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掌編噺『友地蔵』
今は昔
ある小さな村に三人の若者がいた
*********
一人は麒麟児と呼ばれていた
幼い頃から何をやらせても誰より達者で
周りの村人達からは、すごいすごいと
持て囃され鼻高々の男であった
奴はゆくゆくはこの村の長になるさ
村の誰もが口々に噂した
もう一人は風来坊というべき男だった
成長してからは、ふらっと村の外に出ていったかと
思えば、どこかで大事を成し遂げたと
風の噂がやってくる
お調子者だが、義理に厚い性格で
己の進むべき道をしっかり持っている
村の誰からも愛される
そんな熱くて気持ちの良い男であった
最後の一人は村いちの抜け作と呼ばれる男だった
何をやらせても駄目な男で
引っ込み思案で、声も小さい
特筆すべきなのは麒麟児と風来坊の友だということ
村の皆からは何故有名な二人と仲が良いのか
いつも不思議がられていた
そう、三人は友であった
正確にはかつて、麒麟児と風来坊は火に油の
関係であった
顔を合わせば喧嘩の日々
お互いが「目の上のたんこぶ」といった具合だったのだろう
それが、抜け作が間に入ることでかすがいの役目を
して丸く収まっていたのだ
不思議な事もあるもんだと村の皆は笑った
抜け作にも役目がちゃんとあるのだと
麒麟児と風来坊の二人も
抜け作が間に入り込むことで、不思議とウマが合うようになった
いつしか、三人は無二の親友となったのだ
*********
ある時、麒麟児は隣村へ用事で留守にしていた
己の考えた商いで、この村に富を蓄えようという算段だった
この時、風来坊はいつもの如く旅に出て同様に村から出払ってしまっていた
諸国を放浪して新しい知識を学ぶ為だった
その時、事件は起きた
火事だ 村の中の一つの家が火事で燃えたのだ
家の中には幼子が取り残されているらしい
村人たちは遠目から燃え盛る家をただ眺めるしか出来なかった
いや黒い影が一人、家の中に飛び込んでいく
抜け作と笑われた男だった
果たして彼は炎の中から幼子を助け出したのだ
己の命と、引き換えに
*********
麒麟児と風来坊は
村に戻ってきて顛末を知った
二人は抜け作の最期に、涙が涸れるほど涙した
奴は俺たちよりずっと凄い 凄い男だったのだ
友に誓ってこれからは村のため助け合おうと決め、
二人は供養のため燃えた家の跡地に地蔵を建てた
命を懸けた友のため『友地蔵』という名の地蔵を
そして、命日には必ず花と酒を手向けたのだった
*********
時は過ぎ行く
麒麟児は村の長となり、様々な商いを手広く行い
村の富を蓄えた
豊かになって村人たちは、麒麟児に大いに感謝した
風来坊は更に諸国を巡り、多様な知識を身に付けた
その中には西洋の摩訶不思議な知恵まで含まれていたという
博識ぶりに村人たちは、風来坊を大いに敬った
二人の晩年、国中を疫病が襲った
村も例外では無かった
しかし、麒麟児の蓄えと風来坊の知識で
村は他の村々に比べてずっと被害が少なかった
二人は疫病が終息したのを見届けてから
同じ頃、永い眠りについた
そして友地蔵の両脇に、二体の地蔵が建てられたのである
これを差配したのはかつて、ここに建っていた家が火事になった時に
抜け作と呼ばれた男に助けられた者だった
男は三人の友情と功績に感謝して
三体の地蔵に雨除けの小屋を作り、友地蔵として
厚く供養した
*********
時は更に巡る
村のかたちは変わっていく
しかし、そこに三体の友地蔵は在り続けた
抜け作に助けられた者の子孫は
動乱の時代を駆け抜け、新たな政の役人となった
この村始まって以来の大出世である
彼は後に新聞の取材で語っている
『私の命、私の先祖が暮らした村は、三人の偉大な先人によって守られた。私が今ここに居るのは、彼らのお陰である。世の中の人々からすれば、名も無き者たちかもしれないが私は彼らを決して忘れない。』
**********
長い時間が過ぎてきた今日も、三体の地蔵の前には花と酒が供えられている
真ん中の地蔵に肩を組むように両脇で笑う、
三体の地蔵たちが変わらずに今もそこにいるのだ
(了)
※このお話はフィクションです。
実際の出来事とは、一切関係がございません。
継続
継続
何かずっと継続し続けることは本当に大変
継続することによって苦痛を伴うこともある
人から非難されることもある
継続することによって
納得のいく結果になることもある
継続
「その継続は本当に必要な継続?」
と、自分の心と体に疑問を持つこともある
継続
私が継続しているこの想い
「愛」
この想いは苦痛を伴う想い
辞めようと何度も思った
どんなに想い続けても
どんなに願いを込めても
継続することに意味なんてない…
「結果」が見えているから
継続
「愛する想い」
どんなに苦痛を伴う想いでも
叶わない想いでも
やっぱり愛しているから
あなたを愛することは「継続」していきます
哀しみの心と共に…
雪の鳥
死の鳥とも呼ばれる彼らは
冬のある日
空の高いところで
幾億も生まれいでる
そのひと羽ばたきが雪を降らし
少しずつ地上に降りてくる
彼らが愛するのは
あどけない歓声
自分たちの降らした雪を喜んでくれる
いとけない子どもらの声
雪の鳥はその身を削ることと引き替えに
ましろい雪を生み出すから
その命はとても短い
最期は綿埃ほどのちいささになり
力尽きる
雪が降ってきたよー!
小躍りしているまばゆい声を聴きながら
みずからが降らした雪の一部として死ぬのが
彼らの望む最上の死に方だが
叶えられる鳥は少ない
山奥でキツネと共に逝き
川底へ沈む鼠と共に閉じ
街の片隅の猫と共に眠る
それでも
冬の使者としての役目をになった彼らは
毎年生まれ
おのれの寿命をかけて
雪を降らすのだ
すべての円環のために
橋の両端にて(🪙還元コメント大募集〜12/18)
身体性を匂わしているせいなのか、ただたんにえろいからなのか、作者的にはよくできたと思った割には反応がいまいち。ということで12/18まで一週間コメント大募集。筑水の気分次第でコイン大量還元ですよ。
ーーーーーー
橋の両端にて
風は、
森の枝を揺らし、
時に激しく、
時に優しく、
わたしの髪も、
同じように揺らした。
白い布は、
花びらのように舞い、
次の瞬間、
突風に煽られて、
膝の上で跳ねる。
ひやりとした指先の感覚が、
首筋に触れる。
それは、
夜露か、
霜か、
ひとしずくの季節か、
判別できない。
胸の小さなふくらみに、
自分の手が触れる。
それは、
木の幹に掌を置き、
その年輪の深みと、
かすかな温を、
そっと確かめるように。
そのとき、わたしは
「これは、わたしなのだ」と、
初めて静かに知る。
風が裾を揺らすとき、
太腿は、
月光に晒される。
それは、
森の白い岩が、
雲の切れ間から、
ふいに光を受けるよう。
指が、
布の上から
ゆっくりと動く。
それは、
大地に触れ、
土の湿りを探り、
草の柔らかさを撫で、
石の冷えを知る、
ひとつの巡礼。
胸の奥で、
かすかな疼きが芽ばえる。
それは、
種子が殻の内側で、
静かに膨らみ、
世界へ向けて
ひそかに震えるあの瞬間。
下腹のあたりに、
小さな熱が灯る。
それは、
地平から昇った朝日が、
凍った大地を
ゆっくりと溶かしていく
あの温もり。
風は、
わたしの吐息を受け取り、
森は、
応えるように木々を揺らす。
わたしが息を吸うと、
風が吹き込み、
わたしが息を吐くと、
風は森へ還る。
呼吸は、
森とわたしの間に
往復する微かな橋となる。
やがて、胸の奥から
ひとつの波が訪れる。
それは、
川の水が
岩を越え、
土を潤し、
根を抱き、
やがて海へと流れこむ
大いなる循環の感覚。
温かな滴が、
布を通して
切り株に落ちる。
一滴、
二滴。
それは、
雨が土を濡らし、
樹液が幹を伝い、
泉が石を照らす
自然の営み。
森は、
それを受け取り、
風は、
それを運び、
土は、
それを抱く。
わたしは、
森の一部として、
風に身をゆだね、
そっと微笑む。
森の呼吸が、
わたしの呼吸になり、
わたしの呼吸が、
森の呼吸になる。
風がわたしに触れ、
わたしが風に触れる。
土がわたしを支え、
わたしが土を感じる。
それは、
与えることでもなく、
奪うことでもなく、
ただ、
交わること。
朝が来れば、
朝露がわたしを濡らし、
夜が来れば、
月光がわたしを照らす。
風は、
わたしの名を
葉擦れの音にして運び、
わたしは、
風の声を
自分の吐息に乗せる。
嵐も、
凪も、
熱も、
冷たさも、
すべてが、
わたしを通り、
わたしが、
すべてを通る。
―故に
その境界は
波となって揺らぎ
粒となって浸み込むのだ。
羽化登仙
変われなかった 変われなかったんだ さむい 靴下がない 全部わたしがわるいから お願い 怒らないで 羽化は いつもうまくいかない 私が先に蝶になっても、黙っていてね。殻を破って、翅の伸張が終わる夜明けまで 待っていてください。
……
すこしげんきをだすぞ 頭が痛くて やる気が出な、ない。酒をたくさん飲み込んで、どこかに飛んだら病院にいた。また気付いたら家にいた。今から寝ゲロした自分を殺しにいく。そしてトイレや袋にちゃんと吐いた自分を抱きしめる。枕とシーツに吐いてしまって 今からシャワーも浴びなきゃ 荷物もほどいてご飯を食べてお絵描きでもしようか
くそ クソ クソだよ全部 なんで生きてるんだよ 死にたいんだってば 死のうとしてる度に多方面に迷惑かけて嫌われる 無駄に自分の価値と金と時間を消費する。もう殺してください。
もう、もうぼくはひとり土の中は嫌だな。空を綺麗な羽で飛びたい!羽化 しなきゃ そろそろ羽化のじかん。サナギのなかはどろどろしていて、なんだか見覚えがあったな。それではお先に失礼します。
𝘶𝘯𝘵𝘪𝘵𝘭𝘦𝘥
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きんだいし
あの黎刻を覚えている
最高光度の藍が
うっすらと薄れ
星が見えなくなった日のことを
「やっぱり嫌だな、君の詩」
イヤホンの右は君の右耳に
そっと共有していて
その口から響く
慈愛的アルカリ性の声
僕の耳に添えられた
イヤホンの左からは
どこか滲んだ酸っぱさが
耳に馴染む、君の友の歌声
どうしてとは問わなかった
僕の声はずっと
昔から塞がれてたから
悲しくなるほどの
その君の澄んだ声が
ゆっくりと
僕の心に溶け込んでいく
「君の詩は近代にして
魚の棲めないほど澄んだ
そんな明治の詩でしかない
どこまでも
どうしようもないほど
明治の詩なんだよ」
バスは静かに揺れる
この世界のゆりかごの
そのすべての代用のために
心臓性の絡繰仕掛けの
歌声が左耳から響き
「どこまでも澄んだ空を
すうっと冷たい、暖かい星を
そうやって掴もうとする君の
その詩は、その足もとを見もしない」
ぎゅっと僕の手が掴まれた
こっちを見もせずに
「どれほど踏みにじってるなんて、気にもしない」
バスは雲のそのあわいに入っていく
山を優しく包むそれは
灯りをいずれ失う僕の
その未来のための
柔らかい予告だったのだろうか
「ねえ、君の詩は皆を殺すんだよ
正確に言えば、君の詩風が世界を包んだときにね
君はそれを願うけど、だめだよ
タヒさんも、香織さんも、ねじめさんとやらも
皆が生きられなくなるから
君のその金属製の共感と暖かさ
せっかくのりこさんが殺そうとしたのに
無駄死にだったね、あの人」
……歌声が遠ざかる
過去を喰らい
海に化けて
それでも人を気取らんと
足掻く人の人たるゆえを
魂を刺すほど謳った君の友の
その痛みの子供性の歌声が
「君が殺しちゃうんだよ」
そう言いながら
優しくイヤホンの左を外し
それから小さなグラス瓶の
さみしき透明の琴花酒を
そっと口に含む前に
「乾杯、君の未来完了形の虐殺に」
僕は逃げられなかった
ぎゅっと肩を掴む
彼女の華奢な手からも
唾涎性の液が混ざり込む
濁り澄んだ琴花酒からも
そのしめやかな温度を絡ませる
くねりと滑る舌からも
「美味しかった?」
こくり
そして、こくり
そう頷いた
あるいは頷くしかなかったあと
白い靄に覆われ
一つの街灯が灯る
木組みの停車場で
バスはゆっくりと止まった
それからドアが開いて
身のすくむほどの
冷気がすっと入り込み
ポツリと呟く君が去る
「近代の、”し”」
ピシャリとドアは閉まり
ただ一人僕を残しながら
あいもかわらずバスは
ゆりかごのように揺れ始め
右の車窓も
左の車窓も
ただ雲の中
いっちもさっちもわからなくて
あんなに雲を目指して
坂を上がって上がって
上がりきったというのに
進むしかなくなったのは、下り坂
欅
イルミネーションとあなた 時間が止まるのが見えた
ミドリの一生
ミドリの家は
海岸から遠く離れた
静かな場所にある
ミドリが街にやって来るのは
数週間に一度だ
あとは海岸でふわふわしているか
家のどこかを修理している
ミドリの夫は他界していて
時々訪ねてくるアカムラサキ以外は
誰も家にはやって来ない
アカムラサキは海岸でゆらゆらしたり
家の修理を手伝ってくれる
金魚鉢が割れた時は
壁に水草の絵を描いてくれた
ブレイクファーストと称し
豆を皿いっぱいに盛ってくれる
外は広い
街は複雑だ
ミドリは金魚を飼っていなかった
豆はきれいに残さず食べた
海岸と家のちょうど真ん中あたりに
夫の骨のカケラを埋めた
光がまぶしく反射する
ミドリはこうして生きている
家はどこかが 壊れ続けている
ただ、一切は過ぎてゆきます
いつの間にか ひとりで街を歩けるようになりました
いつの間にか ひとりで喫茶店に入れるようにもなりました
いつの間にか あなたの声を思い出さなくなって
いつの間にか あなたを想って泣くこともなくなりました
あなたがいない世界なんて
あのころは想像もできなかったし
あなたなしで生きるなんて考えもしなかったけれど
案外平気に生きています
きっとあなたも同じなのでしょうね
私がいなくても あなたはあなたを生きている
いいえ きっとあなたは最初から
私なんかいなくても生きていけたでしょうけど
生きてくってことは
ただそれだけで大変ですね
息を吸って吐いて寝て起きて働いて
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中
逃れられない日々に守りたい自分などどこにありましょう
ただひとつ 言葉が足りなかったばかりに
ただひとつ 言葉が余計すぎたばかりに
壊さないように壊れないように
大事に大事に守ってきたはずのことでさえ
いともたやすく粉々にして
散乱した破片を見つめては泣くことさえもかなわずに
笑うことしかできないそんな自分を繕う言い訳ばかりを
探しあぐねているような情けない夜
握りつぶせない過去にがんじがらめになって
前にも後ろにも 一歩も進めなくなってしまう
眠れないまま迎えた朝に
いつまでもずっと馴染めないまま
時計の針だけが刻一刻と 時を急いでいる毎日
それでも それでも私たちはきっと
私たちが思うよりもずっとずっと
強く出来ているのだということを
流した涙も受けた傷もそこからあふれ出た真っ赤な血液も
いずれは自然に渇いてかさぶたみたいに
そっと傷口をふさいでくれます
朝 冷たい水で顔を洗い
身支度を整えて今日へと歩き出す
そうやって毎日は過ぎてゆき
そうやって少しずつ記憶は遠ざかってゆきます
忘れることは悲しいことなんかじゃないんだよ
あのころあなたはよくそう云ってくれましたね
あなたの云うように
時は悲しんでる暇もなく
あとからあとから流れてゆきます
立ち止まることも 逆行することも許されないままに
きっとそうやって人は
生きていくものなのでしょうね
元気ですか
あのころ描いていた夢は
まだ追い続けてくれているでしょうか
私はまだ
相変わらずヘタクソな詩を描いています
悲しみはいつまでたっても悲しいままですね
でも その先がちゃんとあるということを
教えてくれたのは たしかにあなただったから
それがなんなのか知りたくて私は
まだ 言葉をいじくり続けています
12月の空はピンと張り詰めたように冷たく澄んで
白く凍えた風が どこからともなく吹きすぎてゆきます
この空を どこかであなたも見ているでしょうか
たぶん見てはいないでしょうね
いまごろはきっと くしゃみを4回していることでしょう
それは風邪ではありません
風の便りです
長々と話してしまいました
くれぐれもお体大切に
どうかお元気で
さようなら
さようなら
いきいきて
行列は進む
皆前だけを見つめ
道から外れたところで見守る私を
手招きしてくれる人もいない
途切れない行進
彼岸と此岸の国境を目指している
私のうしろに広がる家々のどこかで
かなしげな犬の遠吠えだけが聞こえる
生きているものは哭く
しあわせになれないから
でも誰かに踏まれた雑草だって
生きるためにもがいている
沈みかけている太陽は
彼らのたどり着く場所の目印
そこには彼らが安らかに眠れる
しとねがある
しあわせがある
私は行列から背を向けた
まともな寝床を探すために
生きている限り
しあわせになれないのに
しあわせを探すのが
生きているためだから
やさしい寝床を探す旅だから
喪われた面影を振りきって
闇雲に叫びながら走った
北へ
それがどんな色だったかもう忘れてしまったけれど、長靴の底のやけに明るい色を覚えている。アカシは靴底の溝にこびりついた泥なのか血なのかタンパク質の塊なのか、そういうものを手にした割り箸でバケツに落としている。汗で額にこびりつく縮れた髪、唇はがさついていて、口角にはいつも血が凝固していた。
「汚いから外でやりなよ」
「前にそこの窓から手出してやってたら榎本に殴られたよ。サツキは顔、殴られないからいいよな」
傍目にも痛そうな唇を尖らせてアカシは口から隙間風のような口笛をふく。6畳程の部屋には私たちだけではなく、あと二人暮らしていた。が、今も二段ベッドのアカシの下で寝ている安岡さんは片脚を失って動くことができず、化膿していく脚が痛いのか、昼も夜もウンウンと唸り続けていた。もう一人は私たちよりも新しく入った男の子で白井くん。榎本というここの施設長によく無茶なことをさせられては追い詰められたような顔をして、最近では部屋の隅でブツブツと何かを言っていることが多くなった。
「サツキは逃げたいと思わないの?」
「わたし、馬鹿だから迷子になってまたここに戻ってくると思う」
「ちげーねぇ」
アカシはこの施設──そもそもここが何の施設なのかよく知らないけど──に私が来た頃にはもう唇を腫れさせていて、その割にはいつもどこか大丈夫そうな表情を顔に浮かべていた。アカシが最初そんなんだったから怖い場所ではないのかと思ったけど、その日の夜に男3人組の集まりに無理やり連れて行かれて、考えが甘かったことを悟った。強いお酒を飲まされたあと服を脱がされ天井に吊り下げられるように縛られ、お腹を順番に殴られた。誰が一番豪快に吐かせることができるか、と男たちは勝手に盛り上がり始めて、私が血とアルコールの混じった胃液を吐き出したとき男の一人が、フォー、と奇声を上げその場でサッカーのゴールパフォーマンスのように踊っているのをなぜだか今でもはっきり思い出してしまう。
「自分の影を追いかけたらとりあえず北にはいけるべ」
「北って?」
「北は北だろ。北に何があるかはしらんけど」
「寒そう」
「せっかく逃げたのに凍え死んだりしてな」
長靴を下足入れ──とはいえこの部屋には一般的な玄関というものはないので二段になっているベッドの片隅に各々が用意しているのだが──に収めて伸びをする、アカシはところどころ泥や血で汚れていて、仕事の度にお風呂に入ることができる私には、それがなんだかとても不憫なことのように思えた。もうすぐ、榎本が見回りに来る。消灯時間の9時少し前に部屋の明かりを消し、こぼした食事や体液でパリパリになっているタオルを体の上にかけて目を閉じる。白井くんの独り言が聞こえる。けれど、それをどうすることもできない。
「おい、白井。何やってんだお前?」
榎本の声を思い出す度に体に怖気が走る。ところどころ間延びする母音。けれどその割には一切感情が宿っていないように感じる声。だからこのとき聞こえた悲鳴のようなものが榎本の口から発せられた音だとは、最初信じられなかった。明かりがつく。私は部屋の入口に立っている榎本を見て、その後同じ方向を見ていたアカシと目が合う。
「あーあー。これやっちゃったな」
部屋の入口では目の前で白井くんが膝立ちの状態──というよりも髪を掴まれて膝が浮いた状態で、苦しそうなうめき声を挙げながら榎本の方を見ている。いや、見ているのか髪を掴まれた顔が自然とそちらを向いているのかはわからない。榎本の手から白井くんの頭が少しずつ離れていき、やがて彼の頭は床に転がったのに、榎本の手には髪の毛の束がいまだ掴まれている。私は声にならない悲鳴をパリパリのタオルで押し殺した。押し殺しながら、榎本のズボンにシミのような赤い汚れがついているのを見つけ、そのすぐ下にやはり同じように血がついたフォークが転がっているのを見た。今日のご飯はシーチキンだったから、フォークがあんなところにあるはずがない。私がどうでもいい疑問に行ったり来たりと思いを馳せている間に白井くんはそのまま外へと連れて行かれてしまった。
「サツキ、大丈夫か」
いつものアカシとは違う声。その声と同時に安岡さんのウンウン唸る声が聞こえている。いつも聞こえているはずなのに今夜ははっきりと聞こえる。何も答えることができなかった。暫くの間、私は入口に残された髪の毛の束を見つめていた。その間もずっと安岡さんはウンウンと唸っていた。私は、安岡さんが苦しくてそういう声を出しているんだ、と思った。当たり前のことに聞こえるかもしれないけれど、私はその時はじめて安岡さんが苦しんでいることを意識した。アカシ。そう答えようとした矢先に、力任せに扉が開き、床に転がっていたフォークが弾き飛ばされ音を立てて転がった。
「サツキ、アカシ、来い」
私は目配せをすることも怖くて、アカシの顔を見ることができなかった。外に出ると暗闇の中、白熱灯の光に照らされて白井くんが立っていた。粘土で新しく捏ね上げたみたいな目と鼻と口が、腫れている、という言葉に結びつくまでしばらくの時間を要した。後ろ手に結束バンドで縛られた両手は縄で施設を見渡せる電灯の柱にくくりつけられていた。
「今から白井を叛逆の刑に処す」
「サツキは白井の体にこれを塗れ、アカシはコレをかけろ」
私たちは榎本の近くに呼ばれ、私は何か液体が入った大きめのコップ、多分計量カップのようなものと刷毛を渡された。アカシは何かの瓶だったと思う。白熱灯の下で盛り上がった顔から幾粒もの血がこぼれ落ちていた。私は白井くんの体に液体を塗った。それは多分蜂蜜だったと思う。ところどころ赤黒くなって尋常でないほど腫れている白井くんの四肢にそれを塗る度に、彼はぎぃぎぃと鼻の奥の方で強い音を発しながら杭に体を打ち付けながら痙攣した。私はただそれを塗ることに疑問を持たないように頭の中で何度も何度も自分の頭をショベルで叩きつける想像をした。血の混じった鼻水や唾液、胃液、歯、半分溶けたシーチキンが私の膝に落ちた。私は蜂蜜を塗った。
部屋に戻った私たちは安岡さんの唸り声を聞いた。そしてフォークを私の下の階の白井くんのベッドの上に戻した。なぜそうしたのかはわからない。ガチガチ、と煩い音が耳障りだと感じた。今は夏で、寒くもないのに、その音が自分の歯によって立てられている音だと気づいたとき、私はどうやって息をすればいいのかわからなくなっていることに気づいた。アカシが私のベッドの上に駆け寄ったのはなんとなく覚えている。ビニール袋を口に当てられていた気がする。私はそれをされながらシンナーみたいだな、ってここに来るはるか昔のことを思い出していた。
意識が戻ったとき、私の目の前にアカシの顔があって、その顔にはいつもの余裕そうな表情が張り付いていた。私は何度も目をこすって、その表情の何処かにほころびがないか探した。けれどアカシは余裕そうに微笑んでみせた。
「サツキ、逃げよう」
心臓が急な階段を駆け上がったときのように速く打った。そろりと部屋の出入り口のところまできて、ドアが開いているのを見つけていよいよ心臓が止まりそうになった。いつもは外から施錠されているのだ。アカシの顔をもう一度みた。アカシはゆっくりと頷いた。
「まず白井のロープを切る、それから逃げる」
アカシは抑揚のない声でそれを言った。まるで台本を読むような声だった。私は白井くんのベッドに戻ってフォークを拾った。それを体の中心で、両手で握りしめた。
どうあがいても軋むような音を立ててドアが開き、二人は夜のなかに投げ出されるように出ていった。心強いはずの月明かりが今はとても余計なものに感じた。アカシは、私の肩をたたき、私に物陰で待っているように伝えた。白井くんのところにはアカシ一人でいくらしい。私は施設を監視するように立てられた柱にひとり縛られている白井くんを見ることができなかった。私は目を逸らした。白熱灯にぶつかる名も知らぬ虫の音がいつもよりも多いように思えて、私にはそれができなかった。
アカシに言われるがまま私は施設の反対側に回り込み、息を潜めた。思い出したようにアカシにフォークをわたした。アカシは何のことかわからない顔をしたがすぐに理解したようで、私の手からフォークをたしかに掴み取った。アカシが離れてから、私はほとんど息をすることもなく、隠れた茂みの草が揺れるのさえ許されないことのように身を固めていた。同時に、蜂蜜のことを考えていた。なぜ蜂蜜のことを考えているのかわからなかったし、蜂蜜のことを考える自分が許せなかった。けれども私は蜂蜜のことを考えていた。
アカシが戻ってきて首を横に振った。何がどうだめだったのか、それはわからないけれど、白井くんを助けることは出来なかった、その事実だけが私に突きつけられた。私はどうすればいいかわからなかった。その時膝に触れていた草の感覚を今でもなぜか覚えている。アカシが私の手を掴んだ。逃げる。そういうことだと思った。
言葉もなく、私たちは駆け出した。方角は示し合わせたわけでもないけど、私たちの影が伸びる方角だった。──北へ、アカシの言葉を思い出した。月影が北に伸びるのか、それはわからないけれど、私は北へ走った。私が思う北へと走った。心臓の鼓動がどんどんと高まり、普段走り慣れていない足がズキズキと傷んだ。けれど「北へ」その言葉が私の心を占める全てで、鼓動も、痛みも、私とは関係のないことのように思えた。北へ。私は私の影を追いかけた。北へ。アカシは思ったよりもずっと早く私のところに戻ってきた。いやそんなことどうでもいい。北へ。ただ北へ走ることがこのときの私の全てだった。北へ。ただひたすら北へ。はるか北のどこかで吹雪に閉じ込められて凍りついた集落のことを思い浮かべた。北で、遠い北のどこかで、すべてのものが凍りつくのではないか、と。血も、胃液も、鼻水も。全て凍りつく北。北へ。膿も、傷も、叫び声も、痛みも、蜂蜜も、うめき声も、性、性も、すべて、すべて。
棄民
棄民 北岡伸之
語学学校は、完璧な隠遁の形態のひとつ、とある作家が小説の中で書いていたけれど
あれは本人の体験でもあるのだろう。
小説の中の主人公は、欧州の語学学校を転々とする。夏は涼しい北のほう、冬は地中海よりの暖かい地域。語学学校ゴロ。
もちろん学校なんかにろくに通わずに、オペラ三昧だ。
欧州の立見席なんかは、歌舞伎の幕見席くらいの料金だから、毎日みても、食費を削るくらいですむ。
近年までは、どの国もVISAがゆるかったので、語学学校を転々として下宿に引きこもる、という生活は余裕でできた。そして、それは、本人が望むというよりも、本人の意志とは別に、語学学校ゴロを余儀なくされるというのが、自分の知るケースでは多かった。
たとえば、妙齢のお嬢さんが、東京の女子大にはいったはいいが、毎日ラリって遊びまわって、それが厳格な親の耳にはいった場合、高確率で「海外送り」となる。
世間体が悪いから、しばらく遠くでおとなしくしろというわけである。こういう「棄民」は、戦前からあった。
アニメ、進撃の巨人の中に登場する口減らしのための「棄民」や、氷河期世代をあらわす言葉としての「棄民」と同列に扱っていいのかどうか、自分は迷っているけれど、海外送りにされた「棄民」たちが感じている不安や孤独は、質的には、非正規労働者や氷河期の「棄民」が抱えているものと、あまりかわらないと思うのだ。
古くからの友人の秋ちゃんは、まさにそんな棄民で、日々ラリってろくに学校も行かず同人誌製作にうつつをぬかしているのにしびれをきらした親により、20の頃、海外送りにされた。
秋ちゃんは当時ベルギーにいて、将来への不安からかかなり精神的に不安定だった。
久しぶりに秋ちゃんに会おうと、自分は忙しい中目の前のプロジェクトを落ち着かせ、なんとか連続した休みをとった。一緒に過ごしていた10代後半の時代が、なつかしく感じられたのだ。日本でしみついた嫌なものを落ちそうと、自分は先に隣国の国営博打場のブラックジャックのテーブルと、コンセルトヘボウの音響を堪能しつくして、その足で東京駅の煉瓦つくりとよく似たアムステルダムの中央駅から二等車にのって、秋ちゃんのところに向かった。
再会の挨拶もほどほどに、そのへんの食堂にはいって、我々は前菜をすっとばし、魚料理を注文した。秋ちゃんは、もちろん、お酒も。欧州の街場には、プリフィクスとかいう野蛮なお決まりは、そんなに普及していない。
「父も、いつまでも元気かどうか、わからないし」
「でも秋ちゃん、出撃はついに訪れずってこともあるかもよ。」
秋ちゃんの親は開業医で、そろそろしんどいから、診察を午前だけにするとか、そういう状況だった。
グラスを持つ秋ちゃんの手は、本当にきれいだった。工場で働く女性の手が、働くものの手、労働者の美しい手であるとするならば、秋ちゃんの手は、高貴な鮎毛ばりにも似た、脆く美しい手であった。
「今、日本でどんな仕事があるかしら。通訳とか、翻訳はできると思うんだけれど・・・・・・」
自分はとっさに会議室横の同時通訳ブースにたむろしているおばさん連中を連想してしまった。
「まあ、そういう仕事はあると思うけれど、日本は、労働環境がよくない、先ず、人権という概念がない。あと、生活費も高いよ」
給仕が運んできた魚の上には、たっぷりとディルが添えられていて、デコレも美しかった。そして、豊潤な発酵バターのかおり。もうこれだけで、味付けはいらない。
「でもさ、秋ちゃん、日本でこれくらいのもの食べようと思ったら、普通の仕事じゃ、とてもやっていけないよ」
「お芋と硬いお肉の生活でも、大丈夫よ。テーブルワインでも」
秋ちゃんは、貧乏でもなんとかなると乙女じみたことを口にした。
「そんな節約したら、君は一月でまいっちゃうよ」
「そんなことない、私、競馬場の地下のスタンドみたいなところでも大丈夫よ」
秋ちゃんは、頑固だから言い出したら聞かない。
ここで、秋ちゃん、君は働くなと言ったら、君にとって働くのは、生き恥をさらすくらい、きついものだというのは、わかっているから、だから君は働くなと言えたのなら、自分の人生もだいぶかわっていたかもしれない。
でも、自分は当時つきあっていた工場で働いている女性と生活する気でいたのだった。
出撃の日、それは、自立を余儀なくされる日であり、秋ちゃんや、海外の「棄民」たちにとって、何よりも恐ろしいことなのだ。自分はとうの昔に、出撃の日を体験していたが、その日をおそれる心境が、鮮やかに蘇った。
日本の学生だって、卒業の前はブルーになるだろう。就職の決まった学生が、これから懲役40年か、なんて自嘲的につぶやいて、自称「社会人」の無産階級の、おなじ立場のひとたちが騒ぎ立てるといったことが、最近なかったっけ?
流れる空気も、他のテーブルの会話も、優雅だ。ああ、ここにはゆとりがある。
「秋ちゃん、ちょっと飲みすぎじゃない?」
さすがに、ペースがはやすぎ。
「いいのよ、私が飲むから。」
「ああ、飲もう。出撃の日は、とりあえず、しばらくはこないさ。」
鼻腔をお菓子や花の蜜のようなかおりがとおりぬけ、ミネラルの味がしっかりと舌に残る。おいしい。
とてもテーブルワインなんかじゃない。やっぱり秋ちゃんが、日本で節約生活をするのは無理だろう。
迫りくる出撃の日、自分は初陣をすませていたものの、秋ちゃんの気持ちは十分にわかった。
毎日好きなことをして暮らせるなら、それにこしたことはない。出撃の日、それは、自由と放埓の日々からの別れであり、死と同義であるかもしれない。
「見るべきほどのことは見つ、ね、わたしは今、そういう心境よ」
秋ちゃんも、かなり酔ってきた。
「秋ちゃん、だけれど、それに続くのは」
「わたし、あのとき、バルビチュレートでおしまいにする筈だったのよ、気がついたら、病院のベッドでしょう? 北のはてまで行っても、無理だった。」
アメリカの死囚は、この薬で意識を落とされる。そのあとは、カリウムが心臓を焼く。
「それは、運が悪かったとしか、言いようがないな。しかし、そうか、見るべきほどのは、既に見たか。ああ、それもいいだろうね」
「本当?」
「ああ、いいよ。秋ちゃん、君とならお供するさ。どうせ、このまま日本で生きていても、湊川だよ。」
島尾敏夫の「魚雷艇学生」の中で、戦争に負けて、出撃の日がなくなったことが確定したときに
古参の下士官が、隊長で士官である島尾敏夫に放った言葉を思い出した。
「私は軍隊で貴重な青春をすりつぶしてきたんです。だから、責任は、隊長のような人がとるべきだ。」
もちろん、島尾敏夫とて、職業軍人ではない。時代が、彼を青年士官として、隊長の立場に立たせたのだ。
グラスごしに秋ちゃんの高貴な顔を久しぶりにながめながら、知らない街を眺めながら、自分の住む煤けた工業都市住の人たち、工場に通うひとたちは、いざとなれば、我々はこんな工場で青春をすりつぶしてきたんだ、お前らのことなど知ったことか、と辛らつなことをいうのだろうなと、自分はぼんやりと感じていた。決して、あの街の人は受け入れてはくれない。自分たちは、青春を、すりつぶしていないから。
店は、ほとんど客がいなくなった。給仕は暇そうに遠くを見つめて立っている。けれど、もうラストオーダーです、なんてことはいわない。
「今日は、どこに泊まるの?」
だいぶ飲んで、目がとろんとした秋ちゃんが自分の目をみつめた。
「まだ決めていないけれど、ツーリストホテルみたいなとこ、ここらにもあるだろうから、適当に決めるさ」
だいぶ、お互いに酔ってきたけれど、別になんの思惑もない。ただ、隣国のツーリストホテルは最悪で、おもてにはコケインコケイン呟くゾンビみたいな売人はいるわ、慣れないキノコを食べた旅行者が上から落ちてくるわ、まったく心がやすまらなかったので、三つ星くらいの、ホリデーインエクスプレスみたいなとこにしよう、ルーレットで10ユーロチップがかなり増えたしね、と自分は考えていた。
「うちにくる?」
と、秋ちゃん。
しかし、心中の話をした後で、お泊まりというのは、やはり怖い。
「そうだなあ、床で寝るから、それでよければ」
「わたし、いびき、うるさいよ。」
「まあ、これだけ飲んでりゃあ、お互いさまだ」
そんなこんなで、秋ちゃんの家にお世話になることにした。
すぐタクシーがつかまるのは日本くらいだ。路面電車に乗り、石畳の上をだいぶ歩いた。
アパートかと思ったら、小さいながらも一軒家だった。何人かで住んでいるそうだが、誰も居間にはおらず、自分はそのまま秋ちゃんの寝室に向かった。 調度の整った部屋ではあったが、これはもともとあるものだろう。ベテランの語学学校ゴロは、家具を持たない。そう、鏡台ですら持たないのだ。
普通はなにかあるのだろう。いい年の男女が、一緒に寝たら。
けれど、なんにもなかった。自分は床に寝なかったけれど、何にもなかった。
お互いに、手のうちをみせあっているだけに、不毛なステップに進むのを回避できたのかもしれないし、単に酒の飲み過ぎでお互いにそんな気にならなかったのかもしれない。
くだらない、地上のつながりは、大切な関係を壊す。二人とも、それがよくわかっていたのだろう。
白ワインやシャンパンの二日酔いは、最悪だ。翌朝、割れそうな頭をかかえて、我々は、のそのそと、卵や芋の調理法を聞いてくれるくらいの食堂に向かったのであった。
自分と秋ちゃんの爛れた関係は続いた。
毎日、観劇と酩酊だ。
コンセルトへボウと、国営博打場のショートデッキのブラックジャックのテーブル、これはカウンティングがきくので、有利なときに一気に賭け金をあげれば容易にかつことができた、にはちょっと未練があったけれど、なに、また行けばよい。
ある日、ラ・ボエームをみて、二人ともいたく感じ入って、秋ちゃんの下宿で、白ワインを飲んで余韻にひたっていた。そして、自分は、ようやく、言葉を声にした。
「日本の恋愛は、生産のためなんだよ。国や企業のため。だからテレビドラマでやる恋愛は、生産的なんだ」
秋ちゃんは、首をふった。
「そういうものに、とりこまれる日がくるのかしら、ねえ、いま日本はそんな社会になっているの?」
「日本に本当の恋愛ってのはあまりない。モノガミーが強く推奨されるのは、生産のためだ。日本ではミミは歌わない、下宿に死にに帰ってこない。ただ金をとりにくる。ムゼッタだって、最後はミミのために奔走したのに」
話すことがなくなると、昔話になるのは、世の常であるらしい。
緻密なウイスキーすごろくをつくりあげて、工業都市の人々を消費と競争にかりたてた会社は、東京コンサートホールをもっていて、学生は安い料金ではいることができた。
諏訪内さんが、メンコンを弾くというので、秋ちゃんといったのだ。もう20年以上前だろう。指揮は岩城さん、オケはアンサンブル金沢。
当時のアンサンブル金沢は、めちゃくちゃとんがっていて、岩城さんは必ず難解な現代曲をやるし、聴衆がお世辞の拍手でもしようものなら、ブチ切れてホールは険悪な雰囲気になった。
ただそのときは、松村禎三の曲をやったので、比較的和やかなうちに諏訪内さんの登場をむかえたのであった。
「あのときの、諏訪内さんは本当にきれいだったなあ。俺、いまでも鮮やかにおぼえてる」
「そうね、CDを買って、なんべんも聴いたけれど、録音は録音。あれは本当に、すべてが奇跡だった」
しかし秋ちゃんはその後に爆弾発言をした。
「前に、歌の翼を弾いたでしょう、うちで」
「いやいや、秋ちゃん、俺そんなにロマンチストじゃねぇよ、メンデルスゾーン好きに見える?」
「案外そうじゃないの?」
秋ちゃんは、くすくすと笑った。
「いや、違うよ、俺が酔っぱらって弾いたのは、若鷲の歌だって、若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨」
「ちがうわよ。Auf Flügeln des Gesanges」
「そうだったっけ、でも本当にいま弾きたいのは「あの旗を撃て」だな。補給の道は絶え絶えに、射つべき弾丸もはや尽きて、残る一つはこの身体」
補給、そう、送金がたえた時が、語学ゴロの最後のときであり、敵陣に裸で突撃することとなる。
秋ちゃんだけじゃない、可もなく不可もなくで、のらりくらりと賃金労働に従事している自分も、いつ補給がたえて弾がつきるかわからない。
まことに、まことに生きていくのはしんどいことだ。
しかし秋ちゃんの指摘は案外当たっているのかもしれなかった。
すっかり心がかさついてしまった自分が、あのミミのアリアに、ミミが下宿に死にに帰ってきたとき、みながミミのために奔走する終幕に、心を動かされたのは、本当のことだ。
こういう気持ちのときは、ウイスキーがいい。華やかな酒は、気が滅入る。
秋ちゃんは、穏やかな、調和がとれた中にも、煙たさがちょっとあるウイスキーを出してくれて、不揃いのコップでまた一緒に飲んで、酔って、昔の話をした。
ウイスキーは、こういうときにぴったりだ。
レッドからホワイト、次は角、角から、夢のオールド、次はリザーブというウイスキーすごろくを真面目にやって、堅実な幸せをつかむには、自分も秋ちゃんもひねくれすぎていた。うちは明日からオールドと、昇進辞令とともに、あたたかく自分を迎えてくれるであろう女性の顔も、もはやぼんやりとしか、浮かばない。
自分が山で死ぬときに浮かぶのは、秋ちゃんの顔か、黒髪の魔女か。
音楽と、博打と、酒と、同人誌の話。
欧州の、ある一部屋に、どこにも行き場のない男女が、あのとき、たしかにいた
秋ちゃんとしばらく過ごしたのち、日本にかえってから、自分はマディラワインを台所に置くようにした。
ジンやウオッカなどは、台所にうつした。それは、秋ちゃんなら、料理にマディラワインを使うだろうし、ジンは台所の酒と認識しているだろうからだ。
ブランデー、上等なウイスキーは寝室に置いても良い。
マナー講師はいわないけれど、こういうことは、たくさん世の中にあるんだ。アメリカだって、老婦人はペプシは台所にしか置かない。
コカコーラがダイニングの飲み物であり、ペプシは台所の飲み物なのだ。
自称高級スーパーでも、マディラワインもおいていない、灰色の街。多くの人々が、青春をすりつぶしてきている。
出撃の日は、きっと来ない。
しかし、より厳しい日々を、自分も秋ちゃんも生きていかないとならないのだ。我々には、行く場所などないのだ。星があろうとなかろうと、誰も受け入れてはくれない。
一人芝居用の戯曲『最後の狸』
(椅子に座って書き物をしている。手を止めて窓を見る)ん? なんの音だろう?
