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fujisaki『しょうねん』酣賞一例 | しろねこ社への推薦文

推薦対象

しょうねん
by fujisaki

傷口をふちどる唇のように、破綻は詩の行間を暴く。合わない辻褄や筆致の揺らぎ、言葉にならなかった痕跡から、余情が否応なく漏れてしまう。言うまでもなく作者には、その感受を制馭できない。傷が開けば血が流れる、血を作者と共有できる読者はいない。

しょうねんは
しょうがくさんねんせいならみんなもっているような
きょうりゅうみたいなじてんしゃにのって
おひるから
ひがくれるまで
ともだちをさがしに
こうえんをまわる
どのこうえんでも
せのたかい
ぶっきらぼうなとけいが
さすじかんが
すすんでいく

生きていれば小学三年生の「しょうねん」に、遺されたこの語り手はだれだろう。詩はひらがなで書かれている。あきらかに、漢字もカタカナも「すぽーつ」も知らない未就学児に向けて書かれているのに、視座も口調も大人のものだ。様式スタイルからして破綻していて、内容はなお矛盾している。「きょうりゅうみたい」に大きすぎる、乗りこなせない自転車で、いくつ公園を回っても、「しょうねん」は探している「ともだち」に遭遇しない。

少年になるまえに亡くなってしまった幼子を、引き留めたいが送り出さなければならない──そのような葛藤を、破綻の傷口が吐露している。この悲しみに留め置かれる限り、「しょうねん」はどこにも行けずだれにも出会えない。「いままでよりすこしだけながい」追悼を経て、語り手は「しょうねん」を見送ろうとしている。「すぽーつをしらない」子が「やきゅうぼうをかぶりなおして」「ともだちをさがしに」逝くのを。「しょうがくさんねんせいならみんなもっているような」「おおきいじてんしゃがいきかうどうろ」へ、着くべき彼岸へ「きょうりゅうみたいなじてんしゃにのって」輪廻するのを。

どのこうえんのとけいも
どれもいっぽんあしでたっていて
たたいても
ぽーんというばかりだが
となりまちのとけいはどこか
さみしいおとがした
ぼーん

無常の此岸に流れる時間は、たたけば停まる目覚まし時計ではない。停めたくても留めたくても、無情な時報は鳴り続ける。「ぽーん」。その無機質なビープ音が、取り遺された語り手の祈念と未練を込められ濁る。「born」。

──そういえば、吉野弘に『I was born』という詩があった。
https://www.matatabi.net/Poetry/Yosi_03.html
この詩を語る少年は、おぼえたての英語と通りすがりの妊婦という異物を介して、「<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳」を諒解する。それを聞かせた父から、身内であっても他者であるその人から、亡母が自分の「生まれた」あとすぐ「死なれた」ことを聞かされるのだ。母のその死が、そして自分の命が、まさしく<受身>だったのかそれとも自発だったのか、日本語の文法では判別できない。その不可解を諒解するしかない、「ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」──

生きていれば小学三年生の「しょうねん」も、永遠に幼いその体で、語り手の胸を息苦しくふさいでいる。生み直し、生まれ変わらせなければならない。傷口を開いて語り直さなければならない。





※この鑑賞は筆者澤あづさの文芸であり、一切の責任を筆者が負う。文中の読解にある問題は、推薦作の問題でなく、その著作者に責任はない。
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 澤あづさ

 2025/04/03 20:54

●筆者より査読者様へ

表題の「酣賞」は、批評より返詩に近い酔いどれ読解を意図したものです。冒頭および結末の傷口うんぬんは、デリダの修辞の猿まねです、フランス語lèvres(ふち/傷/唇)です。

本稿が推薦文と標榜しながら、講評どころか賛辞のひとつも述べていないことには、疑義があるかもしれません。しかし詩情に酔っぱらってこんなモンを書くという行為は、筆者にとってこの作品がそれほど「酔える詩」であったことの証明です。それはいかなる評言よりあきらかな称賛であると、筆者としては考えております。問題がありましたらお知らせください。

 fujisaki

 2025/04/04 19:53

澤さん ありがとうございます。
このような評に作者が感謝の他にどのようなコメントをするのも蛇足だとわかりつつ。

以前、小川洋子と河合隼雄の対談を読んで、(それは博士の愛する数式に関する部分でした)作者の意図していなかった河合の読みが、作者を驚かせ、また幸せな気分にするという内容がありました。小川は言います。
<自分を絶対的な創造主ではなく、物語に対して奉仕する者だと認めた方がずっと安堵できます。どんなにあがいても、作者の頭から搾り出されるものより、物語の持つ器の方が大きいのです。>
自由詩が物語になりうるか(物語を成立させうる長さ・質量を持ちえるか)というのは議論のあるところだと思いますが、澤さんの評を読んで、作者もこの内容に強く同意したところです。作品が作者の手を離れたあと、読者それぞれのもとでそれぞれの花が咲くというところに、創作の意味とでも言いますか、単なる自己満足を超えた面白さがありますね。

そして、生み直し、に対する力強い言葉は、この作品を離れて、作者のある個人的な体験に深く響いています。

しょうねん

しょうねんは
しょうがくさんねんせいならみんなもっているような
きょうりゅうみたいなじてんしゃにのって
おひるから
ひがくれるまで
ともだちをさがしに
こうえんをまわる
どのこうえんでも
せのたかい
ぶっきらぼうなとけいが
さすじかんが
すすんでいく
しょうねんはおとといとおんなじ
ないきのはんそでをきて
さんだるで
あさってまでのなつをさがして
こうえんをまわっている

こうえんのきは
のぼりつくしてしまったし
しょうねんはまだ
すぽーつをしらない
あせはいつでも
めんせいひんにきゅうしゅうされて
さいきんは
げおや
げーせん
がきになる

そしてしょうねんは
がっくをこえて
あのおおきなかんせんどうろをこえて
なじみのないこうえんへ
えんせいする
どのこうえんのとけいも
どれもいっぽんあしでたっていて
たたいても
ぽーんというばかりだが
となりまちのとけいはどこか
さみしいおとがした
ぼーん

はちがつさんじゅうにち
いままでよりすこしだけながいごごを
すごした
しょうねんは
やきゅうぼうをかぶりなおして
きょうのにっきをきめてから
おおきいじてんしゃがいきかうどうろをわたろうとしている

 fujisaki

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