N o w   L o a d i n g

通知

ユーザー名

メッセージ

2021/01/01 12:00:00

通知の有効期限は3か月までです。

メールアドレス パスワード 共有パソコン等ではチェックを外してください パスワードを忘れた方はこちらから

投稿作品一覧

よすがとゆかり。

 汽笛の音が夜の闇を切り裂く。
 私は今、夜汽車に揺られながら当てのない旅をしている。先祖代々継いで来た土地を捨て、縁もゆかりもない地へと向かう。荷物を持たず着の身着のままで。旅支度をする時間などちっともなかった。持ち出せた物はほんの少しばかりの金だけだ。
 一体、この体はどこに根付くのか。私は窓の外を見る。空に月はなく、雲が星を隠す一寸の光もない夜。道標になる明かりもない闇を見て、私は手で目を覆った。
「もし、隣いいかい?」
 ふと、通路側から声が掛かり、顔を上げて声の方を見た。ひどくぼさぼさの無精髭が目立つ男がこちらを見つめている。私は心の中で首を傾げる。汽車の中には二、三人程しかいない。空いている席に座らず、私の横に座る理由はわからなかった。
「ええ、どうぞ」
 とは言え、私には断る理由はなかった。男の服が少し臭ったが、それくらいのものだ。男は、無精髭の下にある口をにいっと歪ませ、歯抜け顔で笑うと遠慮も見せずに隣の席に座った。
 そこから、私はしばらく汽車の鳴らす車輪の音に耳を傾けた。男は黙りこくったまま、じっと自分の爪を見つめている。何か私に用事でもあるのかと思ったが、そうではなさそうだ。強ばっていた体が少しだけ緩んだのがわかった。
 隣に男を乗せたまま、汽車は一駅、二駅と進んでいく。いつになったら、この男は汽車を降りてくれるのだろうか?私の頭の中で男の存在が大きくなり始めた頃、男が口を開いた。
「なぁ、あんた、どこに行くつもりだ?」
 爪を見つめたまま、うわ言のように呟く男。その質問に、私は「聞いてどうするんです?」、と質問で返した。答える義理はこれっぽっちもない。
 私の言葉に、男は視線を上げて、こちらの顔を見て来た。その瞳に興味という感情を宿して。
「どうもしねぇさ。ただ旅行にしては、えらく荷物がなかったもんでな。それに、汽車を降りる気配もねぇ。気にするなってのが無理なもんだ」
「それを言ったら、私だって貴方のことが気になっていますよ。このがらがらの汽車の中、わざわざ私の隣に座ったわけは?」
 私の言葉を聞き、男は笑いながら「それに答えたら、俺の質問にも答えてくれるかい?」と言う。それに対し、「気が向けば」と伝えた。本当は私の現状など誰にも教えたくない。頭の中では、はぐらかしてやろうとばかり思っている。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、男は「そうかい」と呟くと、訥々と語りだした。
「そうだな、例えば同じ汽車に乗り合わせた自分と同じ境遇のような存在。そいつに興味が湧くのは当たり前ってもんだろ? そいつの人となりを知りたくなった。だから隣に座った」
「一緒にされたくないな」
 男の、その浮浪者のような恰好を見て、同じだと言われるのは屈辱だった。だけど、男は私の言葉にくっくっと引きつった声で笑うのみ。
「一緒さ、だってあんたも元居た場所から他所へ飛び出してきた口だろ?」
 その言葉に、それが答えになると知りつつも私は二の句が告げられなかった。たっぷりと時間を使った後、「どうして?」とようやく言葉が出せた。
「別に俺は探偵のようにあれこれに理屈をつけるわけじゃない。ただ、荷物を持たないあんたが頭を抱えて悩んでいる。それだけで大体わかるさ。俺も昔は同じだったからな」
「そうですか」
 男の境遇が少しだけわかると、背中に薄っすら汗を掻いていることに気付いた。男は暗に私のことを行き詰まりだと言っているのだ。
「で、あんたはどこへ行くつもりだ?」それは最初の質問だった。
「さぁ、わからない。私はずっと同じ場所にいるつもりだった。それ以外のことなんて少しも考えてなかったから」
 私の言葉に、男は「それは俺にもわかる」と頷く。その姿を見ていると、段々唇が震えてくる。
「私は一体どこに行けばいいのだろう? 世間はこんな私を受け入れてくれるのだろうか? それが怖くて、頭から離れなくて。私の居場所はこの世界になくて」
 心に出来た罅の隙間から言葉が漏れていた。
 きっと私はこれから空を舞う蒲公英の種になるのだろう。ふわふわと飛び回り、そして人が見ない場所で根付き一生を終えるのだ。
「まあ、先輩として一言だけ言っておく。期待は早めに捨てておけ」
 男が言う、その言葉を認めたくはなかった。だけど、口は「そうですか」と零していた。
 そこで一旦話が止まり、冷え切った空気が私と男の間に流れた気がした。
 汽車の汽笛がけたたましく鳴る。私の頭の中にいる自分が目を覚ました気がした。一体、見ず知らずの男になにを言っていたのだろうか。私らしくもない。私は、少しだけ前に崩れていた体勢を元に戻した。
「それで、こちらの話はしましたが、これ以上何かありますか?」
 もう、男が私の横にいる理由はないはずだ。それなのに、男はまだ私の横を陣取っている。一刻も早く一人になりたいというのに。
「もちろんある、ここからが本題だ。あんた、俺と一緒に開拓地に行かないか?」
「開拓地?」
 聞いたことはある。だが、私とはあまりにも縁遠い場所だったので、一瞬何を言われたのかわからずに聞き返してしまった。
「そうだ、聞いたことはないか? 今、開拓して村を興そうって話が出ててよ。それに俺は行くつもりなんだ。ほらよ、俺は今まで何にもやってこなかった。だからこそ、こんな俺でも何かできるんじゃないかって考えてよ」
 一息でまくしたてるように語った男の目は、童心を忘れていないかのように澄んでいた。だから、私は何も言えなかった。
 私は知っている。それが過酷なことを。それに、悪い噂も山ほど聞いてきた。その中には人の生き死に関係するものもあった。
「なぁ、どうだ。自分の土地を持ちたいだろ? どこに行けばいいかわからないなら俺と一緒に行こう」
 無言でいた私に、男は詰め寄ってくる。土地という言葉に一瞬流されそうになった。しかし、今の私には決断が下せなかった。
 まだ私は心を引きずっている。罅割れてしまったけど、そこから零れた細かい破片が汽車から元居た場所に繋がっている。まだ私の中に未練があるのだと気付いた。
 汽笛が鳴り、駅が見えてくる。汽車が駅に着くと同時に、私は逃げ出すように男の前を通って扉へと向かう。男が後ろで何かを言っていたが、私の耳はそれを通さなかった。
 汽車から降りると、冬の冷たい空気が私を襲った。それで、私は現実に帰って来たような気分になった。遠くではもう陽が差していた。
 男が乗っていた汽車が駅から出ていく。彼がどこまで行くのか、今の私にはわかりようもなかった。


 0

trending_up 83

 6

 4

漢字が空から降ってきた!

云うと言う
伝えると信じる

似た意味を持つ漢字だけど
人と組み合わせれば
伝と信
全く意味が異なってしまう
わけだから
云と言は
本質に違いがあると見て間違いない。


信じる = 人に言う
伝える = 人に云う


言はわたし達が普段使っている漢字で
非常に使い勝手が良く
また、
言の漢字を使う熟語は
数えればきりがないほど多い。
言の字は、他の漢字と組み合わせやすく
飾りやすく、手を加えやすいのだ。
何にでも変化させられる。
特に言葉という技を駆使すれば
世界の全てさえも表現できよう。


一方の云。
熟語が10個も存在しない。
信じられないぐらい少ない。
それはすなわち、
云う対象を飾ることも
組み替えることも
置き換えることも
出来ないぐらい素直な漢字である
と見て間違いない。
また、
云の字には雲の意味もある。
真っ白で人の手では
捕らえることも形作ることも
色を付けることさえ叶わない雲。
雲と同じく素直で
ありのままの姿の云。
おそらく、
云は嘘をつけないのだろう。



飾ることを得意とする、言。
偽ることさえ出来ない、云。

さあ、時間だ。
解体を始めようか。



自分の話を
どうしても人に伝えたいから、云う。
自分の話を
どうしても人に信じさせたいから、言う。
これがわたしの解である。





では。
以上を踏まえて
次の問題を解いてみて欲しい。


問1 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは殺人現場を 目の当たりにしたので、当時の状況を警察に いう。



問2 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは2年間付き合った 恋人にプロポーズを いう。



問3 次の文章の『いう』を漢字で書こう

 ・あなたは今、世界に向けて自分の 作品の長所を いう。




注1 犯人はあなたとします
注2 人生で4人目の恋人とします
注3 作品は文芸作品とします



解答はコメント欄へ⤴

 0

trending_up 71

 5

 7

船を出すのだ Set Sail - full ver.

夢を見るのだ
希望の夜を枕にして
明日を迎えるのだ
たどりついた朝に

さびれた心を晒すのだ
うずくまる彼の悲しみの昨日も

そうしてくれてゆく周りの人の胸にも
種を蒔いてゆくのだ

種を
蒔いてゆくのだ

 
  
船を出すのだ
絶望の北風を帆に受けて
船を出すのだ
たどりついた先で

乾いた大地をうるおすのだ
うずくまる彼の悲しみの雨で

そうしてぬかるんだ彼の足跡に
種を蒔いてゆくのだ

種を
蒔いてゆくのだ
  


胸を張るのだ
落胆の声を耳にしても
胸を張るのだ
わかりあえない先でも

人を信ずる道を説くのだ
うずくまる彼の悲しみの声にも

そうしてぼやけてゆく過去も糧にして
種を蒔いてゆくのだ

種を
蒔いてゆくのだ



そうしてぼやけてゆく過去も糧にして
種を蒔いてゆくのだ

夢を見るのだ
船を出すのだ
胸を張るのだ

種を
蒔いてゆくのだ


https://youtu.be/9_4QNX5Swfc?si=O9YwojFa0gLI40OR

 0

trending_up 44

 1

 1

少年と奴隷


登場人物

父王 Genca Roar(ジェンカ・ロアー):
傲慢、残虐、自己中心的、愚かさを兼ね備えたノーム王国の国王。

王子 Allen Roar(アレン・ロアー):ジェンカの息子、ノーム王国の王子。

少女Thing(シング):奴隷の少女。10歳の時アレンと出会い、4年後再会を果たす。

執事Maple(メープル):アレンのお付の執事。


場所

ノーム王国:ジェンカ国王治める北の小国。かつては偉大な王国であったが、国王が代わり、ジェンカ国王の堕落と傲慢な国政により小規模な国へ。威厳を失わない為の愚かな紛争と国王中心の独裁政治が続き、国民は常に飢え、戦争に疲弊しきっていた

1幕

§1 The Cage, the Moon
   
     少女、檻の中から三日月を見上げる。ふきっ晒しの檻の中にいる少女を激しい雨が打つ。

歌 The Cage,the moon

少女:
美しい月が今宵も
醜い私を照らし出す
誰も助けてはくれない 絶望の生き地獄
死ぬ事も出来ない 喜びなどどこにもない
せめて心を無くして 生きることが出来たら

少女:死ぬ勇気も無い、飢えと寒さで体は壊れそう。せめて心を無くせたらいいのに……。

§2  The birthday of 10

〇 王宮にて(夜)

     豪華絢爛な王宮の広間。王子10歳の誕生パーティにて、城中の人達が祝っていた。国王は愛人たちと戯れながらワインに豪勢な食事を楽しむ。
王子は上辺だけの頬笑みを浮かべ、外の世界のことを考えていた。

歌 ジェンカ国王万歳

家臣/召使いたち:
さあ、はじまる豪華絢爛な誕生日
王子様の10歳の生誕祭
メイドに執事、家臣に兵士
王子様には目もくれず
ジェンカ国王の機嫌を取る
盃を、葉巻を、美女を、余興を、
国王様のためなら何でもする
それがこの国で生きていく術

家臣A: アレン王子!おめでとうございます。もう10歳になられて……。赤ん坊だったのが昨日のようです。
アレン:ありがとう、もう赤ん坊じゃないよ。
家臣A:分かってはいるんですがね、……おいちょっとそこの君!こんなものを国王にお出しするのか。もっと肉を、豪勢に盛らんか!ジェンカ国王は肉が好物だとあれほど……。
召使いA:アレン王子!おめでとうございます。まあなんと、見目麗しゅう晴れ姿で。
アレン:……ああ、ありがとう。僕もようやく……。
召使いA:まあ!貴女、昨夜は国王陛下にお呼ばれしたんですって。で、国王陛下はどうでしたの?
召使いB:それはそれは、もうあちらの方は戦の如く、激しくて激しくて……。
メープル:アレン王子、アレン王子!
アレン:……ああ、メープル……。
メープル:おめでとうございます、10歳のバースデー。立派な大人の仲間入りですね。
アレン:誰も僕のことなんか気にしちゃいないさ、興味があるのは僕の父だけ。
メープル:そんなことありませんよ。少なくともこのメープルは。
アレン:そう言ってくれるのはお前だけさ。疲れた、部屋に戻るよ。
メープル:8時の式典には参加してくださいよ!
アレン:……。

〇アレン、自室へ戻る

アレン:どうせ誰も僕のことなど気にしちゃいない。この国の王子だからと言って良いことなどひとつも無い。誰も僕を見ちゃいないんだ、みんな父上に取り入りたいだけさ……。

歌 ひとりぼっちの月夜

アレン:
大きな部屋でいつもひとり
心を許せる友人はいない
何不自由ない暮らしをしていても
心はひとりぼっち
こんなのは本当の自由じゃない
窓から見える綺麗な満月
月だけが僕を見ている

                突然雷が落ちる。

アレン:……ガタガタと、うるさいな。ひどい落雷だ……。もし僕が部屋を抜け出しても誰も気づきやしないだろう……。

〇アレン、城を裏口から抜け出す。夜空では雷が鳴り響く。

アレン:ひどい雨だなあ!!はは、また光ったぞ!今夜は綺麗な月夜のはずだったんだけれど、天気さえも僕をバカにしているのか?ははは!いいぞ、もっと降れ!誰もここに僕がいるだなんて気づきやしない!!(両手を広げて天を仰ぐ)

           カサっと物音がする

アレン:!!誰だ!そこにいるのは!!(辺りを見回す)
アレン:出てこい!さも無くば家来を呼ぶぞ!!

           物陰からボロをまとった人影が出てくる

アレン:……なんだ乞食か。こんなところにまで乞食が来ているとはな……。乞食の侵入を許すほど城の警備が緩くなっているのか。今日は父上の機嫌が良いからな、みんなこぞって媚びを売りにいっているんだ。おいそこの、名前をなんて言う?
少女:……。
アレン:喋れないのか?もっと大きな声で!この雨音で聞こえやしない!!
少女:……。
アレン:まあいい、少し待ってろ。なにか食べるものを取ってきてやる。

          アレン、少しして戻ってくる。

アレン:キッチンに入っても、誰も気にもとめやしない。まあ王子、お夜食が必要ですか?だって。誰も僕を気にしちゃいない……ほら、パンだ!これをやる!しまった、傘を持ってくるんだった……おいそこの!こっちに取りに来れるか?
少女:……。
アレン:おい!って、わあ!

            アレン、足を滑らせ裏口扉の階段を数段滑り落ち、尻もちをつく。

アレン:いてて……うう、冷たい……、ほら、パンを、あっ……。

        腰をさするアレンに目もくれず、乞食の少女、パンを引ったくって走り去っていく。

アレン:いてて、全く……あのボロボロ、女だったのか……?一瞬顔が見えた様に思ったのだけれど……。
召使い1:王子!アレン王子〜!!
召使い2:おかしいわねぇ、部屋に行ったはずなんだけれど。 
召使い1:王子!アレン王子!式典が始まりますよ!!広間にお戻りを!!全く勝手なお坊ちゃまなんだから……。
王子:もうそんな時間か……いてて……。

○城の広間にて
       一同、城の広間に集まる。

家臣:偉大なるノーム王国の王、ジェンカ国王に礼!
一同:(礼)
ジェンカ:これはこれは、余の愚息、アレン誕生日パーティーは順調か?アレン、ひっく、お前はもう、ひっく、いくつになった?(泥酔した様子で)
アレン:はい、10歳です。
ジェンカ:そうかそうか、余がその歳の頃は虎を狩り、
召使い3:まあ、虎ですって!
ジェンカ:隣国に攻め入る指揮を取っていたぞ
召使い4:まあなんと勇敢なこと!!
ジェンカ:お前も父を見習い、立派であれ。
家臣:ジェンカ国王〜!!!(家臣が広間へやってくる)
ジェンカ:どうした大佐殿。
大佐:国境近辺西側の村、ヘイポ村を討ち入りましたぞ!兵糧攻めが決め手となりましたな!村民らが全面降伏を掲げ、我らがノーム王国の配下になると!
ジェンカ:でかした!あの小さな、貧しい村め、やっと降伏を申し出たか。めでたいことよ!これでまた我が王国は大きくなり、ますますの繁栄がもたらされるという訳だ。
右大臣:大佐殿、きっちり女子供を集めて参っただろうな?
家臣:それはもちろんです右大臣殿。奴隷市場も安泰ですぞ!
ジェンカ:息子の誕生日といい、めでたい日じゃ!皆、我に乾杯!
一同:偉大なるジェンカ国王に乾杯!
アレン:……(退屈そうな顔をして自室に戻る)

§3 邂逅

       時は経ち4年後、アレンは14歳になっていた。広間では兵士たちが武道に励んでいる。

○城の広間にて、昼間

大佐:一同、やめ!アレン王子のお通りだ!
一同:(アレンに敬礼)
アレン:午後のレッスンを開始する。
一同:はっ!(再度敬礼)

    広間の扉が開き、国王と家臣が入ってくる。

ジェンカ:これはこれは、励んでおるな。
大佐:はっ、国王陛下!一同、敬礼!
一同:ジェンカ国王万歳!(再度敬礼)
アレン:どうされたのですか、父上。
ジェンカ:可愛い息子の頑張りを見に来ただけでは無いか。アレン、励んでおるな?
アレン:はっ!(敬礼)午後のレッスンを開始したばかりです。
ジェンカ:よろしい。では大佐、息子相手に闘ってみよ。
大佐:ですが国王……。
ジェンカ:遠慮は要らぬ、敵を殺すつもりで討ってみよ。無論、真剣でな。

    双方に構え、緊張が走る。大佐とアレン、真剣で戦い始める。
   メープルが広間にやってくる。

メープル:ジェンカ国王、こちらにおられましたか。
ジェンカ:おお、メープル。どうした、今面白いところで、
メープル:先日の戦果である奴隷一同が揃いました。
ジェンカ:おお、それはそれは!もう良い、戦闘やめ!

          家臣たち、鎖に繋がれた奴隷たちを広間に連れてくる。

ジェンカ:ほほう、よく集まったな。アレン、お前にもひとつ分けてやろう、慰みにするなり、剣術の練習にするなり好きにしろ。
アレン:僕は奴隷など……(ヘトヘトになって肩を押さえながら)
ジェンカ:国王命令が聞けぬのか!!!(すごい剣幕で)
ジェンカ:……アレン、さあ選ぶが良い(微笑んで)
 
   アレン、広間中央に行き奴隷を見つめる。

アレン:……君……君は?(ひとりの少女の前で止まり驚いた表情をする)
少女:……。
アレン:君、君のことどこかで……。
メープル:アレン様、そちらの奴隷になさいますか?
ジェンカ:ほほう、さすがは我が息子。女を選びよったか。どこの馬の骨ともしれん、愛想もなくまるで物のようだわい。それにするのか?
アレン:君……名前は?
メープル:国王、決まったようです。こちらの奴隷で。
ジェンカ:それは良い。メープル、奴隷に問題は無いな?
メープル:はい、美しく引き締まり、健康体であります。
ジェンカ:よろしい。では引き続き、剣術に励め!(国王退室)

○アレン自室にて

アレン:君、君の名前は?どこかで会ったことがある?
少女:いいえ、王宮には今日初めて来ましたので。
アレン:君、名前は?
少女:人は私をシング(Thing)と呼びます。
アレン:物……そうか……。
少女:何かありましたら、お呼びください。
アレン:(本当に、心が無いような女だな……ここまで無機質な人間に今まで出会ったことがない……)

○別日、アレン自室にて

少女:おはようございます、アレン様。(カーテンを開ける)
アレン:ああ、おはよう……見ろよシング!(窓から見える庭を指さして)もうクサイチゴの花が咲いている!だんだんと暖かくなってきたからなあ!
少女:クサイチゴ……?
アレン:ああ、あの庭の右隅に見える花だよ!綺麗じゃないか……イチゴは好きか?
少女:イチ……ゴ……?
アレン:まあいい!今取りに行ってやる!

○別日、廊下にて

アレン:シング、シング〜!どこだい?
少女:はい、ここにおります。
アレン:ああ、ちょうど良かった。大佐達が新しい剣の開発を行っているんだ。ちょっとこれを持ってみて、重いかい?(剣を渡す)
少女:……はい、少し……。
アレン:だよなあ、男の僕が持っても重いんだもの。こんなもの使えやしない。
少女:あの、誰が、使うのですか……?
アレン:さあ?大佐曰く兵力強化のために女子供にも武装させるらしい。それで我が身を守れるなら、良い事さ。
少女:……。
アレン:ありがとう!もう行っていいよ。
少女:あの、アレン様、食事の支度が出来ました。
アレン:ああ、ありがとう。もうすぐしたら行く。シングもちゃんと食べるんだ、君は細すぎる!

歌 Something different

アレン:何かが違う
今までと違う
広い城にひとり、誰も僕に気が付かない
今は違う
シングがいる
朝から晩まで、僕のそばにいる
僕の話を聞いてくれる人が、僕だけを見てくれている人がいる

少女:何かが違う
今までと違う
失った心、失った光
広い町の中で、誰も私に気が付かない
あるのは寒さと飢えだけだった
太陽のようなその笑顔
私にだけ向けられる幸せ
そばに居させて、あなただけを守りたい
あの日出会った時から

○アレン自室にて

アレン:君は?どういうところからきたの?
少女:小さな、村です。
アレン:へぇ、田舎から来たんだ。どこの村?
少女:国境近辺の……小さな、村でした。
アレン:ふうん。村ってさ、どんなところ?水は美味しいの?人も風景も、のどかなのかな。
少女:……クサイチゴや、パンの無いところです。
アレン:そう……僕には知らないようなユニークな食べ物や文化がたくさんあるんだろうな。村かあ、行ったこともないなあ。僕はこの城を出たことがないんだ。うんと昔、城下町には行ったことがあるんだよ。ものすごい人だったな……。いつかシングとも行くことが出来たらなあ。まあどうせ、僕が城を抜け出しても誰も気づかないだろうけど。
シング:アレン様は、このお城を出たいのですか?
アレン:分からない。ここにいたら、孤独ではあるけれどなにか不自由をする訳じゃない。いずれ国王になるんだ。それまで、学ぶべきことを学んで、ここで過ごすんだと思う。多分……(遠くを見つめる)

§4 16歳の家出

歌 贅沢讃歌

家臣/召使い:
今日も城は忙しく回る
朝から晩まで、王のご機嫌取りで大忙し
昨夜は奴隷を5人殺したそう
今朝は金を卵に塗って食べたそう
国王陛下の贅沢三昧
国王陛下の酒池肉林
国王陛下の機嫌を取るため偽りの戦果をでっち上げろ
国益は上々、奴隷市場はぼろ儲け
国の内情など誰も気にしない
国王陛下の機嫌さえよければ
明日は我が身だ、隣人よりも国王陛下に気に入られろ
さすれば明日は生きられる
家臣A:今宵はアレン王子の初陣だ。
召使いA:あの、奴隷と仲のいいお坊ちゃまが?
家臣B:ああ、剣術の腕は確かだが、些か度胸に欠けると見える。
召使いB:国王陛下のご子息ですもの、必ずや敵を討ち取りましょう。

            少女がアレンの元にやってきてから2年が経つ。アレンは初めて出来た友達に毎日が楽しかった。ノーム王国は隣国との戦争を続け、国民たちは疲労困憊していた。

○アレン、城にて(夕方)

アレン:シング〜シング?
少女:はい、ここに。
アレン:ああ、良かった。今夜、僕の初陣なんだ。
少女:ういじん……危険、なのですか?
アレン:なあに、危険では無いさ。僕の前にたくさんの兵士達がいるし、僕は国境まで出向いて行って、戦争を、するんだ……。(俯く)
少女:体が震えておられます。
アレン:ああ、人を殺したことがないからね。怖いのかもしれない。
少女:アレン様ならきっと成し遂げられます。
アレン:父上の期待に応えられるか、不安なんだ。父上は僕がたくさんの敵人を殺すことを願っているだろう。父上の武勇伝はたくさん聞かされてきたから……。
……たまにね、父さんが分からなくなる。僕の母上は僕が生まれた時に死んじゃったんだ。父さんは確かに尊大な人だけれど、たまに父さんが分からなくなる。
少女:アレン様は、お父様を尊敬しておられるのですね。
アレン:尊敬……?してるのかなあ。この国の人はみんな父さんに気に入られることだけを考えて生きてるだろう?それは父さんが昔本当に強くて、この国を豊かにしたからなのか、それとも本当は国民たちは恐怖や我が身可愛さに父さんに気に入られようとしているのか、僕はたまに分からなくなるんだよ。どうしたら真のことがわかるのだろう。
少女:お父様が行ってること、していらっしゃる行為にこそ価値があると思います。
アレン:行為にこそ、か……そうだな、僕も今年で16だ。父さんは16で国王になった。僕ももっと立派な人間になれるよう、父さんが何をしているのか、そばでよく見てみるよ。ありがとう、シング。

○地下室にて

歌 情けは無用

兵士たち:
心を捨てろ 慈悲を捨てろ
幼子たちを洗脳するため
薬を飲ませ 残虐を叩き込め
明日は我が身、明日は我が身だ
情けを呼び起こすな 
国王陛下には向かえば この目に遭うのは自分たち
自分の弟、妹と、娘息子と変わらぬ子供たち
年端もいかぬこの子らに 情けは無用
この国で生きる為に 情けは無用
所詮は敵国の子供たち

○廊下にて(夕方)

兵士:アレン様!どうかされましたか?食事の時間は暫し先です。
アレン:少しうずうずしてね。
大佐:今日が初陣ですから。きっと立派にやり遂げられますぞ!
アレン:父上は?
大佐:父上は今、地下室に……。
アレン:分かった、地下室だな。(廊下を翻して駆けていく)
大佐:アレン様、国王陛下は今お忙しく、アレン様!

○アレン、地下室へ走っていく、大佐たち、後を追いかける(日が暮れかけている)

アレン:すごい臭いだ……なんの臭いだろう……。
ジェンカ:おお、アレンでは無いか。ちょうど良いところに来おった。
アレン:父上、この……この少年たちは……?(奴隷兵士たちを見つめて)
ジェンカ:見てのとおり、奴隷じゃ。こやつらが我が国の兵力となり国力となる。
アレン:なにか、が、おかしい……?彼らの目が、目が変だ……!!
大佐:見ての通りです、アレン王子。連れてきた奴隷はすぐに服従はしませんし、自殺を試みるものもおります。それを阻止するために開発されたのがこの薬。薬で麻痺させ、依存させる。それで正常な心を奪うのです。
ジェンカ:今年の出来はよいの、今のところ1人も出ておらんのだろう?脱離者が。
大佐:はい、国王陛下。素晴らしいことでございます。
アレン:こんなことが……こんなことが許されると思っているのか……!!
ジェンカ:アレン、我が息子よ、この世で最も大切なものはなんだ?
アレン:この世で、最も、大切なもの……?
ジェンカ:すぐ答えんか!お前が幼き頃よりずっと教えておろう。我が国、ノーム王国の存続、即ち私の富こそがこの世でいちばん大切なことじゃ。
大佐:お考えの通りでございます国王。
アレン:違う、違う違う違う……!!!(頭を振り乱しながら)
ジェンカ:何が違うのじゃ、言ってみろ!この国の国王である私が豊かに生きている、村なぞいくらでもあろう、そのひとつやふたつ滅ぼして何が悪い!
アレン:この子達にも、この少年らにも人生は、心は、生き方はあったはずだ……それを、それをこんなふうに……!!嘘だ嘘だ嘘だ……!!連れてきた奴隷たちは農作や国境警備の手伝いに使っていたんじゃないのか!!
ジェンカ:黙れアレン!!!それでも我が息子の考え方か!言葉に気をつけろ。(キッと睨む)
この国を見ろ、一昨年より続く凶作に、止まぬ隣国との争い。どこをどう見たって奴隷をあてがうべきは兵力の増加だ。国民たちが飢えてようと知ったことか、この儂こそが豊かに生きるべき人間なんじゃよ。その為なら多少の犠牲は厭わん。
アレン:おかしい、おかしいだろこんなこと……何故だ、何故君たちは逃げようとしないんだ!!そんなにもこの薬が彼らを……。
ジェンカ:薬だけでは足りないがな。
アレン:なに……?(国王を睨み返す)
大佐:恐れ多くも国王陛下、これ以上はアレン様には刺激が、
ジェンカ:なに、良い機会じゃ、愚息は城でぬくぬくと育って世の厳しさを知らん。今年で16になると言ったか?政治とは、戦争とはなんたるかを教えるにはちょうど良い。連れてきた少年たちは薬だけでは完全に洗脳はされない。そこで殺させるのじゃよ、
アレン:殺させる……?
ジェンカ:そう、両親をな。奴隷を連れてくる時その家の両親も連れてくる、薬で麻痺させた後に最初の殺しを行わせる、それが親殺しじゃ。奴隷達は罪悪感と帰る場所の無くなった喪失感でだんだんと命を捨てることも厭わぬ最強の兵士となる。
アレン:嘘だーーー!!!!!!
ジェンカ:待て、アレン!

○アレン、耳を塞ぎながら地下室をかけ上る、追いかけるジェンカ。

アレン:嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!(剣を抜いて突きつける)
大佐:アレン王子!(駆けつける家臣たち)
アレン:父上あなたのやっている事は全て……!
ジェンカ:全てなんだと言うのだ?お前がこうしてぬくぬくとここで暮らしていけるのも我が国が豊かであるからこそよ!感謝こそすれこの儂に歯向かうとは!もう良い!おい、あれを持ってこい!
家臣:はっ!(家臣たち、後ろ手に繋いだシングを連れてくる)
アレン:シン……グ……?
ジェンカ:お前はこの奴隷をたいそう可愛がっているそうじゃの。それは良い、じゃが執事ならここにメープルがいるでは無いか。今宵は初陣、お前の覚悟をこの奴隷を叩き斬って見せてみろ!
アレン:待ってください父上……
ジェンカ:二言は無用!さあ、斬れ!
アレン:シング……
少女:アレン様……
ジェンカ:さあ!お前がやらぬなら儂が叩き斬ってやるわい!
アレン:やめろー!!!(ジェンカと剣を交わす)

アレン:(こんなところにいちゃいけない。僕が見ようとしていた、尊敬しようとしていた父上は幻想だ。今はっきりと、やっと真実を見ることが出来た。この国は腐っている、僕はこんなところにいたくない。例え城を追われることになっても……シング、ふたりで逃げよう、2人ならきっと……)

○アレン、家臣達と戦いながらシングを連れて城を逃げ出す。下弦の月が彼らを照らす。

アレン:(ナレーション)半分の月が頭上に昇っている。父上はこれを勝利の月と言ったっけな。もう半分が輝いていないのは敵国が、僕たちに負けて滅んだからだと。滅ぼされた国の事なんて考えたこともなかった。
もうどうでもいい、あの人は父上でもなんでもない。これからはシングとふたり、僕達は生きていくんだ。強く、強く、ふたりで、自由を探して……。

1幕終わり


2幕

§5 町での暮らし

    アレンとシング、命からがら城を逃げ出し生き延びる。アレンは怪我を負っている。

歌 町での暮らし

町人たち:
今日も忙しく、あくせく働き
雀の涙程の給与を得る
冬はもうすぐ、今年も凶作
必死になって蓄えろ
蓄えたって越えられやしない
厳しい冬がやってくる
毎日忙しく、あくせく働き
それでも生活は豊かにならない
流行病、飢饉、兵役
私達の疲れ果てた毎日が今日も始まる

○アレンとシング、川沿いで横たわっている、明け方

アレン:はあ、はあ……。
シング:アレン様、アレン様……。
アレン:水、……水はあるかい……?
シング:はい、すぐお持ちします。(町へ向かう)
花屋:誰だおめぇは!
シング:アレン様……弟が酷い怪我をしています。どうかお水を。
花屋:このご時世どこに他人に情けをかけるやつがいるんでぃ!よく見るとお前、上等そうな布を纏っているな?
シング:こ、この腕輪を差し上げます。どうかお水を、お水をください……。(お水を1杯貰って去る)
花屋の夫人:変わった子だね、あの子。どこから来たんだろう?
花屋:どこかの貴族の落ちぶれだろう。今やこの国もかつてほどの勢いは無い……。

アレン:(水を飲んで)はあ……ありがとう、シング……。
シング:ひどい怪我をしておられます。今夜眠る場所を探して参ります。
アレン:ははは……。(微笑む)
シング:アレン様……?

歌 2人でいれば

アレン:
こんなにも寒く こんなにも汚い
見たこともないような 景色が目の前に広がる
夢か 悪夢か ひどい痛みだ
不思議と平気と思えるのはなぜ
城にいた時に 知らなかったことばかり
全てが辛いのに 身体は痛むのに
不思議と平気と思える
シング、お前と2人でいられるならば
寒空の下 凍えていても
今夜眠る場所を探そう……(アレン眠りにつく)

シング:アレン様、アレン様!!

○掘っ建て小屋にて、夜

シング:アレン様の具合もだいぶ良くなられましたね。(額のタオルを替えながら)
アレン:ああ、もう明日には歩くことが出来よう……。シング、君の看病のおかげだよ。ありがとう。
シング:とんでもございません……。
アレン:なにか、食べるものはあるか?治ってきたら腹が減ってきたみたいだ。
シング:……(ツボの中にある僅かな薬草と木の実を見つめて)今はこんなものしか……。明日の朝までに食べ物を調達して参ります。
アレン:ああ、ありがとう。城からもっと金になりそうなものを持ってくるんだったな……。

○シング出かけようとする、真夜中

アレン:……シング、シングかい?
シング:(ビクッと肩を震わせ)はい。
アレン:こんな時間からどこに行くんだ?
シング:少し……夜道を散歩しようと思って。
アレン:こんな雨の中をか……?今夜はやめて置いた方がいい。明日になれば僕も歩ける、明日の夜2人で散歩しよう。
シング:今日でなければ、今宵でなければ……。
アレン:シング?シング、どうか本当のことを言って欲しい。僕は町での暮らしをしたことがない。こんな夜中にどこに……。
シング:身体を売りに行くのです。
アレン:身体を……売りに……?
シング:身につけていたものはもうほとんど売ってしまいました。明日の朝、アレン様に使う薬草を使えば全て無くなってしまいます。清潔なお水ももうありません。
アレン:身体を、身体を売るってシング、それって……。
シング:売春です。この国で平民たちは金に困れば皆そうしています。男は兵役を志願し、それでも金は足りませんから、女は身体を売るのです。職がなければ皆そうします。冬を超えるためにそうします。では。
アレン:待て、シング!(シングの腕を捕まえる)ダメだそれじゃ、そんなことしちゃダメだ……そんなことをしないと生活できないほどこの国の人達は困っているのか……身体を売ることが普通、だと……?そんなことシングにさせない。
シング:ではどうやって。
アレン:は?
シング:ではどうやって明日から生きていくのです。
アレン:それは……。
シング:今は追っ手がかかっていませんが、アレン様のお立場は簡単に人にはばらせません。涙で人が慈悲を与える時代は当の昔に終わりました。綺麗事は言っていられません。では。
アレン:待て、シング!(ほっぺたを引っぱたく)
シング:……。
アレン:ダメだよそんなこと、そんなことしちゃダメなんだ……お願いだからもっと自分を大切にしてくれシング……。ここにはイチゴもパンも無いかもしれない、けれどきっと僕が何とかするから……明日になればふたりで仕事を探そう、僕が何とかするから……。

○翌朝、町にて

アレン:お願いします!どうか働かせてください!
魚屋:うるさいガキだね、人は足りてるんだよ。
アレン:お願いします!どうか、なんでもしますから!仕事をください!
奴隷商人:よう、若いの。ふん、少し痩せてるが奴隷には悪くないな、嬢ちゃん助けるために金持ちの奴隷になるってのはどうだい?
アレン:うっ……。
奴隷商人:嬢ちゃんもべっぴんさんだなあ、おめぇさんも高く買値がつくよ、さあどうだい?
アレン:やめろ!この子は、この子は行かせないぞ。行こう、シング。(駆け巡るアレンたち)

歌 国民よ立ち上がれ

町人A:隣国との紛争が悪化した
町人B:徴兵の号令がまたかかる
町人C:あの子も、この子も、みんな国に取られる
町人D:夫は先の戦争で脚を無くしたわ
町人E:10歳以下の子も集められるそうよ
町人たち:
こんな国はもううんざり いっそ隣国が統治してくれた方が(しっ!)
国王陛下は何もしちゃくれない 私たち国民は飢える一方
徴兵に徴収、飢饉に紛争、度重なる争いと国王の気まぐれ
今こそ立ち上がれ 国民たちよ立ち上がれ

§6 2人だけの平和

     アレンが城を出て1年が経つ。国の経済は更に傾き、国民たちの不満は高まっていた。

○城にて、昼間

メープル:アレン王子が出奔されて、はや1年……。
大佐:国王陛下の前で、よもやその話をするでないぞ、メープル。
メープル:はい、心得ております……。しかし国王陛下も何も、見つけた瞬間殺せとまで……。
大佐:良いでは無いか小僧の1人。国王陛下の機嫌さえ良ければ。(大佐、退室)
メープル:アレン王子はまだ16歳でした……これからもっと、学ぶことも知ることもありましたのに……。

歌 善悪とは

メープル:
善悪とは なんだろう
いつからこの国はこんなことに
町では流行病に、飢えと死が漂う
ああ、アレン様あの子は今どこに
純粋な目、子供らしい表情
少しひねくれたところもあったけれど
いつかあの子が、この国を建て直してくれる
そう信じてこの私は、付き添っておりました
奴隷の少女が来てから アレン様は
よく笑うようになりました
せめてあの少女と どこかで2人、幸せに
落ち延びていて欲しい

○町の広場にて、夕方

花屋:よう、アレン、戻ってきたか。今日もよく働いてくれたな。
アレン:おっちゃん!ああ、今日はこんないっぱい。だけどこんなにもたくさんのケシの花、何に使うの?
花屋:おめぇさんはンなこと知らなくていいんだ。なんだ、辞めたいのか?
アレン:まさか。あの時、俺にもできる仕事を与えてくれたあなたは恩人だ。
花屋:妙なお坊ちゃんだよ。俺にもおめぇさんくらいの娘がいてな。もう結婚するって手筈だったのによ……。相手が戦死して、娘も後を追ったのさ。もう生きてけないってな……。
アレン:そう、だったんだ……。
花屋:それでも俺は女房を食わしていかにゃならん。ああ、ありがとう、そこに置いておいておくれ。
アレン:ああ!今日は町が一段と賑やかだったよ。
花屋:……ああ、そろそろなんだろ。
アレン:そろそろ?
花屋:おめぇさんも、恋人さん連れて逃げ出す準備をしとくんだぞ。おめぇさんは少しおっとりしたところがあるからな。
アレン:逃げ出す……ここを……?
花屋:ああ、俺らも冬が来ればここを立ち退くつもりだ。あっち側だと思われたかねぇからな。あんたらもどこかへ逃げ延びな。
アレン:ああ……。

○アレン、掘っ建て小屋に戻る

アレン:ただいま、シング。
シング:おかえりなさいませ、アレン様。
アレン:アレンでいいって。
シング:……。(困った顔)
アレン:あはは、慣れたらでいいよ。いい匂いだな、今日はなんのスープ?
シング:うさぎが安く売っていましたので。
アレン:シングはなんでも出来るんだな。いつもありがとう。
シング:アレン様、手が……。
アレン:ああ、仕事だよ。ちょっとかぶれたかな……。
シング:すぐに薬を作ります。
アレン:いいんだ、少しするとマシになるから。(手をさすりながら)それより、花屋のおっちゃんが妙なことを言っていたんだ。
シング:妙なこと?
アレン:ああ、"もうすぐだ"って……何がもうすぐなんだろう。それに僕たちも逃げる準備をしておけって……。
シング:……(スープをかき混ぜながら)
アレン:まあ大丈夫、なんとかなるさ。
シング:ふふふ(微笑む)
アレン:なんだい?
シング:不思議と、
アレン:不思議と?
シング:アレン様のお話を聞いていると、そうなるような気がするのです。
アレン:それが不思議かい?
シング:……ええ。私は、優しさや希望を知らないところで育ちました。

歌 心の檻

シング:
生まれは隣国 母はダンサー
貧しい暮らし 母子ふたりで
母が亡くなり 国境近くの村へ
あったのは やはり貧しい暮らし
あったのは母の 温かい微笑み
人の親切 知らずに生きてきた
いつしか母の 笑顔も消えた
飢えと寒さは私の心を凍らせた
ある日村が 焼かれて私も
奴隷として車に乗せられた
売られる日を 待つ毎日
月明かりだけが永遠の時間を知らせる
あの日初めて 私は人から
食べるものを貰った
何も知らない、その人は
私に食べ物をくださった

シング:私は希望も優しさも、人の心も当の昔に無くしました。アレン様といると、不思議と何とかなるように思えるのです。
アレン:シング……。なんとかなるさ、城を出てふたりでこうやって、今も暮らしているじゃないか。(シングを抱き寄せて)温かい部屋も広いベッドも要らない、ふたりで生きていこう……。

§7 止まらない戦争

   ノーム国でいよいよ冬が始まる。3年に及ぶ飢饉と凶作、ひどさを増す隣国との紛争に奴隷狩り、国民たちの不満は爆発した。

歌  今こそ戦え

町民たち:
冬は目前 さあ立ち上がれ今こそ
国王陛下の悪政には飽き飽きだ
子供が死んだ 親が死んだ
夫は帰ってこない
息子は殺された
この国に未来などない
町民A:手筈はどうなっているんだ
兵士A:ああ、明日の朝決行だそうだ
隣国と手を取り合い、今こそ我らに勝利を

○城の王室にて、昼間

家臣:国王陛下!申し上げます!国民たちが反乱を起こしました!
ジェンカ:それがどうしたと言うのじゃ、国民共など武を持って、
家臣:恐れ多くも陛下、今我々の兵力の9割が国境にて隣国との戦争に!
ジェンカ:黙れ黙れ!誰かおらんのか、名案を出せるやつは!余の満足のいく答えを出せるものは!!
右大臣:恐れ多くも陛下、今回ばかりは国民たち総出で……。
家臣:恐れ多くも陛下!申し上げます!
ジェンカ:なんじゃ次から次へと……!
家臣:国境西側の門が破られました……!
ジェンカ:なに?
家臣:隣国の兵士たちは、明日の朝にも城に到達するかとのことで……。
ジェンカ:ええいええい!もう良い。私は今夜にでも城を抜ける。者ども、城中の兵力をここに集結させ、儂を守らせるのだ。さあ、ボケっと突っ立ってずに用意を始めろ!
大佐:無理です陛下、城前には武装した国民たちが。明日の朝には隣国の兵士たちがこの城に攻め入ります。落ち延びるには時間が……。
ジェンカ:時間、時間さえあれば良いのだな。良い考えがある。バカ息子がいたでは無いか。
大佐:は……?
ジェンカ:あのバカ息子を使う時が来たと言っておるのだ!アレンよ、この日のためにお前は生まれてきたのだ。大佐、すぐに国中にお触れを出せ、全てはバカ息子の行き過ぎた贅沢が招いた国難だとな。
メープル:気が狂いましたか国王!
ジェンカ:黙れメープル!誰かこの者を牢に閉じ込めい!
メープル:どうか、どうかアレン王子にご慈悲を!!(メープル、連れ去られる)
ジェンカ:儂に刃向かったバカ息子などどうでも良い。最後に儂の役に立てて嬉しかろう。

○掘っ建て小屋にて、昼間

アレン:シング、シング!町の様子がおかしいんだ。町に誰もいない、花屋のおっちゃんも!
シング:戦争です。
アレン:戦争……?隣国との、かい?
シング:いいえ。おそらく国民たちは反旗を翻したのでしょう。この国に反乱を起こすつもりでいます。
アレン:そんなバカな、父王がそれを放っておくはずが無い!たくさんの血が流れるぞ!
シング:無論。それでも立ち上がらなければならないほど、窮地に陥っているのです。
アレン:確かに……この国の人たちの暮らしは貧しすぎる。冬もろくに越えられない……城にいた時は知らなかった……。

歌 いつか夕日を

アレン:
城でいた時 僕には孤独だけが
シングと出会って 孤独は去った
城を出るとこんな暮らしが待っていると 何知らずに育った
城の中でも、外でも 皆父上を敬い
平和に、温かく、大切な人たちと生きていると
とんだ勘違い 飢え、寒さ、暴力に人を搾取する商売
平和などとは程遠い どこにも温まる場所など無い
いつか太平が戻るならば その時きっと、血で染ることの無い
空を 赤い夕日を ふたりでいつか

アレン:僕たちも逃げよう。
シング:ええ。

§8 The sacrifice

○メープル、地下牢にて

メープル:くそっ……アレン様になんとしてでも知らせなければ……
大佐:準備は整った!城中の兵士を集め、国王陛下の護衛に当たれ!(叫んだ後、地下に走ってくる)
メープル:大佐!ショーホイル大佐!!
大佐:うるさいやつだな、騒ぐな、メープル殿。
メープル:大佐……。(大佐が地下牢の鍵を開ける)
大佐:今宵は負け戦だ、誰の目にも明らか。国民たちの怒号がこの城の地下にいても聞こえよう。聞こえていないのはジェンカ国王、あの方だけだ。我々はそれでも精一杯陛下をお守りするが、半分は我らが招いた今夜。メープル、お主も好きに生きろ。
メープル:感謝します、大佐。あの、最後にもうひとつ。
大佐:なんだ。
メープル:馬を1頭、借りられませんか?

歌 全会一致

隣国の兵士/ジェンカ国の国民と兵士たち:
今こそジェンカ国王を撃ち殺せ
私たちが奪われてきた全て 1人の命では償い切れない
誰のせいでこうなった(ジェンカ国王!)
いつかこんなにも貧しくなった(ジェンカ国王!)
共に戦い、共に歌おう
今夜が明ける時、希望の朝は私たちの手に
女:子供を返せ!
女:夫を返せ!
男:息子を返せ!
男:友達を返せ!
今こそ戦おう ノーム王国を建て直そう
兵士:皆に告げる!この国難は我らがジェンカ国王のご子息、アレン王子の贅沢癖が引き起こしたもの。王子は国民たちの怒りを知って城を抜け出した!アレン王子をひっ捕らえよ!
愚かな王様の、愚かな息子を捕まえ共に
焼き殺せ

○メープル、町を馬で駆け抜ける

メープル:どこだ、どこにいるのですアレン王子……アレン王子の居場所……いや、あの娘、あの奴隷は確か国境付近西側の村出身だったはず……もしかすると……。

歌 今夜を生き抜け

ジェンカ:愚かな国民たちが、武器を持っただと。どいつもこいつも使えぬやつ、全てのものはこの儂のために
メープル:なんとかして、王子を。まだ幼かった王子様、貴方だけがこの国の希望。
アレン:なんとか生き延びよう、共にふたりで。未だ見ぬ太平の世を、見るまでは。
シング:生きていても仕方が無いと、せめて死ねぬなら心を無くしたいとばかり思っていたあの頃。今になって初めて思う、死にたくないと。生きたい、彼のそばで。
国民/兵士たち:
今夜を生き抜け ノーム王国を再建しろ
ジェンカ国王を、アレン王子を、ひっ捕らえよ

○メープル、国境につく。怒号と銃声をくぐり抜け、西側へ

メープル:どこだ、王子、アレン王子!!
アレン:メープル、メープルだなその声は!
メープル:アレン王子!ああ、良かった、こんなにもお姿が……
アレン:何とか生きていたよ。すごい混乱だ。もうノーム王国は終わったんだね。
メープル:そんなことありません。アレン王子、王子が生きている限り希望がございます。あなたは逃げるのです、今はこの混乱、時が満ちるまで隣国へ亡国を!さあ!
アレン:ああ、行こう、シング。
シング:ええ、行きましょう。
メープル:あなたは……シング、アレン王子を頼みましたよ!

  国境西側の門は隣国の兵士たちに破られ、銃声が飛び交う。手を組んだノーム王国の国民と、隣国の兵士たちが国王と王子を血眼になって探していた。アレンとシングはボロ切れで身を隠し、混乱に乗じて隣国へ脱出する予定だった。
○布で顔を隠したアレンとシング、国境にたどり着く。

アレン:……ありがとう、シング。
シング:……センリーです。
アレン:センリー?
シング:私の、本当の名前。
アレン:センリー……センリー!シングよりも、ずっと良い。綺麗な名だ。
センリー:(ニコッと微笑み)ありがとう、アレン様。希望を、ありがとう。
アレン:さあ、行くよ。(アレン、センリーの手を取って駆けていく)

   ジェンカ国王の手下兵が国境付近に追いつく。国民、隣国の兵士たちとの撃ち合いに。どちらが味方かも分からぬまま、メープルも応戦する。そんな時、1人の兵士が王子を見つけたぞ!と叫ぶ。

兵士:見たんだ!一瞬だが、別人みたいになっていたが王子だった!あれは王子だ!王子を捉えよ!
メープル:嘘だ!アレン王子はもう隣国へ逃げ延びてここにはいない!(兵士と剣を交わらす)
お前たちは行け!
兵士:あそこだ!あの子だ!
国民:アレン王子だって?
隣国の兵士:お前たちに何人の同胞を殺されたことか!!
国民:こんな苦しみ、味わったこともないだろう!
民衆:王子を逃がすな!王子を撃て!
メープル:やめろ!危ない!

   パン、と1発の銃声が轟く。

アレン:(ゆっくり振り返って、自分を庇って心臓を撃たれているセンリーを見る)(声にならない叫び)(やめろ!)
民衆:どこだ!王子はどこに行った!
兵士:隣国へ行ったと聞いたぞ!続け!
センリー:アレン、アレン様……(アレンの腕に抱かれて。息も絶え絶え)
アレン:嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……嫌だ……行かないでくれ、センリー、僕たちふたりで、センリーの故郷で、生きていくんだろう?センリー……。
センリー:アレン、様……あなたと出会えて良かった……。楽しい、1年だった……。
アレン:嫌だ、嫌だ嫌だ……置いてかないでくれセンリー……僕には君が必要だ、センリー……
センリー:アレン、様……太平の世を、どうか……。(息絶える)
アレン:センリー……(絶望した様子で天を仰ぐ)
メープル:アレン様!アレン様気を確かに!(戦いながらアレンを振り返る)
アレン:(ゆっくりと地面を見て、落ちている短剣を拾う)
メープル:アレン様!アレン王子!!あなたが!あなたは生きなければならない!アレン王子!
アレン:ああ、こんなにも、こんなにもセンリーの手が冷たい……こんなにも……大丈夫、ひとりになんかしない。すぐ行くよ、センリー。君をひとりにはしない……君の故郷には行けなかったけれど、いつまでもふたりで。ふたりで夕日を見よう。

  アレン、自分の腹を刺しセンリーの上に倒れる

メープル:アレン様!!!!

