「え、三学期って観測会は2回なんですか?」とわたし
「学年末テストと春休みになるからねえ。一月末と二月だけかな。先生の都合次第で一回だけかもしれないよ」とは耳納先輩
「えーそんなぁ。せっかく新しい望遠鏡12月に来たのにぃ…」
天文部の何が楽しいってやっぱり学校に泊まって夜通しわいわいがやがや、真面目に星を観察しつつ、いろんな話しに花を咲かせ、そして、ね、静かな時間に考えを巡らすのがいいのに。
そんな事を放課後部室で思っていたら久しぶりに3年の先輩が2人、部室にやってきた。ふたりとも推薦が決まっているのでもう大学入試は受けないらしい。
「やあ、ちーちゃん元気してた?耳納君も」
「基山さんに篠山さん、勉強してる?どんどん前倒しで進むからね、進路とかしっかり考えとかないと大変だよ」
甘木先輩と八女先輩が部室に組み立て出してある新望遠鏡を眺めている。
「おぅ、15センチのカセグレンか、まあまあデカいな」と甘木先輩
「自動導入の経緯台かぁ、いいなあ。耳納君も持ってるんだっけ?」とは八女先輩。
「自分のは9センチのマクストフなんでかなり小さいです、まあ庭でみるのにあんまり大きくても扱いにくいんで、来年無事進路が決まったら中古車と20センチクラスぐらいは買いたいですね。」
耳納先輩は少し照れたように笑った。
(え、20センチ……)
横で聞いていた私は思わず息をのんだ。車とか20センチの望遠鏡とか、ちょっと自分が持つような物って思っても無かったので、耳納先輩が未来を思い描きながら語るその姿に、胸の奥が熱くなる。
「頼もしいなあ。俺が入った頃は地学教室の望遠鏡だけだったからなあ」
甘木先輩が感慨深げに言い、八女先輩も「後輩がしっかりしてると安心するね」とうなずいた。
「じゃあ一月末の観測会はうちら3年生2人とも参加するから、耳納部長は顧問に言っといてくれるか」
「はい、了解です。晴れると良いですね」
「まあ曇ったらそれはそれでちーちゃんの恋バナでも聞き出して最後の高校生活を彩りましょうw」
八女先輩がにやりと笑った。
「え、えっ……!?」
思わず声が裏返る。
耳納先輩は苦笑いを浮かべながら、
「八女先輩、それは本人が嫌がるでしょ」
と軽くたしなめてくれたけど、私の頬はもう真っ赤だった。
(……恥ずかしい。でも、ちょっとだけ、聞いてほしい気もする)
観測会の夜、八女先輩と二人で話す時間が取れると良いな…。
柳川先輩と大川先輩はまだあと1年あるけど、三年の先輩はもう多分観測会はこれが最後。お二人共推薦で大学は決まっているからこうやって時間もあるけど、国立大学狙いの三年生は今からが本番。耳納先輩は何処を目指しているんだろう?
いつまで観測会に来れるのかな?
ちょっと胸が苦しい。
八女先輩に聞いてもらったら、何か答えてくれるだろうか?