窓ガラスに当たってるのは砂ぼこりか。天候気象制御装置を切ったから風向きが安定していないんだな。
カチカチと楽しそうだ。まあ、喜ぶのも当たり前か。外の風は今まで、吹く向きも強さも人間達に制御されていたんだから。
自由は尊い。
人間がいなくなった星では強制から逃れられた大気が歓喜の声を上げている。
こんな事を記者会見で述べたなら、記者達はどんな顔をするだろうな。
いや、質問が飛ぶ前に、気象調整庁の奴らがすっ飛んで来て攫われてしまうか。余計な事言うなと。
二千年。
いくらなんでも早すぎるだろ。
人類が火星に移住してから二千年しか持たなかったなどと、一体誰が想像できた? 少なくとも、希望を抱えて火星に移住してきた頃は、予想だにしていなかったに違いない。
地球の人類史よりも短い間に、火星の生活が終わる未来など。
(背伸びをする)
火星最後の人間として、か。何を書き記せば良いんだろうな。後悔か、懺悔か。そんな物を書いて土に埋めたところで、この星は喜んだりはしないだろうけど。
(立ち上がる。コーヒーを淹れる仕草)
コーヒーを飲めるのも、あと半年ぐらい。作る人間がいなければ、コーヒー豆は手に入らない。いっそ、仕事を投げ出してコーヒー豆の作り方を覚えるのも良かったかもしれないな。
(コーヒーを飲みながら窓の外を眺める)
相も変わらず、元気な太陽だ。
燃えさかる正義に傾倒する太陽の姿は、理性を尊ぶ人間の好みに合わなくなった。それだけの話。
火星を捨てて、人間は木星へと飛び立つ。
立つ鳥跡を濁さずなんて、私達にそんな美徳を掲げられるほどの余裕なんかなかったよ。
(立ち上がって演説をするかのように)“望遠鏡を覗けばいつでも自分たちが暮らしていた証を懐かしむことができるように。この星の姿はなるべく変えないまま新天地へ向かおう。生きたアーカイブだよ”
私の最後の詭弁演説。みんな荷造りに忙しくて私の話など聞いていなかったけどね。
そして、今から3時間後には私も最後の人間として火星を後にする。酸素製造機の電源を落として宇宙船に乗り込めば、火星における人類史の終焉となる。
乗り込めば、だけど。
新しい星にももちろん興味はある、けどさ。
動物としての意地が、邪魔をしてくるんだよ。
(観客に向かって自己紹介をするように)狸、齢300歳。人間として生きたのはまだ100年ほどだけど。見た目はご覧の通りだ、上手く化けてるでしょ?若いくせに妙に老成した雰囲気があると評判の政治家になれた。誰に恥じることも無い、一生懸命やったつもりだ。それでも、この結果をぶら下げてご先祖様のところへ行くのは少々気が引けるなぁ。
私のご先祖狸たちは地球から逃れて宇宙へ出るため、狸から人間へと変化する術を身につけたんだと父は誇らしげに言っていたっけ。その父も今頃は木星に降り立っている頃だろう。
そんな父と同じように、私も狸から人間に。そして、どんな相手の心も読むことが出来る覚りという妖怪になった。どんな相手でも。そう、男でも女でも、赤子からお年寄りまで。
もちろん、皆さまの心だって手に取るようにわかりますよ?
そんな妖怪が300年、あの手この手を尽くして頑張ってきたんだ。人を動かし国を動かし、天地山河に根回しし、各所の神仏に頭を下げて、そして、妖怪界隈では最大のタブーとされる政治にまで潜り込んだ。
それでも、それでも火星の終焉を避けることは出来なかった。
(椅子に座ってコーヒーを飲む)ふう。コーヒーが美味い。
それならまだ、やれることもあるか。さあ、最後の仕事だ。
(卓上の機械のスイッチを入れる)
「緊急通信 緊急通信。こちら、狐崎 学。
時刻1140。火星嵐が発生し、搭乗予定の宇宙船にて砂塵摩擦発火による酸素爆発が発生。外壁損傷重大、電磁姿勢安定装置に甚大な損傷あり。
繰り返す。
火星嵐が発生し、宇宙船で酸素爆発が発生。
自力での修復は不可能と判断し、引き続き火星の監視任務を続行する。
救助を求めず。
繰り返す。
救助を、求めず。
これより私一人で、火星の終焉を見届けることとする」
いくら人間が作り出したとは言え、生物は生物。命がある物なのだ。
山河空海に住まう命があるというのに、星の生命維持装置を切りたくはない。どちらにしろ、火星その物が長くはないのだとしても。命の存在しない星が、火星として正しい姿なのだとしても。
このままみんなを見殺しにするわけにはいかない。
私にも、動物としての意地がある。
「(深く息を吸う)人間は不滅だ。
永劫に栄え続けるべきだ。
木星での繁栄を祈る。
人間に幸あれ」
(機械のスイッチを切る)ふぅぅ。この言葉が向こうに届くのは1週間後か。これで私の仕事は終わった。
これからはもう、狸としての余生を過ごしていこうじゃないか。
(椅子に座ったまま、うとうとし始める)
(物音を聞いて慌てて起きる。ドアを見て時計を見る)
しまった!もうこんな時間か。
はいは~い、今開けます。
(立ち上がりドアへ向かう。途中、あ゛~あ゛~と言いながら喉を触って声をチューニングをする)
(ドアを開ける)
やあ、ホワイトハウスへようこそ。すみませんね、もう私一人しかいないもので、ろくな出迎えも出来ずに。
歓迎します、金星人のみなさん。
(金星人の触手と握手を交わす)火星はこの通り、人間達が捨てていきました。自由に使って構いません。
貴方たちが地球上でしてきた生活をそのまま再現できる環境を整えてあります。
星を引き渡す代わりに、条件として挙げさせていただいた、この星の生命体を故意に滅ぼさないという約束だけは守っていただきたい。
もっとも、貴方たちの技術力があれば問題にもならない条件ですね。
ああ、そうだ。美味しいコーヒーがあります。1杯どうです?地球からの長旅は疲れたでしょう」
(コーヒーを淹れる)
星を弄るのはどれもこれも時間が掛かる。貴方たち先遣隊だけでは難しいことも多いでしょうし、仕事は本体が火星に着いてから取りかかっても遅くはないと思いますよ。
これを飲んだら、私も金星人の姿へと変化しよう。そして、新しい人生を始めるのだ。
おわり。
過去に書いた作品を仕立て直してみました。お芝居用のシナリオって書いたことが無くて、こんな感じなのでしょうか?
10分にしては長すぎたかもしれません。
ソワレ
定休日の喫茶室
闇に点滅する
クリスマスツリー
光るたびに灯る
テーブルやカウンター
棚の焼き菓子
重ねられた白いカップ
密やかな夜の営業の
はじまり、はじまり
魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅰ
別の日の「カルセスファー工房」にて。
「──という感じで、町の図書館に設置してある魔導機巧(※マギテクス)の置時計を、是非、あのカルセスファーの名を継いでいるミシェルさんに修理してもらいたくて、ですな」
「修理、ですか」
ショーケースの並んでいる店内のカウンター席を挟む形で、店の主であるミシェルと、身形のそれなりに整っている初老の男性が話をしている。どうやら少々深刻な相談らしく、男性の方が心底困ったという風な表情を浮かべているのが分かる。
「それは構いませんが、確か、お住まいの町の近くに工房を構えている同業者が居たと思うんですよ。その方に依頼なさった方が、費用も、近場ゆえに比較的お安く済むと思うんですが」
「ええ。もちろんその工房のマインテナさんにも依頼しましたよ。しかし、その工房にお願いして直してもらったんですが、またすぐにズレてしまって……」
そう言うと男性は鞄から何かを取り出し、カウンター上に広げると、指で軽くトントンと叩いた。
そこに目を向けると、上質そうな四枚の紙資料が置かれてあり、うち三枚の紙面には、置時計の一部を分解した際の工程や所感の解説図が。もう一枚には、多数の文字列と、マインテナが依頼を受ける際に捺印する上下左右が反転した工房独自の紋様と、複製防止用魔法の文様とが並んでいることが見て取れた。
「これが、その時の依頼書の写しと、先方から頂いた置時計についての情報です」
「拝見しても?」
「もちろんです。どうぞ」
「では……」
ミシェルは手袋をはめて、設計図の描かれている方の紙を手に取り、鋭い眼差しで内容を確認していく。そこには、恐らく工房の職人が調べて整理したであろう、置時計の大きさや構造体内部の状況、使用感、更には設置場所の屋内環境についての情報が記載されていた。
「……ふむ」
それら全てに目を通したミシェルは、軽く息を吐くと、何処か肯定的な雰囲気で一つ頷いてみせ、男性の目を見てから口を開く。
「記載されている内容自体には、特段、何かの問題があるようには見えませんね。僕が作るとしても、ほぼ同じ形のものが出来上がると思います」
「そうですか……。なら、どうしてなのでしょう?」
「うーん……。今の段階で考えられる可能性は幾つかあるんですが。大きくは二つで──。」
そこでいったん言葉を切ったミシェルは、足元付近にある引き出しを開けると、中に置かれてあった小さな箱状の金属体を取り出して机上に置いた。表面には、小さく「カルセスファー工房」の刻印が彫金してあるのが見える。
男性は、興味深そうにそれに目を向けている。
「これ、小型の『霊核(※コア)』なんですけど」
「これが『霊核』ですか。初めて見ました」
「まず見ないですしね。んで、これの中に魔力の結晶が封入されているんですが、それが劣化すると出力が不足してしまい、魔導機巧を満足に駆動させられなくなるんです。可能性の一つは、その置時計内にある『霊核』がそうなってしまっていると言うものですね」
「『霊核』の劣化……。それはどの程度の期間で発生するものなんですか?」
「僕が把握している限りでは、一般的な物で、だいたい十数年から二十数年ほどですね。使用環境や型式によっては、それ以上の期間保つものもありますし、品質次第では最初の数年で完全にダメになることもあるそうです」
「十数年……」
「そして二つ目は、部品の見えない箇所に損傷が起こっている可能性です」
「と言うと?」
「例えば、針を動かす役割を持つ歯車や車軸、固定具などに若干の歪みが出ていて、その嚙み合わせの悪さが全体のバランスに悪い影響を与え、ズレの原因になってしまっている、と言う感じです」
「あー、なるほど! 精密そうな構造ですからな」
「はい。僕の義父も、歯車仕掛けの不調は、まずはそこを疑えと常々言っていましたので。しかもこれ、厄介なことに見落としやすいんですよ。それを専門に勉強したマインテナでもなければ」
「ふぅむ……。可能性としては、その二つという事ですか」
「現段階では、と言う前置きが付きますけどね。実際の物を見ないことには、これ以上の判断はできかねます。もし正式に御依頼を頂ければ、現地に足を運び、喜んで分析もいたしますが」
「うーむ……」
男性が、ミシェルの優しくも業務的な言葉に、しばし考え込む。
しかし、この時の男性が考えていたのは依頼の是非ではなく、その依頼方法や費用の支払いなどの段取りについてだった。
そして数分の後。彼は顔を上げて、ミシェルの顔を真っすぐに見据える。
「分かりました。一度、出直します。正式な依頼書の作成と予算の捻出について、町の人間と話さなければ。大体一週間ほど掛かると思いますが、大丈夫でしょうか?」
「その時の状況次第では、御依頼の遂行が前後することもありますが、それでも宜しければ、御予約として承りますよ」
「有難う御座います。では、予約という事で」
「承知しました。それと、この時計の図ですけど。一度、僕の方でお預りしても? 次の御来店までに、可能な限り原因を洗い出してみようかと思っているんですが」
「よろしいんですか? 是非、お願いします」
「有難う御座います。では、大切にお預かりしますね」
そう言うとミシェルは、預かった図面をカウンターの引き出しの中に置いていた、艶のある塗りが施された箱の中へと収納する。
それは、契約書などの大事な書類を一時的に収納する際に彼が使っている物だった。
「では、出直してきます。相談に乗ってくださって有難う御座いました」
「いえいえ。またの御来店をお待ちしております」
こうしてミシェルの次の仕事は決定し、数日後、再び彼の腕が揮われることになるのだった。
魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅱ
図面を預かった日の夕方。
町での買い出しを済ませたミシェルは、店の扉に「CLOSE」の看板を掛けると、早速、図面の情報を解析する作業に入ることにする。
「取り敢えず、歯車と時計の主要部分のパーツを出しておこうかな。後は拡大鏡と、ねじ回しと、ピンセットと……」
作業場に臨んだ彼は、必要になりそうな物を一通り作業台へと持ち出し、並べていく。
歯車仕掛けの時計部分を構成する主要な部品類が一式。技師が良く用いる工具類。そして魔力供給機に接続された照明器具が一組。机の上や周辺に手際よく整えられていく。
「よしよし。始めようか」
全ての用意を終えた彼は、手袋を嵌めたうえで預かった図面三枚を机の上に広げると、片眼鏡型の拡大鏡を装備してから席に着いた。
そして、そのまま即座に集中と解析が始まる。
「…………」
沈黙、集中、のちに黙考。
先刻、男性の前でおこなって見せた簡易的な観察とは明らかに異なり、今のミシェルは、一つたりとも情報を見落とすまいと言う雰囲気が全身から漂っており、その視線が、資料の隅々にまで注がれていく。
そうしてまた、沈黙、集中、黙考と、同じサイクルを繰り返していく。
そして。
「……ふぅむ」
しばらく時間が経過したある時点で、彼はふと手を止めると、何かを確認するように資料のあちこちを軽く指でなぞり始めた。
(型式は、使われている部品の通し番号を見るに、帝国が新体制に移行してすぐに製造されたもの。『霊核(※コア)』部分には一度交換された形跡があり、周辺部品も含めて劣化は確認されず。時計の主要部分についても、修理の際に偶数番の歯車や車軸の交換が行われ、それが影響する可能性のある三十五番、三十九番、四十三番の歯車と固定具が調整済み、か……)
資料に記述されている図面模写や、修理を手掛けた人物による工程の説明文を頭に入れ、そのうえで、彼自身がこれまでに培ってきた知識や経験を総動員して情報を整頓・分析していく。
(やっぱり、特に問題は無いように思える。型式が新しく、構造の特徴ゆえに、ごくまれに起こると言う『霊核』の急速劣化も考えにくい。魔力の循環も正常に行われていると考えるのが妥当。うーん……)
自身の分析結果に首を傾げ、再び図面に目を向ける。
(だとすると。考えられるズレの原因は、見えない部分のトラブルか。はたまた交換した部品と既存の部品との相性が悪かったことによる不具合か。あるいは、『霊核』か魔力の通う主要構造部分に対して、間接的に何らかの力が影響を及ぼしたか。或いは──。)
書かれてある内容を頭の中で反芻しながら、あらゆる可能性に対して思考を巡らせる。
仮に発生する確率が万が一の事象であったとしても、それが原因で重大なトラブルが起こるのならば、発生について十分に考慮しなければならない。それだけ、魔導機巧(※マギテクス)と言う道具の扱いには慎重を要するのである。
しかし、必要なことだと言っても永遠に考え続けるわけにもいかないので、ミシェルは、ある程度の段階で考えるのを中断し、次のステップへと進んでいく。
すなわち、現状で出てきている案や疑問点の列挙と記録、そしてそれらに対する可能な限りの準備である。
「よいしょっと」
彼は、事前に用意していた時計の部品や『霊核』を、細かい作業のやりやすい台に運びなおして並べ、更に、準備していた冊子と筆記具とを手に取って、考えた内容についての記述を始める。
その時の様子は、機械で自動筆記しているのではないかと疑われそうなほどの手際の良さであり、先程まで彼が考え込んでいた様々な考察やイメージが、瞬く間に、冊子の上に図面や説明文などの、具体的な形となって積み上げられていく。
更に彼は、冊子に記述したパーツのミニチュア版とでも言うべき部品の図面を別枠で準備すると、作業場に置いている加工機型の魔導機巧を稼働させ、製造を始めた。
(これを叩き台にして、明日以降に検証もしないとね。仮に依頼が無くなって図面を返却・破棄したとしても、今後に活かせる情報も多く手に入るから無駄も少ない。うん、問題ないね)
しっかりと駆動して魔力の粒子を排気している加工機の様子を見据えながら、ミシェルは頷く。
「これで良し。後は部品の出来上がりまでにやれることをすれば良いかな。さて──。」
そう言って、そのまま加工機を周囲から隔離するように遮断カーテンを二重で引いた彼は、作業台に広げていた図面を整頓して専用の箱に収納すると、作業場を後にする。
そして夕食、翌日の予定の確認、完成した部品の取り出しと収納、入浴を終え、今日を終えるのだった。
揺れる昼と夜の隙間に種を残して蘇れ、星々のトリニティと海の唄託。
15th Dec 2025
札幌は一面、白銀の世界。
大通とすすきのを結ぶ、駅前通りのイルミネーションがより一層美しく見えるこの季節。
冬になると日照時間が短く、朝晩の焦燥感も逸ると聞きます。皆さま、変わりなく過ごしていますか。
さて、大きな地震がありました。
書き置きしていた内容を投稿するつもりでしたが、地震のこと、そして北海道の未来について ──── 語るなら、今。
私が暮らす北海道札幌市は2013年ユネスコ創造都市ネットワークに加盟<メディアアーツ分野>認定の政令都市。デジタル技術などを用いた新しい文化的、クリエイティブ産業の発展を目指す都市として、先駆けたのは、初音ミクが所属するクリプトン・フューチャー・メディア(株)地元のアルバイト情報で求人がたまに上がってる、カジュアルな会社です。
芸能エンタメのカルチャーより、芸術文化や音楽、地下歩行空間で様々なアート作品の展示会が開催されるクリエイティブな街づくりを目指しています。
義務教育のカリキュラムに音楽鑑賞があり、スポーツはスキー学習が幼稚園から高校まで体育の授業で行う。小学校の修学旅行でラフティングやユネスコに登録された地に訪れることで自然に親しむ取り組みがあるのは、暮らしの中で身近な話ではないでしょうか。
最近だと白老ウポポイ(民族共生象徴空間)へ行くようですが、私も先月行って来たばかりです。研修で。
私は長らく役職を継続しており、様々な所属先の「研修会」と呼ばれる年間行事に参加します。
そのひとつ、洞爺湖有珠山ジオパークに行った時のこと。
札幌から中山峠を経由して胆振地方に出ると洞爺湖に着きます。この辺りは湖がふたつあり、東(千歳方面)に支笏湖、西(伊達)に洞爺湖があり一帯が国立公園に指定されています。洞爺湖はドーナツ状のカルデラ湖で中央に中島があり、地球の歩みと縄文時代の暮らしが見える場所。
約11万年前の巨大噴火によるカルデラ(陥没地形)に水が溜まってできた洞爺湖は温泉街。
日本最大のカルデラ湖は阿寒国立公園にある屈斜路湖、こちらも地下から押し上げられた溶岩が固まり山になった/中島があります。
地面が隆起して新たな火山になる。
地殻変動による自然が織りなす情景は大地の鼓動ですね。
有珠山がある地域も同じ。夏になっても草が生えない、昭和新山の赤い土は天然の煉瓦。
ひとつの山に限らず一帯が、現在も『生きている』活火山です。
1977年の噴火で隆起した昭和新山から、今でも煙が出ています。
そして、私の記憶に残る2000年、火山性地震が頻発。4日後に噴火。その後も断続的に噴火活動を続け、翌年5月に終息。
山の裏側にある海沿いに高速道路があり、1年以上、閉鎖になりました。
もっと言えば、太古の昔から火山活動がある山に熊牧場が……ヒグマ60頭を飼育……実は登別にも熊牧場があるんですけど、登別も活火山で硫黄泉が湧く温泉街。道民は温泉とヒグマがセットで親しむ傾向がある、独自の文化ですね。
有珠山は、約20年から30年の周期で噴火しています。前兆なしに突然噴火するわけではなく火山性地震など噴火の前兆が観測できるので、地域住民の方は、火山と共存し、災害に備える暮らしを続けている。
さすが地質遺産として、ユネスコ世界ジオパークに認定されるだけのことはある。
北海道には、もうひとつ、ユネスコ世界ジオパークが存在します。
それが、日高の浦河町。
日曜劇場・ロイヤルファミリーでも知られるヒダカノホシ。
サラブレッドの生産地として知られる場所から東へ30キロ、様似の少し先にアポイ岳がある。
日高山脈は約1300万年前に起きた、2つの大陸プレートの衝突によりできたもので、アポイ岳もそのひとつ。
ここが世界ジオパークだと洞爺湖ビジターセンターに行くまで全く知りませんでした(浦河と様似は毎年鉄道旅で行く場所)海岸沿いの海岸段丘は独特な景観で、いつ行っても変わらないと思ったら、あの景観は海底の裂け目に溜まったまぐまが冷やされて盛り上がり、海の波に削られた天然の岩石。地殻変動により形成された一帯です。
先に起きた北海道・三陸沖後発地震注意情報で聞くようになった「千島海溝」は、えりも岬沖でМ8クラスの巨大地震が80年から100年の周期で起きていることが今回の調べで解りました。
今が、その時 ────
……とは言いませんが<地球が生きてる証拠>を地震が起きる度に改めて感じる。
そんな思いを胸に。ただ、できれば安全に過ごしたい。
地震は、ほんとうにこわい。
緊急地震速報が鳴ってから大きな揺れを感じるまでの時間が、数年前と比較して速くなった。その間に安全の確保や避難をすることができるのは進歩だとして、遠くから聞こえる……あの音……忘れもしない、私の体験談。
2018年9月3日、午前3時過ぎに起きた北海道胆振東部地震。
あの時はまだ子供が小さくて、床に布団を敷いて一緒に寝ていました。深夜、遠くから『何か』不快な音がする。私は俯せで寝る癖があり、布団に耳をあてると床の振動など聞こえる(家族の足音を聞き分けられる)センサーの持ち主。これが聞き取れないと穏便に暮らせないというか、ね……で、モスキート音のような電子音ではなく例えようもない不安が実際の波動となって遠くから押し寄せて来る、違和感。
次第に低周波に建物が反応し、震える。
そして物質が響くような、割れるような音と共に強い揺れが始まってから、緊急地震速報が遅れて鳴る。
物音に目覚めて、まだ事態を把握してない子供を布団に包んで抱えたら、すぐに立ち上がり、部屋のドアを開けて大きな声で家族を呼びました。
「やばいやばいっ何これ!?」
階段から降りて来る子供も布団に包んで、照明の下を避けて座らせ、テレビを押さえたり、ズレ動く家具が子供たちにぶつからないように先んじて庇う。
この瞬間まで地震に対する私の概念は、地面を伝って揺れる波のようなものだった。
でも、大きな声を出さないと物音で掻き消されるような、焦りと恐怖により、冷静になろうとする命の危機が只遭った。
地震の規模を示すマグニチュード6.7
北海道で観測史上初めて震度7を記録した内陸の直下型地震で、全道が停電になった。
これが北海道胆振東部地震
ブラックアウトの始まりでした。
揺れが収まった後、階段のコンセント式人感センサー(充電式)が点灯しているのに、テレビが点かない。
デジタル表示やランプが消えていることから、停電していることに気が付きました。
最初はこの辺りだけかと思ったら外に出てくる人たちが増えて、停電になったこと、水道水が出ない。出してはいけないと先に聞いたので、お風呂の残り湯と常備していた飲料水で過ごすことに。わが家の場合、これが功を奏して後の住宅トラブルを回避することができました。
貴之は職場へ
街周辺の様子も見て来ると、車で出勤。
私は職場や上司と連絡が取れず、何の情報も無いまま、手回しラジオを点けて窓際に置き、目が覚める子供たちをあやしてソファーに並べて寝かせる。
この年、2回目の地域トラブル「またか……」部屋の片づけより、リビングに必要なものを一カ所に集めて、みんなで過ごした。ご近所さんと相談して日中は大人が買い出しに走り、ガスボンベや水などの調達をしながら情報交流を経て、うちだけじゃなくてみんなが困らないよう被災した今だからこそ、できることを見つけるよう努めました。
スマホの充電には限りがある。それは相手も同じこと、最中に「今なにしてるの?」連絡を取り合い、冷蔵庫のものダメになるからうちも鍋だわ~なんて世間話をしたり、炊き出しの情報も教えてもらった。
だから、暗いリビングに悲壮感はなくて小樽で購入したランプを灯せば「キャンプみたい!」子供たちの瞳が輝く。ご飯食べるのもくっついて、順番にやりたいカードゲームで遊んで、夜中の指スマで大笑いした後に、夜の散歩。
いつもより星が綺麗に見える夜でした。
街の灯りが空を照らす。
子どもに言われた「魔女の宅急便みたい」だって。ああ、旅立ちの夜に出会ったあの風景。確かに……ただ、ここ北海道だからね。電波が届かない山の中で見る、星の降る里を知ってる私はどこか懐かしい気持ちになって、普段とは違う夜にはしゃぐ子供たちと手を繋いで家路につく。
震災の翌日、信号機が止まった道路を運転するのは大変だろうに、貴之は仕事の合間に日用品など買ってきてくれた。
朝になったら外に出て、土鍋でご飯を炊く。スーパーで冷凍食品を無料配布していたから解凍して食べてとたくさん貰ったり、大手飲食店が店内の食材で野菜ラーメンを炊き出し、無料配布。温かい物を食べると落ち着きますね。
長いようで短い3日目。まだ世界は元通りではないけど、職場に復帰して最初に感じたこと。
多くの方が被災し、亡くなったことが現実なのだと人々の移動に感じた。
ご葬儀に参列されるであろう人の数が、尋常ではない。一週間ではきかないくらい続きました。後にも先にもあの時だけのことであって欲しい、今はそう思います。
北海道は先週末にかけて冬型の気圧配置で天候が荒れる中、大きな余震。
緊急地震速報が鳴った午後、私は車の運転をしており、揺れを体感しませんでした。胆振地方の震度は大きくて、札幌はそうでもないのかと思ったら会社の上司から安否確認の電話が届く。現在地の状況報告と社内の緊急時における点検カ所の確認、そして除雪の話をしている間も着信やメッセージの通知が次々に表示される。後から聞いた話ですが、エレベーターが止まって15~20分ほど閉じ込められた人が多数いたそうです。地下鉄は止まると社内の電気が消えて再開した後は点検のため遅延する。だから「今、どこにいる」確認を急ぎたいのだと彼に言われた。
私の大丈夫と、彼の基準は大きく違うため、緊急時になると現場を治めるだけで精一杯。彼は脅迫概念の傾向にあり、外的要素によるストレスで不安や拘りが強くなる。そこで特定の行動/仕事に集中して、分散させるそうです。
働くことでストレスを蓄積させる人の方が多いけど、彼の場合、先立って強いストレスがある。
これは生まれながらに備わった性質よりか、成長過程による生活習慣病。幼少期は勉強に、社会に出れば仕事に身を窶すことで、それは誰の目にも正しく、身の内に起こる不安から逃れるための術として、何十年も続けているうちに病が無自覚になっていく。ただ、みんなが大変な時に一点集中して仕事を優先できる自己犠牲は必ず讃えられます。彼はそうして救われているから、私は何も言えないんだけどね。
──── 俺より先に死なないでくれ。
これが条件で一緒になった私たち。
今のところはお約束をちゃんと守っている私は、いい子。
願わくば、人々の暮らしが守られますように。
・
・
・
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・
この頃、一週間が早くて食事時にテレビ番組を見ていると「あれ?ついこの間も見たような……」これが噂に名高いジャネーの法則。
地球の更年期にも困ったものだけど、私も老化しているのは認める。可愛いおじいちゃんになりたいと希望的観測を家族に伝えると、お年玉は何歳まで貰えるのか問題について追及される。えーっと……くれる人がいたら何歳でも、よろこんで。
というわけで、来年のお年玉の確約されたようです。
でも、元旦から仕事なので忘れた頃に渡すかも?私と貴之は別、しかも貴之はいくら欲しいのか聞いてくるから「言った金額の半分でいいからね」と腕組みプンスコ!上限2万の誓約書でも交わした方がいいのかしら、不安だわ。
まぁ現金は手元にあった方がいいのは、災害時にわかったこと。検討します。
水曜日の午後に
迷い込んできた雀が
ほんとうに哀れで
泣きたくなるような気持ちを抑え
彼の話を聞いていた
そこがどこかもわからず
雀は小刻みに首を震わせ
椅子の肘置きを
チョンチョンチョンと
三歩ほど歩く
少し飛んで
見えなくなったりもする
サッカーの話をする彼の
後ろを チョン
斜めを チョン
あ 私は言いたいのに言葉が出ない
迷い雀が 私らの後ろや 少し上を
飛んだり歩いたりしている
他のお客も無関心だ
水曜日の午後
程良く埋まる喫茶店で
雀を見たのは私だけか
それとも他の客達は常連で
それは「当たり前」の
ことなのだろうか?
よくあることだから
誰も気に留めないのだろうか?
少なくとも
私と彼は常連ではなく
むしろ初めて入った店のはずだ
なぜ 雀は居るのか
チョンチョンチョン
また数歩 かと思えばフワリと上へ
雀はどうして歩くのか
なぜ飛んで見せるのか
ここがどこかもわからないのに
私には見えている
雀が見えている
なのに他は 誰も見えていない
確かに
見えているだろう人さえ
見えていない
私は
雀の一生を考えるべきだと思った
生まれて死ぬまでの雀を
悲しく泣きたくなるような雀を
喫茶店には縞模様のソファに
淡い色のクッションが
まばらに置かれている
雀の休まる場所はない
チョンチョンチョン
店を出ても見えている
ずっと雀が見えている
彼の話はサッカーで
一周回って戻っている
微笑む顔が美しい
この世に雀などいないも同然
見てもいつもの迷い雀と無意識に
受け止めることができてこその笑顔だ
私もチョンチョンチョンと
歩いてみる
すると
そこら中が 雀だらけになる
彼は次に メロンの話をする
一周回ってまた
メロンの話になるかもしれない
私はもう 泣きたいとは
思わなくなっている
雀は 悲しくもなければ
哀れでもないと思っている
水曜日の午後3時ごろのこと
Tower of the Moon
This burnished volume of the city night,
Demands a spine to hold the blue half-light.
My soul, the fragile marker, deeply set,
Between the frantic rage and the regret.
The floor is thick with sound, the air is thin,
I fold the page where all the truths begin
To warp and lose their name. This moment seized,
A lunar bookmark, momentarily appeased.