§9 The cage has gone

○歳をとったメープル、子供たちに本を読み聞かせている、夜

メープル:そしてその国境には見たこともないほどたくさんの、美しい月見草が咲き誇りましたとさ。
子供たち:えー、今日のはかなしいおはなしだったー。
子供たち:もっと明るいおはなしがいいー。
子供たち:おじいちゃんはこのお話がだいすきなのね。
メープル:ああ、悲しくて、可哀想な、幼いアレン様……今こうして皆が幸せに生きていられるのも、奇跡のようなものなんじゃよ……それを忘れずにな。
子供たち:はーい。
メープル:では、おやすみ……良い夢を……

歌 The cage has gone

メープル:
いつの世にもある 悪はある
そこに必ず 善もある
ふたりの 檻は今、取り払われた
ふたりは いつまでも あの、地平線を
美しい 夕日を、月を
見上げているのでしょう


Fin


 0

trending_up 20

 0

 0

葬られた物語に寄せて

物語は、誕生したその瞬間から、世のあらゆるものから独立した、ひとつの生きものだ。だから、燃やされそうになれば両腕に拳を掲げ、声を上げ、抗う。自立した生きものであるから、作者でさえも、勝手に葬り去ってはいけない。

不幸にも作者によって火にくべられた物語たちは、訴えるだろう。やめて、燃やさないで、と。かれらは火と火の間で焼かれながら、おのれの飛翔する権利を叫び続ける。そうして最後にはこう聞こえる。「あなたはわたしたちを見捨てた……」
燃やせば燃やすほど、言葉は爪を立てて縋りつく。皮膚に穴を開け、広げ、神経を裂き、血が垂れる。けして治ることのない火傷のように、胸に焦げ付き、ぬめりけのある体液を流し続ける。

物語は裏切りを忘れない。あらたなエピローグを書き終えたとしても、過去の傷は回復するどころか、痛みを増すだろう。あたらしく生まれたものたちが、各々燃やされたものたちを悼むからである。かれらは生きものであるから、亡き仲間を想うふるまいを止めることはできない。包帯を巻いても、冷やしても、皮膚の内側では弔いのろうそくが整列し、血肉をあらわにする。
繰り返される痛みのために、燃やした者はおのれの裏切りを悔い続ける。罪人が眠る間にも、焼かれたはずの物語たちが、望む結末を訴えたげに頭上を飛び交っている。かれが悪夢に苦しみ跳ね起きた瞬間、物語たちは原稿という物理に姿を変え、寝具を取り囲むように墜落している。かつて自由であった白い鳥たちの、もぎとられた翼と胴体だ。
物語たちにとって、作者がただ唯一の身内であると知りながら見捨てた。取り返しのつかない事実の重さは肉体の底に沈み、かれに両目を開かせていた、わずかな力を奪い去ってゆく。死骸と万年筆に手を伸ばすことのできぬからだで、罪人はふたたび眠りにつく。


まどろみの闇の中で、水の音が聞こえてくる。つややかな藍と麻生地のダークグレーが溶け合った、深夜の大気が一面に広がっている。ただ黒々とした川は流れ、しづかにかがやいている。空の低い位置からのぞく光を見つめて、かれは立っていた。いまは身体的苦痛から解かれた手足で、川岸へたどり着く。
さわやかに冷たいであろう水に、右足の爪先を浸けた。小石の敷き詰められた水底が、暗闇の中に消え、足の甲から腰の上まで、いっときに落ちた。かれは驚かなかった。反射的に目を閉じ、呼吸を止め、身に着けた布がわずかながら水に抵抗するのを知覚しながら、落下した。

まぶたを開く。無重力と真空に包まれ、沈んでゆく。

黒い水面が、ひるがえる翼のようにきらめいていた。

 0

trending_up 38

 0

 3

雪夜

夜に降る雪のましろのあなたの
声降り積もり見えないあたたかさ
待ち侘びて誰よりも会いたい
最後の列車には誰も乗っていなかった
光の中の結晶は憐れではなく
ただわたしはわたしなのだと思う
弱くていいのだと思う
今は明日のことは考えられないけど
身についた雪をふるって歩く
歩き始める夜があるのだ
夜に降る雪のましろは暗闇の
遠く仄かな明かりに消え
わたしはわたしなのだと歩く
歩き始める夜

 0

trending_up 5

 1

 0

頬が桃に染まるとき
僕は貴女のそばにいて
温めようとするけれど
貴女はその手を振り払い
今はだめだと僕に言う

頬が桃に染まるとき
僕は貴女の横にいて
布を出そうとするけれど
貴女はそのまま歩き出し
今はだめだと僕に言う

そして貴女に問いかけた
なぜ触れさせてくれないの
貴女は頬を赤らませ
「恥ずかしいの」と
目を伏せた

嗚呼愛しいよ
僕の小鳥
そんなことで赤らめて
桃から林檎になっている
あの鳥籠に閉じ込めて
一生君を飼っていたい

頬が桃に染まるとき
僕は貴女のそばにいて
貴女をじっと見つめている

 0

trending_up 52

 1

 4

掌編 郵便受けの精度

 金沢へのひとり旅行から帰ってきた三十七歳の澤部は、自宅マンションのエントランスで、一瞬だけ立ち止まった。  
 オートロックのガラス扉に映った自分の顔が、思ったよりも疲れて見えたからだ。

 北陸新幹線の車内で飲んだ缶コーヒーの苦味が、まだ舌の奥に残っている。観光地らしい観光はほとんどしなかった。兼六園を一周し、近江町市場で海鮮丼を食べ、夜はホテルの部屋でテレビをつけっぱなしにして眠った。それで充分だった、と澤部は思っている。充分でなければ困る。三十七歳、独身、不動産営業。旅に意味を求めすぎる年齢でも、失うものを抱えすぎる年齢でもない。

 郵便受けを開けると、いつものようにチラシとダイレクトメールが数通入っていた。その中に、見慣れない白い封筒が一通、混ざっている。

 宛名は、澤部ではなかった。

 苗字が違う。部屋番号は、隣。  
 よくある間違いだ、と澤部は一瞬で判断する。郵便配達員が疲れていたのかもしれない。雨の日だったのかもしれない。あるいは、このマンションの郵便受けの並びが、ほんの少しだけ分かりづらいのかもしれない。

 だが、次の瞬間、その「よくある」という言葉が、喉の奥でひっかかる。

 本当に、よくあって良いのだろうか。

 澤部は、エントランスの壁にもたれ、封筒を指先で挟んだまま考える。封筒は軽い。中身は、おそらく書類一枚か二枚。差出人の欄には、法人名が印字されている。見覚えがある。不動産業界に長くいれば、一度は耳にする名前だ。保証会社。あるいは、管理会社。もしくは、金融機関。

 澤部の頭の中で、職業病のような思考が立ち上がる。

 この封筒一通から、どこまで推理できるだろうか。  
 隣人は、何歳くらいか。単身か、家族持ちか。持ち家か、賃貸か。ローンはあるか。延滞はないか。  
 この封筒の重さ、この紙質、この法人ロゴの配置。そのすべてが、情報だ。

 澤部は、封筒を裏返さない。開けもしない。ただ、見る。見ることだけに集中する。  
 これは、覗きではない。観測だ。そう自分に言い聞かせる。

 もし、この情報を悪用するとしたら。  
 営業リストに使えるかもしれない。ターゲティング広告に応用できるかもしれない。個人の信用度を、統計の一部として扱うこともできるだろう。二〇二X年の今、個人情報は貨幣と同じだ。いや、貨幣以上に流動的で、価値がある。

 だが同時に、リスクも見える。  
 誤配は、誤差だ。誤差は、システムの脆さを示す。完璧に見える管理体制の、ほんの小さな綻び。そこから侵入するのは、善意とは限らない。

 澤部は、ふっと息を吐いた。  
 考えすぎだ、と自分に言う。いつもの癖だ。不動産営業は、常に「もしも」を考える仕事だ。もしも相手が断ったら。もしも金利が上がったら。もしも災害が起きたら。  
 もしも、隣人の郵便が混ざっていたら。

 澤部は、エレベーターに乗り、三階で降りた。廊下は静かで、旅行前と何も変わっていない。自分の部屋の前を通り過ぎ、隣の郵便受けの前に立つ。

 封筒を差し込む。  
 それだけの行為だ。

 だが、その一秒の間に、澤部の頭の中では、いくつもの未来が立ち上がっては消えていく。  
 もし、この封筒を自分の部屋に持ち帰ったら。  
 もし、写真に撮ったら。  
 もし、誰かに話したら。

 何も起きない未来と、取り返しのつかない未来。その境界線は、驚くほど薄い。

 封筒は、何事もなかったかのように、隣人の郵便受けに収まった。  
 それを確認してから、澤部はようやく自分の部屋に戻る。

 玄関のドアを開け、スーツケースを置く。  
 金沢で買った土産は、まだ鞄の中だ。誰に渡す予定もない。自分で食べるか、職場に持っていくか、まだ決めていない。

 澤部は靴を脱ぎ、部屋の電気をつけた。  
 見慣れた一人暮らしの空間。観葉植物は元気そうだ。ポストに入っていたチラシを、無意識にゴミ箱へ放り込む。

 そのとき、ふと、考える。

 隣人は、今、何をしているだろうか。  
 仕事だろうか。休みだろうか。  
 あの封筒の存在に、気づくだろうか。気づいたとして、何を思うだろうか。

 澤部は、キッチンで水を飲み、ソファに腰を下ろした。  
 テレビをつける気にも、スマートフォンを見る気にもならない。ただ、静かだった。

 今日一日で、何かを得ただろうか。  
 金沢の街並み。海の匂い。ホテルの白いシーツ。  
 そして、あの一通の封筒。

 澤部は、ようやく気づく。  
 旅から帰ってきた実感が、今になってようやく湧いてきたのだと。

 旅先では、何も起きなかった。  
 だが、日常に戻った瞬間に、世界はほんのわずかに歪んだ。

 郵便受けの精度。  
 それは、この社会がどれだけ正確に人を区別し、同時にどれだけ簡単に混線するかの指標だ。

 澤部は、ソファに深く身を沈める。  
 明日も仕事だ。いつも通り、物件を案内し、書類を揃え、数字を追う。

 今日の出来事は、誰にも話さないだろう。  
 話すほどのことではない。  
 だが、忘れることもない。

 それでいい、と澤部は思う。  
 封筒は、もう自分の手を離れた。

 ようやく澤部は、旅行の荷物を開け始めた。  
 金沢で買った菓子の箱を取り出し、テーブルの上に置く。  
 包装紙を剥がす音が、やけに大きく聞こえた。

 世界は、今日も正確で、不正確だ。  
 その両方が、同時に存在している。

 澤部は、そのことを、少しだけ理解した気がしていた。

【了】

https://i.imgur.com/ZBBDXrD.png

 0

trending_up 7

 1

 0

まぶたのうらの星空

ゆるり、蛍光灯。
八等分のホールケーキは長い針。
しんだはな、かれたひと、
あからさまだね、朝
蝶々は秒針。
くるくるひらひら
吸うとしよう酸素、今日も、昼
ひやり、蛍光灯、
ひびわれてささくれ
はやく愛想になれ、夜

 0

trending_up 20

 1

 3

戯曲『硝子張りの少年』

【プロローグ】

 無機質、唯々無機質が其処には存在している。向こう側では人々が行き来している。こちらを見るもの、恋人と腕を組むもの、子供、大人、老人、中年、男、女。好き好きに会話をし、通過してゆく。

 静かな音が流れ始める。波のように、おおきくなったりちいさくなったり、音が寄せては引いてゆく。

 寂しい空間。少年がひとり、玩具の家で遊んでいる。手には二つの人形。向こう側には、少年を見下ろす子供、大人、老人、中年、男、女。息を呑んで見詰めている。

少年「おはよう、お父さん」

 少年は幸福そうである。その姿は唯々美しい。だが何処か漂う虚無感。 

少年「昨日は給食でゼリーが出たよ。今日は、音楽の授業で歌うんだよ。威風堂々、知ってる?それにね、皆で歌詞を付けたんだ。学ぶ喜び胸に満ち(威風堂々のメロディで)うん、そう、皆あんまりやる気ないから、殆ど先生。分かる?あ、そう言えばね、最近仲良くなった子が、靴を隠されていたよ。それから、それから……」

 少年の声がちいさくなってゆく。

 溶暗



【一場】

 溶明

 食卓。時刻は朝七時。父と息子がふたり、座っている。ふたりは同時に手をあわせる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。時折好き好きに会話をし、眺めている。

少年「おはよう、お父さん」
父 「おはよう。昨日は学校で何があった?」
少年「昨日は給食で出た牛乳を飲んで隣の席の子が吐いて、そうしたら前の席の子が吐いて、そうしたら前の前の席の子も吐いて、そうしたらね、前の右の子も吐いて、前の左の子も吐いて前の前の前の左の子も吐いて前の前の右の右の前の子も吐いて」
父 「うん、うん」
少年「それからね、もう教室中大変で、足、足の踏み場なんかなくって」
父 「うん、それは、今度聞こうかな。ほら今、ご飯を食べているじゃないか。あとほら、今日は……」
 ふたり食器の中身を覗き込む。
   間
少年「ああ、ごめんなさい」
父 「それから、何があった?」
少年「えっと、その後は」
父 「吐く以外で」
 少年考える。父箸を進める。
少年「そうだ、授業参観。授業参観があるんだよ」
父 「いつ?」
少年「プリント、忘れてきちゃって」
父 「明日はちゃんと持って帰ってきなさい」
少年「うん、ごめんなさい」
 ふたり箸を進める。
少年「あ、お父さん、授業参観は来られる?」
父 「日にちが分からなきゃ」
少年「そうだね、ごめんなさい」
 ふたり箸を進める。
少年「皆、お母さんが来るんだって」
 ふたり箸を進める。
少年「日にちは分からないけどね、授業は国語だよ。今丁度夏目漱石をやっているの。こころ、知ってる?」
父 「知ってるよ」
少年「有名?」
父 「有名だよ。あれだろう?恋は罪悪ですよってやつ」
 少年分からない様子である。
父 「友達と同じ人を好きになって、好きな人を奪ったら友達が自殺するやつ」
 少年分からない様子である。
父 「……Kだろ?」
少年「そう、K。おかしいよね、Kって名前、珍しいよね」
父 「あのな……」
少年「うん」
父 「……ちゃんと授業を聞いているのか?」
少年「聞いてる、でもたまに聞いてない」
父 「ダメじゃないか」
少年「ダメじゃないよ、聞いてるもん。でもたまに手紙回してる」
父 「ダメじゃないか」
少年「ダメじゃないよ、だって大変なんだもん。あの子、ほら、こないだ運動会のリレーで三回転して転んだ子、あの子があのコンビニの子と付き合っているみたいでね、なんだか悩んでいるみたいで、その相談の手紙を回しているんだよ」
父 「コンビニの子?」
少年「ほら、あそこだよ、角のお店の、店長のほら」
 少年頭を何度も触り、カツラのアピール。
父 「……ああ、あの子か。それを聞いてあげているの?」
少年「違うよ、僕にじゃないよ。でも気になるから読んで回してる」
父 「もっとダメじゃないか」
少年「ダメじゃないって、皆やってるもん」
父 「皆やっててもダメなものはダメだろう」
   間
父 「……それで?」
少年「そう、それでね、コンビニの子が別の子、ほらあの、何時も靴下が片方だけくるぶしまで落ちてる子、あの子とも仲良しでね、それが嫌で嫌でたまらなくてそれで今まさに喧嘩してるんだって。返事は面白くないから読んでない」
父 「その年で恋人?」
少年「うん、普通なんだって。結構僕も知ってるよ。何時も鞄にご飯粒付けてる子は、八割の確率で鼻毛が出てる子と付き合ってるし、直ぐに声が裏返っちゃう子は、あの足は早いのに変な走り方の子と付き合ってるし、他にもね」
父 「おまえは?」
少年「僕?」
   間
少年「僕が何?」
父 「好きな子は、いないのか」

少年「お父さん、好きってどんな気持ち?誰かを好きになるって、どんな気持ちになるの?」
   間
父 「いけない、こんな時間だ」
少年「あ、本当だ、遅刻しちゃうね」
 ふたり同時に手を合わせる。
少年「ご馳走様でした」
父 「ご馳走様でした」


 時間経過。煩い雑踏の中、父、ランドセルを背負った女の子と楽し気に会話をしている。少年その様子を見詰めている。



【二場】

 少年の部屋。夜九時半。少年は一人机に向かっている。机には大学ノート。少年は日記を書いている。向こう側には子供、大人、老人、中年、男、女。好き好きに会話をし、眺めている。


少年「今日、学校へ行ったら、教室がまだ牛乳臭かった。牛乳の匂いだけならまだ良かったのに、別の匂いもまだ残っていて、また吐く人が沢山出た。しばらく教室は使用禁止になって、皆大騒ぎだった。僕はもう牛乳を飲めそうにない。あと美術で肖像画を描いた。僕の事を描いてくれた子は凄く絵が上手いのに、僕は全然上手く描けなかったから、凄く嫌な気分になった。それと、喧嘩をしていたふたりが遂に別れたらしい。理由は男の子の浮気。どうやら別の子と同時進行で付き合っていたらしい。女の子の方は、今日一日中泣いていて、違うクラスからも慰めに来る人が沢山いた。一日中よく泣けるなって感心した。……浮気、浮気、浮気、浮気。……好きってどんな気持ちなんだろう。僕はお父さんが大好きです。それとは違う気持ちなんだろうか。お父さんも僕の事が大好きです。僕の為に一生懸命働いてくれて、それに最近は怒らないから、お父さんが僕の事好きだって分かる。大切にしてくれる。疲れているのに話をいっぱい聞いてくれる。僕の目を見て、僕の目だけを見て、たまにお椀を見るけど、でも僕を見て、話を聞いてくれる。僕の話しだけを聞いてくれて、だからお父さんは僕の事が大好き。僕と同じくらい大好き。だから両想い。……好きってどんな気持ちなんだろう。楽しい?嬉しい?それとも、悲しい?だって、あの子は泣いていて、お父さんも悲しそうに怒っていて……でもそれは好きって気持ちがあるからで、だから傷付いてしまうんだし、傷付けてしまうんだし、だから……好きって、悲しい事なのかもしれない。……お父さんは今日も遅い」



【三場】

 食卓。時刻は朝七時。父と息子がふたり、座っている。ふたりは同時に手をあわせる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。時折好き好きに会話をし、眺めている。

少年「おはよう、お父さん」
父「おはよう。昨日は学校で何があった?」
少年「昨日は教室がまだ牛乳臭くて、朝のホームルームで隣の席の子がまた吐いた。そうしたら前の席の子が吐いて、そうしたら前の前の席の子も吐いて、そうしたらね、前の右の子も吐いて、前の左の子も吐いて前の前の前の左の子も吐いて」
父「うん、わかった、それわかった」
   間
父「他には?」
少年「美術の授業でね、肖像画を描いたの。僕の事書いた子は絵が得意な子でね、凄く上手く描いてくれたんだよ。それでね、皆言うんだ」
父「なんて?」
少年「僕の事、美少年だって、僕の事綺麗だって」
父「そう、良かったね」
少年「良かったの?だって僕男だし、男ってものはかっこいいって言われたい生き物だって左斜め前の背の低い女の子みたいな子がよく言ってるし、綺麗だって言ってくれる子も全員女の子だし、僕は喜んじゃいけないのかと思ってたんだよ。ねえ、綺麗だって言われる事は良いこと?美しい事に価値があるの?」
父「……」
   間
 少年箸を進める。
少年「あのふたり、結局別れたんだ」
父「……ん?」
少年「ほら、手紙回してた子」
父「ああ、運動会の」
少年「そう、三回転。それでね、なんかコンビニの子が浮気をしていたみたい。浮気の相手は靴下の子だって、それでね」
父「靴下の子?」
少年「ほら、靴下がくるぶしまで」
父「ああ、落ちちゃう」
少年「そう、片方。それでね、靴下の子と浮気をしたから、ふたりは別れたんだって」
   間
少年「お父さん、浮気って何?どこからが浮気?誰かと付き合ったら、仲良くしてもいけないの?」
父「そのうち分かるよ」
少年「……」
   間
少年「僕分かりたくないよ。僕大人になりたくないよ、だって」
   間
父「何?」
少年「あ、こんな時間」
父「本当だ」
少年「ご馳走様」
父「ご馳走様」


 時間経過。父、昨日とは別のランドセルを背負った女の子と楽し気に会話をしている。肩に手を掛ける。少年その様子を見詰めている。



【四場】

 少年の部屋。夜九時半。少年は一人机に向かっている。机には大学ノート。少年は日記を書いている。向こう側には子供、大人、老人、中年、男、女。好き好きに会話をし、眺めている。

少年「今日は、体育の授業で跳び箱を跳んだ。七段は飛べなかった。体育の授業中もあの子の新しい彼氏の話しで持ちきりだった。あれだけ泣いて、あれだけ傷付いて見えたのに、それは芝居だったみたい。嬉しそうに笑っていた。好きってそんな簡単な気持ちなのかな。一日で忘れてしまえるものなのかな。じゃあどうしてお父さんは笑えないんだろう。同じ好きって気持ちなのに、何でお父さんは何年経っても笑えないんだろう。それから授業参観の話にもなった。僕はお父さんだけが来るって言ったら、隣の席の子はどうしてって聞いてきた。どうしてって聞かれても、お父さんしか来ないから、お父さんだけが来るとしか言えなかった。隣の子は変な顔をしていた。何か言いたそうだった。お父さんしか来ない事は変なのかな。お父さんだけが授業参観に来る事は、おかしい事なのかな。お母さんがいないって悪い事なのかな。僕は幸せです。お母さんがいなくても、幸せです。お父さんが僕のことを大好きでいてくれるから、お父さんが僕のために一生懸命働いてくれるから、お父さんが僕の話をいつも聞いてくれるから、僕は、幸せです。……お父さんは、今日も遅い」



【五場】

 食卓。時刻は朝七時。父と息子がふたり、座っている。ふたりは同時に手をあわせる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。時折好き好きに会話をし、眺めている。去って行くものもいる。

少年「おはよう、お父さん」
父「……」
少年「あの子、新しい彼氏出来たんだ」
父「誰?」
少年「運動会の」
父「三回転」
少年「昨日大泣きしてたの、全部お芝居だったんだよ」
父「どうして?」
少年「だって、あんなに悲しんでたのに、今日はもう別の人を好きになってるなんて変だよ。おかしいよ」
父「泣いてしまえたから、その子は次に進めたんじゃないかな?涙で心の膿を全部洗い流してしまったから、前を向けたんだよ」
   間
少年「だからか」
父「ん?」
少年「だからだ。じゃあお父さんも泣いてよ。膿全部洗い流してしまってよ」
   間
少年「ねえ、お父さん。隣の席の子がね、あ、牛乳で吐いた子だよ」
父「うん」
少年「吐いた子がね、僕に言うんだ」
父「うん」
   長い間
 父、少年を見る
少年「お母さんがいないって、悪い事?」
父「……」
少年「お母さんが、いないって、悪い事なの?」
父「……」
少年「お母さんが」
父「悪くない」
少年「……」
父「お母さんがいない事は、悪くない」
少年「……」
父「……」
 ふたり見つめ合い、父は目をそらす。
父「早く食べなさい」
少年「ごめんなさい」
父「……」
少年「ごめんなさい、お母さんの話をしてごめんなさい」
父「……」
少年「お父さん、ごめんなさい」
父「……」
少年「お父さん、お母さんの話をしてごめんなさい」
 父、椀を投げる。椀が割れる。
父「何時からだ?」
少年「……」
父「何時からだ」

 父、朦朧とした様子で出て行く。一人残された少年は、割れた椀をみつめる。
 遠くで父がランドセルを背負った女の子と会話をしているようだ。顔に笑みはない。少年椀からそちらへ視線を投げる。悲し気な間。



【六場】

 少年の部屋。夜九時半。少年は一人机に向かっている。机には大学ノート。少年は日記を書いている。向こう側には子供、大人、老人、中年、男、女。好き好きに会話をし、眺めている。去っていくものもいるが、来るものもいる。

少年「今日は、今日は、今日は……何があったかな。……朝、お父さんが怒りました。僕はお父さんが怒っているのを、久しぶりに見ました。とても怖かったです。怖かった。お椀が割れて、そう、お椀。もう随分長いこと使っているやつで、角はもう欠けていたし、ヒビも薄っすら入っていたし、でも、お父さんはそのお椀が大好きだった。僕と話をしていても、お椀を見詰めてる時間の方が長い事もあって、……あのお椀は、お母さんが買ってきたものだから。隣の子が言った通り、お母さんがいない事は、悪い事です。お父さんが怒るから。お母さんがいなくなった時、お父さんはとても怒っていました。泣けなかったお父さんの心は膿に侵されています。……浮気、下劣、汚い、大人、下劣、汚い、浮気、汚い、汚い、汚い、大人。……何時までも、穢れを知らないままでいられたら良いのに。……お父さんの目。あの目は、まるで僕を責めているようでした。僕はその理由を、知っていた。だって、お父さんは……」

 少年、おもむろに立ち上がり、歩き出す。



【七場】

 秘密の部屋。少年、長い間扉の前に佇んでいる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。固唾を呑んで見詰めている。

   間

少年「お父さん、お父さん、お父さん、僕は知っていたんだよ。お父さんの秘密を、知っていたんだよ。お父さんの秘密を、ずっと知っていて、だけど知らないふりをしていたんだ。だって、お父さんがいなくなってしまうから」

 少年が扉を開ける。中には、少女が沢山詰まっている。それは人形であるが、少年には恐怖に震える少女に見えている。

少年「だって、悪い事じゃないか。女の子、まだ小さい女の子を閉じ込めて、それでその女の子達をずっと眺める事は、悪い事じゃないか。悪い事をした人は、僕の前から消えてしまうの。……悪い事」
 少年、少女の一つ一つに触れてみる。

少年「シミひとつない肌、嫌悪と好意しか知らない純粋な瞳。君は誰?どうして僕の家にいるの?どうして、僕のお父さんを奪ったの?」

   間

 少年は突然走り出す。しかし立ち止まり、振り返る。目には光。

溶暗



【八場】

溶明

 食卓。時刻は朝七時。父と息子がふたり、座っている。ふたりは同時に手をあわせる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。固唾を呑んで見詰めている。

少年「おはよう、お父さん」
父「おはよう」
ふたり、箸を進める。
父「学校はどうだ?」
少年「……」
   間
父「授業は楽しいか?」
少年「……」
   間
父「友達とは、うまくいっているか?」
少年「……」
   間
父「好きな子は、できたのか?」
少年「僕は、大人になって行くよお父さん。僕は、このままどんどんと大人になっていくよ」
父「……」
少年「お父さんよりも好きな人が出来て、好きって感情を知って、この人とずっと一緒にいたいって思ってでも、もしかしたら魔が差して浮気をして、怒られて、別れて、でもまた好きな人が出来て、また人を愛して、そしてお父さんを捨ててこの家を出て、浮気をされて、疑う事を知って、信頼と言うものを知って、結婚して、子供を作って、また魔が差して浮気をして、怒られて、疑われる事を知って、悲しいって事を知って、そうやって、大人になっていくよ。仲直りをして、出来ないかも知れない、でも、生きて、髪が抜け始めて、お父さんみたいにお腹だけが出てきて、頭頂部だけ髪がなくなって、カツラを被って、偽ると言う事を知って、膿を涙で洗って、そうやって、老いていくよ。老いていくんだよ。一年、一日、一秒、僕が何かを考えるその瞬間、老いが僕の価値ある美しさを奪っていくの。老いが体を蝕んでいくの。考える事はやめられないもの。今だって考えてる。お父さんの事ばっかり考えて、でもこうやって今、今まさに考えてる僕は、老いに向かっているって感じるの。僕は大人になりたくないよ、僕はずっとお父さんに愛されていたいから。でもどうしたらいい?お父さんの事ばかり考えてしまうんだよ」
   間
少年「大人になっていく事は、止められないの。どうしたって、止められないの」
   間
少年「お父さんは鏡を見てどう思うの?鏡に映る自分を見てどう思うの?醜い、穢らわしい、汚い汚い汚い汚い汚い……そう思うの?だって、お父さんは」
 父、少年の頬をたたく
   間
少年「僕は、お父さんが好きだよ。お母さんがいないから。僕には、お父さんしかいないから」



【九場】

 秘密の部屋。少年、長い間扉の前に佇んでいる。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。固唾を呑んで見詰めている。

 少年、扉を開き、女の子を一人づつ殺して行く。殺しながら
少年「僕は考えた。僕は大人になりたくなくて、それでも考えずにはいられなかった。僕が考えれば考えるほど、僕が大人になっていくとわかっているのに、僕の目の前にあるものは、何?僕の心の膿は、何?」
 考えながら、殺していく。殺し終えて。
少年「僕は大きな勘違いをしていたのかも知れない。僕は、僕の膿を勘違いしていたのかも知れない」

   長い間

 少年、殺した少女の瞼を閉じる。
 綿が散乱している。少年にはそれは血飛沫に見えている。



【十場】

 食卓。時刻は朝七時。父と息子がふたり。父は立ち尽くし、少年は席に着いている。食卓には朝食はない。向こう側には、子供、大人、老人、中年、男、女。固唾を呑んで見詰めているもの、その場を離れて行くもの。

少年「おはよう、お父さん」
父「……」
少年「おはよう」
父「……」
少年「聞かないの?学校で何があったか。昨日は給食でゼリーが出たよ。今日は、音楽の授業で歌うんだよ。威風堂々、知ってる?それにね、皆で歌詞を付けたんだ。学ぶ喜び胸に満ち(威風堂々のメロディで)……皆あんまりやる気ないから、殆ど先生。分かる?あ、そう言えばね、最近仲良くなった子が、靴を隠されていたよ。それから、それから……」
 少年急に黙り込む
   長い間
少年「僕は、悪を退治しました」
父「……悪?」
少年「お父さんの心を奪う、悪だよ。僕はね、お父さん。お父さんが悪い事をしていると思っていたの。でも違うって気付いて、だから、悪を退治したの。これでお父さんは僕だけを見てくれる?大人になって行く僕を見てくれる?お父さんが憎む、汚くて、穢らわしくて、信頼する事の出来ない大人になって行く僕を、変わらずに見てくれる?」
父「やめてくれ」
少年「僕は考えるよ。いつでも考える。僕はまだ大人じゃないから、分からない事ばっかりで、だから考えるよ。今も、今も考えてる。だから気付いたよ。悪は、あの子達じゃなかったんだね?本当は初めから気付いてて、でも気付かないフリをしてた。それを思う事はお父さんを裏切る事で、裏切るって事はお父さんが愛する子供の持つ純真を穢す事で、僕はお父さんが僕が大人になって行く事を嫌う事も知っていて、僕はそれでもお父さんに愛されていたくって……悪は何?僕の心の膿は何?」
 少年、隠していた包丁を取り出す。父の腹に深く鎮める。
 父に抵抗はない。
少年「どんな気持ち?僕はお父さんの事を膿だと認識した訳だけど、どんな気持ち?だってそうだよね、あの子達は何にも悪く無いもの。お父さんが、大人になって行く僕を憎むからいけないんでしょう?」
   少しの間
少年「ねえ、どんな気持ち?教えて、お父さん」
 父、微笑む。
 父の声はほとんど聞こえないが、何かを言っている。
 少年には、それでも愛しているよ、と聞こえた。
 少年、動かなくなった父を抱き、天を見上げる。

溶暗



【エピローグ】

溶明

 寂しい空間。少年がひとり、玩具の家で遊んでいる。手には二つの人形。向こう側には、少年を見下ろす子供、大人、老人、中年、男、女。息を呑んで見詰めている。

 短音のピアノの音。無機質。

少年「おはよう、お父さん」

 少年は幸福そうである。ただただ空虚がそこにはある。

少年「昨日は給食でゼリーが出たよ。今日は、音楽の授業で歌うんだよ。威風堂々、知ってる?それにね、皆で歌詞を付けたんだ。学ぶ喜び胸に満ち(威風堂々のメロディで)うん、そう、皆あんまりやる気ないから、殆ど先生。分かる?あ、そう言えばね、最近仲良くなった子が、靴を隠されていたよ。そから、それから……」

 少年の声がちいさくなってゆく。

 静かな音が流れ始める。波のように、おおきくなったりちいさくなったり、音が寄せては引いてゆく。
 無機質な空間の中、少年は朝七時を繰り返し演じている。

溶暗


【終幕】

 0

trending_up 17

 2

 0

シニカル・メイプル・ルート

I. 合理的な旅の始まり

 私(35歳、女、当然のごとく独身未婚)の京都旅行は、決して情緒から始まったわけではない。むしろ、徹底した合理性の結晶だった。
 紅葉のピークを逃すまいと、有給休暇の消化を兼ねて、平日午後の高速バスに乗る。座席は通路側。リクライニングは最大限倒さない。隣の席に迷惑をかけない、社会人としての最低限のエチケットだ。車窓に流れる風景をぼんやり眺めながら、私はiPhoneのスケジュールアプリを確認する。今日のミッションは「秋の情緒、写真アプリに収容」。

 京都駅の八条口に降り立ったのは、夕方に差し掛かる頃だった。人々は皆、大きなスーツケースを引き、どこか高揚している。私はサコッシュ一つ。いつでも逃げられるように、身軽な装備だ。
「さあ、情緒の街、京都。手始めはどこへ?」
 特に予定はない。それが私の旅の流儀だ。予定に縛られ、有名観光地の行列に並ぶなんて、資本主義の奴隷のやることだ。私は自由だ。
 とりあえず、駅前の市バス乗り場へ向かう。目についた、妙に混んでいない「北野天満宮」行きのバスに飛び乗る。これが後の名探偵コナンもびっくりの「偶然にしては出来すぎた名推理」になるわけだが、この時点では単なる気まぐれである。

 バスの窓ガラスは、外気との温度差でほんのり曇っている。私はその曇りガラスに指を滑らせ、「無」と書いた。そしてすぐに消した。三十代半ばにもなって、そんな情緒的な行動を写真に撮られたらたまったものではない。

II. 勘が当たるという不条理

「北野天満宮前」でバスを降りる。周囲は、予想よりも静かだった。京都らしい、歴史の重みを感じさせる石畳と、背の高い木々。
 歩き始めて数分。私の鈍い勘が、奇跡的に「ビンゴ」を叫んだ。
 目の前に広がっていたのは、まさに写真で見た、燃えるような紅葉の絨毯と、それを抱きかかえるような古い木造の建築群だ。正確には、天満宮の境内から少し離れた「もみじ苑」の入り口付近だろう。

「おお、これは当たりだわ」
 私は思わず口に出して呟き、即座に口を噤む。他人との接触を避け、思考の垂れ流しを防止する。それが私の孤独のルールだ。
 誰もが期待に満ちた顔で入場していく中、私は内心でほくそ笑む。有名どころの清水寺や永観堂で、押し合いへし合い、SNS映えのためだけにシャッターを切りまくる人々を尻目に、私は比較的静かな場所で、本物の「情緒」を独り占めしようとしている。このシニカルな優越感こそが、私の旅のガソリンだ。

III. 湯気と現実の境界線

 苑内の散策コースは、自然の山道を模した作りになっている。アップダウンがあり、歩くにはちょうどいい。
 身に纏っているのは、某国産アウトドアブランド『NANGA』の高性能ウェアだ。色は落ち着いたカーキ。情緒の街に来て、まるで登山家のような出で立ち。このアンバランスさが、私という存在を皮肉たっぷりに物語っている。
 肌寒く、最初はジッパーを首元まで上げていたが、歩き始めて五分、すぐに体が熱を帯びてきた。高性能ウェアの宿命だ。体内の湿度が急上昇する。
 私は立ち止まり、iPhoneを構える前に、まずはNANGAのジッパーを勢いよく下ろした。

「フシュー……」
 私の身体から立ち上る、湯気にも似た白い蒸気。それは、寒暖差が生み出した、極めて科学的な現象だ。しかし、この蒸気が、眼前に広がる夕焼け色の紅葉を、一瞬、ぼんやりと霞ませた。
 燃えるような赤、鮮やかな黄、そしてその向こうに見える古都の屋根。蒸気の向こうでそれらがぼやけたとき、私は奇妙な感覚に襲われた。
 この「情緒」は、本物なのか? それとも、私の身体から発する「熱」という名の個人的な現実に、ぼかされて初めて成立する、遠い幻影なのか?

 私はそのぼやけた世界に、シャッターを切る。iPhoneの写真アプリの容量は、瞬く間に美しい紅葉の画像で埋め尽くされていく。一枚一枚は完璧な構図。しかし、私が本当に欲しかったのは、この写真なのか、それとも、この写真に写っていない、身体から立ち上る「湯気」という名の現実の熱量だったのか?

 陽が落ちるにつれ、周囲は急速に暗さを増し、肌寒さが戻ってくる。私は再びジッパーを上げる。ミッションは達成された。写真アプリは満杯だ。

IV. 情緒の回収、現実への帰還

 苑を出る頃には、空は完全に藍色に染まり、天満宮の境内もほとんど人がいなくなっていた。
「よし、回収完了」
 私は心の中で任務完了のサインを出す。あとは、合理的に宿泊場所へ戻るだけだ。

 再び市バスに乗り込む。先ほどと同じく、北野天満宮からの乗客は少ない。窓の外には、提灯の明かりが灯り始めた、京都の夜の景色が流れていく。風情がある。情緒がある。しかし、私の内側は、さっきの散策で発した熱が冷え切り、ただただ冷たくなっていた。

 バスは京都駅へ。そこには、情緒もへったくれもない、巨大なガラス張りの駅ビルと、ビジネス街の光景が待っている。
 私は駅前の、ごく一般的なビジネスホテルへと向かう。予約サイトで最も評価が高く、最も安価だったチェーンホテルだ。
 フロントで、私は無駄に明るい声の女性スタッフに、カードキーを受け取る。
 エレベーターに乗り込みながら、私はサコッシュのストラップを握りしめた。
 なんと、日本有数の情緒の街で、情緒のないことか。
 私は、一日中、紅葉を追いかけ、情緒という名の幻影を写真に収めた。しかし、結局のところ、私の身体に残ったのは、NANGAのウェアのジッパーを開けた時に立ち上った、湯気という名の、極めて個人的で、物理的な熱量だけだった。

 エレベーターが目的の階に到着し、ドアが開く。目の前には、画一的なホテルの廊下が広がっていた。私は、情緒なき自分の城へと、一歩を踏み出す。

【了】

https://i.imgur.com/DNlEwhO.jpeg

 0

trending_up 9

 0

 0

閉鎖病棟というお城

私はお姫様みたいに育てられました。親は可愛い見た目に産んでくれました。ワガママに育ちました。学校では脇役として育ちました。ずっとノートの隅に女の子の落書きをして、友達が増えた気になっていました。リーダー役だなんて程遠く、笑われることもありました。スマホを持っていなかったので、仲間はずれにされました。花いちもんめで私が呼ばれることはありませんでした。
私は今家を離れて閉鎖病棟というお城に住んでいます。病院じゃなくてお城なんです。雪が降っていますが、中は暖かいのです。中には昔おばあちゃん家で飼っていた、死んだはずの柴犬のなつみがいます。私の、唯一の家族でした。私は家庭内で兄に虐められていました。殴られたり、宝物の漫画を踏みつけられたり、暴言を何度も吐かれたり。扇風機で殴られた時は痛かったです。父も母もただの兄弟喧嘩と無視していました。実際は私はやられっぱなしで、やり返したら負けだと思い毎回泣いていました。私は小さくて気が弱いので習い事のスイミングスクールでもいじめられていました。蹴られたり、お腹を殴られたり、とても痛かったです。親に何度も辞めたいと言いましたが、6年生になるまで絶対に辞めさせないと言われ、絶望していました。それでもなつみは私をいちばんに慕ってくれました。そんななつみが今このお城の中にいるのです。うれしいです。今日は母にドッグフードと犬のおもちゃを買ってきてもらう予定です。いいんです。これで。

最近は幻聴がひどいです。男の人が私に対してずっと暴言を吐き、犬がわんわんと吠え、私の叫び声が聞こえます。まるで小学生の頃みたいです。辛いです。兄は手に職をつけ今彼女と幸せに暮らしています。私は大学を辞め城にいます。ここでは私がお姫様です。脇役ではありません。なつみと、幸せに暮らせるのです。誰のことも傷つけずに、幸せになれます。もう小さい頃なんて思い出したくありません。中学生の頃は特に男の子からの悪意が嫌で、死にたい気分が増えていました。でも今は中学生じゃないので幸せです。雪が強くなってきました。吹雪です。寒いので、みなさんあったかくして過ごしてくださいね。

 0

trending_up 68

 3

 3

きみへ

 火葬場の黒光りした屋根の真上に広がる真っ青な空に立ち昇って行く、細い白煙。それはまるで、俺にとって父と言う存在そのもののように感じた。掴み所などどこにもなく、少し風が吹けば直ぐに消えてしまう。まるで常に何かに泳がされ、怯えながらも、自分を形作る確固たる筋を曲げようとはしない。そしていつも、酷く自分勝手である。
 そんな父が突然俺達の前から消えてしまったのは、三週間前の事だった。見つかったのはそれから二週間後。俺達の住む町から遠く離れた山中の山小屋で、変わり果てた姿となっていた。しかも随分と古びた男物の学生服を抱き締めていたそうだ。どうしてそんな所に行ったのか、何故そんなものを持っていたのかと、俺はただ首を捻るばかり。
 昔から父は何処か抜けていた。ぼんやりしていると言うよりは、自分の世界から一歩も外に出ようとしない。誰の侵入も許さない、彼だけの世界に父は生きていた。そんな父との思い出と言えば、運動会の父兄競技の借り物競争でビリだった事。猫背の背中を更に丸めながら、ごめんと言って俯いた時の顔位。他は何故か、交わした言葉さえも思い出せない。
 父は、本当に家族だったのだろうか────そんな疑惑が湧き上がってしまいそうな程、俺と父、そして父と母との関係性は希薄であった。

「この部屋の物は片っ端から全部これに入れなさい」
 小説や詩集が積み上げられた物置さながらの父の部屋で、遺物を片付けていた俺に、母は疲れた顔でゴミ袋を三枚手渡した。
「遺言書とかないのかな」
「ある訳ないでしょう。一体あの人が私たちに何を伝える必要があるのよ」
 母は何やらぶつぶつと愚痴りながら、部屋を後にした。その背中を見送って、それもそうかと俺は一人納得していた。遺産なんて大層な物は何もないし、父がしこたま溜め込んでいるなんて事もないだろう。父の家族とは絶縁状態。一生社宅暮らしの身の上では、遺言書に書く程のことは何も無い。
 俺の家はごくごく一般的なありふれた家庭。父は三十七歳。どこにでもいるサラリーマンだった。母も同い年で、二人は小学校からの同級生。母は自分の小遣い稼ぎにパートに出ている程度で、これもどこにでもいる主婦だ。学生結婚だったと言う過去は聞いた事があるけれど、そんな二人の間に俺の覚えている限り会話は一切なかった。俺の見ていない所で言い争うなんて事もしない。まるでお互い相手が見えていないかのように振舞っていた。
 そんな不穏な空気を察して、一度聞いた事がある。お母さんはお父さんが見えないの、と。母は幼い俺に、心の中で会話が出来るのよと、苦し紛れの嘘を吐いた。以来、俺は二人について詮索しようとは思わなくなった。母の表情は、それ程に何か深い物を隠していたから。

 積み上げられた本の山の他は、殆どが仕事関係の書類ばかり。どれもこれも十七歳の俺の興味を引く物ではない。迷う事なくゴミ袋に突っ込んでいると、ふとぐしゃぐしゃに丸められた紙が目に止まった。まるでスランプの小説家が次々に捨てて行く原稿用紙のように、気を付けて見ればそこかしこにそのゴミ屑は散らばっていた。ほんの興味本位で開いてみると、横書きの便箋にはたった一言。お元気ですか────それだけが書いてあった。誰かに手紙でも書こうとしていたのだろうか。だが父に友人がいたなんて驚きだ。父は真っ直ぐに会社に行って、真っ直ぐに帰って来るような人だった。休みの日はずっとこの部屋に引きこもり本を読み、顔を見るのは食事の時位。誰かと電話している姿すらも見た事はないし、年賀状も仕事関係以外で来た事がない。
 友人もいない。趣味もない。感情すら見受けられない。この鬱々とした部屋に閉じ籠っているだけの人生。父は、何処にいても孤独な人間なのだと俺はずっと思っていた。そんな父の息子である事が、たまらなく嫌だった事もあった。だがいつしか、俺も母と同じように何もかもを受け入れ、諦めてしまった。父はこう言う人間で、俺達とは少し違う世界に住んでいる。たまたま息子として産まれてしまったけれど、結局は他人なのだからお互い干渉する必要は無い。父は、自分への感情が死んで行く息子にすら、何の興味も無かったように思う。
 そんな父の書いた手紙がどうしても気になり、俺は他のゴミ屑も開いて見た。だが全て同じ言葉で終わっていた。父は一体、誰に何を伝えたかったのだろう。今迄存在すら認識する事の薄かった父への好奇心は、何故かその時に最高潮を迎えた。
 乱雑に積まれた本の山の間。引き出しの奥深く。カーペットの下。ありとあらゆる所をひっくり返し、俺は唯ひたすらに父の欠片を探し回った。

 気付けば夏の太陽も赤々と燃えており、部屋の中は発見された時父が着ていたワイシャツと同じ、鮮血の色に染め上げられていた。
 そして使い古した鞄の中、遂に俺は父を見つけた。小さな無地の巾着袋一杯に詰め込まれた、膨大な手紙。貰った物か、送らなかった物なのか、早鐘を打つ心音は、それを早く知りたがっている。丁寧に封じられた紐を、震える指でゆっくりと解いて行く高揚感。未だ嘗て味わった事のない感覚だ。
「ねえ夕飯だけど、素麺で良いかしら」
 突然、背後から聞き慣れた母の声が響き、俺は咄嗟に開きかけた巾着袋を鞄に押し込めた。恐る恐る振り返るも、母は俺がそれを見つけた事には気付いていないようだ。いつも通りの少し疲れた顔がそこにはあった。
「あ、ああ、良いよ」
 咄嗟のことにやけに上ずった声が出てしまった。母は一瞬訝しげに眉を顰めたが、分かったと言って直ぐに出て行った。
 大きく息を吐き出し、急いで巾着袋を自分の部屋に投げ入れる。幸い父の部屋と俺の部屋は向かい合っており、その行動はキッチンからは見えない。その後は慎重に部屋の物をゴミにして行き、半分も過ぎた辺りで夕食となった。
 食卓に、もう父はいない。父が失踪してから三週間。慣れたはずなのに、何だか今日は不思議な違和感を感じる。いてもいなくても変わらないと思っていた、父と言う存在。だがこの世に存在しなくなったと思うと、何処か寂しく思うのは人間の性なのだろうか。俺も父に負けず劣らず、随分と自分勝手だ。
 今更そんな父の事を知って何が変わる訳でもない。ただ何と無く、知りたいと言う欲求だけが俺の中では膨れ上がる。
「母さん、あの人友達とかいたの」
「学生の頃のはなし?」
 小さく頷くと、母は遠い日に思いを馳せるように視線を投げた。
「そりゃ人並みにはいたわよ」
「親友とかは。今でも、連絡を取るような」
 普段まるで父に興味も無かった俺が、突然こんな事を聞いたのだ。母は当然のように疑惑に満ち満ちた瞳を向けた。
「何が言いたいの」
「いや、葬式……会社関係だけだったから」
 父の細やかな葬式には、それ以外誰も来なかった。親戚付き合いがまるで無い事は知っていたが、よくよく考えてみれば友人が一人もいないなんて可笑しな話だ。それを察したのか、鋭く俺を射抜いていた瞳は、ザルに盛られた素麺へと戻った。
「卒業してからは皆疎遠よ。ほらあの人、ああ言う性格だから」
 母はそれ以上、語ってはくれなかった。

 残りの片付けは明日する事にして、俺は夕飯を食べ終えた後、早々と自室に篭った。勿論、巾着袋の中身を見る為に。軽く二十通はある手紙の中から、封筒に入っていない物を先ず選ぶ。だがどれもこれも、ぐしゃぐしゃに丸められたゴミ屑と同じ、たった一言しか書いてはいなかった。残りは三通。全て、封筒に入っている物だ。宛名は無い。封もされていない事から、父の書いた手紙だと推測出来る。そのうちの一枚を、俺は恐る恐る開いた。

 君へ────。お元気ですか。先ず、約束を破ってしまってすみません。こうして僕が君に手紙を書いた事を、彼女は勿論知りませんので安心して下さい。先月、無事に男の子が産まれました。こんな事を伝えたら、君は怒るだろうか。それとも、嘆くだろうか。僕はそればかりを気にしています。けれど伝えなくてはいけないと思い、こうして君に手紙を書いてしまいました。僕は今でも、あの日の事を後悔しています。どうして、どうして、どうして────その言葉を繰り返して生きています。あんなにも毎日が君に満ちていたのに、今君に会いたいと願うのは、それだけで罪のように感じられる。どうして、こんな事になってしまったのだろう。あの山に行かなければ、あの山小屋の存在を知らなければ、僕達は三人はあの時のままだったのだろうか。彼女は今も、何も知らずに笑っていただろうか。そして僕は、色褪せる事の無いたった一時の夢を、未だに追い続けてはいなかっただろう。僕達が手にした物は、何だったと思いますか。僕は今でも、それが分かりません。責任、使命、贖罪、戯れ。沢山の言葉が当てはまるように思うのに、そのどれも適切では無いように思う。ただ一つ言える事は、あの日の君以上に美しい物が、この世には存在しないと言う事だ。

 そこで終わっていた手紙は、やはり出せなかった物のようだ。先月子供が産まれたと言う事は、もう十七年前の物。大凡初めての息子に浮かれて書いた手紙とはとても思えない。これではまるで恋文だ。この君とは一体、誰なのだろう。彼女と言うのは母の事だろうから、どうやら母と三人で仲が良かったようだけど、父は随分とこの手紙の相手に入れ込んでいるようだ。
 あの父が、浮気────そんな甲斐性があるとは思えないのだけど。だがそもそも十七年も前の出せなかった手紙をこうして持っている以上、浮気と言うよりは本気であったのではないだろうか。他人に愛情や、興味関心を持っていた事に驚きだ。母の事も、俺の事すらも視界に入れなかったあの父が。とても信じられない。一体父の心を掴んで離さなかった人物は何者なのだろう。急かされるように、俺は次の手紙を手に取った。

 君へ────。お元気ですか。彼女の産んだ子供はとても元気に育っていますよ。でも、僕を見て、パパと言います。君によく似た瞳で、君と同じ笑窪を咲かせて。実を言うと、まるで幼い日の君を見ているようで堪らないのです。君と同じ顔の子供が愛しいのに、吐き気がするんだ。こんなにも君に似ているのに、そこにいるのは君では無い。そこにいる君にとって僕はパパで、彼女の心を引き裂いた君の鋭い棘など、そこにいる君は欠片も持ってはいない。しかしその一方で、まるで君の全てを手に入れた気がしました。君にもこのような無邪気な時があった筈だから。年を重ねる毎に、そこにいる君は、君を形造っていたあの毒の棘を身体中から生やす筈だ。だから、僕は遂に彼女と結婚する決心しました。これから僕は、二度と触れられないと思っていた君の全てを手に入れる。あの焦げる程の絶望が、今は叫びたい程の悦びに変わっている。君は喜んでくれるかな。

 俺は思わず手に持っていた手紙を放り投げた。気持ちが悪い、悍ましい、想像以上の嫌悪感から嗚咽を漏らしながら、しかし心の何処かで腑に落ちた。俺は父の本当の息子ではない。あの人にとって俺は無償の愛情を捧げる相手ではなかったのだ。だから他の家庭で言う普通の事が、彼には出来なかった。褒めない。叱らない。目を見ない。存在すら、認識しない。いや、認識はしていたのかもしれない。父は俺を、手紙の君として見ていたのだから。
 俺をその人の代わりとして見ていた。そのゾッとするような真実に、くらくらと揺れる頭を抱え、俺はリビングに足を運んだ。居間のソファで洗濯物を畳む母の横顔は、いつもとなんら変わりない。傍に歩み寄った俺を、不思議そうな顔が見上げる。
「母さん、俺はあの人の子供じゃないの」
 一瞬の乱れもなく、母は俺の言葉を笑い飛ばした。
「そんな訳ないじゃない。どうしたの」
 俺は笑い返す気にはなれず、握り締めていた手紙を差し出した。目を丸くしながらそれに目を通し、母は青褪めた顔で呟いた。
「あの人、こんな物を書いていたなんて」
 最早逃げられない事を悟った母の表情は、酷く動揺していて、手紙を握り締める手はぶるぶると震えている。
「あんたの本当の父親は、亡くなったの。あんたが産まれる前に」
 驚きに言葉を失くす俺をおいて、母は言葉を繋いだ。
「あの人と私と彼は、幼馴染だった。よく三人で遊んでいたの。それだけよ」
 そして、父は彼の事が好きだったと言う訳か。
「隠していて悪かったと思ってる。でも当時の事はもう、思い出したく無いの、ごめんなさい」
 母はそう言って、震える手で口元を覆った。父とその人の関係を、母は知っていたのだろうか。父が、彼を想っていた事。だが思い出したくないと言う言葉は、何もかもを知りながら目を背け続けた故に生まれた言葉のような気がした。そして母という生き物の持つ強さだけで、倒れそうな現実を前に正気を保っているような気がした。

 一人自室に戻っても、俺は大量の手紙を前に何一つ動かす事が出来なかった。指先一つ、枷を施されたかのように重い。それでも思考は追い求めた。もういない父の残していった、真実を。父は何故あの山に行ったのだろうか。それを知る為に、最後の手紙の封を切った。

