『あわいに咲くもの』 外伝 第九話「小さな肯定」(改稿版)
―姪浜伊都―
秋のある午後、わたしと能古は、陽にきらめくすすき原の縁を歩いていた。山裾の風が穂をまとめて揺らすたび、銀色の波がさぁっと風の通りを示しながらその先へと流れていく。
その揺れのほんの手前で、ふっと能古が足を止めた。白いワンピースの裾を指先で摘み、少し迷うように視線を落とし――それから、小さな決意を滲ませる声で口を開いた。
「ねえ、お姉さま……“未来”のことって、考えたりしますか?」
問いは曖昧なのに、触れたい場所だけがやけに鮮やかで、そして声の僅かな震えに能古の想いを感じた。
わたしはすぐに答えず、すすきの揺れを眺めていた。風の音は、考えるための静かな余白をつくってくれる。
「そうね……」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「わたしは昔から、“どう生きるか”を自分の責任で選びたいと思ってきたの。大きな正しさに従うのでもなく、反発するのでもなく……そのどちらにも寄りかからない形で」
能古はうつむいたまま、わたしの声の流れに、揺れるすすきの様に身を置いている。その仕草は胸の奥をやわらかく揺らす。
「……お姉さまは、子どもが欲しいと思ったこと……ありますか?」
避けようのない問いだった。
わたしは小さく息を吸い、微笑みを添えて答えた。
「あるわ。でも、それ以上にね、ずっと大きかったのは“誰と生きるか”だったの」
能古の頬が、夕映に触れたように赤くなる。
「そして今こうして、おとちゃんとここにいる。それが……わたしの答えなのよ」
すすきの波がその言葉をやわらかく受けとめるように、さざめいた。
―糸島能古―
お姉さまは、願いを大きく語らない。むしろ小さく、静かに置く。それなのに、わたしにはその方がずっと重く響く。
だれかの正しさをそのまま採用するのでもなく、切り捨てるのでもなく――その真ん中のあわいで、自分の足で立とうとする人。
その隣にいると、わたしの弱さでさえ、言葉にしてもいいと感じられる。
「お姉さま……わたしには、何ができるんでしょうか」
それは社会への問いではなく、わたしが、お姉さまが見る未来をどんな形で手を伸ばせば、わたしも見られるのか、あまりに個人的で切実な問いだった。
お姉さまは迷わず言った。
「おとちゃんが、ちゃんと幸せでいること。まずはそれだけでいいのよ」
その声音は、肌の上にそっと詩の一行を書き留められた時のように、やわらかかった。
「それから……その幸せを、もし誰かと分け会うことが出来たら。それだけで充分なの。巡り巡って、誰かの未来だって支えられるわ」
固くなっていた呼吸がゆっくり溶けていく。
「おとちゃんの書く言葉には、ほんとうに力があるのよ。日々を支えたり、痛みをほどいたり……その小さな肯定は、わたしたちのような人が持てる、確かな灯りなの」
胸の奥で、吐き出す事も、抱え込む事も出来なかった物が、ようやく形を失ってゆく。
「……わたし、そんなふうに言ってもらえたの、はじめてです」
声が震える。
役に立たなければ価値がない――気づけばその言葉が、わたしの中の小さな律となっていた。
その痛みが恥ずかしさとともに胸の奥から顔をのぞかせる。
お姉さまの指先が、そっとわたしの顎を上げた。
「お姉さまがそう言うなら……わたし、自分を赦してもいいのかもしれません」
涙の薄膜越しに見つめ返す。
「小さな肯定。それがわたしにできることなら……これからも書き続けたいです。わたしのままで、この場所で…」
その言葉は、祈りではなく選択だった。
お姉さまはわたしの手を包み込む。
「……わたしたちは、体も声も、大きくはない。でもね、だからこそ言葉が持てるのよ。小さな選択に寄り添う、確かな言葉が」
暮れゆく空の下、残る光は朱から群青にうつろう。
「おとちゃんの書いたものに、わたしは何度も救われたわ。自分の選んだ道を肯定してくれる誰かがいるって……ほんとうに、生きやすくなるの」
虫の声が色を深め、すすきは夜気を含み揺れ始める。
「……一緒にやっていこうね。わたしたちにできる形で」
わたしはそっと頷いた。
世界を大きく動かすなんて望んでいない。
ただ、隣にいる人を支えるための、小さくて確かな肯定をひとつ――またひとつ。
それを胸に、生きていければ、それでいい。
――おしまい
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