――糸島能古――
部屋の灯りは、ひとつだけ。
乳白色の光が、鏡の前で滲む。
ネグリジェの布は、月灯りを吸い込み、肌にやわらかく貼りつく。
静寂の中で、わたしの躰は目を覚ます。
お姉さまの気配は、この部屋の空気に溶けている。
香のように、記憶を布に移して。
鏡の前に立つ。
鎖骨の下に、小さな影が落ちる。
胸の線は呼吸に合わせて波打ち、
背の中では、神経索の震えが波形を描く。
それは、詩だ。
肌という紙に、記憶というインクで綴られた詩。
この肩は、お姉さまの眼差しが留まった場所。
この胸は、お姉さまの吐息が韻を刻んだ場所。
この背は、お姉さまの沈黙が寄り添った場所。
指先で、ひと文字ずつなぞるように触れる。
指は冷たく、記憶はあたたかい。
ふたつが重なる、あわいの夜に、わたしは生きている。
布越しに、肌が詩を詠う。
声ではなく、触れ合う温度で詠う。
呼吸は緩やかな対句となり、鼓動が韻を踏む。
お姉さまがいない夜も、
わたしの躰は、詩の紙面であり続ける。
不在は余白。
そして余白は、いまだ書かれぬ行の約束。
記憶の中の、その指が、
再びわたしをなぞるとき――
最後の一行が、生まれる。
わたしは、その行を夢に抱いて眠る。
肌に綴る、わたしの夜のままに。
――了――
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