 君へ────。お元気ですか。こちらは随分と暑くなって来ました。君が一番、好きな季節です。照り付ける鬱陶しい太陽の下、弾む汗を輝きに変えて、誰よりも煌めく君を思い出します。君は覚えているだろうか。あの山中で、人目を気にせず無我夢中で唇を重ねた日の事。君の素肌を味わい、君の熱を感じた。纏わり付く湿気を帯びた重い暑さ。滴る汗と欲の混ざり合った匂い。背徳に呑まれ、僕達は性の尽きる迄愛し合った。僕は未だ、あれ程に人を愛した事は無い。僕の時は止まったまま、針はぴくりとも動かない。けれど、最近軋んだ音を立て、何かが動き始める予感がするのです。息子が、十七歳になりました。あの過ちが起きてしまった時まであと一年。大きくなるにつれて、やはりどんどんと君に似てきています。冷え切った双眸。真っ直ぐな睫毛。白い肌に茶褐色の髪。考える時に首元に手をやる癖までもそっくりです。僕は怖い。やはり、間違ったのだろうかと考える事が増えた。君はもういない。それを受け入れられなかったが故に、繰り返すのだろうか。だから一度、君に会いに行こうと思います。僕の止まった時を取り戻す為に。君をこの手に、取り戻す為に────。
 

 0

trending_up 113

 2

 6

羽の先にニンゲンの匂いがついた

ざざぁざざぁと
延々と
波の子供たちは白い手を合わせ
透明な夜に祈っている。

海が地平線へと沈んでいくのを眺めていた。
遠くまで見送った後に、
星の散らばる遠い空を見上げた。
だから、勘違いしたのかもしれない。

「今日はシンゲツだから
幾億の星たちが月に変わって
願い事を叶えてくれる」

明るい夜なのに月は見えない。
海と一緒に月まで沈んだんだ。
そう思ったから、
シンゲツの音に深い月の文字を当てていた。

彼は新月と言いたかったんだと思う。
文字にすれば間違いさえ罪になるけど
音だけならば罪を被ったりしない。
白波が
罪逃れのお手本を見せてくれてる。

「今日は星が叶えてくれるの?」
「そう。月がいない時は星達がみんなで願いを叶えてくれる」
「こんなに星が多いのなら、きっと大勢の願いが叶うんだね!」
「ぅ~ん……」

彼は掲げた手の先で、
(透明な空をなぞるように)
星の数を数え始めた。
神話を書いたのは彼じゃない。
彼を見つめていた人が書いたんだ。

「いっぱい叶えてくれるけど、月みたいに正確に叶えてくれるわけじゃなくて、さ」
「あ、そうなんだ」
「星は月の候補星なんだ。瞬いてる星の中から次の月が選ばれる。だから小さな星たちは願いを叶えるには、まだ未熟な神様なのさ」
「へ~。色んなことを知ってるんだね」
「ここに住んで長いもん。三日月のような弧を描く砂浜も、遠浅の海も、こんなに高い夜だって、全部が僕の庭みたいなものだ」

ガサゴソと足で砂をこねながら
少し照れくさそうに笑う彼。
七色で光るあの星のどこかにも
彼みたいな生命がいるんだろうな。

「祈ると良いよ」

私が一夜きりの神話を
紡いでいるとは知らないから
不意に、真っ直ぐに、
こちらを向いてしまう眼差し。

夢見るような、抱かれるような、
深い月の引力に浮き上がりかけていた心は
ひとことの元に断ち切られ、
尻餅をつくように彼の隣に落ちてきた。

「正確じゃないかもしれないし、望んだ結末になるとも限らないけど、空まで届けば願いを叶えてもらえるかもしれない」
「君は? 祈らない?」
「僕は叶えてもらったんだ」

彼は背負った殻を
カンカン と叩いて
笑顔を浮かべながら言う。

「僕は月に祈ったんだ。安心して帰れる家が欲しい、大声に何度も起こされないで朝まで寝られる家が欲しい、心から家と呼べる家が欲しいって。その願いが叶って、僕はこの姿になれたんだ」

潮風に揺れる長い髭。
突き出した目玉が浮かべる柔らかな光。
今が幸せだ。
彼はそう、呟く。

「こんな夜だけど、私も祈って良いかな?」
「もちろん」

私は、どこまでも透く夜空を見上げた。
翼を畳めばいっそう小さくなる、私の体。
あんなに遠いけど届くかな?
空と海と砂と透明と、一緒になって祈った。

「ずっと、幸せでいられますように」

声に出して祈ったら
なぜか、
彼は心底驚いた顔を見せた。
思わずといった感じで聞いてくる。

「ええ!? 君は幸せなの!?」
「……うん! 幸せ。幸せだから、明日も生きていられる」
「そっか。そっか。それは良かったね」

空も飛べない翼を広げた。
体の半分もない翼を精一杯広げた。
ようやく、
翼の端っこで彼の殻に触れられる。

ぐるぐる巻きの殻をポンポン。
ポンポンすると
彼の大きなハサミも一緒になって揺れた。
白い波に合わせて、星の瞬きに合わせて。

さ、祈ろう?
君が、ずっと幸せでいられますように。




ちとせもり の みちしるべ(ジャンル別一覧ページに飛びます)
  

 0

trending_up 49

 1

 2

『ディナー』 

お待たせ、準備出来たよ
サラダ
コンソメスープ
ステーキ
ケーキも手作り
そしてあなたが生まれた年に作られた ワイン

2人で暮らし始めて2年目の記念日だから
奮発しちゃった
美味しそうでしょ?
そうだよねぇ
じゃあ猿ぐつわはずしてあげる
この前みたいに大声出したら
ご飯抜きだからね

どれから食べる?
ずっと健康でいて欲しいし
ベジファーストでサラダからにしようか
はい、あーん
美味しい?
そうでしょう?!
農家から直接買い付けた新鮮な野菜なんですって
次はスープね

え?
自分で食べたい?
手枷を外してくれ?
ダメダメ
前に私の首絞めようとしたでしょ
痛かったんだから
それに
あなたにあーんするの
私気に入ってるの

次はいよいよステーキね
焼き方、色々調べたから
きっと美味しく焼けてると思うわ
良く噛んで食べてね
はい、あーん

美味しい?
そうでしょう?!
じゃあもう一口
はい、あーん

あなたがこの部屋に来て
もう2年になるのね
この音大生用の防音の部屋を借りて
仕事を完全なリモートワークに切り替えて
誰にも邪魔されず
いつでもあなたのお世話が出来る状態にしたの
どうしてって?
大好きなあなたを独り占めするためよ

人が姿を消して7年経つと
死亡したものと見なされるんですって

あなたの奥さん
1年くらいは色々探し回ってたみたいだけど
最近ではすっかり諦めてしまったみたい
知らない男と腕を組んで歩いていたわ
あと5年したら
失踪宣言の申し立てをするんですって
薄情よね
きっとあなたの事を
本当には愛してなかったのね

大丈夫!
あなたには私がいるでしょ?
私ね、あなたの食事や身の回りのお世話
頑張ってるつもり
だって
絶対に手に入れたかったあなたが
ずっと私のそばにいてくれるんだもの
愛しているわ

うふふ、ステーキ食べる?
はい、あーん
え?
何のお肉かって?
とってもレアなお肉なの
私のお腹で大きくなって出てきたの
うるさかったからすぐに冷凍しちゃったけど

あっ、なんで吐き出すの?!
何でそんな事するのかって……
せっかくあなたと
二人きりの生活が出来るようになったのに
赤ん坊なんか邪魔なだけじゃない

私はあなただけいれは幸せなの
ずっとずっと
こうして2人きりで生きていきましょうね
これからの2人に乾杯

 0

trending_up 32

 3

 4

論考:ネット詩投稿サイトはどのような夢をみてきたか

 本稿では、インターネット詩投稿サイトの歴史を整理し、その変遷を論じる。対象とするのは、文学極道、B-REVIEW、Creative Writing Spaceの3サイトである。他にも現代詩フォーラムなど著名なサイトは存在するが、本稿では単なるアクセス数や投稿数の多寡ではなく、場としての理念を明確に打ち出し、ネット詩文化の方向性に影響を与えたサイトに焦点を当てる。上述の3つを論じることで、オンライン詩投稿サイトの歴史を大まかに俯瞰することができるだろう。

 まず、筆者自身の立場を明らかにしておく。2017年頃、文学極道において創作活動を開始し、同年、新人賞を受賞した。また、B-REVIEWでは創設メンバーの一人として、ガイドラインの策定を含むサイトのコンセプトや制度設計に関与した。現在はCreative Writing SpaceのFounderとして運営を統括している。
 文学極道の最盛期をリアルタイムで経験したわけではないが、オンライン詩投稿サイトの変遷について一定の知見を持っている。本稿は、詩に関心を持つ読者のみならず、小説や戯曲など詩界隈以外の創作に携わる者にも届くことを目指している。ネット詩の興亡を整理し、今後の展望を示すことで、オンライン上の文芸創作に携わる人々の議論の材料となることを願う。


【文学極道──ネット詩投稿サイトの象徴】

 文学極道は、2005年に創設された硬派な詩投稿サイトである。私は2017年頃に半年ほど活動したのみで、最盛期をリアルタイムで体験したわけではない。しかし、このサイトがネット詩文化に与えた影響は計り知れず、文学極道の成功こそが、その後のネット詩投稿サイトの方向性を決定づけたと断言できる。
 文学極道は、最果タヒ、三角みづ紀といった広く読まれるようになった詩人が投稿していたことでも知られる。特に、初期の投稿作品の質の高さと、コメント欄で交わされた鋭い批評の応酬は特筆に値する。

 サイトのトップページには、次のような一節が掲げられていた。

>芸術としての詩を発表する場、文極(ブンゴク)です。

>つまらないポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。

>あまりにもレベルが低い作品や荒しまがいの書き込みは削除されることがあります。

>ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい酷評を受ける場合があります。

>酷評に耐えられない方はご遠慮ください。

 この言葉が示す通り、文学極道は単なる創作発表の場ではなく、詩を芸術として追求する者のための修練の場を標榜していた。馴れ合いを排し、批評によって切磋琢磨する文化を築くことが、この場の理念である。文学極道は、インターネットがまだ黎明期から拡大期へと移行する中で誕生し、必然的に2ちゃんねる的な匿名性の高いネット文化の影響を受けていた。その結果、サイト内では低レベルな作品には容赦なく酷評することが許容され、むしろ推奨されるような雰囲気すらあった。罵倒や激しい批評が日常的に行われる場となったのである。

 では、文学極道が夢見たものとは何だったのか。

 文学極道が目指したのは、詩壇では評価され難い、真に新しい詩文学の創造の場、そして活発な批評の場であった。そのため、実験的な作品が評価され、罵倒を伴う荒れた議論も場の活力と捉えられていた。しかし、この批評文化の攻撃性は、やがて場そのものを揺るがすことになる。


【文学極道からB-REVIEWへ──批評文化の変質と転換】

 文学極道における厳しい批評文化は、当初は場の水準を維持するための手段として機能していた。しかし、次第にそれ自体がサイトの荒廃を招く要因となっていく。過度な罵倒が横行し、サイト内の風紀が悪化することで、真剣に詩を議論しようとする者が次々と離れ、罵詈雑言ばかりが横行する傾向が生じた。そして、この状況に対するカウンターとして、2017年にB-REVIEWが創設される。

 B-REVIEWは、以下の三つの原則を掲げた。
  1. マナーを重視し、まともな議論ができる場をつくること
  2. オープンな運営を心がけること
  3. 常に新しい取り組みを行い、サイトを進化させること

 文学極道が「酷評・罵倒の自由」を強調したのに対し、B-REVIEWは「罵倒の禁止を強調し、投稿者が安心して作品を発表できる環境」を作ることを重視した。一見すると、両者は対極的なサイトポリシーを持つように思える。しかし、本質的にはどちらも「オンラインならではの創作の場とレベルの高い批評の場を作る」ことを目的としており、その方法論が異なるに過ぎなかった。すなわち、似た夢を見ていたのである。

 文学極道が2ちゃんねる的な文化の影響を受けていたのに対し、B-REVIEWはソーシャルメディアの時代に適応した開かれた場を志向していた。文学極道が罵倒と酷評による場の引き締めと活性化を狙ったのに対し、B-REVIEWはガイドラインとオープンな運営によって場を整え、活発な批評空間を形成しようとした。この方針のもと、B-REVIEWには文学極道の文化に馴染めなかったネット詩人たちが流入し、活況を呈するようになった。

 また、B-REVIEWの運営スタイルは、文学極道とは根本的に異なっていた。文学極道が管理者主導の運営を行い、選評制度によって場の権威性を保っていたのに対し、B-REVIEWはオープンな運営体制を取り、投稿者の主体性を重視した。選評のプロセスにおいても、投稿者と運営者の垣根を超えた対話が行われ、投稿者が主導するリアルイベントの開催等の新たな試みが積極的に導入された。

 では、B-REVIEWが夢見たものとは何だったのか。

 それは、ハイレベルかつ安心して参加できる詩文学の投稿・批評の場の創造であった。従来のネット詩投稿サイトの問題点を克服し、新たな時代に適応した批評空間を作ることこそが、B-REVIEWの掲げた理想だった。


【文学極道の終焉──自由な批評の場から単なる停滞と崩壊へ】

 B-REVIEWの台頭により、文学極道の状況はさらに悪化していった。B-REVIEWのマナーガイドラインに馴染めない投稿者が文学極道に集中し、サイトの荒廃を加速させたのである。かつて、文学極道は「自由な批評の場」であった。しかし、その自由は次第に「無秩序な荒らしの場」へと変質し、本来の機能を果たさなくなっていった。もはや、詩作品への鋭い批評ではなく、ただの罵詈雑言や無意味な言い争いが繰り広げられるだけの場となってしまった。

 この状況に対し、運営の方針も迷走を続けた。荒廃を食い止めるために運営の介入が求められる一方、介入を強化すれば「文学極道の自由な批評文化が損なわれる」という批判が巻き起こる。しかし、介入を抑えれば無秩序が進行するという悪循環に陥った。

 さらに、運営者自身が文学極道の理念を十分に共有していなかったことも、混乱を深める要因となったと考える。たとえば、終末期の運営者には、もともとB-REVIEWの評者として招聘されていたが、運営内部の諍いを経て文学極道へと移行した者も含まれていた。また、最終期の文学極道では運営主導の朗読イベント/ツイキャス配信が行われるようになったが、和気藹々としたオンライン交流は、「罵倒上等」の文学極道の風土とはそもそも相容れないものであった。

 もともと文学極道が持っていた「罵倒を許容してまで議論を重視する場」としてのコンセプトと、後期運営が試みた「サイトの健全化」は、よほど緻密に進めないと両立しない類のものだっただろう。サイトコンセプトにそぐわない志向性を持つ運営者たちが運営方針を弄ったことで運営内外の揉め事が拡大し2020年、文学極道は閉鎖された。かつてネット詩投稿サイトの象徴であった場は、その幕を閉じたのである。


【B-REVIEWの凋落──運営の乗っ取り】

 文学極道が終焉を迎えたことで、かつてその場に馴染んでいた投稿者たちがB-REVIEWへと流入した。しかし、これがB-REVIEWに大きな問題を引き起こすことになる。文学極道的な「罵倒・酷評上等」の文化、不規則な放言や誹謗的な発言を含め、マナーガイドラインに縛られず自由に発言できる場を復活させたいと考える者たちと、B-REVIEWの掲げる「マナーを重視した批評空間」を維持したいと考える者たちの間で、次第に齟齬が拡大していったのである。

 B-REVIEWは「ガイドラインに合意した人間であれば、手を挙げれば誰でも運営になれる」という極端にオープンな運営体制を採用していた。この方針は理念としては美しかったが、現実には大きな問題を孕んでいた。すなわち、サイトポリシーに共感しない者であっても運営の中核に入り込むことが可能な脆弱な仕組みとなってしまっていたのである。

 B-REVIEWは2017年の創設以来、複数の運営者によって引き継がれてきた。そして、B-REVIEWの運営は、文学極道を出自とする第八期運営者らに引き継がれたことによって2023年に大きな転換点を迎えることになる。かつて何度もB-REVIEWから出禁処分を受けていた人物が、運営側に招聘されたのである。この新たな運営体制のもとで、サイトのルールは事実上反故にされることとなった。従来であれば「マナー違反」として取り締まられていた行為が放置されるようになり、むしろ運営自らが批判者を中傷するような状況すら生まれた。これにより、B-REVIEWの運営方針は大きく変質し、従来の批評文化の維持を求めていた投稿者たちとの対立が激化することとなった。

 また、サイト内の意思決定の透明性も失われた。それまでオープンな場で行われていた議論はディスコードへと移行し、投稿者全員の目に触れる形での意見交換は意図的に避けられるようになった。これに対し、「もはや本来のB-REVIEWではない」として数十名の投稿者が抗議し、これまでのすべての投稿を削除しサイトを去ることとなった。

 現在、B-REVIEWは存続しているものの、創設当初に掲げられた理念はすでに形骸化している。本来の姿を知る者からすれば、屋号とサイトデザインが引き継がれているだけで、もはや別のサイトに見えるほどである。

 また、本来のあり方を否定したために、かつて開発を支援したプログラマーや、資金援助を行った者からのサポートも失われており、今後の大きな変革はほぼ不可能な状況にある。ここで、B-REVIEWを乗っ取った者たちの行為を具体的に断罪するつもりはない。
 しかし、強調しておくべきなのは、文学極道の最終期と非常によく似た現象が、再びB-REVIEWにおいても発生しているということである。つまり、「サイトの理念に共鳴しない者が運営の座につき、方針を変更することで場が混乱し、迷走し、凋落していく」という構造が、またしても繰り返されたのである。


【文学極道の亡霊にしがみつく人々】

 B-REVIEWが創設されて以降、ネット詩壇には文学極道的な「罵倒カルチャー」を復活させたい、適度に荒れた雰囲気の場をつくりたいと考える人々が常に存在していた。そして最終的に、そうした投稿者たちがB-REVIEWを乗っ取る形になった。

 本来、罵倒や荒れた議論は、創作に真剣に向き合うための「手段」であった。しかし、それが次第に変質し、「無秩序な放言や支離滅裂な発言、癇癪を起こすこと、誹謗的な発言をすること」すら、詩人としての特質であり、詩に対する純粋な姿勢であるかのように誤認する者たちが現れた。
 不思議なことに、サイトを乗っ取った彼らは自分たちが何を目指しているのかについて、殆ど議論も説明もせず、批判には無視か排斥で応えるばかりである。議論すること自体を忌避するような性格の人々が、本来のサイトポリシーを反故にすることだけに妙に固執しているようにも見える。彼らが本当に求めているものは何なのか。

 私の見立てでは、彼らが求めていたのは、文学極道というサイトが生み出してしまった「間違った幻想」である。
 まともなことがほとんど何もできないような人々、すなわち、一貫性のある態度や振る舞い、社会的な態度、感情のコントロールが一切できないような人たちが、自己正当化の手段として、放言や支離滅裂な発言を許容しているかのように見える文学極道の文化にすがりつくようになったのかもしれない。彼らにとって重要なのは、創造することでも、議論を深めることでも、場を発展させることでもない。ただ、自分を肯定してくれる空気に浸り続けることに他ならない。

 もともとは停滞する人々を排除するために存在していたはずの「罵倒文化」が、いつの間にか停滞する人々の拠り所となってしまった。ここまで読んでもらえればわかるように、私は文学極道というサイトが成し遂げた功績についてはリスペクトしている。また、最盛期の文学極道のような場を取り戻したいと思う人々の気持ちもとてもよく理解できる。
 しかし、このサイトの残滓のような人々、場を乗っ取り、まともな説明を忌避し続けている人たちは、文学極道を含めて、これまでネット詩サイトが積み重ねてきた活動に対して、実質的に「悪口」を言う機能しか果たしていない。彼らはそんなつもりはないと反発するかもしれないが、しかし結局ところ、なんのつもりで場を変質させたかったのか、明確な説明も主張もない中にあっては、場を壊し、停滞させ、しかしそうした結果に無頓着な様子以外に読み取れるものがない。


【そしてCreative Writing Spaceへ】

 B-REVIEWの混乱と凋落を目の当たりにした元運営者たちは、新たな文芸投稿サイトの必要性を痛感し、新しいサイトを立ち上げた。これがCreative Writing Spaceである。これまでのネット詩投稿サイトの歴史を踏まえ、サイトのコンセプトや運営方針を再設計し、新たな創作の場を築こうと試みたのである。

 このサイトは、もはや「詩投稿サイト」ですらない。そもそも、詩の枠組みを超えた作品を生み出すことこそが、ネット詩投稿サイトの夢だったのだから、「詩サイト」を名乗る必要もないという急進的な考えに基づいている。また、詩の場である以上、不規則に振る舞って構わないはずだと考える人々が一部に蔓延る中にあっては、特定のジャンルを特権化せず、開かれた場をつくることが詩界隈にとっても利益になると考えた。特に、旧来の詩投稿サイトにまつわる過去の遺物──すなわち文学極道の「罵倒文化」やその残滓──を一切引き継ぎたくないという意識が強かった。

 B-REVIEWの最大の問題点は、「オープンな運営体制が仇となり、乗っ取りが容易なシステムとなってしまったこと」にあった。この失敗を踏まえ、Creative Writing Spaceでは、クローズな管理体制を持ちながらも、分散的な自治が可能なシステムを設計することにした。
 その一環として、サイト内通貨「スペースコイン」を導入し、単なる作品投稿の場にとどまらず、各ユーザーが自律的に活動できる仕組みを取り入れている。また、各ユーザーが気に入らない相手をブロック・通報できるシステムを整備し、運営が過度に介入せずとも各自が自身の環境を管理できるようにした。

 さらに、詩だけでなく小説、幻想文学、戯曲など、多様なジャンルが交差する場を目指し、文学極道やB-REVIEWとは異なる新たな可能性を模索している。名興文庫との提携を通じて、小説界隈との連携を強化し、これまでのネット詩メディアにはなかった展開を示している。

 サイトの立ち上げからまだ間もないが、月間の投稿数はB-REVIEWの最盛期と同程度に達しており、順調に成長を続けている。しかし、これはまだ始まりにすぎない。Creative Writing Spaceはどのような夢を見ているのか──それは、かつての文学極道やB-REVIEWが見た夢の続きであり、それらとは異なる、新しい何かでもある。


【言い訳としての結語】

 Creative Writing Spaceは、特定のジャンルに依拠しない文芸投稿サイトである。あたらしく進めていくことをテーマに掲げている。したがって、本稿のように、詩投稿サイトの系譜を振り返ること自体が本来の方針にそぐわないかもしれない。
 
 名興文庫との提携を通じて小説界隈とも接点を持つ中で、特にアンチ活動に勤しむ人たちを目にするにつけ、小説の世界にもまた、特定のジャンルに閉ざされることで停滞が生じていることが理解できた。他方で、特定のジャンルに囚われることなく、純粋に創作を研ぎ澄ませたいと考える書き手が一定数存在し、Creative Writing Spaceに参画くださっていることも確かである。

 特定のジャンルに閉じないことは、詩に限らず、創作全般において重要な課題なのではないか。内輪の論争に拘泥するのではなく、異なる背景を持つ書き手たちが交わり、互いに刺激を受けるような場を築くことこそが、今後の文芸創作の発展にとって必要なのではないか。Creative Writing Spaceは、まさにそのような場を目指しており、現状にとどまるつもりがないからこそ、この論考を投稿している。

 0

trending_up 2142

 31

 57

音のない声

凍った土に
ひとつ ふりつむ
しんしんと
凍えた雪の
落ちる白が
ひとつ
黒い恨みの
華がぽつんと
冷えた大地に
また ひとつ
ぽつぽつと
受け皿 まだら模様
見事に調和する天と地が
あかぎれしそうなほど
鋭利な冷土
ふりつむ
盲目の
孤独な皮膚に刺す

ふりつむ雪が
いっそう しんしんと
真っ白になる故郷
純白の氷結
震える指
唇を探す
まだらな大地に
雪崩のようにふりかかる
真っ黒な口を開けた
裏切りの悲鳴が

 0

trending_up 47

 2

 4

地球への手紙

水深4000mでは豪雨が
息を求めて走り出す

ミミズの内側から地面へ
土が這い出していく

蜘蛛の巣によって月の光は狩り尽くされ
真っ暗になっても雷鳴すら
木の上に踏みとどまるだろう

苔むした部屋で
カーテン代わりの肺を閉め

耳の蝶番の間によく染みついた
暗闇を綿棒でぬぐいとり

シャボン玉の虹彩を引き抜きながら
それで望遠鏡を作ることができる

あと何年かかるだろう
地球のもとへ辿り着くために

 0

trending_up 28

 1

 1

過去作短編『三匹目のドジョウ または田之上みやびがいかにして心配するのをやめてグイタル族の滅亡を受け入れたか』

ぐいたる?
確かに彼はそう言った。guitarのことだと気づくまで約二十秒。その約二十秒間で私は脳内にグイタル族という中国北部に暮らす遊牧民族を誕生させた。彼らは山羊と寝食をともにしているため山羊に関する語彙が豊富である。山羊をオスメス、成獣、子供だけにとどまらず耳の形、毛の色、成長段階で呼び方を変える。それだけ山羊を詳細に分ける必要があったのだ。
しかし、ぐいたるがguitarと判明したためにグイタル族は滅びた。
「なんだ、ギターのことか」
「これでギターって読むんや。知らんかった。自分英語できんねや、すごいな」
「ギターくらい誰でも読めるわボケ。あんた英語力ヤバすぎるやろ」と思わず私はキツイ言い方になってしまった。彼のせいで滅びたグイタル族が不憫でならなかったからだ。
私たちは楽器屋でギターを眺めていたが、ギターに用がある訳ではない。ギターに用があるやつはぐいたるなんて言わない。
私も山本さんも明らかに手持ちのカードを切り尽くしていた。しかし、この蒸し暑いなかを歩きたくなかった。
昼は山本さん、おすすめのイタリアンを食べた。三宮のとあるビルの三階にある雰囲気のいい店だった。もちろん、支払いは山本さんだ。ランチのあとは、センター街の本屋に行き、私は気になっていた詩集を買った。普段、漫画しか読まないらしい山本さんはずっと退屈そうにしていたので、じっくり眺めるのはまたの機会にすることにした。そして、やる事がなくなり、適当に歩いてたどり着いた楽器屋に入ったわけだ。
そもそも、ランチに誘っておいてその後の計画はなしって言うのはいかがなものかと私は山本さんの無計画に内心ウンザリしていた。
「カフェでもいかへん?」と私はその場しのぎの提案をした。
「ええよ」と山本さんはすぐにスマートフォンでカフェを探し出した。JR方面にチェーン店があるという。
「ほなそこで」
二人は無言でカフェまで歩いた。


山本さんは会社の同僚だ。私と年齢はほとんど変わらないが、私より五年先輩の営業マンである。コテコテの大阪弁で喋り散らかし、常に談笑の中心にいる陽気が服を着て歩いているような人。ダンボール工場の営業マンとして、豊富な知識と経験を持つ、我が社のエースだ。
一方、私、田之上みやびは山本さんと違って地味でさえない事務員である。仕事が出来ない。教えられたことをすぐに忘れてしまう。重要な見落としをする。頼まれたことをミスなくこなせる方が珍しいポンコツ社員。きっと他の職員から嫌われている。気がする。楽しい談笑の場に私は入れない。いつも遠巻きで見ている。昼食はもっぱら一人。さっさと食べて残り時間を読書に費やす。読書が唯一の友達だ。
と、いうのが職場での私の顔で、本当の顔は別にある。職場以外の私はだいたい阪急三宮駅前でナンパ待ちをしている。何を隠そう、私は女装男子なのだ。
みやびという女の子みたいな名前だが、列記とした本名である。その名前のせいなのか小さい頃から女の子みたいとからかわれることが多かった。私は本当に女の子だったらどれだけ幸せだったろうとその度に思ったものだ。物心がついた頃から「性別」というものがあることに違和感を覚えていた。男らしさって何?って感じで。しかし、違和感があるというだけでそういうものとして受け入れてはいた。
そんな思いを抱えながらも何不自由なく、男の子として生きていたのだが、高校二年生の時、私は目覚めることになる。
私の通っていた高校は学祭でいつも学年ごとに演劇をやることになっていた。一学年一クラスの少人数制の高校だった。ものを書く事が好きだった私は脚本を担当した。脚本書くなら演出もやってほしいと周りに頼まれ、それを引き受けた。
私の学年には女の子が二人しかいなかった。あとは男子。しかも、男汁満載の頭よりも筋肉で生きてきたような男子たちだ。そんな男子たちに負けないようにヒョロガリの私は熱血指導をした。ふざけている奴がいると、怒鳴り散らして、最悪の場合物に当たった。
そして、それがいけなかった。ヒロイン役の女の子が怖いから辞めたいと言い出したのだ。私は他の生徒たちから糾弾された。やる気をなくした一部の生徒は練習をサボるようになった。このままではクラスがバラバラになってしまう。そこで私は責任をとってヒロインを引き受けたのだ。人生で初めての女装だった。
ヒロインを降りた女の子と、人前に出るのが苦手で小道具にまわっていた女の子。クラスの二人の女子によって私はフルメイクを施された。私は女になっていく自分を見て、これが本当の私。本当の顔だと思った。私はとても可愛いかった。こうして私の女装ライフが幕を開けた。


二匹目のドジョウを求めてしまうのが人の性ってやつだ。じゃなきゃ、女装してナンパ待ちなんてしない。つまり一匹目のドジョウがいたわけ。
そのドジョウは友達との待ち合わせをしている時に現れた。阪急三宮の駅前の広場。友達は遅刻していた。三十分は待っていたと思う。そこにいかにも軽薄そうなサラリーマン風のスーツの男が声をかけてきた。梅雨明けが発表された七月の初旬。気温は連日三十度を超えていた。スーツの男は額に玉汗をかいていた。私の顔を覗き込むように見ながら言った。
「お姉さん、待ち合わせ?さっきから三十分もここいにいるけど、すっぽかされたんじゃない?ねえ、暇でしょ。そこらへんでお茶でもしようよ」
私はジロリと男を睨んだ。玉汗をかいてる割に汗くさくもなく清潔感がある爽やかな男だと思った。だが、標準語なのが気に食わないし、友達からはあと五分くらいで着くと思うと連絡が来ていた。こいつに付き合う義理はないのだ。
私は目線を逸らして早足で男から逃げようとした。すると、男は通せんぼして立ちはだかり「いいじゃんか、少しくらいさ」とニヤリと笑った。その笑みは不潔だった。だから言ってやった。
「あんな、私男やねん。ごめんやけど、ナンパするんやったらよそでやれや!」
男は明らかに狼狽えた様子でそそくさと去っていった。そこに丁度よく友達が到着。
「知り合い?いまのひと」
「ううん、ナンパかな」と答えてから初めてナンパされたことに気づいた。
「まあ、みやびちゃんかわいいからしゃーない」と友達は笑って言った。
かわいいからしゃーない。この言葉が私を二匹目のドジョウに探しに突き動かした。というのも、私はそれまで自己基準で私はかわいいと思っていたのだが、ナンパと友達の証言によって他人から見ても可愛いというお墨付きを頂いたのだ。
しかし、そう簡単に二匹目のドジョウは現れなかった。声をかけてきたと思ったら怪しげな壺や美術品を売りつけられそうになったり、よく分からない署名を求められたりだった。
それでも諦めきれず、休日は欠かさず阪急三宮駅前の広場でナンパ待ちをする日々が続いた。そして、一ヶ月が経った。ついに二匹目のドジョウは現れた。山本さんである。
「きみ、かわいいなぁ。連絡先教えてくれへん?暇やったら遊ぼうや」
思わぬタイミングでの山本さんの登場に私はつい職場のモードで「お疲れ様です」と言いかけた。それほど職場と変わらない山本さんだった。この人は裏表がない。と思った。
「なに?ナンパ?」と私は一応、警戒心をアピールしてみた。
「ナンパやで」と山本さんは笑った。白い歯が見えた。工場の男性職員はだいたいがタバコを吸っていた。ヤニで黄ばんだ歯を見せて下品に笑う。だが、山本さんの歯は白かった。そういえば奥さんのために長生きするから酒とタバコはやらないと言っているのを聞いた気がする。愛妻家でもナンパするんやなと私は思わずふっと笑った。それが山本さんには愛想笑いに見えたらしく「ほな、いこか」と大胆にも私の手を引いて歩き始めた。強引やなと思いつつも断る理由もなかったし、山本さんとはいつか話してみたかったからついて行くことにした。
その日はカフェで二時間ほど話した。山本さんは最後まで私が会社の同僚だと気づくことがなかった。私はみやびとしか名乗らなかったし、友達の体験をさも自分のことのように語ったので疑われるはずがなかった。
職場では一言も話したことがなかった先輩と二時間も話した。職場でも女装していこうかと考えたほどだ。
ただ、山本さんが職場にポンコツ社員がいると言って、私のことを笑い話として語り出した時は泣きたいような気持ちで笑った。笑ってしまった。
あなたの目の前にいるのがそのポンコツ社員の真の姿ですよ!と言いたかったが、この場を台無しにはしたくなかった。


そして、今に至る。山本さんとはナンパされて以来の二回目のデートだったのだが、今私たちはカフェの席で向かい合って無言のまま時間だけが流れていた。
「ひまやなぁ」と山本さんがコーヒーを一口啜った。
「せやな」と私もコーヒーを一口。
「ねえ、山本さんって奥さんおらんの?」
「うん?おらんよ?」
「そうなん?いい旦那さんになりそうやのになぁ」
「ほな、結婚するか?」
「アホか、そんな簡単なノリで結婚せんわ」
嘘つきめ。と思ったが、女を装ってる私も大概か。山本さんにも裏の顔があるんやろなと思った。
「難しく考えるからあかんねん。ええか、みやびちゃん教えたるわ」
「何を?えらそうに。ギターも読めんのに」
山本さんはニヤリと笑った。白い歯がキラリと輝いた……ように見えた。そして、指をパチンっと鳴らした、実際は鳴ってなくてパスっと乾いた音がしただけだったのだが、私にはパチンっと響いて聞こえた。


草原。青空があまりにも青くて瞬きをしばらく忘れていた。どこまでも広がる草原。馬の群れが駆けていた。突然、背後で山羊の鳴き声がして、驚いて振り向くと、山本さんが山羊を撫でながら得意顔で立っていた。
「ここは?え、、どういうこと?」
「ここはな、今風に言ったら内モンゴルや」
「は?内モンゴル?さっきまでカフェにおったやん」
「知らんか?内モンゴル」
「内モンゴルは知っとるわ。なんで内モンゴルにおんねんって言うてんの」
「まあ、可能性の空間やからな」
「は?」
「教えたるって。世界はな、数えきれん可能性の中から選ばれた一つの可能性の結果にすぎん。俺とみやびちゃんが出会ったんもその可能性のひとつ。出会わない選択ももちろんあんねん」
「さっきからなんの話しとん?」と言った瞬間、あることに気づいた。女声を出していない。喉仏をあげる意識をしていないし、抑揚を意識して話してもいない。地声だ。しかし、地声なのに女声だ。そして、身体の異変にも気づく。おっぱいがある。そして、ファルスがない!これじゃ本物の女じゃないか!待って、身体まで女になりたいと願っていない。女にしか見えない男でありたいだけだ。
いや、ある。私が幼い頃母がよく話してくれた。産まれる直前まで、女の子だと医者が言っていたという話。それを聞かされる度に、なんで女の子にしてくれなかったの?と思ったことがある。
「ここではあらゆる可能性が暮らしてんねん」山本さんが指さす。そこにはモンゴルの伝統的家屋ゲルがいくつか並んでいた。
「あれは?」
「グイタル族や」
「は?」
「グイタル族や。みやびちゃんが考えて、俺が滅亡させた遊牧民族。なんで俺がグイタル族を知ってるかって?それはみやびちゃんがグイタル族の話を俺にしてくれた可能性があるからや」
確かにグイタル族を思いついた時、それを言おうか迷った気がする。だが、あくまで気がする程度だ。私は次々浮かぶ疑問を一つ一つぶつけていきたいが、何から訊くべきか分からずただただ惚けていた。
山本さんは話し続ける。
「人には表と裏があるってよう言うやんか?あれはほんまはどっちも表のコインちゃうかって思うんよな。絵柄がちゃうけどどっちも表なんや。みやびちゃんに見えへん俺の顔もあるし、みやびちゃんにも俺に見せてない顔があると思うねん。どっちを見れるかはコイントスみたいなもんで、運やねん。せやから、俺と結婚してるみやびちゃんもおるかもしれんで」
「はあ」としか私は言えなかった。
「みやびちゃん、そろそろ受け入れようや」
「なにを?」
「グイタル族の滅亡とみやびちゃんがポンコツ社員なことをや。仕事できんってイジって悪かったな。でもな、事実や。きみは仕事できひん」
晴れ渡る空のもと、心地よい風の吹く草原で、私は仕事ができないポンコツ事務員だった。
鬨の声が聞こえた。中華王朝の軍が来たのだ。グイタル族を滅ぼしに。私は目を閉じた。逃げ惑うグイタル族。ゲルは次々と火をつけられ、辺りは血と焦げ臭い匂いが満ちていた。悲鳴に混じって何か聞こえてくる。徐々に音がはっきりしてきて、それが下手くそなギターの演奏だとわかった。私は目を開けた。ギターをジャンジャンカ鳴らして山本さんがドヤ顔していた。
「どう?」と山本さんは言う。
「下手くそやな。耳腐るわ」と私は笑った。
もう草原じゃなかった。楽器屋で山本さんはぐいたるを買うと言った。弾けるようになったら家に呼んだるわと笑った。私はそんな未来は選ばれないだろうと思った。


それから私は女装をしなくなっていた。ポンコツ社員として、真面目に働いた。相変わらず仕事はできない。
今日も山本さんは談笑の中心にいる。最近、ギターを買ったらしい。その話の途中、私の方を見た気がした。気の所為だと思うが。
グイタル族は滅亡した。その存在を知るものはいない。三匹目のドジョウを探すことは当分ないだろう。
そして、休日。私はまた阪急三宮駅前の広場で待っていた。ナンパ待ちではなく、友達を。友達はまた遅刻していた。女装男子ではなくポンコツ男子として待っていた。
そこへ「あの……」と突然二人組の女性に声をかけられた。逆ナンだった。友達をすっぽかして、ノコノコと女の子たちについて行く道すがら気がついた。三匹目のドジョウはぼく自身だったのだと。でも、もうそれで良かった。

 0

trending_up 14

 3

 1

一月

一月は重い
正月以降 ただ 
惰性のように続く

一月は暗い
寒波が人を覆い
動きを鈍く変える

一月の朝
まだ見ぬ花を見た
花は半ば枯れていたが
冷たさに
よく似合っていた

辺りは灰色で
道はひと気もなく
どこまでも続いている  

一月は足早に過ぎることもなく
この家に
居座り続けるように長い

 100

trending_up 38

 3

 2

杉並釣友会のあった時代

今も愛用しているハヤ竿を買った釣具店のご主人は、すでに遠出のできない体になっていたが、かつては名門「杉並釣友会」の番付で大関を張るほどの腕利きだった。

同年代がブラックバスのような派手な釣りに血道を上げる中、私は真鮒やヤマメに夢中だった。狭い用水路で、弧を描くように走る真鮒の引き。その手応えに、私はすっかり魅了されてしまったのだ。ヤマメ釣りに至っては、もう一生やめられないだろうから、安易に語ることすら憚られる。

美術学校に進んだ友人は、当時からフライフィッシングを嗜んでいた。私も少しは真似てみたものの、やはりヤマメを釣る方が楽しく、結局はキャスティングが人並みにこなせるようになったあたりでやめてしまった。 あの時、フライなりブラックバスなり、もう少し社交的で時流に乗った釣りに興じていれば、今ごろ浮き世を器用に渡り歩き、華やかな人生を謳歌できていたのかもしれない。けれど私は結局、独りで沢をほっつき歩く星の下に生まれてきたのだ。きらびやかなルアーは、私にはどうにも眩しすぎて似合わない。

私の鮎釣りの師匠は、杉並釣友会の人々と交流があった。井伏鱒二が秋川へ釣りに来た際、案内役を務めるほどの釣り人だった。 師匠から聞く杉並釣友会は、錚々たる文人墨客の集いだったという。彼らが贔屓にしていたのが、相模湖の「小川亭」という船宿だ。井伏のエッセーには、時代の移り変わりを「当節では、小川亭の客筋も変わってしまって……」と女将が嘆くくだりがある。 時は高度経済成長期。流行りの釣りに浮かれた無遠慮な連中が、「おい船頭、舟出せや!」と騒ぎ立てていたのだろう。

かつての小川亭は、東京の旦那衆が「東作」や「竿治」といった名工の手による和竿を携えて訪れるような宿だった。 中央線を東京駅から西へ、杉並を抜けてひた走る。当時は浅川駅と呼ばれた高尾駅を過ぎ、トンネルを抜けてようやく辿り着くのが、与瀬駅(現在の相模湖駅)である。 相模湖はダム湖だ。ダムができる前の小川亭は、桂川の本流でハヤや鮎を狙う客のための宿だったに違いない。それが今では、甲州と八王子のハイブリッドのような妙に騒々しい親父が、濁った声で応対するただのボート屋に成り下がっている。

なぜ今さら杉並釣友会のことを思い出したのかといえば、久々に開いた井伏鱒二のエッセーに、その名や小川亭の文字を見つけたからだ。 もちろん私の知らない、伝聞でしかない世界ではあるが、戦前から戦後の一時期にかけて、そうした風雅な世界が確かに存在していたのである。

もっとも、私が今よく通う西湖の船宿も、なかなかいい。 ここでは企業のオーナーだろうが、世間でサインをねだられるような有名人だろうが、一介の釣り人として平等に扱われる。船宿側も、誰かを特別にちやほやすることはない。 以前、世俗の肩書きを誇示するように「自動車の設計をしている」と吹聴する男が、「ヒメマス番付のようなものを作ろう」と提案したことがあったが、誰一人として乗ってこなかった。 湖上に漕ぎ出せば、ただただ好きなように釣る。棚を聞かれれば教える。それ以外の野暮な話は一切しない。 明文化された決まりはないが、どこぞの「カントリー倶楽部」などより、よほどまともな遊び場だと自負している。

そういえば、ゴルフ好きが聞けば怒るかもしれないが、かつて師匠にこう釘を刺されたことがある。 「ゴルフなんてものは、趣味のない無教養な人間のやることだ。お前はするなよ」 言いつけを守ってゴルフこそしないものの、今の私は公営競技をこよなく愛する、怠惰なルンペンプロレタリアートに成り下がってしまった。

けれど、今も和竿を握ってしっかりヤマメを釣っている。杉並釣友会の番付でいえば、せめて「序ノ口」くらいにはなれたと思うから、天国の師匠も許してくれると思うのだ。

 0

trending_up 95

 3

 2

小さな星の軌跡 第十話 雪の空の下で

雪の空の下で

「みっちゃんおはよう」「ちーちゃんおはよ」
いつものバス停 いつもの親友
いつも通り 同じ席に座る
窓から見上げる空は鉛色
頂を白く飾り 霞む西の山々を眺め
しばらく星は見れないねと呟く

学校前のバス停で降りると
紺色の制服にふわりとかかる白い物
そうそう この前の気象通報では
「ハバロフスク……地吹雪…」
ラジオからの声に皆で慌てた
先輩たちは余裕で天気図に書いていたな

放課後の天文部
今日の天気図をさくっと終わらせる
先輩たちにはまだ負けるけど
それでも上達したと思う
外を見るとまた白い物がはらはらと
何かごそごそする先輩たち

黒紙とルーペとカメラを持って
三階の渡り廊下に向かう
曇り空とすでにこの時間
ぼんやりした夕刻の中で
黒紙の上の六角形を観察する
先輩たちは結晶の写真も撮れたみたい

いつものバス停 いつもの親友
じゃあね また明日といつも通り
ただいまっと玄関を開け
頭についた雪をはらう
屋上で はらってくれた 先輩の
大きな手のひら 思い出しつつ

 0

trending_up 111

 3

 10

棄民

棄民  北岡伸之




語学学校は、完璧な隠遁の形態のひとつ、とある作家が小説の中で書いていたけれど
あれは本人の体験でもあるのだろう。


小説の中の主人公は、欧州の語学学校を転々とする。夏は涼しい北のほう、冬は地中海よりの暖かい地域。語学学校ゴロ。
もちろん学校なんかにろくに通わずに、オペラ三昧だ。
欧州の立見席なんかは、歌舞伎の幕見席くらいの料金だから、毎日みても、食費を削るくらいですむ。


近年までは、どの国もVISAがゆるかったので、語学学校を転々として下宿に引きこもる、という生活は余裕でできた。そして、それは、本人が望むというよりも、本人の意志とは別に、語学学校ゴロを余儀なくされるというのが、自分の知るケースでは多かった。


たとえば、妙齢のお嬢さんが、東京の女子大にはいったはいいが、毎日ラリって遊びまわって、それが厳格な親の耳にはいった場合、高確率で「海外送り」となる。
世間体が悪いから、しばらく遠くでおとなしくしろというわけである。こういう「棄民」は、戦前からあった。


アニメ、進撃の巨人の中に登場する口減らしのための「棄民」や、氷河期世代をあらわす言葉としての「棄民」と同列に扱っていいのかどうか、自分は迷っているけれど、海外送りにされた「棄民」たちが感じている不安や孤独は、質的には、非正規労働者や氷河期の「棄民」が抱えているものと、あまりかわらないと思うのだ。


古くからの友人の秋ちゃんは、まさにそんな棄民で、日々ラリってろくに学校も行かず同人誌製作にうつつをぬかしているのにしびれをきらした親により、20の頃、海外送りにされた。
秋ちゃんは当時ベルギーにいて、将来への不安からかかなり精神的に不安定だった。


久しぶりに秋ちゃんに会おうと、自分は忙しい中、近隣の国のチームの協力もあって、目の前のプロジェクトを落ち着かせた。
自身の裁量で仕事をすすめられるくらいの星の数を得て、ようやく休みもとれるようになってきたのだった。
一緒に過ごしていた10代後半の時代が、なつかしく感じられたのだ。日本でしみついた嫌なものを落ちそうと、自分は先に隣国の国営博打場のブラックジャックのテーブルと、コンセルトヘボウの音響を堪能しつくして、その足で東京駅の煉瓦つくりとよく似たアムステルダムの中央駅から二等車にのって、秋ちゃんのところに向かった。


再会の挨拶もほどほどに、そのへんの食堂にはいって、我々は前菜をすっとばし、魚料理を注文した。秋ちゃんは、もちろん、お酒も。欧州の街場には、プリフィクスとかいう野蛮なお決まりは、そんなに普及していない。
「父も、いつまでも元気かどうか、わからないし」
「でも秋ちゃん、出撃はついに訪れずってこともあるかもよ。」
秋ちゃんの親は開業医で、そろそろしんどいから、診察を午前だけにするとか、そういう状況だった。
グラスを持つ秋ちゃんの手は、本当にきれいだった。工場で働く女性の手が、働くものの手、労働者の美しい手であるとするならば、秋ちゃんの手は、高貴な鮎毛ばりにも似た、脆く美しい手であった。
「今、日本でどんな仕事があるかしら。通訳とか、翻訳はできると思うんだけれど・・・・・・」
自分はとっさに会議室横の同時通訳ブースにたむろしているおばさん連中を連想してしまった。
「まあ、そういう仕事はあると思うけれど、日本は、労働環境がよくない、先ず、人権という概念がない。あと、生活費も高いよ」
給仕が運んできた魚の上には、たっぷりとディルが添えられていて、デコレも美しかった。そして、豊潤な発酵バターのかおり。もうこれだけで、味付けはいらない。
「でもさ、秋ちゃん、日本でこれくらいのもの食べようと思ったら、普通の仕事じゃ、とてもやっていけないよ」
「お芋と硬いお肉の生活でも、大丈夫よ。テーブルワインでも」
秋ちゃんは、貧乏でもなんとかなると乙女じみたことを口にした。
「そんな節約したら、君は一月でまいっちゃうよ」
「そんなことない、私、競馬場の地下のスタンドみたいなところでも大丈夫よ」
秋ちゃんは、頑固だから言い出したら聞かない。


ここで、秋ちゃん、君は働くなと言ったら、君にとって働くのは、生き恥をさらすくらい、きついものだというのは、わかっているから、だから君は働くなと言えたのなら、自分の人生もだいぶかわっていたかもしれない。


でも、自分は当時つきあっていた、工場で働いている女性と生活する気でいたのだった。


出撃の日、それは、自立を余儀なくされる日であり、秋ちゃんや、海外の「棄民」たちにとって、何よりも恐ろしいことなのだ。自分はとうの昔に、出撃の日を体験していたが、その日をおそれる心境が、鮮やかに蘇った。


日本の学生だって、卒業の前はブルーになるだろう。就職の決まった学生が、これから懲役40年か、なんて自嘲的につぶやいて、自称「社会人」の無産階級の、おなじ立場のひとたちが騒ぎ立てるといったことが、最近なかったっけ?


