主張強めの文芸投稿サイト運営者日記(3月1日分)書ける/書けない論争について
文芸投稿サイトには、ずいぶん昔から繰り返されてきた「書ける」「書けない」論争がある。あの人は書ける、あの人は書けない。勝手な基準で書き手を序列化し、「書ける人」は「書けない人」に対して横暴に振る舞ってもよい、といった感受性が一部で流布され、しつこく残り続けてきた。
私は、そうした狭い界隈を常々、冷ややかに見てきた。書ける/書けないに関する私の感受性は、すでに作品化している。要するに、バカにしておもちゃにする以外の対象とはみていない。
https://creative-writing-space.com/view/ProductLists/product.php?id=2247&user_id=3&mode=post
この場を「詩投稿サイト」と定義せず、幅広い種類の文芸を包摂する場として設計したのは、「書ける/書けない」というしょうもない議論を相対化したかった、という一面もある。詩を書く人もいれば、短歌もある。戯曲もあれば、評論、ラノベもある。多様なジャンルが入れ混じる場で、「書ける/書けない」と単純に言い続けることの無意味さは、いずれ誰の目にも明らかになるだろう。
そもそも詩歌の内部ですら、方向性は多様で、単一の基準で測れるものではない。それにもかかわらず、あまりに粗い粒度でしか「書ける」を語れないこと自体が、実はその人の限界を示しているのではないか。自分とは異なる方向性の書き手に訴求できないことの証左でもあるように思う。
もちろん、みんな違ってみんな良い、という相対主義に陥りたいわけではない。例えば、私は戯曲や脚本家のグループを主宰しているが、ライターの実力には当然差があると思っている。そしてその差異について、ある程度は言語化できる。私にとって重要なのは、予算制約、プロデューサーや事務所の意向、演出家や監督の要望等を踏まえ、各々の現場に合わせた本を書けるか、そして要望に応じて修正できるか、という基準だ。これが満たせなければ、基本的にクライアントに直接紹介することはできない。
もっとも、この基準を満たしてもありきたりなものしか書けないライターもいるし、基準は満たせなくとも、眼を見張る発想を示すライターもいる。基準はあるが、単純に「書けるか、書けないか」で片づける話ではない。
「粗い粒度で人間を序列化する精神性」は、日本の時代遅れな教育システムとも無関係ではない気がしている。日本では高等教育に至るまで、通知簿や偏差値で人を並べる。偏差値70なら賢い。偏差値50なら普通。そうした極めて粗い指標で序列化することが殆ど当たり前になっている。
しかし、数学の偏差値が70だとして、それが具体的に何を意味しているのか言語化できるだろうか。結局、「偏差値70は偏差値70という意味で、相対的に賢い」というトートロジーに陥ってしまう。本来は、「この分野をこのレベルで理解している」「こういう学力を備えている」と具体的に語れなければ意味がない。しかし大学受験というゴールの前では、能力の多様性は無視され、序列化そのものが目的化してしまう。
例えば、数学という学問にどういう分野があり、どんな歴史があり、何が現在の問題なのかを知らないまま、「できる/できない」だけが語られる。私は、「書ける/書けない」という言説も、これと同型だと思っている。結局それは、学歴やキャリア、収入といった実社会の序列を、もっと自由であるはずの文芸の世界にまで持ち込む、あまりにセンスのない態度ではないか。
なんとか賞。詩壇での評価。そうした外部の権威に依存する人間と、「自分は書ける」と言い散らかす人間の精神性に、本質的な差異があるとは思えない。それは本当に「書ける」ということなのか。少なくとも私は、そこに魅力を感じたことはない。書けるだの書けないだのと決まりきった内輪のメンバーで延々と吹き上がる場ではなく、多様性に対して開かれていくような場をデザインしていきたいと考えている。
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ハッピー詩人 鏡ミラー文志
2026/03/02 00:09
大分前から世界人類は女性吸引力が強まり、論理なんて持っての他、役に立つか立たないかの合理性ありきの世の中になってしまったと思っていますが、それというのも女性がお股を開いた時以上の吸引力であり、お得感を男性の表現作物が持ち得なくなったことが原因でしょう。