–––
そして一月の終わり、土曜日の夕暮れ。3階の渡り廊下には今までの10センチ屈折赤道儀と、真新しい15センチシュミットカセグレン経緯台が並んでいた。
ふうぅぅ、寒いねえ
「ぼちぼち星が見え始めたんで、初期設定しますか」
耳納先輩が自分のスマホに入れた自動導入のアプリで望遠鏡のセットアップを始めた。まずはシリウス、チュイーンとモーターの音が微かに赤みが残る屋上に響く。
先輩は概ねシリウスに向いた望遠鏡を覗きながら向きの調整をとっている。そして次はアルデバラン。そしてカペラ。なるべく離れた星でアライメントを取るほうが、その後の追尾や導入の制度は高くなるのだけど、東の方に雲が出ていて良く見えない。
「とりあえずこれで行ってみるか」
と耳納先輩が呟いた。
自動導入の設定が終わる頃には残照もすっかり落ちて冬の星々が輝き出した。
「じゃあ最初は八女先輩からどうぞ、定番ですがM42を入れますね」
耳納先輩がスマホを数回タッチすると、また静かに望遠鏡がうごきだし、そしてオリオンを向いて止まった。微かに追尾のモーターの音がちりちりと聞こえる。
「わあ~、明るい、トラペジウムもくっきり、良いねえこれ、ふふふ〜〜ん」
八女先輩がちょっとはしゃいでいる。その後ろで甘木先輩がそわそわ。
「日が落ちても制服のままじゃ寒かろうに、みんな一旦降りて私服に着替えてこい。その間責任持ってコイツは耳納と俺とで管理しといてやるからよw」
「あ、甘木先輩で独り占めだ」
っとみっちゃん。
横でちょっと呆れ顔の耳納先輩はほらほら早く着替えておいでと手をひらひらしている。
今日の観測会は三年生の二人を除けばいつも通り天文部一年女子の三人(わたし、筑水せふり)と(篠山三智:みっちゃん)、(基山高瀬:たかちゃん)に、二年女子で生物部掛け持ちの柳川先輩と大川先輩、二年男子の耳納先輩の定番メンバーだ。
八女先輩も加えて女子六人で空き教室のカーテンを引き着替える。土曜日でお休みとは言え学校に来る時はきちんと制服を着てくる事になっている。といってもコートはいつもの学校指定でなく普通に私服のダウンを羽織ってきた。無駄に荷物になるし、顧問の先生にも許可をもらった。
今まではちょっとおしゃれ気のあったみんなも、真冬の観測会とあっては服装がだいぶ実用寄りだ。
ただ部室は十一月の観測会と同様、灯油ストーブを宿直室から借りているので、上着は調節しやすいように重ね着にしている。
さてさて、最新型の威力を見せてもらおうか――と、皆で屋上に向かう。
階段を上って渡り廊下の向こうから、男子二人の笑い声が聞こえてきた。
耳納先輩の笑い声だ。先輩があんなふうに声を上げて笑うのは、わたしの知る限りあまりない。三年の上級生相手で、ざっくばらんで、でもどこか丁寧な言葉づかいの耳納先輩。
去年の大晦日、初詣のとき――たかちゃんのお兄さんで写真部三年の基山先輩も一緒だったけど、あの時、先輩たちはあまり話していなかった。
わたしが横にくっつきすぎていたからかもしれない。
そう思うと、今になって少し胸のあたりがひやりとする。冷たい空気のせいだけじゃない気がした。
渡り廊下に出る扉を開けると、着替えに下りた十分ほどの間に、ぐんと気温が下がったようだ。
みんな一瞬、小さく「んっ……」と息をのんで廊下に出る。
白くこぼれた吐息が、蛍光灯の光にかすかに照らされてゆらめいた。その向こう、校舎の上にはすでに夜が満ちている。
天文薄明も終わり、冬の星座が冷たい群青の空に瞬いていた。
オリオンの三ツ星、天頂にはカペラ。
光のひとつひとつが、凍てた空気の粒に触れて震えているように見える。
先輩たちがこちらを向いて手招きする。校舎の向こうからは、街の灯りや車の音、宵のうちの喧騒がこぼれてくる。それらも日付が変わるころには次第に遠のき、そして――わたしたちの時間がはじまる。
観測会を重ねるうちに、少しずつ覚えたこと。人の営みの向こうに、静かな星の世界があるということ。
甘木先輩も手招きする。