流れる空気も、他のテーブルの会話も、優雅だ。ああ、ここにはゆとりがある。
「秋ちゃん、ちょっと飲みすぎじゃない?」
さすがに、ペースがはやすぎ。
「いいのよ、私が飲むから。」
「ああ、飲もう。出撃の日は、とりあえず、しばらくはこないさ。」
鼻腔をお菓子や花の蜜のようなかおりがとおりぬけ、ミネラルの味がしっかりと舌に残る。おいしい。
とてもテーブルワインなんかじゃない。やっぱり秋ちゃんが、日本で節約生活をするのは無理だろう。


迫りくる出撃の日、自分は初陣をすませていたものの、秋ちゃんの気持ちは十分にわかった。
毎日好きなことをして暮らせるなら、それにこしたことはない。出撃の日、それは、自由と放埓の日々からの別れであり、死と同義であるかもしれない。
「見るべきほどのことは見つ、ね、わたしは今、そういう心境よ」
秋ちゃんも、かなり酔ってきた。
「秋ちゃん、だけれど、それに続くのは」
「わたし、あのとき、バルビチュレートでおしまいにする筈だったのよ、気がついたら、病院のベッドでしょう? 北のはてまで行っても、無理だった。」
アメリカの死囚は、この薬で意識を落とされる。そのあとは、カリウムが心臓を焼く。
「それは、運が悪かったとしか、言いようがないな。しかし、そうか、見るべきほどのは、既に見たか。ああ、それもいいだろうね」
「本当?」
「ああ、いいよ。秋ちゃん、君とならお供するさ。どうせ、このまま日本で生きていても、湊川だよ。」


島尾敏夫の「魚雷艇学生」の中で、戦争に負けて、出撃の日がなくなったことが確定したときに
古参の下士官が、隊長で士官である島尾敏夫に放った言葉を思い出した。
「私は軍隊で貴重な青春をすりつぶしてきたんです。だから、責任は、隊長のような人がとるべきだ。」
もちろん、島尾敏夫とて、職業軍人ではない。時代が、彼を青年士官として、隊長の立場に立たせたのだ。


グラスごしに秋ちゃんの高貴な顔を久しぶりにながめながら、知らない街を眺めながら、自分の住む煤けた工業都市住の人たち、工場に通うひとたちは、いざとなれば、我々はこんな工場で青春をすりつぶしてきたんだ、お前らのことなど知ったことか、と辛らつなことをいうのだろうなと、自分はぼんやりと感じていた。決して、あの街の人は受け入れてはくれない。自分たちは、青春を、すりつぶしていないから。


店は、ほとんど客がいなくなった。給仕は暇そうに遠くを見つめて立っている。けれど、もうラストオーダーです、なんてことはいわない。
「今日は、どこに泊まるの?」
だいぶ飲んで、目がとろんとした秋ちゃんが自分の目をみつめた。
「まだ決めていないけれど、ツーリストホテルみたいなとこ、ここらにもあるだろうから、適当に決めるさ」
だいぶ、お互いに酔ってきたけれど、別になんの思惑もない。ただ、隣国のツーリストホテルは最悪で、おもてにはコケインコケイン呟くゾンビみたいな売人はいるわ、慣れないキノコを食べた旅行者が上から落ちてくるわ、まったく心がやすまらなかったので、三つ星くらいの、ホリデーインエクスプレスみたいなとこにしよう、ルーレットで10ユーロチップがかなり増えたしね、と自分は考えていた。
「うちにくる?」
と、秋ちゃん。
しかし、心中の話をした後で、お泊まりというのは、やはり怖い。
「そうだなあ、床で寝るから、それでよければ」
「わたし、いびき、うるさいよ。」
「まあ、これだけ飲んでりゃあ、お互いさまだ」
そんなこんなで、秋ちゃんの家にお世話になることにした。


すぐタクシーがつかまるのは日本くらいだ。路面電車に乗り、石畳の上をだいぶ歩いた。


アパートかと思ったら、小さいながらも一軒家だった。何人かで住んでいるそうだが、誰も居間にはおらず、自分はそのまま秋ちゃんの寝室に向かった。 調度の整った部屋ではあったが、これはもともとあるものだろう。ベテランの語学学校ゴロは、家具を持たない。そう、鏡台ですら持たないのだ。


普通はなにかあるのだろう。いい年の男女が、一緒に寝たら。
けれど、なんにもなかった。自分は床に寝なかったけれど、何にもなかった。


お互いに、手のうちをみせあっているだけに、不毛なステップに進むのを回避できたのかもしれないし、単に酒の飲み過ぎでお互いにそんな気にならなかったのかもしれない。
くだらない、地上のつながりは、大切な関係を壊す。二人とも、それがよくわかっていたのだろう。


白ワインやシャンパンの二日酔いは、最悪だ。翌朝、割れそうな頭をかかえて、我々は、のそのそと、卵や芋の調理法を聞いてくれるくらいの食堂に向かったのであった。




自分と秋ちゃんの爛れた関係は続いた。
毎日、観劇と酩酊だ。
コンセルトへボウと、国営博打場のショートデッキのブラックジャックのテーブル、これはカウンティングがきくので、有利なときに一気に賭け金をあげれば容易にかつことができた、にはちょっと未練があったけれど、なに、また行けばよい。


ある日、ラ・ボエームをみて、二人ともいたく感じ入って、秋ちゃんの下宿で、白ワインを飲んで余韻にひたっていた。そして、自分は、ようやく、言葉を声にした。
「日本の恋愛は、生産のためなんだよ。国や企業のため。だからテレビドラマでやる恋愛は、生産的なんだ」
秋ちゃんは、首をふった。
「そういうものに、とりこまれる日がくるのかしら、ねえ、いま日本はそんな社会になっているの?」
「日本に本当の恋愛ってのはあまりない。日本ではミミは歌わない、下宿に死にに帰ってこない。ただ金をとりにくる。ムゼッタだって、最後はミミのために奔走したのに」


話すことがなくなると、昔話になるのは、世の常であるらしい。
緻密なウイスキーすごろくをつくりあげて、工業都市の人々を消費と競争にかりたてた会社は、東京コンサートホールをもっていて、学生は安い料金ではいることができた。
諏訪内さんが、メンコンを弾くというので、秋ちゃんといったのだ。もう20年以上前だろう。指揮は岩城さん、オケはアンサンブル金沢。
当時のアンサンブル金沢は、めちゃくちゃとんがっていて、岩城さんは必ず難解な現代曲をやるし、聴衆がお世辞の拍手でもしようものなら、ブチ切れてホールは険悪な雰囲気になった。
ただそのときは、松村禎三の曲をやったので、比較的和やかなうちに諏訪内さんの登場をむかえたのであった。


「あのときの、諏訪内さんは本当にきれいだったなあ。俺、いまでも鮮やかにおぼえてる」
「そうね、CDを買って、なんべんも聴いたけれど、録音は録音。あれは本当に、すべてが奇跡だった」
しかし秋ちゃんはその後に爆弾発言をした。
「前に、歌の翼を弾いたでしょう、うちで」
「いやいや、秋ちゃん、俺そんなにロマンチストじゃねぇよ、メンデルスゾーン好きに見える?」
「案外そうじゃないの?」
秋ちゃんは、くすくすと笑った。
「いや、違うよ、俺が酔っぱらって弾いたのは、若鷲の歌だって、若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨」
「ちがうわよ。Auf Flügeln des Gesanges」
「そうだったっけ、でも本当にいま弾きたいのは「あの旗を撃て」だな。補給の道は絶え絶えに、射つべき弾丸もはや尽きて、残る一つはこの身体」
補給、そう、送金がたえた時が、語学ゴロの最後のときであり、敵陣に裸で突撃することとなる。
秋ちゃんだけじゃない、星の数はまああるかもれないが、可もなく不可もなくで、のらりくらりと賃金労働に従事している自分も、究極的にはこの身体しかない。
まことに、まことに生きていくのはしんどいことだ。


しかし秋ちゃんの指摘は案外当たっているのかもしれなかった。
すっかり心がかさついてしまった自分が、あのミミのアリアに、ミミが下宿に死にに帰ってきたとき、みながミミのために奔走する終幕に、心を動かされたのは、本当のことだ。


こういう気持ちのときは、ウイスキーがいい。華やかな酒は、気が滅入る。
秋ちゃんは、穏やかな、調和がとれた中にも、煙たさがちょっとあるウイスキーを出してくれて、不揃いのコップでまた一緒に飲んで、酔って、昔の話をした。
ウイスキーは、こういうときにぴったりだ。


レッドからホワイト、次は角、角から、夢のオールド、次はリザーブというウイスキーすごろくを真面目にやって、堅実な幸せをつかむには、自分も秋ちゃんもひねくれすぎていた。うちは明日からオールドと、昇進辞令とともに、あたたかく自分を迎えてくれるであろう工場の女性の顔も、もはやぼんやりとしか、浮かばない。


自分が山で死ぬときに浮かぶのは、秋ちゃんの顔か、黒髪の魔女か。


音楽と、博打と、酒と、同人誌の話。
欧州の、ある一部屋に、どこにも行き場のない男女が、あのとき、たしかにいた




秋ちゃんとしばらく過ごしたのち、日本にかえってから、自分はマディラワインを台所に置くようにした。
ジンやウオッカなどは、台所にうつした。それは、秋ちゃんなら、料理にマディラワインを使うだろうし、ジンは台所の酒と認識しているだろうからだ。
ブランデー、上等なウイスキーは寝室に置いても良い。


マナー講師はいわないけれど、こういうことは、たくさん世の中にあるんだ。アメリカだって、老婦人はペプシは台所にしか置かない。
コカコーラがダイニングの飲み物であり、ペプシは台所の飲み物なのだ。
自称高級スーパーでも、マディラワインもおいていない、灰色の街。多くの人々が、青春をすりつぶしてきている。


出撃の日は、きっと来ない。




しかし、より厳しい日々を、自分も秋ちゃんも生きていかないとならないのだ。我々には、行く場所などないのだ。星があろうとなかろうと、誰も受け入れてはくれない。

 0

trending_up 248

 3

 10

すたっかーと

こころの中に
ぽっかり空いた穴を
塞ごうとしても
できないでいる

明かりのない部屋で
退屈に打ちのめされて
体育座りをするしかない私を
皆んな笑っているんだろう

音楽室でひとり
ギターが弾けずに
呆けている
そんなこと
誰にも言えないでいる

マホガニー板のウクレレを抱えて
小さな音の海に沈む
ギターより扱いが楽だ
少しはマシかもしれない
少しはまだ生きていけるかも

だけれど君
安請け合いはしちゃいけないよ
そんなに簡単に優しさはもらえない
分かっているとは思うけれど

すたっかーと

それでも君
傷付く事を恐れないで
信じる人の声を聴けばいい
考えているとは思うけれど

手足をばたつかせて
右手
左手
右足
左足
跳ねる
踊る

不安定な精神
蹴り飛ばしたい
望みは高く
宙を飛ぶ
残酷なほど
極彩色に
塗りたくられて
答えさえ
毒々しく
光り輝いている
胞子のように

 0

trending_up 119

 5

 4

小さな星の軌跡 第八話 四月某日の天文部

四月某日の天文部

カラカラカラ
「よう、耳納」
「なんだ、朝倉か、二年になって天文部に顔出すの初めてじゃんか」
一年生入ったんだって?」
「女子二人な、そっちは?」
「男子二人と女子二人、多いだろ」
「経験者?」
「男子はデジ一眼とミラーレス持ってるな、女子は一人がフイルム、一人はスマホ勢」
「へえ、期待大だねえ。天文部の新人さんは鉱物系と、もう一人は⋯特に、なんだろ?」
「なんだそりゃ。リケジョでもないのにこんな所に来たんか?」
「一人でやってきたよ、最初はしょ...中学生かと思った」
「うちは中高一貫じゃねーだろwってか、しょ、ってなんだよ」
「いやまあ、ほんとに小柄でさ」
「へえ、面白い娘だねえ」
「天文以外でも地学全般、なんか興味持って来てくれたのなら大歓迎さ」
「部長さんやさしいねえ」
「そりゃ、上級生になったんだから、今までみたいに教えてもらうだけじゃいかんでしょ」
「で、どっちなのよ」
「どっちってなんだよ、どっちも大事な後輩だぞ」
「へいへい」
「川川コンビは来てんの?」
「柳川さんも生物部の部長するみたいだし、大川さんはマイペースでくっついてるからなあ、でも昨日はコッチに顔出して一年生女子の事話したら喜んでたよ」
「そりゃあ何より。四月末は観測会するん?」
「もう一年にも宿泊届と親の承諾書を書くよう言ってるよ。えらくにこにこしてたな、筑水さん」
「ふーん、よく見てますなあ」
「う、そりゃ新入部員預かるんだから当然だろ」
「女子の」
「茶化すな」
「まあ、四月末は俺ちょっと写真部で忙しいけど、それ以外では泊まりでなくても観測会に来ようかな」
「そうしてくれ、川川コンビはマイペースだからな。俺一人じゃちょっと」
「文化部は掛け持ちばっかだな」
「まあしゃあない、その分物好きばかりで楽しいけど」
「そりゃ確かに」
「そうそう、筑水さんともう一人は基山さんなんだけど、写真部の基山先輩の妹さんだよ」
「マジかw、下手なことできんな」
「上手いこともするな」
「wwwwwww」
「まあ何にせよ人が来たのは良いことだ」
「だな、頑張らんと」
「頼りにしてますよ、先輩🤍」
「変な声出すな」
「違うん?」
「わかれば苦労しないよ」
「やさしいねえ」
「上級生だからな」
「はいはい、じゃあ今日はお先に〜」
「お前は何時もお先だろ⋯」

カラカラカラ⋯

⋯カラカラカラ

「あれ?今の方も天文部員です?」x2
「あっと、紹介しそこねたな。写真部員で天文部は掛け持ちの朝倉秋月(あさくらあきつき)っていうクラスメイト。たまにはコッチにも来ると思うから、また紹介するね」
「先輩以外にも先輩いるんですね?」
「ちーちゃんなんか変な言い方」
「ははは、じゃあ気象通報始まるから頑張りましょう」
「まだ放送についていけないです…」
「録音もしているから、間違いの無いように、遅れた所は聞き直してで良いですから」


…カチッ…ぴゅいージジジ…

…この時間は、気象庁発表の今日正午の気象通報をお伝えします。はじめに、各地の天気です。石垣島では……


おしまい

 0

trending_up 78

 2

 4

透明な辞書

 西日が、使い古された木製の机に長い影を落としている。放課後の、四等分された教室は、埃の粒子が光の筋の中で踊る、静かな水槽のようだった。
 私、秋山は、日直の仕事である黒板消しを手に持ったまま、窓際に座る雪絵を見ていた。彼女は図工の時間に余った色画用紙を細長く切り、丁寧に「栞」を作っている。

「……ねえ、秋山くん」

 雪絵が顔を上げずに言った。彼女の指先は、まるで壊れやすい羽虫を扱うように繊細だ。

「この色のこと、なんて呼ぶ?」

 彼女が指し示したのは、群青色でも空色でもない、少しだけ緑が混ざったような、けれどひどく冷たそうな青色だった。

「……水の色。でも、水道のじゃなくて、深いプールの底の、タイルの隙間にある色」

 私がそう答えると、雪絵ははじめてこちらを向き、少しだけ口角を上げた。
 それは「正解」と言われたような、あるいは「見つかった」と言われたような、不思議な感覚だった。

 私たちが「初恋」という、まだ辞書にも載っていないような感情の輪郭に触れたのは、まさにこの時だったと思う。

 十歳や十一歳の子供にとって、異性は別の星から来た生き物に近い。男子は騒がしく、女子は徒党を組む。互いの言葉は、記号としては通じても、その奥にある温度までは伝わらない。
 けれど、この日の放課後、私と雪絵の間には、クラスの誰にも理解できない「共通言語」が芽生え始めていた。



二人だけの語彙

 それからの私たちは、放課後の数十分、誰もいなくなった教室で「言葉のすり合わせ」を始めた。
 それは勉強でも遊びでもない。ただ、目の前にある現象に、二人だけの名前をつけていく作業だった。
• 「廊下のにおい」……雨上がりに、誰かが濡れた上履きで歩いたあとの、少しだけ土の匂いが混じった切なさのこと。
• 「鉛筆の沈黙」……テスト中に全員が静まり返り、カリカリという音だけが響くときの、あの心細い連帯感のこと。
• 「遠くのチャイム」……隣の中学校から聞こえてくる、自分たちの未来が少しだけ先取りされたような、くぐもった音のこと。

「これってさ、他の人に言ってもわかんないよね」

 雪絵は、窓枠に溜まった光を指先でなぞりながら呟いた。

「うん。きっと、変な奴だって思われるだけだ」

「……秋山くんと私だけが知っていればいいのかもね」

 その言葉を聞いたとき、私の胸の奥に、小さな、けれど鋭い痛みが走った。
 それが「独占欲」という言葉で定義されるものだと知るには、まだ少し時間が足りなかったけれど、私はその時、雪絵という少女と世界を共有しているという事実に、目眩がするほどの優越感を感じていた。



境界線を越える音

 季節は巡り、教室に差し込む光の角度が鋭くなってきた。
 ある日、雪絵がふと、私のノートの端を指で弾いた。

「秋山くん、あのね。『さようなら』って、本当はどういう意味だと思う?」

 私は考えた。国語辞典には「別れの挨拶」と書いてある。でも、今の私たちが交わすそれは、きっと違う。

「……明日もまた、この場所で続きを話そうっていう、予約のこと?」

 雪絵は驚いたように目を見開き、それからクスクスと笑った。
 彼女が笑うと、教室の埃たちが一斉に祝福するように光り輝く。

「それ、いい。すごくいいよ。じゃあ、今の私たちは、毎日予約をし合ってるんだね」

 その時だった。廊下で掃除用具入れが倒れるような大きな音がして、部活動に向かう男子たちの怒鳴り声が聞こえてきた。

 魔法が解けた。

 私たちは急いで距離を取り、お互いに無関係な日直の仕事に戻った。
 異性と二人きりでいることが見つかれば、冷やかされ、茶化される。
 そんな「子供の世界のルール」が、私たちの純粋な言語交換を脅かしていた。

 でも、雪絵は去り際、私にだけ聞こえる声で言った。

「……予約、また明日ね」

 その一言は、どんな愛の告白よりも、私の心臓を強く打ち抜いた。
 それは「共通言語」を持つ者同士にしか許されない、秘密の合言葉だったから。



透明な辞書の完成

 私たちは、結局一度も手を繋ぐことはなかった。
 名前を呼び捨てにすることも、好きだと言い合うこともなかった。

 けれど、あの放課後の教室で編み上げた「透明な辞書」は、間違いなく私の初恋そのものだった。

 大人になった今、私は多くの言葉を知り、それを使いこなして生きている。
 けれど、あの時の「プールのタイルの隙間の色」を、これ以上に正確に言い表せる言葉を、私はまだ持っていない。

 異性という、理解不能だった存在が、自分と同じ言葉を話す「個」として立ち上がった瞬間。
 それが、一人の少年が世界と、そして愛と出会った、最初の一ページだった。

【了】

 50

trending_up 105

 6

 6

鳥とキツネとアイツ⑥ 新歓の衝撃

 入学式を終えてのキャンパスは騒然としていた。入部希望者を募るためにチラシを持った学生たちがひしめき合って僕たち新入生に襲いかかる。

 そんな人の波にもみくちゃにされながら、僕は目の前に一枚の写真を突き出された。

「はい! 野鳥研です! この写真かわいいですよねシマエナガちゃん! 野鳥研に入るとこんなシマエナガちゃんを撮りに行ける北海道遠征にも行けるんですよ。あ、それとほらこっちはオジロワシ。2枚付けちゃうから野鳥研入っちゃいましょうよ! さあさあさあ遠慮しないで!」

 ふうん、まあまあ良く撮れてるんじゃないかな。あれって冬のだんごになってないと、機敏に動き回るから撮りにくいんだよな。オジロワシは普通かな。

 しかし気になるのは人の波に呑まれそうになりながらも必死で入会を訴える背の低い女性。まあ間違いなく先輩。そして聞き覚えのある声。僕はその写真をしっかり掴んだ。写真がたわんだ。

「えっ? はっ!」

 僕の顔を見てぎょっとした顔になるあいつ。必死になって両手で写真を引っ張って取り戻そうとする。が力の差は歴然だった。

「ぐぬぬぬぬ」

 僕の顔に自然と意地悪な笑みが浮かぶ。

「へー、野鳥研。野鳥、全然興味ないんじゃなかったっけ。どうした風の吹き回しだよ」

「うっうるさいっ、あたしの勝手でしょっ。離せっ、離せったら」

 パッと写真から手を放す僕。あいつは後ろによろめいた。

「それ頂戴」

「は? やだよなんで? 無理。誰が渡すか」

「いいじゃん一枚や二枚くらい」

「やだよこれだって印刷代かかっているのに、誰がタダでやるかってんだ。あんたこそ野鳥研入れよ。まあ、あんたには物足りないかもしれないけどさ」

「確かに映える写真撮りにわざわざ北海道まで遠征するってのは全然僕の趣味じゃないな。まあ頑張れよ」

「えっ、えーっ、あたしだって、先月入ってまだ右も左もわからないのにさあ、おんなじサークル入ったら楽しいと思ってさあ。わざわざ入ってやったんだよー。ねえ頼むよお旦那あ」

 誰が旦那だ。あ、ある意味旦那か。
 でも同じサークルに入りたい、だなんて珍しく可愛いこと言うじゃないか、とは思った。僕の趣味には合わなさそうだけど、どうしようか。少し悩む。
 
 僕らがじゃれ合っていると、一人の男子学生が、僕らの方に向かってやってくる。

「おお、もう新入生GETしたか、偉いぞ姫川」

「はいっ、褒めて下さい真島部長!」

 部長。この人が。短髪イケメンで細マッチョな男だった。僕はアイツがそんな「部長」と気さくに話し合っているのが妙に癪に障った。アイツはすっかりいつものキツネに戻って、自分の本性を押し隠す。

「で、君がその入部希望者?」

「え、え、あの、ぼ、僕は……」

「はいっ! そうなんですっ! ねっ。君、真島部長に挨拶して」

 君ってなんだ。
 いや、入る気なんて全然ないんだけどどうしよう。でもアイツはその気満々だし、と思っていたら、また一人、今度は女子大生がやってきた。

 僕は衝撃を受けた。
 背中までの髪、高身長でスレンダーな体系にスキニーパンツがよく似合う。小柄なアイツとは全然違う。
 表情も穏やかで優しそうで、いつも目じりを釣り上げてぷんすかしているアイツとは月とスッポン。
 いや、スッポンが可哀想だ。
 それくらい違う。仮面をかぶっているアイツと違って、生まれついての淑やかさのようなものを感じる。オーラが出てる。
 僕は呆然となった。

「あ、三原先輩」

「どう? 新入部員見つけられそう?」

「あ、今、彼が入ってくれるとのことで」

「良かった。これからよろしくね」

「え、ああ、はい……」

 僕は赤くなっていたと思う。僕はその「三原先輩」を直視できなくて、耳まで熱くなっていた。

「やっとその気になってくれたのね。はい、じゃあこの入部希望届に記入してね」

キツネの皮をかぶったままのアイツが、バインダーに挟んだ紙とペンを渡してきた。

「……」

 僕は黙ってサークル入部希望シートに必要事項を記載してアイツに渡す。
 アイツはそのバインダーを両手で抱え、真島先輩と目を合わせ「にへへえ」なんて言って笑みを交わしている。正直カチンときた。
 
「うちのサークル、人数は少ないんだけれど、みんないい人たちばかりなの。きっと気に入ると思うわ」

 三原先輩がそういうと僕もなんだか嬉しくなる。

「はいっ、楽しみにしています」

 どこかのぼせ上りながら僕は答えた。

 すると、どこかから圧のようなものを感じた。その方向に目を向けると、アイツがすごい顔で僕の方をにらんでいた。

 0

trending_up 12

 0

 0

うみのいきものからの投稿

19:17

95
投稿
_ みんな来世は何になりたい?自分?アッパレなご回答〜!
結局人間は幼少期のトラウマで予後が決まるらしいよ。私は幼少期の逆境経験でノックアウトらしい!そりゃそうだ、高校生の頃なんて不登校になってるんだから笑笑でもねでもね、この世界では自殺したら負けらしいよ。
私はに精神的に参ってしまってるから差別されてるんだ!精神障き者とは、わたしのこと(0.9鬱とは、わたしのこと(a
9)だって普通に頭おかしいからね。自分が普通の人に擬態するために必死。今月は何回発狂したんだろう。朝起きる理由がないよーーーーーーー 大切がズタズタにこわれたよーーーー
-もうすぐ入院させられるらしい
幽霊みたいな幻覚が見えたり感じたり、誰にも聞こえない声が聞こえたり、悪魔に殺されそうになったり追いかけられたり命合されたり、急に動悸が始まって過呼吸になったりなんて、普通の人はないんだ...ってことに気付いてひとりでシクシクと泣いている。みんな知らないんだ。ねえ、わたしの腕はきれいですか?こんな経験あってたまるか。返してくれ。どうして私はこんなに苦しいんだと泣くと、みんな苦しいよと諭されますがその苦しみは一体どんなものが見えて聞こえて感じられるんですか?人の苦しみは人それぞれだからって軽んじないでよね。
あなたが苦しいとママも苦しい?ふざけるな!そんな無責任なこと、産んでおいてなんでそんな事言うんだよ、ニコニコしながら夏に長袖を着てる私がいても、幸せなのかよ!血が繋がってるからって感情まで共有してたら頭がおかしくなる。だから私は差別されるんだ。周りの人までも、不快にさせ、どん底まで突き落とすから。夢か現実か分からない場所を彷徨って歩いて緊急搬送されて、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いてやっと貰えたママからの言葉は、「なんであなたが生きてておじいちゃんは死んでるの?」産んでおいてなんでそんな事言うんだよ。そんなこと、おじいちゃんに聞けば。あたし知らないよ。
オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ!オーバードーズ......
誰かが私の内側に入ってくる。
ねえ私も病気さえなければ在学中に留学して、大学を卒業して、就職して、誰かとケッコンしてー......赤ん坊を産んだり、みんなと遊んだり、家族で旅行に行ったりできたのかなぁ....インスタ消したほうがよさそうな人ランキング1位に輝けそう
(@*)すてきー!
こんな辛い世界味わうくらいなら死んだほうがマシ。あっ、自殺は負け組なんだっけ。他殺ならええんか?死んだら還してね、海に...。私は海の生き物に、生まれ変わろうと思う。
5日前

 0

trending_up 43

 2

 2

また来てね、がさいごだったんだ



昨日1月12日は成人の日、ということで
いまからちょうど30年前、私が成人を迎えた頃の話


就職して半年ぐらい経ったころ
母親の妹(つまり叔母)がステージ4の卵巣がんで入院したと連絡があった
うちの母は、あまり体格の大きい方ではなくやせ型で
背丈もどちらかというと小さい方だったが
叔母は逆で、背丈も大きく、割とがっちりとした体型の人だったが
その前の春に、就職が決まった挨拶に伯父の家に行った際に会ったとき
ちょっと顏まわりがスッキリしているように見えたので
「痩せた? なんかスッキリしたように見えるよ」と私が云うと
叔母が「逆に太っちゃったのよ。お腹まわりが太くなっちゃって」
なんて云って笑っていて
そのときは私の見間違いか、くらいに軽く聞き流していたのだけど
もしかしたらそのときからすでに、病気は進行していたのかもしれない


土日の休みを利用して、病院へお見舞いに行ったのだけど
病室へ入ろうとしたら、頬はこけ落ち、見る影もなくやせ細った叔母の姿が
私はどういう顏して入っていったらいいのかわからずに
しばらく病室へ入ることが出来ずにいた
そして、長らく忘れかけていた、ある出来事をふっと思い出していた
まだ保育園児だったころ、通っていた保育園の園長先生が亡くなり
私たちは園長先生の最期のお別れ会に参列することになった
一人ひとり、先生が眠る棺に花を手向けていくのだけれど
私の番になり、花を手向けようと棺の中の園長先生の
やはり見る影もなくやせ細って、まるで別の人みたいになってしまったその姿に
思わず、手を引っ込めてしまった
あのときの園長先生の姿に叔母の姿が重なってしまい
どうしたらいいのかわからず、病室の前でしばらくの間
立ち尽くしてしまっていた


しかし、いやいや待てよ
もし仮に自分が叔母の立場で、病気で入院ているときに
身内が病室に入ってきてくれなかったらどう思うか?
私だったらいつもと変わらない顏で入ってきてほしいと思い
なるべく驚いた顏は見せないよう、悟られないよう
極めて普通の笑顔で病室に入っていった
特別、なにかしたというわけでもないけど
口が渇くと云っていたので、氷を小さくして口湿しに口に入れてあげたり
チューブで廃液を取っていたみたいだったけど
それが上手く取りきれてえなかったみたいで苦しそうだったので
それを大人に伝えたりくらいはしていた


叔母は私たちが帰るときには決まって
「あんまり無理しなくていいよ、忙しいんだろうし」と云っていた


それでもまた、次の休日もお見舞いに行った


叔母には子どもが二人いて、どちらももう働いていた
長女はその日、会社の同僚に誘われたとかで遊びに行っていた模様
長男もなにか用事あったのか、顏を見せてはいなかった
叔母の旦那は毎日のように病院に来てはいたが
休憩所のソファで寝そべってるばかりでなにもしない
長期の入院になりそうなのに、仕事へ行く気配もない
叔母はうちの母親みたいに、すぐに愚痴文句を云うタイプではないので
きっと苦労してきてたんだろうな、と
口には出さないが、そう思っていた


ドレーンっていうのかな、廃液がうまいこと取れなくて
かなり容態も悪い様子で
看護師さんに診てもらうも、大部屋では他の人の声とかでストレスになるから
個室に移した方がいいと旦那に相談したところ
旦那は何も考えずに、個室に移れ、すぐに移れ、と無神経発言
いきなり個室って云われたら、患者はどう思うかとか
大部屋より個室の方がお金もかかるし
旦那は働きに行きそうもないし、とか
もしかしたら、病気がかなりヤバいんじゃないか、とか
患者からしたら色々心配になるだろうに
そういうの全く考えない
却ってストレスになったと思うよ


日中ずっと具合悪そうだった叔母が
廃液がスムーズに取れるようになると
嘘みたいに具合がよくなっていたので
夕方にやってきた兄嫁や娘は大丈夫じゃないか、と思った様子
いくら私とかが、日中ずっと具合悪そうで苦しそうだったと云っても
元気そうにしてるじゃん、どこが具合悪いの?って感じで
この人らに云っても無駄だと思って、それ以上は云わなかったけどね


だけどその日に限って、叔母は私たちが帰るときに
「忙しいだろうけど、また来てね」
とめずらしいことを云った
いつもは、気にしなくていいからね、と云っていた叔母が
この日に限ってそんなことを云うので
帰りの道中、ずっとひっかかっていた


家に帰って、夜も遅くなったころに
叔母の容態が急変したと電話が
その時にはもう意識はなくなっていたらしいのだが
何故かうわ言のように、私の名前を呼び続けていたらしい
自分の娘の名前でも息子の名前でもなく
もちろん、近くに住んで、子どもの頃から知っている
伯父の子どもたちの名前でもなく


結局、意識を取り戻すことなく
50歳を手前にして、亡くなってしまった


叔母が最後に残した言葉が、また来てね、だった
少なくとも私が見舞いに行ったことで
叔母は不快にもストレスにも感じていなかった、はず
私はそう思っていたい


死の瀬戸際に、なぜ私の名前を呼び続けたのだろう
叔母もうちが酷い状態であることは知っていた
別居するしないで話し合いのとき
私がおかしくなっていたことも
もしかしたら知っていたのかもしれない
それからずっと、気にかけてくれていたのかも




あとから聞いた話によると
他の兄妹たちの子どもたちは、叔母の姿を見ただけで
可哀想で見ていられないと
一度も病室に入ろうともしなかったとか
人にはそれぞれ考え方があるから
別にそれが悪いとは云わないけれども
私なんかは遠くに住んでたから
あまり交流という交流はなかったけど
あなたたちは小さい頃から色々お世話になってきたわけでしょ
身内だったら、こういうときこそ
普通の顔して、いつも通りの笑顔で元気づけてあげたりするものじゃないのかな?
まるで病室へ入っていった私を、
何も考えてない無神経人間みたいに



それに娘も娘だと思うよ
母親が危ないって状況なのに
そんでよく遊びになんか行けるな
時には気晴らしも必要かもしれないけど
自分らが楽しんでいる間に何かあったらどうするんだろ
まあ、人の家の事情は私には解らないことだから
そこツッコんでもあまり意味はないのだろうけど



この娘というのが、学生時代までフルートをやっており
音楽はクラシック以外認めない、という人だったのに


お見舞いに行った際に、休憩室のテレビでSMAPが出ていたのを観て
「あ、中居くんだ」
と云ったときには、思わず顏を見てしまった


まあ、もう付き合いのない人たちだから
どうでもいいっちゃどうでもいいんだけどね




叔母の嫁ぎ先は、代々創価学会信仰者であったために
(叔母は入会はしていなかったらしいのだが)
宗教のことはよくわからないけれど、その影響なのか知らないが
棺は祭壇の奥の方に置かれ、しかも何故か透明なフタがされていた


お通夜の夜、伯父嫁はなにがそんなにハイテンションさせていたのか
娘や娘婿たちと高笑いしながら談笑にふけっていた
叔母の思い出話をしていたわけでもなんでもない
ただただ、娘と娘婿と自分の孫たちの話で大笑い


人がさ、あなたの義理の妹が亡くなったばかりなんだよ
別にしんみりしろ、とは云わない
笑うな、とも云わないよ
けどさ、母や私もいる中
バカみたいに大笑いするって
その態度はどう考えてもおかしいし、不快で不快で仕方がなかった


帰りにいとこの旦那さんが駅まで車で送ってくれたけれども
さすがに旦那さんも、伯父嫁の態度には違和感をおぼえているみたいだった
旦那さんがまともな感覚を持ってる方でよかった、と
心の中で少しだけ安堵していた



叔母が亡くなって、あれから30年
もしも今もまだ叔母が生きていたら、何か違ったんだろうか?
いやそれでもきっと
運命とやらには抗えやしないのだろうな



余談だが、叔母がその前の年の暮れに手術することになり
その日の手術がはじまるちょうど同じ時間に
仕事中だった私は急に悪寒と吐き気に襲われ
急性肝炎に
叔母はその日、結局手術が出来なかったらしいのだが
誰に話しても笑われるだけで、あまり信用してもらえないけれども
なんとなく繋がっていたんじゃないか
だから最期のさいごに、叔母は私の名前を呼んでいたのではないか?
そんなことを、ふとした拍子に考えたりもしてしまったり





また来てね
それが最期の
別れのコトバ



最期の
別れのコトバ



☆★***★☆

 タイトル、変更しました




 0

trending_up 11

 0

 0

貴方と博多

ざわめき沈む博多で
光が僕らを見下ろす中
貴方の笑顔は
艶を引き込んでいた
看板の必死の訴えも虚しく
僕を引き込んでいた

虚栄孕む博多で
川が僕らを写し出す中
隣り合う僕らは
影を解け合っていた
寒さに逃れられなくても
指を解け合っていた

車交い止まぬ博多で
音が僕を置き去る中
貴方の後ろ髪は
闇と調和していた
境界線を見失うほどに
泪と調和していた

誰もいなくなる博多で
貴方の笑顔から
艶は消え去っていた
僕の必死の訴えも虚しく
貴方は消え去っていた

 0

trending_up 19

 1

 1

海の唄


 世界は突然に色を亡くす。悠然と手を広げていた未来が、目にも留まらぬ速さで過去に追い越され、散り散りになってしまう。棺の中で眠る母の顔は、死化粧がよく映える薄い顔をしていた。その死相を思い出し、機内の窓から雲海を眺めため息を吐く。涙はもう出ないけれど、現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。

 長いフライトを終え入国審査をパスし、少ない手荷物を受け取り到着ロビーに足を踏み出す。最後にここを訪れた時の記憶通り、小さな空港だ。
「コウ」
 不意に名を呼ばれ、低い天井に伸びていた視線を落とす。どこか懐かしい顔が、歪な顔付きで立っていた。
「久しぶり、父さん」
 そう声を掛けると、大きな瞳からは涙が溢れた。慌ててそれを拭う父を見て、コウはそっと視線を逸らす。人の涙は嫌いだ。決して溶け合う事のない心が、その瞬間だけは触れてしまう気がして。

 父に連れられロビーを抜け、外に出た途端熱風がふわりと頬を撫でた。まるで子供の落書きのように能天気な青空は、真っ白な入道雲を抱いてコウを見下ろしている。
「覚えているか。ここは変わらないだろう」
 ぎこちなく笑む父の顔は、記憶よりも随分と黒くなった。潮に当てられ皮膚は爛れ、彼が言葉を探すたび皺が緩やかに躍動している。
「覚えているよ」
 コウはそう言って、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。

 母が死んだ。突然だった。三ヶ月に及ぶ話し合いの末に、コウは七年前に別れた父に引き取られることになった。八歳まで過ごしたこの地は、日本から遠く離れた国。四方を海に囲まれている所だけは同じだが、それだけだ。だが、この国には透き通る美しい海があった。数えきれぬ海洋生物がその美しい海で暮らしていた。

 荷物を置いて早々に、コウは父の家を出た。舗装されていない黄色い道路の端を歩きながら左に視線を流すと、白い砂浜に波が優しく打ち寄せていた。真っ青な空の色を写した青い波が、時折白く濁っては去ってゆく。
 ココナッツを大量に積んだ小さなトラックが時折通る道路を十分歩くと、他とは少し違う一軒の家が見えてきた。家の前の桟橋には、ボートが止まっている。
 コウは一度ボートを覗き、誰もいない事を確認してから家の扉を叩いた。中から顔を出したのは、縮れた赤毛の女。エメラルドグリーンの瞳が、コウを写し揺れる。
「コウ、帰ってきたのね」
「久しぶり、マリア」
 そう言ってマリアは躊躇なくコウを抱き締めた。まだ成長しきらぬコウをすっぽりと抱き竦めたその腕は、すぐに解かれ荒れた手が肩に添えられる。
「少し痩せたわ」
 七年ぶりの再会なのに、とコウは少し笑った。それに安堵したのか、マリアもまた微笑むと扉の中へとコウを導いた。
「みんなに顔を見せてあげて。あなたに会いたがっていたから」

 日本から遠く離れたこの地に来る事を決めた理由は、父だけではない。海洋生物、主にクジラの研究をしているこの施設は、かつてコウが毎日のように通っていた場所だ。クジラの声を初めて聞いたのもこの研究所だった。海を愛おしく思うようになったのも、ここだった。

 一頻り少ない研究員との再会を終え、コウは残りの一人を探して狭い研究所を見渡した。
「ロブはどこ」
「お散歩しているわ。そのうち帰ってくると思う」
 ロブはこの研究所の所長であり、イギリスから来た老人だ。サンタクロースのような風体が、この南国にあまりにも不釣り合いだった。とても優しく、そしてコウに海を教えてくれたひとである。
「あ、ほら」
 そう言ってマリアが窓の外を指さす。コウははやる気持ちを抑えきれず開け放たれた窓から身を乗り出した。変わらぬ白髪に、立派な白い髭。だが、ロブの隣には見慣れぬ少年の姿があった。
「あれロブの孫?」
「そう、ローア」
 ロブに孫がいたなど聞いた事がないが、当時はまだ幼すぎてそもそもそんな事に気がいかなかった。未知の世界が燦然と光り輝いていただけだ。
「へえ、あまり似ていないな」
「海が大好きな所以外はね」
 マリアの言葉に適当な相槌を打つと、コウは弾かれるように飛び出した。

 砂浜に杖をついて歩いていたロブは、研究所から突然飛び出した少年の姿に一度大きな瞬きをすると、足を止めて長い腕を広げた。導かれるようにコウがその胸に飛び込むと、痩せた腕がしっかりとその身体を受け止めてくれた。
「コウ、帰ってきたのか」
 ああ、ロブの声だ。その低く枯れた声が与えてくれた輝かしい知識を胸の内に蘇らせる。また彼にこの広い海を教えてもらえる事は、今のコウにとって何よりの喜びだった。
「またあえて嬉しい」
「私もだよ、大きくなった」
 抱擁を終えると、ロブは一歩後ろで佇む少年の肩を抱き、コウに向かい微笑んだ。
「コウ、ローアだ。君より少し年下だが、仲良くしてくれると嬉しい」
 そう促されコウは少年をまじまじと見詰めた。泳いだのだろうか、肩まで落ちる透けるような金色の髪は濡れている。大きな瞳は何処を見るともなしに彷徨っていて、度々長い睫毛に隠される。随分と痩せているようだ。
「ローア、僕は長谷川光。コウって呼んで」
 そう言って手を差し出すと、ローアはコウの白い指先からゆっくりと視線を這わせた。腕を辿り、肩で惑ってようやく視線がぶつかった瞬間、コウは思わず感嘆した。
「綺麗な瞳の色だね。まるで海みたいだ」
 薄い瞼のしたの大きな瞳は、文字通りいま目の前に広がる海の色とよく似ていた。吸い込まれてしまいそうな感覚も、海とよく似ている。
 コウがその瞳の色に見惚れていると、不意にローアは海を振り返りあまりにも突然走り出した。
「え、ローア!」
 コウがそう叫んだ時には、既に彼は青い波の隙間に消えていた。
「どうしたの」
 驚いてロブに問い掛ける。白んだ瞳は、海の遥を写していた。
「海が好きなんだ。一日中泳いでいるよ。コウも久しぶりに泳いではどうだ。ローアとの海中散歩はきっと刺激的だよ」
「でも、今は水着じゃないから」
「昔は裸で飛び込んでいたじゃないか」
 確かにそうだ。だがまだ、海に抱かれる気分ではなかった。
「また明日にする。明日も来ていい」
 ロブが優しく頷いてくれた時だった。研究所の扉が開き、荷物を抱えたマリアが飛び出した。
「ボス、クジラ達が……!」
「今行く」
 研究員たちは慌てた様子で次々とボートに乗り込んでゆく。
「コウ、また明日おいで」
 ロブはそう言って桟橋に足を掛けるマリアに向かい厳しい表情で声を掛ける。
「ローアが海に入っているんだ、航路にいないか確認してくれ」
 二人が慌ただしく会話をしながら桟橋を渡りボートに乗り込む背中を見送り、ふとコウは凪いだ海に視線を流した。丁度息継ぎに出たのか、小さな金色の頭がボートのすぐ脇に浮かぶ。気付いたマリアが声を掛け梯子を下ろすと、ローアは素直に梯子を上がりボートに乗り込んだ。
 かつては、コウがあそこにいた。調査に出る船に乗り込んで、デッキから初めてクジラの群れを見せてもらった。変わっていないと思っていたこの場所もまた、時の流れが残酷に押し流している。

 知れず肩を落として家へ戻ると、コウを空港まで迎えてくれた父はすでに仕事へ出た後だった。近年急速に発展している観光業に転職していた事は定期的に届くメールで知ってはいたが、それもまたコウの胸を圧した。コウの父は元々市場で働いていた。コウが小さい頃は、よく母と手を繋いで市場に父を迎えに行っていた。あの市場の賑わいの中を父を探し歩く時間がコウは好きだった。
 深い吐息を吐きながらかつて暮らした懐かしい我が家を眺めてみる。微かな面影はあるが、やはり時の流れが無情にも大切な記憶を消し去ってゆく。
 母が突然死んでから、まるでコウは胸が押し潰されるような不快な痛みを感じていた。二度とは戻らない、全て。未来を見詰めて歩く勇気が、今はなかった。

 日没まではまだ長い。コウは思い立って家を出た。研究所のある西海岸の反対側、東海岸までは、サンクチュアリとして観光客の立ち入りを禁止している島民の居住区から歩いて三十分ほど。空港から家までの車中あまり外を見ていなかったが、東海岸に向かうにつれて辺りの様子は様変わりしていった。あからさまな土産物屋には多国語の看板が客を出迎えており、飲食店が随分と増えた。通りには他国からやってきた人々が人波を作っている。軒先をぼんやりと歩くコウに、中国語で声を掛けてくる店主。自慢の工芸品を手に近付く老婆。七年前は見る事のなかった顔付きに、目頭が熱くなる。

 観光客向けの大通りをずっと行くとホテルに辿り着いた。今では行事以外では誰も着ていない民族衣装に身を包んだ父が炎天下の車止めに佇んでいる。焼けた顔は、直ぐにコウを見付けてくしゃりと破顔した。
「コウ、どうした。博士たちには会えたのか」
 ちいさく頷くコウの髪を、父の荒れた手が優しく撫でる。
「帰ったらたくさん話をしようね。お父さんはまだお仕事だから、気を付けてお帰り」
 余計な優しさが滲み出す、まるで幼児への言葉。コウはまた頷くと、来た道を素直に引き返す。気を抜けば、止め処ない涙が溢れてしまいそうだった。

 この島が観光に力を入れ始めたのは、数年前のことだそうだ。四方を囲む美しい海は長い時を経て形造られたラグーンがある。あまい空色のラグーンと、コバルトブルーの外海。豊かな珊瑚の森に、豊富なプランクトンを求め外海からも生物が訪れる。そうして生き物たちが鮮やかで豊かな生態系を築いているのだ。またシロナガスクジラがこの海の沖を長年繁殖地として使っている。それ故に、この国にはそう言った人の手の入っていない自然や、美しいバリアリーフ、クジラやイルカを見に多くの観光客が訪れる。その数は年々増え、海洋汚染も問題になっているとは、日本にいる時に故郷の事が気になって調べていた。
 かつては地元民だけが細々と暮らしていた島。決して裕福ではなかったけれど、夜は深く、波が歌う音がそっと寄り添っていた。まだこの国に帰ってきてたった一日も経っていないのに、コウの胸には早くも重い喪失感だけが低い唸り声を上げていた。

 帰国した次の日も、コウは仕事に出る父を見送るとすぐに研究所へ向かった。その日は桟橋に双眼鏡を手にしたマリアの姿があった。
「おはよう、何をしているの」
 沖を見つめる背中に声を掛けると、赤毛を翻しマリアは驚いたように振り返った。
「おはよう、コウ」
 優しい笑みに促され、コウもまた微笑んで見せる。しかし再び沖へと視線を馳せ、マリアは深いため息を吐いた。
「最近、クジラたちが外海からラグーンへ来る事があるの。シロナガスクジラは繁殖期以外基本的に群れで行動しないはずなのだけど……。まだ繁殖期には早いし、そもそも何故繁殖期の前にここに来るのか分からないの」
「ラグーンに来たら、大変だよね」
「そう、だから最近よく打ち上げられるのよ。まだ餌場の移動にも早いし、それに、あの歌────」
 そこで言葉を途切れさせたマリアの横顔は、ひどく悲しみを帯びているように見え、なんと声をかけていいかわからなかった。
 不意にマリアは黙り込むコウを振り返る。
「海に入らないの」
 再びなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いて見せる。マリアの萎びた手が、そっとコウの肩を抱いた。
「我慢しなくていいのよ、ここでは」
「我慢なんて、していないよ」
 否定しながらもまた胸が圧される。
 日本に住む母方の祖父母には、母の死後父の元へ行く決意を告げた時に、猛反対にあった。元々母と外国人である父の結婚には反対だったとも聞かされた。コウは父も、母も、同じくらいに愛していたし、父を悪く思った事はなかった。母の死に追い討ちをかけ、それがとても辛かった。だからこそ父の助力も得て祖父母の反対を押し切りこの国に来たのだ。元々この国で生まれたのだから言語も国籍も壁はなかった。けれど、街を歩いてみて知った。この国の人にとって自分がよそ者である事。それでもここに来た事を後悔はしていない。ただ、息が苦しい。

 不意にとんとん、と木板のデッキを軽やかに踏む音が後方から近付き、コウは思考の海から顔を上げた。振り向くと、ローアがデッキを駆けてくる。まだぼんやりとした頭で、コウはただその姿を追う。
「あっ」
 思わず声が漏れた。二人が佇む桟橋の突端まで辿り着くや、なんの躊躇もなく、美しい放物線を描き吸い込まれるようにその姿は海へと消えた。ラグーンの空色の中を肩口まで伸びた細い金色の髪が踊るように遠のいてゆく。コウも泳ぎには自信があったが、彼はその比ではない。フィンも履いていないのに、瞬く間に珊瑚の森の中へと消えてしまった。
「ローアは不思議な子なの」
 その姿が消えた先を見詰め、マリアがぽつりと呟く。
「彼はクジラを呼ぶのよ」
「クジラを」
 思わず聞き返す。人が餌付けしていない野生のクジラを呼ぶなんて聞いたこともない。
「そう、ローアが海に入ると、クジラが歌い出すの。長く研究しているけれど、聞いた事もない歌。まるで、彼を呼んでいるみたい────」
 熱い風が頰を打つ。マリアの言葉の意味を探そうとすればする程、真意が遠のいてゆく気がする。
「冗談よ。偶然だわ」
 マリアはそう言って笑った。コウは愛想笑いで答えながら、瞳は海面を彷徨う。
 彼が海に入ってから既に何分が経っただろう。一向に浮いてこない。シュノーケルもしていなかったし、何処か見えないところで息継ぎをしたのだろうか。だが、コウは広く海を見張っていたはずだ。

 二人が黙り込んだまま海を眺めていると、桟橋の近くに泡が浮いた。次いで小さな頭が海面に姿を現す。漸く見付けたローアは、息一つ上がっていない。そのまま桟橋の端にかけられた古い梯子を小さな身体が軽やかに上がってくる。コウは驚きに目を瞬かせながら、微かな喜びを胸に感じた。
「泳ぎが上手なんだね。イルカみたいだった。何分息を止めていられるの」
 思わず問い掛ける。しかしローアはその幼さからは掛け離れた、まるで情事の後のような気怠げな様子で濡れた髪をかきあげ、ちらとコウに視線を流した。薄いまぶたに半分覆われた瞳は、ラグーンのあまい色ではなく、外海のような鮮やかで冷えた美しいコバルトブルー。その中に水泡に似た煌めきが沈んでいて、やはり呑まれる程に美しい。けれどコウで一瞬留まった瞳はすぐに桟橋へと落ちた。そのままローアは口を開くことなく、とんとん、と木板を鳴らして去ってしまった。
 痩せた背中を見送り、コウは沖を見詰めるマリアを仰ぐ。
「彼は口が聞けないの」
「そうみたい。よく分からないけれど」
 そう言ってふと、マリアはローアの背中を振り返った。
「ここに連れてきたのも療養なのじゃないかしら」
 海は、自然は、時に人の心を癒してくれる。優しく包み込み、傷口をそっと舐めてくれる。それはコウもよく知っている。あのイルカのような不思議な少年もまた、深い心の傷を抱えているのかと思うと、コウはますますあの瞳に宿る海に引き寄せられてゆく気がした。

 マリアが研究所に戻ってから、コウは砂浜に座り込んで海を見詰めていた。穏やかに寄せては返す波は、いつまで見ていても見飽きない。このまま、この身体ごと海に溶け出してしまいたい。そう思っても、叶わない。マリアが気を遣ってマスクを手渡してくれたことだし、海に入ってみようか。だがやはり、その気になれない。
 考えてはやめ、また考える。それを繰り返しているうち、ふとコウは人の気配を感じ振り返る。白い砂浜を、ローアがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。まだ濡れた髪は潮風に煽られ、微かに揺れている。
「ローア」
 思わず声を掛けると、ローアはコウで視線を止めた。
「また海へ行くの」
 その問いに返事はない。けれど、彼は真っ直ぐにコウを見詰めている。何を伝えたいのか、その瞳の奥底を覗き込んではみたが、彼の瞳はやはり海と同じ。何も教えてはくれず、何も与えてはくれない。けれど、涙が溢れそうになる。

 ふ、と視線を逸らし、ローアは海に向かい歩き出した。また泳ぎに行くのだろうか。そう感じ、コウは反射的に立ち上がっていた。
「まって」
 咄嗟に声を掛ける。ローアはちらと横目でコウを見やり、すぐさま波に足を浸した。慌てて追い掛けながら、コウの胸にちらちらと熱が燃える。腰まで浸かる所までゆくと、ローアは徐に海の中へと消えた。真似るように飛び込み、コウは思わず軽く海水を呑んだ。海は慣れたものだと思っていたのに、ローアを見失わまいと逸る気持ちが冷静さを奪ってゆく。それと共に、世界の騒めきが一瞬にして消え、自分の身体の奥底の音だけが深いところから響いてくる感覚を思い出す。漸く海に抱かれたのかと思うと、胸に燃えた柔らかな焔がより赤々と揺らぐ。
 呑み込んだ海水を吐きに一度海面に顔を出し、深い息継ぎをして、今度は心を鎮め再びコウは頭から海に潜り夢中でローアを追いかけた。やはり速いが、見失う程ではない。それとも、コウに合わせてくれているのだろうか。
 珊瑚の死骸が堆積した真っ白な砂地は、深度が深くなるにつれて姿を変える。沢山の生き物を抱く珊瑚たちが白い砂地との境界線を鮮やかに描く。コウが強く水を蹴るたびに色彩豊かな魚の群れが突然現れた人間を前に散ってゆく。広大なイソギンチャク畑にはクマノミたちが、ハードコーラルにはちいさなスズメダイの仲間や目を凝らさなければ見えない甲殻類が、かつてコウが見たまま、そこで生きていた。限りなく青く澄んだ世界に強い陽光が差込み、波の揺らぎにゆらゆらと煌きを放ち、懐かしさに思わず鼻先が苦くなる。こんなにも変わり果てた世界で、海は何も変わっていない。あの頃のまま、コウを優しく包み込んでくれる。
 感傷に浸るコウの先、ローアは輝く珊瑚の森をしなやかに下肢をしならせ泳いでゆく。右へ、左へ、目的もなく、時折くるりと回って見せて、まるでローアの周りを泳ぐ魚たちと遊ぶように。その姿は若いイルカと同じ、美しく輝いている。だが、幾ら泳ぎが上手いとはいえ、これ程までに自由に泳げるものなのだろうか。それどころか既に数度息継ぎをしたコウと違い、一度も海面に顔を出していない。何より、彼はコウと違いマスクをしていないのだ。それなのに、まるで陸上と同じように感じる程自在に珊瑚の森を抜けてゆく。一体、彼は何者なのだろう────。
 そう思った時だった。ラグーンの遥か向こう。外海から、突然轟いたもの。それは幼い頃ロブに聞かせてもらったクジラの声だった。低く伸びてくるその音は鼓膜を震わせ、その震えは全身へと拡がってゆく。地の底からゆっくりと忍び寄るような、深淵の唄声。コウは思わず泳ぐのをやめた。これは一頭のものではない。マリアは冗談だと言ったけれど、あながちそうでもないような気さえしてくる。ふと気付けばローアもまたそこにたたずみ、クジラの声に聴き入っているようだ。水の中でも喋れたら良かった。コウは強くそう思うほど、知りたくてたまらなかった。クジラは何を言っているのか。ローアは、今何を思っているのか。

 無意識に手を伸ばそうとした所で、コウは息苦しさを覚えた。人間は水中で呼吸する事ができない。そんな事すら忘れる時間は、ほんの一瞬だったに違いない。けれど、まるで悠久の時の中を泳いだような気がした。
 空気を求め海面へと向かうコウを、不意にローアは振り返った。深い海の色をした瞳は、真っ直ぐにコウを見詰める。深度を深く取りマイナス浮力が働いた瞬間の、あの感覚。深い深い海の底へと音もなく堕ちてゆく、説明のできないあの快感。

 本能が叫ぶ。誘われている。命の、その先へ────。

 勢いよく海面に顔を出し、コウは必死で澄んだ空気を吸った。流れ落ちた潮水が口に入り、余計に息苦しさを覚える。本能的な荒い呼吸を繰り返しながら、コウの瞳から涙があとからあとから零れ落ちてくる。その理由に、気付かないフリをした。

 苦い海中散歩を終え、コウは海から上がり砂浜に足を落とした。ローアはまだ、クジラの唄を聴いているのだろうか。
 ふと上げた視線の先、ロブがこちらを見詰めている。
「泳いでいたのか」
 どこか気恥ずかしくなって、コウは俯いたまま不器用に笑って見せる。
「たくさんのクジラが歌っていたよ」
「ローアは」
「分からない。まだ海の中だと思う」
 白んだ瞳がゆっくりと沖へ向かう。コウもまたその先を追いかけ、海中の記憶を思い起こす。
「ローアはイルカみたいだ。凄く綺麗だった」
 ロブは満足そうに頷き、濡れた肩を優しく抱いた。
「明日、久しぶりに外海に出てみるかい」
 その問いに、コウは嬉しくなって元気よく頷いた。
 外海は鮮やかなラグーンとはまるで違う。ラグーンの端の珊瑚からは急激に深くなる。その先は更にドロップオフになっていて、その深さは500mにもなる。そしてその傾斜は2000mの深海に繋がっている。勿論実物を見た事はないが、ロブは人間が到達できない深海についても詳しくコウに教えてくれた。人の目では感知することの出来ない、暗黒の海。恐怖と共に当時コウの胸に芽生えたものは、はげしい焦燥だった。知りたい、見てみたい、人間には許されない、その世界を。海の生き物として生まれなかった事を初めて恨んだのも、その時が初めてだった。

