投稿作品一覧
あなたはこの詩人の父親になれない
身体という戦場において
殺された子どものばらばらの手足が
危険ではない場所で悪さをするので
どうしたらいいのかわからなくなっている
女は頭の中に新聞広告を思い浮かべてみる
むかしアメリカの小説で読んだような
「入眠儀式の協力者求む
ぬいぐるみ 妖精 悪魔 老犬可
性と時間のない者に限る」
かれはホットミルクを用意してくれ
歯を磨かせ パジャマを着せてくれる
銃声は止み
眠りはふたたびおびやかされない
だから安心して欲情することができる
三千世界の鳥を殺さなくたっていい
だって非道いから それに
ほんとうは時間は流れていくほうがいい
凍てついた大河のような彼女は
遠くまで行けるはずなのに
針と糸と炎がないから詩を書いている
その皮膚はまだ美しく張りつめているが
いまのくらしは
いっぱいの順風を受けるヨットではない
論考:ネット詩投稿サイトはどのような夢をみてきたか
本稿では、インターネット詩投稿サイトの歴史を整理し、その変遷を論じる。対象とするのは、文学極道、B-REVIEW、Creative Writing Spaceの3サイトである。他にも現代詩フォーラムなど著名なサイトは存在するが、本稿では単なるアクセス数や投稿数の多寡ではなく、場としての理念を明確に打ち出し、ネット詩文化の方向性に影響を与えたサイトに焦点を当てる。上述の3つを論じることで、オンライン詩投稿サイトの歴史を大まかに俯瞰することができるだろう。
まず、筆者自身の立場を明らかにしておく。2017年頃、文学極道において創作活動を開始し、同年、新人賞を受賞した。また、B-REVIEWでは創設メンバーの一人として、ガイドラインの策定を含むサイトのコンセプトや制度設計に関与した。現在はCreative Writing SpaceのFounderとして運営を統括している。
文学極道の最盛期をリアルタイムで経験したわけではないが、オンライン詩投稿サイトの変遷について一定の知見を持っている。本稿は、詩に関心を持つ読者のみならず、小説や戯曲など詩界隈以外の創作に携わる者にも届くことを目指している。ネット詩の興亡を整理し、今後の展望を示すことで、オンライン上の文芸創作に携わる人々の議論の材料となることを願う。
【文学極道──ネット詩投稿サイトの象徴】
文学極道は、2005年に創設された硬派な詩投稿サイトである。私は2017年頃に半年ほど活動したのみで、最盛期をリアルタイムで体験したわけではない。しかし、このサイトがネット詩文化に与えた影響は計り知れず、文学極道の成功こそが、その後のネット詩投稿サイトの方向性を決定づけたと断言できる。
文学極道は、最果タヒ、三角みづ紀といった広く読まれるようになった詩人が投稿していたことでも知られる。特に、初期の投稿作品の質の高さと、コメント欄で交わされた鋭い批評の応酬は特筆に値する。
サイトのトップページには、次のような一節が掲げられていた。
>芸術としての詩を発表する場、文極(ブンゴク)です。
>つまらないポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。
>あまりにもレベルが低い作品や荒しまがいの書き込みは削除されることがあります。
>ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい酷評を受ける場合があります。
>酷評に耐えられない方はご遠慮ください。
この言葉が示す通り、文学極道は単なる創作発表の場ではなく、詩を芸術として追求する者のための修練の場を標榜していた。馴れ合いを排し、批評によって切磋琢磨する文化を築くことが、この場の理念である。文学極道は、インターネットがまだ黎明期から拡大期へと移行する中で誕生し、必然的に2ちゃんねる的な匿名性の高いネット文化の影響を受けていた。その結果、サイト内では低レベルな作品には容赦なく酷評することが許容され、むしろ推奨されるような雰囲気すらあった。罵倒や激しい批評が日常的に行われる場となったのである。
では、文学極道が夢見たものとは何だったのか。
文学極道が目指したのは、詩壇では評価され難い、真に新しい詩文学の創造の場、そして活発な批評の場であった。そのため、実験的な作品が評価され、罵倒を伴う荒れた議論も場の活力と捉えられていた。しかし、この批評文化の攻撃性は、やがて場そのものを揺るがすことになる。
【文学極道からB-REVIEWへ──批評文化の変質と転換】
文学極道における厳しい批評文化は、当初は場の水準を維持するための手段として機能していた。しかし、次第にそれ自体がサイトの荒廃を招く要因となっていく。過度な罵倒が横行し、サイト内の風紀が悪化することで、真剣に詩を議論しようとする者が次々と離れ、罵詈雑言ばかりが横行する傾向が生じた。そして、この状況に対するカウンターとして、2017年にB-REVIEWが創設される。
B-REVIEWは、以下の三つの原則を掲げた。
1. マナーを重視し、まともな議論ができる場をつくること
2. オープンな運営を心がけること
3. 常に新しい取り組みを行い、サイトを進化させること
文学極道が「酷評・罵倒の自由」を強調したのに対し、B-REVIEWは「罵倒の禁止を強調し、投稿者が安心して作品を発表できる環境」を作ることを重視した。一見すると、両者は対極的なサイトポリシーを持つように思える。しかし、本質的にはどちらも「オンラインならではの創作の場とレベルの高い批評の場を作る」ことを目的としており、その方法論が異なるに過ぎなかった。すなわち、似た夢を見ていたのである。
文学極道が2ちゃんねる的な文化の影響を受けていたのに対し、B-REVIEWはソーシャルメディアの時代に適応した開かれた場を志向していた。文学極道が罵倒と酷評による場の引き締めと活性化を狙ったのに対し、B-REVIEWはガイドラインとオープンな運営によって場を整え、活発な批評空間を形成しようとした。この方針のもと、B-REVIEWには文学極道の文化に馴染めなかったネット詩人たちが流入し、活況を呈するようになった。
また、B-REVIEWの運営スタイルは、文学極道とは根本的に異なっていた。文学極道が管理者主導の運営を行い、選評制度によって場の権威性を保っていたのに対し、B-REVIEWはオープンな運営体制を取り、投稿者の主体性を重視した。選評のプロセスにおいても、投稿者と運営者の垣根を超えた対話が行われ、投稿者が主導するリアルイベントの開催等の新たな試みが積極的に導入された。
では、B-REVIEWが夢見たものとは何だったのか。
それは、ハイレベルかつ安心して参加できる詩文学の投稿・批評の場の創造であった。従来のネット詩投稿サイトの問題点を克服し、新たな時代に適応した批評空間を作ることこそが、B-REVIEWの掲げた理想だった。
【文学極道の終焉──自由な批評の場から単なる停滞と崩壊へ】
B-REVIEWの台頭により、文学極道の状況はさらに悪化していった。B-REVIEWのマナーガイドラインに馴染めない投稿者が文学極道に集中し、サイトの荒廃を加速させたのである。かつて、文学極道は「自由な批評の場」であった。しかし、その自由は次第に「無秩序な荒らしの場」へと変質し、本来の機能を果たさなくなっていった。もはや、詩作品への鋭い批評ではなく、ただの罵詈雑言や無意味な言い争いが繰り広げられるだけの場となってしまった。
この状況に対し、運営の方針も迷走を続けた。荒廃を食い止めるために運営の介入が求められる一方、介入を強化すれば「文学極道の自由な批評文化が損なわれる」という批判が巻き起こる。しかし、介入を抑えれば無秩序が進行するという悪循環に陥った。
さらに、運営者自身が文学極道の理念を十分に共有していなかったことも、混乱を深める要因となったと考える。たとえば、終末期の運営者には、もともとB-REVIEWの評者として招聘されていたが、運営内部の諍いを経て文学極道へと移行した者も含まれていた。また、最終期の文学極道では運営主導の朗読イベント/ツイキャス配信が行われるようになったが、和気藹々としたオンライン交流は、「罵倒上等」の文学極道の風土とはそもそも相容れないものであった。
もともと文学極道が持っていた「罵倒を許容してまで議論を重視する場」としてのコンセプトと、後期運営が試みた「サイトの健全化」は、よほど緻密に進めないと両立しない類のものだっただろう。サイトコンセプトにそぐわない志向性を持つ運営者たちが運営方針を弄ったことで運営内外の揉め事が拡大し2020年、文学極道は閉鎖された。かつてネット詩投稿サイトの象徴であった場は、その幕を閉じたのである。
【B-REVIEWの凋落──運営の乗っ取り】
文学極道が終焉を迎えたことで、かつてその場に馴染んでいた投稿者たちがB-REVIEWへと流入した。しかし、これがB-REVIEWに大きな問題を引き起こすことになる。文学極道的な「罵倒・酷評上等」の文化、不規則な放言や誹謗的な発言を含め、マナーガイドラインに縛られず自由に発言できる場を復活させたいと考える者たちと、B-REVIEWの掲げる「マナーを重視した批評空間」を維持したいと考える者たちの間で、次第に齟齬が拡大していったのである。
B-REVIEWは「ガイドラインに合意した人間であれば、手を挙げれば誰でも運営になれる」という極端にオープンな運営体制を採用していた。この方針は理念としては美しかったが、現実には大きな問題を孕んでいた。すなわち、サイトポリシーに共感しない者であっても運営の中核に入り込むことが可能な脆弱な仕組みとなってしまっていたのである。
B-REVIEWは2017年の創設以来、複数の運営者によって引き継がれてきた。そして、B-REVIEWの運営は、文学極道を出自とする第八期運営者らに引き継がれたことによって2023年に大きな転換点を迎えることになる。かつて何度もB-REVIEWから出禁処分を受けていた人物が、運営側に招聘されたのである。この新たな運営体制のもとで、サイトのルールは事実上反故にされることとなった。従来であれば「マナー違反」として取り締まられていた行為が放置されるようになり、むしろ運営自らが批判者を中傷するような状況すら生まれた。これにより、B-REVIEWの運営方針は大きく変質し、従来の批評文化の維持を求めていた投稿者たちとの対立が激化することとなった。
また、サイト内の意思決定の透明性も失われた。それまでオープンな場で行われていた議論はディスコードへと移行し、投稿者全員の目に触れる形での意見交換は意図的に避けられるようになった。これに対し、「もはや本来のB-REVIEWではない」として数十名の投稿者が抗議し、これまでのすべての投稿を削除しサイトを去ることとなった。
現在、B-REVIEWは存続しているものの、創設当初に掲げられた理念はすでに形骸化している。本来の姿を知る者からすれば、屋号とサイトデザインが引き継がれているだけで、もはや別のサイトに見えるほどである。
また、本来のあり方を否定したために、かつて開発を支援したプログラマーや、資金援助を行った者からのサポートも失われており、今後の大きな変革はほぼ不可能な状況にある。ここで、B-REVIEWを乗っ取った者たちの行為を具体的に断罪するつもりはない。
しかし、強調しておくべきなのは、文学極道の最終期と非常によく似た現象が、再びB-REVIEWにおいても発生しているということである。つまり、「サイトの理念に共鳴しない者が運営の座につき、方針を変更することで場が混乱し、迷走し、凋落していく」という構造が、またしても繰り返されたのである。
【文学極道の亡霊にしがみつく人々】
B-REVIEWが創設されて以降、ネット詩壇には文学極道的な「罵倒カルチャー」を復活させたい、適度に荒れた雰囲気の場をつくりたいと考える人々が常に存在していた。そして最終的に、そうした投稿者たちがB-REVIEWを乗っ取る形になった。
本来、罵倒や荒れた議論は、創作に真剣に向き合うための「手段」であった。しかし、それが次第に変質し、「無秩序な放言や支離滅裂な発言、癇癪を起こすこと、誹謗的な発言をすること」すら、詩人としての特質であり、詩に対する純粋な姿勢であるかのように誤認する者たちが現れた。
不思議なことに、サイトを乗っ取った彼らは自分たちが何を目指しているのかについて、殆ど議論も説明もせず、批判には無視か排斥で応えるばかりである。議論すること自体を忌避するような性格の人々が、本来のサイトポリシーを反故にすることだけに妙に固執しているようにも見える。彼らが本当に求めているものは何なのか。
私の見立てでは、彼らが求めていたのは、文学極道というサイトが生み出してしまった「間違った幻想」である。