I slip the silence back into the day,
Until the next deep chapter calls away
手に馴染んだスマートフォンの筐体が、体温を超えた熱を放っている。今日のニュースフィードの残響と、無数のメッセージの「応答」が、指先を焼く。私たちの日常は、この小さな画面の中で消費されることへの、果てしない儀式だ。そして、この意味を欠いた連続が、内側に未処理のまま積もっていく――錆びた感情のヘドロ、都市の排水管に詰まった、「未分化の苛立ち」と、言葉になれない、渇きとして。
私は、太陽の直裁的な「肯定」と「断定」に適応できない、この都市の裏側でのみ呼吸を許された、月の幼子だ。だから、夜の青い照明、輪郭が溶解するような影の中、誰も見えない場所へと、身体を滑り込ませる。月光が降り注ぐ、人工的な原野。
鉄扉が開く瞬間。瞬間的に、空気がねじ切られる。低音の振動が、皮膚を突き破り、骨髄の奥へと響き渡る。これは「物理的な圧力」だ。酸素の薄い空間、赤と青のストロボ光が、視覚という名の脆弱なセンサーを、意図的に破壊しにかかる。理性を解体するための、集団的な儀式。答えは明白だろう。この内側で発酵し、今にも爆発しそうな都市の「沸騰点」を、一過性の炎で燃焼させるため。それは、私という名の、小さな原子炉の暴走を止めるための、唯一の緊急排出口。群衆の中に、匿名の原子として、身を投げる。誰もが皆、孤独な粒子でありながら、一つの巨大な「分子の動き」に合わせて揺れている。ここでは、私の職業も、フォロワー数も、社会的な役割も、すべてが意味を失効する。残るのは、ただ脈打つ、質量へと還元された身体と、音という名の波だけ。
目を閉じる。重いキックドラムの音は、心臓の奥底で鳴り響く、強烈なメトロノームだ。それは、私を操る、見えない月の引力への、従属の言語。このリズムだけが、私が世界とできる接点。狭いフロアで、世界の不条理、未来への不安、自己嫌悪、そして、誰にも届かない「叫び」を、無数の音の粒子に分解し、空中に放つ。この行為は、集団的な浄化であり、同時に、私たちの存在を証明するための、光の消費だ。私たちは、自らのエネルギーを、積極的に、意味のない音の粒へと変換し続けている。
音楽が最高潮に達する瞬間、理解する。この都市の沸騰点は、外部の何かへ抗うエネルギーではない。むしろ、世界がこのままであるという、受け入れがたい真実を一瞬だけ忘却し、「月光」のような淡い希望に身を委ねるための、最後のアネスセシア。踊ることで、私たちは、自らの無力さを、集団的に肯定している。
鉄扉を抜け、シンと静まり返った早朝の裏通りへ。地下の酸素の薄い熱とは違い、外の空気は、肌に冷たい微細な刃物のように触れる。身体に残るのは、疲労と、耳の奥で鳴り続ける高周波の残響だけ。この残響こそが、私が夜明けに持ち帰る唯一の「手土産」だ。
熱狂を求めていたのではない。「諦め」と「希望」の間に漂う、微細な静寂に変えるための、バルブを探していたのだ、と、今、気づく。
スマートフォンを開く。画面のブルーライトが、再び私の顔を無感情に照らす。世界の現実は何も変わっていない。ニュースの見出しは、まだ争いと、悲しみと、無関心で満たされている。
だが、私の内側は、静かだ。微かな余白が生まれている。この余白こそが、私にとって最も重要なもの。それは、ノイズの砂漠で、昼間の光に耐え、次の夜まで生き延びるための「酸素ボンベ」だ。
私は、静かなアスファルトを踏みしめ、帰還する。耳鳴りが、微かなメロディへと変わる瞬間を待ちながら。次の月の光が私を呼ぶ日まで、私はこの静寂を、ひっそりと抱きしめて眠るだろう。世界は、今日も明日も、都市の沸騰点で満ちている。だが、私には、一晩分の「静寂」がある。
この微かな静寂こそが、私が世界に抗うための、唯一の武器なのだ。それは、誰にも見えない、私の小さな、残響
【自由詩】うつくしいひ
ものを 言わない ことでうまれる
言葉を 言語と よんでいる
音をねかせた 高い空
静寂は 鳴りやまない
煙の匂ふ冬であれ
煙の匂ふ冬であれ
ものを 言わない ことでうまれる
言葉を 言語と よんでいる
音を たてない ことでうまれる
無音を みせる いま
どんちゃかどんちゃか
どんちゃかどんちゃか
やって来る、初雪を踏み締めて
赤い面だ、青い面だ、それから緑の面だ
あれは誰か? 聞かれても
よく、わかんねぇんだよ
どんちゃかどんちゃか
太鼓を叩き、笛を吹き、踊ってるから
どんちゃかどんちゃか、て呼ばれてる
初雪の日にやって来て
気づけばひとり増えたりひとり減ったり
そうしているうちに去っていく
数えんな、数えんな、いいこたぁねぇから
魔の間のモノら 最終話『鴉魔 ~karasuma~』
生前、俺が住んでいた所にも雪は降った。
大した量ではなかったが、冬になれば、ちらほらと白い物が空から落ちてくる。
そんな、冬を間近に控えた秋の暮れ。
俺はいつも通り、一本の紐の上に乗っかっていた。小高い山の際に張られた黒い紐で、その下には石より硬く冷たい棒が2本、遠くまで敷かれている。それらの名前が電線や線路なのだと知ったのは、俺が黄泉へと下ってからの事だった。
時折、うるさい音を立てる、でかい怪物が通り過ぎる以外は静かなここが、俺にとっての居場所。
日が昇る時は東を向いて、日が沈むときは西を向く。風が吹けばそちらを向いて、雨が降れば……まあ、どっかで身を縮こまらせるわな。
電線の上で食べ物を探しながらきょろきょろしている時だった。線路の両脇に張られたフェンスを越えて、一人の人間が線路の内側に入ってきた。
珍しい事もある物だ。他の動物なら、たまにどこからか迷い込んで来ることもあった。いや、人間も夜に複数人で、まぶしい程の明かりを付けてドタバタとやる事はあったが、一人で、しかも日が沈む前の夕方に内側を歩いているのを見たことはなかった。
うろうろとしていたその人間は、やがて俺の真下で腰を下ろした。そして、何を思ったか寝転がり、直後に飛び起きた。
人間は身に付けていた分厚い上着を脱ぐと、それを線路の上に置いて再び寝転がる。頭がちょうど敷いたコートの上にあった。
ああ、納得。今の時期、線路はめちゃくちゃ冷たいのだ。そりゃあ知らずに頭を乗せれば、飛び起きもするだろう。
大の字で空を見上げる人間は、予想に反して女だった。線路に来るのはいつも男達だったから。
寝転がったくせに、女は眠るわけでもなく、ただただ空を見上げていた。
空に何かあるのだろうか。俺も女にならって空を見上げた。
何もなかった。
赤い空と、赤い雲。白と黒の大きな雲。いつもの空だった。それとも俺が見つけられないだけか? 鴉が視力で人間に負ける訳にはいかない。俺は目を大きく見開いて、あるはずの何かを探し始めた。
結論としては、空には何もないことがわかった。
その答えを得た代償は、変な角度で曲げていた首の疲労。俺もひっくり返って空を見ればよかった。
なんでぃちくしょう、と視線を下に戻すと女と目があった。女は空から俺に観察対象を移していた。
不意を突かれて、俺も女を凝視してしまう。
綺麗な瞳だった。鳶色がかった黒は、この距離においても凜々しい輝きを見せていた。相手が目を離さなかったので、俺も見返し続ける。見つめられていることに不快感はなく、なぜか心が温かくなる気がした。
女が動いた。
右の手を上げて、左右に振り始める。
俺は首を傾げた。何をしているのかがわからない。そこには何もないのだから、手を突き出した所で触れるものなどない。まして、左右に振った所で何にも当たりはしないのだ。
今度は両手を上げて、二つの手を左右逆に振り始める。
俺は更に首を傾げた。ますます意味がわからない。
何に満足したのかはわからないが、女はにこにこしながら腕を下ろした。そして、小さな口を開いて言った。
「※※※※」
わからなかった。当然だ。わかるはずがない。この当時、俺は普通の鴉だったのだから、人間の言葉なんてわかりっこない。
それでも、女は俺に話しかけた。
人間は頭のいい動物で、俺等なんかよりよっぽど悪知恵が働く。その人間が、鴉と人間の言葉は違うのだと知らないはずはない。しかし、女は視線を合わせながら、間違いなく俺へと語りかけてくるのだった。
その目をずっと見ていたい。
視線を外されるのを嫌がった俺は、相手の話を理解しようと頑張った。
一人語りが始まってしばらく経つ。
しかし、俺に理解出来た話は一つとしてなかった。
さすがにくじけそうになった時、女の話し方が変わった。
「※※※?」
何か短い言葉を発して、後ろの語尾を上げたのだ。
「※※※?」
何だろう。今まで出てきたことのない話し方で、その言葉を繰り返すようになった。
「※ ※ ※?」
今度は1音1音、区切ってゆっくりと話しかけてくる。
今、視線は間違いなく交わっている。俺の目を覗き込むように見つめながら話している。俺だって意思の疎通をしてみたい。だが、全く意味がわからないのだ。雌相手に見当違いの返事をする程、危険なこともない。機嫌の導火線に火が付く事だって珍しくないし。
じゃあ、無視するのがいいか。それこそ地雷を踏む行為。
「※ ※ ※?」
女は返事を待っていた。
俺は焦りながら必死に考えたが、上手い答えなんて思いつかなかった。自分が情けなくなる。
帰ったら目一杯落ち込もう。そんな思いで があ と鳴いた。
女は目を見開いた。
馬鹿にされるだろうか? 笑われるだろうか? 情けなさと恥ずかしさで目を背けたかったが、それももったいないと思う。
しかし、俺の予想は外れ、女の顔がふわりと緩んだ。
目は細くなり、目尻に皺が寄り、口は横に微かに開かれる。
花弁の柔らかい、小さな花が開いていくかのような柔らかな表情だった。
人間の笑い顔という物を知らなかった俺だが、女が喜んでいることだけはわかった。
ちょっとだけ、意思の疎通が取れた気がした。
俺は嬉しくなって、必死に耳を澄ました。語尾が上がる瞬間を聞き逃さないように、と。
「※※※※※?」
「があ」
女の顔が綻んだ。
「※※※? ※※※※ ※※?」
「があ。があ」
女の頬が緩むたび、俺の心は温かくなった。幸せだった。
例え何を言っているのか、わからなかったとしても。
幸も不幸も、時間が壊す。
俺達の間にも無粋な時間は流れていた。
山の陰に怪物の明かりが見えた。奴がやってくる時間だ。
「があがあ、があ!」
何の脈絡もなく鳴き出した俺に、女は首を傾げてみせた。そんな顔をされてもな、もう帰る時間だぞ?
「があがあ、があがあ!」
言葉だけでは通じないかもしれないと、怪物がやってくる方向を向いて があがあ 鳴いた。さすがにこれでわかるだろ。
そう思ったが、女の表情は変わらずにぽかんとしている。驚いた顔のまま動く気配がない。
(おいおい、気がつけよ。奴が来るんだよ。でかくて固くて手も足もない化け物が来るんだよ。そこに居たら喰われるぞ?)
「があがあがあ! があがあ!」
センス溢れる俺の身振りは種族の枠を越えた。どうやら女も気が付いたらしく、奴が来る方向を向いた。
そして、
「※※※※?」
俺に向き直り何かを言った。
さすがに今回は、言いたいことがわかった。
(そうそう。奴が来るから、喰われたくなければさっさとよけた方がいい)
があ、と鳴いて重々しく頷いてやる。
だが、何を勘違いしたのかそれを見た女は盛大に吹き出した。そして楽しそうに笑い出す。
「あははは。ばーか」
カチンときた。そりゃあ何を言ったのかはわからなかったが、それでも馬鹿にされた事だけは十分にわかった。
(テメー、鴉様が心配してやってるってのになんだその態度は? そこに居たら危ねーって言ってるんだよ。人間ならそれぐらい気が付けっての。いいか? あの怪物にはどんな奴も敵わなかったんだよ。狸や狐だけじゃねー、ここいらじゃ一番足の速い鹿や、図体の大きい熊だって、怪物には刃が立たなかったんだ。お前はどうせ柔らかい布を着て大きく見せてるだけで、中身は細っこいんだろ? お前みたいなひょろっとした奴じゃ勝てっこねーんだ。さっさと道をあけてやれ)
「ぎゃあぎゃあぎゃあ――」
腹が立ったから、それはそれは盛大に鳴いてやった。
しかし、俺が鳴けば鳴く程、わめけばわめく程、女は腹を抱えて笑い出す。そして楽しそうに、嬉しそうにこう言うのだ。ばーか、と。
俺は鳴くのを諦めた。
気が付いていないわけがない。
遠くから怪物の鳴らす笛の音がする。
地面に足音が響き渡る。
気が付いていないわけが無かった。
それでも、女は動こうとしなかった。
俺が大人しくなったのを見て、女はうんうんと頷いた。
女が続きを語り出す。俺は黙ってそれを聞いていた。
もう返事はいらないらしい。語尾が変わることもなく、ただただ静かに語っていた。
その声を皆が聞いていた。俺も、草木も、風も、大地も、空でさえも静かに耳を傾けていた。誰も理解出来ない、寂しい語り。
一陣の風が吹いた。
枯れた茶色や黄色の葉が、女の姿を隠してゆく。
ガタガタと足音を響かせて、山の陰から怪物が顔を出した。まぶしい光が迫ってきて、女の顔を照らし出す。
それでも語ることを止めない女の黒い瞳は、最後に俺にこう伝えた。
「全部消してやるんだ!!」
と。
巨大な怪物が、誰より先に悲鳴を上げた。
女の悲鳴は最期まで聞こえなかった。
案の定、騒がしくなった。
人間達が集まりだして電車の周りが照らし出される。
俺はその明かりを尻目に、近くの草むらに嘴を突っ込んでいた。最期の瞬間、どういう偶然か、女の首が綺麗に切断されて、頭だけが飛んでこの辺りに転がったのだ。その瞬間まで見ていた俺は気が付いたが、人間達は気が付かなかったらしい。
人間達の明かりのせいで、光が届く場所と届かない影の場所が鮮明になりすぎている。濃すぎる明暗は、月明かりよりむしろ見にくかった。奴らより早く見つけたい。俺は目を凝らした。
点々と散らばる血糊を見つけた。ここだ。茂みの中に体を突っ込ませる。
真っ赤に染まった草を押し倒して、女の顔が横を向いていた。口は開き、舌が垂れて、目はくるりと上を向いている。
ああ、この目だ。動かなくなっていても、その目に宿る凜々しさはまるで損なわれていなかった。その瞳の強さは、諦めない意思の固さ。見ているこっちが心地よくなる程だった。
渡したくない。
誰にも渡したくない。
多分この時だ。俺が『執着』の業を背負ったのは。
一晩掛けて女の頭を転がした。
人間共に渡してたまるかと、嘴を使い、足を使って山の上を目指しながら転がした。
日が昇り、怪物の姿が見えなくなった頃、俺は疲れ果てて女の頭を抱えたまま眠りについた。
次の日、目を覚ました俺は女の頭をついばみ始めた。せっかくここまで持ってきたのに、地虫に喰われるのも面白くない。気は進まなかったが、自分で食べる事にしたのだ。
美味しくはなかったが、マズいわけではなかったと思う。目を食べるのには躊躇したが、俺が食わなきゃ、他の奴らが食べるだけ。やむを得ず一息に飲み込む。
丁寧に肉をそぎ落とすと、白い頭蓋骨が現れた。
正面から顔を見つめると、黒い瞳の幻がはっきりと像を結ぶ。それだけで満足できた。満たされたのだ。
その日から、俺は一日中、頭蓋骨と共に生活するようになった。
そして、何日も、何年も過ぎた。
春の地虫を追い払い、夏の日差しから守って、秋の飢えた獣共の目から隠し、体で抱いて冬を越す。
頭蓋骨を狙う狼を追い払うだけの力が欲しい。願えば願う程、体は大きくなった。
雨から、雪から白い肌を守ったやりたい。願い続けた結果、翼は四枚に増えた。
いつの間にか俺は鴉を止めていた。
……いや、俺は鴉のままだ。変わったつもりは、ない。
ある冬の日だった。
雪が舞う中、一人の女が俺のいる所まで上ってきた。
いや、正確には人間では無かった。
沼さえ凍ってしまう様な季節に、体のほんの一部しか覆っていない服を着て、この山を登る人間なんていない。背中に大きな翼を背負った人間なんかいる訳が無い。頭の横から2本の角が生えたモノが人間であるはずがない。
この人間もどきは、きっと俺の大切なものを奪いにきたんだ。
俺は大きく息を吸い込んだ。
一声鳴いて山から転げ落としてやろうとした時、そいつの陰に一人の女の姿が見えた。浮遊して、向こう側が透けている女は、見間違えようもなく頭蓋骨の持ち主だった。
なぜ透けているのか。恐らく死んだからだろう。死んだ生き物の中には、ああして透けた体でうろつくものがいた。彼女もその連中の仲間入りをしたのだと思う。
このまま声を飛ばしてやれば、透けた彼女まで消し去ってしまうのではないか。俺は吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
「あなた、面白い姿をした鴉ね」
角の生えた人間もどきが、鴉の言葉を喋った。いや、頭の中に直接声が響いてきた。
「お前、誰だ?」
「初めまして。私の名前は桃花。『悪魔・餓鬼』よ、よろしくね』
悪魔? 聞いたことがない。もっとも、鴉の知識なんて人間とは比べものにならないくらい浅いが。
「その悪魔が、俺に何の用だ?」
「あなたが大事そうに抱いている骨なんだけど、それは彼女の骨でいいのかしら?」
やはりこの頭蓋骨が目的だったか! これは誰にも渡さない。再び息を吸い込んで、思いっきり声を叩き付けてやった。
しかし、大きく羽を広げた悪魔は正面から受けたにも関わらず、2,3歩後ろに下がっただけで踏みとどまった。
(そんな馬鹿な。俺の声は熊すら転がすんだぞ)
体が大きくなった頃から使えるようになった声による吹き飛ばし。今までこれに怯まなかった獣はいなかった。驚愕の中、俺は気が付いてしまった。悪魔が翼を広げた理由は衝撃を和らげるためではなく、後ろにいる透けた人間を守る為だったのだと。
「へえ、面白い力がある妖魔ね。ねえ、鴉さん。取引をしませんか?」
目を見張るほど妖艶な笑みだった。対する俺は、舐められないように虚勢を張るので精一杯だった。ぎろりとにらみ付けてやる。
「取引?」
「そうよ。あなたにとってその頭蓋骨は大事な物なのでしょう? その骨を保管するのに最適な、安全で安心な場所を提供するわ」
願ってもない条件だ。問題は対価と――
「それで、取引のもう半分は?」
「マルクス、私の彼のペットになる事。ペットと言っても何をするわけではないわ。ただ少し仕事を手伝ってもらえればいいから」
――悪魔という者が信用に値するのかどうか。
「いくらあなたが必死に守っていても、野外に置いておく限り、その頭蓋骨はいずれ朽ちるわ。あなたより先に、ね」
俺はその条件を飲んだ。
「君は、また随分と面白い者たちを見つけてきたね」
連れてこられたのは真っ暗な部屋。ソファーに座るのは、真っ白く胡散臭い男だった。
「妙に生気のある幽霊と4翼の鴉の妖魔。幽霊に生気があるのは、死んだことを認識できていないからだろうけど、鴉の方は一体どういう生き方をすればそんな姿になるんだろうね」
「ペットが欲しいって言ってたからついでに拾ってきたんだけど。どう? 使い物になりそうかしら?」
この男のペットになるのが条件か。
白い男、マルクスは細い棒みたいな物をくるくる振りながら話した。
「能力からすれば、鴉の方を部下にして、娘の幽霊をペットにしたいぐらいだけどね。まあ、いいだろう。どちらも僕の部下にしよう」
どんどん話が進んでいく。俺は口を挟んだ。
「おい、待てよ。取引はどうした。無償で手下になる気はないからな」
「取引?」
首をひねるマルクスに、桃花と名乗った悪魔が、そうそう、と言って手を叩く。
「鴉ちゃんと取引をしたのよ。彼が足に持ってる頭蓋骨はこの幽霊の頭なのよ。出会ったときは雪山で大事そうに温めていたわ。随分とご執心みたいだから、保管場所を提供する代わりにペットになってと取引を持ちかけたの。ねぇ、マルクス。部屋を一つ作ってくれないかしら」
「なるほど」
マルクスの振る棒が、規則正しいリズムを刻みだした。
「鴉はすでに業を背負っているのか。その名は……『執着する』。面白い業だ。いいだろう。何にも邪魔をされない部屋を用意しよう。そっちの幽霊にも体を用意しなければならないな」
「この女に体が付くのか?」
女の幽霊を見ると、どこかの虚空に視線を合わせ、放心したまま揺らめいている。
「もちろん。この幽霊体じゃ、仕事にはならないからね。もしかして、君の執着の対象は彼女の方だったのかい?」
透けて存在が希薄になっている幽霊の瞳に、あのときの力強さはかけらも見いだせなかった。まだ、頭蓋骨と向き合っていた方が、あの時の凛々しい瞳に出会える。
「いや。俺にはこれだけあればいい。他には何もいらない」
本当に執着しているのは頭蓋骨ではなく、あの瞳の方なのだろう。
「ほう、強い業だ。妖魔にしておくには少々惜しい。ただ、悪魔になるには生きたままだと無理で。そんな訳だから、君には正式に黄泉へと下ってもらおうかな」
白い棒がくるりと円を描く。俺の視界が一瞬ぼやけた。何だ、と思うまもなく、元の視界に戻った。いや、暗くてよく見えなかった部屋が、まるで昼間のように明るく見え始めた。
「俺に何をした?」
「気にするほどのことではないさ。死んでもらっただけだから」
気軽そうにそんなことを言った。
「おめでとう。これで君は鴉の妖魔から『悪魔・告死鳥《こくしちょう》』にランクが上がった。悪魔の仲間入りだよ」
「勝手なことを言うな」
俺はマルクスをにらみつけた。
「俺は鴉だ」
そう言うと、マルクスは面白そうに俺を眺めるのだった。
マルクスが俺と幽霊に名前を付けた。
俺には『我鴉』。
鴉と名乗るもの、という意味らしい。
幽霊には『マナ』。
本当の名前、という意味らしい。
俺に異存は無かったし、幽霊に異論を唱えるほどの意識はなかった。
マナの体が出来上がるまでの間、桃花がマナの幽霊体を抱いて、耳元にずっと囁いていた。
「あなたの名前はマナよ。可愛い可愛いマナ」
マルクス曰く、洗脳しているらしい。娘が意識を付けた時、マナという名前に対して違和感を覚えなくなるのだそう。
そんな連中を横目に、俺は与えられた部屋へと向かう。
だだっ広い部屋だった。何もない、空虚な部屋。
部屋の真ん中に頭蓋骨を置いてみる。
そこは全てが満たされた部屋となった。
俺は今までのように抱えて眠る。
これからも変わることはないのだろう。
これ以上の幸せは、思いつかないのだから。
*******
今月はまだ終わっていない。
俺たちのアルテミス領禁足令は続いていた。
暇を持て余してマルクスの所へ向かう途中、桃花に会った。
様子がおかしい。焦点の合わない目は翠に怪しく光り、足取りもふらふらとおぼつかない。体に浮き上がる緑色の悪魔の印はこれ以上ないほど輝いていた。
何より、口元から胸にこぼれ続ける赤い血が、彼女の正気を疑わせる姿にしている。
どうやらマルクスと寝ていたらしい。いつもなら、ちゃんと小綺麗な格好に戻してから部屋を出るのだが。
「桃花? おい、桃花?」
ゆらりと俺に向き直った桃花は、ぼんやりした目で俺を見つめる。
「正気に戻れって。またマナに引かれるぞ?」
マナはまだ悪魔の性質に慣れていない所があった。
ここに来た当初、桃花に用事があってマルクスの部屋を訪ねた時のことだ。桃花とマルクスが恋人同士で一緒に寝ているという事から、マナは二人が交尾をしているんだと思ったらしい。真っ赤な顔で二人の元へ行ったマナが目にしたのは、マルクスの腕を引きちぎって、がっついている桃花の姿だった。
桃花にとってはいつもの事。しかし、マナは盛大に悲鳴を上げて逃げ帰り、それからしばらくの間、桃花を微妙に避けるようになった。今でこそ、桃花の『食べる』業に慣れつつあるが、まだ血塗れの桃花を見るのは抵抗があるらしい。
こんな桃花の姿を見れば、どん引きするだろう。
目の前で翼を振って見せたが、桃花の反応は虚ろ。俺の翼を掴んで広げ、舌足らずな声で言った。
「とり……肉。ふふ、鳥」
「うわっ! があ!」
噛みつかれそうになって、俺は桃花の顔に声を叩きつけた。力は抑えたが、頬を張られるぐらいの衝撃はあったはずだ。キャッと悲鳴を上げて俺を落っことす。
「あれ? ガーちゃん?」
正気に返ったらしい。
「目に色が付いてるぞ? 口元は真っ赤だし」
「え? ほんと? え~と、ここどこ?」
俺は状況を説明したやった。
納得した桃花は目を正し、口元を手でふき取った。いや、ふき取ろうとして余計に悪化させていた。
「マルクスの所にいたのか?」
「そうなの。途中から記憶を飛ばしちゃったみたい」
「あんまり見えるところを食ってやるなよ? 訪問してきた奴らがびっくりするから」
今日は右腕、翌日は左足が無くなっている。そんな状況を見れば、一体何と戦ったんだ? と聞きたくなるのも無理はない。
もちろん同情からではなく、あのマルクスにここまで深手を負わせるような奴がこの辺をうろついているのであれば、しばらく外出を控えようと思うのは当然。
「マルクスの再生能力だって、限度はあるんだし」
「わかってるわよう。そんな目立つところは食べてないから。多分」
「多分?」
「だって」
桃花はちょっと照れながら言った。
「目隠しされて、後ろ手に縛られてたからどこ食べてたかのは、ちょっと」
どっちもどっちだな、おい! もう好きにやっててくれ。
「ガーちゃんはマルクスに用事?」
「そのつもりだったんだけどな。暇だからダーツでもやろうかと思ってたけど、マルクスの容態を見て決める」
もし腕が無くなっていたら、ダーツは出来ない。一人でやっても面白くはないのだ。
「暇なの? あの子とはちゃんとおしゃべりしてる?」
「あの子?」
どの子? マナのことか?
「マナの本体の子よ。ガーちゃんのお部屋にいる子」
「おいおい、薄気味悪いこと言うなよ。俺の部屋には誰もいないだろ。それにマナの本体って何だ? いつからマナは分身出来るようになったんだよ」
そんな話は聞いたことがない。
そう言うと、桃花は驚いた顔を見せた。
「え、誰って。あの子よ。もしかして、まだガーちゃんの前では喋ってないの? 悪魔になってから結構経つのに」
「待て待て。俺にわかるように話してくれ。俺の部屋に侵入者がいるって事か? それは大問題だぞ?」
問いつめたが、桃花は柔らかな笑みを浮かべたまま、どこかに意識を飛ばして帰ってこない。
「そっかそっか。業である執着の対象が変質しちゃったら、ガーちゃんのアイデンティティーに関わるもんね。でも、そうするとあの子は一生喋らないつもりなのかしら。う~ん、これこそ愛よね~」
血塗れの裸の悪魔が、くねくねと身悶えしている。どんなコメディーホラーだ。
「ガーちゃんは、いいお嫁さんを見つけたわねー」
真っ赤な手で、俺の頭をつんつんつついてくる。その手を払いのけながら、俺は抗議した。
「人の話を聞いてくれ、鴉の話を聞いてくれっての。ちゃんと会話してくれよ。あと、勝手に嫁を作らないでくれ。俺にも選択の自由を残せよ」
マルクスと楽しんだ後だからなのか、妙にテンションの高い桃花との攻防は10分くらい続き、最後に思いっきりハグをされてようやく解放された。結局その侵入者らしき者の話は聞けなかった。得られたのは、血に染まった翼だけ。
「ガーちゃんの業って深いわよね」
しみじみと、そんな事を言う。
「いや、そんな格好の桃花に言われたくないし。そもそも、業の深さでいったら、マナの『聞く』が一番だろ。あれだけグシャグシャ踏み潰してるんだから」
そう反論すると、桃花は首を傾げた。
「確かにマナの業も深いと思うけど、マナの業は『聞く』じゃないわよ?」
今度は俺が首を傾げる番。
「あれだけ悪魔の頭を踏みつぶしておいて、業じゃないってのか?」
「そうよー。あれは趣味みたいなものだから」
趣味!? 随分と悪魔らしい趣味じゃないか。俺の視線から思考を読みとったらしく、桃花はマナのフォローに回った。
「マナのあれは恐らくガーちゃんが関係していると思うんだけどなー」
「俺?」
身に覚えはない。
「だってガーちゃん、マナの頭蓋骨を奪ったじゃない。だから電車に轢かれたマナは、自分の頭が壊れる音を聞いていないのよ。自分が死んだことをちゃんと認識できていないから、何となくもやもやした感じがあるんじゃないかな」
「何だ? 人間は自分の頭の潰れる音を聞かないと、死んだこともわからないような動物なのか? そんな話は聞いたことがないけどな」
今まで人間の話を聞く機会は多かったが、そんな話は初耳だ。
「うん。もちろん全員がそうだとは言わないけども。心って頭で形成するじゃない。だから、マナの心は死にきれていないんじゃないかな。生との決別のために、無意識に自分の頭が潰れる音を探してるんじゃないのかなって」
そう思うのよ、と続ける桃花は、にやにやとこっちを見ている。
「ガーちゃんの持ってる頭蓋骨、マナに潰させてみない?」
「ふざけるな! 絶対に嫌だ。あれは俺のだ。俺が拾ったんだ」
そう言うと、桃花は笑った。
「ほら、やっぱりガーちゃんの業は深いじゃない」
誰に何を言われようが、あれを譲る気はない。少なくとも、俺の目の黒いうちは。
「じゃあ、マナの業は何なんだよ」
聞く事じゃないとなると、他には思いつかなかった。何かと一緒にいることの多い俺が気が付かないなら、ほんとうに些細なことなんだろうか。
悩む俺に、桃花が答えた。
「マナの業は『忘れる』よ」
忘れる? 忘れることが業になっているのか? いまいち釈然としない。
「忘れるって業になるようなことか?」
「それはそうよ。恩も義理も借りも情も、縁でさえ忘れてしまうのよ? 業にふさわしいと思わない? もう20年もしたら、マナちゃんは自分が人間であったことも忘れると思うわ。その先まで覚えていられるのは、常に一緒に居る私たちぐらいじゃないかしら」
一つ息をついて、桃花は言った。
「業は特別な事じゃないわ。皆が持っているものよ。ただ、それが行きすぎると、こんな感じになっちゃうの」
桃花が赤い両手を広げてみせる。
なるほど、そんな考えもあるのか。何事も程々に、そんな話なんだろう。
俺の頭をさらり撫でた桃花は、ふわりと浮き上がった。
「ガーちゃんの所にいる子、大事にするのよ? あんないい子は他にいないんだから」
そんな台詞をおいて、湖の方へと飛んでいく。
結局『あの子』がどの子なのかは聞けずじまいだった。
俺も湖で水浴びしなければ。桃花に触られた羽が、赤黒く変わっていた。
だが、とりあえずはダーツをしに行こう。
俺はマルクスの元へと向かった。
マルクスは真っ白なソファーの上にいた。
「やあ、我鴉。どうしたんだい?」
上半身だけで。
へそから下が見事に喪失していた。かろうじて残っているのが左の足首より下。それを手で弄びながら、マルクスはいつも通りに声をかけてくる。
引いた。
悪魔の性質に慣れていないマナを笑えない。いや、おかしいのは俺の方じゃないだろ。こいつら悪魔がおかしいんだ。
「はあ。幸せそうで何よりだな」
俺はため息を吐きながら暗い部屋を後にした。
*******
歌が聞こえる。
女の声が鴉の歌をうたっていた。
声は問う。鴉はなぜ泣くのかと。静かなメロディーだが、随分と哲学的な歌だった。
自問した声は自答する。
女が歌うには、鴉が泣くのは山に残してきた仔が、可愛すぎて可愛すぎて泣くのだそうな。
どうしようもない歌だった。
「ふざけんな! 鴉はな、そんな女々しいことで泣いたりしねーんだよ。適当なことを言ってんじゃねー」
自分の声で起きるという、世にも珍しい体験をすることになった。
「くぁー……ふ」
あくびと一緒に背筋を伸ばす。
真っ暗な自分の部屋。当然、俺以外誰もいない。
どうやら俺は、夢で聞いた歌に対して文句を言っていたらしい。格好悪いまねをしてしまった。
もう一眠りすれば、行動制限も解除される頃になるだろう。俺は頭蓋骨に身を寄せて、もう一度夢を見るべく目をつむった。
と、背後で扉の開く音がした。
この部屋を訪れる者は桃花ぐらいしかいない。そして、桃花は事前に連絡を入れる。
侵入者。
ぱっと振り返って、大きく息を吸い込む。無駄に広い部屋は、頭蓋骨を置いてある場所から入り口の扉まで20メートルほどあった。俺の声がその距離を駆ける。
入り口から侵入を試みるくせ者は、正面から声の衝撃を受けて、悲鳴を上げながら吹き飛んでいった。ゆっくりと扉が閉まる。
今の悲鳴、もしかしてマナか?
しばらくすると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
おそるおそると開かれた扉から顔を覗かせたのは、案の定マナだった。
「ガー助、今いい?」
「おう」
マナがここに来るのは初めてだった。きょろきょろと周りを見ながら入ってきたマナは、俺にジト目を向けてきた。
「そりゃあさ、ノックしなかったのは悪かったと思うけど、なにも全力で吹き飛ばさなくてもいいじゃない」
「あー。悪かったよ」
いきなり扉が開くなんて初めてだったから、こっちもびっくりしたんだよ。ばつが悪くなって意味もなく翼をはためかせてみる。
マナは何かないかと、あちこちに視線を巡らせながら近づいてきた。
「ほんと、なんて言うかペットは主人に似るって言うけど、それを地で行ってる部屋よね」
「それ、誉めてないよな。てか、あんな変態と一緒にするなよ。俺はマルクスと違って、来客者に恐怖感を与えるために暗くしてる訳じゃねーし。なにも見る物がないから明かりを必要としないのであって」
マナの視線が俺の足下に向いた。
「あ、それ人間の頭蓋骨じゃん」
「俺の大事なものだ。潰すなよ?」
「潰さないって」
頭蓋骨を見たマナの反応は特におかしな所はなかった。それはそうだ。頭蓋骨を見て、これは自分のじゃないかと思う奴はいないだろう。
マナはしゃがみ込んで、頭蓋骨と正面から対峙している。
「好きだった人の骨とか? あ、それとも初めて殺した人の骨を記念として持ってるとか?」
「おまえはマンガの見すぎだ。気に入ったから拾っただけ。俺が殺した訳じゃないし」
むしろ、頑張って死ぬのを止めたんだけどな。
じーっと、頭蓋骨と向かい合うマナ。なんだか不安になってきた。もし自分のだと気が付いて返してと言われても、返す気はない。出来れば気が付かれたくなかった。
俺は話題を変えた。
「で? 何の用だ」
「そうそう、また応援要請が来たのよ」
マナは立ち上がって、興奮気味に言った。
「応援要請? またアルテミスか? しつこい奴だな」
「それがね、そうじゃなくて。私たちが担当してる国に関わる全ての悪魔に応援要請が来てるのよ。かなり上位の悪魔から。名前なんだっけ? 『悪魔・大太法師《だいだらぼっち》』だったかな」
「そいつは上位って言うより、ただ大きいだけだと思うけどな」
元々は国を代表するような妖魔の種族だったのだが、人間達の土地開発により住処を失い黄泉へと下った奴だ。大きさだけで言えば、他の追従を許さない身長の持ち主で、不二山に腰を掛け、海で手を洗ったとか何とかと自慢していた。
強いには強いのだが、力以外に何の得手も無かった気がする。ただ、地理に明るいため、うちらが担当している国のまとめ役をしていた。
「あいつが応援要請って事は、集団討伐とかあるのか?」
悪魔が増えすぎたから、区画を決めて悪魔を根こそぎ狩り取る。そんな仕事も極希にあった。
「今回は違うんだって」
マナはいまいち納得していない顔で、内容を告げた。
「なんでも、古い妖魔が悪魔を相手取って喧嘩をふっかけて来たみたいなの。それこそ討伐されたかような勢いで悪魔が減ってるって言ってた。現世にいる悪魔はだーれも適わないから、黄泉にいる私たちにも声がかかったみたい」
「おいおい、古いかなんだか知らんけど、悪魔が妖魔に太刀打ちできないってのも情けない話だな」
「マルクスによると、その妖魔は見た目は人間そっくりに化けるんだって。近づかれても気が付かないから、気を抜いたところを食べられるらしいの」
「……桃花じゃねーだろうな」
「バカ言わないでよ。そんな訳ないじゃん。古い蜘蛛の妖魔って言ってた。蜘蛛って元々、妖力高いからね」
蜘蛛、ねぇ。
まさかな。
「で? 俺たちに何をしろって」
「要請内容は、力による正面対抗が面倒だから死神の鎌を使ってサクッとやって欲しい、って書いてた」
興味を失った俺は、再び頭蓋骨を抱いた。
「話にならん。死神の鎌はそんな事に使うもんじゃねーだろ。好き勝手鎌を使ったら秩序も何もなくなっちまう」
「わかってるけどさ」
マナは食い下がった。
「断るにしても理由が必要じゃない。アルテミス先輩とは格が違うんだし。それに、このまま悪魔を食べ続けると、際限なく力が付いちゃって手が付けらんなくなるらしいよ。もう世繋ぎ門をこじ開けて黄泉へ移動できるぐらいの力は付いてるんじゃないかって言ってた」
おいおい、あの巨大な門を召還してこじ開けるのか?一妖魔に出来る事じゃないぞ?
「門番してる『悪魔・多頭狼《けるべろす》』に頑張ってもらえば――」
「狼さん達はしっぽ巻いて震えてるって」
使えない門番だなぁ。
「そんなわけで、今後の行動指針を決めるため皆の意見を聞きたいって、マルクスが皆を呼んでるの。桃花先輩は先に行ってるから」
「ちなみに、マナはそれに参加したいのか?」
「うーん。どっちでもいいかな。最近暇だからちょっと動きたいなって思ってるし」
俺は宙へと舞った。
まあ、意見は色々あるみたいだから、討論しますか。4人しかいないけどな。
マナは歩いて、俺は飛んで部屋の扉へ向かう。
ふと、誰かに呼ばれた気がして振り返る。
もちろん誰もいない。白い頭蓋骨がこっちを向いているだけだ。
その頭蓋骨の雰囲気がいつもと違う、気がする。なんだ?
