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2021/01/01 12:00:00

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『あわいに咲くもの』第一話〜第三話

『あわいに咲くもの』  第一話「泉に触れる指先」

―姪浜伊都 ―

わたし姪浜伊都(めいはま いと)がこの家を受け継いだのは、思っていたよりも静かな選択だった。
麓の街から県道を少し登った山の中腹、かつて大叔父夫婦の別荘だったこの家には、幾度か訪れた記憶がある。けれど、まさか自分が住むことになるとは、あの頃は考えもしなかった。

和洋折衷の洒落と遊びがあるいい別荘であるのだけど、いささか山の中。大叔父大叔母と亡くなり、親戚家族の間でも少々持て余し気味で引き取る意思を誰も示さない中、独立したばかりのではあるが在学中から少々の執筆で蓄えが出来ていたわたしは文筆稼業に集中できる場所を探していた事もあり、ふと「ここがちょうど良いかもしれない」と思ってしまった。

年明けから住み始めてからの数ヶ月で、だいぶ暮らしは馴んできた。
自分で選んだリネン類や、リフォームで作った露天風呂、家の裏にある小道を少し登ると湧き水が作る小さな泉がある。大叔父夫婦が手を入れたのだろうか、少し岩が配置されていて水を汲んだりしやすい足場もある。静けさに包まれて、日々の言葉がするすると指先から流れていく。晩年まで大学に籍を置いていた大叔父もここで思索を巡らせたのだろうか。

文章で生きていくことを選んだ以上、誰かと暮らす余地など、しばらくは考えないつもりだった。

そんな日々の中で――その日の、泉のこと。


初夏の光が差し込んで、裏手の湧き水が作る泉に影と揺らぎを刻んでいた。
山の水はまだひんやりとしていたけれど、石に背を預けていると、ゆるく肌がほぐれてくる。

わたしはひとりで服を脱いで、水に入ってみた。
誰にも見られない場所。
誰かに見られることのない身体。

でも、そうして水に包まれると、なぜだか逆に、どこかで誰かに見られているような気さえしてしまう。

静かな水の音。頬を撫でる風。
その感触の一つ一つを、指が探り、記憶する。
それは記憶であり、観察であり、愛撫のようにも思えた。

そのまま頭まで、ちゃぷんと沈んでみる。ゆらゆらと流れる身体、あわい流れとゆらめき、自分の肌に落ちる影はわたしの肌に何かを記しているように感じる。

誰に魅せる物でも無い自分のそれをどう認識すれば良いのだろう。

泉から上がると、濡れた髪を拭き、衣類を整え家に戻った。
リビングに置いてあるノートを開く。
誰にも見せたことのない、言葉の一番深い場所。
誰にも見せたことのない、想いの一番深い物。
わたしの身体を通って世界に落ちていく詩たちを、そこに記す。

――泉に浮かぶ何かの花びらと、わたしの胸のかたちが、似ている気がした――

そんなことを書きながら、またいつか読み返すだろう未来の自分に、こっそり手紙を綴るような気持ちだった。


その午後のこと。
玄関のチャイムが鳴ったとき、少しだけ驚いた。

こんな山の中まで訪ねてくる人は、そういない。
ドアを開けると、そこにいたのは――糸島能古(いとしま のこ)さんだった。

「……いらっしゃい。よくここまで来れたわね?」

「以前、引っ越しした事は聞きましたけど、どうしても訪れて見たくて...です。……ご迷惑でしたか?」

首を横に振って、玄関に迎え入れる。

中高の頃、わたしの一つ下の後輩として、よく生徒会で一緒に動いていた。わたしと良く似て彼女は少し小柄で、おとなしいけれど芯のある子だった。今は地元の出版社に勤めている。大学は別々でしばらくは疎遠になっている。わたしは高校三年の時、受験勉強の息抜きにとある文学賞に小説を応募し小さな賞をもらった。ある編集者にいたく気に入られたのか、小説以外にも書いてみないかと持ちかけられ、大学在学中から本格的に執筆活動を初めた。そしてその時に出版社でアルバイトをしていた彼女と、仕事上の付き合いが出来、今に至る。とはいえ引っ越し前後合わせても自宅で会うのは、始めてだった。