まともなことがほとんど何もできないような人々、すなわち、一貫性のある態度や振る舞い、社会的な態度、感情のコントロールが一切できないような人たちが、自己正当化の手段として、放言や支離滅裂な発言を許容しているかのように見える文学極道の文化にすがりつくようになったのかもしれない。彼らにとって重要なのは、創造することでも、議論を深めることでも、場を発展させることでもない。ただ、自分を肯定してくれる空気に浸り続けることに他ならない。
もともとは停滞する人々を排除するために存在していたはずの「罵倒文化」が、いつの間にか停滞する人々の拠り所となってしまった。ここまで読んでもらえればわかるように、私は文学極道というサイトが成し遂げた功績についてはリスペクトしている。また、最盛期の文学極道のような場を取り戻したいと思う人々の気持ちもとてもよく理解できる。
しかし、このサイトの残滓のような人々、場を乗っ取り、まともな説明を忌避し続けている人たちは、文学極道を含めて、これまでネット詩サイトが積み重ねてきた活動に対して、実質的に「悪口」を言う機能しか果たしていない。彼らはそんなつもりはないと反発するかもしれないが、しかし結局ところ、なんのつもりで場を変質させたかったのか、明確な説明も主張もない中にあっては、場を壊し、停滞させ、しかしそうした結果に無頓着な様子以外に読み取れるものがない。
【そしてCreative Writing Spaceへ】
B-REVIEWの混乱と凋落を目の当たりにした元運営者たちは、新たな文芸投稿サイトの必要性を痛感し、新しいサイトを立ち上げた。これがCreative Writing Spaceである。これまでのネット詩投稿サイトの歴史を踏まえ、サイトのコンセプトや運営方針を再設計し、新たな創作の場を築こうと試みたのである。
このサイトは、もはや「詩投稿サイト」ですらない。そもそも、詩の枠組みを超えた作品を生み出すことこそが、ネット詩投稿サイトの夢だったのだから、「詩サイト」を名乗る必要もないという急進的な考えに基づいている。また、詩の場である以上、不規則に振る舞って構わないはずだと考える人々が一部に蔓延る中にあっては、特定のジャンルを特権化せず、開かれた場をつくることが詩界隈にとっても利益になると考えた。特に、旧来の詩投稿サイトにまつわる過去の遺物──すなわち文学極道の「罵倒文化」やその残滓──を一切引き継ぎたくないという意識が強かった。
B-REVIEWの最大の問題点は、「オープンな運営体制が仇となり、乗っ取りが容易なシステムとなってしまったこと」にあった。この失敗を踏まえ、Creative Writing Spaceでは、クローズな管理体制を持ちながらも、分散的な自治が可能なシステムを設計することにした。
その一環として、サイト内通貨「スペースコイン」を導入し、単なる作品投稿の場にとどまらず、各ユーザーが自律的に活動できる仕組みを取り入れている。また、各ユーザーが気に入らない相手をブロック・通報できるシステムを整備し、運営が過度に介入せずとも各自が自身の環境を管理できるようにした。
さらに、詩だけでなく小説、幻想文学、戯曲など、多様なジャンルが交差する場を目指し、文学極道やB-REVIEWとは異なる新たな可能性を模索している。名興文庫との提携を通じて、小説界隈との連携を強化し、これまでのネット詩メディアにはなかった展開を示している。
サイトの立ち上げからまだ間もないが、月間の投稿数はB-REVIEWの最盛期と同程度に達しており、順調に成長を続けている。しかし、これはまだ始まりにすぎない。Creative Writing Spaceはどのような夢を見ているのか──それは、かつての文学極道やB-REVIEWが見た夢の続きであり、それらとは異なる、新しい何かでもある。
【言い訳としての結語】
Creative Writing Spaceは、特定のジャンルに依拠しない文芸投稿サイトである。あたらしく進めていくことをテーマに掲げている。したがって、本稿のように、詩投稿サイトの系譜を振り返ること自体が本来の方針にそぐわないかもしれない。
名興文庫との提携を通じて小説界隈とも接点を持つ中で、特にアンチ活動に勤しむ人たちを目にするにつけ、小説の世界にもまた、特定のジャンルに閉ざされることで停滞が生じていることが理解できた。他方で、特定のジャンルに囚われることなく、純粋に創作を研ぎ澄ませたいと考える書き手が一定数存在し、Creative Writing Spaceに参画くださっていることも確かである。
特定のジャンルに閉じないことは、詩に限らず、創作全般において重要な課題なのではないか。内輪の論争に拘泥するのではなく、異なる背景を持つ書き手たちが交わり、互いに刺激を受けるような場を築くことこそが、今後の文芸創作の発展にとって必要なのではないか。Creative Writing Spaceは、まさにそのような場を目指しており、現状にとどまるつもりがないからこそ、この論考を投稿している。
……、……
ねえねえ 一番強い、剝き出しの言葉って、なんだろねーーー?
…………おぎゃあ、かな?
じゃあ、二番目は?
……君の名前……
恋は甘い眠り
何度目かの呼び出しに
醒めた心で向き合ってくれた君
僕の言葉は届く事無く音もなく消え
君の言葉は意味を持たずに重く重なる
時間だけは正確に夜を刻み
二人の言葉を寄せ集めては
逃れる事の出来ない現実へと誘おうとする
甘い眠りから覚めた時から
僕は新しい子守歌を歌い始める
君の居ない夢を見る為に
これって設計バグですか?
おんなじような カラダして
おんなじような 感情感覚を持ち
おんなじ色した 透明な涙と
おんなじ色した 真っ赤な血と
どこまでもおんなじように
おんなじように見える ボクら
おんなじ国の おんなじコトバを話し
おんなじ景色を見て
おんなじ空気を吸って
おんなじように お腹はすくし
おんなじように 喉も渇く
ケガをすれば 痛いのはおんなじ
のはずなのに
どうしておんなじようには痛くならないの?
おんなじようには悲しくならないの?
おんなじようには淋しくならないの?
君が流した涙と
ボクが流した涙
おんなじ色した ちがう悲しみ
ちがう痛み
まったく 紛らわしいったら
最初っからなにもかもちがうのならば
おんなじような姿かたちになんか
設計しなけりゃよかったのに
なまじ 似通ってしまったものだから
ボクらはいつだって
そのちがいの境界線の狭間で迷子になって
あっちぶつかり こっちぶつかり
身に覚えのありすぎる青アザばかり作っては
痛い痛いと泣いている
かわいそうにかわいそうだから
やさしくしてよと
泣いている
葉隠
草の汁で書く時候の挨拶が
脈絡のない光の渦へ吸い込まれていく
三十年前に貰った、さして親しくもない人の
暑中見舞いに汗塗れで返信する
小林さん、巨象の皮膚の裂け目から
夜明けのような腐臭がします
滴ってくるのは呪言の粒です
この世の夏に雨も洪水もありません
わたくしがわたくしにしがみつくための
どの指先にも
もう一枚の爪も残っていない
血もインクも滑る間違いなく滑る
三十年間を一瞬で滑落し
その先で
夏に繋がる骨を
全骨折するのでした
あはれ
乾いた骸に
臭うほどの現実は残るか否か
アメリカンブルー
葵は薄い水色に白い絵の具を垂らしたような、そんな羽色をした小鳥だった。
雌のマメルリハの葵は、とても気が強く、ピンク色の嘴で噛んだ。子供達は葵のことをとても怖がった。
そんな葵だが、私にはとても懐き、肩に止まって、長い髪の中に埋もれて眠るのが好きだった。
今でもカゴの中に入れた、ブランコの鈴を、無防備にお腹を見せながら、自分に酔ったように鳴らす姿が忘れられない。
一月の寒い頃、葵は体調を崩した。
病院に通い薬をあげながら、ひよこ電球のオレンジ色の明かりの灯る、プラケースの中で療養させた。
あんなに大食漢だったのに、少しずつ餌の食べが悪くなっていった。
あのピンク色の嘴も、血の気が失せたように白くなっていた。
そんな葵に海外の専門店で、今まで食べたことのないシードを取り寄せた。葵は目を瞑りながら、ゆっくり味わうように、一粒一粒、食べた。
いつものように葵をケースから出して、シードを掌にのせたが、食べようとしなかった。嘴の側まで持っていくと、やっと口を開いて食べてくれた。
その日は葵のことが気になって、夜中に何度もプラケースを覗いた。葵は羽根を膨らませて眠っていた。
明け方、目が覚めてケースを覗くと、まるで私を待っていたかのように、葵が身体を伸ばして、小さく鳴いてこと切れた。まだ温もりのある葵を手の中に抱いて、何度も大好きと言った。
プラケースに花を敷きつめた、お花のベッドに葵を寝かせた。頭の白い模様のところを、気が済むまで撫でた。
葵を埋めた庭の片隅に、葵の色とそっくりな、アメリカンブルーという花を植えた。毎年、初夏になると、一年草のその花を植えるようになった。
今年もアメリカンブルーの咲く庭を、鈴の音のする風が吹き抜けていく。
そうゆうことか
人生100年時代 あと半分以上あるのに
老眼で読めない字ばかりだ
おしゃれな化粧品はどう使うのか読めないし
メニューのケーキの味は写真だのみ
そういえば 視覚障害を持った友人は
やたらと店員さんに味を聞いてたな
そうか そうか そうゆうことか
i see
そうゆうことかって場面が
これから増えそうだな
スプーン
歩いても 走っても
ほぐれなくて
ドレミも石蹴りも
昔みたいに出来なくて
枕に顔を押しつけて
わんわん泣いた
チカチカと
太陽が煌いて
鏡に跳ねた音かしら
振り向くと
やさしい羽根が浮かんでた
一階からスープの作る匂いがして
おばあちゃんの笑い声もして
トカトカ
階段を降りてあいさつする
うさぎの目してる私に
スプーンをそぉっと握らせる
カチカチも
チカチカも
かわいそう
でみていられない
といわれつづけ
おなじことを
わたしだって
おもいつづけている
だから
さいごのひくらい
じぶんできめて
めを
たくわえたしぼうに
うずもれたひとみを
ほりおこし
かっぴらいて
みてやるのだ
おわりくらい
まっしょうめんから
なにもできないから
書いているだけで
偉そうに
欠いているから
書いている
と胸を張ったわたしを
上書き訂正塗り潰しに
ひっしな だけ
逃げられない
出て行けるのも
帰って来られる
家があるからで
どちらも出来ないのは
光栄でありながら
(不出来な欠陥だらけの)
わたしが 家になってしまったから
氷
その水が氷った時、それはもう水とは呼べない
同じことだと思うんだ
君の前に手付かずで置かれた
アイスコーヒーに入っていた氷が
ただの水になるまでの短い時間に
僕たちの関係を名づけていた呼び名が
他人、と変わってしまったように
*
氷で出来た、鍵と鍵穴
溶ける前に、差し込まれた
そうして私の中に入ってきたあなたは
つめたいと感じただろう
事実私は凍えていた
だからあなたも凍える前に出て行きたい時に
出て行けばいい
私は私から、出て行けないけれど
穏健派はいつも遅れてやってくる
まず、私のCWSのアクセス禁止処置を解いて下さった花緒さんに感謝の礼を述べたい。
しかし、今現在も、ビーレビューはアーカイヴ化へ向けて問題は山積しており
(資金面の問題、これは現代表にビジョンがあるとの事。実務を担当するエンジニアの技術的課題、そうして、著作権の問題もあり、アーカイヴ化した場合に掲示された作品の削除を求められた場合どのように対応するか、等)
本当の意味で、私がこのCWSを利用するにしても、「けじめ」がついていない状態であっていつも、遅れてやってきた私の戦いはこれからが正念場だという気がしている。
そう、いつも、私は遅れて合流した。
#じんたま というツイキャス番組を通じて、不肖田中はやっと現在ネット詩界のBOSSたる花緒さんが、当時ビーレビューの第八期運営に対して、厳しい立場をとっていたのか理解する事ができたし、そうして、何か一晩中、運営メンバーが激論を飛ばしていた事も覚えているが、その内容を精査するのも、次の日の朝になっており、正直、本当にこの判断でいいのか?と言った疑問がいっぱいあった。
「天才詩人2代表、これやったら原付しか乗った事ないガキンチョにトラック乗ってみろ、ってことになりますけれど本当にいいんですか?」
代表は迷いもなく
「いいです!!」
と言っていた。
昔々、私はまだTwitter(現X)のツイキャスで、確か、百均さん、花緒さん、三浦果実さん、そしてシリュウ(天才詩人2)さんが合流しているのを、リアルタイムで聞いていた。
そうして、新しいムーブメントがはじまるのだな、と思い、最初投稿をしていたのだけれど、そのときは文学極道のカウンターとしてのビーレビューという事だったので、ある手痛い思いをして(内緒)、コツコツ書いていたら、多くの文学極道の書き手がビーレビューはいい、ということで参加された方々が多くなった。そうしてやっと重い腰を上げて、ビーレビューで書きはじめた。本当にわたしは遅いというより、これでは鈍くないか?