「なあ、マナ」
「何?」
先を歩くマナが振り返る。俺は頭蓋骨を翼で指しながら言った。
「あの頭蓋骨、なんか物言いたげじゃないか?」
自分でも何を言っているのかわからない。骨が物を言う訳はないんだし。しかし、そんな気がするのだ。
「うん?」
マナが頭蓋骨を凝視する。
「わかった!」
しばらくして声を上げたマナは、来た道を戻り、頭蓋骨を手に取った。
「おい、手荒に扱うなよ?」
「わかってるって」
言った側から、マナは頭蓋骨をひょいっと投げ上げた。
「あああああああーーーーーーー!」
心臓が飛び出るかと思った。いや、未だに飛び出そうになっている。高く上がった頭蓋骨が、頂点で制止。そして、落下。
パニックを起こした俺は宙で右往左往した。触ったら傷を付けるかもしれない。掴んだら割れてしまうかもしれない。嘴で咥えるなんて以ての外。
そんなことを考えてる間にも、有一無二の宝物が床を目指して加速する。結局、俺はうわーうわー言いながら落下地点と予測したマナの足下に、翼を目一杯広げて伏せた。
来るべき衝撃は来なかった。
頭蓋骨は音もなくマナの腕に収まっていた。
「何してんの? ガー助」
心底不思議そうに足下の俺を見るマナ。俺は吠えた。
「おいコラ! 俺の寿命を縮めて楽しいか。何で投げ上げるんだよ!」
「何でって、暇そうにしてたから」
「何だって?」
「そう見えなかった? 随分つまらなそうな顔してたじゃん」
暇? 骨が退屈するのか? 俺は疑問に思ったが、マナはその前提で話を進めていた。
「そりゃあそうよね。こんな暗い部屋に陰気な鴉と一日中一緒じゃ気も滅入るって」
「好き勝手言ってくれるじゃねーか」
頭蓋骨を抱いたマナは、そのまま扉へと向かい、
「今日は一緒にお出かけしよっか?」
手元に喋りかけていた。
「それを持って行くのか?」
「どうせどこにも連れてってないんでしょ。そんなんだと、そのうち嫌われちゃうよ?」
いや、骨だぞそれ。嫌うも何も。
「ほら、嬉しそうに見えない?」
楽しそうにマナは自分の頭蓋骨を見せつけてくる。じっと見つめてみたがよくわからなかった。もっとも、頭蓋骨の表情なんてわかりっこないのだが。
でも、まあ。
「マナが言うんなら、そうなんだろうな」
何せ自分のだし。
俺が納得すると、マナはさっそく頭蓋骨をくるりと回し、向かい合って自己紹介を始めた。
「私はマナ。私の好きな食べ物は牡蠣なんだけど、あなたの好きな食べ物はなあに?」
きっと牡蠣だと思う。
おでこをくっつけながら話すマナに、声を掛けた。
「なあ、マナ。頼みがあるんだけど」
マナが振り返った。
「もし俺が死んだらその頭蓋骨を潰してくれないか? 多分、俺が必要としなければ、その頭蓋骨は誰も必要としないだろうから」
「いいの!?」
「俺が、死んでから、だからな」
目をきらきらさせ始めるマナに釘を刺した。
マナはわかってるよーと、手元に視線を落とす。
必要としている音と出会えるかも知れないし。その言葉はひとまずしまっておいた。
「それと、もし頭蓋骨の方が先に壊れたら、その時は俺の魂を狩ってくれ」
頭蓋骨が無くなれば俺の存在意義もなくなる。そう思って言ったのだが、マナの雰囲気が一変した。
そっと地面に手にした物を置いて、こっちへ向き直る。その目は真剣で、力強く、最初に出逢った時のように俺を惹き付けた。
俺の顔を両手で挟み込んで、嘴が刺さるんじゃないかと言う程近くから俺を覗き込む。こんな近くでマナの瞳を見たことがなかったから大いに焦った。マナはそんな俺に構うことなく、じっと目を覗き込む。
「ダメ」
「な、何が?」
「自分から死ぬとか言っちゃ、ダメ」
……。
お前がそれを言うのか?
「ダメだよ。命は一個しかないんだから。死んだら、命が無くなっちゃったら、もう何も出来ないんだよ。楽しむことも悲しむことも、何一つ出来なくなるんだよ?」
自殺したお前がそれを言うのか? 必死に止めた俺に対してそれを言うのか?
「寿命で死ぬのはしょうが無いし、誰かに殺されるのもしょうが無い。こんなことしてるんだからね。でも、自分で死ぬのはダメ。それは許さないから。そんな事したら絶対に自分が後悔するよ」
忘れたから言えるのか、覚えているから言うのか。
俺は初めてマナの業をみた。
「……お前が言うなら、そうなんだろうな」
「わかった? って聞いてるんだけど」
「はいはい、わかりました」
よろしい、と、マナは俺を解放して代わりに頭蓋骨を拾い上げる。
「この子に名前って無いの?」
マナがそんな事を言った。
「それは人形じゃないぞ」
「わかってるよ。でも名前ぐらいあったっていいじゃない」
名前ねぇ。俺は5秒ぐらい考えた。
「ナナ」
「へぇ。ガー助にしてはいいセンスじゃない」
納得したマナは扉に手を掛けた。
「そう言えば蜘蛛の妖魔ってどっかで聞かなかったっけ」
「そうだっけ?」
俺はすっとぼけた。覚えていても意味の無い情報というのは、少なからずあるものだ。
「覚えてないって事はどうでもいいことなんだろ。気にするなって」
「うーん。そうかな? そうかも」
マナの目が金色に輝く。業が自分に対する恨みを忘れさせたらしい。便利な業だと思う。
「蜘蛛と言えば。マナ、お前マルクスのソファーに黒いマジックで蜘蛛の落書きをしたよな」
「うん、したした」
「蜘蛛の目にブツブツを描いたのはなんでだ?」
「蜘蛛って複眼でしょ? 昔テレビの蜘蛛怪人がそんな目してたし」
俺はマナをせっついて扉を開けさせた。
一足先に向こう側へと出て振り返り、思いっきり笑ってやる。
「ばーか。蜘蛛は単眼だ。そんな事も知らねーのかよ。ばーかばーか」
マナがぴたりと止まった。固まった顔を見るに、わりとガチでそう思っていたらしい。
「べ、別にいいじゃない。世界にはそんな蜘蛛だっているかも知れないでしょ!」
マナがナナを振りかざして、追いかけてきた。
「おいおいおい、だから手荒に扱うなって! 壊れたらどうすんだよ」
「馬鹿なガー助と違って、そんなヘマはしませーん」
俺の記憶にあるマナ。今のマナ。どちらでいる方が幸せなのだろうか。
「なあ、マナは死にたくなった事ってないのか?」
俺は聞いた。
「はあ? あるわけ無いじゃん」
マナは答えた。
じゃあ、きっとそうゆう事なのだろう。
振り回されて、ぶん投げられて。
それでもナナは、何処か楽しそうに見えた。
*******
マナが手を離すと、扉はゆっくりと閉まっていく。
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静けさだけが
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まのまのものら。
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に
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てんになって
みっつばかり
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スッキリする よ
おきざりに していいよ
ここにいること
えらんだのだ
わすれものって おとされしものって
いつだって そうなのかもよ
ね、 きみたち
ここにいることすら わ
わすれていいから
魔の間のモノら 第1話『いまに見る夢』
くすんだ畳に転がると、乾いたイ草の匂いに包まれる。
縁側から入り込んでくる柔らかな風が、するりと体を撫でていった。
暑さと涼しさがお互いを思い合っているかのような、バランスの取れた心地よさ。
梢の揺れる囁き。
鳥たちのお喋り。
蝉の歌。
お姉ちゃんが洗濯物を畳んでる。
ソーダの炭酸が弾けた。
時計のチクタク。
両手を広げると、色んな音が降ってきた。
力を抜いて目を閉じれば、静かな音達がずっと側に居てくれてるように錯覚する。
現実味を帯びない空間。
ここがどこだかわからなくなるくらい。
私が誰かわからなくなるくらい。
でも、きっとそれは幸せなことなんだ。
第1話『いまに見る夢』
大学最初の夏休み。
事前連絡もせず実家に帰ってきた私を、お姉ちゃんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
考えてみれば無謀な事をしたと思う。
お母さんが入院中の今、この家にはお姉ちゃんしか住んでいない。もし、お姉ちゃんが留守にしてたら、私はどうするつもりだったんだろう?
こんな田舎じゃネットカフェはおろかビジネスホテルも存在しないのに。
ボストンバッグを昔使っていた部屋に放り込むと、まずはこの居間に転がった。それが昨日のお昼。特に何もしないまま1日が経過してしまった。
田舎の時間は進むのが遅いよ? なんて言ってた嘘つきは誰だっけ。
ああ、大学の友人だ。
小鳥のさえずり、蝉の恋歌。
隣でアイロンが蒸気を吹き上げれば、遠く遠く飛行機の音が落ちてくる。
都会の防音処理が施された部屋が、ここは静かなのだ! と叫んでいるような偽りの静寂ではなく、正しさに溢れた静寂の音。
それらの全てが意味を持ち、正確に刻む時計の針が、みんなを未来へと運んでいた。
そんな中でお姉ちゃんが言うんだ。
「マナ、勉強しなくていいの? 単位落としちゃっても知らないからねー」
「大丈夫大丈夫。向こうに帰ったら都会の私が頑張るから」
ぼーっとした頭で手を振ってみせる。
お姉ちゃんはクスクスと笑いながら、手元の洗濯物に戻っていった。
ひらひら振っていた手が、力を失ってパタリと落ちる。
体のどこかが動いてないと、このまま風に乗って意識が飛んでいってしまいそう。ああ、また寝ちゃうなーなんて。
次に夢へ堕ちたら3度寝だ。
言い訳するつもりじゃないけど、田舎の空気はまったりしすぎてると思う。
何かをしようという気にならない。きっとあるべき音が足りないのだ。喧噪、車の音、電車の音がしない。時折、飛行機の轟音が空の彼方から降ってくるだけ。
(田舎なんて何にも無いよ? 2日で飽きちゃうし。仕方ないから勉強しちゃった。私が勉強するぐらいだよ? どれくらい暇なのかわかるじゃん。帰らないで一緒にこっちに残って遊ぼ?)
やっぱり嘘つきなのだ、あの友人は。めちゃくちゃ忙しいではないか、半年は寝ていられるくらいだ。なにも体を動かすだけが忙しさを測る物差しじゃない。眠る事だって立派な忙しさなのだ。
お姉ちゃんがアイロンがけの手を止めないまま聞いてきた。
「夕飯、イワナ食べよっか? ご近所の佐久さん覚えてる? 佐久のおじさんが釣ったイワナを貰ったから」
「……イワナって何だっけ。川の魚までは覚えてるけど」
眠気に錆び付き回らなくなった頭で、イワナなる魚の姿を思い出そうとするけど、出てこなかった。
串に貫かれて焼け焦げた姿しか出てこない。
イワナ、子供の頃は結構食べてたと思うんだけどなー。
「忘れちゃった? 小さな頃はよく食べてたじゃない。そっちじゃ食べないの?」
「都会じゃ川魚なんてまず食べないよ。都会っ子は高級志向ですから~」
川沿いに生まれたせいか、私の中では『川の物=田舎の食べ物』という図式が出来上がっていて、都会に出てからは無意識に避けるようにしていたんだと思う。もっとも、都会で川の魚を食べようとすれば、海の物よりも高く付くなんて事はざらにあるから侮れない。
「む。じゃあ、お夕飯はちょっとだけ本気出しちゃおっかなー」
え? 昨日のキノコの天ぷらは本気ではなかったと?
白い衣を身にまとった舞姫ならぬマイタケは、片手間で揚げたものだとでも? 友達と行った旅館の天ぷらより美味しいと思ったんだけど。
小さい頃から率先して家事を手伝ってきただけのことはあって、お姉ちゃんの料理の腕は確かだった。常にサボっていた誰かさんとは違って。
夕飯もいいけど、時計の針はお昼へカウントダウンを始めている。
「お昼、何?」
答え次第では、睡魔と腹の虫が世紀の大激突をすることになる。
「そうね、お素麺にしよっか」
睡魔の不戦勝だった。
いや、そうめんも好きだけど、好きだけどさー。
片田舎。
扇風機いらずの正午。
洗濯物の畳みかたは佳境に入ったらしい。
「ブラッククロウ~ スパークスボディ~ 君の瞳は~ あの星より紅く~」
今流行のロックな曲も、おねえちゃんに掛かれば上品な子守歌になる。
その才能に惚れながら、私は深い所へと沈んでいった。
「あら、電話?」
そんなお姉ちゃんの声で、うつらうつら としていた私の意識は表層へ戻ってきた。
よいしょと体を起こすと、机の上に置かれたサイダーのボトルが視界に入る。寝起きの渇いた喉に、|陳腐《ちんぷ》な『サイダー』の文字は魅力的すぎる。
無言の誘惑に、誘われるがままボトルを手に取った。
シュポっと音を立ててキャップを外す。
コップに傾けると、コポコポシュワシュワと幸せの音色が透明なコップから流れてきた。
ぬるくなったサイダーは、それでも甘い夢を見せてくれる。
対面に置かれていたコップにも注いだ頃、お姉ちゃんが戻ってきた。
「間違い電話だって」
「うん」
応答の返事を聞いて、そんな気はしてた。ごめんなさい、うちは田中じゃないんですよ。田中さんちは2件隣で――。
うん、間違いなく間違い電話だ。
喉を抜けてゆく炭酸の刺激を感じながら、コップを空にした。ぬるいけど、寝起きの体にはむしろちょうどいいぐらいの温度。
昼の12時15分、さすがに起きなきゃ。おそうめんぐらいなら私も作れるから、台所借りよっかなー、なんて考えながら2杯目を注ぐ。
ペットボトル越しに、座ったばかりのお姉ちゃんがすぐに立ち上がった。
そして、言った。
「今日は電話が多いのね」
最初は携帯に掛かってきたんだと思った。こんな田舎でも電波は届くし、手元においてたらブルブル震えてすぐにわかるから。だから携帯だと思った。
でも、立ち上がったお姉ちゃんは固定電話の受話器を取った。
サイダーが溢れた。
あわててティッシュを抜き取り、テーブルに広がってゆく透明な液体を拭き始める。
今、着信音鳴ったっけ? そんなことを考えながら。
よく思い出そう。その前の間違い電話、着信音鳴ったっけ?
お姉ちゃんが「あら電話?」と立ち上がったときには、鳴っていなければならなかったはず。半分夢の中だったとは言え、聞き間違える?
電話が壊れて鳴らなかった可能性。
ううん、昨日の夜は鳴ってた。
電話が来てないのにお姉ちゃんが受話器を取ってる可能性。
いや、ありえないでしょ。
コップの縁まで張った透明な液体は、波一つ立たない穏やかな水鏡を作っている。
うん……きっと気のせいだ。
まだ私の耳が起きてなかったんだと思う。そうに違いない。
せっかく実家に帰ってきてのんびりしている時に、わけわかんない事で心配事なんか作りたくない。
盛り上がった水面をこぼさないよう、静かにコップに口を付ける。
蝉の声がうるさくなった。何処かへ行っていた小鳥達が戻ってくる。
外だって何事もない普段通り。だから、きっと気のせいだ。
お姉ちゃんが受話器を置いた。
「誰からだった?」
サイダーに視線を落としながら、聞いた。
「職場の人から。仕事の進行状況の話」
なるほど。それで漏れ聞こえる話から、内容が掴めなかったのか。
一つの疑問が解けたとこで私は納得した。
他の疑問を全部押し込めて、納得することにした。
とにかく、この幸せな時間を壊したくなかったんだ。今電話鳴ったっけ? なんて聞くことすら嫌だった。
わざわざ私が謎解きをしなくても、世界はゆっくりと回っていくんだから。
私が帰るまで電話なんて鳴らなければいい。本気でそう思う。
「お姉ちゃん仕事してたんだ?」
「当たり前でしょ。どうやって生活してたと思ってたの?」
「かっこいい彼氏に養ってもらってるのかなって」
そう言うと、お姉ちゃんは立ったまま腕を組んで、ちょっとだけ むっ とした表情を見せた。
「もう。バカ言わないの。マナの方こそいい人いないの? 彼氏の一人や二人って、意気揚々と上京して行ったって記憶してるんだけど?」
身内びいきを抜きにしても、お姉ちゃんはモテると思う。
小さい顔に、マスカラを使わなくても大きく見える二重の目と、するりと高い鼻梁。動く度に後を付いてくる長いポニーテイルは、自慢のトレードマークになっている。
更に付け加えるなら、メリハリの利いたスタイルで胸も大きい。
内向的な性格で初対面での人付き合いが極端に苦手な面を差し引いても、十分モテるはず。
子供の頃は自慢の姉で、年頃になると同じ学校に通うのが嫌になって、今では比べられることに飽きてしまった。姉は姉として割り切ってしまえば、実にいいお姉ちゃん。
大好きなお姉ちゃん。
だから、その話は置いておいて? 忘れようとしてたんだから。
「じゃあ、お素麺作っちゃうね」
「あ、待った。私作るよ。素麺ぐらいなら作れるから」
そう言って立とうとすると、ダメと止められた。
「だめだめ。お里帰りしたマナはお客様、私は家主。マナにお台所は使わせませーん」
チッチッと指を振ってみせる。どうしても台所に立たせたくないらしい。
この人は性格もいいのだ。
自分に彼氏が居ないのは、まあわからなくも、ない。しかし、姉に彼氏が出来ないのはどう考えてもおかしい。きっと田舎のぼんくら共には高嶺の花で、誰も手が出せないのだろう。そんな事を考え、自分の事じゃないのにちょっとだけ誇らしくなる。
部屋の襖に向かっていたお姉ちゃんが、くるっと回れ右をした。つられて艶のある黒髪もふわりと回れ右をする。
私も伸ばそうかなー。今は肩まですらないから、あれだけ伸ばすのに何年掛かるだろうなー。
ぼーっと眺めていたら、お姉ちゃんは言った。
「もうー、私にお素麺を作らせないつもりね?」
そして、電話に向かっていた。
バンっと、テーブルを叩いた勢いで立ち上がる。急いで電話へ向かったけど、距離的に近いお姉ちゃんの方が先に受話器を取った。
電話は鳴っていないのに、受話器を取ったんだ。
いろんな音が聞こえる。お姉ちゃんの声も聞こえる。時計の音だって聞こえる。それなのに電話の音だけが聞こえない。
お姉ちゃんは音のない電話の受話器を相手に話し始めた。
「もしもし、林です。はい、え? 伊野香のおじいちゃん? お久しぶりです。お元気でしたか?」
きっと私の耳が可笑しいのだ。
電話の音だけが聞こえないなんて事があるのかは知らないけど、可笑しいのは私の耳の方なんだ。来てもいない電話を取って、普通に会話を始めるなんて事があるわけがない。
背後から近づいていって、そっと肩越しに電話のディスプレイをのぞき込む。
田舎とは言えファックス付きのデジタル電話で、もちろん液晶ディスプレイだってついている。きっと液晶には会話中と表示されているはずだ。もしくは電話番号が登録されていれば相手の名前が表示されているはず。
点灯している文字を確認したら、耳鼻科にへ行こう。いや、耳は普通に聞こえるから、もう少しこの家でのんびりしてから、病院へ行こう。
祈るように覗いた先には消灯した液晶があった。
20XX年 7月 4日 伝言はありません。
私は、酷い目でお姉ちゃんの横顔を凝視していたと思う。
受話器に耳を当てて、小首を傾げる綺麗な横顔を見て、私は悲しくなった。
どうしてこうなったんだろう。平穏な田舎の実家で、ただただ幸せな時間を過ごしたかっただけなのに。
そっとお姉ちゃんの背中に手を添える。
どうやって病院に連れて行こう。
この綺麗で優しい顔に向かって、どうやって話を切り出せばいいんだろう。
色々考えながら更に一歩近づく。
その時、私の耳は聞こえるはずのない音を捕らえた。あり得ないはずの男性の笑い声だった。
受話器から漏れ聞こえる微かな声に、心臓が止まるかと思った。
聞き間違えなんかじゃない。たしかに聞こえる。電話のディスプレイは沈黙しているのに!
「そうそう、今ね、マナが帰ってきてるの。妹よ、二人姉妹だってば。うん、うん、今代わるね」
私がおかしいとか、お姉ちゃんがおかしいとか、そういう話ではなく、もっと大局的な何かが狂っている事に思い至った時には、お姉ちゃんがこっちを向いていた。
「マナ、代わってほしいって」
「……え?」
「角のたばこ屋さん。伊野香のおじいちゃんよ? 忘れた? よく二人でお世話になったじゃない」
お姉ちゃんこそ忘れたの? 三年前に伊野香のおじいちゃんとおばあちゃんの葬儀に参列したじゃない! 一緒に『もう、あの大きな笑い声を聞くことはないんだろうな』って悲しんだじゃない!
そう、三年前だったはず。角のたばこ屋は、隣家の火事から延焼し、むしろ隣より大火事になった。深夜のことだった。焼け落ちた家からは老夫婦の遺体が発見され、今は更地になっているのだ。そこから電話なんか来るはずがない。
「お姉ちゃん待って、伊野香のおじいちゃんは亡くなったよね? 覚えてるよね? 電話が来るのおかしいよね!」
「何言ってるのマナ。こうして電話してくれてるのに。ほら、お久しぶりって挨拶しなきゃ」
いつもと変わらない優しい声は、むしろ私を恐怖で包んだ。
そっと、しかし確実に手首を握られる。
しびれる程の握力はお姉ちゃんの力じゃなかった。
「痛い! 待って、待って!!」
「ふふふっ、昔からマナは電話が苦手だったよね。でも、大人になったんだから、ちゃんと練習しなきゃ」
左の手首は耐えがたいほどの痛みになっている。本能が身の危険を感じた。
「嫌! 放し、て」
びくともしない手を思いっきり振り払うと、バランスを崩して2人で転んだ。
何が起こっているのかわからないけど、まずここから逃げなければ。
お姉ちゃんが豹変してしまった理由とか、死んだはずの人から電話が掛かってくる理由とかを落ち着いて考えたかった。
外に出て、誰かに助けを求めよう。もう、こんなの自分の手に負える事態ではない。一刻も早く誰かに助けを求めなきゃとの思いだけで、襖に這っていった。もう少しで部屋から出られるという所で、襖がパンッと音を立て、独りでに閉まった。
……え?
慌てて縁側を見ると、近くに誰もいないのにガラス戸が閉まってゆく。戸という戸が全て閉ざされると、今まで聞こえていた外の音たちが何も聞こえなくなった。
「そんな……」
襖に向き直り手を掛ける。手触りがすでに襖ではなかった。まるでコンクリートのように冷たく固く、それだけで絶望出来るような感触だった。
「……マナ?」
「ひっ!」
ふくらはぎを握り掴まれた。その強さにも驚いたけど、一番驚いたのは、自分の喉から出た小さな悲鳴の方だった。お姉ちゃんに声を掛けられて、触られて悲鳴を出した事なんて一度も無い。その小さな悲鳴が、私の中の何かにヒビを入れた。
左手に受話器を持ってこっちを向くお姉ちゃんの顔は、すでに私の知っている顔ではなかった……。
左右違う方向に瞳が泳ぎ、顔は熟れすぎた果実のように皺が寄り、だらしなく笑みの形に開いた口からは赤い舌が垂れ下がる。
人が見せていい顔ではなかった。
足を物凄い力で引っ張られる。
(マナ、一緒に帰ろ?)
優しかったお姉ちゃん。自分の分を放ってでも勉強を教えてくれた。
(ほら、マナもお片付けしないと怒られるよ?)
賢かったお姉ちゃん。財政的に大学には片方しか行けないと言われた日、テストの成績は姉の方が良かったのに、私に大学志望の道を残してくれた。
(今日はお母さんいないから、2人でお夕飯作ろっか)
頼もしかったお姉ちゃん。誰かと喧嘩になると、必ず味方に付いてくれる。私と喧嘩になると、必ず最初に引いてくれていた。
(あのね? 今日こっちで寝ていいかな? ほ、ほら、雷……)
恐がりだったお姉ちゃん。子供の頃は、雷が鳴ると私の部屋にこっそり入ってきて、どうしようもない言い訳をしながら布団に潜り込んできた。
(フラれたの? うん、うん。明日はゆっくりだから朝までだって話してていいよ)
大好きだったお姉ちゃん。近くに居ても離れていても、いつも気に掛けてくれていた。
(誕生日おめでとう! マナ。ビックリした? 落ち込んでるみたいだかったから)
(マナ、マナ――)
走り抜ける思い出に、今のお姉ちゃんは居ない。
優しいお姉ちゃんの、右目と、目が、合った。
「いやぁぁぁぁーーーーーーーーー!!」
たが が外れた瞬間、喉の奥から悲鳴がほとばしった。
その声は、私の体が目の前の大事な人を危険因子と判断した合図。
「いや、いや!」
ふくらはぎを締め付けてくる右手を、何度も、何度も蹴りつける。びくともしないその手に、焦りと恐れと悲しみが増していった。
受話器のコードが足に掛かり、コードがぶちりと切れ、電話本体が落っこちる。勢い余ってずるりと滑った足が、お姉ちゃんの顔を蹴りつける。もう、心がどうにかなってしまいそうだった。
顔を守ろうともせず、ただただ私に覆い被さろうとするお姉ちゃんの姿に、涙がこぼれてきた。
滲む視界の先で、大人しくならない私に業を煮やしたのか、お姉ちゃんが受話器を口に咥えた。そして、空いた左手で右足を掴まれる。
両足を拘束された。
「いやいや、来ないで! 離れて!!」
私は無我夢中で拳を強く握る。恐怖の中、足からお腹へと這い上ってくるお姉ちゃんの顔に、白くなるほど握り固めた手を――
お姉ちゃんは、何の苦もなく私のお腹の上に乗り、座った。
私は両手を押さえつけられながら、放心していた。
殴れるわけないじゃん。相手はお姉ちゃんなんだから。
でも、もう、あの顔を見たくはなかった。
だから、目を瞑っていた。あんな顔を見るぐらいならもう、私の方が消えてしまいたいとさえ思った。
涙が頬を伝う感覚。きっと私は泣いているんだ。世界とさよならすることに対して泣いているんだと思う。食べられるにしろ、お姉ちゃんと同じモノになるにしろ、もう今までの世界にはいられないのだろう。だから、そんな理由。
その時を待っていたのだけど、お姉ちゃんは座ったまま動こうとしなかった。
ぽとり。
私の左胸の下、ちょうど心臓の所に何かが落ちた。
「ま……な……」
「え?」
理性的な優しい声。聞き慣れたいつもの声にビックリして、私は目を開けた。
お姉ちゃんの両目が私を見つめていた。その表情におかしい所はなかった。
元に戻ったんだ!
涙をぬぐってお姉ちゃんの顔を見たかったけど、私の手は押さえ付けられたままだった。
「マナ」
「……何?」
幸せだった。幸せな時間が戻ったんだ。いつもと同じという事、ただそれだけで幸せを感じた。
外の音も聞こえない。時計の音も聞こえない。何一つ音の聞こえない部屋で、お姉ちゃんの声だけが響いていた。
「きいて」
本当に、静かな時間の中。
「でんわを、きいて」
私は張り詰めていた力を抜いた。
「電話を聞けばいいの?」
「そう」
「電話を聞いたら、いつものお姉ちゃんに戻ってくれる?」
お姉ちゃんはにっこりと笑った。
幸せだった。
だから頷いた。
「うん」
その返事に満足したように、お姉ちゃんはゆっくりと私のお腹に顔を沈めていった。
舌と唇で落っことした受話器を咥えようとしているらしい。もう抵抗しないんだから手を使えばいいのに。
シャツがめくれ上がったお腹に、ちょんちょんと触られる舌先がくすぐったい。
受話器を咥えて耳元まで持ってくるんだろうか? それなら横を向いてたほうが楽だよね。
そんな思いから頭を横にした。
目を瞑ろうかとも思ったけど、庭の草木の緑から伸び上がるタチアオイの紫色がよく見えるから、目は瞑らないでおこう。
最期の景色が綺麗な花なら、それはきっと幸せな事なんだから。
視線の先に鴉がいた。
なぜか縁側に止まってこっちを見ている。
(早く逃げたほうがいいよ? もしかしたら、この後あなたをバリバリと食べちゃうかもしれないから)
気持ちが通じたのか、カラスが舞い上がった。
飛び上がってから気が付いたけど、異様に大きな鴉だった。
特に翼が大きすぎる。
……え? 4枚の翼?
鴉が硝子に突っ込んできた。
硝子の割れる音は今まで聞いたことのないぐらい、映画で聞いたライフル銃の発射音より恐ろしい音だった。
忘れていた音が部屋に戻る。
外の喧噪を連れてきた鴉は部屋の中を飛び回り、があがあとわめき始めた。
私も、お姉ちゃんも、その侵入者に視線を奪われる。
ひとしきり騒いだ鴉はやがて縁側に戻り、いつの間にかそこに立っていた人の肩に止まった。
お姉ちゃんを助けてと喉まで出かかった台詞は、その男の格好を見た途端、声とならずに消えていく。
白いタキシードに白いスラックス。
私より長い髪はブロンドで、瞳の色は赤銅色をしていた。人間では無い。そもそも、足が床から10センチぐらい浮いているんだから、人間であるはずがなかった。
男が内ポケットに手を差し入れる。
それを見て、反射的にやめてと叫びたくなった。
助けて欲しい、と同時に、もうこれ以上お姉ちゃんを壊して欲しくなかった。何をする気なのかは知らないけど、これ以上壊すのならまず私を消してからにして欲しかった。
でも、男が取り出したのは予想していたような物騒なものではなく、白い指揮棒みたいな物だった。
「離れろ」
部屋に土足で入り込んだ男は、そう言って指揮棒を振るう。
風でもない、波でもない、なにかの力で私たちは壁まで吹き飛ばされた。
拘束が外れ自由になった私は、しかし、どっちに行けばいいのかがわからない。這いながら、2人から離れる様に距離を取る。そんな私に、男は気を悪くするでもなく、部屋の隅を指して言った。
「そこでは巻き込まれるだろう。隅まで下がって」
味方だろうか? 敵だろうか? でも、他にすがる者がいない。大人しく従うことにした。
「お姉ちゃんをこれ以上おかしくしないで。お願いします」
そう言うと、見慣れない赤銅色の目がこちらを向いた。
「君は、姉が好きか?」
「はい。一番大切な人です。だから、お願い!」
「……わかった。善処しよう」
お姉ちゃんがゆらりと立ち上がる。髪は解けて散り広がり、血走った彷徨う目は、まるで幽鬼を思わせた。
「じゃまを、するなあ」
突き出された受話器から、野太い男の声が飛び出た。
「『悪魔・夢魂電話』か。我鴉(があ)、行け」
我鴉と呼ばれた4翼の鴉が、白い男の眼前で羽ばたいたまま、宙で制止する。大きく口を開いて空気を吸い込み、一声鳴いた。
があ! という声が発せられると、お姉ちゃんの姿が歪んで吹き飛ぶ。なにか巨大な力を受けたらしいのだと、壁に叩き付けられるのを見て知った。
ただ、軽く頭を振っただけで転ぶようなこともないのを見ると、それほどダメージを負ってはいないみたい。
「ほう?」
そんな感嘆のような声が白い男から聞こえた。
「我鴉、下がれ」
余裕を見せる男に対して、受話器から訝しむ声が聞こえた。
「貴様 ナニモノだ」
「僕かい? 君と一緒だよ。君よりは高等な存在だけどね」
「……いいだろう 貴様もナカマにしてやる」
受話器がそう言うと男は鼻で笑った。
「はっ。僕を仲間にするのかい? 散って消えてしまう君がどうやって僕を仲間にするんだい?」
受話器を握るお姉ちゃんが膝を曲げて、襲いかからんとばかりに四肢に力を込める。
「力ずくで、かい? 面白いね。やってみるといい」
そんな台詞とともに、白い男は構えを取った。
半身を開いて右肘を下に曲げ、手首を前に返し、指揮棒の先を前に突き出す。右膝は相手に向け、左膝は横にして軽く曲げる。空いた左腕は肘を軽く曲げ、その手はゆらゆらと天を向いていた。
フェンシングの構えだったと思う。でも、私には肉食獣が走る姿に見えた。重心を低く、左手の尻尾でバランスを取り、右手の先で食らいつく。そんな肉食獣。
「私が直接相手をしよう」
そう言った男の言葉に、お姉ちゃんは怒りの表情をみせる。
受話器と本体を繋ぐコードはすでにちぎれていた。それでも乗っ取られたままなのを見ると、受話器が本体なのだろうか?