「一年も年末に校庭で月を見ただけだって? 今までの10センチ屈折とはだいぶ違うよ。ほらほら」
大川先輩が笑いながら、
「一年からでいいよ〜〜。私たちは後でゆっくり見るから〜」
と譲ってくれたので、最初はたかちゃんが覗きこんだ。
「わ、」
――短いけれど、声のトーンで分かる。あれは驚きの「わ」だ。
続いてみっちゃん。
「おおぅ、色がわかる。ちょっとピンクっぽい」
むむ、そんなに違うのか。
それでは、わたし。
アイピースを覗いた瞬間、息が止まる。
「うわうわわわわ、先輩これ、これ、くっきり、四重星!!」
冷えた空気の中で、光が細く震えている。 細部まで生きているような光だった。
「ちょっと今のうちに覗いとこうかしら」
柳川先輩が髪を束ねながらやってきた。
「あら、やっぱり結構……これはいいわね。うん、いい」
短く頷く声に、理科室の匂いのような落ち着きがある。
「じゃあわたしもみとこっかな〜〜」
相変わらずふわふわした雰囲気の大川先輩に交代。
「あら〜、これはこれは、この大きさだと色も感じるねぇ〜。偉いねこのコ」
うん、道具をもれなく擬人化するのは、ここ天文部でもよくあることだ。
ちなみに10センチの屈折は“にこちゃん”。
文化祭を見に来ていたおそらくOBの人が、「にこちゃん、まだあるんだなあ」と話していた。
それなりに年配の人だったけど――いつから“にこちゃん”になったのだろう。
そんな昔から、この部には星と一緒に、人のぬくもりが残っているのかもしれない。
–––
「ちょっと冷えてきたし、一旦休憩にしましょうか。先輩達も部室で温まってください。ストーブでおでんできますから」
アルミ鍋に入った一人分のおでんが三つ、くつくつと温められてゆく。
真ん中がいい感じになったので、箸でつついて場所を入れ替える。湯気がふわりと上がって、ストーブの上でゆらめいた。
「先輩達からどうぞ〜」と大川先輩。
「あらありがと、悪いわね」八女先輩が受け取り、
「部室おでんも食い納かぁ」甘木先輩が笑う。
みんな楽しそうに見えるのに、どこかにふとした空白がある。
それは冬の寒さのせいじゃない――
もうすぐこの人たちが卒業していく、そのことを、誰も言葉にしないまま分かっているから。
湯気の向こうで、笑い声が少しだけ揺らいで見えた。
「ねえ、筑水ちゃん」
八女先輩から話しかけられた。
声をかけられた瞬間、ちょっと肩がぴくっとなる。川川先輩たちとはまた違う、二つ上の“お姉さんの空気”がある。
「文化祭、筑水ちゃん頑張ってたわね。天文部と、あと写真部でも」
「え、ええええ、先輩も写真部展のあれ見たんですか? 耳納先輩が大きく引き伸ばして展示しちゃった、わたしのあれ……」
「見た見た。結構話題になってたよ。天文部と写真部、あなたたちってよくひとまとまりで校内歩いてるから、“ファミリー”なんて呼ばれてるの、知ってた?」
「ふぁ、ファミリー……? そ、そんな……」
向こうで耳納先輩が咳き込んでいる。
たぶん、聞こえてた。聞こえてる。
「ふふ、かわいいねえ。あの頃の耳納くんからは想像つかないわ。後輩の面倒見て、頼りにされてるなんて」
湯気の向こうで、八女先輩の目がやわらかく細められていた。
それはからかうでもなく、懐かしむようでもあり――どこか、遠いまなざしに見えた。
「先輩……耳納先輩って、前から、あんな感じだったんですか?」
「うーん……そうね。真面目で、でもちょっと不器用。星のことになると周り見えなくなるから。――気をつけてね、風邪、って意味でね」
冗談めかした笑みが、ほんの少しだけ意味深に見えた。
「ねえねえ、筑水ちゃん、私に何か星を見せてくれるかな?にこちゃんの方で」
「え、わたしがですか?」
「そうそう、えーっと、天王星を見せて頂戴ね」
急にご指名を受けてしまったので、八女先輩と再び屋上に上がる。
冷え切った屈折望遠鏡の固定ノブを緩め幾分西に傾いた天王星を探す。6等級なので街明かりのある学校では肉眼ではわからない。