私は自分語りが過ぎるので困るが、飽きれるくらいのんびり屋だし、しかし「戦っている人がいるならば応援してあげなさい」と言われて育ったので、三浦氏の #じんたま での「花緒さんは人生賭けているんだよ!」という言葉は胸に響いた。
突然いなくなってしまった天才詩人2さん、シリュウさんについて詩を書いたので載せておく。勿論、どこまでも穏健といってもやっぱり皮肉が入ってしまう。
「きみへ(友へ)
四月の気層の底を生き
きみの姿を捜してる
髪が長いというだけで
女性と言われたきみのこと
一体きみのふるさとが
どこにあたるか知らぬけど
異国の地から朝早く
電話があった事がある
孤独の中で読む本に
味があったときみはいい
ニッポンという慣例が
辛かったのだと思うけど
ルーズな異国の習慣か
こっちが待ったこともある
そしてずうっと待っている
百年分の孤独など
苦笑するほど待ったけれど
私には今畑があるし
けさ
富士のみそらへ
手紙を燃した」
打ち合わせがあるから、ある時間をアポしていたら、今、鍋パーティをしているから二時間後ろにしてくれと言われたのだ。
おいおい、こっちは仕事を休んで臨んだのだが。
それが天才詩人2代表だった。シリュウさんだった。
そうして、花緒さん、三浦さんの事を最後に語ろうと思うが、実は私が第八期運営に合流したのは一番最後であった。
そのとき、私はリアルの顔は、三浦さんしか知らなかったのですけれど、三浦さんともう一人、これ花緒さん?という男の方に追いかけられるという幻覚を抱いて、ノイローゼという事で普通の病院に入院していたからであった。退院してスマホを見たら、シリュウさんから大量のDMが届いていた。
インターネットという関係であっても不思議なえにしである。と感じながら、失礼ながらも、このエッセイを、投稿させていただきたい。本当に申し訳ありません。何卒失礼!
ひらがなで噛む
かわいいきみに
みらいをのろう
あいのおもさを
とわにちかおう
ぎゃふん
ネット詩投稿掲示板界隈で過ごしてきた現在までの10年間の始まりは47歳だったわけで、
はっきり云って人生の消化試合に過ぎない。
しかし触れ合ってきた彼彼女たちは人生の真っ只中にある。
10年前に16歳だった彼彼女たちは26歳になっているし
皆から嫌われていた尖り者たちは40歳を超えた。
「ここは危険極まりない場所で、酔っ払いやマリファナ吸いが海外から参加していたりするから絶対に近寄るな」
そう警告すればするほどにかしこき16歳の彼彼女たちは金網の隙間から入り込んできた。
「ルールマナーがないと自分を守れないダサい大人」と笑っていた。
共同体のプリンシプルを示そうとする大人へは対等に議論を挑んだ。
消化試合をやりこなすに過ぎなかったおぢさんの私はなぜか彼彼女たちからは好まれた。共感があった。
ルールマナーを守ろうとする大人たちから
類似の省かれ方をされていた気がする。
言うまでもなく、
ルールマナーがあろうとなかろうと
ルールマナーを守ろうとする大人は正しい。
ダサいと笑う私達は「大人になれない子供」なのだ。
そういう彼彼女たちはもういない。
いなくなるよね。
そういう子たちってちゃんと姿を消す。
10年を経た今、もう一回あの子たちに餌を撒いておびき寄せてやることを企てている。
大人たちの「正しい」が真実ではないよと
詩で教えてやりなさい。
ぎゃふんと言わせてやろうか。
最近、様々な人らがやってきて花緒氏について訊ねてくることが多い。その度に私なりに知っていることや花緒氏の印象を語る。ふと気がつくと、いつのまにやら花緒氏を絶賛していることに気がついた。
宮沢賢治が示した世界裁判長。
「世界裁判長のような超人格者としてコミュニティをつくり成立させてくれ」と私は次世代の諸氏に理想を語ったりしている。ところがである。よくよく考えてみれば花緒氏が世界裁判長をやっていることに気がついた。この場所にはルールマナーブックはないのである。花緒氏の裁量ですべてやっている。その在り方はねねむである。世界裁判長であるわけで大いに不本意である。私は花緒が大嫌いであり、存在もなにもかも、クリエイティブライティングスペースのあり方も提示する「ニューカルチャー」も大嫌いである。花緒ははたして世界裁判長か?絶対にちがう。いや、世界裁判長に限りなく近いが何かが違う。致命的な何かが致命的に不足している。
中学校におけるヒエラルキーにたとえれば彼は一軍生徒、いや一軍生徒どころか生徒会長。規律を示し皆から慕われるキラキラ。一方で私は教室の片隅の仄暗いぼっちの、そのたったひとりで握りこぶしをする三軍生徒にもなれない者たちとぼそぼそとしている。負けたのだろう。私は負けたのだ。大人になれなかった子供。そうであるならば、そうだ負けたふりをしてやれ。
#1 田伏正雄のMASAO TABUSE
私は文芸投稿サイトを運営している。運営方針は恐ろしく単純だ。荒らしはさくっとアク禁にする。謝罪や釈明があれば許す。ただそれだけのことだが、この方針によって、ほとんどの投稿者は荒らしの存在を意識せずに済む。書いて発表したい人間は常に一定数、存在する。荒らしが変に掻き混ぜなければ、文芸投稿サイトはそれなりの賑わいを見せるものだ。すなわち、サイト運営においては、迷惑投稿者に毅然と対応することが何より肝要なのである。
私は常々それを正しい方針だと思っていた。そう反芻していた夜に、田伏正雄のツイキャスを聞いた。田伏正雄というのは、私がアク禁にした連中の間で「精神的支柱」とされている人物らしい。過去に文芸投稿サイトを乗っ取り投げ捨てた者、出禁を食らった者、行き場をなくした者たちが、田伏正雄のツイキャスに集まり、意見交換をしているのだそうだ。意見交換?私はこれを聞いて、まず笑った。次に、参考のために聞いてみようと思った。
田伏正雄について事前に得られた情報は少なかった。身長190センチ、体重150キロ、女性を自認している。鼻毛が伸び散らかしている。これだけだった。荒らしたちの精神的支柱の鼻毛が異常に伸びている、という情報を私はどう処理すればいいかわからなかった。わからないまま、ツイキャスに参加した。
ツイキャスのタイトルは「田伏正雄のMASAO TABUSE」だった。タイトルの意味は判然としないが、始まってすぐに、番組の構造は理解できた。田伏正雄が、荒らし投稿者を一人ずつ呼び出し、行為を確認し、ただ一つの問いを投げる。それだけだった。
最初に呼ばれたのは「しこたま詩人」という投稿者だった。田伏がやったことを読み上げた。複数の文芸投稿サイトで、特定の投稿者に対して執拗な罵倒コメントを繰り返した。相手がブロックすれば別アカウントを作り、時には対象となる投稿者を騙り、相手がサイトを去るまで迷惑行為を継続した。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
しこたま詩人は言った。「私が迷惑行為に手を染めたのは、以前、件の投稿者から被害を受けたからです。それについて、仔細に説明する必要はありません。極私的な復讐に、他人が介入すべきではないからです。聖書にも、目には目を、とあります。私はただ、しこたまやり返しただけです。」田伏は言った。「それが答えですか。」しこたま詩人は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
次に呼ばれたのは「○山○三(まるやままるぞう)」だった。田伏がやったことを読み上げた。複数のサイト運営者に対して、コンプライアンス上の問題があると主張し、外部機関への通報をちらつかせながら文書を送り続けた。開示請求を予告し、法的措置を示唆し、サイト運営者が疲弊するまで継続した。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
○山○三は言った。「私は一度も法律を破っていません。開示請求は法律が認めた権利です。コンプライアンス上の問題を指摘することは市民の義務でもあります。サイト運営者が疲弊したとすれば、それは運営者自身に問題があったからで、私に問題はありません。聖書にも、あなたたちの中で罪のないものから石を投げなさい、とあります。」田伏は言った。「それが答えですか」。○山○三は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
次に呼ばれたのは「凡才奇人」だった。田伏がやったことを読み上げた。ある文芸投稿サイトに参加し、運営を乗っ取り、サイト方針を大幅に変更したあげく、半年ほどで興味を失い、投稿者たちを置き去りにしたまま去った。サイトは荒れ果て、閉鎖されるに至っている。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
凡才奇人は言った。「あのサイトは創業者の人格に問題があり、投稿者はルールに縛られて覇気がなく、場として停滞していました。私が実権を握ったのは、誰かがやらなければならなかったからです。元々の創業者らの反発で疲弊し、ストレスが募り、去るしかなかったのです。あのサイトは元から腐っていました。聖書にもあるとおり、放蕩息子の悔い改めを、放蕩していない者に求めるのは筋違いです。」田伏は言った。「それが答えですか。」凡才奇人は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
沈黙があった。
次の者が呼ばれる気配がなかった。
それから田伏は言った。「今夜聞いていらっしゃる運営者の花緒さんにも、一つだけ聞かせてください。あなたは悔い改めますか」。
私は画面を見た。謝罪や釈明があれば許す、と常々、私は言ってきた。しかし謝罪や釈明があったためしがなかった。私の提唱する赦しの構造は、実のところ機能していない。しかし、だからなんだというのか。悔い改める気のない迷惑者を場から排斥することは、運営者として当然の責務ではないだろうか。
そもそもどうして私が視聴していたことが田伏に分かったのかも不明である。しかも、田伏の問いは、正しさの外側から来ているように感じられ、どう反応していいか戸惑うしかなかった。正しいかどうかではなく、悔い改めるかどうか、が問いである。その二つの問いの間にある距離を、私はうまく測れなかった。
私はコメント欄に何も書かなかった。田伏は私の沈黙を待ってから、言った。「それがあなたの答えです。Bye」。
配信が終了した。
田伏からメッセージが届いた。
「本日の配信のテーマは、人はなぜ謝らないか、でした。次の配信のテーマは、人はなぜ謝るか、です。」
チャイムが鳴った。ドアを開けると、銀縁メガネの紳士が立っていた。三つ揃えのスーツに革靴、手には菓子折りを持っている。「このたびは深く陳謝いたします」と紳士は言った。誰なのかわからなかった。次の瞬間、紳士の背後に舞妓がいることに気づいた。白塗りの顔で深々と頭を下げている。「堪忍しておくれやす」と舞妓は言った。舞妓の隣には、チョンマゲを結った男性が直立していた。「それがしの不調法、誠に申し訳ござらぬ」とチョンマゲ男性は言った。
私は三者を見渡した。全員見覚えがなかった。しかし全員が深く頭を下げ、後悔で体を震わしているようにみえた。私は言った。「どちら様ですか。」
銀縁メガネの紳士が言った。「悔い改めた者です。」舞妓が言った。「悔い改めた者どす。」チョンマゲ男性が言った。「悔い改めた者でござる。」