受話器の声を聞くだけで体を乗っ取られるのなら、彼はどうやってそれを防ぐのだろう。
私の心配をよそに、男の表情は涼しげだった。
お姉ちゃんが動いた。
天井近くまで飛び上がり、受話器で殴りつけるように手を伸ばす。
一方、男は力を溜めるように重心を低く低くした格好から、狙いを定めて一気に伸び上がり指揮棒を突き出した。
指揮棒と受話器が打ち合った瞬間、時間が止まったかと思った。
なぜなら、一瞬だけ2人の動きが止まったように見えたのだ。
直後、受話器が轟音とともに、爆発した。
思わず耳を塞いだけど、目は閉じられなかった。お姉ちゃんが天井に叩き付けられたのが見えたから。
「お姉ちゃん!」
酷い音を立てて、床に落下したお姉ちゃんに駆け寄る。よかった、息はある。
脈を取っていると、白い男が指揮棒を懐にしまいながら近づいてきた。
「もう悪魔は消えた。彼女の命に別状はないはず」
相手は恩人だったが、この惨状に一言言ってやりたくなった。けど、自分の上着を脱ぎ、爆発の衝撃で所々切れてしまったお姉ちゃんの服の上に掛けるのを見て、思い直した。
「あの、ありがとうございました」
「いや、構わない。これも仕事だ」
仕事? どんな仕事だろう。知りたいと思ったけど、関わりたいとは思わなかった。だから、聞かないことにした。
「君は大丈夫かい?」
「はい。私は何もされませんでしたから。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げると、男は、むむっと唸った。
「そんなに軽々しく答えるものじゃない。私が帰ってから何か起きても対処出来ないのだよ?」
言われてみればそうだった。でも、自覚症状がないのだから、自己申告は無理だと思う。
「服を脱いでごらん」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
「服を、脱いでごらん。それで何もなければ、私はこのまま帰ろう」
非常時の状況に押され、深くまっすぐな視線に押されて、私は紺色のシャツをゆっくりとめくっていった。
顔真っ赤だろうなー、とか汗かいちゃったんだけど……、なんて。でも、そんな考えはへそが見える辺りまでだった。お腹に真っ黒な、根のようなものが走っているのが見えて、血の気が引いた。
慌ててシャツを脱ぎ捨てる。貧相な左の胸の下、ちょうど心臓の辺りに、黒い握り拳大の柔らかそうな種に見える塊があって、そこから何本もの根が這い、四方へ広がっていた。
「な、なに、これ……」
男の手が伸びて、ブラジャーのフロントホックが外される。あらわになった上半身は、まるで植物に侵食されたような有様になっていた。現実感の薄くなった自分の体に、思考が追いついていかない。
真っ黒な種が、ぶるぶると動いた。
つつー、と種に横の線が現れ、カパッと開いた。
中に見えたのは赤く暗い喉。上下には人の歯が並び、長く赤い舌がでろんと垂れ下がった。ケッケと鳴いて舌が動く。
赤い舌は私の腹をべろりと舐めて、脇を、乳房を舐め上げた。
おぞましくねっとりと湿った感触。
心が崩落した。
「キャーーーーーーーーー! いや、何これ、あ、ああ、嫌、嫌、いやー!!」
どうしようもなく気持ち悪い。生理的に全く受け入れられない。それが自分の体にあって、一番大事な部分にあって。
暴れ出しそうになって、でも、絶対に取れそうにない。触るのすら無理だった。見る事ですら吐きそうだった。もう、どう動いていいのかわからなくなって、悲鳴を上げるしか出来ない。
このまま心が壊れてしまうのだろうと思った。
「大丈夫、落ち着いて」
だから、その言葉にすがるように顔を上げた。
男は躊躇なく、その真っ黒な口の生えた種を手で押さえつけた。触っていいような物に思えなかったからビックリした。
泣き顔でぐちゃぐちゃになってるだろう私の顔を見て、男はゆっくりとかみ砕くように言った。
「大丈夫。それはすぐに取れる。心配いらないから落ち着いてほしい」
「でも、でも! こんなの、いや、いや、い――」
抱き寄せられて、私の言葉は男物のシャツに埋もれた。
「大丈夫。心配はいらない」
抱きしめられていることが、こんなにも安心感のあることだとは思わなかった。
「さあ、目を閉じて」
耳元で囁かれた声に、大人しく従う。
少しだけ顔を離されるのがわかった。それだけでまた不安になる。温かい手がおでこに触れて、前髪を掻き上げられた。
男とは頭一つ分ぐらいの身長差がある。髪をいじられるこそばゆい感触に、私は少しだけ顔を上げた。
「すぐに、済む」
「……う、ん」
本能が自分の命を握っている人物を理解していた。理性が逆らうことを忘れていた。
男の顔が近づいてくるのがわかり、息を止める。
種を押さえていた男の手が、すうっとそこから上にのぼっていくのがわかった。
私はこの先の結果がなんであれ、それに満足する気がした。そんな予感。
近く。男の――マルクスの小さな吐息が感じられる。
そして、唇に触れる体温……
*******
蚊帳の外に置かれた鴉は思う。
なんだこの茶番は、と。
騙される方も騙される方だが、騙す方も騙す方だろう。
馬鹿馬鹿しくなって、ため息を吐いた。
鴉が一声 があ と鳴く。
世界は音を立てて崩壊していった。
次話
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=2484&user_id=160&mode=post
ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
詩の書き方(ケルビィンが普段どうやって詩を書いているか)
だから僕は言ったんです
あの澄みきった星が
そっと降りしきりそうな
そんな世界の中で
そう、静かに言ったんです
「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応して書こうよ」
すると、君は言ったね
「そうかそうか、つまり君は……
……よく考えなくても、そんな奴だったなあ。
知ってたよ。だから、もう許せないや」
最期に見えた光景は
そっと寂しいものでした
星、散りばめられた天幕と
僕と君の白く凍えた吐息と
さりげなく僕の左頬に
添えられた君の左手の
そのぬくもりの果てに
そして
君の右手は
僕の額にくっつけられた
セミオートマチックの
その銃口のために添えられていて
冬になる
まっしろで細かった猫は
ある日まるくなってしまった
それでも透き通った声で
遠くをみながら鳴いている
そういえば
ぼくはぼくが誰だかわからないし
昨日は今日ではない
季節はものすごい速度で冬に近づいていって
気がついたら手が悴んでいた
ふと横をみると
あなたはいつしか氷瀑となっている
もうとてもしずかで
二度と交わることはないのだが
凍てついたこんな空にも
まだ星がたくさん見えている
夜が遠いなんて
絶対に知りたくなかった
宇宙人なんだ
我々は宇宙人だ
地球に乗っかってさ
ずっしり浮いてるんだもん
ぐるぐる回って
太陽に着いていきます
我々は宇宙人だ
だから寂しがりで
天邪鬼で根は素直で
ほんとみんなが
忘れかけているから
悲しいよね
ケンカしたり
いじめたり
宇宙人なら
のんびり行こうよ
つまらないこと
全部やめたら
まっすぐに
宇宙の中心を
目指せるかもよ
魔の間のモノら 第3話(右)『幕間』
今回の仕事も問題なく終えた。
そう報告したが、マルクスの顔は曇ったままだ。仕事に不備はなかったのだから、晴れない原因は他にあるんだろう。
「どうした? 何か問題でもあったか?」
そう水を向けると、マルクスは大したことではないんだが、と前置きしてから話し始めた。
「牛頭のアルテミス、いるだろう? 僕たちと同じ死に神をやっている」
牛の頭に人間の体を持つ『悪魔・牛頭人躯《ぎゅうとうじんく》』。そして、同業者。死に神としての活動領域が俺たちと隣なので、何かとトラブることの多い間柄だ。
また、死に神としての期間がマルクスよりも長いため、こっちとしてもあまりないがしろにできない相手。悪魔とは言え、仕事をしている限り、上下関係のしがらみはついて回るらしい。
「彼から仕事の応援要請があったんだ。あっちは随分と忙しいらしい」
「おいおい、こっちは4人なんて少人数で慎ましやかにやってるんだぞ? うちらを頼らなくても他の所を当たればいいだろう」
死に神の職に就いている悪魔はそれなりに多い。魂を狩るだけという比較的楽な仕事なうえに、元締めから定期的に魂が支給されるので、私欲のために天使の目を盗んで魂を奪ってくる必要もない。
問題があるとすれば、現世で悪魔のいる場所というのは限られるから、仕事の領域争いが頻繁に起こると言うことぐらいか。
何にせよ死に神は多いのだ。手が足りないからと、うちらの門を叩く必要など無いはず。
「そこはほら、彼は死に神としてはまだ若いから、声をかけられる相手が限られるのさ。近場だと、まず僕の所に来るのは妥当な判断だと思う」
なるほど。300年かそこらでは、死に神としてはひよっこらしい。
「じゃあ、その話を受けてきたのか?」
「まさか。私たちも忙しいから他を当たってくれと、丁重に追い返したさ。そんな訳だから今月中は彼の敷地の周りをうろつかないように。二人にもそう伝えておいてくれるかい?」
「りょーかい」
隣接した土地に立ち入れないとなると、行動範囲はだいぶ狭くなってしまう。折角の休暇だというのに、残念な話だ。
俺は4枚の羽を広げ、バサバサと音を立てて宙へと浮いた。
この残念な気持ちを一人で味わうにはもったいないと思う。さっさとあいつらにも味わわせてやろうじゃないか。
「僕はもう一度寝るよ」
そう聞こえてきて、俺は振り返った。
「今まで寝てたんじゃないのか?」
寝癖と、眠たそうな目がそれを物語っていた。
「寝てはいたけど、桃花の相手をしていたからまだ体力が回復してないんだよ」
「……そりゃ、ご愁傷様」
あくびをしながら隣の部屋へと消えてゆくマルクス。
悪魔になる条件に『業』と呼ばれるものがある。
各悪魔それぞれに業を背負い、業が悪魔としての根幹をなしているのだ。その業を否定されることは、本人にとって種族を否定される事につながる。そのため、部下の業を満たしてやることも、リーダーの仕事の一部。
どの世界でも何かとリーダーは気を使わなければならないらしい。
下は惨めだが、上は辛い。だったら俺は下でいいや。そんな事を考えながら、広く真っ暗な部屋を後にした。
マルクスの暗い空間には何枚もの扉があり、それぞれ別の場所に通じている。
足で開けた扉の先は、雲を突く急峻な山脈の山中。
絶えず噴火を繰り返すこの地は、緑が極端に少なく、枯れた木とごつごつした大きな岩が点在するだけの荒涼とした地。マルクスの領地の一部だった。
マルクスが好き好んでここを求めたのには訳がある。
遮るもののない空を飛び進んでいくと、辺りに独特の臭気が漂い始める。卵が腐ったような臭いのそれは、むっとするような湿度を伴い纏わり付いてくる。
俺にとっては、はなはだ不快でしかないのだが、マルクスと桃花、マナの三人にとっては魅力的なものらしい。
やがて遠くに湯気を立ち上らせる、広い湖が見えてきた。
温泉、などという生やさしい温かさではなく、熱泉と呼ぶにふさわしいぐつぐつと煮えるような熱さの湖だ。
マルクス曰く、湖底では常にマグマが流れているらしく、山から流れ込む大量の水を絶え間なく沸騰させているのだそうだ。
「あ、ガー助じゃん」
真っ先にマナが俺に気付いた。
翼を広げて、風を捕らえ二人の近くに降り立った。
「あら、珍しいじゃない。ガーちゃんも入りにきたの?」
丸みのある石に腰をかける桃花が、頭をなでてくる。その手を羽で払いながら俺は首を振った。
「俺には熱すぎるって。行水なら水で十分だし」
80度近い水温はさすがに熱い。俺も一応純粋な悪魔だから入って入れなくはないが、敢えて入りたくなるような温度ではない。
俺の答えに、マナは不満そうだった。
「えー、なんでよー。ひりひりして気持ちいいよ? 肌もつるつるになるし。『悪魔・人魚姫』の子達や『悪魔・妖精のしっぽ』の皆も誘ったんだけど、だーれも乗ってくれないし。一回入れば良さがわかると思うんだけどなー」
「しっぽはともかく人魚姫はやめてやれって。煮魚になるから」
『悪魔・人魚姫』は半魔半妖みたいな存在で、純粋な悪魔種より体は弱い。彼女らにこの熱さは酷だろう。植物性の人喰悪魔『悪魔・妖精のしっぽ』のやつらは、単純に緑がないこの場所が嫌いだったはず。
頬を膨らませていたマナが、あっと声を上げて湖からあがってきた。そして、俺の前で仁王立ちしてみせる。
「どう?」
不適な笑みで見下ろすマナ。
「ほー」
そのマナに、俺は感嘆でもって答えた。
左の肩から右の腰に走る一本の雷のような金色の模様。2度曲がって落ちるその雷模様からは、何本もの細い金色の線が枝分かれしている。
なかなかの見栄えだった。
マナの活発さを表すかのようなその模様は、悪魔の文様と呼ばれるもの。悪魔になると体に現れ、悪魔として成長するにつれて全身に広がってゆく。
模様の色形は悪魔それぞれ違い、桃花のそれは、へその辺りから何本も生まれた蔓が体に絡み、先端に丸いつぼみを付けたかのような模様になっている。
桃花の模様も柔らかなセンスで洒落てはいるが、俺はマナの攻撃的な模様の方が好みだった。
「いい色になってきたじゃねーか。この先どうなるんだろうな。腕にも伸びてくるか、背中にもう一本、雷が生まれるか」
じっくり凝視していると、マナが怒った。
「ばか! どこ見てるのよ。そこじゃなくて大きくなったでしょって言ってるの」
……何だよ胸の話かよ。
マナはなぜか胸の大きさを気にしている。大きければ何が得なのか鳥類の俺には理解できないのだが、小さいことがコンプレックスになっているらしい。
とは言え、価値がわからないものには同情もできないし。
「いやいや、おまえの胸は正面から見て大きさがわかるもんじゃないだろーよ?」
むっとしたマナが、しかし、文句も言わずに横を向いた。
「どう?」
鳥の目は基本的に高性能だ。鴉の俺も例に違わず他の生物よりはいい方だと思う。まして、悪魔としての夜目が効くようになり、更に性能は上がった。
しかし、その俺の目を持ってしても、マナの胸囲に変化があったようには思えない。
「……変わってないだろ?」
マナが慌てたようにこちらを向いた。
「そんなことないって2ミリ膨らんだって言ってたし!」
「誰が?」
「桃花先輩」
桃花を見ると、素知らぬ顔でタオルを折り畳みながら遊んでいた。
「そりゃあ友人補正ってやつだな」
馬鹿らしくなったので、適当に答えてやった。
「そんなことないって! ね、桃花先輩!」
ちらりとこちらをみた桃花が、おもしろそうに言った。
「気分的にはちゃんと測ったわよー。じゃあ、もう一度測ってみる?」
「……遠慮しておきます」
桃花の笑顔に真実を見いだせなかったのか、マナは静かに湖へと戻っていった。
残酷な奴だ。測ったときは喜べるだろうが、後から測り直した時に落ち込むだけだろうに。
俺は肩をすくめて話し始めた。
「そもそもマルクスは、おまえの体を自然成長するようには作ってないだろ。時間で変化するように体を作るのは、面倒なだけだろうし」
「うー……だって、ことある事に貧乳だってバカにされるし」
「俺は ほ乳類じゃないから、胸の大きさの良さなんてわかんねーけど、どっちだっていいだろうよ。桃花だって大きいのは不便だって言ってたし」
「先輩のそれは自慢だと思う」
「いや、自慢かどうかは知らねーけどよ。そもそも、だ。大きさをどうこう言うんであれば、せめて桃花ぐらいになってから言ったらどうだ?そんな雄だか雌だかわからんような大きさなのに、数ミリ増えたとか減ったとか言ってても空しいだけだろ。マルクスがどっかから調達してきた戦闘服、何だっけ? ボンテージだっけ? あれ桃花が着ると妙な威圧感が生まれんのに、マナが着るとこれっぽっちも――グェ!」
俺が持論を展開して悦に浸っていると、いつの間にか湖からあがってきたマナに体を掴み上げられた。翼ごと掴まれると、こっちは文字通り打つ手がなくなる。
「ガー助のくせに生意気じゃない?」
「ぃあ。待て待て!」
俺の体を抱いたマナが、勢いを付けて湖の縁を蹴った。
ザブン。
ばか、やめ! という俺の叫びは、あぶくと共に、水面へと置き去りにされた。
マナは泳ぎがうまいのだ。
俺を胸に抱えたまま、力強い蹴りだけで深みへと進んでいった。
やがて立ち上る泡も尽きる。俺はマナの心臓の音を聞きながら、光も届かないような深みへとさらわれていった。
このまま底まで連れてくつもりかよ、と疑いだした頃、ようやくマナは俺を手放した。下を向いていたマナがくるりと上へ向き直り、その足で思いっきり俺を蹴っ飛ばす。距離が開いた。
見下ろすマナ。
見上げる俺。
マナが人である時を止めたあの時とは逆の立ち位置。真っ暗な水の中で、マナの口が動いた。
ばーか。
あの時と上下が逆になっても、言うことは同じらしい。そんなところは変わらないって事なんだろう。
ばーか。
言い返せるようになった俺は、少しだけ変わったのかもしれない。いや、変わったのかどうかは自分では気が付かないことなのだろう。
やがて俺を見下ろす事に飽きたマナが、上へと戻って行く。
ひらひらと鰭のように水を掻く脚。乱れた水は長いしっぽに操られ、新しい流れを作っていく。その流れに乗ってマナはぐんぐん上っていった。
金色が浮かぶ肌色の体はすぐに見えなくなる。
暗い湖の中に、一羽取り残された。
翼を広げ、世界の重みを体に受ける。
深く、深く。
俺はゆっくりと沈んでいった。
……
…………
………………
熱い熱い熱いわ!
なんとか茹であがる前に水面へと上がることに成功し、溺れ死んだカモメのように浮かんでいるところを桃花に掬いだされた。
岩に寝そべると、桃花は湖の縁の岩に肘と胸を置いて、俺の体をパタパタと扇いでくれる。この湿度の中どれだけ効果があるのかは疑問だが。
「そう言えば、温泉に入らないなら、ガー助は何でここに来たの?」
煮えた俺の頭が、マナの問いに反応できたのはゆっくりと10数えてからだった。
「……ん?」
「ん? じゃなくてさ。ここまで来たのに湖に入らないんじゃ、何しに来たのかわかんないじゃん」
そー言えばそうだ。何しに来たんだっけ?
「あ、思い出した。アルテミスっているだろ? 同業で『悪魔・牛頭人躯』の。あいつから応援要請があったらしい」
「うちに?」
桃花が首を傾げた。
「そう、4人しかメンバーがいないうちの所に。そんで、マルクスが適当にあしらったらしいんだけど、その時に忙しいからって答えたんだとよ。そんなわけだから、今月中はアルテミス領地の付近をアホ面下げて歩いたりしないように」
「えー、休みなのに南側にいけないって事?」
マナは大いに不満げだ。うんうん、そうだろうそうだろう。俺だってそんな気分なんだ。
「とりあえず伝えたぞ? これでふらふらしてて攫われたりしても助けに行かないからな」
「はーい」
これで俺の仕事は終わりだが、飛べない事には帰れない。乾くまでのしばらくの間、岩の上にいるしかない。
「そう言えばアルテミスって人、マルクスの先輩だっけ?」
「人じゃねーけどな? 先輩ってのも違うんじゃねーか? ただ死に神の期間が長いってだけだぞ。実力ならマルクスの方が上だと思う」
「ふーん。でも、死に神としては先輩なんでしょ、一応」
ここで俺は、その先輩って言葉の意味を詳しく聞いたことがない事に気が付いた。
「先輩ってのは年が上って意味よ。その年の中には実年齢だけでなく所属期間的なものも含まれるから、この場合先輩で問題ないと思うわ」
マナに代わり桃花が答えてくれた。
ふーん。って事は、この中では桃花が一番の先輩になる訳か。
「桃花先輩」
「ん? 何?」
「桃花先輩は姉や同級生になったりしたけど、先輩になったこと無かったなーって」
「う~ん。何の話かな?」
「悪魔試験の話です。私の試験に桃花先輩が出てきたんですよ。10回目ぐらいの試験から2回だけですけどね」
「17回目と18回目な」
自然な調子でサバを読むマナに指摘を入れる。回数を2分の1にされたんじゃ、俺達の苦労がなんだったのかわからなくなる。付き合わされるのも、それはそれで疲れるのだ。
「う。いいじゃない。大した違いはないし。ガー助は黙ってて。それで、その2回の試験だけ妙に現実感があったから、てっきり桃花先輩は私の生前に繋がりのあった人だと思ってたんだけど。それか、マルクスの死に別れた恋人とかそうゆう……」
マナは、はぁと肩を落とした。
「でも、実際はマルクスの現役の恋人ってのが何て言うか。がっかりだったり?」
「あらあら、なんだか期待を裏切っちゃったみたいね」
おいおい、本人に愚痴ってどうする。八つ当たりも甚だしいぞ?
「しょうがねーだろ? 俺達だって、ただキレるだけであんなに時間が掛かるとは思ってなかったんだよ。んで、ネタが無くなったから知り合いに登場してもらったって話なんだからさ」
あの二つの景色、民家の居間と学校のプールは、マルクスがまだ人間として生きていた頃の記憶なのだと後になってから聞いた。
「こっちに来てから試験とか、ちょっと嫌ね」
桃花が同情を寄せる。
「ホントですよ! しかも、合格要件がイミフだし。試験官にキレると合格ってどうゆう事よ」
「何も難しい事なんて無いだろ?」
俺としてはこれ以上無いくらいの低難易度なんだが。
「あんたと違って、普段お淑やかな私には難しすぎるんですー」
俺達がにらみ合っていると、桃花が口を挟んできた。
「それで……悪魔試験って何かな?」
この質問に対してマナが目を丸くした。
「え!? 悪魔になるための試験ですよ。合格しないと悪魔になれないって言うあれですけど。桃花先輩も受けましたよね?」
考え込んだのち、桃花は首を横に振った。
「記憶にないけれど」
「ええ!? 受けないで悪魔になったんですか? 元々が優秀だと試験免除とかあるんですか?」
肩まで熱湯に浸かりながら考え込むマナを不思議そうな顔で見つめる桃花。表情そのままの声でマナに言った。
「そもそも、悪魔試験って聞いたことないわ。悪魔の条件は『業』を背負ったままこっちの世界、黄泉に来ることだから、こっちに来た時点で悪魔扱いになるはずよ」
「はあ!?」
ザバッと湯をまき散らしながら桃花に詰め寄るマナ。
あー、言っちまった。マナだって知らなければそのまま忘れ去られる過去だったのに。酷い奴だ。
なんてな。相変わらずマナは面白い。
笑いがこみ上げてくるのを必死に耐えていると、マナの視線が突き刺さった。
「……ガー助? どうゆう事?」
「いやぁ。マナはマルクスの業を知ってるか?」
「知らないわよ。そもそも業の話を聞いたのが初めてなんだけど!」
「それもそうか。マルクスの業は『虐げる』だ。ま、そうゆう話」
「ぜんっぜんわかんないって。わかるように話して」
「わかんないか? ある日、マルクスの元に右も左もわからなそうな小娘の魂が来た。で、マルクスは思ったわけだ。これはオモチャになりそうだなと。そうゆう話」
「……」
マナは静かに空を見上げた。
濡れた髪を耳の後ろにかき上げて爽やかな表情を浮かべる。そして、遠い空に向かってぽつりとつぶやいた。
「えっと、アレかな? 私は遊ばれてたって事かな」
俺は全身に力を溜めて、鷹揚に返事をした。
「そうだな。試験10回目ぐらいまでは俺も楽しめた。それ以降は面倒なだけだったけどな」
「……ふーん」
一拍おいて、それはもう、全力で転がる俺。
黒い風が吹き降りてきた。俺が寝転がっていた場所に、必殺の大鎌が根元まで突き刺さっている。
ろくに面識のない石が身代わりになってくれた。ま、これも俺の人徳ってやつよ。
「どうして躱すのかな?」
「どうして鎌を振り回そうとするんだ?」
「……」
「……」
マナが石を虐殺し始めた。
ザクザクと地面に穴を開けて、次第に俺を追い詰めるマナ。やがて俺に肉薄すると、とどめとばかりに頭を狙い足を振り上げた。
俺は荒い息を吐いてタイミングを計る。
今だ!! と体をひねり転がったが、マナの右足が地面に刺さることはなかった。
(あれ?)
拍子抜けしてマナを見上げると、俺がいた場所を見つめながら固まっていた。ゆっくりと鎌を下ろすと、湖へと戻っていく。何だか燃え尽きました、みたいな後ろ姿だがどうしたんだ?
湖に入ると、桃花に頭を撫でられていた。
よくわからないが、何はともあれ助かったらしい。
俺も、ひょこひょこと岸へと戻った。
ボコボコボコと水面に泡が立つ。
湖の中へと戻ったマナは、水面に顔をつけて呪詛を漏らしていた。何を言っているのかまではわからないが、マルクスを百遍ぐらい呪い殺そうとしている事は容易に想像が付いた。
マナの腰から伸びた黒い尻尾が ぴん とそそり立ち、天を射殺さんばかりになっている。
相当頭にきているらしい。その間に、俺は桃花に悪魔試験の経緯を説明していた。
「へー、そんなことがあったの」
「そう。あいつの趣味はどうしようもないな」
なんて、自分の事を棚に上げて言ってみる。
いつの間にか呪詛が止んでいた。ザバッと勢いよく顔を上げたマナが、桃花に詰め寄った。
「あの、桃花先輩! 聞きたいことがあるんですけど!」
「うん? 何?」
「一体あの変態のどこがいいんですか?」
お、それは俺も聞いたことがなかった。マルクスの彼女というからには、マルクスのことを好きなのだろう。マルクスは、人間の基準では美形らしい。そう、本人が言っていた。悪魔としての力もあるから将来性もあるのだろう。
しかし、それらを差し引いても、マナが言うとおり性格はよろしくない。虐げることを業としているのだから、一緒にいれば嫌なこともあるだろうに。
頬に手を当ててうーんと考え込んだ桃花は、そうね、と思案しながら答えた。
「そうね~。あの変態なところかな」
「「あ”ー」」
疲れの混じる、諦めのような微妙な声が、俺とマナの口から同時に漏れた。すでに二人の仲は余人が関与できるレベルではなかったらしい。勝手に幸せになってくれ。
「ねえ、ガーちゃん。マルクスは起きてた?」
湖からあがった桃花は、でかいタオルで体を拭きながら聞いてきた。
「もう一回寝るって言ってたぞ? おまえに襲われて体力が戻ってないからとかって」
「ふふ、まだまだそんな年じゃないのにね」
艶めく肌から水を拭きこぼし、続いて巨大なコウモリっぽい翼を拭き上げる。頭の上にくるっと巻いていた髪をほどくと、新しいタオルをポンポンとあてた。
「桃花先輩の体って生前のままなんですか?」
曲線の多い桃花の体をじーっと見つめるマナが聞いた。
「そうね。ほとんど変わってないわよ」
しれっと嘘を付く桃花。
「嘘付け。マルクスに頼んで少しずつ体型を変えてるだろ? マナの目はともかく、俺の目はごまかさ――うわっ」
タオルが降ってきた。
「ダメよー、女の秘密を口に出しちゃ。当分の間出歩けないみたいだから、私はしばらくマルクスの部屋にいるわ。ご用のあるときは、私の部屋じゃなくてマルクスのとこに来てね」
服を小脇に抱えて、翼をはためかす。一つ二つと羽ばたくと、ふわり桃花の体が浮いた。
俺のように羽毛が寄り集まった黒い翼もいいが、桃花の膜のようなこうもり翼も便利だと思う。
濡れてようが多少傷つこうが飛ぶのに問題はないし。羽毛だって水には強いが、中に水が溜まるとちょっとしんどい。
もちろん見た目は俺の方がいいけどな。
もっとも、桃花の場合は翼で飛んでいるのではなく、魔力で飛んでいるから翼が無くても飛べるわけだが。
桃花の後ろ姿に声を投げる。
「あんまり無理させるなよ? マルクスの体力だって無尽蔵じゃないんだからな」
「善処はするわよ。でもね――」
振り返った桃花の目は緑に光り、体に巻き付くツタのような模様も同じ色に脈打ち始める。
すでに気が高ぶっているらしい。きっともう言葉は耳に入っていないのだろう。
「マルクスがいつも言ってるわ。汝、己の欲することを為せって。それが悪魔の本質らしいわよ」
桃花は飛び去った。
悪魔とは何か。
それは、他者への配慮無く業を満たそうとするモノたちの事。そう、マルクスは言う。
部下の業を満たしてやるのも、悪魔を従えるマルクスの務め。小さくなる桃花の後ろ姿は、実に生き生きとしていた。
桃花を見送ると、俺はぐでっと脱力して岩の上に伸びた。マナも湖からあがり、俺の隣に横たわる。
「はぁ。のぼせた」
そりゃそうだろう。それだけ浸かってれば悪魔だって頭に血が上る。
「3時間経ったら起こして?」
「それは無理だな。俺も寝る」
「そう」
特に突っかかって来ることもなく。
置き忘れの、濃密な人間っぽい匂いのするタオルを広げて頭からかぶり、俺は深い眠りについた。
「ねぇ、カラスゥ」
夢うつつだった俺は、マナの声に飛び起きた。
「嫌だ! 却下! 断固反対する」
「ちょっと!? まだ何も言ってないでしょ?」
むっとした表情を見せるマナに翼の先を突きつける。
「おまえがその気味の悪い声を出すときは、決まってろくな事がないんだよ。どうせ、悪いことでも考えてるんだろ」
「決めつけることないでしょ。それに気味の悪いって何よ。可愛い猫なで声でしょ?」
「猫なで声って何だよ。猫は食べるもんで撫でるものじゃないだろ」
「はぁ!? 猫を食べるとか何考えてるの!」
「人間の価値観を鴉の俺に押しつけるんじゃねー」
猫はごちそうだ。人間が食う豚や牛は俺たちにとって大きすぎる。
そんな感じでしばらくにらみ合っていたが、結局は、いつも通りマナが実力行使に出た。未だ、濡れそぼって飛べない俺をむんずと掴みあげる。
「体洗ったげるから、ちょっと付き合って。別に変なこと頼まないから。ただ、話を聞いて欲しいだけ」
「話? どうせ楽しい話じゃないんだろ。あー、待て待て、洗い場に行くんだよな? 屠殺場に行くわけじゃないよな? わかった、聞いてやる。聞いてやるから足を持って逆さに吊すのはやめてくれ」
結局、フライドチキンにされるのを待つ鶏のように運ばれていった。
洗い場と言っても湖のすぐ近くで、湯が沸く泉の隣に、大きく平らな岩があるだけの所だ。マナは丸い石を椅子にして座り、膝の上に俺を置いて泡まみれにし始めた。
石鹸が入らないように目を閉じ口を閉じ、なすがままにされる。
油脂の多い石鹸は俺たち鴉の好物なのだが、以前泡をパクパクやっていたら汚いからとマナに怒られた。その後、桃花にも怒られたのでそれ以降はやっていない。
左後ろの翼が持ち上げられ、翼の裏側を必要以上に優しい手つきで泡立てられた。
桃花にも洗ってもらったことがあるが、二人の洗い方はずいぶん違う。マナは丁寧な、洗うと言うより撫でるような手つきで洗う。時間が掛かる割に、洗い残しがあったり同じ所を二度洗ったりと効率は悪い。ただ、妙にくせになるマッサージ効果があった。
一方桃花は、手早く正確にぱぱっと洗い上げる。実に対照的だ。
どうしてこうも違うのかと、桃花に聞いてみたことがあった。桃花の答えは、子供を育てたことがあるかどうかだと思うわ、だった。
なるほど、俺は子供と同列の扱いと言うことか。
マナの手が俺の体を一周して、始めに洗った頭の上を撫で始めたところで、俺は声をかけた。
「それで?」
たしか洗うかわりに話を聞けという事だったと思うが、マナはここに座ってから一言も喋っていない。
「……うん、その。うん」
返事も実に歯切れが悪い。これはかなりの面倒事かもしれない。安請け合いしたことを後悔し始めたところで、マナはぽつりとこぼした。
「仕事するときさ、私、頭潰すじゃん?」
「あー。そうだな」
「あれ、いいのかな? って」
なるほど、それか。
実に面倒。
そうに見えて、全く面倒じゃない話だった。俺は安堵の混じる微妙なため息を付いた。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって。結構悩んでるんだけど?」
「悩む? なんで?」
「それは……その、良心が痛むっていうか、常識的にっていうか」
頭を撫でるマナの手が止まった。今度はマナが重たいため息を付く。
未だに人間の心を持っているマナは、たまに変なこだわりを見せる。ま、気持ちは分からないではないけどな。俺だって未だに鴉のつもりだし。
「だったら、やめればいいじゃねーか」
なにも強制されているわけではないんだから、止めたければ止めればいい。魂を狩るだけなら鎌を一振りすればいいことだ。
「やめるのも……その」
マナは言った。曖昧なニュアンスを含む、明確な拒否。まあ、そうだろうとは思った。
自分でどうにかなるのなら、そもそも悩む必要がないんだから。
ただ後押しが欲しかっただけ。自分の感情を認識するための。
だから俺は言った。
「だって、楽しいんだろ? 頭潰すの」
間。
「……うん。愉しぃ」
滴り落ちるような愉悦の声だった。
片目を開けて見上げると、マナの黒い瞳は煌々とした金色に変わっていた。白い肌で明滅を繰り返す雷の模様が、石けんの泡越しに見て取れる。
綺麗だった。複雑さや深みの全くない単純な綺麗さ。本人は気が付いてないんだろうけど、これもマナの魅力の一つだと思う。
俺はマナの膝の上で体を伸ばした。
「じゃあ、いいじゃねーかそれで。仕事はしっかりこなしてるんだし、俺達に迷惑もないしな。つか誰にも迷惑かけてなんかないし」
「うん。そうなんだけど」
「汝、己の欲することを為せ。だってよ。先輩の言うことは聞いておくべきだと思うぞ」
「そう、だね」
そうそう、どうせ人間に戻れたりはしないんだから好きなことをしたらいいさ。
にこにこと嬉しそうに微笑むマナが、ゆっくりと手桶を傾ける。熱すぎるぐらい熱い湯が降ってきて体がぶるりと震えた。それを不満だとも思わないし、尾羽を洗い忘れていることにも不満はなかった。
世はおしなべて事も無し。本人さえ納得出来れば問題など生じようがない。ここはそうゆう所なのだ。
俺は平和すぎるこの世に対して、一つ大きなあくびを噛ました。
*******
石けんで洗われることを前提としていない俺の翼は、乾燥して脂分が戻るまでに丸1日掛かった。湖の畔に放置されるのも困るので、マナに頼みマルクスの部屋に運んでもらっていた。
真っ暗な部屋で起き上がり、久しぶりに翼を広げる。
羽毛に空気をはらませると、バサリバサリと風を起こして体を慣らす。ふわりと浮き上がった俺は、自分の部屋へと通じる扉へと飛んだ。
ただの真っ暗な部屋。それが俺の部屋だった。
部屋の真ん中に、一つ白い物が置いてある。
それ以外に何もない部屋。
部屋の真ん中で、動くこともなく喋ることもなく、ただただ鎮座しているそれは人間の頭蓋骨だった。
正面から見れば、空いた眼窩に黒い瞳の幻影がはっきりと見える。鳶の色が混じった力強い黒は、今なお、俺を縛り付け悪魔で居させてくれる存在。
あの枯れゆく季節に、赤と黄色の落ち葉が舞う中で、俺はその黒に魅せられた。
あの時は電線と線路の距離があったが、今はこの距離で会える。思い出とはいえ褪せることのない鮮明な記憶は、向かい合うだけで喚起され、浮かび上がっては俺の心を満たしてくれるのだ。
これは人間の女だった物。
俺は生前の彼女のことをこれっぽっちも知らない。
彼女の命が散る少しの間、見つめ合っていたというだけだ。
彼女の名前すら知らないし、どんな性格だったのかも知らない。
人間の美醜の基準がわからないので、顔が美しかったかどうかも語れない。
それでも。
それでも、その綺麗な瞳は一瞬で俺を虜にしたのだ。
俺に『執着』という業を背負わせるぐらいの魔力で。
4枚の翼で包み込むように抱きしめる。それだけで、満たされる
他に望む物など考えられなかった。
人間は死んだ後で性格が変わるのだろうか?
