しょうねん
しょうねんは
しょうがくさんねんせいならみんなもっているような
きょうりゅうみたいなじてんしゃにのって
おひるから
ひがくれるまで
ともだちをさがしに
こうえんをまわる
どのこうえんでも
せのたかい
ぶっきらぼうなとけいが
さすじかんが
すすんでいく
しょうねんはおとといとおんなじ
ないきのはんそでをきて
さんだるで
あさってまでのなつをさがして
こうえんをまわっている
こうえんのきは
のぼりつくしてしまったし
しょうねんはまだ
すぽーつをしらない
あせはいつでも
めんせいひんにきゅうしゅうされて
さいきんは
げおや
げーせん
がきになる
そしてしょうねんは
がっくをこえて
あのおおきなかんせんどうろをこえて
なじみのないこうえんへ
えんせいする
どのこうえんのとけいも
どれもいっぽんあしでたっていて
たたいても
ぽーんというばかりだが
となりまちのとけいはどこか
さみしいおとがした
ぼーん
はちがつさんじゅうにち
いままでよりすこしだけながいごごを
すごした
しょうねんは
やきゅうぼうをかぶりなおして
きょうのにっきをきめてから
おおきいじてんしゃがいきかうどうろをわたろうとしている
しょうがくさんねんせいならみんなもっているような
きょうりゅうみたいなじてんしゃにのって
おひるから
ひがくれるまで
ともだちをさがしに
こうえんをまわる
どのこうえんでも
せのたかい
ぶっきらぼうなとけいが
さすじかんが
すすんでいく
しょうねんはおとといとおんなじ
ないきのはんそでをきて
さんだるで
あさってまでのなつをさがして
こうえんをまわっている
こうえんのきは
のぼりつくしてしまったし
しょうねんはまだ
すぽーつをしらない
あせはいつでも
めんせいひんにきゅうしゅうされて
さいきんは
げおや
げーせん
がきになる
そしてしょうねんは
がっくをこえて
あのおおきなかんせんどうろをこえて
なじみのないこうえんへ
えんせいする
どのこうえんのとけいも
どれもいっぽんあしでたっていて
たたいても
ぽーんというばかりだが
となりまちのとけいはどこか
さみしいおとがした
ぼーん
はちがつさんじゅうにち
いままでよりすこしだけながいごごを
すごした
しょうねんは
やきゅうぼうをかぶりなおして
きょうのにっきをきめてから
おおきいじてんしゃがいきかうどうろをわたろうとしている
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澤あづさ
2025/04/03 20:54
表題の「酣賞」は、批評より返詩に近い酔いどれ読解を意図したものです。冒頭および結末の傷口うんぬんは、デリダの修辞の猿まねです、フランス語lèvres(ふち/傷/唇)です。
本稿が推薦文と標榜しながら、講評どころか賛辞のひとつも述べていないことには、疑義があるかもしれません。しかし詩情に酔っぱらってこんなモンを書くという行為は、筆者にとってこの作品がそれほど「酔える詩」であったことの証明です。それはいかなる評言よりあきらかな称賛であると、筆者としては考えております。問題がありましたらお知らせください。
fujisaki
2025/04/04 19:53
このような評に作者が感謝の他にどのようなコメントをするのも蛇足だとわかりつつ。
以前、小川洋子と河合隼雄の対談を読んで、(それは博士の愛する数式に関する部分でした)作者の意図していなかった河合の読みが、作者を驚かせ、また幸せな気分にするという内容がありました。小川は言います。
<自分を絶対的な創造主ではなく、物語に対して奉仕する者だと認めた方がずっと安堵できます。どんなにあがいても、作者の頭から搾り出されるものより、物語の持つ器の方が大きいのです。>
自由詩が物語になりうるか(物語を成立させうる長さ・質量を持ちえるか)というのは議論のあるところだと思いますが、澤さんの評を読んで、作者もこの内容に強く同意したところです。作品が作者の手を離れたあと、読者それぞれのもとでそれぞれの花が咲くというところに、創作の意味とでも言いますか、単なる自己満足を超えた面白さがありますね。
そして、生み直し、に対する力強い言葉は、この作品を離れて、作者のある個人的な体験に深く響いています。