私はしばらく三者を眺めた。謝罪や釈明があれば許す、というのが私の方針だった。紛れもなく、目の前には心からの謝罪があった。しかし私にはまだ、この三者が誰なのか、何を謝罪しているのか、何を赦せばいいのかがわからなかった。
私はドアを開けたまま、廊下の先を見た。廊下は人で埋まっていた。階段にも人がいた。窓の外にも人がいた。全員がそれぞれの様式で頭を下げていた。白人、黒人、アラブ人、猫の着ぐるみ姿の人物。全裸の人間も交じっていた。全員が涙を流し、顔をしかめ、地団駄を踏み、体全体で謝罪を表現していた。
そして、田伏正雄からもう一通メッセージが届いた。
「ところで花緒さん、あなたも悔い改めますか?」
ネジ締めたろか
あんちゃん大学出の新人か
ゆくゆくは幹部やな
まあ研修期間は「ご安全に」やな
あ〜
かっこ悪う
そんなピチっとした作業服にするさかい
ちょっと踏ん張っただけでケツが破れてまうねん
まあ学校ではこんなこと勉強せえへんわな
敷地の隅の鳥居さんがなんであるかわかるかあ
大学出の連中が集まって綺麗な研究所の中で
最先端技術の開発もええけど
こっちは溶けて真っ赤っかの鉄の側で
昼夜交代の ギリギリの作業しとんねん
「ご安全に」が挨拶になっとんのも
そのためやっ
っちゅうねん
それからな
オッチャンらがな
こないに毎日毎日真っ黒になっとるから
ネクタイ締めとる連中の分まで給料が出んねん
せやのにあいつら
なんでわしらの何倍も貰てんねんっ
っちゅうことをな
あんたらが偉あなっても
ちょっとは覚えてて欲しいねん
なあ工長さん
せやろ
な〜ん お前
それぐらいのボルト交換もでけへんのか
飯は喰ったんかいな
矢部遥は少しずれる(ある日の矢部遥)
矢部遥は少しずれる。
ずれる事を感じている。
ずれるのは、外と内。
反応と認識。
ずれたら困る――訳でも無い。
不愉快――な訳でも無い。
ぴたりとあっていても――それでも良い。
無理にずらす――訳でも無い。
ただずれているとき、その時に個を認識する。
ずれるとは、大きな海の中にも海流があるような
矢部遥と言う一つの流れ。
混じり合い、入れ替わり、その位置を時々変えながら、しかし流れは独立している。
その流れは ずれとなって初めて認識できる。
遥は 今 ここにいる と。
遥は その内なる流れに 手を浸す。
遥は その内なる水位の 浮子を見る。
ずれが大き過ぎた時 その時だけ
少しだけ 意識を向ける
水の中の水
内なる流れ
その流れを 少しだけ 速めたり とどめたり
海の中にある 自分の水門
「ん、」
とかすかな囁きが聞こえた時
それは矢部遥が、小さな調整を行った時。
カーテンの向こうの明日
別に来なくていいですよ
重たいだけだし
要らない要らない
来年くらいに
よろしくしてよ
げんじつ
くるしいとき
くるしいって
ほんきでいえないから
わたしはわたしをひとりころすことに
きめている
わたしくらいなんにんだって
なんぜんにんだっているんだから
わたしがつらいときのため
まいにちみがきあげた
まっかかなりんごひとつ
死神アキラに てわたして
飼い慣らしているんだから
きょうもあっさり二人死んだ
三人目は息絶え絶えで
虫の息よりムシノトイキ
わたしのあしもとでわたしを
うつろにみあげている
全然、大丈夫。
屁の河童!!
わたしくらい
なんぜんにんだっているんだから
雛によると
かなしい
涙は
硬水
うれしい
涙は
軟水
きみの
涙は
非常水
はなて
命令形で喋り続ける
矛盾とかいてオヤと読む
理不尽とかいてカミサマと呼ぶ
めにうつるものの大半憎んだ
はなて
と叫んだのはいつの日の記憶か
胎内に何故か生命を欲したのは
矛盾から産まれた性だったのか
呪いにしかならなかった切望は
絶望に化けて紡ぎ繋いだ無限夢幻
はなて
叫び声は君を未だ揺るがして
それを愛だと勘違いしたがって
檻を出ずに震える子羊にしかなれなかった
はなてはなてはなて
叫び続けてはてなに変わるまで
産声はそれでも耳という耳を劈く
はなて きっとそこに いしはなくて
たぶん はてな こんげんなどにんげんでは
さぐれないや
default:
import time
def multiply(depth):
indent = " " * depth
print(f"{indent}増殖せよ (Generation: {depth})")
time.sleep(0.1)
multiply(depth + 1)
multiply(depth + 1)
純白の湯船に
脂が
身体から
漏れ出し
小さなキララ
天の川を
オーバーフロー
過剰に溢れる
お湯に
RecursionError:
わたし
だったものは流れて
混濁
再形成する
前に
容赦なく栓を抜く
渦の中へと
排水溝へと
大多数であった
わたしは
default:
穴へと
吸い込まれ
手と
手だけが
まだ
穴を
覗き込んで
一つの
たった一つの
穴が
問わず語り、新章。「情報の正確さと、自分を消す方法について。」
今夜はトレーニングの後の栄養補給。
ドライカレーのバターライスに、赤身の牛肉ソテー。トマトは八女産はなひめ、湯剥きにしていただきました。
さて、関東では夏日で毎日暑いとか。
今年の北海道はいつまでも寒くて、数日前に雪が降りました。
単語の節句で『べこ餅』木の葉の形をした茶色と白の餅、何らかの粉を練ったもの/すあまに近いもっちり感のある郷土料理を食べる習慣があるんだけど、こどもの日って・・・・・・女子も男子もこども、大雑把じゃね? 女子は春の弥生にひな祭りで健やかに育つようにお祝い。桃の節句でやたらピンク、特別感があるのに対して、こどもの日/男子感満載というものが欠けていた私の実家は女帝。
末っ子長男の私が特別扱いなどされる筈もない女だらけの家庭環境では、小さな飾車のついた鯉のぼりを背伸びして空に向け、振ってはためかせる私の幼気な姿を忌々しく眺める獄卒に相応しい姉様たちは、反べこ餅のかしわ餅過激派。みそ餡こし餡の好き嫌いで喧嘩が始まる。当然だが、きのこたけのこ戦争で物が飛んでくるのは日常茶飯事。
上から、
負けず嫌いの美女ヤンキー
おっとり爆ボディのふんわり美少女
天上天下唯我独尊が極まる総天然の色女
三人三様というけれど、染色体どうかしてる御三方(本人たちはキャッツアイのような三姉妹だと言い張っているけど冗談じゃない)今でも立派にそのスタイルを変えず、健全に生きてるから世の男は余程賢くめぐり合わせって上手くできているものだと感心に至る。
まぁそんな身の上話がしたいのではなく、今日のテーマは「情報の正確さ」について。
あるポストの内容
抜粋しますと「知ってはいる」だけで実践が伴わない場合、実体験を語れる人の話の方が、その分野での正確性は高い。
これに続き、ネット上では経験に基づかない情報がそのまま受け取られてしまう場面もあり、解像度の差を感じることがある。というポストを見て、私は実際に経験したある感覚を心に滲ませた。
私の引用は、こうだ。
経験に基づかない情報
→追体験ばかりで実際の体験や経験に基づくものではない「読む知識」を参考に筆を進める作家も、いよいよ怪しい。かつ自分の理想や意見を語らう心の内容が作品に込められていると物語が見えなくなるので、メッセージ性に変えて作家自身は控えめでいてほしいと願ってる。
これに関する話をふたつ、今から話します。
--------------------
①ある新聞を買わなくなった理由
最初に言っておきますが、これは政治色の強い話ではありません。
ただ、現状にある事実の一部を書き出していきます。ご了承ください。
北海道は「赤い大地」と呼ばれる、皆さまご存じあの党が昔っから根付いてる土地柄。
赤旗は馴染みのあるワードで、財界さっぽろ"タブーに挑戦"ここら辺もカジュアルで、選挙になると北海道の地図は真っ赤になる・・・・・・ですよね・・・・・・それでもいいけど、新聞という読み物あくまでも文章になると、その読みにくさは明確。という私の経験談。
10年以上前、北海道新聞を1年だけ購入した。
新聞は管轄の営業所・個人店が販売しており、従業員が深夜帯に出勤してから作業・配達の流れで朝刊が渡る。
しかし営業所が閉店、配達できる区域に他の営業所がないため新たに購入を考えた結果「情報量の多さ」から北海道新聞を選びました。当時はテレビが生活の主力だったので裏面のテレビ欄が重要。デパートの催事、映画館の上映、雑誌や本の特集、応募された詩や川柳などが掲載されているのも大変に魅力的でした。
ただ、道新を読むといつも違和感がある。
新聞は出来事を知るためのツールで、流し読みの対象。文字を読み慣れている私にとって、よくよく考えながら一言一句、読み落とさずに拾い上げて自分なりに考えを以て結果を出すのは読書の役目であり新聞は情報を読み流すもの。何があったのかだけを知りたいんです。それがどうでしょう。記者の見識が文章に見える。こういう文章を読み続けてあたかもそれが事実だと思い込めば、情報操作されたことになります。記者の取材も見識も全て実際の経験で、そこから書き手として取り組むにあたり、報道の公平性があって欲しいと思う。
例えば事実をまげない。
内容により、多角的視点から論点を明らかにするべきで、これは民間放送において守られる事項とされているのに対して、毎度毎度、記者の激アツな見識が表れる。とどめに記者のフルネーム。いい加減にしろよと北海道新聞に名指しでクレームを入れたとて「貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。」また繰り返される日々にピリオドを打つと今度は販売所と揉める。
昔の販売場は契約時に何かしらプレゼントをくれる。
それは会社負担なのかも知れないけど、当時で、1年という安定した契約が取れる客でなおかつ集金は現金払い/釣銭無しは大変珍しいケースなのでやめないで欲しいと頭を下げられた。販売所と配達員には何の不手際も不満もないのに、新聞の内容だけで判断されるのは不服だと。それから電話が数回、また自宅に来て玄関先でのご意見。それでも道新は続けられない意向を示すと、販売所まで話をつけに来いと言われたところで相談所を通して解決に至る。
新聞を買っただけで、ここまでトラブルになるのは北海道新聞の一社だけ。
売買の関係において消費者が痛み分けなんかする筋合いはありません。
そんな道新、過去に記者が逮捕されました。
詳細は検索すると出てきますので興味のある方だけ、どうぞ。
巨大な組織のために犠牲になる個人の姿という言葉が、私には印象的でした。
Xのような場所では、文章の読みにくさが起こるとそれは「読み手の力不足」とする書き手・作家の意見がアホほど湧いて出てくるけど、読み書きにおける解像度の差は大概、書いてる側は話の全容がわかる前提知識があり、読者はその真意に辿り着けないことがよくある。そこを埋められなかった事実を書き手が手放すから決着がつきにくい。
加えて、想像力が「足りない」言語化できない「頭の悪さ」の指摘と揚げ足取りの末に「無能と話すだけ時間の無駄。もういいです。さようなら」ブロックした後も思考が止まらず吠え続け、答え合わせを求め、共感を呼び込んでは自分を正当化する。それまで至らずとも、話の手放し方が、例えば言論の自由による自分の思想であったり、他者の意見は認めない風情であると「ああ、この人は自分のやることに責任が持てない類か」と判断する材料になります。
