ぶよぶよして、
くたびれたひかりについて、
その感覚をちゃんと吟味なさい、
と言って、
あなたはこちらを見ずに去っていった、
あなたの27.5cmのニューバランスの後ろのロゴは、
一瞬ぴかっとひかりを放って、
なんだかそれが小学校の子みたいだったから、
わたし、すぐにわらってしまって、
何
をすればいいかわからなくなった、
わたしはうさぎをたべたとき、
お供えの代わりに、
添えられていたにんじんのグラッセが
つやつやぴかんとして、
かんぜんにひかりのお手本で、
あまみと植物の根としてのつよい匂い、
が、生命力の(かたまり)みたいに
しっかりとしていたから、
白いワンピースに包まれていた映像のなかのおかあさん、を思い出した。
くらいへやの壁にゆらゆらと映されたおかあさん、の発光したからだは、
白い板から枝が生えているように、
奥行きが欠如していて、
はたして娘のわたしは、
その厚みや、湿度を知っていたのか、
ホームビデオのなか、
転ぶときにだけひろがるわたしの手脚は、灼けていたのに、翅は半透明で濡れたままで、
たとえば海から帰ったばかりだと言っていたあなたも、
太腿はこどものみたいにしろくて、
いくつか離れてくろい火花が散っていたから、
わたしはそれらをつないで、
はやく、わたしたち、乾きますように、
とびたつことができますように、
と願いながら、
でたらめな方向に頭を振って、
すべてがまざるように、
さなぎのなかみが均一にうつくしく塗りつぶされて、わたしたち、ひとつの異形として、生きていたの、
病いにふるえている赤いゆび先が、白くやわらかいパンをちぎる、
たとえねこのきまぐれで、その粉っぽくなったゆびが食いちぎられて、
明日にはひどい吐瀉物になっていても、
それが孵るということだと、
わたしは信じて生きているから、
ほんとうはもっと早くに、
はてしなく長い祈りを、
手のひらの眼球で見つめること、
それだけをわたしのしごとにするべきだったのに、
いまだに、
わたし、
ニューバランスのはなつひかりを、
(忘れないで)、
へやにこもって、
小学生にもならないわたしの映像を見つめつづける、
あなたが去るまえに、
わたし、
ほんとうは、
うさぎをたべた話がしたかった、
にんじんのグラッセが、あなたにとても似ていたこと、
だって、そうしないと、だめになる、
なにかをいいたいの、
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澤あづさ
2025/02/23 07:00
コメ欄でこの感動を熱弁するのは困難ですので、以下には評価の根拠として、キーセンテンスに関する要点のみ述べます。
「わたし」が食い物にした「うさぎ」の食い物にされる「にんじん」が「あなた」に見えた。詩には(「わたし」から「あなた」への告白として)はっきりそう書かれているが、逆に「わたし」が「あなた」の食い物にされていたような印象を払拭できない。なぜなら修辞が絶妙だから。「おかあさん」を擬えたい「わたし」に擬えられる「うさぎ」、「わたし」の光明であったはずが投影でしかなかった「ニューバランス」など。
「あなた」は父にも夫(/恋人)にも、その両方にも見えます。父と亡母の(どうにも不吉な印象の)関係を、「わたし」が父/夫と繰り返したがっていたことが、「ニューバランスのひかり」「にんじんのグラッセのつや」という絶妙な選語から察せられます。この「ひかり(つや)」の実質は反射ですので、語り手自身の投射(投影)であろうと察せられるのです。
そうした文字通り筆舌に尽くしがたい心情を、あきらかに言いよどんでいる語り口が、なにを措いてもすばらしい。返す返すも理想的なスタイルです。過剰な賛辞は老害罵倒と同じほど信用ならないので控えたいが、この作品は絶賛するしかありません。
(ところでわたしには、別所でこの作品の亜型を見た記憶があります。作者様に身のおぼえがおありか否か、おありの場合そのことにここでわたしが言及してかまわないか否か、今後の批評のために教えていただけると助かります。)
h2O
2025/02/23 07:29
澤さん、おはようございます。コメントありがとうございます。だいたいの書きたかったことを読まれてしまって恥ずかしや〜となりました。でも嬉しいです。お尋ねいただいた件ですが、私本人がそこら中に書き散らかしているので、言及もちろん大丈夫です。お気遣いありがとうございます。というより前に書いたものも読んでいただいていたんですね。なおさら恥ずかしいです。朝から刺激の強い(?)コメントでした。でも嬉しいです。ありがとうございます。この返信を送信してから、また頂いたコメントを読み返します。ありがとうございました。
たけだたもつ
2025/02/24 20:30
その他の散文も読み応えがありました。
グリフィス
2025/02/25 10:45
正直、h20さんは完成されていて最早どの様なブランディングで商業的に売り出していくか考えた方が良いとは思うのですが、何かの縁を感じますので
AIのお導き従ってお返詩書かせてもらおうかなと思いました。
よろしいでしょうか?