ダイニングの椅子に腰掛けて、簡単な茶菓子と冷たい緑茶を出す。しばらく、会話が続いた。

ふと――彼女の目線がノートに向かっているのを、わたしは気づいてしまった。

「……糸島さん、もしかして」

「……あのノート少しだけ、風で捲れたページを…見てしまいました。ごめんなさい」

彼女の目はまっすぐだった。恥ずかしさではなく、熱のある誠実さ。

「詩が、とても……美しかったです。先輩の身体が、まるで水と交じり合ってるようで……読んでいて、どこか、触れてしまったような気持ちになって」

わたしは何も言えなかった。
ただ、なぜだか手が伸びていた。
机に置かれたノートの上に、彼女の手がそっと重なる。

言葉にするにはまだ早すぎるけれど、
詩にはもう、少し書かれてしまったのかもしれない。


この時間を、わたしはきっと忘れない。
泉に揺れた指先が書いたものが、誰かに読まれた瞬間。
それがまっすぐに伝わってしまったときの、静かな、心のざわめき。

もしかしたら、ここから何かが始まるのだろう。
でもまだ、わたしはその名前を知らない。

ただ、言葉の前で、互いに手を重ねていた。

ーつづく



『あわいに咲くもの』第二話「泉に二人」

― 姪浜伊都 ―

「泉に行ってみる?」

そう口にしたのは、ほんの気まぐれだった。
けれど、彼女――糸島能古さんがほんの少し頬を赤らめ、小さく頷いた瞬間、
胸の奥がわずかに疼いたのを、わたしはごまかすように立ち上がった。
日が落ちきる前の、やわらかい時間。
家の裏手から続く小径を、並んで歩く。口数は少ない。けれど、それが不思議と心地よい。

泉の周囲は、大叔父夫妻が整えた名残が、石の配置や苔むした丸太のベンチに漂っていた。


わたしが子どもだった頃、この泉を何と呼んでいたのか――その記憶は曖昧で、
けれど静かなせせらぎの音が、遠い記憶の頁をそっとめくるようでもあった。
糸島さんはスカートの裾を両手でふわりと持ち上げると、
そっと岩の縁に腰を下ろし、足先だけを水に浸した。

その仕草の一つ一つが、夕暮れ時の薄い日差しにとても柔らかく見えた。

けれど、その次の瞬間。

「きゃっ──」

ぱしゃん、という水音とともに、彼女の身体が泉に滑り落ちた。
水面がはじけて、林の静けさが一瞬だけ途切れる。

「だ、大丈夫?」

わたしが駆け寄ろうとしたとき、
彼女は水の中で少しだけ顔をあげて、そしてまた、ぷくんとゆっくり沈んだ。

肩まで泉に浸かりながら、静かに揺蕩っているその姿は、
まるで水の精にでも抱かれているようで、わたしは息を呑んだ。

糸島さんは顔をこちらに向けて、しばらくわたしを見つめていた。
そのあと、小さく囁いた。

「先輩が感じたのは、これなのかな……」

彼女の表情は穏やかで、どこか遠くを見ているようでもあった。



すぐに家へ戻ることにした。
夏とはいえ、山の水は冷たい。身体を冷やしてはいけないと思って。

バスルームの棚から、バスタオルとパジャマ、そして下着を探す。

「糸島さん、ごめんね、まだおろしてない下着がなくて……。
もし気にしなければ、これ……わたしのだけど」

そう差し出すと、彼女は意外にも嬉しそうに、ふわっと笑った。

「先輩の、なんですね……うん、嬉しいかも」

そしてシャワーの音。
扉越しに聞こえるその水音は、泉よりは規則正しく、そして親密だった。

ほどなくして、糸島さんがバスルームから出てくる。
わたしの下着と、ゆるやかな部屋着を身につけた彼女。
それが自然に似合っていて、少しだけ胸が鳴った。
鏡越しに並んだ二人の姿を見ると、改めて思う。
中学、高校の頃はわたしの方が少しだけ背が高くて、少しだけ胸もあったはずなのに。
今では、ほとんど同じ。
──いや、同じというよりも、互いに余計なものを持たずに、
すっと溶けあうための、ちょうどいい輪郭をしているように思えた。

「サイズ、ぴったりでした」

彼女が照れくさそうに言う。

「ほんと、わたしが成長しなかっただけ、かしら?」

「そんなこと……でも、先輩と同じって、なんか、変な気分です」

そう言って笑う彼女の頬が、ほんのり色づいていた。



その夜、わたしたちは遅くまで話をした。
学生時代の思い出や、文章のこと、
泉のこと、ノートに書いた詩のこと……。
何を話したのか、細部はもう思い出せない。
けれど、話し終わったあと、わたしたちの間に流れていた静けさだけは、
今も泉のように胸の奥に残っている。

ふと彼女の寝息が聞こえて、視線を向けると、
ソファで丸くなって眠っていた。
バスタオルの裾から、わたしのインナーがちらりと覗いていて、
思わず、そっと手で隠した。

「……今夜は、ここまでね」

心の中で、そう呟いて、わたしも灯りを落とした。



この夜から、少しずつ、わたしたちの関係は動き始めたのだと思う。
泉にひとりでいたときは気づかなかった、
誰かと見つめ合う水面の美しさ。
それがこんなにも、柔らかいものだなんて。
──わたしは、まだ知らなかった。

ーつづく



『あわいに咲くもの』第三話「夜の泉、揺れる水面」

―姪浜伊都 ―

翌日の土曜日
昨夜のことは、まだ輪郭が曖昧で。
わたしは、午前の光のなかをゆっくりと過ごしていた。


彼女の衣類は洗ったが、今日はわたしの普段着に着替えてもらう。背格好はまるで同じで服の好みも似ているけど、糸島さんのほうが若干可愛らしいデザインを好むわね、と先ほど干しながら感じた事を思い浮かべる。

 先輩?