彼女の死後の事は少しだけ詳しい。
彼女もまた業を背負い、『悪魔・浮遊霊』となっていた。
そして、半強制的に死に神という仕事を与えられ、黄泉で暮らしている。
悩みもあるらしいが、傍目には楽しそうにやっているように見える。
彼女はこっちへ来る時に自分の名前を忘れてしまったらしい。俺も知らないからもう誰も知りようがない。名前がないのは不便だからと、彼女の上司が便宜上の|仮り名を付けた。
本人は、それを本名だと思っているらしいのがちょっと笑える。
彼女の上司であるマルクスが付けた仮名は『マナ』。
いい名前かどうかはわからないが、活動的な彼女に似合う響きだと思った。
次話
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ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
魔の間のモノら 第3話(左)『求める者は断末魔にあらず』
体に付いた血を丁寧に洗い落とす。
手を鼻もとに近づけてみても、匂いが残っているかどうか確認出来なかった。もう嗅覚は血の匂いに麻痺しているらしい。
シャワールームを出てベッドに黒い筒を放る。今回の雇用主から渡された筒の中には、人の心臓が活きたまま入っていた。
悪魔も科学と共存する時代らしい。魔の呪が施された大型のランチボックスは、ハイブリッドの産物なのだという。
強めの香水を体に吹き付け、着てきたスーツに袖を通す。
クローゼットを開けると、備え付けの鏡には、青みを帯びる人外の瞳が映った。久しぶりの人を殺した感触に気持ちが高ぶっているらしい。慌てて目をこすり色を正す。まだ仕事は終わっていないのだ。人の目を集めて騒ぎになる訳にはいかない。
瞳を黒に戻せば、鏡に映るキャリーバッグを引いたスーツ姿の40男は、出張中のビジネスマンに見える。実際、2年前まではこうゆう格好で真っ当な仕事をしていたのだ。妻と二人、死ぬまでこんな生活を続けていくのだろうと思ったし、それでもいいと思っていた。
しかし、妻には内に秘めた思いがあった。
子供が欲しい。妻がぽつりと言ったのは、2年も前になる。
蜘蛛は子宝に恵まれる。子供を産むためには、どうしても黄泉での土地が必要になる。しかし、全てを捨てて現世に来た私は、黄泉に土地を持っていなかった。
黄泉で土地を得られる手段は限られる。私は昔の つて を頼った。
今までの生活にも、この一件にも後悔はない。
長い年月を経て、再び真っ赤に染めてしまった手の平を見つめながら思う。
子供を願う彼女の為だ。他に選択肢はなかった。
悪魔とは言え、現世で生きていくのは容易ではない。主食である命を得ることが、今の現世では難しいのだ。人間はもちろん、家畜や野生動物ですら、むやみに狩るわけには行かない。悪魔を目の敵にしている悪魔払いの人間や、天使共のセンサーに引っかかってしまい、行動が制限されるからだ。
そんな中で生まれたのが、会社と呼ばれる組織だった。腕の立つ悪魔達が徒党を組んで、目立たぬよう組織だった行動をする。需要と供給を読んで利益を上げる、人間の会社と同じシステムと言えよう。
私が古い友人経由で頼ったのも、そんな新興の会社の一つだった。
ある人物の心臓を活きたまま持ってくれば、黄泉の土地を用意する。『悪魔・臓器啜り』の私にとって、あつらえ向きの仕事だった。是非もなく飛びついた。
心臓を抜き取った相手は、大手流通会社の支店長という肩書きを持つ男で、私の雇用主の会社は、彼の心臓を使い傀儡の人形を作り上げるつもりだと言っていた。
男から心臓を奪うことは簡単でも、相手に近づくことは容易ではなかった。相手の地位がなにかと邪魔をするのだ。もっとも、そうゆう相手の心臓だからこそ需要もあるのだろうが。
手こずる私に妻は言った。私が代わろうか、と。確かに『悪魔・女郎蜘蛛』の彼女が淫魔の力を使えば、事は簡単に運んだかも知れない。しかし、夫婦になった手前、彼女に体を使えとは言えなかった。
とにかく、時間は掛かってしまったものの、こうして心臓を奪うことが出来た。
この仕事が終わったら、二人で黄泉へと下ろうと思う。そこではお互い偽りの人の姿でいる必要は無くなるし、子供も好きなだけ産ませてやれるだろう。
ならば、最後まで気を抜いてはいけない。鏡に映る自分に言い聞かせた。
円筒型の臓器入れをキャリーバッグの底に入れる。
部屋の電気を消してドアを開けると、部屋に籠もっていた空気が廊下に引き出された。微かに混じる血の臭いが、私の本能をそそのかす。
逃げるように、慌ててドアを閉めた。
フロントの自動ドアから午前3時の町に出る。
午前2時にホテルを訪れて、1時間程でホテルを後にするスーツ姿の男をホテルマンはどう思っただろうか。軽く一礼するフロントの男の目は、間違いなく私の顔を覚えにきていた。
どうせ、この顔は今日までなのだ。気にする必要も無い。
月明かりもない町で更に暗い方へと向かう。過疎の進むこの町では街灯すらまばらで、点々と灯る明かりから外れれば、悪魔の夜目を利かせないと前が見えにくい程に暗い。
ここまでの移動に使った車は少し離れた場所に停めてあった。日常生活で電車を使う私は、車を持っていない。そのため、今日乗ってきた車は、事情を知らない人間の友人に嘘を付いて借りた物。
ナンバーを覚えられると迷惑が掛かるだろうと、ホテルから距離を取ってカメラの無さそうな有料の駐車場に停めてあった。
車にさえ乗ってしまえば、誰かに見咎められることもないだろう。そうなれば、もう取引の履行まではすぐだ。逆に車に戻るまでは、気を張っておかなければならない。
ゆっくり歩いても20分の距離。私は少し足を速めた。
暗い街の中、明かりが灯っている場所は限られる。
その一つ、ホテル近くのコンビニエンスストアには、夜にあっても客の姿が見えた。
だが、駐車場を照らす常夜灯の明かりを避けるように角を曲がれば、そこは静まりかえった住宅街だ。こんな時間には音を立てる者もなく、2メートルを超える高いブロック塀や緑の垣根が、静粛な夜を演出している。
暗がりに安心を感じるのは自分が悪魔だからだろうか。目を射貫くような眩しい光源を求める人間の理想は、私のような者にとって毒にしかならない。
月明かりもない。星明かりもない。
皆が寝静まり、夜行性の者達も息を潜めるような夜。
思い返せば、少し趣が違うものの、妻と出会った夜も実に静かな夜だった。
*******
何十年も昔になる。
時代の流れに身を任せていたら、こんな島国に着いてしまった。
言葉こそ悪魔が生まれつき持っている翻訳能力のおかげで問題無かったものの、土地勘もなく知り合いもいないこの国で、私は早々に挫折しかけていた。社会に馴染めないというのは、ある意味お金がないことより生きにくいらしい。
職を見つけられず、住む土地も探せずに、私は持て余した暇を歩き回る事で潰していた。そんな折り、ある地で不可思議な力が満ちているという霊峰の話を小耳に挟んだ。その山は神々の住まう山なのだという。
今時神でもないだろう。いるのなら是非とも拝見したいものだ。そんな擦れた気持ちでその山に分け入った。
立て看板が迷いやすいという警告を掲げていたが、所詮私は人間ではない。何日迷おうが、死ぬこともなく食べ物に困ることもない。むしろ、居心地が良さそうなら、下界に戻らずこの山に引き籠もるのもいいかもしれない。鬱気味な心は、投げやりにそんな事を考えさせる。
昼が過ぎ、夕が過ぎ、月が南に上る頃。
しなって垂れ下がる枝を払い、腰まで伸びる下草を踏み分け、足下が上っているのか下がっているのかわからない程の奥まで入り込んだ時、夜風に紛れすすり泣くような声が聞こえてきた。
ギチ、ギチ。ギチ。
まだ姿を見ていないのに、この声の主は ぽつぽつ と涙を流しながら泣いているのだと知れた。
声を頼りに夜の山を進んでゆく。と、密に生える木々の向こうに悠然たる松の大木がかいまみえた。
泣いているのはあの松だろうか。そんな夢物語を思わせる風情。
抱えるのに10人は必要なぐらい太くなった幹は、ねじれ曲り、枝がうねる竜のように四方へ伸びる。
周囲は、大木の威風に恐れを成したかのように不自然なくらい開けていた。
木々を抜け、更に近づこうとしたときだ。不意に何もない空間で私の体は何かに絡め取られた。
動けなくなってから初めてその糸に気が付く。
松から伸びる蜘蛛の糸が、辺り一体を縦横に走っていた。からめ取られたにも関わらず、私はその細くしなやかな銀糸に見とれていた。不規則という規則正しさに張られた糸はあまりに美しく、月光を得て輝く様は幾重にも分かれる幽玄の滝を思わせた。
ギチ、ギチ。ギチ。
ただ、その泣き声はいただけない。
あまりに寂しすぎる。
「泣かぬのかえ」
正面から掛けられた女の声に顔を上げる。そこには人の身より大きな蜘蛛が松の枝から逆さまに、背をこちらに向けて下がっていた。足を含めると幅は7メートルを優に超え、黄色に黒や赤の混じる独特の模様を背中に背負っている。
その模様がうねるようにへんげした。
蜘蛛の背中に、この国古来の、白化粧をした女の顔が表れる。
「泣かぬのかえ」
女の顔が聞いてきた。
「先ほどから泣いているのは貴女でしょう?」
そう問い返すと、蜘蛛の妖魔はギチギチと鳴いた。
「わらわは泣いてなどおらぬ。泣くのはそなたよ」
ゆっくりと地面に降り立った蜘蛛は、そろりと私に近づいてきた。
「わらわが怖くはないのかえ。すぐにでも喰らわれるというに」
怖いとは思えなかった。それは私が悪魔だからではなく、巨大な蜘蛛の姿を美しく思ったからだ。
微動だにしない私を恐怖に竦んだと見たのか、あざ笑うような笑みを浮かべて近づいてくる。
しかし、手の触れられる所までくると、長い8本の足をぴたりと止めた。
そして、こちらを見据えながら器用に後ろに下がっていく。
「あや、お許しを。知らぬ事とは申せ、あやかしの御方を掛けてしまうとは、とんだ粗相をしてしもうた。ひらに、ひらに」
黄色く細い足が、糸の一本を引く。それだけで私にまとわりついていた糸の拘束が解けた。
音もなくするりするりと下がる蜘蛛に声を掛ける。
「私を食べないのか?」
蜘蛛は、ズルズルと腹部を地面に摺らせながら反転し、言った。
「わらわにはもう、そなたのようなモノを食べるだけの力はない」
力のない妖魔には到底見えなかった。悪魔である私より余程強い力を持っているのではないかとさえ思える。
「若くはないゆえ、な」
心を読んだかのように、答えが返ってきた。
「そなたがどこからいらしたかは存じませぬが、ここいらは迷いやすく、浅い見識しか持たぬ小さきモノも多い。詰まらぬ諍いに巻き込まれとうないのなら、早々に下山するがよろしかろう」
そう言い残して去ろうとする蜘蛛を引き留める。
「待ってくれないか。もう少し話をさせてくれ」
世を捨てようかと迷っている時に出会った妖艶な蜘蛛。黄泉から来た私ですら、幻かと思えるひととき。
この時点で、すでに私は蜘蛛を、彼女を好きになっていた。
このまま別れてしまえば、きっともう会うことはないのだろうという焦りに声が大きくなる。
「私は貴女に興味がある。このような美しい糸を紡ぎ出せる妖魔を私は知らないし、貴女のように誘い招く優美な花のような体を私は知らない。私は貴女が好きになった。少し、少しだけでいい。話がしたい」
見返る蜘蛛の黒曜石のような目は、寒々としていて……寂しそうに見える。
「戯れよの」
突如、地面から黒い霧が吹き出てきた。大きな蜘蛛の姿が、霞み消えてゆく。
「ま、待ってくれ。まだ別れたくはないんだ」
叫んだが、松の根本から吹き上がる霧は一向に止まず、ついに私をも包み始めた。
追いかけることはできなかった。霧の向こうから彼女の視線だけは感じるからだ。その視線は追われることを嫌っている。
側に行くことが許されないのなら、せめて声だけでも。私は声を上げた。
「この山に入り込んだとき、私はこの世界に望みがなくなっていた」
伸ばした手の先すら見えない濃い霧の中で声を張る。
「私はこの国のモノではない。海の遠く、海外からこの国に来た。この国が盛況と聞いてきた。しかし、それは過ぎ去った昨日の話だった。国の勢いは失し、右も左も知らない外来の者に務まる仕事など無かった。いろんな物を捨ててここまで来た身としては、もう戻る国もない。人として生きることを諦め、悪魔の身で暮らそうとこの山深くまで来た」
重なっていたはずの視線を感じなくなっていた。逃げられてしまっただろうか?
「そんな中で貴女と出会ったのだ。たしかに瞬きのような時間しか会っていないし、言葉も交わしたと言うほどでもない。しかし、この国には一目惚れという言葉があると聞いた。この気持ちは正にそれだろう。貴女となら日々変わりのない山の暮らしも楽しいものになると思う。私の名はカブラ・デザイオ。蜘蛛の姫よ、話がしたい。もう一度姿を見せてはくれないか」
最近、恋文を書く機会もなかったので、巧い言葉になっているのか自信がないが、それでも渾身ではあったと思う。
立ち尽くしたままで黒い霧が晴れるのを待った。
30分は経っただろうか。散り始めた霧の隙間から月の明かりが差し込んで、松の大木がはっきりと見えるようになった。しかし、蜘蛛の糸は一本も見えず、無論、蜘蛛の姿は影すらなくなっていた。
夢、だったのだろうか。松の老木が見せた一霧の夢だったのだろうか。確かにそう言われた方がしっくりとくる。
さっきまで鬱々と落ち込んでいた心も少しは晴れた気がした。
生きにくい世界の中でも、もう少しだけ頑張ってみようか。そんな思いで振り返ると、目の前に妙齢の女性が立っていた。直感でさっきの蜘蛛なのだと気が付いた。
嬉しいとか、喜ぶとか、考える暇はなかった。反射的に駆け寄り抱きしめる。
歳は30手前。民族衣装だろう、この国らしい濃い色の衣服を何重にも身に纏っていた。結い上げられた長く艶のある黒髪と、ふっくらとした顔。僅かに下がった眦にあるほくろが印象的な美人だった。
「十分に若いではないか」
全く嘆くような歳には見えなかった。しかし、彼女は首を振った。
「よい、よい。そのように慰めずとも。わらわの変化はこれで精一杯よ。とうが立っていることは理解しておる」
「そんな事は無いだろう? 十分若いと思う」
この歳で悲観する程老いているなどとは聞いたことがない。なんとかわかってもらおうと真剣に語りかけた。
「そうなのかえ。その昔は、13,4の娘が囃されたもの」
いつの頃の話だろうか。平均寿命が短い時代はそうだったかもしれないが、その時代というと、もう何百年も前のはずだ。
「わらわが若い頃は、各地の國が競うように真白の城を建てていたものよ」
女郎の蜘蛛はそう言った。
舞を舞わせてくれまいか。
私は地べたに座り、ひらりひらりと舞い踊る彼女を眺めていた。どうゆう舞なのかもわからなかったし、静かな声で詠う抑揚の強い言葉を正確に理解することは出来なかったが、それでも十分に魅せられた。
恋の歌か郷の詩か。それでも私のために舞ってくれていることだけはわかる。
緋の衣が揺れて黒い髪がなびき、彼女の指先から銀の糸が吹き昇る。
次第に地面は銀糸で埋まり、また、松に掛かった糸が地面の糸とを結び上げて空を隠していった。
無尽に張られた糸は巨大な繭を形作り、私たちを外界から隔離する。二人が月の眼差しから隠れると、そこは彼女の独壇場。踊る足の運びは鋭さを増し、指先が柔らかく流れて袖口の香を運ぶ。押しては引いていた秋波が駆け引きを捨て、ただただ視線の重なりを求め始めた。
私たちは誰に憚ることなく見つめるだけの逢瀬を重ねた。
舞を終えると、彼女は私の元へと寄ってきて、座る私の肩を押さえて見下ろした。深い所を覗き込むように問いかける。
「わらわが怖くはないのかえ。すぐに食しきれぬとは申せ、時間を掛けるのならば骨の欠片も残さぬようにもできよう」
今の舞を見せておいてその質問は少し卑怯だろうとは思ったが、私は微笑んで答えた。
「それでも構わない。さっきまでは本当に世を捨てようかと思っていたんだ。あなたの血肉になるのならそれもいいかもしれない」
「ほ。それでは少し惜しいよの」
彼女が腰の帯に手を掛けた。
華奢な手を引いて繻子にも負けない銀糸の地面に、汗の引いていない彼女の体を寝かせる。真上から目を覗き込んで、気になっていたことを聞いた。
「どうして、泣いていたんだい?」
彼女が視線を外した。
「山裾の明かりを見ておったのよ」
しばらく押し黙った後、彼女は言った。
「かように深い山の際まで、炎より赤々とした明かりが灯る。真の暗がりなど、どこにものうなってしもうた。もう、わらわの様な影に住まうもの達が生きる時代ではのうなったのだなと。たわいもない事を思うておったのよ」
私が生まれた頃には、電気が世の中に普及していた。明るい所を『嫌だ』と思うだけの私では、きっと持ち得ることのできない感情なのかもしれない。
「これでも若い時分は方々の呪い師から求められておうた。誰彼を殺めて欲しい、誰と彼の関係を絶って欲しい、主の御心を惹いて欲しいと。わらわの住む山は陰陽を修めたと豪語する殿方で賑おうておった」
彼女の言う昔が、まだ鉄器を振るっていた時代というなら、それも納得出来る。ここらの国では当時、呪いが最盛期だったとどこかで聞いたことがあった。
どの呪いにおいても力を持った妖魔は重宝される。昔は私の国でも、年を経て朽ちた妖魔のミイラの粉を、呪い師が法外な値段で買い取っていたと聞く。
「その時代も爆ぜる粉が天下を取るまでの事」
火薬、か。
「もう影に住まう者達の価値はのうなってしもうた。人に求められることない。時代に受け入れられることもない。山海にすら見限られ、風が骸を散らすだけよ。それでもの、それでもわらわは生きていとうと願う。誰に求められることも無くのうても、自らで命を絶つことは出来なかったのよ。情けのう」
たわいもない理由よの。そう言った彼女の閉じられた瞼から、ひとしずく涙が溢れていった。
「私が必要としよう」
私の言葉に、涙の残る瞼が開いた。
「生きている限り、私が貴女のことを必要としよう。約束する。貴女が必要とする限り、私はあなたを求め続けよう」
開いたままの瞳から途切れることのない涙が流れる。それでも閉じようとはせずに見返す視線を、とても愛おしく思った。
「私は貴女に比べると、だいぶ若いのだろう。きっと私の方が長く生きる。それでも付いてきてくれるか?」
「仰せのままに」
彼女が初めて、望んで私に触れた。
求め合った後、そう言えば名前を聞いていなかったと気が付いた。
「名、とな。もう忘れてしもうた。そなたの呼びやすいように呼ばわるとよい」
「いや、しかし……」
「よい、よい。もうわらわはそなたの物よ。好きに名を付けるとよい。初めて好いたおなごの名など、どうか」
からかい、少し笑った後、彼女は体を入れ替えた。
「そなたの夢は砂糖菓子のように甘いよの。若かりし頃を思い出す。ならば今度はわらわの夢を見せて進ぜよう」
私の鎖骨を一つ舐めた後、彼女はそこにカリリと歯を立てた。
そこから何かを流し込まれたのだと気が付いた瞬間、血が沸いたのではないかというほど体が熱く火照り始めた。
心臓の高鳴りは、破裂するのではないかと危機感を覚えるほどに激しい。
視界が極彩色に染まって実像を結ばなくなり、鼓膜には高く低く様々な声が幻聴として響いた。
花の香りと毒の香りが入り交じる中、彼女の顔が近づいてきた。
重なった唇から甘い液体が口移しで流し込まれる。私は本能に従い、その甘い蜜をむさぼるようにして飲んだ。
「ほ、ほ。そなたは毒に耐性がないよのう。薄めてみたが、いかがか」
「…………だいぶ。落ち着いたと思う」
口移しで飲まされたのは中和液だろうか。
それでもまだ、視界には様々な色がちらつき、鳥が奏でるような幻聴も聞こえていた。なにより体の中を渦巻く熱いどろどろとした何かが、行き場を求めてつま先から頭までを巡っている。それを理性で押さえ込むのに、全神経を使わなければならなかった。
「これは?」
「蟲毒よ。蜘蛛の毒よ。夢は甘いだけでは飽きる故。少しばかり興を凝らしてみようとな」
目を閉じた。少しばかり? このままでは理性が持たない。そうなれば自分でもどうなるかわからない。
荒い息を吐いて目を開ける。
そこに女性の姿はなく、1匹の艶めかしい蜘蛛が私に覆い被さっていた。
急いで目を閉じた。この状況で黄色と黒の肢体は淫靡に過ぎる。
「すまないがさっきの液を――」
蜘蛛のつるりと尖った足が、私の胸を撫でていった。
驚いた拍子に左の膝が跳ね上がり、蜘蛛のふくれあがった腹部をずぶりと突いた。しまった、と膝を伸ばそうとする反面、異様な腹の柔らかさは、抗いがたいほどの心地よさで膝を包み込む。
引くに引けず、身動きの取れなくなった私を眺め、彼女は愉しそうにギチギチと鳴いた。ゆっくりと蜘蛛の体が沈む。
「初心よ。初心よの。まるで男(お)の子よの」
反論しようと上げた頭は、足の先で押さえられた。
あらわになった喉元に、彼女が顔を埋める。
牙が深く入った。
覚えているのはここまでだった。
夜はまだ長い。
そんなことを繰り返し囁かれたので、まだ夜は明けていないのだと思ったが、何のことはなく銀の繭の中に陽が差さなかっただけで、時間はしっかりと一昼夜過ぎていた。
「蜘蛛の姿は陽に弱い」
そう言った彼女は娘の姿にへんげして、繭の糸一本を爪弾く。すると、分厚く張られていた繭が一瞬で解けた。降り注いできた糸を掻き分け、私は久しぶりに陽の光を浴びる。
私の体にまたがり、彼女はゆっくりと腹を撫でていた。その脇腹に何カ所か咬み痕を見つけ、申し訳ない気持ちになった。赤く腫れたそこに手を伸ばす。
「意識が飛んでいたとは言え、すまない。痛かっただろ?」
私の本性は『悪魔・臓器啜り』。
蟲毒で意識が飛び無意識で動いていた間、私はへんげを解いて欲のままに腹を食い千切ろうとしたのだろう。大事には至らなかったようだが、一つ間違えていたら今頃彼女の屍体を啜っていたかもしれない。
「構わぬよ。そなたの牙では私の腹を裂くことは出来ぬ。気にするでない。しかし、そなたの本性はほんに可愛い姿よの」
それは……。確かに私の悪魔の姿は小さいが、面と向かって言われると何だか傷つく。
むっとした表情を作る私を宥めるように微笑んだ後、彼女の視線は腹へと向かった。
「よもや、この歳で仔を作ろうとは、の」
愛おしそうに未来を想うその姿を、こちらも幸せな気分で見上げていたのだが、彼女は重大な勘違いをしているらしいと悟って慌てた。
非常に言いにくいが、さすがに言わなければならないだろう。
「その……松の姫」
「松姫、とな。ほ、ほ。もったいない響きよ」
喜んでくれたのはいいが、本題はそこではない。
「松の姫、その、私は悪魔なのだ。悪魔は、人や妖魔とは違う。だから仔の作り方も異なる。これとは違う血の契約が必要になるんだ」
彼女は何を言われたのかわからない様子で、ぽかんとした目を向けてきた。
「その、言いにくいが……これで仔は出来ない」
言葉もなく黙って私を見ていた彼女は、やがて辺りに落ちている銀糸を一束手に掬い取り、赤くなった顔を隠した。
「そのような事、知っておったに決まっておろう。この、たわけ」
*******
思い出し笑いは、どこの国でもいい顔はされない。
目を瞑り、首を振る。
まだ夢に浸るのは早い。この仕事が失敗すれば夢は水泡に帰す。そう自分に言い聞かせて、気を引き締めた。
もう少し。もう3つ先の曲がり角を曲がっていけば、車を停めている駐車場に着く。そこまで行けば、仕事は終わったも同然だ。
T字路の街灯の明かりに入り込んだ時だった。明かりの輪から外れた向こう側に、何かの姿が見えて、私の足は止まった。
夜目をこらすと地面に黒い何かがいるのが見て取れる。
鳥。
カラス、か?
いや、それにしては大き過ぎる。普通のカラスの倍はあるだろう。しかし、大きさの違和感を除けばカラスに違いなかった。
妖魔の類いだろうか。
普通のカラスでさえ、相手の死期を悟るといわれる。妖魔の鴉であれば、血の一滴はおろか、匂いさえ外には漏れない筒の中に入った心臓さえも、察知できるのかもしれない。
妖魔ごときに邪魔をされて人を集めるのは得策ではない。遠回りしようと高い塀で囲まれたT字路を右折した直後、目の前に足がぶら下がってきて、今度こそ、声を上げ跳びすさった。
懐からナイフを取り出して誰何する。
「だ、誰だ!」
巻きくつようなサンダルを履いた足。
ホットパンツとキャミソールを身につけた、まだ二十歳前の娘が2メートル近い塀の上に腰を掛けていた。
「ねぇ、おじさん。私と遊ばない?」
午前3時半、日の出前の閑静な住宅街。そんな人通りのない道で若い娘が売春をするほど異様な光景もないだろう。
じりじりと距離をとる私にかまわず、彼女は塀から飛び降りて声をかけてくる。
「おじさんお金持ってそうだね。好きなサービス聞いたげるからさ、恵んでくんないかな?」
腰を低くしてナイフを取り出す。この状況で彼女をただの人間と思うほど、ぬるい生き方はしてきていない。
警戒を解かない私の姿を見て、娘は肩をすくめた。
「全然ダメじゃん。せんぱーい、桃花せんぱーい?」
彼女が声をかけたのは私が歩いてきた背後の道。その方向からヒールの音がして、思わず振り返った。
髪の長い女性が歩いてくる。正面の娘よりやや年上のような雰囲気ではあるが、こちらもまだ若い。背後から来たということは、恐らく後を付けられていたのだろう。
そうすると、あのカラスも仲間か。知らない内に三方向から追い詰められていたらしい。
「先輩、話が違うじゃ無いですか。私が誘えば絶対に油断するから、その隙に後ろから襲うって話だったはずですけど、油断の欠片すらないじゃないですか。だから言ったんですよ、この作戦は無理だって」
「この作戦は王道よ? これでうまく行かないって事は……マナの魅力が落ちたんじゃないかしら?」
「うっわ、そんなこと言います? むしろ桃花先輩がそのでっかいの揺らして近づいた方がよかったんじゃないですかねー!?」
この女性たちが誰なのか、私は判断できないでいた。人の命を奪ったこのタイミングを考えれば天使の可能性が高い。しかし、天使にせよ悪魔払いにせよ、このような緊張感の無い者達ではない。
攻めるにしても守るにしても、相手の素性がわからないうちは作戦を立てにくい。この雰囲気が罠なのか油断なのかすらわかってはいないのだから。
私はブロック塀に背を預けながら、彼女らの様子をうかがっていた。
世間話のような会話はまだ続いている。
「てか、ガー助。あの変態はどうしたのよ。そこに立っているのはマルクスのはずでしょ? どうしてガー助が1羽でつっ立ってるのよ」
「だから、外でガー助と呼ぶなっての」
カラスが4枚の羽を羽ばたかせながら抗議した。
喋る異形のカラス。やはりこのカラスも普通ではなかった。
「俺が立ってる理由? あー説明が面倒だ。桃花に聞いてくれ」
「先輩?」
「うーん……。私とマルクスとガーちゃんは飛べるでしょ? だから、近くの世繋ぎ門を通ったらすぐに3人でこの辺りに飛んできたの」
世繋ぎ門? と言うことは天使か。いや、しかし……。
「はいはい、どうせ私は羽が小さくて飛べませんよー。一人で電車とバスを乗り継いでここまで来ましたー。2時間は掛かりましたー」
「マナの羽は可愛いわよ? それで、マナはまだ来ないって話だったから、部屋を取ってマルクスと二人で寝てたのよ」
「…………で?」
「疲れちゃったみたいでまだ寝てるわ」
「桃花先輩って彼女としては最高かも知れませんけど、先輩としては最低ですよねー」
私はこれらを油断と読んだ。
しかし、やはり彼女らの正体が分からないと、次の手が打てない。
「おまえたちは、何者だ?」
三方向に睨みを利かせながら聞いた。
「あ、言ってなかった。私たちはこうゆうものでーす」
女性二人を、夜より濃い闇が覆った。二人の姿を隠した後、瞬く間に闇は霧散したが、その中から現れた彼女らの容姿は一変していた。
正面の十代の娘は黒だった髪の色がブロンドに変わり、腰の後ろから長い悪魔の尻尾が伸びて、地面を這っている。
一方、右手の髪の長い女性は、頭の横から生えた角が天に向かって曲がり伸びて、背中には自身の身長ほどもある大きなコウモリの羽がついている。背中まで伸びた黒い髪は、先端に行くにつれ徐々に緑へと色を変えていた。
どちらの服装も露出の高いボンテージ風に変化し、体に浮き出るタトゥーのような悪魔の文様もはっきりと見て取れた。
私は大人しくナイフを懐に戻した。気を張っていたのがばかばかしい。
「同族が邪魔をしないでくれ。私は忙しい。用事なら後にしてほしい」
とんだ無駄な時間。
立ち去ろうとするが、角の生えた女性に引き留められる。
「あ、待ってくれませんか? 確かに私たちは悪魔ですけど・・・・・・」
女性の手からじわりと闇が吹き出る。
「こうゆう悪魔なんです」
質量を持った闇は大きな鎌を形作った。
柄の長さは背丈を超え、湾曲した刃は柄の半分ほどもある大鎌。普通に振り回すには歪すぎるその形は、ある仕事に就いた悪魔の代名詞ともなっていた。通称デスサイズ。
「死に神の、鎌」
「そうそう、私たち死に神さんなの。だから、大人しく狩られてね?」
そう言ったしっぽのある女性の方も、同じような鎌を召還していた。
死に神。
正直、天使より面倒な連中だった。悪魔は老いるのが極端に遅く、老化による寿命もなければ病気になることもない。ただ、生まれた時に決められた寿命がくれば何の前触れもなく死に神がやってきて、いきなり命を狩られる。
どうやら私は、よりにもよってこのタイミングで寿命を迎えたらしい。
もちろん大人しく魂を渡す気などない。松の姫が帰りを待っているのだ。とても死ねたものではない。
キャリーバッグを開けて、心臓の入った筒を取り出す。
「私が寿命? 何かの間違いだろう」
そう言うと、角を持つ女性がノートのような物を広げて告げる。
「残念ですけど、間違いじゃないと思うわ。カブラ・デザイオ。黄泉ランシス王朝生まれの239歳。見た目はダンディーなおじさまだけど、その実は『悪魔・臓器啜り』。違うかしら」
違わない。
そもそも死に神が相手を間違えるなどと言うことはないのだ。
2体+1匹の悪魔を相手にするのは無理がある。ここはカラスを飛び越えて逃げるしかない。
「じゃあ、ぱぱっと狩りますか。大丈夫、痛くなんて――」
相手の台詞を待たずに動く。
濃密な闇が私の体から吹き出した。一瞬で人型のへんげを解いて本性を露わにする。
身長は人型の時の約半分ほど、鋭い牙と長い爪、大きな翼を持ち、体毛のない緑色の体は想像上の宇宙人を思わせる。『悪魔・臓器啜り』の姿だ。
1メートルを超える大きさの翼を駆使すれば、空中戦で人型の悪魔に後れをとることなどない。
カラスをめがけて走る。カラスが大きく息を吸い込んで胸を張った。呼気による衝撃波か何かだろうが、遅い。不要になったキャリーケースを投げつける。
逃げ損ねてキャリーケースと一緒に転がるカラスを後目に、ひとっ飛びで空へと飛び上がった。距離を取って反転、二人と一羽がまだ地面にいるのが見える。
追ってこないのか? 死に神は一種の職業だ。簡単に諦めるような者達ではないと思っていたが。
しっぽのある悪魔が、鎌を後ろに引いた。
まさか、それを投げるつもりなのか? 柄が刃渡り以上ある鎌を投げて、物を斬れるとは思えない。もし、そうする気ならば愚かな話だ。
鎌が揮われるのが見えた。しかし、案の定投げる事無く、鎌の柄は握られたままだった。どうやら諦めたらしい。
(このまま逃げ切れるだろう)
心臓の受け渡し期限は今月中で、まだ10日ほどある。どこかに身を潜めて、彼女らをやり過ごそう。そんなことを考えながら身を翻した私の耳に、風切り音が聞こえてきた。
ヒュンヒュンと音を立て、何かが暗い空を飛んでいる。
はっとして振り返るが何もいない。だた、何かが回転しながら飛んでいる音は聞こえてくる。
左から聞こえる。いや、右、上、斜め下、下。それは素早く位置を変えながら近づいてきているらしい。しかし、目に見えることはない。
視界に違和感。爪を構えてしばらく目を凝らす。
違和感の正体は遠くに見える悪魔が握った鎌の形にだった。よく見ると、振り切った格好のまま持っている鎌には刃が付いていない。
背中を心地の悪い汗が滴る。
まさか、今空を飛んでいるのは鎌の刃の部分とでも言うのか。彼我の距離、約200メートル程。この距離でもはっきりと彼女の視線を感じる。
鎌の刃が視界に入らない。それが追尾型だとすれば躱しようがない。見えないものを躱す技術など、私には無い。
一刻も早くこの場から離れなければ。不気味な音に急かされるように反転し、力を込めて思いっきり羽ばたく。
刹那、ヒュンと右から左へ風が抜けていく感覚がした。
風を掻く翼。
翼とつながっている私の胴体は力強く空を飛んだ。
上半身とつながっていない下半身は地面へと落下していった。
バサ、バサ。
2度羽ばたいた私は、はらわたをぶら下げたまま地面へと落下していった。
頭への衝撃で目が覚める。
目を開けると、仰向けに寝転がる私の頭の左右に二人の悪魔が立っていた。しっぽの生えた悪魔が私の額に足を乗せていたから、恐らく蹴られたのだろう。
半身を失った私の体はすでに感覚を無くしていた。心臓と頭さえ動いていれば生きていられるが、見た目にはもう死にかけていると言っても差し支えないだろう。
「あ、目が覚めた。ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
額から足がどけられる。
「あなたが奪った心臓って一人分だけ?」
なぜ殺されなかったのか。その疑問が解けた。尋問する気らしい。
口を開こうとして、わき上がってくる血にむせる。その衝動を押さえ込んでから、私は口を開いた。
「そうだ。その一つだけだ」
「ふ~ん。この心臓をどこに持って行こうとしたの?」
私の右に立つのが角の生えた悪魔。
左に立つのが、今喋っているしっぽの生えた悪魔。
尻尾の悪魔の方が経験が浅そうだ。彼女の下腹部から手を突き入れ、心臓を握れれば形勢を一気に逆転できる。
「それは、取引を、している、悪魔――」
取引の説明の最中で、反動を付けて一気に体を左にひねる。目一杯の力を込めて右腕を突き出した。
|一縷《いちる》の望みに掛けた。
しかし、伸ばした腕は体に触れる直前で掴まれた。
「すけべ」
大鎌がくるりと繰られ、右腕が根元から刈り取られる。
すでに痛みはなく、血も出ないが、言葉に出来ない喪失感を味わった。5体のうち残ったのは頭と左腕だけ。
私は再び空を仰いだ。
だめだ! こんなところで死ねない。松姫も待っているのだ。
「Damn! My Demon!! わかった、降参だ。取引をしよう」
私は反撃を諦めた。
「そちらが望む物を用意しよう。こんな体だから履行には時間が掛かるが、取引は必ず守る。代わりに命は見逃してくれ」
命の価値は個それぞれで違うのだが、私の命ならばそれほど重くはないだろう。限定を付けない望む物が、見逃して貰う為の対価であれば、条件のいい取引だろうと思う。
角の生えた悪魔は肩をすくめて同僚を見やった。決定権は若いしっぽの悪魔の方にあるのだろうか? 対してしっぽの悪魔は考えるようなそぶり。
「形のあるものなら何でもいい。とりあえず言ってみてくれ」
彼女が腕を組んでうーんと唸る。
「う~ん。私最近はまってる物があって。『音』なんだけど」
音? オルゴールか何かだろうか。楽器程度ならアンティークだろうが、最新式の物だろうが、盗ってこられるだろう。
そんなことを考えていたのだが、彼女はなぜか右の靴を脱ぎだした。
「えっと、音っていっても、こう丸くて堅い物が弾けるような音なの」
裸足の足が私の頭を踏みつけた。
その音が何を意味するのかを悟って、わたしは大きくため息を付いて見せた。
「いや……それは。いくら私でも頭を潰されれば生きてはいない。それでは取引ができないよ」
笑って見せたのだが、彼女の黒い瞳が徐々に金色に変わっていくを見て、自分の顔がひきつっていくのがわかった。
金色の目に見下されて、私は焦った。
「まさか、本気で言っているのか?」
「だって、それが仕事だし」
「待ってくれ! なにも真面目に仕事をやることはないだろう? 上司に私の命を狩ったと報告するだけで、好きな物が手にはいるんだぞ? 条件はいいはずだ」
その目を見る限り、私の言葉を彼女は聞いていなかった。足に体重がかかる。
本気なのか? ただ頭蓋を踏みつぶす音を聞きたいがために取引を受けないというのか? 死に神は取引次第で何とかなるというのが常で、それで死に神から逃げ切った知り合いの悪魔もいる。取引が通じないはずはない。
慌てて、角のある悪魔の方にも取引を持ちかける。
「なあ、悪い条件ではないはずだ。時間は掛かるかも知れないが、望む物を用意する。君なら何度かやってきたんじゃないか? 君からも早まらないように言ってくれ」
「えっと。私はしたことがあるんですけど、マナはまだ取引をしたことが無くて。仕事だからと言われれば、それまでですから。私もマナから嫌われたくないんですよね」
だめだ。この悪魔は意志が弱いらしい。やはりしっぽの悪魔を落とさなければならないか。
「君は取引をしたことがないのか。なら、軽率な事はしないで私の話を聞いてくれ。いいかい? 悪魔は取引をする生き物だ。何にでも取引がついてまわる。だからいかに上手な取引をできるかが、悪魔の腕を測る材料になる。自分で言うのも何だが、この取引はかなり条件がいい方だ。最初は緊張するかも知れないが、皆通ってきた道だ。幸い君には勝手を知った同僚がいる。彼女に聞きながらやれば問題はない。さあ、悪魔らしく取引をしよう」
しかし、誘いに対する彼女の答えは簡素な物だった。
「話、もういいかな?」
「ちゃんと話を! いや、失礼。……落ち着いて、話を聞いてくれないか?」
冷や汗が背中を流れる。話が通じないとは思わなかった。
もしかしたら、悪魔になって日が浅いのかも知れない。人型の悪魔はその大半が人間から悪魔になっている。まだ、悪魔に成りきれてなく、取引に抵抗があるのかも知れない。それならば、手を変えなければならないだろう。
他の、手段。
物欲で動かないのであれば、情に訴えるしかない、か。
「私には妻がいる」
女性に、いや、人間じみた女性の悪魔にならば伝わるのではないか。そんな期待を込めて語った。
「名前は松乃姫。数十年前この国に来てから知り合った古参の蜘蛛の妖魔だ。彼女は長い年月を孤独に耐えて生きながらえてきた。一目惚れした私は彼女を心から幸せにすると誓った。今、私も彼女も人間として生きていてそれなりに満足した生活を送っているが、彼女にはずっと叶えたい望みがあったんだ。仔が欲しいという望み。彼女の最後の仔が巣立ってから、もう随分になるらしい。私はその望みを叶えてあげたいんだ。蜘蛛の仔は多いからこの世界で生むわけにはいかない。だから、その心臓を渡す対価に黄泉に空間を買う取引をしている。黄泉でなら、精一杯生ませてあげられるだろう。だから、頼む。子供ができるまででいい。それまで命を刈るのを待ってくれ」
これが私の生命活動の最期になるのだろうか。それ以上望むのは無理かも知れないが、それだけは、仔を作ることだけはなんとしても叶えてやりたい。生ませてやりたい。
「頼む。待ってくれ。5、いや、3年だけでいい。子供が生まれるまででいいんだ。君たちも女性なら、彼女の仔を渇望する気持ちがわかるだろう? 仔の名前も、もう考えてある。一緒に名前を考えていたときに見せてくれた笑顔を無にはしたくない。3年でいい。5年待ってくれれば、追加で相応の対価を払おう。彼女に子供を作らせてくれ。頼む」
懇願しているうちに自然と涙が出てきた。もう長い間泣いていなかったから、枯れ果てたのだと思ったが、松の姫の幸せを考えればいくらでも出てくる気がした。
残った左手で涙をぬぐいながら、頼むと懇願する。
すると、頭に掛かっていた足が上へと離れていった。
安堵。
よかった。わかってくれたらしい。
大きく息をはいて、目を閉じた。
松の姫がよく見せる慈しみに満ちた微笑みを思う。
何十、何百もの仔を一人で育てていくのは、大変な苦労だろう。戻ったら怒られるだろうか。出逢ってから初めて怒鳴られるかも知れない。
それとも悲しまれるのだろうか。
そんな顔は見たくないなと思う反面、悲しんでくれたら暖かい気持ちになれるのかも知れないと勝手な事を考えもした。
帰ったらなんと言おうか。真っ先に感謝を伝えよう。ありがとう、と。今までありがとう、と。
残り時間を精一杯笑顔にしていこう。
早く顔が見たい。
「松のひ」
カラスも鳴かないこんな夜に、
それはぐしゃりと音を上げた。
次話
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ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
即興詩 2篇
結局
結局…
零れ落ちるものしか
書いちゃいけない
そこから
派生していなければ
嘘つきだ
そう
思いながら
流れる舟の
頼りなきこと
この上なく
水の冷たさに
指先を浸す
帰り道
帰り道はいずこか
違えぬよう
枯れ葉を目印にと
置いてきたが
風に消されることは
わかっていた
わざと
石を置かなかった
冬である
魔の間のモノら 第2話『闇の間』
目を開けると闇が見えた。私は下を向いていたらしい。
底なんて無いんじゃないかという程、真っ暗闇だ。そんな暗い部屋に私は浮いている。
頭が徐々に冴えてきて、色々な事を思い出していた。
そうして、しっかりかっきし思い出した頃には、私はめちゃくちゃ腹が立っていた。
「失格。全くダメ。本当に君は才能が無いね」
正面から掛けられた声に顔を上げると、上下白い男、マルクスがこれも真っ白い高そうなソファーに足を組み腰掛けていた。もちろんソファーごと宙に浮いている。
『見習い悪魔試験』と言うそうだ。この試験に合格すれば悪魔になれるらしい。
数日前。この暗い部屋で目覚めた私は、ここが死後の世界であることを告げられた。そして、悪魔試験を受け合格すると消えずに生きていられるが、この試験を受けるかどうかと聞かれ、状況が掴めないまま受けると言った結果が今につながる。
そりゃあ、魂が消滅して、また新たな生を待つよりは、悪魔になってでも生きていたいとは思ったけど、こんな試験内容だなんて聞いていない。
「全く、彼女は何を考えて、こんな小娘を私の元に寄こしたのか。こんなに才能の無い者は初めて見る」
大仰に肩をすくめ、嫌みたらしくため息を吐いてみせる。それはそれは腹が立っていたけれど、相手は上司なのだ。性格が悪くても、変態でも、キレてはいけないのだ。そう自分に言い聞かせて、わき上がってこようとする激情を宥めていた。
「『悪魔・夢魂電話』は低級の悪魔。君に渡したその槍で一突きすれば消滅させられる程度。にもかかわらず、状況に流されただけで、私が援護に入るまで抵抗らしい抵抗を何一つできなかった。全く使い物にならないな」
上司が怒っているときは、絶対にキレてはいけない。大人しく嵐が収まるのを待つべし。就職活動中の先輩に言われた話。
生前の事は覚えていないことも多いけど、そうゆうどうでもいいことは覚えていた。もしかしたら、死ぬ少し前の話だったのかもしれない。
ちなみにどうして死んだのかは覚えてない。きっと事故か何かで一瞬にして成仏したんだろう。
「今回の試験は、君の記憶を適当に作った記憶で上書きし、試験であることを忘れたまま『悪魔・夢魂電話』に対応するという趣旨だったわけだが」
「それ、無理ですよね?」
「無理ではないだろう? 悪魔も上級になれば、どんな状況下においても自身の本質を思い出して行動できるようになる」
いや、どう考えても無理でしょ。見習いにすら成ってないんですけど?
