推薦対象
生活ってなんだ?
by h2O
生活とは何だろう。
とても大きな問いにも見えるが、この作品は大きな答えを用意しない。ただ、一人の人間が静かに生活を積み重ねていく。その積み重ねが、輪郭(答えのようなもの)を自然と浮かび上がらせている。
読み始めて最初に心を掴まれたのは、川の匂いだった。
泥や腐った枝葉の匂い。本来なら不快さへ向かってもおかしくないその匂いを、この作品は嫌悪の対象として書かない。むしろ、その匂いを吸い込み、吐き出し、そのまま晩御飯の買い出しへ向かっていく。この川は都市でも田舎でもない場所を流れる、住宅地のそばの川のように思えた。地方都市とも郊外ともつかない風景。私は神奈川県横浜市鶴見区のような風景を勝手に思い浮かべた。そういう、自分の知っている風景を自然に呼び起こしてしまう力が、この作品にはある。
川の匂いは、身体が覚えてしまった匂いであり、生活そのものなのだ。もしかしたら最初は嫌だったのかもしれない。その土地に住み続けるうちに、好き嫌いを超えて身体に染み込んでしまったのかもしれない。そう考えると、
>川はそうやって、わたしを晩御飯の買い出しへ運ぶ。
という一文も、決して大げさな比喩だけではなく、自然と入ってくる。
スーパーの場面では、デラウェアが房ではなく、粒として見られていることが、印象的だった。その瞬間、売り場全体がざわつき始める気配すら覚える。スーパーでは店員が絶えず商品を並べている。その誰かの手によって保たれている一定性が、
>無限に近い数のデラウェアの粒が増殖と減少を繰り返し、
という一文によって急に可視化される感覚があった。
話者は、フルーツを丸い粒と表現している。フルーツにはそれぞれ名前があり、味があり、個性がある。それなのに、一歩引いて眺めれば、みんな丸い粒になってしまう。フルーツへの憧れは強いのに、叶わない願い。フルーツは話者にとってどこか生活感のない物質として、丸い粒に見えるのかもしれない。
ただ、その中でフルーツを真剣に選んでいる高齢の女性だけは違う。彼女にとって、それは丸い粒ではなく、一房のデラウェアであり、一つのプラムであり、一つのみかんなのだろう。これも個人的感覚だが、フルーツ売り場には高齢の人が多い気がする。物価高でフルーツが好きでも、なかなか買えない現実。私自身もそうだ。けれど年齢を重ね、家族が減り、自分のためにフルーツを買う余裕が生まれると、フルーツは生活の中心へやってくるのかもしれない。フルーツを選ぶ時間そのものにも、生活のゆとりや慎重さが必要だ。作品には書かれていないのに、そんなことまで考えさせられた。
ココナッツのシーンも印象的だ。
>これをゴンっと叩いてストローを挿して、その中身を飲んだら、ここから脱出できる気がして、
その飛躍はとても魅力的なのに、次の瞬間には、生ごみの日までに小さなハエがどれだけ集まるかを想像してしまう。夢を見ることと、その後始末を考えることが同時に起きる。生活とは、そういうものだとつくづく感じさせられる。
この作品の比喩は、とても不思議だ。うまいことを言おうとしている感じがまったくしない。けれど、現実をそのまま写しているわけでもない。生活をそのまま書いているようでいて、ほんの少しだけ言葉がずらされている。しかしそのずれのセンスがとても良い。
>家に着くと汗がダラっとたれて、
ここからはどれも特に説明されない。ハーブとは何なのか。なぜドライヤーなのか。教えてくれない。だから読者は考える楽しみが増える気がする。説明しないことによって、その人だけの生活が立ち上がる。
私が一つ想像するなら、ドライヤーは、汗で濡れた髪を乾かしているのだと思う。暑い状態で帰ってきて、少しでも髪を乾燥させ、さらっとさせる。そのうえで、リビングへ行き、エアコンの設定温度を一度上げる。涼感を得たあとでエアコンを強くしすぎないための、本人なりの節約や身体の整え方なのかもしれない。もっとも、ドライヤーも電気代はかかる。しかし、人はいつも完全に合理的に暮らしているわけではあなく。本人にとってそうするのが一番しっくりくる手順がある。だから結婚生活はややこしいのだと少し余計なことまで考えさせられるのが面白い。