 少しぼぅっとしていたわたしに糸島さんは声をかけてきた。

わたしは一人で執筆活動の場所を得る為にこの場所に入った。ところが昨日から二人がこの家にいる。扉を開き、招き入れたのはわたしに間違いない。だけど、わたしの中に何かが、まだわからないそれは、なんだろう、今は言葉が浮かばない。

そのまま陽が落ちて、簡単に夕食をとったあと、わたしは彼女に声をかけた。

「今夜は二人で、泉に…行きましょうか」

再び泉へと向かう夜道、わたしと彼女は今度は手をつないで歩いた。
 
昨日よりも深くなった夜の闇は、ふたりの距離を静かに閉じ込めてくれるようだった。

虫の声も、木々のざわめきも、すべてが耳の奥で響いているような、深い静寂。


彼女の指先が、そっとわたしの手のひらを撫でた。


泉にたどり着いたとき、空にはまあるい月が輝き、泉の面に落ちていた。


まるで舞台装置のような光景。


わたしは草履を脱ぎ、彼女の手を引いて水の中へと足を浸した。

「今日は冷たく……ない、ですね」

「ふたりだから、かな」

水面に月が揺れ、ふたりの影が重なる。

わたしはゆっくりと彼女の肩に手を置き、背中に回して引き寄せた。
彼女の髪は湯気のようにやわらかく、頬に触れるとすぐに熱を帯びた。

「先輩……」

 わたし呼ぶその声が、泉の水をわずかに揺らした。
わたしは彼女の耳もとにそっと唇を寄せた。

「じゃあ、沈んでみよっか」

二人で、とぷんと、手をつなぎ潜る。

真っ暗の水の中に感じる彼女の体温。

こぽこぽと静かに湧き上がる水脈。

そして、かおを泉からあげる


月灯りにかすかに揺らめく水面、水の流れる音。木々の葉を囁かせる風。

泉から静かに身体を抜く。

泉の水滴が、流れる。

わたしはその一粒を手のひらで受ける。
彼女の小さな息が、夜を震わせた。



「ふぅ……」

まるで、詩の一行がはじめて発せられるように。
胸元に触れたとき、かすかな震えを感じた。
それは、新たな詩が生まれる気配。

「糸島さん……あなた……」

「先輩……それ、ほんとうに、わたし……」

水と水が触れ合い繋がるように、指と指、肌と肌が触れる。

泉が、揺れる。

合わせて、泉の面が微かに波打つ。

月が、それを静かに見ていた。

──詩が、こぼれる。

わたしの指に伝う、やわらかな鼓動。

彼女は腕をまわし、小さく震えていた。

「……先輩、わたし、隠せない……
 あの日、先輩を見ていたわたしの……」

「いいわよ、全部、
 だってわたしたちは今、あの日に置いてきた、詩のなかにいるんだもの」

手をとりあったまま、再びわたしたちは泉に沈み、ひとつの水音に溶けていく。
誰にも見られない場所で、誰よりも確かに。

ーつづく
―――
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 筑水せふり

 2025/07/14 11:24

初稿の第三話がnote にてRー18判定になってしまいましたので、改稿の上再投稿いたします。
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 2025/07/14 23:41

投稿時に改行が無くなっていたので修正しました。
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 千才森 万葉

 2025/11/24 21:29

なるほど、確かにあわいの作品ですね。白黒とか赤青とか、どちらかにも偏らない間で揺れ動いている感覚。五感による描写が多め、感触の方が多いでしょうか。
淡い、こちらも上手い。濃くも薄くもしない、作者さん好みの匙加減で書かれているのが凄く伝わってきます。
水面も、考えてみれば現実をあわいと暈かして映している幻想とも言えるでしょう。

全体的にテーマがしっかりしていて一貫性があり、ブレていないのも導入部分としては上手く機能していると思いますね。イメージを追いやすいです。

キャラクターの見た目や、売り出したいポイントを強調するような描き方ではなくて、作品を形作るための仕草や雰囲気そのものに描写の焦点を当てているのも好感が持てますね。作品の全てを味わって欲しいという作者さんの意欲が、好ましい体温となって伝わります。
世界を五感でもって描写するのは意外と疲れますよね。視覚情報だけをメインに描写するのなら、まだ楽なんですけども。でも、五感を上手く書き切れたら、作品のリアリティは間違いなく高まります。

もしかしたら、作者さんの詩に対するイメージが“あわい”なのかも?
自分が定めた詩の概念を軸として、詩として生きる、あるいは詩の中を生きる。そんな心構えを登場人物の言動の端々から感じられます。範囲を詩と捉えてしまうと大きすぎるのかもしれませんけど。
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