わたしが書いてきた「あわいに咲くもの」
第九話はわたし個人の主義主張をそのままキャラクターに喋らせて、作品を読むひとに対してやはり誠実ではないなあ。と感じまして削除はしていませんが反省を込めてほぼ没扱いとして注釈コメントを冒頭に。
一番新しかった15話は完全に削除。綺麗なんですけどね、ただそれだけで以前の作が自分でよくできたから似たような物をもう一度過剰に、かつ深掘りもなく書いたんだなと思い削除。12話もそうかな、描写が過剰だ。大幅に改稿する必要ある。全削除でもいいくらいか。
漫画家、細野不二彦氏の「あどりぶシネ倶楽部」という少々古い作品、大学生で8mmフィルムで作品づくりをしている映研の話でその中のエピソードでクランクアップはしたけど編集でなかなかカット出来ずに悩んでいる主人公の姿が出てくる。
そしてもう1人の仲間が、いくら手間暇かけて美しく撮れたシーンでも全体の中で必要なければカットすべきだ。一つの映画作品に載せられるカットは限られていて、必要もないのに美しいだけで繋がれたシーンは不幸だという趣旨の発言。
写真をやっている頃(今ものんびりとはやっていますけど)膨大な撮影済みのコマからセレクトし、最終的に何枚かプリントを行い、さらにボツにしていく、そんな事を思い出したこの数日。
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千才森 万葉
2025/11/11 23:08
こういう時の、みなさんの対処方法とかも聞いてみたいですね。
小説書きさんと詩書きさんでも変わりそうな気がします。
実際、選抜した作品を投稿する方が全体の完成度は高くなるのでしょうけど、気分的にはもったいないって思っちゃいます。
わたしはほとんど没にした事は無いかも? 出来の悪いものでも、書いたらひとまず取っておくタイプです。
そもそも、わたし自身は面白いけど、どう考えても読者はつまらないだろうなって作品も遠慮無く投稿しちゃうタイプ(笑)
昔と今では創作の環境も変わりつつあるんじゃないかな~なんて思います。昔は創作はプロを目指す方々が多くて、コンテストでダメなら没にして次、次って感じで書いていたでしょうけど。いや、わたしはその辺は詳しくないですけどね。聞きかじった話として。
今は投稿サイトで気軽に見せ合える環境があります。素人、玄人関係なく、自由に、いつでも、いくつでも作品を発表できます。
無理に選別する必要がなく、創作そのものを楽しむことが出来る環境が出来ています。実際に楽しいかどうかはともかく。
う~ん。なんとなくわかりますね。
わたしとしては、美しいなら美しいなりに使い道はありそうだなとも思います。
わたしなら、もし未練が無いのでしたら、没データは持っておくことをオススメしますか。未練があると引きずっちゃって進めなくなりますけども。後で書き直そうと思える日が来るかもしれません。
あれ? どなたでしたっけ。詩人で100篇書いたら1篇残して、残りは全て庭で焼くって方。テレビで見たような記憶が。