 明日船に乗る約束をして、コウは家へと帰った。今日は様々な事があった。何かが変わる気がして避けていた海に遂に身を委ねた事、変わらぬ美しい生命の煌めき、そして────拒絶されるコウと違い、溶け合うことを許されたあの少年。
 ローアのしなやかな動きを思い出していると、不意に建て付けの悪い扉が軋んだ音をたてて開き、コウは反射的に立ち上がり扉の方へ素早く顔を向けた。仕事から帰宅した父は、コウの姿を見付けるととても嬉しそうに頬を緩める。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 抱き寄せられた身体は、痩せた胸にぶつかった。人の体温は思うよりも熱い事を思い出し、コウもまた父の背に腕を回す。
「髪から海の匂いがする」
「今日はラグーンで泳いだんだ。クジラの歌を聴いたよ」
 父は身体を離すとコウを先程まで座っていた椅子に座らせ、自らもその横に腰を下ろした。握られた手は、やはり熱い。父は昔からいつもコウの話しを全身で聞こうとしてくれる。陽に焼けた頬を弛ませて、この島の人と同じ、大きな瞳で真っ直ぐにこちらを見詰めて。父は優しい人だった。優しすぎたのだと、生前母はよく言っていたが、コウにはまだその真意がよく分からなかった。けれど、そんな父がコウは好きだった。
「ロブの孫が来ているんだよ。イルカみたいに泳ぐんだ」
 海の中の変わらない美しさや、全身に響いたクジラの声、そしてローアの事にまで話しが及ぶと、父はふと表情を曇らせた。
「ウィリアムズ博士に孫……」
 どうしたの、と問うコウの手を離し、父は携帯を触り出す。しばらくすると、やはりそうだと一人納得し、コウに向き直る。
「彼に孫はいないはずだよ。子供がいないから」
 ロブ────ロビンソン・ウィリアムズ博士は、世界的に有名な海洋生物の研究者である。研究に没頭するあまり、生涯を誰と歩む事はなかった。いや、彼は海と、クジラたちと長い人生共に生きる事を選んだのだ。
「何か事情があるのかもしれないね。あまり深く聞いて傷付けてしまわないように、気を付けよう」
 父はそう言ってコウの髪を撫で、夕食を作る為か席を立った。コウは一人、椅子に腰を落としたまま思考だけを浮遊させる。
 そんな気はしていたのだ。ロブに妻がいた事も聞いていなかったから。だがロブがそうだというのなら、ローアはロブの愛する孫なのだ。それはそれでいい。だがやはり彼は今の自分と似た境遇なのだと感じる。どれだけ大きな喪失をその胸に抱き、海へ向かうのだろう。そう感じた途端、あの金色の髪をした少年の事を、より愛おしく感じた。

 次の日、約束通りコウは父を見送ってから家を出て研究所に向かった。今日も今日とて、風は優しく海は凪いでいる。南国らしくスコールはあるものの、年間降雨量の少ないこの島は、いつでも広い空が広がり海を染めている。日本の狭い空を見るたびに、コウはこの国を思い出していた。
 健やかな気持ちで辿り着いた桟橋では、既に研究員たちがボートに乗り込む所だった。コウを待っていたのか、マリアがすぐに右手を大きく振る。
「コウ、待っていたわ」
 答えるように右手を振り走り寄るコウの肩を抱き、マリアは腰をかがめて頬を寄せる。四十絡みの彼女からは、化粧の匂いがしない。
「丁度シロナガスクジラが沖にいるの。それも、大きな群れよ」
「本当、楽しみ」
 これまで存在したどんな生物よりも大きい生き物、それが群れているなんて、コウはこれまで見たことがなかった。繁殖期以外単独で行動し、出産はこの地を離れて行なうからと言う理由の他に、この海洋保護区域で繁殖期のシロナガスクジラにみだりに近付くことは基本的には許されない。それはロブが決めた事だった。どんな生き物も、妊娠中はナーバスになる。近年増加傾向にあるとは言え、シロナガスクジラはかつての人間の乱獲により絶滅が危惧されている種。研究だとしても、生き物を刺激しないよう細心の注意を払い短時間で済ましている。そんなロブが、コウは好きだった。

 胸を躍らせマリアと共にボートに乗り込むと、船首の柵に身体を預け、ローアはじっと優しく揺れる水面を見詰めていた。
「ローア、おはよう」
 横目でちらりとコウを振り返り、深い海の色をした瞳は再び水面へと戻ってしまう。柵の上に組んだ腕に細い顎を乗せ、どこか憂いているかのようなその横顔を潮風が踊らせた金色の髪が撫でてゆく。
「コウ、デッキにいるならこれを着て」
 マリアはそう言うと、オレンジ色のライフジャケットをコウに着せた。近年着用が義務付けられたらしいが、何故かローアは着ていない。コウが不思議に思っているうちにボートはエンジンを吹かし出航した。
 調査船と言うには小さなボートはラグーンの珊瑚を傷付けないようにゆっくりと進む。すり鉢型のラグーンの壁が一番低い位置を越えると、周囲の色彩はがらりと変わる。甘い色の海は、深い深い青に染まり、ボートがスピードを上げると飛沫が白く濁って跳ね上がる。風を切りながら進む船首は彼の特等席なのか。ローアは変わらずじっと海面を見詰めている。靡く髪が、遮るもののない太陽のしたで煌めいて見える。

 ボートは四十分程進んだところで漸くとまった。この辺りには小さな島もなく、陸は遠く海鳥の姿もない。デッキから海面を覗き込むと、ただただ青く澄んだ海だけが拡がっている。どうやらここは随分と深いようだ。
 コウが穏やかな水面から目を離した時だった。突然、ボートのほど近い場所で大きな音と共に水柱が吹き上がった。その高さはゆうに八メートルはあるだろうか。コウは思わず口を開けその白い水柱の行方を追う。クジラだ。しかも、これはシロナガスクジラだ────。そう思った瞬間、次から次へとクジラたちはブローを始めた。その音は耳を塞ぎたくなる程のもので、けれどコウはこんなにも間近で何頭ものシロナガスクジラを見るのは初めてだった。一瞬にして頭に血が上り、慌ててデッキの柵から身を乗り出す。
「コウ、気をつけて」
 丁度船室から出てきたのか、背後からマリアにそう声を掛けられても、コウは夢中でクジラの姿を探した。ブローは呼吸と同じ。シロナガスクジラは五十分も潜水していられると聞いた事もあるし、そう何度も出てはこないだろう。だが、まだ息継ぎをしていない個体もいるかもしれない。
 生返事を返しながら夢中で海面に視線を走らせていると、船室から飛び出した研究員が慌てた様子でマリアを呼んだ。
「マリア、来てくれ」
 分かった、と返し、再びマリアはコウを振り返る。
「あまり柵から身を乗り出さないでね」
 マリアがそれだけ言って船室に戻ろうとした時だった。船首でぼんやりと海面を眺めていたローアが、突然海へと飛び込んだのだ。
「ローア!」
 驚いて叫ぶが、すでにその姿は深い海の中へと消えてしまった。
「まって……!」
 コウは慌てて持ってきていたマスクをつけ、ライフジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま海に飛び込もうとしたものの、マリアの腕がそれを止めた。
「ダメよコウ!」
「どうして」
「ここはドロップオフに沿ってダウンカレントもあるし、深度を少し落とすと潮流が速いの。もしもの事があったらどうするの」
「でも、ローアは……」
 マリアは厳しい瞳で、ゆっくりと首を横に振った。
「あの子は特別なの。あなたはダメ」
 マリアは知っているのだろうか。あの少年の正体を。

 思考が追い付くより先に、身体は細い柵を乗り越え船を囲むしろいその鉄枠を蹴っていた。背後で悲鳴のように叫ばれた自身の名は、はげしい入水音に掻き消され。今はとにかく、息が続く限り。そう思って周囲にぐるりと視線を走らせたが、まるでコウが追ってくる事を知っていたかのように、ローアは頼るものの何もない水中で佇んでいた。じっとこちらを見詰める瞳は、海と溶け合うようにして微かな光を放っている。やはり彼は器具なくして陸と同じようにものを見る事ができるのだと、コウは漠然と感じた。
 ローアは自分を待っているのだと察し、コウは息を整える為一度海面に浮上した。すぐさまデッキからマリアの悲鳴が聞こえる。
「コウ、お願いだからこれに掴まって!」
 ロープの付いた浮き輪は、少し離れた所に投げ入れられた。ロブまでも船室から出て、柵から老躯を乗り出してコウの名を呼んでいる。素直に戻るべきだ、それは痛い程に分かっていた。しかしなぜ、誰もローアの心配をしないのだろうか。その違和感は、よりコウを海の底へと引き摺り込む。
「ごめんなさい」
 そう囁いて、ゆっくり深く肺いっぱいに空気を吸い込むと、コウは頭から海に潜り込み力いっぱい水面を蹴った。真っ逆さまに海の底へと沈んでゆくコウの眼前に、ラグーンとはまるで違う景色が拡がる。生き物の姿は薄く、悠々と泳ぐ青魚の群れが人間の姿に驚き去ってゆくばかり。ただただ、震えるほどの澄み切った真っ青な世界。このまま呑み込まれてしまいそうだ。ローアはまるでコウを誘なうかのように、こちらを真っ直ぐ見詰めたままゆっくりと堕ちてゆく。手を伸ばせば触れられそうなのに、強く水をかけば追付そうなのに、それが叶わない。
 そして高い透明度が水深四十メートル程にあるドロップオフの姿をローアの遥か後方に微かに見せた瞬間の事だった。不意にローアの背後から黒い影が浮かび上がった。驚きに目を見開き、危うく肺に貯めた空気を吐き出してしまいそうになる。おおきい、二十メートルはあるだろうか。音もなく悠然とドロップオフの先に続く深海から現れたクジラは、ローアの側で動きを止めた。そして驚く事に、次から次へとクジラたちが深い海の底からローアの元へと集まり始めたのだ。水中は、全身が震えるほどのクジラたちの声で満ちた。一体何が起きているのか、ローアを中心に巨大なシロナガスクジラが四頭、いやまだいるかもしれない。けれどその巨体はこの広い海を一瞬にして埋め尽くしてしまった。コウを伺うようにゆっくりと忍び寄るクジラたち。深度を落とすにつれ、水温も低くなってゆく。今どのくらい深く潜ったのだろう。帰るまで息は持つのだろうか。ふとコウは身体が震えていることに気付いた。目の前に拡がる自然の大きさに恐怖を覚えたのだ。はっきりとそう自覚した瞬間、突然身体が思いもよらぬ力に引き寄せられ、深い海の底へと吸い込まれてゆく。それがダウンカレントだと気付くまでに一瞬の間を要したが、コウは半ばパニックになり肺に溜めた空気を吐き出してしまった。慌てて頭を上に戻してはみたが、遥か頭上の太陽は遠く、波に揺れ霞んでいる。相変わらず歌い続けるクジラたち、そして、恐ろしくなって見下ろした先。深い深い海を宿した瞳が、静かにコウを見詰めていた。問われている心地がした。このまま本能に身を任せ空気を求めるか、それとも、見ないフリをした欲望のまま、堕ちてゆきたいか。

 気付けば、無我夢中で水面を目指していた。苦しい、苦しい、苦しい、怖い────。だがもがいてももがいても深淵へと引き摺り込まれてゆく。父の顔が脳裏に浮かび、次いでロブが、マリアが、コウを生に縛り付ける。戻らなくては、なんとしても。けれど、もう息が持たない。進むこともできない。未だ微かに燃えるちいさな命が海に抱かれ、冷たくなってゆく。焦れば焦るほど水を呑み、体内の空気は失せた。次第に意識は遠退き、コウは静かに深い海の底へと墜ちてゆく。クジラたちが、遥か遠くで唄う声を聴きながら。思考が途切れる刹那、コウは確かに感じた。

 心はこれを求めていたはずだ。海へと還る為にこの国に来たのだ、と。

 幼い頃、全ての命は海から産まれたのだと母は寝物語に教えてくれた。そして、海へと還ってゆくのだと。母は海を愛していた。だからこの国に来て、父と出逢った。コウは幸せだった。母がいて、父がいて、いつでも命の揺り籠である海が傍らに寄り添っていたから。けれど、その母は自ら命を絶った。母の望み通り、遺骨は海へと還した。粉々になったしろい骨が風に乗りやがて静かに海に吸い込まれる様を見て、コウは漸く母の死を実感し葬式でも流さなかった涙を流した。母が本当に遠退いてゆく。そんな気がしたのだ。溶けてゆく骨に向かい、お母さん、そう何度も叫んだ。海は何も答えてはくれなかった。
 母と言うかけがえのない存在の喪失は、コウの胸に大きな穴だけを残した。それはまるで底の見えない深海。全てが呑み込まれてゆく。未来も、生きる力も、何もかも。母と共に逝きたかった。海へと還った母の側に行きたい────。

 ふと深く沈み込んだ思考が急浮上を始め、うっすらと瞼を開くと、目の前に見慣れた白髭の老人の顔があった。
「コウ、気が付いたか」
 何が起こったのか分からず、コウはゆっくりと身を起こし辺りを見回した。ロブの傍らに座り込んだマリアが、声を上げて泣いている。どうやら船の上のようだ。
「良かった……レスキューに状況を説明している時に、ローアが君を連れ戻してくれたんだ」
「ローアが」
 掠れた声で問うて、コウは引き摺り込まれるような強烈な感覚を思い出す。あの強い流れの中を、どうやって。再び周囲を見回すと、ローアは船首の柵にもたれ、じっと海面を目詰めていた。どれくらい経ったのか分からないが、何事もなかったかのような変わらぬその姿に、コウは恐怖さえ覚えた。彼はやはり、普通ではない。彼の胸の奥底に自分と同じものを感じていたはずなのに、きっとそれはまるで見当違いだったのだ。何故海の底へと導いたのか。それなのに、何故消えゆくはずの命を掬い上げたのか。青い瞳を思い出し、コウは漠然とした疑問を胸に抱く。彼は一体、何を伝えたかったのだろう。考えれば考えるほど、思考は絡まり合ってしまう。呆然とするコウの肩を優しく撫でながら、ロブは研究員にちいさく頷いて見せた。
「船を出してくれ」
 周囲に集まっていた研究員たちが帰港の為に動き出す中、ロブだけは心配そうに付き添ってくれていた。コウは慎重にロブの傷んだ顔を見上げる。
「ロブ。ローアは一体、何者なの」
 その問いに、ロブは微かに瞳を細め、コウの濡れた髪をゆっくりとその萎びた手で撫でた。
「海の中で、あの唄を聴いたか」
 それがクジラの唄であると察し、ちいさく頷いて見せる。
「クジラはローアと会話しているのだ」
「クジラと、人が」
「皆には言っていないが、私はそう思っている。彼らは唄っているのだ。ローアと共に、海の唄を」
 研究者の口から出た言葉とはとても思えない。だが第一人者が混乱してしまう、それだけ不可解でこれまでなかった行動なのだろう。

 それきり誰とも口を聞かず、コウはローアを見詰めていた。何事もなかったかのように、彼はただ閑かだった。やがて研究所のある浜に近付くと、桟橋には既に父が迎えに来ていた。民族衣装に身を包んでいるところを見ると、仕事中なのに駆け付けてくれたようだ。桟橋に船が止まり下船すると、父は慌てたように駆け寄った。陽に焼けた顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。
「身体はどこも痛くないか」
 この島に日本のような大きな病院はない。未だ医療は脆弱で、日本では治る病や怪我で命は失われてゆく。だからか、父は昔からとても心配性だった。
 コウの身体に異常がない事を知ると、父はロブや目を赤く腫らしたマリアに深々と頭を下げ、コウの手を引いて歩き出す。触れた肌の荒い感覚、熱すぎる体温は、父の命と共に脈打っている。
 手を引かれるままぼんやりと歩いていると、父は静かに口を開いた。
「コウ、何故博士たちの言葉を聞かなかった。海は決して我々に優しいものではないんだよ。甘く見てはいけない」
 分かっているつもりだった。カレントに嵌ったのは初めてだったがその対処法もかつて教えてもらっていたのに、空気を求めるがあまり流れに逆らうと言う一番とってはならない行動を取ってしまったのだ。それは父の言う通り、ラグーンの優しい海に慣れきって慢心していたからに違いない。
「もう調査船に乗る事を許可できない」
 父は続けてそう言うと、きつく唇を噛みしめる。
「海にも、しばらく入ってはいけない」
 愚かだった事は素直に謝ったが、コウは必死で父に縋った。
「ラグーンならばいいでしょう」
「ラグーンだとしても、危険はあるんだ。コウは海の事を何も知らない」
 コウを見下ろす厳しい瞳は、さまざまな色が混ざり合い揺れている。それ以上コウは反抗してはいけない事を悟り、けれどせめてもと曖昧に頷いた。

 海へ行く事が禁じられてから、コウは一日中家で過ごすようになった。思い出すものは、海の事ばかり。抜け切った青空を開け放たれた窓から眺める時も、潮風の匂いが鼻先に踊った時も、そして、夢の中でも。

 そんな日々を繰り返し、五日ほど経った深夜の事だった。沈み込んだ意識の底、遥か遠く、深い海から響く唄が聞こえる。博士の言ったクジラたちの、海の唄。何故か呼ばれている気がして重い瞼を開く。隣で眠る父はいびきをかいていて、少しの事では起きそうにない。慎重にベッドから抜け出し、コウは足音を忍ばせ玄関の扉を開いた。そしてあまりの驚きに息を詰める。澄んだ青い瞳、細い金色の髪、痩せた身体────ローアがそこに立っていたのだ。
「ローア」
 コウの呼び掛けに返事をせずローアは歩き出した。慌ててその後を追いながら、コウは冷たい横顔に必死で言葉を投げた。
「助けてくれてありがとう」
 それが本心なのかは正直分からないが、あの時確かにコウは自らの命を繋ぐ為にもがいていた。それをローアは察して助けてくれたのだろう。ふと気付く。だとすれば、ローアがコウを海の底へと誘おうとした理由は、コウがそれをあの時は心の底から望んでいたからではないだろうか。願望と本能のせめぎ合いを敏感に感じ、ローアは手を引いているのではないか。そこへ辿り着き、コウは身を震わせた。
「君は、どこからきたの」
 その問いの返事が帰ってくる事がないと分かっている。けれど問わずにはいられなかった。ローアは歩き続ける。研究所のある西海岸とは真逆の方へ。観光客も眠りについた大通りは、まるで死んだ街のようだ。広い空一面に散りばめられた星々も、不吉に瞬いている。
「どこへ行くの」
 心臓が大袈裟に胸を叩く。この先に待ち受ける何かがコウを微かな恐怖と期待で呑み込んでゆく。酷く喉が乾く。息も上がる。一体、今自分は何を求めているのだろう。

 やがてローアが足を止めた場所は、観光客向けに開放された東海岸のビーチだった。この島の人々が早朝と夕暮れに掃除をしていると父が言った通り、ビーチにはゴミの一つも見当たらない。変わらぬ美しい海がそこにはあった。ローアは波打ち際に素足を浸し、深い闇夜に呑まれた海を見詰めている。月明かりだけがその横顔を照らし、美しい海の色をした瞳を輝かせている。
「ローア」
 胸を圧し上げた衝動が、言葉となってこぼれてゆく。
「僕も、海へ帰りたい」
 溢れた涙が頬を滑って落ちた。砂浜の色に似た指先がそっとコウの手を取る。促されるままに歩き出す。サンダルの爪先が波に触れ、また一歩踏み出す。次第に足は重くなり、水に濡れた服が纏わり付く。それでもローアに手を引かれるまま、コウは進み続けた。その先に、何かがあると信じて。
 腰までの深さまでくると、ローアはコウの手を離し泳ぎ始める。マスクはないが、躊躇している場合ではなかった。頭から海に飛び込み、恐る恐る瞼を開く。やはり視界は濁り、人間が海から拒絶されているような心地になる。けれど暗く滲んだ世界で必死にローアの姿を探していると、不意にぼやけていた視界がローアを中心に開てゆく。コウは驚きに思わず息を吐き出してしまった。空気を求め顔を上げようとしたが、何故だろう、息が出来る。ここは水中のはずなのに────。驚きに静止したコウを、ローアはまっすぐに見詰めている。月明かりだけの頼りない世界の中、彼だけが輝いてみえる。これは夢なのか。そう疑い出した時、沖からクジラたちの唄が聴こえてきた。それはまるで、コウを歓迎するように全身を包み込んでゆく。泳ぎ出したローアを追って水を蹴る。あれほど重かった身体がまるで浮いているかのようだ。やはりこれは夢なのだ。ならば恐れる必要はない。再び泳ぎ出したローアの後を、コウは夢中で追い掛けた。海と溶け合っている、その実感だけを胸に。
 沖へと進んでいたローアは、砂地と珊瑚礁の境界線で動きを止め、そっと砂地に降り立った。コウもまたその隣に着底し、視線の先を追い掛ける。踏み付けられた珊瑚が白くなって転がっていた。観光客が珊瑚を折って殺してしまう事は、この島だけの悲劇ではない。ふと気付けば、辺りの珊瑚は白くなっているものも多い。珊瑚が窒息し死んでしまうことから日焼け止めが禁止されている国や地域もあるが、ここはまだ発展途上。なんの制限もない。美しい珊瑚やそこに息衝く生き物たちを目当てにやってくる人間は、知らずその命を奪っているのだ。言葉にならない切なさを噛んでいると、ローアは死んだ珊瑚を拾い上げ、やさしく両の掌で包み込んだ。するとその掌の中で柔らかな光が生まれ、ちらちらと揺れ始める。ゆっくりと開かれた手の中から飛び立つ細かな光の粒は、静かに海へ溶けてゆく。ローアは目にした珊瑚の死骸をそっと掌で包み込み、そして海へ放ってゆく。次から次へと旅立つ光が優しい波に揺らぎ散り散りになって消える様は、まるで母が海へと還った時と同じようだった。瞼の裏が熱くなり、目頭が鈍く痛む。けれど涙は全て、海が呑み込んでゆく。
 母の後を追いたいと願う事を、後ろめたく感じていた。生きる事ばかりが正しいのだと信じていた。自分を置いて命を絶った母の気持ちが分からず、それ故に死を願う事自体を罪と信じ、見ないフリをしていた。けれど命は必ずいつか終わりを迎える。それが突然だとしても、長い長い時の末だったとしても。
 無残にも奪われた命を悲観する訳でもなく、嘆く訳でもなく、怒りに震える訳でもなく、ただただ見送るローアの瞳を見詰めながら、コウは母の笑みを思い出していた。母はこの珊瑚たちと同じように、光の粒となって海へと溶けたのだ。幸福な過去に縋るばかりで現実が悲劇だと思い込んでいた。けれどそれが母の願いであり、母の命の終わりは、とても幸福だったに違いない。
 コウは海へと溶けてゆく光の粒を見送りながら、深く息を吸い込み、漠然と一度は失った未来を見詰めた。いつか、海へと還るその日まで、この海と共に生きて行こう。胸に空いた大きな穴が、優しく抱かれゆっくりと満ちてゆく心地がした。

 唄が聴こえる。命の始まりと終わりを謳う、海の唄が────。


 300

trending_up 111

 2

 4

"Bluebird/ブルーバード" Kyoko Kuon/久遠恭子

ブルーバード
時の海を渡り
岸辺に辿り着いた
一羽の奇跡

緑の木々の向こうから
そっと顔を覗かせて
私に微笑む
精霊のように

ブルーバード
たまたま君に逢えた
千年に一度
忘れえぬ出逢い

砂時計の粒がこぼれても
私達は繋がっている
その事が
ただ嬉しくて

ブルーバード
棘が刺さった
この手を
君は温めてくれた

翼は群青の
重なりで出来ていて
その瞳は澄んだ青
全ての事を見透かせる

ブルーバード
遠くまで聞こえる
羽ばたきは
風を抱いて

私の側に
初めから居てくれた
白い鳥は空気を含んで青く染まる
名を「願い」と呼ぶ

ブルーバードよ
青く
いつまでも
輝いていて




Bluebird──
A miraculous bird that 
Crossed the ocean of time 
And reached the shore

From behind the green trees,
Its face gently peeks out
And smiles at me
Like a spirit.

Bluebird ──
I met you by chance
A once in 
A thousand years encounter
I'll never forget

Even if the grains of 
The hourglass fall,
We are connected
And that alone makes me happy.

Bluebird ──
You warmed my hand, 
Which was pricked by a thorn

Your wings are made of 
overlapping ULTRAMARINE.
And your eyes are clear blue
They can see through EVERYTHING!

Bluebird ──
I can hear it from afar
Flapping its wings
Embracing the wind

The white bird that has been 
by my side from the beginning
The white bird absorbs the air and turns blue
I call its name "WISH"

Bluebird ──
Shine blue forever!

 0

trending_up 41

 1

 0

石が流れて木の葉が沈む(新釈ことわざ辞典 その3)



*****

悪事千里を走る
 4千キロメートルもの距離をどうやって走っていくのかしらね
 まさか自分の足でってことはないわよね
 駅伝みたいに人から人へと襷リレーしながら走っていくのかしら
 あるいは車でってこともありえるわね
 悪事だけに盗んだバイクで とか
 ひとって悪いことするときだけ
 どうしてあんなにも知恵が働くのかしらね
 その知恵 もっと別のところに使ったらいいのにね
 そんなこと云ってたら ほらまた
 猛スピードで悪事が目の前を走り去っていったわ



*****

あとのまつり
 祭りのあとの淋しさは なんていう
 吉田拓郎の歌があったけれども
 さっきまであんなに楽しかったのに
 あんなに笑い合っていたのに
 さよならも云わずに出ていった
 あなたが出ていった部屋のドアを
 いつまでもいつまでも見つめている
 もしかしたら あなたが戻ってくるかもしれない
 もう一度あのドアを開けてくれるかもしれない
 そんなわけなんか あるはずもないのに



*****

青菜に塩
 かけたみたいにぐったりとうなだれているあなた
 追い打ちをかけるように傷口に塩を擦り付ける人たち
 いまはそっとしておいてあげてほしいのに
 いまだけは責めないであげてほしいのに
 いつかもう一度 自分で立ち上がるその時まで
 ただ見守っててあげてほしいだけなのに 



*****

牛を馬に乗り換える
 いいとこまわりばかりしている
 よく云えば世渡り上手
 悪く云えばずるがしこい
 調子がよくておしゃべりで
 あっちでもこっちでもいい顏して
 そういうニンゲンほど なぜかひとに嫌われない
 ふしぎなことに


*****

 わたしがしゃべり下手なのは
 奥歯に物が挟まってなかなか取れないからです
 というのは真っ赤な嘘です


*****

鬼が笑う
 というけど 鬼だって笑いたいときくらいあるでしょうに
 いつもいつも金棒もって厳つい顔ばっかりしてたら
 さすがの鬼だって鬱になってしまうわ
 それに鬼が念仏を唱えることがあったっていいじゃない
 鬼には鬼の 云うに云えない事情ってものがあるのよきっと
 でも考えてみればかわいそうな生き物よね 鬼って
 厳つい顏していれば 何かされるんじゃないかと怖がられるし
 神妙な顔をしてみせれば 何か企んでるに違いないと云われ
 殊勝に振る舞えば 今度は何か裏があるんじゃないかと
 あらぬ疑いをかけられる
 そりゃ 念仏のひとつも唱えでもしてなけりゃ
 とてもじゃないけど やってられやしないってなもんよ
 ねえ そうは思わない?



*****

磯の鮑の片想い
 あさりやはまぐりはいいわ
 いつもふたつピッタリくっついて離れない
 両想いのふたりなんですもの
 わたしなんてひとり岩場にしがみついて
 打ち寄せる波を体に浴びながら
 恋しいあのお方のことばかり考えているのよ
 多分あの方は わたしがひそかに慕い続けていることさえ知らない
 え? 気持ちを伝えたらどうかって?
 イヤよそんなの

 もしもキライって云われたら?
 なんとも思っていないって云われたら?
 とてもじゃないわたし 
 このさき生きていけそうにないわ
 いいのよ いいの
 恋しいあの方を想いながらこうして
 岩場にしがみついて荒い波しぶきを浴びているのが
 わたしにはきっとお似合いなのよ



*****

会うは別れの始め
 というけれど
 こんな日がきてしまうことは 最初からわかっていました
 お互い意地の張り合いみたいなことはいい加減なしに致しましょう
 どれだけ同じ時間を過ごしても
 どれだけ言葉を尽くして語り合っても
 結局解ったことと云えば
 あなたはわたしを わたしはあなたを
 なにひとつ理解できなかったということだけでした
 お別れいたしましょう
 悲しいことなど何もありません
 だってこれは必然なことなのですから
 あなたのメモリはすべて
 今日をかぎりに削除いたします
 これですべて終わりにできます



 さようなら
 さようなら




 元気でねなんて云わないわ










 0

trending_up 25

 1

 2

掌編噺『フォレスト』

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょ?」

後ろから優しい声が聞こえる。
僕が振り返ると黒髪の女性がこちらを見ていた。
彼女が指差すのは、向こうに生い茂る黒い森。
僕はいつもこの道で彼女から声をかけられる。

 『……知らない人にはついていっちゃいけないって
 母さんから言われてるから行かない。 
 それに……あの森には魔女がいるって話を聞いたよ。』

僕は、相手を見つめながら早口で言った。

 「そっか、わかった。」

彼女は微笑むと、森の中へとゆっくり歩いていく。
僕の事は諦めたようだ。
その姿を見送ってから僕は森の横道を歩いて、学校へ向かった。

******

僕は母さんとふたり暮らしだ。
昔は父さんも一緒に住んでいたけれど五年前に出かけたっきり、それから帰ってこなかった。
それから母さんは僕に辛く当たるようになった。ブツブツと文句を言うだけならまだ可愛いもので、時には暴力を僕に振るった。

でも、学校から帰ってきた僕を見るなり母さんはいつも泣くんだ。
  
『ごめんね、ごめんね。 
 さっきは叩いたりしてごめんね。
 嫌いにならないで、ねえ嫌いにならないで。
 私にはあなただけしかいないの。
 どうか、どうか許してちょうだい。』

そう言いながら僕をぎゅっと抱きしめては、いつも涙を流して泣く。

だから、僕も母さんを優しく抱きしめて言うんだ。

 『分かってるよ、大丈夫。もうお腹が空いたから、はやくご飯にしよう。』

けれど、また別の日に母さんは同じように大騒ぎをする。そんな日々が繰り返された。

******

ある日、帰宅すると僕を見て母さんが呟いた。 
 
 『あなた、あの黒髪の女に会ったの?』

僕は何も言わず頷いた。
次の瞬間、頬に痛みが走った。
熱い、また叩かれたんだ。

 『あの女は魔女なの!悪い魔女なのよ!
 あの……あの女が父さんも連れていったのよ!』

母さんは狂ったように叫びながら、僕に暴力を振るった。
それは永遠に覚めない悪夢のようだった。

******

気がつくと朝になっていた。
母さんはもう出かけてしまったようだ。
ヒリヒリと痛む頬を擦りながら、僕は学校へ行くために森の横道を歩いていく。

 「ねえ、一緒に向こうへ行きましょう?」

まただ。後ろからまた優しい声がする。
振り返ると、今日も黒髪の女性が佇んでいた。
彼女の細長い指が差す方向には、魔女が住むという黒い森が━━━。

 ━━━━僕は考える。
母さんと黒髪の女性、魔女なのはどちらだろう?

僕はしばらく何も言わず彼女を見つめていた。
それから、微かに笑ってゆっくり手を差し出した。
それを見た女性も、笑って僕の手を握った。
それからふたりは何も喋らず歩いていく。
木々生い茂る森へ。黒い森の中へ。
ふたりは歩いていく。
周りでは、森の木々たちがザワザワと恐ろしげな音を立てていた。
吹き付ける風が沢山の枝を揺らしていた。
その音はまるで僕のことを、森の奥深くへ呼んでいるようだった。

そのままふたりは手を繋いで、深く暗い森の中へ消えていった。
その日から通学路を歩く少年の姿を見かけた人はいない。そして黒髪の女性もそれきり消えてしまった。
少年がそれからどうなったのか黒髪の女性はいったい誰だったのか……
もう誰も知ることはできない。

******
 
後日談としての話である。

少年が消え去った後、この森の周辺では独り言を呟いて彷徨う女性が現れるようになったという。
彼女は道を子供がひとりだけで歩いていると、けたたましい奇声を上げながら追いかけてくるらしい。

やがて人々は噂するようになった。
その女は黒い森に住んでいる恐ろしい魔女なのだ、と。

 0

trending_up 51

 1

 3

魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅶ


「まずは、これを外して……」

 ミシェルは、素早く工具を選んで握ると、時計部分の横にある複数のネジと固定用金具を手際よく緩め、固定されていた部分だけを外していく。全てを緩め終わると、扉状になっている部分が浮き上がり、大きく開けられるようになった。
 彼が、手袋を付けた手でそれに触れると、あっさりと解放できた。
 すると。

「む……」

 開けた直後、その内部から草木や土の匂いのような、おおよそ時計の内部からは出てこないであろう匂いが、漏れ出るように漂い始め、ミシェルは思わず眉をひそめる。しかし、作業の手を止めることはなく、せっせと次に必要な工具へと持ち替えて使っていく。

 なお、この作業の際に、緩めたネジと固定用金具が完全に外れることはない。カバー状になっている部分に先端や突起部が引っ込む形で残留し、遺失を防ぐ仕様となっているからだ。
 
「おお。これはまた見事な……」

 その手際を、少しだけ距離を取ったうえで見ていたルダンは、感心した表情を浮かべる。だがしかし、すぐに表情を引き締めると、自分の持ち込んだ鞄を開けて工具箱を取り出した。
 彼の弟子たちも、ハッとした表情を浮かべた後で、それに倣うように動いていく。

「私達も始めよう。防護マスクを装着したうえで、『霊核(※コア)』の処置の際に使う遮断カーテンを仮設する」
「はい!」
「は、はい!」
「ではまず。カーテン、仮にAとするが、Aはそこの脇に──。」

 そして、弟子たちに指示を飛ばすと、複数の、金属製の伸縮棒を取り出して、置時計の周辺と自分たちを囲むように配置していく。
 さらに弟子たちは、マインテナ達が自分の工房で使用しているカーテン用の布を取り出して広げると、それらの伸縮棒たちに繋げるように引っ掛けて、瞬く間に、即席の「遮断カーテン」へと仕上げていった。

「設置完了です、師匠。次はどのように?」
「次は、精霊がこの場に止まれるように、鎮静香を──。」

 作業を終えた弟子たちが、次の指示を仰ぐべく師匠の下へ集まり、ルダンからは新たな指示が与えられようとしていた。
 その時だった。

「あ! 香を焚く場合は、通常の半分の濃度で、広範囲にお願いします。恐らく通常の濃度で焚くと、固着中の精霊が、過剰反応する危険があるので!」

 作業中のミシェルが、はっきりと分かりやすく、伝えることを重視した口調でそのように注文を飛ばした。その際にも、彼が手を止めることはない。
 一瞬、戸惑った表情を浮かべた弟子達だったが、ルダンが頷いたのを見て。

「わ、分かりました! ミシェル殿!」

 すぐに、言われた通りの分量での作業へと入っていった。不安のある所などはルダンからのアドバイスを受けながらの遂行にはなっていたが、特に大きな問題はなく。
 そして、ほぼ滞りなくそれらの作業も完了したころ。

「さあ、『霊核』を包み込んでいる保護カバーを開けますよ! マスクとカーテンは大丈夫ですか? 再確認後に、報告をお願いします!」

 ついに、置時計内部の、問題のある部分へと着手できる所まで分解作業を進めたミシェルが、全員へと言葉を飛ばした。
 全員が、言葉に合わせて同時に動く。

「カーテンA、問題なし」
「か、カーテンBも、大丈夫!」
「Cも問題ないな。全員、マスクチェックだ」
「大丈夫です!」
「だ、大丈夫です。気密、維持されてます」
「よし。ミシェル殿、いつでも大丈夫ですぞ!」
「有難う御座います。では、始めます」

 そう言うとミシェルは、先端に返し状の部品がついた別の専用工具を用いて、無機質で無骨な見た目の、『霊核』保護カバーを固定している金具を外していく。
 そうして、最後の固定具以外の全てが外されて、いよいよ本体へと手が伸ばせる状態になった。

 ガチャリと、最後の固定具が外される。

 保護カバーに隙間が出来、そこを通じて、内部から魔力の淡い光が漏れ出てくる。色は、明るい茶色と鮮やかな深緑色。どちらも地属性を象徴する色である。ミシェルの髪の毛も、魔力の共鳴反応により、蒼の混ざった翡翠色に染まる。

「っ……」

 しかし、そのような明るい色合いの向こう側を見ていたミシェルは、最初以上に顔をしかめた。

「ミシェル殿、どうかして……」

 その表情の意味が気になったルダンが、手袋を付けたうえで、背後からそこを覗き込む。

「うっ……。これは……」

 そして同じように、否、ミシェル以上に、顔をしかめた。
 そこには、『霊核』に無理矢理に融合させられたような姿の、精霊「樹霊ドライアーダ」が居た。

 この精霊は、その名にある通りに樹木の皮膚を持つ少女のような姿を持っており、その姿を見ることが出来る者たちからは、「森の妖精」と喩えられるような可憐な外見をしている。加えて、この『ドライアーダ』の皮膚には、麦のような色合いも混ざっていた。
 しかし、今の『ドライアーダ』は、『霊核』に上半身と下半身の大部分がめり込んでいる状況で、顔に当たる部分は、重度の火傷を負った時のような、焼けただれた状態にあった。

「同属固着現象による、魔力焼け、ですね……。ルダンさん。僕の鞄の側面ポケットに「霊癒香」の小瓶が入っています。使って頂けませんか?」

 ほぼ無表情に近い表情で、ミシェルがルダンに声を投げる。

「ええ、すぐに取り掛かりましょう」

 そして、すぐにミシェルの持ち込んでいた「霊癒香」が、ルダンの弟子たちによって、追加で焚かれた。甘く、心を落ち着かせるような香りが、爽やかな香りの「鎮静香」と合わさって、辺りに満ちていく。
 効果は、すぐに出た。
 融合状態にある『樹霊ドライアーダ』の顔部分から、見る見る内に火傷の症状が引いていく。

(精霊を『霊核』から剝がすには、周辺の部品で疑似結界と誘導路を作り、精霊が抜け出せるようにしなければならない。多少の時間は掛かるけど、それが一番だろう)

 ミシェルは、『ドライアーダ』の状態が改善した事に安堵しながらも、次の一手を打っていく。
 彼は鞄から、工房で用意してきた「霊残殻」使用の部品を取り出すと、それらを外した部品の代わりとして組み込み、魔力の不要な流れを抑える疑似結界と、精霊が通り抜けやすくするための誘導路を、手際よく、次々と時計内部に形成していく。
 なお、これらの処置は、今後の同属固着現象を防ぐための壁としての役割も持っている。言わば後付け式の防護処理でもある。

 そうして、開始から約三時間半ほどに及んだ作業は、休憩を取らずに没頭した甲斐もあって、無事に一区切りの目途がついたのだった。

「僕は、監視も兼ねて、少しだけここに残ります。ルダンさん達は、自由にお過ごしください」

 そう口にする彼の微笑を、いつの間にやら点けられていた照明器具の灯が、優しく照らしていた。

 0

trending_up 16

 0

 0

小さな星の軌跡 第19話 「新入部員」

 部活紹介の翌日。
 学校はもう通常の授業になる。一年生も早速六限目までみっちりと授業だ。わたしたちの天文部に来てくれる新入生はいるだろうか?
 放課後、不安と期待とが入り混じったまま、みっちゃんと一緒に第二理科室隣の天文部室に向かうと既に鍵は開いていた。
 耳納先輩とたかちゃんが天気図を書く準備をしている。

「早いね〜」
とみっちゃん。

「昨日の今日で一年生が来るとは思っていないけど、それでもね、やっぱり……」
とは少し照れくさそうなたかちゃん

 理科室は校舎の端なのでその隣の理科準備室の一部な天文部室も廊下を通り過ぎてゆく人影はない。
 引き戸を閉めてしまうと、すりガラスの向こうは静かな放課後となる。

 「じゃあ早速いつも通りに始めようか」
 と耳納先輩。

 ラジオを付け、気象通報に耳を傾ける。

 ふと、今入部希望者が来たらって思うと落ち着かない。いきなりこの状態見たらなんて思うだろう、そんな事を思いながら鉛筆を走らせてゆく。

 ラジオが終わり後は等圧線の書き込み、と皆でちょっとひと段落。いつもだとそのまま等圧線を書き込んでゆき、誰が早いか競争になるんだけど、なんとなく扉の方を見てしまう。

 一年前の自分はどうだったっけ、すこし扉の前をうろうろして、廊下に展示してある鉱物標本を眺めて、中から聞こえる声に聞き耳立てて、静かになった時に思い切ってコンコンとノックした様な、確かそんなだった。

 奥に座っていた耳納先輩の姿。

 部活紹介で見たその人がそこに居る。
もうそれだけで、胸がいっぱいで、そして大きな三年生の甘木先輩と大人っぽく感じた八女先輩。八女先輩はわたしの頭をもみくちゃにして可愛いいと喜んだ。

 そして、そうやって揉まれている所にたかちゃんがすっと扉を開けて
「すみません、入部希望なんですけど」
ってあっさりとやってきた。

 耳納先輩が鉛筆の手を止めて呟く。

「一年前、筑水さんと基山さんが入ってきた時を思い出すな。小さい影がうろうろしているのを僕と八女先輩、甘木先輩でかもーんかもーんおいでおいでって中から手招きしてたんだよ。

「ぷっ……。中でそんな事してたんですか?」
とみっちゃんが吹き出した。

「そりゃね、謎の念力を送ったり……」

その念力で、ノックする決心がついたのだとわたしは思った。

 午後四時半を回って、すりガラスに夕日のオレンジが差し込むようになった時、すっと影が映った。
「誰かきた???」
 わたしたち皆で目配せをする。

 こんこん

「はい、どうぞー」
現時点では部長の耳納先輩。
いつになく背筋を伸ばした、大人っぽい雰囲気だ。

 からからから……

女子一年生だ。きた。きたきたきたきた。
本当にきた。入部してくれるの星は好きなのかな初めてなのかなそれとも気象とか地質とか何が好きで一体どんな子なの???

 頭がいっぱいになる。

「あの、ここ天文部で良いですか?入部希望なんですけど……」

「はい、天文部ですよ。今はまだ部長の耳納です。お名前伺って良いですか?」

「あ、はい。1年C組の星乃です。星乃 霧(ほしの きり)、よろしくお願いします」

先輩が部活の活動記録ノートに名前を書き込んで、間違いないかを確認をする。

「じゃあ簡単に自己紹介しようかな、僕は3年A組。耳納紘、まだ部長です」

「あ、2年A組。筑水せふりです。天文は高校から始めたんだけど、よろしくね」
「2-Bの基山高瀬です。中学の頃から鉱物採取とかやってます」
「2-Aの篠山三智だよ。こっちのちーちゃんとは小学校からの同級生でね。去年の夏頃から星見てるよ」

「この学校の文化部は兼部している人も多くてね。僕は写真部にも入ってます。あと今日はきていないけど、3年生で三人ほど天文部の活動にも参加するから、それは来た時に顔合わせでいいかな」

「わたしたちは兼部はしていないけど、他の部活にゲストで顔出してたり、結構自由だからね。あと部活紹介でも言ったけど、学校に泊まっての観測会があるけどご両親の了解は大丈夫かな?」
と一応の確認。

「あ、それは昨日母と父に聞いて了解取りました。大丈夫です」

よかった。

「ちょっと聞いて良いかな。星乃さんは天文とか気象、どんな所に興味があるとか、こんな事しているとかあるのかな?」
先輩が尋ねる。

「あ、はい。実はあんまり地学とかはよく知らなくて、学校の理科で習ったくらいなんですけど、すみません。……実は絵を描くのが好きで、風景や周りの小物をスケッチしてイラスト描いたり。それで去年のこちらの文化祭で天文部の展示に月のクレーターのスケッチがあったのを見て、あ、こんなことも出来るんだって」

「へえ、それで美術部とかじゃなくてうちの方に?うん、嬉しいね。天文も今はデジタルがどんどん進んでいるけど、古くはね、フィルム写真どころかスケッチも観測記録で重要だったんだよ。天体写真でも風景を絡めて、星の風景ってことで星景写真て呼ばれるけど、スケッチでそういうのを表現するのも面白いかもね」

 耳納先輩が楽しそうだ。特技のある後輩ちゃんが入ってきたのは嬉しいけど、ちょっぴり嫉妬しちゃうぞ。ぷん。

 「星乃さんは、家はどの辺なの」
 とたかちゃん。

 「あ、えと、駅前のアーケードのもう少しうらに入ったあたりなんですけど。古い家が多い所で」

「ん、おーちゃんちの近くかな。3中?」
とみっちゃんが尋ねると

「あ、はいそうです」

「じゃあ小郡律羽(おごおりおとは)さんって一つ上の人は知ってるのかな……」
みっちゃんがすこし声を抑えて尋ねる。

「はい、先輩です。生徒会で一緒でした。大きなお家の。だから高校でもまた先輩後輩になりますね」

 みっちゃん、ちょっとありゃりゃって顔をしている。おーちゃん(小郡さん)は天文部員ではないけど時々は顔を出すし、なんたってみっちゃんの大切な人だからなあ。

 星乃さん、2人の関係を知ったらびっくりするのかな?
 それとも……まあそんな事心配しても意味ないか。

 「じゃあ一通り自己紹介も済んだし、星乃さんはこの入部届に必要事項を書いて持ってきてください、四月最後の金曜は泊まりの観測会を行う予定なので、そのつもりで良いですか?」

 「わかりました。よろしくお願いします、先輩」

 先輩、かあ。今のって耳納先輩だけで無くわたしたち全体なんだよな。
 一年前、何かあれば「先輩」って呼んでたわたしが、今日から「先輩」なんだ。

 耳納先輩も四月の観測会はまだ仕切ってくれるみたいだけど、多分その次はわたしにバトンを渡すつもりだと思う。

 天気図が描きかけのままなのに気づいた。

「星乃さん、わたしとみっちゃんはバス通学だから駅までは通学路一緒だし、ちょっと天気図仕上げるまで待ってくれないかな?10分で仕上げるから」

 はいって返事してくれたので、さくっと仕上げよう。幸いややこしい気圧配置でもない、穏やかな春の陽気の天気図だし。

 興味深く見つめる星乃さんの視線を感じながら耳納先輩とわたしたちは慣れた手つきで仕上げる。

 「じゃ、今日はここまでにしとこうか、皆さんお疲れ様でした」

 校門で一旦皆揃って、そして耳納先輩とたかちゃんは自転車で帰って行った。
 駅に行くバスも程なく来たので3人で乗り込む。ちょっと混んでるので立ったまましばらくすると終点の駅前だ。
 わたしとみっちゃんは山の方へ行くバスに乗り換え。星乃さんと別れると、確かにアーケードうらに行くほうへ向かって行った。

 みっちゃんがつぶやく
「まさかおーちゃんの後輩とは、なんかよく知ってるようだし、どうなのかな」

 わたしもそれに答える。
「心配いらないよ、きっと。先輩らしく堂々と、ね」

 わたしと耳納先輩もお付き合いしながら部活のみんなと一年間上手くやってきた。
 堂々と、恥ずかしい事なんて何もない。

 八女先輩が最後までわたしを応援してくれていた事を思い出しながら、暗くなってきた外を眺めバスに揺られる。

 バスを降りてみっちゃんと別れる。
「じゃあまた明日ね、篠山先輩」
 ちょっとからかって見た。

「もう、ちーちゃんったら。確かにそうだけどさぁ」

 みっちゃんは軽くため息ついて、でもいつもの様に手を振って夕暮れの山裾を帰って行った。
 わたしはすこし山道をのぼる。木々の間に春の星座がちらちらと姿をあらわす。
蟹座、獅子座、乙女座……一年間はわからなかったのが、今のわたしには、この時間のこっちならあの青い星はスピカだと、自身を持って言える。

 ちゃんと一年分成長した。

明日が楽しみだ。それじゃあね。


――つづく

 0

trending_up 109

 3

 9

指の記憶

手が冷たいのは
乾いているからだと
はじめて知った

これまで長い間
指が冷たかった
初めて差し出された手を
つかんだ日にも
たぶん冷たかっただろう

そんなことも知らずに

 0

trending_up 106

 4

 4

下水道

 わたしは便器に顔を突っ込んで胃のものを下していた。口内は胃液特有の酸っぱさで満ちていて、酒を飲み過ぎたことをいささか後悔し、ここが自宅でよかったと、喉の痛みを感じながら考えていた。泥酔したわたしの意識はぐにゃりと曲がっていて、まるでスライム状になった鉄をゆっくりと練ってそこらに放り出したようなものであった。震える手でトイレのレバーに手をかけた時、それはやたら重く感じられた。吐きすぎて体力が弱ったせいでないことは明らかであった。それでもわたしは流さないわけにはいかない。さもなくば一晩中この不快な酸性の匂いと同居することになる。重量上げの選手の心持ちになって、一気にレバーを下に押し込んだ。水が轟音を立てて流れると同時に、私のスライム的な硬い意識も入り込んで行って、体もそれと合わせて、渦巻きながら流れて行った。
 ところで、わたしはいま下水道を流れている。形ははっきりしない。固体とも液体とも気体ともいえない。例えればそう——いや、固体とも液体とも気体とも表せないものを例えて良いのか——、しかし、無理に例えるなら、牛乳を沸騰させてそこに溶けた鉄を流入れ、それをスコールの降っている熱帯雨林の空にぶちまけたその空間を切り取った中にあるもののようだ。それが下水道を流れている。ひどく匂うが、それは大して問題ではない。いまわたしが問題としなければいけないのは、どうやってこの世界から普通の酒のみに戻るかということである。さもなくばわたしはこの何でもない体のまま下水道をさまようことになる。永遠に。しかし一つの希望はあり、それはこの国の水道システムがお粗末ではないことである。そのうち川やら海に出るであろうから、そのうちに逃げ出せば良い。この際、いらぬ汚れも落としてしまえば良い。
 わたしが流れて行った先には、予想通り最初の沈殿池にたどり着いた。ここで最も大きな汚れは取り除かれる。わたしの中の最も大きな汚れ。それはアルコールであろうか? タールであろうか? 生存欲であろうか? そのうちどれにしてもわたしに選ぶ権利も、抜け落ちたという自覚を得る権利もない。なぜなら勝手に落ちてゆくからである。わたしが介在することはない。最も重いものが、勝手に落ち、落ちたことにすら気付けない。こうしてわたしは沈殿池を、静かに緩慢に流れていく。周りの大きな汚物も落ちてゆく。わたしの最も汚れた部分も落ちて行ったはずだ。水に浮いても、沈んでもいない。ただ、流されている。その間に、落ちていく。かすかに、自分が液体に近づいたような気がした。
 わたしは微生物の中にいた。正確には微生物まみれの浴槽のような場所だ。ここでわたしは隅々まで噛み付かれて、調べられる。汚れと判断された部分は、飲み込まれる。固体が消えるわけだ。私は噛み付かれたどころか、キスされた経験すらないから、他人(人?)に体のあちこちを噛まれるのは不快だった。同時にあちこちを噛み付かれ、飲み込まれるから、何がなくなったのか分からない。おそらく一つ一つ無理にでも計算すれば分かったかもしれないが、それに気づいた時には、もうほとんど汚れがなくなっていて、分かろうとする興味をも失っていた。
 わたしは、川を流れていた。綺麗でも、汚くもない。魚はいなくはないが、おそらく食事の相手をしてくれるのは、そこらのどうしても食事にありつけない獣くらいものだ。この時点でわたしはほとんど液体であった。かすかに残った固体の部分だけが、わたしの存在を示していた。川は下流に達して、また汚れた。産業からあふれ出してきた汚れが、私を汚した。心がどす黒くなるような思いがして、さっさと海に入りたくなった。
 海へ入ってまもなくして、わたしの体は蒸発を始めた。わたしは舞い上がっていくわたしを必死につかんで、どうにか空へとついて行った。わたしはかろうじて一つであったけれども、あまりに広範囲に広がっているせいで、意思の統一に苦労した。上空に上がってくると、見なれた街が下方にあった。わたしは飛行機にでも乗っているかのような気分で、有頂天になった。できれば、このまま別の国にでも行きたかった。しかし、周りが冷えてくるにつれて、私の期待は薄れていった。わたしの体は再び液体になって、地上へと降っていく。普段見ていた多くの雨粒にわたしはいったん分かれて、地上へ降り注いでいく。屋根の上、傘の上、服の上、車の上、髪の上、あらゆる上、それからわたしたちは、だんだん水道へと集まり、再び一つになる。今度は都会の汚れを吸い込んで、下水道へと流れていく。
(下水道は概ね同じなため、省略)
 わたしは再び、空にいた。いいかげん元へと戻りたいが、それには風と雲とがうまく動いてくれないとどうにもならない。わたしは考えることをやめ、下を見たり、水滴の数を数えたり、別の水滴になったわたしを探したりして時間を過ごした。
 ようやく、都会でない、山の方に私は降り注いだ。再びわたしたちが集まったのは、透き通った川であった。それだけでも私の心は晴れて、汚れが付くこともなく、浄水場へと達した。
 浄水場では大して面白いこともなかった。紛れ込んだ葉やら石が取り除かれるだけだ。わたしはもう綺麗であるのだから、これ以上どうしようというのだ。
 塩素水。
 これはいたくわたしを傷つけた。私の大半は痛みに耐えかねて、消えていった。かすかに汚れが残っていたのか。私は汚れているのか。汚れていないものなどないのか。
わたしは水道管を流れて、自宅の蛇口へと流れていった。
 わたしは便器から立ち上がって、散らばっている嘔吐物を片付けた。テーブルに戻ると、ウオッカの酒瓶が開いたままになっていた。瓶は朝日に照らされてショーケースとなって、中の液体は宝石のごとく輝いていた。
 わたしはそれをたたき割った。何度も素足で踏んで粉々にした。足から出た血と、液が薄赤の光をわたしに見せた。わたしの足裏は、痛みで一杯になっていた。