この男にも腹を立てていたが、一番腹立たしいのは自分自身だった。
いくら記憶喪失中だったとは言え、こんな男を格好いいとか、あまつさえ一時でも身を許しそうになったとか……うわー、鳥肌立ってきた。
今だからわかるんだけど、『悪魔・夢魂電話』はあの受話器であって、そのあとに出てきた気持ち悪いお腹の口は別物だ。きっとこの上司が考えた悪魔っぽい何かだろう。
ようするに、私は脱ぐ必要など無かったし、胸を揉まれる必要も無かったし、唇を掠め取られる必要すら無かったはずだ。
全ては、この変態上司の趣味以外の何物でも無い。
とは言え、ここには法律もセクハラ条例も何もないのだろう。だって死後の世界だし。
それでも、普通なら黙ってやられたりはしないし、貰った槍でタコ殴りにする所だけど、こっちにも強く出られない事情がある。それが、この体。
死んだ私は魂だけの存在で、体がなかったらしい。それをマルクスが元の私の体に似せて人形を作ったのだという。さすが悪魔。そして、その人形にセクハラをして楽しんでいるらしい。さすが悪魔。
恩があるし、生き残っていたいという目的もあるので強く出られない私は、その人形の中に入って虐めに耐えていた。
「――前にも言った通り、悪魔には強さがあってそれに応じてランクが決められている。強さ以外にもランクを決める要素はあるが、そのランクの最下層に位置する夢魂電話にすら遅れを――」
どうせなら生きてる時とは違う体にして欲しかった。こんなに私らしい体だと人形って感じがしない。
でも、この試験では一つ収穫があった。今までの試験は夢の中の世界みたいな、現実感のない雰囲気だった。そんな中で、私は色々な物達と戦った。
試験には当然ながら一度も合格していない。
そもそも倒せるような相手ではなかったのだ。幅300メートルのプテラノドンの悪魔とか、宇宙空間から飛来してくる隕石群の悪魔とか、目に見えない二酸化炭素の悪魔とかを、どうやって槍の一本で倒せと言うのか。
それでも、文句一つ言わずに受けてきたのだから、私の忍耐力はすばらしいと思う。
話が逸れた。そう、今回の試験は、いつもと違う世界感だったのだ。夢の中にいるようなセピア色の世界ではなく、マルクスが言う私の生きていた世界、現世のような雰囲気をしていた。
試験会場がマルクスの想像世界だというのなら、あれはマルクスが記憶している現世の景色ではないだろうか?
はっきりしていたのは世界だけではない。私の姉として登場した『林 桃花』。彼女もはっきりとした存在感を持っていた。と言うことは、彼女もマルクスの知り合いである可能性が高い。
そして、ここが重要なのだけど、女の勘が私に告げているのだ。彼女はマルクスにとって大切な女性なのだと。
……チャンスじゃない? こんなに理不尽な試験によるいじめとセクハラを耐えてきたのだから、少しぐらいいじめ返してもいいと思う。
「――右往左往しているだけで、悪魔が務まるとでも思っているのかい? とんだ――」
「あの、質問してもいいですか?」
「――人間だ。ん、質問? なんだい?」
「林桃花って誰ですか?」
「……」
直球ど真ん中の質問は、長い長い嫌みをぴたりと止めた。回答に詰まったと言うことは、聞かれたくない質問と言うことだろう。これはひょっとするかも?
林桃花はマルクスに似てる要素がないから肉親の線は外れると思う。昔の恋人、フラれた彼女、答えによっては弱みを握れるかもしれない。
「君には関係ないことだな」
「関係ないかどうかは私が判断しますので」
「……君には覚えなければならない事が沢山ある。そんなどうでもいいことに関わっている暇はない」
「か、どうかも私が判断しますよ? 今は必要ないですが、悪魔になってから必要になるかもしれないじゃないですか? 知っておいて損はないはずです」
ここで退いては急所を突いた意味がない。
「その様子じゃすぐに試験は通らないだろう。必要になるとしてもまだまだ先の話だ」
「試験なんてすぐに合格しますよ。まずはその林桃花とマルクスさんの関係をうかがいたいな、と」
問い詰めると、マルクスは観念したようにソファーに深く背を預けた。
思わず、にやけてしまう顔を元に戻そうと頑張る私に対し、マルクスは遠慮なく、にやりと笑って見せた。
「そうかそうか」
……これっぽっちも観念するような口調ではなかった。
「そんなに早く悪魔になりたかったとは思っていなかった。少し休憩にしようと思っていたのだが……。じゃあ、さっそく合格して貰おうかな」
タキシードの内側から指揮棒をすらりと取り出すマルクス。
この時点でようやく手段を誤ったことに気が付いた。しかし、時すでに遅し。指揮棒が暗闇に弧を描く。
「では第18回の悪魔試験を始めよう」
マルクスの声を聞き終える前に、私の意識は何処かに飛んでいった。
*******
チャプチャプと、小さな波がコンクリートの壁に当たっては散ってゆく。仲間の元に帰れなかった飛沫達は、夏の日差しに消えていった。
真夏。日差しが天下を取る季節。
塩素の匂いが鼻を突くプールサイド。
ビニールシートの屋根の下で体育座りに座る私たちは、泳ぐ順番を待っていた。先生の笛の音に一拍遅れて、数人の生徒が水面を破る。
皆の体つきを見るに、きっと中学生かな。周りに合せて私の体も縮んでいる。プールの隣には白い校舎も見えた。
私が通っていた学校にはプールが無かったから、こんな状況下でもこのシチュエーションはちょっと嬉しい。海辺で育った私は泳ぐのが得意なのだ。皆が掻く水音に、体がうずうずしてくる。
「暑いねー」
掛けられた声に振り向くと、隣に座っていたのは林桃花の幼い姿だった。今回は同級生の設定らしい。さっきの試験で出てきた姉の時より10歳ぐらい幼い顔。こっちはこっちで可愛らしい容姿だ。
こんな可愛い子と姉妹で比べられるのはしんどかっただろうなと、偽の記憶の私にちょっと同情した。
「うん。でも、プール入るなら暑いくらいの方がいいかな」
「うーん、そうなんだけど」
桃花は少し俯き気味。
何となく、落ち込む理由が予想できた。昔の私のクラスでもそうだったんだけど、胸の成績と体育の成績が反比例してる子は結構多い。
「桃花、泳ぐの苦手だっけ?」
俯いたままの桃花の腕が上がって、私の太ももをきゅっとつねった。
「ごめんごめん」
図星みたい。先生の笛が鳴った。
「泳げると楽しそうだよね」
「あとで一緒に練習しよ?」
そんな機会はきっと無いんだろうけど。
淡い小さなはぐれ雲が、ポケットに隠していた太陽を出してみせる。
いよいよ力を増した日差しは、屋根の影からはみ出している私のつま先を焼くべく意気揚々と降ってきた。膝を強く抱きかかえ、つま先を影に隠してあげる。
桃花も同じように膝を抱え直した。
むにゅ。
同じじゃなかった。あの変態上司は、体を中学生に戻したくせに、胸の大きさはそのままにしたらしい。
桃花の胸はスクール水着でどうにかなるサイズでは無いと思う。
対岸から射込まれる男子の視線は、太陽光線といい勝負。
うん。やっぱりあの変態は、誰かが殴ってあげないといけないと思うんだ。
今回の試験は記憶がそのまま。しかも、場所は普通の日常世界。
宇宙空間とか砂漠なんかの非日常世界ではないから、試験の相手だって普通サイズの特に強くない悪魔だと思う。多分。
さっきの電話の悪魔クラスなら気を付けていれば勝てるはず。
この試験、もらった!
「があ」
そんな事を考えていた最中だったので、聞き慣れた鴉の声に、びくっと背筋が緊張する。
空を見上げると一羽の鴉が降下してきた。大きい体に4枚の翼は、間違いようがなくマルクスのペットの鴉。
何かしてくるか!? といつでも飛びかかれるよう体に力を溜めていたけど、鴉は私たちとプールの間あたりに何事もなく着地した。
そして、ぴょんぴょんと跳び歩き始める。
何だか様子がおかしい。いつものふてぶてしさがない。
「変わったカラスだね」
どうやら桃花達にはちょっと変わったカラスぐらいにしか認識されていないみたいだ。その辺はマルクスの都合という事だろう。
「があ」
時々鳴くだけで、鴉は何をするでもなく歩き回っていたが、やがて私に気が付いたのか、ぴょんぴょんと近づいてきた。
一応警戒はしていたけども、全くと言っていいくらい危険を感じない。
手の届きそうな所まで寄ってきた鴉は、私を見上げて首をひねる。
右、左、右。
いや、首をひねりたいのはこっちなんだけど。
一つ跳ねる度に尾羽がひょこっと動き、なんの疑いもなく見返してくる瞳は大きくつぶらで、無邪気にくるくると動いている。何この可愛いの。
嫌みったらしく鳴いてこない鴉は、そこいらのカラスより余程可愛らしかった。
触りたい衝動に負けてゆっくりと手を伸ばすと、ぴょんと距離を取られた。
手を戻すとぴょんぴょんと戻ってくる。そんな事を繰り返していたら、桃花が聞いてきた。
「そのカラスさん、マナの友達?」
「友達じゃないんだけど、ね」
知り合いのはずなんだけど、様子がおかしいから。まるで私のことを覚えていないような……
覚えてない?
もしかして、記憶を消されてる?
それならこの可愛さにも説明が付く。
マルクスが私の記憶を消そうとして、間違えて鴉の記憶を消した。その可能性に気が付いた時、私は危うく吹き出してしまう所だった。
あの上司は変態なだけでなく、馬鹿だったのか! あの真っ暗な部屋に戻ったら思いっきり馬鹿にしてやろう。
にやにやしながらつつく私に飽きたのか、鴉は羽ばたいてプールの縁に飛んで行った。端っこの方でパシャパシャと行水を楽しんでいる。
日差しに焼かれながら深い黒紫色の羽で水を跳ね上げる姿は、夏満喫中って感じで見ているこっちまで爽やかな気持ちになれる。
「気持ちよさそうだね」
桃花の視線も鴉に向いていた。
何だか、シートの下でこそこそしているのがもったいない気になってくる。
「ねね、桃花。まだ私たちの番じゃないよね。光合成しよっか?」
「ん?」
桃花を誘ってテントの後ろに移動し、シートの影から外に出た。
人工芝の地面に寝転び、全身に降り注いでくる無色透明な光を浴びる。目なんて開けていられない程だ。この暑い暑い光を力に変えられるのなら、植物が強いのも納得出来る。
「暑くない?」
桃花はテントが落とす影ギリギリに座って私を見ていた。
「……暑い」
笛が鳴った。続いて水面の割れる音が響く。
手をかざし太陽を隠して、やっと目を開けられる。
はやく泳ぎたいなー。多分このペースだとこの授業では一回しか泳げないかもしれない。
空にはふわふわしたはぐれ雲が何個も浮いていた。大きな入道雲を追って泳いでいった。その後ろから桃花の声が追いかける。
「雲流るる 向かうは誰の 故郷かな」
聞こえてきたのは小さな詩。
桃花は目を細めて、遠く、高い空を眺めていた。白い肌に、紺色の水着と優しい雰囲気を纏わせている。
「桃花、桃花」
手招きすると、桃花が影からにじり出てくる。彼女が止まったのは私から50センチばかり離れた所。
「もっと、もっと」
「もっと?」
誘われるままに寄ってきた桃花は、やがて私の頭の横に膝を付けて止まった。肩からすべり落ちる髪を手で押さえながら、かがむように私の顔を覗き込む。
そんな桃花の頬に手を伸ばした。
「あなたはだあれ?」
「うん? 私は、桃花」
変わりゆく景色を歌えるくらい頭が良くて、可愛い顔にすべすべの頬。私はこの子を知らないはず。だから、マルクスの知り合いだと思う。マルクスに聞いてもはぐらかされるだけだから、本人に聞いた方が早いだろう。
「私はあなたを知らない。あなたは、誰? マルクスの初恋の人とか? 昔救えなかった大切な人とか? マルクスにとって大事な人だと言うことはわかるの。でも、どんな関係なのかがわからない。それとも、それとも私が生きていた頃の……」
マルクスと桃花との関係の例はそのまま私にも当てはまる。私がまだ人間だった頃の記憶は大体持っていた。でも、全部じゃない。欠け落ちた記憶の中に林桃花がいたとしたら、私の大事な人だったという可能性も十分考えられる。
「私が人間だった頃の大事な人? 私はあなたを知らない。でも、私は記憶を全て覚えているわけではないから。もし、私の知り合いで私にとって大事な人だというのなら、あなたを教えて欲しい。私は知らないといけないと思うし……知りたい」
じっと見つめていると、驚いた顔をしていた桃花は、やがてゆっくりと微笑んだ。
「ふふっ」
頬に添えていた私の右手を包み込んで、桃花は真摯な顔を作り台詞を重ねた。
「私は教えてあげたい。
貴女にとって私がいかに大切で愛おしい存在であったのかを。
昔、二人が手を取り合い、同じ景色に心を動かし、同じ世界の中で愛し合ったのかを。
でも、それは叶わない。
神はそれを許してはくれなかったから。
だからもう一度二人で歩もう。そして、同じ記憶を積み重ね……て。ぷっ、ふふふっ、マナ、その顔、ビックリしすぎ! ふふふっ」
どうやら私はからかわれていたらしい。それはそれは真剣な顔だったのだろう。台詞を終える前に、桃花は堪えきれなくなって吹き出した。立ち上がって、私の手を取る。
「陽にあてられちゃった? ほら、中行こ?」
「うん。なんだかぼーっとしちゃった」
桃花から話を聞き出すのは無理だと思った。マルクス以上に手強いし、そもそも勝てる気がしない。
まったりした空気に包まれていた私は、ざわめきが起こるまで悪魔試験のことをすっかり忘れていた。
「マナ、あれ!」
桃花が指さした先、プールの真ん中でバシャバシャと何かがもがいていた。真っ黒なそれは、があ、があ! と苦しそうに声を上げている。
え? マルクスの鴉? そんな! あの鴉がそんな簡単に溺れるはずがない。何回か前の試験では普通に海に潜っていたのを覚えてるし。と、そこまで考えて悪魔のことを思い出した。
もしかして悪魔にやられている?
それならば溺れるのもあり得る気がした。あの鴉は不思議な能力を使えるし、力だってあるからそんな簡単にやられるとも思えない。でも、それは記憶があったらの話。
力を持っているという記憶がないのなら、自分を唯のカラスだと思っているのであれば、悪魔になんか勝てっこない。
黒い羽を必死に羽ばたいているけど、飛び立てそうにない。があがあと鳴いていた鴉が、ズボッと沈む。
水面に出ていた黒が、消えた。
ヤバっ!
周りの人達が対応に困って立ち尽くす中、私は急いでプールに飛び込んだ。
プールサイドを蹴って、足から飛び込む。
頭から飛び込み泳ぐより、立って水を掻きながら歩いた方が早いし正確に向かっていけると思ったからだった。
まさか、足が着かないとは思わなかった。
勢いのまま頭まで潜ってしまい、見上げた1メートル先に水面が見えた。学校のプールに入ったことはないけど、これはおかしいだろう。水深はどう見積もっても5メートル以上ある。
悪魔の仕業か、マルクスの仕業かはわからないけど、このプール中に今回の相手がいるのは間違いない。
右手に意識を集める。手の平から黒い霧状の力が噴出し、すぐに槍を形作った。悪魔試験を受けるに当たり、事前に支給された見習い悪魔の槍をそれっぽく構えてみる。
水の抵抗が酷くて振り回せないから突くしかない。それはいいんだけど、問題は相手の悪魔だ。
(いない?)
水の中に悪魔らしいものがいなかった。鴉が引きずり込まれたので、相手は水の中にいるはずだし、水棲ということから魚みたいなものを想像していたんだけど、上下左右見渡してみてもそれらしいものはいない。
(しかも、鴉までいない)
もしかして見えないだけだろうか。水に溶けるような相手で、鴉はもう胃袋の中とか。巨大なアメーバみたいな奴なら槍では相手にならない恐れもある。
悪魔は人間と違い生きていくのに空気を必要としないから、桃花達の目を気にしないのであれば水中での持久戦も出来るけど、体の中に取り込まれてしまえばアウト。どうしよう。
口を閉ざして息をしないというのは、それだけで不安になってくるらしい。得体の知れない不安に駆られて、警戒しながら水面に顔を出す。先生や生徒達がプールの周りに集まってきていた。槍とか見られたとは思うけど、想像世界だと思って割り切るしかない。どうせ、合格さえしてしまえば、消えてしまう世界なんだ。
「マナー、もう大丈夫だよー」
もう一度潜ろうとすると、桃花の声が聞こえた。
「カラスさんもう逃げたからー」
桃花が指さす空を見上げると、あの鴉が舞っていた。自力で逃げたのだろうか。
「うん、今上がる」
鴉は助かったかもしれないけど、悪魔自体はまだいるはずだ。倒さない限り試験は合格にならない。
桃花に声を掛けたあと、再びプールに潜った。
慎重にプールを見て回る。適当に槍を突き出したりしたけど、水以外の何も見つけられなかった。どうゆう事だろう?
おっかしいな、なんて思いながら桃花の所に戻った。
「マナ、大丈夫? いきなり飛び込むからビックリしちゃった」
水面から顔を出すと、桃花が声を掛けてきた。大丈夫大丈夫と返事をして、差し出された手を取る。
「鴉が溺れてたから、プールの中に何かいるのかなとか思っちゃって。なんか凶悪なピラニ……あ……」
顔を上げた私は、
至近距離で
溶けて
崩れかかった
桃花の
顔
と対面した。
私はお腹の底から悲鳴を上げた。
*******
「ダメ。失格。話にならない。しかも、最後の悲鳴はなんだい? まるで女の子のような悲鳴だったじゃないか」
女の、娘、ですが、何か?
「『悪魔・腐り面』は、それこそ夢魂電話と同じ低級悪魔。しかも、今回の試験は記憶があったにも関わらずこの結果。君は試験で遊んでいたのかい?」
「……。あの……プールの中にいた悪魔は」
「うん? プールの中に悪魔なんて配置してないが? 遊んでいたんじゃなくて寝てたのか?」
「でも、その鴉が溺れて」
「ああ、我鴉には記憶が無くなったフリと、溺れたフリをしてもらった」
「……」
「お疲れ様、我鴉」
マルクスの肩から飛び立った鴉は、私の頭上を飛び回りながら「かーばかーば」と鳴いた。
「『悪魔・腐り面』は、人間に取り憑いて顔を変えるぐらいの能力しか持たない。さらに対象に近づいてから乗っ取るまでは20秒近くを必要とする。君がプールなんかで遊んでないで、彼女の近くにいれば――」
順番なんて無視してプールに入っちゃえば良かった。
右手に意識を集中させ槍を召喚する。
「――いくら我鴉の演技が上手いとは言え、まんまと引っかかった上に、プールの中で槍を召喚し、盛大に衆目を集めておいてなんの結果も出せないとは。ただただ目立ちがりたかった――」
あの深い水の中で自由に泳いだら、それはそれは気持ちよかっただろうな。桃花に泳ぎを教えるのも楽しそうだし。
この世界に来てからというもの、感情を抑えるのがすっごく難しくなった気がする。
「――悪魔が人間の世界で生き残るためには、目立ってはいけないのだ。それは最初の最初に教えただろう? 君より我鴉の方がまだ物覚えがいいな。鳥頭とはよく言うが、君の頭は――」
手に血管が浮き出る程、力一杯槍を握りしめる。
そうだねー、まずは肩のあたりを狙おっか?
「――これで18回目の試験だったわけだが――」
「ウガーーーーーーー」
私は上司に逆ギレして襲いかかった。
逃げ回る上司を散々突き回して、叩きまくって、土下座しながら謝っているマルクスにトドメの一撃を与えようとした所で、鴉に止められた。
「まあまあ、そこまでにしとけって」
聞き慣れない声に私は、はっと我に返った。
「腹立たしいのはわかるが、これで試験は合格なんだから、もう突き刺してやるなよ。合格条件は試験官に襲いかかること。全く長かったぜ。馬鹿にしようが死ぬような目に会わせようが裸にしようが怒らないってどうゆう事だよ。あんたは本当に人間か? 悪魔になろうとしている奴が、感情を抑えてどうするよ。悪魔ってのはそんなもんじゃねーんだよ」
目の前には、ため息を吐く鴉がいた。
「……あんた、喋れたの?」
「はあ? 当たり前だろ。どこの世界に、ばーかなんて鳴く鴉がいるんだよ。馬鹿って言ってたに決まってんだろ。お前、ほんと馬鹿だな。大体馬鹿ってのはお前が俺に――」
「ウガーーーーーーー」
この時、私は『ついで』と言う便利な言葉を思い出していた。
生まれて初めて武器を持ち、誰かに襲いかかった。
その時は背中から小さな羽が生えて、腰の辺りから長い尻尾が生えていることに気が付かなかった。
ただ、感情の制御が難しくなっている事は自覚していた。
それでも、私は私で、心は生きていた頃のままだったと思う。
今だって、そう思っている。
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ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
はったりインクベリー
初めて漫画を読んだのは小学二年生のとき。母に買ってもらった少女漫画雑誌に私は見事にハマった。雑誌を毎月購入、単行本は本棚を埋め尽くすほどになる。
そして昔から絵を描くことが好きだったけど、黒ごまのような目をした顔だったのが、漫画を模写したことによってキラキラとした目に移り変わった。グジャグジャと書き殴っていた髪は、下へ流すように丁寧に描き出した。
模写を続けるうちに私は、裸であることに気付いたアダムとイブのように改めて人の形に気付く。キラキラした目や服の装飾など、他の人よりも絵の密度が高くなっていく。
そしていつの間にか絵が上手い子と思われるようになった。
中学校でも美術部に入り、私と同じく絵を描くことが好きな友達がたくさんできた。私より絵の上手い人がたくさんいた。
そうなるとやっぱり技を盗むけど、その子たちから与えられた影響は技術面だけじゃなかった。
まだ知らなかった深夜アニメや漫画をどんどんおすすめしてくれたんだけど、激しい戦いや人の心の闇を描いていて、強い衝撃を受けたんだ。
おどろおどろしい見た目をした、強い力で人を蹂躙する悪役に、単純な怒りや恐ろしさだけじゃないものを感じた。私は畏怖という感情を覚えたんだ。
出会った作品たちが脳に焼き付いて、私はいわゆるオタクな方面に移る。
色々な作品に触れていく内に、泥まみれなのに真っ直ぐ立ち向かう姿がかっこよかったり、身近な物を強そうな武器にアレンジしていたり、世の中にはどんな存在でも素敵に見せる人がいるんだと知った。
一枚で心を動かすような絵を描きたい、誰かが夢中になるような存在をデザインしたい。
中学二年生で、イラストレーターになろうと決めた。
高校生になってからは絵を描き続けながらバイトをしていた。それでバイトの給料を毎月半分貯金してペンタブを買った。
早速ペンタブを使ったけど手元を見ないのは慣れないし覚えなければいけない機能が沢山。それでも描きたいものが思い浮かんだらまず紙に描き出し、本気のときは画面と向き合うことを続けた。
そして高校卒業後イラストの専門学校に入学。初歩的なところから学び直すから、やっと便利な機能に気付いたり、画力は伸びた……けど。
不採用。
卒業が近づいた今、好感触だった二回目の志望先で不採用に打ちのめされた。
お母さんには学費の元を取ってくれと何度も言われている。どこかには就職しないといけないんだけど……
昔は気にならなかったけど、自分より絵が上手い子が沢山いる。大人になるまで時間はあるしこれから伸びていけばいいと思えていたけど、時間がなくなった今は上手い子の存在が苦しい。
これまで培ってきた私の画力は、会社の人材としての魅力になっているのかな?
もしかすると私の絵は会社の人の心を動せるようなものでなくて、いくつもいる志望者の中から私を選ぶ所なんてどこにもないのかも知れない。
この世界には遥かに絵の上手い人が何人もいて、今まで積み重ねてきた私の絵は世界からすると取るに足らないものなのかもしれない。
あてもなく外を歩く。
専門学校の友達と行ったカフェの前を通りがかる。就職先が決まったあの子は、絵が描けるからとバイト先でよく頼まれる……とここで愚痴っていた。
そういえば、絵を描けることって意外と貴重なのかもしれない。絵を描くことが好きな人に囲まれているから忘れていたけど、滅多に描かない人だって多いんだ。
その近くの電柱の下に丈のある雑草が生えている。紫を煮詰めたような実がなっていて、子どもの頃潰して遊んだことを思い出した。
食べられないけど、見かけると嬉しくなったなぁ。真っ緑な雑草の中や、なんてことない道路の脇にこれがあると、一目でうきうきするんだ。
なんてことない思い出が結びつき、すっと私の迷いが晴れる。
私は絵と関係ない業種の就活へ舵を切った。
絵を諦めたのではなく、趣味としてや個人の依頼で描き続けることにしたんだ。
最初の自己紹介では絵の専門学校に通っていることを堂々と伝え、面接の応答の中で頼まれたら絵を描くという意思を示す。職場での頼まれごとがいいことばかりじゃないのは覚悟の内。
仕事は当然頑張るし絵も描ける。もっと絵が上手い人は沢山いるけど、身近にいる私が一番役に立ってみせる。そんな気持ちで胸を張って話した。
自分を大きく見せながら沢山絵を描いて、雑草みたいに私の絵が目につくようになったら、その時少しでも心を動かせたらいいなって思う。
今さらだけど自己紹介
終えぬ旅路で 遣らず雨
行きの小径は かくれんぼ
風呂に眠る 背を懐け
永久へ誘う 迷い森
おえぬたひして やらすあめ
ゆきのこみちは かくれんほ
ふろにねむる せをなつけ
とわへさそう まよいもり
濁点不問、ゐ・ゑ抜き、四十六文字重複無しの
ペンネームに因んだ いろは歌
ポストモダン焼き(郵便弟論)
郵便ポストに弟を丸めて入れる
イカ焼きのつもりで
マヨネーズをもたせてある
空腹でも三日はもつだろう
少しは反省すればいい
ポストのなかで
弟が マヨネーズをなめている
世間をもなめている
切手じゃあるまいが
おれが入ってなきゃ
たこ焼きでさえ
タコ入りにはならんやん と
変な関西弁で吠えている
実家は北海道にある
イカ焼きといえば
輪切りのアレだったはずが
まるで 葉書にソースと
マヨネーズを塗っている
弟には郵便論がわからないし
すべての書簡は青のりで
黒塗りにされてしまう
「多分やけど
たこ焼きにキャベツを入れたものから
検閲されてんねんで 俺ならそうするわ」
弟があって 兄があり
誤配を前提に 北海道より
4日はかかって 大阪に着く
訛りがあって 誤配が生じ
切手を貼って 白飯を食って
道頓堀 ぬかるむ泥ソース
さながら白封筒のスーツを浸し
カーネルの肩を抱き 2ショットをキメる
弟は 投函されたまま 開封を待つ
親指を立て 漸く届いた故郷が
弟の口を借り なまらうめえ といった
母語がとどき
父も泣いたが
おれは 許さない
𝚂𝙷𝙸𝙽𝙸𝙶𝙸𝚆𝙰 𝙻𝙰𝚂𝚃 𝙱
2025/12/13
風と海辺
5時代の車両に乗りこむ数分前、空と海のさかいは油彩から水彩のように気配をうつしつつあった。車内では、数人の会社員と学生が、明日が今日であるようにすごしている。わたしは傾斜の急な山の側の座席に腰掛けた。たっぷりと薄めた、あかるいオレンジのぬられた雲と葉をみていた。
車両が動きだした。つややかなオレンジは、いっそうゆたかにふくらんでゆく。いつか窓に透かした、あまったセロハン紙を思い出した。
橋梁を越え、揺れとともに車両が停止した。ホームは、澄んだ白にみちていた。斜面の草木も、たしかに炊きたての陽光を出迎えていた。
わたしはこぢんまりとした改札をぬけた。鳥居と小柄な犬の横を足早にすぎ、橋梁の先の波間をみはらす坂に、まっすぐ立った。
そのとき、黄金色にきらめく風が、細く古い路地をひとまとめになであげ、かけまわる子どもたちののこした輪郭と手をつないで、すきとおる空にかえっていった。
そこにはありとあらゆる朝があった。わたしの目前に、すべての日々が、りんと背筋をのばして立っていた。ひとつの家屋が住人を失った朝に、老人を見送るための朝に、待望の赤子がうまれた朝に、わたしは立ちあった。
季節はめぐる。風が雨後の大気を吹きあげ、空があさがおの髪飾りをよそおう頃、わたしは橋梁の下にたどりついていた。呼吸をととのえると、波音が耳にとどきはじめた。防波堤をついぞ知らない音だった。
先客のいない駐車場を歩きすぎ、浜辺の入り口に到着したわたしは、だれかがひとり沖へ向かうのをみていた。
かばんを海のとどかない角ばった石のうえに置いて、両腕をひろげ、ゆったりと歩いていく。波と風をひとつのこさずうけとめるようだった。早朝の水にしめってゆくつま先から、足と胴へ、気泡をはらんだがらす細工へ、姿を変えていった。海にひたってゆくのとおなじ速度で、長い髪の毛先まで、透明でつやりとして、無数のプリズムをつめこんだびいどろのように、変わっていった。
がらすの底で溶けあうひかりのなかに、わたしはだれかと目があった。
まばたきすると、ただ、大気と水面があった。潮風にかわいた目がうるおい、景色はうつろっている。海面のうえ、陽は水しぶきとともに朝という概念をすくいあげ、あざやかに燃やしつづけていた。日光はみずからにじませた水平線を越え、空と雲をひろく、薄く平坦なみずいろに染めていた。
わたしはうしろにひとの気配を感じ、ふりむいた。駐車場から、朝の海をながめにきたとおもわれる夫婦が、のんびりとおりてきている。
石のうえのかばんは、そこになかった。
詩について
先に投稿した「こそげ取れない」は、2年程前、めちゃくちゃ「現代詩」というものを意識し、憧れもし、「そういうのが書きた〜い!」と思い、作ったものだ。当時、何かの賞を取られた作家さんのプチ真似でもある。
まあ、よく書いたと思う。
けれど、1つ詩を書けば、必ずやどこかに「自分」というのが潜んでいるものだとも思った。それが、詩の怖さかもしれない。いや、わからないけれどー。
長年、現代詩というテーマに悩み続けている。一体、何なのか?
5年程前から詩を始め、色々な人の詩も読み、教室へも通った。詩の教室だ。世間で詩と言うと、誰もが判で押したように谷川俊太郎の名を挙げる。そして「そういうのを、やってるって、コト?」となる。
「いやあ〜」と言ったきり、私は言葉を返せない。
私自身、さっぱりわからない。
詩壇での受賞作品なども読んでみるが、「なんのこっちゃ?」となるものも多い。自分の知性の低さや詩への感覚の低さのようなものを、目の当たりにした気持ちになる。
だが、そんな中でも、「ワカラナイ」なりに、「なんかイイ、好きかも」と思える作品に出会った。その人の詩なら、わからなかろうと、難しかろうと、読めた。嬉しい気持ちになったり、切ない気持ちになったり、共感まで得られたりと、ファンになった。
と同時に、詩の摩訶不思議さも知った。こんなにワカラナイのに、どうして読めるのだろう? 心動くのだろう? 或いは他の詩に対し、比較的わかりやすい言葉や表現で書かれているものでさえ、なぜ、ワカラナイんだろう? 心に響かないんだろう?
詩は、容赦のない分別機能を備えた恐ろしい生き物だと思った。
そうなってくると、もう、何を頼りに詩を書けばいいのか、読めばいいのか、わからなくなってくる。
そして、どこに照準を合わせ、書けばいいのだろう?
何を目的に、書けばいいのだろう?
と、ますます私の詩ライフは混迷をきたしてくるのだった。
今年、私はネット印刷で初めて簡単な冊子を作ってみた。
一つは「現代詩」を意識したような(そのつもりがなくても結果、そう思えるような)作品ばかりを使って。
もう一つは、完全なる「ポエム集」として。こうなるとまた、ポエムとは?となるが、私の中で「ポエム」とは、「現代詩」に相対するもの、と捉えている。実際、少し調べてみると、ポエムとは、アメリカやフランスでは詩という意味だけれど、日本では詩の中の一部を指す、という説明があった。ゆるっと、ネット調べだが。
しかし「詩の中の一部」という点においては、私の〝相対する〟という捉え方も許容の範囲ではないだろうか?
私は、2冊のペラペラの冊子を作った。
一つは「現代詩」の装いで。
一つは「ポエム」に徹しきって。
(イラストまで付けた)
何故、このようなことをやったかというと、どちらも、私だからだ。
「現代詩」にどこかで憧れている私。難しくてワカラナイけれど、人の心に入れる詩を作りたい…
「ポエム」を捨てられない私。
優しくて可愛らしくもあり、絵が付けたくなる。けれど、何故か詩の人には、渡せなかったりした…。
ポエム集は、文フリなどで、たまたま詩のブースに来た人が、なんとなく手にしてペラペラし、いいと思ってくれる、というようなニュアンスで作った。決して「さっぱりワカラナイ」と、思わないものを作りたかった。もっと言うなら、10代や20代の「ワカモノ」と呼ばれ、特に文学や文芸に傾倒しているわけでもない普通(といえばまた語弊もあるが)の子の心を響かせたかった。
でも、現代詩は私にとり、1つの目標であり、憧れだ。
一体、この自分の心理をどう解釈すればいいのか?
私自身、未だわからない。
どこに向かって書くか?
常に悩みは絶えない。
下手で良ければなんだって書ける。
大根役者と一緒の理屈かもしれない。
ただ、純粋無垢に、1人思いを綴り続けてゆくには、詩とはあまりに孤独な世界だと思う。
「CWS出版の宣伝」としてのクリエイティブ・ライティング
私は音楽鑑賞を愛好している。先日、世界的に著名な一流の演奏家たちが近隣の市民会館で音楽演奏会を催すと聞き、会場まで足を運んだ。市民会館には、私と同じ種類の人間たちがひしめき合っていた。言葉を交わさずとも、同好の士は匂いで判別できる。すなわち、音楽でしか発散できない暴力性を内に抑圧し、お行儀の良さと引き換えに緊張を蓄えた人たちである。隣に座った白髪の老婦人なども、表面的にはおしとやかで上品そうだが、いざとなれば人でも殺しかねないと断言できる。
演奏開始前、携帯電話の電源を完全に切るようアナウンスがあった。もちろん指示には絶対に従わなければならない。単なるガイダンスというよりは、モーセの十戒に等しい根源的な戒律として受け止めるべきだ。音を鳴らした小娘がトイレに連れ込まれ、観客たちにリンチされたという話が、都市伝説ではなく具体的な固有名詞つきで語られる世界である。音楽演奏を愛する者たちの静寂は暴力と紙一重であることなど、音楽業界に明るい人間なら誰もが当然に知っていることだ。
やがて幕が開き、弦、木管、金管と、演奏家たちが一人また一人と入場してくる。私は期待に胸を膨らませながら、舞台全体をぼんやりと眺めていた。だがそのとき、場内奥から甲高い悲鳴が響いた。当然ながら、悲鳴などあってはならない。たとえ顔面にゴキブリが落ちてきても、あるいは隣席の老婦人から吐瀉物を投げつけられても、観客は絶対に沈黙を守らなければならない。余韻の静寂を破って一足先にブラボーと叫んだ若者が袋叩きに遭い、不具の体となって救急搬送された有名な事例がある。「フライング・ブラボー」はそれほどの大罪であり、まして演奏直前に悲鳴を上げるなど、実家に火を放たれた上に、逃げ延びた親兄弟ともども串刺しにされても文句は言えまい。
私は火炎放射器のような殺意を込めて悲鳴の方向を睨んだが、すぐに理由を了解した。壇上に、全裸の巨漢が入場してきたのである。手には何も持っていない。まったく見覚えのない音楽演奏家だった。私は慌ててパンフレットを開いた。そこにはこう記されていた。田伏正雄 担当パート:Chaos。
私が目を疑ったが、しかし楽団員たちは誰ひとりとして動揺していなかった。むしろ当然のこととしてその怪異を受け入れているようにすら見えた。パンフレットには田伏のコメントが掲載されている。
「あらゆる宗教は、“神の不在”に対する解釈の体系にすぎない。ここに神がいる、という宗教は存在しない。ここに神がいると証明することなど不可能だからだ。せいぜい高々、かつて神があった、神がこの行いをした、と完了形で述べるのが精一杯である。だからこそ、音楽は“不在”のための反復芸術でなければならない。混沌はその反復の前提である。」
意味はよく理解できないが、あの裸体の大男が何らかの強固な企図のもとで配置されたことは確かなようだった。名の知れた一流演奏家の集団である。実験的な趣向として期待して良いのかもしれない。
そして演奏が始まった。ソプラノが前に進み、完璧なアリアを歌い上げる。客席の呼吸がぴたりと重なった。だが観客の誰もが内心ソワソワしているのを私は知っていた。あの裸の大男はいったい、いつ、なにを歌ってくれるのか。
三十分ほどが過ぎ、次々とパートが繋がれていくにもかかわらず、大男の出番は来ない。私は田伏に目を向けた。その瞬間、田伏正雄は舞台上で放尿しはじめた。だが演奏家たちは微動だにしない。ヴァイオリンは澄み渡り、チェロは深く沈み、木管は薄い霧のように空気を漂わせる。田伏の放尿など存在しないかのように、音楽は一切乱れなかった。
放尿が終わると、田伏はチェンバロ奏者の胸を揉みしだき始めた。しかし、チェンバロ奏者のうら若き女性は眉一つ動かさない。次に田伏はバイオリニストに頭突きをかまし、指揮者にローキックを叩き込み、巨体を震わせてパラパラのようなものを踊りながら、テノールにワンパンを食らわせた後、バイオリニストに足の臭いを嗅がせはじめた。
だが演奏は寸毫も揺らがない。舞台上で前代未聞の蛮行が行われているというのに、音楽はむしろ凄みを増していた。観客の戸惑いは、やがて奇妙な尊敬に変化しはじめていた。交響曲とは秩序を守る営みであると同時に、秩序を破壊し創造する試みでもある。目の前の巨漢は、その矛盾を一身に引き受け体現しているのだ。
田伏が逸脱すればするほど、音楽の統制は高まり、美が凝縮されていく。私は猛烈に感動していた。他の観客も同様だっただろう。そしてクライマックス。ブラームスのようでもあり、ワーグナーのようでもあり、しかしどの系譜にも属さない巨大な和音がホールを満たし、音楽が終わろうとしたその刹那、田伏が叫んだ。ブラボォォォォォォォォォォォォ!!!