澤あづさ
2025/02/26 14:37
https://creative-writing-space.com/view/Discussions/discussion.php?id=13
AB(なかほど)
2025/02/26 20:13
なかたつ
2025/02/26 20:54
最初、「その感覚をちゃんと吟味なさい」と言われて、去っていったあなた。誰かから何か言われた言葉って、(呪詛とでも言えるような)なぜかずっと覚えていることがあり、「なさい」という行為を求められて、素直に受け入れている語り手は受動的であるように思えます。
それは言葉だったのですが、次の場面では、視覚的に覚えていることで、靴(足)にまつわるひかり。そして、「小学校の子みたいだった」という過去の姿。
わらってしまったけれど、次には「何/をすればいいかわからなくなった」とあるので、わらったのは、因果があるというよりも、反射的な行為であったと。
この「にんじんのグラッセ」のエピソード、いいですよね。にんじんのグラッセが「かんぜんにひかりのお手本」≒視覚的情報であるだけでなくて、あまみ、匂いもあると。
このエピソードが面白いのは、にんじんを食べているのがうさぎではなくて、わたしであるということ。うさぎが食べるはずだったかもしれないにんじんが、死んだうさぎの隣にあるから、それを「お供えの代わり」と表現しているのが、皮肉的で面白いですね。それに対して、死んだうさぎはもちろん生命力はないのですが、お供えであるにんじんが「生命力の(かたまり)みたい」と表されていて、そこから想起されたのが、やはり、過去の姿である「映像のなかのおかあさん」。つまり、ひかりのお手本から導き出されたひかりの一種として、おかあさんが出てくるのですね。
ホームビデオのなかで、転ぶとき、というのが、保育園か幼稚園の運動会かなと想像しました。順番は前後しますが、終盤に、「小学生にもならないわたしの映像を見つめつづける」とありますからね。
で、ここでですが、この作品において、書かれていない情報であるけれども、とても大事な問いを投げかけてみます。
このホームビデオを撮っていたのは誰なのか。
ホームビデオに映っていたのは、「おかあさん」と「わたし」であることは書かれています。これ以上は、説明するのもやぶさかなので、読みを続けます。
次の場面、「海から帰ったばかりだと言っていたあなた」が出てきます。そのあなたに関することとして、わたしの目線は、あなたの太腿に注がれています。そう、足に注目しているのですね。
というより、段落の結びつきが鮮やかで、この作品自体がホームビデオの継ぎ合わせのように作られているんですよね。
転ぶときのわたしの手足から翅は半透明で濡れたまま、という状態から、海から帰ったばかりだと言っていたあなたへの場面へ飛んでいくと。1つのエピソード(思い出)から連鎖するように、別のエピソード(思い出)が続いていく、このつなぎ方は見事です。
「ひとつの異形として、生きていたの」から、異形のイメージを繋いで、「病いにふるえている赤いゆび先」と繋がっていって、場面(場所)が展開されています。
この「赤いゆび先」の持ち主は一体誰なのでしょう。きっと、「わたし」ではありません。これも説明するまでもないでしょう。
この段落で気になるのはやはり最後、「いまだに、/わたし、/ニューバランスのはなつひかりを、」の部分。「にんじんのグラッセ」は「かんぜんなひかりのお手本」と言っていたのですが、それに出会うまで、いや、出会ってからも、真の「ひかりのお手本」は、実はこの「ニューバランスのはなつひかり」なのではないかと思えました。こびりついたひかり。
そして、ニューバランスのはなつひかりは、小学校の子みたいに見えますが、わたしは「小学生にもならないわたしの映像を見つめつづける」とあるのは、わたしはあなたのことを常に年上の存在として見ていたいのかな、なんて。
で、最後。
「にんじんのグラッセが、あなたにとても似ていたこと」とある。
そう、やっぱり、「にんじんのグラッセ」に出会うまでは、ひかりのお手本は、あなたのニューバランスのはなつひかりであって、それを超えるぐらいの存在に出会ったのだということを話したかったのかなって。それが、あなたの述べた「ぶよぶよして/くたびれたひかりについて/その感覚をちゃんと吟味なさい」という呪詛から逃れる方法だったのに、叶わなくなってしまったと。それに、にんじんのグラッセを話すことで、あなたが述べたことをきちんと守ってきたことの証明ができたはずだったのだと。
途中で、「何/をすればいいかわからなくなった」けれど、何をしたらよいかの答えが「なにかをいいたいの、」に置き換わったのかなと。
最後に、なにかをいいたくなった私から作品外の話をさせてください。
私の好きな言葉に、「詩は投壜通信のようなものだ」というものがあります。この作品の終わり方がそうかもしれないと思った次第で、「なにかをいいたいの、」と書き連ねる行為こそが、誰に、いつ、どのように届くかわからない言葉を書いて、投げる行為だなって。
決まった相手に、決まった言葉が届くということも大事ではありますが、そもそも「なにかをいいたい」という欲があって、その中身がなかったとしても、わからなかったとしても、とにかく、「なにかをいいたいの」と残すことだけでも、きっといつか、誰かの何かになるかもしれないな、なんて、勝手に思いましたね~、はっは~。
グリフィス
2025/02/27 20:47
と言う題名で投稿しました
返詩というよりもインスパイアされて書いた作品みたいな感じになりましたね