 0

trending_up 21

 0

 0

魔導機巧のマインテナ 短編2:ミシェルの話 置時計の依頼・Ⅵ


 一度方針が固まれば、後は実践あるのみだった。

「これを、先ほど話した人たちに送って下さい。可能な限り急いで」
「承知しました! オーバン議員!」

 そう言われてオーバンから封書を託された伝令役が、馬を用いて方々へと走り回る。
 彼らによって、協力予定のマインテナが商売をしている工房を始め、ミシェルの宿泊場所として提供される予定の宿や、魔法に関する物品を取り扱っている商店へ、今回の作業に関する工事の開始と協力の要請が行われていく。
 更に、役所の広報担当者によって、町の広場にある公共掲示板に図書館の作業が開始されることについての告知文が、住民や来訪者向けに出された。
 それは、大掛かりで急速な伝令ではあったものの、事前に打ち合わせが行われていたのか、協力予定のマインテナとその弟子数名、商店の主人と奉公人が、三時間以内に図書館事務所前への集合を完了した。

「お疲れ様です。オーバン殿」
「毎度、オーバンさん。来ましたよ。例の御用ですね?」
「お二人とも、お疲れ様です。事前にお話ししていたこととは言え、急な連絡で申し訳ありません」
「いえいえ、むしろ謝るべきは私の方です。お手数かけてしまい、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 オーバンの挨拶に返しつつ、協力予定のマインテナの男性が頭を下げる。

「早速ですが。今回、協力くださるマインテナさんは、どちらに?」
「ああ、ミシェルさんでしたら、あちらにいらっしゃいますよ。うちの職員と話をしているはずです」
「有難う御座います。それでは、そちらに向かいますね」

 一方、魔法物品の商店主は、オーバンやマインテナの男性への挨拶もそこそこに、連れていた奉公人二人と共に、ミシェルの方へと歩みよって話を始めた。必要な材料を用立てる必要があれば、それを円滑に準備できるようにする為だった。ついでに自分の店の売り込みもしておきたいと言う意図もあったが。
 その背中を見送った後で、マインテナの男性はオーバンに向き直る。

「そう言えば、件の不具合についての調査の方は、どのように?」
「ええ。前にお話した『カルセスファー工房』の方に分析を依頼して、ある程度の結論が得られました」
「おお。それで、その依頼を請け負ったのが、あそこの……青年ですか?」
「はは、外見は可憐ですが、男性で大丈夫ですよ。お名前はミシェル・カルセスファーさんです。かなり緻密に推測を立てて下さり、今回の不具合の解消についても全力で協力くださるという事でした」
「あの高名な“歯車の”カルセスファー殿の、しかも直系の弟子筋となれば、目利きも腕も確かでしょう。あの方の妥協の無い仕事ぶりは、余りにも有名ですからな。私も、今回は胸を借りるつもりで臨みますよ」
「お願いします。そうそう。既に店主のマルコムさんがミシェルさんとお話を始めていますが、ルダン殿も一度、彼らと情報の共有を行って下さい」
「承知しました。オーバンさんは、書類などの事務処理の方、宜しくお願いします」

 そう言って頭を下げたマインテナの男性ルダンも、自身の弟子たちを連れて、店主マルコムと同様にミシェルの下へと向かっていく。

「……よし!」

 彼らの背を見送ったオーバンもまた、図書館の館長アルノーの所へと向かって行く。
 彼自身の果たすべき役割を、その胸に。

 一方。

「──。必要そうなものは、以上です?」
「そうですね。今のところは、それくらいです」
「まいどあり。すぐに用意しますよ。ルダンさんも大丈夫です? 良ければこの後に入用の材料も、今のうちに仕入れておきますが?」
「……そうですな。弟子にリストを持たせているので、後でお渡しします。その時にでも」
「まいどあり! 今後ともご贔屓に! ここには、奉公人の一人を残していきますんで、追加で何か必要になった時は、その子、マシューに言ってやってください」

 マルコムにマシューと呼ばれた奉公人の少年が一歩前に出て、ぺこりと丁寧に頭を下げた。

「マシュー、くれぐれも御二方に迷惑を掛けないようにな。んでは私はいったん店に戻ります。また後で!」

 そう言うと彼は、もう一人の奉公人と共に一礼すると、その場を立ち去る。

「ミシェル殿。我々も参りましょうか。高名なカルセスファー工房の技、学ばせていただきます。我が弟子達も、全力でお手伝いさせますので」
「有難う御座います。僕も皆さんの足を引っ張ることのないよう、誠心誠意、頑張らせていただきます。そして、僕もまたルダンさんの熟練した手腕から学びたいと考えております。お互いに、有意義な時間にしましょう」

 そう言って、ミシェルとルダンは互いに固く握手を交わし、四人で、オーバンたちの所へと向かって行く。その足取りには、確かな活力がみなぎっている雰囲気が感じられ、傍から見ていても、今回の作業の未来は明るいものになると確信が持てるほどであった。

 0

trending_up 18

 1

 2

煉獄の理 警視庁警部補・藤田五郎

第一部:残滓と煤煙

 明治十五年、十二月。
 東京の冬は、かつての京都のそれよりもどこか無機質で、刺すような痛みを伴う。
 石畳を濡らす夜霧には石炭の煤が混じり、文明開化の華やかさを謳うガス灯の光さえも、湿った闇を完全に払い落とすことはできない。 銀座を往来する馬車の響き、人力車の車輪が立てる乾いた音、そして洋装に身を包んだ紳士たちの笑い声。 それらすべてが、藤田五郎にとっては、薄氷の上に築かれた危うい虚構のように感じられた。
 警視庁の一室。
 藤田は、窓の外を眺めながら「敷島」の煙を深く吸い込んだ。
 その背筋は、旧時代の武士が保つべき節度を、化石のように凝固させて保っている。 壁に立てかけられた官給品のサーベルは、彼にとっては「刀」というよりも、法という巨大な伽藍を維持するための「鍵」に近い。 かつて、斎藤一として闇を裂いた「鬼神丸国重」は、今はその身を隠し、制度という名の重厚な鞘に収められている。
「警部補。……また、死にました」
 入室してきた部下の高木巡査の声が、静寂を裂いた。 高木はまだ二十代前半、幕末の動乱を「お話」としてしか知らない世代だ。 その若々しい頬は寒さで赤らんでいるが、瞳の奥には、理解しがたい怪異に直面した時の戸惑いが張り付いている。
 藤田は振り返らず、煙を吐き出した。
「場所は」
「本郷、蓮華寺です。……例の、元士族たちが身を寄せ合っている廃寺です」
 藤田の眉が、わずかに動く。
 本郷。 加賀藩の下屋敷がかつて威容を誇った地だ。 今やその栄華は、寄宿舎や荒れ果てた寺院に姿を変え、時代の激流に乗り遅れた者たちの溜まり場となっている。
「検視の結果は」
「それが……。高名な医官も首を傾げています。 外傷は、首筋にたった一箇所。 針を刺したような小さな穴があるのみです。 争った形跡も、毒を煽った形跡もありません。 被害者は……まるで、仏のように穏やかな顔で座禅を組んだまま、事切れていたそうです」
 藤田はゆっくりと腰のサーベルを確認し、外套を羽織った。 その動作には一点の無駄もなく、静かな圧迫感が高木の呼吸を奪う。
「被害者の名は、北村勘兵衛。六十二歳」
 高木が手帳を開き、声を落として続けた。
「元は小さな藩の勘定方だった男だそうです。 維新後は細々と私塾を開き、近所の子供たちに算術を教えていました。 評判はすこぶる良く、恨みを買うような人間には到底見えません。 ……ただ、近所の者の話では、最近『昔の教え子が訪ねてきた』と嬉しそうに漏らしていたそうです」
「算術、か」
 藤田の声は、冬の夜風よりも冷たい。
「算術は嘘を吐かない。だが、数字を操る人間は、往々にして世界を欺くためにその力を使う。馬車を出せ。現場へ向かう」
 馬車が本郷へ向かう道中、藤田は窓の外を流れる景色を眺めていた。
 東京は、変わり続けている。 かつての江戸が持っていた「死の近さ」は、今や「制度」という名の厚い漆喰で塗り固められ、見えない場所に追いやられているに過ぎない。 しかし、藤田の鼻腔には、その漆喰の割れ目から漏れ出す、拭い去れない血の匂いが常に届いていた。
 揺れる車内、高木が読み上げる被害者の記録は、どこまでも平穏な「過去の遺物」のそれであった。 だが藤田は、その平穏の裏側に潜む、鋭利な歪みを感じ取っていた。
 北村勘兵衛。 かつて数字という名の理(ことわり)で藩を支えた男が、なぜ今、仏のような顔で果てなければならなかったのか。
 闇を切り裂く蹄の音が、本郷の冷えた静寂へと近づいていた。

   *

 蓮華寺の境内は、凍てつく静寂に支配されていた。
 かつての廃仏毀釈の折に打ち壊された石仏の首が、寒月を浴びて白く浮かび上がり、時代の断層を無言で告発している。 北村勘兵衛が住んでいた離れは、境内の隅にひっそりと佇む粗末な六畳間だった。 雨漏りの跡が地図のように広がる天井の下、その男はいた。
 高木の報告通り、北村は端座していた。
 古びた綿入れを纏い、背筋を伸ばし、組んだ手の指先は一点の乱れもない。 その顔は、死の苦しみから解き放たれたというよりも、巨大な難問を解き終えた学僧のような、清々しい静謐さを湛えていた。
 藤田は死体の前に跪き、その首筋を検分した。
「……やはりな」
 指先で触れるまでもなく、そこには小さな赤い点があった。 延髄を正確に射抜く、極めて細く、かつ長い得物による一撃。 それは武術の域を超え、精密機械の作動を思わせるほど、冷徹な殺意の結実だった。
「争った形跡はありませんね。やはり、不意を突かれたのでしょうか」
 傍らで高木が声を潜めて問う。 
「いや。争っていないのではない。争う必要がなかったのだ」
 藤田は、北村の穏やかな表情を見つめながら呟いた。
「被害者は、自分を殺しに来た相手を、招き入れた。……あるいは,待ち構えていたか」
 藤田の視線は、死体の脇に置かれた文机へと移った。
 そこには、墨の跡も新しい数枚の和紙が、重石に押さえられたまま残されている。
 そこに記されていたのは、子供に教えるような平易な「鶴亀算」の類ではなかった。 数万、数十万という単位の数字が、網の目のように絡み合い、一つの巨大な「解」を求めて収束していく。 狂気じみたほど緻密な、代数演算の軌跡。
 藤田はその紙を一枚,手に取った。 指先が微かに墨で汚れる。 北村は、絶命する直前までこの数字を追い続けていたのだ。 そして、その数式の末尾。 そこには、一つの「赤」で引かれた二重線と、空欄の「答え」があった。
 ふと、藤田の鋭い眼光が机の隅に留まった。
 乱雑に置かれた和紙の下に、質感が異なる紙片がわずかに覗いている。 藤田がそれを引き抜くと、それは数式の和紙とは別の、裁断された紙の切れ端だった。 そこには、官公庁特有の格式張った透かしと、工部省の印が薄く、だが確かな意思を持って押されていた。
 藤田は表情を変えず、その「工部省」の紙片を指先で弄り、外套の懐へと収めた。
「高木。この寺の周囲を調べろ。それと、北村が最近誰と会っていたか、工部省や大蔵省の下級役人の中に、彼の教え子がいなかったか徹底的に洗え」
「え……? 役人、ですか?」
 高木が面食らったように声を上げた。
 藤田は答えず、北村の冷たくなった目を覗き込んだ。 その眼窩の奥に、かつて京都の路地裏で見た光景が重なる。 正義を語りながら人を斬った者。 理想を語りながら富を盗んだ者。 その全ての「不一致」が、今、明治十五年の冬に、北村勘兵衛という老人の死を通じて、再び藤田の前に姿を現そうとしていた。
「この男が解こうとしていたのは、算術ではない。……この国の、帳尻だ」
 藤田の声が、湿った六畳間の空気を切り裂く。
「算術は、美しい。……だが、その美しさが人を殺すこともある」
 藤田の胸中で、冷徹な構築が始まっていた。
 この老人の死は、単なる他殺ではない。 それは、明治という巨大な虚構が、自らの綻びを縫い合わせるために行った、残酷な「修正」の一工程なのだ。
 藤田は再び馬車へ乗り込むべく、離れを後にした。
 夜の闇は、これから始まる長い審判の序奏のように、深く、重く、本郷の空を支配していた。

第二部:虚構の伽藍

 翌朝、警視庁の資料室は、冬の陽光さえも拒絶するような澱んだ空気に満ちていた。
 天井まで届く書架には、地租改正の記録、廃藩置県の公文書、そして各省庁から提出された膨大な統計資料が、死者の骨のように積み上げられている。
 藤田五郎は、外套を脱ぐことも忘れ、机の上に北村勘兵衛の残した数式と、大蔵省の裏帳簿を並べていた。 傍らに置かれた珈琲は、すでに氷のように冷え切っている。
「藤田さん、まだそんなものを……」
 高木巡査が、数冊の報告書を抱えて入ってきた。
「北村の私塾に通っていた教え子、洗いました。 大蔵省、工部省、内務省……新政府の屋台骨を支える中堅役人の中に、十名以上。 確かに彼は、維新後の立身出世を夢見た若者たちの、影の師父(しふ)だったようです」
 藤田は高木の方を見ず、指先で紙面をなぞった。
「高木。この数式を、単なる算術と思うな。 これは、この国が文明という衣を纏うために、どこから何を盗んだかを示す『告発状』だ」
「告発……ですか?」
「そうだ。その教え子たちの中に、とりわけ北村の信頼が厚かった者はいないか」
 高木は手帳を繰り、一枚の頁を指し示した。
「筆頭と呼ばれていたのが、工部省の計算官、佐伯信次郎です。 貧しい下級士族の出身ですが、算術の才だけで今の地位を築いた。 将来の大蔵大輔とも噂される才子だそうです。 最近も、北村の元へ頻繁に通っていたという証言があります」
「佐伯、か……」
 藤田は、懐から昨夜拾い上げた工部省の紙片を取り出し、机に置いた。
「北村が絶命する瞬間まで解こうとしていたのは、十数年前の加賀藩、および周辺の小藩における『消えた公金』の行方だ。 いいか、廃藩置県の折、各藩の債務は政府が引き受けた。 だが、その引き継ぎの際、旧藩の金蔵から消え、政府の帳簿にも記載されなかった『浮き金』が存在する」
 藤田は数式の一節を指で叩いた。
「ここに記された数字を見ろ。 明治四年、加賀藩金庫に残されていた、米五万石相当の予備金。 当時の貨幣換算で、およそ十二万円だ。 だが、政府が受理した引継ぎ帳簿には、この項が丸ごと欠落している」
「十二万……。今の価値に直せば、一省の年間予算にも匹敵する大金ではありませんか」
「その大金が、どこへ消えたか。北村が導き出した答えは、極めて単純で、かつ残酷なものだ」
 藤田は、別の統計資料を広げた。
「現在、政府の重鎮たちが私的に所有している広大な土地、そして息のかかった新興企業への巨額の出資記録。 北村の数式に従ってそれらを逆算すれば、端数に至るまで、あの『消えた五万石』と完璧に一致する。 つまり、今の文明開化を支える富の一部は、旧藩の遺産を掠め取った重鎮たちの懐に直結しているということだ」
 高木は言葉を失い、机の上に展開された数字の羅列を見つめた。
 北村の数式は、極めて美しく、かつ逃げ場がない。 一の項を動かせば、必ず連鎖して百の項が崩れる。 嘘を吐き通すためには、全世界の数字を書き換えなければならないほどの精度だ。 
「北村は、自分が育てた若者たちが、かつての自分と同じように算術を愛していると信じていた。 だからこそ、自分の見つけた『正解』を彼らに示したのだ。 師として、学問の誠実さを説くために。 ……己の教え子が、その掠め取られた富を管理する側の人間になっているとも知らずにな」
 藤田の声には、冷徹な静寂が宿っていた。
「北村は、自分が完成させたこの数式を見せれば、教え子もまた、学問の正しさに戦慄し、誠実を取り戻すと信じていたのだろう」
「……だが、現実は違った」
 藤田は、工部省の紙片を強く握りしめた。
「数字の正しさを信じる北村に対し、教え子の一人は、数字を『権力』を守るための道具として見ていた。 この数式は、彼らにとっては正解などではない。 自分たちの椅子を、この国の虚構を根底から突き崩す『爆薬』に他ならなかったのだ」
 藤田は外套を羽織り、席を立った。
「佐伯信次郎の身辺をさらに洗え。 奴は、自分の手元にあるはずの『真の解』が、まだ北村の部屋に残っているのではないかと、今この瞬間も疑心暗鬼に陥っているはずだ」
 資料室の窓から差し込む冬の光が、藤田の横顔を鋭く切り取っていた。
 それは、これから始まる凄惨な「修正」を予感させる、冷たい光だった。

   *

 藤田は資料室の椅子に深く腰掛け、佐伯信次郎の履歴書をじっと見つめていた。
 写真はなくとも、その行間に滲む男の「乾き」が手に取るように分かる。 貧しい下級士族の家に生まれ、維新という荒波の中で家禄を失い、算術という唯一の武器を手に泥を這い上がってきた男。
 北村勘兵衛にとって、佐伯は単なる教え子ではなかったはずだ。 身寄りもなく、ただひたむきに数字を追い続ける若き才覚に、北村はかつての自分を、あるいは失われた息子を重ねていたに違いない。
「北村は……己の知識のすべてを、この佐伯に継承させたのだろうな」
 藤田の呟きに、高木が困惑したように顔を上げた。
「ですが、藤田さん。そんな恩師を、自らの手で殺めるなど……」
「高木。恩義という重しは、時に人を変える。 佐伯にとって、北村という存在は、自らが築き上げた現在の地位――工部省計算官という虚飾の城を、根底から崩し去る唯一の人間になってしまった。 師を敬う心以上に、今の自分を失う恐怖が勝ったということだ」
 藤田は机の上に置かれた、北村の首筋のスケッチを指でなぞった。
「凶器の目星はついた。 第一部で見たあの傷跡……延髄を正確に射抜く、極めて細く、かつ長い得物。 工部省で図面を引くために使われる、ドイツ製の精密なコンパスの針だ」
「……コンパス、つまりは『ぶん回し』、『円規』ですか?」
「そうだ。算術を愛する者が、生涯手放さない道具。 北村が佐伯に買い与えたものか、あるいは佐伯が師から譲り受けたものか。 いずれにせよ、佐伯は師から教わった道具で、師の息の根を止めた。 これ以上の皮肉があるか」
 高木の顔から血の気が引いていく。
「師の道具で、師を……。そんな残酷なことが」
「数字を扱う者は、効率を求める。 最短距離で対象を沈黙させるには、手慣れた道具を使うのが最善だと考えたのだろう。 ……北村は、抵抗しなかった。 信頼しきった愛弟子が、自分の数式の『間違い』を指摘しに来たとでも思ったに違いない。 無防備に背を向け、数式の説明を始めた瞬間に、その一撃は放たれたのだ」
 藤田の瞳の奥で、微かな、だが凍てつくような熱が灯った。
 それは、かつて「斎藤一」として、平然と裏切りを行う者たちに向けた、あの蔑視に近い怒りだった。 北村が守り抜こうとした、算術の美しさと、教え子との静かな日常。 それらすべてを、佐伯は機能という名の下に踏みにじった。
「佐伯は、北村が残した『完成した数式』を、現場から持ち去ったつもりでいる。 だが、昨夜我々が見たあの和紙……あれは、北村があえて机に残した罠だ。 佐伯の手元にあるのは、おそらく偽の解、あるいは不完全な演算に過ぎない」
 藤田は外套を羽織り、革手袋の紐をきつく締め直した。
「奴は必ず戻ってくる、高木。 自分が消したはずの『真実』が、まだあの離れのどこかで呼吸しているのではないか。 その恐怖に耐えきれず、今夜にも再び蓮華寺へ現れるはずだ。 ……算術の解が合わないことを、何よりも嫌う男だからな」
「藤田さん、私も同行します」
「いや。お前は署で待機し、増援を組んでおけ。 ……これは、古い時代の亡霊と、新しい時代の虚飾との清算だ。俺一人でいい」
 藤田は高木の返事を待たず、資料室を出た。
 廊下に響く軍靴の音は、獲物を狙う狩人のように規則正しく、かつ無慈悲だった。
 凍てつく礎石の如く動じず、剃刀の如く冷徹に。
 藤田五郎は一人,再び闇の底にある蓮華寺へと向かった。
 文明の漆喰で塗り固められた東京の夜。 その割れ目から漏れ出す血の匂いを辿り、彼は「決着」の場所へと歩を進める。

第三部:境界の崩落

 深夜の蓮華寺は、現世から切り離されたかのような深き淵にあった。
 昼間の本郷に満ちていた馬車の音や人々の喧騒はとうに消え、ただ凍てつくような寒気だけが、荒れ果てた境内を支配している。 廃仏毀釈の折に打ち捨てられた石仏たちが、影となって足元に広がり、忍び寄る者の気配を拒絶していた。
 藤田五郎は、北村の離れの暗がりに身を潜めていた。
 外套の襟を立て、手袋を嵌めた拳を軽く握る。 呼吸は浅く、一定。 軍靴が床板を鳴らすことなど万に一つもない。
 その身体は、もはや建築物の一部と化していた。
 暗闇に溶け込みながら、藤田はかつて京都の夜に幾度となく経験した、あの「刻(とき)」が満ちるのを待っていた。 法という重厚な鞘に牙を隠しながらも、五感は野生の鋭さを取り戻している。
 午前二時。
 静寂という名の膜を破り、雪を踏みしめる音が届いた。
 ザッ、ザッ……。
 規則正しいが、どこか足早な、焦燥を隠しきれない拍子。 それは文明の靴底が、荒れ果てた聖域の土を汚す音だった。
 離れの戸が、音もなく開いた。
 一筋の冷たい月光が、滑り込むようにして室内の畳を照らす。
 そこに現れたのは、立派なフロックコートを纏った若き紳士、佐伯信次郎であった。
 その装いは、銀座の煉瓦街であれば羨望の的となる、まさに文明開化の申し子そのものだ。 だが、月明かりの下に晒されたその顔は、幽霊を見た子供のように青白く、額には不釣り合いな汗が滲んでいる。
 佐伯は周囲を警戒するように見回し、誰もいないことを確信すると、北村が事切れていた文机の辺りへと這いずった。
「……どこだ。あの式は、どこにある」
 その指先が、畳の隙間や棚の裏を狂ったように探り始める。
「……先生、あんたはどこに隠したんだ。 あの計算が、このまま残っているはずがない。 ……出せ。早く出せ」
 呟きは次第に、嗚咽に近い震えを帯びていく。 それはかつて、この小さな部屋で北村に教えを請い、数字の美しさに打ち震えていた子供の頃の、純粋な、それゆえに歪んだ未練の声だった。
 藤田は、その背後に音もなく歩み出た。
「答えは、警視庁にある。佐伯」
 低く、温度のない声が、狭い部屋に満ちた。
 佐伯は、弾かれたように振り返った。
 腰を抜かしたように床に手をつき、見上げる先には、影のように聳え立つ藤田の姿があった。
 月の光に照らされた藤田の瞳は、佐伯がこれまで築いてきた虚飾のすべてを、一瞬で見透かすような冷徹な光を放っていた。
 佐伯の喉が、引き攣った音を立てた。
 逃げ場はない。 この離れの空気すべてが、今、藤田という男の重圧によって支配されていた。
 二人の間を、冷たい風が通り抜けていく。
 ここからは、もはや算術でも文明でもない。
 「真実」という名の、あまりに残酷な精算が始まろうとしていた。
 
   *

「……警視庁。そうか、やはりあの紙は、あんたが持っていったのか」
 佐伯信次郎は、ゆっくりと立ち上がった。 震える手で乱れたフロックコートの襟を整え、必死に呼吸を整える。 その動作は、崩れかかった「新時代の紳士」という虚構を、土壇場で繋ぎ止めようとする痛々しいまでの虚勢だった。 
「私は何も知らない。 北村先生とは、確かに師弟の関係だった。 だが、それだけだ。 今夜ここへ来たのは、先生の遺品を整理し、供養するためだ。 それが教え子としての務めだろう」
 藤田は一歩も動かず,氷のような眼差しを佐伯に向けた。
「ならば聞こう。お前が最後に北村を訪ねたのは、いつだ」
「……一ヶ月ほど前だったか。記憶は定かではない」
「嘘だな」
 藤田の短い一言が、佐伯の喉を突き刺す。
「近所の者が証言している。 『昔の教え子が頻繁に訪ねてくる』と、北村は嬉しそうに話していた。 ……つい数日前にもな。 お前は、何のためにここへ通っていた」
「師の健康を案じていただけだ! それに、昔の算術の話を懐かしんでいた……それの何が悪いというんだ」
「懐かしむだけなら、工部省の計算用紙は必要ないはずだ」
 藤田は懐から、あの小さな紙片を取り出した。 月光に晒された「工部省」の印が、佐伯の瞳に冷たく反射する。 佐伯の顔が、目に見えて強張った。
「北村の机に落ちていた。 お前の部署で使われている、最新の計算用紙だ。 北村は、お前が持ち込んだ最新の統計データと、自分の手元にある古い帳簿を突き合わせていた。 ……消えた五万石。違うか」 
 佐伯の唇が微かに震える。 藤田は追い打ちをかけるように、さらに言葉を研ぎ澄ませた。
「明治四年、加賀藩の金庫から消え、政府の帳簿にも記載されなかった米五万石、時価十二万円の浮き金。 その金が、今、誰の懐を温め、どこの土地に化けているか。 北村はそれを解き明かした。 お前はそれを、師の横で、ともに算盤を弾きながら見ていたはずだ。 ……いや、見せられたのだな。北村という男の、最後の『誠実』として」
「やめろ……」
「だが、お前にとってその数式は、学問の正しさなどではなかった。 自分の仕える主人たちの首を絞め、ひいては自分の地位を根底から突き崩す『爆薬』に他ならなかった。 だから、消さなければならなかった。 数式も、そしてそれを解いた師も」
 沈黙が離れを支配した。 風が破れた障子を揺らし、カサリと乾いた音を立てる。
 佐伯の虚勢が、音を立てて崩落していった。 「……あの数式が公になれば、どうなるか分かっているのか」
 佐伯の声は、もはや嗚咽に近い。
「政府の信用は失墜し、外国からの借款は止まり、始まったばかりの鉄道も、製糸場もすべて止まる。 この国は再び列強の足蹴にされるんだ! 先生が解き明かした『五万石の行方』なんてものは、その巨大な損失に比べれば、塵芥に等しい些事なんだよ! 私は……私は文明を守ったんだ!」
 佐伯は叫んだ。 それは自分自身を納得させるための、悲痛な自己弁護だった。
「些事、か」
 藤田の声は、冬の夜風よりも低く、深く響いた。
「一人の老人の命も、一人の士族が守り抜いた誠実も、貴様の言う『巨大な算盤』の前では、切り捨てられる端数に過ぎないというわけだな」
「端数……? そうだ、端数だ! 一を救って百を殺すのが、政治の理(ことわり)だ!」
 佐伯の瞳に、論理の袋小路に追い詰められた者特有の、狂気の色が混じり始めた。
 彼は悟ったのだ。 どれだけ言葉を費やしても、目の前に立つこの黒い外套の男を「説得」することはできないと。 藤田が求めているのは国家の安定などではなく、切り捨てられた「一」の報いであるということを。
 佐伯の手が、ゆっくりと懐へ伸びた。 フロックコートの内側、文明の衣の下に隠された、旧時代の凶器を探る気配。
 藤田は、その動きを冷徹に、そして静かに見据えていた。
 論理による精算は終わった。
 ここからは、言葉では割り切れない「剰余」を、力によって裁く刻(とき)だった。

   *

「あああああっ!」
 佐伯信次郎の絶叫が、蓮華寺の静寂を暴力的に引き裂いた。
 フロックコートの内側、文明の衣の下から引き抜かれたのは、皮肉にも彼の実家が守り抜いてきたであろう古びた短刀だった。 研ぎ澄まされた業物の刃が、月光を浴びて冷酷な銀色の軌跡を描く。
「私は間違っていない! 私は文明を守ったんだ!」
 狂気と恐怖を燃料にして、佐伯は突進してきた。 それは武芸者の洗練された動きではない。 己の犯した罪から逃れようとする、盲目的な衝動。 だが、死に物狂いの勢いだけはあった。
 藤田は、左足を微かに引いた。
 脳内では、最短の軌道が青白く発光している。
 佐伯が振り下ろした刃は、藤田の外套の袖をわずかにかすめたが、その肉体には一分(いちぶ)の痛みも届かない。 藤田の身体は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、滑らかに、かつ冷徹に回避を完了していた。
 藤田の右手が、腰のサーベルの柄に触れた。
 その瞬間、場の空気が物理的な重圧を伴って凍りついた。
 制度という名の分厚い漆喰が剥がれ落ち、その向こう側に潜んでいた「人斬り」の殺気が、深淵の底から溢れ出した。
 藤田の身体が、沈み込むように加速する。
 サーベルが鞘の中で鳴る「カチャッ」という一音。 それは佐伯にとって、現世で聞く最後の死の宣告に等しかった。

「牙突」

 空気が爆ぜた。
 藤田の突きは、佐伯の網膜が捉える速度を遥かに超越していた。
 鞘から放たれたサーベルは一条の閃光となり、夜霧を切り裂いて佐伯の喉元へと肉薄する。
 ガッ、という鋭い風切り音。
 だが、鉄の切っ先が肉を裂く音はしなかった。
 サーベルの先端は、佐伯の喉仏に触れるか触れないかの位置で、寸分の狂いもなく制止していた。 藤田の踏み込みが巻き起こした烈風だけで、背後の障子が派手な音を立てて破れ、冷たい夜風が室内に雪崩れ込んだ。
 佐伯は、目を見開いたまま石のように固まっていた。 喉元に突きつけられた冷徹な鉄の重圧に、声さえ出せない。
「……な、ぜ、突かない」
 佐伯が震える唇で、ようやくそれだけを絞り出した。
「北村さんは、貴様に算術を教えた」
 藤田の声には、もはや怒りさえもなかった。 ただ、事実を宣告する無機質な響き。
「……私は貴様に、この世にはどれだけ言葉を尽くしても、どれだけ数字を弄んでも、決して割り切れない『報い』があることを教えてやる」
 その瞬間、絶望に突き動かされた佐伯が、床に落ちた短刀を再び掴もうと手を伸ばした。
「愚か者が」
 藤田は、引き戻したサーベルの柄で、佐伯の手首を正確に叩き潰した。
 骨の砕ける嫌な音が響き、佐伯は悲鳴を上げながら床を転げ回った。
「高木。入れ」
 藤田の低い呼びかけに応じて、離れの影から数名の巡査たちが飛び出してきた。
 高木巡査は、血の気の引いた顔で、悶絶する佐伯と、静かに立つ藤田を見比べた。
「藤田さん……今のは、正当防衛を越えています」
「そうだな。だが、こいつが捨てた端数の重さを、少しは分からせてやる必要がある」
 巡査たちに引きずられていく間も、佐伯は「私は間違っていない……文明を……」と、壊れた機械のように呟き続けていた。 その姿は、自らが信じた巨大な算盤の数字に押し潰された、哀れな残骸だった。
 藤田は一人、離れに残った。
 月光が、主を失った文机を静かに照らしている。
 北村勘兵衛は、この教え子を救いたかったのか、それとも、この男の裏切りを予見して、自分を餌に真実を釣り上げたのか。
 どちらにせよ、もう「答え」を出す者はいない。
 藤田は、血を一滴も浴びていないサーベルを、静かに鞘へ戻した。

第四部:割り切れぬ帳尻

 数日後の警視庁。
 警部補・藤田五郎の机の上には、一通の重厚な封筒が置かれていた。
 差出人の名はどこにもない。 だが、その上質な和紙の肌触りと、光に透かさねば見えぬ官印の隠し模様が、送り主の居場所を雄弁に物語っていた。 それは赤坂の邸宅か、あるいは霞ヶ関の奥座敷か。 この国の脊髄を司る者たちからの「通告」であった。
 藤田はペーパーナイフで封を切り、中身に目を通した。
 そこには、佐伯信次郎の処遇に関する決定事項が、事務的な、あまりにも無機質な文体で記されていた。
「……精神錯乱による、独断か」
 藤田は、低く自嘲の言葉を漏らした。
 佐伯が犯した殺人は、一人の官吏が過剰な激務の末に陥った精神の失調として処理される。 彼が守ろうとし、北村が命を懸けて暴こうとした「五万石の行方」については、一行も、一文字も触れられていない。
 窓の外では、大蔵省も工部省も、何事もなかったかのように新しい時代の歯車を回し続けている。 次なる予算案が練られ、鉄道の線路はさらに延伸され、製糸場の煙突からは絶え間なく黒煙が吐き出される。 文明という巨大な伽藍を維持するために、一人の老人の死と、一人の才子の墜落は、単なる「摩擦熱」として看過されたのだ。
「藤田さん、お疲れ様です」
 高木巡査が、新しい事件簿を小脇に抱えて入ってきた。 数日前のあの夜、蓮華寺で見せた戦慄はすでに影を潜めている。 若い彼は、この明治という時代が持つ「忘却」の速度に、無意識のうちに適応しつつあった。
「佐伯の件、結局はあんな形で終わるんですね。 北村先生の算術も、証拠品として受理されたはずなのに、資料室の奥へ押し込まれたままだとか。 ……せっかくの真実も、これじゃあ意味がない」
「高木。数字というものは、正しいだけでは生き残れない」
 藤田は、机の上の書類を整理しながら言った。
「力のある者が、それを『正しい』と定義したとき、初めて価値を持つ。 北村さんは、それを知りすぎた。 佐伯は、それを信じすぎた。 ……そして俺たちは、その矛盾の隙間を埋めるための、ただの番人に過ぎん」
「……厳しいですね、それは」
 高木は困ったような苦笑いを浮かべ、自分の席へと戻っていった。
 藤田は一人、煙草「敷島」に火をつけた。
 立ち上る紫煙の向こう側に、かつての戦友たちの顔が、幻影のように浮かんでは消える。
 京都の路地裏で血を流した若者たち。 会津の雪の中で、誇りとともに力尽きた者。 函館の海に沈んだ、かつての副長。
 彼らが命を懸けて戦い、夢見た「新しい世」とは、果たしてこのようなものだったのか。 冷徹な算盤の音だけで、すべての誠実が塗り潰される世界だったのか。
 藤田は、自身の右手の掌を見つめた。
 そこには今もなお、牙突を放った際の衝撃が、痺れるような感覚として微かに残っている。
 あの日、喉元に突きつけたサーベル。 あれは警官としての藤田五郎ではなく、間違いなく「斎藤一」としての牙だった。 法を守るためではなく、数字では決して割り切ることのできない「怨嗟」を一点に収束させるための。
「斎藤……」
 古い名が脳裏を掠める。
 藤田五郎という名は、明治という理に適合するために選んだ、重厚な「鞘」に過ぎない。
 だが、その鞘の奥底には、今もなお研ぎ澄まされた刃が眠っている。 いつかまた、この国がその傲慢さゆえに、あまりに多くの「端数」を切り捨てようとしたとき、その牙は再び闇を裂くことになるだろう。
 藤田は深々と煙を吐き出し、窓の外の灰色の空を、ただじっと見つめ続けた。

   *

 夕暮れ時、藤田五郎は警視庁の重い扉を後にした。
 街には文明開化の喧騒が満ち溢れている。 石畳を叩く蹄の音、新設されたガス灯に火を灯して回る点灯夫、どこかの店から漏れ聞こえる蓄音機の震える歌声。 人々は皆、昨日よりも豊かな明日を信じ、足早に家路を急いでいる。 だが、その華やかな騒めきさえも、藤田の耳には空ろな反響としてしか届かなかった。
 ふと思い立ったように、彼は本郷へ足を向けた。
 蓮華寺の境内に辿り着くと、北村勘兵衛が住んでいたあの離れは、すでに取り壊しが始まっていた。 主を失った建物は、時代の皮を剥がされるように無惨な姿を晒し、冬の乾いた風が埃を舞い上げている。
 瓦礫の傍らで、近所の子供たちが数人、北村の遺品と思わしき品々を珍しそうに眺めていた。 その中に一人、北村が使っていた古びた算盤を手にした少年がいた。
 藤田は足を止め、少年の手元をじっと見つめた。
「坊主。……その算盤で、何を測る」
 少年は驚いたように顔を上げ、黒い外套を纏った背の高い男を見上げた。 その瞳に恐怖はなく、ただ純粋な好奇心が宿っている。
「おじさん、これは測るものじゃないよ。 合わせるものだよ。 お父ちゃんが言ってた。 商売も国も、最後は帳尻が合わなきゃいけないんだって」
「帳尻、か」
 藤田の口元に、自嘲にも似た、だがどこか温かい微笑が微かに浮かんだ。
「そうか。 ……なら、いつかお前が大きくなったとき、どうしても帳尻の合わない『一』が残ったら、どうする。 どれだけ計算を尽くしても、どこにも収まらない端数が出てしまったら」
 少年は算盤の珠をパチンと弾き、首を傾げた。
「……分からないや。 そんなときは、誰かが代わりに持っててくれるんじゃない? 僕じゃ持てないくらい重かったら、誰か強い人がさ」
「そうだな。……誰かが、持っていなければならん」
 藤田は少年の頭を軽く撫でると、それ以上は何も言わず、再び歩き出した。
 背後で子供たちの無邪気な笑い声が遠ざかっていく。
 寺を去り、雑踏の中へと消えていく藤田の腰では、官給品のサーベルが歩調に合わせて小さく鳴っていた。 それは、決して割り切れることのない「過去」という名の剰余、あるいは「誠実」という名の端数を、独り背負い続ける男の孤高な足音だった。
 夜が訪れる。
 東京の街を照らすガス灯が、一つ、また一つと灯っていく。
 その光の数だけ、足元に広がる闇が深まっていくことを知る者は、今のこの街にはあまりに少ない。 藤田五郎は、今日も冷徹な刑事として、虚構と真実が交差する境界を歩き続ける。
 北村が残したあの数式に、結局、答えは書き込まれなかった。
 だが、藤田が踏みしめる石畳の下には、確かに、あの老人が命を懸けて算出した「真実」が、静かに、そして消えることなく息づいていた。
 明治十五年、冬。
 煉獄の火は、まだ消えてはいない。
 ただ、その火を隠すための漆喰が、より厚く、より白く、塗り固められただけのことだった。
   
【了】

あとがき

明治警視庁警部補・藤田五郎シリーズです。
るろうに剣心の斎藤一が好きすぎて、
二次創作みたいなノリで書いてます。

『牙突』の是非は問われるのか震えながら書きました。

歴史・時代ものも好きなので
藤田五郎ともどもよろしくお願い致します。

https://i.imgur.com/MG5AINO.jpeg

 0

trending_up 14

 0

 0

霜月神楽の面は嗤う【出題篇】

第1章「山峡への道」

 山が、道を呑み込もうとしていた。
 中央自動車道を降りてから、風景の色は一段と濃い灰色に染まっている。十二月初旬の山梨、その最奥へ向かう道は、執拗に蛇行を繰り返しながら標高を上げていく。冬枯れの木々が剥き出しの肋骨のように空を突き、厚く垂れ込めた曇天がそれを見下ろしていた。
 時折、視界の端を掠める集落は、どれも斜面にへばりつくようにして静まり返っている。
「……ねえ、起きてる? 先輩」
 ハンドルを握る聖来が、弾むような声で隣をちらりと見た。
 奈々未は答えず、ただ助手席の窓の外を見つめている。車内の暖房は効きすぎていた。その生温い空気と、窓の向こうで凍てつく冬山の鋭利な質感。その境界にあるガラス一枚の危うさに、奈々未は意識を集中させていた。
「もうすぐですよ、遠山郷。本当にここ、地図から消えかけてるんじゃないかってくらい奥地ですよね」
 聖来の茶色がかったロングヘアが、運転の振動で楽しげに揺れる。彼女の持つ太陽のような明るさは、この圧迫感のある風景のなかで、どこか非現実的なほど鮮やかだった。

「今回はね、霜月祭り。知ってます?」
 前方の急カーブを慎重に曲がりながら、聖来が取材の概要を語り始めた。ダッシュボードに置かれた彼女の最新のiPhoneが、時折通知で小さく震える。
「……神楽」
 奈々未が短く応じる。低いがクリアな、芯の通った声。
「そう! 夜通しで面をつけて舞うんです。一晩中ですよ? 湯立て神事っていうのがあって、大きな釜でお湯を沸かしてね――」
「熱湯を素手で撒く」
 奈々未が言葉を遮るように先を越した。聖来は一瞬、ハンドルを握ったまま、深いエクボを見せて可笑しそうに笑った。
「……なんで知ってるんですか。資料、まだ渡してなかったのに。さては予習しましたね?」
「本で読んだ。脚本を書く上で、民俗学的な意匠は構造のヒントになる」
 奈々未の声には起伏がない。
「……相変わらず、可愛げのない勉強家。まあいいですけど。今回のターゲットは、その祭りを代々守ってる遠山家。そこの屋敷に泊まらせてもらえることになったから。|記録者《カメラマン》としては最高のポジションでしょ?」
 聖来は満足げに鼻を鳴らした。彼女にとって、この取材は「心が動く瞬間」を切り取るためのステージだ。しかし、奈々未の瞳に映っているのは、物語になる前の、もっと不純で、もっと重たい「現象」そのものだった。

 奈々未は、白く曇り始めた窓ガラスに指先を触れた。
 冷たい。
 二月、下北沢の小劇場で出会ったあの夜から、聖来はこうして奈々未の「孤独」という名の|境界線《ガラス》を、悪びれもせずノックしてくる。
 流れていく景色――枯れたシダの群生、苔むした石垣。そのどこかに、かつて顔も知らぬ父が残した「影」が潜んでいるのではないかと、奈々未の演算回路が勝手に作動を始める。
(……今)
 視界の端を、何かが横切った気がした。それは人影のようでもあり、あるいはただの光の悪戯のようでもあった。
 胸の奥で、小さなざわつきが生まれる。それはまだ「嫌な予感」と呼ぶには形が定まらず、もちろん言葉にもならない。
 ――言葉にならない。まだ。
 奈々未は指を離し、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏側に、先ほど見た冬枯れの山の残像が、赤黒いノイズとなって焼き付いていた。

   *

 標高が上がるにつれ、路肩に溜まった雪の白さが目立ち始めた。
 車が最後のトンネルを抜けた瞬間、視界が開ける。そこが「遠山郷」だった。
 すり鉢状の地形の底に、古い民家が数十軒。まるで外界の時間を拒絶するように、灰色の空気の中に沈殿している。聖来がブレーキを踏み、車がゆっくりと停止した。
「……着いた」
 聖来が呟くと同時に、最新のiPhoneが到着を告げる短い音を鳴らした。デジタルな電子音が、この止まった時間の中では酷く場違いに響く。
 車外へ出た瞬間、氷のような冷気が肺を直接撫でた。奈々未はグレーのカーディガンの襟元を合わせ、周囲を「観察」する。石垣は黒ずみ、家々の軒先には「霜月祭」と書かれた古びた提灯が吊るされている。だが、どこにも人の姿がない。ただ、神楽殿の方から微かに聞こえる、薪を割るような乾いた音だけが、集落が死んでいないことを証明していた。
 二人の前に、巨大な長屋門が立ち塞がった。遠山家の屋敷だ。その門の陰から、音もなく一人の女性が姿を現した。
「――お待ちしておりました。白鳥さんと、式守さん、ですね」
 遠山みつ。腰こそ僅かに曲がっているが、その佇まいには凛とした、あるいは冷徹なまでの威厳があった。
「あ、はい! 本日からお世話になります、白鳥聖来です。大学で写真の勉強をしてまして、今回は撮影の許可をいただきありがとうございます!」
 聖来が深いエクボを浮かべて挨拶する。みつはそれを穏やかな笑みで受け止めたが、その視線が奈々未に移った瞬間、温度が数度下がった。
「……よく観る目をしていらっしゃる。式守さんは、此度の祭りで何をお探しかな?」
 みつの言葉は、歓迎というよりは「鑑定」に近かった。奈々未は伏せがちだった目を上げ、老婆の瞳を見つめ返す。
「私も大学生です。脚本を書いています。この地の物語を、正しく知りたいだけです」
「物語、ですか」
 みつは口元だけで笑った。
「それは重畳。ですがお気をつけて。霜月の神様は、覗き見られるのを何より嫌います。観る、ということは、観られるということでもあるのですよ」
 聖来が首を傾げたが、奈々未の背中には冷たい汗が伝った。みつが奈々未の中に眠る「観察者」としての本質を見透かしたような気がしたからだ。

   *

 案内された屋敷の内部は、迷宮のようだった。
 長い廊下は日光を拒み、電球の弱い光が古い木肌を鈍く照らしている。歩くたびに「ギィ、ギィ」と床が鳴り、まるで巨大な生き物の胎内を歩いているような錯覚を覚える。廊下の壁には、所狭しと額縁が並んでいた。白黒の集合写真、歴代の当主、祭りの風景。その中の一枚の前で、奈々未の足が止まった。
 それは、三十年ほど前のものだろうか。品のある顔立ちをした三十代前半の女性と、その傍らで直立不動の姿勢を取る、七、八歳ほどの幼い男の子が写っていた。女性は穏やかに微笑んでいるが、その目の奥には、この場所の寒気に似た深い影が沈んでいる。
 対照的に、男の子の目は強烈だった。
 カメラを、あるいは世界を、ひどく冷めた、しかし何かを激しく訴えかけるような視線で射抜いている。
(……この子の目)
 奈々未は、その視線の鋭さに呼吸を忘れた。それは子供特有の無垢さではなく、早すぎる諦念を煮詰めたような輝きだった。
「先輩? どうしたんですか、置いてっちゃいますよ」
 数歩先を行く聖来の声で、奈々未は現実に引き戻された。
「……なんでもない。今行く」
 奈々未は視線を外し、再び歩き出した。聖来はカメラの機材を気にするのに忙しく、奈々未の僅かな動揺には気づいていない。
 案内された離れは、本館から渡り廊下で繋がった静かな部屋だった。障子を開けると、外はすでに薄藍色の闇に包まれている。谷底にある神楽殿の屋根が、篝火の準備を始める村人たちの影によって、巨大な怪物のように揺らめいていた。
「今夜、暗くなる頃から神楽が始まります。食事の用意ができるまで、こちらでお休みください」
 みつが静かに去っていく。襖が閉まる音。
「……ねえ、先輩。やっぱりここ、空気が重いですね」
 聖来が一眼レフを首から下げ、窓の外を覗く。
「|記録者《カメラマン》としては、最高にゾクゾクするロケーションですけど」
「……そう。油断しないで、聖来」
 奈々未は窓際に立ち、遠くの神楽殿を見つめた。
 篝火の準備が始まっている。炎はまだ小さく、闇の中で頼りなく揺れていた。
 まだ、何も起きていない。
 奈々未は障子を閉めた。

第2章「遠山家の食卓」

 離れの静寂を破ったのは、低く、しかしよく通る板敷きを叩く音だった。
「式守さん、白鳥さん。夕餉の支度が整いました」
 みつの声に、聖来が「はーい!」と元気よく応える。奈々未は重い腰を上げ、黒のタートルネックの襟を正した。
 本館へと続く渡り廊下は、外気と変わらないほどに冷え切っていた。吐き出す息が白く濁り、足裏から木の冷たさが骨まで伝わってくる。だが、本館の分厚い扉を開けた瞬間、爆ぜる火の音と、むせ返るような木の香りが二人を包み込んだ。
 大広間の中央では、大きな囲炉裏に赤々と火が熾っている。
 奈々未は入室した瞬間に、呼吸を止めるようにして「観察」した。
 上座に、|巌《いわお》のような威圧感を放つ当主・荘厳。その左右には、対照的な空気を纏う二人の男が座している。右側に、あの写真の少年の面影を残す長男・静馬。左側に、しなやかな体躯を持つ次男・火月。
 静馬の隣には、どこか落ち着きなく指先を動かしている妻の薪子。
 そして末席には、まだあどけなさを残す娘の灯が、借りてきた猫のように丸まっている。
 奈々未の脳内で、瞬時にグリッドが敷かれ、人物相関の構造図が描かれていく。
(……全員の視線が、中心に集まっていない)
 家族が食卓を囲んでいるというのに、それぞれの意識はバラバラな方向を向き、危うい均衡の上に成り立っている。奈々未はそれを、脚本のト書きを書き込むように静かに処理した。

   *

「……よう来なさった。遠山の霜月祭りは、七百年続いておる」
 荘厳が重々しく口を開いた。その声は囲炉裏の煤に焼かれたようにしゃがれていたが、広間の空気を支配するだけの力があった。
「記録を残してくれ。好きに見て、好きに撮りなさい」
「ありがとうございます! 精一杯、いい瞬間を残します」
 聖来が一眼レフを抱えるようにして頭を下げる。彼女の明るさが、この沈殿した空気の中にくさびを打ち込む。
「ただし――」
 荘厳の眼光が鋭さを増した。
「神事の邪魔だけは、せんでくれ。此度は火月に全ての舞を任せてある。跡継ぎとしての、大事な初舞台なのだ」
 荘厳が火月に向けて、満足げに深く頷いた。火月は「精進します」と短く答え、姿勢を正す。その所作には、選ばれた者だけが持つ自信と、研ぎ澄まされた刃のような鋭利さがあった。
 一方で、長男である静馬は、そのやり取りを他人事のように眺めている。否、眺めているのではない。彼はただ、目の前の箸置きを、右手の親指で何度も、何度もなぞっていた。
(……長男が、外されている)
 奈々未の視線は、静馬の手元に釘付けになった。彼の親指の動きは執拗で、何かを確かめるような、あるいは何かに耐えるような、異様な規則性を持っていた。
 荘厳の視線は火月に、火月の視線は囲炉裏の炎に、薪子の視線は落ち着きなく彷徨い、そして静馬の視線は、ただ手元の暗がりに。
 ――この家族の「構造」には、大きな欠落がある。
 奈々未は心拍が少しずつ速くなるのを感じながら、用意された席へと静かに座った。

   *

 食事が始まると、広間には食器の触れ合う音と、囲炉裏で爆ぜる薪の音だけが響いた。奈々未は箸を動かしながら、意識の解像度を一段階上げる。
 まずは静馬だ。彼は右手で箸を持ち、機械的な動作で口に運んでいる。その右手首には、古びた、しかし手入れの行き届いた女性用の腕時計が巻かれていた。華奢な金色のフレーム。亡き母・雅江の形見だろうか。静馬は数分おきに、慈しむような、あるいは強迫観念に駆られたような手つきで、その文字盤を指の腹でなぞる。
 その隣の火月は、静馬とは対照的に左手で箸を操っていた。所座の一つ一つに無駄がなく、指先のしなやかさは、彼がこの家で唯一「舞うための身体」を維持していることを示している。
「今年の|天伯《てんぱく》は、去年より激しく舞う。見ててくれ」
 火月が不意に口を開く。祭りの話題になった途端、彼の瞳に熱が宿った。
「うむ。火月の舞は神が喜ぶ」
 荘厳が短く応じると、広間に緊張が走った。
「……静馬さんも、昔は舞われていたんですよね」
 薪子が、沈黙に耐えかねたように夫へ水を向けた。だが、静馬は視線を上げることなく、
「……昔の話だ」
 と、冷たく切り捨てる。
「また『昔の話』……」
 末席の灯が、膝の上で隠していたスマートフォンの画面を消し、吐き捨てるように呟いた。
「灯、食事中ですよ」
 みつの静かな、しかし有無を言わせぬ制止が入る。みつは全員を等しく見渡していたが、時折静馬に向けるその瞳には、奈々未と同じ「観察者」特有の、底の見えない影が沈んでいた。