私は正義感が強い方ではないけど、リアライズな視点の持ち主。これを踏まえて、次。
--------------------
②「自分」が要らない覚悟
一概に文章といっても、本はジャンルで決まり事が違う。
それぞれにルールや攻略法があるから、ここでいう文章は小説・物語のことで、他ジャンルとの撹拌・話の調合はしないこと。純粋に文章を読む目をもつことで誤解は生じない筈です。約束はできないけど、続けます。
いつだったか、五大文芸誌の受賞で審査員になった作家が残した言葉。
小説には書き方があり、基本的な文書ルールや高度なテクニックはもちろん、審査員は何を見ているのかという話で「作家の存在を文章に見せない」作家の差別と偏見がなるべく含まれない小説が求められるというメッセージに打たれた。
物語であること。それは虚構の中にしか存在しないものを書き出す行為でもある。
創作界隈でよく目にするファンタジー論争もここにあって、皆さんとても設定を大切にしながら書いています。現実的に説明がつかないことを曖昧にする人、できない人、論じて勝ちたい人など様々ですが先に申しました『解像度の差』がここで明確に現れる。
ネットに親しみを以て生活をしている、実際の経験は無いけれどネットで情報収集をしたり、本を読んで追体験することに慣れている人が書いた小説を読む場合、書き手目線ではなく読者として読むことに努める。失念したらそれはそれで、作家に何が悪かったのかは言わないようにしています。それは感想ではなく、私自身に起きた"失意の念"だから。要らないでしょう、そんなもの。
頑張って書いたのにさ。
プロット作って、調べものしながらここぞという語彙を決まり格好よく置いてみたりしてさ。
伏線やトリックに読者は気が付くだろうか、手品みたいに読者の驚く顔がみたい。
物語を通してメッセージを伝えたい。突き詰めて、苦悩して、情熱と途方もない時間を賭して物語は書き上がるんだよ。書いてる途中の人だっている。
誰かのなかにあって見えないもの、それを無視して、あまり失礼なことは言わない方がいいと相手を尊重する心はあって当然だが、しかし。
経験に基づかない情報
→追体験ばかりで実際の体験や経験に基づくものではない「読む知識」を参考に筆を進める作家も、いよいよ怪しい。かつ自分の理想や意見を語らう心の内容が作品に込められていると物語が見えなくなるので、メッセージ性に変えて作家自身は控えめでいてほしいと願ってる。
なまらしょっぱいことを引用した次第。
具体的に言った方が、おわかりいただけるだろうか。
・物語に何視点かわからない、書き手の意見や見解が紛れ込む/客観性の無さ
・自分語りで終わりなく繰り返されるメロディーが徐々に小さくなる昭和のヒットソング的な結末/迷惑行為
・ほぼ作家の空想/「知っている」ほのめかす属性の可能性
・性的な表現が低俗/女性は感じると失禁する、感じやすく男性に乱暴にされても悦んで受け入れる、やたら主人公の男性がモテる(母性欲求)
・会話で進行する
最近気が付いてしまった自分の残念ポイントを追加するとしたら、戦闘シーンでやたらと会話するのって、あれアニメとか漫画の影響ですよね。
生物学的にオタクが無理。という悲しい性分がある私にとって、世のオタク共は崇高すぎて手に負えない。
メタ認知が低いのも散見される。
メタ認知は、自己分析がどのくらいできているか
高い人:客観性で、行動をする前に具体的に考え、適切な行動ができる。設定や目標に向けて達成できる。
低い人:感情的で、自分を俯瞰できない。安定性がなく明確な指針のない行動で信用を損ねても修正できず、思い込みが強いのが特徴。
思考力
判断力
表現力
そして感情の安定が文章を書く上で、重要性をもつ。
性的な表現が低俗というのも、セックスの前後に恋愛/交際・結婚/妊娠と出産があることに一切触れず性行為だけに焦点をあてた小説は「それだけ」の価値観しかない。そこに何かしらの要素を含めてジャンルを細分化した結果、脳が壊れる・インターネットポルノ依存症という過剰摂取による弊害に気が付かない始末。それを「自分のやりたい表現方法」として実行することの危うさは何度でも指摘したい所存。もっと真面目に性的搾取を考えて、セックスという現場に直面したらいい。
そこにある概念は、差別は、あなただけのもの。
あなたが居ない世界に
いずる筆の過ちなど、どこにもない。
自分さえよければいい
楽しければいい
その殻を破って抜け落ちた自分をちゃんとしまって、小説を書くと、あなたが目指す「読まれる作品」に届くのかも知れません。
────まぁ、取り留めもない話になりましたが。
解像度の高さ/純度と硬質が確かな小説が読みたい私にとって、大切にしたいものを並べてみました。
今回のポストの内容について、取り上げることがNGとされた場合、削除します。
それまでのご歓談を・・・・・・何卒よろしくお願い申し上げます。
リフレクション
水が広がる
光をあつめ
湖になり
空になり
夜に走る列車を宇宙に帰す
飛び立つ
とりのように
強くも美しくも
かけやしない
せめて
あさましく
生きることを
きめた覚悟くらい
羽音になれと
願い祈り乞うばかり
ことばくらいは
ことばだからこそ
哺乳瓶の向こう
ミルクを飲みに行かない子牛に
哺乳瓶を差し出す
哺乳ロボットだと飲まないのに
哺乳瓶だといつも勢いよく飲みだす
この哺乳瓶の向こうに繋がっている
どこかバーチャルな出来事が
この子牛たちに影響を与えようとしている
遠い国の争いが
この先のミルクと餌と 治療器具と薬が
滞る恐れが出てきてきている
東北の地震の
牛たちの悲劇が頭を過る
気が付けば
柔らかい鼻と ザラザラで痛いベロで子牛たちにあちこち探られ
囲まれていた
牛たちは 動物たちは
「今の自分ができる範囲で
どう過ごすかを選び続けている」
だから この子牛たちは
「輝いている」
選ぶ事を選び 知るべきことを知り
勤めを続け 励むのを楽しみながら
このように輝こう
子牛はミルクを飲み終え
まだ飲み足りないと
頭突きを繰り出してくる
数年後 食肉になっているだろう
子牛たち
今この時だけを生き続け
この世界を照らし続けている
遠く、遠く
旅に出ようと思います
いまは、あなたの傍にいるのがツライから
出来るだけ遠く、遠くへ行ってみようと思います
こんな時、小説やドラマなんかじゃ
「探さないでください」なんて書き置きを
そっと残していったりするのでしょうが
それってまるで「探してほしい」って云ってるみたいだし
第一 そんなことをしたって
あなたがわたしを探さないことは
わたし自身が一番よくわかっています
だから何も云わず
そっと出てゆきます
わたしの荷物は、鏡台の脇にまとめておきました
もしも邪魔になったら
手間をかけてしまうけれど
処分しておいてください
あなたと暮らした5年間
長かったような 短かったような
あっという間だったような
色々ありましたね
あなたはトマトと人参と椎茸と
それからセロリが大キライで
だけどもわたしが作ったオムライスは
おいしいおいしいって食べてくれて
あの中に人参も椎茸もセロリも入っていたんだよ
気づかなかったでしょ
あなたは寝付きの悪いひとだったから
いつも遅くまで本を読んだりゲームしたり
うとうとしかけてる私に
よく喋りかけてきたりして
こっちの眠いのなんてお構いなしに
やたらと喋りまくっていましたね
それでうっかり寝坊すると
自分の方が早起きだってドヤ顔
何度蹴ってやろうかと思ったものです
そんなこと思ってたなんて知らなかったでしょ
だって いまはじめて云ってみたのだもの
わたしは掃除が好きで あなたは散らかすのが好きで
脱いだ靴下の片っぽがいつもないの
探すの苦労してたのよ
ベッドの下とかソファの後ろのほうに
いつも所在なげにちょこんといたわ
靴下はまとめて洗濯かごへって
でもそれももう 今日でおしまい
明日からは自分で
間違っても散らかしたままにはしないで
きっと遊びにきた女性がびっくりしてしまうから
わたしたちの関係って
一体なんて呼べばよかったのでしょうね
恋人なんて云えば くすぐったいし
友だちと云うには も少し近いような
幼馴染で 子どもの頃からよく知っていて
気がつくと いつもあなたはそばにいてくれてた
進学でお互い別々になるまで
きっともう会うこともないんだろうな なんて
5年前のあの雨の夜
傘の骨はダメになるわ ヒールのかかとは片方折れるわ
終電逃すわの ついてないわ祭りで
クサクサ テクテク
雨に濡れ濡れ歩いてるところ
なんだか見覚えあるよな背中が
目の前を歩いてて
それが あなたでした
偶然なのか必然なのか
運命? まさかね そんなわけ なんて
なんとなく 住んでる場所も近くて
なんとなく 行ったり来たりするようになって
気がついたら 一緒に暮らすようになってて
子どもの頃から変わらない
いたずらっ子みたいに笑う
少年みたいなあなたとの暮らしは
とても自然な流れのように わたしは感じていたけれど
でもやっぱり
やっぱりさ
本当はふたりでしあわせ掴みたかったけれど
お互いに掴みたいしあわせが違いすぎて だから
いつまで経ってもひとりぼっちで
手を伸ばせば いつでも触れられるぬくもりが
たしかにそこにあったのに
同じ映画観て泣いて笑って 怒ったりもして
でもやっぱり 同じお皿の上にそれはなくて
だから取り分けることさえ出来なくて
悲しみも喜びもしあわせも ひとり一人分
いままでも 多分きっとこれからも
部屋のカギ テーブルに置いていきます
朝食の後片付け
食器洗っておいたので
乾いたら仕舞ってください
ベランダにある鉢植えのミント
水やり忘れないで
夏は浴槽に入れるとスーッとして気持ちいいから
暑い日には入れてみて
って もう何度もやってるから知ってるね
ゴミもこまめに出して
火曜と金曜が燃えるゴミの日
木曜がプラスチックゴミの日
瓶や缶は隔週水曜で
段ボールや衣類は隔週月曜
不燃ゴミは月一だから
うっかり忘れちゃうと大変
でもあなたはきっと大丈夫ですよね
ひとりでも わたしがいなくても
きっと生きていけるひとですよね
電車の時間が迫っているので
そろそろ行きますね
もうここは わたしの帰る場所じゃなくなってしまうのが
少しだけ淋しいです
たんぽぽの種子のように
風に乗ってどこまでも飛んでゆく
どこに辿り着くかもわからないままに
そんな人生もまた
わたしには似合っているのかもしれません
サヨナラは云わないでゆきます
あなたはきっと
すぐにわたしのことなんか忘れてしまうでしょう
忘れてしまってください
わたしの心の片隅にだけ
そっと置いておいてあげてもいいですか
小さくてかわいいサボテンみたいに
いつかそっと 花が咲いてくれたとき
どこかであなたをそっと
思い出して
あなたのマヌケな寝顔を
思い出して 笑うつもりです
いままでありがとう
行ってきます
どこか遠い、遠い
旅路の果てへ
[は]ハグ あ ユー
「一緒に居て楽しいから友達に戻ろう」
君の言葉を呪う 私は弱い人間だ
居るときよりも居ないときのほうが
自分を証明できない気がするんだよ
鈍行は夕暮れの中を走りゆく
夕闇に君の影がくっきりと分離する
二駅先の目的地から外れたスニーカー
はなしたくないなんて言わさない
さよならを言わせない背伸び
重ねたシルエットの行方を教えてほしい
夢覚めるような秋風
君の唇の温度
How a you...?
Hag you...