天文雑誌に出ている惑星の位置図を頼りにファインダーを覗きながら明るい星をたどって目星をつけてゆくと、青っぽい独特の星が入った。固定ノブを閉め、微動ハンドルを少しずつ回しファインダーの十字線の中央に捉える。そして本体の望遠鏡を覗くとほぼ中央に面積のある青みがかった天王星がその姿を見せていた。
「先輩どうぞ」
そう言って、八女先輩と変わる
「随分手際が良くなったわね。感心感心」
そんな事を言いながらしばらく覗いたあと、接眼部から顔を上げ、軽く息を吐いた。
「きれいね……ほんとに。あ、そうだ」
少し間を置いて、いたずらっぽい目をこちらに向ける。
「で、耳納君とはうまくやってるの?」
「えっ、えええ!? な、なにをですか!?」
「いやまあ、写真部の方でね、耳納君が撮った筑水ちゃんのあの写真見てると――」
先輩はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「全く心配ないんだけど。っていうか、いやまあ、うらやましいわぁ。もうね」
その言い方があまりに自然で、わたしはどう反応していいか分からなかった。
“うらやましい”という言葉の意味を考えるうちに、胸のあたりがじんと温かくなっていく。
「……そ、そんなことないです。あの写真だって、たまたま……」
「ふふ。耳納君、“たまたま”なんて顔してなかったけどね」
八女先輩が笑う。
その一瞬の揺らぎが、わたしの心の中にも伝わってくる。
照れくさくて、でも少しだけ誇らしいような――そんな感情が静かに沁みていった。
「私なんかねえ、天文や気象は好きだけど、じゃあ打ち込んで何かっていうほどでもなし、一年の時でも先輩たちに、いろいろ教えてもらって、でもあなた達に何か渡せたのかなあって、もうあと二月で卒業なのに、何だかそんな事ばっかり考えちゃってね」
わたしは静かに八女先輩の横顔を見つめていた。吐く息が白く揺れて、街の灯を透かしている。
「……そんなことないです」
思わず口にしていた。
八女先輩が、少し驚いたように目を瞬かせる。
「先輩がいなかったら、きっとわたし、ここまで続けられなかったと思います。始めての観測会だったり、文化祭のときだって」
「ふふ、そんなこと、あったかしら」
「ありました。あのとき、写真部の展示もあってバタバタしてて……先輩が『大丈夫、空は逃げないわよ』って言ってくれたの、覚えてます」
八女先輩は少しだけ目を細めて笑った。その笑顔は、少しだけ遠くをみてて、でもあたたかかった。
「……そっか。そんなこと、言ってたんだ、私」
「はい。だから、わたし……卒業しても、八女先輩のこと、ずっと忘れないですよ」
風がふっと強くなって、八女先輩の髪がふわりと舞った。
「ありがとね、筑水ちゃん。……そう言ってもらえると、ちょっと報われる気がするわ」
そして八女先輩は、少し照れたように笑いながらつぶやいた。
「まったく……ほんとに、かわいい後輩たちに囲まれて、幸せ者ね、私」
「あなた達に何か残したいって思って、今日観測会に参加したのに、何だか私の方がもらってるわね」
八女先輩の声が、夜気にほどけていく。
「……もらってる?」
わたしは小さく聞き返した。
「うん。筑水ちゃんたちを見てるとね、ああ、ちゃんと続いていくんだなって思えるの。わたしがここにいた時間も、無駄じゃなかったって。そう思えるだけで、十分もらってるのよ」
八女先輩は笑って、望遠鏡の鏡筒を軽く叩いた。
「にこちゃんだって、こうして代々受け継がれてるんだもんね」
「はい。……でも、わたし達も、ちゃんと残したいです。先輩みたいに」
八女先輩は少しだけ目を伏せて、
「ありがとうね」
ともう一度小さく言った。
–––
「…で、耳納君とはどこまですすんでいるの?お姉さんに白状しなさい、こらこら」
さっきとは打って変わって、急にいたずらっぽく話しかけられた。
「え、えっ、えっと、とっても仲良くして、ます…ょぅ」
「あらあら、困った事があったら卒業後でもお姉さんに頼って良いわよ、ってまぁ、あの耳納君じゃそんな事無いか、ふふ」