「式守さん、だったか。脚本を書くんだって?」
 食事が終わりに近づいた頃、火月が奈々未に視線を投げた。
「……ええ」
「今夜の俺の舞、よく見てろ。天伯は荒ぶる神だ」
 火月は立ち上がり、舞の型をなぞるように重心を低く落とした。
「足を深く踏み込んで、左に回る。それが遠山の天伯だ」
「左に回るって、決まってるんですか?」
 隣でメモを取っていた聖来が、好奇心に瞳を輝かせて訊ねる。
「ああ。右回りの流派もあるが、うちは左だ。七百年、一分一秒の狂いもなく変わらない」
 火月の言葉には、伝統を一身に背負う者の傲慢に近い自負があった。
(深い踏み込み。左回り……)
 奈々未はその言葉を、脳内の「構造図」の空白に、重要なピースとして書き込んだ。七百年の反復。その円環の中に、静馬が入れない理由があるのか。

   *

 荘厳と火月が準備のために席を立つと、広間の空気は一気に弛緩し、同時に別の淀みが生まれた。静馬は最後まで席に残り、狂おしいほどに腕時計を見つめ続けている。
 奈々未が部屋を出ようとした時、背後から衣擦れの音が近づいた。
「式守さん……少しだけ」
 薪子だった。彼女の顔は囲炉裏の火に照らされているはずなのに、酷く青ざめて見える。
「静馬が、三ヶ月前からおかしいんです。蔵に籠って、何かを読んでいて……」
「蔵で、何を?」
「何を見つけたのか教えてくれない。でも、目が、あの人の目が変わったんです」
 薪子は奈々未の袖を強く掴んだ。
「……それを私に話す理由は」
「観る人には、分かるかと思って。……お願いします、見ていてください」
 薪子が去り、一人残された奈々未は窓の外を仰いだ。
 神楽殿にはすでに巨大な篝火が灯り、闇を暴力的に切り裂いている。
「先輩、そろそろ始まりますよ!」
 機材を抱えた聖来が、弾む足取りで戻ってくる。
 奈々未は障子越しに、狂おしく揺らめく炎を見つめた。
 火月の言葉が、耳の奥で、呪文のように反響している。
 ――深い踏み込み。左回り。
 観察は、まだ始まったばかりだ。そしてそれは、後戻りできない場所への入り口でもある。

第3章「神楽、始まる」 

 離れの障子を開けると、夜の遠山郷は数時間前とは一変していた。
 月明かりをかき消すほどの篝火が、集落の至る所で爆ぜている。朱色に染まった闇の中、どこからともなく低い太鼓の音が響き始めた。
「……始まったんですね」
 聖来が、防寒着の上から一眼レフを抱え込むようにして呟いた。吐き出す息は白く、だが彼女の頬は興奮で赤みを帯びている。
 神楽殿へと続く細い坂道には、どこに隠れていたのか、影のような人々が続々と集まっていた。厚手のコートに身を包んだ老人たち、手に提灯を持った男たち。皆、一様に口を噤み、ただ黙々と、巨大な火が揺れる方へと歩みを進めている。
 奈々未は、その行列の最後尾に並びながら、思考を「観察モード」へと切り替えた。
 顔に当たる冷気は氷のようだが、神楽殿に近づくにつれ、立ち上る火の粉と熱気が肌を刺すようになる。
 ――この場所は、舞台だ。
 奈々未は神楽殿の屋根を見上げた。古びた木造建築が、火光に照らされて蠢く生き物のように見えた。これから始まるのは単なる伝統行事ではない。この閉鎖された空間で、七百年の怨念や祈りを構造化し、再生産するための装置。
 その構造に、静馬という「異物」がどう関わるのか。奈々未は演算の準備を整えた。

   *

 神楽殿の内部は、むせ返るような熱気と湯気に満ちていた。
 板張りの舞台の四隅には太い竹が組まれ、|注連縄《しめなわ》までが張り巡らされている。その中央、聖域の真ん中に据えられているのは、直径一メートルを超える巨大な鉄釜だった。
 釜の下では薪が猛烈な勢いで燃え、煮え繰り返るお湯がゴボゴボと低い音を立てている。その湯気は天井を這い、観客席を白く煙らせていた。
「すごい熱気……。あ、先輩、あっちにカメラマンが他にもいますよ」
 聖来が指差す先には、数人の取材者らしき男たちがいた。その中に一人、他の者とは明らかに違う空気を纏う老人が座っている。
 田嶋伍郎。遠山家と代々対立してきた旧家の当主だ。彼は腕を組み、火光に照らされた険しい顔で舞台を睨みつけていた。荘厳の放つ「巌」のような重圧とは違う、毒を孕んだ蛇のような鋭い視線。
 奈々未はその視線の先に、舞台の袖に控える遠山家の面々を捉えた。
 家族の視線が交差する。期待、羨望、蔑み、そして――。
 大釜から上がる蒸気が、それら全ての感情を白く塗り潰そうとしていた。

   *

 舞台の脇にある控室の入り口には、古びた桐の棚が置かれていた。そこには、今夜の神事に使われる「面」が恭しく並べられている。
「……面をつけた者には、神が降りる。だから顔を見てはならない。この山ではそう教えられます」
 背後から現れたみつが、抑揚のない声で言った。
 棚の中央には、二つの異様な面があった。
 一つは、憤怒の表情を極彩色で彩った「天伯」。火の神、荒ぶる力の象徴。
 もう一つは、それとは対極的に、蒼白な肌と静かな悲しみを湛えた「水伯」。
「天伯は火月、水伯は本来静馬ですが……今年は舞いません」
 みつの言葉に、聖来が反射的に問いかける。
「静馬さんは、どうして? 順番じゃないんですか?」
「……本人が、望まなかったのです。お湯を撒く勇気がないと、そう申しておりました」
 みつの瞳が、一瞬だけ棚の奥の暗がりに向けられた。
「水伯は、天伯の荒ぶりを鎮めるための面。それが欠ける今年は、少し……荒れるかもしれませんね」
 奈々未は「水伯」の面を凝視した。その虚ろな眼窩が、廊下の写真に写っていた少年の瞳と重なる。
 本人が望まなかった。それは果たして「臆病」ゆえか、それとも――。
 奈々未の耳の奥で、薪の爆ぜる音が一段と大きく響いた。

   *

 太鼓の音が一段と高く打ち鳴らされ、神楽殿の空気が爆ぜた。
 舞台の袖から、赤い装束を纏った「天伯」が姿を現す。極彩色の面に篝火が反射し、火月という人間は消え、そこには荒ぶる神だけが立っていた。
 舞が始まった。
 奈々未の目は、その一挙手一投足をスキャンのように追い続ける。
 火月の舞は、暴力的なまでの質量を持っていた。板張りの床を踏み抜くような、重く深い踏み込み。そのたびに神楽殿全体が小刻みに震え、大釜から上がる湯気が乱れる。
(……左。常に、左だ)
 火月は円を描く。時計の針と逆行する、澱みのない左回り。それは遠山家が七百年守り続けてきたとされる、絶対の規律。
 ふと、舞の合間に火月が動きを止めた。面を僅かに浮かせ、大きく肩で息をする。面の下から顎へと伝う汗が、火光に反射して一筋の銀線を描いた。
(面を浮かせて呼吸する。それが、彼の癖)
 奈々未はその仕草を「火月の署名」として記憶の奥底に刻印した。
 隣では、聖来が何かに憑かれたようにシャッターを切り続けている。
「すごい……本当に神様が降りてるみたい」
 ファインダーを覗く聖来の横顔は、記録者としての恍惚に染まっていた。
「……時間」
 奈々未が短く告げた。
「え?」
「写真のタイムスタンプ、後で正確に確認できるようにしておいて」
「? まあ、設定してますから自動で入りますけど……。先輩、今の、何か変でした?」
「いいえ。ただ、正確な記録が必要になる気がしただけ」
 奈々未は答えながら、舞台上で激しく回転する「天伯」を見つめた。神を演じる身体。その運動エネルギーの背後に、奈々未は冷徹なまでの数式を感じ取っていた。

 太鼓の音が止み、一時の静寂が神楽殿を支配した。
 前半の舞が終了したのだ。時刻は二十二時を回ったところだった。
 激しい運動を終えた火月は、面をつけたまま、荒い息を吐きながら舞台袖へと下がっていく。観客席からは溜息のようなざわめきが漏れ、人々は冷えた身体を温めるように動き始めた。
 舞台中央の大釜では、依然として湯が煮え繰り返っている。主を待つ獣のように、白く濃い湯気が天井へと立ち上り続けていた。
 奈々未の視界の端で、一人の男が動いた。
 静馬だ。彼は片手に|徳利《とっくり》を提げ、舞台袖へと向かっていく。
「清めの酒だ。舞い手の疲れを癒すためのな」
 近くにいた年配の氏子が、自慢げに教えてくれた。
 静馬の背中は丸く、どこか自信なげに見える。だが、その足取りは迷いなく、湯気の向こうに立つ「天伯」の元へと吸い込まれていった。
 奈々未は手首の時計に目を落とした。
 秒針が静かに刻まれる。二十二時三分。
 神楽殿の熱気の中で、その数字だけが、奈々未の脳内で冷たく発光していた。
「先輩、一時間の休憩だって。私、外の冷たい空気吸ってきますね。機材のチェックもしたいし」
 聖来が伸びをしながら立ち上がる。
「……ええ。行ってきて」
 奈々未は動かなかった。視線は、静馬と火月が消えていった舞台袖の暗がりに固定されている。
 観察者の目は、まだその光景が意味する真相を捉えきれていない。
 だが、脚本家としての直感が、物語の構造が歪み始めたことを告げていた。
 ――二十二時三分。
 この刻印を、奈々未は後に、血を吐くような思いで反芻することになる。

第4章「天伯、倒れる」

 二十三時。
 静寂を裂くように、再び太鼓の音が神楽殿に鳴り響いた。休憩の間、舞台袖の奥へと消えていた「天伯」が、再び篝火の光の中にその姿を現した。
「先輩、お待たせしました!」
 冷気を纏って戻ってきた聖来が、小声で奈々未に囁く。彼女の頬は寒さで赤らんでいたが、その瞳には収穫を得た者の満足感が宿っていた。
「いいの撮れた? 聖来」
「はい。休憩中、神楽殿の裏を歩いてる天伯さんを見つけたんです。二十二時十五分、準備中の貴重なオフショットですよ」
 聖来が自慢げに最新のiPhoneの画面をスワイプして見せる。そこには、赤装束を揺らし、神楽殿の裏手を一人歩く「天伯」の後ろ姿が映し出されていた。
 再び始まった舞は、前半以上の熱気に包まれていた。観客たちは神の降臨を確信し、太鼓の拍子に合わせて身体を揺らしている。
 奈々未は聖来から視線を外し、舞台中央へ進み出た「天伯」を凝視した。

(……?)
 奈々未は眉を顰めた。
 舞台上の「天伯」は、間違いなく火月がつけていたはずの極彩色の面を被り、同じ赤い装束を纏っている。太鼓のリズムに合わせ、円を描くように舞っている。
 だが、何かが、劇的に違う。
 奈々未の脳内に記録された「前半の舞」のデータが、目の前の光景にエラーを出し始めていた。
 踏み込みが、浅い。
 前半、床板を叩き抜くような重厚な振動を放っていたあの足音が、今はどこか軽く、上滑りしているように聞こえる。
 回転の方向は――左。確かに左回りを繰り返しているが、その軸の取り方に、先ほどまでの研ぎ澄まされた刃のような鋭利さがない。
 そして何より、あの癖がない。
 激しい舞の合間、火月が何度も見せていた、面を僅かに浮かせて呼吸を整える仕草。それが一度も現れないのだ。
(……何かが、違う)
 言葉にならない。まだ。
 構造は同じはずなのに、そこを満たしている「重み」が別物にすり替わっているような、不気味な感覚。奈々未は心拍が早まるのを抑え、その「違和感」を必死に演算しようと試みた。だが、答えが出る前に、神事は最終局面へと突入した。

   *

「――おおお、お!」
 氏子たちの野太い掛け声が上がり、太鼓が激しさを増す。
 神楽殿の中央。最高潮に煮えたぎる大釜が、猛烈な蒸気を噴き上げている。湯気はカーテンのように舞台を覆い、その奥で「天伯」がゆっくりと釜の縁に歩み寄った。
 湯立て神事。素手で熱湯を撒き、その飛沫を浴びることで穢れを祓う。
 観客は息を呑み、死のような静寂が広がった。
 奈々未の胸の奥が、万力で締め付けられるように痛む。理由は分からない。ただ、あの面の下の瞳と視線が合ったような気がして、激しい眩暈に襲われた。
 煮えくり返るお湯の音が、耳元で咆哮のように響く。
「カシャ」
 隣で聖来が、祈るようにシャッターを切った。

 その瞬間、世界から音が消えた。
 大釜の前に立った「天伯」が、お湯に手を差し入れようとした、その時だ。
 一瞬、身体が奇妙な方向に揺らいだ。
 重心を崩したのか、あるいは何かに躓いたのか。天伯の身体は、耐える間もなく前のめりに、吸い込まれるようにして大釜へと突っ込んだ。
 凄まじい水飛沫が上がった。
 煮えたぎる湯の中に、面をつけたまま、上半身から没していく。
「あ――」
 聖来が悲鳴を上げる間もなく、神楽殿は地獄のような混乱に包まれた。
「熱い! 下がれ!」
「引き上げろ! 早く!」
 蒸気と熱湯が飛び散り、観客はパニックに陥って後退する。氏子たちが我先にと大釜へ駆け寄る。
 奈々未は、ただ一点を凝視していた。
 水面に浮かび、熱湯に煽られて歪む「天伯」の極彩色の面。
 奈々未の手は、無意識にスマートフォンを掴んでいた。
 午前一時二分。
 デジタルの数字だけが、奈々未の瞳に冷たく焼き付いていた。

 神楽殿は、怒号と悲鳴が渦巻く坩堝と化した。
「火月! 火月!」
 荘厳が狂ったような声を上げ、煮え湯に手を突っ込まんばかりの勢いで駆け寄る。数人の男たちが天伯の身体を強引に引きずり出した。
 床に転がされた赤い装束。誰かが、その極彩色の面を剥ぎ取った。
 湯気の中から現れた顔は、真っ赤に焼けただれ、一見して判別が難しい状態だった。だが、その顔を見た瞬間、荘厳は絶叫した。
「あああ……火月! しっかりしろ、火月!」
 奈々未は、その光景を十メートル離れた場所から見つめていた。
 観察者の目は、爛れた皮膚も、周囲の狂乱も、全てを精緻に記録している。
 だが、奈々未の脳内の演算回路は、たった一つの、致命的な矛盾を吐き出し続けていた。
 ――違う。
 火月じゃない。
 奈々未は障子越しに差し込む冷たい外気を感じながら、震える手で自分の思考を、鋼の構造体へと繋ぎ止めた。

第5章「面の下」

 神楽殿の板敷きに横たえられたその身体を、周囲の人々は「火月」として扱った。
 大釜から引き揚げられた遺体は、真っ赤に爛れた皮膚が痛ましく、顔の造作はもはや判別できない。だが、剥ぎ取られた極彩色の「天伯」の面、そして身に纏った赤い装束、体格、髪の質――そのすべてが、遠山火月であることを雄弁に物語っていた。
「火月……火月……!」
 荘厳が崩れ落ち、震える手で遺体の肩を掴んだ。巌のような威厳は霧散し、そこにはただ、跡継ぎを失った老人の慟哭だけが響いている。
 観客たちは、神に捧げられるはずの湯が「人」を呑み込んだという惨状に、声もなく震えていた。
 
 奈々未は、十歩離れた場所からその光景をスキャンしていた。
(誰も、疑わない)
 誰もが「火月が舞い、火月が倒れた」という物語の中にいる。だが、奈々未の演算回路は、先ほど見た「後半の舞」の違和感をノイズとして弾き出し続けていた。あの浅い踏み込み、失われた癖。目の前の遺体は火月の服を着ているが、その中身まで同じなのか。
 奈々未は冷徹な視線で、爛れた皮膚の奥にある「真実」を透かそうとしていた。

   * 

「警察を呼べ! 救急車もだ!」
 田嶋伍郎の怒号が、混乱する神楽殿に響き渡った。
 みつが震える指でスマートフォンを取り出し、冷静かつ事務的に状況を伝えていく。山奥のこの集落に警察が到着するには、一時間はかかるだろう。
「現場を動かすな。誰も外に出すんじゃない!」
 田嶋が指揮を執る中、奈々未の目は一人の男を探し出した。
 静馬だ。
 彼は神楽殿の隅、柱の影に立っていた。遺体に駆け寄ることもなく、父の慟哭に加わることもない。ただ、右手首に巻かれた「母の形見」の腕時計を左手で隠すようにして、じっと床を見つめている。
 その顔には、悲しみも驚きもなかった。ただ、深い霧の底に沈んでいるような、ひどく虚ろな表情だけがあった。

 警察の到着を待つ間、人々は神楽殿の一角に集められた。奈々未は、彼らの言動の一つ一つを「脚本のキャラクター」を分析するように観察していく。
 荘厳は、ずっと観客席の最前列で息子の舞を見ていた。彼には完璧なアリバイがある。
 火月の隣に座っていた薪子は、娘の灯の肩を抱き寄せ、小刻みに震えていた。
「……静馬さんを、探していたんです。休憩のあと、なかなか戻ってこなかったから」
 薪子の言葉に、静馬がゆっくりと顔を上げた。
「……外で、空気を吸っていたんだ。酒を渡した後、気分が悪くなってな」
「どこにいたの?」
 奈々未が静かに問いかける。静馬は一瞬だけ奈々未を見つめ、すぐに目を逸らした。
「……どこでもいいだろう。山道を少し歩いただけだ」
「お父さん、全然見てなかったよね」
 灯が、冷めた瞳でスマートフォンを握りしめたまま呟いた。「ずっといなかったよ。後半の舞が始まるギリギリまで」
 一方、みつは控室の入り口に佇んでいた。
「私はずっと、こちらの面棚の整理をしておりました。誰も、こちらには来ませんでしたよ」
 彼女の声には揺らぎがない。観察者同士の視線がぶつかる。みつの目は「余計なことは考えるな」と警告しているようにも見えた。
 田嶋伍郎は、遠山家の面々を忌々しげに睨みつけていた。
「遠山家の因果だ。神を欺こうとしたから、こんな事になる」

   *

 奈々未は、機材の確認を終えたばかりの聖来を、建物の影へと連れ出した。
「聖来、さっきの写真……二十二時十五分の」
「え? これですか?」
 聖来が最新のiPhoneを差し出す。画面には、神楽殿の裏手を歩く「天伯」の後ろ姿。
「この写真の『天伯』と、後半の舞を撮った写真を並べて見せて」
「……? はい、ちょっと待ってください。……ほら、これです」
 二枚の写真が並ぶ。
 片方は、休憩時間中、二十二時十五分に神楽殿の裏で撮られたもの。
 もう片方は、後半の舞の最中に撮られたもの。
 奈々未は二枚の写真を食い入るように見つめた。
(……見つけた)
 決定的な違和感。それは、衣装でも面でもない、もっと微細な「個体差」だった。
 聖来はまだ気づいていない。だが、このデジタルデータの中に刻まれたタイムスタンプと視覚情報は、この村が守ろうとしている物語を根底から覆す爆弾になる。

 夜明け前の青白い光が、神楽殿の隙間から差し込み始めた。
 再び薪子が奈々未に近づき、震える声で囁いた。
「式守さん……やっぱり、おかしいんです。静馬が」
「……薪子さん」
「休憩の間、どこにいたのか、絶対に教えてくれない。……蔵で何かを見つけたあの日から、あの人は別人になってしまったみたいで」
 奈々未は、薪子の青ざめた顔をじっと見つめた。
「……薪子さん。あなたは、ご主人を疑っているんですか」
 薪子は答えず、ただ力なく首を振った。
「分からない。でも、あの人の目が……あんな冷たい目をする人じゃなかったんです」
 遠くから、警察のサイレンの音が、霧を切り裂くように近づいてくる。
 奈々未は聖来のカメラのモニターを見つめ直した。
 この中に、答えがある。
 観察者は、まだ観察を終えていない。
 これから始まるのは、警察による捜査ではない。奈々未という「脚本家」が、この惨劇に真実のラストシーンを与えるための演算だ。
 窓の外では、夜が白み始めていた。

第6章「観察者の違和感」

 神楽殿の喧騒から離れた隅で、奈々未は聖来のカメラの液晶モニターを凝視していた。
「聖来、さっきの写真をもう一度。……もっと拡大して。腰のあたり」
「えっ、こうですか? ……何かあるんですか、ここに」
 言われるがままに聖来が画像をデジタルズームする。
 二十二時十五分。休憩中に神楽殿の裏手で撮られた「天伯」の後ろ姿。
 二十三時五分。後半の舞の最中に、舞台上で激しく回転する「天伯」。
 二枚の画像が並んだ瞬間、奈々未の瞳に鋭い光が宿った。
「……ここ。帯の結び目」
「え? ……あ、本当だ。左と右で、逆……?」
 聖来が息を呑んだ。
 前半、そして休憩中の「天伯」の帯は、結び目が身体の左側にあった。しかし、後半の舞の最中の写真は、明らかに右側に結び目がある。
「火月は左利きだった。帯は自分で結ぶ。左利きなら、無意識に左結びになる」
 奈々未の声は、氷のように冷たく、明晰だった。
「じゃあ、この右結びの人は……」
「右利きの人間が、火月の装束を奪い、面をつけて舞台に上がった。――後半の天伯は、火月ではなかった」

(……入れ替わりは、あの休憩中に起きた)
 奈々未の脳内で、バラバラだった情報の断片が、一つの冷徹なタイムラインへと収束していく。
 二十二時三分、静馬が「清めの酒」を持って舞台袖へ行った。
 二十二時十五分、聖来が神楽殿の裏で「左結びの天伯」――すなわち火月を目撃している。
 そして二十三時、後半の舞が始まった。
 その間に、何らかの方法で火月を無力化し、装束を剥ぎ取った者がいる。
 奈々未の演算は止まらない。
 前半の舞で見せた火月の「深い踏み込み」と「左回り」、そして「面を浮かせる癖」。
 対して、後半の舞は踏み込みが浅く、癖も消えていた。
 装束を入れ替えても、長年培われた「身体の記憶」までは偽装できない。右利きの人間が、無理に左回りの舞を演じようとした結果、あの決定的な「重心の揺らぎ」が生まれたのだ。

 奈々未は手元のメモ帳に、冷徹な筆致で事実を書き出していった。

【観察された事実】
1. 火月=左利き。静馬=右利き。
2. 火月の署名:深い踏み込み、左回り、面を浮かせて息をする癖。
3. 後半の天伯のバグ:踏み込みが浅い、癖がない、重心が不安定。
4. 物理的証拠:22時15分までは「左結び」、23時以降は「右結び」。
5. 静馬のアリバイ:休憩中、一時間近く姿が見えない。
6. 動機の種:三ヶ月前、蔵で見つけた「何か」。
7. 遠山家の因縁:二十年前の祭りで起きた事故。

 奈々未はペンを止めた。
 構造は完成した。あとは、この悲劇の「根源」にある物語を補完するだけだ。

   *

「みつさん。二十年前の祭りで、何かありましたか」
 背後から声をかけると、みつは石像のように硬直した。彼女はゆっくりと振り返り、深く刻まれた皺の奥にある瞳で奈々未を射抜いた。
「……どこで、それを」
「薪子さんが言っていました。静馬さんが蔵で何かを見つけたと」
 みつは長い沈黙を貫いた。神楽殿の外から、警察の無線機が鳴らすノイズが風に乗って聞こえてくる。
「……二十年前。静馬の母、雅江さんが亡くなりました」
「どのように」
「……湯立ての最中に。足を滑らせて、大釜に」
 みつの声が、僅かに震えた。
「……今夜と、まったく同じように。……事故でした。あれは、不幸な事故だったのです」
 事故。その言葉を繰り返すみつの目は、奈々未の観察眼から逃げるように泳いでいた。

「先輩……犯人、分かったんですか」
 聖来が、不安を隠せない様子で問いかけてきた。
「……仮説はある。でも、まだ証明できない」
「じゃあ、どうするんですか。警察が、もうすぐ本格的に動き出しちゃいますよ」
「|記録者《あなた》は、すべてを見ていた。すべてを撮っていた」
 奈々未は聖来の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「その記録が、真実を語る。私の観察が正しければ――この惨劇の『配役』は、私たちが思っているものとは根本から異なっている」
 奈々未は窓の外を見た。
 朝の光が、遠山郷を白く染め始めている。
 神楽殿の屋根は、篝火が消えて冷たく沈黙していた。まるで、役目を終えた巨大な棺のように。
 すべての手がかりは揃った。
 観察者は、観察を終え、最後の舞台へ向かった。



      * 読者への挑戦 *

 ここで手を止めてほしい。

 私――白鳥聖来は、この夜のすべてを記録していた。
 カメラのレンズは嘘をつかない。
 シャッターを切った瞬間、そこにあったものだけが残る。

 奈々未先輩は気づいている。
 あの人の目は、私のカメラより正確に「ズレ」を捉えていた。

 あなたはどうだろう。

 この記録の中に、犯人を指し示す証拠がある。
 動機に至る道筋がある。
 二十年前と今夜を繋ぐ線がある。

 必要な情報は、すべて提示された。

 問いはみっつ。

 一、湯立ての大釜に倒れた「天伯」は、本当に遠山火月だったか?

 二、犯人は誰か?

 三、その動機は何か?

 答え合わせは、解決篇で。

 ――でも、その前に。
 私の写真をもう一度、見返してみてほしい。
 タイムスタンプを。
 帯の結び目を。
 舞い手の足を。

 奈々未先輩なら、こう言うだろう。

 「見ていたのに、見えていなかっただけ」

 さあ――あなたの目は、何を観察していた?

解決篇へ続く。

 0

trending_up 21

 0

 2

霜月神楽の面は嗤う【解決篇】



第7章「二十年前の祭り」

 夜明けの冷気が、神楽殿の板敷きを白く撫でていた。
 奈々未は、人気のない舞台の隅に座り込むみつの前に立った。背後では聖来が、息を潜めてカメラの録音スイッチを入れている。
「事故ではなかった。そうですね」
 奈々未の声は、問いかけというよりは、すでに確定した事実の確認だった。みつは身動き一つせず、ただ遠くの山並みを見つめていた。
「……どこまで、お気づきなのですか」
「静馬さんは、三ヶ月前に蔵で『真実』を見つけた。それは、あなたが二十年前に隠蔽した物語の続きではないですか」
 みつの肩が、小さく震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、深い皺に刻まれた絶望を奈々未に向けた。
「……あの子は、見てしまったのです。母親が殺される、その瞬間を」

 みつの語る言葉が、二十年前の「あの夜」を奈々未の脳内に再生させた。
 神楽殿、煮えたぎる大釜。今夜と変わらぬ、霜月祭りの風景。
 当時、荘厳には雅江という正妻がいた。品があり、村人からも慕われていたが、同時に荘厳には律子という名の愛人がいた。火月の母親だ。
 湯立て神事の最中。雅江が大釜の縁に立ち、神へ祈りを捧げていた。その背後に、影のように忍び寄る女がいた。律子だった。
 一瞬の出来事だった。
 律子は、周囲のざわめきに紛れて、雅江の背を強く、躊躇なく突き飛ばした。
 雅江の悲鳴は、煮え繰り返るお湯の音と太鼓の響きにかき消された。誰も見ていない。誰もが舞い手に目を奪われていた。
 だが――。
 神楽殿の柱の陰で、当時十歳だった静馬だけが、すべてを目撃していた。
 母が、父の愛した女に突き落とされ、熱湯の底へ沈んでいく光景を。
 律子が、冷徹な笑みを浮かべてその場を立ち去る姿を。
「律子は……荘厳の愛人でした。雅江さんを憎み、正妻の座を狙っていた」
 みつの声が、枯れ葉のように乾いて響く。
「でも、静馬は見ていた。十歳のあの子には、あまりに重すぎる、血の色をした真実を。静馬は、誰にも言わなかった。いえ、言えなかったのです」
 母の死は「事故」として処理された。そして、予言通りに律子が後妻として家に入り、その息子である火月が、遠山家の正当な跡継ぎとして育てられた。
 静馬は、母を殺した女を「母」と呼び、母を奪った女の息子を「弟」として愛さなければならなかった。
 逃げ場のない山奥の屋敷で、彼は記憶を心の奥底に封印した。いや、封印しなければ、あの子の精神は壊れてしまっただろう。
「静馬は……母を殺した女の息子と、兄弟として、二十年間暮らしてきたのです」

   *

 均衡が崩れたのは、三ヶ月前のことだった。
 屋敷の蔵を整理していた静馬は、埃にまみれた一冊のノートを見つけた。それは、母・雅江が遺した日記だった。
 そこには、律子への恐怖が、震える文字で綴られていた。
『律子さんが怖い。あの人は私を殺そうとしている。祭りの夜、何かが起こる』
 日記を読んだ瞬間、静馬の中で二十年間堰き止められていた記憶が決壊した。
 雅江が釜に落ちる瞬間の残像。律子の冷たい笑み。
「私は気づいていました。静馬の目が、変わったことに。……あの子は、もう二十年前の子供ではなく、復讐者になってしまったのだと」
 みつは、弱々しく首を振った。
「私は、この家を守りたかった。だから黙っていた。それが、さらなる惨劇を呼ぶとも知らずに」

 奈々未は黙って聞いていた。
 二十年前の殺人。封印された記憶。そして、歪な二十年間の果てに用意された、復讐という名の「幕引き」。
 すべての構造が、一本の線で繋がった。
 母を殺した女の息子が、何食わぬ顔でこの家を継ごうとしていた。
 静馬は、それを許せなかったのだ。今夜の祭りを、母と同じ「事故」で終わらせることで。
 奈々未は立ち上がった。
 あとは、真相を――言葉にするだけだ。

第8章「面は嗤う」

 警察の現場検証が本格化する直前、奈々未は静馬を離れの奥座敷へと呼び出した。
 人目を避けた薄暗い部屋には、聖来が構えるカメラの駆動音だけが、微かな心拍のように響いている。
「休憩時間、あなたは火月さんに睡眠薬入りの酒を飲ませた」
 奈々未の言葉に、静馬は手首の腕時計に触れたまま動きを止めた。
「意識を失った彼から装束と面を奪い、あなたが『天伯』として後半の舞に出た。……そうですね、静馬さん」
 静馬は答えず、ただ深い霧のような瞳で奈々未を見つめ返した。
「あなたは舞を完璧に演じる必要はなかった。ただ、大釜の前まで辿り着けばよかった。そして湯立ての瞬間、火月さんを大釜に突き落とした。――二十年前、あなたの母、雅江さんが殺されたのと同じ方法で」
 静馬の口元が、わずかに歪んだ。それは嘲笑のようでもあり、あるいは深い溜息のようでもあった。
「……そうだ。俺がやった」
 静馬の声は、驚くほど静かだった。二十年分の膿を吐き出すような、酷く澄んだ響き。
「二十年だぞ。二十年、俺は黙っていた。母を殺した女の息子と、同じ飯を食い、同じ酒を飲み、『兄弟』として生きてきた。――あいつがこの家を継ぎ、あの女がこの家で栄え続ける。それを見ていろと?」
 静馬は右手の親指で、腕時計の風防をなぞった。
「母さんは、ずっと俺を見ていた。この時計の中から、冷たいお湯の底から。……あいつを殺して釜に沈めた時、初めて時計の秒針が、正しく進んだ気がしたんだ」
 聖来のカメラは、その告白を冷徹なデジタルデータとして刻み続けていた。静馬はそれを拒むこともなく、憑き物が落ちたような顔で、窓の外に広がる冬の空を見上げた。

   *

 だが、その「静かな告白」が法廷で響くことはなかった。
 一時間後、到着した警察官たちの前で、静馬は氷のような無表情を取り戻していた。
「帯の結び目? ……ええ、舞の途中で着崩れたので、舞台袖で慌てて結び直したのです」
「舞の癖が違った? ……不慣れな大役で、疲労が重なっていたのでしょう」
 静馬は淡々と否認を続けた。
 遺体は熱湯によって激しく損傷しており、血液からの薬物検出も、時間が経てば経つほど困難になる。奈々未と聖来の「証言」と、数枚の不可解な「写真」。それだけでは、この閉鎖的な村で起きた悲劇を「殺人」として立件するには、あまりに脆すぎた。
(……分かっていた)
 奈々未は、警察車両に乗り込む静馬の背中を、遠くから見つめていた。
 観察と記録だけでは、法の前では無力だ。真実を知っていることと、それを世界に証明できることは、全く別の次元にある。

「……悔しくないですか、先輩。あんなにハッキリ分かっているのに」
 神楽殿の撤収作業を眺めながら、聖来が絞り出すように言った。彼女の手には、決定的な証拠を収めたSDカードが握られている。
「証拠は残る。記録は消えないわ、聖来」
 奈々未は静かに答えた。
「あの男が、これから何を抱えて生きていくか――それは私たちが決めることじゃない。私たちは、ただ見てしまっただけ」
「……いつか、この|記録《しゃしん》を使う時が来るんでしょうか」
「……来年も、この祭りはある。その時、この村がどんな顔をしているか。それをまた観察しに来ればいい」

   *

 帰りの車中、山梨の深い山並みが、ルームミラーの中で遠ざかっていく。
 ハンドルを握る聖来は無言だった。助手席の奈々未は、流れていく灰色の景色をただ見つめている。
 遠山郷は再び、深い眠りと沈黙の中へと戻っていくだろう。二十年前と同じように、真実を|澱《おり》として底に沈めたまま。
 だが、記録者の手元には、消し去ることのできない「ズレ」が残されている。
 聖来のカメラには、静馬の顔が映っていた。
 祭りの夜、面を外した一瞬。
 笑っていた――いや、泣いていたのかもしれない。
 観察者にも、わからないことはある。

エピローグ

 あれから数ヶ月が経ち、街を吹き抜ける風には柔らかな春の気配が混じり始めていた。
 下北沢のカフェ。窓際の席で、聖来は手元のスマートフォンを弾むような手つきで操作していた。画面には、雪深い山梨の景色とは対照的な、淡い桃色に染まり始めた日本の風景が並んでいる。
「先輩、見てくださいよ。遠山郷って事件のイメージしかないかもですけど、実はこんなに綺麗なんですよ。これ、『日本のチロル』って呼ばれる絶景、下栗の里です」
 聖来が差し出した画面には、急斜面に張り付くようにして広がる美しい集落と、その背後にそびえる南アルプスのパノラマが映し出されていた。
 奈々未はカップを置き、静かにその写真を見つめる。
「……しらびそ高原からの眺めも最高なんです。夜は星が降るみたいに綺麗で。今度は『かぐらの湯』の温泉に浸かって、鹿肉とか猪肉のジビエ料理、あと手打ちそばも食べたいなあ」
「……知ってる」
 奈々未が短く応じた。
「えっ、また『本で読んだ』ですか?」
「いや。……いつか、行ってみたいと思っていた。あの場所の、本当の姿を」
 聖来は一瞬、驚いたように目を丸くし、それから深いエクボを浮かべて笑った。
「じゃあ次は取材じゃなくて、普通に旅行しましょうよ! 観察とか記録とか抜きで、ただ楽しむだけ」
「……考えておく」
「それ、先輩の『行く』ってことですよね? やった! 決定です!」
 聖来がはしゃぐ隣で、彼女のスマートフォンに一通の通知が届いた。次の取材依頼だ。
 また、どこかの土地で、どこかの祭りが待っている。そこには、まだ語られていない物語と、誰にも見つかっていない「ズレ」があるはずだ。
「先輩、次はどこ行きます?」
 聖来が期待に満ちた目で問いかける。
「……あなたが決めて」
「えー、また丸投げ! じゃあ……次は南信州の桜巡りかな。あ、それとも……」
 聖来が画面をスクロールする。
 日本のどこかで、観察者と記録者を待つ物語が、呼吸をしながら眠っている。
 窓の外では、春の陽射しが街を眩しく照らしていた。

【了】

 0

trending_up 15

 2

 1

人間はコップか

 私は教師として、毎日のように教壇に立っていた。 

 ある日私は、生徒たちに、「人間の体内の約60%は水分である。」ということを教えた。私は鼻高々だった。なぜならほとんどの生徒が知らなかったことを知らせてあげたのだから。
 授業後、ある生徒から質問を受けた。その生徒はこういった。
「先生、体内の約60%が水分である人間。そんなにたくさんの水分を溜めているなら、人間はコップではないでしょうか。」
 衝撃が走った。私はこの問いに答えることが出来なかった。なぜなら、わからなかった、ためだ。私は、平静を装い、
「後日、回答する。」
 とだけ述べた。

 私は焦った。常にこの問いを頭に置き生活した。歩きながら、食事をしながら、排泄しながら、常に考えた。「人間はコップである。」という仮説。もし正しければ、今までの私の常識は完全に崩れ去る。しかし、いくらなんでもこの考えは短絡的すぎないだろうか・・・。とりあえず私は、自己紹介において「私はコップです。」などという人間に出会ったことはない。いや仮に自分がコップであると認識している人物がいたとしても自己紹介においてそんなことは言わないか。なぜなら、自分がコップであると認識している人間は、恐らく全ての人間がコップであると認識しているはずである。つまり、自分がコップであると認識している人物が、自分がコップであると自己紹介することは、自分が人間であると認識している人物が、自分が人間であると自己紹介することと変わらないのである。とすると、自己紹介においてコップであると自らを紹介しなくても、自分がコップであると認識している可能性は十分に考えられるのだ。もしかすると、人間がコップであるということは周囲の人間にとっては常識なのかもしれない。コップである私たちは、コップを使って水を飲んでいる。コップがコップを使っている・・・・・。
 駄目だ、らちが明かない。続いて別の視点、行動的観点から、人間とコップについて考えてみよう。まずコップ。コップは水を取り入れ、貯蔵し、放出する。多くの場合人間に操作されることによって。さあ、人間はどうであろう。私たちは水を取り入れ、貯蔵し、放出しているだろうか・・・。している。確かに私たちも水を取り入れ、貯蔵し、放出している。水を口から飲むことによって取り入れ、体内に貯蔵し、排尿、呼吸などによって放出している・・・。
 何も、変わらない。コップと、何も。本当にそうか。私たちはコップと変わらないのか。いや、しゃべったり、歩いたり、考えたり、従来のコップにはできないことが、私たちにはできるではないか。なんだ、明らかに私たちはコップではないじゃないか。なぜこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。私は安堵した。便秘が解消したように、安堵した。すぐにこの答えを例の生徒に伝えてやろう。私はその生徒の家の電話番号を調べるため、足早に職員室へ向かった。しかし、職員室の扉を開けた瞬間、新たな考えが浮かんできた。それらの、従来のコップに出来ない行動は、コップに付随された機能でしかないのでは、ないだろうか・・・。つまり、私たちはコップに新機能を加えた存在―進化形コップ―ではないだろうか・・・。
 人間はコップの進化形。こんなことを認めてしまったら、先人たちが作り上げてきた進化論が崩れ去ってしまう。いくらなんでも、結論付けるには早すぎる。もう少しコップと人間の相違点を考えることにしよう。私は再び職員室を離れた。
 と、瞬間、ビビビビビ、私の頭に電流が走った。そう。コップと人間の相違点を、見つけたのだ・・・。嬉しいような、悲しいような、長年一緒に暮らしてきた息子が、独り立ちして家を出ていくときは、きっとこんな気持ちになるのだろう。コップと人間、水を取り入れ、貯蔵し、放出する。そこに違いはない、が・・・。まず、人間についてだ。人間は自発的に、水を取り入れ、放出する。自分が取り入れたいときに取り入れ、放出したいときに放出する。続いて、コップについてだ。人間が自発的にこれらの行動をとるのに対し、コップは強制的にこれらの行動をとらされているのだ。コップは、強制的に水を取り入れられ、放出させられる。これは人間とコップの違いといえるだろう。よって人間はコップではない。よし、今度こそ答えが出た。再び職員室へ・・・。
 いや待て。人間もたまには強制的にこれらの行動をとらされているではないか。例えば拷問における水責め。人は自分の意思に反し強制的に水を取り入れられさせられる。また、何らかの理由で長時間トイレに行けないとき、人は自分の意に反して失禁する。これも自発的に水を放出しているとは言えないだろう。つまり、人間はときにコップになっているのだ。
 結論。人間は、人間、時々、コップ。
 待て。何かがおかしい。なぜ私は、人間がしゃべったり、歩いたりすることはコップの新機能、コップから進化した結果、と捉えたのに、自発的に水を取り入れ放出することは、そのように捉えなかったのだ。自発的に行動することが出来るようになったこともまた、コップからの進化の結果と、捉えられないだろうか・・・・。

 わからない、わからない、わからない、わからない、わからない・・・。私は人間がコップであるかどうかさえ、わからないのだ。コップが、頭から離れない・・・。苦しい、苦しい、苦しい、苦しい・・・。
 
 翌日私は、辞表を提出した。これにより私はもうこの問いと向き合う必要がなくなったのだ。なぜなら私はもう教師ではないのだから。例の生徒の質問に回答する必要はないのだ。晴れ晴れした気持ちで、帰宅する。しかしもうコップとは関わりたくないな。今日は我が家の全てのコップを処分しよう。―いや、待て、『コップ』、とは、なんだ・・・。

 完

 0

trending_up 74

 4

 12

美しかった国

やさしいひとが
笑えない世の中で
山河に向かって吠えている

一体何と戦っているんだ


それでも
もっとやさしいひとが
壊れた土手を
直している




 50

trending_up 86

 2

 8

あなたはリラ

(あたしは須多彩璃35才。フラワーショップ灯し火に勤めて6年。灯し火は小さなお花屋さんで、男性店長とあたしの二人で切り盛りしているフラワーショップ。店長は58才。あたしを娘のように可愛がって下さる。お花のフレッシュな香りに包まれ働くのはとても幸せだ。そして、お花を求めやって来られるお客様は皆、店内に一歩足を踏み入れると優しい表情になる。あたしのお休みはお店の定休日である水曜日。それと年末年始。あとはず~っと働き通しだが、大好きなお花といつも一緒、仕事と言うよりも半ば趣味。本当幸せ者ね! 朝7時半頃出勤し、店長が仕入れてきたお花を水揚げし、お店の掃除をし、店内にお花をディスプレイ。そしてお客様を迎え入れる。オープンは9時。閉店は19時。あたしは18時には退店する)

 恋人は……残念ながらいない。出逢いが無いの。季節はロマンチックな秋。カッコいい紳士がどこかにいないかしら……。

「いらっしゃいませ!」お若いお母様と小さなお嬢さんが今日の一番のり。
「ママ! いい匂いがするね!」
「うん、沢山のお花があるからね」
(かっわぃい~。あたしもあんな女の子のママになれたら素敵だなぁ)
「あの……」とそのお母様。
「私、お花のセンスがなくて、よく判らないんです。でも今日は義理の母達がやって来て、この子の誕生会をするんで、何か見繕って下さらない?」
「わー、お誕生日なんですね!」ニッコニコの彩璃。
「お誕生日おめでとう」女の子に声を掛けると、女の子はママの足にペタッとくっついてしまいモジモジし始めた。
「ほら、お姉ちゃんに『ありがとう』言いましょう?」
「ああ、良いんですよ! ネ~、御免ね、突然話し掛けびっくりさせちゃったかな。色んなお花を見て楽しんでいてね! お姉ちゃん頑張って可愛い花束を作るよ!」
「すみません、内気な子で」
「いいえ。ご予算はお幾らぐらいをお考えですか?」
「ああ、折角のパーティですから8000円ぐらいまでしても良いです」
「かしこまりました」

 彩璃は華やかに、と、まず赤いバラの花を数本手に取った。そして真ん丸のポンポンマムを添え、ブルー系もとリンドウも仲間入りさせる。ふんわりカスミソウで包み込む。そして……何だかこちらのお嬢さんのイメージにピッタリだなと薄ピンクのダリアを択んだ。ゴージャスで愛らしいブーケの出来上がり。
「わ~、綺麗!」女の子が目を丸くしている。これがあるからこの仕事を辞められない。お客様の喜ぶ顔で何だか自分自身のハートの奥にポッと双葉が芽生える、そんな心地に彩璃はいつもなる。

「お姉ちゃんありがとう!」女の子が元気よく口にした。
「いいえ、こちらこそありがとうございます! 素敵なお誕生日にしてね」
「はーい!」女の子はよっぽど嬉しいらしく、右手を高く上げお返事。
「ありがとうございました」

 彩璃の毎日は決して派手ではないが、ほのぼのとイイ感じで時間が流れている。休日は専らお家映画だ。1950年代~1970年代のクラシカルな洋画がメイン。彩璃はストーリーに入り込み、自分がヒロインとなりアイスクリームを食べながら、時にホットな展開に涙する。

 ある……待ちに待ったお休みの日。洗濯物を干そうとベランダに出た。

(なぬ!?)

 一瞬何が落ちているのだろうと思った。取り込み忘れていた洋服? だなんて……。

 それは紐付きの赤い風船だった。といってもフニャッとなりベランダの床に横たわっている。
 そして……(あれ?)
 紐の端っこに、透明のビニール袋に包まれた封筒が括り付けられてあった。
(あ! あたし、こういう事昔やったよ? 田舎にいた子ども時代、同じ県内の小学生の女の子からお手紙の返事が来て、暫く文通したんだよな~)
 洗濯籠を一旦部屋の中に置き、しおれた手紙付き風船を部屋に持ち込む彩璃。
「どれどれ?」小さい子の仕業だな、とちょっぴりワクワクしつつ封を開ける。

(へッ?!)……目が点になる彩璃。

『こんにちは。僕は関東地方に住む波止琴哉という32才の男性です。風船を拾って下さりありがとう。僕と友達になりませんか』

 と、LINE IDが明記されていた。
(何! これ。いい大人がこんな事して。だいたいね、あたしもちっちゃくて知らなかったけど、風船を飛ばすと空飛ぶ鳥の足に紐がひっかかる事もあるの。そんな事考えられるような人じゃないわね! だって堂々と名乗り、LINE IDまで載せちゃって。変人に決まっているわ!)

 (ン……?)
 IDのあとに文章が続いている。

 『ライラックの花言葉は“友情”』

 ……その通りよ。お花が好きなのかしら?

 洗濯物を干した後その日一日、彩璃はぼんやりしていた。
(何か……気になる。風船男)
 午後3時頃洗濯物を取り込み、その後は取り立てて何にもしない一日だった。
 彩璃はその『琴哉』と名乗る風船男からの手紙を何度も読み返していた。短い文章を。

 そして翌日。また灯し火の一週間が始まる。
「おはようございます!」
「おはよう。昨日はゆっくり出来た?」
「はい、店長」
「そうですか、それは良かった」

 ふと……店内にある輸入物のライラックが目に入った。
 春のお花なので国産は今なく、国産のライラック程は薫らないが、何となく彩璃はその輸入物のライラックに鼻を近づけた。ほんのり甘く爽やかな香りがした。
 発見した風船に括り付けられた手紙の最後の文句を想う彩璃。
 店内には秋のお花も誇らしげに並んでいる。そういえば、オレンジの鶏頭の花言葉も『友情』だな~。

             *

 フ~……今週も充実の一週間だった。
 彩璃はその夜、何だか落ち着かなかった。
 この一週間ずっと心の片隅にある例の風船の手紙。LINE ID……。

 よし! 叱ってやるか!

 生真面目な彩璃はやはり、鳥の足に紐がひっかかりでもしたら……と思う。大人なんだからそれぐらい知って欲しい。それに、小さな子どもならいざ知れず、大の大人がそんな事をして、拾った人間が困惑するではないか! 説教したくなった。放っておけば良いものを……それが彩璃なのだ。

『初めまして。貴方の風船を拾った者です。こういう事をすると、空飛ぶ鳥を傷つけかねない事を貴方はご存じないようで、LINEを送りたくなりました。それと“僕は32才男性です。友達になりませんか”だなんて、申し訳有りませんが怪しさ満点です。私はこのLINEを送信し次第、すぐに貴方をブロックします。どうしても我慢ならずに、一言お伝えさせて戴きました。ではさようなら』

 でも、そうは書き送信したものの、何故か彩璃はその『琴哉』だと名乗る男性の事が気になってしょうがない……。

(うむ。何と返してくるかちょっと待ってみよう)

 ……結局我ながら悔しいけど彩璃は、夜10時までお風呂にも入らず『琴哉と名乗る人』からの返事を待ってしまった。3時間半待ったが返事はなかった。単なる悪戯だったのね。やだやだ。一週間の疲れが手伝い彩璃はぐっすり眠った。

 雨音で朝の8時に目を覚ました。
 (あれ?)
 スマホを見ると……どうやら例の風船男から返信が来ているぞ。恐る恐るタップ。

『こんにちは。何か……すみません、僕は物を知らなくて。それとあなた様を困惑させてしまったようで、申し訳なく感じております。御免なさい。あの、ブロックされているでしょうからまず読んで戴けないのだろうな、とは思いましたが、万が一読んで下さったら……と思い文章にしました。では失礼致します。 波止琴哉』

 ン……悪い人じゃないのかな。へんてこな好奇心の湧いて来る彩璃。朝ごはんを戴いたあと、いつものように映画を観ていたが、何か気持ちがフワフワする……。思い切って琴哉なる人物に返信してみた。

『ブロックしていません。私の言いたい事を解って戴ければそれで良いです。何でこんな事を思い付いたのですか?』

 琴哉からの返信は五分すると返って来た。
『本当に僕が悪かったです。はい、僕は……友達が居ないので孤独で、いい年なのに風船に手紙を括り付けるという事にロマンを感じてしまったのです。子どもの頃、瓶の中に手紙を入れて川に流した事がありました。誰からも返事は来なかったし、それを見ていた近所の大人にこっぴどく叱られました。「それは不法投棄! ゴミになるからもうやっちゃダメだ」と叱られたんです』
(あ! それあたしもやった! 瓶もやった……)彩璃は思い出した。

『それ、自分もやりました』
 彩璃はLINE IDを名字だけにしている。風船男に自分が女性だと知られたくはない、だからあえて“自分”と表現した。

 するとすぐに返信が戻って来た。
『そうなんですね!』

 彼は彩璃が“女性なの?”・“お住まいはどこ?”等、彩璃の事は何も訊いては来ない。だから少し安心している。そこでLINEは止まった。

 数時間すると、何だか彩璃はLINEで琴哉と喋りたい気分になって来た。

『そちらのお天気はどうですか?』

 すぐに返信が来た。
『本降りですよ、少し肌寒いです。でも常緑樹が潤って美しいです』

 あ……この人、やっぱり植物が好きなのかな?

