝
絹枝の名を三回呼んだ

四回呼んでも
絹枝はもういない




4.
その日、私は公園で
午後の半日を素描に費やした
散歩途中の杖をついたおばあさんと
寒いですね、なんて話をした以外は

夕刻になり
役場のスピーカーから音楽が流れ
人々は足音を鳴らしそれぞれの家路につく
帰るべき場所があるならば
私もそろそろ帰るべきなのだ



公園のベンチ
男が忘れていったスケッチブックは
すべてが空白で埋め尽くされており
最後のページにだけ擦れた文字で
女と思しき者の名前が書かれていた
いつしか雪が降り始め
すべてを白く覆い尽くそうとしている
残痕も
残像も
残響も


その小さく白いものの降って来るところを
人々が

と呼んでいる

 50

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