八女先輩は少し身を乗り出して、いたずらっぽく笑う。
その目の端には、冬の星が映っているように光る。
「えええ……もう、先輩、からかわないでください……」
わたしは頬が熱くなるのを感じ、マフラーの端をきゅっと握りしめた。
「だって気になるじゃない。あの耳納君、見た目は落ち着いてるけど、写真撮ってる時の目はねえ、時々部室で筑水ちゃんにカメラを向ける時ね、あれ、筑水ちゃん以外には向けられない顔よ」
「そ、そんなこと……」
「ねえ筑水ちゃん。何かに感じた時、それはほんの一瞬でもいいのよ。ちゃんと見上げた時間があれば、それでずっと光って、心のなかに残るのよ」
あのですね…と先輩に聞いてみる。
「耳納先輩が写真を撮っているときって、ちょっと目が変わるっていうか、いやいつもと同じように優しいんですけど、ちょっとだけ奥を見られているような…」
「おぅ、耳納くん、私の可愛い後輩をそんな目で見ているとは穏やかでないねえ」
「いえ、耳納先輩が悪いんじゃ無くて、たぶん、きっとわたしが見られたがって…」
「ちょっとまった筑水ちゃん、あなた達どこまでって聞くものでもないか」
八女先輩は、思わず吹き出して、手で口を押さえた。
「ふふっ、そう来るとは思わなかったわ……。なるほどねぇ、見られたがって、か」
わたしは慌てて首を振る。
「ち、違うんです、あの、そういう意味じゃなくて……でも、ちょっと、ほんとにそんな感じで……」
「いいのよ、わかるわかる」
八女先輩は頷きながら、そっと望遠鏡の鏡筒を撫でる。
「誰かに見つめられるって、ちゃんと自分が“いる”って感じられることだもの。そういうの、星を見るのと少し似てるのかもね」
「星を見るのと……ですか?」
「うん。どんなに遠くても、ちゃんと光ってるでしょ。こっちが見上げる限り、星も見返してくれる。耳納くんのレンズも、きっとそういう光を探してるんじゃ無いかな?」
八女先輩はそう言って、わたしの肩に手を置いた。
「今日、いい顔してるわねぇ。見られることを怖がらない人は、見せるものを持ってる人なのよ、きっとね」
わたしは言葉を失い、ほんの少しの沈黙のあと、
「……ありがとうございます」
とだけ、かすかに答えた。
屋上の風はわたし達の髪を揺らし、鏡筒の中で星の光が静かに瞬いていた。
「……でも、そこまで私に話してくれるなんて嬉しいなあ。可愛い後輩の恋バナを本人から直接聞けるなんて先輩冥利に尽きるわねぇ。じゃあ物はついでに、写真部の展示以外の写真ってあるの?」
わたしは少しうつむいて、頬を指先でかきながら答えた。
「……えっと、あります。その、わたしがモデルの練習用とか……その、ちょっと、遊びに行った時とか、いろいろありますけど…」
「ふふ、やっぱり。耳納くんがあの展示だけで満足してるとは思えなかったもの。」
八女先輩は楽しげに目を細める。
「どんなの撮ってるの? 私服で撮ったりしてるの?」
「……放課後とか……休日にちょっと…」
言いながら、わたしの声がどんどん小さくなるってしまう。
「あら、ちょっと聞いちゃいけなかったかしら」
「……えっと、そんな事、ないですよぅ」
「なるほどねぇ」
八女先輩は、夜気をふっと吸い込むようにして笑った。
「それは、耳納くんにとっての“星”なのね」
「星……?」
「ええ。あなたが見上げる星をね、彼は筑水ちゃんに見てるのね。きっと同じ方向を見てるんだと思う」
わたしは言葉をなくし、望遠鏡の接眼部を見つめた。
「……なんか、恥ずかしいですけど、ちょっと嬉しいです」
「いいじゃない。青春してるわぁ、筑水ちゃん」
八女先輩は笑いながら、そっとマフラーを直してくれた。
「ちゃんと私が見たかった物、見せたかった物が受け継がれていて、満足だわ。それが分かっただけでも今日来て良かった」
八女先輩の横顔が、星明かりに照らされていた。うまく言葉にならなくて、わたしはただ頷いた。そして胸の奥で、何かがひとつ、静かに灯るように感じた。