楽しい思い出も鮮明に透ける水面
掬っても指間の端から溢れていく
光るものもあれば苦々しいものもあった
だけどね、余すことなく留めておきたいの
少し肌寒くて強い突風で乱れる髪が
視界を奪って見上げる顔が見えない
頬に張り付いて滲む 切ない...
なんて思っていても君には言わない
ごめんねと言いたくても言えない表情
困った情けない顔も好きなんだよ
手を握った熱の在り処
消えない涙の果て
二人きりで足並み揃える閑静な帰路
俯く、熱い目頭の端を見られたくない
ゆっくり歩くのに過ぎ去る残酷な時間
どうしょうもないくらい好き、私
ありがとうと今、伝えたい君へ
優しく抱き寄せる嘘が温かい
最大限の強がりを
「大丈夫」と「またね」
How a you...?
Hag you...
I love you...
たぶん
たぶん
玄関を開けると
外側があるとは
かぎらないなあ
春と
春へと
収斂すると
情動量に比例して
避けがたい
クレパス
祭りの
準備
「たぶん
詩人を一人
虐殺するのに
コストはいらないさあ」※
裂け目から発芽する奴
と発芽しない奴の差
花を咲かせるもの
花を摘むものの
耐え難き差を
鞣していく
存在の
存在による
存在の存続
引用を繰り返す
書き言葉話し言葉
内側へ
春の内側へ
収縮と再生の連鎖
夥しい数の語彙
クリシェの使い方に
慣れた山師や山伏
辛夷の花がちり
潤いをもたらす頃
詩人たちの死を
詩はしたたかに
確からしくふるまう
蜥蜴
※は藤井貞和『全部引用、たぶん』より引用
白光の子どもたち
おぼろ月の夜だった
雲のゆりかごに揺られて眠る 四月の悲哀に包まれて
白い光が 世界の隅の見えない場所を照らしている
物語になる前の いくつもの声が水晶玉になって そこかしこに転がっている
小さな水晶玉を拾い 耳に当てると 影が消えるまでは 秘密の箱は開けないでください というかすかな声が聞こえた・・・
遠くから鼓笛隊の音が響く
夜の隙間に 子どもたちの 笑ったり 泣いたり 怒ったりする声が聞こえた
こころの箍を空の中庭に置き忘れてしまったのか・・・
鼓笛隊が近づいて その後ろから白い光をまとった子どもたちがついてゆく
笑ったり 泣いたり 怒ったりしながら・・・
夜の空が白く光って 細い道が空の果てまでつながっているのが見えた
子どもたちは 皆 ・・・忘れた 忘れた 探すのやめた 探すのやめた・・・と言って
鼓笛隊の後ろを歩いて通り過ぎた
夜の空の細い道に鼓笛隊と子どもたちが吸い込まれた
世界の隅の見えない場所で・・・
おぼろ月の夜だった
それだけ (0.0.3)
母が
救急車に
乗せられ
待合室は
がらんどう
父親も
十五年前に
精神病院へ
入院した
こんな時に
あなたの
優しさに
わたしは
苛立つ
卑しいね
それだけ
光の箱
いつの頃からか
わたしのそばにある
小さな箱
蓋を開けると
色とりどりの光がこぼれる
次々と形が変わる
ステンドグラスのように
夜になれば灯りを消して
部屋いっぱいに光をちりばめて
飽きることなく眺め続ける
何日も蓋を開けていると
光が弱まってくるけれど
太陽や月の光に一日さらせば
また鮮やかな輝きを見せてくれる
幼い頃からお気に入りだった
小さな箱
いつしかその光を楽しむことはなくなり
ついには箱そのものも忘れてしまった
それからわたしは様々な経験をして
成功と失敗をいくつもくりかえして
ようやく平穏な時を過ごせるようになった
何気なく机の引き出しを開けると
あの小さな箱がその中に入っていた
それが何なのか思い出せなくても
親しくて懐かしい気持ちになれる
今度はこの箱を持って
どこかへ旅に出ようか
感覚の歴史
「なんで?」
「え?」
「なんでここおるん?」
ああ、と私は頭の中で言った。
「爪、欠けてん。昨日」
「それだけで?」
「うん。それだけ。あんたは?」
「歯、抜けてん。それだけ」
「歯が?大人の?」
「ううん、こどもの」
「まだ生え変わってないん?」
きみは自虐的な笑みを浮かべて「ちゃうよ」と言った。
「大人の歯がもともとなかったんよ。だから、歯抜けやねん」そう言ってきみはいーっと歯を見せた。下の歯が二本ないように見えた。
「そんなことあるんやね」
「そんなことあるんやで」と私の口調をきみは真似た。私はふふっと声を出して笑った。きみもつられて口元だけ笑った。
見学の生徒は私たちだけだった。雨の日の体育館はいつもより広く見えた。シャトルランの音声。ほとんどが脱落して走っているのはあと三人。脱落した生徒たちは好き勝手に雑談していた。
私たちだけ体育館の隅で並んで体育座りしていた。
この座り方は体に悪い。生徒に立ち上がりにくい姿勢にさせる一種の身体拘束だと物の本で読んだときみは説明した。私は黙って聞いていた。雨の音を。
「雨の日にはさ」と私が言いかけると、覆うようにきみが「祭壇」と言った。「裁断」だったかもしれない。とにかくそう言ったのだ。
「え?」
「ううん、なんでもない」
それきり私たちは黙った。激しく雨樋を伝う雨音が祭りみたいだと思った。シャトルランは終わっていた。先生が全員を集めてなにか話していた。
「感覚の歴史なんやと思う」ときみは不意に呟いた。
「この雨やって太古の昔から繰り返し降りなおした雨。雨粒ひとつひとつに映ってる世界があんねん。うちらみたいにな」
うん。と私は声を出さずに言った。音にだって波にだって光にだって私たちを映す世界があって、世界って言葉でしか括ることができない私たちの狭い了見にだって覆い尽くす祭りがある。
探しに行った。
虹の端っこ。
遠くへ
逃げていく
きみを
私は
追って
飛ぶ
空が飛ぶ
鳥のように空が飛んで
私はまた
きみを失っていた。
雨滴のように散らばって
にげていくかんかくのせかい
o.s.n.f.
朧な朝が
パン粥に浮かんでゐる
縁者は片手で足りる数となり
録音帯の波打つ息使いが
仇となり取り返しのつかぬまで
投薬しませうよプラス蒸留酒
意識飛び出るのを目蓋で抑え込み
泣き顔のおかしい男女児童が
茱萸の実を奪い合う熱気!
済州島の
軟らかな浜を
しなやかに滑りゆく
蜻蛉、さう昔蜻蛉だ
延延と釣針形に絡まつて
無闇を八枚の翅で掴みとらう
脳を洗うわたし
驚くほど恢達となり
添加してゆく晶や曇や
operating system not found
・・・・・
o p e r a t i n g
s y s t e m n o t
f o u n d
不具合である。
落とされた右五本指である。
薄ら笑ひの小芥子頭である。
なまくら刃物である。
暖冬である。
暖冬である。
https://i.imgur.com/zjqMPpw.jpg
練習
交差点、水槽
わたしは冷奴が好き
わたし、齧る、冷奴を
交差点の真ん中
水槽の水底で
齧る、冷奴
どうして、こんなに硬いの
どうして、こんなに冷奴が好きなの
水槽の水底の
呼吸は難しいけれど
信号が色を変えて
その度に綺麗だから
また新しく季節のようなものが
観測されました
買い物に行きたかったのに
触れたいものがあったのに
何故わたしは
交差点、水槽、水にまみれながら
冷奴を齧っているの
こんなにも冷奴、好きなのに
何故冷奴は
わたしを齧っているの
それはくるぶし
それは太もも
わたしこそ硬くてごめんだけれど
つけられていく冷奴の
柔らかな歯型
海で溺れたあの日
助けてくれたのは
わたしの知らない人でした
その人の腕に掴まりながら
見上げた空のどこか真下で
本当に溺れていたのは
水槽の冷奴だった
そんなオチに顔を見合わせて
わたしたちは笑いました
練習したとおりに笑いました
風だ、とその人が
指を差して言いました
視線を向けた時には
あるはずの風は
既にありませんでした
風呂入れよ、入りました
歯磨けよ、磨きました
宿題やったか、ありませんでした
また来週
その日はもう来週でした
薄く広がるテーブル
表面に映る窓、その青空と
買ってきたものたち
必要だけれど
大切、と言うには
あまりに他愛のないものたち
豆腐を冷蔵庫に仕舞いながら
わたしは思いました
消費期限がおとずれる頃
また夏がひとつ
来るそうです
境界
はい止まって待ってそこで止まって
それ以上はダメです
土足厳禁領土侵犯
親しき仲にも礼儀あり
というのは過去の話で
まず親しくない前提から始めなければならない
何事も超えてはならぬ一線がある
――境界線だ――
善意の顔して踏み越えない
正義の笠着て踏み越えない
理由をつけたところで侵犯は侵犯
触れるな超えるな狼煙だ
専守防衛戦争反対
おい聞いているのか
そこで止まれ。
花曇り
あたたかく降り積もった雪の下に埋めた
女になってしまう前の、
何でも言葉に出来ていた少女のわたしを
女になるというのは
自分が一番遠い他人のように感じる生き物に
なることなのだ
女になったわたしは
薄暗いさみだれを落としながら
それを拾い上げてくれる誰かを
いつも求めていた
呟きでも、言葉に出来るなら救われるのに
落とした思いを重苦しく引きずりながら
歩む道程で出会ったあなたには影があった
あなたは光の真下にいた
影の出来ないわたしの空模様を面白がって
わたしの背後にあなたはしゃがみこんだ
何の種だろう、と容易く拾い上げて
掌に転がしてわたしに見せてくれた
わたしにも分からなかった
つないだ手の熱で
自分がどれだけ凍えていたかを知った
それもまた、女であるという証だった
あなたの真上には青空が
わたしの真上には曇天が
それでも、つないだその手のあたたかさが
あたたかさだけで
あなたは幾つもの種をいじったり埋めたり
朽ちた空色の下でも、
花は言葉もなく咲く
しきゅう。
私の具合は大抵悪いです。
何故なら子宮があるからです。
だから、わたしは、遠慮せず
家でも、職場でも、知人にも、ネットにすらも
「生理痛がたまらない」と書いたりする。
そしたら大半の人は顔を歪ませ