これまで川やフルーツやベゴニアに反応していた語りが、料理の場面では淡々と手順を追う。生活ってなんだ、と問うている作品の中で、ここではまさに生活そのものが行われている。
>お出汁を引くときには二通りの心境があって、こんなことはやってらんないよ、と、これが世にいう生活というやつか、のだいたいどちらかであるが、両者が混じって、こんな面倒なことはやってられないけれど、これが生活か、となるときもある。
丁寧な生活への憧れと、やってられないという本音が同時にある。生活は、面倒くさいものと、それでもやってしまうものの混合で、どうやって折り合いをつけるのかも本人次第だ。話者は引っ越してきた当初、料理するつもりでこの部屋を選んだわけではなかったのではないかと思う。料理をする予定ではなかった部屋に、後から料理する身体が入り込んでいる感覚が素朴に語られているのがとても良い。
卵焼きを巻くという行為は、慣れていなければかなり神経を使う。もう何度も作っていて手順を身体が覚えているのだろう。
>これをくるくる巻いている間だけわたしは何も考えずに住む。
巻いている間だけは何も考えずに住む、とある。誤字なのかもしれないけれど私は「住む」がこの作品にあっている気がするのでそのまま読み進めている。その直後の括弧書きが重いからだ。
>(すくない収入のこと、離れて暮らす両親、さらに離れた場所に住む祖父母のこと、姉のこと、妹のこと。でもそれの何もわたしじゃないみたいで。)
話者の背後に、突然、生活の条件が見えてくる。お金のこと、家族のこと、距離のこと。いつも何かを考えている人が、卵焼きの手順の中でだけ、思考から解放されているように感じる。だから、
>卵焼きは空想上の月ほど黄色い。
この比喩がなんとなく儚い。現実の月はそれほど黄色くない。黄色い月は、絵本や子どもの頃に描いた空想の中にある。いや、大人にも月を書かせれば色を黄色く塗るだろう。卵焼きは、なんとなく生活するうえで身近な食べ物のイメージなのに、どこか空想の色をしている、という意味にもとれてくる。この作品は、そういう小さなずれが本当にうまい。
>食卓に並んだものたちをみて、米を炊くのを忘れていたことに気づく。
生活の要領の悪さが、ここで突然顔を出す。
>自分の要領の悪さやもっと根本的なだめさに直面した時。降り積もって続いていくことこそが、生活の核心の部分なのではないかと、ごくたまに思う。でもそんな考えはすぐに流れていく。わたしはわたしのだめさに流されて、その流れはとても速い。生活ってなんだ?
この流れは、冒頭の川と確かに響いている。しかし、川の話を最後に回収した、というチープさが感じられない。多分最初からずっと、流れを書いてきたからだと思う。川の流れ、客の流れ、商品の増減、汗の流れ、匂いの流れ、思考の流れ、日々の生活の流れ。そのすべてが淡々と積み重ねられてきたからこの一文がこの作品の輪郭をほんの少し浮き上がらせている感覚になる。
しかし、面白いのが、生活の核心をつかみかけるが、最後までつかみきれず流れる。
>生活ってなんだ?
という問いに対して、作品は理屈で答えない。出てくるのは、冷凍庫の奥にある、少量のカッチカチのごはん。これは希望と呼ぶには小さすぎるし、救いと呼ぶにはあまりにも日常的すぎるけれど、たしかにその日の話者を助けることになる。
冷凍ご飯は、過去の自分が残したものだ。いや、残したというより、少し余ったから、なんとなく冷凍しておいただけかもしれない。でも、そのなんとなくが、未来の自分を救う。要領が悪いこと、だめであること、米を炊き忘れること。そのすべての中にも、少しだけ自分を助けるものが残っている現実。こういうものに私はどれだけ助けられてきたか、忘れていたような気がする。
この作品は、そういうことを説明しないし、生きていれば大丈夫、とか、素晴らしい、とも言わない。ただ冷凍庫の奥に、カッチカチの少量のごはんがあった、と書く。自然に置かれているようでいて、実際にはとても丁寧に選ばれていて技巧が前に出ない。生活に流されながら、生活に救われる。
生きていくうえでとても大切なことを気づかされた感謝の気持ちで一杯になったので、推薦文を書かせていただきました。読んでいただきありがとうございます。