そのまま先輩の横顔と星空を眺めていたら、階段を上がってくる音が聞こえてきた。 甘木先輩と耳納先輩、みっちゃんとたかちゃんの四人の声と少しづつ異なる足音が重なる。
かちゃり
渡り廊下の扉が開くと同時に、ふぅ冷えるねえっとみっちゃん。
時間はちょうど0時を回ったところ。
耳納先輩が話し出した。
「それじゃあ今から3時まで自由活動にしますけど、先輩たちはどうされますか?」
「ちょっと俺にも新型をいじらせくれや、さっきアプリはインストールしたから」
と甘木先輩。
「どうぞどうぞ、じゃあ自分は一旦接続を解除しますね」
耳納先輩がスマホを操作すると自動導入の経緯台はランプを点滅させて接続待機モードになった。
「私は一旦部室であったかい物でも頂こうかな、その後はちょっと仮眠してるね」
そう言って八女先輩は部室の方に降りていく。
「わたしもちょっとあったまってきます」
と言って八女先輩のあとを追って部室に向かう。部室には柳川先輩と大川先輩の二人がストーブの番をしていたのであったかい。
「お、ちょうどいい所で二人戻ってきた」と柳川先輩
「ちーちゃん、ストーブの番をお願いね〜」大川先輩。
わたしに部室の番をまかせて川川コンビのお二人は何時もの様に校舎の何処かに消えていった。まあ生物部室の方だろう。あちらもエアコンが入って観測会の時の使用許可も顧問の先生に取っているそうだし。
電気ポットにはたっぷりお湯が沸いていたので八女先輩に何か飲みますかと尋ねる。観測会用に買ってきたスティックのコーヒーやココア、紅茶が紙コップに刺さっている。
「じゃあココア貰おうかな。ちょっと冷えちゃったねえ」
と先輩。
おでん、まだ開けていないのありますけど、温めますか?と尋ねると、んー、今屋上の四人用に残してあげようか?なんて先輩は言葉を返す。
暫く静かなまま、二人でココアを飲む。先輩は机の上にある天気図を何枚かめくって、指でなぞっている。
「同じ気象通報聴いて描いても、ちょっとづつ皆違うのよね。性格が出るっていうか。わたしのは…あちゃ、一年生に負けてるわ」
しばらくの沈黙の後
「もう少しで卒業かぁ」
不意に先輩がつぶやく。
「えっと、何か、まだやり残したとか、そんなんですか?」
真意はわからないままに問い返した。
「筑水ちゃんみたいに可愛がってもらいたかったなあ、なんてね」
顔が赤くなりそうだ。
「じゃあちょっと休んでくるかな。毛布1枚借りるわね」
そう言って八女先輩は隣の理科室の方に入っていった。あちらもエアコンは付けてあるからさほど寒くはないだろう。
一人部室に残されて、この一年間の事を思い返す。入学式の日、部活紹介の日、一人で、あの扉を叩いた時の気持、始めての観測会、先輩の手、写真のモデルをした事、みっちゃんとおーちゃん、文化祭、たかちゃんの活躍、写真部の展示にわたしのポートレートを先輩が展示した事、クリスマスの女子会、初詣。
一年前の受験生の時には想像もしなかった事が沢山あった。不安と、喜びの、そんな一年だった。先輩と一緒にいられるのもあと一年、わたしも二年後には卒業なんだ。
これからも不安と喜びを重ねていく毎日なんだと思う。新しい一年生は、天文部に入ってくれるかな。一人でもいいから、あの扉を叩いてくれたら、きっと一年前の耳納先輩も同じ事を思っていたんだろうなと、ポットのお湯が沸く音を聞きながら部室の扉を眺める。
午前一時、一人でストーブの番をしながら天文雑誌を読んでいたら耳納先輩が部室に戻ってきた。
「ふう、風は無いけど冷え込んで来たね」
ちょっとほっぺたが赤くてなんだかかわいい。
「八女先輩がいないけど理科室で仮眠かな?」
「あ、はいそうです、甘木先輩とみっちゃんたちはまだ上ですか?」
「甘木先輩は新望遠鏡を満喫してるよ、篠山さんと基山さんは暫くしたら降りてくると思うけど」
……今までの観測会、自由活動と言う名の休憩、仮眠時間は自分の教室で一休みしていたけど、真冬の深夜で暖房なしはさすがに寒いかなぁ。毛布は沢山宿直室から持ってきている。さてどうしようかと一思案していると先輩は