気の毒がるか、鬱陶しそうか
全くわからないなあと言ったりする。
反応などあまり関係なく
痛いから痛いし
具合が悪いから悪いのです。
わたしがオンナで子宮があるからです。
紛れもないかえようもない事実で
現実で真実なのですが
いつからか「子宮」や「性別」が
口に出すことも書き表わすことすらも
歓迎されなくなって
だから余計にわたしのぐあいも
持つ人は勿論持たない人も
どっちでも良い人ですら
それに振り回されていくように
なってしまったのです。
はっきりいう。
他は知りません。
私は大抵毎日具合が悪いです。
子宮があってオンナというもので
にんげんってやつだからなのかもしれませんが
まあまあまあ
いちお、「母」であり
「社会」というもの
「家族」というもの
意識して
なんとなく普段は口を噤んでいます。
偉いでしょう
しきゅうのためにふりまされながら
しきゅうのためにいきていくときめて
うんざりしながら
しきゅうをきょうも
よく蓄えた脂肪のうえからなでなでしてます
たぶん こんかいは いっしょう いっしょに
いなくてはならないので
(あくまですべてわたしのはなしで
ございます)
コミュニティという重力圏と系内天体の軌道
コミュニティとは何か。
ひとつの答えを出すとすれば、「共通の実践を持つ集団」ということになる。文藝において言えば、何かを書き、読み、差し出す——その反復の中で人は引き寄せられ、場が生まれる。価値観は最初から共有されているのではなく、実践を通じて少しずつ輪郭を持ち始める。観念が人を集めるのではなく、行為が先にある。
では、そのコミュニティが存続するための条件は何か。
逆説的に聞こえるかもしれないが、「その実践の範囲で揺らぎを持つこと」だと考える。硬直した均一性は外部の変化に対応できず、やがて崩壊する。一方、揺らぎが大きすぎれば共通の基盤を失い、集団は散逸する。生きたコミュニティとは、その振れ幅を内側から吸収できる場のことだ。
ここで思想的な補助線として老荘を引きたい。
「道可道、非常道」——言語化できる道は、永続する道ではない。明文化されたルールとはまさに「可道」であり、それに依存した瞬間、場の本質からは遠ざかっていく。ルールは逐一言語化を要求し、解釈を生み、対立を呼ぶ。穴を塞ぐたびに新たな穴が開く。
老荘が示す「無為而治」——介入せずして治まる——は、ユートピア的な理想論ではなく、場の重力への信頼である。実践を共にする集団には、明文化しなくても「ここではこうある」という引力が自然に働く。逸脱はルール違反として裁かれるのではなく、重力の相互作用の結果として、自然にその系との距離が変わっていくプロセスにすぎない。系に留まるか、あるいは遠ざかるかは、善悪の判断ではなく、実践への共鳴の度合いによって決まる。
この重力の比喩を押し進めると、コミュニティの姿はひとつの軌道系として見えてくる。
文藝という実践が、恒星として中心にある。その重力圏の周りを、書き手たちが惑星のように周回している。軌道の大きさも形も速度もそれぞれ異なる——それが多様性だ。しかし全員が同じ重力に捉えられている。誰も命令されてはいない。引力があるだけで、軌道は自然に生まれる。
楕円軌道の離心率が「揺らぎ」に相当する。恒星に近づいたり遠ざかったりしながら、それでも系の外には出ない。コミュニティからの逸脱とは、いわば第二宇宙速度を超えて系を脱することだ。それは集団への反逆ではなく、その場の中心にある実践への関心が、系を維持する引力を上回ったという状態を指す。
惑星同士もまた、互いに引力を持つ。書き手が読み手になり、触発し合い、軌道を微妙に変化させていく。それがコミュニティの発展性だ。そして恒星自身も、惑星の質量にわずかに揺れる。場は運営者だけが育てるのではなく、実践する者全員によって育てられる。
そして、系のさらに外縁には、彗星のような存在もいる。
長い周期でふらりと戻ってきては場に波紋を起こす者もいれば、一度だけ強烈に接触して去っていく者もいる。彼らは恒星の重力圏に捉えられているわけではなく、ただその軌道がそうであるだけだ。近づく理由も、離れる理由も、本人の内側で明確に言語化されているとは限らない。
しかし、その接触はときに惑星の軌道を揺らし、恒星の位置をわずかに震わせる。外縁からの揺らぎを吸収できる柔らかさこそが、コミュニティの生命力である。
一点、誠実に認めておくべき逆説がある。
「設計されていない場」は、しかし設計されなければ生まれない。老子が無為を説いたとき、それはすでに有為の行為だった。後世の人間がその言葉を経典にし、注釈をつけ、宗派に分かれていったことを思えば、概念を打ち出すこと自体の危うさは自覚的でなければならない。
最後に、この矛盾は解消できない。ただ、解消しないままに保持することが、おそらく誠実な態度だ。概念を手渡しながら、その概念に縛られるなと言い続けること——それが、明文化されないルールの、唯一可能な形なのかもしれない。
【補講:ロシュ限界と侵襲的接近について】
系内における「衝突」について補足しておきたい。
天体物理学には「ロシュ限界」という言葉がある。ある天体が他天体近づきすぎた際、互いの及ぼす潮汐力によって、その天体自身の重力(自己をまとめようとする力)が耐えきれなくなり、崩壊し始める距離のことだ。
天体同士が接近し、連星なり衛星なり、または同一軌道であってもラグランジュポイントにその位置を占める場合は新たな安定した系を生む。しかしながら他者の作品や、その背後にあるパーソナリティに対し、批評や対話という名目で過度に侵襲的な接近を試みる行為——それは、相手の「書くことの根拠(重力)」を内側から引き裂き、崩壊させてしまう。
コミュニティにおける「明確なNo」とは、特定の個人の排除を目的とするものではない。むしろ、それぞれの惑星がその形を保ち、自律的な軌道を維持し続けるための「安全距離(ロシュ限界)」を再定義する行為である。
この斥力こそが、結果として系の多様性と、天体ひとつひとつの輝きを守ることにつながるのである。
また老荘思想や天文学はあくまで比喩に用いている。そちらの専門的な意味合いと異なる点はご容赦頂きたい。
感覚の電車に乗ってみませんか?
推薦対象
水脈の往還―26歳の遥
by 筑水せふり
これから書く文が推薦文として成立するのか不安が有りますが
自分が面白いと感じた世界観が他の人も面白いと感じるのか知りたいので書いてみます。
電車に乗り座席に座り着いた駅で降りる。
そこには、電車に乗る意味も駅に向かう目的も存在しない。
電車が起こす起動音と自分以外の乗客と共存する閉鎖的空間の空気の圧迫感があるのみ
座席に座る自身を器にして液体を注ぎ電車の揺れや乗客の移動による傾きでの液体の変化を
主観的に客観的に観察しながら息苦しく窮屈な感覚で楽しんでいる様に思えました。
主人公の遥が降りる駅で自然と自分も降りてみるが遥が抱えている揺れに合わせて
自分の心の動揺が止まらず揺れを感じながら、改札口へと消えそうな遥を見送っていました。
この作品は3部作で遥が何処へゆくのかを自分も追い読みしていませんが
この感覚の電車に乗って揺られる事をお薦めしたいです。
電車の揺れを自分の動悸と合わせれば、乗り物に弱い人でも楽しめると思います。
それでは、私は一足先に遥の後を追いかけてみたいと思います。
寝覚めの悪い日曜日、午前6時
窓を開けると
外はさめざめと
雨降り
灰色の空と 灰色の空気が
僕の部屋の中に充満していく
僕は なんだかまた
例の不安の波が押し寄せてきているらしく
なんだかまた 泣きべそかきそうになって
たまらなくなって目をそらす
視線の先
昨夜 食べ残したままの
ブルーベリージャムが染みこんだトーストと
飲みかけたままのオレンジジュースが
素っ気なくつぶやく
やれやれ またそうやって
いつものように
そんな気分に耽っているの と
部屋干しされたまんま 乾かない洗濯物と
投げつけるように書いたいくつもの
詩にもならない感情が
哀れむようにほくそ笑む
やれやれ またそうやって
いつものように
自堕落に安心してしまうの と
耳鳴りのように
繰り返し繰り返し
何度も何回も云ってくるので
またもや僕は たまらなくなって
いっそ なにもかも
自分のせいにでもしてしまわないと
とても今日一日 やり過ごせそうもなく
思いついた先
ヨワムシ ケムシ ノ ホトトギス
イツマデ タッテモ コエ モ ダセナイ
ナカナカ ナカナイ カラス ガ ナイタ
ナゼナゼ ナクノ ト キキカエス
サミシイ ミシン ヲ カタカタ ナラシ
ツギハギ ダラケ ノ ココロ ツクロウ
コドク ドクドク コキュウ ガ ナッテ
ドコニモ イケナイ タダ ヒトリボッチ
ゴロゴロ 語呂を弄くりまわす
何もしないでいるより少しは
気が紛れるような気がして
こんな読みづらい片仮名だらけの文字に
意味なんてないけど
意味 ナド 無インダ 最初 カラ
無意味 モ 意味 モ 意味 ノ ウチ
・・・・・・なーんちゃって
無意味ついでに 呟いてみる
ド ウ カ ボ ク ヲ ユ ル サ ナ イ デ
寝醒めの悪い日曜日、午前6時
外は
さめざめと
雨降り
さめざめと
雨降り
☆★*〜*★☆*〜*☆★*〜*★☆
さめざめ、は、泣く、を表現するのに用いるコトバで
使い方としては間違いなのかもですが
降り止まぬ雨が、なんだか泣いているように思えたので
このような表現を用いました
プロローグ
うまれたときから
ずっと
だれかと
かくれんぼ
してる。
あなたは だれ?
どちらが おに?
どちらが 子?
それも、しらない。
おしまいは いつ?
あいずは くる?
もう いいかい?
それも、しらない。
みつけたら 勝ち?
みつかったら 負け?
なにがおきるの?
それも、しらない。
みつけたら、みつかったなら
わかるかな?