太宰治を読んでも芥川龍之介を読んでも、女性のお股閲覧以上に得した感確かにある。それを如何に文学の世界でやりきるかが私の創作者としての課題です。
ビートたけしはストリップ小屋で演芸を始めたが、ヌード以上に気を引く何かを客に向かって語りかけたことで成功を収めた。そのなにかをどれだけ文芸に携わる人々が持ち得ているか? 下手な精神病者のナイーブな心境吐露なんかでは女性のヌードには勝てない。ものを書く人間はそれを肝に銘じなければいけないと思う。
学歴やキャリアマンの自慢話、退屈だ。それよりは女のパンツの方がいい。それは極めて健全な庶民感覚です。勝たなきゃいけない。女のヌードより美しく魅力的な夢ドリームを作家は描かなきゃいけない。僕はそう思ってます。
如何に高級な課題かなどという論争より前に、先ず魅力的な、ユーモアがなければいけない。それが見せられなければいつまで経っても庶民はお股開き以上にお金を文学者に入れることはないでしょう。
白い影法師
2026/03/02 00:42
自分が価値が有ると思うものを売りに出す
自分が面白いと思うものを投稿する
公開しても「いいね」も「コメント」も付かない
それは、書けていない事なのかと思いがちでしたが
この投稿を読んで、皿を探す人に壺を勧めても「いいね」や「コメント」を
貰える事を期待しても我儘にしか見えないですよね。
でも投稿されている作品に良い皿ですねと声を掛けたら
壺の積りで書いたのですがと言われ
はっ、とするけれど心が躍っているのは確かです。
これが、プロとして書くならば求められるものを書かねばと思いますが
自分の感性を広げる場での「書ける」「書けない」なら
「書けない」所も楽しむの良いのではないかと参加しています。
花緒さんとは次元違う所での「書ける」「書けない」の思いですが
究極の嗜好を楽しめる場として遊んでゆきたいと思っています。
検討違いなコメントで場を白けさせていたら申し訳なかったです。
祝園
2026/03/02 00:57
白い影法師
2026/03/02 08:42
私も読めない者、書けもしないのですが書けない者なりに書いてみたいと思います。
「読ませる」誰に?万人に?それって可能でしょうか?
不可能で無いにしろ自分は疑問を持ってしまいます。
まず、読んで貰う
そして、共感もしくは反感を得る。
どちらにしても自分の表現の全てを読んで貰えているのでしょうか?
ならば、読んで貰う為に自分の書きたいの形を変えてみる。
それは、客観的に書けていても主観的に書けているのでしょうか?
自分の書けているを見せて
何処を読んで貰えて、何処が読んで貰えなかったかを楽しむのも面白いと思っています。
自分の「書けている」と読み手の「書けてない」を楽しむのも大事だと思いました。
目指すものの違いが有ると思うので私個人の低いレベルでの表現活動での思いです。
筑水せふり
2026/03/02 11:01
書いてみた
投稿してみた
読んだ人がいた
また書いてみよう
以下繰り返し
磊
2026/03/02 16:56
それで、再度かんがえさせられたものがみっつあります。
1書ける/読める=偉い/凄いっていう図式になってしまう、あるいはそう見えてしまうことについて。
2ジャンルの問題ではなく、他者からいただいたものに対しての受け取り方ではないか
この2つは考え方として固定されるものではないので、それぞれのなかでしっかりあればいいとおもっています
3作者にも作品にも礼を尽くせ。道徳的な所作だ、人に迷惑をかけるな。
もちろん今のこの場はそのままで十分和やかに過ごせる、心地よい場所であると感じています。
わたしは自分がなぜそう考えるのか、相手がなぜそう言ってくるのかを考えたい。相手の立場に立つこと。自分がどう考えたかを一旦おいて、相手はなにを読んでいるのだろうかと考えます。
他者に対する礼儀、面と向かうこと。話者の気持ちを沿うことが顔を読むことなんだよなと、実際の対面を考えると簡単に腑に落ちるかなとおもっていますが。
文字だけの界隈だとおもった以上に言葉は誤読するし強く刺さって感じられる。なかなか難しいですよね。
自分ではだいぶ気を使ってコメント書いてますが、至らぬ点があればご指摘ください。あらためてよろしくおねがいします。
以上、この作品を読んでおもったことでした
AB(なかほど)
2026/03/02 17:43
蛾兆ボルカ
2026/03/02 19:20