「先に一休みしに行っといて、僕も後から行くから」って言ってくれた。
毛布を2枚持って自分のクラスの扉を開ける。
よいしょっと。
校庭側のわたしの机。青白い月の光を天板が反射している。屋上と違って思ったほど冷え込んだ感じでも無かった。毛布を重ねてくるまってから座る。
宵のうちより静かになった街の音に耳を澄ませていると先輩がやってきた。
「こんばんは」
囁くように改めて挨拶しながらわたしの隣に椅子を並べて座った。
「寒く無いかな?」
「うん、だいじょうぶですよ、先輩。たかちゃんとみっちゃんは部室ですか?」
「うん、おでんの残りを温め直して食べてると思うよ」
そう言って先輩は軽く笑った。
「八女先輩と結構喋っていたみたいだけど、何かあった?」
「えっと、あの、ですね、私も先輩に可愛がってもらいたかったなあ……って言ってました。筑水ちゃんがうらやましいって……」
「あー、えっと、まいったなあ」
耳納先輩は、そう言いながら頭をかいて、少し照れくさそうに笑った。その笑顔が、教室の薄明かりの中でほんのり揺れて見えた。
「でもさ、そう言ってくれたってことは、ちーちゃん、ちゃんと可愛がられてたんだと思うよ」
「そ、そんな……」
思わず顔が熱くなる。
「ほんとに。あの人が素直にそんな事言うのも初めてじゃ無いかな」
先輩はそう言って、少し遠くを見るような目で笑った。
教室の外、月が少しづつ高度を上げ、校庭を青く照らし初めている。夜はゆっくりと更けていくのに、この静かな時間だけは、どこか止まっているようだった。
「……耳納先輩は」
わたしは、ためらいながら口を開いた。
「その……どんな後輩が、かわいいですか?」
先輩はしばらく黙って、それから校門の方を見つめながら言った。
「うーん……いろんな事、できれば自然科学に興味をもってなぜ、どうしてって、真っすぐ上を向いて聞いてくる後輩、かな」
先輩が顔を振り、そしてわたしを見つめている。
月の青さより透明な、透き通る言葉。
去年の春、あの今は葉を落としている桜の木の下で、この校舎をみあげて、部室の扉を叩いて、ずっと見上げて来た。
すでに、もう、すべてを通じているけど、それでもまだ、今はもう一度、いや、何度でも聞きたい。
「先輩はなぜ、どうして…」
その質問の最後は、もう口にする事はなく。
霜が降りるがごとく、触れ合うだけだった。
–––
午前3時を回ったので、自由活動及び仮眠時間は終了。夜明けまでもうしばらくあるので、かに座やしし座、おおぐま座等の春の星座を写真に取ったり観察したり…と行きたいのだけど、生憎雲が多くなってきてしまった。
わたしの自宅は山合いで、北側の斜面になるので南側のほうは絶望的に見えない。なので観測会がチャンスなのだけど天気だけは仕方がない。
自分の双眼鏡を取り出して雲の間から見えるものを探してゆく。
ニコンの10x35。
理科室から起きてきた八女先輩が
「おや、いつの間にそんないい双眼鏡を、ニコンじゃないの」と声をかけてきた。
甘木先輩も
「35mmなら筑水さんでも扱いやすいだろうね。良いの見つけたな」と褒めてくれた。
「覗いてみますか?部の7x50よりコントラストがあって見やすいかもですよ」と甘木先輩と八女先輩にそれぞれを手渡すとお互い取り替えながらかに座のM44だろう、そちらを向いてふんふん、ほほう見比べ始めた。
「なるほどねえ、値段の違いってあるのねえ、明るさだけなら7x50なんだけど、対象の見やすさとはまた別なんだね」
などと感想をつぶやく。
柳川先輩と大川先輩も屋上に上がって来たけど、寒いと一言、毛布にくるまったまま手を出さない。甘木先輩は「お前ら二人はほんとマイペースだな。そういえば生物部で作っていた鳥の骨格標本、完成したんか?」なんて話を振ると
「あれはですねえ〜、セキレイはほぼ完成ですよ。ニワトリもできたんですけど、頭がありません!」