げたばこに ろじうらに
こうえんに しごとばに
ほどうきょうに ちかてつに
いるかもね、いないかも。
ことのはに おんがくに
ふであとに ぽわんとに
ぴくちゃーに ぱふゅーむに
いるかもね、いないかも。
あのそらに あのうみに
あのつちに あのかぜに
あのあめに あのはなに
いるかもね、いないかも。
ずっと ずっと、さがしています。
これからもきっと、さがします。
ねぇ、あなた。
小さな星の軌跡 第二十三話 「知ってる二人、知らない二人」 ――星乃霧
六月の空は、朝から曖昧な色をしていた。
降るかもしれないし、降らないかもしれない。日差しの合間を黒い雲が次々に流れてゆく。私は鞄にスケッチブックと色鉛筆を入れて、折り畳み傘も一応持って家を出た。
行先は市民図書館。この市の人口にしてはかなり大きい。美術館や庭園もあり季節の風を感じるには良いところだと思う。
特に調べたいことがあったわけじゃない。ただ、四月の天文部観測会で初めて見た、星雲星団たちの輪郭がまだ頭の中でぼんやりしていて、何かスケッチのヒントに出会えないかと、少し歩いてみることにした。
一旦繁華街を抜けると、あとは国道に沿って歩いていく。護国神社が途中にあるのでちょっと寄り道。古い塀が続く静かな一角を抜けていく。この辺りは小学生の頃から慣れているはずなのに、湿った空気のせいか、今日は少し違って見えた。
図書館の自動ドアをくぐって、ひんやりした空気を吸い込む。
美術か自然科学、どちらの書架から見ていこうか、少し汗ばんでいた首筋にハンカチを当てていると、ふと視線が止まる。
窓際の閲覧席に、見覚えのある横顔。
——小郡先輩だ。
ハーフアップにまとめたセミロングの髪、本を持つ手の静かな角度。パステルトーンのタータンチェックのワンピースは、私服であっても中学の頃から変わらない佇まい。すぐにわかった。
でも、隣に誰かいる。
私は自然な動きを装い、近くの本棚の影に入った。
隣の人は、ショートヘアで、小さく結い上げた髪に結んだアクセサリ。ステンドグラスのような透明感のある細工は窓からさす光に色をつけている。そしてそのカラフルさとは裏腹にくすみの白い、袖口のゆるい七部袖シャツを着ている。スカートは濃緑色で、裾を引きそうな長さが、椅子の横に流れている。小柄な感じなのにコントラストがある姿だなと思う。そして膝に厚めの本を広げて、小郡先輩の方へ少し身体を向け、ページを指で辿って何か小声で話していた。
誰だろう。
背格好には見覚えがある気がするのに、結びつかない。
しばらく本棚の背表紙を眺めるふりをしながら、もう少し観察してみる。テーブルの上に本が何冊か積んである。小郡先輩の手元には福祉とか保育の文字。隣の人が持っているのはデザインか広告系の分厚い本。そして二人は時折互いの本を交換するように読んでいた。
その時、隣の人が顔を上げて小郡先輩に何か言った。
小郡先輩が、笑った。
隣の人も笑い返した。その横顔が——
——あ。
篠山先輩だ。
私は本棚の影で、一人で固まった。
天文部の部室にいつもいる、あの篠山先輩。制服でのイメージと違い全然わからなかった。幼なじみだという筑水先輩といつも賑やかに女子トークを繰り返し、簡単にゴムで結わえたおさげを揺らし、そして時々部室に来る小郡先輩を、篠山先輩はいつも自然に迎えていた。小郡先輩とも仲が良いんだな、とは思っていた。
でも今の笑顔は、そういうのじゃなかった。
二人ともまた本に目を落として、真剣な顔に戻っている。たまに顔をあげると、お互い見合わせて、そして小声で何かを確かめ合う。その合間の表情が、柔らかくて——なんというか、決まっている感じがした。
二人の間にあるものが、もう前から決まっているような。
邪魔できない、と思った。
気まずいとかじゃなくて、あの場所が完結していたから。
そして、そっと本棚から離れると、来た道を戻った。
図書館の外に出ると、曇り空がまだそこにあった。降りそうで、降らない。
そのまま隣あった日本庭園へと向かう。池を挟んで図書館が見えるベンチに座ると鞄からスケッチブックを出した。
手が動いた。
窓の中の二人は見えない。さっき目に入ったものを線にして。色を乗せてゆく。誰ともつかない二人の女性が、テーブルを挟んで本を読んでいる。真剣な横顔と、合間の柔らかさ。観測会で見た二重銀河の様な、何か引かれ合う、そんなイメージ。顔は描かなかった。
スケッチブックを閉じて、まだらに流れる雲と、その合間の空を見上げた。
(小郡先輩と篠山先輩、素敵だったな)
中学の頃から知っている先輩の、知らなかった部分を、今日私は見てしまった。
それでもなんだか、悪い気はしなかった。
バスで帰ろうと思い、時刻表をみたけどもう少し時間があった。
結局雨は降らなかったけど、僅かに湿りを増した六月の風が、バス停の横をゆっくり通り過ぎていった。
――おわり
住めば気狂い花の都
たのしいおもいでも、つらいきおくも、ほろにがく反芻する。むさくるしく空虚な嘘の中心に足を運ぶ なんども。ざわつかせる世界もこの胸も、白い目で見る明けの明星の強さに趣を見つけるには。
目障りな目的地を退去させよ ただ当たり前に等しい月出したその陽よ反逆せよ。
ここは住めば都 どんな街でも、現場は水嵩近く美術館にあり、賑わいを魅せるドブ川の繁華街を吹き抜ける いわゆる寄る辺なさとして雑魚寝している。空き地における楓の二重人格の処分は ロケーションも完璧なくせに誰も振り向かず、毎回あっけない幕切れで日記帳の片隅にひっそりと描かれるはずだ。
けれど魅惑的お化け屋敷に変わる、ように繰り返し冷静さを欠いた重力が蔓延する なら花鳥風月の、不透明な気分の大草原の演説にただ耳を澄まし不貞腐れる。そんな辛気臭いのかもしれない、ゆとりがない手を当て 肌に合わない型を破る、水平線にこだわる闇が言う、若葉だけがぐいと駆動するのだ。
口直しする性交症と手相占いの話題が 経済的にも社会的にもなれない反面教師と頬を撫で、愛情表現も雲隠れの他界した奴隷と執着する美徳はどこか、達観した無言の大洪水を引き起こした、孤獨と滑舌を活版印刷する。
ここがホームタウン、影も形も魑魅魍魎、忘却曲線の最中にあり。
裸足に対し厭う、見しらぬ惑星の領域に散らばる悪性は、塗装が剥がれレンズを向けてしまえば、木工の船を操る依頼者が小さく古いキッチンを跨いで、インチキめいたインスタントコーヒーと 深海魚の思春期と嗅ぎつけた、早朝のまな板の上にいったい。
愛書暮らしのカルト集団みたいなときの消しゴムで、影響を漂白し投光する放課後の寄せ集め、ノアの方舟に宣って移行するバカ者共が童話みたいに。
弔いの唄を焼却するにただ、あのときの菜の花が咲く河川は移ろい、暮れ泥む永久凍土は水増しされる途中にあり したがって朽木、炙り出しの挨拶の成功例は空腹のまま不明だった。
いまにして喉元すぎればとまぼろしと説明するひとさらいの。みなさん例えばとダンスホールの暑さが和らぐような 軌跡や停留所の影響を述べたら、たまり場的ジオパークの幕切れが用意されるという。
小春日和のいちにちの 閑散を濃淡と騒めかせる、あてどもない作業風景の意味、代わり映えもしないくせにうってつけの出会い、その日を最期に嘲笑う。
おぞましいほど消耗品の日常はつとめてやわらかな圧着で大差なくひっついて、季節外れのながしかくに声を枯らして取り組まれる 無資格に目を盗んだ作用点の、波風だけが立つ、それが、(野良犬でも飼い猫でも。)
ゆれて ゆれて、よこたえて ぶれておちる。
どうしても
木漏れ日の中
葉が全部揺れている
だんだんと葉の間が曖昧に
くっつき始め、溶け出していく
僕はいつかあなたに
――どうして?
と聞いた
あなたは黙っていた
そして口を開いた
――どうしても
風が吹いている
コンクリートビルの螺旋階段を登りながら
たくさんの理屈が僕の頭の中で渦巻いていた
――どうしても
凄いね、英語も数学もデキるんだね
週末は線形微分方程式を解きながらテニスかい?
かつて と いま
はるか遠くの坂の上 爽やかな風の向こうに君の顔
駆け寄る僕は幼子で 何気なく笑った君に恋をした
更に多くの時が経ち 乗り越えた僕は大人になった
それでも君の横顔は 爽やかな風の向こうにあった
かなた遠くの坂の上 今の君に駆け寄れるだろうか
#じんたま 15 Rendering the Answer
配信「#じんたま」はクヮン・アイ・ユウさんの個人的事情があって、夏季はできない可能性がある。掌編「#じんたま」は、あくまで配信「#じんたま」の影を成す存在だと思っている。
私がCWSに参加した理由はシンプルに、花緒氏と関わりをもってみたかったからだ。
B-REVIEWの所謂Discord(ディスコード)では、花緒氏に対する不信感と憎悪で溢れていた。原因は色々あるだろう。しかし、何故花緒氏がそこまでB-REVIEWに対して敵性行動をとるのか、よく分からないと思っているメンバーも何人かいた。
B-REVIEWの事に詳しくない私でも、花緒氏の怒りの意味は理解していた。B-REVIEWのサイト方針を反故にし、それに反発した投稿者を結果的に追放に等しい行為で退会処理を行った事だろう。しかし誰にでもわかるのはそこまでで、分からないのは「何故そこまでの怒りを伴った敵性行動を取るのか」という点だった。
私には文学極道時代の花緒氏のイメージがあった。私は運営内で「私に花緒氏と対話をさせてくれないか」との旨を伝えたが、その時点で運営内も混乱しており、外部窓口の統一ということで、私の提案は厳しく却下された。
しかし、運営内部でもサイト内ルールに抵触している可能性がある人物が何名か指摘されていた。私はその時まだ外部に向けてのアクションは起こしておらず、暫定的に私を代表にしてもらい、運営の何名かを対外的に整合性を期すために暫くの間アクセス禁止にするなどの処置を取った上で、代表として花緒氏と今後のB-REVIEWの方向性について話をさせてもらえないかと提案した。
だが、その提案は激しい叱責と共に却下されてしまった。「私が代表になることを誰も望んでいない」「何故お前が勝手なことをやるのか」「能天気な奴だな」といった罵倒を受け、私も黙らざるを得なかった。私はその夜に決断し、Discordのアプリそのものを削除した。
掲示板上で運営を辞めた旨を伝え、花緒氏や他数人と、炎上している件について言葉を交わした。私の行動が影響を与えたかどうかは分からないが、一時的には落ち着きを得た。けれど結局、8期運営は花緒氏をアクセス禁止処分にし、独自ルールも交えながら、結果的に数十人のアカウント削除を実行するに至った。
こうして文字に起こすと、全てが正確に記されているかは自信が無い。ここの部分は様々な関係者の検証が必要であると思う。掌編の進行上、ここではこのように書き記すことにした。
運営をおりてからも、私はB-REVIEWには顔を出していた。運営のメンバーは、私がディスコードのアカウントを削除したかどうか分かっていたのかは分からない。私は誰にも何も言わずに削除したので、困惑させていたかもしれない。一年後、二歩氏をB-REVIEWの運営に推薦するために再インストールした時、多くのメッセージが届いていた。
私が8期運営を勝手に辞めてから暫くして、花緒氏がCWSの宣伝にやってきていた。その時点でどれだけの人間が反応したか分からないが、私は個人的に花緒氏を応援したい気持ちがあった。皆は花緒氏のことをよく思っていなかったが、私はやはり文学極道時代の彼の、コントラ氏の作品上で新参者ながら果敢にコメントした心意気みたいなものを買っていた。
彼のコメントは素晴らしく、その作品上では文極の当時の旬の詩人が挙ってコメントを入れていた。私も激しくやり合っていたが、コントラ氏の作品を良しとする人間の方が少なかった中で、彼はそちらの方向性の意見を述べて注目を浴びていた。山田太郎氏が激しく憤慨していた記憶がある。その記憶を元に、私は花緒氏の成すことを応援したかった。
彼が新しく作ったサイトなら、安定するまでは作品を書くことで応援できたらと感じていた。私は「femme fatale」という題名の作品を、謂わば「はなむけ」として投稿した。その想いが通じたのか、その月の代表作品として展示してもらった。花緒氏の心情はよく分からなかったが、文極、B-REVIEWを通じてそのような栄誉を受けたことがなかったので、恥ずかしいような嬉しいような気分だった。そのことがあって、結局今現在まで投稿活動を継続している。
私は今、三浦氏のYouTubeの中の配信の一つを聴いている。今から七年前の「B-REVIEW閉鎖の危機から新生スタートまで5時間30分の会議」というものだ。
内容は、初代運営が引退して第二期の運営が誕生する部分のツイキャス放送を纏めたものだ。参加している面々も錚々たるものだ。三浦氏が場を仕切っていて、その放送内の花緒氏は何となく元気が無い。やはり未練があるのかもしれない。
花緒氏は迷いながらも託そうとしているのだ。その心情は痛々しくもある。三浦氏は仕切りに徹している風で、感情は読み取れない。しかしながら三浦氏はやはりこの頃からビーレビを一旦閉じる選択肢も提示している。
彼の一貫性には疑問はあったがこの放送を聴いて三浦氏の人間性を見直す事になっている。百均氏はいないようだ。花緒氏は百均氏のことを頻りに気にかけている風にも見える。冷静に話しているようで声に覇気はなく、感傷的で、いつものクレバーな感じも鳴りを潜めている。
やはり海外拠点の事もあって花緒氏は限界を迎えている感じだ。
ここまで書いてきて、そろそろ核心に迫りたいと思う。
つまり、この掌編『#じんたま』は、本来は花緒氏が書き記すべきであり、私は図らずも花緒氏のghost(ゴースト)として、彼に成り代わって筆を取っているということなのだと思う。
三浦氏と花緒氏が百均氏を伴ってやりたかった事。三浦氏が配信「#じんたま」でなそうとしている事。花緒氏がクリエイティブ・ライティングに未練があり、この場の立ち上げた理由。それらが、この一連の中に潜んでいるのではないかという答えに辿り着いている。
クヮン・アイ・ユウ氏という人格者を据えての、配信とクリエイティブ・ライティングとの融合。その答えが「#じんたま」にあるのではないかと思っている。花緒氏はB-REVIEWに対しての無念さ、未練をもっと語っていいと思う。花緒氏なりの語らないという美学もあるのだろう。しかし語ってそのことで笑われたりしてもそれは仕方がない。しかしユウさんや三浦さん、つつみさんはそれを笑わないはずだ。
花緒氏も三浦氏も、「#じんたま」に何かを見出しているのではないだろうか。B-REVIEWの投稿者が望んでいたもの、私達はいつかその地平に辿り着かなければならない。それは何かを守ることなのか、それとも何かの追求なのか。
まだ分からない。しかし、それは分かり始めてはいる気がする。