見事なまでのフライング・ブラボーである。音楽愛好家が最も憎む禁忌。これまで一度として声を発しなかった大男による、悪意に満ちた音楽の破壊。私たち全員の感動が、一瞬にして純粋な殺意へと変換された。私は立ち上がった。あの男を殺さねばならない。秩序のためではない。もうこの祝祭は暴力以外の方法では終われなくなってしまった。あの裸体の大男は、そのような地点に私たちを追いつめたのだ。もう後には引けない。
観客は武器になるものを次々と手に取り始めた。隣の老婦人も、気づけば鎖鎌を構えていた。さすが音楽愛好家である。いざとなれば人を殺傷できる道具を隠し持っておくなど、音楽鑑賞にあたっての基本中の基本だろう。さあ、後は殺戮の時間だ。私たちの体内に蓄積された音楽の震えを血で贖う時が来た。
そのとき、ホール中のスマートフォンが一斉に震えた。バイブレーションと着信音が混ざり合い、場内に震えと音の混沌が立ち上がった。スマートフォンの画面には、こう表示されていた。
あなたは 1 Tabuse を受信しました。
これは絶対贈与です。
あなたの宛先は、すでに整いました。
私はどうすればよいのか、わからなくなった。1 Tabuse が何であるか理解できるはずもない。しかし、暴力によらない祝祭の終わり方を、田伏は提示してしまったのかもしれなかった。私たちは武器を持ったまま硬直し、楽団員たちは静かに会場を後にした。ロビーにはただ一枚、白い紙が貼られていた。
「次回公演:反復交響曲《LOVELESS JAPON》 作曲:花緒 演奏:田伏裸文交響楽団」
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生き残りの世界
この世界は
生き残りだけで回っている
元気で幸せな奴しかいない
端からはそう見えるけど
生き残りだけが
動いているのだから
当然だ
心が死んでる奴もいる
そいつもまだ生きている
心が死んだまま
そいつは世界を俯瞰する
「幸せそうだな」
呪いの言葉を口にする
不幸ではないことが妬ましく
呪いの言葉を口にする
「せめて生き残りだと自覚しろ」
当事者の慟哭など
全て日常に掻き消される
誰が死んでも
何人死んでも
世界はそんなことどうでもいい。
生き残りたちもどうでもいい。
どこまでもヒトゴトで
なかったことと同じで
「病は特別」、
「死ぬのも特別」
全然特別じゃないと誰も気づかず
自分には縁がないのだと勘違い
のうのうと毎日を生きている
だから
そいつはナイフを握る
健全が羨ましすぎて
全てを壊して
ざまあみろと言いたくて
あいつが死んだこの世界が
何も変わらないのが悲しくて
人ひとりに
何も価値がないのが悲しくて
あの人も生きている
あの人も生きている
生き残りの世界で
不幸の裏で
幸せを生きる
生き残れなかったものが
睨み付けていることも知らずに
生き残りの世界で
生き残りだという自覚もないまま
誰も死なない世界で生きている
わたしと読書
小説を読んでも、詩を読んでも、筋書きより「これを書いた人」のことばかり気になってしまう。
メシ食ったか? ちゃんと寝てるか? なんか悩んでるのか? 悔いはないか?
そう想像する時間が一番たのしい。 予想が当たった瞬間が面白い。
本当は、書き手の影が見えないのが「よい文章」らしい。 読み手を物語に没入させるのが、優れた技術だという。
だとしたら、わたしは本を読むのに向いていない。 天才が作った完璧な世界よりも、文章のなかにに残された人間臭い「指紋」や「生活の跡」の方を愛してしまう。
ここに作品がある。 これを書いた人間が、確かに生きていた。 それ以外の真実はないじゃないか、とさえ思う。
これは行儀の悪い読み方かもしれないけれど、 わたしは今日も、ページの外にいる作者のことを気にしている。
過去作短編『抱きしめさせて、抱きしめて、』
個展の帰り道だった。今日はバレンタインデーだ。ふと、隣を歩くあきさんの手を握ってみたくなる。あきさんの友人だという詩人の個展を見て、感想を言い合いながら歩いていた。
「今日はバレンタインだし、観覧車に乗りましょうよ。はるさん。」とあきさんは言った。個展をやっていたギャラリーの近くにデートスポットとして有名な観覧車があった。バレンタインと観覧車の繋がりはわからなかったけれど、もう少しあきさんと一緒にいたいと思っていたから誘いに乗ることにした。
「女二人で観覧車なんてやっぱ変ですかね?」とあきさんは不安げに言う。私より10センチ近く小さいあきさんが私を見上げている。
「そんなことないと思います。あきさんが乗りたいのなら私も乗りたいです。」と、しりすぼみな口調で言ってから私の頬は赤くなる。
バッグに入っているあきさんがくれた友チョコと、個展の物販で買った詩の書かれたキーホルダーの存在を感じながら、バッグを掛けた左腕に意識を集中する。
夫はあきさんを嫌っている。あきさんがバイ・セクシャルだから、私に気があると思い込んでいる。今日だって本当は家で夫の帰りを待っているはずだった。夫を騙してあきさんと会っている。
そんな私の事情をあきさんは知る由もない。あきさんにとって私はあくまでただの仲のいい職場の後輩に過ぎない。
去年の十二月に入社した工場で私は経理として働いている。私に仕事を教えてくれているのがあきさんだ。あきさんは専門学校卒業後すぐにこの工場に就職して五年目になるらしかった。仕事転々としている私よりあきさんは八つも年下だった。
私もあきさんも本を読むのが好きで、自分で文章も書いていた。そんな共通の趣味があったから私たちはすぐに打ち解けた。
ある日の昼休み。あきさんと二人で社食を食べながら恋バナをしていた。私は夫との馴れ初めを照れながら語った。あきさんは?と私が訊くとあきさんは何気ない感じでバイ・セクシャルであることを打ち明けた。
私はテレビで親に性的マイノリティーであることを涙ながらに打ち明ける人の映像を見たことがあった。こういうことはもっと重大な話として聞かされるものだと思い込んでいた。だから、あきさんのあっけらかんとした言い方に冗談だと思ってしまった。
でも、淡々と歴代の彼氏彼女の話をする様子から、どうやら冗談でもなさそうだと思い直した。少々ばつが悪かった。
「今は恋人がいないんだって」と帰宅後、夫にあきさんの話をした。夫は携帯を見つめていた。きっとゲームをしている。いつものことだった。私が話している時も、夫が話す時も片時も携帯を離さない。依存症だと思う。でも、指摘したことはない。指摘したら不機嫌になるというのもあるが、そもそもその癖を直して欲しいと思っていなかった。
夫はソファにだらしなく凭れて「へえ」とだけ言って携帯をいじっていた。興味のなさそうな反応に私は悲しくなった。(じゃあどうしてほしかったの?何を期待してたの?)と心の声が私をチクチク刺した。 しばらく無言が続いてから夫は携帯をズボンのポケットにしまうと私の方を見て言った。不機嫌になったら携帯を見ない。愚痴や文句はしっかり言いたいし、聞いて欲しいのだろう。
「で、その人ははるに気があるの?はるもそのあきさんって人が気になるわけ?」 私はそんな話一ミリもしてないのにと思ったが、愛想笑いをしてから「ただの友達だよ」と冗談めかして言った。あきさんに後ろめたいことをしたような気持ちになった。
「なんでもいいんだけどさ。それって他の男と仲良くしてるって言ってるようなもんだよね?旦那の俺としてはいい気がしない。言いたいことわかるよね?」夫は明らかに苛立っていた。言いたいことはわかる。言いたいことはわかるが、そうじゃないと思った。でも、そうじゃないと言えなかった。あきさんはそんな人じゃないと言いたかったのに言えなかった。言ったとしてそれが正しい返答なのかわからなかった。私が何も言わないでいると、夫は再び携帯を取り出して操作しだした。またゲームが始まったのだと思った。その日、夫は激しく私を求めた。抱かれながら私は嘘をついている。そんな気がしていた。
それから夫の前であきさんの話をすることはやめた。
そして今、夫に内緒であきさんと観覧車に乗っていた。あきさんは高いですねーなんて当たり前の感想を言いながら外を眺めている。私はそんなあきさんを抱きしめたい衝動にかられる。
幼い頃からそうだった。唐突に相手の驚くことをしたい気持ちになる。好きでもない男の子の手を握ってみたり、女友達にキスしてみたり、相手の驚く反応を見て安心する自分がいた。その後どんな面倒事に発展しようと私は衝動を優先してしまった。 今もそう。あきさんの反応を見てみたい。あきさんに驚いてほしかった。景色なんて見ずに私を見て欲しくなっていた。
もしかして、私ってあきさんが好きなのかな。でも、私には夫がいる。夫のことはもちろん愛している。(もちろんなんてつけるのは不安の現れだね)と心の声がする。心の声はいつだって正しい。と思う。
「見てください。はるさん、あそこの山。マンションがたくさんあるでしょ?あの辺に昔住んでました。」とあきさんは楽しそうに遠くの山を指さしていた。
「そうなんですね。」と上の空でこたえる私に、あきさんは「どうかしました?」と尋ねる。抱きしめたい。「いえ、」驚かせたい。小柄なあきさんの身体を私はゆっくりと包み込むように抱きしめる。
「あ」とだけ吐息のような声をあきさんは出した。その瞬間私は気持ちが冷えていくのを感じた。あきさんは私を抱き返した。そして、私の胸元で大きく深呼吸をした。私は鼓動が早くなるのを感じ、子宮が熱くなる。どうして……。気持ちは怖いほど冷静に現状を観察している。でも、身体は火照る。
「あきさん」
「はるさん」
二人で抱き合ったまま名前を呼びあった。この勢いでキスしたら、あきさんはどんな反応をするだろうか。私はこの人が好きなのだろうか。これは恋なのか。もしそうだとして、それは彼女がバイ・セクシャルだからだろうか。それとも、私の中に女性を好きになる性的志向が眠っていたのだろうか。
突如として性的マイノリティー、多様性、年齢、国籍、性的志向、それら認めていきましょうと叫ぶ社会に蔓延るきれいごとたちが私の判断を鈍化させる。(多様性?マイノリティー?笑っちゃうほど無関心なくせに。あんたはあきさんの反応に酔ってるだけだよ。)と心の声が聞こえてくる。 私たちは抱き合ったまま、黙ってゆっくりと下降していた。そして、私は嘘をついた。真っ赤な嘘を。
「私、あきさんが好き。」と言いながら夫のことを思った。夫と行った場所。夫と過ごした日々。交わした言葉。数々の思い出。すべてがキラキラして見えた。(それ錯覚だよ。)と心の声が言った気がする。
あきさんは何も言わない。ゴトンと音を立てて、揺れながら観覧車が止まる。降りきったのだ。抱き合った腕をほどく私たちに対して観覧車の係員は「おかえりさないませー」とにこやかに言う。その声がやたらと辺りに響いて滑稽に思えた。そのまま沈黙を貫き、私たちは別れた。別れ際、あきさんが笑顔で手を振っていたのが妙に印象に残った。
夕餉の支度をしながら、夫の帰りを待っている。早く抱きしめて欲しい。私の身体を冷ましてほしい。あきさんとの温もりをぬぐい去るように、抱きしめられたい。(あんたが結局好きなのは自分自身だけなんじゃないの?)と心の声がする。
「うん、そうだよ。」と独り言を言う。そう。私が好きなのは私だけ。夫でもあきさんでもない。だから、私はあきさんをもう一度抱きしめてあげたい。
テーブルに置いていた携帯が震えた。作りかけの夕食をそのままにしてコンロの火を消す。火を消した時のカチッという音が心の奥の方に響く。
あきさんからのLINEだった。「私もはるさんが好き」とだけ書かれていた。返信はしなかった。夫が帰ってきたから。
(やっぱりあんたが好きなのは……)と心の声が言い終わる前に、夫は私を強く抱いた。私はあきさんのことを思っていた。
驚かせたい。なんて思うことなく私はあきさんの手を握っていた。仕事終わりの人たちでごった返す街を歩いている。私たちはこれからラブホテルに行く。夫には今日は職場の飲み会がある伝えてあった。事実だった。でも、二次会に行くと嘘をついて、あきさんと二人きりになった。あきさんの手は温かかった。じんわりと汗をかいているのがわかる。
「はる、好きだよ。」とあきさんが言う。「私も」と返す。(好き。私のことが。)と心の声が言う。
派手なネオンを煌めかせたラブホテルに吸い込まれていく私たちを見ている私がいる。その私はここは夫とも行ったホテルだと思っている。確か和室か洋室か選べって受付の愛想の悪いおばさんに言われるんだよねなんて考えている。あーあ、入っちゃった。しーらないと言って私を見ている私はそっぽを向いて去ってしまう。待って!と私は思う。
和室しか空いていないですよと受付のおばさんが突き放した声で言う。あきさんが手を強く握ってくる。「じゃあ和室で。」と私は応える。夫と行った時もいつも和室しか空いていなかった。洋室が本当にあるのかなと夫は疑っていた。私を見ていた私は何処へ行ったのだろうか。今日は夫が私の帰りを待っている。
和室の照明は少し薄暗くて、畳もところどころ凹んでいる。かび臭くもある。天井には変なシミ。配管の水漏れだろうか。安いからいいんだけど。心は冷めていた。でも、身体は熱かった。あきさんを抱きしめながら、私は去っていった私を探し続けた。
なんの変哲もない
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三日月
三日月が口に見えるのは
何歳までだろう?
春によく
三日月が横向きになると
口に見えた
三日月は
いろいろな生き物の口になり
いろいろな生き物の顔ができた
小さい私は満足で
中くらいの姉も満足で
お兄ちゃんもふんふんと
顎で満足をあらわしていた
私たちはまるいのに
月が細いのは
重大な秘密があるに違いない
探偵、兄弟姉妹三人組は
月を調べることにした
そして
月が丸くなった晩
兄弟姉妹は細くなって
物陰に消えた
「こういうことを繰り返して
ヒトは生きているんだ」
と
お兄ちゃんが言った
あの頃少年は、行こうと思えばどこへでも行けるって頑なに信じてたっけ
ある日少年が目覚めてみると
背中に翼が生えていました
とても大きくて重そうな翼です
少年は空を自由に飛びまわることが夢でした
なので嬉しくてうれしくて
早速その翼を羽ばたかせようとしました
しかし どうやって動かせばいいのか
少年はその方法を知りません
少年はどうにかしてこの翼を動かしたいと思いました
まず 背中にぐっと力を込めてみました
動きません
両手をばたつかせたらいけるんじゃないか
いける訳もありません
目を瞑り 鳥になったつもりになってみれば
少し高いところから飛んでみたらどうか
思いつくかぎりのことを少年は何度も
あきらめずに試し挑んでみました
しかし翼はうんともすんともピクリとも動かず
ただ両の羽どうしが 微かに擦りあう音だけが
空しく耳に残るのみでした
少年はだんだんイラつきはじめてきました
これだけのことをしてもなんともならないのはどういう訳か
やり方がまずいのか 要領が悪いのか
取扱説明書みたいなものはどこかに落ちてないかな
翼の広げ方なんてネット検索したってヒットするわけもないし
いきなり翼だけ生えてきたって どうすることもできないよ
こんな使えないもの 一体何のために生えてきたんだ
これじゃあただ重たい荷物を無理矢理背負い込まされただけじゃないか
こんな背中に翼生やして 外も歩けやしないよ
少年は 柄にもなくさっきまで浮かれていた自分を呪いました
そうしてあるひとつの考えに思い至ったのです
空を飛べたからってなんだっていうんだ
きっとそんなにいいものでもないさ
自由に見えるのは ボクが飛べないからで
飛んだら飛んだで ボクには想像できない大変なことが
沢山たくさんあるに違いない
だってゲンに 飛び方も知らないボクは
こんなにも汗みどろになって
なんとか飛んでやろうと目の色変えて
血相変えて ああでもないこうでもないと
散々やり尽くしたあげく
こんなにもへとへとにくたくたになって
だからといってまったくもって楽しくもなんともなく
ただただ必死
息も絶え絶え
ボクが夢みてたのは こんな世界じゃなかった
どこからか吹いてくる風を感じ 風に乗り
誰にも何も邪魔されることなく
気の向くままどこへでも行ける
なんにでもなれる世界
そんな世界 あるはずないだろ
少年は背中から突き出した大きな翼を
洗面台の鏡に映しながら
不意にニヤリと微笑んで
誰に問いかけるでもなく
こうつぶやきました
コノ ヤッカイ デ ジャマッケ ナ
オモタイ ツバサ ガ ナカッタ ナラバ
ドンナ ニ ジユウ ニ ナレル コト ダロウ
ドンナ ニ キラク ニ イキテ イケル コト ダロウ
コンナ ツバサ ナンテ イラナイ カラ サ
ソラ ナンテ トベナクタッテ カマワナイ カラサ
ダレ カ イッソ ノ コト コノ ツバサ
オモイッキリ ヒッコヌイテ ハ
ク レ マ セ ヌ カ
ゲルニカ
数多の色を一粒一粒に宿した
雪が降っている
触れると黒く変色する
役所のアナウンスがかしましく繰り返す
屋外にいる者は至急屋内に避難せよ
誰一人いないスクランブル交差点で
私は本来白色の傘を掲げて歩む
避難せよ、と呟いて笑う形になる前に
口角が痙攣する
どこに
避難しろというのか
既に立ち並ぶ店はかたくシャッターを閉じ
道といわず建物もネオンの看板も
黒く染まっている
追い出された者はただ歩くしかない
ひたすらに何も考えないように
思い出さないように
目の前を色とりどりの雪が落ちてくる
傘の中からじっと見詰める
こんなにも奇麗なのに
着雪した途端
ニットに黒いシミを作る
コート一枚与えられずに
寒さに手の甲が青黒くなっている
家族というものに
私を入れると崩壊するのだと
親の目がそう告げていた
顔色窺って従順にどんな罵倒にも耐え
全て無駄だった
憎み合う者同士の血が半分ずつ流れる
この私が厭わしくてならないと
なのにあの夫婦は互いを家族だと言う
可笑しくてならない
ひと際強い風に傘を手放した
赤青紫緑黄色の雪が
私の身体に触れた途端
真っ黒に染まった
あの宇宙鯨の遠い日々の慟哭
轟きがただ星を震わせ
この真空の碧に響くは
あの宇宙鯨の遠い故郷の慟哭
鳴響の彼方
そっと花束
誰かの忘れ物
無明長夜の
その果てで
灯の点かなくなった灯篭
碧の最高密度ゆえ
その悲しみに佇みながら
青、取之于藍、而青于
世界から応答がない。
無意識の慣性が指先を動かし、ニュースアプリを立ち上げるが、情報の濁流に呑まれる寸前で、スワイプは石のように止まる。動画サイトも、音楽ストリーミングも、アルゴリズムが差し出すのは、ただ一つ、同じ旋律。
甘美で、どこまでも破滅的な、タイトルを失くした歌。
重力が、私という一点だけを捕縛し、音の檻に閉じ込めているかのようだった。デジタルライフの全ては、この曲の反復によって、規格化され、支配されている。
だらりと着たオーバーサイズのパーカーは、ブランドロゴが控えめに入った「今」の記号。その下に穿いたデニムは、膝元に、安価な反抗を示すかのような微かなクラッシュ加工。髪は、流行に倣って軽く染められた茶色だが、ブリーチ後のケアは滞り、毛先が接続不良を起こしている。
顔の化粧は深夜の重力で崩れかけ、目元には、他者への証明の残骸としての、キラキラとしたラメが微かに張り付く。唇は、ペットボトルの水のせいでグロスが落ち、乾燥してひび割れていた。それは、「人に見られる私」という未完成な構築物が、深夜の孤独という名のデバッグ環境で、徐々に自己解除され始めた姿だった。
コートの内ポケットに触れる。冷たい真鍮の感触。キーホルダーの形をした、小さな銃のレプリカ。それは、漠然とした「世界への異物感」に対する防弾チョッキのつもりだったが、無論、ただの飾りだ。私の日常は、合格という頂を越えた後の、家と大学とバイト先の間の、意味を欠いた反復運動へと変質している。
頭の中で鳴り止まないその歌。
自嘲気味に息を吐く。深夜二時の、少しだけ詩的なノイズに過ぎない。そんなことは、既に知っている。
イヤホンを外し、真鍮のキーホルダーをポケットの奥に沈めた。現実という名の冷たい重力に戻り、疲労と、そして、頭の中で永遠に鳴り響く歌だけを道連れにして、冷たいホームから階段を上がり、歩いてゆく。
歩道の先にある、コンビニの自動ドアが開く。
店内の照明は、ホームの蛍光灯よりも、人工的で、絶対的な明るさを放っていた。モップがけされたばかりの床が、微かに湿った光を反射する。自動ドアのわずかな開口部から、店内放送のBGMと混ざり合うように、例の曲のイントロが流れてくるのが聞こえた。
それは、特定のジャンルに属さない、無国籍なデジタルサウンドであり、受験後の空虚感と、深夜の空気に漂う普遍の孤独を、甘美に歌い上げている。
私は一直線にチルドケースへ向かう。目当ては、韓国風のパッケージに入った、スリムなボトルタイプの乳酸菌飲料。「健康的」であると同時に、「SNSのナイトルーティン」で頻出する、承認欲求と健康志向が混ざったアイコン。次に、冷たいデザートケースから、コンビニ限定の、「小さな贅沢」を謳うピスタチオ味のアイスクリームを手に取った。
レジカウンター。冷たい無言のやり取りを交わし、学生証と一体化した電子マネーで決済する。深夜シフトの店員は、私の顔を見ることなく、機械的な動作で袋詰めを終えた。
外に出ると、立ち止まり、すぐに乳酸菌飲料のキャップを開ける。甘酸っぱい、少し人工的な風味の液体を喉に流し込む。
その瞬間、頭の中で無限ループしていた歌の旋律が、コンビニのスピーカーから流れる「現実の音」と、一瞬、完全に重なり合った。それは、孤独が更新されて最適、標準化された合図だった。
私は、乳酸菌飲料の空ボトルを店外のゴミ箱に捨て、ピスタチオ味のアイスクリームの袋を握りしめたまま、匿名で、孤独で、そして明日も反復するであろう、意味のない自由という名の日常へと、帰路についた。
言葉の力
言葉で人を救いたい
でも言葉で人を救うなんてのは
とっても傲慢な発想かもしれない
言葉でひどく傷ついている人がいる
そういう人を助けるのも
やっぱり言葉だったりするんだ
一人芝居用戯曲:予約席の給仕(ギャルソン)
作:ゐで保名
上演時間:約10分
登場人物:給仕(ギャルソン)
【舞台設定】
昭和初期、帝都の地下にある会員制高級フランス料理店「マルキ」。
舞台中央に、テーブルが一卓。白く美しいクロスが掛けられている。
椅子が一脚、客席側に背を向けて置かれている(観客からは座っている「客」の姿が見えない、あるいは想像上の存在となる)。
テーブルの上には、燭台(明かりは灯っている)、空のワイングラス、カトラリー、そして中央に銀色のクロッシュ(ドーム型の蓋)が被せられた皿が置かれている。
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(幕が開くと、静寂。
給仕が、直立不動でテーブルの脇に立っている。
燕尾服に、白手袋。髪は撫で付けられ、神経質なほど整った身なり。
彼は懐中時計を取り出し、時間を確認する。カチリ、と蓋を閉じる。)
給仕:
(柔らかく、しかし底冷えするような声で)
……お待たせいたしました、ムッシュ。
ご予約の時間でございます。
(給仕、誰もいない椅子に向かって恭しく一礼する。
椅子を引く仕草。見えない客を座らせ、丁寧に椅子を押し込む。)
給仕:
今宵は、当店の「特別個室」をご用意させていただきました。
壁は厚く、扉は重く。……ここならば、どのような「悲鳴」も、極上の音楽として楽しむことができましょう。
(給仕、ナプキンを広げ、客の膝(と想定される位置)にかける。)
給仕:
お顔色が優れませんね。……ああ、失礼。
「顔色」などというものは、生きた人間にのみ許された表現でございました。
貴方様は今、これ以上ないほど静かで、美しい「静物画」であらせられる。
(給仕、ワインボトルを取り上げる。)
給仕:
食前酒(アペリティフ)は、ヴィンテージの赤でよろしいですね?
……ええ、ええ。貴方様のお好きな、「若い」ものです。
熟成された深みよりも、摘み取られたばかりの、鉄の味がする新鮮な赤。
(グラスに注ぐ仕草。トクトク、という音が静寂に響く。)
給仕:
どうぞ。……香りを、お楽しみください。
(客の反応を待つように、少し間を置く)
……おや。グラスをお持ちにならないのですか?
ああ、そうでした。
貴方様は今、手をお持ちでない。
足もお持ちでない。
……ふふ。不便なものですね、「頭」だけというのは。
(給仕、表情をサッと消し、冷徹な目で椅子の上(客の頭部がある位置)を見下ろす。)
給仕:
冗談ですよ、ムッシュ。
貴方様の身体は、今、シェフが腕によりをかけて調理しております。
メインディッシュとして、再び貴方様と一つになるために。
(給仕、テーブルの中央にあるクロッシュ(銀の蓋)に手をかける。)
給仕:
さて。
前菜(オードブル)のご説明をいたしましょう。
本日の素材は、貴方様がこよなく愛された……「愛人」の指でございます。
(パッ、とクロッシュを開ける。中には何もないが、給仕の視線はそこに「料理」があるように振る舞う。)
給仕:
ご覧ください。この白く、細く、美しい指を。
貴方様は常々、仰っていましたね。「彼女は食べてしまいたいくらい可愛い」と。
……願いが叶いましたね。
オリーブオイルと香草でソテーし、爪にはキャビアをあしらいました。
さあ、どうぞ。
お口を開けて。
(給仕、フォークで空気を刺し、客の口元へ運ぶ。)
給仕:
……召し上がらないのですか?
あれほど、愛していらしたのに?
(苛立ちを滲ませて)
それとも、お嫌いになりましたか?
彼女が、貴方様ではなく、私に微笑むようになったから。
(給仕、フォークを皿にカチャンと置く。)
給仕:
嫉妬とは、最高のスパイスです。
貴方様は、私と彼女の仲を疑い、彼女の首を絞めた。
……その時の、彼女の驚いた顔。美しかったですよ。
でも、もっと美しかったのは……その直後、私が貴方様の首を背後からワイヤーで切り落とした時の、その「無防備な断面」でした。
(給仕、うっとりとした表情で、客の首の切断面(と想定される場所)を指でなぞる。)
給仕:
貴方様と彼女は、今夜、このテーブルの上で永遠に結ばれるのです。
胃袋という、温かい闇の中で。
(給仕、急に真顔に戻り、厨房の方を気にする。)
給仕:
おや。メインディッシュが焼き上がったようです。
いい匂いがしませんか?
貴方様の心臓のロースト。ソースは、彼女の脳髄を裏漉ししたものをたっぷりと。
(給仕、見えない皿を運び、テーブルに置く重厚なマイム。)
給仕:
さあ、温かいうちに。
……食べられない? 咀嚼ができない?
甘えないでください、ムッシュ。
貴方様は「美食家」でしょう? 出された命は、残さず平らげるのがマナーというものです。
(給仕、ナイフとフォークを握りしめ、客の口を無理やりこじ開けるような乱暴な仕草をする。)
給仕:
ほら、口を開けて!
貴方の心臓ですよ! 貴方が動かしていた、欲望のポンプですよ!
自分自身を味わいなさい! その脂ぎった罪の味を、舌の上で転がしなさい!
(給仕、狂ったように「肉」を客の口へ押し込む。)
給仕:
美味しいでしょう? ねえ、美味しいと言いなさい!
私たちが調理した「愛」の味はどうですか!
……ああ、溢れている。血が、ソースが、貴方の口から溢れて……。
汚い。なんて汚い食べ方だ。
(給仕、ナプキンで客の口元を乱暴に拭う。
ふと、我に返ったように動きを止める。
荒い息。
給仕は、ゆっくりと姿勢を正し、いつもの慇懃な態度に戻る。)
給仕:
……失礼いたしました。取り乱してしまって。
(優雅に微笑む)
どうやら、満腹のようですね。
残りは、我々スタッフが美味しくいただくことにいたします。
(給仕、伝票を取り出し、テーブルに置く。)
給仕:
お会計でございます。
お代金は……貴方様の「魂」一つで、結構でございます。
(給仕、テーブルの上の蝋燭を吹き消す。)
給仕:
それでは、ごゆっくり。
地獄の底まで、お見送りいたします。
(暗闇の中、給仕の「いらっしゃいませ」という声だけが、不気味に響いて幕。)
【幕】
魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話
こことは異なる世界。違う時代。魔法やその関連技術と共に生きる人々が居た。
これから語るのは、そのような世界で、魔法機械「魔導機巧(※マギテクス)」を扱う技師である「マインテナ」として生きる、一人の少年魔法使いの話だ。
穏やかな陽の光が差し込んできている静かな部屋に、カチャカチャと、何か機械的なものをいじっている音が響いている。
その音の方へと目を向けると、長机に、幾つかの卓と作業用機材を組み合わせたような見た目を持つ作業台の前で、作業服と手袋を身に着けた若い男性が一人、工具を手に何らかの作業をしている姿がある。
ときおり、その手元で淡い光が明滅している。
「ふぅ……。修理作業はこれで終わりっ!」
しばらくして作業の手を止めた彼は、手にしていた工具を右横の卓上へ置き、いじっていた物を反対の卓上に置いていた綺麗な箱の中に入れると、空間換気用の魔導機巧を起動させたうえで、顔に着けていた防護用メガネを取った。
そして、「うーん」と声を出しながら大きく伸びをする。
「やっぱり義父の言うように、複数の歯車を組み合わせた仕掛けを持つ魔導機巧の修理は、神経を使うなぁ……。面白いから別に良いんだけどね」
彼は、誰に言うでもなくそう口にすると、作業台とその周辺を軽く片付け始める。
使った工具や作業台の簡単な清掃。その後に、ホコリが立たないように注意しつつ床の清掃。それらが全て終わってから、出入口付近で作業服と手袋を脱いで、近くに置いてあった箱に入れた。
そして彼は、その箱に手をかざすと。
「『箱は流風によって封じられ、時が来るまで放つべからず』」
そう口にする。
瞬間、かざした手が淡い翡翠色の光を宿したかと思うと、作業服と手袋を収容した箱を風が包み込んで封が施された。収容物が内外に影響しないようにするための「魔法(※マギア)」を使ったのだ。
「よいしょっ」
魔法がキチンと作用したことを見届けた彼は、箱を抱えて部屋を出ていく。ガチャと扉が閉まった後には、換気用魔導機巧の駆動音が残るのみだった。
それから少しした後。
彼は、今度はカウンター席に座って店番をしていた。
周囲には大小様々なショーケースが置かれており、中には精巧に作られた置時計や掛け時計、懐中時計などの時計類が時を刻み続けている様子が見えている。また別のケースには、小型魔導機巧用の魔力供給機が幾つか展示されていた。
そのいずれにも、「カルセスファー工房」のロゴが彫刻されている。
「そろそろかな」
彼は、そのショーケース内の時計の一つに目を向けると、そう呟く。
するとその時、店の出入口付近に誰かがゆっくりと近付いてくる音が聞こえ始めたかと思うと、すぐにガチャリと扉が開き、その向こう側から上品そうな雰囲気の紳士が姿を見せた。
すっと彼は席から立ち上がり、紳士を出迎えた。
「ごきげんよう、ミシェル。少々早かったかな? 何とも待ち遠しくてねぇ」
「こんにちは、ジェラールさん。いいえ、大丈夫ですよ。すぐに依頼品をお持ちしますので、そちらの席でお待ちください」
紳士、ジェラールとそのような会話を交わした彼、ミシェルは、笑顔でその場を離れ、背後の扉の向こうへと姿を消した。そしてすぐに、先程の作業場でいじっていた品を収めた綺麗な箱を持って戻ってくる。
「こちらですね。老朽化していた部品は新品に交換し、経年による傷も、可能な限り外観を損なわないように修復いたしました」
そのままジェラールの座っている席の所へ向かい、その中身である依頼品、時計を、彼に検めてもらう。
「ああ、ああ……。こんなにも美しく蘇って……。おや、この箱は? もしや?」
中に収められている時計の美麗さに目を輝かせていたジェラールは、ふと外箱の存在を気にした。彼の言葉に、ミシェルが頷いて応じる。
「はい。御依頼の際に箱が無かったという事でしたので、外箱は僕の方で御用意しました。宜しかったでしょうか?」
「おお、やはり! これはすまない。実はあれから家中を探して、ついさっきに外箱が見つかってね」
「何と、それは良かったですね。その箱は今、お持ちに?」
「いや、置いてきたよ。律儀な君のことだ。私の不手際を伝えた時点で、代わりの入れ物を用意しているだろうと思ってね」
「そうでしたか。お気遣い有難う御座います。ですが、持ち帰られた際には、どうか元の箱にお収め下さい。その方が、この時計も安心でしょうから」
「大丈夫だろうか? 一時とは言え箱を失くしていた私だ。そのような不義理をしては君に申し訳ないし、時計からも「物質霊(※フォントム)」が出てきて、形見をもっと大切にせよと怒られそうでねぇ……」
「あー、なるほど。その時は、そうですねぇ……」
申し訳なそうにしているジェラールに、ミシェルは愛らしい微笑みを向ける。
「時計は、ジェラールさんから伺ったお母様のお人柄を思うに、きちんと謝意を示せば許してくれるのではないでしょうか?」
「そうだろうか?」
「ええ、きっと」
「……分かった。その時は覚悟を決めるとしよう。有難うミシェル。この時計、これまで以上に大切にすると誓おう」
ジェラールはそう言って、時計の入った箱を、持ってきた鞄へと大事そうに収めると、ゆっくりと立ち上がった。ついでに、鞄から硬貨が収められた革袋を取り出して、机の上に置いた。ずしりと重そうな音が聞こえる。相応の金額が入っている事が分かる。
「では、これが今回の後払い分の報酬だ。確認しておくれ」
「有難う御座います。では失礼して……」
ミシェルは革袋をもって一度カウンター席に戻ると、小型の、計量器型の魔導機巧を持ち出し、革袋をその上に載せた。そのまま魔導機巧のスイッチを入れると、すぐに革袋は淡く薄い光に包まれた。機器から放出される魔力によって、中身を検めているのである。
それから少し経ち、革袋を包む光が消えた直後。ミシェルは頷く。
「はい、大丈夫ですね」
「良かった。では、また何かあった時は、お願いするよ」
「毎度、有難う御座いました。またのお越しをお待ちしております」
確認が終わり、ジェラールはミシェルに見送られつつ、笑顔で店を後にしていった。
「ふぅ……。さーて、次のお客様が来る前に、お茶にしようかな」
時計の音が良く聞こえる静かになった店内で、ミシェルは次の予定について考えを巡らせ始め、そのまま台所のある方向へと姿を消していった。
これが、ミシェルと言う「マインテナ」の、日常の一幕である。
明日も、明後日も。恐らくこのように過ごしていくことだろう。
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