『自分は花や植物が大好きです』

 すると琴哉が『あ、僕と同じですね。じゃあ僕が飛ばした風船の手紙の最後の一文、お分かりですか?』

『はい』

『嬉しいです!』
 そこで何となく返信をしない彩璃。

 水曜日、人とコミュニケーションをとったのは風船男だけ。琴哉はいわゆる追いLINEをして来ない。だから彩璃にストレスを感じさせない。
 彩璃は接客時はにこやかで丁寧だが、プライベートでは友人を全く求めない。気疲れするから一人の時間をエンジョイしている。映画だけではない。音楽が好きでCDも良く流すし、時々カメラを携えお花の撮影に行きもする。

「友達が欲しい」という感覚は理解できない。
「友達が居なくて孤独」だなんて一度も感じた事が無い。

『ライラックの花言葉は友情』琴哉はきっと、本当に友を求めているのだろうな。

「おはようございます」
「おはよう。今日は忙しいよ。配達が4件も入っちゃった」
「大丈夫です店長。任せて下さい」
「うん、頼みます!」

 ……よし、この配達が済んだらもう上がりだ。
 時計の針は夕方5時20分を指していた。最後の配達。ファイト!
「行って参ります」
「はい! 彩璃ちゃんお願いしますね!」

 初めてのお客様のお宅への配達だ。ナビをセットしてっと「よし」配達へ出発。約20分走ると大きなお屋敷が見えた。
「あそこだわ」お宅の前に車を停め、後部座席に乗せていた花束を手にした瞬間(え)何も見えなくなった。

 彩璃は眩暈を起こし倒れたのだ。そして……あろう事か、アスファルトの上で花束が彩璃のクッションの役目を果たしてくれた。そう、お客様のお花がペッシャンコ……酷い姿と化してしまったのだ。泣き出しそうな彩璃。ブーケを作り直し、お花を再度持って来るにしても、まずはお客様にお約束の時刻より遅れる旨を謝らなきゃ。
 彩璃は可哀相な花を拾い、後部座席に乗せ、すぐに玄関インターホンを鳴らした。

『はい』女性の声がする。
「フラワーショップ灯し火です。申し訳ございません。お花を傷つけてしまいましたので、もう一度店へ帰りすぐにお持ちしたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
『ちょっと待って下さいね』つっけんどんな雰囲気のお声だ。
「イテテ」
 待っている間、彩璃はアスファルトにぶつけた腕やお尻をさすっていた。でも頭はぶつけなかった。頭を花束が守ってくれた。広いお庭だ。

 少しでっぷりとした中年女性がツカツカと門までやって来た。いかめしい表情をしている。
 そして彩璃に向かい開口一番「もうすぐお客様が見えるのよ! どうしてくれんのっ?!」
「申し訳ございません。只今大急ぎで店に戻りお持ちします」平謝りの彩璃。
「もう結構よ! 要りませんっ、フン!」踵を返し家へ向かって門から去って行くお客様。ずっと彩璃は深く頭を下げていた。
 具合は悪い、お客様には怒られる、お花は可哀相……最悪だ。

「ただいま帰りました」
「ああ、彩璃ちゃんお疲れ様。ありがとう。ん、どうした? そんなに項垂れて?」
「すみません店長。お花を潰してしまい、お客様にお断りしすぐ持って来ると告げたのですが『もう要らない』と言われました。お客様はとてもご立腹で配達は出来なかったんです」
「そうだったの……でもいったいどうしてブーケが潰れたのかい?」
「はい……実は眩暈がして、お花を車から出そうとした時、お客様の門前で倒れてしまったんです。お花はわたしの下敷きになってしまいました」
 ボロボロになったブーケを大切そうに抱いている彩璃。
「お花は仕方ないさ。それより眩暈って彩璃ちゃん、我慢しちゃだめだよ、そういう時は。今すぐ病院へ行って。明日は無理しなくて良いからね」
「はい……。申し訳有りません」
「いいさ、元気が一番大事なんだから。上がって下さい」
「はい」

 彩璃は帰りに近所の病院へ寄った。過労によるものだろうとの事。眩暈を軽減する薬が処方され、医師からは「体をしっかり休めるように」と言われた。
(何だかボーっとする……)やっとマンションに到着。食欲がわかないので牛乳に蜂蜜を入れ暖めて飲み、薬を服用した。バタンキューだった。

 翌日は店長もああ言ってくれたしとお店を休んだ。
 寝そべる事も出来るお気に入りのソファーで何をする事もなく彩璃はゴロゴロしていた。
 雨、か。相変わらずそんなに食べる気もしないので、卵入りのお粥を作り食した。(あ……あたしお腹減ってたんだ)とその時気づく。

 テーブル上のスマホをじーっと見ていた。どこかで、琴哉からのLINEを待っている自分がいる。でも彼からLINEは来ない。
 彩璃は琴哉に自分の事を伝えてみたくなった。

『こんにちは。具合が悪いです』とだけ……お昼のお粥を戴いた後送ってみた。

 10分ぐらいするとスマホにマークが付いた。見ると“波止琴哉”。
 風船男だ! 喜んでいる自分自身に驚く。

 LINEを見ると『こんにちは。大丈夫ですか? お風邪でしょうか……』と琴哉。

『眩暈。あたしは彩璃という35才の女性です』
 初めて彩璃は素の自分を出してみた。

『教えて下さりありがとう。彩璃さん、女性だったのですね。尚更僕の風船の手紙でご不快な思いをされた事でしょう、改めて謝ります。本当にすみません』

『いえ、もう良いです。あの…あたしもお花大好きなんです』

『あ、そう言われていましたね!』

『実はお花屋さんに勤めています』

『あ、そうだったんですね。良いですね、好きなものに囲まれてのお仕事。でもお花屋さんって重労働じゃないんですか』

『はい、確かに体力勝負な所はありますが、良い匂いの中にずっと身を置けて毎日楽しいですよ』

『そうなんですね。僕は大工です。中学を出てすぐ見習いになり、親方のもとで勉強し職人になりました』

『そうですか! ご立派ですね! 職人さんって今減ってきていると聞いた事があります』

『いえいえ、僕はこれしか出来ないだけで何にも立派なんかじゃないです。そう! 彩璃さん、よくご存じで。職人が減ってきているので海外から来ているアルバイトさんも今は多いです』

『なるほど。あ、こんなにお喋りしていて大丈夫なのですか? お仕事のお邪魔では……』

『いえ、僕は今暫く休みを貰っています。実は情けない話なのですが、屋根から落ち、骨折し、入院中です』

『まあ! そうだったんですね。お大事にされて下さい……』

 こういった塩梅に二人はまるで、チャットでもしているかのように途切れる事なく、一時間は互いの事をLINEで知り合った。

『あ、あたし少し疲れてきちゃいました……』

『ああ、長話におつきあい下さりありがとう。またいつでも話したい時はLINE下さいね』

『はい、こちらこそありがと』

 何だか……胸がドキドキしている。琴哉さんは……優しい人だな。
(あたしったら逢った事もない人に、胸を高鳴らせている?)

 彩璃の体調はすぐに良くなり、2日後には灯し火に復活した。
「おはようございます、店長。ご迷惑をおかけ致しました。もう大丈夫です!」ニッコリ!
「ああ、それは良かったよ。うん、彩璃ちゃん顔色が良い。今日も宜しくね」
「はい!」

 彩璃は毎日琴哉とLINEするようになった。

 のんびりしていた日々にキラキラとしたスピード感のようなものが加わった。ときめきの速度かな? 自分でもよくわからない。琴哉は埼玉在住という事、琴哉の好きな物は某チェーン店のチャーシュー麺だという事、琴哉は一人暮らしで料理好きだという事等、どんどん彼の人となりを知って行った彩璃は……自分は東京在住、イクラが嫌い、長い黒髪が自慢、広島生まれでピンク色が好きetc.彼に教えた。
 LINEの文字の上だけで、すっかり二人は意気投合した。

 ある休日、彩璃は(琴哉さん、どんな声をしているのだろう?)と気になり始めた。
 そして思い切って『LINE通話しませんか?』と伝えてしまった。
「しまった」という程直後、彩璃は恥ずかしくなり……やっぱり言うんじゃなかったと、今すぐ時間を巻き戻したくなったのだ。
 が……返信はすぐにやって来た。
『うん、イイよ。』

 ドキドキ……ドキドキ……。
 緊張の中どうしようと思いつつ通話ボタンをタップする彩璃。

「もしもし……」

『あ、もしもし!』

「あの……彩璃です」

『可愛い声ですね! 彩璃さん』

「ありがとう」

『今日はお花屋さんの定休日ですね』

「はい」

『あー、仕事早く復帰したいなー。現場今立て込んでるんで』

「ああ、琴哉さんご加減如何ですか?」

『ンー、思うように治んないです……』

「早く良くなりますように」

『ありがとう、彩璃さん』

「今日も映画をさっきまで観てました」

『どんな映画?』

「うん、古~いアメリカの映画です。女優さんの所作がとても美しい!」

『へ~、お洒落な休日の過ごし方だね』

「そうですか? 好きなだけです」

『僕は時々、小説を読みます』

「あっ、そうなんだ! ンと実は、黙ってたけどあたし、趣味で小説を書いているんです」

『わぁ、彩璃さんって多趣味。知的で素敵ですね!』

「そ、そんなぁ」
 “素敵”と琴哉に云われ、一人頬を染める彩璃。

 少し沈黙があり……彩璃が「風船男さん!」っと悪戯っ子のように言い放った。
『ン……え?』と驚き琴哉が『ギャハハ!』と大笑いした。

 彩璃も笑いつつ秘密を打ち明けた。
「あたしね、琴哉さんの事、最初“風船男呼ばわり”してたのよ! 心の中で」
『ウケたよ! アハハハハッ』暫く風船男本人は笑っていた。


「おはようございます!」
「お! 彩璃ちゃん、最近お花みたいに生き生きしてるぞ。さては……何てね。おはよ! 今日も宜しく」

 彩璃の日々は風船男さんが現れたその時からほんわか度アップ、そして輝きを増して行っている!
 LINE通話を二人は毎日するようになった。

 彩璃は……恋に堕ちた自分に気づいた。
(琴哉さんに逢ってみたい。逢いたい)
 そう強く感じた。その心地よいソワソワ感を持て余し、ついに口にしたのだ。

「ねぇ琴哉さん、あたし……琴哉さんに逢いたいです。ご迷惑でなければ、お見舞いに行きたいです!」

 すると……何か困っているようだった、琴哉は。でも、気を取り直すかのように『ン、良いよ!|傘鳴《かさなり》病院に入院しているの』
(何だ、東京の大病院じゃない!)
『で、受付で“波止琴哉”を尋ねて貰えれば大丈夫だよ!』

「あ、ありがとう。でも、本当に良いの? 正直に言うね。琴哉さん、さっき一瞬考えたでしょう?」

『あー、うん、何だか照れてしまって……』

「そう、あのね……あたしもドキドキしてるよ?」

『うん』

「じゃあ……」と早速、来週の水曜日10時にお見舞いに行く事になった。

 約束をしたのは日曜日だった。琴哉に逢えるまでの3日間は長いような……短いような不思議な感覚。
 そしてずっとドキドキ、わくわくの止まらぬ彩璃。

 待ちに待った水曜日がやって来た。
 念入りにお化粧する彩璃。ネイルは慎ましやかな淡いピンク。清楚なパステルカラーの菫色のワンピースを着た。長い黒髪はポニーテールにした。
 早めに傘鳴病院へ行き、10時過ぎ頃お部屋へ行こう! と考えた。
 電車の窓から見える空の青は、羊雲を引き連れ穏やかだ。

 9時40分ごろ病院へ着き受付で“波止琴哉”の名を出した。
「はい、少々お待ち下さい」受付係が病棟を調べる。
「お待たせしました。『緩和ケア病棟』の502号室です」
(緩和ケア病棟?! 琴哉さん、そんなに酷い大骨折だったんだ……)通常の骨折で緩和ケア病棟を利用するのは稀だ。

 フロアーには10分前に着いた。余り早く訪れても悪いと思い、彩璃は廊下の端にある椅子で10時になるのを待った。
(やっと逢いたかったヒトに逢える……それにしても琴哉さんの骨折が心配だわ。あたし、逢いたいだなんて無理言っちゃったかな)

 10時だ。
 あんまり長居しないようにしようと考えつつ502号室、琴哉の部屋のドアをノックした。

「は~い! どうぞ」あ、琴哉さんの声だ。
「こんにちは」

 琴哉を見た瞬間、彩璃は抱えていた花束を、ギュッと握りしめた。とても……とても痩せている。ごはん食べられていないのかな? でも点滴をしてないし……。

「彩璃さん、逢えて嬉しいよ。ン……びっくりさせて御免。僕ガリガリでしょう」

「ええ、琴哉さん、食欲がないの?」(まさか)その時彩璃が思い付いたままの返事が返って来た。

「彩璃さん……僕ね、胃癌なの。末期だよ。骨折も本当だけどね。骨折は大した事なく、入院している理由は癌だよ。まるで噓つきでした。本当に……御免なさい」深々と頭を下げる琴哉。

 彩璃は(それでもあたしは、この人が好き! 好き! 好き!)逢ってみて尚更感じた。魂が求めている。

「謝らないで下さい。琴哉さん、噓つきなんかじゃない! 琴哉さんは、風船男です!」
 と彩璃が言った。
 琴哉の目が点になり、直後二人は大爆笑した。

 手提げ袋から花瓶を取り出しお花を生ける彩璃。
「綺麗だね。ありがとう」
 “早く元気になってね”の意味を持つガーベラ、色とりどりのガーベラが今、琴哉のベッドサイドにある。

「可愛くて、本当に綺麗。彩璃さんみたい……」

「え」

「こんな男が言う言葉じゃないな」

 チュ……。
 ポニーテールにした頭を傾け、彩璃は琴哉の唇を塞いだ。

 ギュ!

 細い腕なのに……凄い力、大工さんの力!? 彩璃は思い切りそのまま琴哉に抱きしめられた。

 琴哉が言った。
「僕ね、彩璃さんの事いつの間にか好きになってた……」
(嬉しいっ……)
「ねぇ、風船男さん? 他人行儀な話し方、この瞬間からやめない? あたしを、彩璃と呼んで。あたし、あたしも……琴哉を愛してる」

 二人は暫く熱いキスを交わし続けた。

 面会時間は10時~19時で、その9時間ずっといても良いそうだ。でも彩璃は、最初のお見舞いから彼が疲弊してしまうんじゃないかと、15時には病室を後にした。

 それからも彩璃と琴哉は毎日電話でお喋りし、水曜日、必ず彩璃は琴哉に逢いに行く。

 二人はいい大人の男女だ。が、個室の扉をいつ何時看護師やドクターが叩くか判らない。だからくちづけしたり、優しく撫で合ったりする、それ止まり。当然。

「琴哉、言ってたね、雨の日。『濡れた常緑樹が美しい』って」

「うん、覚えてるよ」

「本当ね、ここからの眺め素敵ね! こんもりした森が見えるのね。色づいてるモミジも見える。綺麗!」

「そうなんだよ、いいでしょ。ウッ……」突然お腹を押さえる琴哉。

「琴哉! 琴哉っ、痛いのね? 大丈夫? すぐ先生を呼ぶわ!」

「う、うん」ナースコールに即ドクターと看護師が駆け付けた。

「波止さん、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。いつものやつです……」

「頓服を!」ドクターの指示に看護師がすぐに薬を持ってきた。
「安静にされていれば大丈夫ですからね、波止さん。お辛い事でしょう。私達がついています、いつでも我慢せず呼んで下さい」とドクター。

「はい、ありがとうございます」琴哉は薬を飲み、少しすると痛みが治まったらしい。

 彩璃は、横たわっている琴哉の髪を撫でながら言った。
「よくある事なの?」

「うん……」

 辛い。自分が代わってあげられたら良いのに! 彩璃は本気でそう感じている。

 お見舞いの際彩璃は琴哉のもとへ、必ず様々なブーケを持って行った。ガーベラ以外にも花言葉を考えて。今日は愛の花バラに、“信じ合う心”という花言葉を持つブルースターを添えたもの。

 その日、とても体調が良さそうな琴哉。彩璃は10時に病室に入り19時までずっと琴哉と過ごした。

 今日はロングヘアーを下ろしていた。
 手を伸ばし、彩璃を抱きしめ、彩璃の緑の黒髪に指を入れる琴哉。

「サラサラだね彩璃、美しいよ」と言う。

 二人はもどかしい程に求め合いくちづける。
 彩璃はこんな幸せな恋、生まれて初めてだ。琴哉に元気になって欲しい。デートしたい。デートして二人で街を歩きたいわ!
 琴哉の事を一杯知った。瞳の形や、指の感触だけではない。彼が孤児院で育ち身寄りが全くない事も今では知っている。
(あたしは、あたしは、この人の全部になりたい!)

 土曜日の深夜2時、彩璃のスマホが鳴った。

 琴哉だ。
(こんな時間に?)心臓が何だかバクバクする。すぐに電話に出た。

 荒い呼吸がきこえる。
「え! 琴哉? 琴哉っ! 琴哉!」

「あや……り、オレもう、ダメだと思う。解るの」

「すぐ行く!」彩璃はタクシーを使い病院へ到着した。

 502号室! 琴哉っ! 琴哉! ノックもせず入ってしまった。

 ドクターと看護師がいる。琴哉がこっちを向いて「あ……やり」と振り絞る。名を呼ぶ。ドクター達は一礼し出て行こうとする。

「ちょっと待って下さい!」彩璃が叫ぶ。
「琴哉を助けて下さい! お願いです、先生行かないで!」
 泣いて、泣いて、必死だ彩璃は。

 しかし、手を必死で伸ばす琴哉が彩璃を掴まえた。
「あ……やり、オレが、お願いし、たの。お願い……傍に、居てくれ。愛してる! 心の底から好きなんだよ……彩璃」

 初めて見る、琴哉の涙。

「うん……うん」頷いて琴哉の手を握る。

「あ……やり? オレ、オ……レ居なくなっても、幸せ……になって」

「いやっ! そんな事言わないで、琴哉がいなくなる訳ないじゃんっ! バカ!」

 グイッ! 懸命に力を振り絞り彩璃を強く抱き寄せる琴哉。そしてキスした。何て悲しいキスだろう。彩璃の涙が溢れ出ては零れ落ち、琴哉のまぶたを、頬を濡らす。それでも琴哉は彩璃を離さない。

 そして唇を離し、琴哉が話し始めた。

「オレ、風船男やって、よかったアハハ」笑ったって、凄く苦しそう。

「何も言わなくて良いよ琴哉。好き……ただ、すき……」

「うん……愛してるよ、彩璃」そう言ってまた強く彩璃を琴哉は抱きしめた。

 もう二人とも何もしゃべらない。ヒックヒックと泣き止まぬ彩璃。そんな彩璃をひたすら抱きしめ続ける琴哉。

 力が……力が……力が、少しずつ、消えていく。 琴哉の全部の力がもうすぐなくなる。

「愛しているよ、いつも……琴哉」

 その彩璃の言葉の後、精一杯愛した琴哉の両手が、ブラーンッてなった。

「あああ~ッ! あぁ――!」狂ったように泣き叫び、息絶えた琴哉にしがみ付く抱きつく彩璃。

 そして、ナースコールを押した。ドクターが駆け付けた。
 琴哉の生命の灯りが消えた事が彩璃に告げられた。


 琴哉を失ってから彩璃はずっと、部屋に必ずライラックを飾るようになった。
 花言葉は、琴哉が風船に括り付けた手紙に書いていた通り『友情』。
 それだけではなく、『初恋の香り』。

 誰でもなく、琴哉こそが彩璃の初恋の人だから。

 0

trending_up 18

 1

 0

生命の神秘

シュイン シュイン

流れた白い星
目視できない無数の魂
白い星になって流れ落ちる

マスター
罪深い私をお許し下さい

銀河の川となって溢るる
暗い闇に流れた無数の星々

それを眺めるだけの僕
僕が落とすは雲の上

しゅいん しゅいん

またも流れる白い星

 0

trending_up 28

 0

 0

編地の揃わない悲しみに(連詩その2)


*************************

 自分を救ってやれるコトバも吐けないで
 なに詩なんか描いてやがるんだ

*************************

 ねえ 書き換えられない過去などないというなら 
 これから話すはなし 全部作りごとだと思う?

*************************

 雨が降らないから あたしはユーウツなの

*************************

 自分の都合しか考えられない人がキライ 
 だからあたしは自分がキライなのでしょう

*************************

 どんなにいらないからって
 捨てることができないものはなぁ~んだ?
 
 それは自分自身です

*************************

 悲しみの数をひとつふたつと数えても
 いつまで経っても終わりがないの
 数えるたびに増えてしまうのは
 一体どういうわけなのかしら

*************************

 生まれたこと自体が 私自身をがんじがらめにする

*************************

 ピノキオは人間に憧れたけど
 僕は人形になってしまいたいとせつに願ってる
 言葉も感情もなにひとつ持たずに
 ただ静かに座っている
 そんな人形に

*************************

 無闇にストレスを与えないでください 
 38度以上の高熱が出ます 
 激しい胃炎に襲われます 
 夜中に何度も吐きます 
 全身を切り刻まれたような 激しい痛みが走ります
 眠れなくなります
 発狂するかもしれません
 自分の痛みばかり押し付けないでください
 大人しくなにも云わないからといって
 何も感じていないわけではないのです
 取扱いには細心のご注意を

*************************

 心ない言葉なんていうのはない
 心にない言葉など吐けない
 その人は おそらく
 心がないという心の持ち主なのだ

*************************

 私たちはきっと 使っている言語が違うのだろう
 解り合えないのは きっとそのせいなんだろう

*************************

 心が傷ついたとき
 ちゃんと目に見えて解るように創っておいてくれたらよかったのに

*************************

 淋しい虚しい優しくされたい見えない壁 
 近寄らないででも冷たくもしないで 
 罪と罰 
 なんのための? 
 治らない傷口 
 かさぶたの下は乾かないまま膿んでいく 
 辛いのって云ったら 
 自分の方が辛いって 
 弱音吐くことも許されないのなら いっそもう

*************************

 そうやっていつまでも支配できると思ったら大間違いよ

*************************

 あんたのやさしさなんか 所詮は自己満足でしかないじゃない

*************************

 ほら 今あんたの本性が 絶賛剥き出し中だよ

*************************

 あったことをなかったことに 
 なかったこともあったことにできてしまうあなた 
 あなたの云ってることはだから 
 全部に頷くわけにはいかないのです

*************************

 笑うことも泣くことも怒ることもしゃべることもせず 
 ただ能面のような顔でうなずいてさえいれば 
 あのひとにとっては満足なのでしょう

*************************

 私は私を縛り付けるすべてのものから
 解放しなければならないのです

*************************

 もうとっくに気がついている
 手を伸ばしたときにはもう 
 なにもかもが手遅れだったんだってこと
 必要だったのは愛なんかじゃなくて
 そんな使い物にならないようなガラクタなんかじゃなくて
 無限地獄のようなこの毎日から逃げ出せる
 確かな方法だけだったのに

*************************

 子どもを愛さない親なんていない 
 なんていう嘘で 世界をコーティングしないでください

*************************

 いつまで待ってるつもりなの
 誰も探してなんかいやしないのに

*************************

 あのときああしていれば 
 あのときあれをやらなければ 
 人生は変わったかもなんて戯言は 
 もうたくさんよ

*************************

 ふいのやさしさに 心が震えるからイヤだ

*************************

 詩という道の上で 野垂れ死んでしまいたい

*************************













 0

trending_up 9

 0

 0

あたたかい雪の下で

 雪割草は別名、地桜とも呼ばれているの 

差し出された鉢を受け取ったのは秋だった 
白いカーデイガンからのぞく君の手首の 
あまりの細さは 
ちいさな鉢さえ重たげに見えた 

 開花時期は二月から 
 本当に雪を割ってね 
 あざやかなピンクの花が咲くの 

その頃を夢見ているような君の頬の 
血色のない白さが僕には雪を連想させた 

 大事に、育ててね 

もう自分では育てられない事を 
その開花を見られない事を知った者の 
潔い微笑みはひどく透明だった 

形見なのだと分かったのは 
君がいなくなってから 

日々成長するものを受け取った事が 
僕にはひどく残酷なように思えてならなかった 
花が咲いても一緒に見られはしないのに 
なぜこんなものを僕に預けたのか 

週末には鉢を抱えての墓参り 
寒々しくなる町並みを抜け 
落葉した後の更に寒々しい山を切り開いて作られた 
墓苑の一角に建つ御影石を撫で 
そうしてまた鉢を抱え帰宅する 

ガラにもなく「花の育て方」なんて本を買った
風通しの良い場所に鉢を置き 
土が乾いてきたら水をやり 
日々色濃くなっていく葉の緑を眺め 
意外に肉厚なその葉を触った瞬間 
堪え切れず真夜中にひとりで泣き眠り 
繰り返し、泣き眠り 
そうして週末に墓参り 
繰り返すだけの日はいつしか二月になっていた 

雪の降る日だった 
傍らに鉢を置き 
傘を差す気にもなれなくて 
君の名が刻まれた石の前で呆けていた 

 ねえ草木は動けないでしょう 
 芽吹いたその場で一生 
 一生懸命生きるしかないの 
 私その気持ち 
 少し分かるわ 

いつかの病室での君が再現される 

 動けないって 
 つらい 

白いベッドに仰向けに天井を眺めながら 
君はそう言っていた 

 でも動けないからこそ 
 覚悟が決まると思うの 
 ここで育とうって 
 根を這わせ 
 茎を伸ばし 
 花を咲かせ 
 種を落とし 
 雨でも炎天下でも雪でも 
 ここで生きて 
 ここで朽ちようって 

 私 
 ここで 
 このベッドの上で 
 ─死ぬのね 
 それまでに出来る事、しておかなきゃ 

は、と我に返った 
また零れている涙をぬぐおうとして 
動かそうとした手の甲に雪が積もっていた 
ずいぶん長い間呆けていたらしい 

雪を振り払い 
冷たさで感覚の無い皮膚をこすり合わせ 
黒い御影石の上にも積もった雪を落とした 

 あなたに雪割草をあげる 
 雪割草は別名、地桜とも呼ばれているの 
 毎年花が開くのを楽しみにしていたのよ 
 雪の積もった朝にね 
 一面白い世界で 
 このこを植えているところだけ 
 あざやかなピンクの色がついてるの 
 綺麗なのよ、とても 

 このこにとって雪は 
 あたたかいものだったのではないかと思うくらい 
 見事なピンク色なの 

僕は傍らの鉢を見た 
そのピンクはまだ咲いていない 
鉢を抱きしめて 
僕は泣いた 

 春を、告げる花よ 
 地に咲く桜の花よ 
 あなたに、あげる 

きみに降る雪はあたたかいかい 
雪を割って咲く花よ 
おまえに降る雪はあたたかいか 

僕はまた鉢を抱え 
来週また来ると呟いて 
町に戻った 

雪割草が咲いたら君に一番に見せに来るから 

 0

trending_up 60

 5

 2

【小説】プロトタイプ三部作 - ❶ ふつうの信号

 たしかまだ、四月のうちのできごとだったと、佐藤はおぼろげな記憶をたどる。なんせゴールデンウィークの合宿よりもまえだった。あの合宿のまえとあとでは話がちがう。だから、いまとなっては無頓着で、こうなる前の自分自身をいまいち思い出しづらい。なつかしいかもしれないが、なつかしがるのは億劫だ。


「ロードワーク?」

「そ、きょうあすは外だってさ。あとでまた説明してくれるっつってたけど」



 教室の入り口で、三組の鈴木がプリントをひらひらしてにこにこした。入部早々、体育館を使えない日がぽつぽつあって、それも急にきまったりする。そのたびにすばやく練習メニューをくみかえて対応してしまう先輩たちを、なんだかむしろたのしそうだなと当時は思っていた。そのころの佐藤は、まずまちがいなくのんきだった。



「佐藤と、あと中村のぶんな」

「ありがとう」



 鈴木もまだ、みんなを苗字で呼んでいたし。

 昼やすみだったので、鈴木はその場で跳ねあがったかと思うと、自分をまっている弁当のもとへ一目散にもどっていった。不思議の国のアリスにああいうのいたなと思いながら、佐藤もそそくさ席につき、だいすきなからあげを口にほうりこむこととする。

 うけとったプリントには、学校をまんなかに周辺の地図があった。それなりにいりくんだルートとこまやかな注意書き。まあこれくらい覚えられるでしょうと言われている感がある、みぎれいな字。ながら読みが失礼な気さえする。ひとつめのからあげを呑みこむと、鼻に抜ける香ばしさとこころからの握手をかわしたのち、佐藤はあらたまり両てのひらで紙をのばした。

 かならず三番目のかどをまがること。

 金物屋さんが目印。

 右というよりは、斜め前に進む感じ。


 字を書き馴れたひとの字だ、字というか、自分の言葉を。ルートをゆびでなぞりながら、つい先日部誌で見た鈴木の記名のいたずらっ子ぶりを思い出す。吹き出しがないのに吹き出しがあるみたいな字だった。ぎざぎざの。……右、右、ちょっとまっすぐ、ななめ左、もっかい右。ようやっと校舎にもどるというところで、さいごのコメントに出会う。



 信号にひっかかっても、とまらなくていい。



 ……それってどうなの。

 校舎の裏門のてまえでひとさしゆびが足どめをくう。そのゆびさきは佐藤自身の規範意識を指していた。そりゃあ、ロードワークをスムーズにこなすのは望ましいことだけど、急になんか、すごい体育会系みたいな指示じゃない?



「佐藤それなに? いつ配られたやつ」


 前方からけたたましく、椅子をずらす音がした。気のいいクラスメイトが、椅子の背にひじをついて、佐藤のプリントを覗きこんだところだった。
「ああこれ部活のだから……授業関係ないやつ」

「あらよかった」

「あのさ、裏門から出てすぐの道って通ったことある?」


 ふたつめのからあげをつまんで、きいてみた。


「ないよ、なんで」

「ロードワークのときに、信号無視していいって書いてあるんだよね」

「球技部ってなんかぐいぐいくる感じなの?」

「いや、そういうあれでは……」



 首をひねってみせると、やつは思案顔のまま、学ランの内ポケットから焼きそばパンの袋をひっぱりだした。そんなとこからお昼が出てくるって手品師かい。ビニイル袋をやぶろうと、きしむような音をたてて格闘しながら、ややあって「あー」とおもしろそうなこえがあがった。



「なに、あけてやろうか?」

「いやばかにすんなよ。そうじゃなくてそれってあれじゃね、無意味な信号のことだろ」

「うん……?」


 それとかあれとか。

「その地図のどこ?」

「これ」


 とか。

「あーやっぱ、ほんとに裏門出てすぐあるやつだ」

「無意味って?」

「俺もみてはないんだけどさ、なんかめっっっちゃ短いんだって。この横断歩道」

「……まあ、ちっちゃく描かれてるね」
 図解の都合とか、あるいはバランス失敗したとかで、ちっちゃく描いたわけじゃないのか。


「わざわざ白い線ひいて、横断歩道ですって言う必要あるのかよってくらい短いから、あきらか信号なんていらないらしいよ。つかいま思ったけど短いって道幅がせまいってことじゃん。車通れんのかな」

「通れたとしても、そんなせまいならゆっくり通んないとな」

「じゃあいいじゃん無くてww」
 クラスメイトはウケながらふんばったけれども、ビニイル袋の封印をとくことはできない。思うに、わらいながらやるもんだから、うまくちからが入らないんじゃないかい。


「あけようか?」

「ばかにすんな。だからそれ、車のためにあるんじゃないんだよ」

「それ?」

「だから信号な。車にぶつかんないための信号じゃないんだって」


 袋のはしっこをゆびさきでかたくにぎりこんで、やつはおもしろそうに言った。


「え、うん。それで無意味だってことでしょ? なんかほかに意味があるってこと?」

「ヤバイもんとぶつかんないための信号って言われてるらしいww ウケるわー」



 ヤバイもん。

 佐藤は、さいごのからあげのやわらかさにうっとりしていたというのに、はたと考えこんでしまったのだ。なに、そういう話? 道路交通事情の話をしてると思ってた。この校舎が建つまではもっと道がひろくてみたいな。

「あ、中村ごめん席かりてた!」


 クラスメイトが、ふいに佐藤のあたまごしにやわらかな声をなげては立ちあがる。ふりむくと、前の席の中村がいつのまにかもどってきて、あいまいにかぶりをふって返していた。チャイムが鳴り、午後の授業まで五分と間がない。


「ちょっとまて、袋あけてやるよ」

「ばかにすんなって言ってんだろ!」


 なにかしらの矜持がうまれているらしい、彼とパンのあいだに。

 やつがむきになって自分の席へもどっていくのをみながら、中村がもとどおり、そこの席へ腰をおろす。


「あいつ、焼きそばパンの袋あけらんなくて、くいっぱぐれてんの」


 笑いをこらえきれず、草を生やしながら話しかけると、


「それは……ご愁傷さま」


 こころなしか低いこえが返ってきた。

 ……中村、ひょっとしてあいつのこときらい?











 放課後、恥をしのんで言えば、佐藤は最後尾を走っていた。

 すこしまえまで、みえる距離に何人かの背中があったから、はぐれることなくここまでこられたのはいい。いちばんうしろにいると、仮にそれが自分のペースだったとしても、あせらず調子よく保つということがなかなかむずかしい。荒い呼吸が胸のあたりをいったりきたりするたびに、骨がきしむような痛みがふきぬけていった。……あつい。

 あたまがまわらなくて、地図を思いうかべるのもひと苦労だけれど、たぶんこの直線がさいご。つきあたりをまがればもう、横断歩道だったはずだ。ふらつきぎみの脚にぐっとちからをこめて、まっすぐ駆けた。

 まがりかどのむこうに、くろねこみたいなジャージの背中がならんでた。

 あれ?

 のどが灼けたように痛いし、すなぼこりが入ったらいやだから呼びかけたりはしなかったけれど、追いついた佐藤に、ふたりは自然とふりかえる。鈴木と中村。とっくにゴールしたものと思っていた。思っていたし、



「……信号、まってるの?」



 ややあって、荒い息のあいだからきいてみた。結局すなぼこりをすいこんだ。

 こうしてみてみると、実にふざけた横断歩道だと佐藤は思った。なんという違和感。五歩……大柄な先輩とかは三歩で通りすぎたんじゃないか? たぶんこれでは車は通れないし、これをわたることを「横断」とか言わない気がする。ひとまたぎっていうほどではないけれども。

 しかし、信号は赤らしかった。らしい、というのは、これまた奇妙なところに信号があって、むりやり首をひんまげて覗きこむみたいにしないと、正面きってみられないからだ。

 なんであんな、みづらいとこに信号があるんだろ。



「ふつうの信号じゃないみたいな」

「「ふつうの信号だろ」」



 右と左から、即座にツッコミが飛んできた。そりゃそうだ。ふつうの信号以外にいかなる信号もあってたまるか。もとより佐藤はその手の話がすきではない。なんのはずみか煽りじみたもの言いの自分に、佐藤はいたたまれなくなった。


「ふつうの信号だし、ふつうにわたったほうがいいんじゃねーかと思ってな!」

 鈴木はニカッとわらってあたりまえなことを言う。さらに中村が「まあ車がこないのなんかわかってるんだけど、念のため?」とおだやかにことばをついだ。

 考えてみれば、どんな信号だとしても、まもってわたればいいわけだ。ふつうであろうがなかろうが、どのみち信号なんだから。


「いくぞ」


 横むきにもれいづる信号の灯りがきえて、青い色にかわった。鈴木の号令に、流れのままふみだした佐藤の足を、なかば押しのけるみたいにして中村が先陣をきった。

 さっきから目をこらしていたせいで、なんだか目がごろごろする。たぶんこれ、すなぼこり入ったな。まばたくととたんに痛くなって、まえをいく中村が涙でにじんだ。ぼんやりゆがんだけしきのなかで、彼はへんなふうにひざをおりまげてぐにゃぐにゃしはじめる。なりそこないのカニが、へたくそなカニ歩きでもしているみたいだ。

 涙がみせる幻覚なのはわかっていても、とっさに気色悪くて佐藤はたじろいだ。するとこんどは、うしろから強く肩をつかまれたかと思うと、一も二もなくおしかえされた。鈴木だ。怒られそうでふりかえれないけれど、とまるなということだとわかる。横断歩道をわたっているのに、めのまえでぐずぐずされてうっとうしいんだろう。というか忘れてたけどロードワーク中なんだよな。くりかえし目をしばたたかせながら、佐藤はだまって中村に続いた。

 三人はふつうに信号をわたった。わたってしまえば鈴木もべつに怒っていなかったし、中村は佐藤の目が赤いのを心配してくれた。裏門を抜けて敷地に入ると、校舎のむこうからひょっこり、大柄な先輩があらわれた。



「あっきたきた、よかった。だいじょうぶ?」

「すいません、おそくなりました!」


 やさしい声音にほっとして、あたまをさげる。いかついみためにそぐわない性格らしいのは、そのころにはもうなんとなく知っていたことだった。


「信号にひっかかってるのかと思ったけど……チャレンジャーだね」


 よくわからないまま三人、顔をみあわせる。裏門のそとをみやっていた先輩は、視線をもどすとぎょっとした顔になった。


「えっあれ? どうしたのその目」

「あ、ちょっとすな入って」

「えー! はやく洗っといで、痛そう! 水道わかるよね?」
















 すぐあくる日のできごとだったと、佐藤はおぼろげな記憶をたどる。



「体育館?」

「そ、なんかやっぱだいじょうぶになったらしい。シューズなかったらきょうは体育館履きで参加してもいいってさ」

「そっか、よかった……」



 教室の入り口で、三組の鈴木が手をひらひらしてにこにこした。入部早々、ボールにさわれない日が続いていたので、佐藤のこころもボールみたいに弾んでいる。

 昼やすみだったので、鈴木は自分をまっている弁当のもとへ一目散にもどっていった。佐藤もそそくさ席にもどり、からあげをかじって悦に入る。


「おまえからあげすきだよな……」


 前方からけたたましく、椅子をずらす音がした。気のいいクラスメイトが、椅子の背にひじをついて、佐藤の鼻さきにパンの袋をぶらさげたところだった。


「おまえも焼きそばパン一択なんだな……」

「俺はきのう食いそびれたからいいんですー」


 行儀わるく椅子の背にあたまをもたせかけて、やつは口をとがらせた。いいってなんだ。



「佐藤くんはきょうも信号無視ですか」

「きょうは中だし、きのうもやってません。ふつうにわたりました」

「いい子ww」


 クラスメイトは惰性でわらいながら、ビニイルのはしっこをやぶこうとしている。


「まあでも、ほんとに車ぜんぜんこなかったっていうか、通れないっぽかった。無意味だったわ」


 次は青になるのをまたずにわたろう。きのうだって、あのふたりが律儀に信号まちしていたから右にならえをしただけだ。言いたかないがこわがりだから、雰囲気にのまれていつも損をする。

「なんか、この話って有名なの?」

 葉野菜の苦みとからあげの相性に、思わずほだされ ついでに訊いた。

「そうなんじゃない? しらないけど」

「しらないってどこで知ったの」

「先輩から。文化部のひとってこういうのすきじゃん。学校のいわくみたいな」

「七不思議的なね」

「ななふしぎ!」

 どのあたりがツボだったのか、やつは盛大にふきだして椅子の背をたたいた。

「えっなに……?」

「いやwww」


 顔をくしゃくしゃにしながら、なおもビニイルを両手でひっぱっている。なんでこいつはウケたタイミングで開封しようとするんだよ。


「ななふしぎwって言うと、いや、ほら、小学生かwww」

「あの、あけてやるよ、袋」

「だいじょうぶwwww」

「いやおまえむりだよ」



 涙目になってわらいころげるそいつと押し問答していると、ふとうしろに気配があった。


「あ、中村!」


 クラスメイトが立ちあがる。


「いいよ、すわってて。机んなかに弁当わすれただけだから」


 中村は、クラスメイトが占拠している自分の机に横から手をさしいれて、ことばどおりに弁当箱の包みをとりだした。


「あ、ねえ、きょう部活体育館つかえるって」

「えっほんと! よかっ……シューズ家だわ」

「体育館履きでもいいらしいって鈴木は言ってた」

「うわあよかった!」

 うなずきながら、佐藤はさいごのからあげをつまむ。



「中村、ななふしぎって言いかたかわいいと思わない?」

「七……? そうだね」


 いまだウケをひきずっているクラスメイトに、中村はあいまいに首をふって、そのまま弁当をたずさえてカニ歩きで出ていった。













 そういう話を、佐藤は、信じたくってこわがるのではない。ただ、ときどきふと、目にしたものがきもちわるくなることがあった。みためがかわるわけではないが佐藤にとってはかわっている。それを佐藤自身の心情の変化だというなら、それはそうなのだろう。佐藤もそう思っている。佐藤が、変化をみとめたのだ。佐藤の変化をみとめられるのは佐藤しかいないから、佐藤しかみとめない変化は変化なんかじゃない。これは逆説である。

 だから却って、放課後、部室にいく中村をみおくってから、クラスメイトをつかまえた。



「その話って、そこまでしかしらない?」

「え、そこまで? なにが」

「あの、あれ。信号無視の話ね」

「オチがあるかどうかってこと?」


 気のいいクラスメイトは、ややあってまたわらいだした。

「佐藤ってそういう話、すきだっけ?」

「いや、どっちかっていうときらい」

「ええww」


 同中の友人は、いつのまにかおとなな笑顔で、ちょっと心配そうに佐藤を見たりなんかした。


「しらないしらない。てか続きとかべつにないでしょ」

「そう……」

「考えてみ? 赤信号をわたったらあの世に連れていかれます。信じるか信じないかはあなた次第です。ほら、しょぼくね。続きがないからおもしろいんだよ。つくり話なんだから」


 クラスメイトの手のなかで、昼間たべられなかったパンの袋が、思いきりよく音をたててやぶかれていく。


「うん……部活いくわ」

「いてら。てかおまえほんとにふつうにわたったの?」



 あいまいにかぶりをふって、佐藤は小走りで教室を出た。足どりはだんだん重くなり、階段を降りて、靴を履きかえ、外に出たとき、とうとうその場にたちどまった。

 うららかな春の午後。その日も風は強く、すなぼこりがグラウンドに舞いあがる。

 すなが目に入ったせいでは、なかったんじゃないか。

 よく考えてみろ、佐藤。きのうの信号はどこか奇妙だった。横をむいていて、よくみえなかった。どうして? ばかなことを聞くんじゃない。


 横断歩道からみて、横むきについている信号は、車道用にきまってるじゃないか。


 心臓が急発進した。どくどくとなにかが喉もとまでせりあがり、悲鳴をあげそうな口をそっとおさえて佐藤は考える。いま、自分のうしろには誰もいないだろうか。自分の背中には、なにも、ついてきてはいないだろうか。からだはうごかさずに視線だけを落として下をみる。地面にのびているのは佐藤の影だけだった。そしてそれは、へんなふうにひざをおりまげてぐにゃぐにゃしていた。

 おかしなこえをあげて佐藤は走った。ふつうに走れることとかを考えている余裕はなかった。なんで気づかなかった、なんでわからなかったそんなかんたんなことを。俺たちは信号無視をした。あれひとつしか信号はなかった。歩道用の信号なんてどこにもなかった。なんでだよ。しるかよ。

 暴走する心臓をかかえて部室棟の階段を駆けあがる。部室の扉がみえた。知らせなきゃとか教えなきゃとかそういうのはなにもなく、ただ知っているひとたちのところに逃げこみたくて、つまずきもつれて思いきり扉をあけた。



「おつかれ佐藤。おそかったな?」



 気の抜けたこえがふってきた。つんのめっていた顔をあげると、もうジャージを着た中村と鈴木がふりかえり、わらっている。

「もうあれだぞ、いそげいそげ」


 時間がないと言っているんだろう。きづかうようなまばたきから日常があふれて、あやうく佐藤は泣きそうだった。
「佐藤、目え真っ赤だけど? またすな入ったのか」

「え、ああ」

「遅れるけど一回洗おうぜ。おまえサングラスとかすれば?」


 顔をのぞきこんできた鈴木が、自分で言って自分でふきだした。

「なあ、きのうの……」

「坊主にグラサンww ワロスww」

「中村、きのうの信号、」

「うん?」

「きのう俺たち、車道のほうの信号わたっちゃったよな?」

「うん……?」


 中村は目をぱちくりした。首をひねってよくよく考えてから、


「いや……?」


 と言った。

「車道用のだったんだよ。横向いてたでしょ」

「なにが?」

「信号」

「……いや?」


 中村はくりかえした。それから鈴木をふりかえり、


「横向いてたっけ、鈴木」

「いや」


 こんどははっきり否定がとんでくる。


「なんか微妙にひんまがってたけど、そんだけ」

「ほら……」


 こまり顔の中村は、なだめるように続けた。


「それに、車道側の信号しかない横断歩道っていうのも、アレだろ」



 そうだ、おかしい。歩く側と車と、ふたつ目印があるべきだ。だいたい車が通れないのに車の信号がある時点でアレだ。だからやっぱりそういう話なんじゃないのか、いくら自分が変だって見まちがうようなことじゃない。車のための信号じゃないというなら、


「ふつうの信号じゃないから、みたいな」

「「ふつうの信号だろ」」



 右と左から即座にツッコミがとんできた。

 ……なんだ。この空気はいったいなんだ。信号がどうとかじゃなくないか。ごくりとつばをのみこんだとき、あけっぱなしだった扉のそとからひょっこり、大柄な先輩があらわれた。



「あっいたいた、どうしたの。だいじょうぶ?」

「すいません、おそくなりました!」


 やさしい声音に、あわててあたまをさげる。


「えっあの、目え赤いけどまたすな入った?」

「あっ……はい……」

「すいません、こいつ洗ってからいくのですこしおくれます」



 横から申しそえたのは中村だった。先輩はなんどかまばたいて、なにか言いたげなそぶりだったけれど、結局ただうなずいた。もしかしなくてもいじめ的なものを懸念されたかもしれない。場をなごませるというか、ちょっと空気をさぐるつもりもあったのか、ややあって先輩はやわらかな笑顔になった。



「そういえばその、べつにいいんだけどさ。きのうのあれから、なんかかわったこととかあった?」

「…………」


 先輩の視界のすみっこで、三人の視線がひそかに一瞬からみあう。

「や、なんもないっすね!」

「そっか、そりゃそうだよな。俺もべつに、信じてるとかじゃぜんぜんないんだけどさ」


 先輩は、先輩が思ったほど気まずい空気ではなかったということなのか、わかりやすくほっとした顔であたまをかいた。


「まあでもあれだよ、べつにほら、いちいち青になるのをまてっていうわけじゃなくて……車はこないんだから、赤でも青でもそのまま走ってだいじょうぶなんだけど」


 どうにも要領を得ない話しぶりに、誰もあいづちを打てずにいる。


「それに、一年のころ俺のまわりもやってるやついたしなあ。だからきもちはわかるんだけど、ただ、一応部活の途中だから。わざと赤信号をわたるのは、次から無し、な」



 ——きもだめしなら、帰りの時間にやりなさい。



「すいませんでした!」


 ワンテンポおくれて、鈴木と中村がいきおいよくあたまをさげた。いいからいいから、じゃあ体育館いってるからな、とあわてて両手をふって、小心な先輩はうしろ手に扉をしめて出ていった。



「…………」

「佐藤、とりあえずきがえな? そんで水道いこう」



 気を取り直して日常が言う。

 おさまりかけていた心臓がふたたび脈を打ちだした。なんて言えばいい。どこからつっこんだらいい。おかしなことを言っているのは俺じゃない。だって先輩は、歩く側の信号があると思ってる。先輩のみている信号と俺たちがみた信号はおなじ信号じゃない。さっきから出る杭をたたきおとすみたいなこのふたりの笑顔はなんなんだ。



「ねえあのさあ。俺ときどき、きもちわるいもんがみえるんだよ」

「そうなの? いやせめてきがえながら言いなよ、よくわかんないけど……」


 苦笑する中村は、すこし汗をかいていた。おちつかなげにゆびがうごき、ときどきジャージの腰のところでてのひらをこする。


「中村、」

「なに?」


 ふだんから覇気のないおとなしい目だけが、かたくなに佐藤をみてわらっている。


「……きもちわるいよ」

「すなが目に入ったからだと思うよ?」

「そうじゃねえよ!」


 中村はわらっている。さっきからずっと、ひざがぐにゃぐにゃうごいてる。


「そうじゃなくて、あれ! きのうのあれが! ふつうの信号じゃなかったって言ってんの!」

「佐藤」


 耳もとでなまえを呼ばれたかと思うと、うしろから強く肩をつかまれた。鈴木だ。怒られそうでふりかえれないけれど、しゃべるなということだとわかる。


「ふつうの信号じゃなかったら、なんだよ。あの世に連れてかれる信号とか? 地縛霊にとりつかれる信号とか? 佐藤ってそういうのすきなのか? ねぇーよ、小学生か! つくり話だからおもしろいんだよ、ああいうのは」


 すきじゃないよ。すきじゃないよ。ずっと言ってんじゃん。中村の顔も鈴木のこえもわらっていてきもちわるい。どなりだしたい衝動にかられて、佐藤は肩口をふりかえった。


 鈴木はすごい顔をしていた。

 ぞっとして佐藤はこえが出なかった。べつに鈴木はぐにゃぐにゃしていない。なにかが背中にへばりついているわけでもない。そうじゃない。彼がわらっていたのは声音だけで、まるで内臓をえぐりだしそうに毒々しい目つきで佐藤をいすくめていた。

 こいつ、なに。

 いまにもうなりごえをあげそうな獰猛な顔から目をそらせないまま、佐藤はふたつのことがらを察する。自分たちがみた信号は、ふつうの信号ではなかったということ。そしてそれを、どの時点からかはともかく、このふたりもしっているということ。それなのに、


「あれは、ふつうの信号だった」


 地を這うようなこえで、しみこませるように、鈴木が言いきかせてくる。


「ふつうの信号だったから、ふつうにわたった」


 うしろから中村も、おだやかなこえでくりかえす。
 言葉数がすくないのに、言葉は氾濫しかけていた。あふれれば、あっというまに言葉の意味が部室を呑みこみ、床と天井の区別もつかずにもがいて佐藤は部活へ行けない。ふつうについてこいつらはなにをしってる。佐藤はしっていたろうか。こんなにかわってしまうのに。

 いまさら目のなかがごろごろしてきた。すなが入っているからだ。にじんでぼやけたけしきをぬぐって、佐藤は同級生と目をあわせる。理不尽という言葉を宛てるにはずいぶん遠い顔だった。むしろ、なにかどこかへ一直線に走っていってもどらない、そんな主語のわからぬ喪失が佐藤の眼前にせまっていた。なら理不尽じゃないなまえをつけてよ。嘘、本当、曼珠沙華、さかいめに咲く花をみないで!
 気づけば佐藤も汗だくだった。はやく拭いて、ジャージにきがえて、目を洗って、体育館にいかなきゃいけない。ひさしぶりにボールにさわれる、そう思うとふわり、こころがかるくなる。どのみちやぶけてしまったんだ。あいつあの焼きそばパン、くさってないんかな? ふつか持ちあるいてたもんな。いーけないんだ、おなかこわしてしんじゃったってしらないぞ。にこにこしながら佐藤はなんども口にした。


「あれはふつうの信号だった」













(2017年掲載「シャドウ」から、改題・改稿を経て再録しました)

 0

trending_up 68

 2

 3

翡翠に眠る虎狼〜1章〜

 雪のように冷たい大理石の道を僕は裸足で歩いていた。
あたりは黒く霧がかっていてあまりよく見えない。

ただ、大理石の一本道だけ、その中でくっきりと光って見えるようだった。

冷たくて、痛くて、もう歩きたくないのに、僕はただただ歩き続けた。

時々霧の奥から囁く声がした。
 
皆口を揃えて「見ろなんて醜い!汚らわしい!」と指を指されているようだった。

心も身体も冷え切っていてもう感覚さえなくなってきていた時、大理石伝いに微かな温かさを感じた。

縋るような想いで僕は駆け足気味に、前へ進んだ。

すると足の裏に柔らかくて暖かい感触がした。

霧は消え、草と土の優しい香りに包まれた。

身体に温かい血液が流れるのを感じた。

乱れた呼吸を整え、身体が温まるのを待った。

しかし、身体が温まれば温まるほど、喉から心臓までが凍りついているように冷たいのが際立った。

ふと目線を上げると、小さな小屋があった、何やら店をやっているようであった。

僕は重い身体を引きずりながら小屋へむかった。

温かい木の扉を開けるとカランッとベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ。」

ゆったりと優しい声が聞こえた。

中は暖かく、木の匂いのする心地の良い感じであった。

木でできたカウンターテーブルの奥に声の主がいた。

「どうぞ、おかけください。お疲れでしょう。」

僕は頷いて、カウンターテーブルの椅子に座った。

声の主は、黒い髪を後ろに束ねた、清潔感のある長身の男であった。

特に特徴的であったのは彼の瞳であった。

綺麗な翡翠に暖炉のオレンジが揺れていた。

その美しさに、僕は彼の瞳をかなりじっと見てしまっていたらしい。

「私の瞳は珍しいでしょうか?」と男はクスッと笑った。

僕は身体中が一気に熱くなるのを感じた。

「いえ、あまりに綺麗でしたので…見惚れて…」

男は一瞬目を見開いてから、ふっと笑った。

どうやら可笑しくて堪らないらしく笑いを堪えるのに必死であった。

「申し訳ありません!そんな風に男性に言われたのは初めてでしたので」

男はやっと声を振り絞り言った。

確かによく考えれば、僕はなんて事を言ってしまったんだ。

これではまるで僕が口説いているみたいではないか。僕は恥ずかしさのあまり床を眺めるしかなかった。

「そういえば、何かお困りな事があっていらしたのでしょう?」

男は思い出したようにいった。

「え?」

そういえば、僕はなぜここへ来てしまったんだろう?
なんだか、身体はとても疲労しているようだけど。

思い出そうとすると喉から胸にかけて張り裂けるように冷たくなっていく。

僕は何者なんだ?頭の中でまた霧の中の囁きがこだました。

「一晩だけ、ここにいてもいいですか?」

男は顎に手を当て少し考えた後に

「良いですが、それで良いのですか?もっと他に何か…」と少し黙って僕の様子を伺っているようであった。

「まぁ、良いでしょう。無理には聞きません。好きなだけいてくだい。ただし、ちゃんと対価はいただきますよ?」

翡翠の中にいたずらっぽくオレンジが揺れた

「もちろんです!よろしくお願いします!」

僕は即答した。

あれ?でも、僕お金なんてあったかな?と不安に思ったのが男に伝わったようだ。

「お金でなくてもいいですよ、お代については、後々お話ししましょう。」

僕の心を見透かされた恥ずかしさと、男の声の暖かさに、なんだか、目頭が熱くなった。

涙をこらえるために目をぎゅっとつむって、床とにらめっこをしていると、男は僕の目線に入るように、真っ白で艶やかなカップを差し出した。

「呪いのようなものです。これを飲んで、今日は眠ってください。」

一口飲むとそれは甘いホットミルクであった。
それは、特別な味がした。

不思議なことに、喉から胸にかけて凍り付いていたものが溶けていく感覚がした。

「美味しい…」

また、翡翠の中のオレンジを揺らしながら、男は嬉しそうに微笑んだ。

ぼんやりとした視界の中最後に見えたのは困ったような男の微笑みであった。

 0

trending_up 12

 0

 0

 0

trending_up 0

 0

 0