一同軽く吹き出す。そりゃフライドチキン屋さんでも頭は渡せないよなあ。
そんな会話をしながら、時刻は午前四時を少し回ったころ。東の空にはうろこ雲がかかり、下弦の月と春の星座たちはその合間に顔をのぞかせていた。
「もう少し見えるね、もうちょっと」
耳納先輩がアイピースを覗き込みながら月のクレーターのスケッチを描いている。デジタルカメラで撮れば一瞬だけど、よく目で見て観察する事は大事だよと教えられ、最初の観測会の時からわたしもスケッチは描き続けている。
吐く息が白い。夜気はなお凍てつく。
たかちゃんが「月ももう無理かな、隠れちゃう」と言って鏡筒をゆっくりと回す。その動きが止まる頃には、雲が空のほとんどを覆っていた。
「撤収かな」
耳納先輩の声で、皆がいっせいに動き出す。
望遠鏡の鏡筒に白く浮かんだ夜露を、たかちゃんが指先でなぞっている。
「結露しちゃうね。毛布かけとこうか」
柳川先輩が天文部用の毛布を取り出して、鏡筒を包むようにかけた。大川先輩がその端を整える。
甘木先輩と耳納先輩が重たい屈折望遠鏡の架台を下ろして行くので、わたしたちは付属品をどんどん部室に運んでいく。
撤収作業はいつもちょっとだけ寂しさを覚える。小さな脚立を片付けながら、胸の奥がしんとするのを感じた。
何往復かして屋上に出ると、雲の向こうで空がうっすらと明るみ始めていた。
冬の夜が、ゆっくりと朝へ溶けていく。
「おおぅ、焼けてきた」
みっちゃんがスマホを構え、空を指さす。
薄桃色から朱色へ、雲が静かに染まっていく。
「きれい……」
たかちゃんが小さく呟いた。
その声に応えるように、八女先輩が笑いながらみんなを集めた。
「せっかくだから、記念撮影しようか」
耳納先輩がセルフタイマーをセットして、朝焼けの雲と校舎の3階を背景に皆で並ぶ。
甘木先輩が冗談を言って、皆が少し笑った瞬間、シャッターが切れた。
冷たい空気の中に、ほんのりと湯気のような笑い声が立ちのぼった。
六時半を過ぎると、顧問の先生が部室に顔を出した。
「みんな、無事終わったか」
先生は簡単に挨拶と部室の確認をして一応の終了。学校から借りたストーブや毛布、電気ポットなんかを皆で宿直室に戻しに行く。
部室に戻ってくると少しだけ殺風景に感じる部室で眠気を覚えた。
でも、まだ終わりじゃない。
「先生、私たち、このあと銭湯行ってきます」
柳川先輩が言うと、先生は笑ってうなずいた。
「そりゃいいな。冷えただろうから、ゆっくり温まってから帰れよ」
---
朝風呂
七時を少し過ぎたころ、学校近くの銭湯の暖簾をくぐる。甘木先輩と耳納先輩の男子二人はここでお別れ。お風呂上がりの耳納先輩を見てみたい野望は残念ながらまたいつか。ちょっと名残惜しいけど。
古びた木札を受け取り、靴を脱いで上がると、ふわりと漂う石鹸の香り。
湯気の向こうで、白いタイルの湯船が朝の光を反射していた。
「いつもながら……天国だねえ……」
みっちゃんが肩まで沈みながら声を漏らす。
たかちゃんは髪を結い上げて、湯縁に腕を乗せていた。
八女先輩が
「夜明けの観測って、ほんと冷えるのね」と笑うと、柳川先輩が「でも、それがまたいいんですよ」と返す。
大川先輩は湯船の縁に並んだ洗面器を眺めながら「この並び、スターリンク衛星のトレインみたいだねえ〜」と言った。
湯気の中で、八女先輩がふとこちらを見て、
「ちーちゃん、恋の話はまた聞かせてね、卒業式までもうちょっとだけ」と、にやりと笑う。
みっちゃんが「それ聞きたい~」と身を乗り出し、たかちゃんが「ほら、顔赤くなってる」と小声で囁く。
笑いが湯の上で弾け、波紋のように広がった。
湯船の中で、わたしは静かに目を閉じる。
夜空の冷たさも、朝焼けの色も、今はもう遠くの出来事のようだ。
ただ、身体の芯に残る小さな光――
それが、この冬の観測会の思い出になるのだと、そう思った。
――第十七話、了
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